トランス・モダン/トランス・モダン叡知学

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性主義と差異共振主義;大調和主義ではなく、やはり、新母権主義=差異共振主義が正しい
先の、新母権主義と大調和主義の考察の結論
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10105384849.html
に対して、まだ納得できていないので、ここで再考したい。端的に言って、先の議論は少し、へ理屈的、ないしは詭弁的ではなかったか。
 問題は、同一性主義=父権主義が永遠に反復されるから、それへの脱構築が永遠に必要であるという点にあろう。しかしながら、脱同一性主義化が為されたとき、つまり、意識が差異化されたとき、同一性主義=父権主義が反復するのだろうか。それはありえないのではないだろうか。もちろん、同一性への傾斜はあるが、それが、同一性主義=父権主義になるということではないのである。
 だから、先の考察は誤謬である。ここで訂正したい。だから、大調和主義は誤りである。新母権主義が正しいのである。元へ戻ったのである。


2008年02月24日(Sun)▲ページの先頭へ
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

テーマ:トランス・モダン・コスモス

プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。
 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。
 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。
 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。
 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。
 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。
 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。
 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。
 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。
 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。
 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。
 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。
 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。
 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。
 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。

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「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

共同‐体(コルプス) (単行本)
ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳)

ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。
 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。
 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。
 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。
 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。
 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。

★★★引用開始★★★

【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく---
----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。
 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】  p. 68

★★★引用終了★★★
 

参考:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/
yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm






2008年01月02日(Wed)▲ページの先頭へ
観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ
田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。


2007年12月31日(Mon)▲ページの先頭へ
Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体
Media Point差異知性と自我同一性知性:資本主義の限界と差異共振経済共同体

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

今日、役人や政治家の堕落・腐敗は、近代的自我によると見ていい。私利私欲・利己主義・自己中心主義によるのである。この根本は哲学的には、自我同一性知性にあると考えられる。存在の本源にあるのは、差異(正しく言えば、差異共振性であるが、簡略的に、差異とする)であるMedia Pointであると考えられ、ここから、この自我同一性知性をもたらす同一性中心主義志向性(構造)によって、差異が否定され、排除・隠蔽・抑圧する事態が生起しているのである(私は精神分析に通じる用語を用いるが、精神分析、さらには、ユング心理学等は、プラトニック・シナジー理論の考え方によってこそ、修正的に発展できると考えている。これについては、いつか述べたい。)。
 今日の世界は、この同一性中心主義による自我同一性知性が中心となっている。そのために、差異は否定されて、諸戦争(戦争で、国家間の戦闘から、日常的な闘争を含める)が起こるのである(ホッブズ:万人の万人に対する戦争)。
 人が通常、「私」(自我)と考えているのは、この自我同一性知性が生み出すと言えよう。この「私」は、他者と戦争し、他者を打ち負かして、「私」に利益をもたらすのである。これが、資本主義の弱肉強食の世界である。
 人間が動物以上に残忍酷薄なのは、同一性中心主義志向性に拠ると言えよう。何故なら、動物の場合は、おそらく、Media Pointの根源から生活していると思えるからである。つまり、差異と同一性が未分化であり、同一性が主導的なときには、闘争するが、差異が主導的なときは、平和共存するのである。ある意味で、自然界において、他者とのそれなりの共存共栄を行っているのである。そう、自然の叡知、Media Pointの叡知と考えられる。
 人間において、Media Pointの叡知が同一性中心主義志向性や自我同一性知性によって翳っているのである。仏教では、これを無明(むみょう)と説いたのである。そして、空の教義によって、Media Pointの叡知へと回帰すべきことを説いているのである。大仏教である。そう、仏教は、トランス・モダン哲学の先駆であると言えよう。動物的な Media Pointの叡知が、太母文化にあったが、その後、父権文化が発生して、同一性中心主義志向性が主導的になった。それに対して、動物的なMedia Pointの叡知の復興として、仏教が興隆したと思われるのである。(だから、現代でも、仏教の教理は有効である。)
 現代において、資本主義の世界において、自我同一性知性が、金融を動かしているのである。量的な知性が動かしているのである。しかしながら、これは、サブプライムローン問題を見ても分かるように、限界があるのである。
 さて、ここで、私は理性を問題にしたいのである。この言葉は混乱している。とまれ、私はMedia Pointの叡知こそ、理性、真の理性であると考えるのである。だから、Media Point理性と呼んでいいだろう。あるいは、Media Point知性でもいいだろう。(本当に、言葉が混乱していたり、不十分なので、的確に表現できないのは困ったことである。)
 Media Point理性に対して、自我同一性知性は、それを否定して隠蔽している。つまり、無明・狂気の様態に現代の人間は存するのである。狂気的人間としての現代の人間である。倒錯・転倒・倒立しているのである。逆さまである。善が悪となり、悪が善となっているのである。(「奇麗は汚い、汚いは奇麗」『マクベス』)
 もっとも、現代、ポスト・モダンにあって、トランス・モダンの志向性が活性化していると考えられる。それは、Media Point理性への回帰の動きである。同一性を包摂した高次元のMedia Point理性(高次元理性ないしは高次元知性とも呼べる)への螺旋的回帰である。
 資本主義世界は、自我同一性知性によって、破壊的に発展してきた。それによって、根源のMedia Point理性が翳り、隠蔽されてきたのである。しかしながら、自然の力・エネルギーとは、一方的なものではなく、太極的であると考えられる。同一性への志向性に対しては、差異への志向性が作用するのである。つまり、言い換えると、心が外界へと志向して、自我同一性知性を形成した。しかるに、心は内界へと回帰する志向をもち、自我同一性知性主義を破壊するのである。ポスト・モダン志向である。この自然の回転運動(太極原理)が、世界を支配するのであり、資本主義にも影響を与えるのである。
 思うに、ネオコンとは、アイロニカルな没入から、反動的な資本主義である。キリスト教原理主義とは、自然の回転運動の内界志向性の反動なのである。
 今日の世界・日本の大暗黒にあっても、自然は回転運動(太極原理)を永続するのであり、内界志向性は強化されるのである。例えば、文学でファンタジーが興隆したのは、これが根因であると考えられるのである。また、精神世界ブームも危険ではあるが、これが根因であると考えられる。
 問題は、ポスト・モダン様態にあって、自我同一性知性主義が反動化されることである。これは、全体主義的になるのである。(例えば、小泉元政権を考えるといいだろう。)また、機械主義的になるのである。人間の心の破壊である。端的には、人間の心の劣化であり、知能の低劣化・退化である。
 資本主義は、情報革命となり、ますます新たな差異を必要とするのであるが、自我同一性知性に支配されているので、パラドックスの事態にあると言えよう。世界を資本主義の枠組みを超えて、前進させるのは、端的に、Media Point理性への回帰である。高次元理性・知性への進展である。トランス自我同一性主義、トランス・キャピタリズムである。差異共振経済である。ここでは、高次元の高度な感性・知性が必要とされるのである。
 そして、政治においてこそ、この差異共振理論が必要とされよう。国家を差異共振性によって、創造的に変容させる必要があるのである。自我同一性知性という私利私欲を目指すものでなく、Media Point理性による差異共振価値を目指す政治が必要なのである。これは、端的に、パラダイム・チェンジである。相転移である。ポスト・モダンからトランス・モダンへの質的転換である。これは、世界御一新である。差異共振共同体、差異共振企業が世界を変容するのである。


2007年12月02日(Sun)▲ページの先頭へ
構造主義について:垂直性と水平性の混同する構造主義とサブ構造主義としてのポスト・モダン:トランス・ポスト・モダン=トランス・モダン=トランス・オクシデント
(+i)*(-i)を根源的対立とすると、構造主義、とりわけ、神話学的構造主義は、この対立がMedia Pointにおいて、連続=同一性化したときの様態を捉えたもののように思える。即ち、(+i)*(-i)⇒±1の⇒±1を形式化したものではないかと思えるのである。たとえば、「天」と「地」との対立があるとしよう。これを、構造主義は、二項対立(二元論)として、⇒-1の側面を形式化する。そして、同時に、即非対立の側面⇒+1であるが、これを構造主義は中間項として提起すると思われるのである。山口昌男で言えば両義性である。つまり、構造主義は、Media Pointにおける連続=同一性化プロセスにおける顕在且つ潜在的両面を形式化しているということである。顕在的側面とは⇒-1であり、潜在的側面とは⇒+1である。
 問題は、潜在的側面・中間項を、顕在的側面・二項対立と同じ次元・レベルで扱っていることである。つまり、本来、垂直・虚数的事象であることを、水平・実数的事象として扱っているのである。一種のカテゴリー・エラーがあると言えよう。つまり、端的に言えば、混乱・混同・混濁・混線があるのである。垂直性と水平性の混乱・混同があるのである。これは、結局、ポスト・モダンの混乱、袋小路に引き継がれたのである。思うに、構造主義よりも、ポスト・モダンは理論的には、悪化した面があるのである。なぜなら、神話学的構造主義を考えると、そこには、混乱しつつも、垂直性が作用しているが、ポスト・モダンにおいては、垂直性が否定されているからである。デリダは、フッサール批判において、フッサールの垂直性(超越論性)を否定・排除しているし、ドゥルーズ(&ガタリ)は、フッサール現象学の超越性を否定しているのである。ここにおいて、ハイデガー哲学について言及しておくのが適切である。ハイデガー哲学こそ、フッサール現象学の超越性を否定した似非現象学なのである。ポスト・モダン哲学の元祖はハイデガー哲学である。(また、さらに言えば、ヘーゲルこそ、ポスト・モダンの大元祖であると考えられる。なぜなら、構造主義論理は、弁証法論理と一致すると考えられるからである。)
 もう少し、ポスト・モダン哲学について述べると、これは、神話学的構造主義のもっていた垂直性を否定して水平性へと還元させた理論と考えられる。プラトニック・シナジー理論で言えば、実数軸の理論であり、Media Pointが実数軸の原点に還元されているのである。だから、この点から言うと、ポスト・モダンとは、サブ構造主義(亜・従位構造主義)sub-structuralismである。だから、ポスト構造主義とは、誤った命名である。
 ここで、視点を広くすると、芸術におけるモダニズムが構造主義に相当するだろう。そこでは、垂直性と水平性が混乱しているのである。そして、モダニズム主流においては、水平性・同一性が優位となり、垂直性を否定したのである。それに対して、モダニズム傍流においては、垂直性が優位となったのである。D.H.ロレンス文学はそのようなものであるし、宮沢賢治文学もそうである。ポスト・モダンとは、サブ構造主義なのである。「デカダンス」である。今日の文化的混乱・行き詰まり・閉塞はここに根差すと言えよう。トランス・ポスト・モダンが必要なのである。それは、同時に、トランス構造主義であるし、端的に、トランス・モダンである。


2007年11月23日(Fri)▲ページの先頭へ
差異とMedia Point:超越性と同一性
以下の話はおもしろい。ドゥルーズは、超越性を否定して、すべて内在性(連続性)で説明したいのである。
 また、esseとessentiaの事柄であるが、これは、ハイデガーの存在論とも関係するが、PS理論からいうと、esse以前、Media Pointがあるのである。esseとは、Media Pointが同一性の志向性を開始した始点ではないだろうか。そうならば、内在性の哲学となり、超越性は否定されるのである。後で再考したい。

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上巻の最初のほうで、「存在の一義性」をめぐってスコトゥスの話が出てくる。トマス派の「存在の類比」(神と人間の存在の間に絶対的な溝があるというもの)は表象=再現前化の側にあるとされ、それに対してスコトゥスのいう「一義性」こそが、逆説的ながらヒエラルキーの一種「無効」を宣言している点で、一種アナーキーだというわけだ。山内志朗氏がこの点に異を唱えていたわけだけれど、それによると、その下敷きになっているスコトゥス像は、エティエンヌ・ジルソンにあるらしい。実際、『存在と本質』(Gilson, "L'être et l'essence", Vrin, 1948-2000 )などでは、スコトゥスはesseとessentiaの区別をそもそも認めず、essentiaはesseの様態の一つにすぎないとして、まさにesseの汎用論のようなことを提唱したのだ、と主張するスコトゥスへの注釈者の言が紹介されている。esseは、アヴィセンナをベースにトマスが論じるような、後からessentiaに加わるもの(そうして個別が存在するようになる)ではなく、むしろessentiaに先行し、その個別のessentiaを esseの現実態が規定する、というような話になっている。これはまた、個別化(個体化)が、種差などよりもはるかに一義的であるという話にもなるわけだ。このあたりを敷衍(というか換骨奪胎というか)すると、ドゥルーズのいう個体化の先行性・根源性という話につながっていく。で、『差異と反復』では、後半(第5章:文庫版では下巻 )にいたって、シモンドンの個体化論を引き受けてさらに一般化されていく。
http://www.medieviste.org/mediolog
/archives/2007_11.html#001029
MedioLOG - MedioEvoLog - journal de réflexion
メディオ(+エヴォ)ログ −− 媒介学&中世関連の省察の部屋


