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PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
新母権主義と大調和主義、可視光と不可視光:ダークエネルギーとMedia Point Energy:Ver 2
1)新母権主義と大調和主義

2)同一性の光と差異の不可視の光

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1)この問題は再々検討になるが、なにが問題かと言えば、同一性の事象自体である。たとえば、同一性傾斜がない場合、差異共振性が中心となるが、そのとき、同一性は形成されるのか。
 同一性傾斜があるとき、当然、同一性主義が発生する。しかし、同一性傾斜がないときは、同一性主義は発生するのか。先の考え方からすれば、同一性傾斜がないときは、同一性主義は発生しないと考えられる。ただし、差異共振性に包摂された同一性が生起するだろう。この包摂された同一性とは、二項対立をもたない同一性である。だから、初めから、調和主義である。
 ということで、同一性傾斜がある場合は、いったん同一性主義が生起する。そして、これを克服するようにして、差異共振主義へと回帰することが、新母権主義である。
 そのように考えると、人間の場合、父権社会になってから、同一性傾斜が必然である。だから、同一性主義が必然的に生起する。この、いわば、同一性志向性に対して、差異共振主義へと回帰するのが、人間の課題である。すると、新母権主義と言ったものは、父権主義と母権主義の大調和を意味するのではないだろうか。
 ただし、脱父権主義的母権主義としての大調和主義である。ということで、最初の結論に戻ることになる。
 
次に、2であるが、ここでは、簡単に触れる。目に見える光は、同一性主義の光であり、差異共振主義の光は不可視ではないのかというのが、私の発想である。
 しかし、そうならば、自然も、同一性傾斜があることになる。そう、それは、正しいだろう。自然も、人間ほどではないが、同一性傾斜があるだろう。それが、物質だと思う。
 しかし、磁気の場合のように、差異共振主義だけの場合もありうるだろう。ただ、物質を引きつけるのである。
 とまれ、本テーマに戻ると、電磁波は、同一性傾斜では、可視光であり、差異共振性では、不可視光となる、という発想はいかに、ということである。そうならば、可視光は物質ということになる。それでいいのだろうか。いちおう、それを作業仮説としよう。
 そうならば、電磁波の同一性傾斜によって、目に見える現象界が生起するということになる。しかし、同時に、差異共振性の不可視の光の世界があるということになるのではないだろうか。
 魂ないしは「心」とは、この不可視の光の内的世界ではないだろうか。もっとも、精緻に考えると安易に魂なしいは「心」とは呼べない。Media Pointを魂とこれまで考えているのであるから、それを魂とは呼べないだろう。だから、「心」かもしれない。これは保留しておこう。
 端的に、この不可視の光とは何だろうか。D. H. ロレンスのdark sunを想起するが。とまれ、電磁波で言えば、これは波動ではないだろうか。そして、量子力学では、同一性傾斜の粒子と差異共振性の波動の相補性を捉えているのではないだろうか。
 問題は、そうすると、Media Pointとイデア界のことになるだろう。物質科学は、同一性傾斜の-1と差異共振性の波動である+1との相補性を捉えているとしよう。そうすると、 Media Point(以下、mp)とイデアを捉えていないのである。しかしながら、最近、リサ・ランドールが五次元論を提起しているので、量子力学は、mpとイデア界に接近したとは言えよう。
 そう、また、ここで、ダークエネルギーの問題に触れるが、それは、mpやイデア・エネルギー(エネルゲイア)のことを指しているのではないだろうか。 mpを介して、イデア・エネルギー(イデルギーないしシネルギーと造語したい)を放出されているが、現象的には、±1を感知するだけであり、イデルギー(シネルギー)を看過しているのではないだろうか。
 直感では、mpエネルギー(Media Point Energy)があるのではないだろうか。それが、±1の力を保持しているいるのではないだろうか。いわば、中間力、共立力である。これが、ダークエネルギーではないだろうか。今はここで留める。

p.s. Media Point Energy(MPE)は、端的に、⇒ではないだろうか。物質科学は、±1を観測計測するが、⇒を計測できていないのではないだろうか。これが、ダークエネルギーと関係するのではないだろうか。言い換えると、境界の力、境界エネルギーではないだろうか。同一性と差異の境界を保持する力・エネルギーではないだろうか。つまり、宇宙維持力と言ってもいいのではないだろうか。
 あるいは、加速する膨張は、⇒で説明できないだろうか。⇒の方が、1よりも大であるということではないだろうか。

p.p.s. ふと浮かんだことだが、-1と+1では、非対称の関係にあるのではないだろうか。つまり、実際の現宇宙においては、同一性傾斜-1と差異共振主義+1があるが、両者は非対称的であり、前者に比べて、後者の方が大ないし強なのではないだろうか。
 言い換えると、現代科学は、同一性傾斜-1によって宇宙を捉えているが、非対称的に、強大な、ないしは、優位にある差異共振性+1を把捉していないために、ダークエネルギーを仮説することになっているのではないのか。
 有り体に言えば、大宇宙のMedia Point(Cosmic Media Point)における非対称的発動において、同一性傾斜と差異共振性があるが、後者の方が優位であるが、現代宇宙物理学は、同一性傾斜の側面から、全体を把捉しようとするのであるが、非対称的な、優位の差異共振性を看過しているので、ダークエネルギーを仮説をせざるをえないということではないだろうか。


2008年02月25日(Mon)▲ページの先頭へ
女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション
先に以下のようにメモ書きした。

「女性のエロチシズムと超越エネルギーとしてのファッション

テーマ:美術・アート

ファッションについて、その超越エネルギー性ないしはファンタジー性を指摘したが、女性のエロチシズムは本来、Media Pointの開放系における超越的エネルギー(差異共鳴エネルギー)と考えられるので、ファッション志向とは女性のエロチシズムを意味するものではないだろうか。後でもう少し丁寧に考察したい。」
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10075309493.html

どうも、女性のエロスないしはセクシュアリティとは、プラトン主義的ではないかということがだんだん確信に近くなってきた。上記する以前に、私はプラトンとは女性ではなかったのかとふと「妄想」したものである。
 考えてみると、イデア論とは、前父権主義・前アーリア民族、即ち、母権文化の最後の名残を受けて生じた哲学であると私は考えている。つまり、太母神を哲学的に理論化したものがイデア論ではないのか思っている。また、確かに、古代ギリシアの父権文化の影響下に生まれたものであることも確かである。しかし、ベースは太母文化である。
 よく知られたようにプラトン哲学はエロースの哲学、イデア界へのエロースの哲学である。そして、また、美少年を愛することに存する哲学である。異性愛ではないのである。
 先に私は、女性作家が描く裸婦の不思議なエロチシズムについて言った。それは、一種同性愛的なエロチシズムである。それを、私は、プラトニック・エロチシズムとも言ったりした。
 そのようなことから考えると、やはり、女性のエロチシズムは、超越的エロチシズム、つまり、プラトニック・エロチシズムであると考えられるのである。それは、感覚を超越するエロチシズムである。官能を超越するエロチシズムである。もっとも、官能・感覚性を否定するのではなく、それを介して、超越性へと志向するエネルギーということである。
 ここからいろいろなことが考えられる。西洋哲学が起源のプラトン哲学をいまだに捉えられないのは、それが本質的に女性のエロチシズムの哲学であるからではないのか。ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、ハードな父権文化である。父権主義、同一性中心主義(ロゴス中心主義)では、プラトン哲学は捉えられないと考えられるのである。
 そう、また、女性が一見どうしてプラトン哲学に魅かれないのかという問題もある。女性の本質はプラトニストだと思う。だから、プラトン哲学は自明なのではないだろうか。女性の意地悪さがあるだろう。
 そう、また、プラトン哲学は、東洋文化、とりわけ、神道・多神教・太母文化が把捉することができるはずである。プラトニック・シナジー理論が日本で生まれたのは、その点で必然性があると考えられる。後でさらに考察してみたい。

