芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来






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2010年08月16日(Mon)
芸術作品の成功の基盤:PS理論的トランス・モダン美学:トランス・モダン進化の降臨的襲来
芸術作品、例えば、文学作品が成功していると判断できる基盤とは何だろうか。それは、結局、追体験できることにあるのではないだろうか。そして、追体験ないし体験の基軸にあるのは、Media Pointである。理論的には、そうであるが、追体験、体験における具体性とは何なのか。
 それは、感覚、知覚に基づく経験的表現ではないだろうか。単に、観念、概念、知性による叙述ならば、それは、思想や哲学にはなっても、芸術作品には、当然ならない。
 では、感覚的な体験的な表現の何が芸術の本質なのか。これは、やはり、Media Pointの意義を考えざるをえない。芸術とは、感覚・追体験的にMedia Pointの様態を表現していると思われる。
 ただ単に、感覚的追体験的な表現だけでは、すぐれた芸術にはならない。平板な凡庸な作品になる。そこに、Media Point的様態がなくてはならないのである。Media Point的感覚体験的表現があることに拠り、作品がいわば、生きる、息吹をもつのである。生空間が生まれるのである。それにいわば共感し、感動感銘を覚えるのである。
 そう、Media Point的な感覚体験的表現は、読者、鑑賞者、視聴者をMedia Pointを感覚追体験的に解放すると考えられるのである。つまり、日常において、一般者は、物質的感覚知覚の世界に生きていて、いわば、Media Pointを閉じているのであるが、日常生活を離れて、上質の芸術作品に接することで、閉じられていた一般者のMedia Pointが解放されて、いわば、再生するのである。これは、作品のもつ凸i#凹iの差異共立エネルギーが放出されるからだと考えられる。
 日常生活は、差異共振的同一性(物質)的な力動が支配するが、芸術作品の享受においては、潜在的な差異共立エネルギーが放出されるのであり、それが、美ないし崇高的感銘・感動を生むと考えられる。言い換えると、即非的な追体験が味わうのである。
 単に三次元的な感覚体験では、浮薄なものしか得られないが、Media Point的感覚体験的表現では、深い、高い境地を得られるのである。そう、今では、それが、高次元的表現であると明確に説くことができるのである。あるいは、心精的表現である。シュタイナー的に言えば、感覚―超感覚的表現ということになる。
 また、以上のことは、芸術的普遍性を意味すると考えられるのであり、PS理論的美学、トランス・モダン・イーセティックが形成されたことになるのである。
 そう、Media Point的感覚体験的表現とは、高次元的表現であり、それは、超越光的表現である。ここから、芸術において、ポリフォニー(対位法)がなぜ核心的か簡単に理解できるのである。これは、音楽、美術だけでなく、文学においてもそうである。代表的作家は、音楽ならばバッハ、美術ならばルネ・マグリット、文学ならばD. H. ロレンスである。これは、芸術・美学の相対性理論と言えよう。ただし、差異共立が前提である。
 さて、最後に簡単に、トランス・モダン・アート(多様な芸術を含める)の創造について触れよう。
 結局、近代という時代において、すぐれた作家は近代合理主義に対抗して、Media Point的表現を志向したと言える。(他の領域においても、Media Pointの探究が為されたと言える。)つまり、トランス・モダン的志向性をもっていたのである。とりわけ、20世紀初期、前期の作家に見ることができる。しかしながら、文学史等では、それらをモダニズムという様式概念に括っている。これは、明らかに誤謬、錯誤、倒錯である。「
 それらは、トランス・モダニズムと呼ぶのが適切なのである。それは、後のポスト・モダニズムをはるかに超えた芸術表現であると言える。結局、モダニズムとは何かということになる。それは、端的に言えば、トランス・モダンの表現衝動がモダンの表現と激突して生まれた芸術表現様式であると考えられる。だから、表面的に見ると、モダン的表層があり、それが、斬新なために、モダニズムと呼ばれたのではないだろうか。
 よくモダニズムの断片性やモンタージュ性(パスティーシュ性)について言われるが、それは、根源にMedia Pointの絶対的差異性ないし絶対的他者性があるからであり、意識を不連続化する傾向の表出として、それらを見ることができよう。あるいは、神話的志向であるが、それも当然、Media Pointの高次元性がそれを志向したと考えられる。この点から、また、シュルレアリスムやダダイズムを考えるべきである。
 日本では、三島由紀夫や大江健三郎もその視点から見るべきである。そして、宮沢賢治はこの視点からのみ、明確に理解されるのである。そして、折口信夫の奇蹟的な『死者の書』もこの視点から理解可能である。つまり、近代・現代的文学とは、トランス・モダン的志向を胚種としてもつ文学であると言える。
 今日、モダン/ポスト・モダン的な物質主義が支配的なために、モダニズムのトランス・モダン性がまったく理解されていないのである。近代合理主義、唯物論が悪魔的に支配しているのである。
 とまれ、今や、リーマン・ショックによって、近代主義が終焉したと言えるのであり、誤解されてきたトランス・モダン芸術が評価される時代となったのであり、また、新たなトランス・モダン・アートが創造される時代となったということができるのである。
 そう、たとえば、レディー・ガガは、Media Point的表現によって、トランス・モダン・シンガーアーティストと言えよう。
 

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