近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際






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2006年12月07日(Thu)
近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際
繰り返すと、先の考察から、近代的自我が、差異を否定する根拠が明確になってきた。極めて単純である。中世・封建時代における他律的道徳が、社会・経済・文化変動によって、崩壊して、個体が、いわば、野放しにされて、自我欲望のまま、言動するようになったということが根因ということである。つまり、中世・封建時代の「倫理」は、他律・外在的であれ、それは、内観性(-i)をもっていたと考えられるが、この崩壊により、主観が内観から離脱して、外観に向けられて【自我投影して、-(-i)】、自我欲望的になった【i*-(-i)⇒-1】ということである。明日野氏の言葉では、倒錯となったのである。闇となったのである。
 この内観を離脱して、外観中心になった近代的自我の力学をここで、明確にしたい。これまで、何度も試論ないし思考実験してきたが、ポイントは、陽認識i が陰認識-iを否定することにある。この力学は、主体投影(自己投影・自我投影)で説明できると考えられる。即ち、反復するが、主体である陽認識iが他者 -iを理解しようとするとき、必然的に、主体の形式である陽的同一性を他者に投影すると考えられるということである。つまり、i*-(-i)⇒-1となるといういおとである。-(-i)の最初の-が、他者否定という記号である。別の記号で表記すると、i→-(-i)=-1である。→は、志向性であるが、他者への志向性が、否定的志向性、反差異・連続的同一性になっているのである。この陽認識は、陽同一性認識と言ってもいいだろう。そして、先には、光認識とも言ったが、これは、誤解・混乱を招くので避ける。正しくは、外観認識である。
 問題は、この陽認識・外観認識・心的認識が、陰認識・内観認識・身体認識を排除することである。あるいは、即非認識、陰陽認識を排除することと言ってもいい。これは、正に、デカルト合理主義の問題である。明晰な観念が、不明晰な観念を排除するという問題であるからである。
 ここで、思考実験しよう。中世的ヒエラルキー価値観から解き放たれ、野放しにされた《個》を想定しよう。これが、近世・近代初期の主観の様態だと考えられよう。不安、拠り所の無さ、頼りなさ、等があるだろう。デカルトやパスカルを襲ったのもこのような一種実存的な不安と考えられる。つまり、《個》の基盤を何処に置くかの問題なのである。もはや、外在・他律的な価値観は崩壊したのである。そう、「神の死」があったと言えるだろう。この、言わば、剥き出しの《個》の様態とは、実は、無垢の即非の様態であると思われるのである。つまり、「わたし」は「わたし」だけであったり、あるいは、「わたし」は「他者」であったりするのである。つまり、A=A、あるいは、A=非Aである。揺らぎの様態であり、実に不安定である。一種、実存様態である。この、いわば、原《個》、素《個》、祖《個》の様態において、不安を解消するには、確固とした基盤が必要である。それを、デカルトは探究して、画期的なコギト哲学を打立てたのである。即ち、当然にも、コギト(我思う)を基盤にしたのである。そして、ここから、明晰で判明な観念だけが採用されて、あいまいな観念が排斥されて、近代合理主義の祖となったのである。デカルトは、差異哲学と近代合理哲学の両者の創始者である。
 思うに、確かに、個において、明晰で判明な観念を肯定したのは、画期的である。つまり、差異、単独者、特異性において、肯定した点がそうなのである。明晰で判明な観念とは、知的には、当たり前のことであり、なんの独創性もないだろう。しかし、個において、そうした点が本質的なのである。これが、近代、プロト・モダン革命である。即ち、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式で言うと、主体であるiが純粋・明晰化したと言えるだろう。これが、他者-iの主体同一化(i化)であると考えられるのではないだろうか。純粋i化である。これが、後のカントの超越論的形式ではないのか。これは、実は、反差異・連続的同一性形式である。そして、これが、時空間形式、物質形式へと展開していったと考えられるように思うのである。
