(+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年06月19日(Thu)▲ページの先頭へ
イデアとエネルギーと物質:超越エネルギーとMedia Pointと+1と-1
本件の問題は、先に検討問題として提起したものであるが、今日のところは簡単に触れるに留める。
 直感で考えたい。イデア界は差異共振エネルギーの「光」がある。これは、いわば、超光である。これが、1/4回転によって、Media Pointにおいて、光を発生させる。そう、この光とは何か。+1なのか、-1なのか、である。
 これは、ある意味で愚問である。何故なら、これまで、+1と-1とは同時生起すると考えてきたからである。だから、光は、両者である。物質的光は-1であり、エネルギーとしての光は+1である。とまれ、屈折して、-1になると考えればいいだろう。
 問題は、+1とは何か、ということである。思うに、これが最高の問題の一つである。先にダークエネルギーと呼んだが、それは間違いだろう。
 -1が物質であるから、+1は物質エネルギーではないのか。しかし、やはり、難しい。なぜなら、先に、-1は+1に包摂されると言ったからである。思うに、-1が現象であり、+1が本体、つまり、物質の本体である。カント的に言えば、+1が物自体であろう。
 やはり、先に言ったように、+1>-1ではないだろうか。思うに、-1のエネルギーと+1のエネルギーがあるのではないだろうか。物質エネルギーとは、-1になるのではないだろうか。そうならば、+1は何エネルギーだろうか。
 +1は、アインシュタインの説いたE=mc^2のエネルギーではないだろうか。そう作業仮説して進もう。すると、それは、やはり、ダークエネルギーではないのである。
 ダークエネルギーはやはり、Media Pointないしはイデアに関係するように思える。
 端的に、一体、何が問題なのか。即非様相であろう。Media Pointにおいて、イデアであり、且つ、物質であるということだろう。つまり、+1とは、Media Pointにおいては、イデアと即非であるということである。つまり、Media Pointの「場」(Media Point Field、MP場)において、+1は、イデアと交互関係があるということである。
 これが、存在の核心である。つまり、物質は、Media Pointのおいて、イデア界(超越界)、即ち、高次元と接するのである。超次元である。端的には、五次元である。
 そう、この五次元のエネルギー、イデア・エネルギーがダークエネルギーのように思われるのである。
 先に、課題として、イデア・エネルギー(イデルギー)とMedia Point Energy(メデルギー)と物質エネルギーの関係をあげていたが、結局、メデルギーというものは、イデルギーと物質エネルギーの中間になると言えよう。そして、イデルギーがダークエネルギーということである。


2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
差異と同一性:イデア差異極性と極傾斜:同一性勾配をもつ父権人類と差異共振性(コスモス)回帰
差異と同一性:イデア差異極性と極傾斜:同一性勾配をもつ父権人類と差異共振性(コスモス)回帰
テーマ:新植民地主義=グローバル資本主義
先に、作業仮説として、宇宙における、+1の-1に対する優位を述べたが、これは、思うに、人間存在においても、妥当する考えではないだろうか。しかし、こう述べることは、これまでの考察とは矛盾するように見えるだろうから、説明したい。
 これまで、人間において、同一性傾斜があると述べてきたが、自然自体にもあると考えられる。しかし、基礎は差異共振性である。この基礎に対して、同一性傾斜が発生するのである。
 実際、同一性傾斜の力学を考える必要があるだろうが、それをおいておき、今は、本件の、人間における、+1の-1に対する優位性について触れたい。
 端的に言えば、根源は、+1である(記述上の便宜で、自己認識方程式の右辺だけを記す)。しかし、同一性傾斜があるために、それが疎外、抑圧される。同一性の壁が出来るのである。自我の壁である。
 しかしながら、本来の差異共振性はエネルギーをもっているので、同一性=自我の壁を乗り越えようとするのである。ここで、同一性と差異との分裂があり、それが自己における満ち足りなさを発生させると言えよう。生の意味の空虚である。【心の病の内因はここに存しよう。】
 思うに、自我=同一性は、自己完結しよう(同一性主義=「自己中心主義」)とするので、活性化している差異共振エネルギー(差異)を抑圧排除すると考えられるのである。これが、広義の精神病の発生を意味するだろうし、また、同一性価値資本主義のイデオロギーの根因であると思われる。
 人間の攻撃・好戦性は、この差異を排除する同一性完結主義に拠ると考えられる。とりわけ、男性において生じるのである。父権主義ということである。
 だから、同一性主義とは、大宇宙の「法」に背いていると言えよう。【人間は、自然・宇宙の鬼っ子である。】人間において、同一性主義への傾斜が、他の自然存在に比べて、強大なのである。この同一性主義は父権主義になって顕著になったと考えられるのであり、前父権主義においては、人間と自然とは、いわば、共生・共存していたであろう。
 とまれ、今日の人間の精神的課題は、内的な差異共振性を「解放」することである(差異解放主義)。今日、近代合理主義/近代的自我による同一性主義によって、差異共振性が抑圧排除され、同時に、それが、反動となり、非合理主義的衝動(狂気・暴力・犯罪・病気)を発生させていると考えられるのである。
 だから、大宇宙・大自然(コスモス・ジネン)へ還れということになるだろう。【Media Point Energyは、神話的には、道祖神であり、ヘルメス神であり、トート神である。キリスト教の聖霊もこれだと思う。】
 思うに、差異共振エネルギーとは宇宙のエネルギーである。そして、それは、Media Pointを開くので、宇宙、大宇宙と共振・交信することになるだろう。伝統的に、コスモスと呼ばれていたものが復活することになるだろう。近代における多くの詩人や芸術家が表現してきたコスモスが復活するのである。トランス・モダンとしての、新コスモス主義、コスモス・ルネサンスである。
 このことは、当然ながら、政治・経済においても同様であり、かつ、最重要なポイントである。政治・経済の差異共振化が必須なのである。西洋文明的グローバリズムは地球自然社会人間破壊主義である。私は利子の廃止を提唱する。無利子金融ないし減価通貨金融を提唱する。
 さて、理論的な問題に戻ろう。問題は、同一性傾斜の発生の力学にあると言えよう。これは、それがただ生起すると言っただけであり、その原因については述べていないのである。
 私は自然にも同一性傾斜があると言ったので、なんらかの普遍的な原因を考える必要がある。以前は、引き付けに対する反発を原因とした考えたのであった。
 この問題は、また、根本の問題に還ることになる。不連続的差異論の時点では、シンプルに、不連続な差異の共振から同一性現象が発生すると考えたのである。非常に明快である。ただし、一番の問題は、なぜ、同一性が差異を否定(抑圧・排除)することが発生するのかということである。これは、PS理論になっても続いた問題(難問)である。
 結局、他者差異-iを否定するという同一性傾斜が原因であるが、この同一性傾斜の力学は何か、というのが本件の問いである。
 ここで思考実験であるが、差異自体に極性があり、一方の極では、単独性があり、他方の極では、共鳴性があるのではないだろうか。これは、先に述べた差異の分立性と水平性の二元論とほぼ変わらない。しかしながら、分立性と水平性とは、差異極性、イデア極性の極性を意味する。しかし、単独性と共鳴性の極性はそれとは異なるでなくてはならない。
 つまり、イデア極性=差異極性は、差異共振性を生むもので、⇒+1となる。ここには、破綻はないのである。純粋差異共振性があるのである。
 しかしながら、ここで思考実験しているのは、その純粋差異共振性を破綻させる別の極性力学のことである。
 極性が極性でなくなるのである。そう、これは、思うに、別に極性を作る必要はないかもしれない。つまり、最初の純粋極性のおける両極端を考えればいいのではないだろうか。
 これは、以前考えていたことである。+iを陽極として、-iを陰極とすれば、このイデア差異極性、イデア差異太極において、+i=陽極、ないしは、-i=陰極に総体的に傾斜するときが生じるのである。それは、極限ではなくて、一つのプロセスである。
 そして、+i=陽極に全体的に傾斜したときに、同一性傾斜が発生し、-i=陰極に全体的に傾斜したときにも、同一性傾斜が発生すると考えられる。前者は大陽であり、後者は大陰である。どちらのときも、対の極が消えているのである。いわば、裏側に潜在しているのである。そう、これが、端的に同一性傾斜と考えられよう。そして、物質化である。一般に自然・宇宙においては、この極性によって生成流転が生起すると言えよう。東洋哲学や前ソクラテス期の哲学は、これを捉えていた。
 それに対して、人間の場合は、大陽への強い傾斜があると考えられる。ヤハウェはこの大陽を意味しているように思う。もっとも、両極端の一致の法則から、これは、同時に、大陰でもある。この大陽への強い傾斜が西洋文明を支配したのであり、近代文明はその帰結である。
 問題は、どうも大陽への強い傾斜が固着的であり、差異を否定・抑圧・排除し続けることである。このために、西洋文明は「自然」(じねん)破壊的なのである。人類「自然」滅亡的なのである。大陽への傾斜とは、自我主義・同一性主義・父権主義であり、他者破壊的である。
 ジネン(自然)である差異共振性・イデア極性へと回帰すべきときが来ているが、未だに、人類の意識は、大陽主義に閉じこめられたままである。これが、恐るべき反動なのである。大陽の物質主義・自我主義・同一性主義に固着したまま、石化しているのである。
 しかしながら、自然・大宇宙(ジネン・コスモス)の永遠の生成流転を考えると、大陽主義に留まることはできないのである。大陽主義は、大反動になるのである。これは、大破壊的である。
 差異共振エネルギーは活性化されているが、それを純粋に受容することができないのである。【思うに、他力本願とはこの点では正しいのではないだろうか。差異共振エネルギーという他力を受容することが必要なのである。ただし、同一性の知性は保持しないといけない。】そのため、戦争、狂気、犯罪、他の暴力等々が蔓延するのである。
 以上の検討から、先の仮説である+1は-1に対して優位であるということは、ある意味で証明されたと言えよう。しかしながら、正確に言えば、-1は+1 に含まれるということになるだろう。ある特異点として、-1が発生するのである。それが、Media Pointであり、1/4回転である。言い換えると、イデアの極性の特異点として、物質が発生するのである。しかしながら、それは、裏面に差異共振性+1 を潜在させているのである。このように考えて、不連続的差異論の考え方をも包摂することができたと言えよう。
 さて、最後に、先に触れた、可視の光と不可視の「光」について、再考しよう。結局、現象とは何か、という問いになるだろう。端的に、光とは何か、である。
 先には、-1が可視光であり、+1が不可視の「光」であると言った。思うに、前者が粒子=物質であり、後者が波動である。そして、両者で相補性と形成する。量子論である。(これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にほぼ相応しそうである。ただし、真の共振性はない。)
 また、先のダークエネルギーの問題であるが、+1が-1に対して、優位なので、その優位の分を計算していないので、ダークエネルギーが必要になるのではないのか、と述べた。
 思うに、物質現象は-1であり、それを支点にして、+1の波動を捉えると、全体のエネルギーが足りなくなるのではないのかと思われるのである。何故ならば、-1は、本来、差異共振性+1ないしはMedia Point Energy(メデルギーMedergyと造語したい)に包摂されるからである。言い換えると、-1は、後者の一面に過ぎないと考えられるのである。やはり、+1 or Medergy >-1である。この左辺がダークエネルギーになるのではないだろうか。【ただし、問題は、イデルギーとメデルギーと+1との関係である。それは、別稿で検討したい。】
 そう、思うに、これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にも該当することだと思われる。超越性ないしは差異共振性の欠如である。そのために、本来の差異共振エネルギーが欠落しているように思えるのである。「ダークエネルギー」が必要に思われるのである。つまり、それは、やはり、物質主義-1から事態を考えているのであり、そのため、壁の向こう側が、それに対応するような超越性・差異共振性のない本来的存在や痕跡になると思われるのである。

参考:

「量子力学とは、目に見えない小さな粒子の世界のこと。つまり、分子や原子、またはもっと小さいものの構成要素を研究する物理学の分野の一つです。量子力学に関するサイトをまとめてみました。」
http://maglog.jp/rarirarihaha
/Article319014.html
量子力学入門編


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秋葉原17人殺傷 犯人の狂気を増幅させた派遣生活
2008年06月14日10時00分
ゲンダイネット

〈私の仕事も仕事と認められていませんからね〉――秋葉原で17人を殺傷した加藤智大(25)は携帯サイトに仕事への不満をつづっていた。凶行に駆り立てた背景にはさまざまな事情が絡み合っているのだろうが、派遣先の「関東自動車工業」にも注目が集まっている。

●1秒に追われ、リストラにおびえる過酷作業

 工場での加藤の担当は、塗装工程の最終検査だった。ロボットが仕上げた車両部品の塗装漏れを確認する流れ作業である。集中力を要する仕事で、追い立てるように作業場には部品が届く。

 日勤は午前6時半〜午後3時5分、夜勤は午後3時20分〜午後11時55分の2交代制。1週間おきにシフトが変わり、1日8時間以上ブッ通しで作業にあたった。「コンビニ弁当を買って酒を飲むだけ」(加藤の書き込み)という生活だった。

 若者の車離れやガソリン高騰、米国の景気低迷が重なり、どの自動車工場でも減産調整が加速している。加藤も最近、時給が1300円から1050円に下がり、「残業枠」目いっぱい働いても月収にして20万円程度。事件直前には200人の派遣社員を50人まで減らすリストラ計画も持ち上がっていた。

「どの自動車工場もムダの排除を徹底するあまり、1秒に追われる過密作業の連続なのです。人間に機械を合わせるのではなく、機械に人間が合わせるシステム。作業は細分化され、労働者はいつでも交換可能な歯車に過ぎない。過労死や自殺、精神障害に追い込まれる人は後を絶ちません」(自動車労組関係者)

 今から16年前にも、愛知・豊田市で自動車工場の模範的養成工による陰惨な事件が起きていた。92年8月、25歳の工員が、妻(当時22)と長男(同5)、長女(同3)を次々と絞殺したのである。

