日本覚醒計画:日本の政治・経済・社会・歴史・文化:ニッポン亡国の

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2007年10月07日(Sun)▲ページの先頭へ
今日における霊性の目覚め:知的霊性・批判的霊性・合理的霊性の発現
今日における霊性の目覚め:知的霊性・批判的霊性・合理的霊性の発現

テーマ:新霊性new spirituality

今日、霊性の復活が確かに起っていると思う。正確に言うと、知的霊性の復活である。新霊性主義、批判的霊性主義、合理的霊性主義とでも呼べよう。
 今は、余裕がないので、詳述できないが、以下の番組に霊性を感じた。ミャンマーで殺害された長井さんの問題は複雑であるが、一言言えるのは、長井さんは、彼の霊性に従って行動したことである。凡人には、向こう見ずと思われるだろうが、彼は前世の誓いから、勇敢な記者となり、世界やミャンマーの凶相を伝えたのである。彼は、現代のヘルメス神である。とまれ、長井さんは、グレードアップして輪廻転生するだろう。復活するのである。今生での「天職」を成就したのである。
 さて、話題は変わって、ヤーボ・ネルヴィ指揮のマーラー交響曲第三番であるが、第一楽章は、マーラーの曲でできの悪い楽章ではないだろうか。演奏も散文的である。しかし、その他は、入魂の指揮で、精神性があった。マーラーという音楽芸術家は、現代的問題をもっている。彼は明らかに、分裂していた。一方では、深い精神性をもっていた。ブルックナーと通じるような、あるいは、それ以上の精神性を表現したが、同時に、感覚的表現に堕してしまうことが多かった。精神と感覚の分裂、ここにマーラー音楽の本質があるだろう。
 これは、一般には、「モダニズム」芸術の矛盾に通じよう。一方では、精神・霊的次元を志向しつつ、同時に、感覚中心主義である。これは、相反的なので、表現が必然的に分裂するのである。詩人では、T. S. エリオット、エズラ・パウンド、小説家では、ジェイムズ・ジョイス、画家では、カンディンスキー、モンドリアン、音楽家では、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、等をあげられるだろう。
 彼らは、ポスト・モダン的である。しかしながら、トランス・モダン的作家もいた。宮沢賢治、D.H.ロレンス、等である。


2007.10.7

動画を見る
ミャンマー軍事政権、
邦人ジャーナリストを射殺

取材中の日本人ジャーリスト長井健司さんの命を奪ったミャンマー軍の銃弾。
緊迫の現場を長井さんが撮った映像47分32秒から分析。

http://www.tbs.co.jp/houtoku/index-j.htm




                         奥田 佳道
 − 海外コンサート −

 ▽ネーメ・ヤルヴィ70歳記念コンサートほか

「カンタータ“北の海岸”」            カップ作曲
                       (5分39秒)
              (合唱)エストニア国立男声合唱団
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
                  (指揮)ネーメ・ヤルヴィ

「かつて私は美の言葉を3つ持っていた
        〜男声合唱とフルートのための詩」トルミス作曲
                       (6分09秒)
               (フルート)マーリカ・ヤルヴィ
              (合唱)エストニア国立男声合唱団
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
                  (指揮)ネーメ・ヤルヴィ

「交響詩“フィンランディア”作品26」    シベリウス作曲
                       (8分05秒)
              (合唱)エストニア国立男声合唱団
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
                 (指揮)パーヴォ・ヤルヴィ

「弦楽オーケストラとフルートのための3つの小品
      “谷にて”“川の上で”“牧草地で”」エッレル作曲
                       (7分40秒)
               (フルート)マーリカ・ヤルヴィ
              (合唱)エストニア国立男声合唱団
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
              (指揮)クリスティアン・ヤルヴィ

「組曲“アラジン”作品34から
   “オリエンタル・マーチ”“イスファハンの市場”
               “黒人の踊り”」ニールセン作曲
                      (12分21秒)
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
              (指揮)クリスティアン・ヤルヴィ

「ファウスト交響曲」               リスト作曲
                   (1時間00分24秒)
                (テノール)ユハン・タラッラ
              (合唱)エストニア国立男声合唱団
              (管弦楽)エストニア国立交響楽団
                  (指揮)ネーメ・ヤルヴィ
  〜エストニア・コンサート・ホールで収録〜
                   <2007/5/26>
  (エストニア放送協会提供)

「交響曲 第3番 ニ短調」           マーラー作曲
                   (1時間37分56秒)
           (メゾ・ソプラノ)ワルトラウト・マイア
                (合唱)ライプチヒ放送合唱団
               〃 リンブルク大聖堂少年合唱団
            (管弦楽)フランクフルト放送交響楽団
                 (指揮)パーヴォ・ヤルヴィ
  〜ドイツ・エーベルバッハ修道院で収録〜
                   <2007/6/23>
  (ヘッセン放送協会提供)
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/
ch.cgi?area=001&date=2007-10-07&
tz=now&ch=07

An Exit Toward Soul-Searching
It had been four days since Meghan O'Sullivan left her job at the White House. Just four days since she gave up her Secret Service pass, her classified hard drive and her entree to the president. Four days since she gave up any day-to-day responsibility for Iraq.
(By Peter Baker, The Washington Post)

Iraq Embassy Cost Rises $144 Million Amid Project Delays
Planning, Workmanship Cited as Problems
(By Glenn Kessler, The Washington Post)

Negative Perceptions Dogging Clinton Among Voters in Iowa
(By Dan Balz, The Washington Post)

In the World's Rural Outposts, A Shortwave Channel to God
(By Kevin Sullivan, The Washington Post)

Koreans, Hispanics Work for Harmony
Cultures Can Clash In On-the-Job Mix
(By Cecilia Kang, The Washington Post)


2007年10月06日(Sat)▲ページの先頭へ
Made-In-USAの戦後亡魂似非日本から、トランス・モダンの真正日本転生へ向けて
森田実氏は次のように書いている。『岸信介が、CIAから政治資金をもらうのと引き替えに「日本への核持ち込み」を認めただけでなく、日米安保条約により、日本が半永久的に米国政府に軍事基地を提供し、日本を米国政府の従属国に固定化したことが、本記事によって明らかにされた。われわれは、自民党政治とは何だったのか――このことを、根本から見直さなければなければならない。』
http://www.pluto.dti.ne.jp/
%7Emor97512/C03742.HTML

岸信介ないしは自民党とアメリカ政府との「癒着」は、これまでの日米史から推測できることであり、今度の記事で確証できたということである。私が知りたいのは、戦後教育のことである。戦後民主主義、近代合理主義を中心とした戦後教育が、どういう背景で生まれたのかである。


連合国軍最高司令官総司令部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦 終結に際してポツダム宣言 の執行のために日本国土の大部分を占領 し、事実上の統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本 では「GHQ」という通称が用いられた。進駐軍総数は20万人、うち12万人が横浜市 に上陸した。

マッカーサーを訪問した昭和天皇(1945年9月27日撮影した3枚のうち9月29日に公開された1枚)
マッカーサー を訪問した昭和天皇 (1945年9月27日 撮影した3枚のうち9月29日に公開された1枚)

基本情報

日本がポツダム宣言 を受諾した1945年 (昭和 20)9月から1952年 (昭和27)4月28日 の日本国との平和条約 発効までおよそ6年9ヶ月の間、日本占領に当たる連合国軍(最大43万人)を統括し、日本の最高統治権限を与えられた。最高司令官はダグラス・マッカーサー 陸軍元帥。1951年 (昭和26)4月16日 よりマシュー・リッジウェイ 中将(就任直後に大将に昇進)。

連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。占領軍の命令の多くは1945年(昭和20)9月20日 の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆるポツダム命令 (ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。1946年 (昭和21)2月には政策決定の最高機関として極東委員会 が、4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会 が設置されたが、実質アメリカによる統治という性格は変わらなかった。

日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。』


これを読むと、戦後日本とは、それまでの日本とは不連続なのではないだろうか。つまり、戦後日本とはアメリカ(連合国軍?)によって、解体されて、新たに人造された国家ではなかっただろうか。つまり、極言すれば、似非日本である。アメリカによって外科手術されて、身も心もアメリカ主義となったメイド・イン・アメリカの「日本」ではなかったのか。戦後日本国家のOSがアメリカ製なのである。戦前の日本を全否定するようにプログラムされたメイド・イン・アメリカ・ポストウォー・ジャパンだと考えられるのである。
 岸信介とCIAの密約はいわばその副産物ではないだろうか。土台は、GHQによって構築されていたのではないだろうか。
 とまれ、私はこれまで、戦後日本の唯物論化は、アメリカによる懐柔によるものではないかと思っていたが、それよりも、根本的に、戦後日本とは、連合国軍=アメリカによる人工国家「日本」なのであり、サイボーグのような国家であるということではなかったかと認識を深めた次第である。
 魂や脳髄が、入れ替わって、Made-In-USAの民主主義・近代合理主義になってしまったのである。身体は日本であっても、もはや別人である。日本は、端的に、滅びたのである。滅亡したのである。魂が抜かれて、亡魂の国家・国民となったのである。機械国家・機械国民となったのである。
 つまり、日本は敗戦で死んだのである。そう考えると、戦後日本、そして、現代日本の亡国状態がよく説明できるのである。そう、アメリカに憑依された日本である。真正日本の魂は幽体離脱して、どこかへ行っているのである。脱け殻日本である。思うに、三島由紀夫に憑依した魂たちこそ、真正日本の魂魄たちであったのではないだろうか。
 死んだのだから、輪廻転生して、真正日本の復活が必然である。


2007年10月03日(Wed)▲ページの先頭へ
亡国日本の霊的超克・霊的ルネサンスへ向けて
戦後の唯物論による日本人洗脳とは、思うに、アメリカと岸信介による、日本人支配の方策によるものではなかったのか。少なくとも、日本人に精神を捨てさせたナニカがある。やはり、アメリカの占領政策が大きいと思う。日本人を精神的に去勢させる占領政策である。後で、検討したい。そう、三島由紀夫の狂気の原因もここにあるだろう。三島は知的胆力が足りなかったとは言えるが。これは、大江健三郎の問題にもつながる。
 占領政策で、日本の政治家が肝を抜かれたということもあると思う。三島が天皇制を狂乱的に訴えたのは、やはり、精神の喪失によると言えよう。戦前の天皇制と日本人の精神は結びついていたのである。そして、戦後、人間宣言で、日本人の精神は瓦解した。折口信夫は、独り、新神道を夢見た。超越性の問題である。日本文化の超越性・霊性を否定されたのである。日本の霊性、これが、占領政策によって否定されたのである。霊的亡国である。亡国日本が甦るためには、ユダヤ/キリスト教西洋文明の霊的超克が必要である。霊的ルネサンスである。

注:次の論考の追記2を独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10049533732.html


「恐怖の大王」の郵政民営化を支持した日本人の《無知》の根源は何か:霊智・叡知ルネサンスへ向けて
「恐怖の大王」の郵政民営化が既に動き出したが、料金を見ただけでも、恐怖の「インフレ」であり、絶句する。
 あの二年前の狂気の小泉衆院選挙は何であったか。
(参考:http://ameblo.jp/renshi/archive1-200508.html )
一言で言えば、多くの国民が批判的思考力を失っていたということで説明できるだろう。マスコミ等の宣伝によって、洗脳されてしまったのである。これは、個として、思考し、生きていないことに原因がある。
 ただ、感情・欲望に囚われて、脱利己の知性によって思考していないことからくるのである。私は、何度も述べたが、前小泉首相に対する根本的な疑念があった。どうみても、あの話し方は、パフォーマンスにしか見えなかったのである。胡散臭かったのである。それが直観でわからないというのは、精神がなくなっている証拠である。
 ブログ等では、多くの憂国の士が居て、それが、ほとんど唯一の救いである。とまれ、どうして日本人は精神的知性を喪失したのか、簡単に述べたい。
 これは、ほとんど自明であるのだが、戦後の唯物論教育と物質主義的生活が原因である。唯物科学教育は、自我を強化して、自己へと変容する契機を提起しなかった。道徳教育云々は反動的である。哲学・叡知教育が必要である。
 つまり、日本が救われるには、叡知へのパラダイム・シフトが必要である。生まれ変わらないといけない。つまり、結局、郵政民営化を超克できなければ、財政的に没落零落する。アメリカ的格差が拡大する。思うに、日本人には、試練が必要である。今のような、無思想状態は亡国状態であり、亡国は必然である。
 だから、亡国からの新生を私は考えている。亡国で滅亡したままなのか、それとも、復活するのか、である。微妙なところである。
 とまれ、精神・霊智・叡知ルネサンスが必須である。

p.s. 是非、プラトニック・シナジー理論を学んでいただきたい。ポスト・モダン理論が致命的に不十分であったのであり、そのため、物質的現実に対する知性・叡知が衰退してしまったのである。プラトニック・シナジー理論はアンシャン・レジームである近代を乗り越える知性・叡知の武器である。