 私の仮説では、デカルトは、この連続的同一性形式iで、他者-iを理性化しようとしたのである。つまり、連続的同一性「理性」ないし「知性」で他者・現象を合理化したのである。(コギト哲学は、i即非-iであると考えられる。)結局、i*-(i)⇒-1の近代的自我・近代合理主義が誕生したのである。では、何故、主体iは、他者-iを否定・排除・隠蔽するのか。それは、純粋にi化したからだろう。純粋同一性化は、他者を否定・排除・隠蔽すると考えられるのである。そして、この他者否定の近代合理主義が、西欧近代を形成していくのである。
 ここで、宗教改革(プロテスタンティズム)を考えると、それは、いわば、キリスト教原理主義である。私は、これをルネサンスに対する反動と見ているが、つまり、i*(-i)という即非エネルゲイアへのキリスト教的反動と見ている。つまり、即非エネルゲイアは、フィチーノのプラトン主義(新プラトン主義)や、ピコ・デラ・ミランドラでわかるように、異教を復活させるのであるから、キリスト教としては、見捨てておけなかったのである。(今日でも、ポスト・モダン的異教ルネサンスに対するキリスト教的反動があるだろう。)つまり、即非エネルゲイアをキリスト教信仰に取り込んだのが、プロテスタンティズムと考えられるのである。ここで、差異への反動が生起して、キリスト教的連続性が生まれたのである。【飛躍するが、後の文学における英米モダニズムにおいて、T.S.エリオットが、ポスト・モダン・コスモスへの反動として、イギリス国教会や古典主義を唱えたと言えよう。エリオットは、ポスト・モダンへの反動的作家と見るべきである。】数式から見ると、宗教改革とは、-(i)*(-i)⇒-1であろう。主体iを否定して、-(i)となっていると考えられるのである。ただし、これは、近代的自我と共通である。そう、近代的自我とプロテスタンティズム、そして、近代資本主義は、等価であると言えよう。
 結局、アポリア(難問)である「何故、陽認識は、差異・他者を否定・排除・隠蔽するのか」という問題への答えは、陽認識・視覚認識は純粋化すると、i中心となり、-iを排除するということとなる。ポスト中世の特異な時代において、《個》が剥き出しとなり、その実存的不安の「カオスモス」において、陽認識・視覚認識が純粋化されることになり、そのために、他者・差異-iが排除されたということである。
 だから、結局、否定・排除された-i、そして、さらには、即非エネルゲイアが復権を《無意識に》求めることになるのである。これが、反近代主義、ロマン主義、象徴主義、等々の文化運動である。これは、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。そして、「モダニズム」とは、これに対する反動である。つまり、ルネサンスというプロト・モダン=ポスト・モダンに対する反動として、プロテスタンティズムがあったように、文化的ポスト・モダン運動に対す売る反動として、「モダニズム」があったと考えられるのである。(ここで、ついでに述べると、文学や美術の芸術は、モダニズムの洗礼を受けているので、自身が反動となっているのに気づいていないと思うのである。だから、現代、文学や美術や音楽等々の芸術・文化が地に落ちているのである。トランス・モダニズムであるポスト・モダン=プロト・モダンによって、新ルネサンスを形成しないといけない。)深層心理学や構造主義や神話学は、この復権の表出であると考えられる。ただし、これらは、不十分である。何故なら、哲学的に、哲学・数学的に、不明であるからである。また、フロイト心理学は、他者である身体-iを近親相姦に還元するという、短絡化の誤謬を犯しているのである。他者は、多様であり、多元的である。近親相姦に還元できるはずがないのである。母子関係を言えば、それは、子と母との即非関係があると言わなくてはならない。それを、母子同一性(オイディプス・コンプレックス)として捉えるのは誤謬である。つまり、フロイトの自己投影というナルシシズムは、自我(近代的自我)の様態であり、《個》本来の様態ではないのである。つまり、精神分析は、《個》の心理学ではなくて、自我の心理学であり、それは、倒錯の心理学なのである。
