覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン






2008年07月23日(Wed)
覚書:デリダの脱構築主義とMedia Point:MPゼロ度とトランス・ポスト・モダン
かつて、デリダの脱構築主義が独り歩きしていたと言えよう。しかし、今思うに、デリダの哲学は、そのようなキャッチ・コピーでは捉えられないのではないだろうか。
 今、思うところを言えば、問題は、特異性の哲学をどう打ち立てるのかにあったように思える。同一性主義が中心化している西洋文明において、特異性の哲学をどう構築するのかが、哲学者、とりわけ、現代の哲学者に要請されていたことと考えられる。
 私自身について言えば、特異性と同一性の問題が、生きる問題であったのである。私自身は、正に、他の何ものでもない個であるが、日本はオイル・ショック以後、70年代半ば以降、どんどん同一性が流通する社会となり、私は強烈な違和感をもっていたのであるからである。
 とまれ、今簡単にデリダ哲学について言うと、特異性という差異に対して、西洋哲学はこれまで、同一性の哲学を構築してきたのであるが、同一性のシステムを立てても、そこには、特異性という差異が付き纏っているのであるから、同一性のシステムは決定不能性に陥るというものではなかったであろうか。
 それは、不連続的差異論/PS理論から見ると、正しい考え方である。PS理論が明らかにしたように、特異性は実は超越性と現象性との交叉するMedia Pointに存するのであるが、デリダはフッサール批判そしてハイデガー哲学の擁護によって、超越性を排除していたので、差異からMedia Pointへと進展することができなかったと考えられるのである。
 思うに、ハイデガーの存在そしてデリダの特異性とは、PS理論で言えば、これまでの検討の結論を否定して、最初の考察に戻ることになるが、Media Pointの実軸点であると思われるのである。いわば、ゼロ・ポイントである。
 とまれ、デリダ的ポスト・モダンには、トランス・モダンへの契機があったことは確かである。結局、トランス・ポスト・モダンである。

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