新自然主義文明:氣の文明へ

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2013年08月03日(Sat)▲ページの先頭へ
現代アナキズムの問題:国家主義から新共同体主義へ:国家から個的共同体への「相転移」
現代アナキズムの問題:国家主義から新共同体主義へ:国家から個的共同体への「相転移」

テーマ:新共同体(協同組合)経済:減価共同体通貨

以下、飯山氏の檄の意味しているところは、今日のアナキズムの必然性である。
 私は10年くらい前にアナキズムに興味をもったが、地域通貨失敗の後、考えなくなった。
 しかし、今日、ヤハウェ父権自我グローバル戦争資本主義によって、国家が支配されていることを考えると、国家には頼れないことは明白である。
 国家がリバイアサンならば、それを操作する超リバイアサンがいるのである。
 とまれ、個の独立(知的、経済的、精神的独立)が必要になった時代である。
 そのためには、個同士の共同体が必要になってくるのである。私は個的共同体と呼んできたが。これは、私の最新の理論(仮説)からは、個的母権共同体になるのである。
 思えば、マルクスがコミュニズムを描き、プルードンがアナキズムの協同主義を描いたが、どうも、ポスト国家のあり方を模索する時代になった。正に、アナキズムの時代である。
 アナキズムというと無政府主義、バクーニンの暴力主義が浮かぶが、実は様々である。
 マルクスは実はプルードンのアイデアを相当盗んでいるようである。
 とまれ、問題は、ポスト国家である。個的共同社会の構築である。
 どうやら、時代は19世紀末から20世紀初期に近づいてきたようである。
 とまれ、飯山一郎氏のサバイバル・スタイルはアナキズムであることは確認できるのである。
 そう、ある意味で、マルクス/エンゲルスの共産主義は、方向性は間違っていなかったと言えよう。しかし、集産主義的側面が間違っていたと言えよう。個をベースにする必要があるのである。アナキズム的共同主義である。
 ただし、国家は打倒すべきというよりは、活用すべきである。とまれ、国家主義から個主義への転換である。

アナキズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%82%BA%E3%83%A0

ja.wikipedia.org/wiki/アナキズム - キャッシュ - 類似ページ
たとえば歴史上のアナキズムの古典とされるプルードン、バクーニン、クロポトキンの三
人においてさえ、思想はまったく異質である。資本主義のシステムを批判したプルードン
のアナキズム(プルードン主義、"無政府連合主義")はフランス流の合理的思考の影響
を ...

リバタリアニズム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

ja.wikipedia.org/wiki/リバタリアニズム - キャッシュ - 類似ページ
ロシア・リバータリアン運動 · 保守党 (デンマーク) · 関連の政党の一覧(英語版). 関連
項目. 市民的リバタリアニズム(英語版) 市民的社会主義(英語版) 立憲主義 · 連合
主義(英語版) リバタリアン保守主義(英語版) リバタリアンの民主党員(英語版)
リバタリアン ...

リヴァイアサン (ホッブズ) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%B3_%28%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%96%E3%82%BA%29

ja.wikipedia.org/wiki/リヴァイアサン_(ホッブズ) - キャッシュ - 類似ページ
リヴァイアサン』(Leviathan)は、トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行
された。題名は旧約聖書(ヨブ記)に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた
。正式な題名は"Leviathan or the matter, forme and power of a common-wealth ...

ピエール・ジョゼフ・プルードン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3

ja.wikipedia.org/wiki/ピエール・ジョゼフ・プルードン - キャッシュ - 類似ページ
ピエール・ジョセフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日−1865年1
月19日)は、フランスの社会主義者、無政府主義者。無政府主義の父と言われる。 目次
. 1 生涯; 2 政治思想; 3 関連; 4 参考文献. 生涯[編集]. ブザンソンにあるムイエールと ...

◆2013/08/02(金)  ダマす選挙、ダマす商品、ダマす人
http://grnba.com/iiyama/index.html#st08021

◆ 2013/08/02(金)  ダマす選挙、ダマす商品、ダマす人間
いま、『放知技』の三宅洋平の選挙を語るスレ が熱い…
放知技
三宅洋平の選挙は、ボランティアが自発的に始めた選挙ではなく…、仕組まれた選挙だった!
三宅洋平の選挙は、ボランティアが自発的に始めた選挙ではなくて、仕組まれた選挙だった! つまり、悪質なヤラセ選挙。

しかも!無垢で無知な有権者から善意のカンパや寄付を巧妙・狡猾に集めるビジネス選挙だった!
な〜んてことがバラされてます。このサイトの掲示板『放知技 』で。

いまの日本の選挙のヤリ方では、日本は絶対に良くならんし、逆に悪くなるばかり!これが日本の選挙なの蛇夜。

「国会は 民意の墓場だ 墓石だ 」。この国を良くしよう!という切実な願いなど、ぜ〜んぶ死に票になっちゃうの夜!

だっから、みんな! 表面の言葉の美しさ にホレて、くだらない選挙にカネだしたり、くだらん商品を買っちゃダメだ象!

放射能にEー!とか、健康にEー!とか、美しい言葉で宣伝する商品にも絶対にカネを出しちゃダメだ。

タダで、カネなど使わずに乳酸菌を自宅で培養できる時代に、乳酸菌食品やサプリなどの高額商品を買うのはヤメロ! 鼠〜こと。

いま、時代は、ダマシの時代に入った!
シトを疑うことを知らない善意あふれる素人を、ダマシ屋の詐欺集団、マルチ、カルトの悪玉たちが狙って、ダマシまくっている。

すべての商品やサービスを、その場で発作的に買っては駄目だ。
買う前に、三日考えろ! 石橋は、叩いて、渡るな!

巧妙に近づいてくる見ず知らずの他人は、詐欺師か泥棒と思え!
「癌の疑いがあります」な〜んて言う医者も、詐欺師の一味だ。
そーゆー恐ろしい世の中になってしまっているんだ夜。この日本は。
分かったな? 慎重に生きていって猪〜大寝!>皆の衆
飯山一郎のLittleHP


2011年08月02日(Tue)▲ページの先頭へ
最近の小さな論考集成:マニ教的新文明へ
最近の小さな論考集成:マニ教的新文明へ

テーマ:manichaeism
カオスの二乗、無限乗とは、media resonance:MP共振と言えよう

テーマ:PS 理論:プラトニック・シナジー理論

resurrection

neomanichaeist resurrection


PS理論はi*(-i)⇒+1が根本原理、左辺がカオスの種子で⇒がカオス。その内在的カオスが外在的カオスと共振するのがカオスの二乗、無限乗だろう@Novalis_bot 未来の世界は理性的なカオスである。自己自身を貫き―自己の内と自己の外にあるカオス。カオスの二乗、あるいは無限乗



Novalis

Novalis_bot Novalis


未来の世界においては、いっさいがかつての世界のごとくである―それでいて、すべてはまったくちがっている。未来の世界は理性的なカオスである。自己自身を貫き―自己の内と自己の外にあるカオス。カオスの二乗、あるいは無限乗。 『一般草稿』



法とは差異と同一性の二重構造であるが、今日、同一性中心主義で差異が排除されている

テーマ:manichaeism

以下の記事に対して、簡単にコメントしたい。
 法とは本来、差異に対する公平さを制定するものであるが、結果は当然、同一性としての法である。だから、法とは二重構造をもつのである。差異と同一性の並立・共立である。しかるに、今日、法は同一性のみで把握されていて、差異を無視している。これは、法の堕落以外の何ものでもない。法律家よ、御用学者、権力の走狗に甘んじていいのか?!

追記:正確に言えば、法とは差異が主であり、同一性は従である。これは正に、万物の力学そのものである。法=科学=哲学。

追記2:法とは「差異と同一性の並立・共立」と上述したが、そうではなく、差異と同一性との一種の対立ではないのか。あるいは、両者の極性ではないのか。正に、陰陽極性では? 後で十分検討したい。

gama

gamagamagaman gama


tokaiamaがリツイート


国会、ふくいちで働いていた父を亡くし、浪江町のアパートの家賃収入で子供二人を育てていた母親が、避難先から家賃収入がゼロになり、損害賠償を東電に求めたところ、今住んでいるところが、圏外居住であることから賠償を認めないとの返事。公明党浜田議員による質疑。氷山の一角と思われます。



万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」という名で

テーマ:manichaeism

以下、空海の説く「智」、「心」、「法」とは、PS理論のmedia pointのモードと一致するのではないだろうか。
 決断である「智」とは、不連続であるmedia pointの最初の認識ではないだろうか。また、「心」は当然、media pointの最初期モードである。そして、「法」はmedia pointの「知」そのものではないか。
 とにかく、空海の仏教哲学は根本的、本質的にはPS理論に通じると直観される。

『・・・ 万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」(ジュニャーナ)という名でこれをよぶ。諸現象の生起する原因の集まり、という意味をあらわすときには、「心」(チッタ)という名でよぶ。真理が軌範となって人の心に理解を生じさせる意味をあらわすときは「法門」(ダルマ)という名でよぶ。
 「智」と「心」と「法」という名は、いずれも「人」を離れてあるものではない。このような「人」は、数がはななだ多く、国土を砕いて塵にした数量より以上にもおよぶのである。だから、すべての人びとがそなえている智慧、という意味で、「一切智智」と名づけるのである。』
「八 心数心王過刹塵 各具五智無際智」:弘法大師:空海全集第二巻「即身成仏義」:筑摩書房 p. 251


参考:〈薩般若(さはんにゃ)〉とは、梵語である。・・・。漢訳では、「一切智智」という。「一切智智」の「智」とは、「決断し」「えらびとる」という意味である。同上 pp. 25~26
弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2 [-]

空海 (著), 弘法大師空海全集編輯委員会 (編集)
内容(「BOOK」データベースより)

真言密教の神髄を開示する諸論集!精神の発達を十段階に分けて説く『秘蔵宝鑰』、顕教と密教の違いを明示する『弁顕密二教論』、身体論・言語論・記号論を展開して現代思想に大きな示唆を与える『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』など、真言密教の神髄を端的に開示する諸論。

5つ星のうち 5.0 甚深の書, 2004/9/16

By

輿聖龍 - レビューをすべて見る

レビュー対象商品: 弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2

秘蔵宝鑰は普通、十住心論(本全集の巻1)のダイジェスト版と言われているが、読んでみると、必ずしもそうではなさそうである。余談だが、多くの仏者は頭を剃っても欲は剃っていない、とか、誦すだけなら鸚鵡(当時は極希少であったろう)でもできるとかが書いてあって、親しみがもてる。弘法大師はユーモアのセンスもまた豊であったようだ。

本巻なかで、極めつきは吽(ウン)字義である。千経万論の全仏教は大日経の三句に要約できる。この三句をさらに束ねると吽の一字となる、ということからして、王冠の中のそのまた、一番大粒のダイヤモンドである。言葉による概念の圧縮、象徴化(真言)である。視覚によるイメージ操作とは類似だが別個の回路を形成すると思われる。これは、祈りの集中力を強化して、その効率を飛躍的に高めるための、すぐれた技法でもあろう。真言を原始的、幼稚なまじないくらいに思っているあなたに薦めたい。

尚、十巻章とは、菩提心論一巻、弁顕密二教論二巻、秘蔵宝鑰三巻、即身成仏義一巻、声字義一巻、吽字義一巻、般若心経秘鍵一巻、これである。このうち、菩提心論(本全集第八巻に収録)以外はすべて本巻に収められてある。梅原猛著、講談社学術文庫の「空海の思想について」も解説書として参考になる。


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自己双極子が「霊魂」だろう:凸i*凹i、又はi*(-i)が「霊魂」となろう

テーマ:自己認識方程式:凸i
*凹i⇒
凸(+1)

PS理論的には凸i*凹i⇒凸、又は、i*(-i)⇒+1において、左辺が⇒から分離する事象だろう。即ち、独立した左辺が霊魂である。

ルドルフ・シュタイナー

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー


アストラル体:繰り返して没意識状態から意識を目覚めさせる、人間の第三の本性。アストラル体の働きは、人間が眠りに落ちた時に消えてしまうように見えるが、超感覚的に観察すれば、その場合も存在し続ける。ただその場合のアストラル体は、エーテル体から離れて、または抜け出て存在している。



蝉の哲学:これは物質から精神への飛翔を意味しよう

テーマ:森羅万象

resurrection

neomanichaeist resurrection

@

目覚ましい哲学的問いである。蝉は地 earthの要素を強くもつのであり、そこから、風air、空気の要素へと変換するのである。これは物質から精神への飛翔を意味しよう。 @2I000mg 何で土中に6年も居る必要が?とは人間の考えであって、大宇宙から見ると大きな意味があるのだろう。



父権的2項対立と近代日本:新マニ教的精神形成の時代

テーマ:manichaeism

父権的二項対立が近代日本を支配している心的メカニズムである。例えば、日本VSアジア。しかし、脱亜入欧路線は西洋VS自国やアジアである。結局、西洋>日本>アジア(日本を除く)の力学がある。原発路線もこの図式である。日本における父権的二項対立は国学が作ったと思う。国学は実はキリスト教の影響で一神教的なのである。八百万の神々の日本。




2010年12月05日(Sun)▲ページの先頭へ
人類史における一神教の画期性:母権主義の切断:超越的父権原理と超越的母権原理:PS理論的統合へ
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教

先に、アジアの母権主義と唯物論について述べた。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727337837.html
 即ち、母権である凹iが自我凸iと癒着すること、連続化することが問題であった。
 そこでふと気づいたのは、一神教的変革とは、母権主義的癒着・連続化を切断した、人類史における画期的なものであったということである。
 なぜならば、超越神である唯一神とは、現象界、感覚界、物質界から切断された神であるからである。凹iは感覚、感性、感情、身体、欲望的なものである。それに対して、超越神とは徹底的に否定的態度をとったのである。偶像破壊が象徴的である。可視的なものへの信仰、執着を否定したのである。(その点では、仏陀に似てないことはないだろう。)
 つまり、PS理論から見ると、凹iを否定して、凸i中心主義をもたらしたのである。言い換えると、凹iと凸iを切断したのである。そして、超越性とは-1であるから、人間認識図で言えば、第二象限の理知の世界を創造・構築したと考えられる。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation

