検討問題・課題:思考実験、仮説、作業仮説

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2007年09月26日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:物質的現象とは何か
今日は、疲労のため、十分に検討できないので、簡単に言うと、物とは何か、という問題である。
 例えば、物質が、私の現前にあるとしよう。リンゴがあるとしよう。眼前約50cmのところにあるとしよう。いったい、このリンゴという物質とは何か、ということなのである。
 漠然として何のことかわからないかもしれない。つまり、私の眼前約50cmに存するリンゴとは何か、ということである。眼前50cmとは何か。また、リンゴという物質は何か、という問いである。
 空間とは何かであるし、物質とは何かである。空間は、カントの言うように、超越論的形式によって形成されたものと言えるのだろうか。主観的形式なのだろうか。主観的形式ならば、空間、距離は、幻想になるのではないだろうか。ここで、三島由紀夫の『暁の月』の本多の「世界は存在しなければならないのだ」を想起する。
 主観的形式か、外的実在か。外部とは何かである。一つ言えることは、Media Pointにおいて、垂直から水平へと転換されるということである。この水平転換が、現象空間の発生を意味するだろう。⇒+1が空間を意味するだろう。E=mc^2も関係するだろう。
 つまり、+1とは、実在空間を意味すると言えよう。それは、主観的形式、超越論的形式ではなくて、端的に、外的空間を意味するのだろう。勿論、超越論的形式はあるだろう。同一性構造としてあるだろう。しかし、それは、内在的形式に過ぎないだろう。同一性構造からの発現としての外的空間があるということになる。
 仏教においては、いわば、唯心論的なところがあるので、外的空間ないしは物質は幻想と見るだろう。また、通俗的なイデア論でも、物質を仮象と見るだろう。しかし、外的空間は実在すると考えるべきであると思う。言い換えると、物質空間は存在するということである。端的に、それが、物質科学の空間である。それが、三次元空間である。
 それに対して、Media Pointの時間=エネルギーの発動があるのである。ここは、言わば、摩訶不思議な場である。超越界から現象界への交叉点である。
 これで、いちおう、私の疑問は解けたのであるが、やはり、さらなる問題として、三次元空間の発生のメカニズムがある。ここでは、空想を書いてみたい。

 無重力空間に居ると仮定しよう。そのとき、三次元は存するだろうか。存するだろうし、上下左右前後もあるだろう。重力とは無縁にそれらはあることになるだろう。私の頭と足の方向が上下であり、右手と左手で、左右を作るし、視線が前後を作るだろう。人間の身体が三次元を作るといえよう。
 ということは、超越論的三次元形式があるということではないだろうか。カントである。垂直・上下は、虚軸でいいだろう。では、左右・前後は何が作るのか。直感では、左右は実軸が作るのである。
 では、前後は何が作るのか。これは、言語から言うと、時間に関係するだろう。前は未来であり、後は過去である。もし、時間が前後を作るならば、前後空間とは、時間空間ではないだろうか。時間空間が、空間知覚にもたらしているのだろうか。
 ガウス平面で言えば、ガウス平面に直交する軸が前後空間になるだろう。それは、時間発生による空間となるのだろう。
 とまれ、そうすると、虚軸が上下空間である。地球の表面で考えると、確かに、ある点において、三次元空間がある。虚軸が上下、実軸が左右、そして、それらに直交する軸が前後である。しかし、別の点においても同様に三次元空間が成立するが、その上下は、最初の点の虚軸の垂直からは傾斜していることになる。最初の点における三次元空間から見ると、他の点における三次元空間とは、その上下は虚軸からはズレていることになるのではないだろうか。つまり、その三次元においては、虚軸を含んでいないのではないだろうか。例えば、虚軸を地軸としよう。それに対して、赤道においては、上下は虚軸と直交することになるだろう。つまり、三次元+虚軸の四次元となるのではないだろうか。
 今は、時間がないので、ここで、留める。