「動機は、女性関係のことで妻になじられ、“妻子がいなくなったら丸く収まる”という身勝手なもの。同情の余地はありません。事件の公判では、中京大経営学部で労務管理論を研究する猿田正機助教授(現・教授)が証言台に立ち、人間性を切り捨てた自動車工場の生産システムを批判して話題になりました。加藤が造っていたのも同じメーカーの自動車です」(事件を取材したジャーナリスト)

 だからといって、加藤の犯罪が許されるわけもないが、事件の一断面ではある。

【2008年6月11日掲載】

http://news.livedoor.com/
article/detail/3683955/


秋葉原殺傷 「中学までは幸せ」…加藤容疑者

6月14日2時31分配信 毎日新聞

秋葉原殺傷 「中学までは幸せ」…加藤容疑者

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送検のため万世橋署を出る加藤智大容疑者=東京都千代田区外神田で2008年6月10日午前10時20分、長谷川直亮撮影
 東京・秋葉原の17人殺傷事件で、逮捕された派遣社員、加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、警視庁万世橋署捜査本部の調べに「中学時代までは幸せだった」と供述していることが分かった。中学までトップクラスだった成績が高校で下がり、希望する大学への進学をあきらめるなど学歴コンプレックスを抱くようになったとみられる。職場への不満を募らせていたことが既に判明しており、捜査本部はうっ屈した感情が重なり、事件に結び付いたとみている。

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 加藤容疑者は青森県出身。地元でエリート校と呼ばれる市立中学校を卒業し、進学校の県立青森高校に合格した。入学直後は4年制大学への進学を希望していたといい、「北海道大学をねらう」などと話していたという。関係者は「両親は教育熱心でよくしかっていた。祖父母にも『教育のことには口出ししないで』と注文するほどだった」と振り返る。

 ところが、関係者によると成績はふるわず、高3の進路相談時には担任教師らに「トヨタで自動車を設計したい」などと話すようになり、自動車整備工を養成する岐阜県の短大に進学したという。毎日新聞の取材に応じた親族の男性は「好きで短大にいったわけではなく、本人も両親もがっかりしていた。高校で成績が落ちたことに劣等感があったようだ」とみる。

 加藤容疑者は調べに素直に応じ、留置場でも正座するなどして「うそをつくつもりはありません」と話しているという。生い立ちなどの質問には「自分の人生が嫌になった」と供述する一方で、「中学時代までは幸せだった」と話しているという。加藤容疑者とみられる人物が書き込んでいた携帯電話の掲示板には「三流の短大卒の私には(女性と交際する)チャンスはなさそうです」との記述があった。【川上晃弘、沢田石洋史】

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秋葉原殺傷:アキバの常連たち オタクの流儀で冥福祈る
秋葉原通り魔:携帯の映像瞬時に広がる 若者らが救助活動
誰でもよかった:秋葉原通り魔事件/下 若者引き込む仮想の世界
誰でもよかった:秋葉原通り魔事件/上(その1) 孤独な心情、サイトに
東京・秋葉原殺傷:雨の中、川口さん告別式 友人ら200人すすり泣き /千葉
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080614-00000000-maip-soci


[江東女性不明]初聴取当日に殺害…部屋で縛り
2008年06月14日08時34分
毎日新聞

 東京都江東区潮見2のマンションに住んでいた広告会社社員、東城瑠理香さん(23)が行方不明になった事件で、二つ隣の部屋に住む派遣会社社員、星島貴徳被告(33)が捜査員の聴取を初めて受けた4月18日夜、東城さんは星島被告の部屋で緊縛され、同日中に殺害されていたことが分かった。2日後に捜査員が部屋の天井裏などを捜索した際は、遺体は切断されてビニールに入れられ、複数の段ボール箱に分けて衣類などで隠されていた。

 ◇遺棄容疑で再逮捕

 警視庁深川署捜査本部は13日、星島被告を死体損壊と死体遺棄の容疑で再逮捕した。殺人容疑でも追及する。東京地検は星島容疑者を住居侵入罪で起訴した。

 捜査本部の調べでは、星島容疑者は4月18日夜から5月上旬にかけ、浴室で東城さんの遺体をのこぎりや包丁で細かく切断し、トイレに流したり近くのマンションのゴミ捨て場に捨てた疑い。

 付近の下水道からは約50点の骨片などが発見され、一部は東城さんとDNA型が一致した。星島容疑者は勤務先のトイレ内に東城さんの携帯電話を隠しており押収された。

 星島容疑者は「乱暴目的で自分の支配下に置くつもりだった。部屋が近いので東城さんを襲ったが、相手は誰でもよかった」と供述している。また、「警察官が来て騒ぎになり、東城さんを消してバラバラにした」とも供述。4月下旬までに遺体を細かく切断し、大きい骨はカバンに詰め、5月上旬までにゴミ捨て場に捨てたという。【佐々木洋】

http://news.livedoor.com/
article/detail/3683700/


2008年06月11日(Wed)▲ページの先頭へ
新母権主義と父権・母権の大調和主義の関係:自己意識と他者意識:精神的身体と精神エネルギー
先に、同一性主義と差異共振主義の相違を明確にしたが、そうすると、それ以前に述べた父権主義と母権主義の大調和主義という私の考えは、変更を受けるのではないだろうか。この点を検討したい。
 大調和主義以前には、新母権主義を唱えていた。新母権主義と大調和主義ではたいへん異なるだろう。
 結局、直近の考察は、Media Pointにおいて、イデア極性の傾斜によって、同一性主義が発生するということであった。そして、それとは別に、本来の差異共振主義があるということであった。即ち、Media Point(以下、mp)を境界にして、一方(意識)では、同一性主義(同一性)が生起して、他方(無意識)では、差異共振主義(差異)が生起するということであった。【これは、心性の分裂である。問題は前者は言語をもつ自我意識であり、それが、無意識の差異共振性を抑圧排除することである。自我意識は言語意識を形成できるが、無意識の差異を包摂できないのであり、不十分な自己なのである。つまり、自己が自我意識主義であると、無意識の差異を包摂できないので、分裂したままになるということである。これが、心の病気の一つの典型ではないだろうか。自己の他者を肯定する必要があるのであるが、それは、他者を明確に確認する必要があるのである。つまり、トランス自我の自己意識形成が必要であるということである。
 問題は、思うに、他者は身体ないしは身体に関係するものではないかということである。他者を内的身体と呼んだりしたのであるから、身体に関わるのである。しかし、この身体は物質身体なのだろうか。後で検討したい。】
 言い換えると、自己は一面では、同一性であり、他面では、差異であるということである。しかしながら、同一性主義である限り、差異は否定されたままである。問題は差異の肯定が意味することである。
 差異(差異共振性)が肯定されたとき、同一性主義は当然、解体する(脱構築)。しかしながら、同一性自体は消滅はしない。何故なら、同一性は、意識の主要な様相であるからである。つまり、同一性中心主義のみが解体して、同一性は保持されるということである。つまり、差異の肯定によって、同一性と差異とが両立することになるということだと思われるのである。
 これを以前は、同一性を包摂する差異と呼んだのである。そして、これが新母権主義と述べたのであるが、先には、父権主義と母権主義の大調和主義を唱えたのであるが、それは、どういうことだろうか。
 同一性中心主義を脱構築して、同一性を包摂する差異が発現しても、思うに、同一性傾斜は変わらないのであるから、父権主義が反復することになるのであり、そのために、単に新母権主義だけでは、不十分なので、父権主義と母権主義の大調和主義が必要であるということだと思う。
 新母権主義と大調和主義の関係をどう考えたらいいだろうか。前者に即せば、差異の肯定によって確かに、同一性主義は解体する。同一性中心主義はありえないことになる。しかしながら、自己差異傾斜=同一性傾斜という事態が残っているのだから、常に、それを解体して(永遠解体、永遠脱構築)、差異の肯定へと志向する必要があるだろう。
 父権主義と母権主義の大調和主義とは、結局、新母権主義と同義であると言えよう。新母権主義であることは、反復生成する父権主義を永遠脱構築するということであるのである。ということで、本件は解明された。自説の齟齬はなかったのである。
 さて、上記の括弧内のことであるが、他者差異と身体の関係を考察しよう。これも一つの核心的問題である。
 これまで、他者差異を内的身体と考えてきたが、より詳しく精査したい。結局、差異共振性と身体の関係の問題にもつながると言えよう。
 これまで、差異共振性を精神的身体と考えてきた。そう、これは、物質的身体、言い換えると、同一性的身体とは異なるのである。同一性主義ないし同一性は自我と同時に物質身体を形成すると考えられる。-1とは、自我且つ物質身体の形成を意味するのである。
 それに対して、+1は、差異共振性であり、且つ、精神的身体の形成を意味すると考えられるのである。【精神的身体とは、言い換えれば、魂と言っていいだろう。】とまれ、端的に、他者差異-iとは何か。これまでの考えでは、+iは原知性であり、-iは原身体である。【思うに、アリストテレスの質料の根源は、この原身体のことではないだろうか。】
 しかしながら、他者差異-iを原身体としなくて、端的に、他者の原知性と考えることも出来るのではないだろうか。他者の意識である。そう、他者の意識とは自己を知る意識ではないだろうか。少なくとも、自己を対象とする意識であろう。どうも、このように考えた方が、積極的であるようだ。
 つまり、自己意識と対になる他者意識が他者差異ではないか、ということである。ならば、どうして、私は、自己差異と他者差異との共振を精神的身体と考えるのだろうか。
 思うに、それは、同一性(自我)における対象としての物質身体からの類推で、他者差異との共振を精神的身体と考えてしまうのではないだろうか。しかし、これはどれほど意味があるのだろうか。
 思うに、差異共振エネルギーが、この精神的身体と等値なのではないだろうか。自己差異(自己意識)と他者差異(他者意識)が共振するとき、エネルギーが発動する。このエネルギー様態を身体として、つまり、精神的身体と感じるのではないだろうか。言い換えると、精神エネルギーである。そう、この精神エネルギーが、内的身体を形成すると考えていいのではないだろうか。例えば、「気」とは、この精神エネルギーの一つであると思われる。また、霊感と呼ばれるものも、この一種であろう。そして、直感もこれの一種であろう。勘もこれで説明できよう。私がコスモスと呼ぶものも、この精神エネルギーが賦活された様態なのではないだろうか。また、プラトンのエロースもこれで説明できよう。
 私のイメージでは、精神エネルギーが内的身体を形成するが、この内的身体が個々においては、内臓となったり、神経となったり、血液となったりするのではないだろうか。
 そう、精神エネルギー(差異共振エネルギー)が、いわば、情報エネルギーであり、物質身体を構成するのではないだろうか。
 この場合、情報とは、精神エネルギーの振動ではないだろうか。電波を見てわかるように、その周波数には、多様な情報の信号が入っているのであり、それが、端的には、人体の形成する情報であろう。つまり、イデアとしての遺伝子、ないしは、原遺伝子が、精神エネルギーに込められていると考えられる。そして、DNAとは、原遺伝子の物質的表現であると思われるのである。本来は、遺伝子エネルギーがあるのであり、それが物質的に発現したのが、DNAではないだろうか。
 後でさらに精緻に考察を続けたい。


