現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教 |
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2008年03月17日(Mon)
現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教
現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教
1) 超越エネルギーと同一性主義 2) 一神教と多神教と父権的共同体(アジア的父権共同体) 3) 近代民主主義からトランス・モダン民主主義への転換の必然性:自由主義と民主主義:個人主義と共同体主義 4)間(ま)とは何か:+iと-iの共鳴様相におけるゆらぎ(クリナーメン?、ブラウン運動?)によって発生する「差異」ではないか:天と地の共振様態におけるズレが間ではないのか。これは、実に東洋的である。クラシック音楽(classical music)において言うと、ウィーン・フィルの音楽性は、間があり、東洋的なのである。それに対して、ベルリン・フィルは機能主義であり、間は少ないのである。(しかしながら、最近のベルリン・フィルは活き活きとしている。これは何か。クラシック音楽の活性化。)ついでに言うと、バッハ音楽が間の音楽である。差異共振性の音楽である。『フーガの技法』が最高である。 5)+1と−1と0(ゼロ)の関係:±1で二項対立を形成するのではないか。例えば、+1が男性で、-1が女性であるというように。あるいは、右と左である。問題は、同一性と差異の場合である。これは、二項対立にはならないだろう。±1で同一性による二項対立を意味するならば、差異は、0(ゼロ)ではないのか。つまり、この場合の差異とは、ポスト・モダン的差異であるが。構造主義とは端的に、±1の二項対立形式を意味するだろうし、それは、先に述べたように、ヘーゲル弁証法力学と等価である。ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、0(ゼロ)を取り出したと言えよう。+1と-1の和としての0(ゼロ)ではないだろうか。ドゥルーズはこれを微分=差異という連続的差異にしたし、初期デリダは、±1が0(ゼロ)をいう痕跡(差延)をもつことを指摘して、二項対立を脱構築したのであろう。この0(ゼロ)は、思うに、ハイデガーの存在である。だから、以前示唆したように、ポスト・モダンの先駆者はハイデガーだと考えられる。因みに、これも既述済みであるが、フッサールは0(ゼロ)からさらに虚軸へと超越した領域(超越論的主観性)に達したのである。これが、フッサール現象学のブレークスルーの意味であるが、それをハイデガーが閉ざしてしまった。しかしながら、後期ハイデガーは、0(ゼロ)を超越しようとしていたと思われるのである。存在の開いた明るみ(?)のようなことを言っているが、それは、Media Point のもつ「光」を示唆するように思えるのである。しかしながら、私の直感では、それは、不十分なMedia Point である。何故なら、単に虚軸のMedia Point であり、実軸が否定されているように思えるからである。つまり、前期ハイデガーと後期ハイデガーでは分裂していると思えるのである。つまり、前者は実軸だけのMedia Point を、後者は虚軸だけのMedia Point を説いているように思えるからである。だから、偏頗なのである。というか、歪曲があるのである。どうも、ハイデガーには病的な性格があったように思えるのである。つまり、本来、差異共鳴イデアは、垂直から水平へと共振的に展開するのに、その転換性を否定しているからである。現象への憎悪・ルサンチマンがあるように思える。 6) コミュニケーションが今日注目されているが、問題点は、それが同一性や連続性をもっていたら全体主義になりやすいことである。個・差異があって、対話的コミュニケーションが形成されるのである。個ミュニケーションである。 7) 現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について やはり、既述したように、連合国占領軍の日本支配の意向と戦前からの国家資本主義(官僚主義的資本主義・父権共同体的資本主義)の売国奴の欲望との結託が、原因ではないだろうか。簡単に言えば、アメリカの日本支配意志と国家資本主義売国奴の欲望の癒着である。前者は、思想的には、ユダヤ・キリスト教的同一性主義であり、後者は父権共同体の同一性主義である。つまり、同一性主義で癒着しているのである。 言い換えると、二つの父権的同一性主義権力が日本を支配しているのである。戦後民主主義の背景がこれである。この二つの同一性主義の支配権力暴力(威嚇・脅し)が国民生活に影響しているのである。そう、同一性主義権力暴力が支配しているのであるから、国民は受動的であると、これらに支配されるのであり、その支配権力を内在化させてしまうのである。つまり、支配権力のコピーになるのである。同一性模倣(自己同一性・自我模倣)である。つまり、戦後日本人は、二つの同一性主義権力暴力によって、それを内在的にコピーしているのである。本来、支配される国民が、支配する同一性主義をコピーして、内在化(感染)しているのであり、支配されるものが、支配するものの形式を取っているのである。これは、この被支配的支配的自我に戦後日本国民、とりわけ、東京人はなっているのである。 そして、この被支配的支配的精神様態に三島由紀夫は断絃の時を見たのであるが、これが、私のテーゼの「近代的自我は狂気である」の意味でもある。明治維新においても、確かに父権的同一性主義があるが、ベースには、母権多神教(母権的多神仏教?)