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2007年08月26日(Sun)
PS理論から、フッサール現象学とハイデガー現象学を考える:試論1
芦田氏の論考から刺激を受けて、もう一度、PS理論から、現象学の位置づけを行いたいと思う。勿論、大雑把なアウトラインを描くだけであるが。
先ず、フッサール現象学のブレークスルーを評価しないといけない。いったい、フッサールは何を発見したのだろうか。私の直感では、フッサールは、超越論的意識を発見したのである。それを超越論的主観性と呼んでいるが、超越論的意識の方が明快であろう。そして、それは、私見では、超越論的差異である。しかし、フッサールは、それを、差異とはせずに、原同一性として理解してしまったと思う。本来、差異であるのに、原同一性としてしまったのである。 ここで、ハイデガー現象学とつなげるならば、超越論的意識=超越論的差異(以下、超越論的差異意識)とは、ハイデガーの存在である。そして、それは、PS理論では、Media Pointである。(私自身もあいまいなところがある。直感では、超越論的差異意識は、イデア界的である。即ち、i*(-i)である。しかしながら、それは、本来、不可知の根源的世界の様相である。だから、超越論的差異意識は、イデア界に帰属するのではなく、やはり、Media Pointの意識とすべきである。)つまり、フッサールの超越論的差異意識=ハイデガーの存在=PS理論のMedia Pointということである。 フッサールは自分が発見したものを正確に理論化できなかったと思うのである。私は、フッサール現象学には二重性があると言ったのがそれに当たる。即ち、超越論的差異意識を同一性意識と合一させているのである。ノエシス/ノエマは、同一性意識を指している。この点をPS理論から見ると、Media Pointの虚軸・実軸の交叉点における交叉を無化して、虚軸=実軸にしてしまっているのである。混乱である。 ハイデガーは、それに対して、フッサールの発見したものを、正しく、存在という術語で察知したのだと思う。そして、存在論が生起したのである。思うに、現象学的存在論と呼ぶべきである。だから、ハイデガー現象学的存在論は、フッサール現象学の正嫡である。 ここで、まったくの私の推測だが、『存在と時間』が未完に終ったのは、現存在から存在へのアプローチが壁にぶつかったからではないだろうか。思うに、ハイデガーは、慧眼にも、存在と存在者の差異の裂け目(「一つの裂け目」)を把握している。そして、Media Pointである存在の単独性・特異性をも理解している。これは、キルケゴールやニーチェの単独性を継承していると言えよう。問題は、存在=Media Pointのイデア的差異性の様相なのである。PS理論は、差異の即非性【i*(-i)】を根源に見ている。思うに、存在=Media Pointの単独性・特異性までは進展したが、それから、存在=Media Pointの差異即非性へと展開できなかったから、未完に終ったのではないだろうか。 後期ハイデガーは、差異共振性を理解していると思う。古代ギリシアの神殿への理解は、それを指示していると思う。結局、現存在からのアプローチと、存在自体からの発想が統一できなかったのではないだろうか。 思うに、フッサールの超越論的差異意識を真に理解すれば、そこからは、差異即非性ないしは、差異共振性は考えられるのである。ということは、ハイデガーの存在とは、実は、真に他者、外的他者を見ていなかったのではないかという疑問が浮かぶのである。 つまり、こういうことである。存在=Media Pointの同一性構造(連続的同一性構造)から、自我=世人(非本来的自己)が発生する。しかし、現存在が、その単独性へと帰還するとき、つまり、本来的自己へと帰還したときは、当然、自我=世人は解体する。そのとき、差異即非性ないしは差異共振性が発生するのである。これは、PS理論的に考えていることであるが。なぜなら、存在=Media Pointの差異とは、差異意識であり、他者である差異を志向するからである。つまり、差異即非・差異共振性がそこには発動すると言えるのである。 しかしながら、ハイデガーの現象学においては、単独性までは達するが、そこから、外的他者への志向性がないように思えるのである。確かに、垂直性が生起するが、水平性が解消しているのである。 ということは、ハイデガーの存在とは、実際のところ、Media Pointではないのである。それは、実際、同一性からは切断されていない差異・単独性・特異性ではなかったかと思えるのである。そう、ニーチェ的単独性・特異性に近いと思うのである。道徳・倫理が消えているのである。 そうすると、現存在から存在へのアプローチと後期ハイデガーの存在論への発想は、ある意味で通じているだろう。しかし、前者は、水平性から垂直性へであり、後者は垂直性のみである。この点で、齟齬はあったと言えよう。 とまれ、私が考えた存在=Media Pointの図式は破棄されなくてはならない。存在≠Media Pointである。 そうすると、フッサール現象学とハイデガー現象学の関係はどうなるだろうか。思うに、フッサールの超越的差異意識が、ハイデガーにおいては消去されているのである。フッサールにあった同一性への重なりを、ハイデガーが取り入れて、フッサールの超越論的差異意識を排除しているのではないかと思えるのである。 だから、間主観性や生活世界の発想が、ハイデガーには喪失していると思えるのである。言い換えると、ハイデガーの存在とは、Media Pointの実軸的ゼロ点に当たると思えるのである。後期ハイデガーは、実軸的ゼロ点から、虚軸的ゼロ点を垣間捉えようとしているのではないだろうか。つまり、あくまで、ハイデガーは、同一性からは切断されていなかったと思えるのである。 その視点から、ハイデガーとデリダの関係を見るときわめて興味深い。意外に両者は似ているのである。デリダは、フッサールの超越論的差異意識を否定して、差異と同一性の連続態としての差延を説いていると思うし、ハイデガーも、差異(存在)と同一性の連続態を現存在として説いているのである。ならば、ハイデガーとデリダはどう異なるのか。思うに、デリダには、後期ハイデガーの存在の超越論的志向性がないのではないだろうか。 以上は、まったくの独断的私見であり、空想的試論に過ぎないことをお断りしておく。 p.s. 『存在と時間』における現存在の存在のもつ「気遣い」という概念・観念であるが、これは、思うに、フッサールの志向性に相当すると考えられるが、ならば、「気遣い」に、差異共振性(差異即非性)があるかどうかが問題である。直感では、ないと思う。「気遣い」は、あくまで、同一性の意識のように思えるからである。差異の意識ならば、差異共振性が発生するのである。
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