2007年09月10日(Mon)▲ページの先頭へ
第1回 病院にいられない 〜急増する医療難民〜
今日10日の番組を見たが、病院をたらい回しされる認知症の老人の患者のものであった。医療費の削減のため、長期に患者を置くと、
点数が下がるシステムを作ったためである。
 また、在宅医療の問題点も指摘されていた。医療と介護の連携がないという点である。
 私は介護を約9年やってきたので、その凄まじい労苦を知っている。それは殺人的である。拷問である。介護スパイラル、介護蟻地獄、介護泥沼に陥るのである。仕事があり、家族内で連携がない場合がたいへんである。
 私は前から、福祉の問題は徹底してやるか、あるいは、現代姨捨山を作るかと言ってきた。確か、村上龍の『希望の国のエクソダス』で、子どもが現代姨捨山発言をしていたと思う。
 私は累進課税強化を主張する。富裕税を多くとるべきであり、また、給与を上げるよりは、貧困層の減税を行なうべきと考えている。また、道路のための公共投資は要らない。国家・地方公務員の大幅な削減が必要でもあろう。亡国的な遊興のテレビ番組を廃止すべきである。
 思うに、若い介護士、看護師等を増やすべきである。医療・福祉を充実すべきである。コムスンは言語道断である。
 


月曜日 10日の放送番組

金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット
第1回 病院にいられない 〜急増する医療難民〜
(再)シリーズ社会起業家の挑戦 “ヤド”で街を変えていく


火曜日 11日の放送番組

金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット
第2回 病院がつぶれる 〜地域医療は守れるか〜
(再)シリーズ社会起業家の挑戦 “オフィスマッサージ”をどうぞ

水曜日 12日の放送番組

金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット
第3回 病院にかかれない 〜危機に立つ国民皆保険〜
(再)この子はこの子なんやから 〜弁護士・大平光代さん ダウン症をめぐる対話〜


木曜日 13日の放送番組

金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット
第4回 医療制度・崩壊をどう止めるか 〜金子勝の提言〜
(再)ゆっくり のんびり 〜香川 ひきこもりからの再出発〜


2007年07月29日(Sun)▲ページの先頭へ
日本の衰退という現実を認める:復興は可能か
日本の現状を理論的に言えば、近代主義の末期症状であろう。近代合理主義が物質主義・唯物論を形成して、拝金主義を助長した。経済的唯物論が蔓延した。
 人間主体から言うと、近代的自我主義であり、哲学的に言えば、同一性中心主義である。これは、反個人主義である。自我主義と個人主義は、似て非なるものである。
 この没個人主義を生む日本社会の圧力は何だろうか。私は、学生の頃、最近は見ないが、そして、その後、アクの強さで嫌いになったが、あるピアニストの話しを聴いて、個性が自分に足りないと思い、個性的でありたいと強く思うようになった。とまれ、個が重要であるという思想は、その後、変わらない。
 個は、自我とは正反対である。個は、自己に誠実であるのであって、外界は、言わば、二義的である。自我は、外界中心で、見えの世界、顕示の世界に生きている。人の目を気にして生きている。
 このように書いてくると、日本の衰退の哲学的意味が見えてくるだろう。没個主義で、自我中心主義になってしまったことだろう。
 創造、独創、アイデア等は、個主義から生まれるのである。政治家がわかりやすいだろう。政治家に個がなくなっているのである。世襲議員は、自力で切り開いて来なかったから、単に、自我が肥大しているだけである。
 個とは孤独である(個独)。孤独を恐れ、群れる日本社会には、未来はないだろう。
 そう、日本人全体が虚弱になっているのである。端的に言えば、退化しているのである。文学で言えば、大江健三郎の退化があるだろう。教養主義を模倣しているだけである。音楽、美術も枯渇しているだろう。科学嫌いも多い。
 何度も繰り返すが、これは、近代主義の帰結である。近代主義を乗り越えるはずだったポスト・モダンは、連続性に後退したために、近代主義の同一性構造を乗り越えられなかったのである。
 日本の未来は厳しい。退化する日本は、滅びるのだろう。


2007年07月12日(Thu)▲ページの先頭へ
この国のパラサイトな権力層の悪人の「知」の分析
先に、パラサイトな権力層の心理分析したが、なぜ、彼らは、一種読心術・透視術をもっているのか、あるいは、どうして、人を騙せるのか、考えたい。
 思うに、彼らは、一種二重人格なのである。表面的には、善人ぶっているジキルであり、また、本人も、そうだと思い込み、自惚れているだろう。
 しかし、そのジキルと、言わば、一如(いちにょ)となったハイドが存しているのである。これは、本来、ジキルの同一性から否定された差異であるべきものであるが、否定態となっているために、影・シャドウになっているのである。
 そう、これこそが、本来の善が生まれる基盤であるが、それが、否定態となり、悪となっているのである。
 つまり、パラサイトな悪人どもは、単に、同一性に優れているだけでなく、本来、差異をもっていたが、それが、育ちや環境等を通して、歪み、否定態となってしまっているのである。
 一種、トラウマによって、差異が差異として、発展させずに、否定態として、彼らには、存しているのである。ここに、彼らの、悪の根源があると言えよう。
 この否定態の差異は、否定態ではあっても、もともと、差異であるから、自己と他者を切り離して、他者を観察するのである。これが、彼らの読心術・透視術の根拠ではないだろうか。やはり、堕天使・悪魔ルシファーである。差異が、歪み、捩れて、悪用されるのである。
 だから、彼らは、平々凡々の国民よりは、一種、優れているのである。とても、危険な存在である。普通の国民は知的には、かなわないだろう。
 だから、国民には、知的守護神が必要である。本来、知識人がその役割をすべきなのであるが、知識人自身が、悪魔の手先になっているのである。
 とまれ、以上から、パラサイトな悪人の「知」をこれで分析したこととしよう。先の心理分析よりも、よくなっているのだろう。


2007年07月11日(Wed)▲ページの先頭へ
日本国のパラサイト群=癌細胞である政官財の悪徳権力家の心理について:または、権力亡者心理分析
日本国を食い物にしているパラサイトな権力亡者たち。
参考:『きっこの日記』:「国による大犯罪の告発!」
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070711
私は、彼らは、同質の心理ないし性格をもっていると感じるのである。というか、悪人特有の心理があると思うのである。ということで、それを分析したい。権力的悪人心理分析。
 端的に、彼らは、腹黒いのである。表面を飾るのが巧みである。そう、彼らは、一種すぐれた読心術や透視能力をもっている。人心を読むのが巧みなのである。お人よしの日本国民はいいカモである。これは、支配者の能力である。西洋人が、非西洋人を、過去、現在、支配してきたのは、この能力があるからである。
 神話でいうと、堕天使ルシファーであろう。神に近いものでありながら、傲慢で天から落とされて、悪魔になったのである。
 そう、彼らは、人心を読み、騙して、略奪することにたけているのである。つまり、国民のためを装って、自らの物質的権力欲望の満たすため、国民を騙すのである。
 そう、彼らは、「エリート」である。国民より、自分たちの方が、優秀だと思っているのであり、自分たちが、権力によって、私利私欲を満足させるのは当然と思っているのである。だから、年金にしろ、政治資金にしろ、偽装問題にしろ出て来るのである。
 傲慢さがあるのは、当然であるし、また、私がこれまで、解明してきた近代的自我をもった人間どもである。ニーチェで言えば、ルサンチマン(怨恨)をもった者どもである。自分は、才能があるのに、その対価を得ていないという不満をもっているのである。
 そう、同一性能力に秀でているのであり、これは、認めるべきである。ただ、彼らには、非凡なものとなるための差異が根本的に欠落しているのである。だから、優秀な凡人的悪人なのである。
 日本国民は、一般に、騙されやすいタイプである。人を疑うことをあまりしない、というか、物事を深く考えないタイプである。批判的知性が欠落した国民である。だから、パラサイトな悪人どもは、易々と、騙せるのである。国民が物事を皮相に捉えるので、権力亡者どもは、皮相を取り繕うのである。
 国民が、批判知性の訓練を受けていないから、易々と、表面的に誤魔化せるのである。個として、差異として、特異性として、自己を捉える人ならば、権力亡者どもは、直観的にわかるものである。この隙をパラサイトな権力的悪人は、利用するのである。ある意味で、国民自身のツケ、自業自得性はあるが、しかし、知にたずさわる者が、批判知性を欠落させているので、国民だけを責めるわけにはいかない。
 彼らの同一性的悪賢さとまた、執念深さを忘れてはいけない。嫉み深いのである。隙あらば、人を、常に、貶めようとしているのである。憎悪の塊である。
 同一性に長けているので、言葉がうまいのである。騙しの才能の天性をもっているのである。羽賀研二のようなものである。
 結局、彼らを、権力の座から、外すためには、国民の英断が必要である。鬼は外である。


2007年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
暴力への対抗と暴力を超えるもの
「日本の行く末」に対する
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10034385334.html
blogihiro-dive様からコメントがありました。また、それへの私のコメントを書きましたので、ここに掲示します。
 また、関連するKaisetsu氏の記事を引用します。

____________________


■今の時期の憲法改正(九条)には反対です

憲法改正それ自体に反対ではありません。なぜなら現憲法がGHQの意図を含んでいる以上、自国民による自国民の憲法が必要と思うからです。将来的には九条を改正し自衛隊は国防軍と改めるべきでしょう。なぜなら、現憲法の条文を読む限りにおいて、明らかに違憲であるからです。ただし、本ブログにも記述しておられるように、今の憲法改正論はアメリカの外圧に対応するものであって、自国民のなかから湧き出たものではないことは事実です。同時にアメリカのいう対テロ戦争(でっちあげ)に参戦することには反対します。暴力に対する暴力は、いかにそれを正当化しえたとしても暴力を産む装置でしかない。ちょうどハイデガーが形而上学を解体するために形而上学をもちだすようなものです。結果は混乱を産むだけです。
bloghiro-dive 2007-05-22 22:44:17 [コメント記入欄を表示 ]

