日本覚醒計画:日本の政治・経済
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
|
|
|
|
カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年06月29日(Sun)▲ページの先頭へ
社会保障費の削減によって、日本社会が地獄化する:自民党、自公党傀儡政権である。日本国民の眠りは続
テーマ:ニッポン亡国の凶相
社会保障費お削減によって、日本社会が地獄化する。思うに、自民党内部に老人の医療・福祉にコストがかかるのを不満に思っている人間が多いと思う。自民党の傲り気質である。 思うに、額賀財務省は、自身の考えを表明しているのではなく、官僚の冷酷な意見を代弁しているに過ぎないのではないだろうか。どうもこちらの方が的確なようである。 自民党、自公党傀儡政権である。日本国民の眠りは続くのか。 p.s. とにかく、自爆的な発言できわめて恐ろしい。そんなにも日本の没落を欲しているのか。とにかく、亡国売国自民党・自公党である。 フランス革命前夜に近くなっているのか。 額賀財務相:社会保障費抑制方針を堅持 額賀福志郎財務相は29日、NHK番組に出演し、社会保障費の伸びを2011年度までの5年間で1兆1000億円(単年度で2200億円)抑制する政府方針について「3年目で挫折するようでは世界の信任は得られず、国民の将来の不安もぬぐい去れない」と述べた。09年度予算編成に向け、7月末にも示す概算要求基準(シーリング)でも抑制方針を堅持する考えを表明した。 抑制方針については、自民党の厚生労働族議員から「削減はすでに限界だ」と棚上げ論が出ているが、財務相は雇用保険の国庫負担廃止などを削減候補にあげ、達成可能だと強調した。一方、骨太の方針08に盛り込まれた医師不足や救急医療対策などには「歳出のムダを省き、財源を手当てしたい」と述べ、抑制方針とは別枠で対応することで理解を求めた。 また、高齢化に伴い増大する社会保障費負担については「勤労者にすべて任せれば、日本経済は沈没する」と語り、今秋の税制抜本改革論議では、消費税率の引き上げを議論すべきだとの考えを表明した。さらに「北欧やドイツの消費税率は20%前後だ。そのうえで所得税や法人税は下げるのが世界の姿だ」と指摘し、消費税増税の際には、所得税の一部負担減も含め、税制全体の見直しが必要との認識も示した。【清水憲司】 http://mainichi.jp/select/seiji/ news/20080630k0000m010045000c.html 財務相「社会保障費の抑制は堅持」 額賀財務相は29日のNHK番組で、社会保障費の伸びを5年間で1.1兆円抑制する方針を09年度の予算編成でも堅持する方針を示した。「始まって3年目で挫折しては世界の信任を得られない」と述べ、具体策として後発医薬品の使用促進や雇用保険の国庫負担縮減を挙げた。 27日に決定した骨太の方針08は、抑制目標を定めた骨太の方針06に沿って「最大限の削減を行う」としていた。 また、社会保障費の財源として消費税率を上げる際は、法人税の引き下げや所得税の負担軽減も併せて必要になる、との認識を示した。「消費税率は20%前後で、所得税や法人税を下げてバランスをとるのが世界の姿だ」と指摘。全体的な税体系を見直す際に国際競争力強化などに配慮する考えを示したものだ。 http://www.asahi.com/politics/ update/0629/TKY200806290131.html
2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
新聞の社説を廃止し、複数多様な論評を掲載せよ:マスコミのトランス・モダン化へむけて
以下、日本の新聞の社説の典型的なパターンが出ていると思われるので、資料として転載させていただく。
日本の新聞の社説を読んで、強く共感をもったことはほとんどない、皆無に近い。だいたいは、不快感が生じるのである。というか、嫌悪感が生じるのである。これは、日本人の精神環境によくないし、また、新聞のコストの無駄である。 以下の記事の首相問責決議案の可決についてであるが、見た、他のいくつかの社説も、同様の内容である。すなわち、問責決議の歴史的意味を指摘するが、基本的には、民主党の戦術が不適切であることを述べている。 社説はいわば重箱の隅をつついたような内容で、非を見つけて、咎めるのである。いわば、優等生のやり方である。自分たちは、一段高いところに居て、世の中を審判しているというような立場である。これは、一見中立を装っているが、実は、傍観者的なのである。いわば、オリュンポスの神々の地位に居て、世の中を睥睨しているのである。これは、民主主義的視点ではなく、「形而上学」的視点である。自分をガードした保身的な視点である。このような高みの見物的な視点が間違っている。 次に、具体的には、一見民主党を評価しているようで、時期が悪いということで、非難している。だから、民主党攻撃なのである。確かに、民主党には問題があるが、今というコンテクスト(文脈)を考えると、それは、政治の方向性を形成しないことになる。国民の考えを冷却させてしまう効果があるのである。自民党も悪いが、民主党も悪い。これでは、積極的な主張がないのである。 積極的政治エネルギーを殺ぐような社説は、結局、御用的であるということになるだろう。社説を廃止して、複数の論評を掲載すべきである。それは、社内・社外の論者にすべきである。批評・解説の多様化が必要である。新聞のトランス・モダン化である。トランス新聞である。トランス・マスコミである。トラコミである。 **************** 首相問責決議 なぜ今かが分からない '08/6/12 首相の信任をめぐる国会の決議にしては、緊張感がない。セレモニーのような軽さだ。 参院できのう、福田康夫首相に対する問責決議が可決された。民主党など野党は衆院解散・総選挙か内閣総辞職を求めている。現憲政史上初だが、憲法に明記されておらず法的拘束力はない。対する与党は内閣信任決議案を出し、きょう衆院で可決する。 与野党とも、党利党略を優先した場当たり的な対応ばかりが目に付く。今なぜ問責か。国民が納得できるだけの説明をしているとは到底、言えないだろう。 野党は問責の理由として、福田首相が後期高齢者医療制度の廃止に応じないことなどを挙げた。七十五歳以上を線引きして新たな負担を求める新医療制度に対する世論の反発は根強い。しかも福田内閣は選挙による信任を受けていない。抜本的な見直しを求めて首相の責任を問い、国民の信を問うことの必要性は一定に理解できる。 ただ、タイミングには疑問が残る。一週間余り前、衆院解散につながらない問責決議なら見送るべきだとの慎重論が民主党内でも強かった。一変したのは、小沢一郎代表の意向とされる。 国会の会期末を控え、小沢代表は問責決議で対決ムードを高め、選挙準備を加速させる狙いだろう。九月の党代表選を意識した動きにも見える。だが、問責決議案は、解散・総選挙や内閣総辞職を回避できない状況にまで政府を追い込んだときに出す「伝家の宝刀」のはずだ。決議に賛成した共産党も「今出すことは適切ではない」と表明したほどである。 きのう予定されていた党首討論を、小沢代表が避けたことも理解しがたい。今なぜ問責決議なのかを、その場で聞きたかった。政権交代を目指すのなら、せめて国民の前で首相の対応を批判し、自説を堂々と押し出した上で問責を決議すべきではなかったか。 一方の福田首相は、新医療制度の導入で厳しさが増す逆風を、身をかがめてやり過ごそうとしているかのようだ。与党の制度見直し案も抜本的なものではない。衆院山口2区補選の敗北や、八日の沖縄県議選で与党が過半数を割り込んだことを、どこまで真剣に分析しているのだろうか。 与党惨敗で衆院との「ねじれ」が生まれた昨夏の参院選。弱者にも配慮を求めた民意を受け、市場原理を重視した小泉改革の軌道修正を迫られている。福田首相は、新医療制度への対応のように、小泉路線を部分修正しながら乗り切ろうとしている。本来は解散・総選挙で、見直し方を示して国民に信を問うべきである。その意味でも、問責決議を重く受け止めなくてはなるまい。 与党が数の力で押し切ることができなくなった半面、妥協や対立の繰り返しで時間を要する「ねじれ国会」。与野党が拮抗(きっこう)しながら政策を争うこと自体は歓迎すべきだろう。問題は、今なぜこうするのか、国民の目線からの説明が不十分なことである。 http://www.chugoku-np.co.jp/ Syasetu/Sh200806120330.html 中国新聞オンライン 問責決議可決 緊張感が乏しいまま 6月12日(木) 何とも緊張感の乏しい攻防戦だ。 民主党などが提出した福田康夫首相の問責決議案が参院で可決された。参院から首相に突き付けられた“首相失格決議”である。本来なら衆院の解散・総選挙につながってもおかしくない。 現実にはそうなっていない。福田首相はかねて、可決されても無視する、と公言してきた。 衆院で内閣不信任決議案が可決されたときは、首相は内閣総辞職か衆院解散のどちらかを選ばなければならない。これに対し参院の問責決議には拘束力はない。無視することも可能である。 それでも、参院の意思として首相が「問責」される意味は、決して小さくない。 与党はきょう12日の衆院本会議で、内閣信任決議案を可決することにしている。こちらは法的拘束力をもっている。参院の問責決議より意味が重いのは事実だ。 ただし、今の衆院議員は3年近く前の「郵政選挙」で選ばれた人たちだ。昨年夏に半数が改選された参院の方が、より近い民意を反映していると考えるべきだ。 今年4月に行われた衆院山口2区補選、今月8日の沖縄県議選と、与党は敗北している。内閣支持率も20%を割った。本来なら衆院を解散し、民意がどこにあるかを探るときである。首相が決議を無視するだけでは、政権の信頼性はさらに損なわれる。 首相が強気でいられるのは、国会審議で野党が政府・与党を追い詰め切れていないからだ。年金記録、ガソリン税の暫定税率、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)など追及する材料に事欠かないのに、追い風にできないでいる。力量不足が否めない。 民主党の小沢一郎代表はしかも、11日に予定されていた党首討論を取りやめた。首相との直接対決の機会を生かさないとは、理解に苦しむ。 会期が6日間延長される見通しだ。審議がストップしたままの会期末になる。この間に、東南アジア諸国連合(ASEAN)との経済協定は自動承認となる。重要法案の多くは成立済みで、暮らしへの影響は限られる。 だからといって、与野党はのんびり構えていてはいけない。衆院議員の任期はあと1年余りで切れる。いつ解散風が吹いてもおかしくない。決戦のときは近い。 消費税をはじめ、暮らしを左右する政治課題が山積している。政策を磨き国民に訴える努力が、各党にいっそう大事になる。 http://www.shinmai.co.jp/news /20080612/KT080611ETI09000 5000022.htm 信濃毎日新聞社 首相問責―民意を問う日に備えよ 参院が福田首相への問責決議を可決した。きょうは衆院が内閣信任決議案を可決する。片や福田首相ではだめだと言い、片やこのままで結構と言う。権力の分裂状況を象徴する二つの決議で、国会は事実上、幕を下ろす。 首相は総辞職もしなければ、衆院の解散・総選挙もしない。参院の問責決議には法的な拘束力がないからというのは分かるが、内閣を信任するかどうか、政治の基本のところで衆参の意思がぶつかりあってしまうというのは異常事態である。 どちらに軍配を上げるのか、総選挙で民意に聞くのが筋だろう。それが政権につくものの正統性を確立する道だし、物事を決める力を政治に取り戻すことにもなる。そのことを改めて首相に求めたい。 だが、内閣支持率が極端に低迷する中で、後期高齢者医療制度への猛烈な逆風などを考えれば、とても解散・総選挙を打てる状況ではない。これが与党内の共通認識だろう。沖縄県議選での惨敗もそれを裏書きしている。 二つの権力が併存する状態は、とうぶん続くということだ。それでも、この「ねじれ国会」はそう悪いことばかりではなかったのではないか。 ガソリン暫定税率や日銀総裁人事などで混迷したのは事実だが、難題と見られた国家公務員制度の改革では与野党が歩み寄った。歴史的なアイヌ民族決議など、実りも少なくなかったことは見逃すべきではない。 「ねじれ」状況の中で、対決と協調が交錯するのは当たり前のことだ。ただ、参院で否決されても衆院で再可決できるという、ほとんどあり得ないような多数を与党が握っていたため、妥協より対決が前面に出がちだった。 問題は、再可決頼みの政治をいつまでも続けるわけにはいかないことだ。 この秋には、消費税などの増税をどうするか、負担の問題に結論を出さねばならない。それを先送りしてきたツケが、高齢者医療をはじめ社会保障の制度論議がどれも袋小路に入ってしまうゆがみに表れている。 来年度から基礎年金の国庫負担が引き上げられる。財源手当ての論議は待ったなしである。問責決議で与野党の対決色は深まり、民主党はなかなか協調姿勢には転じられまい。首相は、こうした問題も3分の2の再可決で押し切れると思っているのだろうか。 国民の負担増という難問に立ち向かうには、やはり新たに民意を問う必要がある。いつまでも先送りするというのでは政治の責任は果たせない。 一方の民主党をはじめ野党も、税制のあり方や社会保障などについて、政策の枠組みをきちんと有権者に示すべきだ。それによって与野党の対立軸ははっきりするし、逆に協調すべき政策も整理されてくる。 http://www.asahi.com/ paper/editorial.html asahi.com
2008年06月02日(Mon)▲ページの先頭へ
感情と同一性:同一性共同体感情意識とは中世・封建的隷従感情であろう:新維新ルネサンスへ向けて
思うに、感情と同一性(自我)は結びついている。そして、同一性感情(自我感情)が、同一性共同体の、いわば、接着剤になっている。
