検討問題・課題:思考実験、仮説、作業仮説

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2010年07月04日(Sun)▲ページの先頭へ
反共振について:その2:反共振は共立と根源回帰ではないのか
さらに本題について考察を続けたい。
 端的に言えば、Media Pointにおける、凸iと凹iとの関係の問題である。虚軸のMedia Pointを生成門氏に倣い、MP1、実軸のMedia PointをMP2とする。
 さて、(+i)*(-i)⇒+1 において、左辺の*はこれまで積を意味して、帰結として、+1の同一性を形成する。そして、積とは差異共振作用を意味するのである。
 しかしながら、端的に即非である差異共立も本来、存するので、*は単に積=差異共振作用だけでなく、差異共立様態を意味する符号と見るべきであると考えられる。言い換えると、符号*はMP2においては積を、MP1においては、即非=差異共立を意味することになる。
 問題はMP1における差異の数学である。Kaisetsu氏は和としている。私は-1を脳裏に入れて、商であると考えてきた。 
 ここは実に微妙、霊妙な箇所である。私の差異一如経験から考えよう。
 差異共立とは、差異がエネルギー化される以前の様態であろう。可能性である。デュナミスである。潜在性とも言えよう。
 思うに、ここには、極性がないのである。何故なら、極性があれば、エネルギー化されるからである。
 その点では、ゼロ様態と考えるのは妥当である。差異の和である。ただし、0iないし-0iである。即ち、±0iである。つまり、凸i+凹i⇒±0iである。正確には、凸0iと凹0iであろう。これは、卵の様態とも言えよう。
 思うに、中和という言葉は語弊があるが、ここには一種の中和があるのではないだろうか。ゼロの中和である。
 では、ゼロの中和からどうして極性が発生するのか。そのためにはエネルギーが必要なはずである。
 ここで、D. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』の発想を活用すると、根源には、I am Iがあり、それが、全体と一如である。
 そうならば、凸iの傾斜があるのである。思うにこの傾斜がエネルギーを生むのではないか。即ち、凸i⇒凹iである。すると、反作用で凹i⇒凸iが生起しよう。
 つまり、凸iの傾斜によって極性が発生するということにしよう。そして、この極性の結果が⇒+1の+1の物質である。
 結局、MP1の数学とは何か。和としよう。しかしながら、凸iに傾斜した和ではないだろうか。
 今、また、異なる発想が浮んだので記そう。MP1の数学を和としても、差異は、実軸ゼロ点、即ち、MP2で交差するので、そこでエネルギー化が為されると考えられよう。ならば、凸iの傾斜は必要なくなるのである。そうしよう。
 ということで、MP1の数学を和と仮説しよう。
 そうならば、*の符合とは和と積の両方を意味すると言えよう。ならば、凸i(#⇒*)凹i⇒+1となるだろう。(但し、#を和の符合とする。)
 さて、問題は、反共振である。それは何か。以上から、それは、MP2の共振を否定する作用である。だから、MP1の差異共立を意味すると考えることができる。
 しかしながら、そうすると、それは、和であるから、ゼロ、ないし、0iである。
 しかるに、i*-(-i)⇒-1と生成門氏は考えている。そうならば、ここには、反共振の二つの「解」が生じていることになる。和と積(の-1)である。
 しかし、反共振とは、実は積自体の否定ではないのか。そうすると、i*-(-i)⇒-1は不成立のはずである。
 つまり、反共振とは反積であり、それは、和となるのではないだろうか。つまり、i#(-i)である。つまり、i*-(-i)⇒-1とは反共振の数式ではないということになる。ならば、それは何か。これは、iのi回転であり、起源への回帰・再帰ではないのか。ならば、そこに商を観てもいいのではないだろうか。商を/で表記すると、i/(-i)⇒-1となる。
 ここは複雑であるが、以上から、反共振とは和=共立であり、又、商=根源回帰であるということになった。
 ここで、生成門氏の説いた無我の否定としての-(-i)、凹凹iであるが、それはどうなるだろうか。
 これも難しい。しかしながら、端的に、+i、凸iの自我である。つまり、無我-i、凹iの否定とは自我+i、凸iであり、それは、その否定によっては、積、即ち、i*-(-i)は生起しないだろう。i*-(-i)は、自我+i、凸iの根源回帰を意味しよう。
積とは自我凸iと無我凹iの積であり、無我の否定との積はないと考えられる。無我の否定は単に自我であるからである。
 以上、ぎこちない議論であるが、ここで留める。後で整理したい。