2007年08月07日(Tue)▲ページの先頭へ
遺伝子が、友人を選ぶことに影響しているというのは、実に興味深い研究結果である。
遺伝子が、友人を選ぶことに影響しているというのは、実に興味深い研究結果である。
 PS理論では、Media Pointを遺伝子と考えるだろう。ここでは、「物質」=「意識・認識」であると考えられる。だから、遺伝子=「物質」=「意識・認識」となるだろう。
 この考え方は、仏教の阿頼耶識の問題にも通じると思える。「物質」=「意識・認識」をまとめて、物質意識ないし物質認識(以下、両者、物識)と呼べば、物識の貯蔵庫としての阿頼耶識が考えられる。どうも、思うに、虚界・イデア界の即非差異に物識が刻印され、記憶保存されるのではないだろう。虚界・イデア界が阿頼耶識になるだろう。オカルトでアカシャ年代記というのは、阿頼耶識としての虚界・イデア界を表象しているのかもしれない。そして、そうならば、輪廻転生は簡単に説明できる。

You've Got to Have ... Genes
A new study says that how we choose our friends is strongly influenced by genetic factors.

Genes figure strongly into the drive to socialize, researchers found
Web Exclusive
By Sarah Kliff
Newsweek
Updated: 3:53 p.m. ET Aug. 6, 2007

Aug. 6, 2007 - Almost everybody knows by now that genes play an important role in everything from how our bodies react to nutrients to our predisposition to some cancers to whether or not we get depressed. A forthcoming study in the Archives of Psychiatry says that we can add how we choose our friends to the growing list of traits strongly influenced by genetic factors.

http://www.msnbc.msn.com/id/
20149020/site/newsweek/?from=rss


2007年05月01日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:母権制と父権制、他
1)母権制と父権制:キリスト教と大乗仏教の問題:ユダヤ教と小乗仏教

2)1)に関係して、所有の問題:平等と力

3)『ハムレット』に見られる女性嫌いは、同性愛的志向ではないのか。これも、1に関係して、同性愛と異性愛について。そして、プロテスタンティズムとカトリック:さらには、正教会。そして、プラトンのエロースについて。

4)志向性と光ないし映像・影像

5)1と2に関係するが、政治・経済システムの様態の問題がある。民主主義政治・経済様態と力の政治・経済様態である。水平主義と垂直主義と言っていいだろう。いったい、民主主義の原理は何なのか。主権在民、国民主権とは何か。そう、民、国民とは何か。

民主主義の発想の意味は何か。

________________

今日は、深く検討しないが、一言述べると、キリスト教と民主主義と母権制は相関していると思う。そう、ここに大乗仏教も入れていいし、神道も入れていい。

そう、結局、人類史において、垂直的志向の流れと水平的志向の流れの二つの異質な傾向があると言えるのではないだろうか。

キリスト教、民主主義、母権制、大乗仏教、神道は、水平主義の潮流である。

それに対して、プラトニズム、ユダヤ教、小乗仏教等は、垂直主義の潮流である。

また、多神教と一神教の区別と言えるかもしれないが、キリスト教は異質である。それは、一神教と多神教の結合であろう。

PS理論を見ると、それは、垂直的水平主義だろう。

私が先に、超越的民主主義と言ったものも、これに関係する。

そう、換言すると、垂直的民主主義である。

しかし、民主主義原理を考えると、本来、垂直的民主主義が正当であると思うのである。

垂直次元、超越次元を喪失した民主主義とは、動物的民主主義である。

私は、道徳教育ではなくて、哲学教育が必要と述べたが、それとは別に、宗教・神話教育が必要だと思う。単に、民族的宗教・神話を教えるのでなく、比較宗教・神話教育である。

モダンを批判したポスト・モダンは、新たに垂直次元を説くことはなく、それを否定した。ドゥルーズ&ガタリのフッサール現象学の超越性批判にそれがあるだろうし、また、彼らの神話批判にもそれがあると言えよう。唯物論的なのである。

垂直・超越革命が必要である。


2007年04月17日(Tue)▲ページの先頭へ
1)民主主義とは何か 2)対話の衰退
1)民主主義の問題

2)対話と断定


1)について、今は、簡単に触れるが、民主主義とは、根本的な問題を抱えていると思う。なぜなら、個々の人間は質的に異なるが、民主主義は量的制度なので、その質の差異を評価できないという根本の問題点がある。

質的に優れたものが、指導者になるべきであるが、大衆の多くは、その質を理解できず、悪らつな、狡猾な政治家を評価してしまう。

国家の指導者となるものは、質的にすぐれた教育、それも、多面的な教育を受けなくてはならない。文科系と理科系の分化を超えた文理融合教育を受けなくてはならない。とりわけ、精神の教育を受けなくてはならない。