p.s. ニーチェがもし真理が女性のようなものだとしたら、これまで、哲学は真理を捉えそこなってきたのであり、鞭をもって女性(真理)のところへ行かなくてはならない云々と言っていた。
 真理が女性のようなものというのは、正しいが、鞭をもっては、どうだろうか。確かにじゃじゃ馬的性質もあるだろう。
 馬で思い出したが、白い馬と黒い馬の比喩があった。これは、前者がプラトニック・エロースであり、後者は感覚中心の欲望である。前者が女性のエロースであり、後者が男性のエロースではないのか。天上のエロース(天上のヴィーナス)と地上のエロース(地上のヴィーナス)。
 ニーチェのディオニュソスにしろ、ツァラトゥストラにしろ、それは、太陽神である。天照大神である。ニーチェは、ほとんど、トランス・モダンであった。
 
参考:
パイドロス
美について

プラトン 著、藤沢令夫 訳
岩波文庫


それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。
(中略)
神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。

p.53-54

ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。
エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。

ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。
無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。

この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。

内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。

こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。

それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。

p.96

さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。

しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、
魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。

Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Phaedrus"
http://w_passage.at.infoseek.co.jp
/book/i-nonfiction10.htm

***************

哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス -
今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。


「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。

体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。

全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。

美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。

アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19
古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ


2008年01月15日(Tue)▲ページの先頭へ
内的光の太母文化と父権的抑圧:女性の内的解放のトランス・モダン:四次元現象界から高次元現象界へ:Ver2
ウィリアム・ブレイクの詩でMental Travellerという象徴的な詩がある。それは、女性に支配された人間の生死を説くものである。ブレイクは、女性の意志を忌み嫌っていた。また、自然の生殖generationを嫌っていた。植物の生命を嫌っていた。そう、物質的世界を嫌っていて。一種、グノーシス主義である。(以下最初で、女性に対する中傷に当たることを言ったが、結果として、否定することになっていることをお断りしたい。)
 私は女性の愛情とは、同一性の生産・再生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないだろうかと思ったのである。漱石は夫人に精神がないと嘆いていた。かつては、「女性は子宮で考えると」と俗に言われていた。「子宮」は正に、同一性の生産工場ではないだろうか。
 女性は、同一性を愛するのであり、差異を愛さないのではないだろうかとふと思ったのである。言い換えると、女性は現象を愛するのであり、超越性を愛さないのではないだろうか。もっとも、多くの例外があることは知っているが、あえて、一般的に言っているのである。もし、そうだとすると、太母子について考え直さないといけない。なぜなら、それは、同一性の生産・再生産になるからである。(また、生殖と資本主義の生産・成長についても考えなくてはならないだろう。)
 直感では、女性の愛情は現象と一如であり、精神と物質が融合しているのである。思うに、精神(差異)が現象(同一性)へと展開するのである。つまり、差異が同一性へと無碍に化成するのである。いわば、ドゥルーズの連続的差異である。しかし、それは、差異なのかと思う。差異ならば、同一性へと無碍に展開しないからである。
 どうやら、ここに女性の秘密がありそうである。差異があるが、Media Point において、連続化し、同一性=現象化する。この連続化が、女性の場合、男性よりも強度が強いのではないだろうか。男性の場合、差異から同一性が展開するとき、すべて同一性へと展開するのではなくて、差異が、純粋差異が残っているのである。だから、差異と同一性の齟齬があり、心的葛藤が生じるのである。
 垂直軸と水平軸との不連続性が、男性の場合には残っていると思うのである。それに対して、女性の場合は、不連続性が連続性で糊塗されるのではないのか。(連続性の糊塗とは、いわば、化粧である。)この差異が同一性へと連続的に同化吸収されるメカニズムは何なのか、これが問題である。 
 直感では、そこに、酔いがある。陶酔がある。幻惑がある。差異が同一性に酔うのである。心理学的には、ナルシシズムである。イデア論から言うと、差異は超越光であり、同一性は光である。すると、ナルシシズムとは、超越光よりも暗い光の影像に酔うことになるだろう。
 洞窟の影像に酔うのである。ということは、女性は内的な光が男性よりも暗いのではないだろうか。(勿論、例外の高貴な女性は存する。)内的光が暗いとはどういうことなのか。これも直感では、イデア振動が弱いというか、振動数が小さいのではないだろうか。
 そうすると、Media Pointでの変換において、同一性へと生成するが、そのとき、内的光は、現象性へと転化して、剰余の内的光が少なくなるということではないのか。
 男性の場合、高い振動数があり、同一性への転換によっても、剰余の内的光があり、それが、差異となるのではないだろうか。だから、女性には、内的な光は見えないことになるだろう。超越光は見えないのである。そう、女性には月の光が合うと言えよう。しかし、天照大神はどうなるのか。卑弥呼(日巫女、日観女、火見女、日巳女、霊巫女http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045220.html )はどうなのか。この問題を考えないといけない。女性は内的光を失ったのではないのか。
 思うに、本来、女性は内的光を見ていたが、父権宗教社会となり、それに従うことなった。本来、女性は太陽女神(天照御大神)を観ていたのである。しかし、父権社会になり、内的光・内的ヴィジョンが衰退したのではないだろうか。そのため、女性の視覚は同一性現象へと強く傾斜したのではないだろうか。つまり、女性の視覚は、父権社会によって、抑圧され洗脳されているのかもしれない。
 そう考えると、一見、現代社会において、女性は自由になったように見えるが、内的視覚・内的ヴィジョンの喪失という一種致命的な代償を払っているのではないのか。
 この問題は文化史・ジェンダー論的に実に本質的である。父権文化とは、同一性への傾斜であり、差異を否定する。この同一性主義文化において、女性の差異は否定・抑圧される。そして、女性が本来もっていた内的光が否定されて、洗脳される。しかし、民主主義の社会となり、男女同権等々と女性の権利が認められた。しかしながら、近代主義は同一性主義であり、女性の差異を認めていない。思うに、民主主義的同一性主義では、女性の差異を認めないのである。つまり、女性の忘却された内的光という差異を認めないのである。
 そう考えると、冒頭で、女性の愛情は同一性生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないかと、中傷的なことを述べたが、それはおそらく皮相な事実であり、本来は女性が抑圧されていることの結果と見なくはならないのだろう。女性は、父権的同一性主義に洗脳されて、女性の本来の差異を喪失しているのである。この事態が、冒頭のような皮相な見解を生むことになったと言えよう。(p.s. 女性抑圧の事実から見て、西洋植民地主義による黒人や諸先住民精神文化の抑圧もあったと考えることができる。つまり、自己文化を喪失させられて、貶められたのである。そう、日本もそうである。神道文化を、連合軍占領と売国政治によって喪失させられ、文化的誇りを奪われ、貶められているのである。アメリカ的近代合理主義による隷属化である。)
 トランス・モダンとは、プラトニック・シナジー理論とは、女性の真の解放をもたらすだろう。それは、神道文化の復興でもある。
 
