同一性志向性と同一性中心主義:苦悲の差異とルサンチマンと能動的差異肯定 |
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2008年04月15日(Tue)
同一性志向性と同一性中心主義:苦悲の差異とルサンチマンと能動的差異肯定
今日は簡単に触れる(p.s. 簡単ではなくなった)が、これまで述べてきたことを繰り返すことになるかもしれないが、まだもやもやしていること、不明確に感じていることを述べてみよう。
端的に、自己陶酔の力学とは何か。ここに諸悪の根源があると思える。何故なら、ここには、知、自己知、知恵が欠落しているからである。何故ならば、知、自己知、知恵とは、差異に基づくものであるのに、自己陶酔は、その差異を、同一性像によって暗ますからである。 思うに、イデアは差異共振性であるから、自己と他者が共存しているが、Media Pointにおいて、同一性鏡像が生まれるのではないだろうか。そう仮定して考察を続けよう。 Media Pointは、これまで述べたように、即非様相であり、簡単に言えば、AはBではなく、且つ、Bであるという論理である。いわば、矛盾論理である(参照:西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一)。図式化すれば、 差異1=同一性=差異2 ということになる。【又は、(+i)=+1=(-i)ということになるのかもしれない。】この同一性が、Media Pointにおいて生じるのであり、これが、端的に、同一性鏡像であると思えるのである。イデアにおいてはなかった同一性がMedia Pointにおいて生じると考えられる。これは、先に述べたように、仮象・仮現性と見た方がいいように思う。つまり、像である。概念というよりは、像である。ヴィジョンやイメージである(参照:ideoとvideoの同根性)。思うに、プラトンの有名な洞窟の比喩であるが、洞窟の壁のスクリーンの影像が、この同一性仮象に相当するだろう。 ここで、より精緻に考察しよう。洞窟の中には、影像化される物がある、この物の投影像が、スクリーンの影像である。この物と投影像との関係を見なくてはならない。 つまり、Media Pointにおける同一性とは、この物なのか、投影像なのか、ということである。これは、実に興味深い、核心的問題である。 思うに、その同一性は、物ではないだろうか。そして、投影像が同一性鏡像ではないだろうか。あるいは、考えを変えて、物が同一性鏡像であり、投影像は、仮象・現象であるという考えもできる。直感では、物が同一性鏡像であり、投影像が仮象である。つまり、後者である。 つまり、Media Pointの同一性、上記した同一性は、同一性鏡像であると思う。そこに差異が自己陶酔するのであり、その同一性鏡像を原像として、外界の他者に同一性投影を行い、現象界を、いわば、発現させていくように考えられるのである。即ち、Media Pointにおける同一性鏡像が同一性原像であり、そこから、外界に同一性投影が行なわれて、同一性仮象界である現象界を発現させる、ないしは、形成するということと考えられる。 では、ここで、本テーマの同一性志向性と同一性中心主義をどう考えるべきであろうか。以上に述べた同一性鏡像=同一性原像からの同一性投影とは、同一性志向性と考えていいだろう。では、それと同一性中心主義(自我主義)との関係はどうなのだろうか。 同一性投影=同一性志向性は、いわば、毒のない同一性ではないだろうか。単なる自己陶酔である。しかしながら、同一性中心主義になると毒があるのである。ルサンチマンがあるのである。この相違をどう考えたらいいだろうか。 思うに、同一性投影において、同一性化できない対象・他者が出現したとき、自我はルサンチマンを覚えて、その対象・他者に同一性を押しつけると考えられる。つまり、差異=他者が出現したときである。 このとき、同一性投影=同一性志向性は、同一性中心主義に変質するのではないだろうか。つまり、同一性投影によって同一性化できない差異=他者に対して反感を覚えて、同一性中心主義となり、攻撃・暴力的になるのではないだろうか。 この同一性化できないという事態はどういうことなのだろうか。直感で言えば、同一性鏡像=同一性原像を破壊してしまう差異=他者の出現する事態を意味するのではないだろうか。同一性投影=同一性志向性は、自己陶酔性をもっているだろう。これが、差異=他者によって解体されるのではないだろうか。 では、この差異=他者の出現とは何だろうか。いったいどのようにして、差異=他者が出現するのか。同一性鏡像=同一性原像が破壊するとはどういうことなのか。 少し角度を変えよう。