フッサール/ハイデガー現象学

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年02月04日(Thu)▲ページの先頭へ
ps理論の先駆としてのフッサール現象学:ハイデガーは二流の哲学者である
文庫本で50ページに満たない長さながら、フッサール現象学のエッセンスが凝縮されている。
 ps理論は、フッサール現象学(超越論的現象学)が先駆であり、また、差異論的進展である。
 思うに、フッサール現象学に欠けているものは、内的他者性であり、自己と他者との即非的共同性である。しかしながら、それを除けば、ps理論のアウトラインを記述していると言えるほどである。
 フッサールの失敗は、ハイデガーを弟子にしたことである。鬼っ子であり、画期的な現象学を破壊した悪魔的「弟子」である。
 因みに、ハイデガーの存在論であるが、それは、有=存在=物質の思想と超越論的自我の思想を結合させた折衷的思想である。ここには、他者性(倫理・道徳性)が欠落しているのであり、物質主義的唯我論であると言えよう。

ブリタニカ草稿 現象学の核心

エトムント・フッサール 著 , 谷 徹 翻訳
現象学の始祖フッサールが、ブリタニカ百科事典の求めに応じた四つの草稿の集成。成熟した思索において、「現象学とは何か」、その核心を語る。
ブリタニカ草稿 現象学の核心

* シリーズ:ちくま学芸文庫
* 定価:1,365円(税込)


この本の内容

現象学の始祖エトムント・フッサールが、『ブリタニカ百科事典』の求めに応じ、「現象学」の項目のために執筆した、ドラマチックな推敲のあとが窺える四つの草稿の集成。変化しつづけたフッサールの思索が成熟した時点で書かれた本書は、まさに“現象学とは何か”その核心を語る。そのため、完成稿(第四草稿)は、始祖自身による最も完備した好適な入門書ともなっている。これら草稿は、ハイデガーとの共同作業を経て完成したが、とくに第二草稿には両者の一致と相違が如実に現れていて、20世紀を主導した両者の現象学的哲学の本質を考えるための重要なヒントもここにある。詳細な訳者解説を付す。
この本の目次

第四草稿(最終稿)(純粋心理学、その経験の場、その方法、その機能
現象学的心理学と超越論的現象学
超越論的現象学と絶対的に基礎づけられた普遍的学問)
第一草稿(「純粋」心理学としての心理学的現象学
心理学的現象学との対比における超越論的現象学)
第二草稿(改訂の試み)(現象学の理念と意識への還帰
純粋心理学の理念
現象学的心理学と超越論的現象学)
第三草稿の序論部分
第三草稿の結論部分
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088178/

参考:

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

パリでの講演をもとにした、フッサール晩年の著作である本書では、『イデーン』ではほとんど触れられなかった、間主観性や他我についてが論じられている。


後期フッサールは、『イデーン』などの中期から大きく変化した、とたまにいわれる。形而上学へ近づいた、とか、独我論を抜け出すために間主観性という考え方を提示した、とか、そんな風にいわれているようだが、実はそんなことはまったくない。
http://www.geocities.jp/ittokutomano/cartesian.html


フッサール『イデーンT』


1.フッサールの情熱

日本語訳の冒頭に掲載されている「あとがき」で、フッサールは次のようにいっている。

筆者は今老境にいたって、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するにいたっている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を掴んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいで あろう、と。」

いつでも真摯に哲学してきたフッサールの、静かなる情熱が感じられる。私はこういう文章に、結構じーんとくる。

 そして彼は、さらに次のようにいう。

「現象学的哲学の全般的な研究地平は、いわばその地理上の主要構造の面では、露呈されおえ、本質的な問題層と本質的な接近方法とは、解明されおえたわけである。筆者は今、真の哲学の無限に開かれた土地、その『約束の地』 が、自分の前に拡がっているのを見る。その土地が完全にもう開拓され尽くすありさまを、余命いくばくもない筆者自身は、もはや体験することはないであろう。」

 自らの哲学的成果がどれほどに画期的なものだったか、フッサールはよく自覚していた。

 しかし、彼が切りひらいた「方法」によってその後飛躍的に深化するであろう諸学問の展開を、彼はその予告通り、みることはできなかった。

 ばかりか、残念なことに、現象学はいまだその真価を理解されないまま、過去の思想になろうとしているのだ。

 フッサールのやってのけた大事業は、これからもう一度吟味し直し再評価される必要があると私は思う。

 彼の成し遂げたことは、いったいどのようなものだったのか。

 ここで少し、みてみることにしよう。

http://www.geocities.jp/ittokutomano/ideen.html


2009年06月19日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:フッサール現象学と「超越論的主観性」:客観的空間把握は主観的空間把握が先立つ
今は問題提起だけである。新しい地域に来て、巨大なスーパーがあり、最初、中で迷ってしまったが、今は、中で方向感覚がつくようになった。
 これは、客観的認識というよりは、主観的認識である。主観性の「勘」に基づくと思われる。
 つまり、⇒が基礎であり、⇒+1が主観的空間認識であり、+1だけを取り出すのは、客観的認識であり、唯物論的である。
 PS理論はこの点については解明済みであるが、今の時点で少し考えたい。
 「近代化」によって、認識は客体へと向けられ、主体・主観はきわめて疎かにされてきた。この超越的主観、絶対的主観の衰退が今日の日本の衰退をもたらしたとは言えよう。
 本来、哲学が超越的主観・絶対的主観を説くべきものであったのであるが、フッサール現象学をハイデガーがまったく勘違いしたために、西洋哲学において、大混乱が起きたと考えられる。ハイデガーによる「災禍」がポスト・モダンの制約になった一面がある。
 日本の戦後の哲学は、ほとんど西洋哲学の受け売りであり、フッサールと同時にハイデガーをも批判なく受容してきたのである。本来、フッサールとハイデガーの違いは、歴然としているのに、それに気づかないというのが愚鈍である。
 思うに、哲学を学ぶ人は、あまり、文学に親しんでいないらしい。文学に親しんでいる人であれば、ハイデガーの『存在と時間』は、文学的な内面の叙述であることがすぐわかるのである。つまり、内在的な主観性の叙述である。
 それに対して、フッサール現象学の「超越性」はきわめて根源的であり斬新なのである。既に構造主義を乗り越えているのである。換言すると、トランス・モダンの原点に達しているのである。
 私にはなにか不思議に思えるが、どうして、フッサール現象学の「超越性」をそれ以後の西洋の哲学者はほとんど誤解したのか。
 私の推測では、ユダヤ文化と近代西欧文化の本質的な違いがそれを説明するように思える。即ち、ユダヤ文化は、超越性を保持した文化であり、近代西欧文化は超越性を否定して、自我・物質性を中心にした文化であるということである。今はここで留めたい。 


2009年02月13日(Fri)▲ページの先頭へ
Media Pointと20世紀欧州哲学・思想:フッサールとハイデガーの分水嶺:現代西洋哲学混迷
今は余裕がないので、ざっと述べたい。
 ハイデガー/デリダの存在/差延の領域等の位置確認をしたい。先に、Media Point(以下、MP)の実軸面(以下、実面)がそれであると言った。図式化すれば、⇒/+1の⇒の先端と/の接点がそれであろう。
 次に、フロイト/ラカンの「無意識」は、⇒/+1の/であると考えられる。それは、ラカンがいみじくも言ったように、言語の「無意識」である。つまり、同一性の構造である。そう、/とは構造主義の構造でもある。さらに言えば、それは、カントの超越論的形式と言えよう。
 問題は、ドゥルーズの「差異」やラカンの現実界の位置なのである。
 ドゥルーズの「差異」について考えよう。私は以前、ドゥルーズの哲学はほとんど構造主義であると言った。そうならば、ドゥルーズの「差異」も「構造」である。そう、連続的差異であるその「差異」は、確かに、「構造」と考えるとわかりやすい。
 ドゥルーズの致命的な誤謬は特異性を連続的なものと理解していることである。だから、「差異」を「構造」にしてしまったと考えられるのである。
 特異性ないしは特異点は、Media Pointであるが、差異を連続的なものにしたために、Media Pointから外れて、「構造」になったと考えられる。
 ということで、ドゥルーズの「差異」は「構造」ということになった。それは、⇒/+1の/で、フロイト/ラカンの「無意識」と等価となる。
 しかし、そうすると、『アンチ・オイディプス』は何であったのであろうかということになる。例えば、「欲望する諸機械」とは何だろうか。この問題は意外に難しいので、後で詳述したいが、簡単にここでは考察しよう。
 今の直感で言えば、やはり、ドゥルーズの「差異」は精神分析の「無意識」と等価である。精神分析の「無意識」とは、ラカンの「想像界」と見れば、多元性を内包しているのである。そう考えると、「欲望する諸機械」の多元性もそれで説明できるのである。この問題はここで留めておきたい。
 では、ラカンの現実界の位置はどうなるだろうか。これこそ、構造主義を超えるものがあるだろう。
 しかしながら、これは、ハイデガー/デリダの存在/差延に近いのではという直感がある。ラカンは、一種の不連続性を見ている。穴という発想をもっている。そうすると、ハイデガー/デリダの発想に近いと考えられる。
 ただし、垂直的な超越性は認識していないと考えられる。つまり、ラカンは有理数と無理数との不連続性を見ているのであり、超越性と同一性の不連続性を見ているのではないのである。だから、やはり、ラカンの現実界とは、ハイデガー/デリダの存在/差延と等価と見ることができるだろう。
 以上を整理すると、(+i)*(-i)⇒+1を変形させて、(+i)*(-i)⇒/+1とすると、ハイデガー/デリダ/ラカンの一部は⇒と/の接点に中心があり、フロイト/ラカンの一部/ドゥルーズは/の構造に中心があったと言えよう。
 フッサール現象学は、⇒を唱えたことと比較すると、彼らは後退しているのである。
 そう見ると、何度も繰り返すが、ハイデガーに因るフッサール現象学の誤解がその後の哲学の混迷の最大の原因と考えられる。


2008年09月23日(Tue)▲ページの先頭へ
人文科学の「科学」の意味について:PS理論の諸科学総合性
副島隆彦氏の以下の歯に衣着せぬ言葉から少し考えたい。

『「馬鹿。×人文科学(じんぶんかがく) などというコトバは無いんだ。人文(じんぶん。ヒューマニティーズ、あるいは、リベラル・アーツ)が、科学(サイエンス?)のわけが無いだろうか。アホども」 と、私が10年以上前、書いたので、文部科学省や、大型書店も、やがて、この×人文科学 を使わなくなった。本当だ。』
[989]「資本主義(しほんしゅぎ)」というコトバの由来(ゆらい)を教えておきます。
・気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板
http://www.soejima.to/

私は先に人文科学という言葉を、いくぶん不用意に使用したが、そのとき、人文学にしようかと迷った。問題は、「科学」という言葉・概念である。自然科学の「科学」は思うに、同一性=物質のデータを中心として形成される。しかし、人文科学の「科学」は差異を中心として形成される。前者を客観性、後者を主観性と言ってもいいかもしれない。
 しかしながら、カント哲学からわかるように、客観性も超越論的主観形式なのである。客観性と言われるものも、主観形式なのである。
 人文科学の「科学」は、そのような主観形式ではなく、直感・直観性に依存するものである。この点で、自然科学とは異なってくるだろう。
 直感とは、端的に言えば、Media Pointの感性である。だから、人文科学は、自然科学とはズレることになると考えられる。
 とまれ、そういうことで、副島氏の発言は、いささか、自然科学中心的である。
 PS理論は、自然科学、社会科学、人文科学等を融合する理論である。なぜなら、それは、Media Pointという諸事象の根本を基盤としているからである。


2008年08月07日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:コギトとは何か
自己認識方程式から言うと、真のコギトは、正に、(+i)*(-i)の共鳴様態、即ち、知性作用と感性作用の対極共鳴様態にあると考えられる。
 デカルトのコギトは、+i中心のものであり、-iをある面では排除しているのである。心身二元論はそこから発生したと考えられる。排除された-iを取り戻す哲学が、スピノザやライプニッツのものと考えられる。
 そして、フッサールが+iの志向性(ノエシス?)と-i(ノエマ?)を取り出したように思われるが、ただし、フッサールは同一性志向性を中心にしているので、差異の発想がなかったと思われる。
 ハイデガーの発想は、生起した志向性から発生した同一性自我(世界内存在)を中心化させていると考えられる。フッサールの根源的な志向性、超越・超越論的な志向性を看過していると思われる。
 そして、ポスト・モダンは、差異と同一性の併存という様態から理論化したのであるが、超越・超越論的発想を排除してしまっている。
 そして、不連続的差異論やPS理論は、トランス・モダンとして、超越・超越論的差異をMedia Pointの概念とともに提起して、この哲学問題を解明したと考えられる。


2007年09月22日(Sat)▲ページの先頭へ
ハイデガーの存在とは何か:同一性的差異としての存在
ハイデガー哲学を考えると、重苦しい感じになるが、なんとか整理しないといけない。今日、久しぶりに考えたのであるが、結局、ハイデガーの存在とは、差異が起点でありつつ、同一性となっているものである。つまり、同一性的差異がハイデガーの存在であると考えられる。同一性(非本来的存在)と同一性的差異(本来的存在)との間には、ハイデガーが言うように、「一つの裂け目」があるだろう。
 この同一性的差異を後のポスト・モダン哲学は差異として展開したと考えられる。ドゥルーズの差異は連続的差異であり、ハイデガーの存在の後塵を拝している。そして、デリダの差延であるが、それは、ハイデガーの存在の「差異」を超えた永遠の差異を目指したものであるが、超越性を否定したために、単に非同一性としての差異の遊戯に留まった。(後期デリダはよく知らないが、思うに、初期デリダの延長上にあると思われる。)


