凸i*凹i⇒+1(自己認識方程式):凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1(

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2013年10月26日(Sat)▲ページの先頭へ
氣の陰陽方程式を経済に活用する:凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1(同一性体):陰陽経済生命体へ向けて
氣の陰陽方程式を経済に活用する:凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1(同一性体):陰陽経済生命体へ向けて

テーマ:新共同体(協同組合)経済:減価共同体通貨

以下の記事を読んで、氣の方程式で、新しい経済システムを説明できるのではないかと直観した。
 氣の方程式は、以下の通りである。

凹i(陰)*凸i(陽)⇒+1(同一性体)

これは、前期PS理論の自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)  (http://ameblo.jp/neomanichaeism/theme-10035503434.html)とほぼ同じである。【追記:iは虚数であり、凹と凸は虚軸における符号であり、*は共振、共鳴、正確には、即非共振を意味するが、氣から生命物質への次元変換として、積(掛け算)を意味し、⇒はその次元変換による結果、帰結を指し示す記号である。また、+1であるが、これは、同一性体と記したが、わかりやすく言えば、生命物質体である。】
 とまれ、陰陽対極性が同一性体を成形するという力学視点である。
 左辺の陰陽極性に対を入れて、対極的経済生命体系列ができよう。例えば、

T)労働*資本⇒商品生産
U)供給・生産*需要・消費⇒貨幣

であり、UからTへと回帰すべきものである。

つまり、

1.労働*資本⇒2.商品⇒3.生産*消費⇒4.貨幣⇒1’.労働*資本

である。
 これが単純な資本経済有機体(一応、有機体と呼んでおく)である。
 しかし、ここにおいて、金融資本が利子を過剰に要求する場合を考えよう。それは、4の貨幣の流れを金融資本へと分岐させて、労働*資本の対極性には適切に還帰させないのである。
 即ち、図式化すれば、


4.貨幣↴↛↛↛1’.労働*資本
    ↴
    ↴
     金融資本


とでもなろう。↴は流れの方向を、そして、↛は適切な流れの切断を意味することにする。
 この金融資本のいわば、横取りによって、陰陽極性的資本経済有機体は破壊されるのである。
 また、金融資本側からの要求によって、労働*資本の極性は偏向したものになる。つまり、貨幣利潤を増殖させるために、過当な経済活動を要求することになるのである。
 故に、本来、労働*資本の極性力学は、創造的であるために、本来、差異共振(分かりやすく言えば、差異の調和)であるべきであるが、金融資本による貨幣利潤の増殖の欲望(同一性・量的増加の欲望)によって、資本側が強化されて、資本優位、労働劣位の二項対立へと転換してしまい(単純に言えば、労働強化による労働者の疲弊、劣化を引き起こす)、本来あるべき、労働*資本の対極性力学が破壊されて、同一性(量)主義的力学へと還元されてしまうのである。これが、金融資本中心的資本主義であり、左翼側から批判される資本主義とは本当はこれであると考えれる。
 結局、この金融資本側の要求を抑制し、健全な経済生命体を構築する必要があるのである。
 ここで、利子の問題が生じると言えよう。無利子や負利子の視点がここで出るのである。
 シルビオ・ゲゼルが説く負利子通貨(消滅貨幣、減価通貨)は金融資本の蓄財を許さないものであり、経済生命体にとって重要な視点であると考えられる。
 今は簡単な指摘に留めておく。

追記:
4.貨幣↴↛↛↛1’.労働*資本
    ↴
    ↴
   金融資本

は、

4.貨幣↴↛↛↛1’.労働者*資本家
    ↴
    ↴
  金融資本家

と人間として見た方が的確かもしれない。

参考:
1379夜『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』シルビオ・ゲゼル ...
1000ya.isis.ne.jp/1379.html - キャッシュ - 類似ページ
2010年8月23日 ... シルビオ・ゲゼルの波乱に満ちた生涯については、あらかた前夜に書いた。20世紀初頭
の経済理論家があれだけの“経済乱世”をくぐり抜けてきたというのは、めずらしい。
いくつか理由が考えられる。ドイツ帝国の勃興期と多難期のドイツの辺境 ...
http://1000ya.isis.ne.jp/1379.html


おカネってなんですか? -シルビオ・ゲゼルの貨幣論-: 愛と赤裸々の日々
otokita.seesaa.net/article/113264516.html - キャッシュ
2009年1月27日 ... おカネってなんですか? -シルビオ・ゲゼルの貨幣論-,平凡な毎日を非日常へと変えたの
は 未知に飛び込むほんの少しの勇気だった。 ... さて、「忘れられた経済学者」とい
われるシルビオ・ゲゼルという人がいます。 あのケインズをして 「後世
http://otokita.seesaa.net/article/113264516.html

シルビオ・ゲゼル - シャンティ・フーラの時事ブログ - Shanti Phula
shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=19130 - キャッシュ
2012年2月8日 ... 村岡です。 「家族の絆 〜夫婦(90):サーカーの思想:プラウトの金融システム 〜」で
紹介された、減価マネーのシルビオ・ゲゼル氏に関する記事です。 減価マネーが経済を
活性化する様子を感じます。加速する経済をどう制御していくのか、導入 ...
http://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=19130

1.
忘れられた経済学者シルビオ・ゲゼル@ - るいネット
www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=190556 - キャッシュ
2008年10月24日 ... 脱・資本主義の可能性を、政府紙幣・地域通貨制度の導入による”利子”撤廃に見出した
経済学者、シルビオ・ゲゼルに関する投稿を紹介します。(リンク) ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー>シルビオ・ ...
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=190556

2.
忘れられた経済学者シルビオ・ゲゼルA - るいネット
www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=190558 - キャッシュ
2008年10月24日 ... 実際、彼が提唱した理論を導入し、成功した自治体の事例もあるようです。(リンク) ーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー>ゲゼルの自由
貨幣理論を実践し、大成功をおさめたのが、オーストリア・チロル地方 ...
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=190558

シルヴィオ・ゲゼル『自然的経済秩序』

〜代表作「自然的経済秩序」〜

こちらでは、ゲゼルの代表作「自然的経済秩序」の訳を、校正が済み次第順次公開することにいたします。なお、原文(ドイツ語)はこちら で、英語訳はこちら で、スペイン語訳はこちら で読むことができます。

http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo-jp.html

参考2:シュタイナーの難解な経済有機体論であるが、ゲゼルの説く消滅貨幣を導入している。
シュタイナー経済学講座
http://www.geocities.jp/momoforall/booknote1/index.html

*************************

「ドルよ さらば」 非アメリカ化を公式に表明した中国 (10/20)

今回は、上院、下院の議員たち(驚いたことに、アメリカの議員の大半が多国籍企業の操り人形になっている)による臭い芝居によって、アメリカの債務上限は来年3月中旬まで引き延ばされました 。

しかし、この程度の時間では、連邦の国有資産を民間企業に加速度的に投げ売りしたところで、借金は大して減らないでしょう。
すると、来年3月中旬が近づくと、再び債務上限を巡っての混乱が起こるのか。ただし、それで最後の。

大部分のアメリカ国民は、オバマのワシントンの「民営化プログラム」が、バンクホリデーの代わりに巧妙に講じられている「仮面徳政令」とも言うべき詐欺的な手口であることに気がついていないようです。

つまり、ドルの延命を図って時間稼ぎを行い、その間にアメリカの公有資産を、ことごとく民間企業に買い取らせて、アメリカ合衆国をアメリカ株式会社に生まれ変わらせたいのです。そして、デモクラシーからコーポレートクラシーのNWO支配体制を固めようと考えているのです。

http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2424.html
カレイドスコープ


2013年10月08日(Tue)▲ページの先頭へ
PS理論批判:物質世界を数学観念的に記述する理論で、物質を越えた氣の世界を無視している
テーマ:PS理論批判

今、太陰氣学の世界が明瞭になってきて、長い間携わってきたPS理論の誤りがはっきりとした。
 それは、物質的世界を数学的観念を用いて、説明するものであり、物質を越えた氣の世界を否定したものであり、基本的には、唯物論的理論ということができるのである。
 確かに、初期PS理論は超簡潔ですごい切れ味ではあった。即ち、自己認識方程式があったが、

凸i*凹i⇒+1

というものである。ガウス平面を使って、これで、森羅万象を説明しようとしたのである。
 これは、近似値的には、陰陽論の数式化である。
 しかし、根源の太極を説明しようとすると、混乱するのである。そこで、私は混迷したのである。
 その結果、PS理論から脱出して、独り歩きを初めて、太陰氣学に到達したのであった。
 別の角度から見ると、PS理論は不連続的差異論の発展として考えられたものであり、対の共振性という考えは、意味深いものである。
 しかしながら、不連続的差異のもつ根源性が凹iではまったく説明できないのであった。そう、不連続的差異が凹iなのかMP(メディア・ポイント:つまり、ガウス平面の原点に相当する)なのか、不明確であったのである。
 不連続的差異を十分に発展できなかったのが、PS理論の大きな欠点の一つである。

追記:「海舌」氏がPS理論の主導的な開発者であるが、結局、私と「海舌」氏では根本的なイメージが異なっていたと言えよう。「海舌」氏は物理学のイメージで不連続的差異やPS理論を把握しようとしていたが、私にとっては、心身現象が母体であり、不連続的差異とは肚であり、また、PS理論の対とは、自我と肚の対であったのであり、このイメージの根本的違いが、私のPS理論からの離脱・脱出をもたらしたと言えよう。
 そう、根源を探すと、PS理論は答えを出せないのである。つまり、太極を求めようとすると、混乱したのであった。
 私は今や、太陰氣学の立場で、根源が太陰(肚)ないし太陰玄氣にあるとして、明快である。

追記2:もう少し丁寧に説明すると、自己認識方程式


凸i*凹i⇒+1

において、私は凸iを陽、凹iを陰、そして、*を陰陽共振と見ていたのである。+1の解釈が問題であった。
 それを物質と取るのか、光と取るのか、それとも氣と取るのか、難航した。
 思うに、本来は自己認識方程式であるから、+1は自己であり、自己認識である。自我凸iと不連続的差異凹iが共振(即非共振)する存在として、自己+1が存するという考えである。それは、表面的には整合性のあるものである。(しかし、不連続的差異を凹iとするのは、問題があるように、思う。この点は再度検討したい。)
 しかし、自己認識から現象一般に展開させると問題が生じたのである。
 私は左辺は陰陽次元であるから、いわば、超越性の世界、超越界である。
 しかし、「海舌」氏の場合は、認識と取ったのである。それも、凸iの陽が主要となる認識である。私も一旦は、そのように考えていたのであり、不連続的差異凹iを従属的に考えていた。しかし、不連続的差異自体に凸iとは異なる認識があるのであり、その特殊な認識をPS理論は見なかったのである。対称的に凸iと凹iを見ていたのである。両者の非対称性を見ていなかったのである。
 とまれ、自己認識方程式に関して、私は陰陽次元、超越的に見ていたが、「海舌」氏は、物質世界の認識として、捉えていたと思う。そこには乖離があるのである。私は氣の次元で考えていたが、「海舌」氏は、物質に対する認識(数学的形式観念)の次元で考えていたと考えられるのである。


2012年05月02日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:電磁波と物質:現象光と超光:二つの太陽:現象太陽とdark sun
テーマ:manichaeism: 哲学

これまでの考えによれば、電磁波は物質形成力学と関係する。

つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の物質方程式と関係する。

私の考える光は実際のところ、超光であり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。これは精神的光である。

それに対して、物質的光、現象的光(電磁波)があり、それが、物質方程式と関係するということである。

そう、先にmedia pointが視覚であると述べたことをここで取り上げたい。

つまり、media pointにおいて、同一性の光(現象光)と差異の光(超光)が併存しているのであるが、物質感覚は同一性の光を基礎としているのであり、差異の光を感知、認知しないのである。

また、現象光凸iが自乗して、⇒凹(−1)の物質になると思われる。

E=mc^2は、このことと関係するように思われる。もっとも、cは現象光である。そして、Eは物質エネルギーである。

それに対して、凸i*凹i⇒凸(+1)の超光は、dark energyをもつように思われるのである。

 思うに、現象光凸iが現象太陽であり、凹iがdark sun、霊的太陽に相当する。そして、超光は現象太陽と霊的太陽の差異共振によって発生するということになる。「光」と「闇」、陽と陰との差異共振によって、超光(超越光)が誕生するのである。


追記:以下の現代物質科学による宇宙の解明であるが、やはり、唯物論ではその謎は解けないだろう。根源は精神である。「光」と「闇」であり、それが、差異共振して、超光を創り出す。そして、「光」の自乗で物質、物質エネルギーを産み出すのである。

 「光」は実に二面的なのである。一方では、超光、霊光を創出するが、他方、自乗して物質形成をするのである。その点で、「光」は善であり、悪である。

参考:

* 宇宙を解き明かす
神の素粒子

http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0803/feature04/


2012年04月29日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会
視覚と感覚物質同一性世界

テーマ:manichaeism: 哲学

以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。
 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。
 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。
 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。
 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。





同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

テーマ:manichaeism: 哲学

リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。
 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。
 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。
 これをPS理論から解明したい。
 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。
 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことがで きない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定であ る。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。
 次に、他者模倣についてである。
 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。
 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。
 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。
 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっ ぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。)
 ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。
 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。
 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。
 これで解明できた。結局、同一性否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。
 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。

追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。
 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。
 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。
 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。
 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。
 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。
 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。

参考:
太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ
太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ...

ルネ・ジラール - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ
ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ...





PS理論の生命への応用へ向けて

テーマ:biology

今は余裕がないので、詳述できない。
 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。
 問題は物質的生命体の形成や意義である。
 物質は凹(−1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。
 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(−1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。
 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。
 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(−1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。
 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。
 結局、生命も光を志向しているのである。
 今は以上で留める。



2012年04月18日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point
(画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11226208712.html



凸i*凹i⇒凸(+1)     ・・・・・ A

において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。
 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。
 
凸i*凹凹i⇒凹(−1)      ・・・・・ B

の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。
 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。
 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。
 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。
 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。だから、物質は右辺の凹(−1)であると思われる。
 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。
 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。
 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。
 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。
 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。
 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。
 問題は視覚とは何かである。
 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。
 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。
 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。
 この結合力学はいかなるものか。
 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。
 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。)
 とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。
 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(−1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。
 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。
 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。
 ここで、凹(−1)の問題が出てくる。凹(−1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(−1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。
 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。
 しかし、そうではないだろう。
 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。
 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。
 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(−1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。
 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。)
 ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)   ・・・・・ C

である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。
 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。
 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。
 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1)   ・・・・・ D

ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。)
 そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。)
 だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。
 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。


参照:


resurrectionのブログ


フレミングの左手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ

フレミングの右手の法則 - Wikipedia



resurrectionのブログ
《ガウス平面で表した人間認識の図》


2012年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
四次元モデル:x軸、y軸、z軸、α軸:下降次元変換:凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z、凹y
テーマ:Neo-PS理論

α軸:凸α*凹α⇒凸(+1)を凸k*凹k⇒凸(+1)とする。

z軸:凸z*凹z⇒凸(+1)を凸j*凹j⇒凸(+1)とする。ただし、これは自己差異共振という理想態である。自我主導が普通なので、凸j*凹凹j⇒凹(−1)が通常態である。

y軸:凸i*凹i⇒凸(+1)はこのままであり、陰陽の氣の方程式である。

x軸:これは、ただ、凸(+1)と凹(−1)の並立する実軸である。
 
そして、四元数からi 2 = j 2 = k2 = ijk = −1ということになる。
 問題は、四つの軸の関係である。media pointでは、交差するだろうが、そのとき、どういう力学が作用するのか。というか、もともと四つの軸が存するのか。それとも、根本のα軸のみが最初に存して、その後、残りの三つの軸が形成されたのか。
 凹(−1)が自我で、凸(+1)が自然自体(物質と精神の共振体)ならば、それは、当然、他の軸、超越論的な軸から形成されたものである。だから、派生態である。
 残りのy軸(氣軸:エーテル体軸)とz軸(自己軸)はどうなのだろうか。
 直観では、原初はα軸しかなかったように思える。そこから、z軸やy軸が派生したように思う。
 ならば、その力学はどうなるのだろうか。
 先に指摘したが、

凸α*凹α⇒凸z*凹z



凸α*凹α⇒凸y*凹y

のようなものが成立すれば、いいのである。(凸z*凹z⇒凸y*凹yはないと推測する。)
 このいわば、降下的次元変換は差異共振では形成されない。違う力学が必要である。
 差異共振によって形成されるx軸とα軸の形成する平面を直交する軸が形成されればいいことになる。
 以下の図のように、フレミング右手の法則に類似した力学ははたらけばいいのである。即ち、磁界の方向がα軸凸αで、導体の動いた方向がx軸凸(+1)であり、電流の流れる方向が凹zとなる。
 そして、それぞれの方向の反対(対極)を考えれば、α軸の凹α、x軸の凹(−1)、そして、z軸の凸zが形成される。
 興味深いのは、z軸においては、凸z(陽)ではなく、凹z(陰)が形成されることである。そう、電流は電子(負電荷)であるから、これなりに合理性、整合性があると言えようし、また、母権的自己ないしは原始差異共振を考えると、それは凹z主導なので、これに合致することになるのである。
 結局、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z