思うに、現今の民主主義は、誰の利益になるのだろうか。

基本的には、金融資本家の利益になるだろう。

アメリカを見てわかるように、少数の金融資本家の利益になるのである。

結局、質と量の問題である。そして、民主主義は、この妥協的政治・社会制度と言えるが、量的なものに傾斜しているのである。

哲学的に言えば、同一性、連続的同一性を中心にしているのが問題なのである。差異としての同一性を問題にしていないのである。

だから、理論的に言えば、連続主義から差異主義への転換が必要になると言えよう。

近代主義とは、連続主義であった。そして、トランス・モダンは、差異主義、超越的差異主義となるだろう。

ポスト・モダンは、モダンからトランス・モダンへの過渡期の現象であったと言えよう。

そして、トランス・モダンとは、伝統的価値観の新生となるのである。

国家主義の衰退があるだろう。新しい普遍主義が生まれるのである。EUは、近代以前のカトリック的中世ヨーロッパに螺旋的に回帰するように見える。

日本は、東アジアないしアジア的文化圏に回帰するのだろう。

そう、トランス・モダンでは、精神が中心点となるだろう。

今は、ここで留める。


2)についてだが、対話能力の衰えがある。決めつけることが、なにか大勢となっている。PS理論は、i*(-i)⇒+1であり、「主体」と「他者」との対話*を基本としているのである。

対話能力の衰えとは、共振・共鳴・共感力の衰えである。これは、連続的同一性暴力の増加を意味する。

これも、近代主義の末期を意味すると言えよう。トランス・モダンへの転化の必要が切迫している。

後で、検討したい。


2007年03月12日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:PS理論から精神と肉体との関係を考察する
検討問題:PS理論から精神と肉体との関係を考察する

テーマ:精神と肉体:PS理論の視点から

これから、例えば、精神と血液はどう関係しているのか、PS理論から、その構造を検討したい。
 もっとも、精神は、個体の自然・社会・経済・政治・文化環境と相関している。だから、医学・生命科学は、他者と深く関係している。
 例えば、個体の精神/肉体は、生活のため他者関係に置かれる。家庭であれ、学校であれ、職場であれ、地域であれ、等々との他者関係に存している。だから、個体の精神/肉体は多元的に複合態となるのである。
 これは、単に個体だけでなく、国家にも、ある程度適用できよう。もっとも、条件をよく考慮しないといけないが。
 ここで一例を上げると、血液は、精神/身体的生活・社会環境と関係すると言えるだろう。個体が生きるために努力をすると、当然、個体環境との相生相剋があるだろう。ここで、プレッシャーが生じるのである。当然、血圧が高くなりやすいだろう。
 問題は、すべてに言えるが、バランスである。闘争と共存が必要である。戦いと和らぎが必要である。闘争だけならば、バランスを崩し、病気となるだろう。
 この点に関する現代社会の問題は、近代主義による誤謬による広義の病気が社会自体に存するのである。つまり、社会の病気、いわば、社会病である。このために、義ある個体には、過剰な負担が掛るのである。
 問題は、この過剰な負担を軽減する方法が必要である。しかし、都会において、あるいは、近郊に、心身を癒す時空間があるだろうか。
 思うに、ここで、瞑想や禅とがが重要になるのかもしれない。私も久しぶりに瞑想行を生活に取り入れようか。瞑想は気持ちがいいものである。


参考:

《3 安倍政治にいかに対抗するか

 こうした政治を転換するために、何が必要か。まず何よりも、人間の尊厳を無視する者に対する怒りを取り戻すことである。昔、萬屋錦之助が主演するテレビ時代劇で、錦之助が残虐な為政者を「お前ら、人間じゃない」と言って成敗するシーンがあった。今は、為政者や経営者が、労働者や過疎地の住人を人間扱いしない時代である。権力者が進める政策に対して、それは人間のすることかという問いを突きつける姿勢こそ必要である。そのことは、特に野党の使命である。今の民主党に存在感が足りないのは、人間の尊厳を踏みにじる政治に対して、怒りが足りないからであろう。細かい政策で不十分な点があっても、傲慢な権力者に対する怒りが伝われば、国民の期待も高まるものである。