2007年08月30日(Thu)▲ページの先頭へ
超越的差異と超越論的差異の相違点:Media Pointと超越論的構造:ポスト・モダンを超えて
先に、ハイデガーの『存在と時間』から、その哲学が、「超越論的差異」的同一性構造であることを述べたが、超越論的差異が本来的自己ないしは存在を、同一性構造が非本来的自己ないしは存在者を意味しているのである。しかし、超越論的差異の成立について、あいまいな点があるので、ここで、もう一度検討したい。
 問題は、Media Pointから同一性が形成されるときの過程にある。i*(-i)⇒+1において、同一性とは、i→(-i)ないしはi←(-i)において発生する。【後者のi←(-i)の意味については、検討課題としておきたい。これは、身体的無意識ではないだろうか。】ここでは、主導的だと考えられるi→(-i)について考察したい。
 iである「知」は、「他者」である-iを同一性として認識しようとする。このとき、iが優位にあり、-iが劣位にあり、二項対立的同一性が形成される。iが主体となり、-iが客体へと転化される。問題は、優位となった主体の位置である。
 それを考察する前に、Media Pointについて考えよう。この同一性的転換において、Media Point自体は、自己否定化され、排除・隠蔽される。言わば、裏返しになると言ってもいいだろう。即非差異であるMedia Pointは、差異と同一性の両極ないしは両面をもつが、同一性的転化において、差異の面を隠蔽して、同一性の面を表面化するのである。
 この、いわば、捩れたMedia Pointの表面に現象生起するのが、二項対立的同一性である。即ち、iの同一性化である優位の主体と、-iの同一性化である劣位の客体との二項対立的同一性である。
 ここにおいて、顕現しているのは同一性現象であるが、潜在化しているのが差異である。この顕在化した同一性と潜在化した差異との総体、捩れたMedia Poinとは何であろうか。
 私が超越論的差異と言ったのは、どこに存するのであろうか。事態ないしは事象は微妙である。捩れたMedia Point総体における潜在した差異とは、超越的差異[i*(-i)]のはずである。しかし、差異と同一性の間には境界が発生している。否定・排除・隠蔽する境界線である。(同一性の限定する線、周囲circumferenceと呼べるのかもしれない。この線と形態とを比較したい誘惑があるので、後で検討したい。)
 この境界線は、同一性構造とも言えるだろう。これは、超越論的である。だから、超越論的同一性である。すると、超越論的差異とはどうなるのだろうか。潜在している差異は、超越的差異である。
 とても微妙な事態を扱っているのであるが、超越論的差異とは、超越論的同一性=同一性構造から認識される超越的差異のことではないだろうか。超越論性という視点から見られるので、超越的差異が超越論的差異と認識されると考えられるのである。言い換えると、超越論的同一性=同一性構造という超越論的位置から認識される超越的差異が超越論的差異である。
 図式化して整理しよう。

1.超越的差異/2.(超越論的差異)/3.超越論構造/4.同一性

としよう。あまり適切な図式ではないが、ポイントは、1.超越的差異と2.超越論構造との境界に超越論的差異が発生することである。そして、これが、ハイデガーの本来的存在ないしは存在である。だから、図式は次のようになる。

1.超越的差異/2.(超越論的差異=本来的存在・存在)/3.超越論構造/4.同一性(非本来的存在) 

この図式は十全ではないが、アウトラインは理解できるだろう。現存在とは、2〜4の領域のことになるだろう。
 さて、問題は、超越論的差異=本来的存在=存在のことである。超越論構造は、また、同一性構造でもある。(先に、パラドクシカルな同一性構造と呼んだものであるから、両義的同一性構造とも言えよう。)だから、超越論的差異とは、換言すると、同一性化された超越的差異ないしは差異である。この同一性化が、いわゆる、形而上学を構成していると言えよう。本来、純粋差異である超越的差異が、同一性に汚染されるのである。ということで、超越論的差異=同一性的差異ということになる。
 ここで、ポスト・モダン哲学について考えると、それは、超越論的差異=同一性的差異をターゲットにしていたと考えられる。(だから、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学なのである。)ドゥルーズ哲学は、基本的には、この超越論的差異=同一性的差異を説く哲学であると考えられるから、ハイデガー哲学の亜流ないしは継承である。そして、デリダ哲学であるが、それは、微妙なところがあるが、基本はやはり超越論的差異=同一性的差異に存すると思われる。もっとも、超越論的差異=同一性的差異からのズレとしての差異をデリダは差延等の用語で示唆するのであるが、それだけに留まっているのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、超越論的差異=同一性的差異の彼岸である超越的差異(=虚数的差異)へ突破することができるのであるが、デリダないしは初期デリダはそこへは達していないと考えられるのである。なぜなら、デリダはフッサールの発見した超越性を否定しているからである。ここにデリダの陥った袋小路があったと考えられる。ハイデガーの到達した超越論的差異=存在を乗り越えるために、脱同一性を意味する差異である差延を構想したが、それは、実質的概念というより、戦略的な概念であったと考えられる。超越論的差異からの脱却を目指しながら、自分で脱出口を塞いでしまったので、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 では、差延とは端的に何なのだろうか。簡単に言えば、同一性に常にズレをもたらす差異のことである。永遠の生成する差異である。だから、ニーチェ的であり、ヘラクレイトス的である。そう、確かに、意味合いとしては、そのようなものであるが、それを明晰に理論化できなかったのである。確かに、同一性に対して、差延を持ち出して、脱構築することはできる。つまり、同一性に対しては、差延を提示して、常に異議申し立てできるのであるが、それが、皮相に終っていると考えられる。
 つまり、超越性は現前と結びつくという考えから、デリダは超越性を否定してしまい、結局、脱同一性の差異である超越的差異への突破口を喪失したと考えられるのである。だから、同一性に対して、ただ、形式的な差延を突きつけて、戯れを行うことになったと考えられるのである。
 では、デリダの差延の発想の源泉はどういうものだったのだろうか。いったいデリダは差延でどういうイメージないしはヴィジョンをもっていたのだろうか。それは先に述べた永遠の生成する差異のイメージであろう。哲学的には、ハイデガーにニーチェを継いだようなものではなかったろうか。存在を超えた差異をイメージしていたのではないろうか。あるいは、ハイデガーとニーチェの間を目指していたのではないだろうか。しかし、何度も言うが、フッサールの超越性を否定したので、その差異の理論化は不可能になったのである。
 では、フッサールの超越性の否定とはどういうことなのか。やはり、現前の否定がポイントである。デリダは超越性を現前として否定したと考えられる。しかし、現前とは同一性化であろう。確かに、フッサールの場合、超越性と同一性とが結びついていた。しかし、それは、二重性であったのをデリダは看過した。そして、差異と同一性との混淆態である差延を提起した。脱同一性としての差異(差延)を説くが、しかし、同一性から超越できない差異である。
 デリダの二重性がある。一方は、永遠の生成する差異であり、一方は超越性の否定である。問題は後者にある。デリダは、フッサールの超越性を現前として否定するのである。現前とは同一性化である。つまり、フッサールの超越性に同一性化を見て、否定したのである。しかし、デリダは超越性自体を透視的に看取することはできなかったのである。あるいは、デリダは超越性を憎んでいたために、超越性を否定したと考えられる。超越性とは高次元を意味する。そう、デリダは高次元を嫌ったのであろう。PS理論で言えば、実軸の次元に拘ったのである。現象の次元に拘ったのである。これは、内在の思想ではないだろうか。そう、思うに、悪い意味で、ニーチェの思想の影響があるようである。ニーチェの袋小路は、やはり、超越性の否定にあったと思う。自己矛盾しているのである。超越性への志向がありながら、超越性を否定したのである。このパラドクスの意味は何であろうか。
 問題がニーチェになったが、それは、やはり、超越論的構造にあると思う。それも、超越論的差異を含んだ超越論的構造である。それは、超越性を示唆すると同時に、それを閉ざすような構造である。自己矛盾した構造である。示唆と否定の極性をもっているのである。ニーチェはこの領域で思索したのである。だから、示唆の極では、永遠回帰が生まれ、否定の極では、形而上学や超越性の否定である。
 ということで、この両義性は、おそらく、デリダにもある。だから、永遠の生成する差異と同時に超越性の否定があったのだろう。結局、超越論的構造ないしは超越論的差異の領域にあったから、デリダは、超越性を否定して、両義的な差延の思想に留まってしまったと考えられる。これは、ドゥルーズの場合もほぼ同様であるが、ドゥルーズは、ニーチェやデリダより、同一性構造に傾斜していると考えられる。
 後で、整理したい。

p.s. 結局、ハイデガーとデリダの関係はどうなのか、である。ごちゃごちゃと書いたが、明確に言えば、超越論的差異自体が両義的であり、超越的差異への示唆と同時に、同一性構造への志向性をもつという両義的領域である。だから、デリダやドゥルーズは、超越論的差異=存在を説いたハイデガー哲学の後塵を拝しているのである。ハイデガー哲学の展開である。そう、ハイデガー哲学の展開としてのポスト・モダン哲学である。
 ところで、巨視的に見ると、西洋哲学ないし西洋文化は、いかにも、超越論的構造が支配的であったのかよくわかる。キリスト教も結局、超越論的構造の同一性が支配的なのである。つまり、イエス・キリストという同一性が支配しているのである。これは、いったい何なのか。これは、西洋言語の性質が大きいのかもしれない。
 それに対して、東洋は、例えば、禅のように、無を説いたが、それは、超越論的構造を空にして、超越性を喚起させる方法だと考えられる。そう、東洋は超越性の文化なのである。西洋哲学は、新東洋哲学へと転生するのだろう。プラトニック・シナジー理論が、東洋である日本で生まれたのは、この点で必然性がある。西洋では生まれ得なかったと考えられる。
 思えば、グローバリゼーションも超越論的構造による。個人主義・自由主義が同一性=交換価値に囚われているのである。超越的差異へと到達したとき、脱グローバリゼーションとなるだろう。差異共振主義の世界へと進化するだろう。


ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと超越論的差異:PS理論とポスト・モダン哲学:v2
現存在をMediaPointとするなら、垂直共振性が水平共振性を帯びるはずである。しかし、現存在には、水平共振性が欠損している。だから、現存在は正当なMedia Pointではない。水平共振性を欠落させたこの現存在とは何か。
 思うに、現存在は超越論的差異である(超越的差異ではない)。それは、虚軸的Media Pointであり、実軸的Media Pointが排除されている。だから、水平共振性は発生しない。
 しかしながら、現象する存在者であるから、当然、実軸性を帯びている。世界内存在である。しかし、ここには水平共振性は欠落して、相互同一性(ないしは、間同一性、又は、単に、同一性でもよい。ここで、相互同一性というのは、ハイデガーの配慮的気遣い、ないしは、道具的世界の様態である。)が主導的である。つまり、同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。これをどう見るのか。思うに、存在者ないしは世界内存在の観点では、ハイデガー(以下、 H.)は、実軸的Media Pointで考えているように思える。つまり、虚軸的Media Pointを排除している。
 Media Pointの意識は虚界と実界との交叉点にある。Media Pointの意義は、だから、1/4回転にある。即ち、両者の交叉性をもった垂直から水平への転換にある。だから、虚軸的Media Pointとか実軸的Media Pointというのは、本来正しくない言い方である。それは、Media Point自体を破壊している考え方である。
 ならば、Hの考え方をどう見るべきか。一方には超越論的差異があり、他方には同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。Hの思想には、Media Pointはない。似て非なるものである。
 超越論的差異と同一性の二元論として、現存在がある。両者の交わらない二元論的現存在である(これは、不正確である。現存在においては、交わるのである。)。
 思うに、超越論的差異と同一性との結合を考えないわけにはいかない。超越論的差異が同一性化するのだ。そして、同一性から脱却して、超越論的差異へと復帰する。
 思うに、同一性構造とは、超越論的二項対立構造ではないのか。この超越論性と超越論的差異が結びついているのではないのか。より的確に考えると、同一性化における超越論性と同一性との二元論的発生がHの哲学の意味ではないだろうか。
 ここで、PS理論から見ると、Media Pointからの同一性の形成において発生する事態を表現したのが、Hの哲学ではないだろうか。つまり、Media Pointを否定・排除・隠蔽するようにして、超越論的同一性構造がここに発生して、一面には超越論的差異が、他面には同一性が生起(現象)するのではないか。即ち、一面では超越論的差異であり、他面では二項対立的同一性である。Hは、前者を本来的存在と、後者を非本来的存在と呼んでいるように考えられる。
 そう見れば、端的に、Hの思想は、構造主義に通じる面がある。そして、ポスト・モダン哲学にも通じる面がある。とまれ、Hの思想は同一性の思想の延長にあるだろう。「超越論的差異」的同一性である。(それに対して、フッサールの哲学は、超越性ないしは超越的差異がある。ドゥルーズの思想は、ほとんどHの思想である。又、デリダの脱構築主義もほとんどHの思想である。つまり、Hの存在=時間(根源的時間)を差延に置き換えたように思える。)
 問題は超越論的差異と同一性の統一性、言わば、「超越論的差異」的同一性構造を破壊することにあるのである。Hの哲学はフッサールのブレークスルーを無視したものの「ポスト・モダン」であった。そう、構造主義を超えて(時間的順序が反対となるが)、近代主義的超越論的構造を明らかにした。ドゥルーズやデリダのポスト・モダン哲学は、それを踏襲しているのに過ぎないと考えられるのである。
 不連続的差異論が超越論的差異と同一性の統一体、即ち、「超越論的差異」的同一性構造を破壊したと考えられる。差異を同一性から解放した。そう、超越的差異(超越論的差異との区別は絶対的である)の発見である。そして、プラトニック・シナジー理論はそれに即非性を与えた。つまり、超越的即非差異(超越的差異即非)の発見である。即ち、ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン哲学である。
 結局、構造主義/ポスト・モダンの壁を突破したと考えられる。プラトニック・シナジー理論はフッサールの超越性を救い上げる形で、鈴木大拙の即非論(ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」の思想もほとんで同じである)を取り込んで成立したのである。
 言い換えると、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論が構造主義/ポスト・モダン哲学の壁を突破し、それによってフッサールの超越性を救い出し、取り出した超越的差異に、鈴木大拙の即非論を取り入れることで、いわば、超越的差異即非論として成立し、さらに、Kaisetsu氏による数学化[(+1)*(-i)⇒+1]によって、数理/科学化(数理科学化)されたのである。

注:以上の論考は、
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10045161527.html
の本文を修正したものである。


2007年08月29日(Wed)▲ページの先頭へ
ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと「超越論的差異」的同一性:PS理論とポストモダン
今日は、比較的涼しかったが、タリーズに行って、『存在と時間』の未読部分を読みつづけた。そして、思索して、本に書き込んだことを、以下、記したい。論述に乱れたところがあると思うが、ほぼそのまま転記したい。
 さて、一言あらかじめ述べておくと、これまで、ハイデガー哲学について考察してきたことは、評価において、極端に揺れ動いている。最初は、ポスト・モダン哲学の先駆としてのハイデガー哲学と捉えたり、あるいは、PS理論の先駆と考えたりしたが、昨日、ハイパーな近代主義ではないかと考えた。そして、今日、良心の呼び声に関わる箇所を読んで、考え直した。問題点は、本来的存在のもつ単独性と世界の道具性のパラドクシカルな二元性である。単独性があるならば、ポスト・モダン的であるが、世界の道具性は、同一性を意味して近代主義的である。この齟齬をどう解決するかにあったのである。私は、この両極に揺れ動いたと言える。しかし、今日、これを統一する視点がないかと考え込み、思いついた仮説を以下に記したい。尚、〔 〕は転記の際、補足したものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

