ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと「超越論的差異」的同一性:PS理論とポストモダン |
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2007年08月29日(Wed)
ハイデガー哲学を超えて:Media Pointと「超越論的差異」的同一性:PS理論とポストモダン
今日は、比較的涼しかったが、タリーズに行って、『存在と時間』の未読部分を読みつづけた。そして、思索して、本に書き込んだことを、以下、記したい。論述に乱れたところがあると思うが、ほぼそのまま転記したい。
さて、一言あらかじめ述べておくと、これまで、ハイデガー哲学について考察してきたことは、評価において、極端に揺れ動いている。最初は、ポスト・モダン哲学の先駆としてのハイデガー哲学と捉えたり、あるいは、PS理論の先駆と考えたりしたが、昨日、ハイパーな近代主義ではないかと考えた。そして、今日、良心の呼び声に関わる箇所を読んで、考え直した。問題点は、本来的存在のもつ単独性と世界の道具性のパラドクシカルな二元性である。単独性があるならば、ポスト・モダン的であるが、世界の道具性は、同一性を意味して近代主義的である。この齟齬をどう解決するかにあったのである。私は、この両極に揺れ動いたと言える。しかし、今日、これを統一する視点がないかと考え込み、思いついた仮説を以下に記したい。尚、〔 〕は転記の際、補足したものである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現存在をM.P.[Media Point]とするなら、垂直共振性が水平共振性を帯びるはずである。しかし、現存在には、水平共振性が欠損している。だから、現存在は正当なM.P.ではない。水平共振性を欠落させたこの現存在とは何か。 思うに、現存在は超越論的差異である(超越的差異ではない)。それは、虚軸的MP[Media Point]であり、実軸的MPが排除されている。だから、水平共振性は発生しない。 しかしながら、現象する存在者であるから、当然、実軸性を帯びている。世界内存在である。しかし、ここには水平共振性は欠落して、相互同一性〔ないしは、間同一性、又は、単に、同一性でもよい。ここで、相互同一性というのは、ハイデガーの配慮的気遣い、ないしは、道具的世界の様態である。〕が主導的である。つまり、同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。これをどう見るのか。思うに、存在者ないしは世界内存在の観点では、ハイデガー(以下、H.)は、実軸的MPで考えているように思える。つまり、虚軸的MPを排除している。 M.P.〔MP〕の意識は虚界と実界との交叉点にある。M.P. の意義は、だから、1/4回転にある。〔即ち、〕両者の交叉性をもった垂直から水平への転換にある。だから、虚軸的MPとか実軸的MPというのは、本来正しくない言い方である。それは、M.P.自体を破壊している考え方である。 ならば、Hの考え方をどう見るべきか。一方には超越論的差異があり、他方には同一性構造ないしは間同一性構造が支配している。Hの思想には、M.P.はない。似て非なるものである。 超越論性〔超越論的差異〕と同一性の二元論として、現存在がある。両者の交わらない二元論的現存在である〔これは、不正確である。現存在においては、交わるのである。〕。 思うに、超越論性〔超越論的差異〕と同一性との結合を考えないわけにはいかない。超越論性〔超越論的差異〕が同一性化するのだ。そして、同一性から脱却して、超越論性〔超越論的差異〕へと復帰する。 思うに、同一性構造とは、超越論的二項対立構造ではないのか[この考えが今日思いついたことである。新しい発想である。]。この超越論性と超越論的差異が結びついているのではないのか。より的確に考えると、同一性化における超越論性と同一性との二元論的発生がHの哲学の意味ではないだろうか。 ここで、PS理論から見ると、M.P.からの同一性の形成において発生する事態を表現したのが、Hの哲学ではないだろうか。つまり、差異[共振的差異ないしは差異共振性]を排斥するようにして、超越論的同一性構造がここに発生して、一面には超越論性が、他面には同一性が生起(現象)するのではないか。[即ち、]一面では超越論的差異であり、他面では二項対立的同一性である。Hは、前者を本来的存在と、後者を非本来的存在と呼んでいるように考えられる。 そう見れば、端的に、Hの思想は、構造主義に通じる面がある。そして、ポスト・モダン哲学にも通じる面がある。とまれ、Hの思想は同一性の思想の延長にあるだろう。超越論的同一性である[この点は、少し不正確になっている。言うならば、「超越論的差異」的同一性である。]。(それに対して、フッサールの哲学は、超越性ないしは超越的差異がある。ドゥルーズの思想は、ほとんどHの思想である。又、デリダの脱構築主義もほとんどHの思想である。[つまり、] Hの存在=時間[根源的時間]を差延に置き換えたように思える。) 問題は超越論的差異と同一性の統一性[言わば、「超越論的差異」的同一性構造]を破壊することにあるのである。Hの哲学はフッサールのブレークスルーを無視したものの「ポスト・モダン」であった。そう、構造主義を超えて[時間的順序が反対となるが]、近代主義的超越論的構造を明らかにした。ドゥルーズやデリダのポスト・モダン[哲学]は、それを踏襲しているのに過ぎないと考えられる[のである]。 不連続的差異論が超越論的差異と同一性の統一体[「超越論的差異」的同一性構造]を破壊した[と考えられる]。差異を同一性から解放した。そう[、]超越的差異[超越論的差異との区別は絶対的である]の発見である。そして、PS理論[プラトニック・シナジー理論]はそれに即非性を与えた。つまり、超越的即非差異[超越的差異即非]の発見である。[即ち、]ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン[哲学]である。 結局、構造主義/ポスト・モダンの壁を突破したと考えられる。PS理論[プラトニック・シナジー理論]はフッサールの超越性を救い上げる形で、鈴木大拙の即非論[ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」の思想もほとんで同じである]を取り込んで成立したのである。 言い換えると、PS理論は、不連続的差異論が構造主義/ポスト・モダン[哲学]の壁を突破し、それによってフッサールの超越性を救い出し、取り出した超越的差異に、鈴木大拙の即非論を取り入れることで、いわば、超越的差異即非論として成立し、さらに、Kaisetsu氏による数学化[(+1)*(-i) ⇒+1]によって、数理/科学化[数理科学化]された[のである]。
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