思うに、小泉元首相を支持した人間は、彼のパフォーマンスに感情移入した、それに同一性感情をもったということだろう。ここには、差異=知性がないのである。 近代的自我は、差異を排除・抑圧しているので、このような結果を生むのである。いわば、同一性感情自我があり、同一性感情意識をもって納得するのである。 この同一性感情意識とは何だろうか。今日の日本社会を支配しているものであり、全体主義の基盤である。 これは、鏡像に没入・感情移入する自我意識と考えられる。では、この没入する感情は何なのだろうか。 これは、差異一致の感情だろう。微分である。サルやゴリラが、鏡を見ても、自分だとは確認しないと言うが、それは、差異共振の真理から見ると正しいのである。鏡像は、自己ではないからである。 鏡像に没入する感情とは、いったい何か。ショートである。自己と他者とのショートである。しかし、ショートする元の感情とは何だろうか。一体化する感情だろう。同化感情である。そう、これである。私が問題にしたいのは。同化感情と共振感情はまったく異質である。 同化感情とは、なにか動物的である。これは、先に述べた、差異一致の同一性感情である。他者と一致する志向性である。つまり、自己を無くす志向性、他者没入志向性である。これは、-(+i)*(-i)⇒-1であろう。オウム真理教の盲目な信徒のようなものである。 思うに、これは、なにか神秘主義に似るだろう。他者と合一する感情であるからである。しかし、自然に没入しても、それは、実害はないが、カルトの場合は実害があるのである。 とまれ、日本人には、この他者没入の志向性があるようである。それが、小泉現象の心因・内因だと思われる。 では、この他者没入性は何なのだろうか。端的に、封建制度における隷従する感情ではないだろうか。中世的感情である。同一性共同体感情である。これが、日本人の集団的心性の秘密だろう。中世・封建的な隷従感情である。主体的知性が喪失しているのである。ここには、個・差異が欠落しているのである。日本には、新ルネサンスが必要である。
2008年04月08日(Tue)▲ページの先頭へ
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて
テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義 以下の大規模店の問題は、日本の政治層の構成を考えるのに役立つ。 結局、1)財界型政治層、2)官僚主導型政治層、3)アメリカ中心的政治層、4)民主主義的政治層、他があるのだろう。 1〜3は亡国売国層でもある。問題は政官財+米国の複合体になっていることである。 これらの政治層は、国家集権主義(官僚制)と大資本中心的自由主義と米国中心主義の複合体であるが、これらに共通するのは、端的に、父権的同一性合理主義ないし同一性価値中心主義(ロゴス中心主義)である。 民主主義は従位であり、イデオロギーとして使用される。例えば、ブッシュのイラク民主化政策である。端的に、今日、政治理念では、自由主義、民主主義、国家主義の三つが主要な構成要素であるが、自由主義と国家主義が癒着していて、自由国家主義とでもいうものになっている。 日本では、国家主義にアメリカ中心主義が結びついているのだろう。だから、日本では、自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義の四つが存していて、民主主義は従位的な位置に貶められている。(これには、いろいろ問題があるが、ここでは言わない。) 結局、自由主義・国家主義・被植民地主義の複合体が政治の中心であり、それらは、父権的同一性主義である。近代合理主義と言ってもいいだろう。【ただし、自由主義の場合は、近代自由主義と言うべきである。トランス・モダン自由主義の場合は、差異共振主義になると考えられる。】 とは言え、正確には、大資本主義的自由主義・国家集権主義・被植民地主義の複合体、いわば、三重苦である。そして、思想的には、父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)である。 ここには、恐ろしいばかりに、差異がないのである。ほとんど、全体主義に近いと言えよう。その複合体には、マスメディアが入るが、それが実質的に情報コントロールしているのである。 結局、民主主義は普通選挙や代議制という形式があるだけであり、民主主義を精神的に支える差異価値がほとんど見られないのである。 結局、支配的な複合体は、同一性中心主義で動いているので、差異価値のことがわからないのである。だから、個民ないしは差民が覚醒して、政治を動かして、自らを救済するしかないだろう。 差異民主主義ないしは差異自由主義を実現する政治を形成する必要があるだろう。略して、差異民主自由主義である。乃至は、差異共同体自由主義である。 差民一人一人が政治を動かす気概をもつ必要があるのである。近代主義的同一性中心主義からトランス・モダン差異価値へと転換させることがポイントである。 ****************** 郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京) に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。 2008年4月4日 金曜日 郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、 それを中央(東京)に持って行ってしまう ◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。 http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404 株式日記と経済展望 検討問題:諸考察:1)「気」とは何か:2)心の病と国家集権主義的似非改革、等々 テーマ:検討問題 1)「エーテル体」ないしは「気」(気エネルギー)とは何か 2)心の病と国家集権主義的「新自由主義」との関係:心の病の蔓延は単に内因だけのことではないと考えられる。外因として、国家集権主義(国家統制主義=官僚制)による「新自由主義的構造改革路線」による反民主主義の実態があると考えられる。 3)太母と太父:陰陽と陽陰:これは先に述べた、まったくの思考実験であるが、父権的一神教とは母権的多神教の反転であり、基本は太母主義であり、結局、今日、太父主義が失われているのではないのか。太父主義は、陽から陰、同一性から差異へと転移する志向性である。 先に述べたが、聖書において、ヤハウェが太母の反転であり、エローヒームが太父ではないのか。二つの原神があるのはないのか。 精緻な検討を後で行いたい。 4)ラディカルな差異主義の可能性:私は同一性を包摂する差異(差異共振主義)を唱えているが、同一性を仮象と見る立場からすると、いわば、差異絶対主義が考えられるだろう。プラトン哲学には、この面が見られる。現象への強い懐疑である。 結局、問題は、同一性とは何か、ということになる。有り体に言えば、果たして、同一性とは幻想ではないのか、という疑問が浮かぶということである。これは、ヒンドゥー教を含めたインド哲学や仏教の考え方に近い。 そう、端的に言えば、現象はマーヤーであるという問題である。これは、また、「見る」とは何かという問題でもある。また、物質感覚身体の問題でもある。 情の問題でもある。情はエネルギーの取得の欲望がある。本来的に欠落しているのである。現象化とは、エネルギーの不足の事態であり、エネルギー獲得がいわば生存の意味である。 このエネルギー獲得の方法が人類の知を発達させたと言えよう。これは、当然、戦争の発展も意味するのである。 内的なエネルギーの不足とは、根源的なルサンチマンを意味するだろう。とまれ、端的に、同一性とは何か、である。
2008年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教
現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教
1) 超越エネルギーと同一性主義 2) 一神教と多神教と父権的共同体(アジア的父権共同体) 3) 近代民主主義からトランス・モダン民主主義への転換の必然性:自由主義と民主主義:個人主義と共同体主義 4)間(ま)とは何か:+iと-iの共鳴様相におけるゆらぎ(クリナーメン?、ブラウン運動?)によって発生する「差異」ではないか:天と地の共振様態におけるズレが間ではないのか。これは、実に東洋的である。クラシック音楽(classical music)において言うと、ウィーン・フィルの音楽性は、間があり、東洋的なのである。それに対して、ベルリン・フィルは機能主義であり、間は少ないのである。(しかしながら、最近のベルリン・フィルは活き活きとしている。これは何か。クラシック音楽の活性化。)ついでに言うと、バッハ音楽が間の音楽である。差異共振性の音楽である。『フーガの技法』が最高である。 5)+1と−1と0(ゼロ)の関係:±1で二項対立を形成するのではないか。例えば、+1が男性で、-1が女性であるというように。あるいは、右と左である。問題は、同一性と差異の場合である。これは、二項対立にはならないだろう。±1で同一性による二項対立を意味するならば、差異は、0(ゼロ)ではないのか。つまり、この場合の差異とは、ポスト・モダン的差異であるが。構造主義とは端的に、±1の二項対立形式を意味するだろうし、それは、先に述べたように、ヘーゲル弁証法力学と等価である。ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、0(ゼロ)を取り出したと言えよう。+1と-1の和としての0(ゼロ)ではないだろうか。ドゥルーズはこれを微分=差異という連続的差異にしたし、初期デリダは、±1が0(ゼロ)をいう痕跡(差延)をもつことを指摘して、二項対立を脱構築したのであろう。この0(ゼロ)は、思うに、ハイデガーの存在である。だから、以前示唆したように、ポスト・モダンの先駆者はハイデガーだと考えられる。因みに、これも既述済みであるが、フッサールは0(ゼロ)からさらに虚軸へと超越した領域(超越論的主観性)に達したのである。これが、フッサール現象学のブレークスルーの意味であるが、それをハイデガーが閉ざしてしまった。しかしながら、後期ハイデガーは、0(ゼロ)を超越しようとしていたと思われるのである。存在の開いた明るみ(?)のようなことを言っているが、それは、Media Point のもつ「光」を示唆するように思えるのである。しかしながら、私の直感では、それは、不十分なMedia Point である。何故なら、単に虚軸のMedia Point であり、実軸が否定されているように思えるからである。つまり、前期ハイデガーと後期ハイデガーでは分裂していると思えるのである。つまり、前者は実軸だけのMedia Point を、後者は虚軸だけのMedia Point を説いているように思えるからである。だから、偏頗なのである。というか、歪曲があるのである。どうも、ハイデガーには病的な性格があったように思えるのである。つまり、本来、差異共鳴イデアは、垂直から水平へと共振的に展開するのに、その転換性を否定しているからである。現象への憎悪・ルサンチマンがあるように思える。 6) コミュニケーションが今日注目されているが、問題点は、それが同一性や連続性をもっていたら全体主義になりやすいことである。個・差異があって、対話的コミュニケーションが形成されるのである。個ミュニケーションである。 7) 現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について やはり、既述したように、連合国占領軍の日本支配の意向と戦前からの国家資本主義(官僚主義的資本主義・父権共同体的資本主義)の売国奴の欲望との結託が、原因ではないだろうか。簡単に言えば、アメリカの日本支配意志と国家資本主義売国奴の欲望の癒着である。前者は、思想的には、ユダヤ・キリスト教的同一性主義であり、後者は父権共同体の同一性主義である。つまり、同一性主義で癒着しているのである。 言い換えると、二つの父権的同一性主義権力が日本を支配しているのである。戦後民主主義の背景がこれである。この二つの同一性主義の支配権力暴力(威嚇・脅し)が国民生活に影響しているのである。そう、同一性主義権力暴力が支配しているのであるから、国民は受動的であると、これらに支配されるのであり、その支配権力を内在化させてしまうのである。つまり、支配権力のコピーになるのである。同一性模倣(自己同一性・自我模倣)である。つまり、戦後日本人は、二つの同一性主義権力暴力によって、それを内在的にコピーしているのである。本来、支配される国民が、支配する同一性主義をコピーして、内在化(感染)しているのであり、支配されるものが、支配するものの形式を取っているのである。これは、この被支配的支配的自我に戦後日本国民、とりわけ、東京人はなっているのである。 そして、この被支配的支配的精神様態に三島由紀夫は断絃の時を見たのであるが、これが、私のテーゼの「近代的自我は狂気である」の意味でもある。明治維新においても、確かに父権的同一性主義があるが、ベースには、母権多神教(母権的多神仏教?)があったのであるが、戦後において、この基盤が徹底的に抑圧されたのである。だから、三嶋由紀夫の戦後批判が正しいのである。 とまれ、この二つの父権的同一性主義支配によって、日本人の精神は亡国的になってしまった。自己文化の基盤・源泉を忘却・喪失したからである。因みに、日本固有文化の母権多神教とは、差異文化・差異共振文化であり、それは、同一性文化ではないのである。問題はそれが衰退していて、復興をしていないことにあるだろう。明治維新変革は確かに、一つの復興であったが、連続性によって、全体主義へと展開してしまったと思えるのである。つまり、根源の母権多神教と明治政府権力の父権的一神教(「天皇制」)が連続化して、全体主義を生み出してしまったように思えるのである。 母権多神教が本来、差異共振性であり、同一性主義とは不連続であることを認識していなかったのである。 そう、ここで、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)の問題(狂信性・カルト)について述べるのが適しているだろう。Media Point と自己同一性(自我)とが不連続であることが認識されていないと、母権多神教は連続的同一性化して、全体主義になると思われるのである。いわゆる、一体感を求めて、国家資本主義的同一性主義支配権力と同一性化するのである。これが大東亜共栄圏や八紘一宇の意味であろう。 つまり、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)とは、連続的同一性にあると言えよう。つまり、Media Point ないしは母権多神教は同一性主義のもつ連続的同一性志向によって、全体主義化するのであり、この全体主義化が、ショート(短絡)である。狂信やカルトと通じるのである。 そうならば、何が問題なのか。欧米文化は自由主義/民主主義を保持しようとし、全体主義を抑える努力をするが、それは、基盤に、不連続なMedia Point を意識しているからではないだろうか。必ずしも、理論的には認識されてはいなくとも。個と同一性主義との根本的違いが意識されているからではないか。