グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である |
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2008年02月24日(Sun)
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
テーマ:トランス・モダン・コスモス プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。 ******************* 「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体 テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築 共同‐体(コルプス) (単行本) ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳) ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。 ★★★引用開始★★★ 【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく--- ----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】 p. 68 ★★★引用終了★★★ 参考: ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。 Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ 略歴 1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。 しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。 http://www.saysibon.com/ yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm
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