というような数式になる。
 次に、y軸であるが、これも似たような視点でいいのではないだろうか。即ち、

凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹y

である。やはり、凹y(陰)が形成されるのである。陰陽の氣であるから、陰が先行するのはまことに的確である。
 今はここで留めるが、後で、精緻にこの力学の方程式を解明したい。
 

ファイル:Fleming's Right Hand Rule.png

フレミングの右手の法則


再考:陰陽の氣と自我/非自我の作用:自然における同一性と差異
どうも勘違いしているのかもしれない。
 先に、「光」の場合、粒子は⇒凹(マイナス)で、波動は⇒凸(+1)と述べた。
 しかしながら、自然状態では、差異共振が起るのであり、同一性は生起しないと考えられる。
 だから、「光」は⇒凸(+1)しかありえないと考えられる。ということなので、訂正である。
 問題は、自我作用、同一性作用である。自我・同一性作用において、⇒凹(−1)が生起すると考えられる。
 そして、それに抑圧され、排除される非自我は、裏面、背面で、どう作用するのだろうか。
 先には差異共振作用をすると述べたが、どうだろうか。これも勘違いのように思える。
 差異不共振ではないだろうか。否定された凹iの作用は反動作用になると思われる。否定的感情、否定的衝動になると思われる。それは、攻撃的衝動ではないだろうか。
 そう、問題は先に述べた原始差異共振である。これは、自我作用によって、無意識化されるだろう。
 とまれ、ここにおいてこそ、差異共振の原点があるのであるが、自我作用の支配の下、未発達な状態、あるいは、潜在的な状態に留まっていると考えられる。
 つまり、自我作用と原始差異共振作用は矛盾・齟齬の関係にあると言えよう。
 では、自我・同一性作用と自然現象との関係はどうなのだろうか。
 陰陽の氣の差異共振現象が自然現象とするならば、自我・同一性作用とどう関係するのか。
 凸zは純粋悟性になるが、また、外的感覚(空間)にもなるだろう。そして、否定された、また、抑圧された凹z(原始差異共振を含めて)は、それなりに、内的感覚(時間)であろう。
 そう、人間身体を考慮しないといけない。人間身体は当然、自然現象である。つまり、差異共振現象である。そこに、自我/非自我が組み込まれているのである。
 ここでは作業仮説であるが、こう考えたらどうだろうか。差異共振現象とは、当然、凸i*凹i⇒凸(+1)である。右辺が自然現象ないしは自然自体である。
 これは当然、凸iと凹iの共振から形成されているのだから、自然現象には凸iのなんらかの要素があるということではないだろうか。凸iと凹iの即非現象と言ってもいいのであるから、やはり、凸iを基本的構成要素としてもっていると言えよう。
 つまり、同一性の側面をもっているということになる。そして、それが、物質というものでないだろうか。
 そして、自我・同一性作用は自然のこの物質性を認識するということではないだろうか。
 この作業仮説の問題点は、果たして、凸iを凸zと同様に、同一性として見ていいのかということである。
 凸zは自我・同一性作用である。しかし、凸iは自我・同一性作用ではなく、自然のもつ陽極である。
 しかしながら、それを自我極ではなく、同一性極と見ることは可能ではないだろうか。
 ということで、作業仮説的に、凸iを同一性として見れば、それを自然身体において、自我は同一性=物質として認識するということは考えられるのである。
 では、もしそうならば、凹iは何か。凹zは非自我、内的他者、絶対的差異であるが。
 少なくとも、非同一性と言えよう。つまり、差異である。同一性を物質とするならば、非同一性、差異とは何であろうか。おそらく、一種の精神である。自然の精神ということになる。
 「わたし」は「山」であるというとき、「わたし」は凹zであり、「山」は凹iではないだろうか。凹zと凹iとの一種の共鳴、合一等がなければいけない。
 凹zは非自我的精神であるが、凹iは単に精神ということではないだろうか。
 とりあえず、そう仮定して考えたい。
 すると、自然現象、自然自体とは、同一性=物質、差異=精神の共振から形成されていることになる。
 そして、人間は自我・同一性(物質)作用と非自我・差異(精神)作用との二元体である。
 思うに、カントが現象における基体と見ていたものは、差異=精神ではないだろうか。
 そして、物質科学は、自然の物質的側面のみを捉えて、自然の精神的側面を看過していることになる。
 今はここで留めて、後でさらに検討したい。


2012年04月11日(Wed)▲ページの先頭へ
差異と「差異」:内的他者としての差異と外的他者としての「差異」:陰陽の氣としての「光」と自己軸
後で検討したいが、結局、「わたし」は「山」であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるという即非の論理において、「差異」の問題が生じる。
 私がこれまで述べてきた差異とは、「わたし」は「山」であるというときの「山」のことである。
 しかしながら、一般的には、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるというときの「山」を「差異」と考えるだろう。
 何が異なるかといえば、前者は内的他者のことであり、それに「わたし」が一致することを意味し、後者は外的他者のことであり、それと「わたし」は異なることを意味する。後者は同一性としての他者と言えよう。
 思うに、内的他者への感知がポスト・モダンの最良の収穫ではないだろうか。これは、PS理論では絶対的差異である。
 結局、自己とは「わたし(自我)」であり、且つ「非わたし(非自我)」なのである。この二元論(極性)がPS理論の説くところである。
 そして、さらに、両者が(差異)共振するところがPS理論の核心である。
 ところで、今不明なのは、電磁波や量子の位置付けである。
 粒子であり、且つ、波動でもあるという、例えば、「光」の位置付けであるが、直観で言うと、粒子は⇒凹(−1)であり、波動は⇒凸(+1)である。
 両者は同時生起である。だから、即非的生起と言うこともできよう。
 そうすると、「光」とは、凸i☯凹i⇒凸(+1)、凹(−1)の左辺が本体と考えられる。そう、思うに、それは、氣と呼んでいいのではないだろうか。陰陽の氣が「光」であり、それが、粒子と波動を同時・即非生起させると考えられるだろう。
 そうならば、「光」は自己的であると言えるのではないだろうか。それは本当なのだろうか。どうも躊躇するのである。
 何故なら、自己とは自我且つ非自我(内的他者)であり、自我を陽、凸i、非自我を陰、凹iと見ていいのかすぐには首肯できないからである。
 つまり、人間において、自我の作用は非自我の作用よりもはるかに強いからである。とりわけ、父権主義において。
 だから、人間は陽に傾斜していると言えば済むのだろうか。陽に傾斜していても、陰陽の氣においては、陰は開いているのである。言わば、開放系である。それに対して、人間の自我は閉鎖系であり、非自我を排除しているのである。この違いが決定的であると考えられる。
 やはり、ガウス平面に直交するz軸を加えて、それを自己軸とすべきように思われるのである。
 この点はあらためて検討したいので、今はここで留める。

追記:自己軸であるz軸を考えると、仮に、「プラス」の軸に凸zを、「マイナス」の軸に凹zを置く。凸zが自我で、凹zが非自我となる。
 自我は同一性主義であり、それは、非自我を抑圧、排除する。
 とまれ、z軸のMedia Point(虚軸と実軸のmedia pointと区別する。もっとも、重なるのではあるが。)において、凸z側において、視覚や脳の原点があるのではないだろうか。思うに、第二ガウス平面(z軸とx軸の直交座標であるが、超越論的ガウス平面と言えるかもしれない。)において、凸zと凹の領域、第二象限に、脳の領域があるのかもしれない。視覚はMedia Pointの自我側に存するのではないだろうか。
 それに対して、凹zと凹の領域、第三象限は、内臓の領域ではないだろうか。聴覚はMedia Pointの非自我側に存するのではないだろうか。
 次に、凸zと凸の領域、第一象限であるが、それは、純粋理性、理念の領域ではないだろうか。因みに、純粋悟性は凸zの第二象限側に存するのではないだろうか。
 そして、凹zと凸の領域、第四象限であるが、それは、超越界、コスモス界、真のイデア界(これは、純粋理性、理念の世界とは区別される)ではないだろうか。
 ロレンスがdark sun、dark God、cosmosと呼んだものは、この領域の存すると思われる。
 そう、宗教の真の光(「神」)もここに存するように思われる。マニ教の光も当然、ここである。
 以上、作業仮説、思考実験である。後でさらに検討したい。


2012年03月29日(Thu)▲ページの先頭へ
母権と父権における連続的自我の様態:同一性による差異共振支配の克服のための聖霊主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学

母権的自我における連続的自我と父権的自我におけるそれとの区別が不分明になっているようなので、検討したい。
 母権的自我とは、原始差異共振と連続的自我の極性的二重性をもつ。
 それに対して、父権的自我は、原始差異共振を否定して、連続的自我中心となっている。ここには、分裂、亀裂がある。
 問題は連続的自我における否定される他者凹iの様態である。
 母権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは、原始差異共振があるために、言わば、完全には否定されず、肯定的な側面があると考えられる。
 それに対して、父権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは完全に否定されるのであり、そのために、他者凹iは否定的感情、反感、反動的衝動等になっていると考えられる。
 ヤハウェについての分析で、母権的一神教と考えたが、結局、それを翻した形になり、齟齬の状態に留まっている。
 ヤハウェはやはり、父権的自我の究極性のようなものと見るべきであろう。
 つまり、ヤハウェとは超越的な、絶対的な純粋自我であり、超越的な、絶対的な純粋他者凹iを否定すると考えられるのである。
 故に、後者の否定が前者に付随して、「我は嫉妬深い神なり」という様態になると考えられる。
 とは言え、問題は、その超越性が何処から生まれているかである。
 凸iだけなら、純粋自我であり、そこには超越的絶対性はないだろう。
 先に、凸(+1)⇒凸i*凹iを思考実験的に提起した。
 凸(+1)が真の光であり、「神」であるとすると、これが、超越的絶対性の根源であると考えられる。
 だから、ヤハウェの父権主義は凸(+1)、真の光、「神」から発生していると考えられる。
 ただし、凸iに極大化したものである。そう、ここで陰陽力学の役立つ。つまり、凸i*凹iは陰陽として、変動しているのであり、母権主義のときは、凹iが主で、凸iが従であり、凹iが極大化したときが、完全母権主義と考えられ、また、父権主義はその逆である。
 ということで、ヤハウェは凸iの極大化の様態と考えられるのである。【そうすると、陰陽力学の力の根源は凸(+1)となる。先にも簡単に指摘したが、おそらく、凸(+1)を「父」と考えることができるだろう。】
 以上の視点から現代社会、現代世界の問題が解明できよう。
 日本民族であるが、やはり、これまで既述したように、基本的には二つの民族、母権的民族と父権的民族が併存しているのであり、おそらく、明治維新以前には、両者のある種の、つまり、古代ギリシア的な結合、融合があったが、明治維新後、父権的民族が支配的になり、それが、今日現代まで続いていると考えられる。
 しかし、この父権的民族は狡猾であり、母権的民族の裏に言わば、隠れて、支配しているように思われるのである。例えば、官僚はそのようなものに思われる。民主主義の隠れ蓑に隠れて、日本国民を支配、操縦しているように推測されるのである。
 天皇制は母権的民族文化と見るべきである。それが明治維新で父権的民族に利用されたと見るべきである。(そして、この隠れた狡猾な父権的民族は某国の権力と繋がっていると推測される。)
 先に指摘したように、大半である母権的民族の日本人は新父権化して、自我と個において覚醒すべきである。(このためには、是非、外国語、とりわけ、欧米語を学ぶべきである。)
 次に、中国人であるが、既述したように、やはり、母権的民族と父権的民族の並立があるが、両者が古代ギリシアや明治以前の日本においてあったような結合が稀であったのではないだろうか。もっとも、老子や易、等はそのような結合を感じさせるのであるが。
 思うに、母権的民族のベースに強力な父権的民族(遊牧民族)が侵入して生まれたのが、中国(支那)のように思えるのである。だから、父権的民族が母権的民族を暴力的に支配する形をとったように思えるのである。(私見では、父権的民族としての中国人は、父権的民族のユダヤ人や欧米人と類似するのである。)
 東アジア、ひいてはアジアの問題の核心にはこの力学あると推察される。
 最後に簡単に資本主義の問題に触れると、やはり、ヤハウェ的一神教が根源に存すると考えられる。
 それは、上述した超越的絶対的純粋自我の同一性形式が根源のように思われるのである。
 しかしながら、以前何度も述べたように、資本主義は差異共振主義を内在しているのである。つまり、資本主義とは、内在する固有の差異共振主義(母権主義)と超越的絶対的純粋自我的同一性形式の絶対的矛盾の結合であると考えられるのである。宗教で言えば、ユダヤ教とキリスト教の結合に相応しよう。
 しかしながら、この結合(おそらく、複合ないしは混合と言う方が的確であるかもしれない)において、主であるのは、後者であり、前者は従である。つまり、いわば、「父」が「子」を支配しているのである。
 言い換えると、同一性資本主義と差異共振資本主義の複合が今日の資本主義(同一性/差異共振複合資本主義とでも呼べよう)であるが、前者は後者を支配して、世界的暴力(戦争等)を引き起こしていると考えられる。
 だから、逆転する必要があるのである。それは、言うならば、聖霊資本主義であろう。PS理論的には、media point capitalismである。
 純粋自我と純粋他者を差異共振させる資本主義である。それを実現するための方法等については、後で検討したい。(もっともそれについては多くのことが既述済みであるが。)


2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である

テーマ:Neo-PS理論

先に、物質とは差異共振事象の同一性的仮象ではないかと述べたが、今、それとは異なる視点が生じたので、それを簡単に記したい。
 結局、media pointにおいて、同一性化と差異共振事象が同時生起する。両者はなんらか結合して、いわば、複合体を形成していると考えられる。この複合体を仮に同一性的差異共振体ないしは同一性的差異共振複合体と呼んでおく。あるいは、生命体で言えば、同一性的差異共振有機体である。
 問題はこの体、複合体、有機体の結合モードである。つまり、結合のmedia pointの様態である。(先には、比喩的に、メビウスの輪や三日月の光と影を提起したが。)
 根源的に考察する。「母権」的認識様態においては、凹i主導であり、原始差異共振様態と連続的同一性様態が併存している。この初期様態が重要である。
 この二重様態を精緻明晰に捉える必要がある。結局、凸iの様態がポイントである。凹i主導の差異共振体があり、同時に、凸i主導の連続的同一性体(連続的自我体)がある。つまり、両極性(対極性)に拠る二つのモードがここには存している。
 即ち、凹i主導の差異共振体と凸i主導の連続的同一性体である。つまり、凹iと凸iの極性による複合体がここには存する。極性的複合体と呼べよう。あるいは絶対矛盾的複合体ないしは即非的複合体である。これが「母権」的認識様態である。
 では、「父権」的認識様態になるとどうなるのだろうか。それは、完全に凸i主導、凸i支配となる認識様態である。
 そう、簡単に言えば、極性的様態が「抑圧」されると考えられる。では、「抑圧」とは何であろうか。それは、隠蔽である。
 この「抑圧」、隠蔽力学を把捉する必要がある。
 しかし、この力学は「母権」的認識様態の凸i主導性による連続的同一性体という視点で捉えることができよう。
 既述したように、同一性力学は凸i同一性を凹iの他者に押し付ける、押印することである。つまり、同一性型を他者(差異:正確に言えば、絶対的差異、絶対矛盾的差異)に押印することである。論理的に言えば、他者否定である。つまり、同一性力学は他者(差異)否定力学であるということである。
 「母権」的認識様態は極性的様態で説明できたが、この「父権」的同一性支配的認識様態はどう解明できるのか。
 思うに、ここには、分裂様態があると考えられる。本来(「母権」的認識様態においては)、極性的様態である凸iと凹iであるが、「父権」的認識様態になると、同一性支配によって極性的様態が否定されて、同一性体と差異共振体の二つに分裂すると考えられる。つまり、同一性と差異共振性を分裂させるなんらかの分離帯が形成されると推測されるのである。
 この分離帯を同一性デバイドととりあえず呼ぶ。この同一性デバイドが「母権」的認識様態には存在しなかったものである。
 そして、この同一性デバイドが物質を形成する原因であると考えられるのである。
 この同一性デバイドとは結局、カントの感性的形式ならびに純粋悟性(形式)と考えられる。つまり、「父権」的認識様態とは感性的形式且つ純粋悟性(形式)支配の認識様態であると考えられるのである。とりあえず、両者をまとめて、同一性形式と呼ぶ。
 だから、同一性形式が物質形成原因である。
そのように考えると、宇宙・自然世界と人間世界において、同一性形式支配があり、それが、物質現象を構築していると考えられる。
 しかし、同一性形式イコール物質ではない。物質を形成するには、同一性形式と同時に押印される他者(差異)が必要である。前者を凸iとすれば後者は当然凹iである。
 結局のところ、これまで既述したような同一性方程式を変形した、

凸i*−凹i⇒凹(−1)

が物質認識方程式と考えられる。
 そう、端的に、凹(−1)が物質である。(これは、連続的自我でもあるが。)
 ということで、現段階の結論が出たので、ここで終える。

追記:ルドルフ・シュタイナーの精神学で言えば、同一性形式とは悪魔アーリマンである。また、彼はそれをヘーゲルの「精神」であると述べてい





四次元座標としての人間認識構造?