2010年07月03日(Sat)▲ページの先頭へ
マイナス1とプラス1:ダーク・マターと物質:マザー・マターとファーザー・マター
まだ、直観を整理できていないが、思考実験的に試論しよう。
 超越的物質が差異共立一如態に転化するとしよう。しかしながら、両者は相互変換できるとしよう。
 思うに、差異共立一如態は一種のエネルギー様態ではないだろうか。それも矛盾した言い方だが、静的エネルギー様態である。
 そして、それが、差異共振現象態=物質現象へと展開すると考えるのである。
 共立態と共振態はまったく異なる様態と考えられる。前者は、差異融合態とも言えるだろう。しかしながら、差異は差異として存立しているのは確かである。
 おそらく、問題は、超越的物質と差異共立様態の関係である。思うに、後者は前者の媒体化(メディア化)である。(かつて、メディア界という言葉を使用した。)
 端的に言えば、-1⇒MP(Media Point)⇒+1である。問題は、映像である。「観る」である。ヴィジョンである。
 原ヴィジョンは差異共立様態において形成されるのではないのか。そして、それが、差異共振へと展開されるならば、差異共振的ヴィジョンが形成され、それが現象となるのである。
 直観では、原ヴィジョンがイデアないしはエイドスである。そして、差異共振的ヴィジョンが同一性的ヴィジョン、ないし物質的ヴィジョンである。
 原ヴィジョンこそ、即非的ヴィジョンであり、それが、同一性ヴィジョンの源泉としてあると思われる。
 例えば、差異共立において、原「わたし」凸iと原「樹木」凹iの一如態があるとしよう。これが、差異共振現象では、「わたし」や「樹木」の二元論となるのである。客体・対象としての「樹木」があり、主体としての「わたし」が成立するのである。連続的同一性化ないしルシファー・アーリマン化である。
 思うに、原「わたし」がノエシスであり、原「樹木」がノエマではないだろうか。換言すると、前者が能動知覚であり、後者は被知覚(正確に言うと、被知覚の知覚である。簡単に言うと、「感性」である。そして、原「わたし」は「知性」である。ちなみに、Kaisetsu氏はボルトとナットと考えている。)ではないだろうか。
 超越的物質からの分化ないしは分身である差異共立態を原エネルギー様態であり、原ヴィジョン様態、イデア・エイドスとしよう。
 当然、ここには、なんらかの光が考えられる。私はこれを超越光、超光、ダーク・ライトと呼びたい。(ダーク・エネルギーはここに存するのではないだろうか。) だから、超越光⇒光、イデア⇒現象(物質)である。
 問題は超越的物質と差異共立の関係様態の意味である。思うに、差異とは認識情報系統であり、差異共立一如態の一如態は「物質」系統ではないだろうか。
 つまり、差異共立と差異共立一如態は別種のものと思われるのである。とりあえず、後者を原物質様態としよう。
 思うに、この原物質様態が、差異共振現象において、物質化するのではないだろうか。端的に言えば、原物質様態とは超越的物質様態ではないだろうか。
 ならば、超越的物質が物質に転換・変換・変容するということになる。-1⇒+1である。
 言い換えると、マイナス1がプラス1に縮約凝縮するということではないだろうか。つまり、原「わたし」が同一性=物質的「わたし」となり、原「樹木」が同じく、同一性=物質的「樹木」になるということである。
 生成門氏の視点を借りると、差異共立一如態における差異が枠化されて、物質化を被るのである。
 言い換えると、差異共立一如様態においては、対差異は超越的物質と共立し、いわば、卵の様態にあったが、それが、その共立一如様態が「破れて」、一如態を形成した超越的物質がいわば「核融合」によって、同一性=物質へと変容するのではないだろうか。これが、マイナス1のプラス1への縮約・収縮・凝縮である。
 このとき、プラス1には、もはや、差異は喪失されているのである。差異共立イデアから同一性=物質への転化は不可逆的である。
 原「わたし」は物質化されて「わたし」となり、原「樹木」も「樹木」となるのである。
 ただし、問題は、MPである。「心」、「精神」、認識の領域の問題である。それは、+1と⇒+1の相違の問題である。
 物質現象は端的に+1であるが、生成消滅する現象は⇒+1であると考えられるのである。つまり、エンテレケイアの物質態とエネルゲイアのエネルギー態は区別すべきということである。
 即ち、Media Pointの「心」、「精神」、認識性とは、物質態においては存しないが、エネルギー様態においては存するということになる。
 言い換えると、端的には、人間において、精神と物質的身体との絶対的齟齬が存するのである。
 しかしながら、超越的物質を考えると、精神はその変形である。だから、根本的には、超越的物質と物質との絶対的相違があると言えよう。
 ところで、差異共立一如態とは超越的物質と考えられるので、精神態とは超越的物質様態であると言えよう。だから、精神態とは本来、ダーク・スピリットなのである。それが、現象化するとき、いわば、光の表皮・皮膜をまとう、装うのである。つまり、視覚は光のスクリーンをもつのである。
 しかしながら、精神的視覚とは、本来、ダーク・ヴィジョンである。それは、Dark Sunを原視覚しているのである。言い換えると、超越光を原視覚しているのである。
 だから、視覚認識とは二重なのである。光を端的に視覚するが、同時に、超越光を潜在意識的sub-consciouslyに「感じる」のである。それで、視覚現象は不思議、不可思議なものが存するのである。そう、霊的視覚(霊視)があるのである。
 以上の視点から身体を考えると、物質的身体+1とは別に、ダーク・ボディがあると考えられる。それは、当然、差異共立的一如態の超越的物質的身体である。気的身体とはこのようなものであり、クンダリニーとは、差異共立一如態のダーク・エネルギーの位階的スペクトルと言えよう。
 最後に簡単に文化史的に考えると、超越的物質/ダーク・マターとは、言わば、マザー・マター(母物質)である。そして、差異共振現象による物質とはファーザー・マター(父物質)である。
 そして、Media Pointの虚軸において差異共立一如態があり、そこには、マザー・マターの「海」が「打ち寄せて」いて、Media Pointの実軸の差異共振様態においては、ファーザー・マターの端緒があると言えよう。
 ところで、マトリクスという言葉があるが、マザー・マターはトランス・マトリクスと言えるだろう。
 また、プラトンの母なるものであるコーラであるが、それは、思うに、差異共立一如態であり、マザー・マターに属すると言えよう。
 後で整理と同時に再検討を行ないたい。

