検討問題:イデアと魂;イデアと模倣とヴィジョン






2007年09月14日(Fri)
検討問題:イデアと魂;イデアと模倣とヴィジョン
午後9時過ぎであるが、まだ、蒸し暑く、思考できる環境ではなく、冷房をつける。

1)もし、輪廻転生があるなら、魂の数はどうなるのか。人間のイデアは一つであるが、魂は無数可能である。無限個の魂となる。これは、おかしい。輪廻転生という仮説にどこか間違いがあるのではないのか。

2)プラトンの『国家』の第10章における、イデア論の誤りについて:先にも触れたが、ここでのプラトンは、よく知られたように、芸術家をイデアの模倣の模倣者として、芸術家を理想国家から追放している。このプラトンは、最悪である。
 私は、芸術家も直接、イデアに対面すればいいというようなことを述べた。この点をもう少し展開すると、例えば、画家がある山岳に対面したとしよう。もし、その山岳を模写すれば、プラトン的に言うと、山岳のイデアの模倣の模倣となるのであるが、実際は違うだろう。画家は、山岳に対面すると、そのとき、画家の心の中には、山岳のイデアのヴィジョンが、たとえば、燃え立っている。このイデアのヴィジョンは、どこに発生するのかと言えば、これまでの検討から、当然、Media Pointにおいて、山岳のイデア・ヴィジョンが発現するのである。
 言い換えると、画家は、その山岳に対面しつつ、心の中で、その山岳のイデアに、心の中で、対面しているのであり、画家の心は、イデアのエネルゲイアとなっていると考えられる。
 だから、画家もまた、イデアを捉えているのであるが、それは、現象の山岳とどう異なるのだろうか。現象の山岳とは、いわば、イデアの物質化であるが、画家の心は、イデアのエネルゲイアである。前者はエンテレケイア(終局態)である。
 この視点から言うと、『国家』のプラトンは、エンテレケイアとしての山岳の模倣者として画家を捉えていて、イデアのエネルゲイア的創造者として画家を捉えていない。
 画家の心は、山岳のイデアと共振していると言えよう。この山岳のイデアと共振した画家の心は、山岳のエネルゲイアを映しているのである。言い換えると、画家のMedia Pointにおいて、山岳のイデアが共振して、画家・即非・山岳の共振エネルゲイアが発生し、画家は山岳を描くとき、山岳のイデアの描出しているのではないだろうか。
 だから、イデアの現象(山岳)よりも、画家の方が、山岳のイデアを表現していると言えるのではないだろうか。現象よりも、真正な芸術の方が、イデアに近いということになる。(これは、オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という逆説に類似している。)
 とまれ、『国家』には、なによりも、真正な芸術家を含めないといけない。模倣だけの似非芸術家は追放するのは正しいが、イデアを描出する芸術家はなによりも容れないといけない。現象にイデア的表現を与えるのが芸術ではないのか。それは、エネルゲイア的な様態である。
 後で、明晰に再考したい。


   




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カレンダ
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