テーマ:manichaeism: 哲学

先に三次元座標を人間認識構造のモデルとして作業仮説したが、どうやら、四次元座標にした方が的確のように思えてきた。
 即ち、x軸、y軸、z軸以外にα軸を考えるのである。

x軸:存在軸:凹と凸
y軸:空間/時間軸:凸kと凹k
z軸:純粋悟性軸:凸jと凹j
α軸:純粋理性軸:凸iと凹i

とざっと思うところを書いた。
 y軸は、感覚に関係する。外的感覚(外官)凸kと内的感覚(内官)凹kである。
 z軸は、凸jが純粋悟性であり、凹jが純粋悟性の他者である。
 α軸は、凸iが純粋理性であり、凹iが純粋理性の他者である。
 以上、思考実験である。





物質とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

既述したことだが、ルドルフ・シュタイナーは彼の精神学は、究極的には物質の究明であると述べていた。霊学を提唱した人物の言であるから、重い。
 とまれ、物質とは差異共振エネルギー、差異共振事象を同一性の視点で捉えたものではないだろうか。
 ある物体の質量が1kgとする。その1kgとは、同一性、量である。これは空間的事象の観測に拠るのである。問題は空間的事象である。カントは物自体は認識できないと述べた。
 ここで思考実験するが、物自体を仮に凹iとすると、純粋悟性凸iは物自体凹iは把捉できない。それは、同一性を物自体凹iに押印するのである。
 だから、凸iに拠る凹iへの同一性の押印が、物質ないしは物体の形成を意味するのではないだろうか。
 しかし、他方では、凸i*凹iの差異共振事象がある。氣の事象、光の事象である。
 思うに、物質とは現象を同一性システムで捉えたものである。現象の本体は差異共振事象であるが、物質とは差異共振事象を同一性システムによって認識したものではないだろうか。
 つまり、現象、差異共振事象は同一性システムに呼応する機構をもっているということになるのではないだろうか。
 というか、差異共振事象を同一性の視点から認識する結果、現象は物質現象であるということになるのではないだろうか。(物自体であるが、それは、凹i、ないし凸i*凹iの差異共振事象の両方にあてはまることにする。今の段階では。暫定的に。)
 つまり、物質とは本来、物質ではなく、差異共振事象であるということになるだろう。差異共振事象の仮象であるということになるだろう。
 今は問題提起のみである。 





z軸凸iは純粋理性、y軸凸jは純粋悟性、x軸凸は純粋光

テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘のみに留める。
 ガウス平面の虚軸を凸iと凹iで表記したが、三次元化したとき、z軸に凸iと凹iをとり、y軸に凸jと凹jをとることにする(先にも述べたが)。
 カントの純粋悟性は凸jとなり、現象、物質、現象光は凹(−1)である。そして、凸(+1)は純粋光と考えられる。これは一般には不可視である。(dark energyはこれを指しているのかもしれない。dark matterもこれかもしれない。)
 そして、純粋悟性を超越する純粋理性はz軸の凸iということになる。
 とまれ、凹jや凹iは純粋他者であるが、どう異なるのか。これは作業仮説であるが、両者、直観ではないだろうか。
 凹jは現象的直観であり、凹iは精神的直観ではないだろうか。この問題は提起のみに留める。
 さて、別のことであるが、

凸i*凹i⇒凸(+1)

の根本自己認識方程式であるが、これは逆転できるのではないだろうかと思ったのである。即ち、

凸(+1)⇒凸i*凹i

である。
 凸(+1)は真の光であり、「神」であると考えると、それが、中軸の極性、双極子を創出したのではないだろうかと思ったのである。
 例えば、旧約聖書の預言者であるが、彼らは、凸(+1)の「神の呼びかけ」を聴いたのではないだろうか。
 とまれ、「父」は凸(+1)⇒凸i*凹iとすると、「子」は凸i*凹i⇒凸(+1)ではないだろうか。
 ならば、「聖霊」はどうなるのだろうか。それは、media pointではないだろうか。
 これも検討課題である。

Cartesian coordinate system - Wikipedia, the free encyclopedia





The coordinate surfaces of the Cartesian coordinates (x, y, z). The z-axis is vertical and the x-axis is highlighted in green. Thus, the red plane shows the points with x=1, the blue plane shows the points with z=1, and the yellow plane shows the points with y=−1. The three surfaces intersect at the point P (shown as a black sphere) with the Cartesian coordinates (1, −1, 1).



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11204176098.html





過去から未来への動きと未来から過去への動き

テーマ:manichaeism: 哲学

凸i*凹凹i⇒凹(−1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の光の方向であるが、前者は物質の世界であり、過去から未来へと時間が動くが、後者は精神の世界であるが、未来から過去へと時間が動くのではないだろうか。

参考:
スカラー波とは - 徹底検索、堀進 - Yahoo!ブログ
超光速が相対論によって無いことになっているのは、超光速であると因果律が逆転するからである。つまり過去から未来へ伝わる波だけでなく、未来から過去へ 伝わる波も存在することになるからである。しかし、云わば量子の内部で超光速であって、外部からこの量子の動きを見ると光速以下になるようになっているの で、その範囲では因果律の逆転は起きないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/11334501.html
徹底検索、堀進


Nikola Tesla - Wikipedia, the free encyclopedia

Longitudinal wave - Wikipedia, the free encyclopedia
Longitudinal waves, as known as "l-waves", which are waves that have the same direction of vibration as their direction of travel, which means that the movement of the medium is in the same direction as or the opposite direction to the motion of the wave. Mechanical longitudinal waves have been also referred to as compressional waves or compression waves.

Electromagnetic
Maxwell's equations lead to the prediction of electromagnetic waves in a vacuum, which are transverse (in that the electric fields and magnetic fields vary perpendicularly to the direction of propagation).[2] However, waves can exist in plasma or confined spaces. These are called plasma waves and can be longitudinal, transverse, or a mixture of both.[2] [3] Plasma waves can also occur in force-free magnetic fields.
In the early development of electromagnetism there was some suggesting that longitudinal electromagnetic waves existed in a vacuum. After Heaviside's attempts to generalize Maxwell's equations, Heaviside came to the conclusion that electromagnetic waves were not to be found as longitudinal waves in "free space " or homogeneous media.[4] But Maxwell's equations do lead to the appearance of longitudinal waves under some circumstances in either plasma waves or guided waves. Basically distinct from the "free-space" waves, such as those studied by Hertz in his UHF experiments, are Zenneck waves .[5] The longitudinal mode of a resonant cavity is a particular standing wave pattern formed by waves confined in a cavity. The longitudinal modes correspond to the wavelengths of the wave which are reinforced by constructive interference after many reflections from the cavity's reflecting surfaces. Recently, Haifeng Wang et al. proposed a method that can generate a longitudinal electromagnetic (light) wave in free space, and this wave can propagate without divergence for a few wavelengths.[6]


http://en.wikipedia.org/wiki/Longitudinal_wave





作業仮説:三次元座標としての認識世界

テーマ:manichaeism: 哲学

凸iと凹iをガウス平面に直交する軸(z軸)としたい。だから、ガウス平面での空間・時間方程式の記述は凸j*凹j⇒凸(+1)としたい。凸jが空間形式であり、凹jが時間形式である。それらはy軸を形成する。
 そして、凸iを純粋悟性(純粋自我)、凹iを純粋他者にしたい。
 凸iと凹iは時計回りにπ/2回転して、凸jと凹jに変換するとしたい。(この回転力学は後で検討したい。)
 z軸とy軸が超越論的軸である。x軸が経験軸(物質軸)である。そして、純粋理性とは、z軸におけるmedia pointの力学知性ではないだろうか。
 今は問題提起に留める。





現代日本人は他者凹iを排除するので、異常、病的、痴愚的になっている

テーマ:日本亡国の凶相

結局、現代日本の病巣とは凹iの排除にあると思う。即ち、内的他者(差異)、肚、魂の否定である。
 そう、日本伝統文化の廃棄である。これは、GHQやその後の米国の洗脳に拠ると考えられる。
 駄目な日本人。己の民族的文化を廃棄してしまっているのである。魂を棄てているのである。
 つまり、亡魂の民である。ロボット人間である。

追記:より精緻に言えば、凸iという純粋自我「わたしich」の喪失がある。
 凹iが廃棄されているのも、結局、「わたし」が存しないからである。集団我があるだけである。
 結局、純粋自我(純粋悟性)凸iを表わす主語のない日本語は致命的である。日本人は外国語、とりわけ、欧米語を学ぶ必要がある。
 日本語しか理解しない日本人は「未開」状態である。近代以前なのである。


2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。
 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。
 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。
 問題は、連続化である。

1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。

2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。
 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。)
 
1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。
 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。
 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。
 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。
 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。
 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。
 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。
 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。
 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。
 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。
 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。
 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。
 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。
 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。
 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。
 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。
 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。)
 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。
 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。
 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。
 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。
 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。
 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。
 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。
 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。
 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。
 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。
 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。
 これは、凸i☯凹i⇒凹(−1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。

追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(−1)である。
 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。
 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。


参考:人間認識図
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208







PS理論の根本的修正へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。
 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。
 重大の問題の一つは、「自我」である。
 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。
 また、「自我」と同一性の問題がある。
 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。
 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。
 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。
 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。
 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。
 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。)
 この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(−1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)である。これは、イデア化であろう。
 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。
 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。
 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。
 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。
 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。
 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。)
 ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。
 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。
 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。
 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。
 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。
 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。
 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。
 今はここで留める。
 
追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(−1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。

追記2:肝心なことを書くのを忘れた。
 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。
 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。
 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。
 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。

追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。
 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。
 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(−1)である。
 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。
 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。
 このような意味でロレンスの近代西欧文化、キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。
 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。
 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。
 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(−1)に到達したのである。
 





「聖霊」の力学

テーマ:manichaeism: 哲学

フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。
 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。
 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。
 今は指摘で留める。

追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。
 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。
 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。
 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。
 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。
 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。
 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。
 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(−1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。 



2012年03月02日(Fri)▲ページの先頭へ
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位

テーマ:media point

男性は女性の言動を見ると、不合理、異常、病的に思うことがあるが、女性が男性を見ると、馬鹿と思うのではないだろうか。
 結局、昔から言われていることは間違ってはいない。
 女性は凹iの感性感情欲望が優位なのであり、男性は凸iの原自我、同一性志向が優位であると考えれば、簡単に解明・解決できる。(尚、本稿では、後期PS理論に基づいている。Neo-PS理論の場合は三次元になるが、後期PS理論はガウス平面が知的インフラである。)
 だから、女性はその意味で不合理の塊と言えようし、男性は直観力の乏しい愚物である。
 凸iと凹iは互いに絶対的差異であり、絶対的矛盾である。これは、そのままでは、コミュニケーションは不可能である。
 しかしながら、PS理論はこれを差異共振、media pointによって簡単に解決するのである。
 そう、母権と父権の相克していたD. H. ロレンスは、晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』で、この矛盾をPS理論を先取りするように解決したのである。
 女性は知性や理性の存在ではなく、感性、感情、直観の存在であり、男性は同一性的知性の存在である。共役不可能(通約不可能性 - Wikipedia )な存在であるが、PS理論がこの問題を解決・解明したのである。

追記:上述のことは実はそれほど重要なことではない。ある意味で陳腐な真理である。
 実はそこからの発展が実に重大なのである。
 即ち、私が先に自我について問題にしたが、実は同一性主義の根因は凸iではなく、凹iではないかと思われるのである。つまり、単に凸iが優位ならば、それは、悟性を意味するので、同一性を志向しても、同一性主義、同一性中心主義にはならないと考えられる。
 凹i優位があるために、それが同一性に感情固着をもたらして、同一性主義、同一性中心主義になると思われるのである。
 つまり、連続性が生起する時、精神的フィルターによって、同一性化が生じるが、そのとき、凸iに凹iが連続化、接着化して、凹iのもつ感情性が同一性に加わり、同一性主義、同一性中心主義になると考えられる。
 ここで、飛躍して言うと、日本文化は母権主義と父権主義の結合から生まれたとこれまで述べてきたが、思うに、前者は凹i主義で、後者は凸i主義である。両者のバランスが優れた日本文化を生んできたと考えられる。そう、古代ギリシア的である。
 そして、これまで、明治維新以降の近代日本、現代日本は、父権主義に傾斜してしまい、母権主義を喪失したと述べたが、本稿の視点からするとそれは、間違いである。
 明治維新は一見父権主義的だが、本稿の視点から見ると、実は、ベースの凹iが強く作用して、同一性主義、同一性中心主義を生んだと考えなくてはならない。
 つまり、明治維新は母権主義的なのである。これまでの考えと真逆である。
 実は父権、凸iが足りないのである。そのために、凹iに支配された同一性主義が近代日本、現代日本に支配的になったのである。これで日本人の没思考性、没個性等が説明できる。
 この視点をさらに敷延すると、一神教の謎も解明できる。実はルドルフ・シュタイナーがヤハウェは「キリスト」がいわば、陰化したものであると述べている を以前から不思議な考えと思っていたのであるが、本稿の凹i支配の同一性主義の視点からすると、ヤハウェの基盤は凹iに存するのであり、それが、連続化に よって、同一性主義、同一性中心主義になったと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェの本性は光(陽、凸i)ではなく、闇(陰、凹i)なのである。それが、凸iと連続化して、同一性的神、唯一神を産んだと考えられるのである。
 つまり、ヤハウェは母権的なのである。女性的なのである。「我は嫉妬深い神である。」「復讐するは吾にあり。」
 そして、イエス・キリストとはその連続的同一性を切断する不連続性の神であると考えられる。
 つまり、凹iと凸iの癒着を断ち切ったと考えられるのである。
 それは実際どういうことなのだろうか。連続的同一性の自我感情を否定して、他者への共感を説いたのである。そう、他者主義を説いたのである。
 この場合、凹i−1を説いたと考えられる。第三象限である。
 核心は思うに凸iによる認識を介して、他者凹iの発見することである。それまで、凹iは同一性化されて、他者ではなく、自我化されていたと考えられる。
 これは、正に、差異共振、精神的差異共振、自己差異共振である。
 だから、その意味では、PS理論の先駆者はイエス・キリストであると言うことが可能である。
 とまれ、重要なポイントはヤハウェ(「父」)は、凹iに存するであるが、キリスト(「子」)は、人間的差異共振原理を覚醒させたと言えよう。それは、media pointの新生である。
 つまり、ヤハウェは凹iに基づく、同一性原理をもたらした。それに対して、キリストは凹i☯凸i⇒凹(−1)の差異共振原理をもたらしたということになる。ヤハウェの同一性、連続性原理に対して、キリストは差異・他者原理をもたらしたということになる。
 ヤハウェが母権原理ならば、キリストは父権原理を強化して、母権原理の差異・他者性の発見を説いたと思われるのである。言い換えると、父権と母権の均衡を説いたのである。だから、その意味で、キリストとは古代ギリシアの延長であると言えよう。
 とまれ、今はここで留める。
 
追記:「聖霊」について述べていなかったが、それはどう定式化されるだろうか。
 キリストが他者原理凹i⇒凹(−1)ないし凹i−1を説いたとすれば、「聖霊」は既述したように、やはり、media pointである。そう、media pointの新生的覚醒である。
 Neo-PS理論で言えば、3D media pointの開花である。このとき、精神と自然と人間が融合し調和するのである。





自我(凸又は+1)の他者排除性と人間認識図

テーマ:media point

本件は検討問題ということにしておく。
 一つは自我の他者排除主義について、再考したい。これは、自我、自己同一性によって簡単に説明できるが、一体、自我に拠る他者排除の意味を考えたいのである。
 もう一つは、人間認識図において、自我的様態をどう位置付けることができるのかという問題である。
 生成門氏のa+biの考え方に、先に疑問符を付けたが、今の感じでは、π/2回転やπ回転以外にも、自我的様態がありえそうである。
 とまれ、自我は、凸i⇒凸(+1)である。凸iが原自我であり、凸(+1)が自我である。(尚、今の段階では、Neo-PS理論ではなく、ガウス平面を基盤としたPS理論を使用するが自我は凸又は+1とする。)
 とまれ、凸i⇒凸(+1)はもっともタイトな自我様態である。(これを1で問題にすることになるのである。)
 実際は緩い自我が一般的である。心的緩さとは、つまり、media pointないし凹iが意識的にしろ、無意識的にしろ、活動しているということである。
 つまり、凸iの強度と凹iの強度が併存しているのであるが、一般的には凸iが主導的である。
 だから、自我一般方程式はa凸i*b凹i⇒Ego Modeとなるのではないだろうか。つまり、二つの虚数、凸iと凹iが、自我的様態を数式化するとき必要なのである。(先には、精神は双極子であると述べたが、それは、二つ虚数が必要ということと同じ事柄である。)
 そのように定式化したとき、問題は、オイラーの公式との関係である。
 これは難しい問題だと思う。例えば、

a凸i⇒cosθ+i・sinθ

となるように、aを工夫する必要があるだろう。端的に計算すれば、

a=(cosθ+i・sinθ)/凸i=cosθ/凸i+sinθ/凸

=cosθ/凸i+sinθ

となるのではないだろうか。この妥当性は今は問わないでおく。
 次に、b凹iであるが、これは、

b凹i⇒cosθ−i・sinθ

と見ていいだろうか。これだとb凹iは共役複素数になる。それでいいのだろうか。
 私の先の直観では、凹iは凸iを反時計回りに、π/2回転させたものであるから、b凹iもなんらか、π/2回転と関係しそうなのである。
 だから、仮定として、b凹iはa凸iを反時計回りにπ/2回転した位置にあるとする。
 そうすると、

b凹i⇒cos(θ+π/2)+i・sin(θ+π/2)