現存在をM.P.[Media Point]とするなら、垂直共振性が水平共振性を帯びるはずである。しかし、現存在には、水平共振性が欠損している。だから、現存在は正当なM.P.ではない。水平共振性を欠落させたこの現存在とは何か。
 思うに、現存在は超越論的差異である(超越的差異ではない)。それは、虚軸的MP[Media Point]であり、実軸的MPが排除されている。だから、水平共振性は発生しない。
 しかしながら、現象する存在者であるから、当然、実軸性を帯びている。世界内存在である。しかし、ここには水平共振性は欠落して、相互同一性〔ないしは、間同一性、又は、単に、同一性でもよい。ここで、相互同一性というのは、ハイデガーの配慮的気遣い、ないしは、道具的世界の様態である。〕が主導的である。つまり、同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。これをどう見るのか。思うに、存在者ないしは世界内存在の観点では、ハイデガー(以下、H.)は、実軸的MPで考えているように思える。つまり、虚軸的MPを排除している。
 M.P.〔MP〕の意識は虚界と実界との交叉点にある。M.P. の意義は、だから、1/4回転にある。〔即ち、〕両者の交叉性をもった垂直から水平への転換にある。だから、虚軸的MPとか実軸的MPというのは、本来正しくない言い方である。それは、M.P.自体を破壊している考え方である。
 ならば、Hの考え方をどう見るべきか。一方には超越論的差異があり、他方には同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。Hの思想には、M.P.はない。似て非なるものである。
 超越論性〔超越論的差異〕と同一性の二元論として、現存在がある。両者の交わらない二元論的現存在である〔これは、不正確である。現存在においては、交わるのである。〕。
 思うに、超越論性〔超越論的差異〕と同一性との結合を考えないわけにはいかない。超越論性〔超越論的差異〕が同一性化するのだ。そして、同一性から脱却して、超越論性〔超越論的差異〕へと復帰する。
 思うに、同一性構造とは、超越論的二項対立構造ではないのか[この考えが今日思いついたことである。新しい発想である。]。この超越論性と超越論的差異が結びついているのではないのか。より的確に考えると、同一性化における超越論性と同一性との二元論的発生がHの哲学の意味ではないだろうか。
 ここで、PS理論から見ると、M.P.からの同一性の形成において発生する事態を表現したのが、Hの哲学ではないだろうか。つまり、差異[共振的差異ないしは差異共振性]を排斥するようにして、超越論的同一性構造がここに発生して、一面には超越論性が、他面には同一性が生起(現象)するのではないか。[即ち、]一面では超越論的差異であり、他面では二項対立的同一性である。Hは、前者を本来的存在と、後者を非本来的存在と呼んでいるように考えられる。
 そう見れば、端的に、Hの思想は、構造主義に通じる面がある。そして、ポスト・モダン哲学にも通じる面がある。とまれ、Hの思想は同一性の思想の延長にあるだろう。超越論的同一性である[この点は、少し不正確になっている。言うならば、「超越論的差異」的同一性である。]。(それに対して、フッサールの哲学は、超越性ないしは超越的差異がある。ドゥルーズの思想は、ほとんどHの思想である。又、デリダの脱構築主義もほとんどHの思想である。[つまり、] Hの存在=時間[根源的時間]を差延に置き換えたように思える。)
 問題は超越論的差異と同一性の統一性[言わば、「超越論的差異」的同一性構造]を破壊することにあるのである。Hの哲学はフッサールのブレークスルーを無視したものの「ポスト・モダン」であった。そう、構造主義を超えて[時間的順序が反対となるが]、近代主義的超越論的構造を明らかにした。ドゥルーズやデリダのポスト・モダン[哲学]は、それを踏襲しているのに過ぎないと考えられる[のである]。
 不連続的差異論が超越論的差異と同一性の統一体[「超越論的差異」的同一性構造]を破壊した[と考えられる]。差異を同一性から解放した。そう[、]超越的差異[超越論的差異との区別は絶対的である]の発見である。そして、PS理論[プラトニック・シナジー理論]はそれに即非性を与えた。つまり、超越的即非差異[超越的差異即非]の発見である。[即ち、]ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン[哲学]である。
 結局、構造主義/ポスト・モダンの壁を突破したと考えられる。PS理論[プラトニック・シナジー理論]はフッサールの超越性を救い上げる形で、鈴木大拙の即非論[ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」の思想もほとんで同じである]を取り込んで成立したのである。
 言い換えると、PS理論は、不連続的差異論が構造主義/ポスト・モダン[哲学]の壁を突破し、それによってフッサールの超越性を救い出し、取り出した超越的差異に、鈴木大拙の即非論を取り入れることで、いわば、超越的差異即非論として成立し、さらに、Kaisetsu氏による数学化[(+1)*(-i) ⇒+1]によって、数理/科学化[数理科学化]された[のである]。


『存在と時間』の世界は、道具主義の「共存在」の世界である
ハイデガーの世界概念には、他者が欠損していると言ったが、この他者という術語は、ポスト・モダン哲学を経由したものであり、単なる他人ではない。ハイデガーの世界は、他者が不在であるが、他人は存在する。そして、現存在は、他人と「共存在」であり、道具主義の世間に生きているのである。
 ハイデガーの世間に関する用語は、極めて皮肉であり、ほとんど侮蔑的である。世間において人間は、「共存在」であるが、この「共」とは、道具主義において、共同ということで、精神において、共同ということではない。また、公共という概念も同様である。道具的世界における公共であり、あくまで、道具が中心化されている「公共」なのである。
 結局、ハイデガーは世界は道具主義の世界であり、「他者」は単に、道具的世界を構成する「共存在」・他人に過ぎないのである。そう、端的に、ハイデガーの世界は、いわゆる、ゲゼルシャフト(利益主義の集団)に過ぎない。完全に、ゲマインシャフトは消滅している。フッサールの説いた生活世界は、ここには存在していない。ここには、物質的生産のための世界があるのである。メカニズムの世界である。ここで、想起するのは、カフカの『変身』である。毒虫に変身したグレゴール・ザムザが、本来の他者なのであるが、彼の家族は、ハイデガーの道具的世界の他人である。ナチスが台頭し出したドイツ社会を感じさせるものがある。これは、また、現代の世界を想起させる。
 それにしても、ハイデガーの存在は、暗い。自閉症である。一種、モナドである。それも、無神のモナドである。近代主義における独我主義的存在である。パラノイア的である。


参照:以下の和而不同とは、ほとんど、差異共振である。

他者との共生
-- 『フッサール間主観性の現象学』の刊行に寄せて --
浜渦 辰二 (静岡大学人文学部)
(注記: これは、『創文』No.366[創文社、1995年6月発行]に掲載されたものです。)
 和而不同 -- 月並みな言葉であるが、昔から、わたしのこころのなかに残って来ている言葉である。いま正確には思い出せないが、中学生の頃、朝礼の時間に校長先生がしてくれた話のなかで初めて聞いたのだったろうか。この言葉を使って、話された内容はおよそこうであった。 -- 友達を作ることは大切だが、友達との付き合いで自分を見失ってはいけない。友達との付き合いに流されてしまうのは簡単だし、それを嫌って、孤独に閉じ籠もるのもこれまた簡単だ。難しいのは、友達と付き合いながらも、それに流されず、自分を見失わないことである。 -- この「道徳的な訓戒」がなぜか、わたしのこころに滲み込み、これはほとんどわたし自身の「戒律」ともなってきたように思う。
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp
/~jsshama/j/on-HUA0.html


2007年08月28日(Tue)▲ページの先頭へ
『存在と時間』の存在:存在の「良心」と道具的世界:存在は唯一者=エゴイストではないか?
先に、ハイデガーの世界には、他者が不在であることを述べた。ハイデガーの世界は道具的連関が支配する。そのような世界における現存在が世界内存在である。そして、そのような存在者として、実存的である。
 また、現存在は、死へとかかわる存在であり、本来、単独的である。ここが、本来的自己であり、存在を意味しよう。しかし、存在自体は判然としないように思える。
 他者が不在であると言ったが、強いて言えば、死が他者である。しかし、ハイデガーの死は、観念的な死だと思う。想念の死だと思う。だから、真に他者とは言えないだろう。
 とまれ、ハイデガーの存在ないしは自己は、単独性であることは確かである。固有の自己である。しかし、差異や他者がそこには不在である。これは、どういうことだろうか。責めある存在や良心の呼び声についてハイデガーは述べている。おそらく、それが、ハイデガーの他者ではないだろうか。良心が他者である。これが、存在の他者であろう。
 私が言った他者の不在とは、いわば、外的他者の不在である。世界内他者と言いたいところだが、ハイデガーの世界は、道具的世界なので、基本的に、外的他者が不在であるので、そう言えない。
 だから、内的他者として良心が存在していると言えようが、それが、水平化されていないのである。水平的世界は、道具的世界であり、自我(自我中心主義ではなく)の世界である。
 すると、ハイデガー哲学は、奇妙な分裂というかパラドクスが支配していることになる。いわば、自己存在の他者としての良心と道具的世界とのパラドクスである。つまり、良心と道具的世界との結びつきがないということである。簡単に言えば、良心の存在と道具の世界との分離的二元性である。
 私は、これは、錯誤であると思う。良心の存在があるならば、それは、本来、外的世界の他者にも向けられるからである。しかしながら、外的世界は、単に、道具の世界であり、他者が不在なのである。ということは、ハイデガーの世界概念が偏頗であるということである。それは、誰が見てもわかるだろう。その世界には、道具しかないからである。一方では、良心という存在、他方では、道具だけの世界。なぜ、世界に他者が不在なのか、理由がわからない。
 少なくとも、ハイデガーの存在は閉ざされた、閉塞した存在であることは間違いない。外界に他者が不在であるというのは、正に、唯我的である。これは、きわめて尊大であろう。悪魔的というか、一種、凶悪犯罪に結びつくような精神である。そう、外的他者を前提としない良心とは何だろうか。他者なき良心とは何だろうか。
 それは、端的に不毛であろう。偽善・欺瞞的な良心ではないだろうか。良心であるとの思い込みないしは妄想ではないのか。(ここからも、ハイデガーはパラノイアではないかということは、考えられることである。)
 とまれ、世界に他者が不在であることは、決定的に、異常である。そう、他者を無視しているのである。究極の傲岸不遜さであろう。やはり、ここには、差異の否定があるのである。なぜなら、外界は、差異が原初的投影があり、地の上に、同一性の絵が投影されるのであり、他者を否定するということは、前提の差異を否定することであるからである。
 思うに、この差異の否定が、「良心」を発生させているのではないだろうか。言い換えると、ハイデガーの存在とは、差異の否定自体であり、否定された差異の蠢きとして、「良心」(良心という思い込みないしは妄想)があるのではないのか。
 差異の否定、究極的な同一性ということで、ハイデガー哲学のパラドクスが説明できるように思える。つまり、存在とは、差異の否定であり、それが、外界の他者の不在を発生させていて、また、差異の否定による同一性が道具的世界を形成していると思うのである。つまり、端的に、エゴイストの哲学である。先に、シュティルナーの唯一者とのいくらかの類似を述べたが、確かに、エゴイストという点では、共通する。そして、確かに、ハイデガーの存在は、唯一者と呼ぶにふさわしいだろう。


ハイデガーの『存在と時間』の世界概念は、道具的・事物的存在者に導かれていて、人間・他者が不在だ
『存在と時間』は、ほぼ前半と後半は、齟齬が生じている。先にも述べたが、前半では、他者への顧慮があったが、後半ではそれが完全に喪失され、道具的・事物的存在者への配慮だけが、現存在の気遣いになっている。
 世界が、道具や事物中心の世界であり、人間が消えているのである。ただ、現存在と道具や事物が存在するだけの世界で、異常であり、不気味である。
 これでは、もはや、差異は、ハイデガーの哲学には、存在しない。ただ、同一性、それも、事物的同一性が支配していると言えよう。
 また、他者不在の、道具的世界が外界として存している。これは、現存在自体が事物的同一性構造をもっていることを意味しよう。しかし、差異はないのである。自己は差異ではない。すると、ハイデガーの自己は、事物的同一性ないしは単に同一性ではないのか。しかし、ここは、微妙な点である。つまり、本来的自己とは何かということである。
 本来的自己が頽落して(脱自して)、事物的同一性(世人)を発現する。しかし、本来的自己への回帰とは、事物的同一性を廃棄したものである。それは、存在=無ということではないのか。すると、ニーチェの積極的ニヒリズムと同じではないだろうか。しかし、ニーチェの無には、永遠回帰という永遠性があったし、ついでに言えば、三島由紀夫の無はドラスティックで、それを超えた「存在」(=イデア界)を感じさせた。ハイデガーの存在=無は、いったい何なのか。差異のない単独者、だから、同一性自己ではないのか。今は、ここで留めておく。


ハイデガーの『存在と時間』と他者の不在
『存在と時間』から、事物への配慮があるが、他者の不在を表していると考えられる箇所を引用したい。

「・・・世界内存在は、差しあたって世界という現象に着目して性格づけられた。しかもわれわれの究明は、環境世界の「内で」の道具的に存在しているものや事物的に存在しているものを存在的・存在論的に特色づけることから出発して、さらに世界内部性を際立たせることへと進み、こうして、この世界内部性に即して世界性一般の現象を看取しうるようにするにいたった。」『存在と時間 V』p. 80 (中公クラシックス)(赤色ボールド体は、renshiによる強調である。)

つまり、ここでは、世界内存在は、世界環境内部における道具や事物から、世界認識を形成することを述べているが、これでは、世界は、端的に、モノの世界であり、人間不在である。つまり、モノの認識は、人・他者の認識より遅れるか、あるいは、同時だと考えられる。世界が道具や事物だけとは、考えられない。もし、世界が道具や事物だけとするならば、ハイデガーの世界概念が間違っているのである。

同様の他の箇所も次に引用するが、説明を繰り返すが、配慮的に気遣うということは、事物やモノを気遣うということで、人間・他者を気遣うということではない。

「気遣いとして現存在は、本質上、おのれに先んじているのである。差しあたってたいていは、配慮に気遣いつつある世界内存在は、おのれが配慮的に気遣っている当のものにもとづいて、おのれを了解している。非本来的な了解は、日常的に従事しているさまざまな業務の配慮的に気遣いうるもの、実行しうるもの、緊急を要するもの、不可避的なものをめがけて、おのれを企投する。しかし、配慮的に気遣われたものは、それが存在するとおりに、気遣いつつある存在しうるという目的のために存在しているのである。この気遣いつつある存在しうることを現存在は、配慮的に気遣われたもののもとでの配慮的に気遣いつつある存在において、おのれへと向かって到来せしめるのである。現存在は、第一次的には、おのれの最も固有な没交渉的な存在しうることにおいておのれへと向かって到来するのではなく、むしろ現存在は、配慮的に気遣われたものがもたらす成果や、それがこばむ拒絶にもとづいて、配慮的に気遣いつつおのれを予期している。配慮的に気遣われたもののほうから現存在は、おのれへと向かって到来するのである。非本来的な到来は予期という性格をもつ。ひとが従事している当のものにもとづいて、世人自己として配慮的に気遣いつつおのれを了解することは、到来のこうした脱自的様態のうちに、その可能性の「根拠」をもっている。」 p. 86 (尚、訳文の傍点は、下線に変えた。)


