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2008年05月15日(Thu)
-1の同一性と物質について:現象とは何か:差異と同一性の二重現象としての鏡像現象:Ver2
先に「検討問題:同一性=物質化とは何か」
http://ameblo.jp/renshi /entry-10096465458.html で、同一性=物質について試行錯誤したが、まだまだ不十分であるので、ここでさらに試論したい。 端的に言えば、まだ、同一性に関して、クリアな像が形成されていないのである。問題は、光とは何か、でもある。また、否定による-1の意味するものも再考されなくてはならない。 先ず、具体的に考えて、今日はまだ、気温が低めではあるが、ここ数日の異常低温は脱して、五月らしい好天である。風はまだ冷たいが、爽やかな日である。さて、この目にする光とは何なのだろうか。 これまでの考察から見ると、それは、-1である。物質としての光である。しかしながら、これは、本来、+1の超光である。ここで、また、用語の問題が生じる。超光は、イデア光に使用したい。だから、+1は原光としたい。すると、-1が光であり、+1が原光である。 問題は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺⇒右辺のもつ発生力学である。これを無視して、単に+1や-1を考えると、虚軸性(虚数的超越性)が喪失されて、不正確な思考になると考えられる。 +1の光とは、(+i)*(-i)⇒+1において存する光であり、単に、右辺だけで存する光ではないのである。つまり、光、この場合は、原光とは、左辺の結果生起するのであり、左辺を無くす場合は、原光ではなくなると考えられる。この点をどう見るのか、である。 ここで、先にハイデガーの本来的存在について言及したが、それは、+1であり、差異共振性がないと言った。つまり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が欠落した右辺であるということである。その暗さはそれで説明できると考えられるのである。 では、+1が、いわば、暗い原光ならば、-1の光との関係はどうなるのだろうか。問題が錯綜してきている。また、エネルギーとは何なのか、ということも関係する。アインシュタインのエネルギー公式は、先に述べたところでは、+1のエネルギーであり、超越性を欠いているのであるから、PS理論的量子論を基盤とすることで十全なものとなるということであった。いわば、それによって、超越エネルギー公式になるのである。即ち、 Trans-Energy(超越エネルギー)=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2 である。つまり、この右辺が+1である。だから、単純に見れば、-1とは、-mc^2である。そして、これが物質エネルギーとなる。もしそうならば、どう考えたらいいのだろうか。 単純に見れば、両者は正に鏡像である。現象の鏡像性、二重性である。おそらく、これを現象の一般的様相として確認していいのではないだろうか。つまり、現象の普遍的様相と見るのである。簡単に言えば、差異と同一性の鏡像・二重性の様相としての現象である。(この視点は、具体的な心的様相を提示していると考えられるので、とても明快・明瞭である。) ここでは、同一性と差異が、いわば、綱引きをしているのである。(これを極性と見ていいのだろうか。)私見では、ルネサンスとは、差異が賦活されて、同一性への展開が生まれたのであり、(参照:遠近法の発達)、この綱引きがダイナミックになったのである。即ち、差異においては、Media Point と関係して、イデア界と結び、同一性においては、物質的現象が進展したのである(前者はネオプラトニズムとなり、後者は商業の発達を見ることができるだろう)。 この綱引きは連続性と言っていいだろう。同一性と差異が連続化されているのである。ここで、数理で言うと、これまでは、-1と+1とのゼロ度における連続性と考えたが、それでは不正確である。何故なら、Media Point を介して、超越性が参入しているからである。だから、差異とは、(+i)*(-i)⇒+1を、同一性は、その否定で、-[(+i)*(-i)]⇒-1とするのが的確である。簡略して、差異は⇒+1、同一性は⇒-1と表記したい。言い換えると、差異も同一性も、Media Point を介しているということである。これが、最高度に重要なポイントである。 以上の視点から、本テーマの一つである光の問題に返ると、Media Point から発出する光とは、結局、一つの光であり、それが、現象においては、鏡像=二重化されると考えられるということである。 つまり、⇒+1の光を同時に、肉眼では、⇒-1の影として見るということである。光でありながら、影なのである。【これは、正に、プラトンの洞窟の比喩である。】言い換えると、光と影の鏡像・二重様相を、現象において見るということになる。 文化史的に言うと、西洋においては、ルネサンスまでは、光が虚軸性=イデア界に通じていることを直覚していたと思われる。もっとも、それは、キリスト教によって覆われていたのであるが。しかるに、近代合理主義化が誕生すると、光が影=同一性によって規定されることになったと考えられるのである。本来、⇒ +1であった光が、⇒-1の影の同一性によって、計測されるようになったのである。中世では、光に対しては信仰を、影に対しては理性を当てていたのであり(トマス・アクィナス)、知性とは本来、前者の直観を指していたのであるが、近代化にともない、影=同一性の主導下で、光の超越性が喪失されて、同一性の理性と、知性とが混同されるようになったと言えよう。