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2007年08月27日(Mon)
ハイデガーの「気遣い」とは何か:PS理論の視点から:水平的Media Pointとしての気遣い
想像するに、ハイデガーの言う「気遣い」とは、Media Pointにおける現象に対する志向性ではないだろうか。つまり、Media Pointにおける、「天」から「地」への下降の段階・過程において発現する志向性ではないだろうか。ここでは、垂直性から水平性へと志向性がシフトしているのである。そう、この垂直性から水平性へのシフトは重要なポイントである。虚点から実点への転換なのである。この実点としてのMedia Pointにおける志向性がハイデガーの「気遣い」ではないだろうか。
とまれ、このとき、差異が無意識に、外界に投影されるだろう。そして、その無意識の外界におけるなんらかの原対象に対して、主体は、同一性を投影するのである。そして、言語認識を形成するのでる。 では、それは、何を意味するのか。これまで、単に、Media Pointにおける同一性構造の投影と考えてきたのであるが、それ以前に、無意識の差異の投影があることを考えなくてはならない。 無意識の内に、差異が投影された外界空間がある。そこに原対象があり、それを言語同一性化する。思うに、投影された差異とは、主体に内在する差異であり、本来、主体はそれに共振している。明快にするために、投影される差異を自己差異としよう。それは、差異共振空間でもあろう。 その投影された自己差異ないしは差異共振空間において、外的他者が発生する。思うに、初期においては、主体は、外的他者に対して、自己差異ないしは差異共振空間を適用して、外的他者と共振しているのである。そして、その、いわば、差異共振化した外的他者に対して、言語同一性を適用して、外的他者を言語同一性認識する。 つまり、最初期においては、基本的には、同一性は差異を否定・排除・隠蔽していないのである。差異と同一性が一致するのである。これが、幼児のある基本的な体験ではないだろうか。 しかしながら、ある外的他者は自分に対して阻害的ならば、主体の差異共振的同一性認識は破れて、主体は反感的認識を形成するだろう。そう、差異共振的空間の否定様態がそこには成立するのである。そして、ここにおいて、自我主義が形成されると考えられる。自我は、差異共振的同一性認識の同一性において形成されているが、差異共振性が否定されて、自我主義ないしは自我中心主義が発生すると考えられる。それは、差異共振性を抑圧するのであり、同一性中心主義へと向かい、無明・世人となるのである。 以上のような視点から、再度、ハイデガーの「気遣い」ないしは「気遣いの構造」を考えると、それは、最初に述べたように、垂直から水平へと転化した志向性であると言えよう。ここでは、思うに、垂直への意識をほとんど忘却しており、水平・現象・外界へと志向性が向けられている。しかしながら、主体は差異であることは、変わらない。つまり、差異の志向性が、ハイデガーの「気遣い」である。これで、解明したこととしたい。 先にも触れたが、ハイデガーの「気遣い」は、本来的自己を形成するために、単独化するのであるが、それは、水平化した差異、即ち、同一性化した差異における単独化ということだと考えられる。これは、キルケゴールやニーチェの単独性と同質であろう。つまり、差異が同一性から切断されずに、同一性=自我化をもったままの、差異への回帰がその単独化だと思われるのである。だから、そこでは、差異本来の共振性が不明確だと思われるのである。 言い換えると、単独性が不連続的差異になっていないと考えられるのである。だから、一種唯我論的になると思われるのである。そう、マックス・シュティルナーの唯一者に近くなると思われるのである。 私の見るところ、ハイデガーの「気遣い」には、差異の志向性のもつ差異共振性が欠落しているのではないかという危惧があるのである。 そのような見方では、ハイデガー現象学は、ポスト・モダン哲学そのものである。 とまれ、少し整理すると、Media Pointの水平化において、差異の志向性は、同一性構造をもっている。つまり、水平的Media Pointである主体は、差異と同一性の両義・相補性構造をもつのである。差異的同一性の志向性とも言えるだろう。この視点からハイデガーの「気遣い」を見ると、それは、ほぼ差異的同一性の志向性に当たるが、しかしながら、差異と同一性の両義・相補性からは真に脱却せずに、差異と同一性の両義・相補性構造に留まって、単独性=本来的自己を説いているように思えるのである。端的に、ハイデガー現象学には、差異が本来もつ差異共振性への志向性が乏しいと感じられるのである。差異と同一性の両義・相補性構造が強いとは言える。水平的Media Pointの哲学と言えるのではないだろうか。 |
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