検討問題・課題:思考実験、仮説、作業仮説

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2009年01月10日(Sat)▲ページの先頭へ
現在の三大問題:同一性主義旧神と差異共振新神の闘争
1)米国金融・経済問題

2)新中東戦争問題

3)亡国売国自公党問題

これらは実は三位一体である。同一性主義という「神」に拠るものである。乗り越えは、差異共振主義を導入することである。
 問題は、国民が同一性主義によって洗脳され、マインドコントロールされていることである。差異共振神の誕生が必要である。


2009年01月06日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性主義自己のもつ不安について:父権主義的同一性傾斜と差異
なにかハイデガー哲学のようなタイトルであるが、いくぶん関係しよう。
 今は予見を簡単に触れるに留めるが、結局、同一性主義自己とは、自己の根源であるMedia Pointにおける諸力の「カオス」に対する「秩序」化のための一「方策」として存すると考えられる。しかし、「カオス」を抑圧する方向での「秩序」化である。
 結局、Media Pointにおけるある種の「不安」があるために、同一性主義化へと向かうのではないのか。そう、同一性志向性があるが、それは、当然、差異共振性を裏面にもち、相反するものである。
 同一性志向性は、この両義性に対して、一義性を持ちえないのである。ここで、抑圧への力学が生じると言えよう。同一性志向性は裏面を差異共振性を否定・抑圧・排除すると考えられるのである。
 言い換えると、同一性志向性が強すぎるとそうなると考えられる。同一性傾斜が差異を否定すると考えられる。
 今の段階では、やはり、父権主義がそうなるのである。父権主義にとり、つまり、同一性への傾斜的志向にとり、差異は理解できないので、抑圧すると考えられるのである。
 簡潔に言えば、同一性への傾斜(父権主義)が、差異を理解できないために、不安に感じて、否定・抑圧・排除するということではないだろうか。
 後で、整理して再考したい。

追記:問題は何故、同一性主義自己は、不安に感じるのか。その力学である。簡単に答えれば、Media Pointは、同一性主義自己に対して、否定的であるから、同一性主義自己は不安を覚えるということだと思う。
 相反する価値が生じているから、不安に感じるのである。そして、不安を解消するつもりで、他者を敵として、攻撃するのである。しかし、それは自己の影である。Media Pointの影である。
 思えば、若い時、実に、故知らぬ不安を覚えたものであるが、それは、正に、同一性主義自己が、それを否定するMedia Pointの力を感じていたからであろう。
 ここで、ハイデガー哲学に言及すると、それは、正に、同一性主義自己哲学である。デカルト哲学の延長である。フッサール哲学の超越性を否定しているので、超越性への不安が生じていると考えられる。そう、ハイデガーは近代哲学の裏面に過ぎない。


2008年12月07日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:1)内光と外光とは何か、2)差異と現象
2)差異と現象であるが、例えば、ある音1(差異1)と別の音2(差異2)と考えられるが、この音は現象である。つまり、現象差異1と現象差異2ということである。これは、既述事項である。
 では、これらを、それぞれ、+iと-iとして考えることが、理論的にはできるはずであるが、どうなのだろうか。
 この点は微妙である。例えば、「わたし」は差異であり、同一性を包摂している。そして、他者も当然、同様である。「わたし」には、+iと-iがある。だから、「わたし」の差異とは、本来、+iと-iの極性である。すると、「わたし」と「他者」との関係はどう表記できるだろうか。
 「わたし」にとって、内的他者として-iが存する。それと、外的他者はどう関係するのか。外的他者は、基本的には、-iと通じるはずである。
 内的他者と外的他者とを一致させて行くと考えられる。ならば、「わたし」と「他者」の関係は、基本的には、+iと-iとの関係に帰すことができるだろう。言い換えると、他者認識とは、自己認識に還元されるということだろう。
 以上からわかることは、水平的差異関係は垂直的差異関係に還元できるということであろう。これを空間で言えば、3次元空間とは、高次元空間、即ち、4次元空間に還元されるということではないだろうか。時空4次元とすれば、超時空5次元に還元されるということではないか。哲学的に言えば、現象はイデアに還元されるということではないのか。
 もしそうならば、逆に言えば、高次元やイデア界が主導的であり、時空間や現象界はそれに従属するということではないのか。つまり、精神性が主であり、物質性は従であるということではないのか。
 今は、ここで留める。後で整理し、再考したい。


2008年12月04日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性と自我:「わたし」は同一性・自我、且つ、非同一性・非自我である
今日は余裕がないので、簡単に予見を述べたい。
 いったい、これまでの検討において、何が不十分なのだろうか。これまで、同一性と自我と一致させてきたが、この点が直感とずれるようである。
 頭で考えている「自己」は、同一性なのか、自我なのか、それとも、何か。例えば、眼前の窓を窓と認識する「わたし」は、自我なのか。
 これまでの検討からすれば、「窓」は「窓」であり、非「窓」である。つまり、「窓」は差異である。差異として、「窓」を認識している「わたし」は単に同一性ないしは自我ではありえないだろう。
 同一性として「窓」を認識するのは、確かに、同一性としての自我であるが、それは、「自己」の一部である。つまり、同一性/自我は「自己」に包摂される。
 つまり、「わたし」とは、同一性/自我であり、同時に差異を認識する非同一性=非自我であるということになろう。
 この点で、これまでの考察が直感とは、ずれていたと考えられる。眼前の「窓」を認識する「わたし」は、同一性/自我であり、且つ、非同一性/非自我であるということだろう。
 だから、端的に、「わたし」は、同一性であり、且つ、差異であるということである。「わたし」は、「他者」でもあるのである(「他者」であるというのとは違う。)。
 この二重性、即非性、ないしは、相補性、これが、「わたし」の本質であると言えよう。
 この「ゆらぎ」が、連続化されて、同一性/自我となるのである(連続的同一性)。おそらく、言語で考えれると、そうなるのである。直感で思考すると、「ゆらぎ」が感じられるのである。
 そして、この「ゆらぎ」の根源が、Media Pointであり、そして、これが、「魂」である。では、Media Point=「魂」とは何だろうか。
 これは、人間において、共通ではないだろうか。同じMedia Point=「魂」があり、それが、現象において、異なるのではないだろうか。そう考えると、多元論=一元論となる。極言すれば、「わたし」は、「他者」である。もっとも、「わたし」は「他者」であるという言明自体は今や平凡であり、インパクトがない。
 私が言いたいのは、「わたし」とは、実に、普遍的であるということではないだろうか。眼前の「窓」は「窓」であり、普遍的である。つまり、同一性的普遍性があるということである。
 それに対して、「差異」としての「わたし」はどうだろうか。「差異」としての「窓」は、非「わたし」である。言い換えると、「わたし」は非「わたし」であり、「窓」であるということだろう。「わたし」は「窓」なのである。これは、即非的普遍性と言えよう。
 ということで、「わたし」には、同一性的普遍性と即非低普遍性の2つがあると言えよう。


2008年11月30日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:自我は幻想・仮象・虚構ではないか:近代主義のマーヤーからトランス・モダンの真理へ
偉大な深遠なインド哲学が説くように、現象はマーヤーと見るべきではないか。例えば、「わたし」とは、同一性という仮象の連続体に過ぎない。しかし、連続体とは、本来、ヒュームが述べたように、不連続の虚構である。
 同一性は瞬間の虚構・仮構である。それが、連続化されて、「わたし」=自我となるのである。
 そう、もっとも確実と見られる物質・現実・自我は、実は、虚構・仮構、すなわち、マーヤーと見るべきではないか。科学では、量子論/素粒子論がこのことを証明していると考えられる。
 不連続な差異が虚構として、連続化されて、「わたし」=自我を生んでいると考えられる。この帰結が同一性主義である。
 そうならば、真理はどこにあるのか、ということになる。それは、Media Pointにあるのである。差異に真理があるのである。差異が自己なのである。同一性は、仮象である。幻想である。
 三島由紀夫の『豊饒の海』の最終巻の「無」であるが、それは、端的には、現象のマーヤーを説いていると見るべきである。
 近代主義は、マーヤーの帰結である。そして、トランス・モダンとは、Media Poitnへの回帰である。幻想から真理へと回帰するのである。


2008年11月29日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:民主主義の何が「おかしい」のか:原民主主義とポスト民主主義
すべては生々流転するということを確認しておく。
 さて、民主主義であるが、これは、フランス革命等でわかるように、封建主義ないしは絶対主義に対する個の自由の権利を説いたものである。
 対封建主義/絶対主義という文脈においては、民主主義は有意義、進歩的である。しかし、その文脈がなくなると、大資本中心主義に基づく民主主義となり、もはや、初期の意義を失うのである。つまり、民主主義は、極論すれば、大資本の走狗となるのである。 
 では、本来の民主主義を取り戻すにはどうすればいいかと言えば、それが、ポスト民主主義=自然合理主義であると私は考ええる。
 つまり、元々、民主主義とは本質的には、自然合理主義なのである。それが忘却されて、大資本主義的民主主義になったのである。
 だから、プロト・デモクラシー、原民主主義としてのポスト民主主義=自然合理主義を捉える次第である。