というか、根本的に、個=Media Point がベースにあるのである。つまり、特異性が基盤にあるのである。ここから同一性自己(自我)へと展開するのが、西洋近代文明なのである。そして、この西洋近代文化の特異性はルネサンスとプロテスタンティズムが形成したのではないだろうか。前者は母権多神教であり、後者は父権一神教である。両者の共振によって、西洋近代文化の個=特異性が形成されたのではないのか。 この特異性があるので、連続的同一性による全体主義化を回避する努力をするのではないだろうか。それが、自由主義や民主主義の本来の意味であろう。 では、日本近代の場合はどうなのか。日本的個・特異性の形成は成立したのか。少数者においては形成されたのは確かである。漱石等の作家や宗教家や哲学者においてである。 しかしながら、明治近代主義は、明治以前の父権共同体(封建制)を継続しているのである。この父権共同体が同一性主義であり、これが、国民にも支配的であったと思えるのである。つまり、明治維新は一つのルネサンスではあったが、不十分なルネサンスであったと考えられるのである。つまり、個・特異性の解放が天才的な少数者に限定されていたと思えるのである。 結局、不十分な個・特異性の形成があるために、戦後民主主義は、二つの同一性主義権力の影響下にあって、個的民主主義ではなく、同一性民主主義(似非民主主義)という形骸化したものになってしまったと言えるように思えるのである。 日本文化は、本来、差異共振主義であるが、それが、父権的同一性共同体によって抑圧されてきたのであり、そのために、国民一般に個・特異性の意識が喪失されていると考えられるのである。父権的同一性共同体とは、おおまかに言えば、儒教体制(儒教制)であろう。儒教制が、今日でも、姿を変えて、日本古来の差異共振主義(母権多神教)を抑圧支配しているということになろう。西洋文化史におけると同様に、日本においても、母権制と父権制の争闘があるのであるが、それが、見えにくくなってしまっているのである。結局、日本文化は、母権統合型父権主義である。そして、戦後において、基盤の母権制が否定されて、今日、亡国的状況に陥っているのである。母権多神教の危機なのである。神道・神仏文化が母権多神教を保持してきたのである。やはり、神道・神仏ルネサンスが必要なのである。 上條恒彦&六文銭 / 出発の歌〜失われた時を求めて〜 出発の歌 〜失われた時を求めて〜 歌手: 上條恒彦・六文銭 作詞: 及川恒平 作曲: 小室等 乾いた空を 見上げているのは誰だ お前の目に 焼きついたものは化石の街 愛の形が 壊れた時に 残されたものは 出発の歌 さあ 今 銀河の向こうに飛んでゆけ 乾いた空を 見上げているのは誰だ お前の耳を 塞がせたものは 時計の森 自由な日々が失われたときに 残されたものは 出発の歌 さあ 今 銀河の向こうに 飛んでゆけ さあ 今 銀河の向こうに 飛んでゆけ ※さあ今 宇宙に さあ今 未来に さあ今 宇宙に さあ今 未来に 飛んでゆけ※ (※くり返し) http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=5850 余談:この歌詞が六文銭の及川恒平氏のものとは知らなかった。すばらしい詩である。また、リードギターも艶のある音ですばらしい。 この曲も70年代初期である。ポピュラー・ミュージックの可能性が70年代後半から潰されていったと言えよう。
2008年03月13日(Thu)▲ページの先頭へ
多神教理念(多神教モデル)について:天と地との共振:新多神教モデルとトランス・モダン政治経済
一神教理念(以下、一神教モデル)では、天地の二元論化が明確である。超越神が存して、天と地とは絶対的に区別される。
しかしながら、多神教理念(以下、多神教モデル)では、天地は絶対的に峻別されない。ここは、微妙な箇所であるが、多神教モデルでは、天と地とは、例えば、巫女を介して、交信することは可能なのである。つまり、シャーマニズム的なのである。(因みに、mediaの単数形のmediumの語源は霊媒である。)神懸かりを通して、神と通じることができるのである。神道が正にそういうものである。古神道と言うべきか。 それは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振性として理解できるのである。そう、巫女とは、+iと-iとの共振を起すMedia Pointの体現者と言えよう。言い換えると、+1と-1との連続同一性現象を超えて、Media Pointの心魂的様態に転換して、天地共振様態(神懸かり)になるのだろう。【明らかに、宮沢賢治、三島由紀夫はシャーマン・タイプであろう。夏目漱石にも感じられるが。思うに、大江健三郎もこのタイプであるが、戦後近代主義イデオロギーに洗脳されてしまった。何度も言うが、三島が言う「断絃の時」とは、この天地共振文化の喪失、多神教モデルの喪失を指していると考えられる。また、補足すると、出雲の阿国も一種シャーマンであろう。また、円空もシャーマンであろう。当然、空海もそうである。日本シャーマニズム文化があるのである。『源氏物語』に出てくる物の怪は正にシャーマン文化の証しである。p.s. より正確には、シャーマニズム/アニミズム文化である。】 この多神教モデル(正確に言えば、前多神教モデル、ないしは前宗教的モデル)の天地共振様態を否定するのが一神教モデルである。例外が預言者や神人であるイエスである。徹底しているのがイスラム教である。【もっとも、キリスト教の聖霊とは、思うに、このシャーマニズムと類似すると思うのである。既述したが、三位一体論は虚構である。三位三体論が正しい。】 そして、先に、一神教モデルは、自己認識方程式で明示されていると述べ、多神教モデルは未解明のままであるので、ここで検討したい。【イスラム教は、一神教と多神教の中間であると思われる。アッラーはヤハウェとは異なるのである。アッラーはMedia Point的だと思われるのである。イスラム教のタウヒード(一性:いつせい)は、Media Pointにおける一性であると思われるのである。】 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を変形して、多神教モデル方程式として、(+i)*(-i)⊃+1ないしは(+i)*(-i)⊇+1が考えられないだろうか。左辺が右辺を含むのである。そうすると問題は、等号のときである。等号のときが、神道で言えば、天照大神と日御子(「天皇」)との一致ではないだろうか。エジプト神話で言うと、イシスとオシリスとの一致、ニーチェ的に言えば、ディオニュソスとアポロの一致である。 議論が少し脱線するが、この等号と、一神教モデルが重なるのである。これが、天皇制の起源であろう。つまり、多神教モデルと一神教モデルが重層化されるのである。混淆であるが、混同でもある。おそらく、このために、多神教から一神教への発展という宗教史観が生まれたのではないだろうか。とまれ、本件のテーマには一応答えたので、後は、随想したい。 多神教モデルとは天地共振モデルであり、これは、正に、古代的宇宙観なのである。また、私見では、西洋においては、イタリア・ルネサンスでこれが大復活したのである。【因みに、よく言われることであるが、アルプス以北(西欧)とアルプス以南(南欧)は、文化が質的に異なると見るべきである。端的に言えば、西欧とは父権一神教的であり、南欧とは母権多神教的であると思う。聖母マリア信仰は南欧的であり、地中海の女神信仰に拠る。補足すると、イギリスの場合、複雑になるのは、基盤にケルト文化があると考えられるからである。即ち、ケルト文化は母権多神教文化なのである。イギリス文化の矛盾撞着があるのである。私見では、イギリス文学にファンタジーが顕著なのは、これに拠るのである。】 経済においては、おおまかに言えば、多神教モデルは共同体経済であり、一神教モデルは自由主義経済であろう。しかしながら、多神教モデルは近代主義の連続性によって、社会主義化してしまった。そして、一神教モデルは、ポスト・モダン的反動によって、新自由主義化してしまった。 結局、提唱している差異共振経済(Kaisetsu氏の市場化された場における共同体主義に相当する)は、一神教モデルを包摂する多神教モデル経済であると言えよう。言い換えると、近代的同一性を包摂した差異共振経済である。トランス・モダン・エコノミーである。 結局、今日、アメリカは一神教モデル経済の行き詰まり、日本は多神教経済(連続化した多神教モデル経済である社会主義経済)の行き詰まりがあると思われる。アメリカのオバマ氏の動きを見ると、また、多極化路線を見ると、それは、新多神教モデルであると思われる。即ち、差異共振経済である。トランス・モダン・エコノミーである。 日本はいち早く、旧態の連続化した多神教モデルから脱皮して、新多神教モデル経済へと転換すべきである。自民党は、旧多神教モデル経済である。 経済と宗教モデルとの関係については後で再考整理したい。 p..s. 多神教モデルとは、天地共振様態であると言ったが、日本経済の場合どうして、社会主義的になるのかと言えば、結局、多神教モデルが父権化されたものになっているからだろう。上で述べたように、日本文化は、厳密に言うと、多神教モデルの基盤の上に、父権モデルが乗っているのである。この父権モデルは一神教的と言えるが、啓典の宗教のように徹底していないのである。これが、おそらく、日本経済の堕落の原因であると思う。言い換えると、多神教モデルと父権モデルの癒着が今日の社会主義的資本経済を生んでいるのである。 中途半端な父権モデルないしは一神教モデルを解体して、新多神教モデル経済、トランス・モダン経済へと転換すべき必要があるのである。そう、自民党が、この多神教的父権モデル経済を政治的に体現してきたと言えよう。大局的に見れば、やはり、儒教的経済だと思う。脱儒教・新多神教モデル経済へと転換すべきなのである。 p.p.s. 日本経済を儒教的経済というのは短絡的であり、間違いだろう。そうではなくて、多神教モデルの基盤に乗った父権モデルが、明治維新日本文化であり、戦後は、多神教モデルが解体されて父権モデルに近代主義が結合した形になっていると言うべきであろう。 だから、日本経済復活のためには、やはり、根源・基盤の多神教モデルの復活が必要なのである。やはり、新神道が必要である。換言すると、新東洋化である。東洋・日本ルネサンスである。
2007年12月13日(Thu)▲ページの先頭へ
心の闇:現代日本人に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇
心の闇:現代日本人に感じられる心の暗黒:死せる魂と不気味な闇
テーマ:ニッポン亡国の凶相 現代日本は、暗い。心の闇が広がっている。あるいは、せいぜい灰色の心があるだけである。 不気味な闇、灰色の心、これは、心の「神」を否定した結果である。戦後の近代合理主義/民主主義が、心を魂を凍らせているのである。そう、凍って闇になっているのである。心が冷たい石のようになっているのである。 これは、アメリカ的近代合理主義から来ている闇である。金の亡者の心の闇から来ているのである。自らの心の動きを信ぜず、ただ数量化された数字から判断する冷たい闇の心から発しているのである。 これが、戦後日本を襲ったのである。冷たい体である。超越光=御神火がないのである。 火の復活が必要である。超越光の新生が必要である。そう、光とは火である。火かりである。 火かりを亡くした日本人の心の闇 深い不気味な心の闇 冷たい灰色の心 冷たい身体 ご神火・超越光をともす必要がある。 おそらく、現代世界は滅びる必要があるのだろう。 新大洪水の時代である。 誰がこんな日本にしたのか こんな闇の日本にしたのか それは日本人に勇気がないからである 怯懦であるからである 死せる魂の日本人 心の神を否定した日本人 神無国 心の神の音楽を聴くのを忘れた日本人 心の神の光を見つめるのを忘れた日本人 そう、心の神は、計量・自我化できない。それは、ただ、あるのである。 心の神はただそれを認めるしかない存在である。 心の神を迎えること、心の神がマレビトである。 そう、心の神を排除しているから、日本人は、 権力を恐れているのである。怯懦なのである。 心の神の否定と奴隷・家畜とは一体である。 心の神を恐れているので、権力を恐れているのである。 心の神の影が権力なのである。 心の神が復興力である 端的に、何が、心を冷たくしているのか、闇にしているのか 心の冷暗は何が生んでいるのか そう、三島の言った断絃の時、 心の音楽の喪失があるのである。 心の音楽とは何か それは、神仏の音楽である。 心の御音が聞こえないのである。 「木にだにも 御形移すありがたや 法の御音は 谷のひびきか」 円空 円 空 http://www.vill.tenkawa.nara.jp/ sightsee/tenkikawa/yukari.html 「木にだにも 御形(みかた)を移す ありがたや 法(のり)の御音(みおと)は 谷のひびきか」 http://www.econavi.org/weblogue /special/30.html
2007年11月25日(Sun)▲ページの先頭へ
小沢一郎の政治的知性の基盤はMedia Pointにあり、差異と同一性の両極性があるだろう
小沢一郎の政治的知性の基盤はMedia Pointにあり、差異と同一性の両極性があるだろう
テーマ:小沢一郎/民主党と日本の政治 小沢一郎は、その言動が読みにくい政治家と考えられているが、私はこれまで、二面性を説いてきたし、また最近、差異共振的自由主義(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」)を志向している政治家ではないかと考えている。 つまり、差異と同一性の関係だが、ポスト・モダンのように、差異が連続的差異ではなくて、差異共振性だと思われるのである。だから、小沢一郎の政治的知性は、基盤としてMedia Pointにあり、一方では、同一性に振れるし、他方では、差異に振れると思われるのである。前者は、二大政党制であるし、後者は大連立である。ただし、前者の場合は、近代合理主義が関与している。つまり、小沢一郎の内部で、明確に、Media Pointが意識されていないと思われるのである。同一性を差異共振性が包摂するというのではなく、連続化した同一性になっていると思われるのである。つまり、差異共振性と連続的同一性の矛盾が露呈することになると思われるのである。 思うに、差異共振的政治理念が明確にならなくてはならない。差異共振制である。略して、差共主義である。
2007年11月07日(Wed)▲ページの先頭へ
思うに、いちばんいいのは、小沢氏のよい面である国民差異主義と、その他の政党の国民差異主義が統合す
