女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション |
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2008年02月25日(Mon)
女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション
先に以下のようにメモ書きした。
「女性のエロチシズムと超越エネルギーとしてのファッション テーマ:美術・アート ファッションについて、その超越エネルギー性ないしはファンタジー性を指摘したが、女性のエロチシズムは本来、Media Pointの開放系における超越的エネルギー(差異共鳴エネルギー)と考えられるので、ファッション志向とは女性のエロチシズムを意味するものではないだろうか。後でもう少し丁寧に考察したい。」 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10075309493.html どうも、女性のエロスないしはセクシュアリティとは、プラトン主義的ではないかということがだんだん確信に近くなってきた。上記する以前に、私はプラトンとは女性ではなかったのかとふと「妄想」したものである。 考えてみると、イデア論とは、前父権主義・前アーリア民族、即ち、母権文化の最後の名残を受けて生じた哲学であると私は考えている。つまり、太母神を哲学的に理論化したものがイデア論ではないのか思っている。また、確かに、古代ギリシアの父権文化の影響下に生まれたものであることも確かである。しかし、ベースは太母文化である。 よく知られたようにプラトン哲学はエロースの哲学、イデア界へのエロースの哲学である。そして、また、美少年を愛することに存する哲学である。異性愛ではないのである。 先に私は、女性作家が描く裸婦の不思議なエロチシズムについて言った。それは、一種同性愛的なエロチシズムである。それを、私は、プラトニック・エロチシズムとも言ったりした。 そのようなことから考えると、やはり、女性のエロチシズムは、超越的エロチシズム、つまり、プラトニック・エロチシズムであると考えられるのである。それは、感覚を超越するエロチシズムである。官能を超越するエロチシズムである。もっとも、官能・感覚性を否定するのではなく、それを介して、超越性へと志向するエネルギーということである。 ここからいろいろなことが考えられる。西洋哲学が起源のプラトン哲学をいまだに捉えられないのは、それが本質的に女性のエロチシズムの哲学であるからではないのか。ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、ハードな父権文化である。父権主義、同一性中心主義(ロゴス中心主義)では、プラトン哲学は捉えられないと考えられるのである。 そう、また、女性が一見どうしてプラトン哲学に魅かれないのかという問題もある。女性の本質はプラトニストだと思う。だから、プラトン哲学は自明なのではないだろうか。女性の意地悪さがあるだろう。 そう、また、プラトン哲学は、東洋文化、とりわけ、神道・多神教・太母文化が把捉することができるはずである。プラトニック・シナジー理論が日本で生まれたのは、その点で必然性があると考えられる。後でさらに考察してみたい。 p.s. ニーチェがもし真理が女性のようなものだとしたら、これまで、哲学は真理を捉えそこなってきたのであり、鞭をもって女性(真理)のところへ行かなくてはならない云々と言っていた。 真理が女性のようなものというのは、正しいが、鞭をもっては、どうだろうか。確かにじゃじゃ馬的性質もあるだろう。 馬で思い出したが、白い馬と黒い馬の比喩があった。これは、前者がプラトニック・エロースであり、後者は感覚中心の欲望である。前者が女性のエロースであり、後者が男性のエロースではないのか。天上のエロース(天上のヴィーナス)と地上のエロース(地上のヴィーナス)。 ニーチェのディオニュソスにしろ、ツァラトゥストラにしろ、それは、太陽神である。天照大神である。ニーチェは、ほとんど、トランス・モダンであった。 参考: パイドロス 美について プラトン 著、藤沢令夫 訳 岩波文庫 それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。 (中略) 神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。 p.53-54 ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。 エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。 ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。 無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。 この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。 内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。 こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。 それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。 p.96 さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。 しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、 魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。 Project Gutenberg による英文テクスト Plato "Phaedrus" http://w_passage.at.infoseek.co.jp /book/i-nonfiction10.htm *************** 哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス - 今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。 「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。 体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。 全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。 美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。 アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。 http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19 古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ |
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