視聴覚と心覚:同一性感覚と精神覚:視覚のもつ同一性自我感覚への傾斜






2008年07月25日(Fri)
視聴覚と心覚:同一性感覚と精神覚:視覚のもつ同一性自我感覚への傾斜
視覚は、問題が多いだろう。視覚について考察する前に、私の好きな音楽について、先ず、考えてみよう。
 もっとも、私が好きな音楽は、ほぼバッハに限定される。これまで、それなりに音楽を聴いてきたが、結局、大バッハに収斂するのである。
 では、大バッハの何がいいのか。これは愚問ではあるが、有り体に言えば、バッハ音楽の精神性である。聴覚を通して、確かに、精神性が喚起されるのである。つまり、聴覚という感覚を通して、精神が感得できるということであり、これは、感覚には、いわば、精神覚、心覚があるということになろう。これは、いわば、第六感である。
 そう、聴覚に言えることは、視覚にも言えることである。視覚的にいちばん感動したのは何かと言えば、美術で言えば、セザンヌの静物画である。リンゴではなくて、テーブルに上に陶器を載せた静物画に感動したし、その他、名のない絵画に感動したし、また、田舎の崇高な夕焼けの赤や紫に感動した。
 この場合では、視覚を介して、崇高さ、崇高な精神を感得していると言えよう。だから、視覚を介して、やはり、精神覚・心覚があると考えられるのである。
 これは、これまで、PS理論において、Media Pointによるイデア界と物質界との交差で説明してきたことであるし、それは今でも適切であると考えられるのである。
 つまり、感覚、五感において、Media Pointを介して、イデア性、即ち、精神性が表現されるということである。しかしながら、感覚=精神性ではなくて、感覚に重なるように、精神性が発現しているのである。
 ということで、視覚に関しても、精神覚・心覚が考えられることになる。では、私が感じた視覚への不信感は何だろうか。
 それは、視覚はあまりにも、物質性に囚われやすいことにあると思う。視覚における精神性・心性は、明快であろうか。
 視覚は電磁波の感覚である。思うに、視覚認識は、同一性に深く関係していると思う。だから、視覚においても、精神覚・心覚はあっても、同一性感覚=物質感覚性が強いので、視覚に対する不信感が生じるのではないだろうか。
 視覚は五感の中でも危険な感覚と言えよう。言い換えると、視覚は、幻惑的であるということになる。
 これで、本件の結論を得たことになる。そう、一言で言えば、視覚とは、鏡像を形成し、自我感覚の基盤となるものであるということになる。

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