感覚、感情、感性、欲望等を排除した、超越神の世界、それは、超越的倫理・道徳の世界、超越的理性の世界と言えよう。(ここから、デカルト哲学やカント哲学は見えやすい。)
 とまれ、西洋の理性はこの超越神の論理から生まれたと見るべきである。(プラトン哲学もこの側面があるが、プラトンはイデアやイデア界を説いたのであり、超越的哲学を説いたのである。追記:正確に言えば、プラトン哲学は、第二象限の哲学ではなく、母権的ベース、つまり、秘儀文化を基礎としているので、第三象限の哲学である。秘教的哲学なのである。もっと精緻に言えば、第二象限と第三象限の両面をもつ哲学であろう。)
 そして、正に、この第二象限的要素がアジアに欠落していると言えよう。つまり、西洋の理性には、現象界から超越した側面があるということで、ここでは、凹iの要素を排除しているのである。故に、そこでは、アジア母権的な癒着、連続性はないのである。
 とまれ、それは西洋文明の知恵である。
 それに対して、アジア母権主義は、別の超越の方法があるのであり、それが、凹i⇒-1の道、第三象限の知恵である。
 西洋は凸iが主導的なのであり、アジアは凹iが主導的なのであるから、後者は凹iを活かした知恵を目指すべきでなのである。仏陀の知恵はそういうものであったし、神道の知恵もそうである。
 思うに、先に、古代ギリシアと古代日本との酷似性について述べたが、そのとき、根底の母権主義と侵入した父権主義との衝突、共立・共振を述べた。それは、新しい共立的民族・文化を意味すると考えられる。
 その後、ギリシア、日本において問題なのは、基底の母権主義の超越性(第三象限)が希薄となり、物質文化に囚われるようになったことではないだろうか。つまり、精神文化の衰退が生じたと考えられる。
 それに対して、ユダヤ教は母権主義を切断し、また、キリスト教は切断した上での母権主義の導入を説いたと考えられる。
 ユダヤ教の切断は実に画期的である。これは、母権主義、東洋主義、多神教を否定したのである。超越的理性の道を開いたと言えよう。
 そして、これとキリスト教によって、西洋文明が誕生したと言えよう。
 現代の問題は、西洋文明の帰結である資本主義の破壊性である。これは、以上確認したことから見ると、超越的理性をもっているのがわかるだろう。第二象限のその理性が、また、同一性価値=交換価値と結びついていると考えられるのである。つまり、超越的同一性価値=超越的交換価値になっていると考えられるのである。
 思うに、ポスト構造主義、デリダやドゥルーズは本来、これに対抗して、乗り越えようとしたと考えられる。前者はロゴス中心主義批判、そして、後者は同一性批判をしたが、結局、彼らは西洋文明の超越的理性原理を的確に把握していなかったために失敗したと言えよう。そう、西洋文明の超越的原理、それも、第二象限の原理を認識しない限り、西洋文明批判とその乗り越えは不可能であると言うべきである。
 ということで、西洋文明の帰結としての資本主義であるが、それは、他者凹iを欠落した経済システムであると考えられる。
 否、正確に言えば、民主主義とは他者凹iの原理であり、それは「子」としてのキリストから発していると考えられるが、資本主義の同一性価値=交換価値の原理は、超越的理性(第二象限)から発していると考えられるのであり、ここには、母権的原理と父権的原理が分裂的に相克していると考えられる。
 前者は生命的な原理であるが、後者は破壊的な原理であり、後者は資本主義において主導・中心的であるために、世界は破滅の危機にあると言える。
 結局、超越的父権的原理が支配した現代グローバル資本主義世界を乗り越える方途は、超越的母権原理の復活であると考えられる。
 凹iから-1の超越界への方向を復活させる必要がある。それが、シュタイナー的には霊の道であると言えよう。PS理論的には直観の道であろう。
 それは、キリストの道であるが、キリスト教は父の原理に支配されているので、聖霊の道と言うのが的確である。父に支配された子の道ではない、聖霊の道である。それは、Media Pointの道でもある。(追記:D. H. ロレンス的に言えば、「王冠」の道である。獅子=父と一角獣=子の共立・共振(・共融)する様態である王冠=聖霊の道である。)


Royal Coat of Arms of the United Kingdom.svg


 何故、超越的母権原理が必要から言えば、当然ながら、超越的父権原理は、他者を否定する利己主義、自己中心主義であるからである。自由主義とは前者である。私が説く共同資本主義とは後者のエコノミーである。
 とまれ、これは、個をもつ共同資本主義であり、社会主義や共産主義ではない。
 思うに、超越的母権原理を土台にして、超越的父権原理を活用する様態の個的共同資本主義が可能である。それはトランス・モダン・アジア的資本主義の道である。
 
追記:構造主義の根源も、超越的父権原理、第二象限ではないだろうか。

追記2:以前示唆したが、カント哲学の問題は、超越性と超越論性が分離したままであることである。理性と言ったとき、超越性に関わるものを実践理性と呼び、純粋理性を超越性と同一性に関わらせていて、その矛盾(アンチノミー)を指摘するに留まっているのである。
 超越論性とは超越性と同一性との折衷的概念であると考えられる。言い換えると、混淆であり、連続性である。ポスト・モダンはこれを引いている。というか、Media Pointの同一性に偏した精神的フィルターと言えるだろう。
 フッサールの現象学とは、凸iの志向性を発見したことにあると思う。それは、実質的に凸i*凹iである。ただし、凸iの志向性を超越論的主観性と呼んでいる。しかし、超越的主観性と呼べば、より正確であったろう。
 そして、俗物のハイデガーであるが、彼は、凹iを存在として、それと物質+1との関係様態を探求したのであるが、実際は純粋な凹iではなく、凸iの主観性をもった存在であり、その点で、凹iと凸iが未分化・混淆していたと思われる。そのため、凸iと物質+1との結合が主要となり、いわば、唯物論化した存在論なのである。そのために、純粋存在である凹iを極めることができなかったと言えよう。とにかく、非常に、不純な、中途半端な哲学である。
 死に臨む存在とは、実は、超越界への漠然とした予感であり、凡庸である。

追記3:もし上述のように超越的父権原理を考えるならば、古代日本に侵入した父権的民族を失われたイスラエル十支族とすると、古代日本において、超越的父権原理と超越的母権原理が衝突して、古代ギリシアを超えるような即非的原理が生まれたと考えられよう。
 それは、父と子の即非論理であり、正に、聖霊の原理ではないだろうか。日本文化とは聖霊文化ということになる。トランス・キリスト教的文化である。



2010年11月16日(Tue)▲ページの先頭へ
農産物自由貿易問題:巨大資本自由主義と中小資本自由主義を区別せよ
テーマ:日本民族第一次産業防衛:地域経済共同体

自由貿易というと聞こえはいいが、実際は、グローバル超巨大資本が支配的であるのは言うまでもない。
 つまり、自由貿易はグローバル超巨大資本主義のためにあるのであり、各国民族的農業は壊滅的な打撃を受ける。
 日本において、JAが反発しているが、それは説得力がないし、そもそも言う資格がない。それは、これまでの社会主義農業政策の恩恵を被ってきたからである。JAが日本の農業の阻害・悪化の要因である。
 だから、問題は複雑である。戦後日本は工業化のために、農業の主体的発展を犠牲にして、社会主義化政策を行ってきたのである。つまり、農業市場主義を損なってきたのである。
 だからとは言え、いきなり、自由貿易を肯定するのは、無理である。その備えがないからである。超巨大農業産業に破壊されるだろう。
 ここで、欧米はそれなりに農業国でもあることを考えるべきである。つまり、欧米諸国は民族的農業を保持しているのである。だから、日本においても、当然、民族的農業の創造的保持を行うべきである。
 思うに、これまでの経済の理念ではこれからの時代は立ちゆかない。トランス・モダン民族主義とトランス・モダン共同体主義とトランス・モダン民族共立主義、等をもつ必要がある。
 農業に関して言えば、民族的農業の復興が必要である。そのためには、それを志向する者への支援が必要である。この点では、民族的自由主義農業支援である。
 そして、それは、地域・地方の経済共同体の創設を考慮すべきである。民族的自由主義農業創造が地域・地方経済共同体の創設と結びつくべきである。
 このためには、中小資本への支援も必要である。このためには、中小資本への融資の積極化の法律を形成する必要がある。
 また、以前述べたが、多元的通貨制の必要である。有利子通貨、無利子通貨、マイナス利子通貨があればいいのではないだろうか。もちろん、法定通貨としてである。
 民族自由主義農業的地域経済共同体のためには、無利子通貨やマイナス利子通貨がふさわしいように思う。
 以上、思いつきである。

追記:共同体の創設には、経済以外に、精神次元の共同体という意味がなくてはならない。民族的精神教育の重要性がここにある。

*
【第153回】 仮にTPPが流れても日本の農業は生き残れない?
「自由貿易のバス」に乗り遅れた政治の機能不全ぶり 

[2010年11月16日]
環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加につい賛否が分かれるなか、民主党政権は農業分野を含めた原則関税撤廃を目指す協議開始を決めた。しかし真の問題は、TPPというよりも日本の農業政策そのもの機能不全ぶりだ。


2010年05月22日(Sat)▲ページの先頭へ
新国富論:豊かに貧しくなるではなく、貧しく豊かになる時代
私の実家の田舎の周辺は、農村地帯であるが、道路は交通の少ないところまで鋪装されているし、また、新しい鋪装道路もいつの間にか造られている。
 また、市役所は高級ホテルのような立派な建物であるが、駅周辺にはシャッター通りがある。市議会議員の削減案は市議会で潰されたそうである。
 結局、公共投資、行政的資本主義が、役人を肥やし、民を貧しくしたのである。
 資本主義は本来、個が単位であるが、日本においては、行政主導となってしまっているのである。端的に、国家資本主義、社会主義的資本主義である。結局、これが、超大な財政赤字を生んだのである。
 そこで、発想を逆転させて、貧しくなることの勧めを説きたいのである。貧しくなることで、国富が豊かになることを説きたいのである。
 これまでは、豊かになるために、国富を貧しくしてきたのである。これは亡国路線である。
 道路建設、ダム建設、原発建設等を無くすことで、民の貧しさはほぼ同じであり、国富が豊かになるのである。


2010年05月16日(Sun)▲ページの先頭へ
Kaisetsu氏の「コンサバティブ・ラディカル」という新政治概念
テーマ:傀儡ペテン売亡国独裁主義国家癌民主党政権

以下、Kaisetsu氏の現代日本政治分析は透徹したものであり、現代日本政治の流れが明瞭である。
 ラディカルとリベラルの根本的差異の説明が意義深い。これまでの考察から言えば、ラディカルとは、差異主義/母権主義であり、リベラルとは、同一性主義/父権主義である。Kaisetsu氏の言葉では、直観主義と理想主義である。
 思えば、私はイメージから言語観念が生まれた、常々思ってきた。それから言えば、この区別は納得できるものである。
 また、これは、カント哲学批判になるのである。カント哲学は直観主義と同一性主義(悟性主義)の折衷の理性主義である。
 しかし、「理性」とは、直観・直感に基づくものである。言語主義的な同一性主義(悟性)が主導すると、「理性」は「汚染」されて、直観・直感が混濁するのである。
 だから、ポスト・モダンとは、ヘーゲル的であり、且つ、カント的である。
 直観・直感の「清々しい」哲学を説いたのは誰であろうか。これは、芸術家(美術、音楽、文学、他)が表現したのである。直感で言えば、老子であり、シェリングである。


所謂、「ネット右派」は、「コンサバティブ・ラディカル( Conservative radical)」


所謂、コンサバティブとは、理想論よりも現実論、将来の利益よりも現在の利益、理論よりも直観を重視する思考であり、所謂、ネット右派は、このコンサバティブに入る。

 所謂、リベラルとは、現実よりも理想を、現在の利益よりも将来の利益を、直感よりも理論を重視する思考であり、所謂、「サヨク」が、この分類に入る。


 所謂、サヨクは、つい最近まで、野党であり、反体制派であったために、現状を打破することを自己主張の中心とし、将来の幸福を約束することで大衆を操作し、緻密な理論によって合理性を確保する手法を用いてきた。

 一方、右派は、既存体制の支持者であり、現状を肯定することで大衆に安心感を情操し、直観的な意思伝達によって政権への支持を確保してきた。

 ところが、トロツキズムを理論の基礎におくネオ・リベ勢力が、深く既存勢力の中に入り込み、右派の牙城である体制内部に、現状打破のスローガンを持ち込み、保守主義の中に、「現実よりも理想を、現在の利益よりも将来の利益を、直感よりも理論を重視する」手法で、大衆操作をする勢力が頭角を表した。日本では、小泉純一郎である。

 このコンテキストから、この新しい集団を、「New Liberal」と呼ぶことは正確である。

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年05月13日(Thu)▲ページの先頭へ
精神的身体としての国家(国家身体=国家共同体)
イギリスの16世紀から18世紀にかけて、Body Politicという概念が流行したが、思うに、それは、本来的ではないだろうか。つまり、国家とは共同体であり、身体であるということである。
 言い換えると、身体とは差異なのである。だから、例えば、国家の財政赤字は身体の苦痛という差異なのである。
 しかしながら、国家身体=民族精神身体という視点がなくなり、同一性主義の発想になると、財政赤字は身体の痛みではなく、同一性の延長となるのである。それは、まったく痛みがないのである。それが、新自由主義化した自民党と現民主党の発想である。
 そう、精神と身体とは一体であるが、物質は精神/身体の同一性の抽象に過ぎないのである。
 近代合理主義とは精神=身体という国家身体を劣化・衰退化させた「病気」である。
 ところで、nation-stateの問題であるが、近代的に同一性主義ないしは連続主義となると、全体主義となるのである。しかし、それを絶対的差異と見るならば、それは、トランス・モダンの基点、「モナド」、創造的モナドとなるだろう。

Body politic
From Wikipedia, the free encyclopedia
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For the defunct Canadian magazine, see The Body Politic (magazine) .

