トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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2008年07月05日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:どうやら、減価通貨が法定通貨となる時期は近づいているのかもしれない
検討問題:どうやら、減価通貨が法定通貨となる時期は近づいているのかもしれない
テーマ:差異通貨・貨幣論 なにやら、新世界恐慌のような感じになってきた。 思うに、今や、法定通貨としての減価通貨が現実味を帯びてきたのかもしれない。21世紀初頭流行った地域通貨であるが、これは、志はいいが、いかんせん、現実の通貨経済には太刀打ちできないものであった。 私は地方共同体を形成して、地方通貨(無利子通貨ないしは消滅通貨)を発行すべきではないのかという気がしている。 つまり、円通貨と地方通貨との二本立てということになるのである。後で検討したい。
2008年07月01日(Tue)▲ページの先頭へ
時代錯誤の同一性主義の日本政治と差異共振主義という進化エネルギー:国家資本主義から神道資本主義へ
思うに、官僚であれ、自民党であれ、あるいは、野党であれ、発想が近代主義的ではないだろうか。もっとも、日本は、国家資本主義という封建制(ほんとうは絶対主義の名残)が継続している。近代主義なり、封建制なり、同一性が支配する。近代合理主義や封建的国家主義は同一性主義である。
問題は、今日の経済は、同一性主義と差異共振主義が混淆しているが、後者の積極面を評価しなくてはならないことである。これが、進化的なのである。これを、日本の官僚、政治家はほんと気づいていないと思われるのである。 これは、明らかに、時代遅れであり、退行しているのである。退化である。差異共振主義という発展的エネルギーを取り込まないと、日本は明らかに、衰滅する。 日本にとっては、神道的資本主義が必要である。神道は、差異共振主義なのであるから。 ************************* 自民税調:前倒しスタート どうなる消費税増税 自民党税制調査会の総会であいさつする津島雄二会長=東京都千代田区の自民党本部で2008年7月1日午後4時3分、木葉健二撮影 自民党税制調査会の総会であいさつする津島雄二会長=東京都千代田区の自民党本部で2008年7月1日午後4時3分、木葉健二撮影 自民党税制調査会(津島雄二会長)は1日の総会で、09年度税制改正に向けた議論を開始した。例年秋にスタートする議論を大幅に前倒ししたものだが、焦点の消費税引き上げ問題は衆院解散・総選挙をにらむ与党内に反対意見が多く、明確な道筋をつけられるか不透明だ。政府が決めた道路特定財源の一般財源化も大きな課題になる。【赤間清広】 「国民の理解を得て税制抜本改革に道筋をつけたい」。津島会長は、消費税も含む税制抜本改正の必要性を強調した。09年度に予定される基礎年金の国庫負担(現行3分の1)の2分の1への引き上げには消費税1%分(約2兆3000億円)の財源が必要。高齢化で膨らむ医療費などの財源確保も合わせ、消費税増税は避けられない課題だ。 しかし、消費税増税をめぐっては福田康夫首相が「決断の時期」とした発言を撤回し、「2〜3年後の長い単位」の課題と修正。自民党の伊吹文明幹事長も「09年度は困難」と語るなど政府・与党の腰は据わっていない。値上げと景気減速が同時進行する中、税調内でも「年末の税制改正大綱に増税時期や幅を明記できるか微妙」との声がある。 消費税増税が09年度以降に先送りされた場合、基礎年金の国庫負担引き上げの代替財源に急浮上しそうなのがたばこ税増税。たばこ関連税収は国・地方で約2.2兆円で、たばこ1箱300円を増税で倍の600円にすればやりくりできるだけに、「逃げ道」になる可能性がある。 ◇道路特定財源 道路特定財源の一般財源化では、「税収を確保するためガソリン税などの暫定税率の維持が不可欠」(税調幹部)。ただ「道路整備に充てる」としてドライバーから高い税金を取ってきただけに、道路以外に使うことを正当化するには新たな名目が必要になる。税調では温室効果ガス排出抑制を進める「環境税」への衣替えが検討される見通しだが、自動車業界は反発している。一般財源化による予算配分拡大を狙う各省庁との調整も難題となりそうだ。 ◇ことば 自民党税制調査会 自民党政務調査会の中に設置され、毎年度の税制改正を審議する。政府税制調査会(首相の諮問機関)が税制改正の大枠を議論するのに対し、自民税調は関係省庁、経済団体などとの利害調整を行い、各年度の税制改正を事実上決定する。例年は秋から議論を始め、12月に同党税制改正大綱、公明党との与党税制改正大綱をまとめる。 【関連記事】 * 年金改革:給付維持に黄信号 国庫負担率上げの方針揺らぎ * 社会保障:給付抑制、一部見直し…国民会議 * 社会保障会議:医療、介護の財源、今夏に試算…中間報告 * 消費税:自民財革研・園田座長「来秋10%に」 * 消費税:引き上げ幅「2%ぐらいでいい」…伊吹自民幹事長 毎日新聞 2008年7月1日 19時41分(最終更新 7月1日 19時43分)http://mainichi.jp/photo/news/ 20080702k0000m020061000c.html?inb=yt ********************** 橋下府知事と教育:ユーバリゼーションの大阪?:感性を包摂した知性教育:トランス・モダン教育へ向け 以下の抗議は一理あるが、私はいつも思うのであるが、どうして、教員はそんなにも課外活動や休日出勤をするのだろうか、とういうことである。確かに、部活の責任はあるだろうが、毎日見る必要があるのだろうか。また、休日出勤をする必要があるのであろうか。それより、自分の教育能力を高める努力をするべきではないだろうか。 日本の教育は、公立の義務教育は地に落ちていると思う。きちんと、基本的なことを憶えさせていないのである。思うに、感性を包摂した知性教育(インテリジェンス教育)が必要である。ここには、哲学が入らないといけないし、芸術、宗教・神話・民話、芸能、等々が入るのである。豊かな精神知性があって、知的合理性が生まれるのである。 とまれ、橋下府知事は胡散臭いと思う。パフォーマンスである。大阪は夕張化(ユーバリゼーション)するのではないだろうか。 橋下知事へ「府職員も大阪府民やで!人件費カットで誰が笑えるねん!ほんまに大阪がよくなること考えて行動してや!」 先のことを考えずに府職員の希望や、やる気を奪う削減案しか出せない橋下知事とPT案作成委員会の幼稚さに憤慨するばかりです。タレントという知名度だけでは大阪は背負われへんのやなぁと知事選当選当初の橋下さんの顔がだんだんくすんで見える今日このごろです。 知事がほんまに大阪の「にんげん」やったら財政再建は、身内を仇討、斬首する戦国時代の大名みたいなことせんと、経済立て直すための大阪の商売どうするのかを本腰入れて考えてもらいたい。 大型プロジェクト不振のつけを人件費で解消しようなんて方向違いです。そっちのほうを先にどうにかせなあかんのとちがいますか。大阪がよくなること、窓口になる大阪府の職員がいきいきした笑顔で働けること考えて行動してください。 http://www.news.janjan.jp/area/ 0806/0806038608/1.php ******************* 新太郎銀鉱であるが、この闇は濃い。一体、真相は何であったのか。私は、先に、企業の赤字埋め合わせに テーマ:ニッポン亡国の凶相 新太郎銀鉱であるが、この闇は濃い。一体、真相は何であったのか。私は、先に、企業の赤字埋め合わせに注入されたのではないかとかんぐった。どうもそれよりは悪いと思う。最初から、税金を横取りするつもりで、行ったのではないだろうか。そうならば、税金泥棒詐欺である。 石原銀行 融資めぐり、都議ら500回も口利きしていた! 2008年07月01日10時00分 ゲンダイネット 東京都が1000億円を出資し、経営ボロボロの新銀行東京で、とんでもないデタラメが発覚した。特定企業への融資をめぐり、都議らの口利きが500回以上も繰り返されていたのだ。 28日の毎日新聞によると、口利きしていたのは都議会の与野党議員をはじめ、自民党の衆院議員など数十人。このうち、少なくとも都議3人と衆院議員1人の政治団体が、04〜06年の間に、口利きした企業や社長個人から計22万〜132万円の政治献金を受けていたという。 また、新銀行では3カ月に1回ほどのペースで特定企業を紹介した議員の名前や件数が報告され、審査の結果、融資が通らなかったケースもあったが、報告もされずに融資の可否が決められた案件もあったという。 関係議員は都民にどう説明するのか。 【2008年6月28日掲載】 http://news.livedoor.com/ article/detail/3708176/
2008年06月28日(Sat)▲ページの先頭へ
中東大戦争と多極化路線(差異共振路線):国家資本主義自公党OSから差異共振資本主義の政権OSへ
中東大戦争の可能性であるが、これは微妙なのではないだろうか。田中宇氏の唱える多極化路線を取るならば、アメリカは中東大戦争を回避する方法を取ると考えられる。しかしながら、覇権主義が主導的になれば、中東大戦争は起るだろう。今のところ、直感では、前者である。しかし、なにが起るかわからない。
経済についても、同様で、サブプライムによるバブルの清算がどこまで続くかが問題であろう。思うに、世界資本は中東を含めてアジアに行くのではないだろうか。 日本は自公党という国家資本主義=社会主義のOSを取り換えて、差異共振資本主義のOSへと転換すべきである。私は北朝鮮のテロ国家指定の解除は、政権のナショナリズム的目眩しから、国民を少しは覚醒させることになったのではと思う。 ***以下、転載*** ★ 2008年6月27日 金曜日 、7時半更新 ・・・・・ 数日中に恐怖の世界大恐慌勃発か! 【27日NEVADA引用:: NYダウや今はメルトダウンに入り始めており、今後、世紀の暴落を演じることになるかも知れません。この際には日本の株式市場も指数銘柄は軒並みストップ安になるでしょうが、問題は金融システムです。昨夜のNY市場では、信用不安問題が出てきています【シティ】、【AIG】、【リーマン】がそろって急落しており、FRB等は緊急協議に入ったとも言われています。 AIG −5.55% シティ −6.26% バンカメ −6.76% リーマン −8.42% 皆、恐ろしい程の急落となっておりますが、【GM】の株価はこれらを遥かに上回る暴落となっているのです。GM −11.43% 今、次第に金融市場は追い込まれており、この先、何が起こりましても不思議ではありません。特に、米国の預金保険機構がパンクする事態も想定されており、海外預金をお持ちの方は10万ドルまで保護はされていますがこれを履行するだけの財源がなくなりつつあり、カットはされないはずですが、支払いは10年払いということも考えられますので、くれぐれもご留意ください。詳しいことは7月1日付け【ワールドレポート】で解説させて頂きます。】 アメリカで大暴落、11400ドル台に 、モノライン大手が今日にも破綻し、連鎖してシティ銀行が来月にも倒産する可能性が強まっている。GMももはや見捨てられ崩壊倒産の様相、当然、連鎖倒産で大恐慌に至る。日本ではミズホ・リソナが危ない。いずれペイオフ発動が避けられないだろう。 なお、原油がバレル140ドルを突破しているが、これは弱体化し、下落したドルによってドル建て原油を確保したい意志が働いているからだ。ドルが信用されず、虚構マネーの所有者は、一刻も早く、原油・穀物・レアメタル・金などの先物商品に切り替えてしまいたいわけだ。やがて基軸通貨をユーロにシフトする流れが加速し、そうなれば原油バブルは大崩壊するだろう。需給実体価格はバレル50〜80ドルである。現在107円のドルは、年内に80円を割り込む見込み。 国内は静かな大不況が進行している。首都高をはじめ、日本中の幹線道路、高速道路がガラガラになっている。物資の流通がない。人々はモノを買うカネがない。インフレとカネ不足が、インフレでもデフレでもないスタグフレーションという現象を生んでいる。 現在、国内企業の半数が存続ボーダーライン上に右往左往していると指摘されているが、この世界規模のスタグフレーションが続くなら、間違いなく、史上最悪の倒産ラッシュとなるだろう。巷に餓えた人々が満ちあふれ、餓死者の死骸を踏みつぶして歩く事態が近づいている。 現実的な解決策は、唯一、世界戦争あるのみ。膨大な浪費が大金持ちたちを救う。しかし、それにより数十億の民が凄まじい悲惨を享受し、地球環境は壊滅的に破壊される。 アメリカは必ず世界戦争を引き起こす。ブッシュの逮捕を阻止するために戦時体制が必要なのだ。来月にもイスラエルが単独でイラン核施設を攻撃し、ロシアに支えられたイラン防空網が、それに反撃し、イスラエルは建国以来最大の損害を被るだろう。そこにアメリカが参戦するわけだ。 筆者は、このときを20年以上前から予測してきた。資本主義は共産主義との戦いに敗北して滅ぶのではない。共産主義が自滅し、資本主義の一人勝ちになった段階で、自らの腐敗によって滅ぶのである。 朝鮮やベトナムにおける共産主義との戦いに駆り出されて、膨大なアメリカの若者たちが死んでいった。彼らがもたらしたものは資本主義の勝利ではなく、彼らの血によって贖われた資本主義独裁体制であり、その腐乱であった。結局のところ、イデオロギーは自然の秩序と乖離し、自滅の道を辿るしかなかったのだ。 