 具体的な政策としては、パターナリズムによるリスクの社会化という昔の姿に戻ることは不可能である。最近、各地の公共事業に関して次々と談合が摘発されている。すべてを自由競争で行えばよいというものではないという考えに共鳴する人も多いであろう。しかし、談合によって弱者にも仕事を確保するという政策は正当化できない。官製談合では中央省庁の天下り官僚や大手ゼネコンが不当な利益を獲得しているからである。小沢民主党や国民新党が、構造改革の行き過ぎを批判するあまり、かつての仕組みに回帰することを訴えても、国民の支持を得ることはできないであろう。

 もちろん、リスクの個人化と自由放任を組み合わせた、資本主義の純粋化(図の右下の部分)という道をとるべきでもない。医療にせよ教育にせよ、公共サービスを商品化して、選択の自由を強調する一方、負担能力に応じたサービスを提供するという原則を貫けばどうなるか。一握りの金持ちは、最先端の医療や高レベルの教育を受けることができるのだろうが、大半の普通の人々にとってはその種のサービスを購入するためにより大きな出費を強いられ、人並みの暮らしを維持することがますますつらくなるという結果になる。中産層に医療費破産が多発し、貧困層では全人口の15%が医療保険にも加入できないというアメリカの現実が、それを物語っている。

 目指すべき道は、自由で自立した個人が合意の上で、リスクを社会化する仕組みを作り直すという路線(図右上)しかない。最近私たちはこの理念を市民社会民主主義と呼んでいる。第1の意味は市民社会が制御する民主主義である。第2の意味は、市民が制御する社会民主主義である。市民が人間らしく生きるためには、最低限の平等な生活条件を確保しなければならず、そのための再分配の仕組みを市民が制御する必要がある。その点で二つの意味は結びつく。大事なことは、個人に対しても地域社会に対しても人間らしい生活をさせるために必要な資源は十分に確保する一方、人にも地域社会にも多様な生き方を認め、それに関しては個人や地域の自己決定を尊重することである。》
「民主政治再生への反撃を」
http://www.yamaguchijiro.com/?eid=561#sequel
YamaguchiJiro.com



血液
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ヒトの血液標本。a - 赤血球、b - 好中球、c - 好酸球、d - リンパ球
ヒトの血液標本。
a - 赤血球 、b - 好中球 、c - 好酸球 、d - リンパ球

血液(けつえき)は動物 の体液 のうち、きわめて重要な液体 で、全身の細胞 に栄養 分を運搬したりするための媒体である。 機能から見ると、臓器 の一種と言ってもよい。構造的には結合組織 の一つと見なす。

ヒト の血液量は体重 のおよそ 1/13 であり、体重 70 kg の場合は、約 5.4 kg が血液の重さとなる。

動物一般について言えば、血液は体液とほぼ同意である。血液が管状の構造の中を流れている動物においては、この管を血管 という。体液を体内で流通させるしくみがある場合、これを血管系・あるいは循環器系という。血管系には開放血管系 と閉鎖血管系 がある。ヒトをはじめとする脊椎動物 は閉鎖血管系であり、特に外傷などが無い限り、血液は血管の内部のみを流れる。血管の外には組織液があり、液体成分は血管の壁を越えて出入りする。血管の周囲にある細胞は、組織液に浸っていると考えてよい。解放血管系の動物および循環器系のない動物においては血液は血管外にも流れ出すので、血液と組織液の区別はなく、体液はすべて血液と見なして良い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E6%B6%B2

免疫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

免疫(めんえき)とは、病原体 などの非自己物質を認識し、排除する生体防衛機構のこと。精密かつダイナミックな情報伝達を用いて、細胞 、組織 、器官 が複雑に連係している。稀に、免疫制御機構の異常から自己成分に対しても免疫が発動されることもあり、自己免疫疾患 という。抗体 による免疫応答が過敏に働き、逆に生体に不利益をもたらした場合を、アレルギー という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%8D%E7%96%AB


2007年01月23日(Tue)▲ページの先頭へ
対称性の破れが世界を創る 神は幾何学を愛したか?
以前、著者の『カオス的世界像  非定形の理論から複雑系の科学へ』
http://www.bk1.co.jp/
product/1589953
を読んだことがあるが、面白かったが、記憶にほとんど残っていない。しかし、以下の書は、まだ読書中だが、群論を実に具体的に、直観的に理解させてくれる本だ。以前、他の本で群論の説明を読んだが、今一つピンと来なかった。
 筆者のイアン・スチュアートは、おそらくイギリス人だと思うが、軽快な、また、才気・機知に富んだ叙述をしていて、やや、煙に巻かれる感じがある。それにしても、本書は、まだ、60ページほど読んだだけだが、前書より、分かりやすい。対称性とその破れの意味が、直観的にわかる感じだ。私としては、プラトニック・シナジー理論の形態発生論に、この考え方が使えると思った。


対称性の破れが世界を創る 神は幾何学を愛したか?