A body politic refers to the people of a nation , state or country considered collectively as a body of organized citizens.

王の二つの身体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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王の二つの身体(The King's Two Bodies)はエルンスト・カントロヴィチ による政治思想史の研究書。中世政治神学研究との副題がついている。

カントロヴィチの研究によれば、ヨーロッパの王は自然的身体と政治的身体という二つの身体を持っている。自然的身体は死すべき身体であって、偶然や不確実性、生物的な虚弱性の脅威に脅かされる。 一方、政治的身体は見ることも触れることもできない身体である。それは政策と政府から成り、人々を導き、公共の福利を進める身体である。この身体は自然的身体の欠陥や弱点を免れている。自然的身体は政治的身体を具現化する。

カントロヴィチは本書の中で、ヨーロッパの王の二つの身体が統一されており、王が生きている限りは分離されることがないという神学的思考を歴史的に辿ってみせる。この神学的思考はキリストの受肉が下地となり、清教徒革命 、ひいては民主主義 の精神の母胎となったという。
関連書籍 [編集 ]

* 小林公(訳) 『王の二つの身体 中世政治神学研究』 平凡社 、1992年。
* 小林公(訳) 『王の二つの身体〈上・下〉』 筑摩書房 、2003年。

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%BA%AB%E4%BD%93 」より作成


2010年02月25日(Thu)▲ページの先頭へ
感性は精神と同一性感覚の連続的混淆・混濁だ:モダン・アートの終焉とトランス・モダン芸術の誕生
画像は以下のページを見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10467518998.html

哲学や美学で感性と言われるが、これは、実に曖昧である。私もつい使うことがあるが、どうも使い心地がよくない。
 心性という言葉が浮かんでしまう。心眼というときの「感覚」は精神的感覚・知覚・認識のことである。それに対して、同一性的な感覚・知覚・認識があるだろう。これが、通常の感覚である。言い換えると、物質的な感覚である。
 「感性」というとき、両者が混合・混淆し、混濁していると思われるのである。つまり、連続的な感覚・知覚がそこにあると考えられるのである。いかには、近代的な中途半端な感覚・知覚と言えよう。
 PS理論によって、今や、明確に、精神的感覚と物質的感覚は分離されるのである。そして、この結果、もっとも影響を受けるものの一つは当然、芸術である。モダン・アートというものが、これによって、超克されるのである。トランス・モダン・アートが誕生するのである。
 これは美術だけでなく、音楽、文学、その他の芸術もそうなると言える。
 思うに、精神的感覚とは実は本義における自然的感覚なのであり、トランス・モダンとは、自然的感覚(即非的感覚知覚)の復興を意味すると言えよう。モダン・アートの崩壊である。もっとも、モダン・アートにあるトランス・モダン性は評価されなくてはならない。つまり、超越性、精神性を表現しているモダン・アートである。そして、その結果、はっきりと、モダン・アートが終焉するのである。

追記:同一性感覚・知覚については、厳密に検証する必要がある。即非的感覚・知覚において、現象は、同一性というよりは、差異である。つまり、「わたし」が「ジンチョウゲ」を即非的に感覚・知覚するとき、後者は本来、差異である。同一性感覚・知覚とは、対象を「ジンチョウゲ」として認識することである。
 だから、感覚・知覚は二重なのである。一つは、差異的感覚・知覚であり、一つは、同一性感覚・知覚である。後者は言語と深く関係している。
 思うに、フッサールのノエマとは、差異的感覚・知覚と捉える方がいいだろう。それは同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚ではないからである。
 確かに、現象において、物質的対象は存する。それは、プラス1である。それに対して、即非的感覚・知覚は、プラス1を乗り越えて、対象に差異を見るのである。
 差異的対象となり、差異的現象である。このとき、確かに、対象には物質や同一性があるが、それは、いわば、基体である。サブスタンスである。
 そう、端的に言えば、対象は⇒+1である。対象を+1と見るのが、同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚である。
 結局のところ、感性とは⇒+1と+1との混淆・混合・混濁であり、連続化である。あるいは、質と量の混濁である。
 では、即非的感覚・知覚にとって、同一性感覚・知覚とは何だろうか。それは、一つの抽象である。本来、対象は絶対的差異・絶対的他者であるが、それを同一性に還元しているのである。
 思うに、位階があるのである。即非的感覚・知覚ないしは差異的感覚・知覚は垂直性・超越性をもつが、同一性的感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚にはそれが欠落して、ただ、水平性・物質性をもつだけである。
 言い換えると、次元が異なるのである。前者は後者に対して、高次元に位置するのである。後者が三次元ならば、前者は四次元である。あるいは、後者が四次元ならば、前者は五次元である。
 結局、換言すると、感性とは、異なる次元を混同させるという誤謬を犯している近代的美学・哲学用語と言える。
 

Untitled (Black on Grey)
Artist Mark Rothko
Year 1970
Type Acrylic on canvas
Dimensions 203.3 cm × 175.5 cm (80.0 in × 69.1 in)
Location Solomon R. Guggenheim Museum , New York

http://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_%28Black_on_Grey%29


2010年02月22日(Mon)▲ページの先頭へ
ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを廃棄し、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論である。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、卑小化/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体と客体との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

***********************

ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/


2010年01月10日(Sun)▲ページの先頭へ
最後の審判:モダン・キャピタリズムの終焉とトランス・モダン・キャピタリズムの勃興
私の思念は、同一性が溶けるように消滅することである。

 同一性、即、融け、差異あれ!

ところで、同一性の原点はアンラ・マンユであるが、それが、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教において、神になったと思う。
 唯一神とは、同一性神である。それは、近代的自我を生んだ。
 とまれ、近代資本主義の絶対的崩壊という形で、最後の審判が訪れると思う。

追記:補足というよりは、補正する必要がある。聖書には、これまで繰り返し述べたように、単にヤハウェだけでなく、エローヒーム(神の複数形)が存するし、キリスト教もイエスや聖霊が存するし、イスラム教のタウヒード(一性)は、Media Point的差異共振性に基盤があると考えられる。
 つまり、問題は、以上の啓典の宗教の一神教的側面、つまり、同一性主義が中心化していることなのである。
 だから、それらの宗教の脱同一性化が必要なのである。


2009年10月11日(Sun)▲ページの先頭へ
二人のロックフェラー:同一性金融資本主義(デビッド・R)と差異共振金融資本主義(ジェイ・R)
参照1は興味深い。戦争屋がデビッド・ロックフェラーであり、銀行屋がジェイ・ロックフェラーである。私のこれまでの考え(作業仮説)に拠れば、ロックフェラー路線とは、前者であり、「ロックフェラー」路線(差異共振路線・自由共同体主義=リベラル・コミュニズム)は、後者となる。
 そして、銀行屋には、ロスチャイルドが入るのである。しかしながら、私のこれまでの作業仮説では、ロスチャイルドは、ロックフェラー路線に入るのである。
 私は田中宇氏の多極化論における英国・イスラエル覇権主義と米国の多極主義と闘争を取り入れてきたが、以下の「私見」に拠ると、多極主義は、田中氏の考えとは異なり、ロスチャイルド側である。
 とまれ、「私見」を参考にすると、私の作業仮説は、ロックフェラー路線とは、デビッド・ロックフェラー/CIA路線となり、「ロックフェラー」路線とは、ジェイ・ロックフェラー/ロスチャイルド路線となる。
 「私見」は、後者を銀行屋としているが、私の作業仮説は、差異共振路線=自由共同体路線である。そして、それは、米国の伝統的な民主主義に根ざしている(参考:トクヴィル『アメリカの民主主義』)。
 そうすると、推察するに、差異共振路線は、元々は、ジェイ・ロックフェラーが考えているものではないのか。そして、それが、ロスチャイルドの金融資本思想を変えて、差異共振資本主義へと転換させたのではないのか。
 そして、さらに推察するには、戦争屋とは、単に、デビッド・ロックフェラー/CIAだけではなく、ロスチャイルド側の一部にもあったと思われるのである。そうならば、ロスチャイルド側も分裂したことになる。つまり、同一性金融資本主義と差異共振金融資本主義に分裂して、前者が、デビッド・ロックフェラー/CIAと結び、後者がジェイ・ロックフェラーと結びついたということになる。
 こう考えると、田中宇氏の多極化論における英国・イスラエル覇権主義と米国多極主義の対立・闘争という考え方であるが、前者が、ロスチャイルドの同一性金融資本主義側ということになるだろうし、また、それが、CIAと関係しているということになる。
 結局、私の考えが「私見」とは異なるのは、オバマ大統領は、単に、差異共振金融資本主義路線だけではなく、同一性金融資本主義路線も抱えているという点である。アフガンにおける軍事増強志向性から見て、「戦争屋」の側面があることは否定できないだろう。もし、純粋な差異共振金融資本主義者ならば、アフガンにおいても、戦争ではなく、差異共振金融資本主義を展開するはずだからである。


参照1:
小沢民主党幹事長の訪欧についての私見 (1/2)
・・・・・

筆者の持論では、現在の米国覇権は、戦争屋(軍産複合体)と銀行屋(国際金融資本)という双頭の鷲の二大寡頭勢力の熾烈な競争構造になっているというものですが、それは事実上、ジェイとデビッドのRF財閥お家騒動とみなせます。

 この米国覇権戦争の構造を前提とすれば、小沢氏は“親ジェイ・反デビッド”であることは明らかです。その証拠はいくつもあり、下記、小沢氏関連拙稿記事リスト(注1〜注7)を読めば、容易に浮かび上がってきます。
http://blogs.yahoo.co.jp
/hisa_yamamot/1350537.html
新ベンチャー革命

***************

参照2:

オバマにノーベル平和賞:戦争屋=CIAへの挑戦状
・・・・・ 
 さて世界的寡頭勢力は年1回、世界各地でビルダーバーグ(BB)国際会議(非公開)を開催していますが、そこにあつかましく加わってきた戦争屋ボス、デビッドRF(*)系の過激勢力(ネオコン、イスラエル好戦派含む)の軍事的世界覇権の横暴(泥沼のイラク戦争含む)に強い批判が湧き起こったのが、 2006年6月のオタワBB会議でした(注2)。具体的には、オタワBB会議終了後、戦争屋の牛耳るブッシュ政権に、戦争屋と対立する銀行屋(米欧国際金融資本オーナー)から、ゴールドマンサックスのヘンリー・ポールソンが財務長官として、無理やり押し込まれました。つまり米国連邦政府の金融財政の支配権が、戦争屋から銀行屋にパワーシフトされ始めたのです。
http://blogs.yahoo.co.jp
/hisa_yamamot/1828270.html
新ベンチャー革命

****************

3425.ドル基軸通貨体制崩壊過程
・・・・・

湾岸統一通貨の話は、2006年11月と3年前に初めて聞いた。この時点
から、ドルは下落していて湾岸諸国はドルペッグ制から離脱するこ
とが協議していた。円はドルと同様に弱かったために、日本では気
が付いていないだけである。そして、湾岸統一通貨は単一主要通貨
に連動させることには今後意義が見いだせないであろうと述べてい
る。

この湾岸統一通貨の裏方としてロスチャイルド銀行がサポートして
いる。もう1つが湾岸諸国の外貨準備金は全て英国の銀行が運用・
管理している。このため、英国が世界の外為取引の34%を占めて、
米国の17%より大きい。日本は第3位で6%である。このため、英国
の動向が重要である。
http://www.asahi-net.or.jp
/~vb7y-td/211011.htm
国際戦略コラム


2009年09月04日(Fri)▲ページの先頭へ
ミツバチ失踪と電磁波:「気」と電磁波
以下参照でも書いたが、「気」が自然界にはあり、それと人間は「交流」しているのであるが、当然、他の生命体も「気」と「交流」していると考えられる。
 問題は、「気」と電磁波の関係である。思うに、「気」と言ったときは、超越エネルギーであり、観測される場合が電磁波となるのではないだろうか。気功師が発する「気」を観測したら、磁気が観測されたのであるが、磁気ないしは電磁波=「気」ではないと思われる。「気」→電磁波ではないのか。
 とまれ、ミツバチ失踪と携帯の電磁波とが関係しているという事実が判明したのは、重大である。電磁波で、思うに、自然界の「気」が乱されるのである。いわば、「気が狂う」のである。ならば、人間も可能性がある。

**************

日大がまとめた「安政地震の前兆現象 」ファイル

★ 2009年09月04日金曜日 6時半更新

 ・・・・・

■ 携帯電話社会の終焉! ミツバチだけではない、おそらく生物全体に巨大な悪影響を及ぼしている携帯電話は、これから廃止されるだろう。

 【【9月1日 AFP】携帯電話の端末や基地局から発生する電磁波が、ミツバチにとって脅威になる可能性があるとの研究結果を、インドPTI通信が伝えた。 インド南部のケララ(Kerala)州で行われた実験から、ミツバチの個体数が激減したのは、携帯電話会社が通信網を拡大しようと、同州全域に設置した基地局が原因であることが明らかになった。
 基地局から電磁波が発生すると、巣から出かけて花の蜜を集め、コロニーに栄養を供給する働きバチの「ナビゲーション能力」が損なわれると、研究を行った Sainuddin Pattazhy博士は指摘する。 巣箱の近くに携帯電話を置くと、働きバチは巣箱に戻ることができなくなり、巣箱には女王バチと卵だけが取り残された。携帯電話を置いてから10日以内で、ハチのコロニーは崩壊した。 ケララ州では10万人以上が養蜂業に従事しているため、働きバチの減少は養蜂家の生活を脅かしている。ハチは植生を支えるのに欠かせない受粉を媒介する役割も担っている。 基地局や携帯電話の数がさらに増えれば、ミツバチは10年ほどで姿を消すかもしれないと、Pattazhy博士は警告する。(c)AFP】

