自我的同一性と差異的同一性:トランス・モダン即非知:差異・即非・同一性 |
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2007年10月23日(Tue)
自我的同一性と差異的同一性:トランス・モダン即非知:差異・即非・同一性
先に、近代的自我においては、《知》への不誠実さが生起すると言った。すなわち、同一性の知に対しても、不誠実になると言った。これは、どういうことなのか。近代的自我ないしは近代合理主義は、同一性=物質という合理的知に対しては、誠実であるのではないのか。
単純な例で考えよう。ある人Aが別の人Bに《働きすぎると病気になりやすい》と忠告したとしよう。この忠告を、一つの同一性の知と見ていいだろう。Bは近代的自我の人間である。しかし、慢心しているBは、その同一性の知に対して、軽視ないし無視の態度を取る。BはAに対して、日頃、対抗意識(近代的自我的同一性意識)をもっているので、Aの忠告の言葉を素直に聞くことができないことが理由であるとしよう。 この事態はどういうことだろうか。客観的事実(同一性の知)に対して、近代的自我の人間であるBは率直に肯定することができないのである。これは、《働きすぎると・・・》という同一性を、いわば、否定していることになる。そして、自我の同一性を肯定しているのである。ここには、二つの同一性があると言えよう。それらを区別する必要があるだろう。 否定する近代的自我の同一性とは、自我的同一性と言えようが、客観的事実の同一性は、事物的同一性とでも呼べるだろう。結局、近代科学とは、後者の事物的同一性、あるいは物質的同一性を合理的価値としたのである。 結局、自我的同一性(近代的自我)と事物的同一性(近代的合理性)の二つの同一性を区別できたと言えよう。先に述べたように、前者は後者に対して、不誠実になるのである。これが、近代主義の大矛盾であると考えられる。 ここでPS理論を考えると、それは同一性=物質を包摂した差異の理論である。それは、ここでの視点から言えば、事物的同一性(近代合理性)を包摂した差異の理論ということになる。 問題は、PS理論における、差異に包摂された同一性(事物的同一性ないしは近代合理性)は、近代的自我における、たとえば、上記のように軽視ないしは無視される事物的同一性とは、どういう関係にあるのだろうか。それだけ取り出せば、両者、同一である。 ここで、近代主義は、近代的自我と近代合理性との両者が結びついているものと考えると、両者は、上述からわかるように一体化したものではなく、近代主義における二面性を形成していると言えるだろう。そして、以上からは、両者は齟齬的とさえ言えるだろう。(具体的に言えば、たとえば、エイズにおける血液製剤の問題であるが、帝京大の安倍氏は、人権という近代合理性を、あるいは、血液製剤に関する科学的合理性を、製剤の利益という同一性に基づいて無視したことがあげられるだろう。つまり、安倍氏は、自我的同一性によって、近代合理性を否定したことになる。確かに、利益というのも、近代合理性と考えられるかもしれないが、しかしながら、この場合、近代的自我に捩じ曲げられた近代合理性であり、やはり、自我的同一性に入れるべきであろう。この点については、後で詳論したい。) つまり、近代的自我における近代合理性とは、あるときは、肯定されたり、否定されたりするという便宜的なものであると言えるだろう。主体は近代的自我にあるのであり、近代合理性は道具的なものである。従属するものである。 では、PS理論による差異に包摂された近代的合理的同一性と近代的自我における近代合理的同一性とをどう峻別したらいいのだろうか。ここで、私の今日閃いた直感を述べることになるのであるが、PS理論においては、個とは、近代的自我ではなく、差異的自己である。だから、それにとって、近代合理的同一性とは、差異化された同一性であると言えるだろう。以前、私は差異的同一性であると述べたことがあるが、差異的同一性であると言えるだろう。 それに対して、自我的同一性における近代合理的同一性は自我連続的同一性、あるいは、連続的同一性である。自我的同一性と連続した近代合理的同一性であり、言い換えれば、近代的自我と癒着した同一性である。しかし、上記したように、近代的自我が主体であり、近代合理性は道具・従である。つまり、近代合理性は近代的自我に従属しているのである。だからこそ、近代的自我は真理に不誠実になるのである。