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2007年08月28日(Tue)
『存在と時間』の存在:存在の「良心」と道具的世界:存在は唯一者=エゴイストではないか?
先に、ハイデガーの世界には、他者が不在であることを述べた。ハイデガーの世界は道具的連関が支配する。そのような世界における現存在が世界内存在である。そして、そのような存在者として、実存的である。
また、現存在は、死へとかかわる存在であり、本来、単独的である。ここが、本来的自己であり、存在を意味しよう。しかし、存在自体は判然としないように思える。 他者が不在であると言ったが、強いて言えば、死が他者である。しかし、ハイデガーの死は、観念的な死だと思う。想念の死だと思う。だから、真に他者とは言えないだろう。 とまれ、ハイデガーの存在ないしは自己は、単独性であることは確かである。固有の自己である。しかし、差異や他者がそこには不在である。これは、どういうことだろうか。責めある存在や良心の呼び声についてハイデガーは述べている。おそらく、それが、ハイデガーの他者ではないだろうか。良心が他者である。これが、存在の他者であろう。 私が言った他者の不在とは、いわば、外的他者の不在である。世界内他者と言いたいところだが、ハイデガーの世界は、道具的世界なので、基本的に、外的他者が不在であるので、そう言えない。 だから、内的他者として良心が存在していると言えようが、それが、水平化されていないのである。水平的世界は、道具的世界であり、自我(自我中心主義ではなく)の世界である。 すると、ハイデガー哲学は、奇妙な分裂というかパラドクスが支配していることになる。いわば、自己存在の他者としての良心と道具的世界とのパラドクスである。つまり、良心と道具的世界との結びつきがないということである。簡単に言えば、良心の存在と道具の世界との分離的二元性である。 私は、これは、錯誤であると思う。良心の存在があるならば、それは、本来、外的世界の他者にも向けられるからである。しかしながら、外的世界は、単に、道具の世界であり、他者が不在なのである。ということは、ハイデガーの世界概念が偏頗であるということである。それは、誰が見てもわかるだろう。その世界には、道具しかないからである。一方では、良心という存在、他方では、道具だけの世界。なぜ、世界に他者が不在なのか、理由がわからない。 少なくとも、ハイデガーの存在は閉ざされた、閉塞した存在であることは間違いない。外界に他者が不在であるというのは、正に、唯我的である。これは、きわめて尊大であろう。悪魔的というか、一種、凶悪犯罪に結びつくような精神である。そう、外的他者を前提としない良心とは何だろうか。他者なき良心とは何だろうか。 それは、端的に不毛であろう。偽善・欺瞞的な良心ではないだろうか。良心であるとの思い込みないしは妄想ではないのか。(ここからも、ハイデガーはパラノイアではないかということは、考えられることである。) とまれ、世界に他者が不在であることは、決定的に、異常である。そう、他者を無視しているのである。究極の傲岸不遜さであろう。やはり、ここには、差異の否定があるのである。なぜなら、外界は、差異が原初的投影があり、地の上に、同一性の絵が投影されるのであり、他者を否定するということは、前提の差異を否定することであるからである。 思うに、この差異の否定が、「良心」を発生させているのではないだろうか。言い換えると、ハイデガーの存在とは、差異の否定自体であり、否定された差異の蠢きとして、「良心」(良心という思い込みないしは妄想)があるのではないのか。 差異の否定、究極的な同一性ということで、ハイデガー哲学のパラドクスが説明できるように思える。つまり、存在とは、差異の否定であり、それが、外界の他者の不在を発生させていて、また、差異の否定による同一性が道具的世界を形成していると思うのである。つまり、端的に、エゴイストの哲学である。先に、シュティルナーの唯一者とのいくらかの類似を述べたが、確かに、エゴイストという点では、共通する。そして、確かに、ハイデガーの存在は、唯一者と呼ぶにふさわしいだろう。
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