著者/訳者名 イアン・スチュアート/著 マーティン・ゴルビツキー/著 須田不二夫/訳 三村和男/訳
出版社名 白揚社 (ISBN:4-8269-0067-8)
発行年月 1995年12月
http://7andy.yahoo.co.jp/
books/detail?accd=19670638





2006年11月16日(Thu)▲ページの先頭へ
検討課題:相補性について、他
1) 量子力学の粒子と波動の相補性の概念を、プラトニック・シナジー理論から捉えなおす。

2) 近代唯物科学の超克:近代科学/近代唯物科学から、ポスト・モダン・サイエンス、プロトモダン・サイエンス、メタ・モダン・サイエンス、プラトニック・シナジー・サイエンスへのエクソダス

3) 反感の哲学:なぜ、連続的同一性を他者に投影して、自我(近代的自我)を形成するのか。

4) なぜ、近代の知性は、内在超越性(内超・超内性、降超・超降性、身超・超身性)を喪失したのか。超越論性と超越性。

5) 近代は、志向性が、外界中心に向けられていて、内界への志向性が乏しいが、つまり、外界の光へと志向性が向けられ、内界の「光」への志向性は乏しいが、この力学は何なのか。思うに、私がヴィジョンと呼ぶものは、内界の「光」、映像ではないだろうか。自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1によれば、この+1が、内界の「光」ではないだろうか。否、(-i)が他者であるから、これが、内界の「光」ではないだろうか。(i)を外界の光とすれば、外界の光と内界の「光」との共振が、+1ではないのか。とりあえず、内外光、陰陽光と呼べるだろう。これが、本当のヴィジョンではないのか。たとえば、ジョージア・オキーフの絵画の色彩美は、このヴィジョンによるのではないのか。あるいは、ルドンの絵画の色彩美、音楽で言えば、シューマンやマーラーの音色美も、これではないのか。闇と光が共振的に「妖しく」輝くのである。それに対して、近代は、内界の「光」、闇の「光」を喪失して、外界の光に頼っているのである。【そう、世紀末美術も、陰陽光があるだろう。今、名前を失念しているが、挿絵画家にいた。また、今思ったが、イギリスの小説のヴィジョンは、やはり、この陰陽光ではないのか。カズオ・イシグロの『日の名残り』のヴィジョンがそのように思える。また、ディケンズにしろ、D.H.ロレンスにしろ、彼らの作品のヴィジョンはそのようなものではないのか。】外界の光に頼るとは、(-i)の否定であると考えられる。つまり、-(-i)である。正に、(i)*-(-i)⇒ −1で、近代的自我である。換言すると、外界の光とは、闇である。ここは実に微妙な点である。というのは、(i)*(-i)を私は、(i)⇒(-i)と見て、⇒を+エネルゲイアで、闇のエネルゲイアと呼んだからである。今の視点から見ると、これは、外界の光から内界の「光」への志向性のように思える。つまり、明るい光が暗い光へと志向することであり、光と闇との共振という意味があるだろう。だから、これは、闇のエネルゲイアと言ってもいいが、陰陽のエネルゲイア、太極のエネルゲイアと言ってもいいだろう。それに対して、近代的自我のエネルゲイアは、外界の光だけのエネルゲイアであり、だから、それは、陽のエネルゲイアと呼んでいいだろう。しかし、これは、当然、陰のエネルゲイアを否定しているので、二項対立的、反動・暴力・狂気的である。つまり、外界の光しか認めず、内界の「光」を否定するのであるから。とまれ、私の言葉では、近代的自我は、ヴィジョンを喪失しているのである。そう、精神というものは、陰のエネルゲイアによって形成されるものだろう。しかし、単に陰のエネルゲイアだけでは、アイロニカルな没入が生起して、やはり、−1の事象となる。+1が、真の光、陰陽光、太極光である。ロレンスの黒い太陽とは、このことではないのか。最初の問題にもどると、近代は、(-i)を否定するのであるが、また、同じ問いになるが、何故、内界を否定するのか、あるいは、何故、外界の光のみに頼ろうとするのか。外界の光を信じるのか、等々である。東洋は瞑想行があり、内界への測深方法があった。【ギリシア正教には、そのようなものがあった。そう、ギリシアというトポス(場、または、地霊?)