検討問題:原同一性とは+iではないのか:+iの原光の視覚と-iの原闇の視覚との共鳴として精神視覚
後で検討したいが、簡単に予見を言うと、差異という「対象」に対して、自己同一性を投影するということは、自己において、同一性が存するということではないのか。
 フッサールで言えば、ノエシスが同一性ないしは原同一性ではないのか。そして、ノエマが、同一性の感覚ではないのか。そして、「対象」の差異は、カントの物自体に当たるだろう。
 そう見ると、同一性ないしは原同一性は、+iではないかと思えるのである。通勤の帰りの車内で想起したのは、+iの原光は投影するのにふさわしいだろう。そして、これが、差異-iに自己投影して、(+i)*(-i)⇒+1になるということだろう。
 しかし、そうすると、差異共振によって同一性+1が生起するのことになる。ここは微妙である。私は、+iが-iを認識しようとして、自己同一性を投影すると考えたのである。
 思うに、+iを原同一性、そして、+1を同一性とすればいいのではないか。思うに、+iに言語の本源もあるように思えるのである。それは、原光に関係するのである。だから、言語的認識は、一般に、-iを認識できないのである。それは、原闇なのである。そして、この認識と精神性とが関係するのである。そう、精神と原闇が関係するのである。やはり、(+i)*(-i)⇒+1 は、知性と精神との一致と見るべきではないか。
 今は、問題提起をするだけなので、思いついたことをさらに追っていこう。-iが原闇であり、これが、精神や魂と関係するのではないのか。+iが原光であり、原知性/原同一性である。それに対して、-iが原闇であり、原精神/原魂である。
 問題は、内的差異-iと外的差異-iが区別がつかないことである。これはおいておこう。
 私が感じたのは、視覚において、同一性視覚と差異視覚があり、後者は-iと関係するということである。つまり、例えば、私が田舎で、晩秋か初冬で、透明な西空いっぱいの夕焼けを感じたとき、それは、単に赤色だけではなく、精神的なものを意味するのである。この夕焼けの精神性が-iの原闇と関係すると思えたのである。-iの原闇の感覚と夕焼けの視覚が共振して、精神性を感じているように思えたのである。
 これは、夕焼けの光の視覚と原闇の視覚の共鳴ではないのか。+iの原光の視覚と-iの原闇の視覚との共振ではないのか。夕焼けの赤色は、+iの原光で知覚しているが、精神性は、-iの原闇で知覚しているのではないだろうか。
 このようなことは音楽にも適用できると思う。バッハの音楽を聴くと、音自体は、+iの聴覚で聴き、精神性は-iの聴覚で聴くのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:妙な考え方かもしれないが、-iの原闇の視覚を夕焼けに投影するということもあるのではないだろうか。+iの原光の視覚を投影し、且つ、-iの原闇の視覚を投影して、夕焼けの精神美を把捉するのではないだろうか。このとき、+iと-iが共鳴融和していると考えられる。この共鳴融和が、+1ではないのか。そうすると、自己認識方程式は、美学方程式でもある。


2008年11月27日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:自我と同一性主義:現象とは何か:同一性と差異
「視覚における連続性と不連続性(Media Point):その2:視覚と自我と精神」
http://ameblo.jp/renshi
/entry-10170337475.html

 先に以上の考察を行ったが、自己投影=自己忘却=同一性・自我と自己否定=同一性主義との関係がやや不明瞭であるので、再検討したい。
 問題は、端的に言えば、現象とは何かということである。これは単純な問いであるが、実に本質・根本的である。
 現象とは、一見、同一性であるように思えるが、先の考察では、差異としたのである。現象は本来、差異である。そして、それに対する人間の知覚が一般的に同一性的なのであり、差異対象を同一性として知覚するのである。これは、カントが把捉したことである。
 PS理論的には、現象差異とは何だろうか。おそらく、量子や素粒子であろう。知覚対象とは、本来、量子や素粒子の「有機体」である。それは、同一性であると同時に、差異であり、差異であるために、同一性は崩壊するのである。(ここで、粒子=同一性、波動=差異として見るのが適切であろう。だから、量子ないしは素粒子において、粒子とは、存在し、且つ、非存在なのである。また、思うに、デリダの脱構築主義は、この説明としてはすぐれているだろう。)
 だから、現象とは、差異共鳴態(量子、素粒子的現象態)ないしは差異即非態と呼ぶのが適切であろう。
 今はとりあえず、ここで留める。


検討問題:生命とは何か:隠れた「指揮者」はMedia Point/Media Resonance:補足版
先に購入したCDの演奏を聴くと、オーケストラがそれ自体で鳴っている感じがある。一種自動機械のようなのである。
 想起したのは、生命のことである。一見、物質の作用で活動しているように見える。しかし、隠れた「指揮者」がいるのではないか。生命の隠れた「指揮者」とは何か。それは、予見で言えば、当然、Media Pointと考えられる。それも、他者と共鳴したMedia Pointである。つまり、Media Resonanceとしての生命である。
 思うに、物質と生命の相違は、Media Pointの質的差異に存するのではないだろうか。

追記:Kaisetsu氏が以前述べていたことと通じるが、物質は根本的には生命の結果である。即ち、Media Pointの結果としての同一性である。つまり、生命=Media Point抜きの同一性が物質であるということになる。


2008年11月26日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:生命とは何か:隠れた「指揮者」はMedia Point/Media Resonance
先に購入したCDの演奏を聴くと、オーケストラがそれ自体で鳴っている感じがある。一種自動機械のようなのである。
 想起したのは、生命のことである。一見、物質の作用で活動しているように見える。しかし、隠れた「指揮者」がいるのではないか。生命の隠れた「指揮者」とは何か。それは、予見で言えば、当然、Media Pointと考えられる。それも、他者と共鳴したMedia Pointである。つまり、Media Resonanceとしての生命である。
 思うに、物質と生命の相違は、Media Pointの質的差異に存するのではないだろうか。


2008年11月24日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:太陽系や惑星の力学について
太陽系の力学は、重力で説明されるだろう。しかし、重力だけでは、回転(公転)は説明できない。惑星の重力とは垂直の動きが必要である。
 ここではまったく思いつきであるが、反重力を考えると、重力とは正反対の方向をもつだろう。もし、惑星が反重力をもつならば、それが、回転運動を発生させる可能性はないのか。
 思うに、+iがMedia Pointへの重力をもつと同時に、Media Pointへの反重力をもつとしたならば、+iは、+i↓と+i↑の2つのベクトル性をもつということではないのか。思うに、+i↓と-i↑との共鳴と+ i↑と-i↓との共鳴がありうるのではないのか。集中共鳴と拡散共鳴となるのではないのか。
 今は問題提起で留める。


2008年11月20日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:金剛界曼荼羅とPS理論:複素数界とMedia Point World
金剛界曼荼羅は、「九会(くえ)から成る。これは9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきである。」という説明があるが、十字と中心は、PS理論で説明できるが、問題は斜めの4つの領域をどうみるのか、である。
 思うに、それは、複素数領域である。それは、Media Pointにおける超越性と物質性との「共鳴」した領域なのだろうか。思いついたのは、超越界と1/4回転によって発現する物質界と中間界であり、超越光と光との中間界ではないだろうか。薄明、黄昏の状態ではないだろうか。神話的に言えば、ヘルメスである。そう、Media Point Worldと呼べるのかもしれない。とにかく、後で検討である。

@@@@@@@@@@@@@@@@

両界曼荼羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・
金剛界曼荼羅の構成

胎蔵曼荼羅の各ブロックを「院」と称したのに対し、金剛界曼荼羅では「会」(え)という語が使われ、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これは9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきである。
金剛界曼荼羅




四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来 ・阿弥陀如来 ・不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E4%B8%A1%E7%95%8C
%E6%9B%BC%E8%8D%BC
%E7%BE%85


検討問題:身体という精神の土台について:臍下丹田:上丹田/中丹田/下丹田
余裕がないので、詳論できないので、問題提起しておきたい。
 問題は、心と言ったとき、私は身体を基盤に考えているのである。そして、みるところ、今日の日本人、とりわけ、東京人は、心の基盤の身体を喪失しているのである。一言で言えば、「肚」と言ってもいい。これは、道教では、臍下丹田である。
 以前提起したが、+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、両者の共鳴が中丹田である。近代合理主義/近代的自我化とは、上丹田の中心化でであり、中丹田の混濁化であり、下丹田の喪失であると考えられるのである。今はここで留める。
 
参考1:
身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス

◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp
/longpa/archives/113
96692.html
精神世界の叡智アーカイブス


参考2:
まっすぐ打つ4(「気沈丹田(きちんたんでん)」)
まっすぐ打つために、「偏り無く構える」ことを考えています。

そして
中国武術の太極拳には興味深い教えが沢山あり、それが太極拳の稽古要諦として伝えられているので、それを紹介しながら、あれこれ考えています。

今回は
「気沈丹田(きちんたんでん)」
http://kanjikihara.sblo.jp
/article/20848337.html
館長備忘録


参照:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられ、後漢 (3世紀前半)には用語の使用例がある。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはない。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。

[編集 ] 関連項目

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論


2008年11月19日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:差異共振進化なので、旧い同一性主義体制は淘汰される:日本消滅の可能性が浮き上がった
私は差異共振進化過程にあると唱えているが、気づいたのは、進化であるから、新しいものが旧いものに取って換わるということであり、後者は淘汰されるということだろう。
 日本は淘汰される可能性が強い。


2008年11月13日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:進化とは何か:コスモス進化論:内的宇宙進化論
私は、今、進化のヴィジョンが心に浮かんでいる。コスモス的進化論である。しかし、コスモスは宇宙というのではきわめて不十分である。
 霊学者のシュタイナーの説いた霊的進化論に近いが、私はシュタイナーの進化論はそのままは受け取らない。
 PS理論による進化論である。Media Point進化論とも言えよう。超越界の変化があり、それが、物質界=現象界の変化をもたらして行くと思えるのである。エメラルド・タブレットにあるように、「上にあるごとく、下も」である。「占星術」はこのヘルメス的世界観の下にある。
 どうも、ここ数日で、なにか精神界が変化したように思えるのである。眠気が強くなり、夢を見るようになった。


参照:

エメラルド・タブレット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

エメラルド・タブレット(Emerald Tablet、Emerald Table)は、錬金術 の基本思想(あるいは奥義)が記された板のこと。エメラルド板、エメラルド碑文とも。ラテン語 では、Tabula Smaragdina。

13世紀にアラビア語 からラテン語 に翻訳された。

伝説によると、この碑文はヘルメス 神自身がエメラルド の板に刻んだもので、ギザ (ギゼー)の大ピラミッド の内部にあったヘルメス・トリスメギストス の墓から、アブラハム の妻サラ あるいはテュアナのアポロニウス によって発見されたものであるという。

あるいは、洞窟の中でエメラルドの板に彫りこまれたのをアレキサンダー大王 が発見したともいう。

これに記されたうちで最も有名な言葉は、錬金術の基本原理である「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」であろう。これは万物照応、外宇宙と内宇宙の相似について述べられたものである。
第2のエメラルド・タブレット

アメリカの神智学者のモーリス・ドリール が1939年、1948年に編集出版した『エメラルド・タブレット』(林鐵造訳、1980年(昭和55)、霞ヶ関書房 )によると、1925年にメキシコ のユカタン半島 のピラミッド ので12枚のエメラルド色のタブレットを発見し写しとって翻訳後にタブレットをピラミッドにもどしたという。これはオリジナルのエメラルド・タブレットであり、著者はアトランティス 人トート(紀元前5万年から紀元前3万6000年の約1万6000年間古代エジプト を支配し大ピラミッドを作ったという)で、彼が5万歳のとき(ヘルメス・トリスメギストスの2回目の転生 であるという)著したという。タブレットIに『われ、アトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の看守者、力ある王、正魔術師にして代々代々生き続けるものなるが、今やアメンティーのホールに去り行かんとするにあたり、後世の手引きとせんため、偉大なるアトランティスの強大なる智恵の記録を書きとどめんとす』と記載されているとされ、このエメラルド・タブレットはアトランティスの巨大なる智慧 の記録であるとされている。なお通常のエメラルド・タブレットはヘルメス・トリスメギストス3回目の転生時のもので劣るものだという。