2007年11月17日(Sat)▲ページの先頭へ
大和心は、同一性=漢心に囚われている。本居宣長の大和心と漢心はポスト・モダン的癒着様態ではないか
★論考1★

本居宣長については、以前から問題視している。大和心を説いた国学の創始者ではあるが、私は漢心を否定するその論が漢心ではないかと思ったのである。
 今、簡単に考えると、大和心は差異共振性であり、漢心を同一性=自我と見ることができるかもしれない。
 しかし、それは危険な単純化、二元論ではないだろうか。漢心という言い方が問題である。漢心にも、差異共振性はある。例えば、老子の自然観がそうだろう。太極論である。
 やはり、国家主義の志向が強いと思う。差異共振性=自己と同一性=自我の二分化ならば正しいが、大和心と漢心は、国家主義的な弁別であると思う。
 これは、ポスト・モダン哲学にも関係してくると思う。大和心には、反同一性の思想があり、同一性=漢心を否定している。しかしながら、差異共振性とは、同一性=漢心を包摂するものでなくてはならないのである。結局、大和心は、同一性=漢心に囚われているのである。だから、本居宣長の大和心と漢心はポスト・モダン的癒着様態にあるだろう。思うに、この大和心が太平洋戦争のイデオロギーの原点ではないだろうか。
 後で整理して言い直したい。

++++++++引用・転載開始+++++++++


 「伊勢」と「熊野」私は何回も旅した。いずれも心が清まる旅だった。
 松尾芭蕉、本居宣長、観阿弥純粋なる日本人の心の原点がここにある。
 本居宣長は伊勢松坂(三重県松坂市)に生まれ、生涯を伊勢松坂で送った。宣長の生涯通じての課題は、日本文化に正しく根ざした借り物でない学問を築くことにあった。そのために、日本人の心に深く染みついた漢意(中国的な意味解釈のこと)を取り除き、「やまとだましい」を取り戻すことを強く主張した(『朝日日本歴史人物事典』中の「本居宣長」〈長谷川三千子筆〉参照)。

 現代の日本人が、純粋な日本人の心を取り戻すためにいま学ぶべき最良の教材は本居宣長であると思う。三重県は、純粋な日本的精神のふるさとである。 

2007.11.16(その2)
森田実の言わねばならぬ[732]
【新・森田実の地方を行く(8)】
野呂三重県政の「燻し銀」のごとき輝き●「文化力」を高めて地域主権確立をめざす野呂昭彦知事の静かなる挑戦〈4〉
三重県の文化資源=日本人の精神文化の源流
「敷島の大和心を人問わば朝日ににおふ山ざくら花」(本居宣長)

++++++引用・転載終了++++++++++
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★論考2★

新ケルト復興は、よそ事ではない。ケルト文化と日本文化は類似しているのである。共振共鳴するのである

テーマ:神話学・不思議学・フォークロア:ケルト他

やはり、ケルト文化である、現代、活性化しているのは。先に述べたように、ケルト文化は差異共振的なのである。Media Pointが賦活されているのである。新ケルト復興は、よそ事ではない。ケルト文化と日本文化は類似しているのである。共振共鳴するのである。
 日本人は植民地洗脳から目覚めないといけない。日本亡国である。

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November 14, 2007
英米の解放のために戦う勢力

カナダや北欧でケルト民族の良い部分が残っている。フェアな精神、弱い人を守る心、環境を大切にする、異文化を尊重する、よく働き、よく遊ぶ、貴族と戦って盆民を開放するのが本来のケルト民族の文化です。



この民族を古代バビロニア式独裁の恐怖から解放したいのは私の目的の一つです。アジアの人達にそれを手伝ってほしい。アメリカ人やイギリス人の多くは、お金と情報の支配で洗脳された奴隷になっている。その奴隷の群れが恐ろしい軍事力で世界のあらゆる民族を奴隷にしようとしている。



アメリカやカナダ国内でその奴隷使い達と戦っている解放勢力が、必死になって情報戦争という形で戦っている。この状況でアジアが立ち上がれば、この奴隷使い達は永遠にこの世からなくなるだろう。

http://benjaminfulford.typepad.com
/benjaminfulford/2007/11/post-11.html
BenjaminFulford

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★論考3★

民主主義とは何ぞ哉:民主主義の制度疲労とトランス・デモクラシーとしての差異共振主義

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

民主主義とは何ぞ哉。
私は直感的には、民主主義がますます胡散臭いものに思えてきている。私は先に二つの「民主主義」を述べ、さらには、トランス民主主義として、差異共振主義を提示した。
 問題点は、個人と自我の混同・混淆・連続化にあると思う。民主主義は、個人主義が基盤となるが、それが、近代的自我と区別できないのである。というか、端的に、民主主義概念における個人とは近代的自我である。だから、同一性中心主義になり、金融資本中心主義になるのである。
 個人主義が近代的自我主義/近代合理主義となっているのであるが、やはり、差異を基盤にすべきなのである。そして、差異共振主義こそ、差異共振的発展を志向するので、民主主義による政官財の同一性腐食を無くすことができるのである。もう民主主義は制度疲労である。

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民主主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

民主主義(みんしゅしゅぎ democracy)とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制をいう。
概要

民主主義は個人 の人権 である自由 ・平等 ・参政権 などを重視し、多数決 を原則として意思を決定することにより、人民による支配を実現する政治思想 である。単純な多数決 と混同されることが多いが、単純な多数決では、単に多数であることをもって、その結論が正当であるとの根拠とするものであるが、民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする点で異なると主張される。 法的概念における民主主義は、君主制 などと対応する概念であり、連邦主義 などとは並存するものである。

[編集 ] 概念

哲学的には、デモクラシーの日本語訳で、君主 に対応する概念(対概念)として「民主」という概念を設け、人民 ないしは国民 が、支配 の正統性および実際の政治権力 の双方の意味を含む主権 を有するものとして、為政者 たる「民主」と、被治者たる人民が同じ(治者と被治者の自同性)であるとする政治 的な原則や制度 を言う。「民主政治」という訳語がより原義に近いという意見もある。哲人政治 などの治者に何らかの条件を求めるものと違い、治者と被治者の自同性のため、失政による被治者への損害は確実に治者によって補償される。

「民主主義」ならば、デモクラティズムdemocratismの訳語であるという意見もある。

日本においては、幕末、democracy(民主主義)とrepublic(共和制)の概念が混同され、どちらも「共和」と邦訳されることもあった。

民主主義は「過去の人々」がもし現在の意思決定に参加したならどう判断するか?、という視点、あるいはまだ生まれていない人々がもし現在の課題に対して意思決定に参加したならどう判断するか?、といった視点から、単なる現在「たまたま」参加できる投票者による多数決 を否定する論調(歴史主義 )が存在する。歴史主義は保守・革新の双方から尊重される一方で、現実に直面している課題を解決することを先延ばし しているだけであるという批判に対して論理的な証明を持たない弱点がある。また検証不能な歴史観 なるものを背景に独裁政を助長する可能性がある(唯物史観による共産党一党独裁や皇国史観など)。

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★論考4★

同一性を物質(情報物質、シナプス)とするなら、物質が破壊されても、差異=記憶自体は残るはずである

テーマ:生命科学/遺伝子問題

記憶と意識の関係を考察しないといけない。PS理論から見ると、記憶は、本来、差異が記憶の本体であり、同一性は、その表層に過ぎない。同一性を物質(情報物質、シナプス)とするなら、物質が破壊されても、差異=記憶自体は残るはずである。差異はイデアであるからである。
 記憶があるが、情報物質が破壊されている場合は、意識できない(忘却)ということになるのではないだろうか。後で検討。

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「老化で物忘れ」の仕組み解明=アルツハイマーと同じたんぱく質関与理研

11月16日2時30分配信 時事通信

 アルツハイマー病に関与するたんぱく質の一つが、老化に伴う記憶障害の原因になっていることを、理化学研究所の高島明彦アルツハイマー病研究チームリーダーらがマウスを使った実験で確認し、15日付の学会誌に発表した。このたんぱく質が脳内に蓄積すると、アルツハイマー病の原因になる神経細胞の変質(神経原繊維変化)をもたらすが、早期に発見できれば、発症予防が期待できるという。
 人間の脳は老化に伴い、記憶の形成にかかわる嗅内野(きゅうないや)という部位に「過剰リン酸化タウたんぱく質」が蓄積し、神経原繊維変化が発生。その後「ベータアミロイド(Aβ)」と呼ばれる別のたんぱく質により脳の広い部位に神経原繊維変化が拡大、アルツハイマー病に至る。
 研究チームは、ヒトのタウたんぱく質を作るマウス(タウマウス)を遺伝子操作でつくった。学習、記憶行動と神経細胞の活動を調べたところ、若いタウマウスでは通常のマウスとの違いはなかったが、老齢では嗅内野の神経原繊維変化が起きていなくても、記憶能力が極端に低下していた。
 老齢タウマウスの嗅内野を詳しく調べると、神経細胞同士のつながり(シナプス)の減少が判明。タウたんぱく質が神経原繊維変化とは別に、シナプスを減少させて記憶障害を起こしていることが分かった。
 神経原繊維変化は元に戻せないが、タウたんぱく質は薬剤で害を与えない状態に変化させることができるため、早期の発見により、記憶障害の改善やアルツハイマー病への進行を防げる可能性があるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20071116-00000020-jij-soci

# 過剰にリン酸化したタウタンパク質が脳老化の記憶障害に関与 - ニュースリリース。独立行政法人理化学研究所

# 脳 - 機能や構造図。メルクマニュアル医学百科

# アルツハイマー病 - 特徴や治療法。病気のはなし・病気辞典・病気
# アルツハイマー病を疑う10の症状 - 認知症なんでもサイト

# 物忘れがひどい - Yahoo!知恵袋


2007年11月13日(Tue)▲ページの先頭へ
近代的自我の狂気について:心の弱者と心の強者:民主主義批判と差異共振的秩序
同一性の志向とは、他者である差異を否定・排除するので、当然、自己中心主義=利己主義である。思うに、この他者=差異の否定・排除とは、否定的感情である。嫌悪というよりは、憎悪である。そして、嫉妬、怨恨(ルサンチマン)が生じる。当然、他者=差異を認識しないので、非合理的である。同一性=言語の知覚はあるのであるが。この同一性=言語の知覚とは何か。それは、正に、ロゴス中心主義ではないだろうか。西洋文明の意識である。(参照:D.H.ロレンスの天才的な洞察のメルヴィルの『白鯨』論)
 問題は、否定・排除された他者=差異である。これは、ある意味で身体と言っていいだろう。同一性の意識は身体を捉えられない。しかしながら、身体との接触は、感情に存するだろう。感情を測深することで、自己認識へと近づくと言えよう。同一性意識は、自我感情に無意識である。つまり、憎悪感情を意識していない。
 感情領域への測深、すなわち、省察や瞑想によって、他者=差異への認識へと近づく。感情領域には、自我感情(憎悪)と共振感情(共感)が存するだろう。
 思うに、省察や瞑想とは、正に、特異性の認識行為であり、単独的行為である。犀の角のように、ただ独り歩め、である。自己知とは、自分以外、誰も教えられない。ただ、方法は教えられるが。
 省察・瞑想の問題点は、それが、身体へと測深しないといけないことである。同一性の頭脳で考えている限り、つまり、自我、近代的自我で考えている限り、不可能であるということである。出口なしである。
 身体的他者・差異を見い出さない限り、自己認識に達しない。しかし、これは、危険な行為ではある。単に身体的他者・差異に達するというよりは、同一性と身体的他者・差異を対話・交信させることが必要なのである。わかりやすく言えば、相互形成が必要なのである。これが、自己涵養である。そして、⇒+1が形成されるのである。
 こんにち、ポスト・モダンの時代にあって、身体的他者・差異が賦活されていると考えられるが、そのエネルギーを同一性=近代的自我は、取り込むことができずに、反発するだけであるが、それが反動的な身体的他者・差異のエネルギー、すなわち、狂気・暴力をもたらすと考えられる。そう、「分裂症」である。同一性=近代的自我のコントロールできないエネルギーに見舞われているのである。
 もともと、同一性=近代的自我には憎悪があるから、憎悪が増幅されると言えよう。言うならば、狂憎である。そして、次第に、狂憎に支配されて、真の狂人になるのである。

