超越的差異と超越論的差異の相違点:Media Pointと超越論的構造:ポスト・モダンを超えて






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2007年08月30日(Thu)
超越的差異と超越論的差異の相違点:Media Pointと超越論的構造:ポスト・モダンを超えて
先に、ハイデガーの『存在と時間』から、その哲学が、「超越論的差異」的同一性構造であることを述べたが、超越論的差異が本来的自己ないしは存在を、同一性構造が非本来的自己ないしは存在者を意味しているのである。しかし、超越論的差異の成立について、あいまいな点があるので、ここで、もう一度検討したい。
 問題は、Media Pointから同一性が形成されるときの過程にある。i*(-i)⇒+1において、同一性とは、i→(-i)ないしはi←(-i)において発生する。【後者のi←(-i)の意味については、検討課題としておきたい。これは、身体的無意識ではないだろうか。】ここでは、主導的だと考えられるi→(-i)について考察したい。
 iである「知」は、「他者」である-iを同一性として認識しようとする。このとき、iが優位にあり、-iが劣位にあり、二項対立的同一性が形成される。iが主体となり、-iが客体へと転化される。問題は、優位となった主体の位置である。
 それを考察する前に、Media Pointについて考えよう。この同一性的転換において、Media Point自体は、自己否定化され、排除・隠蔽される。言わば、裏返しになると言ってもいいだろう。即非差異であるMedia Pointは、差異と同一性の両極ないしは両面をもつが、同一性的転化において、差異の面を隠蔽して、同一性の面を表面化するのである。
 この、いわば、捩れたMedia Pointの表面に現象生起するのが、二項対立的同一性である。即ち、iの同一性化である優位の主体と、-iの同一性化である劣位の客体との二項対立的同一性である。
 ここにおいて、顕現しているのは同一性現象であるが、潜在化しているのが差異である。この顕在化した同一性と潜在化した差異との総体、捩れたMedia Poinとは何であろうか。
 私が超越論的差異と言ったのは、どこに存するのであろうか。事態ないしは事象は微妙である。捩れたMedia Point総体における潜在した差異とは、超越的差異[i*(-i)]のはずである。しかし、差異と同一性の間には境界が発生している。否定・排除・隠蔽する境界線である。(同一性の限定する線、周囲circumferenceと呼べるのかもしれない。この線と形態とを比較したい誘惑があるので、後で検討したい。)
 この境界線は、同一性構造とも言えるだろう。これは、超越論的である。だから、超越論的同一性である。すると、超越論的差異とはどうなるのだろうか。潜在している差異は、超越的差異である。
 とても微妙な事態を扱っているのであるが、超越論的差異とは、超越論的同一性=同一性構造から認識される超越的差異のことではないだろうか。超越論性という視点から見られるので、超越的差異が超越論的差異と認識されると考えられるのである。言い換えると、超越論的同一性=同一性構造という超越論的位置から認識される超越的差異が超越論的差異である。
 図式化して整理しよう。

1.超越的差異/2.(超越論的差異)/3.超越論構造/4.同一性

としよう。あまり適切な図式ではないが、ポイントは、1.超越的差異と2.超越論構造との境界に超越論的差異が発生することである。そして、これが、ハイデガーの本来的存在ないしは存在である。だから、図式は次のようになる。

1.超越的差異/2.(超越論的差異=本来的存在・存在)/3.超越論構造/4.同一性(非本来的存在) 