人の作為など矮小で愚かなものだ。自然がもたらす秩序に比べれば、吹けば飛ぶゴミでしかない。天を畏れよ! 人を支配できるなどと傲慢な妄想を抱くな。世界支配を実現する寸前の、宗教的ユダヤ勢力もまた、天の力の前に吹き飛ばされる運命にあるのだ。 ● 統一教会について、筆者は度々、強い警告を書いてきた。表に出ているトンチンカンなピント外れの陰謀団体の顔だけ見て甘く考えていると、彼らを手足として利用している巨悪を見過ごすことになる。見た目は、狂信的詐欺団体であって、誰も相手にしないと思いたいところだが、本当は、隠れた恐るべき裏の顔がある。 岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・福田赳夫ら、前世紀の亡霊たちが文鮮明と交友を持ち、狂信的な反共活動を繰り広げてきたが、表の顔だけ見ていると、箸にも棒にもかからない狂信カルトにしか見えないが、筆者は、全然違う、不気味な裏の顔に気付いている。世界日報やワシントンタイムズ、UPI通信という報道機関を買収して反共思想運動に利用しているだけではない。 表向き、ブッシュへの献金額は数億円程度だが、本当は、その数十倍あるらしい。ブッシュにとって大きな金蔓であって、その意志決定に強い影響力を持っている。おまけに、池田大作と組んで世界的な反共ネットワークを作っていて、ブッシュやチェイニー個人への莫大な寄与を行っているとの情報がある。 文鮮明はアメリカの北朝鮮政策に大きな影響力を持っている。今回の、北朝鮮テロ指定解除により、世銀から1兆円もの融資を受けられる利益誘導について、背後に、文鮮明の意志が働いていると考えるのが自然であろう。 さらに、寡占的リン鉱石産出国である中国とアメリカが同時に輸出禁止措置をとったことの意味についても考えたい。「株式日記」が指摘しているように、北朝鮮はイランに、イスラエル攻撃可能な核ミサイルを公然と販売できることになった。これらの意味を総合的に判断しよう。 余談 死刑廃止問題 筆者が死刑廃止運動に関わったのは、ほとんど単独で名古屋日建土木保険金殺人事件 の支援運動を行った1980年代のことで、かれこれ20年を超える。 日建土木事件は、主犯として逮捕され一審で死刑判決を受けた山根氏について、筆者は当初、冤罪と見ていたが、調査するうちに、一定の責任を免れないことが分かってきた。しかし、主犯ではなく従犯に留まるものであり、法理論上は最大10年程度が相当であった。(当時、司法書士・調査士の受験勉強をしていた) この事件は、結局、最高裁で山根氏の情状が軽いものと認定されて死刑判決が撤回され、無期に減刑されたわけで、筆者の拙い小さな助力も無駄にはならなかったと自負している。(10万枚以上のチラシ配布や、メディアへの冤罪宣伝が裁判官の心証に影響したと信じている) しかし、主犯と認定された西尾氏は、10年前死刑執行された。筆者の当時の調査では、西尾氏は有名な暴力団組長で、その計画の周到さ、慣れを見るなら殺人常習者だった可能性が強いが、公判に何度も通い、慣れ親しんだ顔が権力によって殺害されたことが死刑制度自体の異常さ、問題の深刻さに気付かせる衝撃的なきっかけとなり、これを廃止しない限り、死を軽視する風潮はなくならないと考えた。 それどころか、死刑制度の本質は、権力による民衆に対する「殺すぞ!」の恫喝以外のものではなく、社会の安全を担保する上で、何一つ役立つ制度ではなく、逆効果でしかないと強く確信したのである。 以来、一人で中古の印刷機を買い込んで、死刑反対のチラシを数万枚も印刷し、戸別配布したり、あらゆる機会を捉えて死刑制度の不当性を訴えてきたつもりだ。たまたま学生時代から旧知の安田好弘弁護士が死刑廃止運動のリーダーになっていたが、彼と直接の交際はなく、まったく無関係に、筆者は、ほとんど一人で孤独な反対運動を続けねばならなかった。 もとより、これまでの活動に評価を求めるつもりなど毛頭ないが、実際問題として、評価はおろか、小さな好意的反応さえなかったことに深い絶望感を抱かざるをえなかった。「死刑を廃止すべし!」という仲間を見つけることは至難の業であった。 人々は庚申信仰者ばかりなのか、死刑問題について見猿・言わ猿・聞か猿を決め込む者が多く、「被害者感情を考えろ」・・・・つまり江戸時代のような復讐容認論で、「悪いヤツは殺せ」の幼稚園児のような、あまりに薄く愚かな理屈を一歩も超えるこことのできない者が大多数なのである。 このホームページは、死刑問題とは別に、研究中だった宏観的地震予知・アマチュア無線による予知を広く宣伝するために始めたものだが、昨日の余談に書いたように、筆者が学歴も権威も、機材も評価もないために、権威主義を信奉する連中から軽視されるだけなら、まだしも、ほとんど小馬鹿にされ、蔑視され、詐欺師のように扱われ排斥されることになった。 その理由は、結局のところ、日本社会の間違いの根元に、権威主義や差別の問題があったからで、地震予知でも死刑でも教育でも、すべての根は同じだったのである。 このため、地震予知だけで、すませることができず、必然的に、あらゆる社会問題を包摂する総合的問題提起へと進まざるをえなかった。 当初、死刑廃止を訴えていても、当HPの協力者である船長氏や鹿島氏などが賛同してくれるとは思わず、おそらく死刑廃止を主張すれば筆者から去ってゆくだろうと思っていた。 しかし予想に反して、逆に、船長氏や鹿島氏は、死刑廃止論に大いに賛成し、心強い味方になってくれている。これは筆者にとって、本当に感動的な出来事であった。 なぜなら、この世には、もう安田氏以外、死刑廃止の意味を理解できる人がいないのでは? と思うほど深い絶望に苛まれていたからだ。 死刑廃止こそが旧約聖書以来、人々にかけられた権力の呪いを解き放ち、閉ざされた心を解放する鍵になるのであり、人が人を追いつめない暖かい社会を作ることだけが、誤った道に進んだ日本社会を、人間性豊かな素晴らしい社会に戻す唯一の道だと確信しているからである。 だが、その彼らでも、死刑掲示板に出てくる、うんざりするほどの無内容な死刑正当化論に辟易し、まるでゴムでできたスルメを噛みしめるような味気なさを味わっていることだろう。 説明しても、説得しても、あらゆる論理、調査された数値、言葉を駆使しても、それを読みもしない、聞きもしないで、はじめから理解する意志もなく、ただ、固陋な自分の感情の殻に閉じこもり、一歩も前に出ようとしない者ばかりが、無意味な言葉の羅列で自己正当化、自己満足だけを目的に「反論」を次々に書き込んでくる。 しかし、どれひとつ人の心を打つ内容はなく、「もう、うんざりだ、お願いだから消えてくれ」と思うしかないものばかりだ。 【6/27管理人板: 通行人ですが、私は死刑賛成の一番の理由は、わが身に危険が及ぶのが怖いからです。名前忘れたけど、母親を殺した少年がその後姉妹2人を殺した事件ありましたよね。……怖いです。日本では絶対的終身刑が無いから、殺人犯には一生社会に出てきてほしくない】 上の引用は最近のものだが、正直、人間として固陋・姑息で情けない限りだ。そんなに怖ければ、死ぬまで社会に出ずに、誰も来ない洞窟を見つけて閉じこもってろ! 人と付き合うことはリスクが伴うものだ。誰だって怒り、ときには殺意を抱く。だが、その殺意を実現するかどうかが社会の分かれ目になる。 人は、よほど追いつめられない限り、他人を殺して自分も死のうなどと考えないものだ。心の解放された良い社会では、人を追いつめず、理性が心をコントロールすることができる。心の閉ざされた悪い社会では、人は追いつめられるばかりで、どうしたらいいか分からず、結局、暴走して社会の破壊に向かうのであり、これは人間社会が成立してから今日、未来に至るまで変わることのない社会法則、心の法則なのである。 人は、どんなに悪いヤツばかりであっても、人と一緒に生きてゆくしかないのだ。筆者も幼稚というしかない理性を見失った死刑賛成者と一緒に生きている。社会をよくするためには何をすべきか? まるで理解できない固陋な人たちと一緒に、これからも生きてゆくのかと思うと心底ウンザリだが、これも前世の報いと諦めている。 人間社会は一種の地獄であるらしい。箸にも棒にもかからない、およそ問題の解決方法を理解できない遅れた人たちの住む星、互いに苦悩を生産し続け、死ぬまで叩き合う星、人を追いつめることで自分を追いつめ、最期は自殺するしかない星、そんな地獄星に我々は生かされている。 http://www1.odn.ne.jp/ ~cam22440/yoti01.htm 東海アマチュア無線 地震予知研究会 Global markets reel after first-half carnage Global equities were on Friday heading for their worst first-half performance in 26 years after a week in which oil surged to a record and there were renewed worries about the health of the financial system and global growth. A high of $142.99 a barrel for oil sparked a tumble in Asian markets and selling in Europe and New York. The Dow Jones Industrial Average on Friday closed just shy of 20 per cent below its record high set in October and is on cusp of entering an official bear market. Global equities were on Friday heading for their worst first-half performance in 26 years after a week in which oil surged to a record and there were renewed worries about the health of the financial system and global growth. A high of $142.99 a barrel for oil sparked a tumble in Asian markets and selling in Europe and New York. The Dow Jones Industrial Average on Friday closed just shy of 20 per cent below its record high set in October and is on cusp of entering an official bear market. http://www.ft.com/cms/s/0/ 8d32f66a-4470-11dd-b151- 0000779fd2ac.html * US markets tumble as oil price rises Wall Street is teetering on the brink of an official bear market after a miserable day of trading http://www.guardian.co.uk/business /2008/jun/28/dowjones.useconomy
2008年06月20日(Fri)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏の明快明敏な、日本社会の診断であり処方箋である:市場且つ共同体主義
Kaisetsu氏の明快明敏な、日本社会の診断であり処方箋である。特に、市場主義と共同体主義の共鳴、共振、resonanceの見解に注意されたい。
とかく、両極のどちらか一方へ傾斜する「イデオロギー」が多いが、この重い意味を噛みしめられたい。 私見では、国家資本主義=社会主義の解体が必須である。日本人は、個のルネサンスを味わう必要がある。個=自由であることは、厳しく驚異である。それは、この世の頂点である。 現代日本人は、封建主義下の奴婢である。 *************** 植草一秀氏の事実認識は正しい。但し、「市場主義 対 共同体主義」の対立と言うべきである。 2008.06.19 Thursday 嘗て、日本社会が中流社会であったのに対して、当時の小泉政権は、格差社会こそ「普通の国」という理屈で、団塊世代と団塊ジュニアを狙った攻撃を開始した。小泉氏の卓抜した「騙し」の技量によって、この「団塊世代と団塊ジュニア」が歓喜して熱狂的に小泉政策を支持したのである。当時、海舌が小泉を批判すると、これら愚民・墓掘り人に貢ぐ層から、支離滅裂な嫌がらせが猛烈に届いた。 兎に角、小泉政権は、日本の中流社会という「共同体」を壊したのである。今、大阪で橋下という知事が、同じように大阪の共同体を壊し、生活を虐待され続けている層が、橋下知事を熱狂的に支持している。 http://blog.kaisetsu.org/ ?day=20080619 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
2008年06月16日(Mon)▲ページの先頭へ
差異共振経済としてのイスラム金融経済:無利子経済から減価通貨経済へ
イスラム金融入門―世界マネーの新潮流 (幻冬舎新書 か 5-2) (新書)