追記:ゲーテの『ファウスト』において、かなり不気味に、「地底」に母の国(「妣が国」)が出てくるが、それは、マザー・マターを説いていると言えよう。そう、マザー・ランドである。
 ところで、ユング心理学は精神界を探究して、マグナ・マーテル(原母)に達しているが、それは、端的にはダーク・マター、超越的存在と観るべきである。つまり、ユング心理学を超越的存在論の一種と観るべきである。
 ここでハイデガーの存在論について触れると、問題は、存在が実軸のMedia Pointに、つまり、差異共振様態に留まっていて、まったく差異共立一如態における超越的存在性が欠落していることにあると考えられる。つまり、物質の端緒に留まっていると考えられるのである。
 この視点からポスト・モダンを観ると、既述済みであるが、それは虚軸のMedia Pointを否定して、実軸のMedia Pointに留まっているのである。後期デリダは、やはり、超越性を否定するものの、虚軸的差異には達している。
 また、ドゥルーズ&ガタリであるが、『哲学とは何か』に拠るならば、彼らは、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点を混同しているのである。つまり、差異共立と差異共振を混同しているのである。そのため、本来、差異共立一如様態の「事象」(即非的事象)が、「超越的」ではなく、内在的に、潜在的に捉えられてしまっているのである。つまり、物質との連続体として捉えられているのである。