今回の小沢氏の辞意撤回で、小沢氏は、自民党や民主党の両方に睨みを利かせることができるようになったのではないだろうか。
小沢氏は、二面性の持ち主、善と悪の持ち主である。アブラクサスである。アメリカにとっては、辞意撤回の方が、不利である。 しかしながら、問題は一つは捩れ国会である。膠着状態となり、国民生活に被害が及ぶ。今度の衆院選挙が大岐路である。 宗主国アメリカはいろいろ情報操作してくるだろう。しかしながら、ブッシュ政権ももう終焉が近い。郵政民営化凍結と財政再生、これが、ポイントである。 思うに、いちばんいいのは、小沢氏のよい面である国民差異主義と、その他の政党の国民差異主義が統合することである。つまり、民主党でも、自民党でもない、第三の政党を創ることである。国民党ないしは自由国民党である。もっともその余裕があるのか、である。世界は大転換する、いわば、相転移のエポックを迎えているだろう。つまり、差異共振主義である。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 「私にとって最後の一戦」小沢代表の辞意撤回理由全文 2007年11月07日18時37分 民主党の小沢一郎代表が、同党両院議員懇談会で辞意撤回を正式に表明した。鳩山由紀夫幹事長の説明と小沢代表の発言は以下の通り。 【鳩山由紀夫幹事長】 小沢代表が新たな気持ちで続投して頂く決意を固めて頂きました。(よっしゃー、拍手)。ご意見一つ一つをすべて小沢代表にご覧頂いた。菅、輿石代行と共に、我々の思いはこうだと皆様方の思いを説明した。両院議員の皆様の、日本を、国の未来を大変心配する中、恥を忍んでと。参院選挙は勝利したが、いつ解散総選挙があるかもしれない。国民が期待する政治をつくりだすために、小沢代表に新たな決意で臨んでもらいたい。私どもが日本のおやじと敬愛する小沢代表にリーダーシップを果たして頂くようお願いし、私の報告とする。 【小沢一郎代表】 このたび党首会談をめぐり、国民、民主党の支持者、党員、同僚議員に多大のご迷惑をおかけしたことを心よりおわびする。皆様のご叱正(しっせい)を頂き、二日間沈思黙考し、私の政治生命を来たるべき総選挙にかけると決意した。 ご承知の通り、いまだなお、不器用で口べたな東北気質だ。振り返るとそれが今回の混乱の一因では。当初から党員、国民に私の思いを打ち明け、丁寧に説明すべきでなかったかと思う。国民、党員、同僚の皆様に私の思いを率直に語る。 私は14年前、自民党を離党し、日本に議会制民主主義を定着させ、国民のための政策を実現する仕組み作りを目指した。これが14年間の私の唯一の行動原理で将来も変わることはない。次の総選挙で民主党政権を実現しなければ死んでも死にきれないと必死だった。幸い先の参院選で参院の第一党という極めて重い地位をいただいたが、その大勝利の瞬間から二つの思いが深くなった。 一つ目は次の衆院総選挙では何としても必ず勝利し、絶対に民主党政権を樹立しないといけないが、参院選勝利後の楽観的考え方では勝利がおぼつかない。前回の3倍の議席で勝つことが絶対条件だ。この厳しい現実を直視しないで総選挙勝利はあり得ない。参院選勝利の余勢で勝てるほど甘くはない。正直参院選の全国遊説では、日常活動をもっとやれと厳しく言われた。自民党に負けない活動で国民の理解、支持を得てもっともっと強くなるのが総選挙勝利の最低条件だ。 次の総選挙は敗北は許されない。その責任の重さと党の現状への危機感を私は毎日かみしめてきた。次の総選挙が私にとって最後の一戦であることは間違いない。 衆院では自民党が圧倒的多数を占める衆参ねじれ国会で、マニフェストで約束した国民生活第一の政策をどうやって実現するかだ。参院の同僚が一生懸命努力して法案を作り、いくつかの法案が可決し衆院に送付されるが、ねじれ国会では年金、子育てといった民主党の主要政策は実現困難だ。これで国民に許されるか、次の総選挙に勝ち、ねじれを解消するまでお待ち頂きたいと言い続けられるだろうか。国会の半分を担う民主党の責任への思いが深くなった。 この二つを同時に解決する方法はないか。場合によっては、政権の一翼を担えば、私たちの主要政策がいま実現し、政権担当能力を目に見える形で国民に示し、総選挙で勝つ可能性が高まるのではと考えた。最難関の安全保障で最大限の譲歩を示し、連立を打診されたとき、二つの課題を解消する一つの方法と考え、政策協議について役員会に話した。しかし政策協議に応じず、政権交代を目指すとの声が多く、私は直ちに福田首相に伝えた。 今思えば、それで総選挙に向けて頑張ろう、私が先頭に立つと、まとめればよかったと考え、反省している。しかし、その後いろんな憶測や誤解で混乱が生じたのでけじめをつけないといけないと思い、代表辞職願を提出した。いかにも不器用なやり方だった。しかしそれにもかかわらず三役、衆参両院議員が混乱を治めてくれた。心から感謝する。みなさまのご厚意に私も新たな覚悟を持って答えないといけない。もう一度代表を務め、最後の決戦にあたりたい。どうぞ皆さんご協力お願い申し上げます。 そして、本日を再スタートの第一歩とし、菅さん、鳩山さん、輿石さんとともに衆院選挙対策本部を立ち上げ、衆参一体の選挙協力態勢を確立したい。 一年半前、私は自分が変わらないといけないと約束した。死にものぐるいで頑張る。みんなで政権交代に向けて頑張ろうではありませんか。 最後に国民におかれても、政権交代を実現し、国民生活第一の政策を実行するためのご支持をお願いします。 http://www.asahi.com/politics/ update/1107/TKY200711070289.html
2007年10月27日(Sat)▲ページの先頭へ
initiativeの意味
The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative (Regulatory Reform Initiative)のinitiativeという言葉がわかりにくい。以下、OEDから転載する。
通常は、訳さずに、カタカナでイニシアティブと呼ばれているが、これでは、意味不明である。なにかを積極的、主導的に行なう能力・力・権利・権力等を意味している言葉である。しかし、問題は、以上のように使用すると、政治的な主体が感じられるようになる。例えば、積極行使政治局のようにである。しかし、そのような意味はもっていない。非常に、観念的、精神的、理念的な表現である。端的に言えば、積極性/積極的能力、主導性/主導的能力、積極的行使力/実行力である。だから、上の英語は、米日規制改革・競争政策積極(主導)的行使【規制改革積極(主導)的行使】となるだろう。(p.s. 米日規制改革・競争政策主導権がいいだろう。) これは、PS理論から言うと、Media Pointからの同一性の力動を意味するのである。同一性力学である。権力・強制力である。 これに対抗するには、理路整然と対抗するしかない。きちんと日本側の政策を説明して、肯定すべきは肯定し、反対すべきは反対すべきである。これに従う必要はまったくないが、しかし、たいへんな圧力であることは変わりない。腰抜け、腑抜け、売国奴の政府ではだめである。新黒船である。自民党幕府の倒幕が必要なように思える。 維新、トランス・モダン維新が必要である。 p.s. U.S.-Japan という言い回しであるが、これでは、アメリカと日本で具体的な内容を協議して決めたような意味あいであるが、これは、米国の日本に対する、つまり、アメリカ・対日ということである。だから、米国・対日規制改革・競争政策主導権と訳すべきである。少なくとも、米日間規制改革・競争政策主導権である。 initiative n. [a. F. initiative (1567 in Hatz.-Darm.), f. as initiative a.] 1. That which initiates, begins, or originates; the first step in some process or enterprise; hence the act, or action, of initiating or taking the first step or lead; beginning, commencement, origination. on one 1793 W. Godwin Enq. Pol. Justice iv. viii. 351 A sensation of pain was the initiative, and put my intellectual powers into action. 1809 1818 Method in Encycl. Metrop. (1847) 7 There are many marked differences between Mathematical and Physical studies; but in both a previous act and conception of the Mind, or what we have called an initiative, is indispensably necessary, even to the mere semblance of Method. 1858 J. H. Newman Hist. Sk. (1873) III. iii. iv. 324 Theodoret 1882 Farrar Early Chr. II. 505 Men who had followed the noble initiative of St. Paul, and who refused to receive anything from the Gentiles to whom they preached. b. to take the initiative (F. prendre l 1856 Emerson Eng. Traits, Manners Wks. (Bohn) II. 46 He has stamina; he can take the initiative in emergencies. 1858 Buckle Civiliz. (1873) II. viii. 570 No reform can produce real good, unless it is the work of public opinion, and unless the people themselves take the initiative. 2. The power, right, or function of initiating or originating something. Hence to possess or have the initiative. 1793 W. Godwin Enq. Pol. Justice i. vii. 53 Sensation is of some moment in the affair. It possesses the initiative. Ibid. v. xx. 544 The legislative assembly, whether it possesses the initiative, or a power of control only, in executive affairs. 1802 Morn. Chron. in Spirit Pub. Jrnls. (1803) VI. 302 If..Mr. Henry Addington is to have the initiative in the Docks. 1842 Brande Dict. Sci., etc. s.v., That branch of the legislature to which belongs of right the power to propose measures of a particular class is said to have the initiative with respect to those measures. 1844 Lever T. Burke (1857) II. 113 The initiative lay with you. b. spec., Pol. Sci. The right of a citizen or defined number of citizens, outside the Legislature, to originate legislation, as has been established in some of the Swiss Cantons since 1869 1889 Adams & Cunningham Swiss Confed. vi. 80 Both Referendum and Initiative are institutions which have grown up gradually in the Cantons, spreading from one to another. 1891 Speaker 11 July 36/1 The Initiative, or right of a body of citizens outside the Legislature to initiate proposals for the abolition, alteration, or enactment of laws. 1898 Hazell ******************* American Heritageから in•i•tia•tive n. 1. The power or ability to begin or to follow through energetically with a plan or task; enterprise and determination. 2. A beginning or introductory step; an opening move: took the initiative in trying to solve the problem. 3. a. The power or right to introduce a new legislative measure. b. The right and procedure by which citizens can propose a law by petition and ensure its submission to the electorate. adj. 1. Of or relating to initiation. 2. Used to initiate; initiatory.