2007年08月27日(Mon)▲ページの先頭へ
ハイデガーの『存在と時間』に見られる問題点:配慮的気遣いと他者の不在
今は、余裕がないので、引用しないが、ハイデガーの『存在と時間』は、後半、他者不在の哲学になっていると考えられる。
 前半においては、他者への顧慮と事物への配慮の二面があったが、後半は、後者である配慮的気遣いのみが現存在の非本来的自己として取りあげられているのである。
 先に、私は、ハイデガー現象学には、差異共振性がないのではないかと提示したが、やはり、それは正しかったと思う。
 ハイデガーの説く本来的自己は、だから、他者なき自己となり、一種唯我論的である。これは、キルケゴールやニーチェの単独性から後退している。キルケゴールには、神という他者があったし、ニーチェには、未来の他者があった。
 いったい、これをどう考えたらいいのだろうか。配慮的気遣いとは、事物、物質への配慮であり、人間は対象となっていないのである。自己以外の人間(他者)が消えているのである。思うに、ハイデガーの本来的自己とは、同一性志向性をもつと言えるが、それが、物質的同一性志向性なのである。モノ(道具等)への同一性志向性なのである。
 これは、きわめて異常である。また、不気味でもある。人間、他者が消えているというのは、本来的自己に差異がないということになるだろう。差異があれば、差異共振性が生起するからである。
 そう、先に触れたが、シュティルナーの唯一者に似ているが、それよりはるかに無機質であり、不気味である。
 冷血な、というか、無血的な、同一性志向性がある。ハイデガーの自己は、モノと自分しか見ていないようだ。では、ハイデガーの自己(本来的自己)とは何なのか。思うに、シュティルナー的なエゴイストをはるかにドライにした、無機的にした、唯一者・単独者ではないだろうか。思うに、それは、ハイデガーの風貌や、文体の無機質さにも通じるものである。
 そう見れば、ナチスに関与したのも、驚くことではない。ナチスの冷血さに、惹かれたのではないだろうか。そう、ハイデガー哲学は、悪魔的である。確かに、異常に明敏な分析的知性があるが、共振的精神が欠損しているのである。
 後で、フッサール現象学の意義について、簡単に述べたい。
 
p.s. フッサール現象学にあって、ハイデガー現象学にないものは何か。私の直感では、フッサールは、差異を、それも、純粋差異を発見した。しかし、フッサール自身の囚われから、それを、同一性理性認識をもつ超越論的主観性としたのである。言い換えると、フッサールの実際に把捉したものと、言語化したものとは、別物なのである。よく作家には生じる二重性であるが、それと同質だと思う。私はフッサールは、差異の志向性を発見したのだと思う。これは、 Media Pointである。しかし、それを同一性の志向性に言語化したのである。
 では、その発見に対して、ハイデガーは、どうしたのか。ハイデガーはフッサールの差異の志向性=Media Pointを看過している。そして、同一性の志向性をもつ自己を存在として捉えたのだと思う。
 つまり、ハイデガーには、差異は元々不在であった可能性がある。即ち、同一性自己がある。それが、外界を気遣う(関心をもつ)。そこには、道具的存在や事物がある。しかし、それらに気遣う自己は、非本来的自己である。だから、それらへの気遣いを無くして、本来の自己へ帰還する必要がある。本来的自己とは同一性自己である。だから、ほとんどヘーゲル哲学である。ハイデガーの使用する、配慮的気遣いを意味する頽落は、ヘーゲルの疎外に通じるだろう。そして、ヘーゲルが否定の否定である疎外の否定としての精神への復帰が、本来的自己への復帰である。ただ、死へかかわる存在という味付けがあるのが違いだろうか。
 ハイデガーは確かに、異様に明敏な分析的知性がある。しかし、叡知はほとんどないだろう。思わせぶりな、変奏曲のような内容で、煙に巻いているのだ。ペテン師ハイデガーという気がしてきた。おそらく、ハイデガーは、一種精神病ではなかったのだろうか。そう、パラノイアである。これは、近代主義の病気である。パラノイアと考えると、『存在と時間』のもつ唯我論性が理解できるのではないだろうか。
 また、時間論であるが、それは、差異(Media Point)の時間論ではなくて、同一性の時間論に過ぎないのではないのか。(時間論については、後で再考する。)
 
p.p.s. ハイデガーの唯我論性であるが、率直に言えば、私のことを考えると、わからないでもない。私は若いころ、自分以外誰も存在せずにも、生きていけると思ったものである(p.s. 最近、そのような考えがふと浮かんだことはあったが)。他者不在である。それは、同一性構造がもたらす唯我論性だと思う。近代主義の唯我論性である。これは、無機的であり、不気味である。
 とまれ、ハイデガーは、フッサールが開拓した現象学の地平をすぐに閉ざしてしまった人物ではないだろうか。私は、ハイデガー現象学はポスト・モダン哲学の先駆であると言ったが、それは訂正したい。ハイデガー哲学は近代主義の反動である。現象学の偽装をもったヘーゲル主義である。ハイデガーがテクノロジーについて論じるのは、当然であろう。近代主義者なのだから。
 では、ポスト・モダン哲学はどういうことになるのか。構造主義を乗り越えるために、きわめて困難な状況にあったと言えよう。本来、フッサール現象学を批判的に継承すべきなのに、例えば、デリダは、フッサールを誤読して、否定的に理解して、差異と同一性の混合する様態を提示したのである。差延である。そして、差延から、同一性主義を批判したのである。
 ドゥルーズは、いわば、通俗的なプラトニズム=同一性主義を批判して、差異を説いたが、それは、連続的差異=微分であった。
 結局、フッサールの差異を救い出せばよかったのであるが、それができなかった。なぜだろう。思うに、デリダもドゥルーズも、フッサールの超越論的主観性の示唆する超越性を怖れていたからではないだろうか。表現が微妙なのだが、超越的差異(超越論的差異ではないだろう)を怖れていたと思う。彼らは唯物論的だったと思う。そう、フランス左翼の唯物論が彼らには支配的ではなかっただろうか。


ハイデガーの「気遣い」とは何か:PS理論の視点から:水平的Media Pointとしての気遣い
想像するに、ハイデガーの言う「気遣い」とは、Media Pointにおける現象に対する志向性ではないだろうか。つまり、Media Pointにおける、「天」から「地」への下降の段階・過程において発現する志向性ではないだろうか。ここでは、垂直性から水平性へと志向性がシフトしているのである。そう、この垂直性から水平性へのシフトは重要なポイントである。虚点から実点への転換なのである。この実点としてのMedia Pointにおける志向性がハイデガーの「気遣い」ではないだろうか。
 とまれ、このとき、差異が無意識に、外界に投影されるだろう。そして、その無意識の外界におけるなんらかの原対象に対して、主体は、同一性を投影するのである。そして、言語認識を形成するのでる。
 では、それは、何を意味するのか。これまで、単に、Media Pointにおける同一性構造の投影と考えてきたのであるが、それ以前に、無意識の差異の投影があることを考えなくてはならない。
 無意識の内に、差異が投影された外界空間がある。そこに原対象があり、それを言語同一性化する。思うに、投影された差異とは、主体に内在する差異であり、本来、主体はそれに共振している。明快にするために、投影される差異を自己差異としよう。それは、差異共振空間でもあろう。
 その投影された自己差異ないしは差異共振空間において、外的他者が発生する。思うに、初期においては、主体は、外的他者に対して、自己差異ないしは差異共振空間を適用して、外的他者と共振しているのである。そして、その、いわば、差異共振化した外的他者に対して、言語同一性を適用して、外的他者を言語同一性認識する。
 つまり、最初期においては、基本的には、同一性は差異を否定・排除・隠蔽していないのである。差異と同一性が一致するのである。これが、幼児のある基本的な体験ではないだろうか。
 しかしながら、ある外的他者は自分に対して阻害的ならば、主体の差異共振的同一性認識は破れて、主体は反感的認識を形成するだろう。そう、差異共振的空間の否定様態がそこには成立するのである。そして、ここにおいて、自我主義が形成されると考えられる。自我は、差異共振的同一性認識の同一性において形成されているが、差異共振性が否定されて、自我主義ないしは自我中心主義が発生すると考えられる。それは、差異共振性を抑圧するのであり、同一性中心主義へと向かい、無明・世人となるのである。
 以上のような視点から、再度、ハイデガーの「気遣い」ないしは「気遣いの構造」を考えると、それは、最初に述べたように、垂直から水平へと転化した志向性であると言えよう。ここでは、思うに、垂直への意識をほとんど忘却しており、水平・現象・外界へと志向性が向けられている。しかしながら、主体は差異であることは、変わらない。つまり、差異の志向性が、ハイデガーの「気遣い」である。これで、解明したこととしたい。
 先にも触れたが、ハイデガーの「気遣い」は、本来的自己を形成するために、単独化するのであるが、それは、水平化した差異、即ち、同一性化した差異における単独化ということだと考えられる。これは、キルケゴールやニーチェの単独性と同質であろう。つまり、差異が同一性から切断されずに、同一性=自我化をもったままの、差異への回帰がその単独化だと思われるのである。だから、そこでは、差異本来の共振性が不明確だと思われるのである。
 言い換えると、単独性が不連続的差異になっていないと考えられるのである。だから、一種唯我論的になると思われるのである。そう、マックス・シュティルナーの唯一者に近くなると思われるのである。
私の見るところ、ハイデガーの「気遣い」には、差異の志向性のもつ差異共振性が欠落しているのではないかという危惧があるのである。
 そのような見方では、ハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学そのものである。
 とまれ、少し整理すると、Media Pointの水平化において、差異の志向性は、同一性構造をもっている。つまり、水平的Media Pointである主体は、差異と同一性の両義・相補性構造をもつのである。差異的同一性の志向性とも言えるだろう。この視点からハイデガーの「気遣い」を見ると、それは、ほぼ差異的同一性の志向性に当たるが、しかしながら、差異と同一性の両義・相補性からは真に脱却せずに、差異と同一性の両義・相補性構造に留まって、単独性=本来的自己を説いているように思えるのである。端的に、ハイデガー現象学には、差異が本来もつ差異共振性への志向性が乏しいと感じられるのである。差異と同一性の両義・相補性構造が強いとは言える。水平的Media Pointの哲学と言えるのではないだろうか。


2007年08月26日(Sun)▲ページの先頭へ
PS理論から、フッサール現象学とハイデガー現象学を考える:試論1
芦田氏の論考から刺激を受けて、もう一度、PS理論から、現象学の位置づけを行いたいと思う。勿論、大雑把なアウトラインを描くだけであるが。
 先ず、フッサール現象学のブレークスルーを評価しないといけない。いったい、フッサールは何を発見したのだろうか。私の直感では、フッサールは、超越論的意識を発見したのである。それを超越論的主観性と呼んでいるが、超越論的意識の方が明快であろう。そして、それは、私見では、超越論的差異である。しかし、フッサールは、それを、差異とはせずに、原同一性として理解してしまったと思う。本来、差異であるのに、原同一性としてしまったのである。
 ここで、ハイデガー現象学とつなげるならば、超越論的意識=超越論的差異(以下、超越論的差異意識)とは、ハイデガーの存在である。そして、それは、PS理論では、Media Pointである。(私自身もあいまいなところがある。直感では、超越論的差異意識は、イデア界的である。即ち、i*(-i)である。しかしながら、それは、本来、不可知の根源的世界の様相である。だから、超越論的差異意識は、イデア界に帰属するのではなく、やはり、Media Pointの意識とすべきである。)つまり、フッサールの超越論的差異意識=ハイデガーの存在=PS理論のMedia Pointということである。
 フッサールは自分が発見したものを正確に理論化できなかったと思うのである。私は、フッサール現象学には二重性があると言ったのがそれに当たる。即ち、超越論的差異意識を同一性意識と合一させているのである。ノエシス/ノエマは、同一性意識を指している。この点をPS理論から見ると、Media Pointの虚軸・実軸の交叉点における交叉を無化して、虚軸=実軸にしてしまっているのである。混乱である。
 ハイデガーは、それに対して、フッサールの発見したものを、正しく、存在という術語で察知したのだと思う。そして、存在論が生起したのである。思うに、現象学的存在論と呼ぶべきである。だから、ハイデガー現象学的存在論は、フッサール現象学の正嫡である。
 ここで、まったくの私の推測だが、『存在と時間』が未完に終ったのは、現存在から存在へのアプローチが壁にぶつかったからではないだろうか。思うに、ハイデガーは、慧眼にも、存在と存在者の差異の裂け目(「一つの裂け目」)を把握している。そして、Media Pointである存在の単独性・特異性をも理解している。これは、キルケゴールやニーチェの単独性を継承していると言えよう。問題は、存在=Media Pointのイデア的差異性の様相なのである。PS理論は、差異の即非性【i*(-i)】を根源に見ている。思うに、存在=Media Pointの単独性・特異性までは進展したが、それから、存在=Media Pointの差異即非性へと展開できなかったから、未完に終ったのではないだろうか。
 後期ハイデガーは、差異共振性を理解していると思う。古代ギリシアの神殿への理解は、それを指示していると思う。結局、現存在からのアプローチと、存在自体からの発想が統一できなかったのではないだろうか。
 思うに、フッサールの超越論的差異意識を真に理解すれば、そこからは、差異即非性ないしは、差異共振性は考えられるのである。ということは、ハイデガーの存在とは、実は、真に他者、外的他者を見ていなかったのではないかという疑問が浮かぶのである。
 つまり、こういうことである。存在=Media Pointの同一性構造(連続的同一性構造)から、自我=世人(非本来的自己)が発生する。しかし、現存在が、その単独性へと帰還するとき、つまり、本来的自己へと帰還したときは、当然、自我=世人は解体する。そのとき、差異即非性ないしは差異共振性が発生するのである。これは、PS理論的に考えていることであるが。なぜなら、存在=Media Pointの差異とは、差異意識であり、他者である差異を志向するからである。つまり、差異即非・差異共振性がそこには発動すると言えるのである。
 しかしながら、ハイデガーの現象学においては、単独性までは達するが、そこから、外的他者への志向性がないように思えるのである。確かに、垂直性が生起するが、水平性が解消しているのである。
 ということは、ハイデガーの存在とは、実際のところ、Media Pointではないのである。それは、実際、同一性からは切断されていない差異・単独性・特異性ではなかったかと思えるのである。そう、ニーチェ的単独性・特異性に近いと思うのである。道徳・倫理が消えているのである。
 そうすると、現存在から存在へのアプローチと後期ハイデガーの存在論への発想は、ある意味で通じているだろう。しかし、前者は、水平性から垂直性へであり、後者は垂直性のみである。この点で、齟齬はあったと言えよう。
 とまれ、私が考えた存在=Media Pointの図式は破棄されなくてはならない。存在≠Media Pointである。
 そうすると、フッサール現象学とハイデガー現象学の関係はどうなるだろうか。思うに、フッサールの超越的差異意識が、ハイデガーにおいては消去されているのである。フッサールにあった同一性への重なりを、ハイデガーが取り入れて、フッサールの超越論的差異意識を排除しているのではないかと思えるのである。
 だから、間主観性や生活世界の発想が、ハイデガーには喪失していると思えるのである。言い換えると、ハイデガーの存在とは、Media Pointの実軸的ゼロ点に当たると思えるのである。後期ハイデガーは、実軸的ゼロ点から、虚軸的ゼロ点を垣間捉えようとしているのではないだろうか。つまり、あくまで、ハイデガーは、同一性からは切断されていなかったと思えるのである。
 その視点から、ハイデガーとデリダの関係を見るときわめて興味深い。意外に両者は似ているのである。デリダは、フッサールの超越論的差異意識を否定して、差異と同一性の連続態としての差延を説いていると思うし、ハイデガーも、差異(存在)と同一性の連続態を現存在として説いているのである。ならば、ハイデガーとデリダはどう異なるのか。思うに、デリダには、後期ハイデガーの存在の超越論的志向性がないのではないだろうか。
 以上は、まったくの独断的私見であり、空想的試論に過ぎないことをお断りしておく。

p.s. 『存在と時間』における現存在の存在のもつ「気遣い」という概念・観念であるが、これは、思うに、フッサールの志向性に相当すると考えられるが、ならば、「気遣い」に、差異共振性(差異即非性)があるかどうかが問題である。直感では、ないと思う。「気遣い」は、あくまで、同一性の意識のように思えるからである。差異の意識ならば、差異共振性が発生するのである。