しかしこの説を疑問視する声は多い。

[編集 ] 第3のエメラルド・タブレット

日本の作家、上坂晨が『エメラルド・タブレット大予言』(三笠書房1984年)でエジプト旅行中にアラビア人から購入したエメラルド・タブレットパピルスがある。これは写真撮影した後ユダヤ系アメリカ人に翻訳を依頼したところ抄訳のみ帰ってきたという。

[編集 ] エメラルド・タブレットが登場するフィクション

* 11eyes -罪と罰と贖いの少女-
* 3days 〜満ちてゆく刻の彼方で〜
* ナイトウィザード
* 遊戯王デュエルモンスターズGX …大徳寺公康が死に際に遊城十代 に託した書の名前に用いられている。

[編集 ] 外部リンク

* エメラルド・タブレットについて エメラルド・タブレットのラテン語版、日本語版(途中)。
* エメラルド・タブレットのEverard Annotatedとニュートンの英語訳とラテン語版
* THE EMERALD TABLETS OF THOTH M・ドリール博士の訳したエメラルドタブレット英語版

執筆の途中です この「エメラルド・タブレット」は歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:歴史 /P:歴史学 /PJ歴史 )。
"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E3%82%A8%E3%83%A1%
E3%83%A9%E3%83%AB%E
3%83%89%E3%83%BB%E3
%82%BF%E3%83%96%E3
%83%AC%E3%83%83%E
3%83%88 " より作成
カテゴリ : 歴史関連のスタブ項目 | 錬金術

Emerald Tablet
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The Emerald Tablet, also known as Smaragdine Table, Tabula Smaragdina, or The Secret of Hermes, is a text purporting to reveal the secret of the primordial substance and its transmutations . It claims to be the work of Hermes Trismegistus ("Hermes the Thrice-Great"), a legendary Egyptian sage or god, variously identified with the Egyptian god Thoth and/or the Greek god Hermes .

This short and cryptic text was highly regarded by European alchemists as the foundation of their art, in particular of its Hermetic tradition.
The tablet text

[edit ] Newton's translation
A 17th century depiction of the Tablet by Heinrich Khunrath, 1606

One translation, by Isaac Newton , found among his alchemical papers as reported by B.J. Dobbs in "Newton's Commentary on the Emerald Tablet of Hermes Trismegistus" in Merkel, I and Debus A.G. Hermeticism and the Renaissance. Folger, Washington 1988.:

1. Tis true without lying, certain most true.
2. That wch is below is like that wch is above that wch is above is like yt wch is below to do ye miracles of one only thing.
3. And as all things have been arose from one by ye meditation of one: so all things have their birth from this one thing by adaptation.
4. The Sun is its father, the moon its mother,
5. the wind hath carried it in its belly, the earth its nourse.
6. The father of all perfection in ye whole world is here.
7. Its force or power is entire if it be converted into earth.
7a. Separate thou ye earth from ye fire, ye subtile from the gross sweetly wth great indoustry.
8. It ascends from ye earth to ye heaven again it desends to ye earth and receives ye force of things superior inferior.
9. By this means ye shall have ye glory of ye whole world thereby all obscurity shall fly from you.
10. Its force is above all force. ffor it vanquishes every subtile thing penetrates every solid thing.
11a. So was ye world created.
12. From this are do come admirable adaptations whereof ye means (Or process) is here in this.
13. Hence I am called Hermes Trismegist, having the three parts of ye philosophy of ye whole world.
14. That wch I have said of ye operation of ye Sun is accomplished ended.

[edit ] Beato translation

Another translation from Aurelium Occultae Philosophorum by Georgio Beato :

1) This is true and remote from all cover of falsehood.
2) Whatever is below is similar to that which is above. Through this the marvels of the work of one thing are procured and perfected.
3) Also, as all things are made from one, by the consideration of one, so all things were made from this one, by conjunction.
4) The father of it is the sun, the mother the moon.
5) The wind bore it in the womb. Its nurse is the earth, the mother of all perfection.
6) Its power is perfected.
7) If it is turned into earth,
7) Separate the earth from the fire, the subtle and thin from the crude and coarse, prudently, with modesty and wisdom.
8) This ascends from the earth into the sky and again descends from the sky to the earth, and receives the power and efficacy of things above and of things below.
9) By this means you will acquire the glory of the whole world, and so you will drive away all shadows and blindness.
10) For this by its fortitude snatches the palm from all other fortitude and power. For it is able to penetrate and subdue everything subtle and everything crude and hard.
11) By this means the world was founded
12) And hence the marvelous cojunctions of it and admirable effects, since this is the way by which these marvels may be brought about.
13) And because of this they have called me Hermes Tristmegistus since I have the three parts of the wisdom and Philosophy of the whole universe.
14) My speech is finished which I have spoken concerning the solar work.

[edit ] Latin text

Original edition of the Latin text. (Chrysogonus Polydorus , Nuremberg 1541): Verum, sine mendacio, certum et verissimum: Quod est inferius est sicut quod est superius, et quod est superius est sicut quod est inferius, ad perpetranda miracula rei unius. Et sicut res omnes fuerunt ab uno, meditatione unius, sic omnes res natae ab hac una re, adaptatione. Pater eius est Sol. Mater eius est Luna. Portavit illud Ventus in ventre suo. Nutrix eius terra est. Pater omnis telesmi[1] totius mundi est hic. Virtus eius integra est si versa fuerit in terram. Separabis terram ab igne, subtile ab spisso, suaviter, magno cum ingenio. Ascendit a terra in coelum, iterumque descendit in terram, et recipit vim superiorum et inferiorum. Sic habebis Gloriam totius mundi. Ideo fugiet a te omnis obscuritas. Haec est totius fortitudinis fortitudo fortis, quia vincet omnem rem subtilem, omnemque solidam penetrabit. Sic mundus creatus est. Hinc erunt adaptationes mirabiles, quarum modus est hic. Itaque vocatus sum Hermes Trismegistus, habens tres partes philosophiae totius mundi. Completum est quod dixi de operatione Solis.

[edit ] Contemporary rendering of Latin text

1. True, without error, certain and most true
2. That which is below is as that which is above, and that which is above is as that which is below, to perform the miracles of the one thing.
3. And as all things were from [the] one, by [means of] the meditation of [the] one, thus all things of the daughter from [the] one, by [means of] adaptation.
4. Its father is the sun, its mother[,]the moon, the wind carried it in its belly, its nurse is the earth.
5. The father of all the initiates of the whole world is here.
6. Its power is integrating if it be turned into earth.
7. Separate the earth from the fire, the fine from the dense, delicately, by [means of/to] the great [together] with capacity.
8. It ascends by [means of] earth into heaven and again it descends into the earth, and retakes the power of the superior[s] and of the inferior[s].
9. Thus[,] you have the glory of the whole world.
10. Therefore[,] may it drive-out by [means of] you of all the obscurity.
11. This is the whole of the strength of the strong force, because it overcomes all fine things, and penetrates all the complete.
12. Thus[,] the world has been created.
13. Hence they were wonderful adaptations, of which this is the manner.
14. Therefore[,] I am Hermes the Thrice Great, having the three parts of the philosophy of the whole world.
15. What I have said concerning the operation of the Sun has been completed.

[edit ] Textual history

The oldest documentable source for the text is the Kitab Sirr al-Asrar , a compendium of advice for rulers in Arabic which purports to be a letter from Aristotle to Alexander the Great . This work was translated into Latin as Secretum Secretorum (The Secret of Secrets) by Johannes "Hispalensis" or Hispaniensis (John of Seville ) ca. 1140 and by Philip of Tripoli c. 1243 .

In the 14th century, the alchemist Ortolanus wrote a substantial exegesis on "The Secret of Hermes," which was influential on the subsequent development of alchemy. Many manuscripts of this copy of the Emerald Tablet and the commentary of Ortolanus survive, dating at least as far back as the 15th century.

The Tablet has also been found appended to manuscripts of the Kitab Ustuqus al-Uss al-Thani (Second Book of the Elements of Foundation) attributed to Jabir ibn Hayyan , and the Kitab Sirr al-Khaliqa wa San`at al-Tabi`a ("Book of the Secret of Creation and the Art of Nature"), dated between 650 and 830 AD.

[edit ] Influence

In its several Western recensions, the Tablet became a mainstay of medieval and Renaissance alchemy. Commentaries and/or translations were published by, among others, Trithemius , Roger Bacon , Michael Maier , Aleister Crowley , Albertus Magnus , and Isaac Newton .

C.G. Jung identified "The Emerald Tablet" with a table made of green stone which he encountered in the first of a set of his dreams and visions beginning at the end of 1912, and climaxing in his writing The Seven Sermons to the Dead in 1916.

Because of its longstanding popularity, the Emerald Tablet is the only piece of non-Greek Hermetica to attract widespread attention in the West. The reason that the Emerald Tablet was so valuable is because it contained the instructions for the goals of alchemists. It hinted at the recipe for alchemical gold, as well as how to set one's level of consciousness to a new degree.

[edit ] References

1. ^ Sometimes written Thelesmi. This indicates a Greek origin. The Latin word "Tela" (ae,fem.) roughly means "loom" or "incomplete cloth". The true meaning of the word is somewhat obscure.

* Holmyard, E.J. "The Emerald Table" Nature, No. 2814, Vol. 112, October 6th 1923, pp 525-6.
* Holmyard, E.J. Alchemy, Pelican, Harmondsworth, 1957. pp95-8.
* Needham, J. Science and Civilisation in China, vol. 5, part 4: Spagyrical discovery and invention: Apparatus, Theories and gifts. CUP, 1980.
* Ruska, Julius . Die Alchimie ar-Razi's. n.p., 1935.
* Ruska, Julius. Quelques problemes de litterature alchimiste. n.p., 1931.
* Stapleton, H.E., Lewis, G.L, Sherwood Taylor, F. "The sayings of Hermes quoted in the Ma Al-Waraqi of Ibn Umail. " Ambix, vol. 3, 1949, pp 69-90.
* M.Robinson. "The History and Myths surrounding Johannes Hispalensis," in Bulletin of Hispanic Studies vol. 80, no. 4, October 2003, pp. 443-470, abstract.