■暴力への対抗と暴力を超えるもの

blogihiro-dive様

どうもコメントありがとうございます。
正に、外圧による憲法改正の動きだと思います。
また、暴力に対するに暴力は、暴力を産む装置というのは、そうだと思います。
 私が考える国防軍は、戦争という暴力への抗体です。これは、免疫機能を考えれば納得できると思います。
 そして、戦争をもたらそうとするものに対しては、経済的互恵関係を築いて、戦争を解体していくことが必要だと思います。
 戦争の脱構築は、決定不可能な差異共振関係の構築だと思います。

p.s. 最後の「決定不可能な」という言葉は誤解を生むかもしれないので、明確にしておくと、それは、「特異な」ということである。特異性をもつということである。

_______________


国防軍を創設すべきである
Renshi氏の見解である。大きな方向性として同感である。海舌の考えは、これに加えて、官僚制の解体とアジア的感性の育成、個の尊厳の確立である。プラス、希望として無税国家である。自民・民主のPHPグループは松下幸之助氏の意思を忘却している。教育について補足すると、小学校・中学校というレベルは、古今東西、必要な項目・内容は定まっている。本来、誰でも教えられるもので、今日ではテレビやウェブなどでも十分である。興味を持って持続的に一定の時間勉強すれば足りる。単純労働者に撤するべきである。また、この段階で自発的に昇級できるなら、ドンドン、進級させるべきだ。高校以上になると、本人の素質とか能力、才能、興味の分野、将来の希望など、多様な選択が必要である。一律的に年齢が同じだといって、同じテストを受けさせたり、一律に同じ教室に入れる必要は無い。成績の評価は困難になっていく。音楽や数学、物理、体育、芸術などでは高校生でも教師を凌ぐ実力や才能を現す生徒が出てくる。また、逆に、義務教育で一度社会に出て、社会的な経験から体で学び、その後、知的な教育に戻る方が良い生徒も多く居る。彼等を学校に縛ることは人的資源の喪失だ。安藤忠雄氏などは、その良い例であろう。エジソンやアインシュタインも同じだ。これは普通のことなのである。高校、大学の教育は創造性や高度な知性を必要とする。中高を一貫にしたのは間違いである。小中と高校大学を纏めた方が良い。また、もしアジア諸国の同意が得られるなら、アジア人のアジア人によるアジア人のための『アジア防衛軍』を創設するべきであろう。⇒ グッドアジアの兄弟姉妹よ!われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。岡倉天心 




http://blog.kaisetsu.org/?day=20070522
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2007年05月22日(Tue)▲ページの先頭へ
日本の行く末
時局に関する本を斜め読みして、やはり、アメリカは悪の権化であると思うし、それににらまれて、生き血を啜られている国民はたまったものではないと思う。
 思うに、端的に言って、戦争はよくない。戦争でビジネスしているアメリカ等は、超極悪人である。それを誰が裁くのか。そう、確かに、摂理があるだろうが、まだ、遠い先であろう。
 しかし、ブーメラン効果がある。悪いことをすると、それが、自分にブーメランのように返ってくるということである。これは、私としては、ありそうだと思うのである。
 アメリカは散々あこぎなことを世界にしたから、そのお返しが自国にやってくるだろう。
 とまれ、日本のことを考えなくてはならない。コナトゥス(自己保存)が大事である。
 安倍首相の行っている憲法改正は、日本のためには、ならない。アメリカ軍に属する日本軍を作ることになるからである。時期尚早である。
 日本は、独自のブレイン、戦略をもつべきである。戦争をしないで、平和に成長できるヴィジョンを構想すべきである。そのためには、経済を互恵的に展開していく必要がある。差異共振化である。
 まず、日本は、食料を自給できるようにしなくてはならない。農林水産業改革が必要である。また、エネルギーに関しては、多角的であるべきであろう。私は、海水、地熱、陽光等を活用した発電ができないものかと考えている。原子力であるが、これは問題が大きいが、使用するならば、きちんとした納得のできる管理をすべきである。役人体制がずさんである。
 そう、国力復興を目指すべきである。日本の大地を、海を、山林を、復興すべきである。農業を重視すべきである。この弱さが、日本人をうわついたものにしているのだ。
 また、国防軍を創設すべきである。これは、国民皆兵である。
 そして、教育である。初期は詰め込み教育が必要である。反復練習である。それから、思考訓練の教育である。私見では、日本語教育を明快なものにしないといけない。翻訳でもいい。明快な日本語を教えるべきである。
 また、神話や宗教や哲学を教えるべきである。これは、比較論的にすべきであろう。
 後、外国語教育を充実させないといけない。西欧語とアジアの言語の少なくとも、二つの外国語を学ばさせるべきである。




PS理論、自己認識方程式i*(-i)⇒+1について雑感

PS理論、とりわけ、Kaisetsu氏が創造した自己認識方程式は画期的である。
今思うと、それに似たような思想は、私なりにずいぶん昔に思いついていたと思われる。
 1994,5年だろうか、(ノートがあるので見ればわかるが)以下のような図を書いたと思う。

 超越的対極性

・・・・・・・・・
 
 現象


破線が、超越界と現象界を区別しているのである。そして、超越界には、対極性があるのである。しかしながら、当時は、当然、不連続的差異論は無かったから、私は、超越的対極性と現象とを連続化させて考えていたのである。だから、ネオプラトニズムの流出の考えに近いと言えよう。
 しかしながら、PS理論に近い考え方を、漠然とではあるが、昔にもっていたのである。


2007年04月28日(Sat)▲ページの先頭へ
近代的自我=男性的自我という悪:東洋・日本的精神の復活のために
今日の悪は、近代的自我すなわち男性的自我から生じていると見ていいだろう。

現代日本の閉塞を造っているのは、男性である。男性の自我、自我天狗である。

そう、明らかに、日本は、父権制の国である。

それも、自立していない幼児的精神の男性の国である。

そう、幼児的父権制なのである。きわめて、質が悪い。

原因の一つは、甘やかす女性にもあるだろう。

とまれ、精神が未熟な男性自我天狗の国である。

ここでは、連続的同一性自我が支配して、差異は否定されるのである。

前者の価値観は、とりわけ、アメリカ崇拝や欧米崇拝であり、奴隷的なのである。

やはり、明治維新の脱亜入欧イデオロギーが利いている。

日本的自己は、神道的精神と大乗仏教精神との融合の基盤として形成されたと考えられる。

これが、明治維新で、否定されて、舶来ものが崇拝されたのである。日本人の精神の根無し草化が始まったのである。

西欧の科学・技術を取り入れた、そして、戦後は、アメリカの物質文明を模倣した。しかし、アメリカのプロテスタンティズムは取り入れていない。

とまれ、日本の近代主義化が、日本の伝統的精神、自己精神を否定して形成されたと言えよう。「魂」なき知性の形成である。

傲慢な天狗たちの、不自由な監獄社会が作られたのである。

そう、日本の精神の復活のためには、やはり、神道/大乗仏教の融合的魂を取り戻す必要がある。

私は、宮崎駿の作品には、この魂があるように思えている。

東洋/日本的精神・魂を喪失した近代的自我天狗たちの檻社会日本。

東洋的精神、日本的精神を復活が必要である。しかし、復活するのだろうか。

なにか、絶望的になる。

そう、希望は、女性であるあろうか。女性の精神に、東洋的精神、日本的精神が宿る可能性はあるだろう。

野郎は、石化している。


2007年03月16日(Fri)▲ページの先頭へ
メディア・ポイントにおける連続化による全体主義と脱連続化によるトランス・モダン
メディア・ポイントにおける連続化による全体主義と脱連続化によるトランス・モダン

テーマ:ファシズム・全体主義

以下は、先の論考「ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化」
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10028115749.html
が長くなったので、後半のまとまった箇所をとり出したものである。
_________________

長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。

問題は、-1の場合である。

超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。

+1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。

つまり、「力」と「知」である。

「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。

それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。

理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。

ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。

後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。

AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。

しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。
リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。

とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。

ここに「知」の問題があるのである。

簡単にすれば、連続知と共振知である。

どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。

とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。

とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。

そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。

問題は、この否定された共振知である。

基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。

問題は、否定された共振知の様態である。

否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。

つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。

これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。

では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。

共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。

また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。

即ち、全体主義・ファシズムである。

ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。

これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。

近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。

ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。

真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。

ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。

ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。

そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。

では、一般にはどうなのだろうか。

男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。

だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。

そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。

差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。

ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。

全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。

超越性の問題である。

ここでどうも、考え直す必要があると思う。

実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。

連続的同一性から考え直さないといけない。

私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。

あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。

メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。

それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。

つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。

そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。)

以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。

(思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。)

そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。

そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。

しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。

つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。

ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。

そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。

ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。

そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。

あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。

そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。

二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。)

ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。

結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。

そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。

なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。

ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。

私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。

とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。

超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。

そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。

ブログは、いわば、モナドであり、特異点であり、脱連続化・脱全体主義のために相応しいメディアであると言えよう。


ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化
現代日本の反動の意味について再考しよう。即ち、小泉/安倍、石原等の反動路線、全体主義路線は、PS理論的にどういう意味をもっているのか。

結局、国家民族主義という自我「一神教」的父権的近代主義思想がここにはあるだろう。

現行憲法を改正しようとするのは、向上させるというよりは、国家民族主義(=国家統制経済=国家社会主義)を復活させるためであろう。

また、問題は、末近代である「ポスト・モダン」の、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の問題でもある。

理論的に言うと、勿論、連続的同一性という暴力の問題であるが、その起因が不明確なのである。

近代主義は、近代的合理主義的自我による連続的同一性であり、機械的な合理主義である。ここにおいて、他者が否定されるのである。

思うに、近代主義は、唯物論的科学・技術・経済を発達させてきたが、これが、飽和状態を迎えると言えると思う。

それが、末近代=「ポスト・モダン」の時代だと思う。

精神の腐敗・堕落が生じるのである。

そう、思うに、核心は、メディア・ポイントにおけるエネルギー様態の問題だと思う。

近代主義は、メディア・ポイント(以下、MP)において、エネルギーが、i*-(-i)⇒-1の様態に向ったと思う。自我主義且つ物質主義的エネルギー様態である。

この連続的同一性的エネルギーが流れているときは、それはそれで、能動態であろう。

しかしながら、i*(-i)⇒+1の差異共振的同一性のエネルギーも本来、潜在していると言えるのではないだろうか。いわば、デュナミスである。

MPにおける、エネルギー様態ないし様相が問題である。

超越的エネルギーが同一性エネルギーに変換するポイントである。

端的に言えば、虚数軸の超越エネルギーが存し、且つ、実数軸のエネルギーが発動している。両者のエネルギーがここにはあるだろう。

思うに、現象とは、本来、⇒+1である。差異共振的同一性である。

しかし、人間の場合が特殊で、⇒-1と⇒+1の両者に分岐すると思われるのである。

連続的同一性と差異共振的同一性が同時に生起すると思われるのである。

つまり、人間現象は、矛盾する2つの様態が生起するのである。しかしながら、女性の場合は、本来、両者のバランスが取れているように思えるのであり、男性の場合、前者に傾斜していると思うのである。

とまれ、成長は、それなりに、連続的同一性=自我を形成するようになるだろう。もっとも、差異共振的同一性=自己も、なんらかの方法で、形成するようになると考えられる。

しかし、近代主義においては、前者中心となり、後者が否定されるようになった。

だから、当然ながら、存在する後者は反転するはずである。

正確に考えよう。

ここでは、主に、男性の意識、男性の近代的自我意識を考える。

男性は、身体的感覚の虚弱性から、他者感覚に対して、主体的投影を行い、同一性化すると考えられる。ナルシシズムである。

つまり、他者への恐怖・不安があり、そのため、他者自体を認識できずに、主体の同一性を投影して、幻影化して認識するのである。

これが、連続的同一性認識、自我認識である。

ここでは、言語が主要な道具となる。

この主体的投影あるいは、主観的投影とは何か。

思うに、初期的には、差異共振的感覚様態があり、ここから、外界認識を形成するのであるが、このとき、言語によって、対象が、観念化される。

つまり、本来、主体・主観は、外的対象と共振しているが、主体・主観のもつ知性によって、外的対象を認識しようとするのである。

これは、外的特異性に対する認識である。外的対象として、例えば、特異性対象Xがあるとしよう。

これに対して、主体・主観性は、言語を与えて、Yと呼ぶのである。
X⇒Yである。

問題は、主観的投影の問題である。

これは、対象の否定的同一性化である。主観は、対象を否定し、主観的投影を行い、同一性化、即ち、連続的同一性化するのである。

これは、差異共振的認識とは別である。対象が主体に苦を与える場合、主観は、対象を否定し、主観投影して、同一性化するのである。

ここには、欺瞞・虚偽・幻影性があるだろう。

主観にとり、否定的な他者を認識するのではなく、否定して、主観投影して、同一性化するのであるから。

反知性的な感情・欲望による疑似的認識である。

ここでは、差異共振エネルギーは否定されるのである。即ち、
i*-(-i)⇒-1である。

また、この否定は、主観的評価をもたらすだろう。他者を否定して、主観は、優越しているのであると。これは、自己倒錯である。

反知性的な感情・欲望が基礎としてあるのだから、非合理的な自己評価である。自我優越・慢心・傲りの発生である。

これが、男性的自我の有り様であろう。あるいは、連続的同一性自我の有り様である。

もっとも、これ以外に、差異共振的認識があるので、正当な知的認識が形成されると言えよう。i*(-i)⇒+1である。

とまれ、そうすると、主観において、錯誤と真理の2つの様態があると言えよう。

長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。

問題は、-1の場合である。

超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。

+1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。

つまり、「力」と「知」である。

「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。

それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。

理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。

ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。

後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。

AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。

しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。
リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。

とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。

ここに「知」の問題があるのである。

簡単にすれば、連続知と共振知である。

どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。

とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。

とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。

そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。

問題は、この否定された共振知である。

基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。

問題は、否定された共振知の様態である。

否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。

つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。

これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。

では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。

共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。

また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。

即ち、全体主義・ファシズムである。

ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。

これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。

近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。

ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。

真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。

ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。

ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。

そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。

では、一般にはどうなのだろうか。

男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。

だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。

そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。

差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。

ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。

全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。

超越性の問題である。

ここでどうも、考え直す必要があると思う。

実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。

連続的同一性から考え直さないといけない。

私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。

あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。

メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。

それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。

つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。

そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。)

以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。

(思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。)

そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。

そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。

しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。

つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。

ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。

そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。

ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。

そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。

あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。

そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。

二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。)

ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。

結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。

そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。

なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。

ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。

私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。

とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。

超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。

そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。

ブログは、いわば、モナドであり、特異点であり、脱連続化・脱全体主義のために相応しいメディアであると言えよう。


2007年03月09日(Fri)▲ページの先頭へ
近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光
九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス⇒言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の取り違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その大惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数性である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。


2007年03月05日(Mon)▲ページの先頭へ
九鬼周造著『偶然性の問題』は、鈴木大拙の即非の論理学と並び、PS理論の実質的先駆である。
九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』(燈影舎 2000年)
大峯 顕 (編集), 大橋 良介 (編集), 長谷 正当 (編集), 上田 閑照 (著), 坂部 恵 (著)

今、本書を拾い読みしているが、これは、久々に大感動した本である。正に、天才的著書である。灯台下暗しとは、これまで、何度も経験したが、本書に関しても言える。

九鬼周造は、『いきの構造』で有名だが、本書は彼の主著である。ここには、PS理論的核心があると言っても過言ではない。1935年に出版された本書をこれまで、誰が、世界的に先端的理論であることを説いただろうか。

本書については、直接的には、novalis666氏(「いき」の創造http://ameblo.jp/novalis666/ )によって、知ったのであるが、また、九鬼周造が日本の代表的哲学者であると教えられたのは、某知りあいからであった。

今は、簡単に引用したい。後で、読みを続けて、論じたい。簡単に予想を言うと、九鬼の言う「偶然性」とは、私の言う「特異性」とほぼ同じである。

引用開始

《経験に斉合と統一とを与える理論的体系の根源的意味は他者の偶然性を把えてその具体性において一者の同一性へ同化し内面化することに存している。真の判断は偶然-必然の相関において事実の偶然性に立脚して偶然の内面化を課題とするものでなければならぬ。思惟の根本たる同一律は内面化の原理にほかならない。「甲は甲である」というのは「我は我である」ということにほかならない。判断の本質的意味は邂逅する「汝」を「我」に深化することでなければならない。我の内的同一性へ外的なる汝を具体的に同一化するのが判断の理念である。》p. 222
(コメント:正に、i*(-i)⇒+1をここで述べていると考えられる。)

「偶然を成立せしめる二元的相対性は至るところに間主体性を開示することによって根源的社会を構成する。」p. 224
(コメント:間主体性であるが、これは、間主観性より、用語として適切であると思う。)

「道徳が単に架空なものでなく、力として現実に妥当するためには、与えられてた偶然を跳躍板として内面性へ向かって高踏するものでなくてはならぬ。・・・ 偶然性は不可能性が可能性へ接する切点である。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくむことによって行為の曲線を展開し、翻って現在的なる偶然性の生産的意味を倒逆的に理解することが出来る。」pp. 224~225
(コメント:道徳は、偶然性=特異性において、基礎づけられ、行為への意志となると言えよう。)

「不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可能性を生み、更に可能性が必然性へ発展するところに運命としての仏の本願もあれば人間の救いもある。」p. 225
(コメント:何をか言わん。)

少し前後するが、
「必然性とは同一性すなわち一者の様相にほかならない。偶然性は一者と他者の二元性のあるところに初めて存するのである。・・・
個物の起源は一者に対する他者の二元的措定に遡る。邂逅は独立なる二元の邂逅にほかならない。無いことの可能性は一または他の選択に基づくものとして二元を予想している。」p. 221
(コメント:これは、正に、差異論であり、他者的差異論である。)

p.s. 文体が端正で、明快であり、美しい。論理的かつ芸術的な文体である。

★参考★
九鬼周造の『「いき」の構造』(1930)について
この貴重な日本文化論・文芸論は、芸術の在り処を探る重要な視座を与えてるものであるが、PS理論の視点から最も、その高い価値を示しうる。
この書物も、海舌は高校時代に読んだが、江戸期の日本文化文芸の中心的モチーフの最重要なものの一つである『粋』という概念を、「肉体的な男が精神的な方向性として女性へ傾斜する』、或いは、『肉体的に女性である者が精神的な方向性として男性に傾斜する』様子、というような定義であったと思う。
これをもう少し敷衍すると、異性への精神的傾斜は、一旦、同姓・自己への深い自己撞着・諦め(所詮、男は男、女は女)から、まるで、弓を引き絞って放つように、異性への一瞬の傾斜(異性への無制限の憧れ、異性への自己投機、イルージョンの世界に踏み込む)へと向かう様なのであり、しかし、絶対的な断絶があることを了解している点で、無限の諦め、諦観、『いさぎよさ』をも内包するのである。
気風の良い女性、着物の裾を捲くって走る女性、しかし、弱さ、太腿の女性的美も、同時に男の目を引くのである。
大男が情けに弱くて、不憫な話に貰い泣きしつつも、勧善懲悪のために、刀を抜くなどの様が、これに当たるだろう。(情に流され、情を断つ。)
こうした状態を、PS理論では、メディア・ポイントと言う『概念』を用いて説明する。

⇒参照: Media Point

つまり、「粋」という状態は、PS理論上のメディア・ポイントの状態を指すのである。
九鬼周造氏は、この男女の相克を、不連続で、絶対的な差異であることを認めながら、しかし、対立・共存・相克する、という観点から説明されている。ここに、卓越した先見性を見るのである。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=523662

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』 


2007年02月26日(Mon)▲ページの先頭へ
中沢新一氏・柄谷行人氏の哲学は捨て去られるべきである。
◆中沢新一氏の重要な欠点:霊、精神を量的な観点から分析している。霊的唯物論。また、チベット仏教についても、薄っぺらな中沢新一氏が個人的に感じた印象を落語や漫才ネタのように解釈して日本社会に流布させてしまった。
◆柄谷行人氏の重要な欠点:マルクスの唯物史観を後期マルクスに偏って理解し、マルクス等の思想からポスト・モダン的な潮流を理解した。マルクス・エンゲルスの思想について、前期と後期に大きな断絶の在ることを明確に意識されていない。
◆両者と浅田彰氏等は、日本語の構造的な非論理性を巧みに操って、抽象的なイメージの世界に遊ぶことが哲学である風潮を日本社会に埋め込んでしまった。浮遊する言葉を巧みに操ることが哲学ではない。墨家と儒家の差である。つまり、中沢新一氏や柄谷行人氏は、言葉と精神が未分化である。言葉は精神では無い。言葉を物質と同じ視点で理解するしか方法を知らない。このため、日本の哲学状況は、唯物史観に毒され、儒教的・封建主義的色彩を近代への脱却を叫びつつ体現し、東西冷戦後の世界の哲学状況から孤立した。また、中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等の哲学は、世界で活動する日本の先進的なボランティアやNGO からも完全に忘却され、無視される状況となっている。中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等の哲学が一種の「遊戯」であり、日本社会にのみ通用する論理しか持ちえず、実社会と遊離しているからである。また、中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等の海外フィールド・ワークが、物見胡散であり、観光的滞在であり、学者・学生の視線しか持ち合わせていないことが思想の欠陥の補正を困難にしている。
◆こうした中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等の哲学は、ホリエモンや格差社会の問題、戦争と人間の尊厳などへの解法から全く異なる「空間」に隠れることしか出来ないでいる。ソクラテスが何故死を選んだか、中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等は説明する言葉を持っているだろうか?言葉を持っていても、その精神を御持ちだろうか?
◆中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等の哲学は、ファルージャの悲劇について、どのような言葉で語るのだろうか?中沢新一氏は、チベットと中国との関係、ネパールと中国について、或いは、日本とイランについて、どのように語るのだろうか?是非、世界に向かって英語で語って頂きたい。

◆◆言葉を言葉で説明することは、同義反復であり、繰り返しに過ぎない。学校の先生には、そのようなことも求められるが、創造的活動のためには無用なことである。言葉は「精神」を説明する道具にすぎない。中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等は、学生に教師が、よくやるような仕方で、つまり、煙に巻く方法で庶民に西洋哲学を自己流に解説しているだけである。

精神とは何か、については
(勿論、海舌は純粋にフッサールの立場に立っている。中沢新一氏、柄谷行人氏、浅田彰氏等は、不誠実に海外の哲学を紹介している。純粋なフッサール哲学は、ファルージャの悲劇を語る言葉をもつが、模倣され、捻じ曲げられたフッサール哲学に、事実を認識する術は無い。勿論、純粋なハイデガー哲学も大いに事実を語ることができるだろう。しかし、紛い物の認識手段は、何の役にも立たない。さらに言えば、カンボジアの純粋な仏教徒も、ファルージャについて大いに語り、多くの感動を呼ぶだろう。それは、カンボジアの純粋な仏教徒の精神がフッサールの所謂「純粋自我」と直接に向き合っているからだ。)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=521016
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』   


2007年02月19日(Mon)▲ページの先頭へ
■□■ 日刊ゲンダイ Dailymail Digest 2007年 2月20日号(
以下の記事とは直接関係ないが、ふと思ったのは、認識・知・真理・信ずること・情報の問題である。toxandoria氏がアーカイブの民主主義にとっての重要性を説いていられるが、そのことの重大性をひしと感じるのである。 
 日本の経済学者の多くは、自分において考えるというよりは、アメリカの経済の仮説の「輸入業者」であろう。自らの直観を捨てて、それに跪拝しているのであろう。盲目である。そして、日本の経済が崖っぷちにあるのを、見ないようにしているのである。
 知とは何だろうか。時代、時代で、制限されたアーカイブで、限定された思考をしているだけではないか。天才と呼ばれる人は、特異性に固執して、時代を超えた知を創造するのであるが、一般には、限定されたアーカイブの知が普及するに過ぎないのである。  
 今や、情報のフラット化が押し寄せている。知の「バスチーユ牢獄」からの解放である。しかし、単純ではないが。
 とまれ、アーカイブがおそらく、最重要になってくるだろう。インターネットもアーカイブである。そして、後は、国民・市民・民衆の覚醒の問題である。中央集権的情報網(マスコミ、マスメディア)は、正に、ビッグブラザーである。ニュースピークである。 
 ミクロのアーカイブが必要である。ブログも、はるかに進化しないといけない。勉強が足りない。

_________________________________________________

─ Dailymail Businessより ───────────────────────
──
■ この国にはこれから全く夢がない
■ これからはサラリーマンは賃金も上がらないしホームレスを覚悟しなければ
■ ならないという安倍政権下の貧富の格差拡大の恐るべき見通し
■ 老後に不安70%という国民生活の将来
────────────────────────────────────
──