同一性主義と差異共振主義とMedia Point
どうも、先の議論は、まだ判然としていないので、ここでさらに検討したい。
 直近の私の議論は、イデア極性における反発と牽引による極限において、それぞれ、同一性主義と差異共振主義が発動するというものであった。
 ここで、丁寧に考えよう。同一性主義-1は、自己である差異+iが、他者である差異-iに対して反発して、自乗化して発生すると考えている(i^2=-1)。ここでは、他者差異に対する壁が生じている。いわば、二項対立が発生しているのである。
 次に、差異共振主義を考えよう。それは、牽引・引き付けによって生起すると考えられる。端的に、自己認識方程式であらわされると考えている。(+i)*(-i)⇒+1である。
 問題は、この*である。これは、共振ないしは共立を意味する。しかし、これは、単に、牽引・引き付けによるものだろうか。これは、いわば、差異関係、差異様相である。それは、他者を志向する差異であるが、しかし、他者とは一致(同化)はしないのである。絶対的差異であり、根本的には、距離があるのである。だから、単純に牽引・引き付けの作用というのは、誤りである。
 ならば、反発と牽引の極性の力学に基づく先の考察は誤りである。どう考え直したらいいだろうか。結局、イデア極性をどう捉えるのかが重要である。
 前に述べたように、独立性と水平性が並存していると見るべきであろう。独立性はあくまで、差異が差異であり、他者とは異なるのである。しかし、同時に他者へと志向するのである。これが水平性である。そして、これが、差異共振の意味であり、⇒+1である。
 問題は、独立性と反発のことである。独立性は独立性であり、反発ではない。独立自尊性と言っていいだろう。しかし、それに対して、反発とは、明らかに、他者を意識した、他者否定行為である。だから、独立性と反発(他者否定)はまったく異なることである。
 そうすると、問題はいわば振り出しの戻ることになる。即ち、反発性はどこから発生するのか、ということである。
 とまれ、結局、差異共振性とは、イデア性、即ち、虚軸性のことであり、その認識が自己認識ということになる。つまり、端的に言えば、自己とはイデア的認識存在(認存ないしは識在という語を造語しようか)であるということである。
 反発とは、自己差異+iが、他者差異-iを認識できないことから発生すると考えられる。つまり、他者に対して、自己反射してしまうということである。これは、これまでの結論では、他者は苦・悲をもたらすもので、それに対するルサンチマンから他者への反発が生まれるということである。そう、端的に、本来の差異共振性、ないしは、初期差異共振性とは歓喜と考えられる。
 しかるに、他者が苦・悲の原因となるとき、自己は他者を反射的に否定(反発)するだろう。いわば、自動反射である。そのとき、本来の差異共振エネルギーが、他者から離脱して、自己へと反射する(自乗)のだろう。つまり、鏡像による自己同一性形成である。鏡像とは、反発したエネルギーによる自己再帰であろう。自己差異+1が鏡ないしは鏡像であろう。ここへと再帰するのである。即ち、(+i)×〔-(-i)〕=-1になると思われる。
 問題は、この反発・否定の力学的意味である。反発・否定とは、端的に、自我形成の力であるから、自我形成する力の意味である。また、それは、物質と関係すると考えられる。
 ここで思考実験をするが、差異力学ないしは極性力学とは異なる力学がここにはあるのではないだろうか。それは、有り体に言えば、二項対立力学である。二元論力学である。
 差異極性を否定する力学としてのその力である。極性抑圧力学である。これはどういうことなのだろうか。これまでの説明は人間の場合、同一性傾斜が原因であるということである。つまり、人間の場合は、自己差異+iが、他者差異-iよりも強度が大であるということである。だから、不均衡な差異共振性があり、また、傾斜によって、反発力が生じると説明できることになるのである。自己差異傾斜が反発・二項対立・同一性主義の根因ということになる。
 これで自己差異傾斜が自我の原因であると説明できたが、それが物質とはどう関係するのだろうか。言い換えると、自然現象においても、自己差異傾斜があるのだろうか。たとえば、磁石の場合はどうだろうか。否、端的に、磁気、磁力を考えるべきである。それは、本来、不可視である。自然現象とは言え、物質ではないと言うべきと言えよう。思うに、磁気・磁力の場合には、自己差異傾斜はないのではないだろうか。
 結局、差異共振力は自然現象であるが、それは、いわば、イデア力である。そして、物質形成には、自己差異傾斜が必要であるということではないだろうか。
 そう考えて、植物や動物の生物を考えよう。ここでは、生命力が問題となるが、それは、確かに、磁気・磁力のような不可視性があるとは言え、磁気・磁力とは異なり、積極的に、有機体を形成する。だから、物質化能力をもっていると考えられる。すると、生物には、自己差異傾斜があると思われるのである。ということは、植物、動物にも、なんらかの自我が存するということになる。ただし、人間のように過剰・過度ではないと考えられよう。
 とまれ、そうすると、物質化=自我化ということになる。もっとも、これは広義においてである。狭義では、やはり、言語を介することが必要だと考えられる。つまり、自己差異傾斜の一つの主要な帰結は言語であると考えられるのである。
 ということで、以上で、直近の考えを否定訂正する形で、同一性主義と差異共振主義の説明をした。結局のところ、同一性と同一性主義は等価である。差異共振主義の+1は、先に共一性=同一性としたが、それも誤りであるので、ここで訂正する。+1は差異共振的自己性である。共一性という言い方は可能であるが、同一性ではありえないのである。
 鉱物のことは言ってなかったが、結局、鉱物にも、なんらかの自我があることになる。そうすると、意図していなかったが、新アニミズムを説くことになったと言えよう。魂とは、端的に、イデアであるが、それが、自己差異傾斜によって、自我をもつのである。つまり、イデアは自己であるが、同時に、自我=物質として発現するということになる。そして、イデアは永遠である。
 では、最後に、以上の考察をMedia Pointと関連させて整理しよう。結局、自己差異傾斜によって、イデアは、Media Pointにおいて、差異共振性としては、+1となり、同一性としては、-1へと展開するということになる。そして、自己差異傾斜=同一性主義によって、 Media Pointに壁、境界、穴、亀裂等が発生すると考えられる。
 そして、壁のこちら側には、同一性が存し、壁の反対側には、差異が存することになる。この構造は実に普遍的であると思う。ほとんどの哲学・理論を説明することができよう。
 繰り返しになるが、ハイデガー/初期デリダは、-1と+1との「ズレ」を説いた哲学と考えられるが、ただし、問題は出発点を-1の同一性にしているので、+1が本来もつイデア性を否定していることにあると考えられる。
 フッサール現象学は、-1を突破して、+1のイデア性に到達したと考えられる。そして、ドゥルーズ哲学であるが、それは、差異を連続化したので、差異が差異でなくなってしまったと考えられるのである。差異の同一性化であり、構造主義であり、弁証法であると考えられるのである。
 また、構造主義であるが、それは、同一性-1を生む原形を亀裂においているとだろう。しかしながら、構造主義には、本来の差異共振主義+1はないと思う(ソシュール言語学の「差異」とは、二項対立の「差異」であると考えられる)。亀裂=構造=ゼロ・ポイントであると思われる。
 これで本稿を終える。
 
p.s. まだ、問題が残っていた。以上では、イデア=魂としているが、これまでは、Media Pointを魂と考えたのである。この齟齬を解決しないといけない。
 結局、イデアとMedia Pointの関係の意味が問題である。イデアのエネルゲイアがMedia Pointであると言えるだろう。つまり、イデアは元々は、デュナミスであるということである。それが、根源的な運動(クリナーメン?)から、エネルゲイアに転化して、さらに、現象(フェノメノン)=エンテレケイアになるということだろう。
 思うに、イデアは一者であるが、それは、Media Pointとなることで、多者になるのではないだろうか。後で検討を続けたい。


2008年06月07日(Sat)▲ページの先頭へ
物質とは何か:現象三相性:同一性主義-1と差異共振主義+1とMedia Pointの三相性
物質とは何か。問題は、現象ではないだろうか。ワインという現象がある。それは、一面では物質=同一性である。しかし、他面では、差異共振性⇒共一性である。
 否、どうも、習慣・慣性から、用語を使用してしまう。物質とは、実に不思議であり、±1が物質現象ではないだろうか。一面では、-1であり、同一性主義の面、他面では、+1の共一性=同一性の面がある。しかしながら、正しく言うと、Media Pointの面があるのであるから、少なくとも、三相である。即ち、-1の同一性主義の面、+1の共一性=同一性の面、そして、Media Pointの差異共立主義の面である。
 物質現象とは、表面的には、±1であろう。しかしながら、「気」=電磁波=イデア波動を考慮すると、Media Pointを内在しているのである。
 Media Point(以下、MPないしはmp)とは、実に「不思議な」、いわば、神秘的な境界である。(ここにすべての鍵があると言ってもいいくらいだ。)MP は、超越エネルギーの反発において、同一性主義-1となり、それは、いわば、物質の壁を形成する。これは、マイナス(排除的否定)の壁と言えよう。しかしながら、壁の向こうには、差異共振の結果の共一性=同一性の物質が存する。-1は、同一性主義エネルギーであり、+1は、同一性エネルギーである。
 化学記号における物質は、-1である。では、+1の物質とは何か。思うに、エネルギーとしての物質ではないだろうか。E=mc^2としての物質ではないだろうか。
 そうすると、相対性理論は、物質の+1の側面を発見したことになる。では、量子力学はどうなるのか。先には、±1を包括するのが、量子論であると言ったが。先に、-1と+1との相補性を言ったがどうだろうか。思うに、粒子と波動との二項対立は、-1において発生しているだろう。ならば、相補性は、+1に成立しているのではないのか。そうすると、相対性理論と量子論は、共通の物質現象を捉えているということになるのではないだろうか。
 それは、おいておくとして、問題は、MPである。MPにおいて、イデアが物質現象へと変換するのである。言い換えると、MPは、イデア/物質変換回路、「イデア/物質」トランスである。超越エネルギーが物質エネルギーに変換するとも言える。問題は、MPの様態ないしは様相である。
 -1の同一性主義とは、明らかに、MPにおいて、超越性と物質性を切断している。これは、超越神に通じる。超越性と現象性の絶対的分離がここに生じると考えられる。
 しかし、+1の同一性は、果たして、MPにおいて、切断されているだろうか。あるいは、+1とは、MPから分離させて、純粋に取り出すことができるのか。
 差異共振性によって、+1が発現するのであるが、そのとき、差異共振性を排除するのだろうか。直感・経験では、+1とは、差異共振性に基づく同一性であるから、それを排除してはいないのである。差異共振性を基盤にもつ同一性である。そうすると、+1とは、必ず、少なくとも⇒+1とならなくてならないのではないだろうか。
 ここで哲学史を想起すると、フッサール現象学は、⇒+1で表わせる。しかし、ハイデガー存在論は、⇒を否定して、+1を本来的存在としたとこれまで述べた。しかしながら、今の議論からすると、単独の+1は本来、ありえないのである。これはどうしたことだろうか。
 +1だけを分離するのは、⇒を排除しないといけないのである。そして、⇒を排除するとは、同一性主義-1に因ることになると考えられる。すると、ハイデガー存在論は、-1を基盤にして、⇒を排除して、+1を提起しているのではないだろうか。世界内存在とは、-1のことであり、ハイデガーはこの現存在を出発点としているので、⇒を排除した形で、+1を本来的存在として論じているということではないだろうか。
 つまり、ハイデガーは同一性主義の物質(自我主義)から出発しているので、超越性⇒が排除されて、+1を本来的存在として説いているのではないだろうか。端的に言って、+1とは、奇形的である。不自然である。私は、ハイデガーの存在に差異共振性が欠落しているのを奇異に感じたが、それの原因はこれで説明ができると言えよう。つまり、同一性主義-1の壁があるために、超越性が排除されているのである。(やはり、ハイデガーはまったくフッサールのブレークスルーを誤解していたのである。ハイデガーの現象学とは、似非現象学である。)
 そう見ると、初期デリダがハイデガーを踏襲するようにして、フッサールの超越性を否定したと考えられる。初期デリダは、同一性主義-1と同一性+1の差延によって、同一性主義を脱構築したと言えよう。やはり、ハイデガーのエピゴーネンである。ハイデガー存在論における-1と+1との亀裂を、初期デリダは差延の揺らぎに変えただけのように思えるのである。
 以上のように見ると、物質現象とは、実は、-1の同一性主義と⇒+1の差異共振主義との二面性をもっているということになる。そして、前者は後者を排除するという不思議な様相をもっているのである。即非様相である。問題は、物質現象はこのように自己矛盾(絶対矛盾的自己同一)の様態をしているので、同一性主義知性(自我)は、自己をほとんど捉え損なうのである。つまり、一般に知性とは、同一性主義に因るので、同一性主義の視点から差異共振性を捉えようとするのであり、その結果、ショート(没入)が起こるのである。ドゥルーズ哲学がその典型であると思う。ドゥルーズは、差異共振性(差異)を、同一性主義と連続化するのである。
 この連続化とは、思うに、和ではないだろうか。(-1)+(+1)=ゼロがドゥルーズ哲学ではないだろうか。だから、繰り返すが、それは、構造主義なのであり、弁証法なのである。それに対して、初期デリダは、ハイデガーを踏襲して、-1と+1との差延を維持したので、構造主義からは脱していると考えられる。そう、確かに、いわば、ポスト構造主義と言えるのであり、脱構築主義とは言えるのである。それは、脱構造主義と言ってもいいのである。
 ゼロないしはゼロ・ポイントであるが、これは、同一性主義の観点から発生する疑似MPないしは似非MPであると考えられる。ここには、超越性が排除されていて、±1の和としてのゼロが構造となっていると考えられるのである。
 では、ここで、物理学を考察するとどうなるだろうか。先に、相対性理論は、ハイデガー存在論と相応すると言ったがどうだろうか。結局、問題は、相対性理論は、⇒+1なのか、それとも+1なのか、である。思うに、相対化とは、-1 の同一性主義を相対化したということと考えられるので、-1を脱していると考えられる。だから、+1ではなくて、⇒+1と推察される。ならば、相対性理論は、フッサール現象学に相応するのである。
 では、量子力学はどうなるだろうか。先には、±1と述べた。しかし、ここでの議論からそれは誤りであることがわかる。確かに、粒子の概念は、-1であろう。しかしながら、波動、乃至は、相補性であるが、波動は相対性理論に通ずるだろうし、相補性であるが、それは、ほぼ、Media Pointの即非相の概念に近いのではないだろうか。相補性とは、粒子と波動との相補性であり、それは、-1と⇒+1との相補性ということになるから、ほぼMPに近い、ないしは、MPにほぼ相応すると考えられるのである。そうならば、量子論は、±1ではなくて、MPに対応する理論と考えられる。これは、明らかに、相対性理論/フッサール現象学を超えていると考えられるのである。
 以上、これまでの議論を訂正した、新たな結論が出たことになる。
 では、量子力学とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)はどう関係するのだろうか。ほぼ対応することはわかるが、精密にはどうなのだろうか。とは言え、その前に、物質について整理しておこう。
 物質とは、たとえば、ワインは、-1の同一性主義であり、即非的に、差異共振現象⇒+1である。両者はMPにおいて、即非性=相補性を形成している。では、差異共振現象としての物質とは何か。
 それは、エネルギー現象であるということである。波動現象であるということである。電磁波現象であるということである。ただし、それを、同一性主義-1 によって、+1に限定してはいけない。それは、端的に、イデア現象としてのエネルギー現象ということになる。イデア・エネルギー(エネルゲイア)が、物質エネルギーに変換しているということである。だから、物質現象とは、同一性主義-1であり、差異共振主義⇒+1のエネルギー現象であり、かつ、イデア現象である。この三相性がMPに存すると考えられる。
 そのように考えて、量子論とPS理論について考えると、これは、以前既述したことであるが、量子論はまだ、物質主義に囚われているので、物質の真相を捉えていないということである。電磁波とは、物質というスクリーンに移るイデア「現象」の影であると思われるのである。この場合の物質のスクリーンとは、 MPの物質の面である。
 丁寧に見よう。量子論は⇒+1の波動=エネルギーを捉えている。しかしながら、差異共振性(+i)*(-i)を的確には捉えていないと考えられるのである。量子の波動とは何か。それは、思うに、差異共振エネルギー(イデア・エネルギー、「イデア波動」)を同一性主義-1にスクリーンに映したものではないだろうか。
 有り体に言えば、イデア波動の同一性主義的影像であるということではないだろうか。だから、本来、⇒+1の差異共振現象を+1に変えているのではないだろうか。言い換えると、超越性を排除しているのである。差異共振性を同一性主義化しているということである。
 つまり、量子論の波動とは、イデア波動の影(影像)であり、実体ではないということになるのである。言い換えると、量子論は影を実体と捉える誤謬を犯していることになろう。
 ここで、宇宙物理学の問題に関係させると、それは、影を実体としているので、ダークマターやダークエネルギーが必要になったということではないだろうか。言い換えると、本体は、イデア波動=イデア・エネルギーである。つまり、(+i)*(-i)⇒+1を応用させて、
m(+ic)*(-ic)⇒mc^2となるが、右辺のmc^2のエネルギーとは、差異共振エネルギーではあるが、左辺のない形の右辺の数値は、同一性主義-1に規定されたものと考えられる。つまり、本体である左辺のエネルギーを考慮していないということである。
 単純に見て、イデア・エネルギーが宇宙を駆動させていると考えられるが、思うに、それが、ダークエネルギーの正体ではないだろうか。
 これをどう考えたらいいだろうか。思うに、MPにおいて、-1と⇒+1のエネルギーが生まれる。反発と牽引である。宇宙が膨張するとは、前者の力によるということではないだろうか。重力は、後者で説明がつくのではないだろうか。そうすると、反発>牽引ということになろう。この反発のエネルギーは、当然、 MPのイデア・エネルギーによって説明されるのであり、牽引である差異共振エネルギーでは足りないことになると考えられよう。
 そう、ということで、暫定的ながら、ダークエネルギーとは、イデア・エネルギーであり、厳密に言えば、同一性主義エネルギーへと展開するイデア・エネルギーということになろう。
 今はここで留める。
 
