近代的自我の狂気について:心の弱者と心の強者:民主主義批判と差異共振的秩序






2007年11月13日(Tue)
近代的自我の狂気について:心の弱者と心の強者:民主主義批判と差異共振的秩序
同一性の志向とは、他者である差異を否定・排除するので、当然、自己中心主義=利己主義である。思うに、この他者=差異の否定・排除とは、否定的感情である。嫌悪というよりは、憎悪である。そして、嫉妬、怨恨(ルサンチマン)が生じる。当然、他者=差異を認識しないので、非合理的である。同一性=言語の知覚はあるのであるが。この同一性=言語の知覚とは何か。それは、正に、ロゴス中心主義ではないだろうか。西洋文明の意識である。(参照:D.H.ロレンスの天才的な洞察のメルヴィルの『白鯨』論)
 問題は、否定・排除された他者=差異である。これは、ある意味で身体と言っていいだろう。同一性の意識は身体を捉えられない。しかしながら、身体との接触は、感情に存するだろう。感情を測深することで、自己認識へと近づくと言えよう。同一性意識は、自我感情に無意識である。つまり、憎悪感情を意識していない。
 感情領域への測深、すなわち、省察や瞑想によって、他者=差異への認識へと近づく。感情領域には、自我感情(憎悪)と共振感情(共感)が存するだろう。
 思うに、省察や瞑想とは、正に、特異性の認識行為であり、単独的行為である。犀の角のように、ただ独り歩め、である。自己知とは、自分以外、誰も教えられない。ただ、方法は教えられるが。
 省察・瞑想の問題点は、それが、身体へと測深しないといけないことである。同一性の頭脳で考えている限り、つまり、自我、近代的自我で考えている限り、不可能であるということである。出口なしである。
 身体的他者・差異を見い出さない限り、自己認識に達しない。しかし、これは、危険な行為ではある。単に身体的他者・差異に達するというよりは、同一性と身体的他者・差異を対話・交信させることが必要なのである。わかりやすく言えば、相互形成が必要なのである。これが、自己涵養である。そして、⇒+1が形成されるのである。
 こんにち、ポスト・モダンの時代にあって、身体的他者・差異が賦活されていると考えられるが、そのエネルギーを同一性=近代的自我は、取り込むことができずに、反発するだけであるが、それが反動的な身体的他者・差異のエネルギー、すなわち、狂気・暴力をもたらすと考えられる。そう、「分裂症」である。同一性=近代的自我のコントロールできないエネルギーに見舞われているのである。
 もともと、同一性=近代的自我には憎悪があるから、憎悪が増幅されると言えよう。言うならば、狂憎である。そして、次第に、狂憎に支配されて、真の狂人になるのである。

p.s. 近代的自我における、言わば、同一性自我感情であるが、同一性自我であることに自惚れるのであるが、これは、同一性のもつ自己満足から来ていると言えよう。同一性を反復することで、同一性自我は、自己満足するのである。そして、同一性自我感情の型ができると思われる。慢心・傲慢の型である。あるいは、独善・独断・自己欺瞞・自己瞞着の型である。思うに、同一性癒着の型とも言えるだろう。つまり、他者・差異に自己投影して(鏡像)、同一性化するのであるから、同一性癒着ないしは同一性自我癒着である。自乗である。i^2⇒-1である。
 ここでは、他者・差異はまったく消えている。自己盲目(無明)である。自己反射宇宙=パラノイアである。即ち、自我と他者・差異が分離・乖離しているのである。だから、同一性狂気である。
 では、他者・差異の賦活が生起するのに、どうして、同一性は自我閉塞してしまうのか。これは、以前さんざん考えた問題である。弱さ、劣弱さが原因ではないか。つまり、他者・差異を認めることは、自我感情にとって苦痛をもたらすことである。自我同一性にとって、他者・差異を認めることは屈辱である。この苦痛を感受したくないので、他者・差異を否定し続けるのだろう。そう、同一性欲望が、他者・差異を否定・排除し続けさせるのである。
 しかしながら、他者・差異は賦活され、発現するのだから、それを否定・排除するのは、非合理、非科学的である。なにか病的なものがある。思うに、恐怖ないしは不安が根因ではないだろうか。同一性自我にとり、他者・差異は恐怖であると考えられる。未知のものであり、一種暗闇のようなものである。
 だから、心が弱い者は、他者・差異を避けるのである。どうもこれで説明がつくようだ。以前、高貴な差異と劣弱な差異を分けたが、それは当たらず言えども遠からずであったろう。
 人の心は、人それぞれである。大きく分けると、弱い心と強い心の持ち主がいるのである。一般に、人間は前者である。だから、同一性中心主義となるのである。しかしながら、少数者の後者がいる。いわば、生まれながらの貴族である。精神的貴族である。彼らは、他者・差異を肯定して、苦悩するのである。そして、遂には、差異共振性へと達するのである。民主主義の一番の問題点は、前者が多数を占め、後者の存在を否定することである。衆愚主義である。ニーチェの批判は正しい。賎民、弱者の支配なのである。しかし、さらに、これは、賎民・弱者にとっても不幸である。愚者は悪人を支配者に選ぶのである。全体主義となるのである。(小泉元首相の政治が正にそうであろう。)ニーチェ/ロレンスの民主主義批判は炯眼である。心の強者が指導者にならなくてはならない。


   




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カレンダ
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