同一性主義と差異エネルギーの関係について:トランス・モダンの必然性=摂理:第二次1/4回転






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2009年01月25日(Sun)
同一性主義と差異エネルギーの関係について:トランス・モダンの必然性=摂理:第二次1/4回転
余裕がないので簡単に、問題提起する。(追記:詳述することになった。)
 先に、トランス・モダン的差異とは新たなエネルギーの放出に拠ると言った。
 思いついたのは、以前に考えた回帰仮説である。即ち、Media Point において、同一性志向性が発生する。⇒+1である。これは、自発的である。そして、エンテレケイアとして、+1となる。これは、人間で言えば、身体の成長や言語的知能の発達を意味しよう。同一性形式の完成である。
 しかし、その完成は同時に、解体となる。身体や脳細胞は衰退の過程に入る。しかしながら、それは、脱同一性主義プロセスと言えるのではないだろうか。
 つまり、いったん、同一性主義が形成されると、エネルギーは脱同一性主義へと志向して、何らかの創造へと向かうのではないだろうか。
 つまり、根本的な差異エネルギーは、最初は、同一性形成へと向かい、同一性主義に帰結するが、それを終えると、脱同一性主義的創造へと向かうということではないのか。
 では、それは一体何なのか。すぐ思い浮かぶのは、精神性の形成である。同一性的言語知性が形成された後、心は、精神性の形成に向かうのではないだろうか。近代合理主義の大欠陥は、心が同一性主義的合理性に収斂して、精神性がまったく欠損することである。つまり、悪魔的知性、悪魔的自我となることである。
 しかしながら、心は、脱同一性主義志向性をもち、精神性の形成・創造へと向かう「本能」があるのである。だから、当然、近代合理主義的心は、反動化して、狂気化するのである。これは、父権的狂気と言ってもいい(麻生首相を見ればわかるだろう)。
 では、この精神性の形成とはどういうことなのだろうか。本来、Media Point において、差異共振性があり、それが、原初的な、「本能」的な倫理・道徳を形成するのである。それは、無意識の倫理・道徳と言ってもいい。プレ・モダン的倫理・道徳、まぁ、人情のようなものである。
 しかし、これが、近代化によって解体・破壊されて、近代人は悪魔・悪霊化するのである。これは、自然の摂理のなにか途方もない、超壮大な畏怖すべきスーパー・プロジェクト(グランド・プロジェクト、マスター・プラン、「インテリジェント・デザイン」)の一部である。思うに、自然の摂理は、人間が物質的世界を克服するように意図していると思えるのである。もし、同一性主義に帰結しなければ、物質的科学・技術は生まれなかったのである。近代科学・技術がなければ、未だに、水を井戸や川から汲んだり、洗濯板で洗濯をしていただろう。貯水池やダムもなく、雨乞いをしていただろう。
 これは、宗教的に言えば、ヤハウェの貢献である。ヤハウェ神がいなければ、物質主義は生まれなかったからである。
 しかし、自然の摂理はそれを乗り越えることを意図しているのである。それが、トランス・モダンである。物質主義的鏡像を乗り越えて、人間が進化することを意図しているのである。
 では、その力学はどうなるのか。同一性主義を乗り越えて、つまり、トランス同一性主義となり、いわば、ラセン的に反転するのである。高次の差異共振性(精神性)に回帰するのである。高次のMedia Pointにらせん的に回帰するのである。換言すると、知性的な精神性に回帰するのである。
 つまり、ガウス平面で言えば、最初の1/4回転(90度回転)が虚軸から実軸へのものであり、同一性主義+1(、同時に、裏では、-1)を形成したのであるが、トランス同一性主義(トランス・モダン)は、更なる、つまり、第二の1/4回転であり、実軸から虚軸へと進展的に回帰するということではないのか。(プラスとマイナスの交替が起るが、それは今はおいておく。)
 では、この1/4回転の力学の原動力は何かということが問題になる。今の思いつきで言えば、イデア、即ち、太極イデアとは、基本的に回転しているのである。そう、スピンである。問題は、連続的に回転しているのか、それとも、不連続的なのか、である。今の直感で言えば、連続的且つ不連続的ではないだろうか。回転が連続的に進行するが、1/4回転で不連続化が生起するということではないだろうか。それが、歴史的には、進化である。
 それを作業仮説とすれば、トランス・モダンとは、そのような不連続点であり、だから、更なる、つまり、第二の1/4回転(第二次1/4回転)と呼べることになる。(ポスト・モダンは、その直前の混淆期である。)
 今日、リーマン・ショックで、第二次1/4回転の世界史的進化的事件が起きたと言えよう。覆水盆に返らずであり、もはや、同一性主義金融資本主義は成立たないのである。差異共振主義的資本主義へと変換する「運命」=摂理なのである。
 今はここで留める。


   




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カレンダ
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