2010年06月30日(Wed)▲ページの先頭へ
マイナス1とコスモス:虚軸ゼロ点の差異共立一如様態とマイナス1の超越性の連結としてのコスモス
これは直感である。
 Kaisetsu氏が、中世や古代においては、超越性ないしは超越的存在が認識されていたというようなことを述べられていたのを、マイナス1のダーク・マターとプラス1の物質(マター)との関係について考えている際に想起して、本題を思いついたのである。
 今は余裕がないのでざっと記す。
 結局、近代、西欧近代とは、文化史的には、それ以前に存していたコスモスを喪失したのである。コペルニクス、ガリレオの近代的宇宙観が古代・中世・ルネサンスのコスモスを破壊したのである。(ルネサンスは中世と近代の転換点で両面的である。)
 すぐれた多くの詩人や作家たちは、その後、コスモスへの郷愁を表出しているのである。日本では、宮沢賢治を考えればわかりやすい。
 しかしながら、これは、単に表象・表現の問題ではなく、リアリティの問題である。
 結局、西欧ないしは欧州においては、中世までは、キリスト教と重なるようにして、コスモス、異教的コスモスを「認識」していたのである。
 直感で言えば、これが、マイナス1である。ダーク・マター・コスモスである。
 ここには、一如差異共立的「感性」があったと思われるのである。(思うに、キリスト教自体も、このコスモス感性によって、維持されてきたということもできよう。言い換えると、異教的コスモスが民衆にキリスト教信仰を保持させたと言ってもいいだろう。)
 これは、単に観念、理念、概念ではなく、感じられるものであったと言えよう。いわば、超越的感性、超越的精神性、超越的情感である。
 この精神的感性とは、当然、media pointを介して、虚軸からマイナス1の超越的存在=霊的宇宙(霊的大地)への超越的感覚であったと考えられるのである。
 つまり、民衆はそれなりに、media pointを開いていたのである。ルネサンスにおいてのmedia pointの開花とは、凸iが主導的になっているだろう。しかるに、近代以前までは、凹iが主導的で、media pointが開いていたと思われるのである。(この点の様態の違いについては後で検討したい。)
 とにかく、近代以前の民衆は、media pointを介して、虚軸ゼロ・ポイントにおいて、マイナス1のコスモスを直感していたと思われるのである。
 そう、ルネサンス・近代から見れば、近代以前の民衆の意識とは、物質と精神が未分化様態にあったのではないだろうか。