p.s. 近代的自我における、言わば、同一性自我感情であるが、同一性自我であることに自惚れるのであるが、これは、同一性のもつ自己満足から来ていると言えよう。同一性を反復することで、同一性自我は、自己満足するのである。そして、同一性自我感情の型ができると思われる。慢心・傲慢の型である。あるいは、独善・独断・自己欺瞞・自己瞞着の型である。思うに、同一性癒着の型とも言えるだろう。つまり、他者・差異に自己投影して(鏡像)、同一性化するのであるから、同一性癒着ないしは同一性自我癒着である。自乗である。i^2⇒-1である。
 ここでは、他者・差異はまったく消えている。自己盲目(無明)である。自己反射宇宙=パラノイアである。即ち、自我と他者・差異が分離・乖離しているのである。だから、同一性狂気である。
 では、他者・差異の賦活が生起するのに、どうして、同一性は自我閉塞してしまうのか。これは、以前さんざん考えた問題である。弱さ、劣弱さが原因ではないか。つまり、他者・差異を認めることは、自我感情にとって苦痛をもたらすことである。自我同一性にとって、他者・差異を認めることは屈辱である。この苦痛を感受したくないので、他者・差異を否定し続けるのだろう。そう、同一性欲望が、他者・差異を否定・排除し続けさせるのである。
 しかしながら、他者・差異は賦活され、発現するのだから、それを否定・排除するのは、非合理、非科学的である。なにか病的なものがある。思うに、恐怖ないしは不安が根因ではないだろうか。同一性自我にとり、他者・差異は恐怖であると考えられる。未知のものであり、一種暗闇のようなものである。
 だから、心が弱い者は、他者・差異を避けるのである。どうもこれで説明がつくようだ。以前、高貴な差異と劣弱な差異を分けたが、それは当たらず言えども遠からずであったろう。
 人の心は、人それぞれである。大きく分けると、弱い心と強い心の持ち主がいるのである。一般に、人間は前者である。だから、同一性中心主義となるのである。しかしながら、少数者の後者がいる。いわば、生まれながらの貴族である。精神的貴族である。彼らは、他者・差異を肯定して、苦悩するのである。そして、遂には、差異共振性へと達するのである。民主主義の一番の問題点は、前者が多数を占め、後者の存在を否定することである。衆愚主義である。ニーチェの批判は正しい。賎民、弱者の支配なのである。しかし、さらに、これは、賎民・弱者にとっても不幸である。愚者は悪人を支配者に選ぶのである。全体主義となるのである。(小泉元首相の政治が正にそうであろう。)ニーチェ/ロレンスの民主主義批判は炯眼である。心の強者が指導者にならなくてはならない。


2007年11月11日(Sun)▲ページの先頭へ
経済の破局が大連立をもたらすだろう。そのとき、郵政民営化凍結が重要な問題となるだろう。
衆院選挙であるが、民主党がもし勝ったとしても議席の差は少ないだろう。大勝ちはしないだろう。しかしながら、それはそれで、民主党政権ができるだろう。
 しかしながら、そうだとしても、郵政民営化凍結へはなかなか動かないのではないだろうか。小沢一郎の二面性(いわば、絶対矛盾的自己同一である)は、国民主義(差異)と大資本自由主義(同一性)である。後者は、構造改革を肯定する方向であり、つまり、郵政民営化を肯定するということだろう。
 もっとも、問題は、経済の破局が近づいているから、呑気に、二大政党制とは言っていられなくなるだろう。それが、大連立をもたらすだろう。理念ではなく、経済的状況が駆動させるのである。
 だから、そのとき、郵政民営化凍結が問題になる。小沢一郎はどう出るのか。このとき、小沢一郎の内部で、矛盾が顕在化するのである。ここで、小沢を越える政治家がいなければ、日本はアウトである。

p.s. 小沢自身が自らを越えるということは絶対不可能ということではないが。つまり、小沢の一面の差異が主導的になれば、同一性(郵政民営化)を凌駕する方向へは向かうだろう。私はそれを切望する。

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衆院選民主敗北の意識と恐怖が高まれば高まるほど、選挙による政権獲得の夢は遠ざかる。そこで小沢氏から与えられた「自民との大連合」と言う政権政党への直線コースの意識が高まる。いくら小沢氏が「大連合のことは考えない」と言っても民主党の議員たちは考えざるを得なくなる。民主党が「利口者と愚か者」に別れ、小沢は利口者を連れて自民に返る。

(2007年11月07日)

http://www.chokugen.com/

増田俊男の愉快な暴言

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キャサリン・ジェンキンス:ネオ・ケルト・ルネサンス、又は、自然霊性ルネサンス


キャサリン・ジェンキンスもケルト系である。正に、「ケルティック・ウィメン」である。ケルト大爆発である。昨日から、ヘイリー・ウェスタンラ、ナターシャ・マーシュ(画像)、キャサリン・ジェンキンスと、いわば、三大ケルト歌姫である。
 19世紀末から20世紀初期にかけて、ケルト・ルネサンス(正しくは、ケルト復興ないしはアイルランド文芸復興)があったが、現代は、新たなルネサンスとなっている。ニュー・ケルト・ルネサンスである。『指輪物語』や『ハリー・ポッター』等のブームもそうである。私は新霊性のエポックと考えているが、トランス・宗教としての、自然の霊性の復活である。そう、

自然霊性ルネサンス

である。

私は、自然霊性教を提唱したい。これは、プラトニック・シナジー理論から派生することでもある。これは、新神道、すなわち、神道ルネサンスでもある。


2007年10月28日(Sun)▲ページの先頭へ
Media Pointから同一性の発生へ:脱同一性=連続性化としてのMedia Point回帰:
ふとひらめいた。
同一性の形成についてである。Media Pointが同一性へと転化するのである。つまり、Media Pointと同一性が重なるのである。Media Pointが同一性の表面をもつといってもいい。差異が同一性化されるのである。差異は同一性になったのである。ここには、差異の錯誤があるのである。同一性が中心化されて、差異に対して「不感症」になるのである。同一性絶対主義と言えるだろう。差異への完全盲目である。同一性に一体化して、めしいたのである。差異が見えなくなったのである。
 自我同一性絶対主義であるから、個がないのである。個核・個芯がないのである。同一性様態の中で考えるので、ありきたりである。
 そう、差異は、Media Pointは完全に無意識となっている。闇となっているのである。ハイデガーの本来的存在、D.H.ロレンスの闇、三島由紀夫の無はこれではないだろうか。同一性自我の裏面である。
 この同一性は差異に気づけない。精神病様態である。同一性が支配しているのである。この同一性支配から脱却できないのである。同一性癒着とも言える。同一性の連続空間に存しているのである。内在空間である。ここを突破するには、差異を取り戻すには、差異と同一性を分離しないといけない。それは、不連続的差異論によって実現した。
 問題は、同一性=連続性空間において、差異が独自化し出すときである。それまでは、Media Pointが同一性へと張り付いたのである。しかし、Media Pointは、同一性発現から、差異へと回帰するのである。私は先に、差異-iが回帰すると言ったが、これは、正しくは、i*(-i)が回帰するのである。
 思うに、同一性を構築した後、Media Pointは自己自身へと回帰するのではないだろうか。このとき、同一性=連続性空間に閉じられたままなのが、ポスト・モダンである。Media Pointへの回帰運動はあるが、同一性=連続性空間が強固なので、純粋Media Pointへは回帰できないのである。実軸のMedia Pointにせいぜい達するだけである。
 今はここで留めたい。後で、詳述したい。

p.s. ひとこと述べておくと、差異への回帰とは、Media Point自体への回帰であるが、それは、差異即非共振様相である。それが、同一性=連続性空間で発生するのであるが、同一性論理では、差異即非共振論理が理解不可能である。絶対矛盾的自己同一の事態なのである。連続性・同一性が支配している西洋哲学は、この差異の論理=即非論理を取り出すことができなかったのである。(例外はウスペンスキーである。)言い換えると、差異・即非・同一性という差異即非共振論理を取り出すことができなかったのである。
 そう、同一性=連続性に捉えられた西洋文明は、差異への回帰様態であるポスト・モダン期において、狂気の度を高めると言えよう。それは、新植民地主義である。対日年次改革要望書である。近代的自我の自由民主主義である。(p.s. 差異エネルゲイアは、同一性=連続性空間では、絶対主義ないしは全体主義的同一性となる。キリスト教的独善主義となるのである。この同一性=連続性の絶対主義/全体主義はキリスト教原理主義となり、また、新自由主義=新植民地主義となるのだろう。)
 結局、トランス・モダン・エラへとイニシアティブをもって行為すべきなのである。


2007年10月27日(Sat)▲ページの先頭へ
ポスト・モダン期における近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘
余裕がないので、簡単に言うと、近代的自我/近代合理主義は、同一性中心主義の知しかない。有り体に言えば、自己中心主義の知しかない。
 しかし、ポスト・モダンの現代において、差異が回帰するが、近代的自我はどうなるのか。それは、非合理衝動に駆られることになる。
 どうしてか。近代的自我は、i→-iの同一性志向性をもつ。ここでは、同一性観念を形成する。つまり、単純に考えると、ここでは、差異である-iが否定されているのであるから、他者(差異)への共感性(倫理)はないのである。ただ、優越的な道徳は志向するだろう。パターナリズムである。
 つまり、近代的自我/近代合理性には、他者がなく、共感性がなく、倫理・社会性がないということである。端的に、共感知がないと言えよう。言い換えると、精神的知性がないということである。
 この様態において、ポスト・モダン期となると、否定された差異-iが回帰するのであるが、近代的自我は、差異-iの受皿がないのである。-i→iにおいて、それは、いわば闇の衝動となって襲うと考えられるのである。これが、精神病の原因である。見知らぬ衝動=狂気が近代的自我を襲うのである。今日、うつ病、あるいは、凶悪凶暴な犯罪が多い内因はここにあるのではないだろうか。また、新興宗教、カルト、原理主義が発生する内因もこれだろう。
 問題は、差異が回帰しても、単なる非合理な衝動にしかならず、近代的自我/近代合理主義=同一性構造はそのままであることである。いわば、狂気の近代的自我/近代合理主義である。これが、ブッシュ/ネオコンを説明するし、グローバル巨大資本主義を説明するだろう。
 簡単に言えば、共感知がないのである。また、素朴な共感性があっても、近代的自我=利己主義の環境によって、攻撃されるだろう。(ここで、スピノザの能動的観念の智慧が生きるのであるが。)
 もし、近代的自我/近代合理主義とは別に、共感性があれば、差異の回帰するポスト・モダン期においても、差異を意識化して、差異知性、共感意識、共感知(共感智)を形成しうるだろう。
 そして、これが、Media Pointの芯になるものなのである。それは、Media Point共感心と言ってもいいだろう。
 問題は、近代的自我/近代合理主義を形成した近代的知識層は、ポスト・モダン期においては、非合理主義・狂気的になることである。一般に、資本家・官僚・役人・政治家・教員等々は、そのようなタイプなので、今日、異常なのであり、端的に、悪人となるのである。ブッシュ/ネオコンはそのような最たるものである。
 そして、あまり高い知識のない層は、共感性をもっているので、非合理主義・狂気化せずに、共感意識ないしは真正な信仰心を形成するのである。
 そう、ポスト・モダンの末世において、後者のような人びとが、導くべきである。前者は自己保身、私利私欲主義なので、世の中は、腐敗・頽廃する一方であり、亡国となる。
 ここで、私の経験から共感知の形成について簡単に触れたい。思うに、シュタイナーが霊的能力を形成するには、知的能力が前提であると言ったのを想起する。思えば、共感能力とは感情性が強いものであるから、知が影響されやすいと言えよう。合理的知性を維持しつつ、共感知性を形成することは難しい。
 そう、端的に、共感性をイデア・理念化する必要があるのである。言い換えると、共感性の霊化である。(スピノザの能動的観念とは、このことを意味していると思う。)共感性を理念化しないと、合理的知性と齟齬を来すだろう。
 合理的知性はクールなものであり、共感性は情感的であるからである。共感性を知的に理念化すれば、合理的知性と共存・共立・併存するものとなる。ここにおいて、Media Pointの萌芽があるのである。
 結局、差異回帰のポスト・モダン期とは、近代的自我/近代合理主義にとっては、非合理主義/狂気衝動をもたらし、共感的自我にとっては、共感知性、共感的理念を形成し、トランス・モダン的自己への転換をもたらすと言えるだろう。
 今日、狂気と叡知との争闘があると言えよう。近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘である。闇と光の戦いである。かつては、近代主義が光であったが、今日は反動的なのである。そして、共感的イデアをもつトランス・モダン叡知が光なのである。
 それにしても、共感智をもたらすものとは何なのだろう。それは、端的に、自己を見つめることであろう。自己を測深内省することであろう。簡単に言えば、孤独の時間をもつことである。群れから離れることである。脱群化、脱集団化である。思えば、私は原始仏典の「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉を信じた時期があった。
 いろいろ教養があるが、それよりは、基本はただ独りになり、沈思黙考することであろう。

It makes you a wise person to be alone and contemplate deeply.