------------------------------------------------------------------
小泉政権が始まって今の安倍政権になるまでの間にグローバル化という
競争社会の中でズタズタに壊された日本的島国のトボケた優雅さ

アメリカだけが利益を得るグローバル化を拒否しない限り、この国の
国民生活はどんどん貧困化するのは必至と見る真っ当な経済専門筋。
フリードマンの経済学は悪魔の思想だといわれているゾ
------------------------------------------------------------------

 いったい、どこが「美しい国、日本」なのか。
 先月、内閣府が発表した「国民生活に関する世論調査」によると、「生活に不
安を
感じる」が、過去最悪の68%に達した。不安の中身は「老後の生活設計」が5
4%
と最も多く、とくに50代は70%に上った。
 よくよく考えると、日本は世界第2位の経済大国なのに、これから老後を迎え
る5
0代の7割が将来に不安を感じるなんて異常なことだ。
 それもこれも、多くの国民が「日本の未来は明るくない」「希望がない」と暗
い見
通ししか持てないためだ。
「一昔前の日本は、マジメに働けば賃金が上がり、生活が豊かになった。老後も
貯蓄
と年金でなんとか生活できました。しかし、そんな生活設計は完全に崩壊した。
景気
が悪く、企業が赤字ならまだしも、いざなぎ景気を超え、企業が5年連続の増収
増益
なのに、サラリーマンの給与は8年連続でダウンしている。これでは『頑張って
働い
ても報われない』『景気が良くなっても自分には恩恵がない』と絶望するのも当
たり
前です」(経済評論家・広瀬嘉夫氏)
 01年から04年にかけて大企業の売り上げは5%上昇した。その結果、株主
の配
当は71%、役員報酬は59%も増えたが、従業員給与は5%減っている。日本
は労
働者に果実が回らない社会になっている。働いても、働いても生活が良くならな
い社
会なんて、どう考えたっておかしい。

◆ 社員の給与は絶対に上がらないシステム ◆

 かつての日本的経営なら、会社が儲かれば、従業員の給与が上がり、それに応
じて
経営者の所得も上がった。会社が苦しい時には労使一体となり、やむなくリスト
ラす
る時でも、実行責任者の社長は自ら進んで会社を辞めたものだ。
 ところが、今は逆だ。従業員の給与がギリギリまで抑えられ、経営者の報酬だ
けが
増えている。日産のように大リストラで利益を出し、ベラボーな報酬を手にする
経営
者もいる。まったく血も涙もない世の中である。
 この国をこんな殺伐とした希望のない国にしたのは、5年半の長期に及んだ小
泉・
竹中路線だ。「官から民へ」のスローガンの下、規制緩和や市場原理主義など米
国型
のグローバリズムをどんどん取り入れ、日本を過酷な競争社会にしてしまった。
この
競争社会に足を踏み入れたら、庶民は絶対に豊かになれない。筑波大名誉教授の
降旗
節雄氏(経済学)が言う。
「グローバル社会の特徴は、企業が厳しい価格競争にさらされ、とにかく社員の
給与
を抑え、安い労働力を求めて国外に生産拠点を移していくことです。小泉政権5
年半
で、300万人の正規雇用者が減り、ほぼ同じ数の非正規雇用者が生まれたのも
、そ
のためです」


────────────────────────────────────
──
■ 《東京マラソン》でしゃばり慎太郎都知事に都民大迷惑
────────────────────────────────────
──

 石原慎太郎都知事(74)の肝いりで開催され、どしゃ降りの都心を3万人が
駆け
回った「東京マラソン」。世界選手権の代表選考会も兼ねたレースだったが、結
局、
内定条件をクリアした日本人はゼロ。雨のせいで沿道の応援も少なく、話題にな
った
のは最大7時間の交通規制とトラブルばかり。いい思いをしたのは「成功だった
と思
う。やってよかった」と自画自賛した石原都知事だけだったようだ。

◆ 12億円使って選挙前大宣伝 ◆

 都心の混乱はすさまじかった。通行止め道路は610本、標識変更は900カ
所。
何時間も“封鎖”されたコースの沿道は、応援や見物と関係ない人まで規制され

「道を横断させろ!」と怒鳴る通行人と大会関係者の小競り合いがアチコチで繰
り広
げられた。「人形の久月」など商売あがったりの商店街も多い。都は「渋滞はな
かっ
た」と言うが、外出や車に乗るのを諦めた人が多かっただけだ。
「3万人の参加者に合わせ、警備態勢も異常なものでした。動員された警察官5
00
0人は、東京国際女子マラソンの6倍以上。テロ対策のために爆発物処理班や警
備犬
も投入され、神社に臨時の分署をつくった所轄まであった。都の職員やボランテ
ィア
の数を含めると、総勢2万人規模になりました」(都事情通)
 大雨の中、本当にご苦労さんだ。これほどバカ騒ぎした市民マラソンは前代未
聞だ
が、世界選手権の代表選考を兼ねた公式試合としては完全に空回り。それでも石
原知
事はウハウハだろう。今回のレースの本当の目的は、4月の都知事選前の大宣伝
。そ
のために使った都の税金はベラボーだ。

◆ 「二男良純まで出すなよ」の声 ◆

「今大会の予算は12億5000万円。その内訳は都の補助金1億円、1人1万

(10キロ組は5000円)の参加費の合計2億5000万円、協賛金9億円。
ただ
し、動員された警察官や都職員には警備費用などの臨時手当も支払われ、都民の
負担
は相当なものになる。これが結局、知事の宣伝に使われました。大会を中継した
フジ
テレビでは二男・良純氏がリポーターを務め、テレビ画面には親子そろって映し
出さ
れるシーンもありましたよ」(都議会関係者)


2007年02月12日(Mon)▲ページの先頭へ
「植草事件の真実」という真相究明の本が、勇気ある方々の尽力で出版された。
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」メールマガジン
http://www.mag2.com/m/0000154606.html
まぐまぐ大賞政治部門第一位!わかりやすい!面白い!得をする!政治経済の裏にある「あなたが絶対に知らない」ような情報を発信します。
このマガジンを読むと政治経済の謎が解けるでしょう。
独創的な情報分析マガジンです。
過去記事http://blog.mag2.com/m/log/0000154606


「植草事件の真実」という真相究明の本が、勇気ある方々の尽力で出版された。

しかし、これは現在、さんざんな言論妨害にあっている。

政府側(前小泉政権幹部が中心にいる)や米国を中心とする国際資本にとって
困る内容であるからである。

<アマゾンでは、存在しないことになっている本>
たとえばアマゾンでhttp://www.amazon.co.jp/

「植草事件の真実」と入力検索してもまったく出てこない。

つまり存在していないことにされているのである。

<楽天ブックスのみでネット購入可能。ただし、これも言論弾圧される可能性あり>

今のところネット上では楽天ブックスだけである。

これももし、りそなインサイダー取引という史上最大の経済犯罪に関係している人
たちが、これを知ったら、読まれたら困るため言論弾圧に動く可能性もある。

<なぜ、犯人はりそなインサイダーをやってはいけなかったのかという真の理由>

一言言っておくと、

なぜこういったインサイダー取引をやってはいけないかというと、

以下の理由がある。

当時、りそな銀行の金融危機をあおっていたときに、女性や学生の人たちに
さんざん、空売りを気軽にすすめていた風潮があった。

当時、多くの新聞でも、証券会社でも、そんなことをすすめていたのである。


<空売りとは何か>
空売りとは、株券を証券金融会社から借りて、市場で売り、6ヶ月以内に買い戻す
ことで、利益を得る取引のことである。
(その後、株券を証券金融会社に返還する)

つまり、先に売るわけなので、株価が下がれば下がるほど儲かる。

それでは、これは、なぜ、素人がやってはいけない取引なのか?

というと、通常の取引で、「株券を買って、売る」という取引ならば、
損失は限定されるが、空売りはそうではないからである。

<通常の取引なら、損失は限定される>

たとえば通常の取引で
「100万円の株を買って、売る」ならば、どんなに損したとしても
「100万円までの損」で終わる。

<空売りの場合は失敗した場合、損失は無限大>

しかし、怖いのは、空売りで、案に相違して、猛烈に株価が反発したときである。

市場では、実際には、買戻しができないのである。
そんな時には誰も売らないからだ。

ということは、空売りの時の損失は文字通り、「無限大」となる。


つまり、この竹中氏が、さんざん、金融危機を発言しまくって、その後に
突然態度を変えて、りそな銀行を救済するということにしたときに、
株価は急反発した。

<空売りのわな>
そのときに、多くの空売りをしていた素人投資家の人たちは、
株の「地獄」の恐ろしさに
驚愕したはずである。

彼らは、おそらく、恐ろしさに泣きさけんだはずである。
このときに彼らは
無限大の損失をこうむっている。

<1千万円投資して4千万円の損>
なけなしの退職金の1千万円を投資して、損失は、4千万円とか
の人は、大勢いるはずである。
こんな人もいるだろう。
退職金の4千万円をすべて株に突っ込んで
損失は、1億2千万円。

一家は離散して、家は売られる。
その家にいる娘さんや息子さんは、大学に進学を断念する。

その売られた家は安く外資が購入したかもしれない。

こんな不幸な人たちがおそらくとんでもない数発生している。

中小企業の経営者や経理担当者は、自殺に追い込まれる。

「聞いていない」といっても、そんな取引はすべて本人の責任となる。

<無知による恐ろしさ>
百万円投資して、500万円、1千万円の損失をこうむった人たちもおそらく
数多くいる。
彼らの多くは、無知による恐ろしさに驚いたはずである。

だから金融行政の責任者は、インサイダーをやってはいけないのだ。
実質的な大量殺人に等しい結果を生み出すからである。

私は個人的な金儲けのために、素人の命を犠牲にしているような政治家は
天罰が下ると思っている。

参考
りそなの会計士はなぜ死んだのか
http://www.amazon.co.jp/

私はこのりそなの会計士は、りそな関連で
の変死者の最初の人である。


http://item.rakuten.co.jp/book/4287774/

植草事件の真実
ひとりの人生を抹殺しようとするこれだけの力
著者: 植草一秀事件を検証する会
出版社: ナビ出版
サイズ: 単行本
ページ数: 215p
発行年月: 2007年02月
ISBN:9784931569164
本体価格 1,400円 (税込 1,470 円) 送料別

以下の記事を読んでほしい。
ここにわれわれが
共謀罪や、インターネットでの
発信者情報開示に反対しなければいけないかが
わかるだろう。(これは法律違反のガイドラインであるにも
かかわらず、推進されようとしている。
政府側が真相を暴いたり、批判する人物を不当に弾圧するために
策定しているガイドラインであると推察される。)
1→2→3とクリックしてください。

1 http://www.isplaw.jp/
2 http://www.telesa.or.jp/consortium/
provider/history.htm

【意見募集要領】
(1)意見募集対象
 プロバイダ責任制限法 発信者情報開示関係ガイドライン(案)


http://www.telesa.or.jp/consortium/
provider/pdf/20070110_provider_guideline_2.pdf

以上の電気事業法の通信の秘密という法律に明らかに違反する
ガイドラインに反対の意見表明していただきたい。

「神州の泉」というブログから転載します。
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/
akebi/2007/02/post_8d72.html