2007年08月25日(Sat)▲ページの先頭へ
「現象性としての贈与」という概念は、PS理論の「超越性」、即ち、虚数的超越性に通じるだろう。
「現象性としての贈与」という概念は、PS理論の「超越性」、即ち、虚数的超越性に通じるだろう。以下の、デリダのフッサール現象学批判に対する批判は、私が考えているものに通じると思う。(ところで、以下の考察は、芦田氏のものなのか、マリオン氏のものなのか、曖昧である。芦田氏が、マリオン氏の考察を代弁しているようではあるが。

《現象性としての贈与は直観的な−カント的なものであれ、「拡大された」(範疇的)意味でであれ−「対象性」を「超過」している。デリダのフッサール批判が「逆説的」になるのは、彼の言う「現前性の形而上学」がむしろ「現前的なものをたえず制限し、現前的なものの贈与をたえず抑制する」(52)、フッサールの現前性の審級についての「余りに狭すぎる理解」(47)、直観主義的理解からきているからである。−デリダの『声と現象』全体に即したフッサール理解の問題点については、拙著『書物の時間』(行路社)当該箇所(「表現と意味」)を参照していただければ幸いである。》
http://ashida.sakura.ne.jp
/blog/2004/10/hamaenco_4_100.html
「 デリダ追悼(1’) ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ 2004年10月26日」

以下の箇所は、ハイデガー現象学の問題点を突いたものである。「第一の隔たり」、即ち、存在者から存在者の存在へ隔たりと、「第二の隔たり」、即ち、存在者の存在から存在の意味への隔たりとの、二重の隔たりが、現象学的贈与性を隠蔽すると述べているが、これは、難解である。PS理論から言えば、存在の意味とは、虚数的超越性であり、それは、贈与的だと考えられる。(贈与性という考えは、優れていると思う。虚数的超越性は、贈与されていると思う。思うに、意識は、Media Pointにおいて、虚数的超越性の贈与を知覚するだけで、虚数的超越性自体は、把捉できないのではないだろうか。)
【p.s.  存在の意味とは虚数的超越性と言ったが、それは分かりにくいだろう。ハイデガーの存在を、私は、Media Pointと考えている。それは、虚的存在(非存在)と実的存在(存在)との交叉点である。そして、虚数的超越性とは、端的に、虚的存在(非存在)である。だから、訂正して、存在の意味は、Media Pointの意味ということになるだろう。
 思うに、ハイデガーの存在は、通常の存在の意味と異なるので、混乱しやすい。混乱を避けるために、「存在」とすればいいだろう。】

《マリオンは単純化をおそれずに以下のように自問する。「第一の(存在者から存在者の存在への)隔たり(ecart)を踏破する現存在と同一の現存在に依拠することで、『存在と時間』は第二の(存在者の存在から存在の意味への)隔たりの踏破を企てることができるのだろうか。あるいは、存在一般への到達は存在者の存在への到達と同様、たとえ注目に値する存在者であれ一つの存在者に基くことができるのだろうか。要するに、存在そのものの問い(存在論的差異:存在者−存在)は、存在者的な基礎(その存在における現存在、「存在論的区別(ontologische Unterschied)」)を容認するのだろうか」(191)。

つまり『存在と時間』は、この隔たり(ecart)の二重化−厳密に言えば、存在者と存在との隔たりの、「存在の意味」による二重化(179)−によって存在論的差異の現象学的な「贈与性」を隠蔽してしまうのである。

「存在の意味」による「存在論的差異」の二重化とは、しかし「存在者」でありつつ、「存在者」の「他者」である「存在」を問うことのできる「現存在」による二重化である。実際、マリオンが「存在の問い」の三項体制を問題視するのは、その「第三項」としての「現存在」の地位に関わってのことである。「『存在の問い』が第三項として存在論的差異−存在者と存在という二項からなる−に付け加えるのは現存在そのものに他ならない」(187)。つまり「存在の問い」とは、「問うことはそれ自身ひとつの存在者である」(ハイデガー)ことからも、「現存在そのものである」(187)。むろんこの第三項は「存在論的差異」(存在と存在者との二項)を明らかにするためのもの、現存在という存在者の(存在論的なものへの)「絶対的に自在的な転化」(188)のためのものである。この第三項(現存在)は「存在論的差異」の二項へと自己を解消すること、ひとつの「脱自」を意味している。結局、「存在の問い」の三項体制が「袋小路」に陥るのは、三項の要をなしている「現存在」が「存在」への脱自的な転化を自在なものにできないことに起因しているとマリオンは考える。》

http://ashida.sakura.ne.jp/blog/
2004/10/hamaenco_4_100.html




ハイデガーの『存在と時間』とプラトニック・シナジー理論(PS理論)
フッサールもそうであるが、ハイデガーの分析的論考は、きわめて綿密であり、その微に入り細をうがった文体とともに、読解するのに多大な知力を要する。有り体に言えば、うんざりする。
 とまれ、「死へとかかわる存在」としての現存在を説く箇所からは、単独性(特異性)の問題が明瞭になっていて、これは、ある意味で、分かりやすい事柄だと思う。そう、ハイデガーは、存在ないしは現存在を説くことで、キルケゴールやニーチェの問題にした単独性・特異性の存在論的考察をしていると言っていいだろう。(私は、ドゥルーズはハイデガー哲学に正対していないと思うが、それは、ドゥルーズが、ハイデガー哲学の圏内にある証拠の一つではと推測する。)
 ハイデガーの存在ないしは現存在であるが、PS理論では、Media Pointと言えるだろう。正確に言えば、存在がMedia Pointに当たり、現存在とは、Media Pointが現象的に顕現している様態を意味しているだろう。
 ハイデガーのいう非本来的自己や世人とは、Media Pointの同一性構造から発生した自我のことと言えよう。そして、本来的自己とは、同一性構造から乗り越えて、Media Pointの差異を積極的に開いた自己であると言えよう。
 PS理論では、Media Pointが時間(固有時間)になるので、当然、ハイデガーの存在が時間ないしは根源的時間に関わるということは、納得できることである。
 そのように見ると、ハイデガー現象学は、ほとんどPS理論を先取りしているように見えるかもしれない。しかしながら、Media Pointにおける根源的差異が、即非的であることは、ハイデガーは説いてはいない。また、根源的差異がイデア界・虚界性をもっていることを明確にはしていない。(もっとも、後期ハイデガーは、その方向に向かっていると思うが。)
 そうすると、ハイデガー現象学は、差異の即非性と連続性と不連続性との即非性には、達していないことになると考えられる。
 思うに、日本の哲学研究は怠慢ではないだろうか。鈴木大拙や西田幾多郎が、禅から重要な叡知を受けて、理論化したのにかかわらず、それを、現象学へ適用して、発展させなかったことは、怠慢の度を越して、ほとんど犯罪的ではないだろうか。その罪とは、知の進化に対する罪である。
 さて、最後に、少し話しが飛ぶが、現代西洋哲学の第一級の問題として、ハイデガーとデリダの関係があるだろう。私見では、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー現象学に端を発している。(フッサールは、シェリング、キルケゴール、ニーチェと並んで、偉大な先駆者である。また、ほとんど即非論理を説いたウスペンスキーも先駆者である。)
 私は、デリダとフッサール現象学に関しては、既述したが、簡単に言えば、デリダは、フッサールの超越論性によって発見された、一種のイデア性を否定しているのである。そして、差異と同一性が連続した差延を説いているのである。
 では、デリダとハイデガーの関係はどうなのだろうか。私は、よく知らないが、先に私は、ハイデガーの存在を差延と呼んでいる節があることを言った。ただし、存在には、イデア界・虚界性が入ると思うが、差延には、基本的には入らないだろう。とまれ、思うに、現存在と差延が似ているだろう。なぜなら、現存在には、同一性構造もあるし、差異の原点もあるからである。しかし、差延は、存在のもつ超越性を否定していると思う。(この超越性であるが、通常の超越性ではなく、PS理論における虚数である。虚的存在である。後で、説明したい。)
 


参考1:デリダと現象学に関係して

「デリダ追悼(1’) ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ」
http://ashida.sakura.ne.jp/blog
/2004/10/hamaenco_4_100.html
デリダ追悼(1’) ― ヘーゲル・フッサール・ハイデガー・デリダ

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デリダ追悼(4) ― フォネーロゴス中心主義
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返信: デリダ追悼(2’) ― 京都を散策するデリダ
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デリダ追悼(3) ― デリダと『現代思想』
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デリダ追悼(2) ― 早稲田大学でのデリダ
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デリダ追悼(1) ― デリダのフッサール理解について
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デリダが死んだ …
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参考2:デリダ『精神について―ハイデッガーと問い』

http://literaryspace.blog101.
fc2.com/blog-entry-95.html
http://literaryspace.blog101.
fc2.com/blog-entry-96.html
 


2007年08月15日(Wed)▲ページの先頭へ
フッサールの志向性とハイデガーの気遣い:差異・即非・同一性志向性としての気遣い:開かれたM.P.
ハイデガーの『存在と時間』におけるキー・コンセプトの一つが、気遣いである。現存在とか世界内存在とかの、難しい抽象語の中にあって、「気遣い」というのは、日常の言葉でもあり、なにかユニークである。
 この言葉は現存在の存在の様相を意味する。こういうと分からなくなるだろう。とまれ、私はこの言葉を、PS理論から説明したいと思った。今ここで、ハイデガー現象学を読みとるPS理論的概念地図を与えるならば、暫定的だが、Media Pointが存在であり、世界内存在は、Media Pointからの現象化した様相である。
 これでは分かりにくいから、端的に言うと、「気遣い」とは、不連続性と連続性との即非様態であるMedia Pointから発動した現象化における個体の「志向性」である。この「志向性」は、フッサールの志向性を、言わば、敷延したもので、差異・即非・同一性様相としての志向性ということになると考えられる。ハイデガーが配慮的な気遣いというのは、同一性的志向性(モノや事物への志向性)であり、顧慮的な気遣い(他者を感知する志向性)というのは、差異的(差異共振的志向性)ということになるように思える。
 ということは、差異・即非・同一性としての志向性(又は、Media Point的志向性)は、差異と同一性が即非様相として存するのであり、ここでは、差異と差異とは、同一性が入っても、共立・共生・共振していると考えられる。つまり、これまで、私は、Media Pointから、第一義的に、同一性志向性が発動すると考えていたが、それを訂正して、差異と同一性の即非共振する志向性、即ち、差異共振的志向性が現象界においても発現すると考えたい。
 しかしながら、差異(差異共振性)が優位になるとき、同一性が優位になるときが存すると考えられる。差異が優位になり、同一性が劣位になるとは、どういうことなのか。同一性が優位で、差異が劣位になるというのは、これまで、近代合理主義の様態であると考えてきたので問題はない。
 差異優位、同一性劣位とはどういうことなのかと考えると、それは、差異共振性が優位であり、同一性的支配が劣位である。これは、結局、Kaisetsu 氏が説くメディア共鳴Media Resonanceの様態が主導的になり、言語や知性による支配が乏しいということではないだろうか。そう、思うに、Media Pointが開いている様態と言えるのではないだろうか、即ち、Open Media Point(開かれたMedia Point)と言えるのではないだろうか。とにかく、そう作業仮説しよう。(ならば、同一性優位のときは、Closed Media Point《閉じられたMedia Point》である。)
 差異優位、Open Media Point(開Media Point)の場合は、主体、又は個体は、イデア界・虚界に接しているのではないだろうか。イデア界・虚界の「光」ないしは超光に接しているのではないだろうか。思うに、古代ギリシアの時代は、そのような状況ではなかっただろうか。さらに言えば、父権文明以前の母権文明においては、そのような状態ではなかったのか。
 私は、差異優位、Open Media Pointの場合、歴史的には、母権的文明が中心であったと思うのである。神話で言えば、女神支配の時代である。前アーリア民族文化の時代である。また、ハイデガーの「存在の開けた明るみ」となにか神秘的な言い方をしている事象は、このOpen Media Pointにおける様態を指しているのではないだろうか。
 とまれ、以上のように作業仮説して、考察を進めよう。結局、Media Point志向性が差異と同一性の両面をもっていることで、これが、ハイデガーの気遣いと等価ではないかということである。
 そこで、近代合理主義においては、同一性志向性が優位となり、差異志向性が劣位となる。そして、ついには、同一性中心主義となり、差異が否定・無化される。これが、近代主義の極北である。近代的弱肉強食であり、そして、現代である。
 ポスト・モダンは、これに対して、差異志向性を説いたというか、説こうとしたのである。ドゥルーズ哲学の場合は、差異と同一性が連続化していたし、デリダ哲学の場合は、差延が同一性へと連関していたと言えよう。結局、純粋差異を、ポスト・モダン哲学は取り出すことができなかったのである。しかしながら、私見では、ハイデガー現象学は、存在概念によって、ほぼ純粋差異を捉えていたように思えるのである。PS理論は、純粋差異を掬い上げて、差異と同一性との即非的調和へと飛翔したと言えよう。
 とまれ、PS理論によって、明確に、Media Pointが新たに開くことができたと言えるのではないだろうか。このNew Open Media Pointによって、Media Pointのエネルゲイアが流入し、メディア共鳴も活性化されるようになるのではないだろうか。あるいは、差異共振化が賦活されるのである。
 経済で言うと、資本主義は、同一性=貨幣=資本経済であった。同一性が優位となり、差異が劣位となってきたのである。同一性は、唯物論と結びつき、物質主義中心の経済であったと言えよう。
 しかるに、差異共振化が生起すると、差異共振的価値が中心化されて、差異共振性の視点によって、投資されるようになるはずである。実際には、同一性資本主義と差異共振資本主義とが併存すると思うのである。資本主義を同一性経済とするなら、差異共振経済は資本主義ではない、それは、脱資本主義である。即ち、差異共振的脱資本主義である。
 例えば、格差という事態は、資本主義=同一性経済から生じるのである。19世紀における富裕者と貧困者の格差はこれで説明ができるのである。差異共振性の観点で見ると、富裕者と貧困者は対立ではなくて、両者の共振が価値であるということになるのである。全体の富を富裕者と貧困者との差異共振価値に使用することで、社会全体が富むことになると考えられる。例えば、貧困者に対する減税によって、貧困者の家計を潤し、また、富裕者への増税によって、社会全体の富を増加させるのである。問題は政治や行政である。差異共振政治、差異共振行政とならなくてならないだろう。私腹を肥やすことは、同一性=自我主義であり、差異共振価値を損なうのである。
 差異共振価値へのパラダイム・シフトが必要である。


