キルケゴール/デリダの説く神とは何か:絶対的差異の並立と絶対的差異の共振 |
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2008年03月04日(Tue)
キルケゴール/デリダの説く神とは何か:絶対的差異の並立と絶対的差異の共振
キルケゴール/デリダの説く神とは何か:絶対的差異の並立と絶対的差異の共振
デリダの『死を与える』において、絶対的他者(超越神)と特異性(アブラハム)との関係であるキルケゴールの信仰について説明されているが、絶対的他者としての超越神を、プラトニック・シナジー理論ではどう説明できるか。 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で一神教力学を説明して、左辺が右辺へと転換し、左辺が超越神の位置になると言った。この場合、左辺は抑圧的否定によって、差異共振性を喪失して、いわば、超越的同一性(超越神)になっていると考えられる。抑圧的否定が左辺と右辺の間に、絶対的な溝を形成して、左辺が超越性をもつと考えられる。 左辺の差異共振性が開放系の場合は、それは超越性ではあっても、絶対的な溝を形成していない。それは、内在・即非・超越性である。 問題は、超越神の場合の他者と、差異共振性の場合の他者との違いである。ほとんど自明ながら、前者は個体との差異共振性がなく、後者の場合はあるということなる。だから、キルケゴール/デリダの他者は、確かに、まったき他者のままであり、ここには、コミュニケーションはない。対話もないだろう。 差異共振性の他者の場合は、共振するので、コミュニケーション・対話が可能となるのである。創造的である。即ち、プラトニック・シナジー理論の場合も、他者はまったき他者-iであるが、それが、個体+iと共振するということなのである。 結局、キルケゴール/デリダの他者理論とは、+iと-iの並立を説いていると見ることができるのではないだろうか。絶対的差異と絶対的差異との並立関係であり、そこには、連携の可能性が切断されたままであると考えられる。 参考1: 赦し、ほとんど狂気のように デリダの宗教哲学への一寄与 川口 茂雄 http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/ dialog/act13_kawaguchi.html 参考2: * 「隠れたところでわたしを見る神」の死 ニーチェ対デリダ番外 2008/02/29 * 隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2 2008/02/28 * 距離のパトス ニーチェ対デリダ1 「世界という大きな書物」 中路正恒ブログ **************** 播磨坂下り半ばから小石川植物園の森に囲まれる白い建物を眺めて考える テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係 興趣を感じたので、緩い下り坂の途中で立ち止まって、小石川植物園を背景に見える白い建物を眺めて考えた。 枯れた灰色の木々や常緑樹の緑に包まれて、二階建てのような白い建物が印象的に見える。じっとその風景の一幅の絵のように眺めていた。手前には、ゆるく右カーブを描いて下る灰黒色の桜並木がある。右は道路で、車が来ては信号で止まる。 絵に描きたくなるような景色である。絵心という言葉が浮かぶ。子供の頃は絵が好きであったが、久しく絵を描きたいと思うことはなかった。定年退職したら、絵を描いたり、木彫をしたり、陶器を造ったりしたくなるのかもしれない。 とまれ、白い建物に見入る私は、そのときは、ある意味で一(いつ)である。しかし、すぐに、別になる。いわば、白い建物と私は即非様態にある。それは、差異共振性として説明できる。 私はなぜ、森木立に囲まれた白いコンクリートの建物がどうして心地よく感じるのか疑問に思った。囲まれてあることは、安心感がある。これは一体何なのか。山並みが見えるところにも似た情緒がある。 それは、差異共振的触覚、心的触覚があるからではないだろうかと考えた。それは、Media Point の共振感覚と言っていいだろう。差異共振的触覚が複合化したものがその感触なのではないだろうか。ならば、複合ないしは多重差異共振的触覚である。 とまれ、私が言いたいことは、二次元の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を、対象と観察者とすると、両者が共振して、右辺の一(いつ)が生じる。しかし、共振自体はMedia Point であろう。思うに、奥行きとは、+1なのではないだろうか。そうならば、視覚の基盤と考えられる二次元・平面はどう説明できるだろうか。 作業仮説というか思考実験であるが、虚軸とガウス平面に直交するZ軸(時間軸)が形成する二次元・平面が視覚平面ではないだろうか。当然、実軸が奥行きである。 さらに展開すると、メルロ=ポンティの、いわば、身体現象学であるが、そこでは、見るものと見られるものとの両義性が説かれているが、それは、プラスの実軸とマイナスのそれとの関係で説明できないだろうか。即ち、見る身体は前者であり、見られる身体は後者ではないだろうか。そして、Media Point ないしはゼロ点が両義性を形成しているのではないだろうか。 簡単であるが、今はここで留める。
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