2007年2月 6日 (火)
身近に不穏な気配が・・

 「雑談日記」のSOBAさんが作ってくれた植草氏冤罪に賛同するバナー
を貼ってくれた67ブログの管理人さんたちにお伝えしたい。

 今日、私の自宅にお巡りさんが来て、家族に私のことを聞いたそうであ
る。
たとえば仕事はどうしているかとか。

身辺調査にしてはかなりの違和感があったそうだ。

これは、とうとう私も具体的な監視下に置かれるのかなという感じがしてきた。

そういえば日曜日の午前中も自宅のそばに不審な車が行ったり来たりしていたの
を私自身が確認している。

 「植草事件の真実」を発売したすぐあとであるから、目を付けられた可能
性は感じている。

しかし、私には犯罪歴がないし、官憲に狙われるような
政治活動をしたこともない。

もし、私が警察に目を付けられ、『何がしかの』微罪で捕まることがあるとすれば、

それは植草事件の背景を追及していることに関わっていること以外には

考えられないことである。

私を監視する者が警察だけだったらまだ安心かもしれない。

多分、命までは取らないからである。

しかし、たとえばそれが、闇組織や反日カルト団体だとしたら、
私もそれなりの覚悟はして置かねばならないだろう。

 私はネコと遊んでいるのが性に合っている人間だから、

自分が狙われたり、監視されたりすることに現実感はまったくない。

ないのだが、冷静に考えれば、今は狙われる局面に入っているのかもしれない。

私は植草氏がりそなインサイダー疑惑について語った以上のことは、

ネットでも本でも書いていないのだが、それでも昨年9月からそのことは
書いてきた。

問題は、植草氏をはめた権力側が、ネットで書かれた物については

看過することはあっても、紙の媒体に書いた場合は

攻撃してくる可能性を否定できないことにある。

 この意味をあえて考えると、ネット・フィールドは玉石混交であり、

どのように書いたとしても、所詮は電子的仮想空間という仮の活字媒体であり
、クリック一つで消えたり書き直しができる。

だから信憑性や確定性にどうしても完璧な担保を得られないというところだろうか。

ところが、同じ内容が書籍や新聞記事という紙媒体に印字された場合は、

文脈や文意が固定化され、よりリアルな世界に肉迫するからということであろうか。

 とは言ってみても、ネットに限らず、書籍も通俗的週刊誌などのように、

虚実いろいろと織り交ぜられているのも事実であるから、

紙媒体系が最も信憑性を持つというイメージも共同幻想のひとつではあろう。

しかし、人類の歴史で書籍はかなりの昔から存在しているから、

紙に刻印された活字はいまだに権威を持つことも疑えない事実である。

したがって、りそなインサイダー疑惑を、ネット表現から本に書き換えた私は、

植草氏と同様に疑惑の張本人たちを痛く刺激した可能性は強い。

 おそらく私や他の支援関係者たちも、電話は盗聴され、メールも監視され

ていたと思う。

だから、私は十中八九、本の出版は不可能だと考えていた。

ナビ出版社が叩き潰されることも想定に入れていた。

そして出版までに、私か他の誰かが、ある種の攻撃をこうむって見せしめに

される危惧は正直強かった。

一人の有力なコアメンバーが恐怖のあまり脱落したこともあっ
た。

しかし天佑神助とはこのことであろうか。

とりあえずは、一人も危害を加えられずに本の出版まで漕ぎ着けたのである。

しかし、これからも何が起こるかわからない。

そこでSOBAさんの植草氏に関するネコバナーを貼っ
ていただいてる

方々に言いたい。

そしてお願いしたい。

私の周囲には不穏な気配が立ち込めている。

もし、私に何か起きたら、その時は知人がその事実を

公表することになっているので、それを知ったら、

植草氏の事件が明らかに国策捜査であることを世間に訴えて欲しい。

あなた方ひとりひとりが恐怖に打ち勝ち、言うべきことを言ってくれたら、

今進んでいる暗黒社会へのベクトルは変えることができるはずである。

子供たちや愛する者たちへ、住みやすい社会を残してあげるのもわれわれの

責務であると思う。

 外資へ隷属し、警察国家を志向する暗黒社会は作ってはならない。

また、それに加担して売国所業を行なっている者たちも許してはならないと
思う。

神州の泉 管理人




国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」メールマガジン
http://www.mag2.com/m/0000154606.html
まぐまぐ大賞政治部門第一位!わかりやすい!面白い!得をする!創刊以来約20ヶ月余りで読者数5250名突破!
記録破りのNO1超高度経済成長メールマガジン。
マスコミ、政治家も多数愛読。政治経済の裏にある
「あなたが絶対知らない情報」を配信します。登録しないと損。
過去記事http://blog.mag2.com/m/log/0000154606
※小泉構造改革・売国奴・郵政民営化・道路公団民営化・猪瀬
飯島・竹中・外資の真相を明らかにする。


2007年01月20日(Sat)▲ページの先頭へ
岸信介の国家統制経済とはファシズム・全体主義であり、それを戦後日本は踏襲しているのだ。
最近の政治を見て、戦前的に全体主義化しているので、そして、これには、岸信介が強く関係するので、岸信介のことが気になって、『現代思想 1月号』を少し読んだ。「岸信介とは何か」小林英夫/成田龍一(聞き手)と
「岸信介を蘇生させる時代精神の危うさ」纐纈厚(こうけつ・あつし)を読んだがとても勉強になった。(この号はお奨めである。)
 結局、戦時の国家統制経済を作った岸信介が、戦後もそれと同形の国家統制経済を構築したということである。今は、詳述しないが、私は、実に腑に落ちたのである。戦後日本の「社会主義」体制はこれが起因である。そして、安倍政権もこれを踏襲しているのである。これで、戦後の日本の政治の謎はほとんど解けるのである。
 哲学で言うと、やはり、ヘーゲル哲学である。私はファシズムの哲学の起源としてヘーゲル哲学を考えているが、岸信介の国家統制経済は、ヘーゲル哲学的である。もっとわかりやすく言えば、岸信介の政治・経済はファシズム・全体主義であるということである。それで、小泉/安倍の全体主義・ファシズム路線が明快に説明できるのである。つまり、日本は、戦前・戦時を清算せずに、継続してきたのである。戦後民主主義は、ほとんどお題目である。
 今は余裕がないので詳述できないが、結局、これは、父権主義・封建主義的発想をもっているのである。下級武士等が作った近代日本は、父権主義・封建主義が強く、それが、岸信介のファシズム・全体主義につながったと思われるのである。もっとも、東條英機の軍事ファシズムも考慮しなくてはならないが、哲学的には、同類と見ていいだろう。
 私は日本文化は、本来、差異共振シナジー文化であると述べてきた。それは、差異・個の文化である。神仏習合がその現れの一つである。しかし、これが、近代化で、滅ぼされたのである。日本人は、個から自我へとなり、国家ナショナリズムに染まったのである。そして、この近代化がファシズム・全体主義を形成し、それが、解体することなく、戦後日本も形成したのである。これで、理不尽な日本の説明がつくのである。日本人の力にものを言わせた傲慢さ、知性の貧困は、ここから来ているのである。正に、近代主義が、そう、近代主義的ファシズム・全体主義が、日本を支配しているのである。
 理性・知性ではなく、狂気・暴力・野蛮が支配しているのである。それで、今や財政破綻の瀬戸際で、亡国状態となっているのである。

現代思想 2007年1月号 特集=岸信介〜戦後国家主義の原点 (ムック)

───────────────────────

■□■ 日刊ゲンダイ Dailymail Digest 2007年 1月20日号(平日毎日発

行)



──
■ 日銀が死んだ「利上げ見送り」 政府与党の強権と福井総裁の保身
──────────────────────
──

 すったもんだの末に日銀は利上げを見送った。福井総裁の進退問題もかかった
この
一件は利上げ反対の政府自民党の完勝。「結局、福井は自己保身に走った」とい
われ、
これで日銀の独立性は完全に失われた。

※ ※ ※

 諸外国の金利が5.25%(英米)、3.5%(欧州中央銀行)であるのに比
べ、
今回、日銀・福井が画策した利上げは0.25%→0.5%という視力検査みた
いな
数字。それでも、きのう(18日)の日銀金融政策決定会合では賛成6、反対3
で追
加利上げの見送りを決定した。
 福井総裁は会見で「強弱さまざまな経済指標が出ていて、今後の経済・物価情
勢を
さらに見極めることが必要と判断した」と言ったが、これは明らかに政府・自民
党の
「利上げやめろ」の圧力に屈したものだ。
 先週末、利上げの観測が流れると、政府与党内からは「追加利上げで上げ潮路
線に
水をさす気か」「景気が腰折れすれば選挙に響く」と相次いで批判が出た。中で
も中
川幹事長が周辺に「関東軍のようなマネはさせない」と語ったことが伝わって、
福井
はビビった。
「ところが、政策委員会直前になると、政府サイドから利上げ容認の声が出始め
たの
です。これは利上げ後に景気が後退すれば『判断を間違えた福井は辞めるべき』
とす
る布石。それに気が付いた福井総裁が自己保身で『利上げ見送り』に舵を切った
ので
す」(事情通)


2007年01月16日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:ファシズムの哲学:トランス・モダン・ジャパンと禅ルネサンス
最近の日本を見ていると、戦前のことが気になってくるので、駅前の本屋で、その時期の、新書等の本を探した。結局、満州国の問題がキーポイントであると感じた。『王道楽土の戦争 戦前・戦中篇 吉田 司 (著)』 を少し立ち読みして、岸信介が、その黒幕であり、また、戦後日本の「社会主義」体制を創った人物であると書いてあったからである。
 そこで、ファシズム、全体主義の理論化を再考する必要を感じたのである。これまでは、弁証法にその哲学的基盤を見てきたのであるが、それでは、単純なので、もう少し詳論する必要があると感じたのである。
 また、社会主義の全体主義とどう違うのかも大事である。これは、ある意味で、ヘーゲルとマルクスの違いのようなものかもしれない。そう、直観では、やはり、ヘーゲル哲学が、ファシズム・全体主義に通ずる。
 ここでは問題提起するだけなので、直観のまま書こう。
 心的主体性と身体的他者性の二元論で考えよう。前者の連続的同一性(連一性)が西洋近代主義であり、その反動として、後者の連続的同一性が起こったと思う。おそらく、これが、ファシズム・全体主義の起因である。アンチ西洋近代主義があると思う。つまり、身体的他者の心的主体性への反動である。これは、霊的、宗教的、精神的になりうるのである。そして、石原莞爾の世界最終戦争論は、正に、日蓮宗に裏打ちされたそのようなイデオロギーと言えよう。(思うに、ネオコンも、これに近いところがあるのではないだろうか。)
 問題は、心的主体性と身体的他者性の連続性である。これが、大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入を引き起こすのであるが、この未分化連続性が、両者を相互転換させると言えよう。
 とまれ、もう一つの問題はナショナリズムである。これは、基本的には、身体的他者的連一性から発すると言えよう(p.s.  これは、どうだろうか。心的主体的連一性からも、ナショナリズムは発生しないのか。思うに、国家主義は、確かに、心的主体的連一性から発するだろうが、ナショナリズムは、泥臭いのであって、やはり、身体的他者的連一性から発すると見るべきだろう。思うに、ヘーゲルの国家主義は、両者が一致したものと言えるように思えるのである。後で再考。)。国家へと吸収されて行くのである。民主主義を標榜しても、身体的他者的連一性があるので、連続的同一性である国家に同化されるのではないだろうか。
 ここで、社会主義を考えると、それは、一見、心的主体的連一性に見える。しかし、それは、表面だけである。ここが、ヘーゲルとマルクスの関係の問題である。社会主義は、思うに、ヘーゲル哲学のアイロニカルな没入ではないのか。つまり、観念論と唯物論のアイロニカルな没入があるのではないか。
 ここで、少し発想を変えると、心的主体的連一性と身体的他者的連一性は、究極的には、一致するのではないか。二元論であるが、極限状況的には一致すると思えるのである。(近代的自我の狂気は正に、この両者の一致ではないのか。)つまり、観念論即唯物論である。
 この視点からすると、社会主義とファシズム・全体主義は一致すると言えよう。ここには、結局、差異・他者が存していないのである。つまり、すべては、連続的同一性である。
 ならば、戦前の日本、戦前の昭和期は、連続的同一性が支配した時代と言えるだろう。そして、また、戦後、民主主義憲法をもったが、岸信介でわかるように、連続的同一性主義の支配は継続したと言えるのではないか。そして、さらに、小泉/半安倍路線は、これの継承ではないのか。小泉政権は、これの突出したものではなかったか。
 現代日本の超迷妄は、この点にあるのではないのか。近代/現代日本は、差異・他者を忘失してきたのではないのか。前近代の日本には、差異・他者はあったのであるが、近代日本となり、それが否定・排除・隠蔽されたのではないか。
 私は排仏毀釈が日本人の精神に破壊的作用をもたらしたと考えているが、それと、この差異・他者の喪失は関係するだろうか。鈴木大拙が明らかにしたように、日本伝統文化は、禅が浸透しているのである。では、禅とは何かとなるが、それは、簡単に言えば、自我の解体としての空の悟達である(道元:身心脱落)。あるいは、世俗の次元を超えた空の次元の体得である(井筒俊彦)。結局、鈴木大拙の即非認識に帰着すると言えよう。つまり、禅は、日本人の精神にとって、差異・他者を形成していたと言えよう。これで、排仏毀釈の破壊的作用の意味がわかる。それは、日本人の精神における差異・他者を否定したのであり、日本人を連続的同一性の自我へと転換したのである。つまり、正に、近代化なのである。漱石文学は正に、これを問題にしている(『こころ』や「私の個人主義、他)。
 そう、明治維新とは、日本の文化大革命であったのだ。日本の差異・他者的精神を形成した禅・仏教が否定されたのである。これは、当然、西欧近代主義と等しいのであるし、さらに、西欧の個人主義がないために、ハイパー近代主義になったと言えよう。そして、これが、現代今日の昏迷の安倍政権にも継続していると言えよう。
 私が戦前のことが気になったのは、正しかったのである。近代日本の、いわば、トラウマのハイパー近代主義=ハイパー連続的同一性主義が回帰していると考えられるのである。そう、これは、実は、小泉政権が蒔いた種と言えよう。
 トランス・近代日本が必要である。前近代日本へと回帰する必要があると言えよう。近代主義の連続的同一性主義の構造から脱却しないといけないのである。
 トランス・モダン・ジャパンである。脱国家主義である。そう、禅を、日本人は取り戻さないといけない。禅ルネサンスである。