[edit ] External links

* Historical overview of the tablet
* Various translations of the tablet
* Emerald Tablet - an introduction to Hermetic philosophy
* Sir Isaac Newton's translation of The Emerald Tablet with analysis and contemporary commentary
* The Emerald Tablet of Hermes Trismegistus Ed. Vladimir Antonov .
* Comments on the 13 sentences of Tabula Smaragdina and Introductions to Alchemy (hermetic thinking) by Béla Hamvas .

Retrieved from
"http://en.wikipedia.org
/wiki/Emerald_Tablet "
Categories : Alchemical documents | Hermeticism | Late Antiquity


2008年11月11日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性主義狂気の起源について:質的思考と量的思考:戦後の近代合理主義の量的思考
不連続的差異論が生まれて間もない頃、2つの差異、高貴な差異と劣弱な差異を提起して、試行錯誤した。
 それは、何故、ある個は差異を保持し、他の個は差異を否定して同一性主義になるのかという問題に対する解明として考えたものである。
 思うに、これは、今でも妥当する考え方である。もっとも、これは、ニーチェの『道徳の系譜』の考え方の延長にはある。
 私の基本的な見方は、男性は劣弱な個であり、女性は高貴な個であるということである。しかし、これは一般的にそうなのであり、個々においては、当てはまらないことである。男性でも、高貴な個はあるし、女性でも劣弱な個はあるのである。
 だから、的確に言えば、母権主義は高貴さを、父権主義は劣弱さを基盤にしていたと言えよう。
 この問題が進展しないのは、高貴さと劣弱さの発生が不明確であるからである。思うに、少なくとも、2つの不連続な差異を想定する必要があるのである。つまり、高貴な差異と劣弱な差異は不連続的であるということである。
 両者には質的な差異があり、相互に了解不可能ではないかということである。言い換えると、高貴な差異とは質的思考をもち、劣弱な差異とは量的思考をもつように思えるのである。(経済で言えば、資本主義は、両者が混淆しているのであるが、質的側面が看過されやすいと言えよう。)
 そして、この視点から日本を見ると、量的思考の人間が主流となり、質的思考の人間を疎外していると考えられるのである。これが、日本の亡国の根因と考えられるのである。今日の日本の政治を見れば、わかることである。日本において、量的思考が質的思考を圧倒するようになったのは、やはり、戦後と見るべきであろう。「天皇制」が廃止されて、世俗民主主義になってからということになる。もっとも、私は「天皇制」は肯定しないが、「神道」は肯定するのである。
 そう、戦後日本は、端的に言えば、近代合理主義化して、精神性を喪失したということである。これが、ニッポン亡国の根因と言えよう。三島由紀夫の反動的爆発はこの点から把捉されるべきである。

追記:大事な点を看過している。即ち、近代合理主義化を強制した連合国権力の存在である。この強権が日本人を隷属させているのだ。この支配の精神的メカニズムを再考したい。 


2008年11月09日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性主義の起源は何か:狂信性は生物学的にどういう意味をもつのか
同一性主義が崩壊した今日の大転換期(相転移期)であるとは言え、やはり、残存する同一性主義は「厄介者」である。
 私が思ったのは、生物進化的に、同一性主義はどういう意味をもったのだろうか。これは、すぐ、他者を押しのけて、自分さえ生き残ればいいという弱肉強食の論理であるということになる。
 つまり、「動物」、「野獣」の論理である。これが、人類を長い間支配してきたのであり、今日も、これで苦しめられているのである。
 これまで、同一性主義は、父権主義であると述べてきたので、「野獣」論理と父権主義との関係を明確にしたい。
 言い換えると、どうして、「狂気」が人間性に入ってきたのかということでもある。前父権主義では、Media Pointが開いていて、超越性(神性)と交流していて、差異共振主義であった(母権主義)。
 しかし、父権主義では、超越性が変質して、同一性主義狂気となると考えられるのである。この同一性主義狂気の意味を考察したいのである。


2008年11月07日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:音楽と精神:現代日本における音楽の死:「断絃の時」と日本の死と復活
後で検討したい。
 三島由紀夫が心血を注いだ『文化防衛論』の中で、何度も言及したが、日本文化に関して「断絃の時」があったと述べている。つまり、「音楽」の死滅した時が日本文化において生じたということである。音楽の死があるのである。
 これは、日本だけではないが、とりわけ、日本において、顕著であると考えられる。魂の死と言ってもいい。
 これの意味するものは何か。端的に、日本の死であろう。そうすると、日本の復活が考えられてくるのである。

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検討問題:オバマ新大統領と差異共振経済

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

差異共振主義の勝利であるが、これから、差異共振経済をどう新構築していくかが問題である。同一性主義金融資本は、国有化によって延命しているが、早晩、衰滅する。その大破壊する前に、どう差異共振経済を建築するかである。


2008年10月30日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:イデアの対極の振動について:膨張と収縮の双極イデアと素粒子
虚軸において、対称的な2つの動き(振動)があると考えられる。すなわち、









の二種類である。

前者は拡大ないしは膨張で、後者は縮小ないしは収縮ということではないだろうか。
 私の思いつきは、前者はマクロ志向であり、波動を形成する。それに対して、後者はミクロ志向であり、粒子を形成するというものである。
 この両者の、いわば、双極性によって、量子ないしは素粒子が形成されるのではないだろうか。後で検討したい。

P.S. 思うに、以上の「双極子」であるが、上下変換できると考えられるので、2つの「双極子」になるのではないだろうか。一種四重性、四元論となろう。ここで、四大や四つの相互力を想起する。後で緻密に検討したい。


2008年10月28日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:ヤハウェ以外の同一性主義の源泉の可能性:父権的同一性主義=帝国主義という問題
ユダヤ教は単にヤハウェ主義ではなく、Media Pointをもっている。ユダヤ教は東洋の宗教であり、Media Pointをもつと考えられる。今はこの点は検討しない。
 どうもヤハウェ主義=同一性主義の源泉は、古代ローマにあったのではないだろうかという勘が生じているのである。
 また、聖書の問題も関係する。ヤハウェ以外にエローヒーム(神の複数形:だから、多神教である)が存しているのである。この点でも、Media Pointの存在を指摘できる。
 問題は、Media Pointを閉じた同一性主義勢力、いわば、ヤハウェ主義勢力が、古代ローマに存していたと考えられることである。ヤハウェ主義勢力が、イエス教を取り込んで、キリスト教を創造したと考えられるのである。(聖書の改竄等も考えられるのである。)
 ヤハウェ主義というと語弊があるので、同一性主義ないしは同一性主義金融資本である。思うに、父権的同一性主義というのが的確ではないだろうか。
 これがローマ帝国において、主導的であったのではないのか。父権的同一性主義派が、ユダヤ教やイエス教を利用して、キリスト教三位一体説を形成したのではないだろうか。ユダヤ教もイエス教もいわば出汁にされたということになる。言い換えると、父権的同一性主義派とは、帝国主義派である。これがポイントであろう。
 これが、教父たちを集めて、「ロゴスの受肉」ドグマを生んだのではないだろうか。あるいは、キリスト教三位一体ドグマを。
 では、「ユダヤ人」問題はどう関係するだろうか。基本的には、やはり、父権的同一性主義の差別主義が「ユダヤ人」を形成したのではないだろうか。
 結局、「ユダヤ資本」と呼ばれるものは、極めて語弊があるだろう。「ユダヤ人」は、西欧の父権的同一性主義の刻印・トラウマがあると思われるのである。「ユダヤ人」を同一性主義にしたのは、それではないだろうか。
 ということで、父権的同一性主義=帝国主義が、ヤハウェ主義の根源であると問題提起をする。


参考:
ローマ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ローマ帝国
Imperium Romanum
← 前27 - 1453[1] ↓
国の標語 : Senatus Populus que Romanus (SPQR )「ローマの元老院と市民」を意味する
ローマ帝国の位置
ローマ帝国の最大版図
公用語 ラテン語 (国の)、ギリシャ語 (準公用語、629年からは公用語)
首都 ローマ
(紀元前27年 -330年 )
コンスタンティノポリス
(330年 -1204年 /1261年 -1453年 )
ニカイア
(1204年 - 1261年 )
メディオラヌム

(395年 -402年 )
ラヴェンナ
(402年 -476年 )

皇帝
前27年 - 14年 アウグストゥス
98年 - 117年 トラヤヌス
307年 - 337年 コンスタンティヌス1世
379年 - 395年 テオドシウス1世
1449年 - 1453年 コンスタンティノス11世
執政官
前27年 - 前23年 アウグストゥス
476年 - 476年 バシリスクス
面積
前25年 [2] [3] 2,750,000km²
50年 [2] 4,200,000km²
117年 [2] 5,000,000km²
390年 [2] 4,400,000km²
人口
前25年 [2] 56,800,000人
117年 [2] 88,000,000人
変遷
オクタウィアヌス がアウグストゥス の尊称を戴く 前27年1月16日
トラヤヌス 治世下でローマ帝国が最大版図を実現 117年
ディオクレティアヌス が即位。専制君主制(ドミナートゥス)の開始 285年
ローマ帝国が東西に分裂 395年
コンスタンティノポリス の陥落 1453年5月29日

通貨 ソリドゥス 、アウレウス 、デナリウス 、セステルティウス 、アス
先代 次代
共和政ローマ 東ローマ帝国
西ローマ帝国
東ゴート王国
西ゴート王国
ブルグンド王国
ヴァンダル王国
スエビ王国
フランク王国

ローマ帝国(ローマていこく、羅 : Imperium Romanum、英 : Roman Empire)は、オクタウィアヌスがアウグストゥス の尊称を戴いた紀元前27年 からの古代ローマを指す。なお、エドワード・ギボン が『ローマ帝国衰亡史 』で示した東ローマ帝国 滅亡年(1453年 )を当記事では便宜上、ローマ帝国の消滅年としたが、ローマ帝国が東西に分裂した395年 、西ローマ帝国が滅亡した476年 を示す場合もある。詳細はローマ帝国の滅亡 の項目を参照のこと。

広義には、共和政ローマ からの古代ローマ も含む。また後世にいう「東ローマ帝国 」も自称は単に「ローマ帝国」である。シルクロード の西の起点であり、中国の文献では大秦 の名で呼ばれていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%83%AD%E3%83%BC
%E3%83%9E%E5%B8%9D
%E5%9B%BD


2008年10月12日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:差異と同一性の問題&重力の問題、他
1)⇒+1の+1は本当に同一性なのか。差異ではないのか。