ということになる。
 共役複素数がいいのか、それともπ/2回転した双極子と見た方がいいのか、それとも、別の考え(不明)がいいのだろうか。
 今は問題提起だけに留める。
 




美と自我:美術的美の自我的傾斜

テーマ:art & design

この問題は以前からの課題である。
 美的感覚には、道徳心が欠落するような感じがするのであるが、それを定見にはしていない。
 もっとも、私の美的認識では、美と倫理は離れていない。この齟齬をどう考えるべきか。
 思うに、美的認識は差異共振認識であり、それは基本的には誰にでも内在している。
 しかし、美術的美の場合、とりわけ、凸jの志向が強いと考えられる。つまり、精神的自我の光が強いということである。
 そう、このために、精神的差異共振主義を欠くので、道徳心・倫理が欠落する傾向にあるということと考えられる。

追記:しかしながら、感動を与える美術は、やはり、根本的に、差異共振主義が存すると考えられる。つまり、音楽的調和性である。
 すぐれた美術は音楽性がある。これは例証するまでもない。







個的自己(造語で個己、個自、あるいは個自己)とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

私は個とは他者凹jであると述べてきた。個=他者とはどういうことなのだろうか。つまり、「わたし」は「わたし」であるという個の視点から見て、これは齟齬する思考である。
 思うに、人間は自我(原自我凸j)に傾斜している存在である(今日において)。
 だから、他者凹jをそれとして認知するとき、凹j☯凸j⇒凹(−1)の精神事象が生起するのである。(シュタイナー的に言えば、「キリスト」である。)
 しかし、それは、同時に、凸j☯凹j⇒凹(−1)ということである。これが、一般の自然界にはあり得ない事象である。
 結局、原自我でありつつ、他者であるという即非的事象がここにある。それが、個的自己の事象であると思われる。
 つまり、個=他者とは、ベースに原自我が存しているのである。確かに、自我【凸(+1)】ではないが、原自我は存するのである。それが、知性の基盤である。
 今はここで留める。

追記:原自我凸jとはウパニシャッド哲学のアートマン(大我)であろう。





「イデア」ないしエイドスとは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

「イデア」は原像として捉えた方がいいのではないだろうか。理念や観念ではなく。
 今は一言言及するのみだが、差異共振のもつ原イメージがそれではないだろうか。即ち、

凹i☯凸i⇒凸(+1)

の氣的自然形成ならば、左辺に「イデア」(エイドス)が存するように思う。また、

凹j☯凸j⇒凸(+1)

の精神的差異共振においても、左辺に存すると思う。この場合は、「霊魂」、「魂」、「個」性のように思える。
 



2012年02月07日(Tue)▲ページの先頭へ
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振
テーマ:manichaeism: 哲学

先に、近代教育(正しく言えば、近代合理主義=唯物科学教育)を受ける以前には、連続性(連続的自己=自我)と原始差異共振が併存していると述べたが、後者はまだ明確にしていないので、検討したいが、今は予見のみである。
 原始差異共振とは未だに、凹iの主導性が残っている精神における共振様態(media point:以下、差異共振とmedia pointをほぼ同一視している)であると考えられる。
 逆に言えば、近代主義は明らかに、凸i+(プラス1)であり、凹iの主導性を否定するのである。つまり、近代主義は凸iに主導性があるのである。
 だから、明らかに、近代主義とは精神的価値逆転を意味するのである。近代的精神進化と言えよう。
 少しまとめると、近代以前においては、凹iの主導性があり、それによって原始差異共振(primitive media point:以下、pmp)が生起し、それが一般自然的な連続性(連続的自己)と併存した精神様態であったのであるが、近代的精神進化によって、凹iの主 導性が失われて、凸iが主導的になり、凸i+(プラス1)の近代的自我(近代合理主義的精神)が形成されたということである。
 近代進化によって原始差異共振pmpは失われたと言ったが、それは、否定され、排除され、潜在的様態になったと考えられる。
 そして、凸i+1の近代合理主義の邁進が起こったのであるが、文化史的には、それに対する反動の神秘的ロマン主義が起こったのである。これは、反動というのが的確である。何故なら、それは、原始差異共振pmpの後れた様態の再生であるからである。
 結局、凸i+1、ないし凸iの主導性において、新しい差異共振が起こらなければいけないのである。
 トランス・モダンとは、正にこのことである。凸i+1の支配において、新たに凹iを開拓することを意味する。
 この新しい凹iの開拓において、超越的理念(超越的精神)が形成されることになるのである。それが、復活したプラトン主義(超越論哲学)である(カントやフッサールがこの系譜である)。
 つまり、トランス・モダンとは、近代合理主義の支配における超越的理念、超越論哲学の形成を意味するのである。しかし、それは、新しい差異共振、超越論的差異共振、ないし、transcendental media point(以下、TMP)をもつのである。
 だから、この新たな差異共振、TMPは、原始差異共振とはまったく異なると言えよう。
 つまり、前者は知的な差異共振であり、原始差異共振の感情主導性とはまったく異なるということである。丁寧に言うと、知的差異共振は感情を包摂した超越 論的差異共振ということである。換言すると、凹iの主導性と凸iの主導性が結合した様態、即ち、絶対的即非共振であるということである。原始差異共振のと きは、凹iのみが主導的であったのである。
 さらに言い換えると、トランス・モダン差異共振とは、凸iと凹iとの完璧な調和的な、結晶的な共振を意味するということである。黄金の光がここにはあるだろう。そう、新しい太陽である。
 今はここで留める。






ハイパーな凸iから凸i(純光)へと移行したD. H. ロレンス文学・哲学:母権的父権主義
テーマ:media point

先に以下のように、ロレンスの中期までを解明したが、肝心の後期(晩年期)について述べていないので問題であるので、ここで簡単に触れたい。
• D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
先にロレンス中期のリーダーシップ小説期において、父権主義に傾斜したと述べたが、その後、ロレンスの思考は急展開して、母権主義へと傾斜するのである。それが、『死んだ男(逃げた雄鳥)』に表出されているのである。
 つまり、凸iの+1への傾斜を乗り越えて、凸iの含む、凹iへとロレンスは帰還したと考えられる。 つまり、純光の凸iへとロレンスは帰還・回帰したのである。
 これは、『黙示録論』の最後の言葉Start with the Sunに集約されていると言わざるをえない。
 凸iの超出(これは、全体主義に通じよう)を乗り越えて、ロレンスは、凸iの意味する凹iへと回帰したのである。
 まぁ、正に、驚くべき思考の成就である。ゲーテ/シュタイナーは、凸iの奢りを知らないのである。
 そう、光の奢りである。しかし、同時に闇の奢りである。この揺らぎは、今日的である。ゲーテ/シュタイナー路線は、優等生的で民衆的ではないのである。
 ロレンスの発想はゲーテのものに近いが、何故ロレンスがゲーテを嫌っていたのか、今や理解できる。
 即ち、ゲーテはいわば健全的過ぎたのである。民衆のもつ、「揺らぎ」が欠落しているのである。
 ロレンスのように、凸iにおいて揺らぐ方が本来的であると言えよう。
 揺らぎのないゲーテ/シュタイナーは実は胡散臭いのではないだろうか。






D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンス文学・哲学は、前期において、三位一体論を創造的に活用した「王冠」哲学を構築した。それは、先に述べたように、ライオン(父)VSユニコーン(子)の極性対立とそれを超克する王冠(聖霊)の力学をもつ。
 しかし、中期(リーダーシップ小説期)において、ロレンスは強く父権主義に傾斜するのである。哲学的には、「王冠」哲学とは、陰陽的な原理であり、それ の特異点において、両者の相克が超克されて「聖霊」状態になるというものであり、あくまで、バランスを志向していたのであるが、中期において、バランス的 原理が崩壊して、父権主義、つまり、ライオン(父)へと傾斜して、ユニコーン(子)は否定されるようになるのである。
 私はこの原因を明確にはこれまで把握できなかった。しかしながら、先の生成門氏の鋭敏な洞察によって、道が開けたのである。(参照:感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150299525.html)
 つまり、ロレンスのライオン=父=感覚=闇とは、実は凸iの純光がベースにあるものと考えられるのである。そうすると、それは、当然、自我的になり、父権的なのである。
 故に、王冠哲学とは、精神性(ロレンスの闇)と物質性(ロレンスの光)の相克を意味することになるのであるが、物質主義、唯物論を憎んでいたロレンスで あるから、第一次世界大戦の大惨禍等を衝撃的に体験して、その力学が強く精神性に傾斜したということが十分納得のできることなのである。
 思うに、ロレンスの問題点は、一角獣=子=精神=光を中期において、物質主義に結びつけてしまった点にあると思う。
 思うに、本来、それは凹iの他者であるべきなのである。しかしながら、凸iによる同一性化を受けた凹i(物質)をロレンスはそこに見ていると考えられる。
 つまり、おそらく、初期哲学、王冠哲学においては、ユニコーン=子=精神=光はまだ、物質主義とは強固に結びついてはいなかったと思われる。単に精神的原理だった思われる。
 しかしながら、凸iの支配(自我支配)をもつロレンスであるから、当然、ユニコーン=子=精神=光の原理が物質主義、物質科学、機械文明に結びつくのは必然性があったと言えよう。
 そう、結局、王冠哲学の問題、ロレンス哲学の問題は、凸iの支配にあると言えよう。それは純光であり、また、純自我である。その自我は当然父権的であるからこそ、中期において、ロレンスは父権主義に傾斜したことの力学がここで解明されたことになるのである。 







色彩とは何か:純色彩と濁色彩:虚数(精神)的色彩を解放せよ!
テーマ:art & design
今は簡単に述べる。
 先に色彩を解放せよと提唱したが、その色彩は単なる色ではない。私のファッション・センス(あればの話だが)から言うと、一般に現代日本人の色彩感覚は濁っているのである。
 私の言う色彩はいわば純色彩である。清澄な色彩である。つまり、純光と純闇の共振による「純色」的色彩である。
 言い換えると、精神的色彩である。あるいは、魂的色彩である。ルドルフ・シュタイナーが多くの色彩論を述べているが、私の直観は少し異なる。
 おそらく、イタリア人は私のいう色彩、純色彩をほぼ理解するだろう。しかし、やはり、少し違う。
 基本的には自然にある色彩である。それは澄明で美しいのである。しかし、今日の日本人の多くの色彩感覚は濁ったものである。
 PS理論から言えば、凸iの純光と凹iの純闇の共振した「光」の色彩、その「光」のスペクトラムである。
 つまり、陰凹iと共振した陽凸iの光の色彩なのである。この色彩感はルキノ・ヴィスコンティが映画で表出していると思う。彼の色彩感の深さ、高濃度は、驚異的である。
 思うに、ここでも、虚数(精神)濃度が使用できる、すべきであろう。あるいは、生成門氏のオイラーの公式/ガウス平面的精神マップが使用できよう。
 つまり、純粋虚数濃度、実数絶対ゼロ度のガウス平面である。
 しかし、マイナスの実数は純度が増すのではないだろうか。これは検討課題である。
 結局、虚数(精神)的色彩を解放せよというのが私の本意・真意である。

参考:

ルキノ・ヴィスコンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



2011年11月30日(Wed)▲ページの先頭へ
「わたしich」とは何か
シュタイナーの霊学を読むと、結局、「わたし」ichとは何かが究極の問題であるのがわかる。
 先に、アストラル体は凹i、エーテル体は凸iではないかと示唆した。問題は「わたし」である。
 今想起したのは、以前、Kaisetsu氏が説いた分数公理である。

凹(−1)⇔凸i/凹i

が成立するのではないだろうか。というか、これを作業仮説としよう。
 思うに、これが「わたし」、ich、I である。あえて言えば、右辺である。
 そして、重要なポイントは凹i(陰)である。これがベースである。
 とまれ、これが意味するのは、「わたし」(自己)が根源から発生する最初期の存在であり、アストラル体(凹i)とエーテル体(凸i)はそれの派生であるということ、ないしは、同時期であるということである。
 また、思うに、これこそ、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を意味するのではないだろうか。即ち、汝は凸i/凹iであり、それが凹である。
 今はここで留める。

追記:

凹(−1)⇔凸i/凹i

ではなく、

凹(−1)⇒凸i/凹i

の方が正確ではないだろうか。「わたしich」は超越的存在凹(−1)を感じるが、それは、D. H. ロレンスが言うように、正に、Unknown Godであろう。凹(−1)は不可知であると言うべきだろう。
 とまれ、右辺の「自己」は第三象限に属すと考えられる。

参考:

《ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


2011年09月13日(Tue)▲ページの先頭へ
D.H.ロレンスの無意識論:内身体的十字的四相無意識論
ロレンスは、フロイトの無意識論を乗り越える独創的無意識論をつくった。
 それは、solar plexus⇔lumbar ganglionとcardiac plexus⇔thoracic ganglionの二つの極性からなるのである。
 それを人間認識図に当てはめられるならば、solar plexusは第三象限、lumbar ganglionが第二象限、cardiac plexusが第四象限、thoracic ganglionが第一象限になるだろうか。
 solar plexusは宇宙との一体性であり、lumbar ganglionは絶対的差異性であり、cardiac plexusは母自身(物自体)であり、thoracic ganglionは客体認識性である。
 cardiac plexusを第四象限に置くのは問題があるように思うが。
 別の考え方をすれば、solar plexusを凹i、−iに、lumbar ganglionを凸i、+1、そして、cardiac plexusを凹、−1に、thoracic ganglionを凸、+1にあてるのであるが、この方が、適切かもしれない。
 とまれ、余裕のあるとき検討したい。

参照:人間認識図

resurrectionのブログ


Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious (The Cambridge Edition of the Works of D. H. Lawrence) D. H. Lawrence、 Bruce Steele (ハードカバー - 2004/7/29)

D・H・ロレンス紀行・評論選集 5

精神分析と無意識.無意識の幻想 D.H.ロレンス紀行・評論選集   5


D・H・ロレンス紀行・評論選集 5 D.H.ロレンス紀行・評論選集   5

☆☆☆☆☆ (0点/5点満点) 商品クチコミ(0件)


D・H・ロレンス/著
南雲堂
1987年09月発行

販売価格: 4,077円

絶版重版未定


参照:


自律神経系 - Wikipedia

自律神経系の解剖学 [編集 ]
図1: 右交感神経鎖と胸部、腹部、骨盤の神経叢とその接続。(Schwalbeによる修正後)

交感神経系の末梢部は多数の神経節と複雑な神経叢の存在によって特徴付けられる。これらの神経節は遠心性または神経節前交感神経、即ち頭蓋、胸腰、および仙骨の3つのグループによって中枢神経系に接続される。自律神経のこれらの出力は接続が存在しない間隔で分けられる。

John Newport Langleyはグレイの解剖学 で使われている用語や薬理学 での用語ともいくらか異なった用語の使い方をした。以下の表における、用語の配置で示されるように、 これはかなりの混乱を招いた。また、Walter Holbrook Gaskellは不随意神経系という用語を使用した。


・・・・・


脊髄神経との接続 [編集 ]

交感神経と脊髄神経は灰白及び白交通枝を通して連絡している。灰白交通枝は交感線維を脊髄神経へ運び、白交通枝は脊髄線維を交感神経へ伝える。それぞれの脊髄神経は交感神経幹から灰白交通枝を受け取っているが、白交通枝は全ての脊髄神経から出てはいない。白交通枝は第一頚から第一腰神経までから分岐する一方、第二、第三、第四仙髄神経から直接骨盤神経叢へ向かう臓側枝がこの部類に入る。白交通枝を通して交感神経に届く繊維は有髄で、交感神経節の細胞から起こるこれらは殆ど完全に無髄である。 交感神経は遠心性と求心性の線維から構成される。3つの大きな結節した神経叢(側副神経叢)が胸部、腹部、骨盤部の脊柱の前に位置していて、それぞれ心臓神経叢、太陽神経叢、下腹神経叢と名付けられた。それらは神経と神経叢の集合体を構成、それらは交感神経幹と脳脊髄神経から分岐した神経に属する。それらは内臓に分枝を伸ばしている。