*******************
 
 次に、超越光(正しく言えば、超越的エネルギー)の振動の問題である。超越的差異の即非共振という振動であるが、それは、端的に、どういうことなのか。つまり、そのイデア振動が、Media Pointにおいて、現象化するとはどういうことなのか。可視化するというのは、どういうことなのか。私は超越光は可視的であると思っているのである。つまり、差異共振視覚(視識)があるのであり、それで、超越光を視識するのである。
 可視化とは、端的に言えば、陽光が当たるということである。陽光がなければ、物質は闇である。しかしながら、光のあたらない物質・物体も、エネルギーであるから、超越光からできているのである。
 しかしながら、闇であるというのはどういうことなのか。それは、端的に、+1ということではないのか。それとも、-1ということなのか。これは、難問である。
 考えれば、光の当たらない物質の闇とは闇以前の闇、いわば、原闇であろう。この物質の原闇とは何だろうか。それは、内的には、光ではないのか。ただ、光が当たらないために、闇なのであり、それの実体は、内的光なのではないのか。つまり、原闇とは光であるということになるだろう。
 この考えは興味深い。何故なら、ダークマターの問題に関係しそうだからである。人間にとって、通常、光が当たらないと、ものは見えずに、無いと思ってしまう。つまり、可視化していないと、ものは存在していないと思ってしまうのである。
 問題は現象である。物質は光に当たらなくても現象しているのである。つまり、現象には、可視的現象と不可視的現象の二種類があるということではないだろうか。
 また、さらに考えると、超高振動のエネルギーを考えることができる。これは、同一性化しても、当然、不可視である。これも、不可視的現象に入れることができるだろう。
 そう、天文学を考えると、結局、可視的現象、可視的物質から計算しても、法則とはあわないことになり、ダークマターやダークエネルギーが考えられるようになり、今日では、その実在はほぼ確信されていると言えよう。それらは、ここで言う不可視的現象と関係するのではないだろうか。
 不可視なので、現象しているとは思われなかったのである。(これは、民衆の問題とも通じるだろう。民衆はいわば不可視に現象しているのである。官僚たちは、民衆が不可視である。資本主義の問題も、この点から見ないといけない。差異価値から同一性価値をつくっているのであるが、差異価値は不可視の価値である。)だから、不可視的現象としてのダークマターとダークエネルギーである。
 さて、ここで、光の可視性の問題を考えよう。可視性とは、当然、可視光性ということである。太陽系においては、日中は、陽光やその反射を見るのであり、夜は、電灯の光を見るのである。
 光とは、同一性でありながらも、同時に、差異共振性である。光の即非性があるのであるが、今日、ほとんど同一性の光しか見ていないのである。これは、視覚(視識)が同一性に限定されているからである。光は、同一性光であり、差異共振光(超越光)である。だから、視覚(視識)が超越性に開かれていれば、後者を視覚(視識)することはできるのである。
 さて、次に、光と物質の闇の関係について考察しよう。まず、光が物質の闇に当たるとしよう。そうすると、光が反射して、物質は可視的になる。物質に吸収されるエネルギーがあり、また、反射するエネルギーがあるということになる。 
 今は直感で言うのだが、物質に放射され、反射した光であるが、それは、超越光であり、かつ、同一性光であろう。そして、それを視覚するとき、超越光を受容するとき、差異共振性において、超越光として視覚し、同一性光は同一性光として視覚するのではないだろうか。
 先に、「観る」とは何かと問題提起したが、「観る」とは、内的光と外的光との差異共振的視覚(視識)であると言えよう。もっとも、差異共振性には、同一性を包摂しているのであるが。
 そう考えると、物質的科学においては、差異共振エネルギーを看過し、可視同一性現象に限定されているので、差異共振エネルギーが欠損しているということになるだろう。それが、ダークエネルギーに関係するように思えるのである。また、ダークマターについて言うと、やはり、物質自体が差異共振エネルギーをもっていると考えられることから、物質自体がダークマターではないのかと空想してみるのである。
 とまれ、現象界には、単に、同一性物質や同一性エネルギーだけではなく、差異共振物質(ダークマター)や差異共振エネルギー(ダークエネルギー)に満ちていると言えよう。そして、それは、Media Pointを介した高次元宇宙に存していると言えるだろう。これまでの、量子論や天文学は、四次元時空間に限定されていたので、超越性を取り込むことができずに、ダークマターやダークエネルギー等を抱え込み、理論的に解明できないのであるが、プラトニック・シナジー理論のように虚軸の差異共振的高次元を想定することで、解明できるように思えるのである。
 そう、現象宇宙は本来、高次元宇宙なのであるが、同一性主義に支配されているので、虚軸の超越的差異共振次元を看過して、四次元時空間に閉塞されているのである。資本主義がこの四次元時空間世界の経済である。しかしながら、トランス・モダン経済を考えると、それは、高次元経済であり、差異共振経済であると考えられるのである。トランス・モダン・エヴォリューションは近い。


2007年12月02日(Sun)▲ページの先頭へ
女性の心について
私は、数日前、用事であるところへ行った。偶然にも、お世話になったある女性に会った。彼女は、すばらしい女性である。心が潤っていて母性性を深くもっている女性である。外見も悪くはないが、それ以上に、心が美しいのである。言葉では、表現しにくい。現代では、希有の女性である。しかしながら、彼女のような母性的タイプはいないことはないのである。
 それに対して、一般的な現代日本女性の心性のあり方には、大きな疑問を感じる。「こころ」が欠落しているのである。潤いがなく、不躾である。私は今年、上記の女性に会い、深い感銘を受けたので、はっきりこのことがわかるのである。
 私は男女の差異があると思っている。平等は間違いだと思う。女性の差異がある。男性の差異がある。私はすべての女性に母性が豊かにあるべきとは思っていないが、それでも、母性性は、基本的なものだと思う。そう、母性性が希薄なのである。
 私は、母性性に、女らしさを感じる。また、美しさとは、心から発すると思っている。そう、確かに、外見の美と内面の美がある。前者は表面的な視覚美である。それは、同一性の美である。それに対して、内面の美とは、差異・特異性の美である。
 結局、近代的自我・近代合理主義・民主主義が、女性の心を干涸びさせたのである。私は母性性を強要するつもりはないが、母性性は源泉にあるものだと思う。大女神、大母神である。Media Pointである。
 女性の場合、近代的自我を身に付けると、とりわけ浅ましくなると思う。何故か。ここが問題である。結局、女性性とは何かという問題になる。今は余裕がないので、簡単に示唆するに留めるが、なにか女性の場合、男性以上に、Media Pointを排除するような過程を経験するのではないだろうか。
 差異教育がなければ、女性は近代的合理主義と同一性化するだろう。このとき、女性性というか母性性であるMedia Pointが不要に思えるのである。それで、排除するのではないか。女性的な合理主義である。これは何か。この単純さ、軽薄さは何を意味するのか。もちろん、男性も同様な面があるが、女性の場合はより明瞭だと思えるのである。
 女性の心の乾きは何を意味するのか。とりわけ、日本の女性である。上記の女性はなにか別世界的な明るい菩薩のような例外である。
 近代主義教育の洗脳が一因ではあると思う。それに対して、なにか内因がないのか。女性の浅ましさを生み出す内因がないのか。女性の軽薄さを生み出す内因である。あるいは、女性の傲りと言ってもいい。思うに、女性は連続性が強いのではないだろうか。Media Pointから同一性志向が発するが、この同一性志向が強いのではないだろうか。私は男性の方が、同一性の志向は強いと思ったが、女性の方が強いのではないか。同一性の志向が強いとMedia Pointは深く隠蔽される。どうもこれが内因ではないか。
 一見男性の方が同一性が強そうに見えるが、そうではないのではないか。思うに、女性の方が、男性よりも、同一性がなめらかに形成されるように思う。男性の場合は、闘うのではないだろうか。
 私はこれまで、男性は+i中心で、女性は-iが中心ではないかと思ったが、逆ではないだろうか。女性が+i中心で、男性が-i中心ではないだろうか。だから、男性は同一性が形成しにくいのであるが、女性は形成しやすいということになる。
 もしそうならば、母性性はどうなるのか。-iが必要である。
否、どうも違う。やはり、男性は+i中心で、女性は-i中心ではないか。そして、+i中心の教育が為されると、女性は自己否定となる。やはり、これが内因ではないか。近代的自我・近代合理主義・民主主義教育は女性を軽薄にするのではないか。女性の差異を否定するのではないか。女性性が否定されるので、女性は、本性を喪失して、軽薄になり慢心するのではないのか。今はここで留める。