 e^iθ⇒cosθ+isinθ

で見ると、θがゼロにならない事態だと思われる。つまり、0<θ≤π ではないだろうか。
 θがゼロになるときが、近代なのである。θがゼロになるとき、思うに、media pointが閉じられるのではないだろうか。端的に、虚数部がゼロになるのだから、虚軸性が消失して、虚軸ゼロ・ポイントの超越的感性が喪失すると当然考えられる。
 ということで、近代以前においては、虚軸ゼロ・ポイントの超越的感性が作用していたと考えられるが、超越性とは、マイナス1に基づくそれと考えられる。つまり、マイナス1と虚軸ゼロ・ポイント(IMP)が連動しているので、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸のmedia point(IMP)において、超越性が感受されると考えられるのである。
 この点については後で詳述する予定であるが、仮に、マイナス1のmedia pointへの動きによって、虚数対が生起するとして、そのとき、虚軸media pointは感受点と言えるのではないだろうか。
 つまり、差異共立一如様態が発現すると思われるが、そのとき、media pointは一如様態の感受点であると考えてもおかしくない。即ち、超越的存在であるマイナス1のエネルギーないしは力動を、差異共立一如様態として、感受しているということである。
 そう、虚軸ゼロ・ポイントという感受点にとって、マイナス1とは、異次元であり、超越的であると言えよう。
 だから、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸media pointにおいて、超越的コスモスが感じられるというのは、考えられることである。コスモスとは一体的な宇宙、一如的に宇宙のことであり、それは、差異共立一如様態で説明できるが、超越性は、マイナス1で説明できるのである。
 以上、思考実験的であるが、古代、中世、ルネサンスにおけるコスモスとは、虚軸ゼロ・ポイント、虚軸media pointにおけるマイナス1と結びついた超越的宇宙であることを考察した。
 結局、マイナス1、超越的存在、霊的存在、ダーク・マターとはある意味で、本来、身近なものであるが、近代的意識のプラス1が支配しているので、まったく、「幽霊」になってしまっているのである。
 思うに、根井康之氏が唱える、初期マルクスとフッサールを介した根源的自然とは、正に、マイナス1を根底にもつ差異共立一如様態のコスモスであると思われるのである。
 後で、マイナス1に基づくmedia pointの諸様態について考察を行いたい。


2010年06月28日(Mon)▲ページの先頭へ
虚数とマイナス1:SpiritとEarth/Body:spirit, soul, body三元論
マイナス1が超越的存在、ダーク・マターであるという仮説はPS理論にとっての一つの大きな進展である。
 問題は、spirit(以下、スピリット)とである。鈴木大拙の日本的霊性やD. H. ロレンスの地霊spirit of place等を考えると、スピリットは大地と身体と関わることが了解される。
 思うに、スピリット・ボディー、スピリット・アースの概念が考えられるだろう。
 この霊的大地、霊的身体とは、端的に、マイナス1ではないのか。
 西洋の霊学の問題は霊の大地性・身体性を看過したことにあるのではないのか。
 シュタイナーの霊学もこの誤りがあると考えられる。思うに、マイナス1と虚数的差異の混同からこの誤謬が生まれているのではないだろうか。
 思うに、マイナス1から凸i#凹iの差異共立が生まれ、それが、凸i*凹iの差異共振へと転化して、 ⇒+1の現象が形成される。
 問題は、マイナス1と差異共立と差異共振である。(思うに、即非とは、差異共振ではなく、差異共立であろう。)
 差異共立とは、一如的な差異共立である。この「精神」が身体的霊性、大地的霊性ではないのか。
 しかるに、差異共振へと転化するとき、spiritからsoulへと転化するのではないのか。そして、それが、感覚現象を生み出すだろう。
 spiritとsoulには、絶対的間隙があるのである。つまり、前者は虚軸のmedia pointであり、後者は実軸のmedia pointであると考えられるのである。
 連続的発想のために、両者が混淆されてきたと考えられるのである。
 精緻に考察しよう。
 差異共立から差異共振への転換のために、差異は連続的同一性化されるのである。言い換えると、自我化されるのである。即ち、media pointが同一性化されるのであり、いわば、魂が自我化されるのである。これが、近代的自我の様態の一つである。(キリスト教の愛の問題もここにある。)
 精密に考えよう。本来、虚軸のmedia point(imaginary media point: imp)と実軸のmedia point(rmp)は、不連続であり、両者には、絶対的間隙がある。絶対的位階がある。
 そして、前者から後者へと降下するのである。これは、エネルゲイア状態である。つまり、差異共振はエネルゲイアである。そして、差異共立がデュナミスである。
 「精神」で言うと、胎児の「精神」が後者であり、出生後の「精神」が前者であろう。後者を霊性、前者を魂性と呼べよう。(言い換えると、media pointは霊魂である。)
 とまれ、media pointの振動の結果、エネルゲイア化して、差異共振化して、同一性現象が形成される。
 このとき、media pointが、いわば、連続化されるのである。虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点が連続化されるのである。つまり、霊と魂が連続化されるのである。ここに霊と魂の混同が生起するのである。
 そして、近代においては、この過程の究極状態が生起したのである。つまり、霊を否定して、自我魂である近代的自我が生起したのである。
 重要なのは、イタリア・ルネサンスにおける個の覚醒とは、霊の賦活化であり、結果としての魂の発達であると考えられることである。
 その帰結として、デカルト的合理主義が生まれた。霊的個はスピノザやライプニッツに継承されたと言えよう。
 ということで、近代の出発点には、霊と魂の両極があったが、その後、後者へと収斂したと考えられる。換言すると、超越性(差異共立、虚数性、マイナス1)の否定が生起したのである。近代合理主義、唯物論の誕生である。
 さて、問題は、近代性の進展である。この連続的同一性が基盤にあるために、常に、霊と魂は混淆されるということである。そう、魂は心とすれば、いいのであり、+1が物質や自我である。
 これが、結局、ポスト・モダンまで継続したのである。ドゥルーズ&ガタリは明らかに、両者の混淆・混濁・混乱の思想である。初期デリダも典型的である。
 結局、霊と魂の世界に踏み入ったのは、例外的な哲学と芸術と量子力学である。
 量子力学は虚数の世界を探究することにより、大胆に、霊の世界に接近したのである。
 ダーク・マターとは、霊的存在と言えよう。そして、ダーク・エネルギーとは、思うに、差異共立から差異共振(光)への変換のエネルギーではないだろうか。
 今はここで留める。

