ハイデガーの『存在と時間』に見られる問題点:配慮的気遣いと他者の不在






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2007年08月27日(Mon)
ハイデガーの『存在と時間』に見られる問題点:配慮的気遣いと他者の不在
今は、余裕がないので、引用しないが、ハイデガーの『存在と時間』は、後半、他者不在の哲学になっていると考えられる。
 前半においては、他者への顧慮と事物への配慮の二面があったが、後半は、後者である配慮的気遣いのみが現存在の非本来的自己として取りあげられているのである。
 先に、私は、ハイデガー現象学には、差異共振性がないのではないかと提示したが、やはり、それは正しかったと思う。
 ハイデガーの説く本来的自己は、だから、他者なき自己となり、一種唯我論的である。これは、キルケゴールやニーチェの単独性から後退している。キルケゴールには、神という他者があったし、ニーチェには、未来の他者があった。
 いったい、これをどう考えたらいいのだろうか。配慮的気遣いとは、事物、物質への配慮であり、人間は対象となっていないのである。自己以外の人間(他者)が消えているのである。思うに、ハイデガーの本来的自己とは、同一性志向性をもつと言えるが、それが、物質的同一性志向性なのである。モノ(道具等)への同一性志向性なのである。
 これは、きわめて異常である。また、不気味でもある。人間、他者が消えているというのは、本来的自己に差異がないということになるだろう。差異があれば、差異共振性が生起するからである。
 そう、先に触れたが、シュティルナーの唯一者に似ているが、それよりはるかに無機質であり、不気味である。
 冷血な、というか、無血的な、同一性志向性がある。ハイデガーの自己は、モノと自分しか見ていないようだ。では、ハイデガーの自己(本来的自己)とは何なのか。思うに、シュティルナー的なエゴイストをはるかにドライにした、無機的にした、唯一者・単独者ではないだろうか。思うに、それは、ハイデガーの風貌や、文体の無機質さにも通じるものである。
 そう見れば、ナチスに関与したのも、驚くことではない。ナチスの冷血さに、惹かれたのではないだろうか。そう、ハイデガー哲学は、悪魔的である。確かに、異常に明敏な分析的知性があるが、共振的精神が欠損しているのである。
 後で、フッサール現象学の意義について、簡単に述べたい。
 
p.s. フッサール現象学にあって、ハイデガー現象学にないものは何か。私の直感では、フッサールは、差異を、それも、純粋差異を発見した。しかし、フッサール自身の囚われから、それを、同一性理性認識をもつ超越論的主観性としたのである。言い換えると、フッサールの実際に把捉したものと、言語化したものとは、別物なのである。よく作家には生じる二重性であるが、それと同質だと思う。私はフッサールは、差異の志向性を発見したのだと思う。これは、 Media Pointである。しかし、それを同一性の志向性に言語化したのである。
 では、その発見に対して、ハイデガーは、どうしたのか。ハイデガーはフッサールの差異の志向性=Media Pointを看過している。そして、同一性の志向性をもつ自己を存在として捉えたのだと思う。
 つまり、ハイデガーには、差異は元々不在であった可能性がある。即ち、同一性自己がある。それが、外界を気遣う(関心をもつ)。そこには、道具的存在や事物がある。しかし、それらに気遣う自己は、非本来的自己である。だから、それらへの気遣いを無くして、本来の自己へ帰還する必要がある。本来的自己とは同一性自己である。だから、ほとんどヘーゲル哲学である。ハイデガーの使用する、配慮的気遣いを意味する頽落は、ヘーゲルの疎外に通じるだろう。そして、ヘーゲルが否定の否定である疎外の否定としての精神への復帰が、本来的自己への復帰である。ただ、死へかかわる存在という味付けがあるのが違いだろうか。
 ハイデガーは確かに、異様に明敏な分析的知性がある。しかし、叡知はほとんどないだろう。思わせぶりな、変奏曲のような内容で、煙に巻いているのだ。ペテン師ハイデガーという気がしてきた。おそらく、ハイデガーは、一種精神病ではなかったのだろうか。そう、パラノイアである。これは、近代主義の病気である。パラノイアと考えると、『存在と時間』のもつ唯我論性が理解できるのではないだろうか。
 また、時間論であるが、それは、差異(Media Point)の時間論ではなくて、同一性の時間論に過ぎないのではないのか。(時間論については、後で再考する。)
 
p.p.s. ハイデガーの唯我論性であるが、率直に言えば、私のことを考えると、わからないでもない。私は若いころ、自分以外誰も存在せずにも、生きていけると思ったものである(p.s. 最近、そのような考えがふと浮かんだことはあったが)。他者不在である。それは、同一性構造がもたらす唯我論性だと思う。近代主義の唯我論性である。これは、無機的であり、不気味である。
 とまれ、ハイデガーは、フッサールが開拓した現象学の地平をすぐに閉ざしてしまった人物ではないだろうか。私は、ハイデガー現象学はポスト・モダン哲学の先駆であると言ったが、それは訂正したい。ハイデガー哲学は近代主義の反動である。現象学の偽装をもったヘーゲル主義である。ハイデガーがテクノロジーについて論じるのは、当然であろう。近代主義者なのだから。
 では、ポスト・モダン哲学はどういうことになるのか。構造主義を乗り越えるために、きわめて困難な状況にあったと言えよう。本来、フッサール現象学を批判的に継承すべきなのに、例えば、デリダは、フッサールを誤読して、否定的に理解して、差異と同一性の混合する様態を提示したのである。差延である。そして、差延から、同一性主義を批判したのである。
 ドゥルーズは、いわば、通俗的なプラトニズム=同一性主義を批判して、差異を説いたが、それは、連続的差異=微分であった。
 結局、フッサールの差異を救い出せばよかったのであるが、それができなかった。なぜだろう。思うに、デリダもドゥルーズも、フッサールの超越論的主観性の示唆する超越性を怖れていたからではないだろうか。表現が微妙なのだが、超越的差異(超越論的差異ではないだろう)を怖れていたと思う。彼らは唯物論的だったと思う。そう、フランス左翼の唯物論が彼らには支配的ではなかっただろうか。


   




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カレンダ
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