2)例えば、つる巻き植物が、軸をらせん状に、上昇するが、これは明らかに、重力とは正反対の方向である。この上昇力は何か。また+1を重力の方向と見ていいのか。
 しかしながら、+1はいわば生長力であるから、それは、天の方向であり、重力は逆に、-1の方向ではないだろうか。というか、→+1が天への上昇力であり、←+1が下降力、すなわち、重力ではないだろうか。
 とまれ、以前述べたように、作業仮説として、+1を天の方向、-1を地の方向(重力)としよう。
 その線で考えると、ブラックホールとは、-1の地の方向が過剰になった場合と考えられよう。いわば、宇宙の同一性主義ではないだろうか。闇である。(P.S.  また、ダークマターやダークエネルギーであるが、以前は超越エネルギーの方向で考えたが、この-1←+1で考えられないだろうか。もしそうならば、宇宙は、⇒+1の光の宇宙よりも、-1←+1の闇の宇宙の方が巨大であるということになる。もっとも、そうだとしても、虚軸の超越エネルギー=超光があるのであり、この超越次元を考察する必要がある。)
 とは言え、本当の天は、+iの方向であり、本当の地は-iの方向であるということになるのではないだろうか。今はここでとどめる。

3)身体とMedia Point:カントの物自体は、意外に、+1なのかもしれない。あるいは、⇒+1である。自我の目は-1であり、+1を捉えそこなっているのではないだろうか。+1ないしは⇒+1は、即非的同一性ではないのか。
 とまれ、身体とは何だろうか。物質的身体は-1ではないだろうか。そして、「魂」のある身体とは、+1ではないだろうか。
 ならば、身体とMedia Pointはどう関係するのか。Media Pointは「魂」であり、且つ、身体であるという即非態ではないだろうか。今はここで留めたい。


2008年09月04日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:フロイトの死の欲動とは何か:精神経済の視点から:攻撃と自殺を超えた差異共鳴共同体構築へ
PS理論は、私見では、精神分析を乗り越えていると自負しているが、フロイトの仮説でいちばん重要なのは、死の欲動であろう。昔、よくエロスに対して、タナトスと呼ばれたものである。
 不連続的差異論誕生以前、私はよく死の欲動の仮説を使用したものである。しかし、それ以後、ほとんど使用しなくなった。今、気になったので、考察テーマとしたい。
 思うに、自殺する人は、この死の欲動=タナトスが強いのではないだろうか。もっとも、政治・経済的原因も忘れてはならないが、今は内因を考えたい。先に述べた精神経済性という視点で言えば、精神経済の内的ないしは主観的側面を考察したいのである。【しかしながら、資本主義自体に、死の欲動はないのかとふと思うのである。この点は検討問題である。】
 さて、死の欲動であるが、それは、端的には、原点回帰ではないだろうか。精神的郷愁ではないだろうか。ある意味で死から生が生じたのであるから、原点の死への郷愁があってもおかしくないのである。
 今日の風潮では、死を避けるが、果たして、死とは悪いものなのかである。自殺する人が日本では、年間三万人を言われる。確かに、小泉「構造改革」が経済的要因とは考えられる。
 しかし、生きる意欲があれば、なんとかすれば、生きられるものである。だから、経済的要因以外に、内因的動機があると思うのである。そして、それが、死の欲動の可能性があるのである。
 ここでは、検討課題ということで、思いつきを述べて、精緻な検討は後で行いたい。
 思いつきとは、死の欲動とは、同一性主義志向性と関係しているのではないのか、ということである。あるいは、根源的に言えば、差異共鳴エネルギーとは、実は、死の欲動ではないのか、等々ということである。しかし、そういうことは、齟齬・矛盾である。
 観点を変えてみよう。例えば、仏陀の教えは、死の欲望に拠るのではないだろうか。輪廻から解脱するというのは、生の否定、生の乗り越えである。
 思うに、イデア界は、根源的調和界、大調和界であり、そこから、不調和の現世へと人間は生まれることになるのであるが、その意味は何なのか。
 どうして、根源的調和があるのに、不調和の現世へと生まれる必要があるのか、という考えが浮かぶのである。
 結局、物質化の問題となるだろう。これは、自我主義化と同質だと思う。これは、いったい何か。物質的自己(自我)の形成とは何か。
 とまれ、直感では、この物質的自己形成の力が死の欲動である。差異共鳴エネルギーという生エネルギーを否定しているから、そのように思われるのである。つまり、同一性主義志向性である。
 これは、確かに破壊的志向性である。暴力である。しかし、問題は複雑である。以上の視点から見ると、同一性主義化は、死の欲動によるが、実は、これは、これまでの考察からみると、差異共鳴性の影から発しているのである。光が受けた翳りである。反動である。
 思うに、この差異共鳴性の影であるが、それは、一方では、同一性主義的な暴力、外的な攻撃衝動となるのではないだろうか。他方では、根源的な大調和界(イデア界)への郷愁としての自殺的欲動となるのではないだろうか。
 そうならば、攻撃性と自殺はメダルの両面である。共通根源は、差異共鳴性における翳りである。通俗的に言えば、トラウマ(心的外傷)である。
 この攻撃と自殺のチェラビスとカリュブデスの危機を避けるにはどうしたらいいのか。
 それは、差異共鳴エネルギーが純粋に開花する世界を創ることではないだろうか。経済で言えば、差異共鳴経済社会の構築である。

参照1:

「死の欲動」の概念は、フロイトによって、かつての「性欲動」と同じやり方で探求されたわけではなかったので、その構造や機能についてはまだ明らかになっていない部分もあります。 しかし、フロイトは、大雑把にいって、次のような主張を行ないました。 「死の欲動」は、それ自体は生命体の中で沈黙していて、「生の欲動」と結びつかなければ、私たちには感知されません。 けれども、「生の欲動」が生命体を守るために「死の欲動」を外部へ押し出してしまうと、「死の欲動」はたちまち誰の目にも明らかに見えるようになります。 それは、他者への攻撃性(暴力)という形をとるのです。ところが、他者への攻撃には、当然危険も伴います。 他者が仕返しをしてくるかもしれないし、別の仕方で罰が与えられるかもしれません。それゆえ、これはとりわけ人間の場合ですが、自我は他者への攻撃を断念して、「死の欲動」を自分のうちに引っ込めるということも覚えねばなりません。 しかし、自我の内部には、この自分のうちに引っ込められた「死の欲動」のエネルギーを蓄積する部分ができ、それがやがて自我から独立して、このエネルギーを使って今度は自我を攻撃するようになります。 この部分のことを、フロイトは「超自我」と名づけました。 「超自我」は、フロイトによって、もともと両親(とりわけ父親)をモデルとして心の中に作られる道徳的な存在として概念化されていましたが、フロイトはここに至って、超自我のエネルギーが、実は「死の欲動」に由来するという考え方を示したのです。

 今日の社会状況の中には、「死の欲動」の存在を裏づけるかのような現象が頻発しています。 それはたんに、凶悪犯罪やテロリズムの増加といったことばかりではありません。 超自我のメカニズムは、鬱病 や依存(中毒)といった病理に密接に関係しています。 私たちはいまこそ、「死の欲動」の概念と本気で向かい合わねばならない時代にさしかかっているのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/
ueyamakzk/20061111
Freezing Point
参照2:
だが、この論考において、フロイトは死の欲動を有機体の根源的な欲動として捉えた。欲動は、「欲望」というような積極的なものではなく、フロイトによると、「生命のある有機体に内在する脅迫」である。だから、死の欲動は死を「希求」したりしない。むしろ、生命の初期状態への回帰として、死へと戻ろうとするのだ。
http://blog.shunsukesasaki.
com/?p=188


2008年08月17日(Sun)▲ページの先頭へ
考察課題:同一性と差異と極性、その他
1)同一性主義化した自己(自我)は、いつ差異に目覚めるのか、それとも、目覚めることは不可能なのか


2)二人の文豪の文体の、一種の直截的簡潔さとは何か:ジェイムズ・ジョイスとD. H. ロレンス:直截な文体と差異・特異性・不連続性:「モダニズム」期、20世紀初期、大戦間期における、差異・特異性・不連続性への還元的志向性:「モダニズム」、少なくとも、文学的「モダニズム」は、ポスト・モダン/トランス・モダン的であった。「モダニズム」の「モダン」は、モダン=近代というよりは、端的には、ポスト・モダンないしはトランス・モダンである。あるいは、プロト・モダンである。【ここで、ポスト・モダンとトランス・モダンの区別を明快にしておきたい。ポスト・モダンとは、簡単に言えば、同一性と差異との併存様態のことである。ドゥルーズは、構造主義的「差異」を説いたと言えるし、デリダは、「差異」の決定不能性を確認して、同一性主義的システムを脱構築したのである。結局、ポスト・モダンにおいて、同一性主義に対して、根底的疑問が提示されたのである(もっとも、ドゥルーズの「差異」は、構造主義的であるために、同一性と連続化しているのである。だから、同一性主義に対する批判の姿勢があるが、実際は、連続的差異=微分があり、それは、同一性への批判にはならず、返って、同一性を保証していると考えられるのである。ドゥルーズ哲学の構造主義性を確認できるのである。いわゆる、ポスト構造主義にはならないと思われるのである。それに対して、トランス・モダンとは、差異の不連続性、超越性を確認するものである。それは、同一性とは、Media Pointの即非様態において、関係すると見るのである。私見では、後期デリダは、トランス・モダンに近いと考えられる。】

P.S. 思うに、すぐれた芸術には、不連続な差異があり、また、それらの共鳴・共振性があるのではないだろうか。具体的に言えば、音楽で言えば、律動による差異があり、それらが、旋律によって共鳴するという様態ではないだろうか。バッハのフーガには感じられる。(最近、ブラームス音楽には対しては、その淀んだ情緒が不健全と思えるので、批判的であるが、それでは、交響曲第一番第一楽章やピアノ協奏曲第一番の冒頭には、今でも、惹きつけられるが、それは、そこに、差異共鳴様態があるからではないかと思う。)絵画では、セザンヌ、ピカソであろう。そう、この不連続化であるが、これが極端になると、エズラ・パウンドの長編詩『キャントーズ』のように断片の併存様態になるのではないだろうか。因みに、俳句は、このようなアートである。差異共鳴的アートである。また、連詩も端的にそうである。また、ブログの積極的な関係も、差異共鳴的である。日本の近代的作家で、差異共鳴性をもっているものは誰だろうか。宮沢賢治にはあると思う。私が知らないせいかもしれないが、意外に少ないが気がする。日本美術は伝統的に差異共鳴アートだと思う。まったくすばらしい。そう、ファッションも本来、差異共鳴アートであろう。垂直性と水平性の志向をもっている。しかしながら、日本近代文学には、差異共鳴文学が少ないと、思われるのは、心配である。私の無知に拠るのかもしれないが。