2007年10月16日(Tue)▲ページの先頭へ
まず、政治・経済の力学ではなく、私個人の印象・感想を語りたい:日本差異共振伝統文化とPS理論
まず、政治・経済の力学ではなく、私個人の印象・感想を語りたい:日本差異共振伝統文化とPS理論
テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画 まず、政治・経済の力学ではなく、まったく私個人の印象・感想を語りたい。 私は、農業地帯で育った。比較的近くに海がある。車なら、20分未満で行ける。とまれ、子どもの頃は、茅葺の家が周囲にほとんどであり、私も、それに住んでいた。また、道路状況も悪く、私が高校に自転車通学したときは、舗装された道路は、全体の五分の一程度であった。とにかく、私の印象は物質的貧しさである。これが、精神風景の基調である。 しかし、いつ頃からであろうか。新築の家が増え、道路がほとんど舗装され、また、海岸には、企業の研修所等の建物が立派に建つようになっていた。そう、いろいろな大規模店も増えた。国道沿いの店舗がなにか外国風に見えたものである。時期的には、バブル頃であろう。外見的に羽振りがよくなったのである。 私は、近隣の真新しくなった住宅を見て、この建物を造るための富はどこから入ったのだろうかと思ったのである。昔は、茅葺屋根のあばら家だったものが、新築の二階建てのモダンな住宅に変身したのであるから。海岸の、松林にたつ企業の研修所のような立派な建物を造る富はどこから来たのだろうか、素朴に疑問に思ったものである。 私は単純素朴に、この田舎をモダンにする富はどこから来たのかと思ったのである。なにか、私が育った田舎ではなく、外国に居るような感じがした。外見の、物質的豊かさが、貧しい田舎を変身させてはいたのである。私は、その頃には、東京に住んでいたので、浦島太郎のような感じもしたものである。 そう、私の思いは、前述したように、この富はどこから来たのかという疑問であった。なにか降って湧いたように感じられたからである。そのときは、東南アジア等の貧国から奪った富ではないかと思ったりした。とにかく、不自然な感じがしたのである。物質的貧しさが精神的風景であったのに、なにか突然、派手にモダンに変身したのであるから。 結局、この変身は、金融資本の跋扈によるものと今では言えよう。金融資本が、マクベスの魔女の予言のように、農民を王にしたのだろう。金ぴかの農民に変えたのだろう。そう、ここには、公共投資が大きいと言えよう。農業地帯の道路は、今やほぼすべて舗装されている。道路も新たに造られたりした。結局、日本の政府は借金で、外見モダンな田舎を造ったのだ。そして、下の記事からもわかるように、借金する必要がないのに、米国債を買って、日本経済を歪めてしまったということだろう。ここには、国家社会主義と金融資本主義の癒着があると言えよう。これが、日本経済の癌である。岸信介路線と米国金融資本家との癒着構造が癌細胞である。 安部前首相が戦後レジームからの脱却を唱えたが、それは形式的には正しいと言えよう。皮肉なのは、それが、祖父の岸信介路線からの脱却を意味したことである。 ここで大雑把に、日本のこの癌細胞を死滅させる方法を考えたいが、今は、方向性だけを述べるにとどめる。結局、問題は、日本近代の特殊性が今日も尾を引いていることである。欧米の近代化を考えると、たとえば、イギリスの場合は、絶対王政があり、それが、ピューリタン革命(懐かしい言葉だ)で破壊されるが、名誉革命で、王制が戻るが、しかし、実質は、中産階級が支配的になり、自由主義、民主主義が進展したのである。私は、既述したように、欧米におけるルネサンスの意味が大きいと考えているが、欧米近代の基盤には、ルネサンスがあると言っても過言ではないだろう。これは、周知のように、個を基盤とする世界観の出現を意味する。だから、ここから、プロテスタンティズムが生まれるのも必然であると言えよう。私は西洋文明を批判するが、この個の世界観だけは、積極的に評価せざるをえない。 しかしながら、個と自我が混淆されて理解されたのである。というか、個と自我は、自然状態では、混淆しているのである。これが、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が本質としてもっている解明点である。今日の哲学的問題もこの点にあると言えるのであるが、日本においては、どうなのだろうかということである。 日本文化における個とは何か、である。これについては、以前愚考したが、日本的個というものはあるのである。それは、実は、PS理論に近いものであったと思えるのである。即ち、日本的個とは、本来、差異共振的であると思えるのである。日本語のもつ「述語」中心性がそれを示唆していると思われるのである。たとえば、「空を見る」というとき、主体である「私」と客体である「空」は、「見る」という述語において、一如であるのである。これが、端的に差異共振的であると考えられるのである。 ただし、当然、自我的同一性は強くはなかった。そう、日本近代化とは、結局、日本文化の差異共振性を忘却して、西洋的自我主義を導入することではなかったと思えるのである。つまり、それまで日本文化にはなかった、自我的同一性を取り入れたのではなかったということである。そう、ここに勘違いがあるのである。西洋においては、ルネサンスに基づいた近代文化があるのであり、それは、個=差異の文化なのである。それから、自我、近代的自我へと進展したのである。だから、西洋近代文化は、ルネサンスとプロテスタンティズムの混淆であると言えるのである。しかしながら、近代日本は欧化において、ルネサンスを忘却して、プロテスタンティズムの近代的自我を取り入れただけのように思えるのである。 明治維新まで日本文化がもっていた差異共振性を否定して、近代的自我、近代合理主義を取り入れたと思うのである。思うに、日本の近代化とは、中国の文化大革命に並ぶような叡知の放棄・破棄を意味するのではないだろうか。 日本は自己喪失・自己忘却・自己棄却して、近代化したのである。それもいびつな近代化であった。ルネサンス抜きに近代化であった。あるいは、皮相・浅薄・軽薄な近代化であったのである(そう、日本軽薄近代化と呼べるだろう)。つまり、自己本質を喪失した浮ついた近代化であったのである。これが、現代日本の亡国状況の根因であると考えられるのである。自己の魂を喪失した近代化であったのである。漱石は滅びると考えたのであるが、それは正鵠を射ていたと言えよう。 三島由紀夫が魂のことを言ったが、この点で正しかったのである。戦後の問題というよりは、日本近代化の問題であったのである。だから、亡国日本から復活するには、日本の魂を復興させなくてはならないのである。差異共振文化を復活させなくてはならないのである。プラトニック・シナジー理論は日本伝統文化の創造的復活をも意味するのである。近代を、とりわけ、日本近代を乗り越えなくてはならない。トランス・モダン・ジャパンである。 ******************** 「アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか」 マクロ経済 アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか ビル.トッテン著”日本は日本のやりかたで行け”から、マィヶル・ハドソン氏の{1985年プラザ合意の教訓とその影響}と題する諭支の要約です。 プラザ合意の真の目的とは…… 1985年9月22日、ニューョ−クのプラザ・ホテルで、日本は金利を引き下げることにより、ドルの為替相場を支えることに同意した.いわゅる「プラザ合意」である。これは世界経済安定のために、先進諸国が協調して相場に介入した事例として語られているが、ハドソン氏によれぱ、それは表向きのことにすぎないという。 http://sun.ap.teacup.com/souun/130.html 「日本はなぜ負債大国になったか」 マクロ経済 平和時に政府が借金を増やす理由は、富に対する課税を怠ったことに起因する。 現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。 過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。 税制の改正は、金融および不動産投資家に、寄生的かつ投機的な収益を求めることを奨励する。 この新しい財政哲学は、世界競争に向けた生産性や生産高拡大のための再投資に必要な収益を産業界から奪いかねない。 国民はこの「新しい」税制政策がいかに深刻な影響を与えるか理解していない。 http://sun.ap.teacup.com/souun/126.html 晴耕雨読
2007年10月07日(Sun)▲ページの先頭へ
今日における霊性の目覚め:知的霊性・批判的霊性・合理的霊性の発現
今日における霊性の目覚め:知的霊性・批判的霊性・合理的霊性の発現
テーマ:新霊性new spirituality 今日、霊性の復活が確かに起っていると思う。正確に言うと、知的霊性の復活である。新霊性主義、批判的霊性主義、合理的霊性主義とでも呼べよう。 今は、余裕がないので、詳述できないが、以下の番組に霊性を感じた。ミャンマーで殺害された長井さんの問題は複雑であるが、一言言えるのは、長井さんは、彼の霊性に従って行動したことである。凡人には、向こう見ずと思われるだろうが、彼は前世の誓いから、勇敢な記者となり、世界やミャンマーの凶相を伝えたのである。彼は、現代のヘルメス神である。とまれ、長井さんは、グレードアップして輪廻転生するだろう。復活するのである。今生での「天職」を成就したのである。 さて、話題は変わって、ヤーボ・ネルヴィ指揮のマーラー交響曲第三番であるが、第一楽章は、マーラーの曲でできの悪い楽章ではないだろうか。演奏も散文的である。しかし、その他は、入魂の指揮で、精神性があった。マーラーという音楽芸術家は、現代的問題をもっている。彼は明らかに、分裂していた。一方では、深い精神性をもっていた。ブルックナーと通じるような、あるいは、それ以上の精神性を表現したが、同時に、感覚的表現に堕してしまうことが多かった。精神と感覚の分裂、ここにマーラー音楽の本質があるだろう。 これは、一般には、「モダニズム」芸術の矛盾に通じよう。一方では、精神・霊的次元を志向しつつ、同時に、感覚中心主義である。これは、相反的なので、表現が必然的に分裂するのである。詩人では、T. S. エリオット、エズラ・パウンド、小説家では、ジェイムズ・ジョイス、画家では、カンディンスキー、モンドリアン、音楽家では、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、等をあげられるだろう。 彼らは、ポスト・モダン的である。しかしながら、トランス・モダン的作家もいた。宮沢賢治、D.H.ロレンス、等である。 2007.10.7 動画を見る ミャンマー軍事政権、 邦人ジャーナリストを射殺 取材中の日本人ジャーリスト長井健司さんの命を奪ったミャンマー軍の銃弾。 緊迫の現場を長井さんが撮った映像47分32秒から分析。 http://www.tbs.co.jp/houtoku/index-j.htm 奥田 佳道 − 海外コンサート − ▽ネーメ・ヤルヴィ70歳記念コンサートほか 「カンタータ“北の海岸”」 カップ作曲 (5分39秒) (合唱)エストニア国立男声合唱団 (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)ネーメ・ヤルヴィ 「かつて私は美の言葉を3つ持っていた 〜男声合唱とフルートのための詩」トルミス作曲 (6分09秒) (フルート)マーリカ・ヤルヴィ (合唱)エストニア国立男声合唱団 (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)ネーメ・ヤルヴィ 「交響詩“フィンランディア”作品26」 シベリウス作曲 (8分05秒) (合唱)エストニア国立男声合唱団 (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)パーヴォ・ヤルヴィ 「弦楽オーケストラとフルートのための3つの小品 “谷にて”“川の上で”“牧草地で”」エッレル作曲 (7分40秒) (フルート)マーリカ・ヤルヴィ (合唱)エストニア国立男声合唱団 (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)クリスティアン・ヤルヴィ 「組曲“アラジン”作品34から “オリエンタル・マーチ”“イスファハンの市場” “黒人の踊り”」ニールセン作曲 (12分21秒) (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)クリスティアン・ヤルヴィ 「ファウスト交響曲」 リスト作曲 (1時間00分24秒) (テノール)ユハン・タラッラ (合唱)エストニア国立男声合唱団 (管弦楽)エストニア国立交響楽団 (指揮)ネーメ・ヤルヴィ 〜エストニア・コンサート・ホールで収録〜 <2007/5/26> (エストニア放送協会提供) 「交響曲 第3番 ニ短調」 マーラー作曲 (1時間37分56秒) (メゾ・ソプラノ)ワルトラウト・マイア (合唱)ライプチヒ放送合唱団 〃 リンブルク大聖堂少年合唱団 (管弦楽)フランクフルト放送交響楽団 (指揮)パーヴォ・ヤルヴィ 〜ドイツ・エーベルバッハ修道院で収録〜 <2007/6/23> (ヘッセン放送協会提供) http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/ ch.cgi?area=001&date=2007-10-07& tz=now&ch=07 An Exit Toward Soul-Searching It had been four days since Meghan O'Sullivan left her job at the White House. Just four days since she gave up her Secret Service pass, her classified hard drive and her entree to the president. Four days since she gave up any day-to-day responsibility for Iraq. (By Peter Baker, The Washington Post) Iraq Embassy Cost Rises $144 Million Amid Project Delays Planning, Workmanship Cited as Problems (By Glenn Kessler, The Washington Post) Negative Perceptions Dogging Clinton Among Voters in Iowa (By Dan Balz, The Washington Post) In the World's Rural Outposts, A Shortwave Channel to God (By Kevin Sullivan, The Washington Post) Koreans, Hispanics Work for Harmony Cultures Can Clash In On-the-Job Mix (By Cecilia Kang, The Washington Post)
2007年10月06日(Sat)▲ページの先頭へ
Made-In-USAの戦後亡魂似非日本から、トランス・モダンの真正日本転生へ向けて
森田実氏は次のように書いている。『岸信介が、CIAから政治資金をもらうのと引き替えに「日本への核持ち込み」を認めただけでなく、日米安保条約により、日本が半永久的に米国政府に軍事基地を提供し、日本を米国政府の従属国に固定化したことが、本記事によって明らかにされた。われわれは、自民党政治とは何だったのか――このことを、根本から見直さなければなければならない。』