そして、喪失された光は、抑圧されて、無意識になったと考えられるのである。この無意識の光=差異が、近代のもう一つの原動力であり、同一性の支配下ではあるが、民主主義や自由主義等を生み出したのである。 さて、迂回したが、ここで、本稿の中心的主題の同一性と物質の問題に戻ると、同一性と物質の数理が-1であり、それは、自然の表面を捉えたものと考えられる。しかし、同一性と物質を等価にしていいのだろうか、という疑問が浮かぶ。端的に言えば、自然一般において、人間の認識におけるように、差異に対する否定性が存するのだろうか、ということになる。マイナスが存するのか、である。ここで、超越エネルギー公式を変形して考えよう。 Trans-Energy= (+i√m)*(-i√m)*(+ic)*(-ic)⇒mc^2 が存するとしよう。+i√mと-i√mは、いわば、原物質ないしは超越物質ではないだろうか。否、超質量、超越質量と言えよう。Media Point でこの超越質量が対峙し共振(対振と造語できよう)して、それが質量へと変換する。思うに、この超越エネルギー公式であるが、これは、実は、光であると同時に、鏡像も意味するのではないのか、ということである。端的に言えば、(+i)*(-i)⇒+1⇒-1ということではないのか、である。+1⇒-1の力学は何だろうか。これは難問である。 物質的に言えば、物質を否定する力があるということではないのか。否、問題提起の仕方がおかしい。物資ではなく、現象の問題である。現象において、どうして物質が発生するのか、と問うべきであろう。つまり、Media Point において、エネルギー現象が発現するが、同時に、物質現象が生起すると考えられるが、後者の力学は何か、ということになろう。 これまでの考え方に拠れば、物質化とは、エネルギー現象における内的否定によって発生すると考えられる。換言すれば、差異共振性の否定である。この力学の発生はどう説明できるのか。人間の認識に関しては、これまで、身体の先天的脆弱性や精神の過剰性等で説明できたが、一般には、どう説明できるのか。 ここで、作業仮説であるが、人間の場合は、-iが脆弱であるために、それを否定して、(+i)*-(-i)⇒-1になると言った。しかしながら、鉱物のような物質の場合は、逆に、+iが脆弱ないしは希薄であるために、-(+i)*(-i)⇒-1になるのではないだろうか。そして、この-1が物質的同一性ではないだろうか。人間の場合は、自己同一性ないしは自我性である。 とまれ、この作業仮説に則れば、同一性とは、-1であり、自我形式ないしは物質形式であると言えよう。だから、同一性=物質と考えたのは、間違いではないし、また、同一性=自我と考えるのも間違っていないことになる。極性は逆であるが、自我と物質は同一性において等価ということになる。 ということで、以上の検討を整理すれば、現象とは、エネルギー現象=差異現象と物質/自我現象=同一性現象があるということになる。言い換えると、現象とは二重現象であり、人間では、鏡像現象であり、物質では、いわば、逆鏡像現象ではないだろうか。 この逆鏡像という言葉は説明がいる。鏡像の場合は、+iの視点から形成されたが、逆鏡像の場合は、-iの視点から形成されると考えられる。だから、言い換えると、鏡像とは自己鏡像であり、逆鏡像とは他者鏡像となるだろう。この方が明快であろう。とまれ、現象とは、人間においては、自己鏡像現象となり、人間以外においては、他者鏡像現象となるのではないだろうか。とまれ、同一性と差異との二重現象という点では、同一である。 p.s. 言い換えると、-1は現象の仮面ないしは仮象、+1はカントのいう物自体ではないだろうか。つまり、同一性(物質/自我)の仮象をもち、差異の物自体(本体)をもつということになる。 ただし、仮象も本体も、Media Pointを介して、超越エネルギーと関係しているのである。カントの実践理性は、Media Pointや超越エネルギーに関係すると考えられる。プラトンの善のイデアである。 eliot-akira氏がいみじくも述べたように、反射と屈折がここにあると言えよう。しかし、それは、+1と-1の間というよりは、+iと-iの間で生起すると考えられる。 言い換えると、Media Pointで対振(ついしん:共振のこと)し、光が発生するが、それが、内的否定を起こして、即ち、反射と屈折を起こして、仮象=同一性(物質・自我)を仮現するのである。 現象とは、やはり、ヒンドゥー神話やインド哲学のように、マーヤーと見るのは、それなりに、的確であると考えられる。極言すれば、幻想である。少なくとも、仮象である。しかし、二段階になっているから把捉しにくいのである。しかし、プラトンは洞窟の比喩でこれを適切に述べている。洞窟の外部の太陽=善のイデアが、虚数であり、洞窟の穴がMedia Pointであり、洞窟内部の光源や物体が+1であり、そして、洞窟のスクリーンの画像が-1となるだろう。 空間で言うと、-1は三次元空間であり、+1は光源(エネルギー)が入ることで四次元時空間で、Media Pointにおけるイデア界で五次元時空間となるだろう。 物理学で言うと、-1が古典物理学であり、+1が相対性理論であり、(+i)*(-i)⇒が量子論であろう。 哲学で言うと、-1が唯物論や近代合理主義、+1がハイデガー存在論、ポスト・モダン、⇒がフッサール現象学、(+i)*(-i)⇒がプラトン哲学、 PS理論となるだろう。Media Pointは、キルケゴール、ニーチェ、不連続的差異論ではないだろうか。構造主義は、+1+(-1)=±0ではないだろうか。 |
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