2007年01月11日(Thu)▲ページの先頭へ
近代主義の清算:狂気と痴愚の病気から、日本人を治癒・回復させる計画:仏教復興へ向けて
一言で言えば、日本人はマテリアリズムとエゴイズムに染まって、叡知を喪失して、今や、亡国の瀬戸際である。
日本人をまっとうにする処方箋をこれからもさらに書いていきたい。とにかく、近代主義という錯誤・誤謬を完全否定しないといけない。脱亜入欧のイデオロギーから脱却しないといけない。なぜなら、それは、実際は、脱亜不入欧であり、国家ナショナリズムであったからである。つまり、アジアの伝統から切断され、また、欧米文化も導入も近代合理主義中心で、欧米文化の基層を看過したものであったからである。日本の伝統は、アジア文化であり、それが、日本人の精神を形成してきたのであるが、それが切断されて、精神喪失となり、物質主義的合理主義のみで事足れりとなったのである。近代主義の悪霊に精神を奪われたのである。
 近代主義を清算しないといけない。近代主義の悪霊・狂気に憑依されていることを知らないといけないのである。
 排仏毀釈が大きいと言えよう。確かに仏教の堕落はあったかもしれない。しかし、鈴木大拙が説くように日本文化は禅に浸透されているのである。これを否定したとき、日本文化は魂を喪失して、皮相化するしかなかったと言えよう。そう、仏教が、日本人の精神の基盤を整備したのである。それを無くしたとき、当然、精神が喪失するのである。
 日本再生復興は仏教再生復興でもある。






禅と日本文化 (新書)
鈴木 大拙 (著), 北川 桃雄 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A6%85%E3%
81%A8%E6%
97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96-%E9%
88%B4%E
6%9C%A8-%E5%A4%A7%E6%8B%99/dp/40040002
03/sr=8-1/
qid=1168510880/ref=sr_1_1/503-7170974-5841516
?ie=UTF8&s=books





日本的霊性 (文庫)
鈴木 大拙 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%
E7%9A%84%E9%9C%8A%E6%80%A7-%E9%88%B4%
E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E6%8B%99/dp/40033323
18/sr=1-3/qid=1168511633/ref=sr_1_3/503-7170974-5
841516?ie=UTF8&s=books


2006年12月17日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:日本の戦後とは、西欧の近代初期と類似しているように思える
検討問題:日本の戦後とは、西欧の近代初期と類似しているように思える

テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画

敗戦により、天皇が人間宣言して、宗教の時代が終った。それは、日本の「神の死」であったろう。それは、西欧のポスト中世・近代初期の「神の死」と類似するように思える。
 それは、コスモスの崩壊である。自然との絆の崩壊である。唯物科学が蔓延ったのである。その結果が、現代の亡国状況である。漱石が言ったように、日本は滅びる(滅びたの)だろう。
 とまれ、「神の死」から唯物科学主義への移行が、致命的であったようだ。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読みたい。あるいは、ドストエフスキー。

p.s. 日本人の神を失わせたものは何であったのか。折口信夫は、民族の力が、民族の神にあることを知っていた、稀有の日本人である。私は神道の復活が必要だと思う。もっとも、神仏習合的な神道である。




死者の書・身毒丸 (文庫)
折口 信夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%BB%E8%
80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%83%
BB%E8%BA%AB%E6%AF%92%E4%B8%B8-
%E6%8A%98%E5%8F%A3-%E4%BF%A1%
E5%A4%AB/dp/4122034426/sr=8-1/qid=
1166302120/ref=sr_1_1/503-7170974-584
1516?ie=UTF8&s=books

___________________

「いかなる国民と言えども、科学と理知を基礎として、国を建設しえたものは、今日まで一つもない。・・・社会主義はその本質上、無神論たるべきものである。なぜならば、彼らは劈頭(へきとう)第一に、自分たちが無神論的組織によるものであって、絶対に科学と理知を基礎として社会建設を志すものだと、宣言しているからである。理知と科学は国民生活において、常に創世以来今日に至るまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司(つかさど)っているに過ぎない。・・・国民はまったく別な力によって成長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生は誰にもわからない。まあ説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、あくことなき渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。これこそたゆむことなく不断に自己存在を主張して、死を否定する力である。聖書にも書いてある通り、生活の精神は『生ける水の流れ』であって、黙示録はその枯渇の恐ろしさを極力警告している。それは哲学者のいわゆる美的原動力であって、また同じ哲学者の説く倫理的原動力と同一物なのだ。が、僕は最も簡単に『神を求める心』と言っておく。民族運動の全目的は、いかなる国においも、またいかなる時代においても、ただただ神の探究のみに存していた。それは必ず自分の神なのだ。ぜひとも自分自身の神でなくちゃならない。
  ・・・
理性はかつて一度も善悪の定義を下すことができなかった。・・・哀れにも見苦しくも、この二つを混同していたのだ。・・・ことにこの特長を備えているのは、半科学である。これは現代にいたるまで、人に知られていないけれど、人類にとって最も恐るべき鞭(むち)だ。疫病よりも、飢えよりも、戦争よりも、もっと悪い。半科学、ーーこれは今まで人類のかつて迎えたことのない、残虐きわまりなき暴君だ。・・・」(p. 437〜p. 439)

「神を国民の属性に引きおろすって!」とシャートフは叫んだ。「まるで反対だ、国民を神へ引き上げたのです。第一、ただの一度でもこれに反した事実がありますか? 国民、ーーそれは神の肉体です。どんな国民でも、自己独得の神をもっていて、世界におけるその他のすべての神を、少しの妥協もなく排除しようと努めている間だけが、本当の国民でありうるのです。自己の神をもって世界を征服し、その他の神をいっさいこの世から駆逐することができる、とこう信じている間がのみが、本当の国民と言えるのです。
 ・・・
もし偉大なる国民にして、おのれのうちにのみ真理ありと信じなかったら(・・・)、もしその偉大なる国民が、われこそ自己の真理をもって万人を蘇生させ、救済するの使命を有し、かつそれをなし遂げる力があるという信仰を欠いていたら、その国民は直ちに人類学の材料と化して、偉大なる国民ではなくなるのだ。真に偉大なる国民は人類中において第二流の役どころに甘んじることがどうしてもできない。いや、単に第一流というだけでは足りない。ぜひとも第一位を占めなくては承知しない。この信仰を失ったものは、もうすでに国民ではなくなっているのだ。しかし、真理に二つはない。したがって、たとえいくつもの国民が自己独得の、しかも偉大なる神を有するにせよ、真の神を有している国民はただ一つしかない。『神を孕める』唯一の国民ーーこれは、ロシヤの国民なのだ、・・・」
 ・・・
「僕はロシヤを信じます、僕はロシヤの正教を信じます・・・僕はキリストの肉体を信じます・・・僕は新しい降臨がロシヤの国で行なわれると信じています・・・僕は信じています・・・」とシャートフは夢中になりながら、しどろもどろに言った。( p. 440〜p. 443)

『悪霊』(上)米川正夫訳 岩波文庫 


コメント

■安倍政権、内なる高揚感と外なる絶望感・喪失感

2006.12.17 Sunday
安倍政権、内なる高揚感と外なる絶望感・喪失感
http://blog.kaisetsu.org/?eid=492426
kaisetsu (2006-12-17 08:06:29) [コメント記入欄を表示]


2006年12月02日(Sat)▲ページの先頭へ
以下、toxandoria氏の論考『[暴政 ]“暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア 』へのコメントを転載します。
以下、toxandoria氏の論考『[暴政 ]“暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア 』へのコメントを転載します。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061130#c1164984655

_______________________________

platonicsophience 『toxandoria 様

やや久しぶりにコメントします。
現代日本の政治・社会状況へのラディカルな批判は、首肯できるものです。
以下、3点が目に付きました。

1)1930年代の空気に似ていること
2)「天の声」という支配権力
3)政権のペットとしてのメディアと思考停止の国民

これは、明確に、「1984年」全体主義体制ですね。
北朝鮮体制と共通します。
この全体主義メディア体制、これがいちばんの問題ではと思います。
「初めに結論ありき」とおっしゃっていますが、これは、キャッチ・コピーの世界ですね。あるいは、マニュアルの世界ですね。思考過程を飛ばして、要領良く、結論を鵜呑みにするのです。どうも、現代日本の民主主義の脆弱さは、この辺にあるように思われます。簡単に言えば、教養の欠落です。
携帯の時代です。真理よりは、思考過程を自分は取ると言ったレッシングの金言を想起します。つまり、現代日本人は、自分で難解な書物を読書して、思考力を培うトレーニングを喪失していて、マニュアル的結論に飛びついて、天狗になっているように思われます。私は、完全にレッシングの見方に賛成です。結論より、思考過程が大事だと思います。つまり、自分で考えるということです。これが欠落しているので、マスメディアや政治家の言葉を鵜呑みにするのだと思います。
 数年前なくなった阿部勤也氏の『教養とは何か』を読み、かつて職人の教養とは、すべての学問に精通することであるとありました。教養はそういう森羅万象似通じるものだと思います。これが、なくなっているために、専門御用学者どもやマスコミの軽薄人が跋扈しているのだと思います。
 結局、知識の根っ子のところに、教養・涵養cultivationがなくてはなりません。そして、ここから、独立した個が生まれて、真正な民主主義が可能になるのではと思います。
 さて、いつも、美術や映画や写真等々を関連させて、楽しんでいます。私は、昔は、ピーテル・ブリューゲルのファンでした。あの鮮烈な画面は何か、未だに、解析できていませんが、toxandoria氏の解説により、謎が明らかになりつつあります。ゴヤの絵画に通じることになりますね。そうすると、フランドルとスペインの関係がありますね。海舌氏が禅的に解説していましたが、確かに、零度のリアリズムだと思います。ゼロ度において、現象は、その真相を露呈するように思います。』


2006年11月20日(Mon)▲ページの先頭へ
「同行二人(どうぎょうににん)」・「同伴者の愛」とは何か:虚次元・虚空間の方へ
以下の東京新聞の、最近では珍しい宗教的趣旨をもった社説に【永観も空海も、偉人だが超人ではありません。しかし、無力だからこそ尊い愛、「同伴者の愛」を知っています。