 さて、結局、デカルトの合理主義は、主体iの純粋化としては、正しい意味があるだろう。個の明晰思考のために必要な手続きの第一歩である。しかし、単に第一歩に過ぎないのである。つまり、陽認識・視覚認識は、陰認識・身体認識、並びに、即非認識を形成しなくてはならないのである。これが真正なポスト・モダンである。そして、既述したように、スピノザの『エチカ』がこれを実現したと考えられるのである。スピノザの能動的観念の方法とは、陰認識・身体認識の積極・能動的方法である。平明に言えば、共感的認識方法である。共感性とは、正に、即非エネルゲイアの感情性である。そして、この能動的観念の方法は、後のフッサール現象学に通じると考えられるのである。つまり、これは、志向性の理論なのである。他者への志向性の理論と考えられるのである。逆に言うと、フッサール現象学の志向性理論とは、他者への志向性、即ち、陰認識・身体認識、そして、結局、即非認識の理論であると考えられるのである。デカルトの主体 iの連続的同一性の理論を、他者-iへの志向性の理論、即ち、差異的同一性の理論に変更したと言えるだろう。
 前世紀後半のフランス・ポスト・モダン運動であるが、これも既述済みではあるが、結局、後期デリダを除いて、プロト・モダンの中核にある《個》・差異・単独性・特異性を捉えそこなったのである。とりわけ、ドゥルーズの理論は、特異性という術語を強調しながらも、それを連続的同一性に帰結させていたのである。これでは、詐欺である。Aと言いながら、実際は、Bと言っているのであるから。つまり、真正ポスト・モダンとは、主体の、まったき他者(デリダの言葉)への志向性に存するのである。そして、まったき他者とは、不連続的差異論で言う不連続的差異にほかならない。主体と他者とが、根本的に不連続であること、ここにポスト・モダンの核心があるのであり、それを、不連続的差異論が究明したのである。思うに、厳密に言うと、ルネサンスでさえ、不連続的差異を自覚していたか怪しいのだえる。フィチーノのネオ・プラトニズムを見てわかるようにそれは、流出論・連続論なのであるからだ。しかし、本質は、不連続論であると言わなくてはならないだろう。だからこそ、デカルト哲学が生まれたのであると考えられるのである。
 以上の考察から、現代の認識論的課題は、陰認識・身体認識、そして、即非認識を創造することであると言えるだろう。そして、これは、個的倫理の形成なのである。現代日本は、没倫理であり、荒廃し切っている。近代主義によって、他者を喪失しているからであらである。自己内外の他者・差異発見にこそ、新倫理が生まれるのである。日本はこのように生まれ変わらなくては、滅亡路線をひた走りに走ることになる。

なにとぞ、近代を乗り越えよ!!!
なにとぞ、自己内外の他者・差異を発見せよ!!!
ここにしか、日本の根源的課題はない。
日本は、はっきり言って、滅びつつある。
日本滅亡を防ぎ、復活させるには、これしかないのである。
また、さらには、人類も滅びつつあるのである。
ポスト人類のエポックが近いのかもしれない。
考えれば、即非認識とは神人認識である。
ある意味で、誰もがイエス・キリストになることである。
つまり、テオーシス(神化)である。
これは、東方キリスト教の教義である。
つまり、東洋の叡知である。
東洋の復活である。
西洋文明のサイクルの終焉である。
日本人よ、寝ぼけていてはいけない。
世界は、激変しているのである。
物理学でいう相転移の時代であろう。
差異へと時代は転換しているのである。
差異共振シナジーへと転換しているのである。
これが理解できなければ、日本滅亡は免れない。
ご臨終日本である。
ご愁傷様、日本である。
南無阿弥御陀仏の日本である。
アディオス、ハポン。
日本よ、さらば。
日本は、確かに、滅びつつあるのである。
この現状認識をもたないといけない。
日本エクソダスである。
出日本である。
何処へ。
永遠回帰である。

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