 【中央日報: 携帯電話のためにミツバチ消える 携帯電話のためミツバチが消えている、との見方が出ている。携帯電話で発生する電磁波がミツハチの航法システムをこう乱し、ミツハチを巣に帰れなくするとのこと。英日刊紙・インディペンデントが15日に伝えたところによると、蜂群崩壊症候群(CCD=ミツバチの集団不明現象)と呼ばれる現象が米国でスタートし、欧州大陸と英国に拡散している。米国では昨秋初めて警告が下された後、現在まで米全州の半分でこうした現象が確認されている。西部海岸地域では全体の60%、東部海岸地域では70%ほどのミツバチが消えた。
これについて、ドイツ・ランダウ大の研究チームは、携帯電話がミツバチの近くにある場合、ミツバチが巣に戻れないとの事実を確認した。研究チームは、ミツバチが電線付近で異常な動きを見せるのを発見、それをもとに実験を行なった結果、携帯電話の電磁波がミツバチの帰宅を妨害できる、との点を究明した。米政府と業界の後援のもと携帯電話の危険に対する研究を主導してきたカルロ博士も「ドイツ科学者の主張に信ぴょう性があると確信する」と同調した。】

● いずれも統一教会系メディアが報じている点に不審が残るが、筆者は、今年3月頃から、ミツバチ失踪の原因が電磁波にあると、度々指摘してきた。以下は4月前半分ログからの引用。携帯電話は世界中で数百兆円の利権が絡んだ巨大事業だ。原子力産業や武器産業と同じで、業界が利権を失いたくないあまり、もの凄い圧力をかけて事態を隠蔽しようとするのである。インターネットのない時代だったなら、おそらく、こうした情報は圧殺されただろう。だが、もう無理だ。世界中の人々が知るところとなった。

 【★ 2009年04月10日金曜日 9時半更新
 ■ ミツバチの失踪は携帯電話の電磁波 【月10日7時57分配信産経新聞  ミツバチが昨年から激減する謎の現象が起きている。農林水産省は寄生ダニが発生する病気などで大量死したのではないかと推測しているが、真相は分かっていない。農家では、イチゴやメロンなどの受粉作業にミツバチを使っているため、栽培に深刻な影響も出ており、果物の価格高騰につながりかねない。「自然環境が変化しているのか」と不安を募らせる関係者も出ている。
 「ミツバチが足りない」。昨年以降、全国各地の農家から、こんな苦情が農業団体などに寄せられるようになった。イチゴやメロンなど、果実を育てるには、花粉をオシベからメシベに受粉させる必要がある。自然に生息するニホンミツバチやそのほかの虫も花粉を運ぶが、それだけでは足りないため、多くの農家が飼育に適した別種のセイヨウミツバチを購入したり、レンタルしたりして、利用している。 減少しているのはこのセイヨウミツバチ。農水省によると、平成20年夏の調査では前年比14%減。ミツバチは女王バチ1匹と1万〜数万匹の働きバチなどの群れで「1群」と数える。19年は3万8592群だったのが、20年には3万3220群に減っていた。
 その影響もあってか、ミツバチの売買価格やレンタル料金が急速に値上がり。人の手で受粉作業をする農家も増え、栽培コストは上がるばかり。ナスやカボチャなど野菜栽培でも受粉に使われるため、ミツバチ不足の悩みは深刻で、東京都世田谷区では今年3月、ミツバチが巣箱ごと盗まれる事件まで発生した。 ミツバチ激減の原因を農水省は「寄生ダニや農薬で大量に死んだからではないか」と推測する。実際にミツバチが大量死する例もあり、大量の幼虫が死ぬ腐蛆(ふそ)病など伝染病の可能性も指摘されている。
 しかし、寄生ダニや伝染病は以前からあるため、これだけが急減の原因とも言い切れない。オーストラリアなどから1万匹以上輸入されているミツバチが、昨年以降、伝染病などを理由に輸入が止まったことも一因とされ、畜産草地研究所の木村澄(きよし)主任研究員は「複数の原因で減ったと思う」と話す。 減少がはっきりしているのは飼育されるセイヨウミツバチだけ。ニホンミツバチやそのほかの虫が花粉を運んでいるほかの植物については、当面、生育に影響はなさそうという。ただ、木村主任研究員は「セイヨウミツバチの減少は、何かの環境の変化が起きている兆候かもしれない。その場合、ほかにも影響がないともいえない。自然環境に注意しないといけない」と警鐘を鳴らしている。】
● アインシュタインがミツバチについて語ったのは【「もしハチが地球上からいなくなると、人間は4年以上は生きられない。ハチがいなくなると、受粉ができなくなり、そして植物がいなくなり、そして人間がいなくなる」If the bee disappears from the surface of the earth, man would have no more than four years to live. No more bees, no more pollination, no more plants, no more man.】 であった。そして2006年頃から。最初アメリカで、次いで世界中でミツバチの失踪が報道されるようになった。これがCCDと呼ばれる重大な現象で、アインシュタインの予言通りに、ミツバチ受粉を必要とする作物の生産減少が始まった。
 失踪とは、蜂の死骸が巣箱に残されていないために、失踪と名付けるしかないわけだが、原因として、@農薬説 Aバイオ作物説 Bストレス説 Cダニ説  Dバクテリア説 などが指摘されてきた。 しかし、失踪の本質的属性は、「巣箱に帰る情報をミツバチが見失った」という視点であって、筆者は、ミツバチが巣箱に帰るために何が必要なのか、それは何によって妨げられるのか? という視点から、帰巣メカニズムを破壊する因子として電磁波を挙げる。それも、時期的、地域的な条件に符号するものとして、1200〜1800メガヘルツ級のSHF波である。この周波数の世界的普及とミツバチ失踪が時期的に符号している。 そして、ミツバチの異常行動を研究してきた報告に、高圧送電線周囲での巣箱に失踪が見られるというものがあった。この条件を考えれば、携帯電話ギガヘルツ波が失踪の最大の理由として、もっとも確からしいと筆者は考える。
 こうした指摘は、一番蓋然性が高いにもかかわらず、なぜか、これまで指摘されてこなかった。その理由は、もし、携帯ギガ波がミツバチ失踪や、従来指摘されてきたように発ガンプロモーションに関係しているとするなら、今日、10兆円を超える携帯インフラのすべてが否定されなければならなくなる。その影響は、あまりに巨大であって、携帯各社の倒産破滅は免れ得ないのであり、政府も全力を挙げて真実を隠蔽していると考えるしかないのだ。世界でも数百兆円のインフラが瞬時に消失することになり、この隠蔽は世界的に行われるであろう。
 携帯電磁波は人類滅亡の決めてになるだろう。ミツバチを追放して農作を破壊し、ガンのプロモーターとして、あらゆるガンを増大させ、人々を死滅させてゆくのである。ところで、パソコンのラジオルーターも、似たギガヘルツ周波数であり、これに日常的に曝露されているとガンの進行が劇的に早まる可能性が強いのである。
 筆者も同じだ。だから、今度、ラジオルーターをやめて通常のケーブルモデムに戻すつもりだ。しかし、それで人類滅亡が止まるわけではない。覚悟しろ!】
東海アマチュア無線  地震予知研究会

参考:
身体と空気の共鳴秩序:トランス・モダン都市建築へ向けて

これは個人的な事柄であるが、なにか物足りないと感じていたが、それが何かわからなかった。ふと、部屋の中が蒸していることに気づいた。なんと鈍感なのか。気温自体はもう低いが、湿度が高いのである。それが、皮膚を通して、なにか物足りなさを生んでいたということだろう。
 では、何故、湿度が高いとこの場合、不快ではなく、物足りなく感じたのだろうか。思うに、身体と空気は「一体」、一(いつ)である。両者、共鳴しているのである。
 その共鳴において、身体、そして、精神の秩序が安定すると言えよう。だから、高い湿度の場合、共鳴感が乏しくなり、一般には不快感を感じると言えようが、物足りなさはいったいどういうことなのだろうか。その共鳴において、身体や精神において、秩序がもたらされるが、その秩序が満足感を生むのであり、それが欠落すると、不足感が生まれて、物足りなさが生じるということではないのか。今はそこで留めておこう。
 さて、身体/精神と空気との共鳴について少し考えよう。これは、「気」の問題でもある。
 物質的には、酸素を取り入れて、二酸化炭素を吐き出すわけであるが、身体と酸素の間で、共鳴があるだろう。すると、そこには、超越エネルギーが生じる。その超越エネルギーが「気」に関係するのではないのか。
 一応そういうことにすると、身体とはまた、精神と一であるので、当然、精神は「気」と関係するのである。
 しかしながら、身体の感覚が同一性によって支配されていると、超越エネルギーである「気」を知覚することはできないと言えよう。
 実際は「気」が身体・精神と空気の共鳴態に作用しているのであるが。結局、知覚が身体の深奥に通じていないと、「気」は感得できないだろう。東洋身体論は、これを感得させる技法でもある。
 そして、この「気」が生命エネルギーの根源ではないだろうか。それといわゆる物質とが関係しているのであり、物質とは、いわば、先端に過ぎないのである。
 この身体と空気との共鳴がうまく形成されないと、「気」が弱化するだろう。そうすると、生命エネルギーが弱化して、免疫力が衰えるだろう。
 近代的都市環境において、この「気」が弱化するのであり、生命力が衰えると考えられる。
 また、同時に、「気」は精神エネルギーでもあると考えられるので、精神力も衰えるであろう。
 そう、今日、近代的都市環境の住人がほとんであり、そのため、生命/精神エネルギーが枯渇していると考えられる。つまり、近代的都市の物質的環境によって、住人の身体や精神は必然的に同一性=物質化すると考えられるのである。
 今や近代の時代が終焉したので、トランス・モダン都市の建築が重要になるだろう。それは、「気」的環境をもつ都市と考えられる。トランス・モダン風水都市である。しかし、これは、観念的に取られてはいけない。あくまで身体感覚に忠実であるべきである。勿論、精神感覚を含めてである。


2009年01月29日(Thu)▲ページの先頭へ
資本主義の問題:近代主義からトランス・モダンへのパラダイム・チェンジ
今日の新大恐慌であるが、結局、資本主義を理性的に理解していないことから生じていると言えよう。つまり、資本主義の哲学・科学認識が欠如していることから生起したと考えられる。
 同一性主義、つまり、近代合理主義・近代的自我に支配されていたので、金融資本が瓦解したのである。


2008年12月21日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性主義とは、知性ではなく、信や不合理性である:不正な近代科学を乗り越えるトランス・モダン理論
これまで、近代合理主義ないしは近代的自我は狂気であるというテーゼを立ててきたが、同一性主義は一種の信仰、妄想、思い込みであると思う。
 今日、政治が機能しないのは、近代合理主義、近代的自我、そして、同一性主義(これには、封建主義も入る)に囚われているからである。
 既に、近代合理主義・近代的自我の同一性主義については詳述したが、その不合理性について、端的には説明していないと思われるので、ここで、説明したいと考えている。
 今は余裕がないので、簡単に指摘するに留める。端的に言えば、同一性主義とは、自我信仰・自我崇拝・自我宗教、狂信ないしはパラノイアである。
 これは、自我+iを他者-iに当てはめる力学であり、(+i)*[-(-i)]⇒-1になるとことと思われる。他者-iを否定する同一性主義力学なのである。
 -iという他者ないしは差異が否定されて、自我+iを押しつけているのである。正確な科学的認識とは、当然、他者・差異を肯定するところから本来始まるべきものである。
 つまり、他者・差異という事実を否定するのであるから、同一性主義は不合理主義なのである。存在するものを否定するのであるから、不合理主義、反科学主義なのである。これが、説明である。
 では、近代科学とは何であったのだろうか。それは、不合理主義なのか。それは、差異を無視した科学であり、結局は、同一性主義科学、物質主義科学であり、その点では、不合理主義的科学である。
 つまり、物質主義科学(近代科学)=不合理主義科学である。これが、今日支配しているのである。当然、これは、不正義、不誠実、不公平、等々である。それは、構造主義的不正義とも言えよう。
 結局、近代科学とは不正義な科学であったのであり、今や、プラトニック・シナジー理論(PS理論)が、絶対的差異(絶対的不連続差異)と即非・共振性を説いて、トランス・モダンの正義・真正な科学を提唱することになったのである。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@

淘汰される近代主義とトランス・モダン進化

久しぶりに駅前の本屋や近くのブック・オフに行ったが、寒々しい感じがした。即ち、本当に大事なことが書かれている本はほとんどないと感じたのである。
 インスタント食品のような本が売られているのである。頭の栄養となるものは少ないだろう。
 思うに、やはり、知的進化の時代が到来したのである。近代的「知」はもはや、淘汰されることになったと考えられるのである。近代的「知」の反古化である。


2008年10月18日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:人類史のヴィジョン:二重螺旋的地球人類史のヴィジョン
ラセンのイメージの人類史のヴィジョンが浮かんだ。しかし、すぐ、二重螺旋の方が適切ではないかと思った。
 二重螺旋にしたとき、光と影の対極性があるだろう。影とは何だろうか。+iが光で、-iが影だろうか。+iが先導する場合【(+i)*(-i)⇒+1】は光のラセン、-iが先導するラセン【(-i)*(+i)⇒+1】は影のラセンとなるのだろうか。
 影のラセンは不可視であろう。これとダークマターは関係しないだろうか。そして、ダークエネルギーは、双極的超越エネルギーとなろう。


2008年09月01日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性主義の狂気の妄想性について:トランス・モダン・セラピー
後で考察したいが、先に同一性主義の狂気に言及したが、その狂気とは、非合理的衝動のことであったが、もう少し様態について言うと、妄想性がそこにあるのである。非合理的衝動だから、妄想性は入ってきておかしくないが、どのように妄想が発生するの、そのメカニズムを明らかにしたいと思う。
 これは実は、同一性主義批判の簡単な応用問題である。つまり、同一性主義という暴力構造ができあがると、同一性自己(自我)は、独善化するのである。自我は正しく、他者は誤りであるという二項対立形式が発生し、ある事象に対して、独善的に裁断するのであるが、この独善的裁断が妄想的ということである。二項対立(善悪二元論)的価値形式を、他者に適用するために、ありもしない観念(妄想)を他者に押しつけるのである。【p.s.  「ありもしない観念(妄想)」であるが、もう少し明確する必要があるだろう。ある人においては、妄想は、自我のシャドウ(影:否定された分身)の投影であるし、別の人においては、被害妄想である。これは、二項対立形式の優位系列が、反感によって、集合表象化したものと考えられよう。】
 思うに、今日の心の病(うつ病等)は、内因的には、近代合理主義/近代的自我/唯物論に、すなわち、近代的同一性主義に拠ると私は述べているが、あるうつ病の人のもつ妄想性はこの同一性主義の心因で説明ができるのではないだろうか。
 思うに、今日、近代的同一性主義(日本の場合は、封建・近代的同一性主義)から脱出することが求められていると言えよう。トランス・モダンが処方箋である。

p.s. 一言で言えば、差異=他者を排除した同一性主義短絡完結回路が原因である。同一性主義的二項対立形式暴力・狂気・妄想が、独り歩きしているのである。最高度に危険な、超危機的な時代である。トランス・モダンへと転換するときである。

It is high time for us to make
one of the greatist historic changes
from modern to tran-modern.