門倉 貴史 (著) ふと立ち寄った本屋にあり、目次を見たら、無利子金融について言及しているので、興味をもったので、購入した。 最初の方を読んだが、簡潔明瞭にイスラム金融を紹介している。無利子で実際経済は成立つのである。思うに、無利子経済から減価通貨経済へと転換する方向がいいのかもしれない。
2008年06月15日(Sun)▲ページの先頭へ
不公正な派遣制度への不満と私怨との混淆:無利子ないしマイナス利子と差異資本主義
以下の記事に、『結局、加藤容疑者は削減対象とはならなかったが、就労形態が不安定な派遣社員という立場を実感したとみられ、「いらなくなったら結局は(クビを)切るんだ」などと話していた。』とある。そうすると、文意を汲むと、加藤容疑者は、派遣社員というあり方に対して、いわば、義憤を感じていたように思えるのである。
私も派遣社員というあり方は、人間を物や機械と扱うのであり、否、奴隷として扱うのであり、怒りを爆発させるのは理解できる。 しかしながら、純粋に義憤ならば、無差別殺人にはならないはずである。この問題は先に述べたように、複合原因殺人であり、複雑であるが、私は向精神薬が直接の原因ではないのかと疑っている。とまれ、社会の不公正さへの不満と個人的不満が混淆されていたようには思える。 結局、理論的には、過度の同一性主義の帰結がここにあると思われるのである。同一性主義を生み出す利子金融体制を廃止すべきだと私は考えている。資本主義は、無利子でも機能すると考えられる。というか、無利子ないしはマイナス利子の方が、資本主義は進歩・進化すると考えられるのである。差異資本主義である。 端的に言えば、利子金融とは、資本主義における封建主義・階級制度を維持させる金融システムである。働かなくとも、投機で、利益を掠めることができる泥棒システムである。マルクスの勘違いは、資本主義内部に差別のシステムを見たことだと思う。そうではなくては、金融システムに問題があると考えられるのである。 無から有が発生する有利子金融は「錬金術」である。これが、利己心をあおり、同一性主義を駆動させると考えられるのである。 参照:法定無利子、又は、マイナス利子通貨導入について 1) ポスト近代西欧と共生主義:メディア界的理性・調和・均衡 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10000620997.html 2) 民主主義通貨と資本主義通貨:世界共生通貨ガイア? http://ameblo.jp/renshi/ entry-10000608030.html 3) 「 [経済] 消滅貨幣を法定通貨にしたとき:資本主義と社会主義の間 直感では、これは妥協かもしれないが、必然の妥協ではないだろうか。というか、必然の調和かもしれない。というのは、超越論的現象形式(カント)が人間には埋め込まれている(内在している)。これを無視することはできない。しかし、根源には、不連続的差異があるのである。貨幣を無くすことは理想であるが、しかし、それは、イデア界ならば、できるだろう。現象界では不可能ではないか。だから、差異と同一性との調和として、消滅貨幣・減価通貨を法定通貨とすることが考えられると思うのである。一方で、差異価値があり、他方で、減価する交換価値があり、イデア界と現象界を調和させられるのではないだろうか。この点は、ゲゼルの主著を読み検討する必要がある。 http://www3.plala.or.jp/ mig/gesell/nwo-jp.html p.s. ゲゼルは消滅貨幣を政府において発行することを考えていたのであり、地域通貨、補完通貨としてではないだろう。ベルナルト・リエターや森野栄一氏は、似非ゲゼリアンではないだろうか。」 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10000594156.html 4) マルクスだったらこう考える:不連続的減価経済 テーマ:ニッポン独立宣言 [叡智学] 『マルクスだったらこう考える』的場昭弘著 光文社新書 2/3弱読んだ。一部、マルクスのもつ進歩主義の誤謬(つまり、帝国的グローバリゼーションのためには、犠牲はしかたないというような考え)があると思うが、全体としては、斬新な内容である。マルクス主義の近代主義的限界を指摘している。 ところで、思うに、マルクスの疎外という概念は、超越論的だと思う。これは直観であるが、検討しないといけない。なぜ、超越論的、先験的なのか。カントの超越論性は、時空間的なそれであった(ここでは、超越論的仮象=理念は無視できよう。)。時空間的とは、現象的、物質的ということである。そして、資本主義は、一般的抽象的形式価値(抽象・一般的交換価値)に関わるのであり、この形式価値が、カントの超越論性と一致すると思う。つまり、カントの超越論的時空間形式とは、現象物質形式であり、物質的身体/肉体形式である。これと、資本主義の一般抽象的交換価値=貨幣価値とは、一致するだろう。つまり、簡単に言えば、一キロの塩=百円ということだろう。つまり、一般抽象数量等価形式である。この抽象一般形式とカントの超越論的一般形式と一致すると言えるだろう。つまり、資本主義は、超越論的形式を基礎・原理とする経済であると言えよう。だから、資本主義は、人間を疎外するのである。現象の先験的形式に基づいているのである。だから、一般に、有無を言わさない形式である。生殺与奪的形式である。 以上から、資本主義=超越論的形式=貨幣形式が帰結する。ここには、差異、不連続的差異、特異性が喪失している。これは、差異を破壊する現象中心主義である。そして、ここにおいて、人間は連続的同一性の従者・奴隷である。つまり、現象的先験的形式が支配しているのである。結局、差異、不連続的差異をとりもどさないといけない。それが、初期マルクスの考えた「共産主義」である。だから、不連続的差異論とは、「共産主義」である。しかし、国有化主義ではない。それは、不連続的差異的共立共生主義である。差異共立主義とは、結局、超越論的形式を越えた価値主義であり、超越論的超越論的形式だろう。実践的には、資本主義を差異共立主義に変換するシステムが必要である。資本/差異共立主義である。簡単に言えば、資本→差異変換システムである。超越論的資本主義から、差異共立的資本主義である。形式資本から差異資本へ。形式無機的資本主義から、差異共立資本主義へ。連続差異的資本主義から不連続差異的資本主義へ。連続的通貨から不連続的通貨へ。思うに、ゲゼルの減価通貨が意味があるのかもしれない。単に地域通貨ではない。マイナス利子をつけるのである。銀行に一億円があっても、それは、減価するのである。銀行は貯蓄があればあるほど、マイナスになるだろう。つまり、不連続的差異価値を評価するために、連続的差異価値を減価するのである。つまり、連続差異価値というバーチャルな価値を排するための実質的な不連続的差異価値のための通貨である。超越論的連続差異形式から超越論的不連続的差異強度への転換である。』 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10000587212.html ***************** 秋葉原無差別殺傷 職場への嫌がらせ計画「搬入口、トラックで妨害」 東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、静岡県裾野市の派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)が、派遣先の工場で人員削減計画が持ち上がった際、「腹いせに搬入口にトラックを止めて(業務を)妨害してやろうか」と同僚に漏らしていたことが13日、分かった。工場では年下の同僚と言い争いになるなど、トラブルがあったことも判明。警視庁万世橋署捜査本部では、就労形態が不安定な派遣社員という立場や対人関係などの不満が募って事件に至ったとみている。 加藤容疑者は昨年11月から裾野市の関東自動車工業東富士工場に派遣され、3カ月ごとに契約を更新する形で勤務を続けていた。 人員削減計画が決定したのは5月末。派遣社員200人のうち150人を6月末に解雇する内容だった。加藤容疑者の派遣元にも通告があり、工場では「(派遣元が)完全撤退して全員解雇される」といううわさが広まった。この際、加藤容疑者は同僚に「両親も頼れない。車で事故を起こして借金も背負っている」などと動揺をみせていた。 結局、加藤容疑者は削減対象とはならなかったが、就労形態が不安定な派遣社員という立場を実感したとみられ、「いらなくなったら結局は(クビを)切るんだ」などと話していた。 http://www.iza.ne.jp/news/ newsarticle/event/153081/ 参考1: 派遣労働者が受け取る賃金は必ず正規以上と法定が、正規の半分以下 派遣のピンハネ率は10%未満と法定が、ピンハネ率は平均40%以上 2008年6月15日 日曜日 ◆欧米の常識 vs 日本の非常識 1)派遣労働者が受け取る賃金は必ず正規以上と法定 vs 正規の半分以下 2)派遣労働が2年超だと直接雇用義務 vs 期限撤廃して無期限派遣 3)派遣のピンハネ率は10%未満と法定 vs ピンハネ率は自由、平均40%以上 4)企業が支払う総額はガラス張り vs けっして派遣労働者に教えないブラックボックス 5)派遣労働者の巨大全国組合がある vs 何も無い 6)派遣労働は事業拡大時などにのみ使うと法定 vs 正社員をクビにしてどんどん派遣に置き換えてよい トヨタ工場は日本が1000円でアメリカが3250円。 ちなみにアメリカトヨタは3000円で黒人ライン工が働きたくないと ただこねて3250円になった。 黒人ライン工はまだ時給3500円を要求してるらしい。 ◆日本国政府は今こそ真摯に社会権規約を誠実に履行せよ! 負け犬のプライド http://blog.goo.ne.jp/ 2005tora/d/20080615 株式日記と経済展望 参考2: 1930年代の大不況の時代に、パウンドは、他の多くの文人同様、政治経済の領域に関心を示し、とりわけ社会信用論(Social Credit)という異端的な経済理論の研究にのめりこんだ。彼は貨幣発行の権限を国家が金融資本に委ねていることを諸悪の根源とみなし、その権限を国家が取り戻すことを提唱したが、その際の貨幣発行を裏づける国家の信用として、彼は、ダグラスの社会信用論に従って、過去の文化的遺産(発明、思想など)を念頭においていた。すなわち偉大な死者たちの贈物(贈与)を背景に通貨発行を増やし、緩やかなインフレによって大不況を克服しうると考えた。この考え方は、古今東西の作家たちへの言及・引喩に満ち、時間が空間に化したかの様相を見せる大作『キャントウズ』の詩作法と、まさしく相似形であった。 http://yushodo.co.jp/pinus /66/america/eda/index.html (6)市場経済とエズラ・パウンド :江田 孝臣氏(早稲田大学教授)「エズラ・パウンド事典」訳者 Net Pinus 66号 「アメリカ文学ライブラリー」リレーエッセイ 2006/12/27 参考3: 「地域通貨」の“始祖”ゲゼルの貨幣理論に対する“正統派経済学者”ケインズの頓珍漢な批判 http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/632.html 投稿者 あっしら 日時 2004 年 5 月 14 日 03:09:50:Mo7ApAlflbQ6s (回答先: 親ファシズム・反国際金融資本・反戦の詩人―「歴史の中のエズラ・パウンド」:野上秀雄氏 投稿者 小魚骨 日時 2004 年 5 月 13 日 19:10:09) 「歴史の中のエズラ・パウンド」第12章嵐の30年代のなかに、ゲゼルの貨幣論に対して、「ケインズは、このシステムを、「反マルクス主義的社会主義」であり、基本的には健全であるとしたが、貨幣に代わる宝石、貴金属などの貯蔵によって、こうしたシステムをくぐり抜けることは可能であり、根本的な問題は解決されないとしている」と批判したという内容がある。 ケインズの該当論説に直接あたったわけではないので、あくまでもここに書かれている内容に即してというお断りの上でケインズのおかしさを指摘したい。 http://www.asyura2.com/ 0403/bd35/msg/632.html 親ファシズム・反国際金融資本・反戦の詩人―「歴史の中のエズラ・パウンド」:野上秀雄氏 http://www.asyura2.com/ 0403/bd35/msg/623.html 投稿者 小魚骨 日時 2004 年 5 月 13 日 19:10:09:5fM4yUMte5cr2 第二次世界大戦中にファシズム政権のイタリアからラジオ放送を通じて米英国民に反戦を訴え、戦後米国政府に拘束され13年間も精神病院に収容された二十世紀を代表する詩人エズラ・パウンドに関する野上秀雄氏の論考です。 エズラ・パウンドは、中国思想や日本文化に強く惹かれており、日米開戦直前から「ジャパンタイムズ」にも数度寄稿しています。 「歴史の中のエズラ・パウンド」は長文なので全文はサイトでお読みいただくこととし、第二次世界大戦に対する見方の断片のみ引用させていただきます。 http://www.asyura2.com /0403/bd35/msg/623.html
2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
ポスト冷戦とは何か:資本主義と社会主義の二元論と反動新自由主義と第三の経済(無利子通貨経済?)
