思考実験:共振へのらせん的回帰の力学について:-iの賦活化における連続化と不連続化と差異共振化:モダンからトランス・モダンへの転換力学:付録:ポスト・モダン分析






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2009年03月15日(Sun)
思考実験:共振へのらせん的回帰の力学について:-iの賦活化における連続化と不連続化と差異共振化:モダンからトランス・モダンへの転換力学:付録:ポスト・モダン分析
同一性自己主義-1(近代合理主義・近代的自我)から、新たな差異共振主義に転換する力学について緻密に解明したい。
 + iの傾斜によって+1から-1へと同一性自己意識が転化して、同一性自己主義(自我主義・自己中心主義)が生まれる。近代合理主義・近代的自我は端的にそのようなものである。そこでは、精緻に見ると、+1と-1との揺らぎがあるように思えるが、基本は+1→-1であると考えられる。つまり、⇒+1の⇒が示唆する差異共振性がそこでは否定されているのである。
 では、新たな差異共振性への回帰の力学について解明していこう。それは、-iの賦活に拠る。しかしながら、それは、+iの傾斜を否定するのであるから、+iの傾斜と衝突するのである。つまり、-1と衝突するのである。例えば、近代合理主義は、例えば、精神性や超越性を否定するのである。(もっとも、+i自身は超越的なものであるから、一神教的な超越性は認めるのである。だから、どんな精神性や超越性を否定するのかと言えば、当然、差異共振的それであるし、それは、様態としては、神秘主義やロマン主義的な性向をもつと言えよう。この点は微妙なものがあるが、ここで留めておく。)
 では、近代主義内部において、-iの賦活がどういう様態となるか考えてみよう。+iと-1は-iと差異共振性を抑圧するが、後者は活性化するので、前者に、いわば、押し寄せるのである。つまり、衝動・情動化、つまり、エネルギー化して、前者の領域に迫るのである。もし、主体がそのエネルギーに対して、否定ではなく肯定的な態度をとるとき、どうなるだろうか。
 問題は連続化である。端的に言えば、-1 の同一性自己主義とは、+1と連続化しているのである。同一性=物質の+1と連続化して、それを差異共振性の背景から切断して、原理化しているものなのである。だから、-iが活性化したとき、それは新たな差異共振を意味するのであるから、⇒+1となるのである。そうすると、-iの賦活は新しい+1を意味するのではあるが、+1であるので、それは、同一性自己主義-1と連続化すると思われるのである。
 言い換えると、新しい差異共振性が旧い同一性自己主義と連続化するのであり、そのために、折衷・混合状態になると考えられる。(この状態を説明しているのが、ドゥルーズ哲学であろう。両者の連続性を説いている哲学である。そして、それは、結局、差異共振性自体を連続化や同一性化するのである。つまり、特異性が喪失するのである。ついでに、ベルクソン哲学について言うと、先に述べたように、それは、新しい差異共振性の事態を対象にしている哲学であると考えられる。ただし、差異と同一性が未分化であるために、両者の不連続性を把握していないのである。だから、それは、ここで述べた差異共振性と同一性自己主義との折衷・混合を避けていると言えるのである。)
 端的に、同一性自己主義と差異共振性との折衷・混合とは、差異を同一性にしてしまう、いわば、マジック・奇術の「哲学」である。欺瞞である。一見、即非性に似ているが、即非性とは、差異性をあくまで維持するのであり、「この折衷・混合とはまったく異なるのである。折衷・混合とは、差異と同一性を牽強付会させてしまうのである。ゴマカシ、ペテンである。差異を同一性にしてしまうのであり、同一性を差異にしてしまうのである。いわば、ご都合主義である。とまれ、トリックである。一種の錯誤状態である。言い換えると、自己と他者との境界がなくなる、病理的な状態であると言えよう。(思うに、ドゥルーズの精神は病理的であったと思う。当然、その「哲学」は病理的であり、哲学としては、破産しているのである。)