Turn into Trans-modern!


参考:

年間10兆円を超える市場規模に成長した情報サービス産業。しかし、肥大化・複雑化するプロジェクト、厳しくなる納期と顧客からの要求、疲弊する技術者、より厳しさを増す価格競争、人材不足などの課題が山積し、業界全体には悲壮感すら漂います。どうすればこの窮状を抜け出せるのか、自社をどういった方向に導けばよいのか、答えのない状況で苦しんでいる多くのSIerが、売上高至上主義のビジネスモデルからの転換に迫られているにもかかわらず、その構築ができていません。
http://coin.nikkeibp.co.jp
/coin/wat/semi/0809/


2008年08月07日(Thu)▲ページの先頭へ
政治経済の二項対立を超えて:第三の政治経済としての市場/共民極性主義:トランス・モダン精神経済へ
今は簡単に触れるが、以下の福田改造内閣に対する批判(参考1の記事)であるが、「新自由主義」の路線からのものであろう。
 しかし、「官僚支配の復活」とは、植草一秀氏の批判的解明によれば、正しくなく、小泉似非構造改革は、財務省支配下にあったのである。
 二項対立である新自由主義と官僚主導的国家資本主義(社会主義)を乗り越えて、市場/共同体の即非対極性経済(簡略して、市場/共同体極性経済である)のトランス・モダンへと発想を転換すべきと考える。
 
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参考1:
福田改造、市場無視…増税派ズラリ乏しい改革イメージ
 「国民の安全・安心」を前面に打ち出し、経済政策重視をぶち上げた福田改造内閣 。しかし、新たな経済閣僚をみると、「財務省 支配復活を印象づけるような人選」(野党有力筋)で、財政再建の御旗のもと消費税増税 を強力に推し進めそうな人たちばかり。官僚支配の復活は「改革」の後退をイメージさせ、外国人投資家の日本株敬遠のきっかけにもなりそうだ。新経済閣僚に対する専門家の評価は、当然厳しい。

 改造内閣 が本格始動した4日午前、福田康夫 首相は与謝野馨 経済財政担当相を官邸に呼び、原油高対策をはじめとする総合的な経済対策の骨格を早急にまとめるよう指示した。

 会談を終えた与謝野氏は記者団に対し、「お盆の前には、一定の道筋は付けなければならない」と述べ、8月中旬に骨格を示すことで早期の対策策定に意欲を示した。

 対策の内容について与謝野氏は「(8月1日の)首相の記者会見に入っている内容だ」と説明。省エネルギーの研究開発や普及の加速に加え、農業の生産性を向上させる施策を盛り込む方針を示した。

 経済政策重視の姿勢をさっそく示した格好だが、改造後初めての取引となる4日の東京株式市場は、前週末の米国株安が嫌気され、日経平均株価は前週末比161円安の1万2933円で取引を終えた。終値で1万3000円の大台を割るのは、7月18日以来、約半月ぶり。
http://www.iza.ne.jp/news/
newsarticle/politics/166769/


2008年07月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ポスト・モダンとトランス・モダン
以下、私の検討問題の叙述
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10120842370.html
に対して、批判が寄せられたので、私なりに、建設的な考えを述べて答えたいと思う。
 かなり詳細な批判なので、以下、部分ごとに分けて、答えたいと思う。なお、私の考えは、紫色の文字で記述したい。

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フッサール…礎としての哲学の再開、キェルケゴール補足、狂気肯定への批判
・・・・・

「だから、言語とは、同時に、非言語であるという立場が必要ではないだろうか 」と、昨日近代理性への狂気の織り込みは「見当違い」だと批判した人が反論?されています。当該記事は個々人でリンクから飛べるの読んでもらうとして、重要なのは最初に挙げた文章です。言語に言語と非言語という様態を捉えているのです。何度もいいますが、このような二項対立を生むことそのものが無根拠な形而上学的暴力に満ちているのです。昨日批判した理性に対する狂気と同じことです。非言語といい狂気といい、それらはアンチテーゼの要素でしかない。それはそもそもが理性や言語のなかに可能性として包含されているのであって、それが顕在化を主張することはステレオタイプな別の形而上学を創造しているに過ぎない。デリダ=サール論争でも述べましたが、言語や理性そのものが無根拠性を有しているのであって、当然既存の体系は自己瓦解する要素は包含しているのです。しかし、それは非、だとか反という意味の二項対立を生むものではない。もっと根源的な位相の可能性の問題です。言語を脱構築したときに発現するのは非言語でもないし、近代理性の場合は狂気でもない。ただ、無根拠であるというトポスが開かれるだけであって、そこに構築する行為とは作為的な形而上学的暴力です。だから、デリダはフーコーに「理性には理性」をと諫めるのであって、二項対立そのものの危険な無邪気な発想は、ニーチェやハイデガーの陥った罠が待っているだけだというのです。そもそも、この人は前回も指摘した通り「テーゼ」というものを肯定するのですが、この時点である主張を根拠化するので二項対立に逡巡することもないのです。テーゼとは形而上学的発想そのものなのですから、当然のように可能性を逸脱した単純な二項対立に陥るのです。例えば、理性に対して狂気をもってきても、狂気以外のものも可能性として残存するのです。理性でも狂気でもないという様態が。この可能性のトポスに無頓着であるから無根拠性を根拠として打ち立ててしまうのです。

この反論ですが、私は、確かに、言語と非言語と言いましたが、それは、二項対立ではありません。それは、対極性、極性ということです。弁証法ではありません。ここで、批判者は短絡に陥っていると考えられます。私がいう言語と非言語とは極性の関係であり、二項対立から洩れる第三のものを包含しています。「理性でも狂気でもないという様態」は正に私が言わんとしたことで、この点で、批判者と私は一致できます。

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また「しかしながら、問題点は、特異性と一般性の関係である。言語は一般性となり、特異性を否定する。 」といっていますが、言語が特異性を否定するとはいえない。行為遂行的言語における一般化の傾向は認めるとしても、クリプキやクワインのいうように言語体系そのものが証明不可能なことから一般化と特異性の関係も崩壊する。当然、デリダの「散種」が導くように言語の一般化そのものが言語そのものによって簡単に瓦解するし、ソシュールがシニフィエの恣意性をいうとき言語体系が必ずしも一般化に傾倒しているという帰結は導けない。つまり、言語体系に一般化と特異性という視座をもち出すことがそもそもアプリオリに二項対立を許しているのであり、そこに何ら根拠はないということです。そして、それを形而上学的発想というのです。脱構築が瓦解を許しても構築を許さないのは、この人のようにすぐに安易な二項対立の可能性を発現させるからです。そして、このようなあり方をデリダは形而上学的暴力というのです。

確かに、「言語が特異性を否定するとはいえない」という指摘はその通りだと思います。私は、この検討問題において、大雑把に言っているのであって、その点を理解していただきたいと思います。確かに、批判者の指摘するように、厳密に言えば、一般性と特異性の二分化は問題があると思います。厳密に言えば、デリダの言うように、すべて一般性は崩壊すると思います。しかしながら、常識の範疇で言えば、一般性は成立していると考えられます。これがなければ、生活は成立しないと思います。例えば、眼前のグラスをごみ箱と言ったのでは、確かに、理論的には、可能ですが、生活は成立たないと思います。その点で、私は一般性=同一性を評価しています。ですから、一般性=同一性と特異性の二項対立ではなく、極性はあると思います。

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また、「言語がなければ、直感は明晰にならない。そう、これは、数式に似ているだろう。数式により、明確化されるのである 」といっていますが、オースティンからサール、デリダ、クリプキ、クワインに至る論争で明白になったように、必ずしも直感=行為遂行が言語によって明白になるのではないということです。行為遂行的言語、発語において必ずしも言語はその要請される行為遂行を表現しないのです。喉が渇いていて誰かに「水!」といい、誰かが「そうか水か」と事実確認的言語として理解したり、ガムを渡すことの可能性は否定できないのですから。それから言語と数学的公理系は全く別のものであるという認識が欠けています。以前にも述べましたが哲学が数式でその意味を代理にするのは便宜上のことであって、根拠のあることではありません。しかも、それはオリジナルと再現前、代理の関係を構築する点で悪しき形而上学的発想なのです。数学的公理系による表現がより明晰に伝聞されるというのは神話的であって、ゲーデルが「数学的公理系を数学的定理によって証明するのは不可能だ」と結論付けるように、数学的な表現に妥当性などないのです。この人の誤謬は言語にしろ、数学的公理系にせよ、それらがアプリオリに行為遂行的様態を明晰にするというプラトン的な古い形而上学を前提にしているところです。こんなものは、デリダやハーバーマスの論争に見ることができるように、取り払うべき発想であっても、推進するべき発想ではないのです。なぜなら、どの道このような二項対立軸で思考することは可能性の縮減化に向かうからです。この人のいう「テーゼだと…」という表現が示すように、構築への意志は何よりも危ういのです。

批判者の言わんとしていることは理解できます。言語と行為遂行性とのズレを指摘していますが、それはその通りだと思います。私が言っているのは、極く常識的な素朴な事態であり、厳密なことではありません。哲学的な厳密性を言えば、批判者の言う通りだと思います。
 美術で言えば、デュシャンの『泉』は、素朴には、便器でありますが、見方によって、「泉」となります。視点の問題が確かにあります。
 また、「構築への意志」云々ですが、確かにその通りです。ここで、ポスト・モダンと私や海舌氏の提唱するトランス・モダンの違いがあると思っています。ポスト・モダンは、デリダに象徴されますように、すべて相対化されて、形而上学は批判されます。しかし、PS理論は、いわば、ポスト・ポスト・モダンを志向していて、あえて言えば、新しい形而上学の構築を目ざしていると言えます。
 ですから、「構築への意志」があるというのはその通りだと思います。

http://ameblo.jp/bloghiro-dive/
entry-10120866669.html

差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代


2008年07月23日(Wed)▲ページの先頭へ
デリダのジョイス論とトランス・モダン
デリダの『ユリシーズ グラモフォン』の訳者の一人の合田正人氏の解説が知的に刺激的である。できれば、後で、検討したいが、そこで、問題になっている哲学的事象は、端的に、Media Pointであると考えられる。デリダは、ドゥルーズ以上にMedia Pointに接近していたのである。しかし、既述したように、ハイデガー哲学の影響によって、デリダは超越性を排除してしまっていたので、明確に Media Pointを捉えることができなかったと考えられるのである。
 思うに、ドゥルーズの差異イデア論とデリダの超越論的差異論ないしは決定不能性論を統合すると、不連続的差異論になる。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は出てこない。何故なら、ポスト・モダンは超越性を排除してしまっているからである。
 だから、未読であるが、レヴィナスをそこに加えるといいのかもしれない。ライプニッツ、スピノザを加えてもいいだろう。また、未読であるが『神的な様々の場』のジャン・リュック・ナンシーを加えてもいいのではないだろうか。
 しかしながら、一番の寄与は、ウスペンスキーの第三の論理学(正しくは、ターシャム・オルガヌム)や、鈴木大拙の即非の論理学、他からもたらされるだろう。矛盾が共鳴・共振する論理が決定的なのである。それが、トランス・モダンであり、トランス西洋文明なのである。
 自然科学では、量子論がその論理をもっている。即ち、粒子と波動の相補性である。

p.s. 因みに以下の翻訳が出版されている。デリダの修論だそうだ。

フッサール哲学における発生の問題 ジャック・デリダ、合田 正人、 荒金 直人 (単行本 - 2007/11/22)

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ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス) (単行本)
ジャック デリダ (著), Jacques Derrida (原著), 合田 正人 (翻訳), 中 真生 (翻訳)

[思想]
2004.6.18 中井 悠
蓄音機の効果 (1/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo/
daily/content/200406180001/index.html

[思想]
2004.6.24 中井 悠
蓄音機の効果 (2/2)
ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」
 もしボルヘスが物語ったような絶対的な記憶を持つ神のごとき存在、あるいはその逆に、ニーチェが嫉妬したような記憶という重荷と縁のない動物たちが相手であったならば、余計な言葉を費やさずともよかっただろう。だがあいにく語りかけられるべきは、その狭間にいる中途半端に頭の良い/悪い人間たちであり、その多くが対処すべく直面しているのは、忘却の不安(?)を抱えつつも反復はとりあえず成立しているという、いささか厄介な事態である。
http://www.ream.ais.ne.jp/~fralippo
/daily/content/200406240001/index.html