2007年01月15日(Mon)▲ページの先頭へ
教育とは何か:教育は、永遠の価値の発見に手をかすものでなくてはならない
「教育の機能は、人格が統合していて、その統合が知恵を生み出すような人間をつくる、ということである。」p. 13 『道徳教育を超えて』クリシュナムーティ著 

「教育は、永遠の価値の発見に手をかすものでなくてはならない。」p. 14

「教育の目的はたんなる学者や技術者、職業人をつくり上げることであってはならない。そうではなく、恐怖を含まない統一的な全体的人間をつくることでなくてはならない。このような人間の間に、はじめて確固とした平和が根づくのだ。
 恐怖をはらまないような人間になることーーこれは自己を理解することによって招来する。」p. 14

「教育とは、個人をして社会に服従せさしめたり、個人を受動的たらしめることによって社会と調和させるように仕向けることではない。それは真実の価値を見出さしめることなのだ。そしてこのことは、偏見のない探求心と自覚をまってはじめてよくすることなのである。自己認識がなされない時の自己表現は、露骨なまでに野心をむき出した自己主張となる。教育は自己の自覚の力を養うことであって、自己表現に陶酔することとは違う。」p. 15

「教育の制度であれ、政治の制度であれ、およそ制度なるものは、わけのわからない仕方で変るのではない。それらは、人間精神の中に根本的な変化が現われた時に変化していくのだ。個人が第一義的に重要なのであって、制度の方ではない。」p. 15

道徳教育を超えて

クリシュナ・ムーティ  霞ケ関書房 版
2004年04月 発行 1,764円(1,680円+税)
ISBN 978-4-7605-0069-7 (4-7605-0069-3) C-CODE 0037 
http://www.junkudo.co.jp
/detail2.jsp?ID=0276050069

「ゴトの読書室」
クリシュナムルティの公開講話、公開対話等の中から、私が関心を持って試訳したものを掲載しています。興味のある方はどうぞご自由にお読みください。
http://homepage3.nifty.com
/~fwiv0294/index.htm


ジッドゥ・クリシュナムルティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895年 3月11日 - 1986年 2月17日 )はインド 生まれの思想家 。

一般的な分類としては宗教家・思想家になるが、彼の思想は宗教団体的なものとは正反対の方向性を持っている。20世紀最高の覚者の一人であるとする声もある。
目次
[非表示 ]

* 1 クリシュナムルティの生涯
* 2 クリシュナムルティの思想
o 2.1 序
o 2.2 対立
o 2.3 時間
o 2.4 解決
o 2.5 結論
* 3 参考文献


[編集 ] クリシュナムルティの生涯

クリシュナムルティは1895年、南インドに貧しいバラモン の家の子として生まれた。母親は神智学協会 の会員であったため、この協会の幹部チャールズ・リードビーターの目に触れる機会に巡り合う。リードビーターは人間のオーラを観る眼、霊視能力の持ち主であったという。リードビーターの目に留まったとき少年クリシュナムルティは泥と垢にまみれたみすぼらしい身なりをしていたが、彼の目には少年が内から発する神々しいオーラが映った。そのあまりのすばらしさに思わず恍惚となったリードビーターは、この少年をひきとろうと言い出す。

神智学協会の教義によればキリスト以来の救世主が現代に現れて人々を導くということになっていた。リードビーターにはクリシュナムルティこそ捜し求めていた救世主となるべき人物であるように思えた。クリシュナムルティはヨ−ロッパの神智学協会に連れて行かれ、「救世主」としての英才教育をうけることになる。

1911年、神智学協会会長アニー・ベザント女史はクリシュナムルティを救世主として星の教団という団体を設立した。クリシュナムルティはまわりの神智学信徒からとてつもなく大きな期待を注がれることになった。霊的修行として眠りについたときアストラル体 となってリードビーターとともにヒマラヤ山中に飛び、クートフーミー大師なる霊的指導者から教えを受けたりもした。翌朝、リードビーターと教えを復唱すると、二人の言葉は不思議と合致したという。このように不思議な体験のこともあって、会員たちはクリシュナムルティを通して語られる霊的教義に関心を集中させる。

しかし崇拝者に囲まれたクリシュナムルティはその状態を喜んでいなかった。彼の本音は神智学の体系的な教説と反対に、「真理は権威を持つものではなく、まして集団に属するものではありえない」というものであった。はじめのうちこそ押し付けられた救世主という役を演じていたクリシュナムルティだったが、徐々に反抗を示し始め、神智学の教義を信じていないとはっきり言うに到る。その後も神智学の信徒を裏切り続け、ついに1929年8月2日、3,000 人あまりの団員がいた星の教団を解散するに到る。この解散にあたりクリシュナムルティは「宗教やセクトによって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」という旨の宣言を行っている。

教団の崇拝者を失ったクリシュナムルティは「フリーの宗教家」としてインドやアメリカをはじめとする世界各地を回り、公開講話、各界著名人との討論会などを行う。講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声をとどろかせる。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。教団の解散以後、56年間に渡って彼は説き続けた。

クリシュナムルティの最期については、死期を察して一人で静かに息を引き取った等の伝説があるが、「クリシュナムルティ・開かれた扉」によれば、真相はこうである。 1985年の暮れより、体調不良(発熱、体重減少)が続き、なかなか原因が判明しなかったが、翌1986年1月23日、精密な検査の結果、末期の膵臓癌が発見され、死期が迫っていることが明らかになった(これは、本人の予感していた死期よりも、かなり早いものであったらしいことが同書に記されている)。このころ以降、苦痛が耐えがたくなることがしばしばあり、栄養以外にモルヒネや睡眠薬の点滴(時には輸血も)を受けるようになった。しかし、それにも負けず、死ぬまでに整理しておくべき課題(クリシュナムルティ学校や出版の死後の体制等)を議論し、解決していった。そして遺言も済ませ、必要と思われることをなし終えた後、衰弱が著しい中、2月16日午後7時に睡眠薬を通常通り服用、(最初は、苦痛のためなかなか眠れなかったが)徐々に苦痛が減退するにつれ、意識を失いはじめ、2人の(友人でもある)医師と3人の友人が見守る中、1986年2月17日の午前0時10分に死去した。