But it makes you an idiot to belong to the throng and talk loud.
 

参考:

あらゆる生き物に、暴力を加えず、
いかなる生き物にも、苦悩を与えず、
子女を求めることなく、朋友を求めず、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

交わりをなせば、愛情が生まれる。
愛情が生まれれば、苦悩が生まれる。
愛情から、苦悩が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

朋友や親友などと、時間を共にし、
心が絆されると、己の利が損われる。
親交から、浪費が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子への愛著は、竹林が茂るが如し。
竹の子が、他に絡むことがないように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

鹿が食を求め、欲する処に赴くよう、
聡明な人は、自立自由を目指している。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間と共にいれば、常に呼ばれる。
休む時も、行く時も、旅をする時も。
他人に従属しない、自立自由を目指し、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間の中には、遊戯と歓楽がある。
また、子に対する愛情は甚大である。
愛しきものと、別れることを厭いつつ、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

害心と恐怖を捨て、何処にでも赴き、
得た恩恵に足りて、得た苦難に堪える。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

出家しても、不満を抱くものがいる。
在家にいても、不満を抱くものがいる。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の落ちた樹の如く、在家の印を捨て、
在家の柵を断ち、犀の角の如く独り歩め。

法友を得たなら、危難に悉く打ち勝ち、
心から喜び、落ち着いて、彼と共に歩め。

法友を得ないなら、戦争に勝った王が、
征服した国を捨てる如く、ただ独り歩め。

法友を得る幸せを、褒め称える。
己より優れた者、また、等しい者。
彼らとは、親しみ近づくべきである。
法友が居なければ、罪科なき行を修め、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

見事に輝ける、二つの黄金の腕輪を、
片腕に嵌めるなら、ぶつかるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

二人で居れば、饒舌と口論が起こる。
必ず未来に、このようになるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は甘美であるが、心を撹乱する。
欲望の喜びの裏に、撹乱の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は、災害であり、禍患であると、
欲望の喜びの裏に、恐怖の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

寒と暑、飢と渇、風と熱、虻と蛇と、
これらすべて、ことごとく打ち勝って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

蓮華のように、見事な肩をした象は、
群れを離れ、欲するままに森林を歩く。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

群れる者が、解脱に至る道理はない。
太陽の末裔、ゴータマの言葉を聞いて、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

矛盾する観念を超え、悟る者は言う。
「智慧を得た、誰にも教わる要がない」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪ることがなく、偽ることがなく、
渇望することなく、偽ることもなく、
迷妄を除いて、妄執のないものとなり、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

不義なる者を見て、悪い友を避けよ。
貪欲に耽り怠る者と、進んで親しむな。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

真理を弁える、聡明な法友と交われ。
有益な事柄を学び、疑念を拭い去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

遊戯や娯楽や快楽に、喜びを感じず、
心惹かれず、着飾らず、真実のみ語り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子、父母、財宝、穀物も、親族も、
そのほか、あらゆる欲望を捨て去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

「これは、執着であり、魚を釣る針。
ここは、楽しみが寡く、苦しみが多い」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

水の中の魚が、網を破り出るよう、
既に焼けた処に、火が戻らないよう、
諸々の煩悩の結び目を、悉く破り去り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

常に下を向き、うろつくことなく、
諸感官を塞いで、煩悩から心を護り、
流されることなく、焼かれることなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の散る樹の如く、在家の印を除き、
出家を果たし、袈裟の衣を身に付ける。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

味を貪ることなく、選り好みをせず、
戸ごとに食を乞い、家々に囚われない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

五蓋を断ち切り、随煩悩を取り除き、
誰にも頼ることなく、愛情を乗り越え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

以前に味わった、味著と禍患を捨て、
喜びと憂いを捨て、寂静と平安を得る。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

最高の目的を果す為、慇懃精進し、
心が怯む事なく、行を怠る事もなく、
堅固な活動をなし、体力と智力を備え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

独坐と禅定を、打ち捨てる事なく、
諸々の事柄について、理法に従がい、
諸々の生存には、憂いがあると知って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妄執の消滅を求め、怠惰にならず、
明敏に、学ぶこと深く、心を止める。
理法を明らかに悟り、自制し努力する。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

音や声に驚かない、獅子のように、
網に捕まることがない、風のように、
水に汚されることのない、蓮のように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

歯牙が強く、獣の王である獅子が、
他の獣を制圧して、振る舞うように、
他の人から離れた処の、坐臥に親しめ。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

慈愛と悲哀と平静と解脱と歓喜とを、
時に応じて修め、世間に叛くことなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪欲と瞋恚と愚癡の、三毒を捨てて、
結び目を破り、命を失うのを恐れない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

今の人々は、自分の利益のため、
交わりを結び、或は、人に仕える。
今日、利益を求めない友は得がたい。
己の利益のみ求めるものは、汚らしい。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

スッタニパータ 第一章 第三節

http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/suttanipata13.htm


2007年10月23日(Tue)▲ページの先頭へ
自我的同一性と差異的同一性:トランス・モダン即非知:差異・即非・同一性:ver2
p.s.を補足したので、新たに掲載する。

先に、近代的自我においては、《知》への不誠実さが生起すると言った。すなわち、同一性の知に対しても、不誠実になると言った。これは、どういうことなのか。近代的自我ないしは近代合理主義は、同一性=物質という合理的知に対しては、誠実であるのではないのか。
 単純な例で考えよう。ある人Aが別の人Bに《働きすぎると病気になりやすい》と忠告したとしよう。この忠告を、一つの同一性の知と見ていいだろう。Bは近代的自我の人間である。しかし、慢心しているBは、その同一性の知に対して、軽視ないし無視の態度を取る。BはAに対して、日頃、対抗意識(近代的自我的同一性意識)をもっているので、Aの忠告の言葉を素直に聞くことができないことが理由であるとしよう。
 この事態はどういうことだろうか。客観的事実(同一性の知)に対して、近代的自我の人間であるBは率直に肯定することができないのである。これは、《働きすぎると・・・》という同一性を、いわば、否定していることになる。そして、自我の同一性を肯定しているのである。ここには、二つの同一性があると言えよう。それらを区別する必要があるだろう。
 否定する近代的自我の同一性とは、自我的同一性と言えようが、客観的事実の同一性は、事物的同一性とでも呼べるだろう。結局、近代科学とは、後者の事物的同一性、あるいは物質的同一性を合理的価値としたのである。
 結局、自我的同一性(近代的自我)と事物的同一性(近代的合理性)の二つの同一性を区別できたと言えよう。先に述べたように、前者は後者に対して、不誠実になるのである。これが、近代主義の大矛盾であると考えられる。
 ここでPS理論を考えると、それは同一性=物質を包摂した差異の理論である。それは、ここでの視点から言えば、事物的同一性(近代合理性)を包摂した差異の理論ということになる。
 問題は、PS理論における、差異に包摂された同一性(事物的同一性ないしは近代合理性)は、近代的自我における、たとえば、上記のように軽視ないしは無視される事物的同一性とは、どういう関係にあるのだろうか。それだけ取り出せば、両者、同一である。
 ここで、近代主義は、近代的自我と近代合理性との両者が結びついているものと考えると、両者は、上述からわかるように一体化したものではなく、近代主義における二面性を形成していると言えるだろう。そして、以上からは、両者は齟齬的とさえ言えるだろう。(具体的に言えば、たとえば、エイズにおける血液製剤の問題であるが、帝京大の安倍氏は、人権という近代合理性を、あるいは、血液製剤に関する科学的合理性を、製剤の利益という同一性に基づいて無視したことがあげられるだろう。つまり、安倍氏は、自我的同一性によって、近代合理性を否定したことになる。確かに、利益というのも、近代合理性と考えられるかもしれないが、しかしながら、この場合、近代的自我に捩じ曲げられた近代合理性であり、やはり、自我的同一性に入れるべきであろう。この点については、後で詳論したい。
 p.s. これは簡単なことである。安倍氏の場合は、医師としての立場を超えて、己の近代的自我によって、製薬会社の利益性ではなくて、利益中心主義=利己主義に与したということになる。
 利益と科学的合理性は調和させることができるのであり、それは、近代合理性であると言えよう。薬害エイズの問題は、近代的自我が肥大化した利益中心主義が根本にあると言えよう。)
 つまり、近代的自我における近代合理性とは、あるときは、肯定されたり、否定されたりするという便宜的なものであると言えるだろう。主体は近代的自我にあるのであり、近代合理性は道具的なものである。従属するものである。
 では、PS理論による差異に包摂された近代的合理的同一性と近代的自我における近代合理的同一性とをどう峻別したらいいのだろうか。ここで、私の今日閃いた直感を述べることになるのであるが、PS理論においては、個とは、近代的自我ではなく、差異的自己である。だから、それにとって、近代合理的同一性とは、差異化された同一性であると言えるだろう。以前、私は差異的同一性であると述べたことがあるが、差異的同一性であると言えるだろう。
 それに対して、自我的同一性における近代合理的同一性は自我連続的同一性、あるいは、連続的同一性である。自我的同一性と連続した近代合理的同一性であり、言い換えれば、近代的自我と癒着した同一性である。しかし、上記したように、近代的自我が主体であり、近代合理性は道具・従である。つまり、近代合理性は近代的自我に従属しているのである。だからこそ、近代的自我は真理に不誠実になるのである。自我的同一性中心主義が近代合理性を都合よく利用すると言えるのである。有り体に言えば、自己中心主義、利己主義が近代合理性を操作しているのである。
 ここで、今日の私の直感を明快にすべきだろう。私は、差異における同一性とは、差異ではないかと思ったのである。例えば、私が「今日は晴天で気持ちがいい」と言ったとしよう。これは、言明として、同一性であるが、しかし、私という差異における同一性である。だから、端的に差異ではないだろうか。つまり、「今日は晴天で気持ちがいい」というのは、差異である私の特異性ではないだろうか、ということである。言葉としては、確かに、同一性であるが、私という差異・個・特異性における様態であるから、端的に差異ではないのか。
 それが正しいのならば、差異における近代合理的同一性も、差異となる。つまり、近代合理性、近代科学の知とは、差異である自己においては、差異の知となるのではないだろうか。私は詭弁を弄しているのだろうか。
 言葉は確かに、同一性である。しかし、それを発話する私(自己)は、差異であり、言語の同一性は差異化されるのでないだろうか。近代的自我ならば、言葉の同一性に対して、それを利己主義から、同一性化するのみであり、差異化はしない。つまり、言葉の同一性は、形式性のままである。
 差異的同一性であるとは少なくとも言えるが、私はそれをさらに進めて、差異そのものにしたいと考えているのである。そもそも、差異的同一性とは何だろうか。
 例えば、「この音楽は奇蹟的に美しい」と発語したとしよう。言語自体は、同一性である。すべて辞書に載っている。しかしながら、その発語は、私(自己)の差異性=特異性において発せられているものであり、私にとっては、「差異的同一性」である。しかし、本当に同一性なのだろうか。
 感動があり、それは差異=特異性である。それを表現した言葉は形式では、同一性であっても、実体は差異のはずである。同一性ではないのである。つまり、発語において、同一性と差異が「絶対矛盾的自己同一」化しているのである。やはり、即非態である。差異と同一性との即非態である。(今、思いついたが、 Media Pointとは、言い換えると、即非点、即非ポイント、ないしは即非原点である。)
 そう考えると、私の直感とは、差異と同一性の即非性のことであったと言えよう。そう考えて、私の疑問が氷解すると言えよう。
 私(自己)にとっての発話とは、差異・即非・同一性なのである。差異的同一性という呼び方は妥協的である。差異・即非・同一性なのである。
 結局、近代的自我は、差異を理解せずに、同一性に対して反射的に反応しているに過ぎないのである。差異に鈍感、否、盲目なのである。
 では、上述の科学的合理性について当てはめたらどうだろうか。天然ガスを使用する設備があるとしよう。それは公的な施設なので、ガス漏れ探知器をつけるのが義務づけられている。近代的自我にとり、ガスが洩れる可能性があるということ(科学的同一性)は、道具・従的なことなので、利益中心主義=利己主義から見ると、余計のものと映る。つまり、近代的自我によって、科学的合理性は無視されるのである。しかしながら、差異である自己にとってはどうだろうか。
 公的施設であり、法律では、ガス漏れ探知器の設置が義務づけられている。これは、科学的合理性である。しかしながら、差異である個にとって、公的施設である、天然ガスの設備は、常識的にガス漏れを起す可能性がある。多くの人が利用する施設であるから、リスクを回避するために、ガス漏れ探知器の設置は当然であると考えるだろう。
 差異である個は、差異共振性において、他者を考慮しているのである。(因みに、ハイデガーの『存在と時間』には、この差異共振性における他者への配慮が欠落しているのである。)このとき、差異である個である管理者にとって、科学的合理性(同一性)は、差異でもあるのである。科学的合理性(同一性)・即非・差異である。これで科学的合理性についても、同様に説明することができた。
 以上から、結局、差異・即非・同一性である《知》とは、トランス・モダン即非知ないし即非叡知と呼ぶことができるだろう。
 結局、近代主義の乗り越えとは、単なる否定ではなく、近代主義のもつ科学的合理性を包摂する差異の知、すなわち、即非知を意味すると言えよう。トランス・モダン即非知である。