 この状態を理論化するとどうなるだろうか。差異と同一性との短絡・ショート状態をどう理論化できるだろうか。簡単に言えば、+iと-iとが一致することである。より実態に即せば、-i=-1である。あるいは、(+i)*(-i)=-1である。
 これは、虚軸と実軸、超越性と物質性との混同であり、位階の喪失である。これをどう記号化したらいいだろうか。平明に言えば、狂気である。精神病である。結局は、ハイパーな同一性自己主義であると言えよう。しかしながら、超越性を帯びているのである。なんとも異様なものである。PS理論から言えば、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点が一致しているといえる。
 この記号化であるが、それは、同一性自己主義化を逆にして、〔-(+i)〕*(-i)⇒-1でいいのではないだろうか。つまり、-iが逆に、+iを否定してしまうのである。
 では、連続化を超えるトランス・モダンの場合を考えよう。端的に、不連続化を実践する立場である。即ち、差異は差異であり、同一性は同一性であり、両者は不連続であるということを確認する立場である(不連続的差異論)。賦活された-iを不連続的差異として肯定する立場である。これによって、同一性+1と差異-iとが峻別されたのである。これは、トランス・モダンの第一歩である。そして、それから、原同一性+iと差異-iとの共振が確認されることになるのである。言い換えると、即非性である。これがPS理論である。
 これは、あらゆる領域に適用すべき理論である。経済において、同一性自己主義資本主義から差異共振主義資本主義への転換の必然性がここに認められると言えよう。資本は同一性(主義)資本から差異共振(主義)資本へと転換するのである。同一性主義価値が解体して、差異共振価値が中心化するのである。差異共振価値の創造としての差異共振資本主義へと転換されると考えられるのである。経済以外も同様である。
 さて、最後に、ポスト・モダンについて補足しておこう。ハイデガー/デリダのポスト・モダンとは、確かに、一種の不連続性がある。デリダは、決定不可能性について述べている。それは、同一性主義の不可能性のことである。言い換えると、差延のことである。それは、同一性にはなんらかの差延が生起するので、同一性主義が解体されるということである。では、差延とは何か。デリダはハイデガーの存在を踏襲していると考えられるので、差延は存在と共通である。では、存在とは何かと言えば、一種の穴である。それは、実軸ゼロ点に生じた穴である。ただし、実軸ゼロ点自体ではない。
 ここが微妙な点である。実軸ゼロ点にある穴であるが、ゼロ点ではない。これは、虚軸ゼロ点の痕跡と言うべきように思えるのである。⇒の先端に生じた穴である。それは、超越性の終点であり、同一性の始点である。その空虚である。合間である。この空虚・穴が差延であり、それが、デリダのポスト・モダンの基盤である。それは、確かに、哲学的には、根拠のあるスタンスである。ただし、それは、ハイデガー哲学の焼き直しに過ぎない。もう少し付け加えると、デリダはニーチェを援用するが、それは、特異性である。つまり、ハイデガーの存在の穴のもつ不連続性とニーチェ哲学の特異性を結合させたものが、差延と考えるほうがより的確である。ただし、どちらにしろ、超越性を否定しているのである。(ニーチェは矛盾していて、実際は、超越性も示唆しているのである。ただし、キリスト教との戦いから超越性の否定を強く唱えているのではあるが。この点では、意外にドゥルーズに似ている。)
 それに対して、上述したドゥルーズであるが、ハイデガー/デリダの不連続な穴をもっていない。つまり、不連続性が欠落しているのである。言い換えると、特異性がないのである。問題は、不連続性、特異性のない超越性とは何であるのかということである。というのは、ドゥルーズには、超越性と同一性との一致があるからである。直感では、実軸ゼロ点が中核にあると思えるのである。
 ここで迂回して、私の経験に即して言うと、それは、コスモス主義ないしはコスモスとの一体感である。コスモスとは、不可視の宇宙である。全体である。この全体と「わたし」とは一体であるのである。では、このコスモス・全体とは何なのだろうか。
