-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン






2008年05月20日(Tue)
-1と+1について:同一性と差異について:共一性+1と同一性主義-1とトランス・モダン
先に、差異極性ないしは差異対極性という考え方から、+1や-1について考察したが、まだ不十分な点が感じられるので、ここで検討したい。
 問題は、Media Pointにおける即非様相のことである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、差異が即非的に、同一性になるのであるが、果たして、そう考えていいのだろうか。先に、差異の他者への志向性について述べたが、先には、他者へ近づくが、他者とは一致しないもので、極限的には、他者と一致するものとしたが、果たして、それでいいのだろうか。
 思うに、他者への志向性とは、やはり、他者と一致するのであり、同時に、他者とは異なるということと取るのだが妥当ではないだろうか。言い換えると、他者と一体であるが、同時に、他者とは異なるということではないか。そうならば、正に、即非様相であり、問題はない。
 では、+1ないしは⇒+1とは何だろうか。先には、同一性と取ったが、どうだろうか。思うに、即非性ないしは差異共鳴性と取るべきではないだろうか。先に、共一性という用語を使用したが、それは、差異と他者との即非的一致を意味するものであるが、それは、ここに当てはまると言えるのではないだろうか。
 ということで、共一性という用語を復活させたい。すると、-1が同一性となるのである。
 -1=同一性【p.s. 以下の検討結果から、-1は同一性主義と見るべきであることがわかった。】について検討する前に、ハイデガーの本来的存在やデリダの差延について触れたい。直近では、それらは、Media Pointを実軸に圧縮したものではないかと述べたが、どうだろうか。考えてみると、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、結局、+1になることではないだろうか。⇒+1は、フッサール現象学を意味するが、ハイデガー存在論やデリダ哲学は、+1を意味するのではないだろうか。⇒がないというのは、超越性がないということである。Media Pointがないということである。つまり、Media Pointを実軸に圧縮するというのは、+1であるということだと考えられる。
 これは、共一性であるが、ここにおいては、思うに、自己と他者との異であったり、同であったり、永遠に揺れ動いているのではないだろうか。正に、差延というのにふさわしい領域ではないだろうか。そう、ここも不思議な領域だろう。即自的であるが、そして、閉鎖的であるが、永遠に揺れ動いているのである。(想起するのは、夢のような様態である。超時空間的である。)
 ならば、Media Pointと+1はどう異なるのかということになろう。これは、当然、決定的に、絶対的に、異なるのである。ほとんど言うまでもないが、Media Pointには、超越性が、虚数が顕現しているのであるが、+1には、もはや、超越性、虚数は顕現していないのである。ただ、現象内の事象に過ぎなくなるのである。ちなみに、これで、ハイデガーの本来的存在には、差異共振性がないと言ったことが説明できるだろう。差異共振性とは、本来の他者との即非共振性のことであり、+1の共一性においては、端的に、同一性内部の即非様相が考えられるのである。他者なき、自己内共振性である。同一性に閉じた、即ち、即自的な、自己二元性ないしは鏡像性である。ここにあるのは、他者のシミュラクルである。擬似差異である。確かに、即非性があるが、同一性内部の即非性であり、本来的な即非性ではない。有体に言えば、一が二になったり、二が一になったりする様相である。即ち、二である一であり、一である二である。正に、鏡面・鏡像の様態であろう。また、デリダの差延も、そのようなものと思われるのである。というのは、同一性に、差異が付属するからである。一が同一性であり、二が差異であり、両者の関係が差延であろう。【p.s.  ここの問題は、より精緻に検討するに値する重要なポイントである。というのは、+1の共一性とは、実は、本来的な超越的差異共鳴性の現象的痕跡と考えられるからである。痕跡は正に、デリダの用語であり、差延との関係が示唆されるのである。私は疑似差異と言ったが、それは単純化過ぎるかもしれない。とまれ、後で再考したい。】
 さて、本題の同一性=-1について検討しよう。これは、直感では、+1の共一性(差延・本来的存在・鏡像)を基盤とした、差異・他者の否定、即ち、排除的否定であると考えられるのである。
 共一性はいわば、ナルシシズムであるが、これに対して、本来の他者・差異が発現するのであり、それに対して、共一性はそれを排除的に否定(以下、排除否定)するのである。なぜなら、本来の他者・差異は、共一性(ナルシシズム)の快感を破壊するからである。同一性主義の基盤は、この共一性にあると思われる。結局、+1が土台となり、自己+iと他者-iを排除否定すると、-1が形成されると考えられる。
 整理すると、共一性は端的に言えば、自己同一性である。それは、自己差異+iと自己他者-iを同時排除否定しているのである。そして、他者・差異が発現すると、共一性=自己同一性は、それを排除否定して、-1を発現するのである。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1ないしは-(+i)*(-i)⇒-1となる。これが、真の同一性主義、自己中心主義、利己主義である。近代においては、近代合理主義・近代的自我である。
 思うに、自己差異の否定と同時に、自己他者の否定が起こる場合は、逆に、+1を保持することになる。これはどういうことななのだろうか。それは、単純に中和ではないだろうか。
 以上のような試論から見ると、構造主義やドゥルーズ哲学はどうなるだろうか。構造主義は、やはり、共一性+1と関係すると思われる。というのは、構造主義の対立とは、共一性の同一性における二項対立を意味すると考えられるからである。そこでは、一即二、二即一である。いわば、二位一体構造をもつ。言い換えると、弁証法構造である。
 では、ドゥルーズ哲学について言うと、それは、差異を連続的に同一性化するものである。だから、それも、共一性+1ではないだろうか。つまり、差異を共一性に還元してしまうのである。
 ならば、構造主義のゼロ記号とは何か。先に、それは、+1+(-1)=0としたが、どうだろうか。ゼロ記号とは、共一性の矛盾を指し示す記号ではないだろうか。つまり、ゼロから共一性が形成される考えるのではないだろうか。それは、無と同じことになるだろう。ならば、キリスト教の無からの創造と同じになるのではないだろうか。もし、そうならば、構造主義やポスト・モダンは、キリスト教の帰結となるだろう。
 とまれ、以上の思考実験から見ると、ポスト・モダンは決して新しい理論ではないことになる。ハイデガー哲学や構造主義の展開である。問題は、それらが、キルケゴールやニーチェの特異性やフッサールの超越性を捉え損なっていることである。思うに、20世紀になって、日本の哲学者等が捉えたように思えるのである。鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造等(Media Pointは、岡倉天心が直感的に捉えていたと言えよう)である。また、ロシアの神秘主義者であるウスペンスキーである。
 とまれ、今言えることは、20世紀初期における哲学・理論の革新が、正確に継承されずに、20世紀後半において哲学・理論領域は混沌とした状態となり、知の混乱があるということである。プラトニック・シナジー理論は、哲学・理論の混乱を乗り越える正統本道の哲学・理論であると考えられるのである。
 グローバリゼーションも、この知の混乱の所産と言えないことはない。特異性の哲学・理論、Media Pointの哲学・理論が早期に発見されていたら、世界は差異共鳴的秩序・調和を志向していただろう。

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