http://www.pluto.dti.ne.jp/ %7Emor97512/C03742.HTML 岸信介ないしは自民党とアメリカ政府との「癒着」は、これまでの日米史から推測できることであり、今度の記事で確証できたということである。私が知りたいのは、戦後教育のことである。戦後民主主義、近代合理主義を中心とした戦後教育が、どういう背景で生まれたのかである。 『 連合国軍最高司令官総司令部 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦 終結に際してポツダム宣言 の執行のために日本国土の大部分を占領 し、事実上の統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本 では「GHQ」という通称が用いられた。進駐軍総数は20万人、うち12万人が横浜市 に上陸した。 マッカーサーを訪問した昭和天皇(1945年9月27日撮影した3枚のうち9月29日に公開された1枚) マッカーサー を訪問した昭和天皇 (1945年9月27日 撮影した3枚のうち9月29日に公開された1枚) 基本情報 日本がポツダム宣言 を受諾した1945年 (昭和 20)9月から1952年 (昭和27)4月28日 の日本国との平和条約 発効までおよそ6年9ヶ月の間、日本占領に当たる連合国軍(最大43万人)を統括し、日本の最高統治権限を与えられた。最高司令官はダグラス・マッカーサー 陸軍元帥。1951年 (昭和26)4月16日 よりマシュー・リッジウェイ 中将(就任直後に大将に昇進)。 連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。占領軍の命令の多くは1945年(昭和20)9月20日 の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆるポツダム命令 (ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。1946年 (昭和21)2月には政策決定の最高機関として極東委員会 が、4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会 が設置されたが、実質アメリカによる統治という性格は変わらなかった。 日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。』 これを読むと、戦後日本とは、それまでの日本とは不連続なのではないだろうか。つまり、戦後日本とはアメリカ(連合国軍?)によって、解体されて、新たに人造された国家ではなかっただろうか。つまり、極言すれば、似非日本である。アメリカによって外科手術されて、身も心もアメリカ主義となったメイド・イン・アメリカの「日本」ではなかったのか。戦後日本国家のOSがアメリカ製なのである。戦前の日本を全否定するようにプログラムされたメイド・イン・アメリカ・ポストウォー・ジャパンだと考えられるのである。 岸信介とCIAの密約はいわばその副産物ではないだろうか。土台は、GHQによって構築されていたのではないだろうか。 とまれ、私はこれまで、戦後日本の唯物論化は、アメリカによる懐柔によるものではないかと思っていたが、それよりも、根本的に、戦後日本とは、連合国軍=アメリカによる人工国家「日本」なのであり、サイボーグのような国家であるということではなかったかと認識を深めた次第である。 魂や脳髄が、入れ替わって、Made-In-USAの民主主義・近代合理主義になってしまったのである。身体は日本であっても、もはや別人である。日本は、端的に、滅びたのである。滅亡したのである。魂が抜かれて、亡魂の国家・国民となったのである。機械国家・機械国民となったのである。 つまり、日本は敗戦で死んだのである。そう考えると、戦後日本、そして、現代日本の亡国状態がよく説明できるのである。そう、アメリカに憑依された日本である。真正日本の魂は幽体離脱して、どこかへ行っているのである。脱け殻日本である。思うに、三島由紀夫に憑依した魂たちこそ、真正日本の魂魄たちであったのではないだろうか。 死んだのだから、輪廻転生して、真正日本の復活が必然である。
2007年10月03日(Wed)▲ページの先頭へ
亡国日本の霊的超克・霊的ルネサンスへ向けて
戦後の唯物論による日本人洗脳とは、思うに、アメリカと岸信介による、日本人支配の方策によるものではなかったのか。少なくとも、日本人に精神を捨てさせたナニカがある。やはり、アメリカの占領政策が大きいと思う。日本人を精神的に去勢させる占領政策である。後で、検討したい。そう、三島由紀夫の狂気の原因もここにあるだろう。三島は知的胆力が足りなかったとは言えるが。これは、大江健三郎の問題にもつながる。
占領政策で、日本の政治家が肝を抜かれたということもあると思う。三島が天皇制を狂乱的に訴えたのは、やはり、精神の喪失によると言えよう。戦前の天皇制と日本人の精神は結びついていたのである。そして、戦後、人間宣言で、日本人の精神は瓦解した。折口信夫は、独り、新神道を夢見た。超越性の問題である。日本文化の超越性・霊性を否定されたのである。日本の霊性、これが、占領政策によって否定されたのである。霊的亡国である。亡国日本が甦るためには、ユダヤ/キリスト教西洋文明の霊的超克が必要である。霊的ルネサンスである。 注:次の論考の追記2を独立させたものである。 http://ameblo.jp/renshi/entry-10049533732.html 「恐怖の大王」の郵政民営化を支持した日本人の《無知》の根源は何か:霊智・叡知ルネサンスへ向けて
「恐怖の大王」の郵政民営化が既に動き出したが、料金を見ただけでも、恐怖の「インフレ」であり、絶句する。
あの二年前の狂気の小泉衆院選挙は何であったか。 (参考:http://ameblo.jp/renshi/archive1-200508.html ) 一言で言えば、多くの国民が批判的思考力を失っていたということで説明できるだろう。マスコミ等の宣伝によって、洗脳されてしまったのである。これは、個として、思考し、生きていないことに原因がある。 ただ、感情・欲望に囚われて、脱利己の知性によって思考していないことからくるのである。私は、何度も述べたが、前小泉首相に対する根本的な疑念があった。どうみても、あの話し方は、パフォーマンスにしか見えなかったのである。胡散臭かったのである。それが直観でわからないというのは、精神がなくなっている証拠である。 ブログ等では、多くの憂国の士が居て、それが、ほとんど唯一の救いである。とまれ、どうして日本人は精神的知性を喪失したのか、簡単に述べたい。 これは、ほとんど自明であるのだが、戦後の唯物論教育と物質主義的生活が原因である。唯物科学教育は、自我を強化して、自己へと変容する契機を提起しなかった。道徳教育云々は反動的である。哲学・叡知教育が必要である。 つまり、日本が救われるには、叡知へのパラダイム・シフトが必要である。生まれ変わらないといけない。つまり、結局、郵政民営化を超克できなければ、財政的に没落零落する。アメリカ的格差が拡大する。思うに、日本人には、試練が必要である。今のような、無思想状態は亡国状態であり、亡国は必然である。 だから、亡国からの新生を私は考えている。亡国で滅亡したままなのか、それとも、復活するのか、である。微妙なところである。 とまれ、精神・霊智・叡知ルネサンスが必須である。 p.s. 是非、プラトニック・シナジー理論を学んでいただきたい。ポスト・モダン理論が致命的に不十分であったのであり、そのため、物質的現実に対する知性・叡知が衰退してしまったのである。プラトニック・シナジー理論はアンシャン・レジームである近代を乗り越える知性・叡知の武器である。
2007年09月10日(Mon)▲ページの先頭へ
第1回 病院にいられない 〜急増する医療難民〜
今日10日の番組を見たが、病院をたらい回しされる認知症の老人の患者のものであった。医療費の削減のため、長期に患者を置くと、
点数が下がるシステムを作ったためである。 また、在宅医療の問題点も指摘されていた。医療と介護の連携がないという点である。 私は介護を約9年やってきたので、その凄まじい労苦を知っている。それは殺人的である。拷問である。介護スパイラル、介護蟻地獄、介護泥沼に陥るのである。仕事があり、家族内で連携がない場合がたいへんである。 私は前から、福祉の問題は徹底してやるか、あるいは、現代姨捨山を作るかと言ってきた。確か、村上龍の『希望の国のエクソダス』で、子どもが現代姨捨山発言をしていたと思う。 私は累進課税強化を主張する。富裕税を多くとるべきであり、また、給与を上げるよりは、貧困層の減税を行なうべきと考えている。また、道路のための公共投資は要らない。国家・地方公務員の大幅な削減が必要でもあろう。亡国的な遊興のテレビ番組を廃止すべきである。 思うに、若い介護士、看護師等を増やすべきである。医療・福祉を充実すべきである。コムスンは言語道断である。 月曜日 10日の放送番組 金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット 第1回 病院にいられない 〜急増する医療難民〜 (再)シリーズ社会起業家の挑戦 “ヤド”で街を変えていく 火曜日 11日の放送番組 金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット 第2回 病院がつぶれる 〜地域医療は守れるか〜 (再)シリーズ社会起業家の挑戦 “オフィスマッサージ”をどうぞ 水曜日 12日の放送番組 金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット 第3回 病院にかかれない 〜危機に立つ国民皆保険〜 (再)この子はこの子なんやから 〜弁護士・大平光代さん ダウン症をめぐる対話〜 木曜日 13日の放送番組 金子勝の緊急点検・日本のセーフティーネット 第4回 医療制度・崩壊をどう止めるか 〜金子勝の提言〜 (再)ゆっくり のんびり 〜香川 ひきこもりからの再出発〜
2007年07月29日(Sun)▲ページの先頭へ
日本の衰退という現実を認める:復興は可能か
日本の現状を理論的に言えば、近代主義の末期症状であろう。近代合理主義が物質主義・唯物論を形成して、拝金主義を助長した。経済的唯物論が蔓延した。
人間主体から言うと、近代的自我主義であり、哲学的に言えば、同一性中心主義である。これは、反個人主義である。自我主義と個人主義は、似て非なるものである。 この没個人主義を生む日本社会の圧力は何だろうか。私は、学生の頃、最近は見ないが、そして、その後、アクの強さで嫌いになったが、あるピアニストの話しを聴いて、個性が自分に足りないと思い、個性的でありたいと強く思うようになった。とまれ、個が重要であるという思想は、その後、変わらない。 個は、自我とは正反対である。個は、自己に誠実であるのであって、外界は、言わば、二義的である。自我は、外界中心で、見えの世界、顕示の世界に生きている。人の目を気にして生きている。 このように書いてくると、日本の衰退の哲学的意味が見えてくるだろう。没個主義で、自我中心主義になってしまったことだろう。 創造、独創、アイデア等は、個主義から生まれるのである。政治家がわかりやすいだろう。政治家に個がなくなっているのである。世襲議員は、自力で切り開いて来なかったから、単に、自我が肥大しているだけである。 個とは孤独である(個独)。孤独を恐れ、群れる日本社会には、未来はないだろう。 そう、日本人全体が虚弱になっているのである。端的に言えば、退化しているのである。文学で言えば、大江健三郎の退化があるだろう。教養主義を模倣しているだけである。音楽、美術も枯渇しているだろう。科学嫌いも多い。 何度も繰り返すが、これは、近代主義の帰結である。近代主義を乗り越えるはずだったポスト・モダンは、連続性に後退したために、近代主義の同一性構造を乗り越えられなかったのである。 日本の未来は厳しい。退化する日本は、滅びるのだろう。
2007年07月12日(Thu)▲ページの先頭へ
この国のパラサイトな権力層の悪人の「知」の分析
先に、パラサイトな権力層の心理分析したが、なぜ、彼らは、一種読心術・透視術をもっているのか、あるいは、どうして、人を騙せるのか、考えたい。
思うに、彼らは、一種二重人格なのである。表面的には、善人ぶっているジキルであり、また、本人も、そうだと思い込み、自惚れているだろう。 しかし、そのジキルと、言わば、一如(いちにょ)となったハイドが存しているのである。これは、本来、ジキルの同一性から否定された差異であるべきものであるが、否定態となっているために、影・シャドウになっているのである。 そう、これこそが、本来の善が生まれる基盤であるが、それが、否定態となり、悪となっているのである。 つまり、パラサイトな悪人どもは、単に、同一性に優れているだけでなく、本来、差異をもっていたが、それが、育ちや環境等を通して、歪み、否定態となってしまっているのである。 一種、トラウマによって、差異が差異として、発展させずに、否定態として、彼らには、存しているのである。ここに、彼らの、悪の根源があると言えよう。 この否定態の差異は、否定態ではあっても、もともと、差異であるから、自己と他者を切り離して、他者を観察するのである。これが、彼らの読心術・透視術の根拠ではないだろうか。やはり、堕天使・悪魔ルシファーである。差異が、歪み、捩れて、悪用されるのである。 だから、彼らは、平々凡々の国民よりは、一種、優れているのである。とても、危険な存在である。普通の国民は知的には、かなわないだろう。 だから、国民には、知的守護神が必要である。本来、知識人がその役割をすべきなのであるが、知識人自身が、悪魔の手先になっているのである。 とまれ、以上から、パラサイトな悪人の「知」をこれで分析したこととしよう。先の心理分析よりも、よくなっているのだろう。
2007年07月11日(Wed)▲ページの先頭へ
日本国のパラサイト群=癌細胞である政官財の悪徳権力家の心理について:または、権力亡者心理分析
日本国を食い物にしているパラサイトな権力亡者たち。
参考:『きっこの日記』:「国による大犯罪の告発!」 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070711 私は、彼らは、同質の心理ないし性格をもっていると感じるのである。というか、悪人特有の心理があると思うのである。ということで、それを分析したい。権力的悪人心理分析。 端的に、彼らは、腹黒いのである。表面を飾るのが巧みである。そう、彼らは、一種すぐれた読心術や透視能力をもっている。人心を読むのが巧みなのである。お人よしの日本国民はいいカモである。これは、支配者の能力である。西洋人が、非西洋人を、過去、現在、支配してきたのは、この能力があるからである。 神話でいうと、堕天使ルシファーであろう。神に近いものでありながら、傲慢で天から落とされて、悪魔になったのである。 そう、彼らは、人心を読み、騙して、略奪することにたけているのである。つまり、国民のためを装って、自らの物質的権力欲望の満たすため、国民を騙すのである。 そう、彼らは、「エリート」である。国民より、自分たちの方が、優秀だと思っているのであり、自分たちが、権力によって、私利私欲を満足させるのは当然と思っているのである。だから、年金にしろ、政治資金にしろ、偽装問題にしろ出て来るのである。 傲慢さがあるのは、当然であるし、また、私がこれまで、解明してきた近代的自我をもった人間どもである。ニーチェで言えば、ルサンチマン(怨恨)をもった者どもである。自分は、才能があるのに、その対価を得ていないという不満をもっているのである。 そう、同一性能力に秀でているのであり、これは、認めるべきである。ただ、彼らには、非凡なものとなるための差異が根本的に欠落しているのである。だから、優秀な凡人的悪人なのである。 日本国民は、一般に、騙されやすいタイプである。人を疑うことをあまりしない、というか、物事を深く考えないタイプである。批判的知性が欠落した国民である。だから、パラサイトな悪人どもは、易々と、騙せるのである。国民が物事を皮相に捉えるので、権力亡者どもは、皮相を取り繕うのである。 国民が、批判知性の訓練を受けていないから、易々と、表面的に誤魔化せるのである。個として、差異として、特異性として、自己を捉える人ならば、権力亡者どもは、直観的にわかるものである。この隙をパラサイトな権力的悪人は、利用するのである。ある意味で、国民自身のツケ、自業自得性はあるが、しかし、知にたずさわる者が、批判知性を欠落させているので、国民だけを責めるわけにはいかない。 彼らの同一性的悪賢さとまた、執念深さを忘れてはいけない。嫉み深いのである。隙あらば、人を、常に、貶めようとしているのである。憎悪の塊である。 同一性に長けているので、言葉がうまいのである。騙しの才能の天性をもっているのである。羽賀研二のようなものである。 結局、彼らを、権力の座から、外すためには、国民の英断が必要である。鬼は外である。