確かに衝撃的な事件であったが、背景を考えると、複雑な事件である。複合原因殺人である。
とまれ、私は、冷戦終了後の世界、とりわけ、経済世界が浮き足立っているように感じられる。ビッグバンだとか、グローバリゼーションだとか、実にキャッチコピー的文句が流通しているのである。 思うに、ネオコンの意味を考えるべきだろう。ネオコンとは、ポスト冷戦現象である。私は新自由主義と一体と見ている。冷戦の終了を自由主義経済の勝利と見たことの一種の勘違いがあるのではないだろか。私は経済哲学が今日無くなっているとおもっている。経済学ではない。経済科学でもない。 ソ連社会主義経済の崩壊の意味をよく考えないといけない。二項対立で考えると、自由主義経済の勝利である。そして、グローバリズムはこのような考えに立っていると思う。そして、911事件である。 問題は、結局、同一性(自我)と差異(差異共振主義・共同体)に還元されるのではないだろうか。(今は、大雑把に言うだけである。)資本主義は前者であり、社会主義は後者である。しかしながら、近代における差異と同一性の連続性のために、「アイロニカルな没入」、いわば、エンゲルスの『自然の弁証法』的、つまり、唯物論的に言えば、反対物への転化が起るのである。 社会主義は、弁証法的発想によって、テーゼである同一性へと回帰したのである。つまり、資本主義に戻るのである。国家資本主義としての資本主義である。そして、これは、当然、個・差異がないので、行き詰まるのである。 資本主義は、社会主義の挑戦によって、民主主義的方策を施行せざる得なくなった。いわゆる、社会民主主義である。この対極の混淆に注意しないといけない。資本主義と社会主義の対立によって、相互浸透が生起したのである。 しかしながら、社会主義はその非効率性によって瓦解したのである。しかし、その瓦解が資本主義の勝利を意味するとは言えないのである。ここで資本主義の勘違いは、自由主義が勝利した思ったことである。それが新自由主義である。ネオコンである。 これは反動だと思う。つまり冷戦期において、共同体的価値観が西側にも浸透していたのである。だから、社会主義が崩壊して、自由主義経済の勝利を意味するとは言えないのである。つまり、新自由主義の勘違いは、進展を意味した共同体的価値を否定排除したことである。これは、反動・後退である。 このグローバリズムの反動を受けたのが、日本では、当然、小泉政権であった。そして、今日の亡国的大惨状を迎えているのである。 それまで生起していた共同体的価値を新自由主義は否定したのである。これが大問題である。共同体的価値は民主主義的価値に通じるのである。PS理論では、差異共振価値である。 だから、今日必要なのは、自由主義経済と共同体経済とを合致させる第三の経済システムである。しかしながら、これは、先に私の新母権主義と大調和主義の問題と通じるだろう。 自由主義と共同体主義を「大調和」させるというのは、誤りになるだろう。新母権主義=差異共振主義に則した第三経済が必要であるということである。トランス自由主義が必要ではないだろうか。 もっとも問題は複雑である。同一性を差異(差異共振主義・共同体主義)に包摂させる経済システムが必要と考えられるのである。同一性を差異へと還元させるシステムが必要である。ここで、減価通貨、消滅通貨の経済が想定されるかもしれない。 同一性価値が増殖する自由主義経済は否定されるのではないだろうか。そう、ここで注意すべきは、同一性価値は否定しないことである。同一性主義ないしは同一性中心主義を否定しているのである。 直感では、利益が差異共振価値へと転化する新共同体経済を想定するのである。いわば、自由共同体経済である。 これこそ、差異共振経済である。個の利益が差異共振共同体へと転化するのである。 では、市場はどうなるのだろうか。市場原理を否定するのだろうか。直感では、市場は否定することはない。市場は重要な変換場である。思うに、経済のMedia Pointである。 市場は差異共振価値形成の重要な拠点である。問題は、金融にアルと思う。思うに、無利子金融が必要ではないだろうか。イスラム銀行のような無利子銀行が必要ではないだろうか。 そう、利子の禁止である。ここにポイントがあると思う。利子は利己心を刺激するのである。そのため、蓄財や利殖にはげむのである。 利子とは-1であろう。そして、減価通貨とは+1ではないだろうか。しかしながら、同一性を包摂した差異を考えると、無利子通貨が適切なのではないだろうか。今はここで留める。 ***************** 秋葉原の無差別殺人は日本でも「貧困テロ」が起きたということだ。 今年すでに3件の貧困テロが起きたが、連鎖的にテロが起きるだろう 2008年6月12日 木曜日 ◆6/11(水)コラムの花道 6/11(水)コラムの花道は勝谷誠彦さんです。 秋葉原で起こった無差別殺人について、勝谷さんが斬ります! 6/11(水)コラムの花道×勝谷誠彦をダウンロード ◆日本の制度、世界的には非常識…派遣残酷物語 ZAKZAK 2008/06/12 派遣社員という隠された「格差社会」。派遣社員から「もう生きていけない」など多数の相談を受けている「派遣ユニオン」書記長の関根秀一郎氏は「派遣が絶望の温床となっている。このままでは、ほかにも許されないことを考える人が出てきても不思議ではない」と警鐘を鳴らす。 http://blog.goo.ne.jp/ 2005tora/d/20080612 株式日記と経済展望 どうやら、東アジアは朝鮮半島が台風の目、震源、竜巻になりそうである。エネルギーが満ちているようだ
どうやら、東アジアは朝鮮半島が台風の目、震源、竜巻になりそうである。エネルギーが満ちているようだ
テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア どうやら、東アジアは朝鮮半島が台風の目、震源、竜巻になりそうである。エネルギーが満ちているようだ。エネルゲイアの朝鮮半島である。それに比べて、日本は、エネルゲイアが枯渇してしまったようだ。日の国ならぬ、死の国である。 私が接する韓国人は、確かに、日本人に比べて、溌剌とした、そうシャープな生命感が感じられる。日本人はどんよりしている。死んだマグロの目。 いったい、この精神の火は何だろうか。この活火山は何だろうか。PS理論から言えば、差異共振エネルギーが発動しているのである。つまり、韓国には、差異があるということだろう。個があるということだろう。私の推理では、内なるMedia Pointに対して、欧米の知性が導入されて、爆発を起したのだ。アジアの魂とグローバルな知性が衝突的に爆発したのではないだろうか。 思うに、潜在的に、(+i)*(-i)があった。ここにグローバルな知性が入ると、(+i)が刺激されるのである。しかし、韓国人においては、戦後日本人のように、魂を抜かれていないので、(-i)が活性化するのである。つまり、差異共振エネルゲイアが発生するのである。 Media Pointという魂にグローバルな知性が衝突して、爆発したということではないだろうか。 拉致対応12日に回答へ 北朝鮮、日本は解決要求 【北京11日共同】日朝両政府による公式実務者協議が11日午後、北京の北朝鮮大使館で始まった。日本代表の斎木昭隆外務省アジア大洋州局長が拉致問題解決を求めたのに対し、北朝鮮代表の宋日昊・朝日国交正常化交渉担当大使は12日午前の協議で北朝鮮側の見解を述べると答えた。2002年の日朝平壌宣言に基づき、日朝関係の前進を図るべきだとの認識では一致した。 日朝政府間の公式協議は、昨年9月にモンゴルで開かれた北朝鮮核問題をめぐる6カ国協議の日朝国交正常化作業部会以来、約9カ月ぶり。 冒頭、斎木氏は6カ国協議を進展させるためにも「日朝関係の前進が必要だ」と指摘。宋氏は「平壌宣言にのっとり究極的には国交正常化実現に努力することが重要だ」と応じた。また、斎木氏は日航機よど号乗っ取り犯グループの身柄引き渡しも求めた。 拉致問題に関し、斎木氏は(1)被害者と家族の安全確保と早期帰国の実現(2)真相究明(3)容疑者引き渡し−をあらためて要求。 http://www.47news.jp/CN/200 806/CN2008061101000798.html 拉致問題回答は12日 日朝協議で北朝鮮 2008.6.11 20:16 初日の日朝実務者協議を終え、記者の質問に答える外務省の斎木昭隆アジア大洋州局長(中央左)=11日午後、北京市内のホテル(共同) 初日の日朝実務者協議を終え、記者の質問に答える外務省の斎木昭隆アジア大洋州局長(中央左)=11日午後、北京市内のホテル(共同) 日本と北朝鮮の公式実務者協議が11日午後、北京の北朝鮮大使館で行われた。昨年9月にモンゴルのウランバートルで開かれて以来、約9カ月ぶりとなった両国の公式協議には、日本の斎木昭隆外務省アジア大洋州局長と北朝鮮の宋日昊・朝日国交正常化交渉担当大使がそれぞれ出席した。 協議は午後3時(日本時間同4時)に始まり、約2時間半行われた。 斎木局長は協議終了後、双方は日朝関係の現状などについて協議し、「平壌宣言にのっとって日朝関係の前進を図ることが必要」との認識で意見が一致したと述べた。 斎木局長はまた、日本が最重要事項としている「拉致問題」についての政府の見解を改めて説明、日航機「よど号」乗っ取り事件についても言及し、実行犯を日本に引き渡すよう北朝鮮側に求めたという。 これに対し、宋大使はメモを取りながら聞いていたが、意見は述べず、「12日午前に行われる協議でこれらの問題について北朝鮮側の見解を説明したい」と回答したという。 最終日となる12日の協議では、歴史の清算問題も議題になるという。(北京 矢板明夫) http://sankei.jp.msn.com/world/korea /080611/kor0806112019005-n1.htm
2008年06月11日(Wed)▲ページの先頭へ
通り魔厳罰/殺人死刑論の松村喜秀氏と差異共振主義・脱物質主義への転換
以下の松村喜秀氏の通り魔厳罰/殺人死刑論には、賛成できない。反対である。また、現代社会には「愛」が必要であると言っているが、あまりに凡庸な考えである。
思うに、単純に見て、松村氏は自己の考えが齟齬を来しているのに気がつかないのだろうか。「愛」を説くなら、当然、殺人者への「愛」も必要である。だから、松村氏の愛主義論からすると、殺人死刑論は成立たなくなるのである。 もっとも、クリスチャンなので、矛盾が生じても問題はないだろう。何故なら、キリスト教は、愛と復讐の矛盾した教義をもつからである。矛盾撞着宗教である。 私はクリスチャンではなく、原神道主義を唱えているので、できるだけユルシを説きたいと思っている。しかし、罪は罪であるから、刑罰を受けるのでは当然である。しかし、刑罰は、当人の悔悟をもたらす方向でなくてはならないだろう。死刑ではそれは不可能である。 いったい、悪とは何だろうか。私は国家の戦争も悪だと思う。国家を誰が裁くのか。「復讐するは我にあり」? 精神学では、ブーメラン効果を説く。因果応報である。同一性主義の悪は、差異共振主義によって償われるのだろう。同一性主義の傾斜に対して、差異共振主義の傾斜が生起して、宇宙(コスモス)のバランスを取るのだろう。物質主義の傾斜に対して、精神主義の傾斜が発生するだろう。それは、脱物質化である。ここで、最近亡くなったSF作家アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を想起する。そこでは、宇宙人による脱物質化/精神化がテーマになっていた。 物質現象への傾斜に対して、脱物質現象の傾斜がありうるだろう。そうなると、生成消滅の周期が宇宙にあることになる。ヒンドゥー教のカリユガの発想を想起する。 p.s. 言いそびれたが、現代の異常な犯罪・殺人が起るのは、一つは、唯物論にあるが、また一つは、小泉似非構造改革にあると言えよう。一言で言えば、同一性主義である。これは、全体主義である。 日本人は、自らの首を絞めるような政治を選んだのである。だから、その点では、自業自得である。大衆民主主義の恐ろしき帰結である。個衆とならなくてはならない。個衆民主主義である。 p.p.s. 以下のヴィシュヌについてであるが、ヴィシュヌ派は、ヴィシュヌが中心となっている。これは、PS理論からは肯定できると思う。つまり、差異共振性=イデア性がヴィシュヌと考えられるのである。 しかし、私はブラフマンが差異共振性と以前は考えた。この齟齬をどう見るか。思うに、ブラフマンとヴィシュヌの立場が揺れ動くと思うのである。これは、自己認識方程式の様相そのものと言えるだろう。 思うに、ブラフマンとヴィシュヌは一体である。だから、相互転換が生じると思われるのである。しかしながら、やはり、ブラフマンがイデアであり、ヴィシュヌが+1と見るのが、適切ではないだろうか。 とまれ、後でさらに検討したい。 ****************** 故意に人を殺したら死刑は当然 もう一つ、対策としてというより、人間として親として当然行うべきことがある。それは子どもに愛をたっぷりと注ぎ込むことである。 最近の親を見ていると愛が足りないように見える。愛とは「好き」などというレベルではなく、自分を犠牲にしてでも守りたいという強い思いである。 もし、仮にわたしの子どもが通り魔の犠牲になったとしたら、わたしは誰はばかることなく、「犯人を殺したい」と叫ぶだろう。冷静になど振る舞えない。親として敵討ちに行くぐらいの気持ちを持っている。 最近は死刑制度廃止や反対を唱える人が増え、光市母子殺害事件でも、死刑反対論者の弁護士たちが自分らのイデオロギーを主張するために荒唐無稽な作り話をでっち上げて、奇妙な弁護をした。 さすがに裁判所は取り合わなかったものの、故意に人を殺したら、それが一人であろうと二人であろうと、自らも死をもって報いるべきではないのか。 法は未成年者を守るように出来ているが、未成年者だろうと人を殺す重大性は意識しているはずだ。未成年だから死刑にならないと高をくくっている。わたしは未成年でも、悪質であれば、死刑を適用するべきだと思う。 光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんをわたしは尊敬する。十年近くもかけ、一貫して被告の死刑を求め続け、犯罪被害者の権利を確立した。本村さんの強い愛が社会を動かしたのだ。 世界では死刑を廃止した国もあるが、他国の動きに同調することなく、自国の問題として裁判や死刑制度の在り方を考えるべきだろう。 少なくとも、情状酌量の余地のない通り魔殺人には厳罰をもって臨むべきだと思う。 松村 喜秀(まつむら・よしひで) 【略歴】 1949年島根県生まれ。父の仕事の関係で世界各地を転々とし、外国の大学で電子工業を専攻する。大手電機メーカーに就職するが、独立を目指して退職。センサー技術などを手掛けるフリーの設計士となる。1983年に産業用機器の設計・試作品製作を行う松村エンジニアリングを設立。87年にソウルオリンピック向けに偽札鑑別機開発を大手企業より依頼され、翌年開発に成功、販売する。その後、北朝鮮製と思われる偽100ドル札を発見、「スーパーK」と命名して、一躍世界的に有名となる。その後も多くの精巧な偽札を見破り、世界中のメディアに掲載、出演することとなった。世界中の特殊捜査機関の講師・顧問を務め、日本の大学で講師も務める。偽札鑑別機以外にも大手の真似できない特殊なセキュリティー機器、指紋照合装置などを開発、約250件の特許を取得している。現在、松村テクノロジー代表取締役。クリスチャンであり、米国空軍基地の教会で長老(エルダー)を務めている。現在、私財を投じて教会や無料の老人ホームなどの計画を進めている。 【ホームページ】 松村テクノロジー 【主な著作】 『ビッグバンで偽ドルがやってくる』(旬報社) 『偽造鑑定人調査ファイル』(講談社) 『スキミング〜知らないうちに預金が抜き盗られる』(扶桑社) http://www.nikkeibp.co.jp /sj/2/column/ea/
2008年06月08日(Sun)▲ページの先頭へ
MPの即非二元性:父権的同一性主義と母権的差異共振主義:新ギリシア・ルネサンスあるいは大調和主義
超越神の発生は、イデア極性における反発による同一性主義によるというこれまでの仮説を基に検討を進展させたい。
