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2007年11月04日(Sun)
一般的美と特異性の美:差異共振美について
視覚美に関して、簡単に考察したい。主観的美と客観的美との
問題になると思う。確かに、京都の紅葉は美しいだろう。 それは、一般的美、客観的美である。しかし、それは、 私にとっての主観的美ではない。私にとっては、 最近見た、ローカルな場の桜並木の桜の葉、あるいは、 公園の木々の黄色に変色した葉が、美しいのである。 これは、主観的美である。他者から見たら、 なんの変哲もない黄色の秋の葉である。美とは 感じられないだろう。 そう、主観という言葉が語弊があるので、特異性の美と しよう。これは、この場合、私だけが、秋の葉を視覚経験 して感じる美である。美であるし、感銘である。 京都の紅葉は、いわば、ブランドである。確かに、見たい とは思うが、観光客で混雑していて、不快感を覚えるだろう。 しかし、京都の紅葉は、ブランドにおいては、特異性の美 ではなく、一般的美、客観的美に過ぎない。 特異性の美とは、やはり、自己認識方程式で説明できる のではないか。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。私は+iであり、 公園の木々の黄葉は-iである。これが、Media Pointで 共振して、特異性の美、すなわち、⇒+1を形成するのでは ないだろうか。つまり、ここでは、差異との共振にすべて 懸かっているということである。京都の紅葉は、 一般的美であり、特異な共振はないのである。だから、 それは、特異性の美ではない。私にとっての本来の美ではない のである。つまり、共振するか否かに、『美』の存否が 懸かっているということになる。 そう、思うに、ここにしか、本来の美は存しない のではないだろうか。世阿弥の『風姿花伝』の「花」論は 正に、これによっているのではないだろうか。一見、 相対論的であるが、実質は、特異性美論ではないだろうか。 主客交信共振共感において、美が生成消滅するのでは ないだろうか。それが永遠ではないのか。 ここで普遍性(不易)と生成流転性(流行)を問題にすると、 美に関しては、普遍性とは微妙である。確かに、客観的美は あるだろう。セザンヌの絵画、バッハの音楽には、客観的美が ある。しかし、特異性の美は、主客共振美である。 また、確かに、優れた芸術の客観的美であるが、 そこには共振的調和(不調和の調和discordia concors)が あるだろう。 だから、客観的なものの共振的美と主客共振性とが 一致したときに、至高の美が発現するのだろう。 これは、いわば、特異性の特異性の美であろう。 注:尚、上記は、以下の記事の考察の一部を修正して、独立させたものです。 http://ameblo.jp/renshi/entry-10053908253.html 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 p.s. toxandoria氏の秋の仙台の画像を見て、また、思った。 実際の場における観照と、写真や画像を介しての「観照」 の違いについてである。 一般的には、画像を介すると、特異性は減ずる。簡単に 言えば、臨場感がないのである。臨場感とは、特異性の知覚を 含むだろう。 これは、理論的は何を意味しているのだろう。直感で言えば、 Media Pointのエネルギーが参入するか否かの違いである。 単なる画像の場合は、一般には、それが参入しないのである。 実際の場においては、それが参入するのである。だから、 やはり、差異共振性の問題である。 では、どうして、画像の場合は差異共振性が乏しいのか、 希薄なのか、ないしは、欠落するのか。 思うに、同一性の視覚で見てしまうからではないのか。では、 なぜ、一般に、同一性の視覚で画像を見て、特異性の視覚で 実際の風景を見るのか、である。 それは、時間の問題ではないだろうか。通常は、 同一性の時間において、視覚・知覚する。平板な時間である。 しかしながら、実際の場においては、通常の同一性の時間が 引っ込んで、特異性の時間が発動するだろう。つまり、 Media Pointが発動しているのである。だから、 差異共振エネルギーが発動するのである。 そして、それが、特異性の美なのである。 |
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