2011年09月10日(Sat)▲ページの先頭へ
現代日本人は二項対立的同一性自己意識になっている:差異、他者を否定排除する
同一性(正確に言えば、連続的同一性)が日本を支配している。シュタイナー的に言えば、アーリマンの支配である。自我悪魔である。
 この異常に気づいたのは、1970年代後半である。とまれ、日本人の自我中心化が始まった。ほぼロッキード事件と重なる頃である。
 PS理論で言えば、凸i、iと凸、+1の結合が固着的になったことを意味する。人間認識図では第一象限に位置する。
 そして、media pointが劣化して、凹i、-iは凸、+1と癒着して、悪意が生まれる。第四象限化である。第一象限+第四象限の同一性自己意識、即ち、自我意識が現代日本人の意識と言えよう。政治家の場合は第四象限が強力である。
 そう、怨恨(ルサンチマン)、嫉妬、憎悪、嫌悪、邪悪さ等は第四象限であり、大半の日本人の意識がこれに染まっている。
 (連続的)同一性の肥大化、ここに現代日本人の「精神」の根本問題がある。物質主義化である。
 精神を脱物質化する必要がある。不可視の宇宙(cosmos)と一体化する必要がある。
 最後に第一象限と第四象限の結合した同一性自己意識=自我意識は二項対立的で、自我凸i・凸(+1)中心に他者凹i、-iを否定排除する。
 自我凸i・凸(+1)は否定の凹i・凸(+1)をもっている。

追記:私は同一性自己を父権的と捉えている。これは、私見では、国学、本居宣長に発する。それが、尊王攘夷に繋がり、明治以降、今日の支配層の精神構造となっていると思う。
 大国主命に発するような母権的差異的自己の日本、母権的日本はほぼ殲滅されてしまった。今では、「僻地」や沖縄に残っているに過ぎない。
 そう、原発問題もこれに発する。


参考:人間認識図


resurrectionのブログ



2011年09月02日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:光自己認識方程式と生命体:光と闇への螺旋的回帰:光・父と闇・母の対称的一致
Kaisetsu氏は以下のように定式化した。

凸光の自己認識方程式
凸(+1)⇒i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒凸(+1)

私が、今日ふと思ったのは、植物の種子形成はi/1ではないかということである。生成門氏はi/1を子⇒母と説明した。そして、1/iが母⇒子である。
 植物の生長は初期、前期は1/iが主導的であり、蕾をつけ、花を開き、結実する後期の過程は、i/1が主導的ではないかと思うのである。つまり、生長前期は母⇒子の過程が主導・優位的であり、生長後期は子⇒母の過程が主導・優位的になるということである。

言い換えると、種子とは次世代を生む物質体であり、それは、根源への回帰と考えられるので、上記のように考えたのである。すなわち、前期プロセスが精神⇒物質であり、後期プロセスは物質⇒精神ということである。

この二重螺旋の様態を植物ないし生命体の螺旋的回帰と呼んでもいいだろう。母への回帰、あるいは、精神(霊)的回帰である。つまり、種子の中に遺伝子として、精神(霊)的情報が形成されるということである。(思うに、獲得遺伝というはある。個体は「経験」をmedia pointに「スキャン」していると思われるのである。この点は既述した。遺伝子情報とはi*(−i)のmedia point recordではないだろうか。)

さて、そのように考えると、問題は、螺旋的回帰、精神(霊)的回帰とは、精神としての光へと回帰であることをどう考えるのかということである。

当然ながら、この場合、回帰は母への回帰であるが、iへの回帰は母ではなく、父である。この齟齬をどう解消するのか。

ここで単純素朴な事実に即して、考えてみよう。結実した実・果実は、そのままにしておけが、当然ながら、地上へと落下・降下するのである。それは、←の方向、重力の方向である。

つまり、⇒が天への方向ならば、←は地への方向であり、それは、凹(−1)を志向しているのではないだろうか。あるいは、media pointである。

直観で言うと、光の自己認識方程式は、闇の自己認識方程式を示唆しているのである。精神としての光は父であるが、螺旋的回帰は母への回帰であり、それは−iを示唆するのである。

思考実験ないし作業仮説であるが、i/1は−i/iを示唆しているのである。そして、



−i/i⇒i/(−i)⇒凹(−1)



となる。

 とまれ、単純に考えれば、精神としての光i(陽:光と陽を今は同一視している。後で再考したい)は、当然、陰陽体から母としての闇−iを対極的に帯びているのである。

だから、光の自己認識方程式とは実質的に闇の自己認識方程式を内包していると言えるのではないだろうか。先に、その点について言及したのであるが。(参照:http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11002414895.html)

言い換えると、光は同時に闇を形成しているのである。光と闇は一体であるということである。思うに、一種の「鏡の国」がそこにはあると考えられる。否、「不思議の国」かもしれない。

問題は上下(天地)反転と左右反転の問題に関係してくると考えられる。⇒凸を天の方向とすれば、←は地の方向であるから、それは、上下(天地)反転となる。しかしながら、PS理論が薄平面では、左右反転となるのである。

また、上記で、iを光と呼んだことも関係している。すなわち、iを天=父、−iを地=母と上記では直観されているのであるから、結局、天地は実軸なのか、虚軸なのか、それとも両方なのか。それとも、両方以外なのか。

どうも発想の転換が必要のようである。ここでも思考実験であるが、iへの回帰とは、反時計回りπ/4回転ではないだろうか。そうならば、天は⇒の実軸から虚軸へと変換すると考えられるのである。そして、また、同時に、−iも喚起されているから、時計回りπ/4回転も生起していると推察できるのである。

そうならば、結局、天地は垂直に捩れるのである。そう、垂直の捩れが端的に、天の方向ではないだろうか。同時に、地もそうである。

そう見ると、これまで、iを陽とし、凸(+1)を光と峻別したが、iが光に生成することはまったく問題がないことになる。すなわち、陽⇒光⇒陽であり、陰⇒闇⇒陰である。端的に、



i⇒凸⇒i



−i⇒凹⇒−i



である。

 今はここで留めておく。


2011年08月30日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:光自己認識方程式と闇自己認識方程式
検討問題:光自己認識方程式と闇自己認識方程式

1)materialityとphysicalityは同じものか:直観では異なる。前者は同一性としての体bodyであり、後者は差異としての体bodyである。

2)光的自己認識方程式は絵画だけではなく、音楽にも、とりわけ、バッハのフーガに適用できるだろう。一般には、ポリフォニーの解明がそれでできるだろう。【予備考察:(1/i)*(i/1)は例えば、主旋律をiとすれば、副旋律が1となるだろう。しかし、副旋律1は逆に主となり、主旋律iを指し示すのである。バッハのフーガは正に、ルネ・マグリットのような陰陽的絵画に似ていると考えられる。】

3)i/iとは思うに、media pointの差異共振様態を示しているのではないのか。私はi/-i⇒−1になることに注意した。これをKaisetsu氏の新しい分数理論(哲学)に拠って考えれば、-iが分母でiが分子だから、ベクトルの根元が-iで先端がiである。これは、陰から陽へと向かうことで、即非差異共振様態をもたらすのである。それは、-i/iとは正反対である。それは、父権的ないし近代的連続的自己様態をもたらすのである。しかし、それも⇒−1になる。しかしながら、それは、第二象限的−1であろう。それに対して、i/-iの場合は、第三象限的−1を意味しよう。
 ここで変形して考えてみよう。

(-i/i)*(i/-i)⇒+1

言い換えると、

(陽⇒陰)*(陰⇒陽)⇒+1(物質現象、自我現象)

あるいは、

第二象限*第三象限⇒第一象限(*第四象限?)

である。
 これは人類の精神の脱物質化ないし脱自我化への至難の業を提示しているのではないだろうか。なぜなら、超越性(−1)への志向性が存しても、陰陽力学によって、+1(物質、自我)へと絡めとられてしまうことを意味すると考えられるからである。
 問題は積ないし精神的フィルターの作用である連続的同一性に拠ると言えよう。思うに、宗教が権威化、権力化するのは、ここの起因があるのではないだろうか。超越性凹(−1)は直観しているのに、現象化して、物質化、自我かしてしまうからである。
 不連続化とは、-i/iの作用を停止、静止させることではないだろうか。そうすると、

(-i/i)*(i/-i)⇒i*(i/-i)⇒-i

となるだろう。つまり、これが瞑想の作用ではないだろうか。精神は-iになるのである。そして、i/-i⇒−1を付加すると、−1-iである。これは正に第三象限である。
 ここで付加(加算)とは何かを考えるべきである。それは、

複素数様態=実数様態(存在様態)+虚数様態(精神様態)

ということではないだろうか。瞑想ないし空様態とは、精神を負の虚数精神様態+負の実数存在様態になるということではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:闇または陰陽自己認識方程式?

凹(−1)⇒i/(-i)⇒(i/1)*(1/-i)⇒−〔(-i/1)*(1/i)〕⇒−凸(+1)

i/1は1⇒iだから、物質から陽への志向、1/-iは陰から物質への志向性。前者はわかりやすいが、後者が何を意味するのか難しい。今、当てずっぽうで言えば、前者は頭脳であり、後者は肚ではないのか。言い換えると、上丹田と下丹田である。つまり、差異即非共振のmedia pointではないのか。中丹田の均衡調和である。
 しかし、興味深いのは光と闇は符号が違うだけで形式は同じであることである。ここで、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を想起する。
 ところで、上下反転と左右反転は意味合いが違うのではないだろうか。上下反転はやはり、上に優位性があり、下が劣位ではないだろうか。それに対して、左右反転の場合はどうだろうか。優劣があったとしても、上下反転ほどではないだろう。果たして、左右は優劣があるのか。西洋では、右が優位であり、左が劣位である。rightは正義であり、左はsinistraからわかるように悪である。
 普通、鏡で見てもそれほど違和感はないが、上下反転は違和感がある。明らかにヒエラルキーがあるのであるし、上意下達である。
 とまれ、上(天)は、⇒ではないだろうか。下(地)は←ではないだろうか。180度回転、i^2回転である。そう、思うに、『不思議の国のアリス』のオリジナルは『地下の国のアリス』であった。地下への落下を意味する。それは、−1の世界への降下では。
 PS理論ガウス平面では、上下が実軸になるのか。それとも、虚軸なのか。
 いろいろ検討したいことはあるが、今はここで留める。

 
参考:

『指し示し分割と「指し示し分数」概念の提示』

通常、分数は、スカラー量として把握されるが、

海舌(明日野)は、分数に、方向性、矢印を持ち込む。

 つまり、

分数表記に、「分子が矢印の先で分母が矢印の根元、というような関係」を持ち込むのである。

量としての、分数の機能も保持する。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813125


『【凸光の一般自己認識方程式】 認識対象の回転と凸光自己認識の差異認識』


凸光の自己認識方程式
凸(+1)⇒i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒凸(+1)

を、より、一般化する必要がある。

i=e^i(1/2π)

であり、iとなるのは、θがπ/2などの特別な数値の場合のみであるから、

一般化すると、

Q(θ) = q = e^iθ

である。ここで、Q(θ) = q はθの関数である。

一般化しても、凸光の自己認識方程式
凸(+1)⇒i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒凸(+1)

は成立する。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813123

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile



参聴:
Bach - The Art of Fugue, BWV 1080 [complete on Organ]
Herbert Tachezi, organ


2011年08月27日(Sat)▲ページの先頭へ
光が自己を認識する過程を多角的に捉えることが可能になるということらしい
光が自己を認識する過程を多角的に捉えることが可能になるということらしい
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
以下、生成門氏によるKaisetsu氏の「光の自己認識方程式」の解明をざっと読んだが、たいへん意味深長で、刺激的である。精読して、後でコメントしたい。

光による自己認識方程式 (0)

光による自己認識方程式
<PS理論の深化>

海舌氏がまたPS理論を発展させてくれました。応用を目論む四次元能としては嬉しい限りです。早速、その内容の理解に取り組みましょう。

詳しくは「光の思考類推:自己認識方程式の若干の変形」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813113
を参照してください。

以下は、その内容を元にして私が解釈したことです。

自己認識方程式:(i)*(-i)⇒+1
これは凸i*凹-i⇒+1とも表現します。

これを、海舌氏は次のように変形しています。
i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒+1⇒i/i

このように変形する理由は何でしょうか。また、どのような御利益があるのでしょうか。

それは、光が自己を認識する過程を多角的に捉えることが可能になるということらしいのです。

どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。

先ず、式は分数で表現されています。一体、認識という過程に分数という数学的表現がどうして出てくるのでしょうか。

分数の意味を考えて見ましょう。

分数とは、文字通り分けたれた数であり、一般的にはa/bと表現します。パンを半分に分けて食べようなどと言いますが、そのときは、一つを半分にするのですから、1=1/2+1/2と表現できるでしょう。

私とあなたが半分づつ(1/2)手にしているのですが、私とあなたでは1です。

分母の2の意味は、私とあなたの2であり、分子の1は、互いに手にした持分です。元の1は私とあなたに分離する前の1です。同じ1でも私の1、あなたの1と、私とあなたの1があります。

これだけ見ても分数というのは奥が深いですね。これ以上の学的な解釈は私には出来ませんので、海舌氏の説明を要約します。

分数とは、
1. 分子を分母が包む
2. 分母の上に分子が置かれる
3. 分子が分母に支配される
4. 分母の背景に分子が存在する
5. 分子が矢印の先で分母が矢印の根元

というような関係であると言っています。
http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」

追記:以下、生成門氏の考察に対するRenshiのコメントである。



[708] Re:光による自己認識方程式
>> 返信元メッセージを表示
From: Renshi

生成門さん

ご無沙汰しています。

さて、本稿の解説は実に洞察に満ちていると思います。私はKaisetsu氏の光自己認識方程式の意味がすぐにわからなかったですが、生成門氏の分数等の説明が明快です。
 この新しい自己認識方程式の驚異的な点は、
i*(-i)⇒+1⇒i/i⇒i*1/i⇒(i/1)*(1/i)
となることです。
 +1は連続的同一性(物質ないし自我)ですが、それが、虚数的に即非共振様態に変換していることです。正に、正確な自己認識です。
 色々言いたいことがありますが、紙幅の都合、一点言いますと、母⇒子と子⇒母ですが、
後者は「先祖返り」です。始原への回帰です。それは、media pointへの回帰だと思います。そして、それは、実は−1に通じていると思います。光と闇が一致します。

http://www.c-player.com/ad00178/message


2011年07月22日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論的自己様態と連続的自己様態:新母権的自己様態と父権的自己様態:「わたし」とは何か
今はざっと言う。
 PS理論は不連続的差異論からの発展・進展である。根本は不連続性である。
 では、これはPS理論的にはどういうことなのか。もっとも復習になるが。
 凸i*凹iが凸(+1)になるが、それが連続的自己(=自我)である。本来、極性であるものが、同一性化されるのである。
 そこにおいて、凹i(他者)が開けても、連続化されているので、差異化されずに、同一性を引きずるのである。つまり、純粋差異、純粋差異共振は生起しないのである。
 思うに、誤まれる神秘主義はそれであるし、ポスト・モダン(ポスト構造主義)もそれであると考えられる。
 ここにおいて、不連続化の意義があるのである。不連続化、切断によって、差異と同一性が絶対的に分離するのである。すなわち、差異共振様態と連続的同一性様態に分離するのである。それらは言い換えると、精神様態と物質様態である。
 では、本件の問題を考えると、自己とは当然、両者をもつものである。自我とは後者である。
 では個とは何か。私はこれまで、個=他者であると言ってきた。すると、個とは純粋差異における凹iのことであると考えられる。つまり、自己における他者というlことになる。
 最後に、シュタイナーのichであるが、それは、自我というよりは、自己であるが、正確に言うと、差異共振様態と連続的様態の並立であろう。
 物質世界に生きる為には、自我(連続態)は必要であるが、それは、仮象的である。根本、本質は差異共振様態である。
 
追記:問題の一つは、凸iとは具体的に何かということである。
 連続的自己において、凸iと凸が一体化する。同一性的自己である。
 では、純粋な凸iとは何かである。凸(+1)とは分離している凸iとは何か、である。凹iは他者であるにのに対して、凸iとは何か、である。
 これは、父権的自己ではないだろうか。それに対して、凹iは母権的自己ということではないだろうか。
 プラトンのコーラとは後者ではないだろうか。
 男性的自己の尊大さは、凸iに拠るだろう。そして、それが、凸(+1)と連続化して、同一性自己(自我)となる。それは又、近代合理主義の原型と思われる。
 次に、個について再考したい。直観では個は確かに、凹iを指すものの、凸iが存在が微妙である。
 しかし、今、凸iを父権的自己としたのだから、個である凹iは凸iとは直接関係をもたないのではないか。
 個は凸i的な尊大さを否定するものである。つまり、凸i*凹iにおいて、凹iに傾斜があると思われる。
 凹iに傾斜をもたせることによって、脱父権的自己になると思われるのである。
 直観では、凸iは存するが、静止的、空的になっているのである。単に容物的である。同一性の容物である。そして、主体は他者


2011年06月18日(Sat)▲ページの先頭へ
凸i(+i)と凸(+1)の関係構造の解明:物質過程から精神過程への不連続的反転
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