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1日1杯のワインは肝臓によい効果

1日1杯程度のワインであれば、肝臓に害がないばかりでなく、非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD)のリスクを軽減する可能性さえあることが新しい研究により示され、医学誌「Hepatology(肝臓学)」6月号に掲載された。

今回の地域集団ベースの研究は、米カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の研究グループによるもので、飲酒の習慣のない人7,211人、1日に平均ワイン4オンス(約120ミリリットル)、ビール12オンス(約360ミリリットル)または蒸留酒1オンス(約30ミリリットル)程度の控えめな(modest)量の飲酒をする人4,543人を対象に実施された。

その結果、1日1杯のワインを飲む人は、飲酒しない人に比べ血液検査に基づくNAFLD疑いのリスクが半分であることが判明。しかし、ビールまたは蒸留酒を控えめに飲むとした人では、NAFLD疑いの比率はワインを飲む人の4倍であった。研究を行った同大学小児科部門消化器病学准教授の Jeffrey Schwimmer博士は、「この結果は常識を覆すものだ」と述べている。

しかし、多量のワインを摂取した場合に予防効果がさらに高まるとの証拠(エビデンス)は示されておらず、「アルコールを飲み過ぎるリスクのある人は、ワインもそのほかの酒類の摂取も考えるべきではない」とSchwimmer氏らは強調している。この効果はワインだけにみられ、ビールや蒸留酒には認められないことから、効果がアルコールによるものなのか、それ以外の成分によるものかを見極めるためにさらに研究を重ねる必要があるという。

NAFLDは米国では最もよくみられる肝疾患で、4,000万人を超える成人が罹患しており、患者の5%が肝硬変を発症するという。NAFLDの主な危険因子(リスクファクター)は、肥満、糖尿病、高トリグリセリド(中性脂肪)および高血圧など。

(2008年5月29日/HealthDayNews)
http://health.yahoo.co.jp/news
/detail/?idx0=w20806053


Media Pointとゼロと±1
今は、簡単に触れようと思うだけであるが、一番の問題は、⇒+1と+1とゼロとの関係である。あるいは、ゼロの問題である。
 私は、先に、ハイデガーの本来的存在を+1と考えた。しかし、それ以前には、ゼロ⇒+1と考えた。このブレは何であろうか。いったい、どちらが正しいのだろうか。
 -1とは、差異共振性の否定であり、その排除・反発の同一性(主義)である。これは、ハイデガーの頽落した現存在だと考えられる。
 では、本来的存在はどうなるのか。そう、⇒+1と+1はどう異なるのか。端的に言えば、フッサールとハイデガーの違いである。あえて言えば、⇒がノエシスであり、+1がノエマである。ということは、ハイデガーはノエマを本来的存在としたということである。これは、いわば、超越論的シニフィエではないだろうか。ならば、⇒は何であろうか。超越論性であろうか、超越性であろうか。
 この問題については、精緻な検討が必要であるが、直感で言えば、超越性である。何故なら、⇒は、通常の意識を超えているからである。不連続的差異論では、不連続的差異と捉えたものである。思うに、連続性として捉えれば、超越論性となるだろう。しかしながら、不連続性と捉える限り、それは、超越性である。【もっとも、用語の厳密な検討が必要である。かなり以前は、それを、わたしは、内在的超越性と呼んだが、以後、それを破棄した。なぜなら、即非様相を表現するのに、内在性の発想は不正確であるからである。即非様相とは、内在且つ外在である。しかし、この外在とは、客観的外在ではなく、超越的外在ということである。】
 ということで、⇒は即非様相を意味する。そして、⇒+1とは、即非的同一性の形成を意味しよう。すると、+1は同一性である。すると、先に述べた、+1=共一性、-1=同一性と齟齬を来す。これをどう考えるべきか。
 あえて言えば、+1=共一性=同一性であり、-1は同一性主義である。すると、整合性はどうなるのか。-1とは、差異を排除否定した同一性であり、+1とは、差異共振性に包摂された同一性である。だから、齟齬が生じないと言うことができる。
 用語の同一性は、語弊を生じやすいと言えよう。とまれ、そういうこととして考察を続けると、ハイデガーの本来的存在は+1=共一性=同一性ということになる。これはどうか。
 +1とは、即非性ないしは共振性が消失しているので、それは、正しいと考えられるのである。⇒+1ならば、超越性のある共一性=同一性であり、それは、物質的現象を超越する源泉・根源をもつ。
 しかるに、⇒のない、単なる+1は、即非性・共振性が欠落している共一性=同一性であり、思うに、同一性反復性と言えるものではないだろうか。同一性における反復であり、ここには、他者=差異がないのである。そして、それは、本来的存在に適合するように思えるのである。ある意味で、自己陶酔・鏡像主義である。ということで、本来的存在は+1でいいように思える。
 では、ゼロとはどうなるだろうか。ハイデガーの場合は、+1(本来的存在)と-1(頽落した現存在)の亀裂があったが、思うに、ゼロはなかったのではないだろうか。
 ゼロとは、やはり、構造主義の構造ではないだろうか。-1は二項対立であり、+1はいわば純粋同一性である。思うに、構造とは、-1の二項対立を発生させるものとしてのゼロということではないだろうか。何故なら、+1は、二項対立を発生させない純粋同一性であるからである。
 ドゥルーズ哲学はほぼ構造主義と見ていいと思う。しかし、ハイデガー/デリダ哲学は、+1が介在して、-1との差延を指摘しているのではないだろうか。
 ドゥルーズは、これまで繰り返し述べたように、差異を連続化させていて、+1に達していないと思われるのである。もし、差異を不連続として捉えるならば、⇒+1ないしは+1が生起するのである。しかし、連続化すると、帰結としての+1はなくなり、-1になると考えられるのである。つまり、ドゥルーズの差異論は、これまで、指摘したように、弁証法になると考えられるのである。同一性主義という二項対立を帰結する差異とは、単なる排除的否定であり、弁証法的否定であると考えられるのである。
 ということで、ここで、検討を終えたい。


2008年06月05日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性へ傾斜している人間の問題:同一性主義という悪の支配する現代世界と差異大進化
先に思考実験的に「わたし」とは何か等に関して考察したが、自然一般において、同一性と差異が同時生起することが了解された。しかしながら、人間においては、明らかに、同一性へと傾斜していると考えられる。もっとも、ある時点で、急激に同一性へと傾斜したということが事実のようである。とまれ、今日見られる人類の同一性傾斜が自明であると思われるので、その事態に基づいて検討したい。
 同一性傾斜とは、明らかに、暴力が主導的になるということである。他者を排除して、自己同一性=自我を中心化するということである。この同一性傾斜が、今日の物質文明を生んだと言えよう。宗教的には、これまで述べたように、ユダヤ・キリスト教的一神教がこの原動力であると考えられる。もっとも、それに類するものは、父権主義一般であると思われる。
 同一性傾斜は近代合理主義・近代的自我を生んだ。問題は、差異への回帰である。もともと、自然は、一般には、同一性と差異との均衡があると思う。それが、本能と呼ばれるものではないだろうか。動物が、本能から子供を育てるのは、差異(差異共振性)からであろう。人間は、同一性傾斜のために、差異の志向が排除・抑圧されるので、子供に対して、暴力的になるのである。
 今日、一番の問題の一つは、同一性傾斜が資本主義の交換価値=貨幣価値の増加と結びついていることである。それは、差異=他者を排除して、破壊的に邁進するのである。有り体に言えば、同一性傾斜とは、悪である。悪への傾斜である。エゴイズムである。
 結局、精神的には、排除・抑圧されている差異を取り戻すことが、健全な秩序のある自然・社会のために必要である。しかしながら、今日の人間は、一般に、近代合理主義・近代的自我という同一性傾斜に浸透されているので、差異を明確に認識できないのである。
 近代合理主義は、唯物論と結びつき、物質科学・技術となり、資本主義を駆動させる要因の一つである。
 端的に言えば、いかにして、差異を意識に、家庭に、社会に、経済に、自然に、等々、取り戻すことができるのかが、一番の問題である。
 そう、悪人とは、同一性主義の人間であり、差異の欠落しているような人間である。普通人間は、同一性傾斜によって、差異が抑圧されているのであるが、まったく差異を否定しているわけではない。もし、完全に同一性だけとなれば、悪人だけの社会となり、それは、自滅するだろう。
 問題は、同一性中心主義の人間が支配的な位置、即ち、権力的な位置に存することである。権力とは、公的な、社会的な暴力装置である。ホッブズ的に言えば、個々の人間の暴力を、権力の暴力で制御するということである。しかし、これは、自明ながら、根本的な解決にはならない。暴力が中心化して、暴力が支配することになるからである。そして、自滅することになるだろう。
 端的に、どうやって、差異を社会に取り戻すのか。ポスト・モダンは、挫折・頓挫してしまったが、問題は、トランス・モダンとして、トランス同一性・脱同一性の志向として、継続・進展しているのである。
 いわば、差異革命が必要である。国家の差異化、経済の差異化、政治の差異化、教育の差異化、等々である。
 そう、価値観の転換が必要である。これまで、同一性的価値を重視してきたのである。それは、利己主義であり、国家主義であり、量価値主義である。父権主義である。これは、端的に、二項対立であり、差別の体系である。同一性とは差別なのであり、差異こそ、「平等」である。
 不連続的差異論が明らかにしたように、一般に、同一性傾斜のもつ連続性(連続的同一性)のために、純粋差異が認識できないのである。同一性が差異と連続化して、差異自体が反動となるのである(参照:アイロニカルな没入)。
 そう、差異進化、差異大進化、difference evolutionが必要である。私見では、差異がコスモス的に賦活されていて、そのために、大反動が今日起きているのである。活性化した差異を同一性は反動的に排除・抑圧・隠蔽して、結果、同一性は、ますます狂気・邪悪・暴力化するのである。
 このように見ると、哲学・理論的には、問題は明確・明瞭・明快である。実践の問題である。プラクティスの問題である。差異へと覚醒するようにはたらきかけること、そして、同一性主義の邪悪さを認識し、批判すること。同一性主義の実践的解体。同一性主義を乗り越えること、これが、今日の根本的な課題である。
 さて、最後に、自由主義と民主主義について、以上の点をふまえて、再確認したい。
 自由主義とは何か。それは、根本的には、イタリア・ルネサンスの個の発動が原動力であると思う。だから、差異が原点である。しかるに、近代主義化によって、同一性が主導的になり、近代的自我に基づいて、自由が唱えられる。ここには、倒錯があるのである。
 自由は差異を源泉とすることを確認すべきである。だから、自由主義は、差異自由主義と考えなくてはならない。今日は、同一性自由主義になっているのである。また、民主主義であるが、同一性が差別であり、差異が「平等」であると考えられるのであり、民主主義は差異化が必須であるということである。今日の民主主義は、同一性民主主義であり、いわば、形骸化しているのである。

p.s. 同一性傾斜、これは、父権文明の原動力であり、同時に、人類の悪化の原動力である。一体、これは、何を意味するのだろうか。人類の父権主義化とは何を意味するのか。
 思うに、初期人類は、他の動物と大差なく同一性と差異とのバランスにおいて生活を営んできたのではないだろうか。もちろん、同一性の働きで、技術を発達させたではあろうが。しかし、他の動物とは、それほど異ならないだろう。
 しかし、今から、一万年くらい前に父権都市文明が誕生して、人類は好戦的となり、自然破壊的な国家を形成したのである。暴力・破壊主義化である。確かに、結果的には、物質科学・技術は発展したが、精神は悪化した。
 やはり、なにか同一性傾斜を促進させたものがあるように思える。もし、人類の初期から強い同一性傾斜があるならば、すぐに、父権文明を誕生させていただろう。ある時代に、同一性傾斜が顕著になったのである。もし、イデア・コスモス史があるなら、イデア極性の反発に傾斜したときが、同一性傾斜=父権化の開始である。
 そして、私見・直感では、今日・現代、コスモス・イデア極性が、反発から引き合いへと転換しているのである。だから、差異(差異共振)化が起こっているのである。つまり、今日は、脱同一性・脱父権文明の時代であるということである。イデア・コスモスの力学がそのように変化していると思えるのである。新たな母権文明への開始である。


参考:

 ブログを再開します

 4日の夕に帰国して、再び日本のニュースを目にするようになりました。

 そしてあらためて感じたことは、この国の政治家や官僚は、もはや本気で国民の苦悩を救う気がないに違いない、救う能力も気力もないのではないに違いない、という事です。

http://www.amakiblog.com
/archives/2008/06/05/#000909

天木直人のブログ


2008年06月04日(Wed)▲ページの先頭へ
「わたし」とは何か:差異共立性(+i)*(-i)⇒+1/MP/-1:MP事象とダークエネルギー
先に、「わたし」について検討して、いちおう結論に達したと思ったが、それでもなお、判然としない感があるので、ここでさらに検討したい。
 直感から始める。つまり、直感の「わたし」から始める。言い換えると、現象の「わたし」から始める。
 簡単に言って、例えば、窓外に見える白い建物は病院であると知覚する「わたし」は何なのか。同一性の「わたし」なのか。差異の「わたし」なのか。病院という認識は、同一性認識である。そう、対象としては、差異であるが、病院という認識は同一性認識である。差異を同一性として認識する「わたし」は、だから、同一性の「わたし」ではないだろうか。
 同一性の「わたし」は、自己同一性=自我と考えられる。そして、一般には、ないしは、表面的には、社会は、この同一性のレベルで成り立っている。言葉の世界である。
 しかしながら、深いレベルでは、「わたし」と病院は共振しているのである。少し、知覚の様態を変えると、病院を眺める「わたし」の意識は、いわば、病院そのものになっているし、しかし、すぐ、「わたし」は「わたし」であり、病院とは別個の存在である意識が当然戻る。(対象が「わたし」を見ているというような知覚については、ここでは触れないことにする。たとえば、山が「わたし」を見ているというような感じは起こるものである。)
 つまり、知覚には、揺らぎがあるのであり、それは、「わたし」と病院との差異共振性と考えることができる。この場合、「わたし」は+iであり、病院は- iであり、差異共振の結果が⇒+1であり、この+1をこれまでは、共一性と呼んできたのであるが、果たして、それは、同一性と呼べないのか、という疑問が起きる。
 精緻に考えよう。+iは自己差異であり、-iは他者差異である。だから、+iの「わたし」とは、自己差異であり、-iの病院とは、他者差異としての病院の建物である。そして、それが、共振して、共一性になるとこれまで考えてきた。だから、それは、同一性ではありえないことになる。共一性としての「わたし」と「病院」とは、いわば、絶対矛盾的自己同一の様態である。「わたし」と病院は共振して、共一様態にあるのである。そう、だから、これは、差異認識なのである。差異としての「わたし」が差異としての病院を共振・共一認識しているということである。
 では、同一性はどういうことになるのだろうか。「わたし」が窓外に眺める病院は、基盤においては、差異ではあるが、視覚認識としては、同一性としての病院である。これは、どう数理化できるのか。
 「わたし」が差異対象を病院と呼ぶとき、差異を排除しているのだろうか。近代合理主義ならば、差異を排除して、病院と呼ぶ。ある対象Pは、病院であって、それ以外のものではない。これが、同一性認識である。
 「わたし」が窓外の建物を病院と呼ぶとき、それは、差異を排除するだろうか。差異共振性が基盤にあるとき、病院という同一性は、差異を排除しないで、並立・並存しているだろう。差異と同一性が並存していると考えられる。二項対立はここにはないのである。これを以前は、同一性を包摂した差異(差異共振性)と表現した。
 問題は、この併存する場合の同一性の数理である。二項対立の同一性は、-1で表現できる。しかし、併存する場合は、どうなのか。
 また、精緻に考察しよう。視覚を介した対象の像が問題である。視覚において、対象像が見える。それは、おそらく、本来は、差異共振的対象像である。つまり、共一性像である。
 しかし、自己差異+iは、対象差異-iを排除して、同一性像を形成する。これは、分離像ではないだろうか。主体と客体との分離像ではないだろうか。「わたし」は「わたし」であり、対象は対象であり、両者は別々である。
 この分離像である同一性像が言語化されて、同一性が確定すると考えられるのである。そして、この同一性が物質現象と考えられる。
 思うに、同一性とは、自然の必然的現象なのだろう。だからこそ、物質科学・技術が形成されるのである。同一性=物質現象が形成されるには、差異を排除する力が必要と考えられる。反発力である。これは、差異同士の対立とは異なるものである。つまり、二項対立を形成する、いわば、暴力、根源的暴力である。
 ここで思考実験であるが、Media Pointにおいて、+iと-iが共振する場合と反発する場合を想定しよう。共振は牽引に因り、排除は反発に因るとしよう。牽引も排除も本来、同一の力であるが、周期があると思われる。引きつけの時と、反発の時の両者の周期があると思われる。
 引きつけのときが、⇒+1で、反発のときが、⇒-1とする。思うに、両者ズレがあると考えられるが、いわば、無時間的に反復されるので、現象は同時生起のように見えるだろう。即ち、⇒±1である。言い換えると、⇒共一性+1、且つ、同一性-1である。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺は超越的差異共振性と見ることができる。しかしながら、引きつけと反発の対立を考えると、単純に共振とは言えなくなる。だから、差異共立性と呼んでおこう。すると、差異共立性は、一方では、差異共振エネルギー+1となり、他方では、同一性エネルギー-1となることになる。
 では、光現象はどういうことになるだろうか。直感では、両者が光現象である。同一性エネルギーの光と差異共振エネルギーの光が同時生起すると思われる。同一性エネルギーの光が、可視的な光であり、差異共振エネルギーの光とは、いわば、不可視の光ではないだろうか。三次元空間は、当然、前者であり、四次元時空間とは、後者ではないだろうか。相対性理論とは、後者の時空間を説いたものではないだろうか。そして、量子力学であるが、直感では、粒子は-1であり、波動は+1ではないだろうか。両立するのである。これが、粒子と波動の相補性であろう。光とは、粒子であり、且つ、波動である。そして、並存・並立しているのである。そうならば、相対性理論は量子力学に包摂されることになるだろう。
 しかしながら、根源的エネルギー(デュナミス⇒エネルゲイア)は、相補的な二つのエネルギー(同一性エネルギーと差異共振エネルギー)に分化されるのだから、現象世界とは、二重世界・二相世界ということになるだろう。古典物理学の世界は、同一性エネルギーの世界である。そして、20世紀において、差異共振エネルギーの世界が発見されたと言えよう。四次元、ないし、時空四次元である。
 現代世界は、この四次元のエネルギーを使用した世界であり、古典・近代的な世界から切断されている。もっとも、大半の人間の意識は、未だに、古典・近代主義に停滞しているだろう。
 ここで、哲学史的に考えよう。現象学の画期性である。(キルケゴールとニーチェの特異性の哲学も重要であるが、それはおいておく。)フッサール現象学は、これまで説いたように、画期的に、⇒を発見したのである。つまり、差異共振エネルギー+1を超える⇒、超越意識(超越論的主観性:超越論性と超越性の問題はおいておく)を発見したのである。しかしながら、ハイデガーは、⇒を無視して、⇒終点を問題にしたと思われるのである。世界内存在とは、±1のことではないだろうか。+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在と思われる。(これまで、ハイデガー存在論は、ゼロ⇒+1としたが、ゼロはなくした方がいいと思われる。ゼロについては、後で検討したい。)
 すると、ハイデガー存在論は、量子論に対応すると思われる。そして、フッサール現象学は、トランス量子理論に相当するように思われるのである。言い換えると、フッサールは、五次元論に接していたを思われるのである。
 とまれ、哲学史においては、20世紀初期において、Media Pointへと到達していたと考えられる。日本の哲学は、鈴木大拙の即非の論理、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、九鬼周造の偶然の論理等は、Media Pointに到達していたと思われる。西洋においては、フッサール以外に、神秘学者のウスペンスキーがほぼ即非の論理に近い理論を発見した。
 20世紀後半において、構造主義やポスト・モダン理論が主導的になるが、これは、以上の視点からどう説明できるだろうか。
 二項対立を発生させる構造であるが、構造とは、思うに、やはり、Media Pointの実軸であると思う。つまり、ゼロ・ポイントである。ここにおいて、-1の二項対立と+1の原点の発生が考えられるのである。そして、ドゥルーズ哲学はほとんど構造主義である。差異を連続化しているので、差異がゼロ・ポイントになっていると思われる。
 ポスト・モダンは差異という視点を提起したことで、深い意味をもっている。結局、ポスト・モダンは、ドゥルーズのプラトニズム批判とデリダのロゴス中心主義批判からわかるように、同一性主義の批判に向けられている。有り体に言えば、近代合理主義批判である。
 同一性は-1であり、それに対して、差異を提起したわけであるが、ドゥルーズの場合は、理念的な差異、いわば、イデア的な差異を提起したのである。おそらく、ここにおいて、ドゥルーズは、Media Pointに近づいたのである。しかしながら、決定的な誤りは、差異を連続化して、構造主義の発想に留まってしまったことである。
 (初期)デリダの場合は、ハイデガー存在論を下敷きにする形で、同一性-1と共一性+1とのズレ(差延)を提起して、同一性主義を解体したのである(脱構築主義)。同一性と差異共振性とのズレ(差延)を初期デリダは説き、同一性を脱構築したと考えられるのである。
 だから、脱構築主義は、量子力学の相補性に類似した発想であると言えるし、当然、ハイデガー存在論に似ているのである。
 そう見ると、構造主義とポスト・モダンは、20世紀初期において、発生した理論的問題を、構造と差異という概念を中心化して、反復したと考えられる。そして、それは、その問題を真に乗り越えてはいないと考えられるのである。何故なら、ポスト・モダンは、フッサールの超越性(超越論的主観性)を排除しているからである。超越性を同一性の原因と捉えて、そうしたように思われるのである。
 結局、真の問題は、トランス・モダンにあったのである。後期デリダやジャン=リュック・ナンシーはMedia Pointへと接近していると考えられる。そう、ポスト・モダンからトランス・モダンへと理論的問題は移行したのである。
 そして、不連続的差異論は、差異の不連続性を明確にして、不連続的差異のイデア性を提示し、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、超越的差異共立性をMedia Pointとして把捉し、また、数理化を行ったのである。
 このように見たとき、即ち、以上の視点全体から見たとき、自然科学に対する新たな知見が形成されると考えられる。それは、自然の根源において、差異共立エネルギー(デュナミス/エネルゲイア)=イデア・エネルギー=超越エネルギーが存するのであり、それこそが、ダークエネルギーの正体ではないのかということであり、また、超越界(虚数世界)こそ、五次元の世界であり、そこから、四次元時空間や三次元空間が説明されるということである。
 宇宙物理学的に言うと、相対性理論/量子論で捉えた宇宙とは、-1と+1のエネルギーの世界である。いわば、実軸の世界である。しかしながら、PS理論から言うと、虚軸の根源のエネルギー世界(原エネルギー界:原エネルゲイア)が存するのであり、そのエネルギーから、±1のエネルギー、即ち、同一性エネルギーと差異共振エネルギーが発生すると考えられるのであり、そう、ダークエネルギーを仮説する現象宇宙の事象であるが、それは、±1の事象に対する Media Point事象ではないだろうか。つまり、Media Point事象が現象宇宙において生起しているということではないだろうか。つまり、加速される宇宙の膨張という事象がMedia Point事象(MP事象)ではないだろうか。
 思うに、個々の事象においては、それは、別々の事象であるが、Media Point事象とは、総合的ないし全体的な共立事象であり、超越エネルギーが共立総合される事象と言えるのではないだろうか。つまり、Media Pointを介して、超越界全体のエネルギーが駆動されていると考えられないだろうか。この共立総合された全体的なエネルギーが、宇宙の膨張を加速させているということではないだろうか。言い換えると、Media Resonance(差異共立)総合全体エネルギーがダークエネルギーではないのか、ということである。そう、Media Pointコスモス・エネルギーと言ってもいいだろう。
 今はここで留める。 

 
参考:
image ダークエネルギーの証拠 2005.7.21
〜 超新星から見る宇宙加速 〜

宇宙には“ダークエネルギー”が満ち満ちている。そう聞くと、映画「スターウォーズ」を思い浮かべる方も多いかもしれません。ダークとは見えない、検出できない、という意味で使われていますが、その正体もまさに“見えず”、まだよくわかっていません。今、天文学や宇宙物理学の分野では、ダークエネルギーがあると仮定しなければ説明のできない事柄が見つかり、その存在が次第に明らかになってきました。

宇宙が膨張していることは、よく知られています。約10年前までは、宇宙は減速しながら膨張していると考えられていました。宇宙の中の物質が、膨張を止める引力になると考えられていたためです。しかし最近になって、宇宙の膨張が約50億年前を境に、減速膨張から加速膨張に転じたことがわかったのです(図1)。これを説明するにはダークエネルギーの存在が不可欠です。天文学からわかるダークエネルギーの最新事情について、東京大学天文学教育研究センターの土居守助教授にお話を伺いました。
http://www.kek.jp/newskek
/2005/julaug/darkenergy.html


news@kek


「宇宙の新常識048」ダークエネルギーとはなんですか?

A.ダークエネルギーがなんなのか、その正体はいまだよくわかっていないのです。

 現在、宇宙の73%をダークエネルギーが占めているといわれている。ダークエネルギーとは一言でいってしまえば正体不明のエネルギーである。同じく正体不明のものとしてダークマターがある。この2つは同じように正体不明のものではあるが、ダークマターが質量をもっていると考えられているのに対し、ダークエネルギーは質量をもっていないと考えられている。現在、ダークエネルギーについてわかっていることといえば、質量をもっていないということくらいである。

http://sciencei.sbcr.jp/
archives/2008/04/048.html


宇宙誕生            2005/10/15

最新の宇宙論で次の事実を説明できるのでしょうか?