が大事だろう。ギリシアは、東洋と見るべきなのである。古代ギリシアの秘儀であるエレウシスの秘儀があったが、それは、おそらく、一種瞑想行であろう。】内界への「光」への不信感が、近代的自我の起源にあると考えられるのである。ヴィジョンへの不信感と言ってもいい。端的に、精神への不信があったと言ってもいい。あるいは、差異への不信である。反対に、反差異・連続的同一性への信用・信頼があったのである。不可視的なものへの不信と可視的なものへの信頼。私の考えでは、これは、正に、自我と結びついている。自我と外的可視性が結びついている。(そして、いわゆる、モダン・アートは、内的可視性へと降下したのである。)外的可視性とは、外的個体性を知覚する。これは、まったく、フォーム・形式である。これは、排他的な形象である。リンゴという形象は、ミカンという形象を排除するのである。家という形象は、木という形象を排除するのである。外的個体性は、正に、反差異・連続的同一性形象・形態・形式であると言えよう。そして、これに言語形式が結びつくのである。いわゆる、古典的言語が生まれるのである。これは、固定形式である。固定機能に優れている。外界的光、近代的自我、外的個体性、反差異・連続的同一性が、セリーである。今、思ったのは、自我ではなく、自己の起源は、(i)ではなくて、(-i)ではないかということである。つまり、(-i)⇒(i)ではないのか。闇から光へと展開するのではないのか。そして、近代的自我とは、⇒の終点が独立(これは、幻想であるが)して、 (-i)を否定したのではないだろうか。これは、換言すると、(-i)が(i)に同化したことと言えるだろう。つまり、(-i)が、-(-i)となり、結局、-(-i)*(i)⇒−1となったのではないのか。問題は、どうして、そのような自己否定的な独立幻想が生じるのかである。私の以前からの直感では、ここには、捩れや回転があるように思えるのである。(i)*(-i)⇒+1は、メディア空間的自己方程式である。あるいは、(-i)*(i)⇒+1である。しかるに、志向性が発生して、それが、ひねりを伴い、(-i)が隠蔽されるのではないのかと、直感されるのである。私は常々、2回の1/4回転に言及してきたのである。その第二回目の1/4回転が、このひねりではないだろうか。しかし、このひねりは、実は、最初の1/4回転による垂直の捩れと考えることもできるようである。(i)*(-i)⇒+1が、メディア空間の事象ならば、-(-i)*(i)⇒−1は、現象空間の事象、あるいは、近代的現象空間の事象ではないだろうか。つまり、どうも、現象軸として、Z軸を仮定したいのである。そうすると、+Zが、自己の方向であり、−Zが自我・近代的自我の方向となるだろう。もし、イデア空間をXYのガウス平面とするなら、メディア空間は、YZ平面であろう。そして、現象空間は、XZ平面ではないだろうか。これは、実数の平面である。虚軸、虚数を喪失した空間・平面である。そうすると、時間軸は、Y軸である。後でさらに検討したい。


2006年11月14日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:反差異・連続的同一性と物質と唯物論の発生について、他
1)反差異・連続的同一性と物質と唯物論の発生について

2)差異と情報(化)について

3)反差異・連続的同一性と暴力・狂気・パラノイア・偏執狂的衝動について

4)感覚は、どう数式化できるのか

5)信仰とは、どう数式化できるのか

6)性とは、どう数式化できるのか

7)連続化は、どう数式化できるのか

8)近代と旧ポスト・モダンのループとそれからの脱却としての新ポスト・モダンの意味:近代の二元論的ゆらぎ:「二つの文化」

9)芸術上のモダニズムは、どう数式化できるのか

10)8と関係するが、モダンとポスト・モダンの混淆様態について

11)何故、「超越性」や形而上学は批判されるのか

12)デリダとフッサールの関係


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カレンダ
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