フッサールの志向性とハイデガーの気遣い:差異・即非・同一性志向性としての気遣い:開かれたM.P.






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2007年08月15日(Wed)
フッサールの志向性とハイデガーの気遣い:差異・即非・同一性志向性としての気遣い:開かれたM.P.
ハイデガーの『存在と時間』におけるキー・コンセプトの一つが、気遣いである。現存在とか世界内存在とかの、難しい抽象語の中にあって、「気遣い」というのは、日常の言葉でもあり、なにかユニークである。
 この言葉は現存在の存在の様相を意味する。こういうと分からなくなるだろう。とまれ、私はこの言葉を、PS理論から説明したいと思った。今ここで、ハイデガー現象学を読みとるPS理論的概念地図を与えるならば、暫定的だが、Media Pointが存在であり、世界内存在は、Media Pointからの現象化した様相である。
 これでは分かりにくいから、端的に言うと、「気遣い」とは、不連続性と連続性との即非様態であるMedia Pointから発動した現象化における個体の「志向性」である。この「志向性」は、フッサールの志向性を、言わば、敷延したもので、差異・即非・同一性様相としての志向性ということになると考えられる。ハイデガーが配慮的な気遣いというのは、同一性的志向性(モノや事物への志向性)であり、顧慮的な気遣い(他者を感知する志向性)というのは、差異的(差異共振的志向性)ということになるように思える。
 ということは、差異・即非・同一性としての志向性(又は、Media Point的志向性)は、差異と同一性が即非様相として存するのであり、ここでは、差異と差異とは、同一性が入っても、共立・共生・共振していると考えられる。つまり、これまで、私は、Media Pointから、第一義的に、同一性志向性が発動すると考えていたが、それを訂正して、差異と同一性の即非共振する志向性、即ち、差異共振的志向性が現象界においても発現すると考えたい。
 しかしながら、差異(差異共振性)が優位になるとき、同一性が優位になるときが存すると考えられる。差異が優位になり、同一性が劣位になるとは、どういうことなのか。同一性が優位で、差異が劣位になるというのは、これまで、近代合理主義の様態であると考えてきたので問題はない。
 差異優位、同一性劣位とはどういうことなのかと考えると、それは、差異共振性が優位であり、同一性的支配が劣位である。これは、結局、Kaisetsu 氏が説くメディア共鳴Media Resonanceの様態が主導的になり、言語や知性による支配が乏しいということではないだろうか。そう、思うに、Media Pointが開いている様態と言えるのではないだろうか、即ち、Open Media Point(開かれたMedia Point)と言えるのではないだろうか。とにかく、そう作業仮説しよう。(ならば、同一性優位のときは、Closed Media Point《閉じられたMedia Point》である。)
 差異優位、Open Media Point(開Media Point)の場合は、主体、又は個体は、イデア界・虚界に接しているのではないだろうか。イデア界・虚界の「光」ないしは超光に接しているのではないだろうか。思うに、古代ギリシアの時代は、そのような状況ではなかっただろうか。さらに言えば、父権文明以前の母権文明においては、そのような状態ではなかったのか。
 私は、差異優位、Open Media Pointの場合、歴史的には、母権的文明が中心であったと思うのである。神話で言えば、女神支配の時代である。前アーリア民族文化の時代である。また、ハイデガーの「存在の開けた明るみ」となにか神秘的な言い方をしている事象は、このOpen Media Pointにおける様態を指しているのではないだろうか。
 とまれ、以上のように作業仮説して、考察を進めよう。結局、Media Point志向性が差異と同一性の両面をもっていることで、これが、ハイデガーの気遣いと等価ではないかということである。
 そこで、近代合理主義においては、同一性志向性が優位となり、差異志向性が劣位となる。そして、ついには、同一性中心主義となり、差異が否定・無化される。これが、近代主義の極北である。近代的弱肉強食であり、そして、現代である。
 ポスト・モダンは、これに対して、差異志向性を説いたというか、説こうとしたのである。ドゥルーズ哲学の場合は、差異と同一性が連続化していたし、デリダ哲学の場合は、差延が同一性へと連関していたと言えよう。結局、純粋差異を、ポスト・モダン哲学は取り出すことができなかったのである。しかしながら、私見では、ハイデガー現象学は、存在概念によって、ほぼ純粋差異を捉えていたように思えるのである。PS理論は、純粋差異を掬い上げて、差異と同一性との即非的調和へと飛翔したと言えよう。
 とまれ、PS理論によって、明確に、Media Pointが新たに開くことができたと言えるのではないだろうか。このNew Open Media Pointによって、Media Pointのエネルゲイアが流入し、メディア共鳴も活性化されるようになるのではないだろうか。あるいは、差異共振化が賦活されるのである。
 経済で言うと、資本主義は、同一性=貨幣=資本経済であった。同一性が優位となり、差異が劣位となってきたのである。同一性は、唯物論と結びつき、物質主義中心の経済であったと言えよう。
 しかるに、差異共振化が生起すると、差異共振的価値が中心化されて、差異共振性の視点によって、投資されるようになるはずである。実際には、同一性資本主義と差異共振資本主義とが併存すると思うのである。資本主義を同一性経済とするなら、差異共振経済は資本主義ではない、それは、脱資本主義である。即ち、差異共振的脱資本主義である。
 例えば、格差という事態は、資本主義=同一性経済から生じるのである。19世紀における富裕者と貧困者の格差はこれで説明ができるのである。差異共振性の観点で見ると、富裕者と貧困者は対立ではなくて、両者の共振が価値であるということになるのである。全体の富を富裕者と貧困者との差異共振価値に使用することで、社会全体が富むことになると考えられる。例えば、貧困者に対する減税によって、貧困者の家計を潤し、また、富裕者への増税によって、社会全体の富を増加させるのである。問題は政治や行政である。差異共振政治、差異共振行政とならなくてならないだろう。私腹を肥やすことは、同一性=自我主義であり、差異共振価値を損なうのである。
 差異共振価値へのパラダイム・シフトが必要である。

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