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺を否定して、⇒-1となる。これが同一性主義であるが、⇒の左辺は超越神になると仮説している。たとえば、プロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。 私が不思議に思ったのは、結局、近代主義においては、左辺の超越神が消失していくことであるが、その原因は何であろうか、ということである。別の例として、戦後の日本人を見ると、宗教観念が稀薄となり、近代合理主義・唯物論を信じている。これも、同一性主義の帰結であるが、日本人の場合、超越神ではないが、神はどこへ行ったのか。 ここでは、プロテスタンティズムについて考えよう。初期においては、超越神の観念が生きていたが、今や、ほとんど死滅しているだろう。アメリカは例外的であるが、イギリスやドイツではそうだろう。 だから、一枚岩ではないのである。とは言え、アメリカ人が宗教的とは言え、私見では、近代合理主義・近代的自我的である。 結局、同一性主義は、初期は神観念があるが、結局、物質主義の近代合理主義・近代的自我に帰結する力学は何だろうか。 同一性主義は、自我観念を発達させる。近代において、近代科学・技術と資本主義の発達があったが、これらが、神観念を切り崩していったものだろう。 では、神観念の喪失とは何を意味するのか。それは、Media Pointにおける壁の完成ではないだろうか。そこには、絶対的な壁ができ、もう壁の向こう側のエネルギーがなくなるのだ。ということは、壁の消失でもあるだろう。それまで、超越性と現象性を区別していた壁がなくなったのだろう。無壁の状態とは何か。 これは、無意識に支配される状態ではないだろうか。差異共振性が無意識として潜在している。そして、壁無の状態では、この無意識=差異共振性が支配するようになるのではないのか。 否、無意識=差異共振エネルギーがありながら、それを排除・抑圧する自我意識体制が生まれるだろう。これは、明らかに、全体主義である。同一性主義資本主義である。マネーゲームであろう。当然、人間は機械化するのである。同一性主義の「悪魔」に支配されるのである。言い換えると、同一性主義構造に支配されるのである。そう、これが、現代世界の真相であろう。 これまでの考察からみると、これは、イデア極性の反発による力学の帰結に因ると考えられる。言わば、自然の傾斜がこのような狂気的状況を生んでいるのである。 ここで、シュタイナーの悪魔論を想起するのである。アーリマンとルシファーの「二人」の悪魔がある。前者は物質主義ないしは同一性主義である。後者がわかりにくいのである。思うに、ルシファーとは、差異共振主義ではないだろうか。 そして、シュタイナーは両者のバランスをとる力として、「キリスト」をおいているのである。私見では、この「キリスト」は、Media Point知性(理性)である。 簡単に言えば、アーリマンとは物質主義であり、ルシファーは精神主義である。そして、「キリスト」は物質と精神との均衡・調和である。 これは確かに明快である。私なりに言い換えると、アーリマンは父権主義であり、ルシファーは母権主義である。そして、「キリスト」は、両者のバランスである。 これは、かなり説得力のある考え方である。もっとも、これまでの私の考察に拠るなら、アーリマンは反発であり、ルシファーは引き合いである。そして、「キリスト」は、Media Point調和知性である(余談だが、調知、調知性という言葉を作ってもいいだろう。共立知性、共知性である。)。 そう、この視点から、たとえば、ドゥルーズ哲学を見ると、それは、ルシファー主義と言えよう。アーリマン主義=同一性主義を否定して、ルシファー主義=差異共振主義になっているのである。そうならば、先に、ドゥルーズ哲学は+1+(-1)=ゼロと言ったことと齟齬を来す。 直感では、ドゥルーズの差異とは、確かに、+1における力動を捉えているが、不鮮明なのである。曖昧なのである。大雑把なのである。つまり、ドゥルーズの差異は、+1的であるが、同時に、内在主義なので、+1が同一性主義へと展開するのである。つまり、ここで、+1+(-1)=ゼロが生起すると思われるのである。これで齟齬が解消した。 また、ハイデガー/初期デリダ哲学を見ると、それは、アーリマンとルシファーの「差異」を提起していると言えよう。しかし、「キリスト」(Media Point 認識)がないのである。 さて、以上の考察から帰結するのは、今日の同一性主義=アーリマン主義は確かに極端であるが、ポスト・モダンのような差異共振主義=ルシファー主義も反動的極端さをもつということであろう。 必要なのは、Media Point Intelligence-sophiaである。これはMedia Point調和知性、調和理性、調和叡知と呼べよう。同一性主義と差異共振主義を調和させる大調和知性である。 私は新母権主義を唱えているが、それは、端的に、この大調和理性主義である。(占星術では、水瓶座文化期となろう。) そうすると、これまで、差異共振主義と言ってきたものは、一面的であったことになる。私は同一性を包摂した差異共振性としての差異共振主義を考えてきたのであるが、それは弱いと言えよう。そうではなくて、同一性主義と差異共振主義との調和が必要なのである。簡単に言えば、同一性と差異との調和ということである。 これは、先には、ギリシア悲劇において確認できたことである。そう、ギリシア悲劇を含めて、ギリシア神話は、この大調和を志向していると言えよう。思うに、イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ルネサンスではなくて、差異共振主義=母権主義=ルシファー主義ルネサンスではなかったのか。それは、厳密に言えば、母権ルネサンスであり、ギリシア・ルネサンスではない。 ということで、結論的には、新ギリシア・ルネサンスがこれから勃興するということであり、それを志向すべきである。 p.s. 以上の結論から、政治について明快な理念が生まれてくるだろう。自由主義は同一性主義であり、民主主義は差異共振主義である。両者の調和主義が新理念となるのである。だから、大調和主義が新政治理念となろう。 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想も解明される。父と子の対立を相克するものとして聖霊を考えているが、これは、父権主義(ヤハウェ:一神教)と母権主義(イエス:多神教)の対立を相克する調和主義と言える。 p.p.s. Media Point大調和主義から見ると、モダンとは、同一性主義の病であり、ポスト・モダンは差異共振主義の病である。トランス・モダンが両者の傾斜を乗り越え、両立調和主義へと主導するのである。これは、自由主義と民主主義の大調和主義である。D.H.ロレンスの王冠主義である。 3p.s. 用語の的確さ、適性さのことであるが、上記では、同一性主義=アーリマン主義に対するに、差異共振主義=ルシファー主義を説いたが、果たして、差異共振主義でいいのか。差異主義ではないのかと疑問に思うのである。 やや微妙であるが、たとえば、ポスト・モダンの場合、同一性主義とのなんらかの連続性があった。だから、その「差異」主義とは、厳密には、差異共振主義ではない。しかしながら、包摂する視点から見ると、ポスト・モダンの「差異」は本来は差異共振主義から発生しているものである。だから、広義的に、差異共振主義としても間違いではないと考えられる。差異主義とは、差異共振主義の派生ということである。
2008年06月07日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性(=物質)被捕囚の日本人と差異という現実のもつ未来:内なる目の自然超噴火
同一性(=物質)被捕囚の日本人と差異という現実のもつ未来:内なる目の自然超噴火
テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画 私の直感では、日本国民は自分が何をしようが政治は変わらないと諦めの境地にあるのではないだろうか。 これは、歴史を知らない人間の考えである。日本史であれ、世界史であれ、すぐ触れれば、変革の歴史であることがわかるだろう。ただし、唯物史ではありえない。 日本人は、戦後、近代合理主義=近代的自我⇒唯物論に染まっているので、精神の力に不信の念をいだき、また、それを冷笑的に、侮蔑的に見ているだろう。ここが問題である。物質主義に染まった日本人は目先のことばかりに囚われていて、子孫のことを考えていない。私見では、自嘲的な諦観がある。 しかし、その心的態度は、自分の心を見ていない態度である。同一性=物質の現実しか見ていない態度である。差異という「現実」を見る必要があるのである。 日本人の目を内向きにすれば、大変革となろう。今日、疎外されて、目が外に向いているのである。内なる目とは、差異の目であり、未来の目であるが、なによりも、個=差異=特異性の目であり、自然大爆発の目である。 参照: 司馬遼太郎の革命第一世代論から丸山真男の悔恨共同体論へ 鶴見俊輔の言う「指導者の入れ替え」が必要である。しかし、私はそのことの困難を思って溜息が出、そして鬱懐に沈む。鶴見俊輔の言う「指導者の入れ替え」とは、別の言葉で言えば「革命」に他ならない。今がこの国の大きな歴史的転換期で、このままではやって行けなくて、頭の天辺から足の爪先まで丸ごと社会体制を入れ替えて刷新(維新)しなくてはいけないというのは、恐らく誰もの共通した認識であり、しかも皮膚感覚で感じる切迫した実感だろう。 http://critic5.exblog.jp/8730438/ 世に倦む日日 検討問題:同一性市場と差異市場:利己主義と共生主義:同一性価値商品と差異共生価値商品
投機するファンドは、私見では、まったく意味不明であるが、しかし、それが、現実的存在であるから、問題にせざるをえない。
問題は、市場である。市場経済である。これまで、私は、市場とは、差異共振性の一つと考えてきたがどうだろうか。 問題は、同一性価値が交換価値である限り、そこでは、投機主義が主導的になるのではないだろうか。そう見ると、減価貨幣がやはり説得力があるように思えてくる。 同一性貨幣が増殖させたいために、投機するのである。ならば、同一性貨幣が減価するならば、投機はしなくなるだろう。 もっとも、市場を否定するつもりはない。ここで、空想するが、もし、市場が差異価値の市場であるなら、それは、どういうものであろうか。形式的に考えて、aという商品をAという差異貨幣価値で購入するとする。同様に、bをBという差異貨幣価値で購入するのである。 これは、いったい何か。つまり、差異貨幣とは何か、である。それは、固定した同一性価値をもたない、いわば、生成流転・生成消滅的価値貨幣ではないだろうか。もし、同一性貨幣ならば、aは固定した貨幣価値をもつ。同一性貨幣をA'とすれば、aは、A'という同一性貨幣価値をもつ。それは、いわば、構造的価値である。 しかし、差異貨幣ならば、Aは固定していない。それは、エンテレケイアではなく、エネルゲイアである。PS理論から言えば、(+i)*(-i)⇒+1であろう。同一性貨幣ならば、-1である。 いったい差異貨幣、差異資本、差異市場とは何であろうか。直感では、売り手と買い手の関係における、差異共振貨幣・差異共振資本・差異共振市場である。 つまり、同一性貨幣の一万円に対して、差異貨幣の一万円は、差異共振価値であり、それは、差異共振資本になり、差異共振社会を形成するものでなくてはならないのではないか。 同一性貨幣ならば、同一性価値をもち、同一性資本となり、同一性社会を形成するだろう。 端的に、有り体に、どう異なるのか。差異貨幣とは、差異共振貨幣であり、差異共生価値をもつだろう。そう、差異共生貨幣という方が明快であろう。 例えば、同一性貨幣の一万円と差異貨幣の一万円を比べると、前者は、非共同体的であり、解体的である。それに対して、後者は、共同体的であり、創造的である。 同一性貨幣は、利己主義的であるが、差異貨幣は共生主義的である。つまり、後者は質的価値が刻印されているということではないだろうか。たとえば、野菜を買うときは、差異共生的野菜であるかが、ポイントとなるのではないだろうか。つまり、販売される野菜は、差異共生価値を提示する必要があることになる。 商品に刻印された差異共生価値が、購入する際の、指針にならなくてはならないのではないだろうか。思うに、これには、法的強制が必要ではないだろうか。差異共生価値をどれほど購入したかで、税金の多寡が決まるとすればいいのではないだろうか。同一性価値商品を購入する場合は、税金を多く懸けるようにするのであり、差異共生価値商品を購入する場合は、控除するのである。 今は、ここで留める。
2008年06月06日(Fri)▲ページの先頭へ
同一性被捕囚の日本人と差異という現実のもつ未来:内なる目の自然超噴火
私の直感では、日本国民は自分が何をしようが政治は変わらないと諦めの境地にあるのではないだろうか。
これは、歴史を知らない人間の考えである。日本史であれ、世界史であれ、すぐ触れれば、変革の歴史であることがわかるだろう。ただし、唯物史ではありえない。 日本人は、戦後、近代合理主義=近代的自我⇒唯物論に染まっているので、精神の力に不信の念をいだき、また、それを冷笑的に、侮蔑的に見ているだろう。ここが問題である。物質主義に染まった日本人は目先のことばかりに囚われていて、子孫のことを考えていない。私見では、自嘲的な諦観がある。 しかし、その心的態度は、自分の心を見ていない態度である。同一性の現実しか見ていない態度である。差異という「現実」を見る必要があるのである。 日本人の目を内向きにすれば、大変革となろう。今日、疎外されて、目が外に向いているのである。内なる目とは、差異の目であり、未来の目であるが、なによりも、個・差異の目であり、自然大爆発の目である。 参照: 司馬遼太郎の革命第一世代論から丸山真男の悔恨共同体論へ 鶴見俊輔の言う「指導者の入れ替え」が必要である。しかし、私はそのことの困難を思って溜息が出、そして鬱懐に沈む。鶴見俊輔の言う「指導者の入れ替え」とは、別の言葉で言えば「革命」に他ならない。今がこの国の大きな歴史的転換期で、このままではやって行けなくて、頭の天辺から足の爪先まで丸ごと社会体制を入れ替えて刷新(維新)しなくてはいけないというのは、恐らく誰もの共通した認識であり、しかも皮膚感覚で感じる切迫した実感だろう。 http://critic5.exblog.jp/8730438/ 世に倦む日日
2008年05月31日(Sat)▲ページの先頭へ
利益とは何か:差異共振価値と同一性価値の齟齬としての資本主義と差異共振共同体資本主義
利益とは何か。
今日、想像していたが、資本主義とは、生産に関しては、差異共振主義であるから、当然、一人一人が生産するよりは、余剰に生産できるのである。つまり、資本主義的生産とは、余剰生産なのである。つまり、価値が(p.s. 質的かつ量的に)増加する経済である。差異共振経済である。物質的にも、精神的にも、即自的には発展する経済である。 問題は、誰もがわかるように、出口、売買・商業の問題である。ここで、生産物は、市場を介して、売買されるわけであるが、このとき、差異共振価値である商品が同一性価値=貨幣価値に還元されるのである。ここが、資本主義のネックだと考える。即ち、差異価値、ないしは、差異共振価値を同一性価値に還元する倒錯を資本主義社会はもっていることである。 このために、同一性価値が差異共振価値を凌駕するマネーゲームが生じるのである。 思うに、同一性価値とは、近代民主主義に即応するだろう。差異がすべて同一性に還元され、それが貨幣価値化されるのである。これは、それとして、近代の価値である。封建主義的ヒエラルキーは消滅している。 これは、これまでの検討から、ユダヤ・キリスト教が古代ギリシアの知性を取り込むような様態で主導的であったから形成されたと考えられる。ユダヤ・キリスト教が同一性価値を肯定しているのである。 では、資本主義とは何であるのか、という疑問が浮かぶ。これは、実は、先に提示した自己極性方程式で表現されると思う。簡略的に記せば、⇒±1である。この±1の矛盾が資本主義に内在していると考えられるのである。同一性価値とは、当然、-1 であり、差異共振価値とは、+1である。 結局、この齟齬が現代世界を混沌とさせているのである。問題は、同一性価値の-1にあるのは、誰でも理解できよう。資本主義の差異共振価値=富=+1を、-1が否定してしまうと考えられるのである。 金融資本とは、-1のことであり、これが、+1の富を横取りしてしまうのである。もっとも、一般的に言っているのであるが。 問題は、国家がこの-1に深く関与していることである。このために、+1が抑圧されるのである。(トランス国家主義が必要である。) 結局、これまで、繰り返したように、差異共振価値+1をそれとして、評価する金融システムが必要であるということである。【ここで、Kaisetsu氏の銀本位制の発想が生まれるのである。】 直感で言えば、得た収益・利益は誰のものであるのか、がいちばんの問題ではないだろうか。プルードンは社会集合力を述べたが、確かに、利益は、企業の総合性に属すると言えよう。つまり、差異共振力に利益は属すると言えよう。そして、この利益を差異共振的に還元しないならば、その企業は、同一性価値に従属することになるだろう。 だから、私的企業とは、社会的企業でなくてはならないと考えられるのである。そして、この社会的還元を自主的に行うべきである。 国家が介入すると、利権が生じて、いわば、マージンが取られることになると考えられる。だから、思うに、企業の社会化=共同体化が必要であると考えられるのである。 このためには、政治家や国家・地方公務員は必要が少なくなってくるだろう。ただし、私はアナーキズムまでは考えない。国家・政府は、やはり、法形成機関としてあるべきである。 結局、企業自体の差異共振化がなくてはならないということになる。ここでは、企業とは、自営業も含むものである。 思うに、このためには、差異共振課税が必要になるだろう。自主的に、差異共振投資をするならば控除するが、そうでなければ、課税するのである。 ******************* 2008/05/30-19:08 12社中10社が減益=不払いで新契約低迷−主要生保の08年3月期 生命保険主要12社の2008年3月期決算が30日、出そろった。各社とも営業より保険金不払い問題の調査を優先したため新契約がほとんどの社で減少。本業のもうけを示す基礎利益は10社で減り、12社合計では11.6%の減益だった。 新契約から受け取る保険料を1年分にならした年換算保険料は、アメリカンファミリー生命保険を除く11社がマイナス。医療保険などの第3分野も伸びが鈍化した。また、最大手の日本生命保険は新契約の死亡保障の合計額で3位に転落。不払い問題への対応に「営業を止めるぐらいの態勢で取り組んだ」(日生の筒井義信常務)ことに加え、死亡保障から医療保障へ顧客ニーズが変化したことも影響した。 http://www.jiji.com/jc/c?g =ind_30&k=2008053000923
