愚樵氏の自己認識論とPS理論:精神力学の意味合い






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2009年07月29日(Wed)
愚樵氏の自己認識論とPS理論:精神力学の意味合い
先に転載した愚樵氏の論考であるが、既にKaisetsu氏が説明されているので、蛇足的に簡単に述べたい。
 端的に言えば、自己認識方程式の様態を、より明晰にしたものと言えよう。ポイントは、直交座標において、両軸にそれぞれ、信じるー疑うの極性を置いたことである。
 これで、いわば、二層二極性になったと言えよう。また、興味深いは、差異共振を「信じる」という視点で捉えていることである。これは斬新というか独創的な指摘であろう。
 因みに、私は宗教を精神力学と捉えると述べているが、思うに、精神力学とは、確かに、「信ずる」側面を包摂した知性なのである。
 思うに、この発想は実に意義深いと思う。ずいぶん以前、イデアの知性とは何かと考えたことがある。それは、ここで述べられている「信」を包摂した知性とも言い換えられるように思う。
 また、愚樵氏の発想の深さは、垂直次元に対しても、信ー疑の極性を設定していることである。これで、嫌悪と憎悪の区別がつけられることになろう。(例えば、ニーチェの説くルサンチマンという概念は、垂直次元の疑に関係すると言えよう。)
 とまれ、「信」を包摂した、正確に言うと、「信」を保持しつつ、知性、批判的知性を肯定する精神がここにはある。
 思うに、この新知性(イデア知性)は、信と信だけでなく、信と疑ももっているのである。有り体に言えば、橋下知事に対しては、信はありえないということである。
 つまり、信ー信が彼の場合は、適用されずに、信ー疑となるのである(追記:正確に言うと、信ー信を橋下知事に適用すると、それが裏切られるのである。だから、信ー信が「引っ込み」、批判的精神が喚起されるのである。このときの批判的知性の源泉は何だろうか。それは、信ー信が裏切られたときに、出現する知性であろう。思うに、-{(+i)*(-i)}⇒-1ではないか。-1が批判的精神・知性ではないのか。後で検討したい。)これが、信を包摂・保持した批判的知性である。後でできれば整理したい。

追記:信と知の問題は微妙であり、難しい。思うに、信ー信において、知が発生するはずである。差異共振現象の認識においては、他者と共振するが、同時に、そこには、他者知が生起するのである。例えば、「私」と「山」の場合、「私」は「山」であり、且つ、「私」は「私」であり、「山」でないという差異共振現象が生起するが、このとき、信ー信は、他者という知を並立させているのである。この他者の知性、絶対的差異の知性とは何だろうか。
 これこそ、超越的知性である。イデア的知性である。だから、信ー信において超越的知性が生起するが、同時に、批判的知性・精神も生起する。それは、信ー信による超越的知性が、他者へ向かったとき、その他者が同一性主義である場合、絶対的差異・超越的知性の視点から裁断するのである。この絶対的差異・超越的知性こそが、批判的知性・精神であろう。
 ならば、信ー信は絶対的差異知性・超越的知性でもあるのだ。
 では、これは、信であり、且つ、知性であるという不思議な知性である。思うに、スピノザの能動的観念という発想の根源はここにあるのではないだろうか。
 後で精緻に検討したい。

***************

〔信じる−疑う〕の水平性と垂直性
2009-07-27
「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの有名な言葉で、私たちはこの言葉を違和感なく受け取りますが、この言葉には〔信じる−疑う〕ことの二重性――水平性と垂直性が端的に示されています。

「我思う」は思惟する我、〈疑う〉私です。そこに後半の「我あり」で、「〈疑う〉私を疑うことが出来ない」の意となりますが、これは言い換えれば「〈疑う〉私を(私は)《信じる》」となります。
(〔信じる−疑う〕ことの二重性は同時に「私」の二重性をも示します。)

前の〈信じる〉〈疑う〉を〔信じる−疑う〕ことの水平性、後ろの《信じる》《疑う》を〔信じる−疑う〕ことの垂直性と捉えると、下のように図示することができます。そして、「我思う、ゆえに我あり」とは、直交座標系になぞらえた図の第二象限だとすることができます。

信じる疑う

T:〈信じる〉私を《信じる》――「愛」という言葉で表わされる精神。

U:〈疑う〉私を《信じる》 ――近代合理精神

V:〈疑う〉私を《疑う》  ――ニヒリズム

W:〈信じる〉私を《疑う》 ――「憎悪」の精神状態。

近代という時代は、Uの領域が肥大した時代であると同時に、Uから転化したWも大きく拡大した時代でもあります。Uの「〈疑う〉私を《信じる》においては、信じるに足るのは「私」――私の理性、私がアイデンティティを確立する集団、など――のみとなりがちで、そこへ陥ると〈信じる〉あなたを《疑う》、すなわちWの領域が拡大する。合理的精神の限界です。

他方、Tの領域において、〈信じる〉私を《信じる》態度は、〈信じる〉あなたを《信じる》ことへと容易に結びついていきます。Uの領域のように、他者である「あなた」を信じるのに、「あなた」を「私」の同一性によって支配する必要がない。絶対的他者である「あなた」――「私」の感覚装置によって捉えられ〈信じられる〉「あなた」――は、絶対的他者のままで《信じられる》。これが差異共振だと考えられます。
http://gushou.blog51.fc2.com
/blog-entry-288.html
愚樵空論


   




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カレンダ
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