自我的同一性と差異的同一性:トランス・モダン即非知:差異・即非・同一性
先に、近代的自我においては、《知》への不誠実さが生起すると言った。すなわち、同一性の知に対しても、不誠実になると言った。これは、どういうことなのか。近代的自我ないしは近代合理主義は、同一性=物質という合理的知に対しては、誠実であるのではないのか。
 単純な例で考えよう。ある人Aが別の人Bに《働きすぎると病気になりやすい》と忠告したとしよう。この忠告を、一つの同一性の知と見ていいだろう。Bは近代的自我の人間である。しかし、慢心しているBは、その同一性の知に対して、軽視ないし無視の態度を取る。BはAに対して、日頃、対抗意識(近代的自我的同一性意識)をもっているので、Aの忠告の言葉を素直に聞くことができないことが理由であるとしよう。
 この事態はどういうことだろうか。客観的事実(同一性の知)に対して、近代的自我の人間であるBは率直に肯定することができないのである。これは、《働きすぎると・・・》という同一性を、いわば、否定していることになる。そして、自我の同一性を肯定しているのである。ここには、二つの同一性があると言えよう。それらを区別する必要があるだろう。
 否定する近代的自我の同一性とは、自我的同一性と言えようが、客観的事実の同一性は、事物的同一性とでも呼べるだろう。結局、近代科学とは、後者の事物的同一性、あるいは物質的同一性を合理的価値としたのである。
 結局、自我的同一性(近代的自我)と事物的同一性(近代的合理性)の二つの同一性を区別できたと言えよう。先に述べたように、前者は後者に対して、不誠実になるのである。これが、近代主義の大矛盾であると考えられる。
 ここでPS理論を考えると、それは同一性=物質を包摂した差異の理論である。それは、ここでの視点から言えば、事物的同一性(近代合理性)を包摂した差異の理論ということになる。
 問題は、PS理論における、差異に包摂された同一性(事物的同一性ないしは近代合理性)は、近代的自我における、たとえば、上記のように軽視ないしは無視される事物的同一性とは、どういう関係にあるのだろうか。それだけ取り出せば、両者、同一である。
 ここで、近代主義は、近代的自我と近代合理性との両者が結びついているものと考えると、両者は、上述からわかるように一体化したものではなく、近代主義における二面性を形成していると言えるだろう。そして、以上からは、両者は齟齬的とさえ言えるだろう。(具体的に言えば、たとえば、エイズにおける血液製剤の問題であるが、帝京大の安倍氏は、人権という近代合理性を、あるいは、血液製剤に関する科学的合理性を、製剤の利益という同一性に基づいて無視したことがあげられるだろう。つまり、安倍氏は、自我的同一性によって、近代合理性を否定したことになる。確かに、利益というのも、近代合理性と考えられるかもしれないが、しかしながら、この場合、近代的自我に捩じ曲げられた近代合理性であり、やはり、自我的同一性に入れるべきであろう。この点については、後で詳論したい。)
 つまり、近代的自我における近代合理性とは、あるときは、肯定されたり、否定されたりするという便宜的なものであると言えるだろう。主体は近代的自我にあるのであり、近代合理性は道具的なものである。従属するものである。
 では、PS理論による差異に包摂された近代的合理的同一性と近代的自我における近代合理的同一性とをどう峻別したらいいのだろうか。ここで、私の今日閃いた直感を述べることになるのであるが、PS理論においては、個とは、近代的自我ではなく、差異的自己である。だから、それにとって、近代合理的同一性とは、差異化された同一性であると言えるだろう。以前、私は差異的同一性であると述べたことがあるが、差異的同一性であると言えるだろう。
 それに対して、自我的同一性における近代合理的同一性は自我連続的同一性、あるいは、連続的同一性である。自我的同一性と連続した近代合理的同一性であり、言い換えれば、近代的自我と癒着した同一性である。しかし、上記したように、近代的自我が主体であり、近代合理性は道具・従である。つまり、近代合理性は近代的自我に従属しているのである。だからこそ、近代的自我は真理に不誠実になるのである。自我的同一性中心主義が近代合理性を都合よく利用すると言えるのである。有り体に言えば、自己中心主義、利己主義が近代合理性を操作しているのである。
 ここで、今日の私の直感を明快にすべきだろう。私は、差異における同一性とは、差異ではないかと思ったのである。例えば、私が「今日は晴天で気持ちがいい」と言ったとしよう。これは、言明として、同一性であるが、しかし、私という差異における同一性である。だから、端的に差異ではないだろうか。つまり、「今日は晴天で気持ちがいい」というのは、差異である私の特異性ではないだろうか、ということである。言葉としては、確かに、同一性であるが、私という差異・個・特異性における様態であるから、端的に差異ではないのか。
 それが正しいのならば、差異における近代合理的同一性も、差異となる。つまり、近代合理性、近代科学の知とは、差異である自己においては、差異の知となるのではないだろうか。私は詭弁を弄しているのだろうか。
 言葉は確かに、同一性である。しかし、それを発話する私(自己)は、差異であり、言語の同一性は差異化されるのでないだろうか。近代的自我ならば、言葉の同一性に対して、それを利己主義から、同一性化するのみであり、差異化はしない。つまり、言葉の同一性は、形式性のままである。
 差異的同一性であるとは少なくとも言えるが、私はそれをさらに進めて、差異そのものにしたいと考えているのである。そもそも、差異的同一性とは何だろうか。
 例えば、「この音楽は奇蹟的に美しい」と発語したとしよう。言語自体は、同一性である。すべて辞書に載っている。しかしながら、その発語は、私(自己)の差異性=特異性において発せられているものであり、私にとっては、「差異的同一性」である。しかし、本当に同一性なのだろうか。
 感動があり、それは差異=特異性である。それを表現した言葉は形式では、同一性であっても、実体は差異のはずである。同一性ではないのである。つまり、発語において、同一性と差異が「絶対矛盾的自己同一」化しているのである。やはり、即非態である。差異と同一性との即非態である。(今、思いついたが、 Media Pointとは、言い換えると、即非点、即非ポイント、ないしは即非原点である。)
 そう考えると、私の直感とは、差異と同一性の即非性のことであったと言えよう。そう考えて、私の疑問が氷解すると言えよう。
 私(自己)にとっての発話とは、差異・即非・同一性なのである。差異的同一性という呼び方は妥協的である。差異・即非・同一性なのである。
 結局、近代的自我は、差異を理解せずに、同一性に対して反射的に反応しているに過ぎないのである。差異に鈍感、否、盲目なのである。
 では、上述の科学的合理性について当てはめたらどうだろうか。天然ガスを使用する設備があるとしよう。それは公的な施設なので、ガス漏れ探知器をつけるのが義務づけられている。近代的自我にとり、ガスが洩れる可能性があるということ(科学的同一性)は、道具・従的なことなので、利益中心主義=利己主義から見ると、余計のものと映る。つまり、近代的自我によって、科学的合理性は無視されるのである。しかしながら、差異である自己にとってはどうだろうか。
 公的施設であり、法律では、ガス漏れ探知器の設置が義務づけられている。これは、科学的合理性である。しかしながら、差異である個にとって、公的施設である、天然ガスの設備は、常識的にガス漏れを起す可能性がある。多くの人が利用する施設であるから、リスクを回避するために、ガス漏れ探知器の設置は当然であると考えるだろう。
 差異である個は、差異共振性において、他者を考慮しているのである。(因みに、ハイデガーの『存在と時間』には、この差異共振性における他者への配慮が欠落しているのである。)このとき、差異である個である管理者にとって、科学的合理性(同一性)は、差異でもあるのである。科学的合理性(同一性)・即非・差異である。これで科学的合理性についても、同様に説明することができた。
 以上から、結局、差異・即非・同一性である《知》とは、トランス・モダン即非知ないし即非叡知と呼ぶことができるだろう。
 結局、近代主義の乗り越えとは、単なる否定ではなく、近代主義のもつ科学的合理性を包摂する差異の知、すなわち、即非知を意味すると言えよう。トランス・モダン即非知である。