2007年05月24日(Thu)▲ページの先頭へ
暴力への対抗と暴力を超えるもの
「日本の行く末」に対する
http://ameblo.jp/renshi/ entry-10034385334.html blogihiro-dive様からコメントがありました。また、それへの私のコメントを書きましたので、ここに掲示します。 また、関連するKaisetsu氏の記事を引用します。 ____________________ ■今の時期の憲法改正(九条)には反対です 憲法改正それ自体に反対ではありません。なぜなら現憲法がGHQの意図を含んでいる以上、自国民による自国民の憲法が必要と思うからです。将来的には九条を改正し自衛隊は国防軍と改めるべきでしょう。なぜなら、現憲法の条文を読む限りにおいて、明らかに違憲であるからです。ただし、本ブログにも記述しておられるように、今の憲法改正論はアメリカの外圧に対応するものであって、自国民のなかから湧き出たものではないことは事実です。同時にアメリカのいう対テロ戦争(でっちあげ)に参戦することには反対します。暴力に対する暴力は、いかにそれを正当化しえたとしても暴力を産む装置でしかない。ちょうどハイデガーが形而上学を解体するために形而上学をもちだすようなものです。結果は混乱を産むだけです。 bloghiro-dive 2007-05-22 22:44:17 [コメント記入欄を表示 ] ■暴力への対抗と暴力を超えるもの blogihiro-dive様 どうもコメントありがとうございます。 正に、外圧による憲法改正の動きだと思います。 また、暴力に対するに暴力は、暴力を産む装置というのは、そうだと思います。 私が考える国防軍は、戦争という暴力への抗体です。これは、免疫機能を考えれば納得できると思います。 そして、戦争をもたらそうとするものに対しては、経済的互恵関係を築いて、戦争を解体していくことが必要だと思います。 戦争の脱構築は、決定不可能な差異共振関係の構築だと思います。 p.s. 最後の「決定不可能な」という言葉は誤解を生むかもしれないので、明確にしておくと、それは、「特異な」ということである。特異性をもつということである。 _______________ 国防軍を創設すべきである Renshi氏の見解である。大きな方向性として同感である。海舌の考えは、これに加えて、官僚制の解体とアジア的感性の育成、個の尊厳の確立である。プラス、希望として無税国家である。自民・民主のPHPグループは松下幸之助氏の意思を忘却している。教育について補足すると、小学校・中学校というレベルは、古今東西、必要な項目・内容は定まっている。本来、誰でも教えられるもので、今日ではテレビやウェブなどでも十分である。興味を持って持続的に一定の時間勉強すれば足りる。単純労働者に撤するべきである。また、この段階で自発的に昇級できるなら、ドンドン、進級させるべきだ。高校以上になると、本人の素質とか能力、才能、興味の分野、将来の希望など、多様な選択が必要である。一律的に年齢が同じだといって、同じテストを受けさせたり、一律に同じ教室に入れる必要は無い。成績の評価は困難になっていく。音楽や数学、物理、体育、芸術などでは高校生でも教師を凌ぐ実力や才能を現す生徒が出てくる。また、逆に、義務教育で一度社会に出て、社会的な経験から体で学び、その後、知的な教育に戻る方が良い生徒も多く居る。彼等を学校に縛ることは人的資源の喪失だ。安藤忠雄氏などは、その良い例であろう。エジソンやアインシュタインも同じだ。これは普通のことなのである。高校、大学の教育は創造性や高度な知性を必要とする。中高を一貫にしたのは間違いである。小中と高校大学を纏めた方が良い。また、もしアジア諸国の同意が得られるなら、アジア人のアジア人によるアジア人のための『アジア防衛軍』を創設するべきであろう。⇒ グッドアジアの兄弟姉妹よ!われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。岡倉天心 http://blog.kaisetsu.org/?day=20070522 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
2007年05月22日(Tue)▲ページの先頭へ
日本の行く末
時局に関する本を斜め読みして、やはり、アメリカは悪の権化であると思うし、それににらまれて、生き血を啜られている国民はたまったものではないと思う。
思うに、端的に言って、戦争はよくない。戦争でビジネスしているアメリカ等は、超極悪人である。それを誰が裁くのか。そう、確かに、摂理があるだろうが、まだ、遠い先であろう。 しかし、ブーメラン効果がある。悪いことをすると、それが、自分にブーメランのように返ってくるということである。これは、私としては、ありそうだと思うのである。 アメリカは散々あこぎなことを世界にしたから、そのお返しが自国にやってくるだろう。 とまれ、日本のことを考えなくてはならない。コナトゥス(自己保存)が大事である。 安倍首相の行っている憲法改正は、日本のためには、ならない。アメリカ軍に属する日本軍を作ることになるからである。時期尚早である。 日本は、独自のブレイン、戦略をもつべきである。戦争をしないで、平和に成長できるヴィジョンを構想すべきである。そのためには、経済を互恵的に展開していく必要がある。差異共振化である。 まず、日本は、食料を自給できるようにしなくてはならない。農林水産業改革が必要である。また、エネルギーに関しては、多角的であるべきであろう。私は、海水、地熱、陽光等を活用した発電ができないものかと考えている。原子力であるが、これは問題が大きいが、使用するならば、きちんとした納得のできる管理をすべきである。役人体制がずさんである。 そう、国力復興を目指すべきである。日本の大地を、海を、山林を、復興すべきである。農業を重視すべきである。この弱さが、日本人をうわついたものにしているのだ。 また、国防軍を創設すべきである。これは、国民皆兵である。 そして、教育である。初期は詰め込み教育が必要である。反復練習である。それから、思考訓練の教育である。私見では、日本語教育を明快なものにしないといけない。翻訳でもいい。明快な日本語を教えるべきである。 また、神話や宗教や哲学を教えるべきである。これは、比較論的にすべきであろう。 後、外国語教育を充実させないといけない。西欧語とアジアの言語の少なくとも、二つの外国語を学ばさせるべきである。 PS理論、自己認識方程式i*(-i)⇒+1について雑感 PS理論、とりわけ、Kaisetsu氏が創造した自己認識方程式は画期的である。 今思うと、それに似たような思想は、私なりにずいぶん昔に思いついていたと思われる。 1994,5年だろうか、(ノートがあるので見ればわかるが)以下のような図を書いたと思う。 超越的対極性 ・・・・・・・・・ 現象 破線が、超越界と現象界を区別しているのである。そして、超越界には、対極性があるのである。しかしながら、当時は、当然、不連続的差異論は無かったから、私は、超越的対極性と現象とを連続化させて考えていたのである。だから、ネオプラトニズムの流出の考えに近いと言えよう。 しかしながら、PS理論に近い考え方を、漠然とではあるが、昔にもっていたのである。
2007年04月28日(Sat)▲ページの先頭へ
近代的自我=男性的自我という悪:東洋・日本的精神の復活のために
今日の悪は、近代的自我すなわち男性的自我から生じていると見ていいだろう。
現代日本の閉塞を造っているのは、男性である。男性の自我、自我天狗である。 そう、明らかに、日本は、父権制の国である。 それも、自立していない幼児的精神の男性の国である。 そう、幼児的父権制なのである。きわめて、質が悪い。 原因の一つは、甘やかす女性にもあるだろう。 とまれ、精神が未熟な男性自我天狗の国である。 ここでは、連続的同一性自我が支配して、差異は否定されるのである。 前者の価値観は、とりわけ、アメリカ崇拝や欧米崇拝であり、奴隷的なのである。 やはり、明治維新の脱亜入欧イデオロギーが利いている。 日本的自己は、神道的精神と大乗仏教精神との融合の基盤として形成されたと考えられる。 これが、明治維新で、否定されて、舶来ものが崇拝されたのである。日本人の精神の根無し草化が始まったのである。 西欧の科学・技術を取り入れた、そして、戦後は、アメリカの物質文明を模倣した。しかし、アメリカのプロテスタンティズムは取り入れていない。 とまれ、日本の近代主義化が、日本の伝統的精神、自己精神を否定して形成されたと言えよう。「魂」なき知性の形成である。 傲慢な天狗たちの、不自由な監獄社会が作られたのである。 そう、日本の精神の復活のためには、やはり、神道/大乗仏教の融合的魂を取り戻す必要がある。 私は、宮崎駿の作品には、この魂があるように思えている。 東洋/日本的精神・魂を喪失した近代的自我天狗たちの檻社会日本。 東洋的精神、日本的精神を復活が必要である。しかし、復活するのだろうか。 なにか、絶望的になる。 そう、希望は、女性であるあろうか。女性の精神に、東洋的精神、日本的精神が宿る可能性はあるだろう。 野郎は、石化している。
2007年03月16日(Fri)▲ページの先頭へ
メディア・ポイントにおける連続化による全体主義と脱連続化によるトランス・モダン
メディア・ポイントにおける連続化による全体主義と脱連続化によるトランス・モダン
テーマ:ファシズム・全体主義 以下は、先の論考「ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化」 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10028115749.html が長くなったので、後半のまとまった箇所をとり出したものである。 _________________ 長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。 問題は、-1の場合である。 超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。 +1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。 つまり、「力」と「知」である。 「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。 それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。 理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。 ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。 後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。 AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。 しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。 リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。 とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。 ここに「知」の問題があるのである。 簡単にすれば、連続知と共振知である。 どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。 とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。 とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。 そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。 問題は、この否定された共振知である。 基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。 問題は、否定された共振知の様態である。 否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。 つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。 これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。 では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。 共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。 また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。 即ち、全体主義・ファシズムである。 ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。 これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。 近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。 ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。 真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。 ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。 ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。 そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。 では、一般にはどうなのだろうか。 男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。 だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。 そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。 差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。 ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。 全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。 超越性の問題である。 ここでどうも、考え直す必要があると思う。 実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。 連続的同一性から考え直さないといけない。 私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。 あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。 メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。 それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。 つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。 そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。) 以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。 (思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。) そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。 そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。 しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。 つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。 ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。 そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。 ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。 そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。 あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。 そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。 二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。) ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。 結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。 そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。 なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。 ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。 私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。 とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。 超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。 そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。 ブログは、いわば、モナドであり、特異点であり、脱連続化・脱全体主義のために相応しいメディアであると言えよう。 ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化
現代日本の反動の意味について再考しよう。即ち、小泉/安倍、石原等の反動路線、全体主義路線は、PS理論的にどういう意味をもっているのか。
結局、国家民族主義という自我「一神教」的父権的近代主義思想がここにはあるだろう。 現行憲法を改正しようとするのは、向上させるというよりは、国家民族主義(=国家統制経済=国家社会主義)を復活させるためであろう。 また、問題は、末近代である「ポスト・モダン」の、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の問題でもある。 理論的に言うと、勿論、連続的同一性という暴力の問題であるが、その起因が不明確なのである。 近代主義は、近代的合理主義的自我による連続的同一性であり、機械的な合理主義である。ここにおいて、他者が否定されるのである。 思うに、近代主義は、唯物論的科学・技術・経済を発達させてきたが、これが、飽和状態を迎えると言えると思う。 それが、末近代=「ポスト・モダン」の時代だと思う。 精神の腐敗・堕落が生じるのである。 そう、思うに、核心は、メディア・ポイントにおけるエネルギー様態の問題だと思う。 近代主義は、メディア・ポイント(以下、MP)において、エネルギーが、i*-(-i)⇒-1の様態に向ったと思う。自我主義且つ物質主義的エネルギー様態である。 この連続的同一性的エネルギーが流れているときは、それはそれで、能動態であろう。 しかしながら、i*(-i)⇒+1の差異共振的同一性のエネルギーも本来、潜在していると言えるのではないだろうか。いわば、デュナミスである。 MPにおける、エネルギー様態ないし様相が問題である。 超越的エネルギーが同一性エネルギーに変換するポイントである。 端的に言えば、虚数軸の超越エネルギーが存し、且つ、実数軸のエネルギーが発動している。両者のエネルギーがここにはあるだろう。 思うに、現象とは、本来、⇒+1である。差異共振的同一性である。 しかし、人間の場合が特殊で、⇒-1と⇒+1の両者に分岐すると思われるのである。 連続的同一性と差異共振的同一性が同時に生起すると思われるのである。 つまり、人間現象は、矛盾する2つの様態が生起するのである。しかしながら、女性の場合は、本来、両者のバランスが取れているように思えるのであり、男性の場合、前者に傾斜していると思うのである。 とまれ、成長は、それなりに、連続的同一性=自我を形成するようになるだろう。もっとも、差異共振的同一性=自己も、なんらかの方法で、形成するようになると考えられる。 しかし、近代主義においては、前者中心となり、後者が否定されるようになった。 だから、当然ながら、存在する後者は反転するはずである。 正確に考えよう。 ここでは、主に、男性の意識、男性の近代的自我意識を考える。 男性は、身体的感覚の虚弱性から、他者感覚に対して、主体的投影を行い、同一性化すると考えられる。ナルシシズムである。 つまり、他者への恐怖・不安があり、そのため、他者自体を認識できずに、主体の同一性を投影して、幻影化して認識するのである。 これが、連続的同一性認識、自我認識である。 ここでは、言語が主要な道具となる。 この主体的投影あるいは、主観的投影とは何か。 思うに、初期的には、差異共振的感覚様態があり、ここから、外界認識を形成するのであるが、このとき、言語によって、対象が、観念化される。 つまり、本来、主体・主観は、外的対象と共振しているが、主体・主観のもつ知性によって、外的対象を認識しようとするのである。 これは、外的特異性に対する認識である。外的対象として、例えば、特異性対象Xがあるとしよう。 これに対して、主体・主観性は、言語を与えて、Yと呼ぶのである。 X⇒Yである。 問題は、主観的投影の問題である。 これは、対象の否定的同一性化である。主観は、対象を否定し、主観的投影を行い、同一性化、即ち、連続的同一性化するのである。 これは、差異共振的認識とは別である。対象が主体に苦を与える場合、主観は、対象を否定し、主観投影して、同一性化するのである。 ここには、欺瞞・虚偽・幻影性があるだろう。 主観にとり、否定的な他者を認識するのではなく、否定して、主観投影して、同一性化するのであるから。 反知性的な感情・欲望による疑似的認識である。 ここでは、差異共振エネルギーは否定されるのである。即ち、 i*-(-i)⇒-1である。 また、この否定は、主観的評価をもたらすだろう。他者を否定して、主観は、優越しているのであると。これは、自己倒錯である。 反知性的な感情・欲望が基礎としてあるのだから、非合理的な自己評価である。自我優越・慢心・傲りの発生である。 これが、男性的自我の有り様であろう。あるいは、連続的同一性自我の有り様である。 もっとも、これ以外に、差異共振的認識があるので、正当な知的認識が形成されると言えよう。i*(-i)⇒+1である。 とまれ、そうすると、主観において、錯誤と真理の2つの様態があると言えよう。 長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。 問題は、-1の場合である。 超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。 +1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。 つまり、「力」と「知」である。 「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。 それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。 理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。 ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。 後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。 AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。 しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。 リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。 とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。 ここに「知」の問題があるのである。 簡単にすれば、連続知と共振知である。 どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。 とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。 とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。 そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。 問題は、この否定された共振知である。 基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。 問題は、否定された共振知の様態である。 否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。 つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。 これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。 では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。 共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。 また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。 即ち、全体主義・ファシズムである。 ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。 これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。 近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。 ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。 真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。 ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。 ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。 そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。 では、一般にはどうなのだろうか。 男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。 だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。 そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。 差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。 ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。 全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。 超越性の問題である。 ここでどうも、考え直す必要があると思う。 実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。 連続的同一性から考え直さないといけない。 私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。 あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。 メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。 それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。 つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。 そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。) 以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。 (思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。) そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。 そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。 しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。 つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。 ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。 そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。 ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。 そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。 あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。 そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。 二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。) ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。 結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。 そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。 なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。 ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。 私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。 とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。 超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。 そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。 ブログは、いわば、モナドであり、特異点であり、脱連続化・脱全体主義のために相応しいメディアであると言えよう。
2007年03月09日(Fri)▲ペ |