2007年08月14日(Tue)▲ページの先頭へ
フッサールとハイデガー:超越論的主観性と存在:差異共振性と現象学
フッサールの超越論的主観性についてはいろいろ述べたが、ここで、ハイデガー現象学と比較するため、再考したい。
 ここでは、直感で述べたい。フッサールの超越論的主観性とは、現象学的還元によって生起する「主観性」である。しかしながら、この「主観性」は、当然、日常の自我の主観性ではない。自我を超えた主観性である。私はこれを主観性と呼んでいいのか疑問に思っている。
 端的に言おう。超越論的主観性とは差異共振性のことである。差異共振性とは、原主体と原客体が共振している様相であり、PS理論では、Media Pointの領域である。フッサールの超越論的主観性の構想は、本来、ここを意味していると思えるのである。しかしながら、フッサールは、同一性理性主義を信奉しているので、この原主体・原客体の差異共振性を、同一性理性の主体による志向性によって把捉しているのである。ここに、実質と意識とのズレが生じていると考えられるのである。言い換えると、フッサールは、無意識では、差異共振性(Media Point)を把捉していたが、意識では、同一性志向的主体の志向性として理解したのである。
 このズレを考えると、間主観性(相互主観性)や生活世界の意味がよく理解できると考えられるのである。即ち、無意識の差異共振性が意識の間主観性(相互主観性)と理解され、無意識の差異共振的世界が生活世界と想定されたと推察されるのである。
 言い換えると、フッサールは同一性理性の色眼鏡で、天才的直感で捉えていた差異共振性を理解したのである。このフッサールの差異と同一性とのダブリが現象学を複雑にしていると考えられる。
 さて、ハイデガー現象学であるが、思うに、ハイデガーの天才はフッサールが超越論主観性と誤解した差異共振性を存在と端的に捉えたところにあるだろう(この言い方はよくない。端的に差異共振性ではなくて、差異共振的なものを、直感的に、存在として大掴みしたということである)。これは、正に天才的明敏さである。
 先に述べたが、フッサールがパイオニアとして開拓したが、同一性理性主義という西洋の伝統の枠組みに捉えられていたため、正確に命名把握できなかった、哲学の新たな地平を、ハイデガーが明敏に把捉して、存在論的現象学を構築したと考えられるのである。
 ということで、現象学は、フッサール/ハイデガー現象学(言わば、フッデガー現象学である)と見るべきである。そして、これは、実質的なポスト・モダン哲学なのである。
 というように見ると、現代哲学の混乱・混迷は巨大である。ある種致命的である。端的に言えば、構造主義で現象学を超えたという錯誤が支配したことにあるだろう。そして、構造主義とポスト・モダン哲学との関係があいまいになっていることにも原因があるだろう。
 また別の視点から言うと、現象学の文体にも問題があるだろう。フッサールにしろ、ハイデガーにしろ、晦渋である。確かに、それまでの西洋哲学を乗り越える画期的な理論であるが、あまりにも、文体的に構え過ぎていて、一般の読者には難解過ぎるのである。研究者の文体も一般にはそうだろう。
 思うに、構え過ぎる文体とは、端的に、利己主義を意味するだろう。読者喪失の文体であろう。(私が書いていることも、一般の人には分けがわからないだろう。しかし、文体的には、シンプルであると思う。考え方の筋道が分かれば、PS理論は分かりやすいのである。PS理論入門講座を行おう。ここでは、読者参加型にしたい。)そう、だから、逆に言えば、現象学は、どこかで、他者を喪失しているのである。フッサールの場合は、以上の考え方でそれがわかるだろう。ハイデガーの場合はどうだろうか。
 ここで私事になるが、ハイデガーの文章は嫌いである。勿体ぶりが嫌である。尊大ということだろう。では、端的に何が嫌気を生むのか。(デリダの文章も問題がある。抽象的な表現が過多であり、ポイントが不明確になるのである。ドゥルーズは直截的であるが、論理が目茶苦茶なところが多い。)
 ハイデガーの叙述への嫌悪感の原因は、叙述が経済的でないことにあるからだろう。端的に冗長なのである。冗長というのは、正常な論理感覚が欠落しているということだろう。長々しく、自説を説明するというのは、一種病的な精神である。不健全である。
 正常な論理感覚とは、正に、差異共振的な論理感覚であろう。ハイデガー現象学は、内存在、世界内存在、現存在という点においては、差異があるが、健全な差異共振性が欠落していると思う。思うに、ハイデガーの存在と存在者には、「一つの裂け目」があるとされるが、しかし、十分、不連続化していないように思えるのである。

以上は、暫定的な考えであり、これから、さらに検討していくことになる。


2007年08月13日(Mon)▲ページの先頭へ
フッサールの志向性と生活世界とは何か
ハイデガーの『存在と時間』を読み続けているが、思うに、フッサールによる現象学の基があったればこそ、ハイデガーは現象世界を存在論的に精密化できたのである。
 思うに、ハイデガーの現象学/存在論とは、フッサールの現象学の進展と見るべきである。しかし、アウトラインはフッサールによって描かれていたと見るべきだと思う。つまり、フッサールの志向性(ノエシス・ノエマ)の純粋意識の問題を、存在へと進展させて、より水平的に考察していると思われるのである。
 フッサールの問題点は、ノエシスが身体という存在を志向することまでには達しなかった点ではないだろうか。身体という存在を志向するノエシスと考えると、ハイデガー/メルロポンティ現象学への方向が生まれると考えられるのである。
 ノエマとは、ソシュールで言うと、シニフィエに近いと思う。そして、これは構造主義の問題でもあるが、身体を取りあげられない点である。ノエマやシニフィエは、身体の背景に浮かぶ対象的像だと思う。そして、身体が影になって不可視なのである。ハイデガーの存在とは、純粋意識と身体との相関性のことではないだろうか。
 身体は他者である。フッサールはこの点に達していなかったのである。しかしながら、生活世界とは何だろうか。これは、同一性=自我の二元論の世界成立以前の世界であり、志向性が、身体へ、さらには、世界へと向かっていた世界ではないだろうか。つまり、純粋意識が身体を介して世界を志向していた世界。ここでは、純粋意識と身体・世界との差異共振性が支配しているだろう。間主観性乃至は相互主観性とは、端的に、身体・世界的差異共振的脱主観性ではないだろうか。主観と客観とが共振した世界である。コスモスである。これが、生活世界ではないのか。コスモス的世界である。
 後で、身体論について考察したい。
 
参考:

フッサール
現象学的認識論の基礎

 はじめに

 現象学の創始者エトムント・フッサールの展開した哲学は、絶えず認識論的に方向付けられていたともいってよい。フッサールによれば、現象学とは超越論的立場からの認識論であるはずであった。現象学を「認識批判」とするフッサールの立場は、ハイデガーによって激しく批判されることとなるが、しかしそのことが逆に、フッサールの独自性を浮き彫りにしている。つまり、フッサールの現象学の独自性は、認識論上のパラダイム転換にあったといえるのである。とはいえ、フッサールがその具体的な分析において切り開いた問題系は、単に認識論にとどまらない。例をあげれば、後期時間論や相互主観性の理論、そして生活世界の理論などは自己や世界をめぐる存在論的思索であったといえよう。ただ常に念頭に置かねばならないのは、そのような存在論的思索も現象学の立場からの認識論的考察の成果の上に立って、展開されているということである。そこでまずわれわれはフッサールが彼の現象学でもって切り開いた認識論の新しい地平は何かということをテーマとして扱うこととする。
http://cgi.biwa.ne.jp/~isamu-m/Husserl-Theo.html


フッサールの方法とその諸問題
総論

 このレジュメの目的は、エドムント・フッサール(1859−1938)の思想理解と、彼の用いた術語を理解することにある。そのために、まず現象学的還元(phänomenologische Reduktion)に端を発するフッサールの学的態度を一通り示し、そこで出てくる概念の説明を試みる。それから先行思想との関係、フッサールの思想における難点の追求へと進む。ただ、この発表はあくまでも名目が院試対策であることから、その形式、書式は共に一般的なレポートのそれとは異なっていることに注意されたい。

http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html


2007年08月12日(Sun)▲ページの先頭へ
構造主義再々考:同一性の差異の構造と差異と超虚性:構造と現象学とポスト・モダン
先に、ソシュールの構造主義について勘違いしていたので、ここで再考したい。
 先ず、その前に、構造主義とは直接関係ないが、現象学やポスト・モダン理論に関係する用語について説明しておきたい。
 それは、超越性という用語である。私はこの語を哲学の伝統的用語として用いているのではなくて、PS理論から生じるガウス平面における虚軸の虚数的存在を示すために使用している。勿論、精緻に言えば、実軸における超越性を含めるべきだが、虚数的存在を示す適当な言葉が浮かばないので、超越性という言葉を使用しているのである。
 そういう意味での超越性であり、その意味でPS理論において使用すると、哲学的伝統における超越性と語義上衝突するのである。これは、今のところ、より適切な用語が見つからないので、そのような事態になっていると認めるしかない。
 だから、正確に言うならば、超越性を虚数性乃至は虚数的超越性である。以前は、虚数的超越性という言葉を正確さのために使用していたが、長いので、超越性にしてしまったのである。今、思ったのは、虚超性、ないしは、超虚性という用語を造語してはどうかということである。こうすれば、哲学的伝統の用語と衝突しないで済むだろう。語呂から言うと、超虚性が適しているのではないかと思うので、以下の論においては、この造語を用いたい。
 さて、bloghiro-dive氏による構造主義の明敏な説明によって、言語学に関する構造主義は、シニフィアン(意味するもの)とシニフィアンとの差異に存することを思い出した。例えば、ao(青)とaka(赤)がシニフィアン(この場合は音声)として、差異ないしは対立を形成しているということになる。
 私は、構造主義の差異とは、同一性的二項対立であると述べたが、シニフィアンを同一性にすれば、aoとakaは、同一性的二項対立と言えるだろう。ao を優位とすれば、akaが劣位であり、また、逆も成り立つ。ということで、簡単ではあるが、先に述べたように、構造主義の差異は同一性的二項対立(p.s. 同一性的差異とも言える)であると言えるだろう。
 こういう表層的なことよりも、より事象に即して考えたい。PS理論から見ると、Media Pointから同一性の志向性が主導的になり、同一性が形成される。簡単に言えば、差異の連続/不連続の「相補性」から、同一性が形成されるのである。同一性は当然、一般的には、外界の対象に対して投影されて、対象は言語化されるのである。例えば、ある対象に対して、sakana(魚)と言語化するのであり、別の対象は、それとは差異化して、tori(鳥)と言語化するのである。ここでは、sakanaとtoriが構造的差異を形成しているのであるが、この構造的差異の発生を考えると、Media Pointにおける同一性志向性の力学空間における差異化であると言えよう。諸対象を直感して、諸対象を区別(差異化)するために、同一性における差異化が形成されると言えよう(言語の構造化)。つまり、直感が先にあり、次に、直感に即して、同一性同士の差異化(例えば、sakanaとtori)が生じるのである。これが、言語の構造の発生であると考えられる。
 当然、この構造の差異は静的である。何故なら、単位が同一性になっているからである。sakanaという同一性であり、toriという同一性であるから、これは、このまま固定しているのである(音韻上の変化があっても、同一性自体は不変である。sakanaが、例えば、sakane、sakanoになっても、その同一性自体は変わらない。)。
 ということで、言語の構造は、Media Poinからの同一性志向性の領域において発生すると言えよう。
 それでは、構造主義の差異とポスト・モダンの差異を比較してみたい。これは、もう、ほとんど自明に近いだろう。先にも述べたように、前者は同一性同士の差異である。同一性の差異(p.s. 同一性的差異)である。それに対して、後者は同一性以外の差異である。脱同一性としての差異である。(ここでは、同一性と連続化していても、脱同一性としての差異があると言えよう。)
 だから、構造主義の差異とポスト・モダンの差異とを同列に扱うのは問題があるのであるから、用語を変えるべきである。私は、構造主義の差異は同一性的二項対立で(p.s. 同一性的差異)あると言ったが、やはり、そのように提起して、ポスト・モダンの差異とは明晰に区別すべきであろう。
 そうすれば、構造主義と脱構造主義であるポスト・モダンの意味が明瞭になるだろう。つまり、ポスト・モダンは、構造主義の同一性的二項対立(p.s. 同一性的差異)という構造を乗り越えて、脱同一性である差異の理論を説いたのである。そして、主にアメリカで使われたポスト構造主義という術語も意味が明確になるだろう。つまり、構造主義の同一性的二項対立ないしは同一性の差異の構造を超えた理論としてのポスト構造主義である。以上で、構造主義とポスト・モダン哲学の区別が明瞭になったであろう。
 次に、現象学について考えたい。ポイントは、上述した超虚性(「超越性」)である。最初に、フッサール現象学を見ると、基本的コンセプトの一つである超越論的主観性は、現象学的還元を行って生起する「主観性」ということであるが、そこには、デカルトやカント的な自我の立場が払拭されていないと考えられる。PS理論から見ると、フッサールの超越論的主観性は、一面において、超虚性(「超越性」)に達していると考えられるのである。しかし、通常の主観性の立場、自我の立場が他面において入っているので、同一性からは完全には離脱していないのである。これは、Media Pointから同一性志向性への過程にある視点と言えるだろう。i*(-i)⇒+1から言うと、⇒と+1との間ないしは接点がが超越論的主観性ではないかと思えるのである。ハイデガー現象学は先に述べたことでいいと思うので、繰り返さない。
 さて、問題は、現象学と構造と差異の関係である。PS理論から言うと、Media Pointは、本来の差異、つまり、脱同一性としての差異である。正しく言えば、連続性/不連続性の相補性としての差異である(これも、即非的差異と言えるのかもしれない。後で検討したい。)。だから、フッサール現象学の場合、半面はMedia Pointに達しているので、差異化ないしは脱構造化しているのである。しかし、同時に、主観性ということで、同一性化しているのである。つまり、構造化しているのである。いわば、構造主義とポスト・モダンの中間にフッサール現象学が位置していると言えるのではないだろうか。
 ハイデガー現象学の場合、「一つの裂け目」ということで、差異と同一性を切断しているので、ポスト・モダン化しているし、さらには、不連続性もあるので、PS理論に近づいていると考えられるのである(もっとも、不連続性以外にも理由があるが)。(思うに、存在と存在者の差異、いわゆる、存在論的差異は、差異と同一性との「差異」と考えられるので、ポスト・モダン的であり、「一つの裂け目」を強調すれば、PS理論に近づいていると言えよう。また、ハイデガー現象学にポスト・モダンの起源を見る人はいくらかいるので、ポスト・モダンの先駆者としてのハイデガーということは確定することができるのではないだろうか。)
 最後に、超越論性と主観性と構造について考えたい。カントの超越論哲学とは、主観のアプリオリの形式としての超越論性を説いているだろう。だから、それは、主観性的な超越論性であるということになる。しかしながら、超越論性は、主観性の深層構造であるから、私は、それは、一種構造性をもっていると見ていいのではないかと思うのである。構造は本来、主観性・主体性を超えたものである。この点を整合化するには、どう考えたらいいだろうか。
 上述したMedia Pointにおける同一性志向性空間を考えよう。ここにおいて、構造が生起するのである。だから、同一性志向性構造と言えるだろう。そして、この構造は、自我形成の空間でもある。同一性の差異を形成することで自我が形成されるのである。同一性=自我の形成である。だから、同一性志向性構造は、カントの超越論性と等価であろう。そうすると、やはり、構造と超越論性は等しくなるのである。だから、やはり、カントが構造主義の先駆であるとは言えると考えられるのである。
 問題は、カントの超越論性とフッサールの超越論性である。両者異なるのである。前者は構造性であるが、後者は脱構造性(差異)である。だから、同じ用語を用いるのは間違っているだろう。カントの超越論性は実軸的超越論性であり、フッサールの超越論性は虚軸的超越論性である。だから、超越論的主観性と言った場合、両者ではまったく異なることを指していると言える。カントの場合は、構造であり、フッサールの場合は、脱構造且つ構造である。思うに、超越論性という術語は、超越性と同様に、誤解を生むので、より限定して使用すべきであろう。