2007年10月21日(Sun)▲ページの先頭へ
心の問題:その2:米主日従の米日関係が日本滅亡の根因である
朝目覚めて、ふと、思いつくことがあったので、心について再考したい。
 問題は「知」の様相である。PS理論では、差異から差異へと志向性が存する。いわば、差異的志向性である。この差異的志向性が「知」である。ここにおいて、知情意が発生しているのである。知情意を含めて、「知」と捉えたい。
 直感では、「知」は、本来、差異と差異との「あいだ」に生起するもののように思える。とまれ、「知」は一方においては、同一性相であり、他方では差異相である。
 私のイメージでは、「知」は、両極的なのである。一方では、同一性を志向し、他方では差異を志向している。もう少し、正確に言うと、「知」は一方では、外界的他者(外界的対象)を志向しているのと同時に、他方では、内界的他者(内界的対象、おそらく、自己)を志向しているのである。言い換えると、「知」とは外界志向・即・内界志向なのであり、近代合理主義、近代的自我のように、単純に、一面的に、外界を志向しているものではないのである。「知」のもつこのような二重性、両極性は、PS理論の自己認識方程式i*(-i)⇒+1に表現されている。
 問題は、本来、「知」とはこのような二重性、内外両極性をもっているのに、近代主義において、外界中心主義へと転化したことである。つまり、近代的知とは、「知」の内外両極性(主客両極性)を否定して、外界中心主義になったのであるが、この意味は何であろうか。これは、端的に、近代科学の成立を意味するのである。外界的同一性・数量性が中心化したのであり、内界的差異・質性が捨象されたのである。
 外界的同一性・量性中心主義の近代合理主義が、一般に中心的な価値となっているのであるから、「知」が歪曲され、混乱しているのである。哲学史は、フッサールの現象学が、この近代合理主義の「知」を問題化して、判断停止(エポケー)、現象学的還元等によって、近代的「知」の画期的な乗り越えを行なったことを説いているが、ハイデガーの似非現象学によって、哲学は混迷化してしまったのである。近代的「知」に対する突破口が発見されたら、すぐに塞がれてしまったのである。ここに、今日の「知」の停滞・混迷の要因があると言えるのである。
 実際、差異の「知」は、いわば、霊妙なのである。同一性・量性の、いわば、粗雑・粗略な「知」では、まったく、把捉・理解できるものではないのである。とまれ、近代合理主義に対して、いわば、内界の「知」が必要になったわけであるが、それは、一般には、反近代主義や非合理主義等々によって表現されてはきた。しかしながら、結局のところ、内界の「知」は、公的には、「科学」化されずにいるのである。心理学はいまだ曖昧である。
 問題を整理すると、「知」は、上述したように、本来、両極的である。同一性と差異、外界と内界の両極性をもつのであり、両極を二元論的に分離するのは、間違いであろう。(だから、即非論理なのである。)
 とまれ、差異の科学が必要なのである。そして、PS理論は、それを意味するのである。PS理論は、差異から同一性を解明しているのであり、差異において、同一性を包摂しているのである。
 この差異の「知」は、知情意を包括したものである。それは、知情意をおのおの特化すれば、差異科学、差異芸術、差異倫理となり、差異哲学がそれを統括することになろう。
 最後に一言添えると、近代合理主義ないし外界中心主義の支配はいったい何なのか、である。どう考えても不自然なのである。ニーチェのように精神的弱者の支配を弾劾したくもなる。
 学問や科学の発達から考えて、とっくに、近代合理主義や外界中心主義は終焉していなくてならないのに、一般には、それらは主流である。この「知」的遅延の原因は何なのか。何かが、一般の人間の「知」の進展を押しとどめていると思われるのである。それは単に「知」の停滞だけでなく、社会の停滞・後退・衰退を意味するのである。だから、この「知」(知情意を含めた「知」を智と呼ぶことができるだろう。以下、智とも呼びたい。)の進展を押しとどめているものの正体を知る必要がある。
 具体的には、教育の衰退がある。ゆとり教育はアメリカの日本亡国の陰謀・策謀ではなかったのかと思ってしまうが。私の経験から言うと、「新人類」の出現からおかしいのである。彼らには、合理主義はあるが、「知」ないしは智性がなかったのである。 
 そう、戦後の近代合理主義信仰がもたらしたものとも言えるだろう。近代科学信仰、近代科学カルトである。カルトなのである。
 ここで宗教について考えると、通俗には、日本人は無宗教である、ないしは、宗教には関心がないと言われている。しかしながら、近代科学カルトという点では、一種宗教的である。カルト宗教的である。(ここで、批判的宗教ないしは智的宗教とカルト宗教を区別する。)この問題は、上述した同一性主義の問題と同質の問題である。「知」・智の差異を無視して、同一性・量性に同一化するのである。これは、実に精神・智の単純化である。己を失って、安易に同一性・量性に適応するのである。
 ここには、なにか致命的な欠陥が感じられる。「知」・智の冒瀆があるとさえ言えるだろう。言い換えると、「知」・智の後退・退化があるとさえ言えよう。もし、そうなら、それは、端的に、滅亡の徴・予兆・前兆である。日本民族の滅亡の徴である。また、巨視的に言うと、人類の滅亡の徴であろうか。
 それとも、同一性主義亜人類が発生したのだろうか。サブ・ヒューマンである。そう、日本においては、欧米化、とりわけ、アメリカ化と言えよう。しかし、アメリカのようには、合理主義は徹底してはいないが。
 とまれ、ここには、智への不誠実さがある。そう、科学から見ても、誤りであろう。少なくとも、科学は、真理に対して誠実である。自我中心主義によって、知が貶められているのだ。
 同一性主義=自我であるが、この自我が肥大化して、知をも否定しているのである。つまり、同一性の知さえ否定しているということになる。同一性自我中心主義は、知を捨てて、自我カルトとなっているのである。
 ここにあるのは、自我欲望中心主義である。これは、現象の連続性と関係していると思うのである。それでは、別稿で、先に検討問題としてあげたこの問題について考察したい。

p.s. 同一性中心主義(自我カルト)を日本滅亡の徴と言ったが、なにか、ここには、マインドコントロールが感じられるのである。そう、日本人の近代的自我、近代合理主義には、マインドコントロールが感じられるのだ。誰が、差異の知をタブーにしているのか。個であること、単独であることをタブーにしているのか。このマインドコントロール、差異タブーがあるために、日本は亡国となり、絶滅に瀕しているのである。温暖化問題よりも、根本的である。
 誰が、何が、洗脳しているのか。それは先に述べたように、戦後のGHQの占領政策である。戦前的なものを一切タブーとした占領政策である。つまり、日本の精神的伝統を否定した占領政策である。そして、その後はプラザ合意からの米国への明(あか)らさまな従属による知的隷属が生まれた。日本がアメリカとは異なる個であり、差異であることが否定されているのである。
 やはり、アメリカ的近代合理主義に洗脳されているのだろう。ヨーロッパの知は、明らかに、もっと複合的である。つまり、智的である。アメリカのプラグマティズムは、いわば、没理論的経験主義である。
 では、この洗脳/マインドコントロールの仕組みはどういうものなのだろうか。それは、近代合理主義・近代的自我の権力ヒエラルキーが存在して、支配しているということである。近代合理主義の権力ヒエラルキー、近代合理主義の中央集権主義が支配しているということである。つまり、米主日従の近代合理主義/近代的自我の中央権力機構があるということである。この米主日従の二項対立こそ、脱構築・脱構造化する必要があるのである。(日本のポスト・モダンがだめだったのは、日本自体にある二項対立に気づいていなかった点にあるだろう。)
 結局、政治経済における米主日従の米日関係を介して、今日の日本における同一性中心主義が発生したと言えるだろう。日本は、アメリカによって、個であること、差異であることを否定されているのである。ここにこそ、今日、日本滅亡の根因があると言えよう。


参考:心身問題と量子力学 (単行本)
マイケル ロックウッド (著), Michael Lockwood (原著), 奥田 栄 (翻訳)

心についてあれやこれやとその1 : リスト作成者: 川流桃桜

http://members.jcom.home.
ne.jp/natrom/boardtree1600.html


2007年10月20日(Sat)▲ページの先頭へ
ポスト・モダン哲学がポシャッタのは、現代科学が、不連続性の問題に取り組んでいるのに対して、脱構築
ポスト・モダン哲学がポシャッタのは、現代科学が、不連続性の問題に取り組んでいるのに対して、脱構築

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

古い本であるが、吉永良正著『「複雑系」とは何か』
は入門書としていいと思う(amazonでの評価が低いのは、哲学的要素が理解できなからではないだろうか)。著者の経歴が本に生きている。京大理学部(数学専攻)および同大文学部哲学科卒業である。
 ポスト・モダン哲学がポシャッタのは、現代科学が、不連続性の問題に取り組んでいるのに対して、脱構築主義に見られるように、決定不能性や同一性主義の解体を形式主義的に、つまり、観念的に、弄んでいたからである。
 思うに、哲学の再生のためには、現代という「カオス」(カオス理論の意味で)に取り組む必要がある。ソーカル事件があったが、それは、ポスト・モダン哲学批判として、それなりの積極的意味はあっただろう。(ただし、ソーカル事件は魔女狩り的要素があるので、それは批判しなくてはならない。)
 もっとも、プラトニック・シナジー理論がすでにポスト・モダン理論を乗り越えてしまったが。

複雑系
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複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム 全体(系 全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために一般的な手法(多変量解析 、回帰曲線 等)でシステムの未来の振る舞いを予測することが不可能な系を言う。

代表的な複雑系は、ウイルス の流行状況、天候 、経済 (エントロピー について熱力学第三法則 )、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果 などが挙げられている。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則 に還元して理解する(還元主義 )のは困難である。代表的なものに、パーコレーション やセル・オートマトン 、素粒子 のランダムウォークなどがある。最近では、系の自己組織化 の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。


[編集 ] 哲学的背景

複雑系は機械論 的で決定論 的であるにもかかわらず、還元主義 的なアプローチが適用できない意外な系として有名である。そのため現象を単純な法則 や原理 に落とし込むことで理解したとする、今までの科学 がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができるが、こうした立場は哲学 の世界ではホーリズム または全体論などと呼ばれている。ホーリズムとは「全体とは、部分の総和以上のなにかである」というアリストテレス の比喩的な表現に代表される、還元主義に対立する立場である。こうした議論は現在、主に哲学の一分科である科学哲学 の世界を中心に行われている。

[編集 ] 関連項目

* 決定論
* 非線形科学
* ファジィ集合論
* カオス理論
* フラクタル
* 創発
* 階層構造

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複雑系
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2007年10月15日(Mon)▲ページの先頭へ
非線形科学とプラトニック・シナジー理論:カオスとMedia Point共振相:MPカオス
非線形科学とプラトニック・シナジー理論:カオスとMedia Point共振相:MPカオス

テーマ:非線形科学:複雑系・カオス・フラクタル

蔵本由紀(よしき)氏の『非線形科学』(集英社新書)を読んだが、amazonの評価で言えば、★3であろう。3.5くらいでもいいが。
http://mainichi.jp/enta/book/
hondana/news/20070930ddm
015070148000c.html
 内容は濃いのであるが、説明の仕方が不親切であり、やたらに専門用語を使って、難しくしているのである。専門用語の内容が充分把握できないままに、次から次へと、別の専門用語は登場するのである。
 確かに、刺激的であったが、読後の心象は、混沌としている。専門家が、他者である一般の読者を理解しないまま、書いてしまった感じである。そう、著書が誰をターゲットにしているのか、あいまいなまま書いてしまったのだろう。残念である。とまれ、色々な発想に触れられたことは感謝したい。
 混沌とした印象のまま、刺激は確かに受けたので、『「複雑系」とは何か』(吉永良正著 講談社現代新書)の未読部分を読んでみたら、明快でいい。第5章「コンピュータの中の遍歴」から読み出した( 10ページほどしか読んでいないが)が、「カオス的遍歴」という考え方が興味深かった。
 金子邦彦らの研究を提示している。「結合マップ格子Coupled Map Lattice」(CML)、そして、「大域結合マップGlobally Coupled Map」(GCM)を提唱したと述べている。後者から以下の(ほぼ)四つのクラスが判明したという。

1)コヒーレント相
2)カオス的な乱れた相
3)秩序相
4)部分秩序相

四番目の部分秩序相が興味深い。少し引用しよう。

《ホメオカオスと開放型(オープン)カオス

 しかし、部分秩序相で生成される秩序は、自己組織化という言葉から誤ってイメージされるような、静的な安定性ではない。多数の自由度をもつ弱いカオス的振動が、完全にそろうわけでもなく、かといって完全にばらばらになるわけでもなく、お互いに影響し合い、依存し合いながら、つまり多様性を保持しながらーーあるいは多様性をもつがゆえにーー大筋ではあたかも基準となる状態があって、そこから逸脱しないかのようなふるまいをする、動的な安定状態である。
 金子らはこの多様性を維持した安定性機構を「ホメオカオス homeochaos」と呼んでいる。いわゆるホメオスタシスが、理想的な静的安定性を想定し、そこから生じたゆらぎに対するゆり戻しのフィードバック機構と考えられたのに対し、ホメオカオスはそのような理想状態を仮想しなくてもいいことを教えてくれている。》p. 169

私はここを読んで、ホメオカオスが、PS理論では、Media Point共振相ないしはMedia Point共振カオスとして表現されるのではと思った。思うに、Media Point差異共振相が、敷延すると、カオスと言えるのではのではないだろうか。カオスという用語を使えば、Media Point Chaos(メディア・ポイント・カオス)ないしは、Media Chaos(メディア・カオス)となるだろう。(p.s. Mediochaosメディオカオスでもいいだろう。)
 さらに読み進めて、後でまとめて考察したい。

参考:
複雑系とは
http://www6.plala.or.jp/genky/complexity/
複雑系って何?
http://www001.upp.so-net.ne.jp/
suzudo/complex.html
複雑系&数論の世界
http://www.geocities.jp/hiruhiru05/
indexB.html

複雑系
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複雑系(ふくざつけい complex system)とは、多数の因子または未知の因子が関係してシステム 全体(系 全体)の振る舞いが決まるシステムにおいて、それぞれの因子が相互に影響を与えるために一般的な手法(多変量解析 、回帰曲線 等)でシステムの未来の振る舞いを予測することが不可能な系を言う。

代表的な複雑系は、ウイルス の流行状況、天候 、経済 (エントロピー について熱力学第三法則 )、大規模交通(フラックス)、バタフライ効果 などが挙げられている。

これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則 に還元して理解する(還元主義 )のは困難である。代表的なものに、パーコレーション やセル・オートマトン 、素粒子 のランダムウォークなどがある。最近では、系の自己組織化 の様子をコンピュータにプログラミングして、複雑で法則がないように思える目で見えない発達形成過程を視覚化して把握しようと試みられている。


[編集 ] 哲学的背景

複雑系は機械論 的で決定論 的であるにもかかわらず、還元主義 的なアプローチが適用できない意外な系として有名である。そのため現象を単純な法則 や原理 に落とし込むことで理解したとする、今までの科学 がとってきた基本姿勢に対し、複雑系の分野の研究姿勢はその基本的立場に関して若干の違いを持つ。複雑系の分野を貫く基本スタンスとして「複雑な現象を複雑なまま理解しようとする姿勢」を挙げることができるが、こうした立場は哲学 の世界ではホーリズム または全体論などと呼ばれている。ホーリズムとは「全体とは、部分の総和以上のなにかである」というアリストテレス の比喩的な表現に代表される、還元主義に対立する立場である。こうした議論は現在、主に哲学の一分科である科学哲学 の世界を中心に行われている。

[編集 ] 関連項目

* 決定論
* 非線形科学
* ファジィ集合論
* カオス理論
* フラクタル
* 創発
* 階層構造

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Complex system
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This article describes complex system as a type of system. For other meanings, see complex systems .