[編集 ] クリシュナムルティの思想

[編集 ] 序

クリシュナムルティの思想の中心となる主題はあるがままの認識である。クリシュナムルティにとって「あるがまま」とは、実在、真理、神、愛、自由、無限、永遠、創造などと同義語である。その対極として闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我、観念などが挙げられる。後者が前者(真理)と対極になるのは、それらがあるべきもの(観念)を求める精神の働きであり、あるがままのものの認識からの逃避であるからにほかならない。人は物事を比較したり批判したりあるいは同一視して理解しようとするが、このような精神活動は観念を生み出すばかりである。

[編集 ] 対立

クリシュナムルティは観念(ないし理想)は真理を捉えることができないと言う。真理を知ることができるのは直接の経験だけである。観念は正しい理解をもたらさないばかりか、争いをもたらす。政治的イデオロギーや民族のアイデンティティー、宗教的信条の対立は世界中で争いの源になっている。「神を信じる者は神を発見することはできない」とクリシュナムルティは明言している。神とか悟りを開いた人にすがろうとするのは不安から逃れようとする精神の働きであるという。

自分が矮小な存在であることに耐えきれない精神(自我)はより大きな存在、民族や国家や神と自分を同一視しようとする。そして他人も自分と同じ信念を持つように強いる。しかしこのような大きな存在の正体は自我が投影した幻影に過ぎないため、人を結合させるどころか分離させるばかりである。クリシュナムルティは行為が観念のしもべとなることを激しく糾弾する。

[編集 ] 時間

世界に争いをもたらす観念の正体とは何か。それは記憶と欲望だとクリシュナムルティはいう。過去の結果としての記憶、そして記憶に基づいて未来へ投影される欲望である。クリシュナムルティは時間を物理的時間と心理的時間に分け、心理的時間を否定する。物理的時間は事実であるため否定できない。事実は否定できないが、事実についての見解は否定できる。精神がつくりだす過去や未来といった時間の観念(心理的時間)は実在である今を犠牲にしようとする。

記憶は物事に対する固定的な反応パターンを形成し、現在を新鮮に捉える妨げとなる。不安や恐怖も反応パターンの虜になっている精神が生み出したものだという。恐怖とは「未知なるものへの恐れ」というより「既知なるものを失うことへの恐れ」だとクリシュナムルティは指摘する。時間を媒介として物事を見ることは破壊的作用をもたらす。死が恐いのは生を失うのが恐いからである。孤独も屈辱も自分が愛着しているもの、記憶として価値ありと思っているものを失うことへの恐れである。精神は失うことへの恐れから内部にも外部にも様々なものを蓄積しようとする。ところが蓄積したものはそれを失う恐怖を生む。かくして精神の活動は悪循環におちいる。新しい型を作ったり、古い型を強化したりしても型にはまっていることは変わらない。

精神活動内での時間観念を拒否するクリシュナムルティは未来への希望や努力すら裁断する。未来はあるべきものという観念にすぎず、あるがままのものの認識ではないからだ。時間を当てにするかぎり、つまり「いつかは」こうなってやろうと思うかぎりあるがままのものと向かい合うことはできない。未来において何かになろうとする欲望は現在との矛盾で闘争となる。悟りを開きたいとか神の意志に従いたいというのも一つの欲望である。

[編集 ] 解決

時間から離れ、真理を理解するにはどうしたらよいのか。精神の活動が静まり、努力の産物でない静寂があるときに永遠のものが出現するとクリシュナムルティは言う。愛があるときに観念が終焉するとも言う。あるがままのものは常に動いており、神や真理は一瞬ごとに生じる。逆説的だが精神活動が終わったときに限りない創造が生まれ、自我が終わったとき絶対の自由が生まれる。常に新しい実在を知るには記憶、信念などの条件づけは邪魔な足かせである。クリシュナムルティは真理に到るための訓練方法は説いていないが、彼の方法に近いものが完全に受動的な自己凝視である。精神によって凝視するのではなく、精神を凝視すること。観念に目を向けず、観念を生み出す思考の過程そのものを理解することが彼の言う自己凝視である。精神の働きの全体を見つめることで自我を支配しているものを理解するのである。ただし自我を支配したり終わらせたりする実体があると考えてはならない。根源的自我とか神を想定するのもまた、自我のよりいっそう強い働きだと彼は言っている。

クリシュナムルティは自己を理解することは関係を理解することだという。人は単独では生きられない。生きることは関係の連続である。関係の理解が人と生の問題を解決する。クリシュナムルティにとって真の関係とは愛の関係である。ここで言う愛は「嫌い」の反対の「好き」とは違っている。好き嫌いや損得の関係は孤立なのだという。そのような感情に基づいて関係を求めれば、対象が得られなかったり飽きたりしたときには関係を変えてしまう。(私)の感情、(私)の利益からはなれ、ひたすら自分の全体を委ねる愛のことをクリシュナムルティは言っている。愛こそ人と生の問題を解決できる。対立物としての敵をたえまなく作り出す思考によっては解決できない。

[編集 ] 結論

思考は今まで人の問題を解決しなかったし、これからも解決できないだろうとクリシュナムルティは極言する。思考は部分しか見ないので、思考すればするほど問題は細分化され、複雑になる。理論を探求するのではなく事実を見つめること、部分ではなく全体を見つめることで問題が解決されるという。特定の問題の枠組の中では思考や努力や知識や諸々の精神活動がうまく働くことはあるが、クリシュナムルティが提示しているのは個々の問題の解決方法ではない。問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法をクリシュナムルティは提示しようとしているのである。

[編集 ] 参考文献

* 『自我の終焉』J.クリシュナムーティ 根本宏、山口圭三郎訳 (篠崎書林)
* 『自己の変容』クリシュナムルティ 松本恵一訳 (めるくまーる)
* 『クリシュナムルティ・人と教え』クリシュナムルティセンター編 (めるくまーる)
* 『20世紀の神秘思想家たち』アン・バン・クロフト 吉福伸逸訳 (平河出版)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B
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カテゴリ : 神秘思想家 | 思想家 | インドの宗教家 | インドの哲学者 | 1895年生 | 1986年没


2006年11月23日(Thu)▲ページの先頭へ
(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2
先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/
?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。