自己の差異=他者性を抑圧している自己同一性=自我、すなわち、同一性主義=自我主義が確かに存するが、それは、どうやって発生するのか。 同一性鏡像=同一性原像は、自己の差異=他者性を抑圧しているのだろうか。抑圧というよりは、隠蔽、自然隠蔽だと考えられる。ここには、まだ、抑圧はない。思うに、差異と同一性が未分化な状態かもしれない。 端的に言えば、同一性鏡像とは、Media Pointにおいて自然形成される同一性像であり、差異から生まれるのであるから、抑圧はないと考えられる。それは、自然隠蔽である。自然(じねん)としての同一性である。 ここで、一神教形成について述べたことを想起するといいのではないだろうか。苦や悲の発現である。苦や悲においては、同一性の自己陶酔は崩壊するだろう。そして、苦と悲を感じる領域であるが、それは、何か。それは、差異、Media Pointにおいてではないだろうか。差異的身体においてである。ここに影が生まれるのである。 同一性鏡像=同一性原像に基づく自我は、苦や悲による差異に対して、正当的に対処できないのである。同一性は差異を取りこめないのである。すると、ここで、抑圧が始まると言えよう。苦や悲である差異を抑圧して、同一性鏡像=同一性原像に基づく自己同一性=自我は、同一性主義=自我主義に変質すると思われるのである。 これは、先に言及したことであるが、ここではより精緻に検討したので、これで、同一性主義の発生を説明できたことになる。苦や悲という差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する行為が同一性主義=自我主義を生むのである。 では、差異を肯定する立場はどうだろうか。苦や悲の差異を感受し、それを耐える立場はどういうことなのだろうか。苦や悲の差異によって、同一性鏡像=同一性原像が破壊された心的事態を受けとめるのである。苦や悲を受けとめるのである。(参照:ニーチェの『悲劇の誕生』)これは、一種、闇である。しかしながら、ここから、真の光明が生まれるのである。 苦・悲とは、差異共振性における否定態である。しかしながら、差異共振性であることには変わりがない。ここの否定態を肯定態に変ずることで、大転換が生じると言えよう。これは、スピノザの能動的観念の意味することだと思われる。否定的差異を肯定的差異へと変換するのである。 苦や悲に対して、誠実であることがこの契機である。心や魂の再生のきっかけである。(ここで、神仏にすがったままになると、やはり、逃避となるだろう。苦や悲と直截に向かい合わないといけないのである。)そして、苦や悲を能動的に肯定的に、知的に捉え直すことで、大転換が起るのである。(スピノザ哲学は、実質的なイデア哲学のように思える。)とまれ、ここから、差異共振性が見いだされ、自己的自我が生まれうるのである。それは、普遍的人理であると思う。 それは多くの人に確認できることであるが、問題は、差異共振性が発見されるとはどういうことなのか、ということである。これは、難しくはないだろう。つまり、源泉・根源に回帰するということだろう。源泉・根源・原点の差異共振性というエネルギーに回帰・再帰することである。 また、問題は、この差異共振性のエネルギーが受動性において、捉えられるというはどういうことなのだろうか。言い換えると、差異共振エネルギーを受容するのであるが、それは、どういうことなのか。決して、攻撃的には、取得できないのである。 思うに、差異共振性(魂・精神)とは、イデア界の根源的な差異共振エネルギーによって生起していると考えるべきだと思われる。というか、イデア界のもつデュナミス(潜在エネルギー)が、Media Pointにおいて、能動的エネルギー(エネルゲイア)になるのであり、この発現する能動エネルギー=差異共振エネルギーを、当然、受容することになるということではないのか。【魂・精神と差異共振性が混乱しているようなので、整理したい。思うに、魂・精神とは、Media Pointにおいて、形成されるのであり、一種、同一性の仮象ではないだろうか。その根源は、イデアであり、個体性はないように思えるのである。だから、輪廻転生もないのではないだろうか。これは後で検討したい。】 思うに、同一性の規定を解体したとき、差異の能動的に肯定したとき、感情が共振化すると思われるのである。結局、差異自体が受動性と能動性をもっているのである。そして、苦・悲の受動において、根源的に、苦悩するのである。ここにおいては、苦・悲を能動的観念によって、肯定するしか乗り越える方法はないだろう。そして、そのとき、苦・悲の受容が、差異共振性の受容へと変化するということではないだろうか。今はここで留めたい。
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