同一性主義の発生力学について:⇒+1は特異性内包の同一性であり、+1は同一性=同一性主義である。






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2009年01月26日(Mon)
同一性主義の発生力学について:⇒+1は特異性内包の同一性であり、+1は同一性=同一性主義である。
先の考察は中途半端だった
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10198224797.html
ので、ここであらためて考察を行いたい。
 私の疑問の出発点は、同一性主義には、差異の否定があるという事象=現象である。そして、最近では、同一性志向性における一契機として同一性主義というものを捉えたのである。
 それは、端的には、+1である。+1という同一性は、差異共振性をもたない物質性である。そう、同一性形式=言語構造形式としてもいいだろう。構造主義の構造も+1となろう。
 しかし、これだけならば、差異の否定は生じない。+1は+1である。問題は、他者が生じるときである。それは、+1を超えるものであり、異質性である。そう、他者は、実は、-iである。そして、同時に、+iである。
 +1は、それらの他者や差異に対処できないのである。ここで、同一性は、同一性主義となり、他者、差異を否定・抑圧・排除する暴力となると考えられる。
 ここで、これまでの検討を修正する必要がある。+1を同一性主義と言ったが、そうではなく、やはり、同一性でいいと思う。ただし、それは、差異に対しては、同一性主義となるのである。だから、同一性→同一性主義である。
 また、+1は、同一性であり、自我であり、差異・他者に対して、同一性主義、自我主義となるのである。端的に、同一性は、不器用なのである。すなわち、-1をもち、悪となるのである。善悪二元論を形成するのである。
 近代合理主義は、端的に言えば、+1の主義=崇拝である。問題は、この主義=崇拝である。これは何か。この問題は、一つの核心的なものである。これが、ある意味で、人間と他の生命体を区別するものと考えられる。
 今の直観で言うと、これは、1/4回転であり、そのとき、Media Pointは閉じられるのではないのかということである。1/4回転によって、同一性志向性は、思うに、イデアを忘却して、現象へと帰結するのである。(ハイデガーの存在の忘却は、正しくは、イデアの忘却にすべきである。ハイデガーは、イデアを喪失しているのである。だから、ハイデガーの存在は、無になるのである。これは、意外に、三島由紀夫に似ているのである。三島由紀夫はある小説でハイデガーに言及していた。)
 Media Pointから発する同一性志向性とは、端的に言えば、光であり、そのとき、根源のイデアは、光に転化していると言えるのではないだろうか。
 つまり、+1とは、光であり、それは、イデアの変換様態であると考えられる。その時点では、イデアは消失しているのである。端的に言えば、肉眼でどこを見てもイデアは見つからない。
 以上の視点から言えば、+1の光の現象界においては、それ自体が目的化されるのではないか。言い換えると、+1は鏡像化である。自己と同一性の鏡像が一致する世界ということになる。自己は本来、イデアでありながら、1/4回転によって、同一性=光となるのであり、その同一性=光の像が鏡像であるということになるのではないだろうか。
 言い換えると、差異(=差異共振性=イデア)=「自己」が、同一性=光に転換するということであり、同一性=光=鏡像と一体化することと考えられる。
 ならば、+1=同一性化とは、端的に、同一性主義化なのである。この同一性化にこそ、現象の本質的秘密があるのである。そう、現象の奥義・奥の院である。
 言い換えると、差異が同一性へと「折り畳まれる」こと、この二重性に現象の本質があると言えよう。
 だから、当然、同一性化=同一性主義化は、差異を否定・抑圧・排除・隠蔽するのである。
 その結果、同一性の視点から見たとき、根源が、無とされるのである。つまり、ニヒリズムである。ニーチェの積極的(能動的)ニヒリズムも、この点を免れないと言えよう。当然、上述したように、ハイデガーも三島由紀夫もそうである。【では、仏教の無はどうなるだろうか。今の直感で言えば、仏教の無とは、空(イデア)へと連結する契機である。】
 とまれ、以上から、同一性主義の発生力学の解明としたい。
 さて、そうすると、あらたに、同一性と同一性主義の区別をしたこれまでの見解を見直す必要があることである。つまり、同一性は物質であり、それに差異共振性があるとしたのであり、同一性主義は言語構造形式であり、差異共振性はないという見解である。
 言い換えると、⇒+1と+1の区別の問題である。物質界・現象界は後者であるが、前者とは何か。前者は物質界・現象界の特異点・特異性を含めた数式であると考えられる。つまり、物質界・現象界のMedia Pointを内在させた数式であると考えられる。
 近代科学とは、 +1の科学であり、⇒を無視していたのである。端的に、唯物論的科学である。
 しかし、相対性理論や量子力学は特異点・特異性を問題にしたのである。光速度の一定や光の特異性を意味するだろうし、量子の不連続性やその他の事象もそれを意味しよう。
 哲学で言えば、キルケゴール、ニーチェ、そして、フッサール(「超越論的主観性」が特異性である)である。それらに、特異性が現れているのである。(ハイデガーは、特異性を無視して、存在論的ニヒリズムを説いたと考えられる。)
 ということで、これまでの見解を修正できただろう。即ち、⇒+1は同一性ではなく、特異性を内包した同一性のことであり、+1は同一性(=物質=光)=同一性主義であるということになったのである。ここで留める。

追記:上記で、+1が物質界・現象界で、⇒+1が特異性ないしはMedia Pointを内包した数式であると述べたが、どうも間違いだと思う。
 物質界と現象界を区別・峻別・弁別する必要がある。即ち、物質界は+1であり、現象界ないしは自然界は⇒+1であると言うべきである。
 つまり、物質と現象・自然は絶対的に区別されなくてはならないということである。近代科学、即ち、唯物科学は、+1の物質界を説明するものであり、現象・自然を同一性に還元しているのである。
 だから、自然科学という言い方は問題がある。それは、物質科学が正しいのである。
 とまれ、物質界と現象界=自然界の区別・峻別・弁別、ここに、モダンとトランス・モダンの境界があると言えよう。
 補足すると、物質界ないしは物質とは、人間の同一性構造が産んだ一種虚構なのである。極言すれば、ヴァーチャルな世界なのである。敷延すれば、同一性主義金融資本とは、このヴァーチャルな世界で発生している虚構の価値なのである。
 結局、資本主義は、唯物・虚構経済から、自然・現象真相経済へと転換しなくてはならないのである。


   




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カレンダ
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