同一性へ傾斜している人間の問題:同一性主義という悪の支配する現代世界と差異大進化






2008年06月05日(Thu)
同一性へ傾斜している人間の問題:同一性主義という悪の支配する現代世界と差異大進化
先に思考実験的に「わたし」とは何か等に関して考察したが、自然一般において、同一性と差異が同時生起することが了解された。しかしながら、人間においては、明らかに、同一性へと傾斜していると考えられる。もっとも、ある時点で、急激に同一性へと傾斜したということが事実のようである。とまれ、今日見られる人類の同一性傾斜が自明であると思われるので、その事態に基づいて検討したい。
 同一性傾斜とは、明らかに、暴力が主導的になるということである。他者を排除して、自己同一性=自我を中心化するということである。この同一性傾斜が、今日の物質文明を生んだと言えよう。宗教的には、これまで述べたように、ユダヤ・キリスト教的一神教がこの原動力であると考えられる。もっとも、それに類するものは、父権主義一般であると思われる。
 同一性傾斜は近代合理主義・近代的自我を生んだ。問題は、差異への回帰である。もともと、自然は、一般には、同一性と差異との均衡があると思う。それが、本能と呼ばれるものではないだろうか。動物が、本能から子供を育てるのは、差異(差異共振性)からであろう。人間は、同一性傾斜のために、差異の志向が排除・抑圧されるので、子供に対して、暴力的になるのである。
 今日、一番の問題の一つは、同一性傾斜が資本主義の交換価値=貨幣価値の増加と結びついていることである。それは、差異=他者を排除して、破壊的に邁進するのである。有り体に言えば、同一性傾斜とは、悪である。悪への傾斜である。エゴイズムである。
 結局、精神的には、排除・抑圧されている差異を取り戻すことが、健全な秩序のある自然・社会のために必要である。しかしながら、今日の人間は、一般に、近代合理主義・近代的自我という同一性傾斜に浸透されているので、差異を明確に認識できないのである。
 近代合理主義は、唯物論と結びつき、物質科学・技術となり、資本主義を駆動させる要因の一つである。
 端的に言えば、いかにして、差異を意識に、家庭に、社会に、経済に、自然に、等々、取り戻すことができるのかが、一番の問題である。
 そう、悪人とは、同一性主義の人間であり、差異の欠落しているような人間である。普通人間は、同一性傾斜によって、差異が抑圧されているのであるが、まったく差異を否定しているわけではない。もし、完全に同一性だけとなれば、悪人だけの社会となり、それは、自滅するだろう。
 問題は、同一性中心主義の人間が支配的な位置、即ち、権力的な位置に存することである。権力とは、公的な、社会的な暴力装置である。ホッブズ的に言えば、個々の人間の暴力を、権力の暴力で制御するということである。しかし、これは、自明ながら、根本的な解決にはならない。暴力が中心化して、暴力が支配することになるからである。そして、自滅することになるだろう。
 端的に、どうやって、差異を社会に取り戻すのか。ポスト・モダンは、挫折・頓挫してしまったが、問題は、トランス・モダンとして、トランス同一性・脱同一性の志向として、継続・進展しているのである。
 いわば、差異革命が必要である。国家の差異化、経済の差異化、政治の差異化、教育の差異化、等々である。
 そう、価値観の転換が必要である。これまで、同一性的価値を重視してきたのである。それは、利己主義であり、国家主義であり、量価値主義である。父権主義である。これは、端的に、二項対立であり、差別の体系である。同一性とは差別なのであり、差異こそ、「平等」である。
 不連続的差異論が明らかにしたように、一般に、同一性傾斜のもつ連続性(連続的同一性)のために、純粋差異が認識できないのである。同一性が差異と連続化して、差異自体が反動となるのである(参照:アイロニカルな没入)。
 そう、差異進化、差異大進化、difference evolutionが必要である。私見では、差異がコスモス的に賦活されていて、そのために、大反動が今日起きているのである。活性化した差異を同一性は反動的に排除・抑圧・隠蔽して、結果、同一性は、ますます狂気・邪悪・暴力化するのである。
 このように見ると、哲学・理論的には、問題は明確・明瞭・明快である。実践の問題である。プラクティスの問題である。差異へと覚醒するようにはたらきかけること、そして、同一性主義の邪悪さを認識し、批判すること。同一性主義の実践的解体。同一性主義を乗り越えること、これが、今日の根本的な課題である。
 さて、最後に、自由主義と民主主義について、以上の点をふまえて、再確認したい。
 自由主義とは何か。それは、根本的には、イタリア・ルネサンスの個の発動が原動力であると思う。だから、差異が原点である。しかるに、近代主義化によって、同一性が主導的になり、近代的自我に基づいて、自由が唱えられる。ここには、倒錯があるのである。
 自由は差異を源泉とすることを確認すべきである。だから、自由主義は、差異自由主義と考えなくてはならない。今日は、同一性自由主義になっているのである。また、民主主義であるが、同一性が差別であり、差異が「平等」であると考えられるのであり、民主主義は差異化が必須であるということである。今日の民主主義は、同一性民主主義であり、いわば、形骸化しているのである。

p.s. 同一性傾斜、これは、父権文明の原動力であり、同時に、人類の悪化の原動力である。一体、これは、何を意味するのだろうか。人類の父権主義化とは何を意味するのか。
 思うに、初期人類は、他の動物と大差なく同一性と差異とのバランスにおいて生活を営んできたのではないだろうか。もちろん、同一性の働きで、技術を発達させたではあろうが。しかし、他の動物とは、それほど異ならないだろう。
 しかし、今から、一万年くらい前に父権都市文明が誕生して、人類は好戦的となり、自然破壊的な国家を形成したのである。暴力・破壊主義化である。確かに、結果的には、物質科学・技術は発展したが、精神は悪化した。
 やはり、なにか同一性傾斜を促進させたものがあるように思える。もし、人類の初期から強い同一性傾斜があるならば、すぐに、父権文明を誕生させていただろう。ある時代に、同一性傾斜が顕著になったのである。もし、イデア・コスモス史があるなら、イデア極性の反発に傾斜したときが、同一性傾斜=父権化の開始である。
 そして、私見・直感では、今日・現代、コスモス・イデア極性が、反発から引き合いへと転換しているのである。だから、差異(差異共振)化が起こっているのである。つまり、今日は、脱同一性・脱父権文明の時代であるということである。イデア・コスモスの力学がそのように変化していると思えるのである。新たな母権文明への開始である。


参考:

 ブログを再開します

 4日の夕に帰国して、再び日本のニュースを目にするようになりました。

 そしてあらためて感じたことは、この国の政治家や官僚は、もはや本気で国民の苦悩を救う気がないに違いない、救う能力も気力もないのではないに違いない、という事です。

http://www.amakiblog.com
/archives/2008/06/05/#000909

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