DAILY COMMENTARY ||| JOURNAL SITE


2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性主義と差異共振主義;大調和主義ではなく、やはり、新母権主義=差異共振主義が正しい
先の、新母権主義と大調和主義の考察の結論
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10105384849.html
に対して、まだ納得できていないので、ここで再考したい。端的に言って、先の議論は少し、へ理屈的、ないしは詭弁的ではなかったか。
 問題は、同一性主義=父権主義が永遠に反復されるから、それへの脱構築が永遠に必要であるという点にあろう。しかしながら、脱同一性主義化が為されたとき、つまり、意識が差異化されたとき、同一性主義=父権主義が反復するのだろうか。それはありえないのではないだろうか。もちろん、同一性への傾斜はあるが、それが、同一性主義=父権主義になるということではないのである。
 だから、先の考察は誤謬である。ここで訂正したい。だから、大調和主義は誤りである。新母権主義が正しいのである。元へ戻ったのである。


2008年02月24日(Sun)▲ページの先頭へ
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

テーマ:トランス・モダン・コスモス

プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。
 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。
 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。
 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。
 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。
 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。
 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。
 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。
 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。
 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。
 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。
 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。
 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。
 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。
 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。

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「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

共同‐体(コルプス) (単行本)
ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳)

ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。
 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。
 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。
 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。
 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。
 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。

★★★引用開始★★★

【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく---
----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。
 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】  p. 68

★★★引用終了★★★
 

参考:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/
yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm






2008年01月02日(Wed)▲ページの先頭へ
観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ
田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。


2007年12月31日(Mon)▲ページの先頭へ
Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体
Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

今日、役人や政治家の堕落・腐敗は、近代的自我によると見ていい。私利私欲・利己主義・自己中心主義によるのである。この根本は哲学的には、自我同一性知性にあると考えられる。存在の本源にあるのは、差異(正しく言えば、差異共振性であるが、簡略的に、差異とする)であるMedia Pointであると考えられ、ここから、この自我同一性知性をもたらす同一性中心主義志向性(構造)によって、差異が否定され、排除・隠蔽・抑圧する事態が生起しているのである(私は精神分析に通じる用語を用いるが、精神分析、さらには、ユング心理学等は、プラトニック・シナジー理論の考え方によってこそ、修正的に発展できると考えている。これについては、いつか述べたい。)。
 今日の世界は、この同一性中心主義による自我同一性知性が中心となっている。そのために、差異は否定されて、諸戦争(戦争で、国家間の戦闘から、日常的な闘争を含める)が起こるのである(ホッブズ:万人の万人に対する戦争)。
 人が通常、「私」(自我)と考えているのは、この自我同一性知性が生み出すと言えよう。この「私」は、他者と戦争し、他者を打ち負かして、「私」に利益をもたらすのである。これが、資本主義の弱肉強食の世界である。
 人間が動物以上に残忍酷薄なのは、同一性中心主義志向性に拠ると言えよう。何故なら、動物の場合は、おそらく、Media Pointの根源から生活していると思えるからである。つまり、差異と同一性が未分化であり、同一性が主導的なときには、闘争するが、差異が主導的なときは、平和共存するのである。ある意味で、自然界において、他者とのそれなりの共存共栄を行っているのである。そう、自然の叡知、Media Pointの叡知と考えられる。
 人間において、Media Pointの叡知が同一性中心主義志向性や自我同一性知性によって翳っているのである。仏教では、これを無明(むみょう)と説いたのである。そして、空の教義によって、Media Pointの叡知へと回帰すべきことを説いているのである。大仏教である。そう、仏教は、トランス・モダン哲学の先駆であると言えよう。動物的な Media Pointの叡知が、太母文化にあったが、その後、父権文化が発生して、同一性中心主義志向性が主導的になった。それに対して、動物的なMedia Pointの叡知の復興として、仏教が興隆したと思われるのである。(だから、現代でも、仏教の教理は有効である。)
 現代において、資本主義の世界において、自我同一性知性が、金融を動かしているのである。量的な知性が動かしているのである。しかしながら、これは、サブプライムローン問題を見ても分かるように、限界があるのである。
 さて、ここで、私は理性を問題にしたいのである。この言葉は混乱している。とまれ、私はMedia Pointの叡知こそ、理性、真の理性であると考えるのである。だから、Media Point理性と呼んでいいだろう。あるいは、Media Point知性でもいいだろう。(本当に、言葉が混乱していたり、不十分なので、的確に表現できないのは困ったことである。)
 Media Point理性に対して、自我同一性知性は、それを否定して隠蔽している。つまり、無明・狂気の様態に現代の人間は存するのである。狂気的人間としての現代の人間である。倒錯・転倒・倒立しているのである。逆さまである。善が悪となり、悪が善となっているのである。(「奇麗は汚い、汚いは奇麗」『マクベス』)
 もっとも、現代、ポスト・モダンにあって、トランス・モダンの志向性が活性化していると考えられる。それは、Media Point理性への回帰の動きである。同一性を包摂した高次元のMedia Point理性(高次元理性ないしは高次元知性とも呼べる)への螺旋的回帰である。
 資本主義世界は、自我同一性知性によって、破壊的に発展してきた。それによって、根源のMedia Point理性が翳り、隠蔽されてきたのである。しかしながら、自然の力・エネルギーとは、一方的なものではなく、太極的であると考えられる。同一性への志向性に対しては、差異への志向性が作用するのである。つまり、言い換えると、心が外界へと志向して、自我同一性知性を形成した。しかるに、心は内界へと回帰する志向をもち、自我同一性知性主義を破壊するのである。ポスト・モダン志向である。この自然の回転運動(太極原理)が、世界を支配するのであり、資本主義にも影響を与えるのである。
 思うに、ネオコンとは、アイロニカルな没入から、反動的な資本主義である。キリスト教原理主義とは、自然の回転運動の内界志向性の反動なのである。
 今日の世界・日本の大暗黒にあっても、自然は回転運動(太極原理)を永続するのであり、内界志向性は強化されるのである。例えば、文学でファンタジーが興隆したのは、これが根因であると考えられるのである。また、精神世界ブームも危険ではあるが、これが根因であると考えられる。
 問題は、ポスト・モダン様態にあって、自我同一性知性主義が反動化されることである。これは、全体主義的になるのである。(例えば、小泉元政権を考えるといいだろう。)また、機械主義的になるのである。人間の心の破壊である。端的には、人間の心の劣化であり、知能の低劣化・退化である。
 資本主義は、情報革命となり、ますます新たな差異を必要とするのであるが、自我同一性知性に支配されているので、パラドックスの事態にあると言えよう。世界を資本主義の枠組みを超えて、前進させるのは、端的に、Media Point理性への回帰である。高次元理性・知性への進展である。トランス自我同一性主義、トランス・キャピタリズムである。差異共振経済である。ここでは、高次元の高度な感性・知性が必要とされるのである。
 そして、政治においてこそ、この差異共振理論が必要とされよう。国家を差異共振性によって、創造的に変容させる必要があるのである。自我同一性知性という私利私欲を目指すものでなく、Media Point理性による差異共振価値を目指す政治が必要なのである。これは、端的に、パラダイム・チェンジである。相転移である。ポスト・モダンからトランス・モダンへの質的転換である。これは、世界御一新である。差異共振共同体、差異共振企業が世界を変容するのである。


2007年12月02日(Sun)▲ページの先頭へ
構造主義について:垂直性と水平性の混同する構造主義とサブ構造主義としてのポスト・モダン:トランス・ポスト・モダン=トランス・モダン=トランス・オクシデント
(+i)*(-i)を根源的対立とすると、構造主義、とりわけ、神話学的構造主義は、この対立がMedia Pointにおいて、連続=同一性化したときの様態を捉えたもののように思える。即ち、(+i)*(-i)⇒±1の⇒±1を形式化したものではないかと思えるのである。たとえば、「天」と「地」との対立があるとしよう。これを、構造主義は、二項対立(二元論)として、⇒-1の側面を形式化する。そして、同時に、即非対立の側面⇒+1であるが、これを構造主義は中間項として提起すると思われるのである。山口昌男で言えば両義性である。つまり、構造主義は、Media Pointにおける連続=同一性化プロセスにおける顕在且つ潜在的両面を形式化しているということである。顕在的側面とは⇒-1であり、潜在的側面とは⇒+1である。
 問題は、潜在的側面・中間項を、顕在的側面・二項対立と同じ次元・レベルで扱っていることである。つまり、本来、垂直・虚数的事象であることを、水平・実数的事象として扱っているのである。一種のカテゴリー・エラーがあると言えよう。つまり、端的に言えば、混乱・混同・混濁・混線があるのである。垂直性と水平性の混乱・混同があるのである。これは、結局、ポスト・モダンの混乱、袋小路に引き継がれたのである。思うに、構造主義よりも、ポスト・モダンは理論的には、悪化した面があるのである。なぜなら、神話学的構造主義を考えると、そこには、混乱しつつも、垂直性が作用しているが、ポスト・モダンにおいては、垂直性が否定されているからである。デリダは、フッサール批判において、フッサールの垂直性(超越論性)を否定・排除しているし、ドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越性を否定しているのである。ここにおいて、ハイデガー哲学について言及しておくのが適切である。ハイデガー哲学こそ、フッサール現象学の超越性を否定した似非現象学なのである。ポスト・モダン哲学の元祖はハイデガー哲学である。(また、さらに言えば、ヘーゲルこそ、ポスト・モダンの大元祖であると考えられる。なぜなら、構造主義論理は、弁証法論理と一致すると考えられるからである。)
 もう少し、ポスト・モダン哲学について述べると、これは、神話学的構造主義のもっていた垂直性を否定して水平性へと還元させた理論と考えられる。プラトニック・シナジー理論で言えば、実数軸の理論であり、Media Pointが実数軸の原点に還元されているのである。だから、この点から言うと、ポスト・モダンとは、サブ構造主義(亜・従位構造主義)sub-structuralismである。だから、ポスト構造主義とは、誤った命名である。
 ここで、視点を広くすると、芸術におけるモダニズムが構造主義に相当するだろう。そこでは、垂直性と水平性が混乱しているのである。そして、モダニズム主流においては、水平性・同一性が優位となり、垂直性を否定したのである。それに対して、モダニズム傍流においては、垂直性が優位となったのである。D.H.ロレンス文学はそのようなものであるし、宮沢賢治文学もそうである。ポスト・モダンとは、サブ構造主義なのである。「デカダンス」である。今日の文化的混乱・行き詰まり・閉塞はここに根差すと言えよう。トランス・ポスト・モダンが必要なのである。それは、同時に、トランス構造主義であるし、端的に、トランス・モダンである。


2007年11月23日(Fri)▲ページの先頭へ
差異とMedia Point:超越性と同一性
以下の話はおもしろい。ドゥルーズは、超越性を否定して、すべて内在性(連続性)で説明したいのである。
 また、esseとessentiaの事柄であるが、これは、ハイデガーの存在論とも関係するが、PS理論からいうと、esse以前、Media Pointがあるのである。esseとは、Media Pointが同一性の志向性を開始した始点ではないだろうか。そうならば、内在性の哲学となり、超越性は否定されるのである。後で再考したい。

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上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000 )などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaを esseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻 )にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。
http://www.medieviste.org/mediolog
/archives/2007_11.html#001029
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2007年11月17日(Sat)▲ページの先頭へ
大和心は、同一性=漢心に囚われている。本居宣長の大和心と漢心はポスト・モダン的癒着様態ではないか
★論考1★

本居宣長については、以前から問題視している。大和心を説いた国学の創始者ではあるが、私は漢心を否定するその論が漢心ではないかと思ったのである。
 今、簡単に考えると、大和心は差異共振性であり、漢心を同一性=自我と見ることができるかもしれない。
 しかし、それは危険な単純化、二元論ではないだろうか。漢心という言い方が問題である。漢心にも、差異共振性はある。例えば、老子の自然観がそうだろう。太極論である。
 やはり、国家主義の志向が強いと思う。差異共振性=自己と同一性=自我の二分化ならば正しいが、大和心と漢心は、国家主義的な弁別であると思う。
 これは、ポスト・モダン哲学にも関係してくると思う。大和心には、反同一性の思想があり、同一性=漢心を否定している。しかしながら、差異共振性とは、同一性=漢心を包摂するものでなくてはならないのである。結局、大和心は、同一性=漢心に囚われているのである。だから、本居宣長の大和心と漢心はポスト・モダン的癒着様態にあるだろう。思うに、この大和心が太平洋戦争のイデオロギーの原点ではないだろうか。
 後で整理して言い直したい。

++++++++引用・転載開始+++++++++


 「伊勢」と「熊野」私は何回も旅した。いずれも心が清まる旅だった。
 松尾芭蕉、本居宣長、観阿弥純粋なる日本人の心の原点がここにある。
 本居宣長は伊勢松坂(三重県松坂市)に生まれ、生涯を伊勢松坂で送った。宣長の生涯通じての課題は、日本文化に正しく根ざした借り物でない学問を築くことにあった。そのために、日本人の心に深く染みついた漢意(中国的な意味解釈のこと)を取り除き、「やまとだましい」を取り戻すことを強く主張した(『朝日日本歴史人物事典』中の「本居宣長」〈長谷川三千子筆〉参照)。

 現代の日本人が、純粋な日本人の心を取り戻すためにいま学ぶべき最良の教材は本居宣長であると思う。三重県は、純粋な日本的精神のふるさとである。 

2007.11.16(その2)
森田実の言わねばならぬ[732]
【新・森田実の地方を行く(8)】
野呂三重県政の「燻し銀」のごとき輝き●「文化力」を高めて地域主権確立をめざす野呂昭彦知事の静かなる挑戦〈4〉
三重県の文化資源=日本人の精神文化の源流
「敷島の大和心を人問わば朝日ににおふ山ざくら花」(本居宣長)