2007年08月11日(Sat)▲ページの先頭へ
超越論的主観性とは、脱主観(主体)性である:フッサール現象学と超越的非主観性
構造主義に関係して、超越論的主観性について一言言いたい。おそらく、フッサール自身の一種の混乱があったのではないかと思えるのだが、超越論的主観性とは、「超越的」構造にある「主観性」ということであり、もはや、自我(=同一性)ではないのである。だから、主観性という言葉を使うのは誤解を生む。強いて言えば、超越論的脱主観性(超主観性)(p.s. 超越論的非主観性と言う方が適切だろう)があると思うのである。これは、PS理論では、差異即非の自己である。ここでは、主観は主観ではなく、客観との即非関係にある。主観=客観、且つ主観≠客観、等々である。
 しかし、フッサールは超越論的主観性ということで、超越性に主観性=自我=同一性を持ち込んでいるのである。これが、デリダの批判を生んだのである。
 また、ハイデガー現象学・存在論について少し言うと、超越論的主観性の換わりに、存在を提起したのだが、存在は、差異即非様相とすることで、より明確になるだろう。単に、存在だけでは、主知性が抜けてしまう可能性がある。
 差異即非様相とは、原知と原身体との即非様相ということだろう。それが、本来の存在だろう。
 この点で興味深いのは、メルロ=ポンティの身体的現象学である。思うに、原知・即非・原身体の差異即非様相が、メルロ=ポンティの身体に相当するのではないだろうか。だから、存在と等しいのである。身体存在論とも言えるだろう。
 思うに、原身体は、原知にとって、まったき他者である。即非的共振があっても、原身体は、不可知である。ただ、差異即非様相のMedia Point様態によって、身体が、すべてではないにしろ、可知化するだろう。
 身体については後で検討したい。


2007年08月10日(Fri)▲ページの先頭へ
ハイデガー現象学とは何か:仏教的本質の西洋哲学化
ハイデガーの『存在と時間』(中公クラシックス)を読み進めているが、ハイデガーのエクリチュールが明らかに、第1部第1篇第4章辺りから変わって、迂回するような文体からより直截的な文体へと変わっていると思う。勿体の付け方は減ってもいる。
 さて、そのことより、読んでいて直感したのは、くどくどと、現存在だの、存在論的だの、実存的だの云々と、似たり寄ったりの概念を展開しているが、結局、ハイデガーが問題にしているのは、仏教哲学であると思ったのである。結局、無明と悟り(悟達・開悟)の関係を西洋哲学的に叙述しているのだと思ったのである。無明が世人様態であり、悟りが本来的自己存在である。結局、仏教を西洋哲学的に解明していると考えれば、晦渋であるが、実にわかりやすい愉しい著書であると思ったのである。
 そもそもフッサール現象学自体が、仏教的なのである。「事象自体へ」という発想は、純粋に事象を視るということである。真実在(真如)を視るということである。フッサール現象学が切り開いた西洋哲学的仏教論をハイデガーが創造的に継承して、さらに西洋哲学による仏教論を展開していると思えるのである。
 後期のハイデガーは、日本人の影響を受けて東洋哲学を触れたであろうが、よくは知らなかったではないだろうか。仏教のドイツ語訳がどれほどあったのだろうか。鈴木大拙の独訳はあってもよさそうであるが。
 思うに、どうして、こんなに分かりやすいことをはっきり言う人が少ないのだろうか。当然、現象学と仏教の比較研究は多くされているだろうが、端的に同質のものであることを述べている人は寡聞にして知らない。
 思えば、不連続的差異論が生まれるすぐ前の頃、根井康之氏の『東西思想の超克』等の著書を読み、仏教(華厳経)、マルクス、現代西洋哲学、自然科学(量子力学)が「根源的自然」というキーターム、キーコンセプトを用いて包括的に論じられているのを知り、私の求めていた理論の裏付けができたと感じたものだった。私の直感していたもの、「コスモス」が、「根源的自然」で理論化できると思ったのであった。結局、不連続的差異論においては、「根源的自然」は、イデア界/メディア界になったと言えよう。さらに、鈴木大拙の即非の論理を適用して、プラトニック・シナジー理論として進展・深化したのであった。
 即ち、PS理論は単に、プラトン哲学だけではなく、仏教哲学を基礎理論としてもっているのである。ということで、仏教哲学の視点をもった新しい差異の哲学・理論なのである。ということなので、PS理論的視点から視ると、他の哲学・思想等を対象としたとき、仏教性を認識できるのだと思うのである。そう、先に簡単に触れたが、アリストテレスの『心とは何か』の「心」も、仏教の「心」(『大乗起信論』)に似ているのが直感できたのである。
 とまれ、ハイデガー現象学の存在とは何か、簡単に言うと、それは、文化的に言えば、精神、魂、心であり、科学的に言えば、量子であると思う。PS理論的には、Media Point 乃至はエネルゲイアである。
 そして、Media Pointが虚界・イデア界に通じているように、存在は無に通じているのである。
 そう思うと、西洋人が、仏教的本質を対象にすると、フッサールにしろ、ハイデガーにしろ(おそらく、メルロ=ポンティも入るだろう)、なんと晦渋な表現になることか。そう、西洋の近代的理性を超えた異質なものを対象とするとき、なんと不器用なのだろうと思う。キリスト教的思想が支配的であるため、仏教的本質を探求するのが、西洋人にとっては実に困難になると考えられるのである。
 もっとも、西田幾多郎の著書を見ても、日本人でも、仏教的本質を西洋哲学化するのは、実に困難なのである。西田のほとんど理解困難な日本語を見ればいいのである。
 とまれ、仏教が今日、日常社会における知恵になっていないのは残念である。仏教的経済がありうるだろう。それは、精神世界をもちつつ、物質世界の秩序的創造に意を尽くすだろう。


2007年01月07日(Sun)▲ページの先頭へ
「ロスト・ジェネレーション」について
現代日本の「ロスト・ジェネレーション」であるが、これは、確かに、結果としては、「ロスト(失われた、喪失した、迷子の)」であろうが、しかし、現実は、「失わせた」能動的主体が存在していることが不明になっているのである。だから、「ディプライヴドdeprived・ジェネレーション」とした方が的確であろう。つまり、「奪われた世代」である。
 で、誰が奪ったのか?って、それは、明々白々である。しかし、その奪った者たちの権力連合体を、いわば、選んだ国民がいることになるのである。騙し/騙されの関係がここにあるのである。これをどう見るのか。
 しかし、騙し/騙され、つまり、洗脳/マインドコントロールは、国内だけの問題でなく、国家と国家の関係にもあるのである。これをどう考えたらいいのか。
 騙す国家と騙される国家があるのである。これは、結局、国家の力量の問題ではないのか。力量のない国家は力量のある国家に騙されるというのが、国際力学ではないのか。
 つまり、プラトニック・シナジー理論から見ると、国家は不連続的差異=特異性であり、それは、本質的には異質な、ばらばらの存在である。そうだから、他者である国家を信じることは、簡単にはできないのである。ここでは、必然的に距離・批判が生じてくるのである。懐疑精神が必要なのである。しかるに、それを無くして、他国家を軽信・過信・盲信するのは、愚の骨頂である。
 日本国家の「コギト」がないのである。他者との共振性はあくまで、不連続性が前提である。懐疑すること、不信すること、距離をおくこと、これが原点である。
 「ロスト・ジェネレーション」とは、「ロスト・ネーション」である。「ディプライヴド・ネーション」である。


ロスト・ジェネレーション
テーマ:アーネスト・ヘミングウェイ
「ロスト・ジェネレーション」について このエントリーを含むブックマーク


朝日新聞が元旦から3日つづけて一面で*1 、「ロスト・ジェネレーション 25〜35歳」という特集をしている。ちょうど『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』のゲラを読み始めたところで、この本で何度かアメリカの「失われた世代」にも言及しているので、朝日新聞がいま、どういう定義で「ロスト・ジェネレーション」について語ろうとしているのかに興味が湧いた。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20070104
【海難記】 Wrecked on the Sea このページをアンテナに追加 RSSフィード

http://websearch.asahi.com/.cgi
/websearch/websearch.pl


参照

「ロスト・ジェネレーションに捧げる詩」

http://blog.kaisetsu.org/?eid=500348
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』 


lost generation
http://en.wikipedia.org/wiki/Lost_Generation
失われた世代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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失われた世代 (英 :Lost Generation)とは1920年から1930年代にかけてパリで生活したアメリカの小説家、詩人たちを指してガートルード・スタインが名付けた言葉。命名の由来は、ガートルード・スタイン がヘミングウェイ に対して言った言葉 You are all a lost generation(あなたたちはみな、失われた世代なのよ)に因る。主なメンバーとしては、アーネスト・ヘミングウェイ 、F・スコット・フィッツジェラルド 、シャーウッド アンダソン 、ワルド・パース 、シルビア・ビーチ 、詩人ではE・E・カミングス 、エズラ・パウンド 、批評家ではマルコム・カウリー そしてスタイン自身などがいる。

より広義には、第一次世界大戦 後に青年期を迎えた多くのアメリカ人 たちをさす場合もある。ヨーロッパ においては彼らは"1914年世代"とも呼ばれる。これは第一次世界大戦の開始された年に由来している。またフランス においてはことなる言葉ー"炎の世代"Génération au Feuーが用いられている。

[編集 ] 特徴

失われた世代に属する者たちは、第一次世界大戦における無意味ともいえる犠牲によって、親の世代が持つヴィクトリア期 のモラルに対して冷笑的になったとされる。どの世代の定義についても常に言える事であるが、このような例が当てはまる者、当てはまらない者の双方が存在した。

この世代に属する者の中には、当時のアメリカ文化 がヨーロッパに存在するような文明性を欠いていると考えた者もいた。彼らは好景気に沸いていたアメリカを後にし、その時間の多くをヨーロッパ、特にパリを中心に生活していた。この期間に生み出された文学作品の中には、後にアメリカ文学 における傑作と目されるものも多い。純粋なアメリカ文化と言われるジャズ が花開いたのもこの時代であった。

[編集 ] 該当する人物

1883年から1900年生まれの人物の例を以下に挙げる。

* 1883年 エルザ・マックスウェル (1963年死去)
* 1884年 デイモン・ラニアン (1946年死去)
* 1885年 シンクレア・ルイス (1951年死去)
* 1885年 ジョージ・パットン (1945年死去)
* 1886年 アル・ジョンソン (移民; 1950年死去)
* 1887年 ロスコー・アーバックル (1933年死去)
* 1888年 アーヴィング・バーリン (移民; died 1989年死去)
* 1889年 ワルター・リップマン (1974年死去)
* 1890年 エイミー・センプル・マクファーソン (1944年死去)
* 1890年 ドワイト・D・アイゼンハワー (1969年死去)
* 1891年 アール・ウォーレン (1974年死去)
* 1891年年 ニコラ・サッコ (移民; 1927年死去)
* 1892年 ラインホルド・ニーバー (1971年死去)
* 1892年 メイ・ウエスト (1980年死去)
* 1893年 ドロシー・パーカー (1967年死去)
* 1893年 ヒューイ・ロング (1935年死去)
* 1894年 ノーマン・ロックウェル (1978年死去)
* 1894年 アルフレッド・キンゼイ (1956年死去)
* 1895年 バックミンスター・フラー (1983年死去)
* 1895年 ジョン・エドガー・フーヴァー (1972年死去)
* 1895年 ベーブ・ルース (1948年死去)
* 1896年 ジョージ・バーンズ (1996年死去)
* 1896年 F・スコット・フィッツジェラルド (1940年死去)
* 1897年 ドロシー・ディ (1980年死去)
* 1898年 ポ−ル・ロブスン (1976年死去)
* 1898年 ヘルベルト・マルクーゼ (移民; 1979年死去)
* 1899年 ウラジミール・ナボコフ (移民; 1977年死去)
* 1899年 ハンフリー・ボガート (1957年死去)
* 1899年 アル・カポネ (移民; 1947年死去)
* 1899年 ジミー・デイヴィス (2000年死去)
* 1899年 アーネスト・ヘミングウェイ (1961年死去)
* 1899年 アルフレッド・ヒッチコック (移民; 1980年死去)
* 1900年 アーロン・コープランド (1990年死去)
* 1900年 アドレイ・スティーヴンソン (1965年死去)