2006年11月22日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察
(i)は、原自己であり、(-i)は原他者であり、前者から後者への志向性がある。認識エネルゲイアである。具体的に言うと、思惟から延長への志向性、精神から身体への志向性を考えることができるだろう。これを、陽の方向、+の方向としよう。私の考えでは、この方向だけでなく、他者から志向性があると考えられるのである。つまり、延長から思惟、身体から思惟である。これが、虚偽のように思われるかもしれないが、純粋に他者を差異と考えれば、この逆の志向性は考えられるのである。そして、この志向性の方向を、陰の方向、−の方向としよう。この両方向、双方向において、つまり、即非的結合、差異と差異との結合が生成すると言えよう。当然、零度の共振シナジーである。数式化すると、
(i)⇔(-i)となるだろう。思うに、ここにおいて、牽引と反発が生じるだろう。牽引の場合が、当然、純粋即非関係であり、反発の場合が、倒錯、反差異的同一性の形成である。自己と自我が対生成すると言っていいだろう。つまり、(i)*(-i)⇒+1の場合が自己であり、―[(i)*(-i)]⇒−1が自我(近代的自我)である。
 さて、生命を考えるとき、(i)*(-i)が原生命ないし生命の原型、生命のイデアであろう。これは、実は、無生物の原型・イデアでもあるだろう。とまれ、陽の方向(志向性)と陰の方向(志向性)が双方向である生命を形成しているのである。そして、この相互性が解体したときが、死であろう。問題は、陽の方向が意識とされ、陰の方向が身体と考えられていることであろう。それは、正しくないだろう。二つの反対の意識があると見るべきだろう。陽意識と陰意識である。(深層心理学は、後者を無意識と呼んでいるが、ある意味で正しいだろう。)言い換えると、光意識と闇意識である。一般に意識は前者であるから、後者を察知できないと言えるだろう。どうして、このような非対称性があるかと考えると、それは、人間の精神が、前者に傾斜しているからだろう。つまり、意識が本来二重であるのにかかわらず、普通一つの意識しかもたないのである。そのために、二重人格化すると言えるだろう。つまり、自己の意識と他者の意識の双方向二重意識があるのに、前者のみ、認識しているに過ぎないのである。だから、身体とは、実は、他者の意識なのである。私という個体は、自己の意識と他者の意識の複合体なのである。(思うに、宗教は、ここから説明できるだろう。つまり、他者の意識が、なんらかの神や超自然的声になるだろう。)そして、この二重意識が、物質科学的には、DNAとして形成されているのだろう。(i)*(-i)が二重意識の原点であり、また、DNAの原点的本体であるだろう。(雌雄の別だが、これは、牽引と反発の区別で説明できるのではないだろうか。前者が女性であり、後者が男性である。)おそらく、(i)*(-i)の複合化(順列や組み合わせ等)が多様な生命や現象を説明するのではないだろうか。とまれ、(i)*(-i)という原・対意識が万象の根源と考えられるだろう。
 では、この対意識において、陽意識と陰意識とはどういうものか見てみよう。(i)⇒(-i)という陽意識は、天から地への志向性であり、 (-i)⇒(i)は、地から天への志向性である。思うに、地霊というものは、後者ではないだろうか。
 さて、問題は、この双方向エネルゲイアのあり様である。明らかに、太極性があるだろう。直観では、陰と陽で捩れて、らせん運動をするのである。天と地とのらせん運動である。さらに直観では、これが、大宇宙の形成を説明するのである。渦巻星雲の形成。これは、思うに、ガウス平面と直交する軸が時間軸になるのではないだろうか。
 では、先にあげた問題、イデア界とメディア界の関係はどうなるのか。思うに、イデア軸、メディア軸、現象軸、時間軸の四つの軸、四次元が必要ではないだろうか。現象を三次元空間と見れば、計六次元空間であろうし、現象を二次元空間とみれば、全体で五次元空間であろう。

p.s. 以下の説明から、遺伝子とは、DNAの複合体である。だから、ゲノムとは、遺伝子の複合体であると言える。そして、DNAの鎖は、塩基同士で結合して、二重らせん構造となる。だから、ゲノムは、DNAの複合体の複合体と言える。私の予見では、DNAの祖型「イデア」が、(i)*(-i)なのである。*は、ゼロ度であり、±エネルゲイアが対発生するのである。作業仮説的に、+エネルゲイアのとき、結合して、−エネルゲイアのとき、分離すると見ればいいだろう。とまれ、零度差異共振シナジー様相としてのDNAの祖型「イデア」であると見ておこう。
 問題は、DNAイデアをどう鎖として構造化できるのかである。図式化すると、

差異1ー差異2ー差異3ー・・・ー差異n  (ーは、即非共振性である)

というメディア空間を考えることができる。二重構造は、おそらく、例えば、
共立1:差異1ー差異2、共立2:差異3ー差異4、等々の対性で説明できる。では、共立1、共立2,・・・共立nを鎖にする力学は何かとなるだろう。これは、思うに、単純に、零度でいいのではないだろうか。零度を鎖の力学としれば、共立1、共立2,・・・共立nが鎖になるだろう。つまり、まとめると、メディア空間の差異共立空間(差異即非空間)自体が、DNA「イデア」と考えられるのではないだろうか。そう考えると、ゲノムにおいて、生物間の違いが大きくないことも説明できるだろう。
 後で、再検討したい。


参考:
遺伝子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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遺伝子(いでんし)は生物 の遺伝 的な形質 を規定する因子であり、遺伝情報 の単位とされる。遺伝情報の実体は DNA の塩基配列 である。例外としてRNA ウイルスではRNAが遺伝情報を担っている。
目次
[非表示 ]

* 1 概念
* 2 原核生物での遺伝子発現
o 2.1 原核生物の転写
o 2.2 原核生物の翻訳
o 2.3 原核生物の遺伝子発現調節
o 2.4 ラクトースオペロン
o 2.5 原核生物遺伝子発現の実際
* 3 真核生物の遺伝子の一般的な働き方
o 3.1 真核生物の遺伝子発現
o 3.2 転写の相違
o 3.3 mRNAの修飾
o 3.4 翻訳の相違
o 3.5 遺伝子発現調節の相違
* 4 遺伝子研究
o 4.1 遺伝子操作の概要
o 4.2 クローニング
o 4.3 シークエンシング
o 4.4 過剰発現
o 4.5 遺伝子研究の応用
* 5 歴史
o 5.1 メンデルの法則から二重らせん構造までの歴史
o 5.2 二重らせん以降の歴史
* 6 参考文献
* 7 関連項目

[編集 ] 概念
DNA複製
拡大
DNA複製

遺伝子はDNAが複製 されることによって次世代へと受け継がれる。複製はDNAの二重らせん が解かれて、それぞれの分子鎖に相補的な鎖が新生されることで行われる。

本質的には情報でしかない遺伝子が機能するためには発現 される必要がある。発現は、一般に転写 と翻訳 の過程を経て、遺伝情報 (= DNAの塩基配列)がタンパク質 などに変換される過程である。こうしてできたタンパク質が、ある場合は直接特定の生体内化学反応に寄与して化学平衡などに変化をもたらすようになり、またある場合は他の遺伝子の発現に影響を与え、その結果形質 が表現型 として現われてくる。転写はDNAからRNA (mRNA やrRNA など) に情報が写し取られる現象であり、翻訳はmRNAの情報を基にタンパク質が合成される過程である。この過程はセントラルドグマ とも呼ばれる。

ある生物種 の遺伝子の総和はゲノム と呼ばれる。ゲノムや染色体 上の遺伝子の位置を示したものを遺伝子地図や染色体地図と呼ぶ。遺伝子は転写 される構造遺伝子と、転写の制御に関わる調節領域から成る。

遺伝子は、遺伝情報の最小単位として取り扱われ、その単位は、1つのタンパク質 の情報を基準としている。ただし蛋白質をコードしない遺伝子も存在する。ふつう、遺伝子は、タンパク質のアミノ酸配列情報が書き込まれている構造遺伝子のことをさしているが、その他に、そのタンパク質の発現時期と生産量を制御する、調節遺伝子のことも含まれる(→オペロン )。