補足:上記において、不明確なのは、霊と霊的存在の区別である。
 マイナス1が霊的存在であり、差異共立(凸i#凹i)が霊である。霊性というとき、後者のエネルギーを指すだろう。しかしながら、霊が生まれる母体はマイナス1の霊的存在、霊的身体である。
 西洋的霊学はこれを取り逃がしているのである。つまり、自我が強いために、差異共立のみを見て、マイナス1を見ていないのである。
 キリスト教の霊性も差異共立であり、マイナス1の霊的存在、霊的身体、霊的大地を取り逃がしていると考えられる。


2010年06月23日(Wed)▲ページの先頭へ
⇒の空間位置について:media point spaceと現象物質空間
便宜的に、ガウス平面に直交するZ軸を想定する。虚数の共振によって、エネルギーが発生する。それをZ軸にとる。
 それが、ガウス平面に衝突すると想定する。それが、回転運動ないしは螺旋運動をすると考える。
 問題は、この回転運動、螺旋運動の意味である。これは、現象である。太陽系や銀河系を考えれればいい。
 問題は物質である。⇒+1の+1が地球や恒星とすればいい。しかし、「現実」は、やはり、⇒+1である。エネルギーの発現としての現象であるからである。
 そして、エネルギーはmedia pointの虚軸ゼロ点にあると言えよう。それは、本来、不可視であるが、⇒と+1との間において、可視化するのだろう。言い換えると、実軸のゼロ点で可視化すると言えよう。
 少し論点が不明瞭になっているが、結局、エネルギーと物質の関係を考えているのである。
 思うに、media pointの虚軸ゼロ点とは、共振ではなく、共立ではないのか、実軸ゼロ点で共振となり、同一性=物質化が発生するのではないのか。
 共立はマイナス1と関係しよう。だから、実軸ゼロ点で光が発生し、それが、プラス1の物質を発生させると思われる。
 これも便宜的に、下降のイメージをもとう。即ち、虚軸ゼロ点から実軸ゼロ点へとエネルギーが下降するのである。実軸ゼロ点で発光が生起する。それ以前は、いわば、ダーク・エネルギーではないのか。(私はマイナス1との関連も想定している。)
 この下降エネルギーがVector Modeを形成すると言える。そして、+1がVector Mode Material である。それは、あくまで、下降エネルギーとは別のものである。言うならば、虚エネルギーが物質形成するということであり、物質においては、虚エネルギーは消失しているということである。
 では、先の問題のイデア形態についてである。現象物質形態は+1に存するが、イデア形態、イデア原型(エイドス)は、いったい、何処に存するのか、それとも、存しないのか。
 虚軸のゼロ点、media pointにおいて、共立があり、そこにおいて、イデア形態、イデア原型があるのではないのか。
 そうならば、下降エネルギーとは、イデア形態エネルギー、イデア原型エネルギー、エイドス・エネルギーである。
 例えば、「馬」ならば、既に、「馬」のイデア形態エネルギーが虚軸のmedia pointに存するということである。
 イデア原型自体は、ひょっとしたら、マイナス1に存するのかもしれない。ともあれ、虚軸のmedia pointにおいて、賦活される以前において、イデア形態、イデア原型、エイドスは考えられよう。賦活されて、イデア形態エネルギーになると考えられる。
 もし以上のようならば、下降エネルギーは、イデア形態エネルギーであり、それが、実軸のゼロ点において、物質形態エネルギーとなり、それが、プラス1の Vector Modeを物質現象化するということになろう。
 整理すると、マイナス1が言わば卵であり、虚軸ゼロ点とイデア形態を形成し、虚軸ゼロ点での賦活化によって、イデア形態エネルギーが発生して、下降して、実軸ゼロ点で物質形態エネルギーに転移し、その結果、プラス1のVector Modeの物質形態現象を形成するということではないだろうか。
 後で再考したい。