++++++引用・転載終了++++++++++
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★論考2★

新ケルト復興は、よそ事ではない。ケルト文化と日本文化は類似しているのである。共振共鳴するのである

テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

やはり、ケルト文化である、現代、活性化しているのは。先に述べたように、ケルト文化は差異共振的なのである。Media Pointが賦活されているのである。新ケルト復興は、よそ事ではない。ケルト文化と日本文化は類似しているのである。共振共鳴するのである。
 日本人は植民地洗脳から目覚めないといけない。日本亡国である。

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November 14, 2007
英米の解放のために戦う勢力

カナダや北欧でケルト民族の良い部分が残っている。フェアな精神、弱い人を守る心、環境を大切にする、異文化を尊重する、よく働き、よく遊ぶ、貴族と戦って盆民を開放するのが本来のケルト民族の文化です。



この民族を古代バビロニア式独裁の恐怖から解放したいのは私の目的の一つです。アジアの人達にそれを手伝ってほしい。アメリカ人やイギリス人の多くは、お金と情報の支配で洗脳された奴隷になっている。その奴隷の群れが恐ろしい軍事力で世界のあらゆる民族を奴隷にしようとしている。



アメリカやカナダ国内でその奴隷使い達と戦っている解放勢力が、必死になって情報戦争という形で戦っている。この状況でアジアが立ち上がれば、この奴隷使い達は永遠にこの世からなくなるだろう。

http://benjaminfulford.typepad.com
/benjaminfulford/2007/11/post-11.html
BenjaminFulford

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★論考3★

民主主義とは何ぞ哉:民主主義の制度疲労とトランス・デモクラシーとしての差異共振主義

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

民主主義とは何ぞ哉。
私は直感的には、民主主義がますます胡散臭いものに思えてきている。私は先に二つの「民主主義」を述べ、さらには、トランス民主主義として、差異共振主義を提示した。
 問題点は、個人と自我の混同・混淆・連続化にあると思う。民主主義は、個人主義が基盤となるが、それが、近代的自我と区別できないのである。というか、端的に、民主主義概念における個人とは近代的自我である。だから、同一性中心主義になり、金融資本中心主義になるのである。
 個人主義が近代的自我主義/近代合理主義となっているのであるが、やはり、差異を基盤にすべきなのである。そして、差異共振主義こそ、差異共振的発展を志向するので、民主主義による政官財の同一性腐食を無くすことができるのである。もう民主主義は制度疲労である。

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民主主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

民主主義(みんしゅしゅぎ democracy)とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。
概要

民主主義は個人 の人権 である自由 ・平等 ・参政権 などを重視し、多数決 を原則として意思を決定することにより、人民による支配を実現する政治思想 である。単純な多数決 と混同されることが多いが、単純な多数決では、単に多数であることをもって、その結論が正当であるとの根拠とするものであるが、民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする点で異なると主張される。 法的概念における民主主義は、君主制 などと対応する概念であり、連邦主義 などとは並存するものである。

[編集 ] 概念

哲学的には、デモクラシーの日本語訳で、君主 に対応する概念(対概念)として「民主」という概念を設け、人民 ないしは国民 が、支配 の正統性および実際の政治権力 の双方の意味を含む主権 を有するものとして、為政者 たる「民主」と、被治者たる人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治 的な原則や制度 を言う。「民主政治」という訳語がより原義に近いという意見もある。哲人政治 などの治者に何らかの条件を求めるものと違い、治者と被治者の自同性のため、失政による被治者への損害は確実に治者によって補償される。

「民主主義」ならば、デモクラティズムdemocratismの訳語であるという意見もある。

日本においては、幕末、democracy(民主主義)とrepublic(共和制)の概念が混同され、どちらも「共和」と邦訳されることもあった。

民主主義は「過去の人々」がもし現在の意思決定に参加したならどう判断するか?、という視点、あるいはまだ生まれていない人々がもし現在の課題に対して意思決定に参加したならどう判断するか?、といった視点から、単なる現在「たまたま」参加できる投票者による多数決 を否定する論調(歴史主義 )が存在する。歴史主義は保守・革新の双方から尊重される一方で、現実に直面している課題を解決することを先延ばし しているだけであるという批判に対して論理的な証明を持たない弱点がある。また検証不能な歴史観 なるものを背景に独裁政を助長する可能性がある(唯物史観による共産党一党独裁や皇国史観など)。

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★論考4★

同一性を物質(情報物質、シナプス)とするなら、物質が破壊されても、差異=記憶自体は残るはずである

テーマ:生命科学/遺伝子問題

記憶と意識の関係を考察しないといけない。PS理論から見ると、記憶は、本来、差異が記憶の本体であり、同一性は、その表層に過ぎない。同一性を物質(情報物質、シナプス)とするなら、物質が破壊されても、差異=記憶自体は残るはずである。差異はイデアであるからである。
 記憶があるが、情報物質が破壊されている場合は、意識できない(忘却)ということになるのではないだろうか。後で検討。

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「老化で物忘れ」の仕組み解明=アルツハイマーと同じたんぱく質関与理研

11月16日2時30分配信 時事通信

 アルツハイマー病に関与するたんぱく質の一つが、老化に伴う記憶障害の原因になっていることを、理化学研究所の高島明彦アルツハイマー病研究チームリーダーらがマウスを使った実験で確認し、15日付の学会誌に発表した。このたんぱく質が脳内に蓄積すると、アルツハイマー病の原因になる神経細胞の変質(神経原繊維変化)をもたらすが、早期に発見できれば、発症予防が期待できるという。
 人間の脳は老化に伴い、記憶の形成にかかわる嗅内野(きゅうないや)という部位に「過剰リン酸化タウたんぱく質」が蓄積し、神経原繊維変化が発生。その後「ベータアミロイド(Aβ)」と呼ばれる別のたんぱく質により脳の広い部位に神経原繊維変化が拡大、アルツハイマー病に至る。
 研究チームは、ヒトのタウたんぱく質を作るマウス(タウマウス)を遺伝子操作でつくった。学習、記憶行動と神経細胞の活動を調べたところ、若いタウマウスでは通常のマウスとの違いはなかったが、老齢では嗅内野の神経原繊維変化が起きていなくても、記憶能力が極端に低下していた。
 老齢タウマウスの嗅内野を詳しく調べると、神経細胞同士のつながり(シナプス)の減少が判明。タウたんぱく質が神経原繊維変化とは別に、シナプスを減少させて記憶障害を起こしていることが分かった。
 神経原繊維変化は元に戻せないが、タウたんぱく質は薬剤で害を与えない状態に変化させることができるため、早期の発見により、記憶障害の改善やアルツハイマー病への進行を防げる可能性があるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20071116-00000020-jij-soci

# 過剰にリン酸化したタウタンパク質が脳老化の記憶障害に関与 - ニュースリリース。独立行政法人理化学研究所

# 脳 - 機能や構造図。メルクマニュアル医学百科

# アルツハイマー病 - 特徴や治療法。病気のはなし・病気辞典・病気
# アルツハイマー病を疑う10の症状 - 認知症なんでもサイト

# 物忘れがひどい - Yahoo!知恵袋


2007年11月13日(Tue)▲ページの先頭へ
近代的自我の狂気について:心の弱者と心の強者:民主主義批判と差異共振的秩序
同一性の志向とは、他者である差異を否定・排除するので、当然、自己中心主義=利己主義である。思うに、この他者=差異の否定・排除とは、否定的感情である。嫌悪というよりは、憎悪である。そして、嫉妬、怨恨(ルサンチマン)が生じる。当然、他者=差異を認識しないので、非合理的である。同一性=言語の知覚はあるのであるが。この同一性=言語の知覚とは何か。それは、正に、ロゴス中心主義ではないだろうか。西洋文明の意識である。(参照:D.H.ロレンスの天才的な洞察のメルヴィルの『白鯨』論)
 問題は、否定・排除された他者=差異である。これは、ある意味で身体と言っていいだろう。同一性の意識は身体を捉えられない。しかしながら、身体との接触は、感情に存するだろう。感情を測深することで、自己認識へと近づくと言えよう。同一性意識は、自我感情に無意識である。つまり、憎悪感情を意識していない。
 感情領域への測深、すなわち、省察や瞑想によって、他者=差異への認識へと近づく。感情領域には、自我感情(憎悪)と共振感情(共感)が存するだろう。
 思うに、省察や瞑想とは、正に、特異性の認識行為であり、単独的行為である。犀の角のように、ただ独り歩め、である。自己知とは、自分以外、誰も教えられない。ただ、方法は教えられるが。
 省察・瞑想の問題点は、それが、身体へと測深しないといけないことである。同一性の頭脳で考えている限り、つまり、自我、近代的自我で考えている限り、不可能であるということである。出口なしである。
 身体的他者・差異を見い出さない限り、自己認識に達しない。しかし、これは、危険な行為ではある。単に身体的他者・差異に達するというよりは、同一性と身体的他者・差異を対話・交信させることが必要なのである。わかりやすく言えば、相互形成が必要なのである。これが、自己涵養である。そして、⇒+1が形成されるのである。
 こんにち、ポスト・モダンの時代にあって、身体的他者・差異が賦活されていると考えられるが、そのエネルギーを同一性=近代的自我は、取り込むことができずに、反発するだけであるが、それが反動的な身体的他者・差異のエネルギー、すなわち、狂気・暴力をもたらすと考えられる。そう、「分裂症」である。同一性=近代的自我のコントロールできないエネルギーに見舞われているのである。
 もともと、同一性=近代的自我には憎悪があるから、憎悪が増幅されると言えよう。言うならば、狂憎である。そして、次第に、狂憎に支配されて、真の狂人になるのである。

p.s. 近代的自我における、言わば、同一性自我感情であるが、同一性自我であることに自惚れるのであるが、これは、同一性のもつ自己満足から来ていると言えよう。同一性を反復することで、同一性自我は、自己満足するのである。そして、同一性自我感情の型ができると思われる。慢心・傲慢の型である。あるいは、独善・独断・自己欺瞞・自己瞞着の型である。思うに、同一性癒着の型とも言えるだろう。つまり、他者・差異に自己投影して(鏡像)、同一性化するのであるから、同一性癒着ないしは同一性自我癒着である。自乗である。i^2⇒-1である。
 ここでは、他者・差異はまったく消えている。自己盲目(無明)である。自己反射宇宙=パラノイアである。即ち、自我と他者・差異が分離・乖離しているのである。だから、同一性狂気である。
 では、他者・差異の賦活が生起するのに、どうして、同一性は自我閉塞してしまうのか。これは、以前さんざん考えた問題である。弱さ、劣弱さが原因ではないか。つまり、他者・差異を認めることは、自我感情にとって苦痛をもたらすことである。自我同一性にとって、他者・差異を認めることは屈辱である。この苦痛を感受したくないので、他者・差異を否定し続けるのだろう。そう、同一性欲望が、他者・差異を否定・排除し続けさせるのである。
 しかしながら、他者・差異は賦活され、発現するのだから、それを否定・排除するのは、非合理、非科学的である。なにか病的なものがある。思うに、恐怖ないしは不安が根因ではないだろうか。同一性自我にとり、他者・差異は恐怖であると考えられる。未知のものであり、一種暗闇のようなものである。
 だから、心が弱い者は、他者・差異を避けるのである。どうもこれで説明がつくようだ。以前、高貴な差異と劣弱な差異を分けたが、それは当たらず言えども遠からずであったろう。
 人の心は、人それぞれである。大きく分けると、弱い心と強い心の持ち主がいるのである。一般に、人間は前者である。だから、同一性中心主義となるのである。しかしながら、少数者の後者がいる。いわば、生まれながらの貴族である。精神的貴族である。彼らは、他者・差異を肯定して、苦悩するのである。そして、遂には、差異共振性へと達するのである。民主主義の一番の問題点は、前者が多数を占め、後者の存在を否定することである。衆愚主義である。ニーチェの批判は正しい。賎民、弱者の支配なのである。しかし、さらに、これは、賎民・弱者にとっても不幸である。愚者は悪人を支配者に選ぶのである。全体主義となるのである。(小泉元首相の政治が正にそうであろう。)ニーチェ/ロレンスの民主主義批判は炯眼である。心の強者が指導者にならなくてはならない。


2007年11月11日(Sun)▲ページの先頭へ
経済の破局が大連立をもたらすだろう。そのとき、郵政民営化凍結が重要な問題となるだろう。
衆院選挙であるが、民主党がもし勝ったとしても議席の差は少ないだろう。大勝ちはしないだろう。しかしながら、それはそれで、民主党政権ができるだろう。
 しかしながら、そうだとしても、郵政民営化凍結へはなかなか動かないのではないだろうか。小沢一郎の二面性(いわば、絶対矛盾的自己同一である)は、国民主義(差異)と大資本自由主義(同一性)である。後者は、構造改革を肯定する方向であり、つまり、郵政民営化を肯定するということだろう。
 もっとも、問題は、経済の破局が近づいているから、呑気に、二大政党制とは言っていられなくなるだろう。それが、大連立をもたらすだろう。理念ではなく、経済的状況が駆動させるのである。
 だから、そのとき、郵政民営化凍結が問題になる。小沢一郎はどう出るのか。このとき、小沢一郎の内部で、矛盾が顕在化するのである。ここで、小沢を越える政治家がいなければ、日本はアウトである。

p.s. 小沢自身が自らを越えるということは絶対不可能ということではないが。つまり、小沢の一面の差異が主導的になれば、同一性(郵政民営化)を凌駕する方向へは向かうだろう。私はそれを切望する。