3)同一化するとはどういうことなのか:あるいは、同一性への強迫観念とは何か:

ひとこと言えば、同一性形成は自然なものであり、その終端に同一性主義が生まれる。そして、そこに対して何らかの強迫観念が生じる場合がある。それは、自我強化が原因ではないだろうか。差異・他者を否定することで、同一性自我を強化する強迫観念とは、思うに、自己の差異・他者(感性知性)にコンプレックス(劣等感)を感じているからではないのか。(そう、思うに、男性は女性にコンプレックスを感じるので、同一性自我へと固執するのではないのか。)
 そう、内的なコンプレックスがあるために、それを抑圧して、同一性自我を強化する強迫観念が発生するのではないだろうか。つまり、強迫観念が生じる必要があるまでに、内的コンプレックスが強度をもつということだろう。
 これは1)と関係する。内的コンプレックスを測深して、それと直面する必要がある。トラウマが見つかるだろう。同一性自我を強調する人間は、自己差異において、無能さ、劣等性、悲惨さ等の否定性を発見するのではないだろうか。しかしながら、その部分は、イデア界によって、照射されることが可能である。つまり、この世における生まれ変わりの可能性があると思われる。内面への回帰が必要である。自分の身体内の心・魂の声に耳を傾けること、内省・省察・瞑想が必要である。
 言語的知的意識と感性的知的意識がある。つまり、言語知性と感性知性(直感知)の二つの知性がある。近代主義は、前者中心で、後者を否定している。感性は知性をもっているのである。両者の両極性知性教育が必要と考える。
 

4)日本の戦後教育批判:近代合理主義/近代的自我/唯物論教育批判:義務教育における哲学の欠落:知識教育の弊害:知性と感性の極性教育の必要:極性的自己認識の必要


5)(再掲)以下の、デリダの『コーラ---プラトンの場』(守中高明訳、未來社)の巻頭の引用にある「極性の論理」が鈴木大拙の即非の論理、乃至は、ウスペンスキーのターシャム・オルガヌムに相応するものと考えられる。今は細かい論述はしないが、一言いうと、デリダの緻密な批判知性を確認すれば、このことは検証されよう。

【「神話は、したがって、哲学者たちの無―矛盾の論理との対照において、曖昧なものの論理、両義的なものの、極性の論理と呼ばれ得る一つの論理形式を作動させる。ある項をその反対物のうちに、離れた他のさまざまな視点から両者を保持しつつ、逆転させてしまうこれらのシーソーの操作を、どうやって定式化すれば、さらにはどうやって形式化すればよかろう? 言語学者たち、論理学者たち、数学者たちのほうを向いて、自分に欠けている道具を彼らが提供してくれるように、結論として、この欠乏証明書を作成するのは、神話学者の責任であった。その道具とは、二項性の、然りか否かの論理ではないような論理を、すなわち、ロゴスの論理とは別の論理をそなえた構造的モデルである。」
                 ジャン=ピエール・ヴェルナン
 「神話の理性」、『古代ギリシアにおける神話と社会』所収、一九七四年、二五〇頁】


6)理念界と第三の地平

シュタイナーの精神学では、霊=精神を超越性として捉える。


7)超越性と超越論性:フッサールの超越論性について

フッサールの超越論的主観性の超越論性であるが、これを、PS理論は、超越性と捉え直したと言えよう。超越論性は、いわば、構造主義的であり、同一性主義的である。しかしながら、フッサールの超越論性を超越性(イデア)として捉え返すことで、フッサール現象学をイデア論へと発展させることができると考えられる。だから、PS理論はトランス現象学である。
 しかし、どうしてフッサールの超越論性を超越性と捉えられるのか。それは歪曲ではないのか。確かに、表面的には、明確な誤読であるが、単にそうとは言えない。その理由は、志向性という概念が、超越論性には留まらない、理念の根本的性質をもっているからだと考えられる。つまり、フッサールは超越論的志向性を表層的には説いているが、志向性はさらに高次元の志向性を意味しうるのである。つまり、超越的志向性が考えられるのである。
 有り体に言えば、以前に述べたが、フッサールは無意識的に、超越論的志向性に超越的志向性を含めていたということである。では、何故、無意識的にそれが可能になるのか、である。それは、エポケーを行い、外界との関係を切断したとき、純粋な内界が生起するが、この内界は実は、超越性が、いわば、潜在しているのである。思うに、フッサールの意識は超越論的であったが、フッサールの内界に潜在する超越性が、無意識的に、超越論性へと重なっていたと考えられるのである。純粋内界を開いたとき、超越論性は超越性を帯びうるのであり、フッサールの場合、正にそうなったと考えられるのである。
 ということで、フッサールの超越論的主観性とは、超越的主観性を内包していたということになる。そして、ハイデガーの存在論は、このフッサールの超越論的主観性を看過していたと私は考えるのである。


7)谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」等と東洋性:

後で引用。ところで、青空文庫には、谷崎の作品が皆無であるが、これは何故だろう。まだ、著作権が残っているのだろう。

8)イシスとオシリスの神話について:垂直性と水平性の混淆・連続・同一化の問題


2008年07月27日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:1)現象界について:-1と+1の即非様相:物質と差異共鳴精神身体現象
1)現象界について
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

以上の迷惑コメントがあった記事(「メディア界の連結力学・構造について」)は、不連続的差異論を説いていた頃のもので、約三年前のもの(2005年10月07日付け)であったが、それを読み返して、現象界についての発想が浮かんだので、ここで検討したい。
 問題は、以前にも検討したが、-1と+1との関係である。この問題は実に興味深い、いわば、不思議な問題である。
 -1は同一性主義である。それは、自己同一性主義であり、自我主義であり、物質主義である。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)で述べたことと関係する。フッサールが批判する自然的態度は、-1の自我主義的見方であるのではないだろうか。
 +1の見方とは、差異共振・差異共鳴の精神身体認識(精神身体はMedia Point的であるが、思うに、精身を造語したい)であるが、通常は、ないしは、ポスト・モダンは、-1と+1とが混淆して、連続化しているのである。【p.s.  -1と+1との混淆は、ドゥルーズの場合に的確にあてはまる。デリダの場合は、そうではないので、陳謝し、訂正したい。デリダの脱構築主義は、微妙なところがあって、不連続的差異論に近いのであるが、超越性の否定を前提にもって、諸哲学において、-1と+1が共存している様相・様態を確認して、-1の同一性システムに対して、+1の差異が並存している事態を提示して、同一性システムを脱構築するものと考えられるのであり、混淆というよりは、同一性と差異との併存と言わなくてはならない。】
 ここで端的に、構想を言うならば、物質現象とは-1であり、精神身体現象は+1である。しかしながら、現代の見方は、前者中心であり、後者は否定・抑圧・排除・隠蔽されていると考えられる。
 ここで、やや迂回して、量子論について言うと、それは、物質同一性-1の近代科学に対して、+1のトランス・モダン・サイエンスを提起しているのではないだろうか。ただし、量子を物質主義的に捉え、イデアとして捉えていないので、不十分と考えられるのである。イデア(対極イデア:正確に言うと、双極イデアか?。四元的イデアということになるし、Media Pointを加えると、五元的イデアとなるのではないだろうか)の共鳴である量子という考えには達していないのである。【電磁波は、結局、イデアでいいのではないだろうか。一般的には、まだ、物質主義的視点で捉えているだろう。イデアとしての電磁波であろう。】
 ということで、現象とは、一般には、-1の物質現象として考えられている。しかし、心的現象・精神現象があり、これがうまく捉えられていないのである。例えば、「気」をどう捉えるのか、ということもあるし、どのように宗教現象、神秘現象を理解するのかということもある。それらを脳生理学的に捉える傾向があるが、それはやはり、物質主義である。 
 心的現象は、+1と捉える必要があるだろう。フッサールは『危機』で、-1という自然的態度を還元(解体)して、(⇒)+1の超越論的主観性を説いたと考えられる。ただし、既述のように、フッサールは主観的同一性に囚われていたので、差異共鳴(太極イデア)という考えには達しなかったのである。
 端的に言えば、現象の表層は-1の物質現象であり、現象の深層・実相は+1の精神現象(精神身体現象)であるということになる。そして、-1と+1とは即非様相にあるということになろう。先にバッハ音楽について述べたが、バッハ音楽は、-1の聴覚を介して、+1の精神現象(差異共鳴現象)が奇跡的に豊饒に表現されていると言えよう。そして、芸術の感動とは、+1の表現を介して、Media Pointが開いて、イデアに接することにあるのではないだろうか。崇高さとは正にそのように考えられるのである。そう、正に、プラトンの説いた美や善はそのようなものであろう。また、根源的真理はそのようなものだろう。
 さて、ここで、再度、ポスト・モダンについて触れると、超越性(虚軸、イデア性)を否定して、Media Pointを実軸に留めているので、その差異(差延)とは、ゼロに閉塞した+1を意味するのであり、それで、袋小路になっているのである。つまり、虚軸・超越性のもつ開放性がないのである。閉塞された差異と言えるのである。だから、ポスト・モダンは、モダンとトランス・モダンの境界にあると言えるだろう。モダンの縁と言えよう。
 では、構造主義はどう把握できるだろうか。直感では、ほとんど、ポスト・モダンに近いのである。二元対立構造は、言わば、-1の視点から見た+1で説明ができそうである。つまり、物質的二元論(二項対立)の視点から、精神身体現象+1を見ると、二元対立構造が現われると考えられるのである。つまり、即非性のない対立構造である。せいぜい、両義性の構想に留まるのである。【デリダのファルマコンの考えも、これに近いだろう。】
 整理するなら、構造主義は、物質主義-1から差異現象+1を見たものであり、ポスト・モダンはゼロ・ポイント⇒+1の理論と言えようか。そして、不連続的差異論はMedia Pointを捉えた一つのブレークスルーと考えられよう。そして、PS理論は、さらに差異をイデア的共鳴現象と捉えたのである。【p.s. デリダの脱構築理論は、上述したが、不連続的差異論に接近している。ただし、水平軸的特異性としての差異を捉えているので、垂直性が欠落しているために、いわば、三次元にとどまっているのである。】
 

