同一性中心主義の解体へ向けて:日本語言論と神仏文化のルネサンスへ向けて






2008年02月14日(Thu)
同一性中心主義の解体へ向けて:日本語言論と神仏文化のルネサンスへ向けて
我々が陥っている近代主義の「ブラックホール」からのエクソダスの方法について述べたい。
 差異と同一性については、うんざりするほど述べてきたが、また後で別稿で言いたいと思うのであるが、ここでは、言論の最重要性について述べたい。これは、同時に、メディアの問題であるし、また、現代日本語の有り様の問題でもある。
 日本社会が今日おそろしく停滞し混迷していて、危機的状況であるのは、一つは言論が生きていないことにあると思う。幸い、ブログというミクロ・メディアを今日手にすることができたので、自由に言論を発することができるようになり、これは、「民主主義」の大きな前進である。
 しかしながら、ブログのある種の限界も見えてきているだろう。それは、多様なブログが存在しているが、社会に重要な提言をするブログが一般には注目されずに終っているということである。つまり、ブログのパブリック性の問題である。とまれ、これについては、ここではこれ以上述べない。
 私は今日、日本社会・政治・経済・文化が途方もない危機に陥っていると考えている。一言で言えば、知的麻痺状態である。文化的痴呆状態である。この根因の一つには、言論が衰退していることにあると思う。(言論をここでは広義にとる。文学も言論として取りたい。)
 そう、言葉、日本語、口語・文章語の衰退でもある。つまり、言論と言語・言葉の衰退が今日生じて、日本総体の衰退の原因ともなり、またそれと平行していると考えられるのである。
 私事であるが、最近、古い日本語を読み、その鮮烈さに感銘を受けたのである。岡倉天心の『茶の本』(村岡博訳:先にも述べたが、これは達意の名訳である)、徳富蘆花の『自然と人生』(一部)、宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」等であるが(さらに以前には、聖書の古文訳を読み、その生命に驚いた)、それぞれ、今から見ると、確かに、古風であるが、それでも、今日に通じる生き生きとした日本語である。日本語の古典である。
 どれも、戦前であることに注目すべきであろう。三島由紀夫の文体よりもはるかに律動があるのである。おそらく、日本人は、戦後において、精神を喪失したのである。そう、生きた言論を生むのは、精神である。魂であり、心である。それを、日本人は喪失したのである。
 三島由紀夫がいみじくも言った「断絃の時」とは、戦後において生じたと言えよう。日本人の精神の死である。
 これについては既に何度も述べたので詳述しないが、一言いえば、日本の伝統文化である神仏文化が否定されたことであり、近代合理主義が金科玉条になったことである。
 そう、近代科学主義が戦後日本を支配し、今日も支配しているのである。言い換えると、唯物論が支配しているのである。これは、金融資本主義を跋扈させるのである。自由主義経済社会、自由主義・民主主義社会とは、本来、個(己・自己・自)の自由な発展に基づく社会である。
 しかるに、唯物的科学・技術が支配的であると、それは、個を自我に限定して、近代的自我に変質させてしまうのであり、それが戦後・現代日本に生じたことだと考えられるのである。
 個(以下、個己)の自由な発展ではなく、近代的自我の我が侭が中心化されてしまったのである。もっとも、これは、日本だけでなく、世界において大なり小なり起ったことと考えられる。
 西洋におけるルネサンスとプロテスタンティズムは、自由な個己の勃興を意味したのであり、それが、明治維新日本にも文化的に押し寄せたと言えよう。しかしながら、近代西洋自体、文化的に混乱して、近代合理主義と個己主義とが混交していたのである。それが日本に押し寄せたのである。
 強く指摘すべきことは、明治維新以後の日本において、精神文化が芽生えたことがあげられるだろう。ある意味で明治日本とは、日本文化ルネサンスであったと考えられるのである。漱石を始め、優れた文豪が生まれ、また、宗教・哲学・科学等においても独創的な探求が生まれた。
 簡潔に言えば、明治維新後において、日本文化ルネサンスが生まれたのであり、それは、日本的個己主義が創造されたのである。そして、それは、実は、差異共振主義であったと考えられるのである。宮沢賢治の思想はコスモス的であるが、それは、宇宙的差異共振主義、宇宙的差異共同体主義である。
 問題は、明治維新後の日本文化ルネサンスとは別に、軍国主義が発生して、自国や外国を地獄に突き落としたことである。戦後、連合国占領軍によって、「日本改造」が行なわれて、日本文化のエッセンスである神仏文化が根こそぎにされたのである。それは、恐るべきヴァンダリズムであったと言えよう。
 戦後日本とは、肝を抜かれた日本であり、文化的に死せる日本であったと言えよう。もっとも、戦後民主主義は、それなりに市民・国民に希望を与えた。しかしながら、自国の文化を喪失した上での民主主義であり、それは浅薄なものである。民主主義は本来西洋文明の土壌の上で発達したものである。
 とまれ、近代主義という限定があったとは言え、民主主義は、個己を認める政治理念であると評価することができるだろう。しかしながら、今日、近代主義が飽和した状態において、民主主義は生ける屍になってしまった。
 個己主義を肯定するならば、近代主義を越えて、トランス・モダンへと進化する必要があるのである。それは、ある意味で、明治維新・日本文化ルネサンスへと螺旋的に回帰することになるだろう。神仏文化を取り戻したトランス・モダン・ジャパンになるだろう。
 そう、これは、当然ながら、近代科学主義・唯物論を超越することになるのである。また、これは、現代の同一性交換価値中心の金融資本主義を超越することになるのである。当然、戦後を支配した、自民党近代主義を超越することになるのである。公共投資利権政治を超越することになるのである。
 このトランス・モダン・ジャパンへと進化するには、ここで私が一番主張したいことである日本語言論のルネサンスが必要なのである。言葉、言葉、言葉である。言葉はいわば思想・精神・知性の容れ物であるが、いわば、相即不離である。言葉の衰退は思想・精神・知性の衰退であり、逆も同様である。
 今日、同一性中心主義である金融資本主義が権力化している。それは、自由な言論を封殺するものである。また、メディアを買収して、御用記事を書かせるのである。そう、金融資本主義という化け物が支配しているのである。これは父権的同一性中心主義の帰結である。
 これを突破するためにも、自由な言論が必要なのである。金権力は暴力で支配するのである。その支配に対抗するには、言論のルネサンスが必要があるし、日本語のルネサンスが必要であるし、日本伝統文化である神仏文化の復興が必要なのである。
 それは、当然、唯物論の超克でもある。戦後の唯物科学教育を乗り越える必要があるのである。心、魂の死からの復活が必要なのである。そう、日本語の古典に帰る必要がある。温故活魂である。魂言復活である。


   




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カレンダ
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