民主主義とは何か:プロト・デモクラシーと差異共振主義:トランス・デモクラシーとMedia Pointへの回帰:新神道的差異共振政






2008年02月11日(Mon)
民主主義とは何か:プロト・デモクラシーと差異共振主義:トランス・デモクラシーとMedia Pointへの回帰:新神道的差異共振政
民主主義とは何か:プロト・デモクラシーと差異共振主義:トランス・デモクラシーとMedia Pointへの回帰:新神道的差異共振政

民主主義は、おおまかに言って市民主義である。しかし、市民とは、何かである。自由を求めて、対話する個人が市民であろう。そして、自由とは、第一義的には、封建制からの自由であった。これは、自由主義を意味した。この自由主義が問題である。結局、自由な個人を尊重する思想であるが、個人が自我なのか個(差異)なのか区別がついていないのである。結局、近代とは何かの問題である。
 個人と個とは異なる。明確に区別するために、個を差異、差異人、差異者、差異家と呼んでいいだろう。結局、自由主義は、自我自由主義と差異自由主義とが、混淆しているのである。前者は、金融資本主義になった。しかし、今日、時代の進展から、前者を乗り越えて、後者を価値評価とすべき時代になったと言えよう。自我自由主義とは自我中心主義・利己主義である。
 では、本論に戻ると、民主主義は、自我民主主義と差異民主主義が混淆していると言えよう。自民党は前者である。そして、後者は前者を乗り越えたものである。これは、超越的民主主義である。しかし、民主主義の言葉を使用すべきなのだろうか。一人一人は、平等というよりは、差異である、他者である。他者=差異に対して、差異共振主義が機能するのであり、決して、平等主義ではないだろう。
 例えば、新しい大阪府知事に対して、平等に対応すべきなのか。おそらく、法律的には、平等の扱いを受けるだろう。しかしながら、実質は、知事にふさわしくない人格である。人品卑しいのである。これはどう見たらいいのか。つまり、民主主義には、本来、精神貴族的価値が入っているのである。差異価値が入っているのである。平等原則は、この貴族的価値が前提のことなのである。つまり、差異共振価値が前提で、平等原則が生きるのである。精神貴族的価値が前提で平等原則が生きるのである。
 だから、民主主義を進展させるには、差異化する必要があるのである。差異共振化する必要があるのである。あるいは、超越化が必要なのである。だから、少なくとも、差異共振的民主主義ないしは超越的民主主義という必要があるのだろう。アメリカの詩人ホイットマンの唱えた民主主義とは、そのようなものと考えられる。
 それは、言い換えると、Media Point的民主主義である。そう、私としては、心人主義ないしは心民主義である。後でさらに検討したい。

p.s.  自由であるが、これは、文字から見ると、自(みずから、おのずから)に由るということである。みずから、おのずから、とは、実は深い意味がある。つまり、それは、自己の源泉からということであり、魂や心からということである。正しく言えば、Media Pointからである。とまれ、自己由来が自由である。今日、自我由来を自由と考えているのである。自我と自己は絶対的に異なるのである。自我は頭中心主義であるが、自己は肚に土台があるのである。この点も後で述べたい。

p.p.s. これは、換言すれば、プロト・モダンの問題である。ルネサンスとプロテスタンティズムの問題である。プロト・デモクラシー、原民主主義は、優れたものであった。それは、プロト・モダンとしてのルネサンスやプロテスタンティズムがそうであることと同様である。
 そこには、Media Pointの純粋なエネルギーが作用・作動していたと考えられる。しかるに、精神・意識の構造から、それが、自我同一性へと帰結したのである。近代的自我・近代合理主義へと帰結したのである。これは、デカルト哲学にも見られる事象であろう。つまり、コギト哲学とは、本来、Media Pointから発していたが、それをデカルトは、自我同一性へと限定して言ったのである。特異性としての個から、自我同一性への近代的自我へと展開したのである。
 結局、エネルゲイア(Media Point)はエンテレケイア(自我同一性)に帰結して、前者が忘却されたのである。民主主義も、初期においては、Media Pointのエネルゲイア(差異共振主義)をもっていたが、それが、自我同一性平等主義へと帰結したのである。つまり、起源はMedia Pointなのである。超越的エネルギーなのである。それを、理念化したのが、民主主義である。しかし、その理念化は不十分なのである。民主主義は、乗り越えられて、差異共振主義へと進展すべきである。トランス・デモクラシーである。

3p.s. Kaisetsu氏が新たな王政復古を唱えられているが、これは、実際的には正しいだろう。何故なら、多くの「市民」とは、超越性、差異共振性が理解できないからである。民衆は、一般に、自己と自我の区別がつかないのである。自己や差異共振性を表現する政治体制が必要となるだろう。それが、王政ということなのだろう。精神貴族価値があることを「市民」に提示するには、実際的に、そうするしかないだろう。民衆は一般に目に見えるものしか信じないからである。偶像崇拝者だからである。新多神教を体現する政治があっていけないのか。米国は政教不分離の国である。キリスト教的民主主義の国である。
 新神道国家日本があってもいいわけである、理論的には。新天皇制があってもいいわけである。民衆は救世主を求めるのである。問題は、差異共振的救世主が必要であることである。善悪二元論的な救世主ではないのである。
 この新神道政治とは、形式的には民主制を維持するだろう(神道的民主制)。しかしならが、実質では、差異価値を重視する。つまり、差異価値を基準として、選挙権・被選挙権を付与することになるだろう。つまり、民主制の資格試験を設けることになるのである(神道的差異民主制、乃至は、新神道的差民主義)。とまれ、後でさらに検討したい。

4p.s. 新神道的差異共振政である。


   




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カレンダ
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