2)日本人に個はあるか。昨日の雑踏を見て、また、公的空間でべたべたする男女を見て、日本人は、個として独立しているのかと思う。
 官僚支配唯物社会主義体制下にあって、日本社会において、日本人は個としての営為をもたないように、抑圧されているのではないだろうか。官僚封建主義にあって、官僚中央集権によって、政治、経済、メディア、教育、文化等々が支配されているのであり、個としての自由な営為をもてないように、巧妙に抑圧・拘束されているのではないだろうか。
 一般の日本人は、その被束縛が、もう気がつかなくなっているのではないのか。いつの間にか、差異を抑圧する同一性主義に染まっているのに気づいていないように思えるのである。つまり、日本人は、同一性主義という「精神病」に罹っているのではないか。
 


3)「精神分裂症」について:同一性主義は、「精神分裂症」を生む。
 同一性資本主義は、パラノイアと同時に、「精神分裂症」を生むのではないだろうか。【p.s.  これは、理解しやすい。何故なら、同一性主義は、自己同一性完結主義=パラノイアとなるのであり、同時に、否定・排除・隠蔽した差異他者-iが、他者の人格として、発現すると考えられるからである。これでは、二重人格であるが、Media Pointの多様・多元性を考えれば、多重人格が考えられよう。】


4)言語空間について:言語とMedia Point精神身体現象


2008年07月21日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:経済三元論へ向けて:需要・価格・供給の三極論:社会三元共振体?
シュタイナーの経済論は、実に興味深い。以下の記事には、古典的市場主義経済が批判されている。
 現代の日本経済の不況も、以下の経済三元(三極)論で解明され、処方箋が出てくるだろう。たとえば、消費の刺激政策や庶民減税である。
 とまれ、後でPS理論から見てみたい。

p.s. シュタイナーの唱える経済連合体とは、経済差異共振体と言うべきではないだろうか。有機体にしろ、連合体にしろ、そこには、連続性の発想があるのである。これでは、全体主義になると思われるのである。とまれ、経済三極共振体(経済三極共鳴体)、社会共振体(社会共鳴体)というコンセプトが考えられるだろう。

***************


需要と供給と価格が、基本的な三つの要素です。わたしたちは、「価格=需要と供給の関数」と書くのではありませ
ん。「〈需要〉と〈供給〉は変動する。この両者から生じるのが〈価格〉だ」とするのでもありません。〈需要〉と〈供給〉と
〈価格〉を同等に、「互いに独立して変動するもの」として考察しなくてはなりません。そして、何らかの値(x)に近づか
なくてはなりません。わたしたちは、ひとつの公式に近づきます。

わたしたちは、「〈需要〉と〈供給〉だけが変動するものであり、その両者の関数として〈価格〉に関わっているのだ」
と、考えてはなりません。これら三つは独立して、相互に作用しあうのです。価格は、需要と供給のあいだに存在し
ます。しかし、価格は独特の方法で存在するのです。

http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page043.html

シュタイナー経済学講座

****************

労働が直接対価を生むのではない

「貨幣」と「労働」とが交換可能な価値なのではなく、「貨幣」と「労働の産物」とが交換可能な価値なのである。

だから私が労働に対して貨幣で支払うならば、私は間違ったことをしている。なぜなら実際はただ労働の産物に対し
て貨幣で支払うことができるだけなのだから。

健全な社会有機体においては、労働を貨幣で支払うことができないということが明らかにされていなければならな
い。なぜなら商品と同じ意味で労働に経済的価値を与えることなどできないのだから。労働ではなく、労働によって
産み出された商品だけが、他の商品との比較において、経済的価値を得る。社会有機体を存続させるための人間の
労働の種類と程度は、その人間の能力と生活条件とから規制されなければならないが、このことが可能となるの
は、政治国家からこの規制が経済生活の管理とは独立して生じるときだけである。
http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page029.html

現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心


検討問題:身体とは何か:身体が主で、精神は従か?:心臓、血液、思考
身体は不思議であるが、私が今イメージする身体とは、精神と融合した身体である。つまり、プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的身体(Media Point Body)ということである。
 これは、以前にも述べたが、伝統的な思想である。例えば、心は心臓にあるというような発想である。英語では、両者はheartである。
 確かに、現象的には頭で考えるが、私は、実は、「心臓」が基盤にあり、頭で考えているのではないのかというような考えを思いつくのである。あるいは、さらに言えば、肚(はら)で考えるということもありうるだろう。肚や心臓が基盤となり、頭で考えるのではないのかという考えが浮かんだのである。
 今は、肚は置いて、心臓で考えたい。心臓は当然ながら、血液を身体全体に行き渡らせ、また、還流させる、循環器官である。
 どうも、直感では、血液がなにか思考に関係しているように思えるのである。つまり、頭脳の働きと関係すると思えるのである。これは、血の巡りが悪いという言葉で通俗的に表現されているだろう。
 そう、血液の流れ、また、血液自体が豊かでないと、豊かな、健全な知性・思考は生まれないのではないだろうか、などと思ってしまうのである。ルドルフ・シュタイナーがゲーテの『ファウスト』から「血はまったく特製のジュースだ」という言葉をよく引用していたのを想起するのである。後で検討したい。


参照1:
血はまったく特製のジュースだ

人種・民族の混血

歴史を遡っていくと、地上のどの民族の場合にも正確にそれと指摘することのできる、或る決定的な時点が存在す
る。それは古い伝統が生命を失い、家系の血を通して生きてきた根源的叡智が消え、民族が新しい文化段階に入っ
ていった時点である。どの民族もこの転換期を意識しており、それを古い伝説の中で記念している。

それまで部族たちは閉鎖的に生きていた。同一の血族同士の間で結婚することが当然であった。この習慣はどの人
種、民族の中にも見られた。人類にとって決定的な時点とは、この原則が崩れ、別の血が別の血と混じり、同族婚が
異族婚に移行した時点である。同族婚は家系の血を保持し、代々、部族、民族の流れてきた同じ血を個々の成員の
中に伝える。異族婚による新しい血の混入は、種族のこれまでの生活原則を崩壊させる。どの民族の中にも、遅か
れ早かれ、現れてくるこの異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした時点
なのである。

太古には一種の薄明るい見霊能力が存在しており、そこから神話、伝説が生じたこと、そしてこの見霊的意識は、丁
度混血が現在の明るい意識を生んだように、同族の血を純粋に保つことによってはじめて可能であった、このことは
神秘学にとって計り難いくらいに重要な事実である。

論理的思考が異族婚とともに発展したということは、今のところまだ奇異な主張にとどまっているが、やがて科学的
にも実証されるようになるだろう。その端緒はすでに作られている。異族婚によって生じた混血は、それまでの見霊
能力を失わせたが、その代わり、人類の意識を更に一段と高い発展段階へ引き上げた。今日の覚醒時の日常意識
はこの古い見霊意識から発展してきたのである。しかし今日われわれはこの発展段階をふたたび引き上げて、祖先
返りするのではなく、かつての見霊能力を新しい形式の中に復活させようと努めている。(P86-P87)
http://miyazaki.cool.ne.jp/
roseandcross/page035.html


参照2:

この近代西洋医学の根幹になっている、ウィルヒョー論である「すべての病気は細胞に病的変化をもたらす」に対して、「ウィルヒョ−は間違っている」と指摘したのが千島喜久男博士なのです。

千島博士は、「細胞は分裂によって増えるのではなく、体のなかを流れる赤血球が日々細胞に変化し、この肉体を形作って行く」という新説を唱えました。
http://sungod2012.blog96.
fc2.com/blog-entry-253.html


参照3:
血はまったくの特性ジュース
ルドルフ・シュタイナーの「血はまったく特性のジュースだ」から抜粋・引用しながら書いていきたいと思う。

ファウストが血で誓約書に署名したことについて、シュタイナーは次のように述べている。

『悪の力の代表者は、ファウストの血の少なくとも一滴を、自分のものにすることで、ファウストを完全に掌中に収めることができると信じており、したがって血の敵だからではなく、血を奪い取る必要があったからこそ、ファウストに血の署名を要求したのである。

或る人間の血を奪い取れば、その人間を支配できるという点で、血は悪魔の特別愛好するジュースなのだ、という注目すべき感じがこの箇所の根底に存在している。

善と悪とをめぐる人間と悪魔との戦いに際しては、血が決定的役割を演じる、ということをこの箇所は示唆している。』
http://sakuragainouta13.seesaa.net
/article/51371310.html
空の手で


2008年07月04日(Fri)▲ページの先頭へ
複素平面のMedia Pointに直交する軸と天の柱(又は、宇宙樹)
イザナミとイザナギの有名な天の柱の話であるが、天の柱とは、ガウス平面のMedia Pointにおいて直交する軸ではないかとふと思った。もっとも、この思いつきは、だいぶ以前に抱いたものであるが。
 そして、これは、神話的には、エデンの園の生命の木に通じるのではないだろうか。蛇は当然、対イデアの二重螺旋ではないかと思うが。そう、注連縄もこれではないだろうか。これを、二匹の蛇の交尾の捉える人がいるが、それは、いわば、世俗化であると思われる。
 聖書では、知恵の木と生命の木の二本になっているが、オリエントの神話では、元々は一本である。私はこれが本来であると思う。
 イデア・エネルギーは、知であり、かつ、身体・存在であると考えられるのである。換言すると、イデアとは知であり、且つ、身体・存在であるということであり、前者が知恵であり、後者が生命ということではないだろうか。

p.s. それとも、+1を天に、-1を地にして、実軸を天の柱と見るべきか。

p.p.s. 呉茂一氏の『ギリシア神話』のディオニュソスの説明を読んで、アポロとディオニュソスは、上述したような対イデアを形成すると直感した。つまり、+iがアポロであり、-iがディオニュソスであり、両者が即非的に、知となり、身体となると思ったのである。【p.s.  これは、どうも訂正しないといけないかもしれない。呉茂一氏は、ディオニュソスは、「天と地の子」と想定している。すると、天(ゼウス)=+iであり、地(セメレー)=-iが成り立ち、その共鳴として、ディオニュソスが考えられるだろう。つまり、差異共振エネルギーである。イデア・エネルギーである。では、アポロはどういうことかと言えば、それは、同一性ではないだろうか。つまり、+1ではないだろうか。-1は同一性主義であるが、+1は同一性であろう。つまり、自己認識方程式の左辺がディオニュソスであり、右辺がアポロではないのか。しかしながら、アポロはディオニュソスに包摂されるのではないのか。また、アポロは、同一性主義に転化しうるだろう。それは、-1であろう。この辺のところは微妙である。後で、精緻に検討したい。】