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衆院選民主敗北の意識と恐怖が高まれば高まるほど、選挙による政権獲得の夢は遠ざかる。そこで小沢氏から与えられた「自民との大連合」と言う政権政党への直線コースの意識が高まる。いくら小沢氏が「大連合のことは考えない」と言っても民主党の議員たちは考えざるを得なくなる。民主党が「利口者と愚か者」に別れ、小沢は利口者を連れて自民に返る。

(2007年11月07日)

http://www.chokugen.com/

増田俊男の愉快な暴言

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************************

キャサリン・ジェンキンス:ネオ・ケルト・ルネサンス、又は、自然霊性ルネサンス


キャサリン・ジェンキンスもケルト系である。正に、「ケルティック・ウィメン」である。ケルト大爆発である。昨日から、ヘイリー・ウェスタンラ、ナターシャ・マーシュ(画像)、キャサリン・ジェンキンスと、いわば、三大ケルト歌姫である。
 19世紀末から20世紀初期にかけて、ケルト・ルネサンス(正しくは、ケルト復興ないしはアイルランド文芸復興)があったが、現代は、新たなルネサンスとなっている。ニュー・ケルト・ルネサンスである。『指輪物語』や『ハリー・ポッター』等のブームもそうである。私は新霊性のエポックと考えているが、トランス・宗教としての、自然の霊性の復活である。そう、

自然霊性ルネサンス

である。

私は、自然霊性教を提唱したい。これは、プラトニック・シナジー理論から派生することでもある。これは、新神道、すなわち、神道ルネサンスでもある。


2007年10月28日(Sun)▲ページの先頭へ
Media Pointから同一性の発生へ:脱同一性=連続性化としてのMedia Point回帰:
ふとひらめいた。
同一性の形成についてである。Media Pointが同一性へと転化するのである。つまり、Media Pointと同一性が重なるのである。Media Pointが同一性の表面をもつといってもいい。差異が同一性化されるのである。差異は同一性になったのである。ここには、差異の錯誤があるのである。同一性が中心化されて、差異に対して「不感症」になるのである。同一性絶対主義と言えるだろう。差異への完全盲目である。同一性に一体化して、めしいたのである。差異が見えなくなったのである。
 自我同一性絶対主義であるから、個がないのである。個核・個芯がないのである。同一性様態の中で考えるので、ありきたりである。
 そう、差異は、Media Pointは完全に無意識となっている。闇となっているのである。ハイデガーの本来的存在、D.H.ロレンスの闇、三島由紀夫の無はこれではないだろうか。同一性自我の裏面である。
 この同一性は差異に気づけない。精神病様態である。同一性が支配しているのである。この同一性支配から脱却できないのである。同一性癒着とも言える。同一性の連続空間に存しているのである。内在空間である。ここを突破するには、差異を取り戻すには、差異と同一性を分離しないといけない。それは、不連続的差異論によって実現した。
 問題は、同一性=連続性空間において、差異が独自化し出すときである。それまでは、Media Pointが同一性へと張り付いたのである。しかし、Media Pointは、同一性発現から、差異へと回帰するのである。私は先に、差異-iが回帰すると言ったが、これは、正しくは、i*(-i)が回帰するのである。
 思うに、同一性を構築した後、Media Pointは自己自身へと回帰するのではないだろうか。このとき、同一性=連続性空間に閉じられたままなのが、ポスト・モダンである。Media Pointへの回帰運動はあるが、同一性=連続性空間が強固なので、純粋Media Pointへは回帰できないのである。実軸のMedia Pointにせいぜい達するだけである。
 今はここで留めたい。後で、詳述したい。

p.s. ひとこと述べておくと、差異への回帰とは、Media Point自体への回帰であるが、それは、差異即非共振様相である。それが、同一性=連続性空間で発生するのであるが、同一性論理では、差異即非共振論理が理解不可能である。絶対矛盾的自己同一の事態なのである。連続性・同一性が支配している西洋哲学は、この差異の論理=即非論理を取り出すことができなかったのである。(例外はウスペンスキーである。)言い換えると、差異・即非・同一性という差異即非共振論理を取り出すことができなかったのである。
 そう、同一性=連続性に捉えられた西洋文明は、差異への回帰様態であるポスト・モダン期において、狂気の度を高めると言えよう。それは、新植民地主義である。対日年次改革要望書である。近代的自我の自由民主主義である。(p.s. 差異エネルゲイアは、同一性=連続性空間では、絶対主義ないしは全体主義的同一性となる。キリスト教的独善主義となるのである。この同一性=連続性の絶対主義/全体主義はキリスト教原理主義となり、また、新自由主義=新植民地主義となるのだろう。)
 結局、トランス・モダン・エラへとイニシアティブをもって行為すべきなのである。


2007年10月27日(Sat)▲ページの先頭へ
ポスト・モダン期における近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘
余裕がないので、簡単に言うと、近代的自我/近代合理主義は、同一性中心主義の知しかない。有り体に言えば、自己中心主義の知しかない。
 しかし、ポスト・モダンの現代において、差異が回帰するが、近代的自我はどうなるのか。それは、非合理衝動に駆られることになる。
 どうしてか。近代的自我は、i→-iの同一性志向性をもつ。ここでは、同一性観念を形成する。つまり、単純に考えると、ここでは、差異である-iが否定されているのであるから、他者(差異)への共感性(倫理)はないのである。ただ、優越的な道徳は志向するだろう。パターナリズムである。
 つまり、近代的自我/近代合理性には、他者がなく、共感性がなく、倫理・社会性がないということである。端的に、共感知がないと言えよう。言い換えると、精神的知性がないということである。
 この様態において、ポスト・モダン期となると、否定された差異-iが回帰するのであるが、近代的自我は、差異-iの受皿がないのである。-i→iにおいて、それは、いわば闇の衝動となって襲うと考えられるのである。これが、精神病の原因である。見知らぬ衝動=狂気が近代的自我を襲うのである。今日、うつ病、あるいは、凶悪凶暴な犯罪が多い内因はここにあるのではないだろうか。また、新興宗教、カルト、原理主義が発生する内因もこれだろう。
 問題は、差異が回帰しても、単なる非合理な衝動にしかならず、近代的自我/近代合理主義=同一性構造はそのままであることである。いわば、狂気の近代的自我/近代合理主義である。これが、ブッシュ/ネオコンを説明するし、グローバル巨大資本主義を説明するだろう。
 簡単に言えば、共感知がないのである。また、素朴な共感性があっても、近代的自我=利己主義の環境によって、攻撃されるだろう。(ここで、スピノザの能動的観念の智慧が生きるのであるが。)
 もし、近代的自我/近代合理主義とは別に、共感性があれば、差異の回帰するポスト・モダン期においても、差異を意識化して、差異知性、共感意識、共感知(共感智)を形成しうるだろう。
 そして、これが、Media Pointの芯になるものなのである。それは、Media Point共感心と言ってもいいだろう。
 問題は、近代的自我/近代合理主義を形成した近代的知識層は、ポスト・モダン期においては、非合理主義・狂気的になることである。一般に、資本家・官僚・役人・政治家・教員等々は、そのようなタイプなので、今日、異常なのであり、端的に、悪人となるのである。ブッシュ/ネオコンはそのような最たるものである。
 そして、あまり高い知識のない層は、共感性をもっているので、非合理主義・狂気化せずに、共感意識ないしは真正な信仰心を形成するのである。
 そう、ポスト・モダンの末世において、後者のような人びとが、導くべきである。前者は自己保身、私利私欲主義なので、世の中は、腐敗・頽廃する一方であり、亡国となる。
 ここで、私の経験から共感知の形成について簡単に触れたい。思うに、シュタイナーが霊的能力を形成するには、知的能力が前提であると言ったのを想起する。思えば、共感能力とは感情性が強いものであるから、知が影響されやすいと言えよう。合理的知性を維持しつつ、共感知性を形成することは難しい。
 そう、端的に、共感性をイデア・理念化する必要があるのである。言い換えると、共感性の霊化である。(スピノザの能動的観念とは、このことを意味していると思う。)共感性を理念化しないと、合理的知性と齟齬を来すだろう。
 合理的知性はクールなものであり、共感性は情感的であるからである。共感性を知的に理念化すれば、合理的知性と共存・共立・併存するものとなる。ここにおいて、Media Pointの萌芽があるのである。
 結局、差異回帰のポスト・モダン期とは、近代的自我/近代合理主義にとっては、非合理主義/狂気衝動をもたらし、共感的自我にとっては、共感知性、共感的理念を形成し、トランス・モダン的自己への転換をもたらすと言えるだろう。
 今日、狂気と叡知との争闘があると言えよう。近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘である。闇と光の戦いである。かつては、近代主義が光であったが、今日は反動的なのである。そして、共感的イデアをもつトランス・モダン叡知が光なのである。
 それにしても、共感智をもたらすものとは何なのだろう。それは、端的に、自己を見つめることであろう。自己を測深内省することであろう。簡単に言えば、孤独の時間をもつことである。群れから離れることである。脱群化、脱集団化である。思えば、私は原始仏典の「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉を信じた時期があった。
 いろいろ教養があるが、それよりは、基本はただ独りになり、沈思黙考することであろう。

It makes you a wise person to be alone and contemplate deeply.

But it makes you an idiot to belong to the throng and talk loud.
 

参考:

あらゆる生き物に、暴力を加えず、
いかなる生き物にも、苦悩を与えず、
子女を求めることなく、朋友を求めず、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

交わりをなせば、愛情が生まれる。
愛情が生まれれば、苦悩が生まれる。
愛情から、苦悩が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

朋友や親友などと、時間を共にし、
心が絆されると、己の利が損われる。
親交から、浪費が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子への愛著は、竹林が茂るが如し。
竹の子が、他に絡むことがないように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

鹿が食を求め、欲する処に赴くよう、
聡明な人は、自立自由を目指している。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間と共にいれば、常に呼ばれる。
休む時も、行く時も、旅をする時も。
他人に従属しない、自立自由を目指し、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間の中には、遊戯と歓楽がある。
また、子に対する愛情は甚大である。
愛しきものと、別れることを厭いつつ、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

害心と恐怖を捨て、何処にでも赴き、
得た恩恵に足りて、得た苦難に堪える。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

出家しても、不満を抱くものがいる。
在家にいても、不満を抱くものがいる。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の落ちた樹の如く、在家の印を捨て、
在家の柵を断ち、犀の角の如く独り歩め。

法友を得たなら、危難に悉く打ち勝ち、
心から喜び、落ち着いて、彼と共に歩め。

法友を得ないなら、戦争に勝った王が、
征服した国を捨てる如く、ただ独り歩め。

法友を得る幸せを、褒め称える。
己より優れた者、また、等しい者。
彼らとは、親しみ近づくべきである。
法友が居なければ、罪科なき行を修め、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

見事に輝ける、二つの黄金の腕輪を、
片腕に嵌めるなら、ぶつかるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

二人で居れば、饒舌と口論が起こる。
必ず未来に、このようになるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は甘美であるが、心を撹乱する。
欲望の喜びの裏に、撹乱の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は、災害であり、禍患であると、
欲望の喜びの裏に、恐怖の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

寒と暑、飢と渇、風と熱、虻と蛇と、
これらすべて、ことごとく打ち勝って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

蓮華のように、見事な肩をした象は、
群れを離れ、欲するままに森林を歩く。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

群れる者が、解脱に至る道理はない。
太陽の末裔、ゴータマの言葉を聞いて、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

矛盾する観念を超え、悟る者は言う。
「智慧を得た、誰にも教わる要がない」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪ることがなく、偽ることがなく、
渇望することなく、偽ることもなく、
迷妄を除いて、妄執のないものとなり、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

不義なる者を見て、悪い友を避けよ。
貪欲に耽り怠る者と、進んで親しむな。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

真理を弁える、聡明な法友と交われ。
有益な事柄を学び、疑念を拭い去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

遊戯や娯楽や快楽に、喜びを感じず、
心惹かれず、着飾らず、真実のみ語り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子、父母、財宝、穀物も、親族も、
そのほか、あらゆる欲望を捨て去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

「これは、執着であり、魚を釣る針。
ここは、楽しみが寡く、苦しみが多い」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

水の中の魚が、網を破り出るよう、
既に焼けた処に、火が戻らないよう、
諸々の煩悩の結び目を、悉く破り去り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

常に下を向き、うろつくことなく、
諸感官を塞いで、煩悩から心を護り、
流されることなく、焼かれることなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の散る樹の如く、在家の印を除き、
出家を果たし、袈裟の衣を身に付ける。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

味を貪ることなく、選り好みをせず、
戸ごとに食を乞い、家々に囚われない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

五蓋を断ち切り、随煩悩を取り除き、
誰にも頼ることなく、愛情を乗り越え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

以前に味わった、味著と禍患を捨て、
喜びと憂いを捨て、寂静と平安を得る。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

最高の目的を果す為、慇懃精進し、
心が怯む事なく、行を怠る事もなく、
堅固な活動をなし、体力と智力を備え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

独坐と禅定を、打ち捨てる事なく、
諸々の事柄について、理法に従がい、
諸々の生存には、憂いがあると知って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妄執の消滅を求め、怠惰にならず、
明敏に、学ぶこと深く、心を止める。
理法を明らかに悟り、自制し努力する。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

音や声に驚かない、獅子のように、
網に捕まることがない、風のように、
水に汚されることのない、蓮のように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

歯牙が強く、獣の王である獅子が、
他の獣を制圧して、振る舞うように、
他の人から離れた処の、坐臥に親しめ。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

慈愛と悲哀と平静と解脱と歓喜とを、
時に応じて修め、世間に叛くことなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪欲と瞋恚と愚癡の、三毒を捨てて、
結び目を破り、命を失うのを恐れない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

今の人々は、自分の利益のため、
交わりを結び、或は、人に仕える。
今日、利益を求めない友は得がたい。
己の利益のみ求めるものは、汚らしい。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

スッタニパータ 第一章 第三節

http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/suttanipata13.htm


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