遺伝子という言葉は、本来の「遺伝する因子」としての本来の意味だけでなく、遺伝子産物の機能までを含んで用いられる場合がある。後者のありかたが突出した領域としては、遺伝しない遺伝子を使った遺伝子治療 などがあげられ、その名称で混乱に一役買っている。

さらに遺伝子やDNAという言葉は、科学的・神秘的といったイメージのみが先行し、一般社会において生物学的定義から離れた用いられ方がされていることが多い。それらの大半は単に血縁や伝統を言い換えたものに過ぎない。「伝統」の場合はミーム が近い意味合いを持つ。また一般雑誌などでは疑似科学 的な用法もしばしば見受けられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%
BA%E4%BC%9D%E5%AD%90


デオキシリボ核酸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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DNAのその他の用法についてはDNA (曖昧さ回避) をご覧ください。
DNAの立体構造
拡大
DNAの立体構造

デオキシリボ核酸(-かくさん、DNA: Deoxyribonucleic acid、デオキシリボヌクレイック・アシッド)は、核酸 の一種。

高分子 生体物質で、地球 上のほぼ全ての生物 において、遺伝 情報を担う物質 となっている(一部のウイルス はRNA が遺伝情報を担っている。遺伝子 を参照)。
目次
[非表示 ]

* 1 DNA の構成物質と二重らせん構造
* 2 細胞内でのDNA
* 3 遺伝情報の担い手としてのDNA
* 4 生命の設計図としてのDNA
* 5 DNAの材料
* 6 DNAの利用
* 7 DNA 小史
* 8 関連項目

[編集 ] DNA の構成物質と二重らせん構造
相補的塩基対:AとT、GとCが水素結合でつながる。
拡大
相補的塩基対:AとT、GとCが水素結合でつながる。

DNA はデオキシリボース (糖 )とリン酸 、塩基 から構成される。塩基はアデニン 、グアニン 、シトシン 、チミン の四種類あり、それぞれ A, G, C, T と略す。デオキシリボース と塩基が結合したものをデオキシヌクレオシド、このヌクレオシド のデオキシリボースにリン酸が結合したものをデオキシヌクレオチドと呼ぶ。ヌクレオチド は核酸の最小単位である。糖 にリボースを用いる核酸はリボ核酸 (RNA) という。

ヌクレオチド分子は、リン酸 を介したフォスフォジエステル結合 で連結し、鎖状の分子構造をとる。フォスフォジエステル結合には方向性があり、複製、転写のときはこの方向性に従う。

2本の逆向きのDNA鎖は、相補的な塩基 (A/T, G/C) による水素結合 を介して、全体として二重らせん 構造をとる。この相補的二本鎖構造は、片方が鋳型となりDNAの複製を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。

長さは様々で、長さの単位は二本鎖の場合 bp(base pair:塩基対)、一本鎖の場合 b または nt(base、nucleotide: 塩基、ヌクレオチド)。

[編集 ] 細胞内でのDNA

原核生物 においてDNAはむき出しで存在し、細胞質 で核様体 を形成する。

真核生物 においてDNAは細胞核 内に存在し、ヒストン と結合して染色体 を形成している。ちなみに動物細胞は直径が1000分の5ミリメートル程しかないが、その中のDNAをつなげてまっすぐに伸ばすと2メートルにも達するため、普段は非常に高度に折りたたまれている。

またオルガネラ でもミトコンドリア や葉緑体 は独自のDNAを持つ。このことがオルガネラの由来に関する膜進化説 に対する細胞内共生説 の証拠であるとされている。形状は環状のものもあれば、そうでないものもある。

細菌 や酵母 などではDNAは環状のプラスミド として存在する。

[編集 ] 遺伝情報の担い手としてのDNA
DNAの複製
拡大
DNAの複製

全ての生物で、細胞分裂の際の母細胞 から娘細胞 への遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。DNA の複製はDNAポリメラーゼ によって行われる。(詳しくはDNA複製 を参照のこと)

DNAが親から子へ伝わるときにDNAに変異 が起こり、新しい形質 が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。

細菌 など分裂 によって増殖する生物は、条件が良ければ対数的に増殖する。その際、複製のミスによって薬剤耐性 のような新たな形質を獲得し、それまで生息できなかった条件で生き残ることができるようになる。

有性生殖 をする生物において、DNAは減数分裂 時の染色体 の組み換えや、配偶子 の染色体の組み合わせにより、次世代の形質に多様性が生まれる。


[編集 ] 生命の設計図としてのDNA

DNAは生命の設計図とよく言われるが、これはDNAの塩基配列がタンパク質 のアミノ酸 配列に対応しており、生命現象の大部分はタンパク質が担っているため、「タンパク質の設計図」=「生命の設計図」ということである。

DNAのタンパク質をコードする部分は外部からの刺激に応じ、RNAポリメラーゼ により、mRNA に転写される。その後、mRNAはリボソーム 内でタンパク質に翻訳される。(転写 、翻訳 を参照のこと)

連続する3つの塩基配列により、1個のアミノ酸がコードされる。これにより4種しかない塩基が20種のアミノ酸をコードすることができる。(コドン を参照のこと)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%
83%87%E3%82%AA%E3%82%
AD%E3%82%B7%E3%83%
AA%E3%83%9C%E6%A0%
B8%E9%85%B8


検討問題:自己認識方程式のiと-iの意味について
私は、作業仮説ないし思考実験的に、明日野氏の自己認識方程式を一般事象に転用させて使用していることを、お断りして、検討を続けたい。
 明日野氏は、+1が光の方向、−1が闇の方向、そして、iが天の方向、-iを地の方向と提起されている。+1と−1は、いわば、現象空間の実数空間の事象であり、水平方向であり、光と闇の方向というのはわかりやすい。
 問題は、iと-iの空間的意味である。ここでも、直観から考察していきたい。 (i)*(-i)は、直観的に言えば、コスモスである。コスモスは、いわば、不可視的原宇宙であり、地霊的であり、心霊的であり、精神的であり、心身的であり、気的である。いわば、精神的運動性をもつのである。あるいは、精神的力動・エネルゲイアをもつのである。これは、心眼で見えるのである。たとえば、遠くの山の頂を見るとき、心象として、心的力動的に、上昇したり、下降したりしているのである。これは、コスモスの動きと言っていいだろう。
 また、遠くの山並を見つめていると、私が山と一如になったり、あるいは、通常のように分離したりするのである。つまり、私と山が即非関係にあるのである。これらが、 (i)*(-i)の事象であろう。平明に言えば、私は山であり、且つ、山ではないということである。あるいは、山頂は、上昇したり、また、下降しているのである。
 そう、ここで、整理しておくと、+1や−1の実数は、現象空間の事象である。同一性、個体・個物である。しかるに、 (i)*(-i)は、内在超越空間・虚空間・虚次元の事象である。だから、私と山との即非事象は、内在超越空間の事象であり、私=i、山=-i となるだろう。私の感じでは、私と山とが一如になるというのは、私の-iを介してである。つまり、私の内在的な-iを介して、私と山が共振しているのである。そう、私の-iとは、身体の方向であり、下方であると言えよう。だから、明日野氏の説くように、-iを地の方向、大地の方向とするのは、適切であると考えられるだろう。そう、私の身体の-iを介して、私は、コスモスと一如なのである。D. H. ロレンスのコスモスとは、まさに、身体精神的コスモスであり、身体の-iを介していると言えるだろう。ということで、明日野氏の立論が納得できたのである。
 ところで、近代的自我ないし近代合理主義であるが、以上の考えからすれば、-iを否定・排除・隠蔽して、 (i)*(i)の関係になっていると言えるだろう。思うに、 (i)*(i)⇒−1の−1が反差異・連続的同一性であり、物質であろう。カントの時空間形式である。超越論的形式とは、 (i)*(i)のことではないだろうか。それを、近代唯物科学は、無視して、−1という数量形式を物質単位としているように考えられよう。フッサールの生活世界とは、+1の世界である。差異的同一性の世界である。そして、差異共振シナジー的現象空間である。これは、芸術空間でもあろう。
 先にも触れたが、近代とは、+1と−1の二元的に分裂した時代であり、とりわけ、−1が、唯物科学・技術・資本として肥大化したと言えるのである。デカルト哲学は、明らかに、二元的であった。今日、スープラ・モダンsupramodernの時代においては、−1を否定して、+1の世界を形成する必要があるのである。差異共振シナジーの世界を形成する必要があるのである。結局、これは、自己他者である自己身体ないし自己身体精神の発見によるのではないだろうか。仏教的に言えば、瞑想・座禅の必要である。しかし、理論的には、「イデア」を認識することである。現象空間を内在超越(超越論)化した、「イデア」空間・虚空間を認めることである。もっとも「イデア」空間とは、メディア空間のことである。
 ついでに言うと、アメリカの哲学者パースの説く連続性とは、差異共振シナジーに近いのではないかと予感されるのである。