追記:最後の仮説では、media pointは、イデア形態、イデア原型を物質化する働きをもっているということになるのではないだろうか。つまり、既に形態・原型はあるが、それを現実化するのが、media pointであり、そのエネルギーであるということではないのか。
 イデア形態、イデア原型の物質化という発想は面白い。


追記2:

オイラーの公式

e^±iθ⇒cosθ±isinθ

を利用すると、明快になるだろう。
 作業仮説的に言うが、オイラーの公式の意味する円運動であるが、右辺は物質的な現象形態であり、左辺は、精神・概念・イデア的な円イデアではないだろうか。つまり、イデア形態、イデア原型である。
 この両者の差異が最高度のポイントである。ここには、生成門氏の言う次元の違いがあるのである。絶対的間隙、絶対的次元差異があるのである。
 あるいは、生成門氏の変形

e^iθ-isinθ⇒cosθ

から、左辺に原型、右辺に物質形態を見た方が的確なのかもしれない。
 それとも、円運動は、精神界と物質界との両方の領域に渡っていると見るのか。オイラーの公式からはそのように読めるだろう。
 しかし、ポイントは⇒である。オイラーの公式の右辺の円は、物質化としての円であり、例えば、太陽、地球であり、ボール等である。しかし、左辺は、理念的な円である。イデア形態の円であると思えるのである。
 確かに、右辺には、虚数が入っているので、問題は単純ではない。だから、右辺も基本的には理念的なものではないかと思う。だから、


e^±iθ⇒cosθ±isinθ⇒(cosθ, ±sinθ)

となるのではないだろうか。(cosθ, ±sinθ)が端的に物質化された「円」であろう。
 そして、cosθ±isinθは、media pointにおける理念と物質の両方を含んでいるのではないのか。当然、虚軸と実軸の成分からそう言えるのである。
 そうならば、現象としての円ないしは円運動は、虚軸と実軸の両面に関わり、物質的であると同時に、理念的であるということなのだろうか。
 そう、オイラー公式の右辺は、どうも物質現象とは、理念的、且つ、物質的であることを示唆しているのではないだろうか。
 そして、θ=0となったとき、虚軸成分が消滅して、実数の+1となる。これが、純粋の物質なのではないだろうか。シュタイナーの言う砕け散った霊ではないだろうか。
 現象界における螺旋や円は、だから、単に物質現象ではなく、そこに精神性、霊性、イデア性、理念性を内包しているということになる。ただし、超越的に内包しているということになる。

