ポスト・モダンとトランス・モダン






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2008年07月29日(Tue)
ポスト・モダンとトランス・モダン
以下、私の検討問題の叙述
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10120842370.html
に対して、批判が寄せられたので、私なりに、建設的な考えを述べて答えたいと思う。
 かなり詳細な批判なので、以下、部分ごとに分けて、答えたいと思う。なお、私の考えは、紫色の文字で記述したい。

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フッサール…礎としての哲学の再開、キェルケゴール補足、狂気肯定への批判
・・・・・

「だから、言語とは、同時に、非言語であるという立場が必要ではないだろうか 」と、昨日近代理性への狂気の織り込みは「見当違い」だと批判した人が反論?されています。当該記事は個々人でリンクから飛べるの読んでもらうとして、重要なのは最初に挙げた文章です。言語に言語と非言語という様態を捉えているのです。何度もいいますが、このような二項対立を生むことそのものが無根拠な形而上学的暴力に満ちているのです。昨日批判した理性に対する狂気と同じことです。非言語といい狂気といい、それらはアンチテーゼの要素でしかない。それはそもそもが理性や言語のなかに可能性として包含されているのであって、それが顕在化を主張することはステレオタイプな別の形而上学を創造しているに過ぎない。デリダ=サール論争でも述べましたが、言語や理性そのものが無根拠性を有しているのであって、当然既存の体系は自己瓦解する要素は包含しているのです。しかし、それは非、だとか反という意味の二項対立を生むものではない。もっと根源的な位相の可能性の問題です。言語を脱構築したときに発現するのは非言語でもないし、近代理性の場合は狂気でもない。ただ、無根拠であるというトポスが開かれるだけであって、そこに構築する行為とは作為的な形而上学的暴力です。だから、デリダはフーコーに「理性には理性」をと諫めるのであって、二項対立そのものの危険な無邪気な発想は、ニーチェやハイデガーの陥った罠が待っているだけだというのです。そもそも、この人は前回も指摘した通り「テーゼ」というものを肯定するのですが、この時点である主張を根拠化するので二項対立に逡巡することもないのです。テーゼとは形而上学的発想そのものなのですから、当然のように可能性を逸脱した単純な二項対立に陥るのです。例えば、理性に対して狂気をもってきても、狂気以外のものも可能性として残存するのです。理性でも狂気でもないという様態が。この可能性のトポスに無頓着であるから無根拠性を根拠として打ち立ててしまうのです。

この反論ですが、私は、確かに、言語と非言語と言いましたが、それは、二項対立ではありません。それは、対極性、極性ということです。弁証法ではありません。ここで、批判者は短絡に陥っていると考えられます。私がいう言語と非言語とは極性の関係であり、二項対立から洩れる第三のものを包含しています。「理性でも狂気でもないという様態」は正に私が言わんとしたことで、この点で、批判者と私は一致できます。

*************

また「しかしながら、問題点は、特異性と一般性の関係である。言語は一般性となり、特異性を否定する。 」といっていますが、言語が特異性を否定するとはいえない。行為遂行的言語における一般化の傾向は認めるとしても、クリプキやクワインのいうように言語体系そのものが証明不可能なことから一般化と特異性の関係も崩壊する。当然、デリダの「散種」が導くように言語の一般化そのものが言語そのものによって簡単に瓦解するし、ソシュールがシニフィエの恣意性をいうとき言語体系が必ずしも一般化に傾倒しているという帰結は導けない。つまり、言語体系に一般化と特異性という視座をもち出すことがそもそもアプリオリに二項対立を許しているのであり、そこに何ら根拠はないということです。そして、それを形而上学的発想というのです。脱構築が瓦解を許しても構築を許さないのは、この人のようにすぐに安易な二項対立の可能性を発現させるからです。そして、このようなあり方をデリダは形而上学的暴力というのです。

確かに、「言語が特異性を否定するとはいえない」という指摘はその通りだと思います。私は、この検討問題において、大雑把に言っているのであって、その点を理解していただきたいと思います。確かに、批判者の指摘するように、厳密に言えば、一般性と特異性の二分化は問題があると思います。厳密に言えば、デリダの言うように、すべて一般性は崩壊すると思います。しかしながら、常識の範疇で言えば、一般性は成立していると考えられます。これがなければ、生活は成立しないと思います。例えば、眼前のグラスをごみ箱と言ったのでは、確かに、理論的には、可能ですが、生活は成立たないと思います。その点で、私は一般性=同一性を評価しています。ですから、一般性=同一性と特異性の二項対立ではなく、極性はあると思います。

***********

また、「言語がなければ、直感は明晰にならない。そう、これは、数式に似ているだろう。数式により、明確化されるのである 」といっていますが、オースティンからサール、デリダ、クリプキ、クワインに至る論争で明白になったように、必ずしも直感=行為遂行が言語によって明白になるのではないということです。行為遂行的言語、発語において必ずしも言語はその要請される行為遂行を表現しないのです。喉が渇いていて誰かに「水!」といい、誰かが「そうか水か」と事実確認的言語として理解したり、ガムを渡すことの可能性は否定できないのですから。それから言語と数学的公理系は全く別のものであるという認識が欠けています。以前にも述べましたが哲学が数式でその意味を代理にするのは便宜上のことであって、根拠のあることではありません。しかも、それはオリジナルと再現前、代理の関係を構築する点で悪しき形而上学的発想なのです。数学的公理系による表現がより明晰に伝聞されるというのは神話的であって、ゲーデルが「数学的公理系を数学的定理によって証明するのは不可能だ」と結論付けるように、数学的な表現に妥当性などないのです。この人の誤謬は言語にしろ、数学的公理系にせよ、それらがアプリオリに行為遂行的様態を明晰にするというプラトン的な古い形而上学を前提にしているところです。こんなものは、デリダやハーバーマスの論争に見ることができるように、取り払うべき発想であっても、推進するべき発想ではないのです。なぜなら、どの道このような二項対立軸で思考することは可能性の縮減化に向かうからです。この人のいう「テーゼだと…」という表現が示すように、構築への意志は何よりも危ういのです。

批判者の言わんとしていることは理解できます。言語と行為遂行性とのズレを指摘していますが、それはその通りだと思います。私が言っているのは、極く常識的な素朴な事態であり、厳密なことではありません。哲学的な厳密性を言えば、批判者の言う通りだと思います。
 美術で言えば、デュシャンの『泉』は、素朴には、便器でありますが、見方によって、「泉」となります。視点の問題が確かにあります。
 また、「構築への意志」云々ですが、確かにその通りです。ここで、ポスト・モダンと私や海舌氏の提唱するトランス・モダンの違いがあると思っています。ポスト・モダンは、デリダに象徴されますように、すべて相対化されて、形而上学は批判されます。しかし、PS理論は、いわば、ポスト・ポスト・モダンを志向していて、あえて言えば、新しい形而上学の構築を目ざしていると言えます。
 ですから、「構築への意志」があるというのはその通りだと思います。

http://ameblo.jp/bloghiro-dive/
entry-10120866669.html

差異と反復それでも差異と反復/言論闘争の時代

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