PS理論では凸iと凹i(ないし凹iと凸i)の共振が核心である。それはまた、media point(以下、m.p.)と関係する。
 余裕がないので検討できないが、一言いうと、m.p.の構造は二重である。奥(虚軸)では差異共振であるが、物質産出過程では、実軸が中心となり、凸iと凸(物質)が結合するようになるのである。
 その理由は人間は凸iに傾斜しているためである。凸iと凸の結合が物質的認識を形成するのである。大脳皮質の発達となる。
 そして、マイナーな凹iは隠蔽されるようになるのである。そのために、虚軸のm.p.での差異共振が埋れたままになるのである。
 人間認識の問題は凸iの傾斜があるために、物質と精神が連続化していることである。精神は物質から説明されるようになるのである。唯物論。
 結局、⇒凸において、⇒の起点に、つまり、本来のm.p.に移行する力学をどう解明するのかである。
 この問題はだいぶ以前に何回も言及した。繰り返しになるが、最初は⇒凸の形成、物質的身体や物質的認識の形成が為され、その後、反転して、m.p.に回帰する運動を考えてみるのである。
 簡単に言えば、最初はプラス・エネルギーが発動し、その後、反転してマイナス・エネルギーが発動するということである。そして、後者が精神を発達させるのである。この反転は不連続であり、切断である。
 物質界への志向から精神界への志向へとチェンジするのである。それは、マイナーであった凹iが前面に出てくる過程でもある。それが、凸iと共振して、超越的存在凹に連絡するのである。
 しかし、差異共振は凸iでは認識できない。それは、凹iの直観・直感に拠るのである。そのため、第三象限が超越界となるのである。

参考:人間認識図(Kaisetsu氏)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1709.html


2011年05月24日(Tue)▲ページの先頭へ
試論:生命体とエネルギー:差異共振遺伝子と外部差異共振エネルギーの融合としての生命の誕生
以下、飯山一郎氏は最初の生命体は紫外線や放射線をエネルギー源としたと述べている。
 しかしながら、最初の生命体はどうやって生まれたのか問題である。これまでPS理論の立場から、差異共振が原生命現象であり、それが物質体を形成したのが生命体であると述べた。
 問題は生命体を維持するのに必要なエネルギー源のことである。結局、差異共振エネルギーと物質エネルギーの関係を考えないといけない。
 差異共振エネルギーは「気」である。精神エネルギーである。それが、Media Pointを介して、物質エネルギーへと展開すると考えられる。
 とまれ、凸i*凹iは最初は潜在態であり、それが賦活されて差異共振化して、物質化するのではないだろうか。この賦活のためのエネルギーを外部補給すると考えられることができる。
 作業仮説を立てると、光合成細菌の遺伝子を凸i*凹iとする。これが外部エネルギーによって賦活されるとする。それで光合成細菌が誕生するのである。即ち、

光合成細菌遺伝子(凸i*凹i)⇒光合成細菌(凸=+1)

という生命方程式が考えられる。ただし、⇒は外部エネルギーを取り込んだ極性差異の賦活化を意味する。だから、以下のようになる。

            外部エネルギー(紫外線、放射線)
                  ↓
光合成細菌遺伝子(凸i*凹i)⇒光合成細菌(凸=+1)

これは、乳酸菌の場合もほぼ同様と考えられる。重要なのは、紫外線や放射線が一種の差異共振エネルギーであると考えられることである。つまり、無機的な紫外線や放射線であっても、原生命的要素をもつのであり、それが、光合成細菌の遺伝子を活性化させて、生命体を誕生させると考えられるのである。
 言い換えると、差異共振遺伝子と差異共振エネルギーの結合によって生命体が誕生するということである。だから、少なくとも、二種類の差異共振体が生命の誕生には必要と言うことになるだろう。今はここで留める。

参考:以下下線は管理者に拠る。

『光合成細菌と乳酸菌で放射能を浄化!』

◆2011/04/07(木) 放射能は生命誕生のエネルギーだった



ここで,少々理屈っぽくなるが,「光合成細菌の放射能利用の原初形態」を述べる.
 1.原始地球には海水と岩石しか存在せず,有機的エネルギーがなかったので,
   地球最初の生命体は,宇宙からの紫外線や放射線をエネルギー源とした.
   当初,紫外線や放射線の破壊力を色素で減じさせ,無機的環境下で光合成
   を行うというシンプルな生命体であった.
 2.微生物や植物は,炭水化物・脂質・蛋白質等の有機物を必要とせず,紫外線や
   放射線をエネルギー源として,炭酸ガスと水から体細胞を合成している.
 3.光合成細菌は,水の代わりに硫化水素などの無機物を栄養源として紫外線や
   放射線の電磁粒子で炭酸同化して体細胞を合成できる.この際,放射性物質
   を体内に吸収すれば,電磁粒子のエネルギー受容率は格段に高まる.

ようするに…,
原始地球において,紫外線や放射線という強大なエネルギーが存在したからこそ,
最初の生命体が誕生できたのであり,紫外線や放射線という強大なエネルギーを
利用しつくす光合成細菌が誕生したからこそ,生命の進化の基礎が築かれた,と
いうことを,イメージングできるヒトは,私の仲間になれるのですが….
飯山一郎のHP


2011年05月04日(Wed)▲ページの先頭へ
試論:陰陽調和と陰陽差異(不均衡)の関係について
先に、人間とそれ以外の自然物との構成の違いについて簡単な仮説をたてた。【シュタイナーの精神学とPS理論:人間と自然:陰陽差異と陰陽調和 http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1701.html】自然の場合は、陰陽調和があり、人間においては陰陽差異、つまり、陰陽不均衡があるというものである。
しかし、人間の場合は当然、自然の要素と人間の要素が組み合わさっているのであり、その力学を解明する必要がある。言い換えると、陰陽調和と陰陽差異をどう重ねるのかということである。
有機体としての人体は陰陽調和で説明できると見ていいだろう。端的に言えば、動物の身体があるのである。では、動物の陰陽調和体と精神・認識の陰陽不均衡体はどう組み合わされるのか。
作業仮説は、動物的陰陽調和体が突然変異で、陰陽差異化したということである。つまり、陰陽調和体と陰陽不均衡体が重なったというのではなく、前者が後者へと突然変異したと見るのである。しかしながら、その突然変異は前者を基盤として残すようにして、生起したと見るのである。即ち、動物的陰陽調和体が基盤となり、その上に陰陽不均衡体(陰陽差異体)が形成されたということである。
では、前者と後者の関係はどうなるのだろうか。それは、即非関係ではないだろうか。動物的陰陽調和体であり、且つ、同時に、陰陽差異体であるという絶対的矛盾があると考えられる。わかりやすく作業仮説を立てるなら、陰陽調和体の遺伝子に陰陽差異体の遺伝子が付加されたと言えるのではないだろうか。
感覚的に言えば、「厚み」が生じたということになるのではないだろうか。あるいは、立体的になったと。直観では、なんらかの捩れが生じたと思えるのである。即ち、陰陽調和体が捩れて、陰陽差異体(陰陽不均衡体)を上部に形成したというイメージが浮かぶのである。
それはなんらかの固定化と言えるかもしれない。以前、陽の極大化(「太陽」)と陰の極大化(太陰)の状態が固定化したという仮説を述べたことがあるが、このイメージと捩れのイメージを重ねてもいいかもしれない。
そう、簡単に言うならば、陽の極大化と陰の極大化が、なんらかの突然変異で、固定化して、それが陰陽差異の遺伝子となったとことになろう。
とまれ、人間の場合、とりわけ、男性の場合は、陽の極大化の固定化の陰陽不均衡化を考えることができる。
ならば、陰の極大化とは何を意味するのだろうか。直観で言うと、それは、イエス・キリストの様態ではないだろうか。他者のまったき肯定である。私の考える、新母権主義に通じるかもしれない。また、それは人間認識図では、第三象限へと通じる様態と考えられる。人間、とりわけ、男性の陽の極大化の陰陽不均衡(差異)様態に対して、それは、陰陽調和・均衡へと向かう力学を形成すると考えられるのである。差異共振への転換である。そこにこそ、不可視の光があるのである。
さて、以上、本件の問題についての暫定的な解明を行ったことになる。



2011年05月03日(Tue)▲ページの先頭へ
シュタイナーの精神学とPS理論:人間と自然:陰陽差異と陰陽調和
以前、PS理論とシュタイナーの精神学を整合化しようとして苦心して、いちおう解決策を立てたが、ここで再確認した。
 陰陽は「気」であり、凸i*凹iの差異共振エネルギーは「気」である。しかしながら、それは、基本的には自然の説明である。人間の場合、認識を含めることになる。(追記:凸iが陽、凹iが陰である)
 問題は陰陽の質である。思うに、ここには原認識性があると考えられる。つまり、陰陽は自然物質を形成するが、陰陽自体は物質形成原因であるが物質ではなく、原認識体と考えられるのである。陽は陰を志向し、陰は陽を志向する。この志向性が原認識性である。
 だから、自然物質も起源においては原認識をもつということになる。
 では、自然物質の原認識と人間認識の関係をどう説明できるのか。
 当然、陰陽が共通である。では、陰陽がどうやって、自然と人間を形成するのかが問題である。
 根本は自己の形成である。自然には、基本的に人間のような自己はない。
 いったい自己はどうやって形成されるのか。
 自然は陰陽のいわば調和した状態で形成されると考えられるが、人間の場合は、不調和、不均衡、非対称性があると考えられよう。
 この「差異」が人間を自然から区別するものと言えよう。つまり、人間においては、陰と陽とが不調和、不均衡、非対称的であるということである。
 これが自己を形成したのではないだろうか。これまで私は人間は自我凸iに傾斜していると述べてきた。
 この自我傾斜が、陰陽の差異を形成すると考えられる。即ち、陽に傾斜して、陰が弱いのである。
 この点で、陽から陰への志向性(A)と陰から陽への志向性(B)が不均衡となるのである。
直観では、Aがいわゆる知性(頭脳)であり、Bが情感(内臓)であり、両者合わさって精神を形成すると考えられる。
 しかしながら、不均衡なので、精神は揺れ動くのである。不安定である。
 とまれ、この不均衡こそ、自己の発生の原因と推察されるのである。というか、そう作業仮説したい。
 結局、陰陽不均衡のために、差異があり、それが自己原因である。
 即ち、いわば、二重人格が生起するのである。AとBの人格である。
 とまれ、自己とは両者の差異であると考えられる。だから、自己同一性を求めると無理が生じると言えよう。
 以上のように作業仮説して、シュタイナーの霊学との関係を見たい。後者は自我/アストラル体/エーテル体/物質体の四層構成である。
 これを今の陰陽差異論と比較すると、自己は陰陽差異で説明できる。アストラル体は、陰から陽への志向性で説明できるのではないのか。エーテル体は、本来の陰陽調和で説明できる。そして、物質体は当然、凸(+1)で説明できる。
 それをまた作業仮説とすると、結局、シュタイナー霊学は、PS理論によってより整合化されると考えられるのである。分離している四つの体をもち出さなくても、陰陽で説明できるのである。
 では、原理的問題を考えると、どうして、人間の場合、陰陽不均衡が生じたのかという問題がある。
 今はなんらかの突然変異を仮定したい。この問題は検討問題とする。


2011年04月12日(Tue)▲ページの先頭へ
仮説:『科学』とは何か:その2:凸iに傾斜する(父権化)と絶対性が連続化され、合理性が歪曲される
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

直近において、『科学』について考察した。(仮説:『科学』とは何か:物質的法則は絶対的であり、基準値はそれに準拠するものと考えるべきである )
 そこでは、凸i*凹i⇒が絶対的法則を意味すると述べた。
 しかし、そう述べる前には、直観では、凹iが絶対的法則ではないかと思ったのである。この点に関連して考察を行ないたい。
 差異共振エネルギーは法則的であり、その根源は虚軸に存するのである。
 それは、ジェンダー論的に言えば、母権的なのである。何故なら、凸iの自我(父権的)傾斜がそこにはないからである。
 ここで注意すべきは物質世界の法則と人間認識の相違である。物質世界の根源は差異共振であると言えるし、人間の認識の根源もそうであるが、人間認識の場合、物質世界と異なり、凸i(陽)に傾斜している点を確認しないといけないと考えられるのである。
 つまり、凸iの傾斜を押さえる為、凹iを重視して均衡を取る必要があると考えられるのである。
 その点から見ると、私が絶対的法則は凹iにあるのではないかと言ったことは、人間認識に関しては正しい。しかしながら、法則は差異共振であり、凸iと凹iとの均衡に存すると言える。
 さて、以上で、前提が整ったので、本題に入ると、『科学』とは二重性をもつことがわかる。即ち、差異共振的法則と人間的認識の二重性である。
 もし、後者において、父権的自我、凸iの傾斜をもつと、それは、連続的同一性を生み出すので、法則と自我とが一体化してしまうと言えよう。
 それは、法則と自我とが混同されているのであり、正しく法則を認識できないことになる。つまり、現実的には、自我の都合で、利己主義的に、法則を歪曲することが起ると考えられるのである。
 故に、科学者は認識において、凹i(陰)に基盤をおくべきと考えられるのである。
 そのような意識がないと、自我と連続化しているので、法則の独立性が保てなくなると言えよう。
 ここで、『科学』を研究する人間が父権的自我の持ち主であったとすれば、それは、『科学』を必然的に捩じ曲げることになるだろう。
 そして、あえて言えば、それが、今日、現代、日本の『科学』領域に起っていることではないかと考えられるのである。
 つまり、『科学』が自我的志向(利己主義)によって、反『科学』あるいは似非『科学』にされるということである。
 カントは超越論的形式という物質界への認識様式を説いたが、差異共振とは超越的法則ということができるのであり、それは、自我的認識・意識から独立するものなのである。
 この『科学』の超越性を認識しないならば、それは、『科学』を邪道化するものと言えよう。
 利己主義によって、絶対的法則を都合よく解釈することに帰結すると考えられるのである。
 この点で、資本主義の利己主義と『科学』が結びついたのは不幸であったと言えよう。また、その物質的手段として、『技術』があるのであるが、それは、本来、『科学』とは異質なものであると言えよう。
 『技術』は『科学』に拠るものとは言え、それは、『科学』の物質的応用と言えよう。つまり、『科学』から『技術』への転換において、自我、利己主義が入ってくることが考えられるのである。
 そう、ここでも、『科学』が偏向すると言えよう。
 とまれ、日本においては、母権的個と父権的自我の二つの「精神」があるが、明治維新以降、とりわけ、戦後以降、父権的自我が支配的であり、『科学』を『技術』と結びついた資本主義に癒着させてきたのであり、そのために、『科学』本来の超越性が無視されてきたと考えられるのである。


2011年04月11日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:『科学』とは何か:物質的法則は絶対的であり、基準値はそれに準拠するものと考えるべきである
放射能の基準値を日本政府は変化させたし、また、食品に関して、米国と日本では数値が1ケタことなるのである。
 基準値を簡単に変更できるものなのだろうか。それは、原則としては、絶対的基準ではないだろうか。
 ここで、科学を哲学してみよう。
 物質科学を対象とする。例えば、水の氷点と沸点は、それぞれ、零度と百度であることは常識である。勿論、気圧が関係するが、ここでは無視する。
 その物質科学の法則は、物質領域においては、絶対的である。それは、相対的なものではない。
 PS理論から見てみたい。
 いったい、物質世界の法則とは何か。物質は凸ないし+1とPS理論では表記する。
 では、そこに法則があるのだろうか。それは当然、違う。凸、+1は、物質的現象であり、法則ではない。法則は、数式を使って、表記される。
 水の例を考えよう。化学記号はH20である。これは、物質であり、凸、+1に属する。
 しかし、氷点や沸点は、凸、+1からは説明できないだろう。水とは、PS理論では、Hプラス・イオンとOマイナス・イオンが差異共振したものである。それは、虚軸に存するのである。即ち、Hプラス・イオンは凸iとなり、Oマイナス・イオンは凹iとなる。これは、虚数である。
 氷点や沸点とは虚軸において形成されるものと考えられる。即ち、差異共振エネルギーが減衰すると、氷点となり、結氷して個体になるのであり、差異共振エネルギーが増加すると、沸点となり、水蒸気という気体になるのである。
 だから、法則は差異共振エネルギーが発動する、虚軸に存することになる。即ち、凸i*凹i⇒が法則である。
 そして、これは、一種の超越数であろう。当然、実数ではないのである。
 これは、差異であり、絶対的ということである。
故に、放射能汚染に関する基準値であるが、それは、当然、物質的法則に基づくものであるから、絶対的なものでなくてはならない。もっとも、知見の発展によって、絶対的数値は変動するだろうが、性格はあくまで、絶対的である。
 故に、日本政府のように基準値を簡単に、便宜的に変更するというのは、反科学的ということになるだろう。
 まったく、恣意的、ご都合主義である。これは、自己保身に根差した、利己主義的態度であり、科学を辱めるものであり、また、人命の軽視、無視につながるものと言えよう。


参考:
170ベクレル以上で輸入規制=食品中のヨウ素検出で―米国

2011年3月29日16時55分


 【ワシントン時事】米食品医薬品局(FDA)の広報担当者は28日、福島第1原発の事故に関連し、日本からの輸入食品について、1キロ当たり170ベクレルを上回る放射性ヨウ素131を検出した場合には輸入を差し止めるとの規制方針を明らかにした。生鮮食品など保存期間が短いものは業者側に引き取りを求め、冷凍食品などについては一時保管し、基準を下回った場合には米国内での流通を認めるケースもあるとしている。

 FDAによると、米国では放射性ヨウ素131に対する規制として、食品については1キロ170ベクレルを政府による「介入レベル」と規定、国民が大量摂取しないようにするための保護措置を講じる。ただ、この介入基準を上回る量を摂取した場合に健康に影響が出ると認定しているわけではないという。