 それは、ショート・短絡ではないだろうか。それは、確かに差異-iの能動性であるが、原同一性+iとの直接を避けて、なにか、夢想的な世界と一体化しているのである。差異共振ではなく、差異融和である。心地よい、夢見心地の境地である。それは何か。
 差異共振は積であるが、この差異融和ないしは差異夢想は、和ではないだろうか。即ち、前者は積で⇒+1であるが、後者は和で⇒0ではないだろうか。つまり、(+i)+(-i)⇒0である。このゼロが実軸ゼロ点であり、もはや、ここには、虚軸ゼロ点の痕跡は不可能なのである。なぜなら、虚軸ゼロ点があれば、共振(積)が発生しているからである。ということで、ここでは、作業仮説であるが、ドゥルーズのポスト・モダンとは、差異融和ないしは差異懐柔であったと言えるだろう。それは、ゼロ化・無化である。差異はゼロ・無にされてしまったのである。それも、実軸ゼロ・無である。言わば、差異は去勢されたのである。
 では、問題は、このゼロのコスモスと差異共振の「コスモス」との違いはどういうものなのか、である。これは端的に決定的に異なるのである。前者は同一性=物質+1から逃避したものであり、夢想的なのである。それに対して、後者は、同一性=物質+1を肯定し、包摂した「コスモス」、即ち、イデア界である。
 では、端的に両者を峻別する命名をする必要がある。とりあえず、前者を仮想コスモス、後者をイデア・コスモスと呼ぶことができよう。だから、ドゥルーズが言うイデア=理念とは、仮想のことであり、真のイデア=理念ではなかったのである。ドゥルーズはよくシミュラクラ(模像、似像、偽像)のことを唱えていたが、この視点から言えば、それは、正に、仮想像であり、差異共振像・イデア的像ではなかったのである。確かに、それは、アンチ・プラトニズムではあるが、仮想空間・擬似空間の世界に属するのであり、遊戯の世界の出来事と言えよう。
 デリダの脱構築主義は根拠のある同一性主義批判であるが、フッサール現象学の超越性を鼻から否定しているので、差延を反復するという一種の遊戯に堕してしまったと言えるのに対して、ドゥルーズ「哲学」は、差異の特異性を喪失して、融和・妥協しているので、仮想遊戯に陥ってしまったと言えよう。ポスト・モダンの不幸・不具合・錯誤とは、既述したように、ハイデガー/デリダに関して言うと、フッサール現象学を理解できなかったことであり、また、ドゥルーズに関して言うと、ベルクソン哲学の持続・純粋持続の特異性・不連続性を理解できなかったことにあると言えよう。
 では、いわば、プロト・トランス・モダンをポスト・モダンが理解できなかった理由が何であろうか。直感では、西欧における近代合理主義の背景が原因ではないだろうか。それが、超越性を締め出しているのではないだろうか。つまり、近代主義の縛りが強固であるということである。日本の場合は、禅による超越性の思想があったし、ウスペンスキーの場合は、ロシアその他の神秘主義の思想があったのである。
 つまりは、同一性自己主義の抑圧が強固で超越性を排除していると言えよう。さらに言えば、同一性自己主義の強固な抑圧とは、結局、ヤハウェ主義に拠るのである。つまり、ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統によってもたらされたものと言えるのである。今日、リーマン崩壊で、同一性自己主義が崩壊・解体したのであり、ユダヤ・キリスト教的西洋文明が崩壊・解体したと考えられるのである。これは、少なくとも、二千年単位の大転換であり、さらに言えば、父権文明の崩壊・解体ということでは、四・五千年以上、一万年単位の超大転換である。問題は、単に、同一性自己(自我)を否定するのではなくて、それを支点にして、新差異共振性へと進展することなのである。ただし、同一性自己主義、同一性自己原理(自我主義)は否定される。コナトゥス(自己保存欲)は肯定されるのである。西洋文明を経由した新東洋文明の夜明けである。日本は、モダンを経由したプレモダンの復活であり、それがトランス・モダンである。

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