代表的な文学作品には次のようなものが挙げられる。:

* 小説『グレート・ギャツビー 』 F・スコット・フィッツジェラルド
* 詩『荒地 』 T・S・エリオット
* 小説『日はまた昇る 』 アーネスト・ヘミングウェイ
* 小説『バビット 』 シンクレア・ルイス
* 小説『響きと怒り 』 ウィリアム・フォークナー
* 映画『モンキー・ビジネス 』 マルクス兄弟
* 楽曲『パリのアメリカ人 』 ジョージ・ガーシュイン
* 楽曲『浮気はやめた 』 デューク・エリントン
* 小説『マルタの鷹 』 ダシール・ハメット
* 小説『大いなる眠り 』 レイモンド・チャンドラー
* 小説『老人と海 』 アーネスト・ヘミングウェイ
* 随筆『八十路から眺めれば 』 マルコム・カウリー

この時代に誕生したアメリカ合衆国大統領は次の2人である。

* 1884年誕生 ハリー・S・トルーマン  任期1945年-1953年 (1972年死去)
* 1890年誕生 ドワイト・アイゼンハワー 任期1953年-1961年 (1969年死去)

この世代に誕生した議員達は1937年 から1953年 にかけて合衆国議会下院で、1943年 から1959年 には上院で、そして1941年 から1967年 まではアメリカ合衆国最高裁判所で多数派を形成した。

アメリカ人以外で、同じ時代に生まれた者はベニート・ムッソリーニ 、アドルフ・ヒトラー 、東条英機 、エルヴィン・ロンメル 、ゲオルギー・ジューコフ 、ゲーリング 、サラザール 、クヴィスリング 、チャールズ・チャップリン 、J・R・R・トールキン 、シャルル・ド・ゴール 、バーナード・モントゴメリー 、ロバート・グレイヴス 、ルカーチ・ジェルジ 、アントニオ・グラムシ 、マックス・ホルクハイマー 、フランツ・カフカ 、オルダス・ハクスリー 、ハリル・ジブラン 、ナジ・イムレ 、ヤン・マサリク 、ジョージ6世 、フリッツ・ラング 、ルイス・マウントバッテン 、マルク・シャガール 、エーリッヒ・マリア・レマルク 、ジョアン・ミロ 、ホー・チ・ミン 、ニキータ・フルシチョフ 、パウロ6世 、ハイレ・セラシエ1世 、ボリス・パステルナーク 、セルゲイ・プロコフィエフ 、ディエゴ・リベラ 、毛沢東 などである。

[編集 ] 関連用語

* モダニズム
* モンパルナス

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4
%B1%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%
81%9F%E4%B8%96%E4%BB%A3 " より作成

カテゴリ : アメリカ合衆国文学 | アメリカ合衆国の歴史 (1918-1945)



リンク

●ロスト・ジェネレーションの小説
http://www.fumiswebpage.com/americanlit.htm
http://www.fashion-j.com/mt/archives/004175.html

LOST Generation YeLLOW Generation 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND
16474/index.html


2006年12月07日(Thu)▲ページの先頭へ
近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際
繰り返すと、先の考察から、近代的自我が、差異を否定する根拠が明確になってきた。極めて単純である。中世・封建時代における他律的道徳が、社会・経済・文化変動によって、崩壊して、個体が、いわば、野放しにされて、自我欲望のまま、言動するようになったということが根因ということである。つまり、中世・封建時代の「倫理」は、他律・外在的であれ、それは、内観性(-i)をもっていたと考えられるが、この崩壊により、主観が内観から離脱して、外観に向けられて【自我投影して、-(-i)】、自我欲望的になった【i*-(-i)⇒-1】ということである。明日野氏の言葉では、倒錯となったのである。闇となったのである。
 この内観を離脱して、外観中心になった近代的自我の力学をここで、明確にしたい。これまで、何度も試論ないし思考実験してきたが、ポイントは、陽認識i が陰認識-iを否定することにある。この力学は、主体投影(自己投影・自我投影)で説明できると考えられる。即ち、反復するが、主体である陽認識iが他者 -iを理解しようとするとき、必然的に、主体の形式である陽的同一性を他者に投影すると考えられるということである。つまり、i*-(-i)⇒-1となるといういおとである。-(-i)の最初の-が、他者否定という記号である。別の記号で表記すると、i→-(-i)=-1である。→は、志向性であるが、他者への志向性が、否定的志向性、反差異・連続的同一性になっているのである。この陽認識は、陽同一性認識と言ってもいいだろう。そして、先には、光認識とも言ったが、これは、誤解・混乱を招くので避ける。正しくは、外観認識である。
 問題は、この陽認識・外観認識・心的認識が、陰認識・内観認識・身体認識を排除することである。あるいは、即非認識、陰陽認識を排除することと言ってもいい。これは、正に、デカルト合理主義の問題である。明晰な観念が、不明晰な観念を排除するという問題であるからである。
 ここで、思考実験しよう。中世的ヒエラルキー価値観から解き放たれ、野放しにされた《個》を想定しよう。これが、近世・近代初期の主観の様態だと考えられよう。不安、拠り所の無さ、頼りなさ、等があるだろう。デカルトやパスカルを襲ったのもこのような一種実存的な不安と考えられる。つまり、《個》の基盤を何処に置くかの問題なのである。もはや、外在・他律的な価値観は崩壊したのである。そう、「神の死」があったと言えるだろう。この、言わば、剥き出しの《個》の様態とは、実は、無垢の即非の様態であると思われるのである。つまり、「わたし」は「わたし」だけであったり、あるいは、「わたし」は「他者」であったりするのである。つまり、A=A、あるいは、A=非Aである。揺らぎの様態であり、実に不安定である。一種、実存様態である。この、いわば、原《個》、素《個》、祖《個》の様態において、不安を解消するには、確固とした基盤が必要である。それを、デカルトは探究して、画期的なコギト哲学を打立てたのである。即ち、当然にも、コギト(我思う)を基盤にしたのである。そして、ここから、明晰で判明な観念だけが採用されて、あいまいな観念が排斥されて、近代合理主義の祖となったのである。デカルトは、差異哲学と近代合理哲学の両者の創始者である。
 思うに、確かに、個において、明晰で判明な観念を肯定したのは、画期的である。つまり、差異、単独者、特異性において、肯定した点がそうなのである。明晰で判明な観念とは、知的には、当たり前のことであり、なんの独創性もないだろう。しかし、個において、そうした点が本質的なのである。これが、近代、プロト・モダン革命である。即ち、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式で言うと、主体であるiが純粋・明晰化したと言えるだろう。これが、他者-iの主体同一化(i化)であると考えられるのではないだろうか。純粋i化である。これが、後のカントの超越論的形式ではないのか。これは、実は、反差異・連続的同一性形式である。そして、これが、時空間形式、物質形式へと展開していったと考えられるように思うのである。
 私の仮説では、デカルトは、この連続的同一性形式iで、他者-iを理性化しようとしたのである。つまり、連続的同一性「理性」ないし「知性」で他者・現象を合理化したのである。(コギト哲学は、i即非-iであると考えられる。)結局、i*-(i)⇒-1の近代的自我・近代合理主義が誕生したのである。では、何故、主体iは、他者-iを否定・排除・隠蔽するのか。それは、純粋にi化したからだろう。純粋同一性化は、他者を否定・排除・隠蔽すると考えられるのである。そして、この他者否定の近代合理主義が、西欧近代を形成していくのである。
 ここで、宗教改革(プロテスタンティズム)を考えると、それは、いわば、キリスト教原理主義である。私は、これをルネサンスに対する反動と見ているが、つまり、i*(-i)という即非エネルゲイアへのキリスト教的反動と見ている。つまり、即非エネルゲイアは、フィチーノのプラトン主義(新プラトン主義)や、ピコ・デラ・ミランドラでわかるように、異教を復活させるのであるから、キリスト教としては、見捨てておけなかったのである。(今日でも、ポスト・モダン的異教ルネサンスに対するキリスト教的反動があるだろう。)つまり、即非エネルゲイアをキリスト教信仰に取り込んだのが、プロテスタンティズムと考えられるのである。ここで、差異への反動が生起して、キリスト教的連続性が生まれたのである。【飛躍するが、後の文学における英米モダニズムにおいて、T.S.エリオットが、ポスト・モダン・コスモスへの反動として、イギリス国教会や古典主義を唱えたと言えよう。エリオットは、ポスト・モダンへの反動的作家と見るべきである。】数式から見ると、宗教改革とは、-(i)*(-i)⇒-1であろう。主体iを否定して、-(i)となっていると考えられるのである。ただし、これは、近代的自我と共通である。そう、近代的自我とプロテスタンティズム、そして、近代資本主義は、等価であると言えよう。
 結局、アポリア(難問)である「何故、陽認識は、差異・他者を否定・排除・隠蔽するのか」という問題への答えは、陽認識・視覚認識は純粋化すると、i中心となり、-iを排除するということとなる。ポスト中世の特異な時代において、《個》が剥き出しとなり、その実存的不安の「カオスモス」において、陽認識・視覚認識が純粋化されることになり、そのために、他者・差異-iが排除されたということである。
 だから、結局、否定・排除された-i、そして、さらには、即非エネルゲイアが復権を《無意識に》求めることになるのである。これが、反近代主義、ロマン主義、象徴主義、等々の文化運動である。これは、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。そして、「モダニズム」とは、これに対する反動である。つまり、ルネサンスというプロト・モダン=ポスト・モダンに対する反動として、プロテスタンティズムがあったように、文化的ポスト・モダン運動に対す売る反動として、「モダニズム」があったと考えられるのである。(ここで、ついでに述べると、文学や美術の芸術は、モダニズムの洗礼を受けているので、自身が反動となっているのに気づいていないと思うのである。だから、現代、文学や美術や音楽等々の芸術・文化が地に落ちているのである。トランス・モダニズムであるポスト・モダン=プロト・モダンによって、新ルネサンスを形成しないといけない。)深層心理学や構造主義や神話学は、この復権の表出であると考えられる。ただし、これらは、不十分である。何故なら、哲学的に、哲学・数学的に、不明であるからである。また、フロイト心理学は、他者である身体-iを近親相姦に還元するという、短絡化の誤謬を犯しているのである。他者は、多様であり、多元的である。近親相姦に還元できるはずがないのである。母子関係を言えば、それは、子と母との即非関係があると言わなくてはならない。それを、母子同一性(オイディプス・コンプレックス)として捉えるのは誤謬である。つまり、フロイトの自己投影というナルシシズムは、自我(近代的自我)の様態であり、《個》本来の様態ではないのである。つまり、精神分析は、《個》の心理学ではなくて、自我の心理学であり、それは、倒錯の心理学なのである。
 さて、結局、デカルトの合理主義は、主体iの純粋化としては、正しい意味があるだろう。個の明晰思考のために必要な手続きの第一歩である。しかし、単に第一歩に過ぎないのである。つまり、陽認識・視覚認識は、陰認識・身体認識、並びに、即非認識を形成しなくてはならないのである。これが真正なポスト・モダンである。そして、既述したように、スピノザの『エチカ』がこれを実現したと考えられるのである。スピノザの能動的観念の方法とは、陰認識・身体認識の積極・能動的方法である。平明に言えば、共感的認識方法である。共感性とは、正に、即非エネルゲイアの感情性である。そして、この能動的観念の方法は、後のフッサール現象学に通じると考えられるのである。つまり、これは、志向性の理論なのである。他者への志向性の理論と考えられるのである。逆に言うと、フッサール現象学の志向性理論とは、他者への志向性、即ち、陰認識・身体認識、そして、結局、即非認識の理論であると考えられるのである。デカルトの主体 iの連続的同一性の理論を、他者-iへの志向性の理論、即ち、差異的同一性の理論に変更したと言えるだろう。
 前世紀後半のフランス・ポスト・モダン運動であるが、これも既述済みではあるが、結局、後期デリダを除いて、プロト・モダンの中核にある《個》・差異・単独性・特異性を捉えそこなったのである。とりわけ、ドゥルーズの理論は、特異性という術語を強調しながらも、それを連続的同一性に帰結させていたのである。これでは、詐欺である。Aと言いながら、実際は、Bと言っているのであるから。つまり、真正ポスト・モダンとは、主体の、まったき他者(デリダの言葉)への志向性に存するのである。そして、まったき他者とは、不連続的差異論で言う不連続的差異にほかならない。主体と他者とが、根本的に不連続であること、ここにポスト・モダンの核心があるのであり、それを、不連続的差異論が究明したのである。思うに、厳密に言うと、ルネサンスでさえ、不連続的差異を自覚していたか怪しいのだえる。フィチーノのネオ・プラトニズムを見てわかるようにそれは、流出論・連続論なのであるからだ。しかし、本質は、不連続論であると言わなくてはならないだろう。だからこそ、デカルト哲学が生まれたのであると考えられるのである。
 以上の考察から、現代の認識論的課題は、陰認識・身体認識、そして、即非認識を創造することであると言えるだろう。そして、これは、個的倫理の形成なのである。現代日本は、没倫理であり、荒廃し切っている。近代主義によって、他者を喪失しているからであらである。自己内外の他者・差異発見にこそ、新倫理が生まれるのである。日本はこのように生まれ変わらなくては、滅亡路線をひた走りに走ることになる。

なにとぞ、近代を乗り越えよ!!!
なにとぞ、自己内外の他者・差異を発見せよ!!!
ここにしか、日本の根源的課題はない。
日本は、はっきり言って、滅びつつある。
日本滅亡を防ぎ、復活させるには、これしかないのである。
また、さらには、人類も滅びつつあるのである。
ポスト人類のエポックが近いのかもしれない。
考えれば、即非認識とは神人認識である。
ある意味で、誰もがイエス・キリストになることである。
つまり、テオーシス(神化)である。
これは、東方キリスト教の教義である。
つまり、東洋の叡知である。
東洋の復活である。
西洋文明のサイクルの終焉である。
日本人よ、寝ぼけていてはいけない。
世界は、激変しているのである。
物理学でいう相転移の時代であろう。
差異へと時代は転換しているのである。
差異共振シナジーへと転換しているのである。
これが理解できなければ、日本滅亡は免れない。
ご臨終日本である。
ご愁傷様、日本である。
南無阿弥御陀仏の日本である。
アディオス、ハポン。
日本よ、さらば。
日本は、確かに、滅びつつあるのである。
この現状認識をもたないといけない。
日本エクソダスである。
出日本である。
何処へ。
永遠回帰である。


   




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カレンダ
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