Complex system is a system comprised of interconnected simple parts, that together exhibit a high degree of complexity from which emerges a higher order behavior. Examples of complex systems include ant-hills , ants themselves, human economies , climate , nervous systems , cells and living things, including human beings, as well as modern energy or telecommunication infrastructures.

http://en.wikipedia.org/wiki/Complex_system


Complex systems
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This article describes complex system as field of science . For other meanings, see complex system .

Complex systems is a subfield of a systems science or systemics , which studies the common properties of systems considered complex in the nature , society and science . It is also called complex systems theory, complexity science, study of complex systems and/or sciences of complexity. The key problems of such systems are difficulties with their formal modeling and simulation . From such perspective, in different research contexts complex systems are defined on the base of their different attributes. At present, the consensus related to one universal definition of complex system does not exist yet.

http://en.wikipedia.org/wiki/Complex_systems


2007年09月01日(Sat)▲ページの先頭へ
一先ずの結論:ポスト・モダンとMedia Point:差異と同一性の問題
これまで、ハイデガーの『存在と時間』の問題に関係させて、ポスト・モダン哲学の意味を、試行錯誤的に、検討してきたが、緻密な分析は、まだ完成していないが、当たらず言えども遠からずというか、おおまかには間違ってはいないと思う。都合上、ここで、ひとまず簡単な結論を出して置いて、精緻的整合化は、後で余裕のあるときに行いたい。以下、明瞭にするため、箇条書きにする。

1)ハイデガー哲学は、ポスト・モダン哲学の主要な一つである。

2)フッサール現象学は二重性をもっている。字義通りの解釈では、超越論的主観性(これは、超越論的同一性構造)を提起したが、私見では、フッサールは、超越的志向性の位置を確保していた。

3)デリダの差延とは、同一性から絶対的に逃れる差異を意味している。それは、ハイデガーの存在概念ないしは存在論的差異を超えるものとして、意図されている。しかし、それは、戦略的な、レトリカルな概念である。「グラマトロジー」(エクリチュール主義、書記主義)とは、その枢要な一環であると考えられる。(この点は、補足が必要である。)

4)Media Pointから同一性構造が発出する。これは、超越論的同一性構造である。Media Pointと超越論的同一性構造の境界に、超越論的差異が出現する。そして、これが、ポスト・モダン哲学の差異である。ハイデガーの存在、ドゥルーズの差異がそれに当たると考えられる。デリダは、この超越論的差異を超える差異を差延として想定していたが、デリダは、超越性を形而上学、つまり、同一性中心主義(ロゴス中心主義)と結びついているとして、いわば、先入観的に、排除している(とりわけ、フッサール現象学の批判にそれが見られる)。超越性を否定したため、デリダの差延は、実質的な概念になることができなかった。だからこそ、皮相な差延の戯れになるしかなかった。つまり、超越性の否定という壁を作ってしまったので、差延を超越性へと展開する道を喪失して、袋小路に落ち込んでしまった。

5)Media Pointの概念こそ、デリダが本来、差延に求めていた差異の所在である。ここは、超越的差異が超越論的差異、超越論的同一性、そして同一性へと変換される交叉点である。だから、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダン哲学を超克したトランス・モダン哲学である。

6)不連続的差異論の位置づけであるが、それは、超越論的差異や超越論的同一性構造から真に脱却した差異を提示した点で、画期的である。つまり、十全、十分ではないものの、超越的差異に到達したのである。つまり、ポスト・モダン哲学を乗り越えたものとして、評価できる。

7)差異と同一性の問題に関して言えば、ポスト・モダン哲学は、差異中心主義であり、同一性を回避しようとした。しかし、同一性は、物質として、否定しようのない実質的現象である。問題は、Media Pointのもつ可能性としての差異共振性を基礎として、同一性に配慮しつつ、同一性中心主義の支配を解消することにある。モダン世界からトランス・モダン世界へのパラダイム・シフトが現代の根本的な問題である。


2007年08月31日(Fri)▲ページの先頭へ
志向性について:連続性と不連続性の即非としての志向性:ポスト・モダンからトランス・モダンへ
志向性について:連続性と不連続性の即非としての志向性:ポスト・モダンからトランス・モダンへ
テーマ:ポスト・モダン/トランス・モダン哲学
今日、再び、タリーズで『存在と時間』の続きを読んでいたら、ある表現に触発されて、思考が涌き出して、本の余白に書き込んだ。それを転記すると、試行錯誤した内容なので、蕪雑になるので、以下、新たに結論となった内容を書きたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ハイデガーの『存在と時間』では、現存在の本質の作用として、気遣い・関心を考えているが、私の見るところ、これは、フッサールの志向性をハイデガーなりに敷延化したものだと思われる。志向性という概念の方が、理論的には、包括・統括・包摂的であると私は考えるので、志向性を「存在」の基盤の作用として捉えて、考察することにする。
 さて、私は、意識存在(これは、ハイデガーの存在でもなく、フッサールの意識でもなく、両者を統一したものである。もっとも、フッサールの意識には、本来、存在と関係していると思われる。)の地盤に志向性を置く。これは、差異の志向性である。PS理論では、(+i)*(-i)⇒+1における⇒の様相である。+iと-iは差異、超越的差異(超越差異)であり、(+i)*(-i)は即非(共振)様相を意味する。そして、そこには、志向性が潜在している。中間の空虚によって、志向性の潜勢態があり、空虚を満たすようにして、志向性が実勢化する。そして、それが、エネルゲイアとしてのMedia Pointを発生させる。
 さて、このとき、(+i)*(-i)の志向性は、連続性と不連続性との対(つい)の志向性となる。これを対志向性ないしは即非志向性と呼ぶこともできる。
 さて、このMedia Pointのエネルゲイアにおいて、一方では、連続化が発生する。連続的エネルギー化である。これが、現象化である。このとき、連続化された差異は、同一性化する。即ち、同一性の意識、自我を形成する。人間の日常の意識は一般にこれである。
 問題は、この連続化による同一性が、必然的に、不連続性を忘却することである。Media Pointのエネルギーが連続性(同一性)へと傾斜したと考えればいいだろう。当然ながら、不連続性はブラインド、影になるのである。ここには、否定・排除・隠蔽という行為はなく、ただ、忘却である。
 しかし、形成された同一性意識は、志向性・対志向性・即非志向性の不連続性ないしは不連続面を忘却しているので、不連続性のエネルギーの発生に対して、否定的になるのである。ここに否定・排除・隠蔽作用が生起すると言えよう。
 つまり、こういう力学が考えられるのである。志向性・対志向性・即非志向性において、連続化と不連続化の極性がある。連続化エネルギーと不連続化エネルギーはそれぞれ、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーであり、両者でゼロとなり、エネルギー保存則を形成している。これは、生(エロス)と死(タナトス)の対エネルギーと言ってもいいだろう。哲学的には、同一性と差異と考えられよう。(フッサールの志向性の欠陥は、同一性の志向性のみを考えた点にあるだろう。ここを、デリダに攻められたと言えよう。とまれ、志向性は、対志向性であり、即非志向性である。)
 ここで、ポスト・モダン哲学を考えると、それは、同一性の志向性の現象に対して、差異の志向性を提起したと考えられるのではないだろうか。こう考えると、実に、明快になると思われる。即ち、同一性とは連続性であり、差異とは不連続性である。
 ハイデガー(私は、ハイデガーをポスト・モダンの一つの先駆と考えている)の『存在と時間』を見ると、存在(本来的自己)が差異・不連続性であり、非本来的自己が同一性・連続性である。(ハイデガーは存在と存在者の間に「一つの裂け目」、存在論的差異を見ていたので、これは、正当化されよう。)そして、前者を中心化したのである。つまり、存在=差異を中心化したのである。
 次にドゥルーズ哲学を見ると、それは、それは、自明ながら、同一性に対する差異の哲学を説いたのである。差異を中心化させたのである。しかしながら、その差異は、不連続なものではなく、連続的なものでしかなかった。ここに差異論としてのドゥルーズ哲学の大きな欠陥があると言えよう。
 次にデリダであるが、デリダは同一性への対抗として、差延を説いた。これは、永遠に同一性を逃れる差異である。即ち、不連続性である。だから、ハイデガー哲学を踏襲していると言えよう。
 そして、不連続的差異論を見ると、それは、ポスト・モダン理論の最終的帰結であると言えるのではないだろうか。何故なら、不連続性を究極的に説いた理論であるからである。
 さて、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、ポスト・モダン哲学を見ると、それは、不連続性の志向性を肯定して、連続性の志向性を否定したものである。換言すると、近代主義が連続性を肯定して、不連続性を否定した事態とは正反対の事態がここにはあると言えよう。反近代主義である。脱近代主義ではない。反動とも言える事態である。
 さて、ここで、志向性・対志向性・即非志向性の視点から、この問題を考察すると、同一性(連続性)の志向性と差異(不連続性)の志向性の両極を共存させる哲学・理論が正当であるということになる。結局、同一性と差異とが即非的に結合した意識存在が本来的である。同一性の極と差異の極をもった対極的志向性が妥当なのである。そして、これを説いているのが、プラトニック・シナジー理論なのである。同一性と差異との即非性としての志向性を説いているのである。これは、ポスト・モダン哲学を乗り越えたトランス・モダン哲学である。また、フッサールの画期的な概念である志向性を、敷延して、差異の志向性として捉えた理論である。
 さて、ここで、派生的な問題として、(+i)*(-i)の志向性について考察したい。(+i)*(-i)の志向性において、連続化を考えると、二つの連続化が考えられる。(+i)→(-i)⇒-1であり、(+i)←(-i)⇒-1である。前者は知の同一性であり、後者は身体の同一性であると思われる。前者は合理主義であり、後者は非合理主義である。問題は、後者と差異の関係である。ポスト・モダン哲学は、差異中心主義である。これは、知の合理主義に対する反発・反抗・反逆と言っていいだろう。だから、身体性との結びつきが生まれると言える。
 身体的同一性=非合理主義とポスト・モダン哲学との関係はどうなのだろうか。差異を中心化すると、当然、同一性=合理的知が解体されるだろう。すると、当然、非合理主義となるのである。すると、ポスト・モダン哲学の差異とは、身体的同一性と同じであるということになるのではないだろうか。それは正しいだろう。知の同一性=合理性を否定するのだから、当然、差異は、身体の差異による同一性化となるだろうからである。
 そこで、D. H. ロレンスのdark Godやdark sunを考えると、それは、正に、差異=身体的同一性=非合理主義=闇=-1であろう。これを説いた当時、ロレンスはファシズム的発想をしていたのである。そして、賢明にもロレンスは、最晩年の(『逃げた雄鶏』[『死んだ男』])において、それから脱却して、差異共立の思想に到達したのである。つまり、ロレンスなりに、ポスト・モダンからトランス・モダンへと開眼したのである。ロレンスが『アポカリプス』で説いたコスモスとは、志向性のコスモス、 Media Pointの宇宙であろう。また、そこで批判されている、権力志向のキリスト教(イエスの教えとは異なるとロレンスが考えたもの)とは、ルサンチマンのキリスト教であり、同一性の志向性のキリスト教であろう。先に言った、超越論的同一性のキリスト教である。
 別稿で、先に考えた超越論的構造について、本件の視点から再考したい。

p.s. 補足すると、同一性の志向性が光の志向性であり、差異の志向性が闇の志向性である。そして、本来の志向性、対志向性、即非志向性は、光と闇の即非的志向性である。Twilightの志向性とも言えよう。
 ここで、ニーチェのアポロとディオニュソスを考えると、正に、これに当てはまるだろう。同一性の志向性がアポロであり、差異の志向性がディオニュソスであり、両者即非で一つの神性を表わすのである。正に、陰陽である。
 ところで、ディオニュソスは、破壊や解体の作用をもつが、ディオニュソス的一体感とは何だろうか。ニーチェは破壊の恍惚感と言っている。三島由紀夫的である。これは、同一性が解体されて、差異に還元されたときの根源・原初的歓喜ではないだろうか。思うに、同一性から差異へのプロセスと見るべきだろう。そうならば、根源・原初的即非的歓喜ということが考えられるだろう。ただ、差異だけならば、破壊だけであり、一体感はないだろう。
 視点を変えると、ディオニュソスとは、同一性が解体して、差異のエネルギーが解放(放出)されるということだろう。この差異のエネルギー、不連続性のエネルギーが一体感を生むのではないだろうか。
 ではなぜ、一体感なのだろうか。それは、同一性の個別・個体性の枠組みが解体して、前個別・前個体的なエネルギーが発動、Media Pointが賦活するからではないだろうか。脱主体的な、差異即非のエネルギーが発動するからではないだろうか。つまり、差異即非が、同一性=個別・個体化を超越した、メディア共鳴的様態だから、一体感を生むのではないだろうか。
 ところで、最後に三島由紀夫について簡単に触れると、どうも、彼のニヒリズムは、近代的同一性に対する反動であり、ポスト・モダン的であると言えよう。身体的同一性を志向しているのである。同一性の有に対して、差異の無(=神秘主義)に、いわば、取り憑かれたと言えよう。もっとも、その両極の間において、かいま、道徳を見いだしたと思われる。つまり、超越性ないしは超越界(叡知界)を感得したと思われる。彼の阿頼耶識論(『豊饒の海』の『暁の寺』)は、それを示唆していよう。阿頼耶識と世界との間に道徳を見るのである。
 別稿で、輪廻転生について再考したい。