この図式は十全ではないが、アウトラインは理解できるだろう。現存在とは、2〜4の領域のことになるだろう。
 さて、問題は、超越論的差異=本来的存在=存在のことである。超越論構造は、また、同一性構造でもある。(先に、パラドクシカルな同一性構造と呼んだものであるから、両義的同一性構造とも言えよう。)だから、超越論的差異とは、換言すると、同一性化された超越的差異ないしは差異である。この同一性化が、いわゆる、形而上学を構成していると言えよう。本来、純粋差異である超越的差異が、同一性に汚染されるのである。ということで、超越論的差異=同一性的差異ということになる。
 ここで、ポスト・モダン哲学について考えると、それは、超越論的差異=同一性的差異をターゲットにしていたと考えられる。(だから、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学なのである。)ドゥルーズ哲学は、基本的には、この超越論的差異=同一性的差異を説く哲学であると考えられるから、ハイデガー哲学の亜流ないしは継承である。そして、デリダ哲学であるが、それは、微妙なところがあるが、基本はやはり超越論的差異=同一性的差異に存すると思われる。もっとも、超越論的差異=同一性的差異からのズレとしての差異をデリダは差延等の用語で示唆するのであるが、それだけに留まっているのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、超越論的差異=同一性的差異の彼岸である超越的差異(=虚数的差異)へ突破することができるのであるが、デリダないしは初期デリダはそこへは達していないと考えられるのである。なぜなら、デリダはフッサールの発見した超越性を否定しているからである。ここにデリダの陥った袋小路があったと考えられる。ハイデガーの到達した超越論的差異=存在を乗り越えるために、脱同一性を意味する差異である差延を構想したが、それは、実質的概念というより、戦略的な概念であったと考えられる。超越論的差異からの脱却を目指しながら、自分で脱出口を塞いでしまったので、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 では、差延とは端的に何なのだろうか。簡単に言えば、同一性に常にズレをもたらす差異のことである。永遠の生成する差異である。だから、ニーチェ的であり、ヘラクレイトス的である。そう、確かに、意味合いとしては、そのようなものであるが、それを明晰に理論化できなかったのである。確かに、同一性に対して、差延を持ち出して、脱構築することはできる。つまり、同一性に対しては、差延を提示して、常に異議申し立てできるのであるが、それが、皮相に終っていると考えられる。
 つまり、超越性は現前と結びつくという考えから、デリダは超越性を否定してしまい、結局、脱同一性の差異である超越的差異への突破口を喪失したと考えられるのである。だから、同一性に対して、ただ、形式的な差延を突きつけて、戯れを行うことになったと考えられるのである。
 では、デリダの差延の発想の源泉はどういうものだったのだろうか。いったいデリダは差延でどういうイメージないしはヴィジョンをもっていたのだろうか。それは先に述べた永遠の生成する差異のイメージであろう。哲学的には、ハイデガーにニーチェを継いだようなものではなかったろうか。存在を超えた差異をイメージしていたのではないろうか。あるいは、ハイデガーとニーチェの間を目指していたのではないだろうか。しかし、何度も言うが、フッサールの超越性を否定したので、その差異の理論化は不可能になったのである。
 では、フッサールの超越性の否定とはどういうことなのか。やはり、現前の否定がポイントである。デリダは超越性を現前として否定したと考えられる。しかし、現前とは同一性化であろう。確かに、フッサールの場合、超越性と同一性とが結びついていた。しかし、それは、二重性であったのをデリダは看過した。そして、差異と同一性との混淆態である差延を提起した。脱同一性としての差異(差延)を説くが、しかし、同一性から超越できない差異である。
 デリダの二重性がある。一方は、永遠の生成する差異であり、一方は超越性の否定である。問題は後者にある。デリダは、フッサールの超越性を現前として否定するのである。現前とは同一性化である。つまり、フッサールの超越性に同一性化を見て、否定したのである。しかし、デリダは超越性自体を透視的に看取することはできなかったのである。あるいは、デリダは超越性を憎んでいたために、超越性を否定したと考えられる。超越性とは高次元を意味する。そう、デリダは高次元を嫌ったのであろう。PS理論で言えば、実軸の次元に拘ったのである。現象の次元に拘ったのである。これは、内在の思想ではないだろうか。そう、思うに、悪い意味で、ニーチェの思想の影響があるようである。ニーチェの袋小路は、やはり、超越性の否定にあったと思う。自己矛盾しているのである。超越性への志向がありながら、超越性を否定したのである。このパラドクスの意味は何であろうか。
 問題がニーチェになったが、それは、やはり、超越論的構造にあると思う。それも、超越論的差異を含んだ超越論的構造である。それは、超越性を示唆すると同時に、それを閉ざすような構造である。自己矛盾した構造である。示唆と否定の極性をもっているのである。ニーチェはこの領域で思索したのである。だから、示唆の極では、永遠回帰が生まれ、否定の極では、形而上学や超越性の否定である。
 ということで、この両義性は、おそらく、デリダにもある。だから、永遠の生成する差異と同時に超越性の否定があったのだろう。結局、超越論的構造ないしは超越論的差異の領域にあったから、デリダは、超越性を否定して、両義的な差延の思想に留まってしまったと考えられる。これは、ドゥルーズの場合もほぼ同様であるが、ドゥルーズは、ニーチェやデリダより、同一性構造に傾斜していると考えられる。
 後で、整理したい。

p.s. 結局、ハイデガーとデリダの関係はどうなのか、である。ごちゃごちゃと書いたが、明確に言えば、超越論的差異自体が両義的であり、超越的差異への示唆と同時に、同一性構造への志向性をもつという両義的領域である。だから、デリダやドゥルーズは、超越論的差異=存在を説いたハイデガー哲学の後塵を拝しているのである。ハイデガー哲学の展開である。そう、ハイデガー哲学の展開としてのポスト・モダン哲学である。
 ところで、巨視的に見ると、西洋哲学ないし西洋文化は、いかにも、超越論的構造が支配的であったのかよくわかる。キリスト教も結局、超越論的構造の同一性が支配的なのである。つまり、イエス・キリストという同一性が支配しているのである。これは、いったい何なのか。これは、西洋言語の性質が大きいのかもしれない。
 それに対して、東洋は、例えば、禅のように、無を説いたが、それは、超越論的構造を空にして、超越性を喚起させる方法だと考えられる。そう、東洋は超越性の文化なのである。西洋哲学は、新東洋哲学へと転生するのだろう。プラトニック・シナジー理論が、東洋である日本で生まれたのは、この点で必然性がある。西洋では生まれ得なかったと考えられる。
 思えば、グローバリゼーションも超越論的構造による。個人主義・自由主義が同一性=交換価値に囚われているのである。超越的差異へと到達したとき、脱グローバリゼーションとなるだろう。差異共振主義の世界へと進化するだろう。


   




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カレンダ
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