3p.s. D. H. ロレンスの「王冠」の思想であるが、それは、「父」と「子」との平衡として、「聖霊」を説いているが、「父」は+i、「子」は-i と見て、「聖霊」は+1ではないだろうか。
 思うに、「父」主義も「子」主義も、-1になると思う。両者の共振が「聖霊」であり、+1ではないだろうか。


参照:

ユグドラシル
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曖昧さ回避 その他の用法についてはユグドラシル (曖昧さ回避) をご覧ください。
曖昧さ回避 世界樹はこの項目へ転送 されています。その他の用法については世界樹_(曖昧さ回避) をご覧ください。
北方神話における世界図。中心の木がユグドラシル。
北方神話における世界図。中心の木がユグドラシル。
ユグドラシルに住みつく生き物たち
ユグドラシルに住みつく生き物たち

ユグドラシル(古ノルド語 : Yggdrasill)は、北欧神話 に登場する「世界」を体現する巨大な木 であり、「世界樹」もしくは「宇宙樹」とも呼ばれる。アイスランド語 ではイグドラシル(イッグドラシル)という。その姿はトネリコ の木を想起させる。アースガルズ 、ミズガルズ 、ウートガルズ 、ヘル などの異なる世界(九つの世界 )をすべて含んでいると考えられている。

「ユグドラシル」という名前の由来には諸説あるが、最も有力なものは「恐ろしい者の馬」すなわち「オーディン の馬」を意味しているという説である。Yggrは、オーディンがもつ名前の一つである。

3つ根が幹を支えており、それぞれアースガルド、ミッドガルド、ヘルに通じている。 アースガルドに向かう根のすぐ下に、神聖なウルドの泉 があり、ミッドガルドに向かう根のすぐ下にはミーミルの泉 がある。

この木に住むリス のラタトスク が、それぞれの世界の間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。

木の頂上には1羽の大鷲 (時にフレースヴェルグ とされる)が止まっており、その目の間にヴェズルフェルニル と呼ばれるタカ が止まっているという。

ユグドラシルの根は、蛇 のニーズヘッグ によってかじられている。ヤギ のヘイズルーン は、ユグドラシルの頂上に住み、その葉を食べている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール(古Dáinn ok Dvalinn,Dúneyrr ok Duraþrór)と言う四頭の鹿 がユグドラシルの樹皮を食料としている。

ちなみに、ザクセン人 がイルミンスール(Irminsūl、「イルミンの柱」の意、イルミンとはザクセン人の祖神)という同じような世界樹を崇拝していたことが、772年 にその木を切り倒したカール大帝 の記録などから分かっている。

[編集 ] 関連項目

* 神話 - 北欧神話
* 九つの世界
* 生命の樹
* 黄金樹

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ユグドラシル に関連するカテゴリがあります。
" より作成
カテゴリ : 北欧神話の地名 | 神話伝説の植物 | 世界観


2008年06月23日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア・エネルギーと物質エネルギーと現象の関係
問題は、ダークエネルギーである。宇宙の加速する膨張のエネルギーが可視される物質のエネルギーと大きく釣り合わない事態が生じていることをどう見るのか、である。
 私は以前に、-1と+1との相違を想定したが、それは訂正されて、イデア・エネルギーと物質エネルギーの相違を説いた。しかしながら、それでは、不十分である。
 そこで考え直して、元に戻して、-1と+1の相違が、ダークエネルギー問題に関係するのではないかと作業仮説する。先程、思いついたことから考えると、可視化される物質宇宙とは、-1であり、それは、差異共振エネルギーの帰結の+1の表面に過ぎず、当然、-1と+1は不連続であり、-1の物質宇宙から+ 1のエネルギー宇宙を導き出すことは、理論的に不可能ではないだろうかと思うのである。
 そうすると、アインシュタインのエネルギー公式はどうなるのだろうか。E=mc^2におけるm(質量)は当然、物質宇宙の事象である。問題は、c(光速度)の意味である。
 ここでは、思考実験するが、mは、-1に関係し、cは+1に関係するのではないだろうか。すると、この公式は、折衷になるのではないだろうか。
 直感で言えば、+1から-1が派生するのであるから、mは+1から派生するのであり、+1における、いわば、原質量とは何かということが考えられるのではないだろうか。
 そう、いま思いついたのであるが、この原質量がダークマターに相応するのではないだろうか。では、問題のダークエネルギーは何だろうか。
 原質量をXとすれば、+1のエネルギーは、Xc^2となるだろう。+1のエネルギーを、primary energy として、PEと表記すれば、PE=Xc^2となるだろう。思うに、このPEがダークエネルギーではないだろうか。この問題は今はここで留めておく。
 さて、以上の考え方によれば、ダークマターやダークエネルギーは、+1の世界の事象に過ぎず、イデア界には、達していないのである。+1は四次元と考えると、五次元のイデア界を捉えていないのである。言い換えると、イデア・エネルギー(仮説)を看過しているのである。
 思うに、「気」とは、イデア・エネルギーではないだろうか。また、コスモスとは、イデア界のことではないだろうか。もっとも、Media Pointとの関係を見ないといけないが。つまり、Media Pointを介して、イデア界が現象界へと「流入」するのである。このとき、イデア・エネルギーは、例えば、「気」として、発出されると思われるのである。もっとも、イデア・エネルギーすべてが、「気」というわけではないと思うが、とりあえず、作業仮説的に、イデア・エネルギー=「気」として、考えたい。
 そして、イデア界=コスモスとなるのだろうか。(ここで、プラトンの古代宇宙論を説いた『ティマイオス』を想起するといいだろう。)
 では、魂とはどうなるだろうか。これまでは、Media Pointが魂であるとおおむね考えてきた。今思うと、微妙である。イデアを魂としてもいいと思えるのである。
 その方が、整合的だと思うのである。イデア界は思うに、多数、ないしは、ほとんど無数のイデアがあるのではないだろうか。(先には、唯一のイデアを構想したが。思えば、不連続的差異論のときに、イデア界は、多者の世界であると考えたのである。)
 そうならば、Media Pointと魂=イデアの関係はどうなるのだろうか。Media Pointは、いわば、宇宙の臍(へそ)である。存在の臍である。現象の臍である。森羅万象の臍である。
 現象界の人間にとって、Media Pointは、イデア界と交流する「場」である。一般的に、魂というものは、Media Pointを介してのイデアではないだろうか。それとも、Media Pointとともにあるイデアのことなのだろうか。
 死者の「魂」は、イデア界に帰還すると思われる。純粋な、差異共振様相となるのである。確かに、天国である。しかし、イデアは認識体であるから、現象界の記憶があるだろう。言わば、イデア・アーカイブである。
 ということで、魂に関しては、これまでの考えを変更して、イデア=魂ということにしたい(まったく、純粋なプラトニズム、プラトン原理主義である)。もっとも作業仮説である。


2008年06月11日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:差異と身体:精神的性愛と物質的性愛
本件は、ある意味で核心的問題である。これまで、Media Point(以下、MP)において、両者は一致すると考えた。
 極く、素朴に考えよう。たとえば、食欲とは何か。これは、物質的身体を維持するための必要な欲望であろう。つまり、同一性主義における「欲望」ということである。端的に、同一性主義欲望と言っていいだろう。
 私は性欲も同様だと思うのである。ここは微妙な問題である。つまり、性愛とは何かの問題に通じるのである。
 プラトンはエロースを説いた。それは、端的に、イデア的共振性である。差異共振性と思われる。独立性と水平性の併存である。
 しかし、それは、性愛なのだろうか。ここで考えるべきは、先に述べた、同一性主義への傾斜と差異共振主義への傾斜のことである。
 前者の場合は、性愛は性欲に帰結する。しかし、後者の場合、性愛は、性欲に帰結しないと思うのである。それは、精神愛であろう。
 思うに、ここにギリシア神話を解く鍵がありそうである。あるいは、新プラトン主義を解く鍵が。
 同一性主義に傾斜していれば、性欲に帰結し、差異共振主義に傾斜していれば、精神愛に帰結しよう。プラトンのエロースは当然、後者と考えられる。
 現代世界は、自明的に、前者の世界である。物質主義と性欲は結びつくのである。しかし、差異共振主義の傾斜は、精神的性愛をもたらすだろう。俗にプラトニック・ラブと言われるが、エロースは、本来、そのようなものである。同一性主義は父権主義であり、差異共振主義は母権主義となる。
 西洋文明は前者的である。しかしながら、今日・現在、そして、未来、後者が主導的になると思われる。言い換えると、物質/自我主義から、精神/自己主義へと転換すると思われるのである。すると、性愛は、物質的なものから、精神的なものとなる。新ロマン主義である(p.s. 誤解される表現であるが、精神やロマンとは、実は、精神的身体を意味すると考える。後で、検討する)。
 単なる性欲は劣位のものとみなされるようになるだろう。

p.s. 本件のテーマである差異と身体については、はっきり述べていない。後で検討する。

p.p.s. 因みに、『チャタレー夫人の恋人』を書いた、「性」の達人のD. H. ロレンスであるが、彼の性愛論は、私見では、実はプラトニズムなのである。ロレンスの性愛は明らかに、差異共振主義である。だから、新プラトン主義に似ているのである。イタリア・ルネサンス的なのである。ロレンスの説く肉体とは、実は、イデアの影である。ロレンスはイデアの表現として、肉体・性愛を表現していると考えられる。



2008年06月06日(Fri)▲ページの先頭へ
差異の叡知と同一性の知識:イデア科学と物質科学:高次元科学としての太古の科学
先に、父権主義化によって、都市文明が生まれ、その後、ユダヤ・キリスト教によって、今日の物質文明が帰結したと言い、父権主義化以前においては、同一性と差異とのバランスのとれた社会があったと述べ、それが、動物の世界に似ていると言ったが、言い足りないと考えられるので、補足ないし補正したい。
 つまり、いわゆる、神秘的な、霊的な叡知が、母権的世界には存していたと思われるのである。先に言及した、ヴィクトル・シャウベルガーの説くような自然叡知を、その超太古の世界はもっていたように思えるのである。この点について、検討したい。
 端的に言えば、物質的自然の「科学」ではなく、イデア的自然の「科学」である。言い換えると、5次元的「科学」である。いわゆる、オカルトと呼ばれるものは、この残滓であると思う。占いも本来、高次元科学であったと思う。


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