自我的同一性中心主義が近代合理性を都合よく利用すると言えるのである。有り体に言えば、自己中心主義、利己主義が近代合理性を操作しているのである。 ここで、今日の私の直感を明快にすべきだろう。私は、差異における同一性とは、差異ではないかと思ったのである。例えば、私が「今日は晴天で気持ちがいい」と言ったとしよう。これは、言明として、同一性であるが、しかし、私という差異における同一性である。だから、端的に差異ではないだろうか。つまり、「今日は晴天で気持ちがいい」というのは、差異である私の特異性ではないだろうか、ということである。言葉としては、確かに、同一性であるが、私という差異・個・特異性における様態であるから、端的に差異ではないのか。 それが正しいのならば、差異における近代合理的同一性も、差異となる。つまり、近代合理性、近代科学の知とは、差異である自己においては、差異の知となるのではないだろうか。私は詭弁を弄しているのだろうか。 言葉は確かに、同一性である。しかし、それを発話する私(自己)は、差異であり、言語の同一性は差異化されるのでないだろうか。近代的自我ならば、言葉の同一性に対して、それを利己主義から、同一性化するのみであり、差異化はしない。つまり、言葉の同一性は、形式性のままである。 差異的同一性であるとは少なくとも言えるが、私はそれをさらに進めて、差異そのものにしたいと考えているのである。そもそも、差異的同一性とは何だろうか。 例えば、「この音楽は奇蹟的に美しい」と発語したとしよう。言語自体は、同一性である。すべて辞書に載っている。しかしながら、その発語は、私(自己)の差異性=特異性において発せられているものであり、私にとっては、「差異的同一性」である。しかし、本当に同一性なのだろうか。 感動があり、それは差異=特異性である。それを表現した言葉は形式では、同一性であっても、実体は差異のはずである。同一性ではないのである。つまり、発語において、同一性と差異が「絶対矛盾的自己同一」化しているのである。やはり、即非態である。差異と同一性との即非態である。(今、思いついたが、 Media Pointとは、言い換えると、即非点、即非ポイント、ないしは即非原点である。) そう考えると、私の直感とは、差異と同一性の即非性のことであったと言えよう。そう考えて、私の疑問が氷解すると言えよう。 私(自己)にとっての発話とは、差異・即非・同一性なのである。差異的同一性という呼び方は妥協的である。差異・即非・同一性なのである。 結局、近代的自我は、差異を理解せずに、同一性に対して反射的に反応しているに過ぎないのである。差異に鈍感、否、盲目なのである。 では、上述の科学的合理性について当てはめたらどうだろうか。天然ガスを使用する設備があるとしよう。それは公的な施設なので、ガス漏れ探知器をつけるのが義務づけられている。近代的自我にとり、ガスが洩れる可能性があるということ(科学的同一性)は、道具・従的なことなので、利益中心主義=利己主義から見ると、余計のものと映る。つまり、近代的自我によって、科学的合理性は無視されるのである。しかしながら、差異である自己にとってはどうだろうか。 公的施設であり、法律では、ガス漏れ探知器の設置が義務づけられている。これは、科学的合理性である。しかしながら、差異である個にとって、公的施設である、天然ガスの設備は、常識的にガス漏れを起す可能性がある。多くの人が利用する施設であるから、リスクを回避するために、ガス漏れ探知器の設置は当然であると考えるだろう。 差異である個は、差異共振性において、他者を考慮しているのである。(因みに、ハイデガーの『存在と時間』には、この差異共振性における他者への配慮が欠落しているのである。)このとき、差異である個である管理者にとって、科学的合理性(同一性)は、差異でもあるのである。科学的合理性(同一性)・即非・差異である。これで科学的合理性についても、同様に説明することができた。 以上から、結局、差異・即非・同一性である《知》とは、トランス・モダン即非知ないし即非叡知と呼ぶことができるだろう。 結局、近代主義の乗り越えとは、単なる否定ではなく、近代主義のもつ科学的合理性を包摂する差異の知、すなわち、即非知を意味すると言えよう。トランス・モダン即非知である。 |
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