 君たちに今、目を凝らし、耳を傾けるいとまがあれば、道ばたや空や海にも、あなたを見守り、あなたとともにあろうと願う無数のいのちが生きています。君たちは、決して一人ではありません。】と書かれている。

 「無力」とは何か。それは、自我としての「無力」であろう。しかし、自己における「有力」の湧出を感じたであろう。永観も空海も、虚空間(=コスモスないしプロト・コスモス:空海の「五大に響きあり」)を悟達したのだと思う。「尊い愛」とは、虚空間の零度差異共振シナジー・エネルゲイアのことであろう。キリスト教で言えば、「神の愛」に当たるものである。そして、「同伴者の愛」も同じことである。

 「道ばたや空や海にも、あなたを見守り、あなたとともにあろうと願う無数のいのち」とは、日本の伝統宗教のアニミズム(日本の地霊)であるが、これも、差異共振シナジー・エネルゲイアで説明できるのである。おそらく、現象空間には、本来、虚空間(メディア空間)が染み込んでいるのである。だから、差異共振化するのである。しかし、ここで、倒錯が起こるのである。日本アニミズム・多神教的倒錯である。虚空間が染み込む、流出するという考えは、内在連続的である。しかし、内在超越が正確なのである。単に内在化すると、ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズと同じである。そして、これは、全体主義・ファシズムになるのである。ここにおいて、一神教の意義があるのである。虚空間・虚次元を一神教は確保したのである。おそらく、自然宗教・多神教の、連続化の堕落があったのであり、それに対して、一神教が、虚次元を復活させたのである。こう考えると日本文化の問題があきらかになるだろう。虚次元・虚空間を復活させなくてならないのである。

 「同行二人」・「同伴者の愛」を得るには、虚次元・虚空間を獲得しなくてならないのである。そう、鈴木大拙が述べた、鎌倉仏教の勃興に等しいような日本文化復興が必要である。日本ルネサンスである。日本の地霊復活である。
____________________


君たちを一人にしない

 木漏れ日を揺らす風のそよぎや瀬音の乱調に、いのちの気配を感じることはないですか。人生に同伴者は付き物です。私たちもそうなりたいと願っています。

 カエデがようやく色づきました。

 京都東山の銀閣寺から熊野若王子神社まで約二キロ、琵琶湖疎水の側道は、「哲学の道」と呼ばれる桜と紅葉の名所です。

 戦前、哲学者の西田幾多郎が、この道を散策しながら思索を重ね、深めたことからその名がついたとされています。
■ともに歩いてくれるもの
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/
20061119/col_____sha_____001.shtml


2006年11月19日(Sun)▲ページの先頭へ
米国中間選挙結果と今後の内外政治経済金融情勢
11月7日に実施された米国中間選挙では、民主党が地すべり的勝利を得た。ブッシュ大統領は2008年までの残り2年の任期の政権運営において、「大いなる試練」に直面することになる。日本では11月12日に福島県知事選、11月19日沖縄県知事選が実施される。とりわけ注目されるのが、11月19日の沖縄県知事選である。沖縄県知事選で与党が敗北を喫すると、政治潮流の転換が日米同時進行する契機にもなりかねない。
 同時に注意すべきは、日米の景気動向に明らかな危険信号が灯り始めていることである。とりわけ、より強い警戒が必要であるのは日本経済である。私は9月5 日までの『金利・為替・株価特報』において、10月までの株価上昇、その後の調整を経た後の2007年1〜3月期までの株価再上昇の予測を記述した。
  しかし、日本の財政運営の係数をその後に再チェックした結果、財政の超緊縮運営による2007年の日本経済悪化リスクを発見し、10月1日付 、10月4日付 、および、10月29日 執筆の本コラムで警告を発すると共に、10月下旬以降の日本株価下落リスクを指摘してきた。

 この見通し修正は9月20日発行の『金利・為替・株価特報』 に掲載予定であったが、それが不能になったため、10月1日以降、本コラムにおいて繰り返し記述している。日本経済はいま非常に重要な要警戒局面に直面している。
 私は、1994年後半、1996年、2000年・2001年のマクロ経済政策に強い警告を発したが、結局、私の警告は聞き入れられなかった。94年後半は日銀の利上げ推進姿勢に反対した。96年は行き過ぎた増税に反対した。2000年・2001年は森政権、小泉政権の行き過ぎた緊縮財政運営に反対した。いずれも積極財政を主張したのではない。性急すぎる緊縮財政は景気悪化、金融不安を生み出すだけでなく、税収減少による財政悪化をもたらしてしまうと主張した。
  結局、三度とも株価は急落し、景気悪化、金融不安、財政悪化などがもたらされてしまった(95年は地震やサリン事件などの特殊要因も加わった)。
 現在の状況には強い類似点が存在している。安倍政権がこの点を認識して、年末に向けての2007年度予算編成に際して、政策の軌道修正を示すことが必要である。政策の軌道修正が無い場合、2007年に向けての株価下落、景気悪化リスクはかなり高いものになる。当然、2007年7月の参議院議員選挙にも強く影響することになる。

 米国中間選挙では、民主党が地すべり的勝利を収め、1994年以来12年ぶりに上・下両院で民主党が過半数を掌握した。また同時に実施された知事選挙(36州)の結果、知事数も民主党(28州)が共和党(22州)を上回ることになった。
  当然のことながら、大きな変化が生じることになる。とりわけ、上院で民主党が過半数を獲得した意味は大きい。閣僚、最高裁判事は上院に承認権がある。また大統領の弾劾は下院が訴追し上院が審判する。国連大使ボルトン氏の承認も難航が予想される。

 当面、最大の影響を受けるのはイラク政策である。ラムズフェルド国防長官が更迭されたが、イラクからの米軍早期撤退が検討されることになる。現在議会が諮問している超党派のイラク研究グループが12月にどのような提言をするのかが注目される。
  また米国内には、2001年9月11日の同時多発テロの真相を究明しようとする動きも存在しており、今後の動向から目を離せない。

 第二の論点としては、2008年の大統領選挙への影響である。今回の選挙結果を受けて、下院ではナンシー・ペロシ女史が史上初めての女性の下院議長に就任する。2008年の大統領選では民主党が優位に立ったと見るのが一般的見解であるが、専門家の間では見方が割れている。
  今回NY州で上院議員に再選されたヒラリー・クリントン女史が初の女性大統領候補となるかが注目されている。まだ多くの曲折が予想されるが、ヒラリー女史が大統領に就任する可能性は決して低くないと考える。
 第三の論点は、経済への影響だが、政治からの影響は当面、限定的と考えられる。最大の注目点は住宅価格動向で、住宅価格下落が拡大する場合は、個人消費の減速が加速し、米国経済が緩やかなリセッション(グロース・リセッション)に陥るリスクが高まる。NYダウも1万ドル方向に反落するリスクを伴う。

 日本経済における最大の懸念要因は2006年度の一般会計(国家財政)運営が2001年度当初予算並みの「超緊縮」になっていることである。経済指標を見ると、幾つもの注意信号が灯り始めている。
  11月10日発表の本年7−9月期の機械受注統計では、前記比−11.1%と、87年4月以来最大の減少が示された。11月8日発表の9月の景気動向指数では先行指数が「20」と3か月連続の「50以下」を示した。11月9日発表の街角ウオッチャ
ー調査も3か月ぶりに0.2ポイント低下した。また10月31日発表の9月の家計消費支出では、全世帯実質で前年比6.0%減少と、2001年12月以来4年9か月ぶりの大幅減少が示された。

 10月の新車登録台数は前年比6.2%の減少を示した。日経平均株価は本コラムで警告を発してきたように、10月下旬をピーク(10月26日 16,811円)に下落に転じた。株式市場の動向を見ると、とりわけ小売業の下落が目立ち始めている。
 本コラムを執筆しているのは、11月12日だが、14日(火)には、本年7−9月期のGDP統計が発表される。景気の頭打ち感が明確に表面化することも考えられる。日経平均株価が本年6月13日の14,218円を下回れば、チャート上は典型的な三尊天井形成となり、下落トレンドへの転換の可能性がより高まることになる。現段階では、まだ黄信号の状況であるが、株式投資家は十分な警戒を払わなければならない。

 景気悪化を促す最大の要因は、緊縮の度合いを強めすぎている財政政策運営である。下記の表に示したように、2006年度の財政運営は、財政赤字を実質的に前年比で6.0兆円減少させる形になっている。



一般会計財政赤字(C)の推移
(兆円) 年度 歳出(A) 税収(B) (A)-(B)=(C) (C)の前年差
1996 78.8 52.1 26.8 +2.8
97 78.5 53.9 24.5 -2.3
98 84.4 49.4 35.0 +10.4
99 89.0 47.2 41.8 +6.8
2000 89.3 50.7 38.6 -3.2
01(当) 82.7 50.7 31.9 -6.9
01 84.8 47.9 36.9 -1.7
02 83.7 43.8 39.8 +3.0
03 82.4 43.3 39.1 -0.7
04 84.9 45.6 39.3 +0.2
05 85.2 49.1 36.5 -2.9
06(予) 79.7 49.2 30.5 -6.0

(注1)実績ベース。ただし(当)は当初。(予)は見込み。
(注2)ここでは、会計操作の影響を除去するために、(歳出)−(税収)を財政赤字と見なしている。
(注3)2006年度の緊縮度=財政赤字減少額は、前回10月29日執筆のコラムよりも縮小しているが、それは制度変更に伴う税収減少額1兆5120億円の影響(地方への税源移譲等)を除去したためである。

 97年度および200・2001年度に政府は緊縮財政を強めすぎて結局失敗した。経済悪化−株価下落−税収減少をもたらしてしまったのである。2005年度に財政赤字が減少した最大の要因は、景気回復によって税収が増加したことである。

 当面、最も重要な政策課題は経済の改善基調を維持することである。景気改善といわれているが、良くなっているのは、大企業の収益ばかりである。景気改善も企業の設備投資だけが牽引役である。景気が悪化に転じるリスクを有する局面での超緊縮財政が経済状況を急変させる禁忌の施策なのだ。
 経済改善は個人消費主導のパターンに移行しなければ持続力を持ちえない。正規雇用が減少し非正規雇用が大幅に増大してきた。フルタイムで働いても生活保護で保証される所得水準を下回る、いわゆる「ワーキング・プア」も増加している。とりわけ、若年層で問題が深刻化している。

 こうした「格差」拡大の状況下で、いま必要な施策は、詳論はできないが「中低所得者層を対象にした所得減税」と「就業機会獲得を支援する施策」および「同一労働・同一賃金制度への移行促進」である。政府は2007年に「所得税増税と法人税減税」を実施する方針を示しているが、これは方向が逆である。
  安倍政権には、現実を正しく認識し、政策路線を直ちに修正することが求められている。政策修正が実現しない場合には、米国経済、金融情勢に強く依存はするものの、日本経済の先行きにかなりの警戒が必要になってくる。

 タウン・ミーティングでの「やらせ」問題、高等学校での履修漏れ問題、安倍政権の経済政策立案の構造太字 等の問題については、講談社サイト「直言」 に執筆したいと考えているので、こちらも参照いただければ幸甚である。

 障害者自立支援法、難病に対する公的助成縮小、医療リハビリの日数制限、高齢者医療費の自己負担増など、弱者を痛めつける政策ばかりが先行している。10 年来主張してきたように「天下り」制度廃止が先行されるべきである。豊かな社会を構築するために最重要の施策は、「弱者に対する必要十分な施策整備」ではないか。「格差」の問題、「希望」の問題を考えれば、公教育に財政資源を十分に投入すべきだが、事態は逆の方向に進行している。
  米国の中間選挙を契機に、こうした問題についても、一度立ち止まって考察を深める機運が生じることを期待する。当面の施策としては「特別減税の復活」を検討すべきである。

2006年11月12日執筆
スリーネーションズリサーチ株式会社
植草 一秀

http://www.uekusa-tri.co.jp/column/index.html


1 2 3 4 5 6    全175件




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2017年9月
         
21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:299
昨日:766
累計:4,787,270