2008年05月28日(Wed)▲ページの先頭へ
資本主義の同一性価値蓄積衝動を超える経済を目指して:脱資本主義と先住民族文化(アニミズム)
先に資本主義の衝動は資本蓄積衝動であると言ったが、言い換えると、同一性貨幣価値蓄積衝動である。同一性価値である貨幣資本を増殖させる衝動である。
有り体に言って、これは、一体何なのだろうか。私はこれをヤハウェ衝動と呼んでいる。数理化すれば、+1⇒-1となるのではないだろうか。否、むしろ、 (+i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。なぜなら、+1の場合は、デリダ的に言えば、痕跡ないしは差延があるから、同一性主義は相対化されると考えられるからである。 だから、問題は排除的否定が発生して、貨幣資本を増殖させる同一性主義となることにある。それは、他者=差異をすべて同一性価値に還元する志向性である。いわば、触れるものがすべて黄金に化するミダス王のようなものである。 正に、父権・男性的衝動である。ルサンチマン衝動でもある。この同一性衝動を脱構造化するトランス資本主義はどうやって形成されるのだろうか。 ゲゼルの消滅通貨の考え方は一つのトランス資本主義の考え方であろう。同一性が増殖せずに、消滅するという通貨は、確かに、鋭いアンチテーゼである。 確かに、利子の問題が大きいだろう。また、土地の資産化も問題である。ここでは、想起することを述べるが、利子の発想とは、思うに、農耕や牧畜の発想と近いのではないだろうか。たとえば、稲は、一粒の種が死して、多くの実をつけるのである。何倍だろうか。千倍くらいだろうか。あるいは、羊や牛を殖やすことは、富となるだろう。 ここにあるのは、量的な発想である。いわば、数量還元主義である。質の考慮が欠落しているのである。 思うに、いわゆる、先住民族、アイヌやインディアン等のアニミズムの方が、「環境」との関係において、生活文化を考えるので、脱資本主義のアイデアはそちらに見出せるのではないだろうか。私は、こちらの方が、ゲゼルの思想よりもラディカルのように思えるのである。 自然環境と結びつけて経済を考える、いわば、自然経済学があってもいいだろう。当然、これは、社会環境との結びつきも考慮するのである。だから、自然社会経済学である。 これについては以前、総論的に考えたことがある。簡単に言えば、自然・社会にフィードバックさせる循環経済、還流経済である。 自然/社会の基盤から富を得るならば、それは、自然/社会へと還元しないといけないのである。つまり、自然/社会に共振・共鳴するように、富を還元する必要があるのである。つまり、自然創造資本や社会創造資本という形で、還元すべきなのである。 つまり、経済の目的が、自然/社会創造になるのである。金儲けではなくて、自然/社会創造が経済目的なのである。もちろん、ここには、文化も入るから、自然/社会/文化創造的経済である。自由主義は、差異共振的自由主義へと変換するのである。 つまり、同一性価値主義から差異共振価値主義へとパラダイム転換するのである。同一性資本から差異共振資本へと転換するのである。貨幣で言えば、同一性価値貨幣が差異共振価値貨幣へと変換することである。 これは一体どういうことなのであろうか。差異共鳴価値貨幣とは何なのだろうか。それは、差異共鳴価値資本である。それは、差異共鳴価値的商品を売買するものになるのではないだろうか。 ということは、差異共振価値商品の市場がなくてはならないだろう。ある差異共振価値企業があり、差異共振価値商品を販売する。それを、差異共振貨幣で購入すればいいのではないだろうか。 これは、人と人、人と自然を共振化していく経済である。共振的相乗効果をもつような経済であろう。思うに、人や自然を救うことが、いわば、儲けになる経済である。 差異共振精神と結びついた差異共振経済である。精神と物質の結びついた差異共鳴価値経済である。後で、さらに検討したい。
2008年05月07日(Wed)▲ページの先頭へ
グローバリゼーションを支配しているのは何か:新黒船と新御一新:トランス・モダン国家戦略の創造へ
テーマ:新植民地主義=グローバル資本主義
イスラエルとシリアの和平交渉 ▼米大統領選挙を操る 米大統領選挙は、民主党でオバマとクリントンがぎりぎりの選挙戦を続けている。米政界に強大な影響力を持つイスラエル系の圧力団体が民主党のどちらかの候補を隠然と応援する見返りに、その候補は当選後にイスラエルのためにイランを潰す戦争をすることなどを誓うといった戦略があり得る。イランを潰せれば、シリアやヒズボラやハマスは後ろ盾を失う。(関連記事 ) もしくは、共和党のマケイン候補がイランとの戦争をイスラエルに誓った見返りに、イスラエル系の団体は民主党の側でオバマとクリントンの共倒れを誘発しているのかもしれない。すでに3人の大統領候補は昨年から、競って何度もイスラエル支持を公約しており、その卑屈な姿は哀れだ。イスラエルが大統領を決めるアメリカが民主主義のモデルとされているのは、現代世界の巨大な偽善の一つである。(関連記事その1 、その2 ) http://www.tanakanews. com/080502syria.htm 隠れ多極主義の歴史 田中宇の国際ニュース解説 *************** 以上の田中宇氏の言葉が納得できるようになってきた。アメリカ大統領予備選挙であるが、オバマ候補とヒラリー・クリントン候補とのなにか泥仕合の様相さえ帯びてきた争いに、私には、なにかパフォーマンスのようなものが感じられてきた。 田中氏の視点が的確なように見えてきたのである。舞台裏では、ユダヤ系資本が、綿密な緻密な計画を立てているのだ。おそらく、誰が勝利してもいいのではないだろうか。三人のうち誰か。 そう、結局、ユダヤ系金融資本は、ナショナリズムを利用しているのである。アメリカ人を利用しているのである。アメリカ人は、単純素朴だから、自由主義・民主主義のイデオロギーに染められ、それらの擁護・普及であると洗脳されて、世界で戦争をさせられているのである。世界民衆は、仕組まれて、互いに殺し合っているのである。その結果、超巨大金融資本は儲けているのである。邪神ヤハウェの-1は狡知狡猾・冷酷無惨であるのを忘れてはいけない。 田中氏はおそろしく透徹して事態を明察しているのである。表面に騙されない冷徹な科学的な目をもっているのである。 そのような緻密な戦略をグローバル資本はもっているのだから、生き延びるには、アメリカの騙しの変化球をまともにとってはいけないし、外交巧者の中国に騙されていけない。 古代人的な日本人であるから、この戦国グローバル時代に生きるには、用意周到な国家戦略(トランス・モダン戦略)が必要である。優秀なブレインを集めて、政策を創造しないと日本はポシャルだろう。適材適所で、官僚でも優秀なものは、引き抜くべきである。 今の日本の政治家の知的レベルでは、対処できない。また、国民が逸楽的なので、自壊自滅的である。 新維新が必要である。グローバリゼーションは新黒船である。 参考; “死に体”福田内閣支持率急降下 10%台突入目前 2008年05月05日10時00分 「福田辞めろ」の世論が沸点に達している。 ガソリン暫定税率復活を受けて朝日新聞が4月30日夜〜5月1日夜に行った全国緊急世論調査(電話)で、内閣支持率は前回調査(4月19〜20日)の25%から20%に急落した。 政党支持率は、民主が22%→28%に急増し、26%→24%に落とした自民を逆転した。 次期衆院選比例区の投票先についても、民主が39%で自民の22%を大差で引き離した。こうした状況に自民党執行部内では「選挙ができない」「10%台になったら完全にアウト」という悲鳴も上がっていると報じている。 日経新聞が同日行った緊急調査でも内閣支持率は21%と、前回調査(4月中旬)から8ポイントも低下。日経が森内閣末期の01年2月に行った16%に近づいている。一方、不支持は9ポイント上昇して68%に達した。政党支持率も民主党36%、自民党33%で逆転した。 【2008年5月2日掲載】 http://news.livedoor.com/ article/detail/3626059/ China-bashing is a blind man's game China's renaissance, arguably the most significant story of our time, offers to the world as much as the world brings to China. Yet some fail to grasp the big picture, and for them, China's re-emergence generates anxiety. The result is anti-Chinese rhetoric and behavior that can only generate anti-Western attitudes within China. Meanwhile Beijing and the West could join forces to solve global problems. - David Gosset (May 6, '08) http://www.atimes.com/ atimes/China/JE07Ad02.html
2008年04月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ハンナ・アレントの三分化論とPS理論:差異共振性とトランス・コミュニケーション理論
以下、toxandoria氏によるハンナ・アレントの三分化論は興味深い。プラトニック・シナジー理論(PS理論)の視点から考察してみたい。
思うに、私は以前、この三分化論は読んだことがある。アレントの著書からか、それとも、なにかの解説か、忘れてしまったが。とまれ、そのときは、それほど興味をもたなかったが、PS理論から解明できそうに思えるのである。 「労働/仕事/活動」の説明は以下を参照していただくことして、簡潔に分析してみたい。 1)「労働」は、物質的生活である。それは、同一性=物質を基盤とするので、-1であろう。 2)「仕事」であるが、それは、個の知的精神的な活動のことなので、内的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。 3)「活動」であるが、これは外的に、他者と共振することと考えられるから、外的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。ここでは、自己は外的な他者=差異と共振するのである。 問題は、2)の場合であるが、個の知的精神的活動が、近代合理主義である場合、それは、差異共振にならずに、同一性主義となり、1)と同様に、-1となるだろう。だから、アレントの三分化論が真に成立するには、差異共振理論であるPS理論の視点が必要であると考えられるのである。それによって、三分化が明確にされると考えられるのである。 また、3)についてtoxandoria氏が説明されているコミュニケーション(以下、コミュ)であるが、これも、同様だと思う。同一性主義すなわち近代合理主義に基づくコミュは、当然、同一性の交換に留まり、3)の実質はなくなり、1)と等価になると考えられるのである。だから、コミュに関しても、差異共振性が必要であると考えられるのである。 さて、因みに、私はコミュに関して、これまで違和感をもっていて、いつか解明しようと思っていたが、ここで少し考察したい。 都合で簡単に言うと、コミュは、同一性のコミュと差異のコミュがあると考えられる。近代合理主義/近代的自我のコミュは当然、前者である。しかし、民主主義のコミュであるが、本来、後者でなくてはならないが、ネオコン/ブッシュのイラク「民主化」、その他を見てもわかるように、同一性のコミュとなっていると考えられるのである。倒錯・転倒があるのである。有体に言えば、同一性民主主義になっていて、本来の差異民主主義になっていないのである。 結局、コミュは両者を明確に区別する必要があるということになる。同一性主義のコミュを同話・同言・同語とするなら、差異主義(差異共振主義)のコミュを差話・差言・差語と呼べよう。 直感で言うと、ギリシア悲劇に、差異のコミュの原型がありそうである。オレステイア三部作やオイディプス三部作やエウリピデスの悲劇等に隠れているようである。勿論、アリストファネスの喜劇にも隠れているように思われる。また、ある意味でシェイクスピアの悲劇等にもあるように思えるのである。 それは、先に、ゼウスとプロメテウスの和解で示唆したように、同一性と差異との調和に示唆されているだろう。-1と+1との調和である。それは、端的に、差異共振性によって可能になるのである。ギリシア悲劇や喜劇、さらには、シェイクスピア劇には、超越性が表現されているのである。神々である。これこそ、超越性である。ないしは、イデア性である。近代主義は、これを排除して、悪魔的破壊主義に陥ったのである。魔界としての西洋近現代である。PS理論は、創造的コミュニケーション理論でもあるのである。 ******************** 『ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)によれば、我われ人間の「活動的生活」(vita activa)の構成要素は「労働、仕事、活動」の三つに分けることができます。この「活動的生活」とは、我われ人間が、何らかの条件づけられた存在としてこの世に生まれた瞬間から周辺環境へ働きかける内発的な能力 のことです。そして、「労働」(labor)とは“我われが自らの身体の生物学 的プロセス (メタボリズム /新陳代謝 )への対応のために繰り返される活動”のことで、例えばそれは日常生活の衣食住を支える家庭内での活動などを指します。 いわば「労働」は人間と動物に共通する活動の一部であり、その特徴は“かぎりなく循環的で、かつ自然 的という意味で生物 としての人間に必然 的なプロセス”だということになります。一般に我われが馴染んでいる用語法では「労働」と「仕事」は殆ど区別がありませんが、アレントはこの二つの意味を峻別します。アレントによれば「仕事」(work)とは、「労働」が意味するところの“人間の個体維持のための消費”に抵抗しながら作用しつつ形あるものや諸制度・作品などとして、我われの死後にも継続して在り続ける「世界」(world)の材料を創り出す働きのことです。』 冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2) http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428/p1 toxandoria toxandoria 『toxandoria の日記、アートと社会』
2008年04月20日(Sun)▲ページの先頭へ
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置
テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義 どうも、私の心の中で、民主主義に対する疑念がむかむか蠢いている。有体に言えば、私は民主主義が好きではないのである。直感では、トランス・デモクラシーがありえる。 問題は、個・差異・特異性の価値の評価にある。封建時代は、君臣の上下関係が支配していた。身分制度である。しかし、近代は、個・差異・特異性を評価することを求めたと思う。しかしながら、それを平等という理念で表現したのだと思う。封建的上下観念に対して、平等的水平観念を提起した。 それはそれで、歴史的意義があるのである。しかし、いったん民主主義が成立すると、今度は、本来の個・差異・特異性の価値の評価が問題になると考えられるのである。 これは、民主主義では不可能である。何故なら、民主主義は個を平等と捉えているからである。思うに、チャンスを平等に与える点が民主主義の本来的なあり方ではないだろうか。多様な個人がいるが、それに対して、平等のチャンスを与える。これはこれで正しい。 しかしながら、平等のチャンスを与えるのは、個・差異・特異性が発展するためである。個の可能性を開花させるためである。最初は前提として、平等にチャンスを与えるが、それは、個・差異・特異性の価値を目指してのことである。 しかし、近代主義は、転倒していて、個・差異・特異性が発達せずに、近代的自我主義が生まれるのである。これは、個・差異・特異性を抑圧するのである。いわば、近代主義の自己否定性である。 思うに、この時点で近代主義ないしは近代民主主義は終末をむかえたのである。そして、ここでトランス・モダンへの転換が始まるのである。 これは、質的な転換である。近代の平等的同一性から差異性への転換である。これは、デモクラシーを乗り越えるもののように直感されるのである。だから、トランス・デモクラシーである。 問題は、制度である。当然、民主主義制度は乗り越えられることになるだろう。では、トランス・デモクラシー制度とは何だろうか。哲学的には、差異主義、差異共振主義であるが、政治的にはどうなるのだろうか。 差異価値のヒエラルキー(位階)がある。だから、差異価値の上位のものが指導する制度が好ましいのである。差異価値の下位の者は、差異価値認識が正しくできないだろう。 思うに、条件としての平等性を保持する民主主義体制は維持されるだろうが、それとは別に差異価値体制が必要になるのである。それは何か。そう、トランス・デモクラシーとはデモクラシーを包摂した高次元の制度という意味にとらなくてはならない。 やはり、差異共振主義である。これは、デモクラシーを包摂しているのである。すると、優れた差異を選択する制度が必要である。すると、当然、普通選挙は廃止となるだろう。選挙制度の差異化である。選挙・被選挙資格検定制度をつくる必要があるだろう。 つまり、政治・経済・社会・文化教育を課さないといけないということである。その検定試験に合格したものが選挙・被選挙資格を得るのである。 ******************* 近代合理主義・唯物主義・近代的自我主義の帰結すること★トランス・キリスト教西洋文明と新霊知文明 テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義 近代主義的世俗主義の帰結が、たとえば、現代日本の末世状況である。しかし、一部少数の人には、「超克」の志向があるが、思うに、大部分(末期人)は、これまで通り近代主義的世俗主義の道を歩んでいる。いったいこの悪化は何に帰結するのだろうか。 結局、没個の機械人間が蔓延して、携帯をやって、フリーターやニートをして、群れている世界となる。明らかに、日本は世界からは見放されて、馬鹿にされる。しかし、当人たちは、気がつかない、無関心である。 思うに、こんな絶望的日本に私はどうしているのだろうか。生活や探求のためとは言えるが、他に積極的な理由があるのだろうか。 思うに、私は、魂のことを言うが、東京ではほとんど絶滅状態である。魂は、東京等の大都市以外の地方の人たちに今でもあると感じている。それが、私が日本にこだわっている理由だろう。そうでなければ、私は、エクソダスして、他国に住むだろう。 ここで、哲学的な考察をすると、結局、魂の喪失とは、西洋文明の圧力が原因である。これは、デリダが説いたようにロゴス中心主義=同一性主義=物質主義なのである。だから、どうしても、魂を喪失する。キリスト教自体が、そういう形式をもっているのである。トランス・キリスト教によって、人類の古代以前からの叡知が蘇るだろう。この叡知をキリスト教が簒奪して、歪曲してしまい、悪魔的唯物主義になったのである。 そう、トランス・キリスト教西洋文明としての新叡知文明が生まれることになろう。 p.s. 思えば、ニーチェがしきりに価値転換のことを言っていたが、その通りである。キリスト教的西洋文明の物質主義的価値観から、新たな叡知価値観へとパラダイム・チェンジである。 ********************* トランス近代日本人:米国植民地主義と売国奴権力の彼岸へ:魂知性・霊知性の教養教育 テーマ:ニッポン亡国の凶相 以下の記事から、後期高齢者負担制度の法案が小泉政権において成立したということであるが、これも、いわば自業自得ではないだろうか。 魂知のある人間ならば、元小泉首相はパフォーマンス人間であり、誠実さがないことは直感できたはずである。私は、あの姿、あの話し方、言葉の内容(無内容ではあるが)、すべて胡散臭く感じた。それが認識できずに、投票したというのは、多くの日本人に、魂知性が欠落していること、即ち、亡魂人になっていることを証明しているのである。魂知性があれば、外見と内面との相違が認識されるのであり、外見を造っているかどうかは、直感的に認識されるのである。 確かに、現在の後期高齢者負担制度は、弱者虐待制度で、日本は文化国家から野蛮国家へと逆戻りしたとは言える。しかしながら、元小泉首相を支持した日本人が多数いるということ自体が、野蛮国民(ダメ日本人)の証明である。日本人は、ルビコン川を渡ってしまったようだ。 私は、賎民と知民に分けるべきではないかと思う。近代民主主義は乗り越えられなくてはならない。精神知性のない人間に選挙権を与えるのは、共同体破壊を起すのである。【p.s. やはり、近代OSを廃棄して、トランス・モダンOSへと変換することが必要なのである。今は、末法期である。トランス・モダン知性への転換期である。】 いろいろ批判があるが、結局、近代主義が腐敗してしまったことを確認することになる。魂の知性をもったトランス・モダン文化へとシフトする必要がある。 大局的には、アメリカ植民地主義と売国奴権力による洗脳政策から、覚醒する必要があるのである。それには、戦後を清算する必要がある。何が積極的価値であり、何が否定的な価値であるのかをである。 一言で言えば、日本人は、魂知性ないしは霊知性を形成する必要がある。教養教育の基盤がここにある。 ******************** 「 報道が進むにつれて、後期高齢者負担制度の正体が明るみになってきた。 このとんでもない改正法案は、当初より野党の強い反対があった。それを、2年前に、強行採決までして小泉政権が成立させたのだ。 野田毅など、法案の内容を少しでも知っている自民党議員は、こんなひどい法律はない、と反対していた。それでも強行採決して成立させた。 強行採決した小泉元首相も、2年後にそれを実施させられる福田首相も、厚生労働省がいじくりまわしてきた積年の無責任な医療保険制度の矛盾を、自らの頭で理解し、吟味することなく、官僚に踊らされて追認するだけであった。それが自民党政治であった。 」 http://www.amakiblog.com/ archives/2008/04/16/#000823 天木直人のブログ ********************** こんどは「国民年金料」パート天引きか!? 2008年04月20日06時39分 Yahoo! ブックマーク 【PJ 2008年04月20日】− 4月17日朝日新聞の報道では、厚生労働省は国民年金の保険料未納を減らすため、パート労働者の保険料を事業主が給与から「天引き」で徴収する仕組みを導入する方針を固めた。 4月1日から施行された「後期高齢者医療制度」は、保険料を年金から天引きすることになったが、「介護保険料」や「所得税」も同時に天引きするので、高齢者には非常に負担が重い、と不評である。そして今度は国民年金保険料のパート天引きである。 「消えた年金記録問題」も解決しないうちに、保険料だけはしっかり徴収しようとする社会保険庁の姿勢には、国民を混乱に陥れた反省の姿はみじんも見られない。それどころか、「年金支給」を確定する前に、「とれるものはとっておこう」と、納付率の低下している保険料を“うむを言わせず”徴収しようと言うのだから、パート収入で辛うじて生活を保持している人々には“血も涙もない”制度だ。 http://news.livedoor.com/article/detail/3605981/ ******************** ナオミ・クライン氏のことを書いた時トラックバックを頂いた「とむ丸の夢」から、アンチ小泉法についてトラックバックを頂いた 2008.04.20 Sunday 聞き耳を立てる とむ丸の夢 アンチ小泉法、そして「最後っぺ」発言 2008.04.19 http://blog.kaisetsu.org/?eid=647081 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
2008年04月18日(Fri)▲ページの先頭へ
以下は、Kaisetsu氏がゲゼル的自由経済を鋭敏に説いた論考である。
テーマ:差異通貨・貨幣論
以下は、Kaisetsu氏がゲゼル的自由経済を鋭敏に説いた論考である。土地を流動化すること、これは、確かに、減価通貨の発想なのである。思うに、地域通貨の発想は、ゲゼル的自由経済の部分的適用に過ぎないと考えられる。 土地を所有して、土地の値上がりとその利子で利益を得られる発想こそ、自己認識方程式から言うと、⇒-1の発想ではないだろうか。乃至は、+1⇒+1⇒+1⇒・・・である。 つまり、資本主義的真正な利益とは、差異共振的生産なのであり、それを土地所有による利益が疎外すると考えられるのである。市場経済も一つの差異共振性なのである。 後でできれば、補足したい。 p.s. ただし、私が問題に感じているのは、アメリカの場合、新自由主義で、共同体的資本が衰退してしまい、荒廃したことである。このような事態が今日の日本で起きている。 いったい何が問題なのか。今思いつくのは、自由主義的市場主義と共同体主義的民主主義が、絶対矛盾的に一致することである。この「絶対矛盾的自己同一」の力学にこそ、真の生成的ダイナミズムがあると思われるのである。一言で言えば、差異共振主義である。自由主義である、と同時に、共同体主義である、ということである。 ********************** 減価する貨幣論については・・・ グッド 減価する通貨が導く近代超克への道 時系列による貨幣の原価主義によって、貨幣の避退が不経済になる。これは、貨幣の本質である「流動性」の促進であり、貨幣の不動産化の禁止である。 http://blog.kaisetsu.org/?day=20080418 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
2008年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)
テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築 グローバリゼーションによって、独立(sovereign)国民国家に取って代わって、「市場国家」が出現しているという考えをフィリップ・ボビット(米国英語なら、バビット)が述べているということであるが、どうだろうか。 自由主義的発想であるが、これは、私見では、巨大資本主義的自由主義であり、大資本・中小資本は、淘汰される可能性が強いものである。私は、民主主義的自由主義ないしは共同体主義的自由主義を唱える。しかも、トランス・モダン民主主義的自由主義、トランス・モダン共同体的自由主義である。 だいたい、イラク占領を肯定しているというのが、間違いだと思う。いかにもアメリカ主義的巨大資本主義的自由主義である。 問題は、民主主義の理念にある。それを、近代主義のままにすると、形式主義を免れない。普通選挙を行い、代議制を敷くのである。これは、形式的な民主主義的法制を意味するのであり、民主主義の実質が巨大資本的自由主義に破壊されるのである。だから、トランス・モダン民主主義的自由主義である。 トランス・モダン民主自由主義(共同体自由主義)とは、個・差異・特異性の立場に立って、自由な共同体を創造・構築することを目指している。だから、巨大資本的自由主義に対しては、政治的規制を設けることになるだろう。そして、自由共同体資本への転換を促すものである。だから、政治の独立機能が重視されるのである。 このためには、哲学が必要である。近代主義を乗り越えた哲学である。それを基本にしたトランス・モダン政治が一つのセンターとなると考えられる。 自由主義経済中心主義から、自由共同体政治経済主義へと転換するのである。簡単に言えば、経済中心主義から政治経済主義への転換である。近代経済主義からトランス・モダン政治経済への転換である。 War Plans By NIALL FERGUSON Published: April 13, 2008 ・・・・・ In his last book, “The Shield of Achilles” (2002), Bobbitt advanced a bold argument about the history of international relations since the time of the Treaty of Westphalia (1648). His central argument was that, in the aftermath of the cold war, the traditional post-Westphalian ideal of the sovereign nation-state had become obsolescent. In the increasingly borderless world we associate with globalization, something new was emerging, which Bobbitt called (and continues to call) the “market-state.” This state’s relationship to its citizens resembles that between a corporation and consumers. Its counterpart ― and enemy ― is the terrorist network. The central problem raised in “The Shield of Achilles” was how far the market-state could and should go to defeat such networks, particularly when they were in some measure sponsored by traditional nation-states. ・・・・・ http://www.nytimes.com/2008/ 04/13/books/review/Ferguson-t.html ?_r=1&8bu&emc=bua1&oref=slogin ********************* 検討問題:諸テーマ テーマ:検討問題 1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教であれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法典・法律であれ、科学であれ。 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性を統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。 p.s. 先ほど、人理という言葉が浮かんだ。考えたら、どうして、これまで、人法もそうだが、この言葉がなかったのか不思議である。仁義、人道、人徳、人情等では、今日では、いかにも古風である。人文科学とは、人理学ないしは人法学となるべきである。これに基づいて、諸宗教、政治理念等を批評できるようになるだろう。例えば、イラク戦争は、イラクの民主化という大義があるが、しかし、人理・人法の見地から見たら、それは、明々白々に邪道・邪悪である。 2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。 p.s. 問題は、差異を劣位を置く同一性主義の優越主義の力学を再考したい。 3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。 4)Media Pointと身体との関係について 5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。 6)-1の問題。 7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入 8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性を基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。 換言すると、フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきが浮かぶ。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、繰り返しになるが、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。【p.s. 思うに、後期ハイデガーは、-1の存在(身体)の闇からMedia Pointの開きを垣間みたのかもしれない。】 p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。 9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。 10)自由主義経済とは、グローバル経済では、詰まるところ、巨大資本主義的自由主義であり、大資本、中小資本にとっては、淘汰される自由主義である。結局、資本の多寡が権力となっているのである。もっとも、単に量的なものだけでなく、巨大資本とは、質的な価値においても、大資本・中小資本を凌駕しているのである。この点をどう見るのか、である。