があったのであるが、戦後において、この基盤が徹底的に抑圧されたのである。だから、三嶋由紀夫の戦後批判が正しいのである。 とまれ、この二つの父権的同一性主義支配によって、日本人の精神は亡国的になってしまった。自己文化の基盤・源泉を忘却・喪失したからである。因みに、日本固有文化の母権多神教とは、差異文化・差異共振文化であり、それは、同一性文化ではないのである。問題はそれが衰退していて、復興をしていないことにあるだろう。明治維新変革は確かに、一つの復興であったが、連続性によって、全体主義へと展開してしまったと思えるのである。つまり、根源の母権多神教と明治政府権力の父権的一神教(「天皇制」)が連続化して、全体主義を生み出してしまったように思えるのである。 母権多神教が本来、差異共振性であり、同一性主義とは不連続であることを認識していなかったのである。 そう、ここで、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)の問題(狂信性・カルト)について述べるのが適しているだろう。Media Point と自己同一性(自我)とが不連続であることが認識されていないと、母権多神教は連続的同一性化して、全体主義になると思われるのである。いわゆる、一体感を求めて、国家資本主義的同一性主義支配権力と同一性化するのである。これが大東亜共栄圏や八紘一宇の意味であろう。 つまり、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)とは、連続的同一性にあると言えよう。つまり、Media Point ないしは母権多神教は同一性主義のもつ連続的同一性志向によって、全体主義化するのであり、この全体主義化が、ショート(短絡)である。狂信やカルトと通じるのである。 そうならば、何が問題なのか。欧米文化は自由主義/民主主義を保持しようとし、全体主義を抑える努力をするが、それは、基盤に、不連続なMedia Point を意識しているからではないだろうか。必ずしも、理論的には認識されてはいなくとも。個と同一性主義との根本的違いが意識されているからではないか。というか、根本的に、個=Media Point がベースにあるのである。つまり、特異性が基盤にあるのである。ここから同一性自己(自我)へと展開するのが、西洋近代文明なのである。そして、この西洋近代文化の特異性はルネサンスとプロテスタンティズムが形成したのではないだろうか。前者は母権多神教であり、後者は父権一神教である。両者の共振によって、西洋近代文化の個=特異性が形成されたのではないのか。 この特異性があるので、連続的同一性による全体主義化を回避する努力をするのではないだろうか。それが、自由主義や民主主義の本来の意味であろう。 では、日本近代の場合はどうなのか。日本的個・特異性の形成は成立したのか。少数者においては形成されたのは確かである。漱石等の作家や宗教家や哲学者においてである。 しかしながら、明治近代主義は、明治以前の父権共同体(封建制)を継続しているのである。この父権共同体が同一性主義であり、これが、国民にも支配的であったと思えるのである。つまり、明治維新は一つのルネサンスではあったが、不十分なルネサンスであったと考えられるのである。つまり、個・特異性の解放が天才的な少数者に限定されていたと思えるのである。 結局、不十分な個・特異性の形成があるために、戦後民主主義は、二つの同一性主義権力の影響下にあって、個的民主主義ではなく、同一性民主主義(似非民主主義)という形骸化したものになってしまったと言えるように思えるのである。 日本文化は、本来、差異共振主義であるが、それが、父権的同一性共同体によって抑圧されてきたのであり、そのために、国民一般に個・特異性の意識が喪失されていると考えられるのである。父権的同一性共同体とは、おおまかに言えば、儒教体制(儒教制)であろう。儒教制が、今日でも、姿を変えて、日本古来の差異共振主義(母権多神教)を抑圧支配しているということになろう。西洋文化史におけると同様に、日本においても、母権制と父権制の争闘があるのであるが、それが、見えにくくなってしまっているのである。結局、日本文化は、母権統合型父権主義である。そして、戦後において、基盤の母権制が否定されて、今日、亡国的状況に陥っているのである。母権多神教の危機なのである。神道・神仏文化が母権多神教を保持してきたのである。やはり、神道・神仏ルネサンスが必要なのである。 上條恒彦&六文銭 / 出発の歌〜失われた時を求めて〜 出発の歌 〜失われた時を求めて〜 歌手: 上條恒彦・六文銭 作詞: 及川恒平 作曲: 小室等 乾いた空を 見上げているのは誰だ お前の目に 焼きついたものは化石の街 愛の形が 壊れた時に 残されたものは 出発の歌 さあ 今 銀河の向こうに飛んでゆけ 乾いた空を 見上げているのは誰だ お前の耳を 塞がせたものは 時計の森 自由な日々が失われたときに 残されたものは 出発の歌 さあ 今 銀河の向こうに 飛んでゆけ さあ 今 銀河の向こうに 飛んでゆけ ※さあ今 宇宙に さあ今 未来に さあ今 宇宙に さあ今 未来に 飛んでゆけ※ (※くり返し) http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=5850 余談:この歌詞が六文銭の及川恒平氏のものとは知らなかった。すばらしい詩である。また、リードギターも艶のある音ですばらしい。 この曲も70年代初期である。ポピュラー・ミュージックの可能性が70年代後半から潰されていったと言えよう。 |
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