 日本はヨウ素131について、飲料水は1キロ当たり300ベクレル、野菜類は同2000ベクレルを暫定規制値としている。 



[時事通信社]

http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201103290068.html


【DOL特別レポート】
放射能汚染を巡る日本人の誤解と政府の説明責任――チェルノブイリの惨状を知る被曝治療の権威ロバート・ゲイル博士に聞く   2011.04.06
http://diamond.jp/articles/-/11772




きゃな
AmberSambo きゃな

『避難の指示もなく「安全」と言い続けた政府が、事故から1カ月もたって突如出した、あいまいな指示』(安全)と(大丈夫) ←聞けば聞くほど不安になる言葉になっちゃった… 悲しいね。
http://twitter.com/#!/AmberSambo


2011年04月09日(Sat)▲ページの先頭へ
自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我は凸i、個は凹iと言えるのではないか。とまれ、今は、自我とは何か、個とは何かを考えたい。
 私が考えるとは、直感的に考える、つまり、内省、省察するということである。(思うに、思考と内省・省察は異なるのではないだろうか。前者は頭で考えるのであり、後者は、内面的に考えるのであるから。だから、いわば、外考と内考があると言うことができる。近代主義は当然、前者に傾斜しているのである。哲学は後者である。)
 この問題で私が参照するのは、人智学のルドルフ・シュタイナーである。彼は、人間における自我を重視している。もっとも、彼の自我とはich(「わたし」)のことであるが。
 ここでは有り体に考えよう。いったい、自我とは何か。確かに、外界への視覚に留意し、頭で考える存在である。
 これはデカルト的自我と言っていいだろう。コギト・エルゴ・スム。
 物質現象世界を生きる「身体」としては、そのような視点になる。自我的視点である。
 しかしながら、自我と「わたし」は同じであろうか。これが大問題である。
 自我とは、物質的現象界を生きる上で、必要な「端末」である。
 そう、物質世界において、自我が主導化する。
 この自我とは物質的な「わたし」と言えよう。だから、物質的でない「わたし」が存するのである。それは当然であるが。
 端的に、精神的な「わたし」が存するのである。
 では、精神的な「わたし」と個とはどう関係するのかが、問題である。
 これまで、私は個とは凹iであると述べてきた。又、それは、同時に他者であると述べてきた。
 だから、自我と個とは対立・矛盾するのである。否、絶対的矛盾・対立である。つまり、やはり、自我は凸iであり、個は凹iであるということになる。
 ならば、「わたし」とは何か、という問題が生じる。
 結局、「わたし」とは、両極的、対極的、双極的観念ではないだろうか。
 ここには、三一性があると言えよう。自我、個、「わたし」である。しかしながら、「わたし」は曖昧な観念である。流動的である。何故なら、常に、自我極に向いたり、個極に向いたり、常時変動しているからである。
 ここで、都合がいいので、ユング心理学の個性化について考えよう。
 ユングは自我と魂(アニマ)との統合として、自己形成=個性化を説いていた。
 だから、私の論理の文脈では、魂とは個凹iになるだろう。
 では、ユングの個性化とは何か。それは、以前述べたが、自我と魂(個)との連続的統合化であると思う。それは、混乱していると言えよう。錯誤である。
 というのは、ユングは、自我と魂(個)とが不連続であることを考えずに、その連続的統一・結合化を個性化と考えているからである。
 PS理論から言えば、自我と個(ないしは魂)は不連続であり、連続的統一化が不可能である。
 PS理論では、自我凸iと個凹iとは、差異共立且つ差異共振するのであり、常に、自我凸i・即非*・個凹iという常時変動生成状態をもつと考えられる。
 とまれ、それが「わたし」の実態であるが、いったい、主導性は何であるのかが重大な問題である。
 自我凸iが主導的なのか、個凹iがそうなのか。
 PS理論から言えば、両者が主導的である。つまり、どちらも主導的ではないと言えよう。
 ただし、傾斜の問題がある。自我凸iに傾斜したときは、差異共振は第二象限に属するし、個凹iに傾斜したときは、それは第三象限に属すると考えられる。
 そういうように考えると、両者、平等、対等、均等である。果たして、そうなのか。自我凸iと個凹iは対等なのか。
 ここでは、直感で述べよう。対等ではない。主導性は後者にあると。
 根源は個凹iに存すると考えられるのである。
 自我凸iは、個凹iのエネルギーを受けて、成立しているように感じられるのである。
 ならば、不均衡がそこにあるのである。つまり、自我凸iと個凹iとの不均衡である。
 これはどういうことなのか。つまり、本来、個凹iが基礎であり、自我凸iは二義的ではないのかということである。
 ならば、個と差異共振とはどういう関係にあるのかが問題である。
 ここで、どうも袋小路に入ってしまったようである。この点については、以前、考えたことがあるので、それを利用してみよう。
 以前の考えとは、⇒凸(+1)においては、凸iが主導的であり、凹⇒凸i*凹iにおいては、凹iが主導的であるというものである。
 これは言い換えると、前者は父権的であり、後者は母権的であるということと考えられる。
 これが、事象の力学(秘密)なのであろうか。つまり、物質化のためには、凸iが主導的であり、脱物質化のためには、凹iが主導的であるということなのか。
 そうならば、端的に、事象において、不均衡、非対称が本質であるということになる。
 これも以前述べたことかもしれないが、超越的存在の凹が分化(自己分割)して、凹i*凸iを産出する。このとき、凹は直接的には、凹iに作用しているのではないだろうか。それから、主導性が凸iへと移り、次に、物質化するということになるだろう。
 言い換えると、最初は、第三象限(精神世界:光の王国)が成立し、次に、第一象限(物質世界:闇の世界)が形成するということになる。
 多くの神話で説かれる原初の混沌とは、第三象限を指しているのではないだろうか。あるいは、media pointがそうかもしれない。(これは課題とする。)そして、天地開闢ないしは天地創造は第一象限の発生を意味するのではないだろうか。
 思うに、根源の「闇」とは第三象限だと思う。それが、「闇」なのは現象世界の「光」から見てのことである。そして、混沌とはやはり、media pointだと思う。それは、「闇」と「光」の中間界であり、D. H. ロレンスのいう薄明twilightの世界(金星Venusで象徴される)である。
ということで、作業仮説的に、原初においては、凹iが主導的であり、現象発現においては凸iが主導的になるとしたい。
 言い換えると、母権が原初にあり、それから父権が生起するということであり、それは、神話学的説明にそぐうものである。
 つまり、多神教が根源にあり、その後、一神教が発生するという力学、宗教・神話力学があるということである。
 ここで、今日、現代の時代のことを考えると、今や、凸i=父権の支配は終わり、新たな凹i=母権主導になりつつあると考えられるのである。
 この力学はどう説明できるだろうか。
 思うに、新たなエポックが始まったと考えられる。これまでの支配的であった西洋文明のエポックの発動のエネルギーが枯渇して、新しいエネルギーが発動していると思われるのである。
 新たな第三象限の発動・起動・駆動である。
 では、そうならば、再び、母権から父権へと進展するのであろうか。否、そうではないだろう。これは螺旋的回帰であり、進展・進化と考えられる。
 再び、父権主義にはならないだろう。父権主義を超克した新母権主義、新母権的統合主義となろう。
 何故なら、今や、父権主義の力学が解明されて、それを克服する知恵があるからである。つまり、新たに、父権主義へ向おうとすると、母権、凹iの抑止がはたらいて、それは制御されると考えられるからである。
 今はここで留めたい。


2011年03月03日(Thu)▲ページの先頭へ
精神と自然V:陰陽と自己:シュタイナー精神科学批判の試み
テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

先に、『精神と自然U:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化』(http://ameblo.jp/renshi/theme-10014593365.html )において、精神領域の自己と自然とを統一する、不十分な試みをした。
 結局、陰陽論とシュタイナーの四元的人間論が噛み合わないのである。
 そこで、思いついたのは、陰陽論に徹する考えであり、凸iとは、陰陽の太陽(絶対的陽)であり、凹iとは陰陽の太陰(絶対的陰)であるという視点である。
 ここで、宗教的視点を入れれば、太陽とはヤハウェ(「父」)であり、太陰とはイエス・キリスト(「子」)である。そして、両者の均衡点が正に、media pointであり、これは、「聖霊」である。
 そして、太陽=ヤハウェ=悪魔アーリマン、太陰=キリスト=ルシファーとすると、両者のバランスとは、media point=聖霊となるのである。
 しかしながら、均衡ポイントをシュタイナーは、キリスト(=アフラマズダー)としているのである。
 PS理論的陰陽論(D. H. ロレンス的王冠=聖霊論)からみると、キリストは、太陰=凹iであり、均衡ポイントにはならないのである。
 これをどうみるのか、である。思うに、シュタイナーが理論的に牽強付会を行っているのではないだろうか。
 私見では、どうも、シュタイナーは、欧州文明の存続を守りがたいために、キリストを固持したように思えるのである。確かに、キリスト教の崩壊を予見しているが、キリストは中心として残しているのである。
 しかし、シュタイナー自身の考えでは、アーリマンとルシファーの均衡点がキリストなのである。しかしながら、上述したように、均衡点は、聖霊にならなくてはならないのである。
 これは、「父」と「子」との均衡・調和としての「聖霊」である。そして、これは、人間認識図では、第三象限に相当する。
 もし、そうならば、シュタイナーのキリストとは何を意味するのだろうか。それは、悪魔ルシファーではないだろうか。凹iである。
 シュタイナー自身も人智学が、ルシファーに傾斜していることを述べているのである。だから、シュタイナーのキリスト=悪魔ルシファーとは考えられることである。
 最後に、ついでに言えば、私はシュタイナーの占星術的人類史観は間違っていると思う。15世紀に新しい西欧の歴史が始まったとして、それは、双魚宮(魚座)文化期を意味するとするが、これは、一般的に占星術的人類史観からはずれているのである。双魚宮(魚座)文化期は、イエス・キリストから始まったと通常考えるのである。即ち、西暦ゼロ年あたりからである。
 やはり、ここにも、シュタイナーの欧州中心主義が見られるように思うのである。
 今はここで留める。


2011年02月27日(Sun)▲ページの先頭へ
精神と自然:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化その2
精神と自然U:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

結局、元の木阿弥になったので、新たに考えたい。
 結局、人間的陰陽論と自然的陰陽論の衝突があり、それが齟齬となっているのである。
 別々に考えると、整合性があるが、統一しようとすると、齟齬が生じるのである。難問である。
 しかしながら、シュタイナー自身の考え方とは異なるとは言え、「わたし」=「悪魔」とすると先の結論(http://ameblo.jp/renshi/entry-10814991505.html )のように明快になるのである。
 別の考え方も可能であろうが、今はこの見方を作業仮説にしたい。
 結局、悪魔的自己認識方程式とは、

凸i*凹i=アーリマン*ルシファー⇒凸(物質)

となる。
 そして、これに均衡調和(キリスト)をもたらすには、否定する必要があるのではないだろうか。否定を凹とすると、

凹(凸i*凹i)=凸i*凹凹i=凸i*凸i⇒凹

or

凹(凸i*凹i)=凹凸i*凹i=凹i*凹i⇒凹

となるのではないだろうか。すなわち、超越的存在へと向かうのである。
 思うに、この否定とは、不連続化のことではないだろうか。そのままの積では、連続化、連続的同一性化するのであるから。
 思うに、人間以外の造物においては、連続化が自然の過程ではないだろうか。ただし、無意識、本能として、連続化以外に、差異共振領域、media pointが作用しているのではないだろうか。これが、造物の光の粒子である。
 人間の場合は、悪魔が支配しているので、積極的な、否定、不連続化の行為が必要である。
 整理すると、人間以外の自然の作用においては、陰陽の連続的作用が一般的であり、物質現象をもたらす。しかしながら、その連続化の影には、差異共振領域があり、そこにおいて、光の粒子、media pointがあると言えよう。
 人間の場合は、「二つ」の「わたし」=「二人」の「悪魔」なので、連続化は破壊的な作用をもたらすと言えよう。そして、それを乗り越えるには、積極的な否定=不連続化の精神的行為が必要とされるのである。
 では、否定=不連続化の精神的行為のためには、具体的にはどうするのか。それは、内的な光・灯火を個的に肯定することが前提であろう。これを連続化から切断すれば(否定=不連続化)、超越的均衡調和(キリスト)=超越光がもたらされると言えよう。
 内的な灯りが人間に存する光の粒子である。これが、闇の物質的身体を克服するのである。欲望が昇華して、元々の精神エネルギーへ帰還するのである。これは実用的に言えば、心身の健康を増進させると言えよう。

 性の消費とは、精神の消費であり、破壊である。
 
今はここで留めたい。





精神と自然:マニ教の視点と陰陽の視点との交流

テーマ:ゾロアスター教とマニ教:「光」VS「闇」

今は簡単に触れるだけである。
 マニ教ないしグノーシス主義は、自然を悪と見るだろう。しかし、陰陽論は、自然に対してはニュートラルである。
 問題を簡単にしよう。自然は精神に基づくものである。東洋では、気が形成因である。この気をどう見るかが重要である。やはり、精神である。気の精神、気霊である。
 では、気とマニ教ないしグノーシス主義とはどう関係するのだろうか。ここでは、マニ教との関係をみよう。マニ教は物質という悪の中にも、善、光の粒子があると考えれる。この善=光の粒子は、気と通じるのではないだろうか。
 そう、気ないし気霊体は、確かに、差異共振光である。一つの超越光である。だから、マニ教の善=光の粒子に入ると言えよう。そう、気と精神は関係しているのである。何故なら、気は、精神の凹iで感知されるものであるからである。
 
 さて、次に、先の問題である精神と気の力学について検討したい。
 先に、z軸を考えたが、それから、y軸の差異共振を考えるのは、不整合であるから、とりあえず、それは考察対象から外す。
 問題を分かりやすくするために、感情ないし情感と気の関係について考察しよう。
 今、私は肚に気を感じている。つまり、凹iに気を感じている。つまり、凹iが気を感知するのである。また、よい音楽を聴くと、凹iやmedia pointが感銘を受ける。つまり、情感が凹iやmedia pointに存すると思われる。
 端的に、凹iは精神器官であるが、気は必ずしも、情感ではないので、気は精神よりも低位と考えられる。
 とまれ、ここで思考実験すると、陰陽において、太陽と太陰がある。前者は完全な陽で、後者は完全な陰である。これを、シュタイナー的に、固定された場合を考えると、前者がアーリマンで、後者がルシファーと考えることが可能であろう。
 これが「わたし」、「二つ」の「わたし」の根拠と考えられる。そうすると、それ以外の陰陽においては、生々流転、変動・流動が常におこっていると考えられる。それは、気の変化と見ることになる。
 そうすると、陰陽のベースには、気、気霊体の生々流転的変化・変動があり、それ以外に、特殊の、変化をしなくなった、静止した陰陽、双極体があるのであ り、それが、アーリマンとルシファーであり、それが、「二つ」の「わたし」の根拠ということになる。つまり、"凸i"(アーリマン)と”凹i”(ルシ ファー)の「二つ」の「わたし」が存することになる。
 思うに、陰陽は常に、変動以外にも、差異共振点、media pointをもっていると考えられる。差異均衡調和点である。それが、シュタイナー的に言えば、キリストである。それは、本来の超越的な光と一致するだろう。
 つまり、常に、キリスト=超越光は内的に、内面に存するのである。だから、「わたし」=自己(個)とは、内的に沈潜することで、キリスト=超越光に接することができるのであり、差異均衡調和精神に触れることができることになるだろう。
 さて、以上のように考えて、本題について考察するならば、人間以外の森羅万象においては、気霊体による生成で説明がつくが、人間の場合、「二つ」の「わ たし」が作用して、特異な精神様態が成立していると考えられる。この特異な精神(自己的精神)と気との関係であるが、やはり、連続的ではなく、不連続的だ と思う。
 しかしながら、上記したように、z軸を考える必要はなく、y軸に精神をおいて考えることができると言えよう。ガウス平面のままで正しいのである。
 とまれ、以上から、気霊体において、「二つ」の「わたし」ないしは「二人」の悪魔が組み込まれているのが、人間であるということになる。そして、これで、これまでの、PS理論の数式、
凹⇒(or ⇔)凸i*凹i⇒凸が維持される。
 では、問題は、特異なアーリマンとルシファーの形成とはいかなる力学に拠るのか。シュタイナーは、本来、善であったものが、進化を停止させたために、悪になったと述べているのである。この点については、新たに検討したい。

追記:以上において、私は、「わたし」と「悪魔」を同一視しているが、それは、シュタイナーの霊学からみると、極端である。確かに、「わたし」に「悪魔」が深く関わっているが、「わたし」=「悪魔」ではないのである。
 故に、再度、精神と自然について考察する必要がある。