2008年04月09日(Wed)▲ページの先頭へ
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である
テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア この問題は、さまざま説明されているが、真相がわからない。とまれ、状況・文脈を考えよう。 1)アメリカは中国と経済的友好関係を維持したい。 2)中国は、アメリカと組んで経済開発を行いたい。チベットには、地下資源がある。 3)英米中心主義は、中国を押さえたい(田中宇氏)。 4)中国はオリンピックを成功させたい。 5)欧米の民主主義イデオロギーがある。 6)欧米には、オリエンタリズム(西洋中心主義)がある。 7)チベットは、欧米の民主主義派の支援を受けている。チベットは自治を行いたい。 8)中国は、少数民族の独立を抑えたい。覇権主義。暴力で押さえつける。 ざっとあげるとこのようになる。何がわかるだろうか。一つは、中国の反民主主義的支配があり、一つは、欧米の利害関係があり、一つは、チベットの自治の動きがあるということであろう。大きな問題の一つはアメリカの二股膏薬性・二枚舌である。自己中心主義である。 私は中国の暴力的支配に、確かに問題があり、それは、非難されるべきであると思うが、それ以前にアメリカの二股膏薬、覇権的ご都合主義が一番の問題ではないかと思う。三番目には、欧米の民主主義に基づくオリエンタリズム的イデオロギーである。もっとも、正しい面は否めないが。 アメリカが自分の経済的都合から、中国の政治を甘やかしたのが一番問題だと思う。イラクへの民主化を言うならば、中国や北朝鮮への民主化を要求する必要があるにもかかわらず、それには蓋をして、経済的利益から友好性を結んでいることである。つまり、自国中心主義的戦略に問題がある。 理論的には、巨大資本主義的自由主義に問題があると言えよう。つまり、経済中心的自由主義に問題がある。必ず、民主主義的自由主義を理念的にもつ必要がる。これは、政治がチェックする必要があるのである。 ということで、現段階では、私見では、本件において、一番問題があるのは、アメリカの覇権的ご都合主義的外交であるということになる。 Proteste gegen Chinas Tibet-Politik San Francisco wappnet sich für Fackellauf San Francisco bereitet sich auf Massenproteste beim olympischen Fackellauf vor. Heute soll das olympische Feuer durch die Stadt getragen werden. Schon gestern protestierten dort mehrere tausend Menschen friedlich gegen Chinas Tibet-Politik. Von Jan Tussing, HR, ARD-Hörfunkstudio Los Angeles Über 500 Polizisten standen bereit, als die olympische Flamme in der Nacht zum Dienstag das amerikanische Festland erreichte. Es besteht höchste Sicherheitsstufe, denn der Druck auf die Stadt San Francisco wächst stündlich. Tausende von Demonstranten haben sich in San Francisco mit Protestplakaten und tibetischen Flaggen eingefunden. Pro-Tibet Demonstranten in San Francisco (Foto: dpa) [Bildunterschrift: Auch gestern gingen im Stadtzentrum von San Francisco wieder tausende Demonstranten auf die Straße. http://www.tagesthemen.de /ausland/olympia122.html ******************* 「気」とは何か:超越エネルギーと精神生命とMedia Point Intelligence テーマ:新霊性new spirituality 「気」とは何か。これは、実は、簡単に誰でも感覚することはできるのである。合掌するようにして、両手の指先を接近させて、先端を意識するのである。そうすると、磁力のようなものが感じられるだろう。これが「気」だと思われる。思うに、電磁気力である。あるいは、生命電磁気である。 私は先に、「気」を同一性エネルギーと考えた。つまり、同一性=物質を形成するエネルギーである。しかしながら、同一性=物質は、それ自体では、生命にはならないだろう。生命体は単なる同一性=物質ではない。 Media Pointの様相を考えよう。ここでは、垂直の超越エネルギーが水平の現象エネルギーへと変換される。いわば、質的エネルギーを量的エネルギーへと変換させる回路がそこにある。 これは、単に物質現象の説明にしかならないだろう。生命現象を説明できないだろう。では、生命現象とは何か、である。 作業仮説ないしは思考実験であるが、生命と物質との違いとは、差異の様態に違いにあるのでではないだろうか。即ち、物質の場合は、差異⇒同一性であり、同一性で終結するのであるが、生命の場合は、差異⇒同一性⇒差異という循環回路があるのではないだろうか。 換言すると、物質は直線的であるが、生命は回帰的であるということである。物質の場合、差異が同一性化すると、そこでエネルギーの終焉するのであるのに対して、生命に場合は、差異が同一性化した後も、差異のエネルギーが残っていて、それが、新たに、同一性化を発現させるように思えるのである。わかりやすく、比喩的に言えば、差異が種であり、それが、同一性化するとは、生長することであるが、それがいったん終了すると、種を結実する。これが、いわば、再差異化である。そして、これが循環するのである。差異が同一性に対して過剰なのが、生命ではないだろうか。 だから、ここで「気」について考えると、それは、過剰な差異エネルギーのことではないかと考えることが可能である。思うに、それは、物質を有機的に秩序化する情報エネルギーでもなくてはならないだろう。直感では、差異から同一性への変換のプロセスが「気」ではないだろうかと思われるのである。いわば、精神と物質との中間態が「気」のように思われるのである。即ち、「気」とは、純粋な精神でもないし、純粋な物質でもないが、精神に関係するし、物質にも関係すると考えられるのである。おそらく、量子に近いもののように思えるが、結局、両義的であり、精神の側面と物質の側面をもつということである。おそらく、造語した方がいいのかもしれない。とりあえず、メディア子(し)としよう。メディア子としての「気」である。それは、自己認識方程式では、⇒に相当するだろう。 ということで、「気」=生命についての検討はここで終えることとして、次に、少し、広義の情について考察しよう。私が考えているのは、シュタイナーのアストラル体である。これは端的に、広義の感情である。 直感で言えば、精神エネルギーである。すると、それは、超越エネルギーということになるだろう。そうならば、自我ないしは自己はどうなるのだろうか。 自我とは、連続的同一性意識である。物質的意識である。それに対して、自己とは、差異共振的意識、精神的意識である。 だから、情と自我/自己との違いは、エネルギーと意識の違いであると言えようか。言い換えると、エネルギー様態と知的様態の違いということになる。 ならば、エネルギーと知とはどう異なるのだろうか。知ないしは合理性・理性とは、思うに、差異共振性と同一性との緊張関係にある認識であり、差異共振性を内包した同一性認識のことではないだろうか。つまり、差異共振的同一性認識が知ないしは合理性・理性のことではないだろうか。言い換えると、自己的自我認識である。 ここには、差異共振エネルギーは包摂されているのである。つまり、情は包摂されているのである。そうすると、知・合理性・理性は、情を包摂した高次元的な認識様態と言えるのではないだろうか。 問題は知・合理性・理性の高次元性であるが、それは、差異共振エネルギーがイデア・エネルギー、即ち、高次元エネルギーであるから、超越的なイデア界とその理念知を仮説したときに、そのエネルギー(情)が包摂可能となるだろう。 このイデア界の理念知であるが、それは、エネルギー(情)に基づく、それに即した、仮説された高次元的知であり、この知と同一性の認識(現象認識)とが結合・融合したものになると考えられる。垂直性と水平性を結合させた知であり、端的に言えば、Media Pointの知(インテリジェンス)、Media Point Intelligence(略して、MPI)と言えるのではないだろうか。比喩的に、十字知性でもいいだろう。【ここで、バラ十字を想起した。七つの薔薇の花と黒い十字架との結合である。七次元ということだろうか。七次元とは、根源の三次元[(+i)*(-i)乃至は三柱の神]とMedia Pointの四元性(+i, -i, +1, -1)を足したものか?】そして、これが、新知(性)・新理性・新合理性であろう。 これで、アストラル体である超越エネルギーと自己/自我知であるMedia Point Intelligenceとの違いを説明できたとこととしたい。 最後に、まだ、不鮮明な感のある「気」の解明であるが、もう少し説明を進展させるならば、段階を設けると明快になるように思われる。即ち、生命エネルギーとしての超越エネルギーの段階と精神エネルギーの超越エネルギーの段階を分けることである。 最初に、おそらく、生命エネルギーとしての超越エネルギー振動があり、それが、「気」となる。そして、その基盤の上に、新たに精神エネルギーとしての超越エネルギー振動が発動すると仮説すればいいと思われるのである。おそらく、両者は振動の質が異なるように思われるのである。簡単に言えば、生命エネルギーの振動がより低く、精神エネルギーの振動はより高いのでではないだろか。今はここで留めたい。 ************************ ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の中の情動に関する概念と、超越性との関係について テーマ:検討問題 この主題は、つまり、ドゥルーズ&ガタリ(以下、D/G)の情動論とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の超越性との比較は、ポスト・モダン(ポ・モ)の探った領域を確認することを意味するのである。 D/Gの『哲学とは何か』は、凝縮され過ぎて、説明が不足しているような箇所が多いが、とても興味深い書である。 とまれ、これまで、D/Gのポスト・モダンの差異を連続的差異として捉えて、自己認識方程式では、-1と先に考えたが、どうも、情動論を見ると、そこには、即非に近いものがあると思われるのである。 たとえば、生成変化論があるが、それは、端的に、差異と差異の即非論によって明快に説明できると思われるのである。女性、子ども、動物に生成変化するというが、それは、即非論的である。 しかしながら、根本的に、連続論であるのが欠点である。そこでは、フッサールや現象学の超越論性が批判されている。そして、内在論を説くのである。即ち、内在平面の仮説を説くのである。 だから、PS理論の観点から見ると、D/GはMedia Pointを連続化させているように思われるのである。つまり、超越性が連続化して、内在化されていると思われるのである。 つまり、ゼロ度である。ゼロ度のエネルギー空間として、内在平面を仮説しているように思えるのである。差異の不連続性を消去してしまった空間である。 そうすると、これは、ほとんど、ヘーゲル哲学になるように思われるのである。差異の連続化が同一性であり、それは、ヘーゲルの観念形式となるだろう。 それに対して、(後期)デリダの場合は、超越性は否定しつつも、ゼロ度の不連続性を説いていると思われるのである。言うならば、超越性を否定したMedia Pointである。 だから、D/Gの超越性とデリダの不連続性を結びつけると、哲学としてのPS理論にほぼなるように思われるのである。 ************************ 同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論 テーマ:差異と同一性 これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。) つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論や量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアとイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。) それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。 思うに、プラトンのイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。 では、最後に、ヒンズー教やインド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。 まやかしとしての現象という考えでもある。仮象と幻想は似たものがある。しかしんがら、たとえば、オフィスの窓外に見える桜の木であるが、これは、仮象であるが、さらには、幻想であるのだろうか。 幻想とは、空想的であり、非現実的であろう。しかし、桜の木は仮象とは言え、現実的である。だから、幻想としての同一性ということは言えないと思われるのである。 補足として、仮象の同一性について考えると、仮象は変動・流転・流動等するので、流動仮象とも言えるだろう。だから、仮象としての同一性は、生成流転するものとなる。だから、幻想とまでは言わないしても、幻的とは言えるだろう。そうすると、仮幻象としての同一性となるだろう。 この意味では、仮象はマーヤーと言えようか。 |