連続性の哲学 (文庫)
C.S. パース (著), 伊藤 邦武 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/
4003368819/sr=11-1/qid=1164109230
/ref=sr_11_1/250-0266631-2970646

 さて、後の大きな問題は、イデア界とメディア界との関係である。


2006年11月20日(Mon)▲ページの先頭へ
自己認識、近代的自我、スープラ(シュープラ)・モダンsupramodern
今は、簡単に触れるが、明日野氏の独創による自己認識方程式、即ち、(i)*(-i)⇒+1をベースに考察すると、(i)*(-i)は、虚軸・虚次元・虚空間(メディア空間)に存立し、+1は、実軸・実次元・実空間(現象空間)に存立するのであるが、この垂直から水平への降下的回転は、エネルゲイアによるものと考えられよう。即ち、(i)*(-i)において、*が±エネルゲイアになると考えられよう。そして、+エネルゲイアのとき、⇒+1となり、−エネルゲイアのとき、⇒−1となると考えることが出来るだろう。前者がコギト哲学であり、後者が近代合理主義ではないだろうか。つまり、近代において、前者の差異的同一性と後者の反差異・連続的同一性が同時発生、対生成するのではないだろうか。つまり、自己が分裂するのである。それを、デカルト哲学が提示しているのではないだろうか。
 スピノザ哲学とフッサール現象学のブレーク・スルー的創造性は、後者の否定性や連続性を超克して、純粋に前者の世界へ跳躍する方法を発見したことにあると思われるのである。つまり、言わば、自然発生的な、反動性を克服して、純粋に能動的世界へと飛躍したことにあると考えられるのである。つまり、自然発生においては、プラスとマイナスのエネルゲイアの対発生が生起するのであり、能動と反動がセットになっているのである。しかし、スピノザとフッサールは、この自然性に対して、反動性を克服する方法を提示したと考えられるのである。即ち、−エネルゲイアに対して、それを否定するのではなくて、−を掛けたのである。つまり、(i)*(-i)⇒(i)±(-i)⇒±1に対して、(i)±*±(-i)の作業を行ったように思えるのである。すると、(i)*(-i)⇒ +1のみとなるのである。反転はないのである。この対抗自然的知性、能動的精神によって、メディア空間は、対発生を脱して、差異共振シナジー空間となるのである。つまり、スピノザ/フッサール哲学によって、ほとんど、プラトニック・シナジー理論の根幹の様相は創造されていたと見ることができるのである。これは、自然的態度を陶冶したことになるだろう。あるいは、自然的態度の矯正である。連続的同一性に帰結する自然過程を切断超克したと言えるのである。そして、これは、自然過程の終局態である現象空間を越えた虚空間・虚次元への到達と呼べるのである。超現象空間・超自然空間への飛翔である。換言すると、超時空四次元空間への飛躍である。ウスペンスキーの考えに拠れば、超越次元である時間空間次元への跳躍である。第四次元時間空間である。永遠の空間次元である。即非の空間次元である。コスモスの次元である。太極の次元である。「イデア」の次元である。
 今、私の想定するところは、これは、原点回帰なのである。イデア界回帰なのである。零度も解消されて、無になったのである。絶対無である。絶対的差異共立・共在である。これにより、連続性が解体されるのである。「脱構築」が生起するのである。つまり、差異が絶対的差異、絶対的単独性、絶対的特異性、つまり、純粋イデア(前イデアと呼んだ方が正しいのかもしれない)に還元されることで、一切の連続性・連続的同一性が破壊されるのである。そして、ここから、再び、零度化するときには、脱連続化しているのであり、差異共振シナジーが発生すると考えられるのである。喩えるなら、イデア界回帰が、親鸞の往相回向(おうそうえこう)であり、差異共振シナジー発生が、還相回向(げんそうえこう)に当たるだろう。今の私の考えでは、最初の1/4回転に対して、これは、3/4回転なのである。2/4回転が、イデア界回帰である。
 そうならば、差異共振シナジー次元が四次元ならば、イデア界は五次元であろう。思うに、不連続的差異論が創造されてまもなく、私は、コの字型の図を書いて、上部の横線がイデア界で、縦線がメディア界で、下部の横線が現象界であると、直観したのであった。これは、今の想定から見ると、正しいと言えるだろう。そして、イデア界・第五次元空間とは、いわば、プロト・コスモスであろう。虚次元の虚次元ではないだろうか。とまれ、絶対無空間であるが、絶対的差異共立空間である。思うに、これは、真言密教で言うと、金剛界曼荼羅に相当するのではないだろうか。そして、胎蔵界曼荼羅が差異共振シナジー空間に当たるのではないだろうか。(これも、以前述べたことだと思うが。)つまり、イデア界が金剛界曼荼羅で、差異共振シナジー空間が胎蔵界曼荼羅であるということである。仏教の三層界があるのである。無/空/色である。
 ここで少し整理すると、スピノザ/フッサールは差異共振シナジー空間を創造的に到達し、キルケゴールやニーチェは、絶対的差異のイデア界へと到達した。そして、不連続的差異論は、後者と同様にイデア界に回帰したが、理論的進展によって、スピノザ/フッサールの差異共振シナジー空間を形成することになったのである。即ち、プラトニック・シナジー理論の創造である。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論によって、自然過程のエントロピー路線、自然破壊路線から脱却できるロジックが生まれたと言えよう。自然反動的な資本主義も、これによって、超自然能動的資本主義に転換することができるようになったと言えよう。カオスからコスモスへである。因みに言えば、カオスとは、この場合、メディア界の±エネルゲイアの対発生が起源であると言えるだろう。自然は、いわば、カオスモスなのである。それは、創造であり、破壊であるのである。しかるに、プラトニック・シナジー理論は、超破壊的創造理論である。近代主義という創造/破壊主義に対して、スープラ(シュープラ)・モダンの理論と呼べるだろう。そう、シュープラ・ネイチャである。


   




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