シュタイナーノート 23●ルシファーとアーリマン

シュタイナーノート 21-30





「新時代」とは、ポスト・オクシデント=ニュー・オリエントと言うべきであろう

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教的西洋文明

今や、近代は崩壊した。非近代の時代であるが、考えると、それは、西洋の歴史に拠る考え方である。
 文明サイクルを考えると、西洋文明のサイクルが終焉を迎えていると考えられる。故に、ポスト・オクシデントの新文明サイクルが生まれつつあるのだ。それは、新母権的文明と考えられる。私はこれまで、新東洋文明と言ってきたが、同じことである。
 日本の問題は、男性のエゴイズムのシロアリに国家の大黒柱が食われてしまっていることである。日本において、魂が失せてしまったのである。
 やはり、戦後の連合国支配が利いているのである。魂を抜き取ったのである。支配としては、見事である。また、簡単に洗脳される国民も国民である。封建時代の因習が続いたのである。
 思うに、日本文化がある意味で、袋小路に陥ったのだろう。確かに母権文化であるが、それが創造的に発展せずに、デカダンスになり、超越的エネルギーを喪失してしまったのだろう。
 日本文化の場合、精神が(物質的)自然に拘束され過ぎている面が強い。結局、新しい超越的な母権文化を生み出すことができなかったのが、最大の弱点であろう。
 そう、感性が物質に拘束されているのである。それは、第四象限であろう。悪性である。
 シュタイナー的に言えば、ルシファーが足りないのである。ルシファーは個の原理である。これは、絶対的差異である。
 どうも、日本文化は母権文化と父権文化の二つに分裂しているような感じがある。言い換えると、二つの民族が存しているのではないだろうか。
 この点で、日ユ同祖論は棄てがたいと言えよう。母権的民族の日本と父権的民族の日本である。
 また、脱亜入欧イデオロギーが利いていると思う。また、それ以上のものが戦後の連合国の民族文化破壊戦略である。



「わたし」とは何か:「二つ」の「わたし」:差異共振の光における超越的存在
「わたし」とは何か:「二つ」の「わたし」:差異共振の光における超越的存在

テーマ:Media Point:MP1⇒MP2

先に、虚実ラセン体(気霊体と物質体の二重構造)の提示まで言ったが、知性と感性については、課題となっていた。
 以前、シュタイナーの翻訳における「自我」とは大誤訳ではないかと指摘した。何故なら、シュタイナーはichと言っているからである。
 とまれ、今は、「わたし」を問題にしたい。これは、自我に限定できない。
 端的に言えば、「わたし」とは個である。しかし、自我的側面はある。しかし、自我主義ではない。
 そう、「わたし」は少なくとも「二つ」あると思う。一つは、他者の「わたし」であり、一つは、自我としての「わたし」である。ならば、言い換えると、自我と非自我(他者)の「わたし」が存するのである。
 しかし、非自我(他者)の「わたし」とは、明確な「科学」(哲科学)的な規定ではない。
 とまれ、「二つ」の「わたし」が即非関係を形成するのである。
 そう、あえて言えば、二つの「知」があるのである。これが的確だと思う。
 PS理論から言えば、凸iの「知」と凹iの「知」があるのである。これは重要である。「知」と設定するのが重要である。これまで、凹iは感性的なものと 見られてきたからである。凹iを感性と見るのは、平凡、凡庸な発想である。二つの「知」(以下、鍵括弧を外す)が存すると見るのが、的確だと思う。
 これは、「光」の知と「闇」の知、陽の知と陰の知と言い換えられる。
 思うに、哲学とは本来のこの二つの知を扱ってきたと考えられる。しかしながら、近代科学は、「闇」の知を否定して、「光」の知のみを扱ってきたと考えられる。物質主義科学である。
 ロマン主義、神秘主義、深層心理学等は、「闇」の知を探究したと言えようが、一種反動性をもっているだろう。
 さて、「闇」の知とは直観、直観知、あるいは、内的知・触知ではないだろうか。それに対して、「光」の知とは、対象知、ロゴス知、あるいは、外的知・分離知ではないだろうか。
 そして、両者が共振して、即非様態、いわば、即非認識が形成されよう。
 問題は、「闇」の知である。これは、「光」の知とは異なり、直截な知である。いわば、「物自体」の知である。
 本題にもどると、結局、「二つ」の「わたし」とは、いうならば、「光」の「わたし」と「闇」の「わたし」である。
 自我においては、通常、両者が連続的同一性体となっていると考えられる。故に、自己は自己に無知の状態である。
 さて、問題は、media pointにおける「二つ」の「わたし」の意味である。ここで、作業仮説として、両者の共振、差異共立・共振が、超越光・大光、簡単にして、光を発生させるとする。
 いったい、それは何なのだろうか。それは、現象光(外的光)ではないだろう。内的光だろう。
 この根源は、超越的存在凹であると考えられる。凹⇒凸i*凹iである。問題は、この光に対する認知である。
 思うに、この光は、いわば、神秘的な光である。霊光である。これは、通常の視覚では知覚できない。
 このとき、凸iは不可知論的になるだろうが、なんらか言語化しようとするだろう。つまり、言語的秩序化である。
 そして、凹iは、この神秘の光と一体化するだろう。正に、神秘感があると言えよう。神秘を触知しているのである。いうならば、「神」に接触しているのである。
 この差異共振はMP1、虚軸のmedia pointである。そして、凸iの「光」の「わたし」は、第二象限世界を構築(ロゴス化、秩序化)し、凹iの「闇」の「わたし」は、第三象限世界を直観していると言えよう。
 凸iに傾斜していれば、合理主義を生むだろう。しかし、凹iが活性化しているならば、神秘主義を生むだろう。あるいは、超越主義を生むだろう。
 整理すると、MP1、虚軸のmedia pointにおいて、超越的存在凹が関与しているということになる。以前、述べたが、凹⇔凸i*凹iの循環数式がここには成り立っているのではないだろうか。
 結局、凹iは超越的存在凹を直観しているのであり、その事象は第三象限の事象であり、それが、超越的な光の認知に通じるのだろう。というか、差異共振が超越的光ではないのか。それを、凹iは直観しているということではないだろうか。それが、第三象限の事象ではないのか。
 とまれ、超越的存在に直截に接しているのは、凹iである。そして、いわゆる、霊Spiritiとは、ここで感知できるものであろう。思うに、凹と凹iと 凸iを三一体と捉えることができるのではないだろうか。根源的三一性である。これを作業仮説とすれば、敷延して、凸iの三一性、凹iの三一性、そして、凹 の三一性、凸の三一性が考えられるのではないだろうか。凸iの三一性と凹iの三一性は、易の上部の三元性(三爻)、下部の三元性(三爻)と通じるのではな いだろうか。また、それは、六芒星形を形成するのではないだろうか。また、4×3=12で、黄道十二宮の十二に通じるのではないだろうか。
 また、7のサイクル数であるが、それは、凸iの3と凹iの3とmeidia pointの1を足したもので説明できないか。
 とまれ、以上、思考実験であり、整理しつつさらに検討したい。

追記:先に、気の身体、名づけて、気霊体(シュタイナーのエーテル体)を差異共振体で説明し、上記では、「わたし」の体の解明を、やはり、差異共振体によって試みた。
 そうすると、問題は、気と「わたし」の関係をどうするかである。今のままでは、気と「わたし」は重なってしまい、区別がつかない説明に留まっているからである。
 そこで、これまた、作業仮説であるが、気霊体を敷延して、それを三重身体、三重気霊体と想定するのである。そして、そこには、「わたし」の気霊体があり、シュタイナーの言うアストラル体(感情身体)と本来の気の身体があるとするのである。
 しかしながら、アストラル体は、凹iで説明できそうである。
 ならば、二重気霊体で済みそうである。とまれ、今は思考実験の段階なので、自由に発想していきたい。
 上述では、「二つ」の「わたし」を説いた。凸iの「わたし」と凹iの「わたし」である。自我は前者で説明ができよう。そして、アストラル体は、後者で説明ができるのではないだろうか。これは、動物的本能に関係するように思われる。
 すると、本来の気の身体はどう説明できるだろうか。「二つ」の「わたし」の差異共振が気の身体を形成するということなのだろうか。
 これまでの、論理の展開からはそうなるのである。しかしながら、これでは、森羅万象、人間になってしまうだろう。
 やはり、差異共振を多重化する必要があると思われる。
 今は、シュタイナーの精神科学の視点を借りて、暫定的に説明してみると、やはり、三重の気霊体と差異共振に見る。一つは、「わたし」の気霊体であり、一つは、アストラル体の気霊体であり、一つは、本来の気の身体とする。
 そうすると、私の考えと齟齬をきたすが無視して続けると、結局、先の気霊体の虚実二重体と合わせると、シュタイナーが説くように、「わたし」の体、アストラル体、エーテル体、物質体の四重体としての人体が説明できる。
 そして、思うに、霊とは「わたし」の体であり、魂とはアストラル体になる。
 以上は暫定的な説明である。
 私の直観では、凹と凸iと凹iの三一体が霊魂である。これが不滅である。そして、凸iと凹iが差異共振して活性化したときが生命の誕生であり、差異共振 が停止したときが、死である。そして、その三一体が「霊界」に向かうのである。端的に言えば、第三象限が「霊界」かもしれない。
 さて、ここで、齟齬について考えると、私はアストラル体は、凹iではないかと考えていることから生じるのである。
 だから、三重体は必要ないのである。つまり、「二つ」の「わたし」の気霊体と本来の気の身体の二つの体で済むのである。
 言い換えると、精神体と気的身体をどう関係づけるのか、ということになる。
 両者は連続的なのか、不連続なのかが重要である。とまれ、簡単にすると、精神と気との関係である。
 ここで、迂回して考えよう。例えば、大地の気、森の気、山の気、川の気を感じることができる。これは、当然、大気と関係するが。
 それは、直感では、凹iとmedia pointで感知するものである。そうすると、気と精神はいわば、繋がっているが、それは、果たして、連続的なのか、否かである。
 また、作業仮説すると、精神は気を包摂する高次元のものと考える。そうならば、精神が気を感知してもおかしくないのである。
 そうすると、高次元の精神が、ある展開によって、気に転化するという考え方はありうるのである。PS理論は基本的に精神から物質が生起すると考えるのだから、精神から気への転化という考えは、合理的である。
 そうならば、精神⇒気⇒物質という図式になる。そうすると、以前考えたように、ガウス平面の原点、media pointにおいて、直交する第三の軸を想定する必要が出てくるのではないだろうか。その軸をz軸とすると、z軸に精神があり、それが、差異共振した結 果、気の陰陽をy軸に生む。そして、それが、差異共振して、x軸に物質を形成するという説明が生まれる。この三次元はいわば、ガウス立体である。
 そうならば、z軸に「二つ」の「わたし」が、陰陽的に、双極的に存する。そして、それが、展開して、y軸に気の陰陽を生起するということになる。
 そう仮定すると、「二つ」の「わたし」の根源は何になるだろうか。やはり、x軸の凹でいいのではないだろうか。つまり、凹が自己分割して、z軸に「わたし」の双極性を形成する。そして、その後、y軸に気の双極性を形成するという順序になる。
 今はここで留める。



超越的精神と自然:media pointの「体」:気霊体と物質体:精神霊体(精霊体)?

テーマ:哲学と精神科学:コスモス精神科学の構築

今は簡単に問題に触れるだけである。
 Media Pointにおいて、虚的な(二重)ラセンが発生する。これが、精神的フィルターを介して、物質化すると考えられるつまり、ここには、虚的なラセンと実的 なラセンの二重体があると思われるのである。これを二重ラセンと呼ぶと、DNAと間違えるので、紛らわしい。
 とりあえず、虚実ラセン体と呼んでおこう。結局、自然の造物は、この虚実ラセン体ではないだろうか。これは、生命体にも、非生命体にも当てはまると考え られる。言い換えると、虚実ラセン体とは、ベクトル・モードであり、渦巻き星雲にも、樹木にも、人体等にもあてままると考えられる。つまり、森羅万象にあ てはまると考えられる。
 思うに、虚ラセン体とは、東洋の気の身体ではないだろうか。造語すれば、気霊の身体、気霊体である。シュタイナーの精神科学で言えば、エーテル体と考えられる。
 そうならば、人間の精神はどう説明できるだろうか。感性や知性はどう説明できるだろうか。
 シュタイナーの悪魔論の解明のときの考え方から言えば、なんらかの虚ラセン体、変異、特異な虚ラセン体で説明できないだろうか。これは、問題としておく。
 
 次に、黄道十二宮や太陽系の発生について考えたい。今は、前者に限定すると、これは、地軸の傾斜による歳差運動から説明されているが、12という数に注目したい。
 ここで、思考実験であるが、双極子が四極性(凹、凸i、凹i、凸:あるいは、四大=地水火風)をもつとすると、各極に三元性があれば、4×3=12とい う数が生まれることになる。また、作業仮説であるが、各極を三一体と考えられれば、12元性は考えられることになる。つまり、たとえば、凹を根源的に、三 一体と見るのである。そして、三一体が凸i、凹iにも、そして、凸にも発生するとみるのである。
 以上、予備考察である。

参考:

歳差
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
歳差(さいさ、precession)または歳差運動(さいさうんどう)とは自転 している物体の回転軸が、円 をえがくように振れる現象である。歳差運動の別称として首振り運動、みそ すり運動、すりこぎ運動の表現が用いられる場合がある。
物理現象としての歳差 [編集 ]


地球ゴマ の歳差運動。
一般に剛体 が角運動量 を持つとき、その回転軸が慣性主軸 で無いならば外力が無くても回転軸は慣性主軸のまわりを振れ回るような動きをする。これを自由歳差運動 という(地球 の自転運動では、これは極運動 の自由章動成分として現れる)。
回転軸が重心 を通る慣性主軸 であれば回転 は安定的だが回転軸をひねるような向きのトルク を与えると、自転軸が円を描くように振れる。典型的な例は回転するコマ の首振り運動である。歳差運動をする物体の自転軸はすりこぎ を擦るように両端が円を描いて回転する。
コマがこのような運動をするのはコマの自転の角運動量 ベクトル に対してコマに働く重力 によるトルクが軸を倒す方向に継続的に加わる結果、自転の角運動量ベクトルが大きさを変えずに向きだけ回転するためである。これは、中心力 によって等速円運動している物体が継続的に加わる中心力によって運動量 ベクトルの大きさを変えずに向きだけを回転させているのと同じ関係である。
天文学における歳差 [編集 ]


歳差運動。地球が公転する際にコマが首を振るように約25800年かけて自転軸が回る。
天文学 においては地球 の歳差運動、すなわち地球の自転軸がコマの首振り運動のような回転をしているために春分点 ・秋分点 が黄道 に沿って少しずつ西向きに移動する現象のことを指して歳差と呼ぶことが多い。この歳差の周期は約25,800年である。
この地球の歳差運動の原因は地球の形状が赤道 部分の膨らんだ回転楕円体 であるため、太陽 や月 の重力による潮汐力 によって赤道部分の膨らみを黄道 面と一致させようとする方向にトルクを受けているためである。これを日月歳差という。日月歳差によって天の北極や赤道が動く。
また地球の公転 運動に対しては、惑星 の引力がわずかではあるが影響を及ぼしている。これによって、地球の軌道つまり黄道 が動く。この変化は春分点 の移動と、黄道の傾斜角度の変化となって現れる。これを惑星歳差という。惑星歳差は日月歳差に比べてきわめて小さい。
この歳差のために、天の北極 は天球 上で黄道北極 を中心とする円を描く。現在の北極星 はこぐま座 α星(ポラリス )だが、紀元前2000年 頃には天の北極はりゅう座 α星(トゥバン )の近くに位置していた。西暦14000年 頃には天の北極はこと座 のベガ 近くに移動する。
歳差による春分点の移動を最初に発見したのは、紀元前150年 頃のギリシャ の天文学者 ヒッパルコス である。彼は黄経180度・黄緯0度にほぼ近い位置にあるおとめ座 のスピカ を使い、皆既月食 の時に月とスピカの角距離 を測った。日食や月食は黄道と白道 の交点でしか起こらないので、日食・月食時の月や太陽は必ず黄道上にいる。従ってこの時のスピカとの角距離は、そのままスピカと月または太陽との黄経 の差になる。ヒッパルコスはこの黄経の差を、彼の時代より約150年前のティモカリス が作った星表 と比較して黄経の値が変わっていることを発見した。彼はスピカ以外の恒星についても同様にずれていることを見つけ、このずれは恒星の運動によるものではなく黄経の基準である春分点自体が移動しているためであると結論した。
関連項目 [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、歳差 に関連するカテゴリがあります。
• 章動
• ジャイロ効果
• ラーモア歳差運動

この項目「歳差」は、地球 以外の天体 や天文学 に関連した書きかけの項目 です。加筆・訂正 などをして下さる協力者を求めています (天文学CP /天体PJ )。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE 」より作成
カテゴリ : 天体力学 | 力学



http://plaza.rakuten.co.jp/saga1221/diary/200909010000/
☆嵯峨奇行☆


http://lab.seikousya.org/seiyou/base/sign1.html
24’占いオンライン


《黄道12宮の象徴と12か月の労働》
高さ:7.47m 幅:2.07m
 「シャルトル大聖堂のステンドグラス」

http://www.hitsuzi.jp/news/2010/05/1659sheep.html
ひつじnews



1 2 3 4 5 6 7 8 9    全260件




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2017年5月
 
27
28 29 30 31      

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:63
昨日:1,267
累計:4,651,823