ちょっと不満が残ってしまいます。

   (1) 「ダークエネルギー」「ダークマター」の発生原理
   (2) 宇宙は2段階に加速膨張している
宇宙誕生のストーリを次のように考えたらどうでしょうか。
最終の部分にビッグバンによる宇宙誕生のストーリを記
載しました。
http://www.geocities.jp/
timstjp/bb1-dark-enargy.htm

宇宙と光 宇宙を満たすダークエネルギー

 宇宙には何かが満ちている。古くから人々はこう考えてきた。最初に天上の空気「エーテル」を提唱したのは古代ギリシャの哲学者、アリストテレスである。科学の進歩とともに紆余曲折の議論を経た今、最新の宇宙物理学により宇宙を満たす“エネルギー”があることがわかってきた。宇宙を満たすエネルギーはどのように明らかになり、そして宇宙にどのような影響を与えているのだろうか。

http://www.nikon.co.jp/main/jpn/
feelnikon/discovery/light/chap01/
sec03.htm


宇宙の年齢

宇宙の始まりがよく分からないので、正確には年齢を決めることは出来ないのですが、宇宙が始まって約1秒ほどで元素合成が起こるように、宇宙の始まりの謎はごく初期の非常に短い時間に凝縮されています。
宇宙初期の放射優勢の時代ですら1万年程度ですので、100億年を超すと言われる宇宙の歴史から見ると100万分の1以下です。従って、「年齢」を考えるときには、物質優勢の時代がほとんどを占めていて宇宙のごく初期は無視しても良いでしょう。
http://astr.phys.saga-u.ac.jp/
~funakubo/BAU/chapter6/
chapter6-4.html

ダークエネルギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空 のエネルギー」等がそうとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%8
3%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E
3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%
AB%E3%82%AE%E3%83%BC

現在の宇宙の姿 最新の観測が明らかにした宇宙の姿。それは、宇宙を構成する成分の7割以上が宇宙膨張を加速させる謎のエネルギー「ダークエネルギー」、2割以上が正体不明の物質「ダークマター」であり、普通の「元素(※)」は4%程度である、というものでした。この宇宙には、星が数百億、数千億集まっている銀河や、銀河が数百個、数千個も集まっている銀河団、さらに何億光年にもまたがった銀河の網の目状の構造「大規模構造」など、多様な階層構造が存在していることもわかってきています。
http://www.nao.ac.jp/study/
uchuzu/univ02.html


2008年06月03日(Tue)▲ページの先頭へ
同一性とは何か、又は、「わたし」とは何か:自我+iであり、自己+1である「わたし」
先に、同一性-1と共一性+1について述べたが、まだ、なにか釈然としないものがあるので、さらに検討したい。
 有り体に言おう。今、感じている「わたし」とは何か。それは、同一性の「わたし」なのか、それとも、差異の「わたし」なのか、あるいは、第三の「わたし」なのか、それとも、・・・。
 「わたし」には、部屋の壁が見るし、衣類も見える。この見ている「わたし」は何なのか。部屋の中には、洗濯物が乾してある。この洗濯物を見ている「わたし」とは何か。
 直感では、やはり、ゆらぎがある。「わたし」は「わたし」であり、「パンツ」は「パンツ」である。しかし、「わたし」は「パンツ」となんらか共振している。一種の一体感がある。そう、「わたし」と「パンツ」は即非関係にあるということであろう。だから、やはり、共一性+1がここにはあるのである。
 だから、「わたし」は共一性+1の「わたし」ということになる。これで、再確認は終っただろう。
 では、同一性の「わたし」とは何だろうか。思うに、「わたし」は「わたし」であるということにおいて、同一性の「わたし」が存するのではないだろうか。果たして、「わたし」は「わたし」であるとは何だろうか。その「わたし」とは何だろうか。
 それは、+1ではなくて、+iではないだろうか。+i=+iということではないだろうか。そして、それが、他者-iと共振して、+1=自己となるのではないだろうか。
 そうならば、「わたし」と自己の二つが存することになるだろう。これはどういうことだろうか。思うに、「わたし」は自我ではないのか。そして、自己は他者と共振した「わたし」ではないのか。そうならば、自我と他者の共振としての自己が存するということになるだろう。
 そうならば、「わたし」はどうなるのか。そうすると、「わたし」は共一性であるとは言えない。「わたし」は自我であり、且つ、他者と共振した自己であるということではないのか。即ち、「わたし」は自我であると同時に、自己であるということではないのか。そうならば、-1であると同時に、+1であるということになる。
 どうも混乱している。私は、+iと-1の両者を自我として見ているようだ。端的に言えば、「わたし」は対象を他者であると認識しつつ、同一性として確認していると思う。
 例えば、柱にカレンダーがかかっている。カレンダーとは同一性であるが、同時に、差異(特異性)である。同一性においては、「わたし」とカレンダーは別箇のものである。しかしながら、差異と見るとき、「わたし」とカレンダーは共振即非様相にある。
 カレンダーを同一性として見る「わたし」とは、同一性である。つまり、自我である。しかし、カレンダーを差異として見る「わたし」は差異である。つまり、自己である。
 だから、まとめると、「わたし」は自我であり、且つ、自己である、ということになるだろう。同一性であり、且つ、差異であるということになるだろう。つまり、-1であり、且つ、+1であるということである。これが、「わたし」ということになる。
 つまり、「わたし」は揺らいでいるのである。-1であり、且つ、+1である。そして、同時に、+iである。
 そうならば、+1と+iはどう違うのだろうか。共一性である+1であるということは、当然、+iでもある。そう、+iは自我であり、+1が自己ではないだろうか。自我+iが他者-iと共振して、自己となるということではないだろうか。
 ならば、自我+iと同一性-1とはどう関係するのか。そう、ここは言葉の文(あや)があると思う。-1とは端的には、同一性主義=自我主義である。それは、自我とは異なるのである。
 ということで、自我=+i、他者=-i、自己=+1、同一性主義=-1ということになった。だから、自己=+1における「わたし」とは、自我+iと他者-iが共振している様態であるから、自我であり、且つ、自己であるということである。


2008年06月01日(Sun)▲ページの先頭へ
共一性+1と同一性-1について:Media Pointは魂=モナドである:一即多のMP
同一性の仮象の問題について検討したい。先の考察は、だいぶ混乱している。http://ameblo.jp/renshi/
entry-10101712150.html
しかし、直近のものはかなり修正された。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10101857699.html
 私が勘違いしていたのは、自己意識のことである。「わたし」には、共一性と同一性がある。差異共振的自己認識とは、共一性である。それが、「わたし」である。問題は、果たして、これを仮象と捉えていいのだろうかということである。同一性-1は、確かに、仮象として捉えていいいと思う。
 共一性+1は確かに現象であるが、仮象であろうか。ここで、単純に、自然・天然の事象を考えればいいだろう。磁石である。それは、端的に、差異共振現象であり、磁力・磁気は、共一性である。(つまり、私は、自然現象にも、自己認識があると広義に考えているのである。この点については、後で検討したい。人間の認識の問題である。)磁石にとって、生死があるだろうか。そう、ただ、差異共振イデア現象がそこにはあると見るべきではないだろうか。
 そう、磁石とは、いわば、永遠回帰を現象していると言えるのではないだろうか。イデア・即非・現象である。とまれ、ここには、同一性はないと考えられる。
 では、人間の場合、どうなるだろうか。共一性である自己認識は、仮象なのか、それとも、差異共振現象なのか。
 しかし、この疑問は愚問である。何故なら、人間の場合、共一性と同一性が同時生起すると考えられるからである。そして、人間は、一般に、同一性に傾斜しているので、トランス同一性としての共一性に進展することは、有意義なことである。
 仮象とは同一性のことであり、共一性は差異共振現象である。人間のエンテレケイア(目的)とは、自己認識を、同一性から共一性へと変換させることにあるだろう。動物等の自然は、差異共振現象そのものであるが、自己認識はないと考えられる(p.s.  ここは、上述とは齟齬になっている。自己認識の問題は、複雑であるが、簡単に言うと、動物等は差異共振現象そのものであり、厳密には、自己認識はないだろう。自己認識が生じるには、同一性=自我の認識が必要だと思われる。正に、エゴである。ここから、差異共振認識へ発展して、自己認識を形成すると考えられるのである。だから、同一性=自我・エゴがなければ、自己認識は形成されないことになる。この点はもっとも重要な事柄の一つなので、あらためて検討したい。)。人間は、同一性から共一性へと変換することで、差異共振自己認識を形成するのだと思う。
 さて、端的に、共一性+1とは、仮象なのか、否かである。それは、現象である。仮象ではない。だから、共一性としての「わたし」は端的に現象、差異共振現象、イデア現象である。
 では、先に「わたし」の死後の問題に返るが、共一性としての「わたし」は死後、どうなるのだろうか。
 先には、±1は消滅すると言った。つまり、同一性の「わたし」だけでなく、共一性の「わたし」も消滅すると言った。そして、(+i)*(-i)の根源的イデア極性である超越的大我になると言った。果たして、それでいいのか。
 +1は意味が重い。これは、超同一性、トランス同一性である。端的に言えば、差異共振性として自己を認識したことを意味するのである。
 この共一性認識とは、端的に、イデア極性認識である。差異共振認識である。果たして、+1は、死後消滅するのか。
 先には、それは消滅すると述べて、(+i)*(-i)の超越的大我に回帰すると言った。そうすると、個はなくなるのではある。しかし、その結論は、それまでの考察とは齟齬を来す。何故なら、私は、生における経験がなんらか死後も持続すると考えているからである。生の経験の記録がMedia Pointにおいて記録されると考えられるからである。
 思うに、Media Pointこそ、魂ではないだろうか。これが、個の原型ではないだろうか。思うに、無数ないしは多数のMedia Pointがあるのであり、そこの個々のものが魂ではないだろうか。ならば、植物にも魂があることになるのではないだろうか。推測するに、植物にも、可能性としての魂はあると思われる。ただし、人間のように同一性がないので、魂は稀薄であろう。
 Media Pointは特異点・特異性である。これは、多数・複数性を意味するだろう。これが、魂であろう。すると、多数・複数の魂があるのである。根源の差異共振性は、一(いつ)であるが、現象へと展開する時、Media Pointを形成するが、それが、多数・複数であると考えられ、それが、魂ではないかと考えられるのである。
 思うに、Media Pointは、ライプニッツのモナドと言ってよさそうである。そして、それは、共一性+1と同一性-1の両義性を表現するのである。そう、Media Pointは一であり、多である。
 ということで、先の考察は訂正されて、魂、霊魂、霊は存することになるのである。プラトンは正しいのである。

p.s. 後で、整理したい。


2008年05月31日(Sat)▲ページの先頭へ
自我ないし自己とは何か:魂とイデア:差異共振性と同一性の相補性としての「わたし」
後で検討したいが、一言触れておく(p.s. 実際は、一つの論考となった)と、有り体に言って、「わたしとは何か」である。確かなことは、百年後には、物質的身体をもった「わたし」はいないことである。では、「わたし」はどうなるのか。唯物論では、「わたし」は消滅することになる。
 しかし、「わたし」が無くなることは、有と無がなくなることであろう。存在以前へと回帰することになるのではないだろうか。非存在へと回帰するのではないだろうか。この問題はここで留める。
 私が問題にしたいのは、「わたし」の本質である。動物・植物、そして、当然、鉱物には、「わたし」はない。私は原自己と原他者との関係から生まれるだろう。「わたし」は単独でありつつ、「他者」であり、二人であり、複数である。
 端的に、「わたし」とは何か。目で見て、頭で考え、また、感性をもち、欲望をもち、物質的身体をもつ、この今の「わたし」とは何か。
 それは、同一性なのか、差異なのか。直感では、明らかに、「わたし」は特異性である。「わたし」という自己意識は、知性と感性から成り立つだろう。欲望は、「わたし」というよりは、身体に属するだろう。すると、「わたし」は、身体に宿された自己意識である。
 また、明らかに、差異共振的感性(精神)と知性が融合して、「わたし」・自己意識を形成している。
 他者と融合して「わたし」が形成される。つまり、他者は潜在的になっている。「わたし」は顕在するが、他者は潜在している。しかし、他者なき「わたし」はありえない。すると、「わたし」とは何か。自己認識方程式から明らかなように、差異共振性から「わたし」+1が生まれるのである。これは、自己としての「わたし」であり、自我としての「わたし」ではない。後者は-1である。
 では、差異共振性(差異共鳴性)から生まれる「わたし」とは何か。共一性であるが、それは何か。
 思うに、それは、同一性仮象、シミュラクルとして同一性ではないだろうか。つまり、「わたし」とは、意識としては、確固と存在するように感じられるだろう。しかし、「わたし」は実があるが、仮象であろう。実体・本体は、差異共振性である。そして、これが、永遠ではないだろうか。
 実体・本体が差異共振性、超越的差異共振性、超越エネルギーであるが、その現象形態としての+1の共一性は仮象だと思う。「わたし」は仮象である。しかし、この仮象が、生活においては、必要な「同一性」になっている。
 しかしながら、この仮象同一性を端的に捉えたいのである。実体のようであるが、やはり、仮象である同一性とは何か。
 半実体半仮象である同一性の「わたし」とは何か。思うに、これは、差異共振性の物質現象態ではないだろうか。「わたし」は、差異共振性の物質態ではないのか。ならば、物質とは何か、となる。
 どうも、私は、先の議論を無視して考察しているようである。イデア極性があるならば、牽引と反発があり、前者が共一性に、後者が同一性になると言った。物質とは、この両義性ではないだろうか。
 一方では、共振性であり、他方では同一性である。この両義性・ゆらぎあると思われるのである。正に、量子論のテーゼではないだろうか。
 つまり、量子・素粒子の粒子と波動の相補性がここに現われていると考えられる。共振性は波動であり、同一性は粒子である。換言すると、+1は波動であり、-1が粒子に相当するのである。
 そうすると、「わたし」は量子論的事象になると言えよう。+1であると、同時に、-1である。即非的事象でもある。そうすると、「わたし」とは、自我であり、且つ、自己であるということになる。物質性は自我に存すると言えよう。精神性は自己に存すると言えよう。
 これでようやく、「わたし」に対するなにか漠然とした疑問が解消されたように思われる。繰り返すが、「わたし」は共一性(+1、自己、差異、差異共振性)であり、且つ、同一性(-1、自我、同一性、物質)である。後者は仮象であり、本体は前者である。
 「わたし」は、仮象的同一性と本体的差異の両義的存在である。生きているときは、両者の関係が重要であるが、死んだときは、前者が消滅して、後者だけになると思う。つまり、差異としての「わたし」が残ることになる。これが、プラトンの説く魂であり、イデアではないだろうか。生きているときは、相補的な二重存在であるが、死んだときは、純粋な差異共振存在となると言えよう。