2007年08月26日(Sun)▲ページの先頭へ
差異共振性の垂直性と水平性:生活世界と差異共振的政治:トランス・モダン・デモクラシーへ向けて
差異共振性ないしは差異即非性の概念が、不連続的差異論からプラトニック・シナジー理論への進展・深化(進化)へのキーコンセプトであった。
 私は、私自身の内面を測深して、不連続的差異が、他者と共振することを直感した。しかし、これは、最初は、垂直性においてであった。換言すると、イデア界的な共振性であった。
 問題は、これの水平性への展開である。ここで、根源である、差異の他者への志向性を考えよう。イデア界・虚軸においては、差異の他者への志向性とは、ポテンシャル・エネルギーであり、静態化している。しかし、志向性は志向性であり、いわば、原志向性である。
 しかるに、空虚ないしは境界の動態化によって、原志向性がエネルゲイア化する。すると、差異の他者への志向性は、垂直から水平へと転換するだろう。(ここで、回転、1/4回転を考えるべきであろう。)
 しかしながら、差異の主体においては、垂直性は残っている。つまり、対自的差異共振性があり、それが垂直的なのである。それに対して、現象界において、差異の主体は、水平的な外的他者を、垂直的な差異共振性の視点から把捉するだろう。つまり、垂直的差異共振性が、水平的差異共振性へと投射されるのである。
 ここにおいて、現象的な、ミクロの差異共振的社会が生まれると言えよう。思うに、これが、フッサールが考えた生活世界に類似しているだろう。生活世界とは、実は、ある日常社会に存在している。そう、思うに、同一性的様態と差異共振的様態とが混淆しているのが、社会であるが、近代主義は、前者中心にして、後者を排除したのである。今日では、小泉的似非改革がそうである。
 資本主義は、同一性的社会を生み出し、格差主義なのである。弱者切り捨てである。それに対抗するには、差異共振的政治や差異共振的生活が必要なのである。
 そう、自然の力の対立した様態の争いと言えるかもしれない。同一性主義vs差異共振主義である。ここで、シェイクスピアの『リア王』を想起する。そこでは、同一性主義に当たるエドマンドやリーガンとゴネリル姉妹と、差異共振主義に当たるコーディリア、ケントらが衝突する。
 資本主義は、仮借なき同一性中心主義である。今日、グローバル・キャピタリズムは、地球という自然や多くの貧者を破壊しているのである。結局、生活世界を取り戻すには、差異共振性を取り戻すしかない。それは、先祖返りではなく、同一性を乗り越えた差異に基づくものである。トランス・モダンの生活世界・「ゲマインシャフト」・「共同体(共振体)」なのである。
 今、日本の政治世界は、同一性中心主義の破綻というか解体が明確になってきた。安倍政権による同一性中心主義の解体である。そして、小沢一郎/民主党の差異共振的政治が胎動しているのである。そう、新しい政治、新しい社会の可能性が生まれているのである。それは、社会民主主義なのだろうか。社会民主主義は、左翼的発想である。しかし、小沢一郎/民主党の思想は、違う。それは、保守中道であろう。やはり、差異共振主義と名付けるのがいいのではないだろうか。差異的民主主義としての差異共振主義である。そう、近代的民主主義は平等主義であり、同一性民主主義であった。しかし、差異共振主義は、それを乗り越えている差異的民主主義(差異共振的民主主義)である。トランス・モダン・デモクラシーである。
 近代的同一性主義に留まり、滅亡するのか、それとも、トランス・モダンの差異共振的生活世界を選択するのか、二者択一である。To be, or not to be: that is the question.


2007年08月14日(Tue)▲ページの先頭へ
構造主義の差異とポスト・モダンの差異の相違点:構造主義は現象学を無視した近代合理主義の極限である
本件については先に簡単に述べたが、これは、重要な問題なので、ここで、さらに詳しく検討したい。
 私は、構造主義の差異とは、同一性間の差異、言わば、間同一性的差異ないしは相互同一性的差異であるとした(同一性的二項対立とも言った)。それに対して、ポスト・モダン(ドゥルーズとデリダ)の差異は同一性以外の差異、脱同一性的差異であると言った。
 同一性が発生する原因は、根源的差異の形相性にあると考えている。原主体と原客体が即非様相を形成している(差異即非イデア)。これが、Media Pointで、動態化・エネルゲイア化する。不連続性と連続性との一致が生起する(絶対矛盾的自己同一)。そして、連続性はさらに展開して、同一性を形成する(連続的同一性)。
 そして、連続的同一性とは、シニフィアンで言えば、多様な対立するシニフィアンを形成することになるのである。だから、Media Pointの連続性の「構造」が、おおまかではあるが、構造主義の構造であり、その差異を形成すると考えられるのである。
 少し観点を変えると、他者である差異に対して、主体の差異が、自己同一性を投影して、他者の差異を同一性化するのであるが、結局、多様な他者の差異に対して、主体の差異が、多様な同一性的差異(構造主義の差異)を形成するということになるだろう。ここで、多様な同一性的差異の構造が、構造主義の構造であり、シニフィアンを考えれば、当然、静的な構造である。それに対して、多様な他者の差異に関係する差異がポスト・モダンの差異であると言えるだろう。
 言い換えると、構造主義の差異とは、主体の差異のもつ同一性志向性が形成する間同一性的差異のことであるのに対して、ポスト・モダンの差異とは、端的に、他者の差異、乃至は、同じことになると思うが、主体と他者との差異である。少し分かりにくい言い方になるが、主体の差異と他者の差異との相違としての差異である。
 シニフィアンとシニフィエ、乃至は、ノエシスとノエマの術語で言えば、シニフィエやノエマを超越したところに他者の差異があり、この差異に焦点を当てたのが、ポスト・モダンであるということになるだろう。
 つまり、主体の差異は、他者の差異に対して、自己同一性という認識(シニフィアン/シニフィエやノエシス/ノエマ)をもってしまうのであり、この主体の差異の同一性を超えた他者の差異を取りあげたのが、ポスト・モダン哲学であると考えられるのである。だから、私の造語であるが、ポスト・モダン哲学とは、基本的には、脱構造主義哲学なのである。(注意:私が考えるところ、構造は、決して、主観性からは離れていない。つまり、例えば、シニフィアンと言っても、それは、主観性において、形成される同一性であるからである。シニフィアンの差異も間同一性的差異であり、それは、主観的である。より的確に言えば、構造とは主観・主体の差異における深層構造ないしは超越論的形式である。後で再考したい。)
 ここで、この視点から、現象学について検討してみよう。私見では、フッサール現象学は、主体の差異から客体の差異への志向性を発見した。しかしながら、フッサールは主体の差異を中心化して、客体を差異をほぼ看過しているのである。フッサールの混乱(と言っていいと思うが)は、志向性を同一性志向性に限定してしまったことにあると思う。主体の差異の他者の差異への志向性とは、正に、差異の志向性であり、本来、純粋差異的志向性のはずである。しかるに、フッサールは、それを、同一性的志向性に限定したのである。だから、フッサール現象学は二重性をもっているのである。一方では、差異的志向性の次元(Media Point)の発想があり、他方では、同一性的志向性が作動しているのである。分裂と言ってもいいだろう。自我的同一性に囚われていたために、自身が切り開いた現象学のもつ脱自我性を積極的に肯定できなかったのである。だから、フッサール現象学には、可能性ないしは潜在性としての(ポスト・モダン)の差異があると言えよう。
 そして、ハイデガーであるが、いわば、存在的存在者=現存在ないしは世界内存在を提起することで、主体の差異と他者の差異との相関性を主題にしたと言えよう。つまり、いわば、間差異性、相互差異性が存在的存在者=現存在ないしは世界内存在として問題化したのである。フッサールにおいては可能性であった他者の差異を主体の差異と関係させて積極的に摂取したと考えられるのである。
 だから、ハイデガー現象学においては、他者の差異そして主体の差異ということが問題化しているのである。だから、既にハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学なのである。PS理論から言うと、存在とは、主体の差異を、同時に、他者の差異を示唆する。つまり、主体の差異と他者の差異との即非様相、即ち、 Media Pointを示唆する。ハイデガー現象学はPS理論に近いのである。
 先にも触れたが、では、構造主義の意義は何であったのだろうか。それは、いわば、超越論的同一性(=構造)ないしは超越論的同一性的差異を明確に理論化したことにあるだろう。主体の差異のもつ超越論的同一性(的差異)構造を明瞭にしたのである。現象学は、だから、いわば、損をした立場にあるのである。現象学は、もともと連続的同一性を批判して、超越論的自己(超越論的主観性というよりは、こう呼ぶ方が深い)を提起したのである。既に、構造を確認していたが、それを特には提示しなかったのである。
 だから、問題は、構造主義にもあると言える。ソシュール言語学を取りあげれば、シニフィアンとは同一性であるが、それは、主観(主体)性が形成するものである。言い換えると、主観性、ないしは主体の差異は、Media Pointにおいて、同一性志向性をもっているのである。この同一性志向性が、シニフィアンという同一性を生起させるのである。だから、いわば、主観の深層構造からシニフィアンが発生するのである(私は主観の深層構造は主観の超越論的形式と考えているのである。)。
 故に、構造主義の構造とは、主観の深層構造ないしは超越論的形式であると考えられるのである。一般には、構造とは、主観を超えた形式と考えられているが、私見では、主観の根底・基盤にある形式である。そう考えれば、ソシュールのラング(共時的一般的言語体系)のことも理解しやすくなるだろう。それは、言語の客観的体系というよりは、主観の根底・基盤・土台にある深層構造的体系と言い直すことができるだろう。
 そうならば、シニフィアン(同一性)とシニフィアンの差異(間同一性的差異、相互同一性的差異)の体系を構造と見たことはどういうことなのだろうか。それは、端的に、客観主義ないしは客観中心主義に囚われている発想を意味するだろう。主観と客観とを分離した近代合理主義の発想が主導的であると言えよう。つまり、構造主義とは、近代合理主義(主客二元論)に基づく、同一性的差異論であるということである。つまり、構造主義は、厚かましくも、現象学の成果を無視して成立した、近代合理主義を基礎とする同一性的差異論ということである。そう、近代合理主義の極限・限界と言えるだろう。主観・主体の超越論的形式ないしは深層構造を始めから排除しているのである。
 だから、構造主義は近代主義的には進展であるが、哲学的には反動なのである。このパースペクティブから、ポスト・モダン哲学を見ると、構造主義と現象学との混乱したジレンマに立たされた哲学であったと言えよう。つまり、哲学的には、実際には現象学の方が進展しているのに、構造主義が進展しているという錯誤が支配した状況において哲学を行ったのが、ポスト・モダン哲学である。非常に不幸な知的状況に、ポスト・モダン哲学は立たされていたと言えよう。哲学と近代科学との分裂的狭間に立たされていたとも言えよう。
 例えば、ドゥルーズ哲学を見る限り、構造主義的発想が強く、主体の差異(=特異性)が、同一性と連続化されて、いわば、差異即同一性のような事