 少し議論を急ぎすぎたかもしれない。以上の発想から論理的に考えると、イデア極性から±1が同時生起することになり、+1が本体であり、-1が仮象であるとは言えないだろう。
 本体はあくまでも、イデア極性である。そして、Media Pointを介して、±1の両義性・相補性が同時生起するということではないのか。それは、量子論的事象・即非的事象である。
 では、「わたし」、自己はどうなるのだろうか。自我と自己が同時生起する。しかしながら、人間は、同一性に傾斜している。つまり、自我-1に傾斜している。そして、近代合理主義・近代的自我は、自己=差異を排除否定するのである。-1が+1を排除・抑圧するのである。
 思うに、自然は、±1の同時生起の対称性があるのではないだろうか。それに対して、人間は、-1に傾斜している不均衡状態にあるということではないだろうか。正しく言えば、男性が-1に傾斜していると言うことだろう。女性は、一般には、自然と似ていて、両者の均衡をもっているのでないだろうか。
 だから、自己認識とは、±1の均衡を形成することにあるのではないだろうか。物質と精神の均衡である。それが、「わたし」である。そして、それが、生きている状態における「わたし」である。物質と精神である。しかし、死んだときは、当然、±1自体が消滅する。端的に、イデア極性に回帰するのではないだろうか。思うに、Media Pointにいったん帰り、そこから、イデア界自体へと回帰するするのではないだろうか。当然、「わたし」は消失するだろう。死んだとき、自己はどうなるのか。原自己ないしは前自己になると言えよう。だから、魂、霊魂、霊という言い方は間違い、ないしは、語弊があるのではないだろうか。何故なら、そこには、同一性を想起させる考え方があるからである。
 そう、そこには、大我があると言ってもいいのかもしれない。あるいは、超越我である。それは、全一であろう。全一的超越我であろう。今はここで留めたい。


2008年05月29日(Thu)▲ページの先頭へ
1/4回転とイデアと現象:Media Pointの様相について:共振様相と否定様相
先に、1/4回転によって、差異が否定されると言った。問題は、境界面の問題である。Media Pointと+1の境界の問題である。
 ここで、思考実験するが、イデア極性があり、牽引と反発が存するのではないだろうか。牽引の場合が、(+i)*(-i)⇒+1であり、反発の場合が(+ i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。だから、(-*)という反発を意味する記号を作って、(+i)(-*)(-i)⇒-1としたらどうだろうか。
 牽引の場合が、差異共鳴であり、ここにおいては、絶対的な二元論はなく、イデア界と現象界とが、Media Pointを介して、交信しているだろう。
 それに対して、反発の場合、差異共鳴が否定されて、同一性主義が生まれる。これが、超越神の場合だと思われる。
 思うに、本来、牽引と反発の対称性があり、母権文化は、そのバランスを保持すると思われるが、父権文化となると、これが、崩壊すると思われる。即ち、反発が牽引よりも、主導的になるのであり、-1が強化されると思われる。
 ここで、大局的に見ると、1/4回転をどうみるのか、にかかっている。私は、超越神的現象を1/4回転として、母権的現象をゼロ回転と見た。私の直観は、1/4回転で、差異が否定・排除されると考えたことにある。
 ここがポイントである。果たして、1/4回転で、差異が否定・排除されるのか、否か、である。
 これは、ある意味で愚問である。即非様相なのであるから、差異は肯定されつつ、否定されるのである。だから、1/4回転は、超越神的現象ではありえないだろう。では、超越神的現象とは何だろうか。それは、即非を二元論・二項対立に変換することである。
 果たして、1/4回転によってそうなるだろうか。私は先にはそう直観したが。そして、ゼロ回転は差異共鳴性を保持すると考えた。もう少し、先の直観に従うならば、ゼロ回転における差異共鳴性が、母権的多神教性(多元性・多様性)を形成するのである。
 しかしながら、このゼロ回転という考え方は、間違っているのではないだろうか。私のイメージは、即非性であるから、やはり1/4回転はなくてはならないのであり、それが多神教性を形成するのである。
 何が言いたいのかと言えば、差異を排除・抑圧しない1/4回転がありうるのであり、それが、母権多神教等の場合である、ということである。
 もしそうならば、超越神の場合は、それとは異ならないといけない。しかし、先の私の直観は、太母が根源であり、超越神は、その一つの変態であるというものであった。太母が超越神に変換するのである。
 整理すると、問題点は、差異を排除・抑圧しない母権多神教と、差異を排除・抑圧する超越神宗教との二つを、1/4回転に関係させてどう説明するのか、ということになる。言い換えると、差異を排除・抑圧しない1/4回転と差異を排除・抑圧する1/4回転というものがあるのだろうか、ということになるだろう。
 しかし、前者はあると仮定しているのであるから、問題は、後者の場合である。果たして、差異を排除・抑圧する1/4回転はあるのか、ということである。
 直観では、実に明瞭であるが、理論化がうまくできないのである。例えば、イシスとは、イデア共鳴であり、オシリスは⇒+1で説明でき、イシス⇒オシリスである。太光から現象光が生まれるのである。これは、原神道でも同様と考えられる。
 そして、それに対して、オシリスを殺害するセトは、差異を排除・抑圧すると考えて、⇒-1である。そして、超越神はこちらに関係すると思われるのである。
 古代エジプト神話(宗教)では、オシリス+1とセト-1の極性があり、周期・回帰があったと考えられるが、超越神宗教では、多神教を否定して、-1だけになると考えられる。
 この差異の排除・抑圧とはいったいどういう力学に拠るのであろうか。先に私は、+1と-1は、イデア極性(牽引と反発)にリズムに拠ると示唆したが、そう作業仮説すると、牽引の極限において、+1があり、反発の極限において、-1があるということになる。しかし、この二重性は回帰する二重性である。端的に極性であり、神話・宗教的には、永遠回帰(女神の神話)であろう。
 ここには、絶対的な差異の排除・抑圧はないのである。だから、超越神宗教が生じるには、反発(斥力)が過剰になる必要があると考えられる。そう、上に述べたように、反発の極限において、超越神が発生すると言えよう。これをどう見るのか、である。
 本来、牽引と反発は対称的である。しかるに、反発が過剰となり、いわば、特異点が発生するときが、超越神の発生を意味するのではないだろうか。次のように考えたらどうだろうか。
 牽引の場合、+iは-iと共振して、⇒+1を発生させる。思うに、+iが1/4右回転して、-iが1/4左回転して、そうなるのではないだろうか。しかるに、反発の場合は、+iと-iとが、それぞれ自乗して、⇒-1となるのではないだろうか。あるいは、+iが1/4左回転して、-iが1/4右回転して、 ⇒-1になると考えていいのではないだろうか。
 そして、差異共振の場合が、母権多神教であり、差異反発の場合が、父権超越神宗教ではないだろうか。
 とは言え、両者は極端の場合である。本来は、イデア極性の周期に即する+1と-1との対極性が生起しているだろう。だから、自己認識方程式を変形させて、

(+i)☯(-i)⇒±1 or (+i)☯(-i)⇒|1|

が考えられるのである。これは、いわば、自己極性方程式であろう。
 以上のように考えると、1/4回転は、様相が三種類あることになるだろう。+1の純粋な差異共振性と-1の純粋な差異反発性とイデア極性による±1の差異共振性である。
 これで、ゼロ回転の問題は解決されたと言えよう。ゼロ回転ではなく、1/4回転における母権多神教性ということがあるということである。
 さて、しかしながら、+1と±1との関係を問う問題が現われたと言えよう。言うならば、純粋差異共振性と差異極性との関係ではないだろうか。前者は純粋な母権制ではないだろうか。アニミズム、シャーマニズムを含むだろう。先住民文化である。
 それに対して、差異極性の場合は、同一性=物質が明確に発現していると思われる。排除・抑圧の原理が現われている。しかし、極性の一端としてである。古代エジプト神話(宗教)はここに相当するのではないだろうか。そうすると、母権多神教もここに入ると見た方が適切なように思われる。
 さて、大局的に見ると、イデア極性(イデア太極)の周期・回帰を仮定して見ると、西洋文明とは、差異反発-1のヤハウェが主導的であるが、反面、差異極性ないしは差異共振性があると考えられる。思うに、差異反発とは、イデア極性の陰ではないだろうか。だから、月である。それに対して、差異共振はイデア極性では陽ではないだろうか。だから、太陽である。端的に、-1は月であり、+1が太陽である。反影であり、光である。一神教は月であり、多神教は日である。
 思うに、今日、イデア極性であるが、差異反発-1の様相から脱して、差異共振+1へと新たに変換していると思われるのである。超越神的エネルギー発動が終焉して、差異共振エネルギーが発動しているのではないだろうか。
 つまり、陰から陽へ、月から日へと転換しているのではないだろうか。これは、文明大転換、大進化ではないだろうか。超越神のもつ差異反発=同一性主義のエネルギーが枯渇して、差異共振エネルギーが賦活されていると考えられるのである。
 ここで、宗教・神話をさらに問題にすると、超越神は、 (+i)☯(-i)⇒-1で表現されると思われるが、ならば、太母はどうなるだろうか。太母は、左辺であろう。太母から超越神が生まれるのである。では、⇒+1とは何の神となるのだろうか。
 これまでの考え方では、オシリスに相当するのである。「日御子」である。そうならば、ギリシア神話のゼウスはどのように表現されるのだろうか。当然、ゼウスも太母の一変形だと考えられるが、どうような様相なのか。-1が超越神だから、ゼウスは-1ではない。そうかと言え、+1ではありえない。それでは、イシスが中心となるからである。すると、太母に近いと言えよう。太母はイデア極性であり、イデア振動をもち、多様性を形成する。これにゼウスは近いと思われるのであるが、太母自体ではありえない。何故なら、男神であるからである。
 ゼウスの多情多感性・好色性、これらは何だろうか。私は、ゼロ度と言いたい感じがあるのである。+1でもないし、-1でもないし、イデア極性的多様性に近いものをもつのである。
 そうすると、Media Pointに近いのである。しかしながら、Media Pointは、イデア極性の中心点(臍)であるから、Media Pointでもない。だから、ゼロがいちばん適切なのではないだろうか。そうならば、構造である。ゼウスは、構造主義となる。確かに、倫理感がなく、いい加減である。しかし、主神である。+1ならば、差異共振倫理があるし、-1ならば、超越神倫理があるのである。両者の和としてのゼロではないだろうか。そうすると、母権多神教とは別に父権多神教があり、これは、ゼロということになるのではないだろうか。
 すると、構造主義/ドゥルーズ哲学は、ゼウス=ゼロの哲学であり、ハイデガー/デリダ哲学は、ゼロと±1の哲学ではないだろうか。フッサール哲学は、⇒+1の哲学である。
 ここで、留めることにする。


2008年05月21日(Wed)▲ページの先頭へ
-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン:Ver 2
先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性【p.s. 以下の検討結果から、-1は同一性主義と見るべきであることがわかった。】について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう【p.s.  ハイデガーの本来的存在は、不思議な様相をもっている。私は、以前、Media Pointと思ったくらいである。一種の差異共鳴性があるが、決して、超越性をもたないのである。とまれ、一種の差異共鳴性(デリダの差延とほぼ等価であろう)とは、自己同一性=自我内部での、自我は「他者」であり、「他者」は自我であるという、自我化された共鳴性ではないだろうか。言い換えると、連続化された差異共鳴性ではないだろうか。あるいは、連続化された差異である。ドゥルーズの差異に相当するだろう。しかしながら、事はそれほど単純ではない。ハイデガーの本来的存在には、一種の特異性があるように感じられる。だから、Media Pointと一時思ったのである。これをどう見るのか、である。Media Pointのなんらかの痕跡がそこにはあるのだろうか。思うに、存在という考え方に、ポイントがあるだろう。存在忘却をハイデガーを説いているのであるから。私は、Media Pointの実軸上の圧縮と+1が同じであると言った。それは、端的には、同一性=物質のことであろう。思うに、存在とは物質のことではないだろうか。物質としての自我存在ではないだろうか。そして、これは、Media Pointという特異点を介して発現するのである。思うに、物質の基盤としての特異点(特異性)があるのではないだろうか。思うに、これが、ハイデガーの本来的存在ではないだろうか。同一性=物質の特異点(特異性)である。だから、数理化すると、0⇒+1であろう。そして、+1⇒-1が頽落した現存在であろう。結局、ゼロ度の同一性(共一性)である。思うに、ゼロが時間になっているのではないだろうか。だから、『存在と時間』なのではないだろうか。ゼロから+1へと志向し、また、+1からゼロへと志向するのではないだろうか。だから、+1における他者とは、ゼロではないだろうか。確かに、+1は鏡像であるが、そこへゼロが入ることで、一種、差異化されるのではないだろうか。だから、ハイデガーの本来的存在とは、ゼロと+1との「差延」ではないだろうか。今はここで留める。後で再考したい。】。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。【p.s.  ここの問題は、より精緻に検討するに値する重要なポイントである。というのは、+1の共一性とは、実は、本来的な超越的差異共鳴性の現象的痕跡と考えられるからである。痕跡は正に、デリダの用語であり、差延との関係が示唆されるのである。私は疑似差異と言ったが、それは単純化過ぎるかもしれない。とまれ、後で再考したい。】
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダン(後期デリダやジャン=リュック・ナンシー等はトランス・モダンと見る)は決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。
 


2008年05月20日(Tue)▲ページの先頭へ
-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン
先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性【p.s. 以下の検討結果から、-1は同一性主義と見るべきであることがわかった。】について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。【p.s.  ここの問題は、より精緻に検討するに値する重要なポイントである。というのは、+1の共一性とは、実は、本来的な超越的差異共鳴性の現象的痕跡と考えられるからである。痕跡は正に、デリダの用語であり、差延との関係が示唆されるのである。私は疑似差異と言ったが、それは単純化過ぎるかもしれない。とまれ、後で再考したい。】
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダンは決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。


2008年05月18日(Sun)▲ページの先頭へ
物質とは何か:現象について:自己認識方程式と同一性-1の再確認
爽やかそよ風が窓から入ってきて、やや薄い雲がかかっているが、穏やかな晴天の東京である。
 さて、先に、ヴィクトル・シャウベルガーの自然理論からPS理論に関して、説明が修正されることになったが、まだ、不十分なので、再考したい。±1が現象における極性となったので(この点も確定したわけではないので、さらに検討が必要ではある)、これまで、物質を-1と捉えてきたことに対する大きな変更であり、十分な検討が必要である。
 結局、差異の問題がここにある。差異の共鳴、これは、本質では、(+i)*(-i)と表記される。例えば、+iが一つの差異であり、-iが他者ないしは他者としての差異である。差異+iは、他者-iを志向する。これを引きつけられる力と見ていいだろう。しかし、同時に、差異+iは、他者-iではありえない自己存在を固持する。他者-iであろうと志向しつつ、自己であることを固持するのが、差異+iである。
 そして、この差異の様態が極性であると考えることができたのである。また、これは、PS理論では、即非様相と見ているのである。
 差異のこの内在的即非志向性は、(+i)*(-i)で表現されるだろう。問題は、現象様態である。他者-iへの志向性は、言い換えると、共振・共鳴性である。引きあう力である。これを、先には、+1として考えたのである。しかし、正確に言うと、⇒+1である。他者への志向性であり、他者との一致ではないのである。だから、そう考えると、差異の独立性、ないしは、不連続性は、⇒+1においても、内包されていることになるだろう。⇒が決定的なポイントである。これは、即非記号、他者志向性記号と言ってもいいだろう。
 そうならば、⇒-1はどうなるのだろうか。先には、それは、差異の独立性に基づく反発・斥力を意味すると述べたのである。⇒+1を引きあう力(吸引力)とすると、それは、同時に、反発する力(斥力)になるだろう。だから、⇒-1を斥力と見る必要はなくなるのである。
 だから、端的に、自己認識方程式は、差異現象方程式と見てもいいのである。だから、±1ではなく、+1で済むのである。この点は、さらなる訂正であり、元に戻ったのである。
 では、新たに、物質とは何か、又、⇒-1とは何か、となるだろう。直感で言えば、物質とは、+1自体である。差異志向性の帰結・エンテレケイアである。そう、同一性も+1ということになるだろう。自我も+1である。ならば、⇒-1ないしは-1とは何だろうか(e^iπ=-1と関係するのか)。
 -1とは、これまでの考え方では、(+i)*-(-i)⇒-1ということから考えられたのであり、これは、他者の否定・抑圧・排除によって発生すると考えたのである。差異志向性においては、他者への志向性と同時に、差異自体であるという事象があるのであり、後者の差異自体であるという不連続性は、確かに、一種の他者の否定ではあるが、-1を生み出す、否定・抑圧・排除ではない。
 つまり、ここには、少なくとも二つの否定があるのである。差異志向性の否定は、いわば、相対的否定であり、同一性の否定は絶対的否定である。この点をどう明確化するのかが、一つのポイントである。
 思うに、差異自体ということは、本来、他者を否定していないのである。ただ、他者とは別に差異自体が存するということである。しかしながら、差異は他者とは対立しているのである。ここで、ある人の意見を借りて、差異と他者の関係を反対と捉えると明快になるかもしれない。AとBとは反対であるとは、確かに、AとBは対立するが、AはBを排除していないのである。だから、これは、端的に、対極性と呼ぶのが、明快・明晰ではないだろうか。
 Aの極はBの極とは対立しているが、A極はB極を排除はしていない。ここで、否定という用語の問題がある。対極的否定と排除的否定があるだろう。私が同一性における否定に見るのは、当然、後者である。
 ここで整理すると、差異志向性は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で必要十分に表現されている。左辺は差異志向性であり、差異対極性と言っていいものである。そして、⇒は即非性を意味するのである。
 そして、同一性を意味する⇒-1ないしは-1であるが、それは、他者の排除的否定と、他者の排除的肯定(自己差異を排除的に否定する)に拠ると考えられる。他者の排除的否定を考えると、それは、どういう条件・事態・前提から発生するのだろうか。
 これまでの考えは、ルサンチマンから発生するということであり、他者-iにおける苦・悲に対するルサンチマンから他者の排除が生起すると考えたのである。これは、先天的な、ないしは、男性的な傾斜・勾配によると考えられる。即ち、(+i)*(-i)という差異志向性・差異共鳴性・差異対極性に関していうと、先天的に、ないしは、男性において、+iに対して、-iが脆弱にできているのである。即ち、過剰な+iに対して、-iが脆弱なのである。+iを原知とすると、-iが原身体である。このような先天的傾斜ないしは男性的傾斜があると考えられるのである。
 この結果、出生後、幼児において、ルサンチマンから他者を排除的に否定する結果、-1の同一性が発生すると考えられるのである。本来、差異共鳴性があるが、そのような傾斜から同一性の-1が発生すると思われるのである。
 言い換えると、人間の精神において、差異志向性と同一性志向性の二つの傾向が混淆しているのであり、先行しているのは、前者であるが、父権主義においては、後者が優位となり、本来的な様相が劣位となる倒錯した状態になっていると言えるのである。
 文化史的に見ると、ユダヤ・キリスト教的一神教が、同一性志向性に貫かれていると考えられる。もっとも、イエス・キリストの教えには、差異志向性は含まれるが、ヤハウェ的一神教のために、それがきわめて抑圧されていると考えられるのである。
 まだ、近代合理主義・近代的自我であるが、これは、父権的な同一性主義の延長にあると考えられるのである。同一性としての合理性・物質性・自己を中心価値においているのである。端的に言えば、差異志向性を抑圧した同一性合理主義である。これが、近代欧米の世界観の基盤にあるものと考えられるのである。ただし、何度も言うが、ルネサンス(正しくは、中世)に根差した差異志向性が欧米人の無意識には存すると言える。言い換えると、差異と同一性の混同が欧米人の精神には存しているのである。以上のように考えると、端的に、元に戻ったことになる。
 さて、最後に、光の現象について考察したい。以上の検討から、光現象は、当然、⇒+1である。それを+1と見るのが、物質科学である。⇒+1とは、光をエネルギー現象と見るのであり、+1とは物質現象と見るのである。今日、電磁波ということで、エネルギー現象として正しく確認されている。
 問題は、光の知覚にある。光の視覚はできるのか、という問題もある。太陽を直視することはできない。つまり、光は直視できないと思う。光が反射したものを視覚することができるのだと思う。これが一点である。思うに、光は、⇒+1であり、この左辺が超越的であり、それで、直視できないということなのではないだろうか。
 では、光の反射した現象をどう知覚するのだろうか。ここでは直感で言おう。視覚は、反射した光(以下、単純に光と表記する)と共振・共鳴すると思う。これは、自己認識方程式でも表記できるし、また、Media Resonance(メディア共鳴)でも表記できると思われる。
 問題は、例えば、「わたし」が、遠くに位置するビルを見たとき、そのビルの視覚とは何か、ということである。思うに、無意識の背景、基礎として、差異共振(差異共鳴)が存していると考えられるが、現象としては、個体・個物としてのビルを視覚するのである。即ち、同一性としてのビルを視覚するのである。三次元空間ないしは四次元時空間におけるビルとして視覚するのである。
 同一性としてのビルとはどう数理(数知)化されるのか。+1なのか、-1なのか。同一性主義の視覚ならば、-1としてのビルとなるだろう。そして、差異志向性における視覚ならば、+1としてのビルではないだろうか。しかしながら、+1の視覚とは、仮象に過ぎないだろう。⇒+1と見たときに、現象となると言えるのではないだろうか。⇒+1においては、差異共振(共鳴)性が存するのであり、こちらが本来的であると考えられるのである。+1とは、同一性仮象(同一性シミュラクル)である。
 では、-1のビルとは何なのだろうか。+1のそれとどう異なるのか。同一性仮象と同一性主義との違いということになるだろう。思うに、それは、知覚の相違ではないだろうか。同一性仮象+1とは純粋視覚の現象であり、同一性主義-1とは視覚現象の言語化ではないだろうか。つまり、視覚する対象はビルという言語が適用されるものであり、言語視覚としてのビルということではないだろうか。
 だから、ある意味で、+1と-1は似ているのである。しかしながら、カントは、+1を直観ないしは物自体、-1を純粋理性としたのではないだろうか。言い換えると、+1はリアリズム(写実主義)である。そして、-1は、近代合理主義である。
 さらに展開すると、ロマン主義はどうなるのだろうか。それは、同一性主義・近代合理主義によって否定された-iの復権を意味するのではないだろうか。少なくとも、それは、差異共振(共鳴)性を取り戻す志向性をもっていたと言えよう。同一性主義の(+i)*-(-i)に対して、(+i)*-〔-(-i)〕ではないだろうか。排除された他者-iを肯定する行為ではないだろうか。しかしながら、逆に言うと、他者の強調が過剰となり、逆に、自己の差異である+i を否定する傾斜さえもったのではないだろうか。すると、-(+i)*(-i)⇒-1となったように思えるのである。だから、反動性ももっていたことになるのである。他者を強調するあまり、逆に同一性主義に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、少なくとも、ロマン主義において、差異共振性が生動化したことは画期的であったことを評価すべきであろう。精神的には、歓喜が発現したのである(参照:シラー/ベートーヴェンの「歓喜の歌」)。文化史的には、ルネサンスの再発動に近いものがあると思われるのである。そう、他者が賦活され、差異共振性が活性化したと言えよう。しかしながら、それが過剰であっために、反動化したことも事実なのである。精神過剰主義である。【だから、ここから、世紀末や唯美主義等は延長であることは見やすいであろうし、また、20世紀になっても、後期ロマン主義や表現主義として継続したと見ることができるだろう。因みに、モダニズムは、ロマン主義と写実主義(広義の近代主義)、言い換えると、差異と同一性との衝突であり、両者の妥協点・調和点を求めた志向であったと言えよう。だから、モダにイズムは、差異に傾斜した様態と同一性に傾斜した様態と中間的様態があるのである。英米文学で言うと、差異に傾斜したのが、D. H. ロレンスであり、同一性に傾斜したのが、T. S. エリオットやエズラ・パウンドであり、中間的様態が、W. B. イェイツやジェイムズ・ジョイスであろう。】
 最後については、後で整理したい。

p.s. 初期デリダの脱構築主義であるが、差延を先には、-1と+1との差異として捉えたが、以上の考えから見ると、それはやや説明が足りないように思える。問題は、+1である。これをまたハイデガーの本来的存在と見たのであるが、どうだろうか。
 確かに、+1という様態は不安定というか不明確なものがある。同一性仮象である。例えば、波打ち際にたって、打ち寄せる波を見ていると、波と知覚が揺れ動くのがわかるだろう。「わたし」が波となったり、しかしながら、「わたし」と波とは別々の存在であるというような知覚現象が発生するだろう。同一性仮象は、差異共鳴性を内包していると考えられるのである。そう、コスモスを内包しているといいだろう。【神話とは、ここから表現されたものだろう。】
 だから、純粋な+1があるかどうかは問題ではないだろうか。しかしながら、現実的には、同一性仮象を実在として捉えて生活しているのである。眼前にあるデスクは同一性仮象ではあるが、物質現象として捉えて生活しているのである。
 現実的な生活においては、同一性仮象を物質現象として把捉しているのであるから、+1は生活においては、仮象ではあるが、存在すると言えよう。だから、 +1に揺らぎが生起するのは、現実的生活を離れたときと言えよう。単独で居るときに、同一性仮象が揺らぎ、差異共鳴現象が生起すると考えられるのである。
 ここから、初期デリダの差延を考えるとどうだろうか。例えば、現在という事象に対して、過去や未来という事象が潜在しているのである。思うに、差延は明快に説明できるだろう。つまり、他者を排除的に否定する同一性主義と排除的に否定された他者との関係が差延であると言えるのではないだろうか。例えば、現在とは、同一性主義の同一性であり、それに対して、他者は過去であり、未来である。つまり、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴によって、本来、時間が生起しているが、同一性主義だと、過去ないしは未来を排除的に否定しているので、現在と過去ないしは未来とが二項対立になっている。しかるに、本来的には、現在と過去ないしは現在と未来との差異共鳴があるのであり、差異共鳴性の回帰を差延として初期デリダは捉えたのではないだろうか。
 ならば、初期デリダの脱構築主義も、本来的には、差異共振主義である。ただし、初期デリダは、超越性を否定しているので、虚数世界、イデア界に達することができずに、水平的な差異共鳴性の提示に終始したように思えるのである。
 思うに、水平的な差異共鳴性とは、実軸に圧縮された差異共鳴性であり、実軸上のMedia Pointであると考えられるのである。思うに、ハイデガーの本来的存在は、+1ではなく、この実軸に圧縮されたMedia Pointであるように思えるのである。
 思うに、構造主義のゼロ記号も、この実軸に圧縮されたMedia Pointではないだろうか。そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、差異を他者と連続化しているのであり、差異を同一性化して、差異を微分にしているのであり、初期デリダの脱構築主義よりも後退していると言えるのである。なお、後期デリダは、差異の不連続性、即ち、特異性に注視して、純粋な Media Pointに近づいたと考えられる。


2008年05月15日(Thu)▲ページの先頭へ
-1の同一性と物質について:現象とは何か:差異と同一性の二重現象としての鏡像現象:Ver2
先に「検討問題:同一性=物質化とは何か」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10096465458.html
で、同一性=物質について試行錯誤したが、まだまだ不十分であるので、ここでさらに試論したい。
 端的に言えば、まだ、同一性に関して、クリアな像が形成されていないのである。問題は、光とは何か、でもある。また、否定による-1の意味するものも再考されなくてはならない。
 先ず、具体的に考えて、今日はまだ、気温が低めではあるが、ここ数日の異常低温は脱して、五月らしい好天である。風はまだ冷たいが、爽やかな日である。さて、この目にする光とは何なのだろうか。
 これまでの考察から見ると、それは、-1である。物質としての光である。しかしながら、これは、本来、+1の超光である。ここで、また、用語の問題が生じる。超光は、イデア光に使用したい。だから、+1は原光としたい。すると、-1が光であり、+1が原光である。
 問題は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺⇒右辺のもつ発生力学である。これを無視して、単に+1や-1を考えると、虚軸性(虚数的超越性)が喪失されて、不正確な思考になると考えられる。
 +1の光とは、(+i)*(-i)⇒+1において存する光であり、単に、右辺だけで存する光ではないのである。つまり、光、この場合は、原光とは、左