 
参照:
2010年06月16日

シュタイナーの人智学的医術その329
[ 神秘体験空間 ]
 人体組織において、外界-自然のものが、いかに変化させられるか、例えば熱エーテルにまで変化する鉱物の場合、非常に激しい変化だが、この変容がわかると、自然的な人間、有機的に組織された人間のなかに生きるものが、霊的(精神的)な存在と、結びついていることが認められる。
http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201006160000/

シュタイナーから読み解く神秘学入門


2010年06月22日(Tue)▲ページの先頭へ
media pointの様態について:即非様態であり、共振モードと共立モードがある
今はざっと述べるが、media pointの様態であるが、(+i)*(-i)と(+i)#(-i)と仮にしたが、根本は即非様態である。そして、そこにおいて、振動によって、共振モードと共立モードになると思われる。前者は⇒+1であり、後者は→-1である。
 もっとも、これは、おおまかである。マイナス1から共立モードが生まれるのである。-1⇔(+i)#(-i)である。
 ならば、共立一如モードから共振モードが生まれることになる。即ち、-1⇔(+i)#(-i)⇒(+i)*(-i)⇒+1 である。
 とまれ、media pointのモードは即非様態で問題ないだろう。ただし、先に、共立一如モードがあり、そこから、共振モードに転換する転移状態で、即非様態が生じるように思える。言い換えると、

共立一如⇒即非様態⇒共振 

である。より丁寧に言えば、

一如(マイナス1)⇔共立⇒即非⇒共振⇒物質(プラス1) 

である。共立⇒即非⇒共振の箇所がmedia pointとほぼ言えよう。だから、即非とは、共立と共振の即非ということでもあると考えられる。これは、換言すると、差異と同一性の即非ということにもなろう。つまり、精神と物質の即非性である。
 しかし、丁寧に言うと、共立の「精神」と共振の「精神」がある。前者は霊的エネルギーであり、後者は電磁波的エネルギーであると考えられる。言い換えると、ダーク・エネルギーと光エネルギーである。
 しかしながら、先に述べたことから言えば、両者は対である。共立波動と共振波動が交互に生起するはずである。それは、闇と光の交互の二重波動ではないだろうか。
 とは言え、共立波動の方が主ではある。ダーク・エネルギーの方が光エネルギーよりも主である。
 少し混乱しているので、整理しよう。やはり、

一如(マイナス1)⇔共立⇒即非⇒共振⇒物質(プラス1) 

の流れは維持されるべきである。
 しかし、共立の状態から共振へと展開すると考えられるが、その力学がどうなのかである。
 今は作業仮説であるが、共立様態において、「空」が生じるのである。そこに対して、共振様態が発生するのである。つまり、「空」を満たすように、共振力学が生まれるのであり、それが、共振エネルギーであり、光エネルギーである。そして、物質へと転換するのである。
 そのように考えると、共立と共振の交互の生起は単純ではない。つまり、共立から共振が生起するが、しかし、次には、共立がまた生まれるからである。ならば、そこには、共立⇔共振の振動、media point vibration、即非vibrationがあることになる。
 そうすると、共立においては、闇であるが、共振において、光となるのだが、これは、闇と光との周期運動を意味するのではないだろうか。母なる闇から子なる光が生まれる。そして、子なる光が消滅して、再び、母なる闇が生まれる。そして、また、母なる闇から子なる光が生じるということではないのか。
 単純に言えば、ダーク・マター(ダーク・マザー)から物質(子)が生成しては消滅するということである。これは、エジプト神話のイシスとオシリス、ないしは、イシスとホルスの関係に見ることができよう。(それは、アンクに象徴されていると言えよう。)
 とまれ、以上から敷延されることは、ダーク・マター、ダーク・エネルギーが本源・本体・根源であり、光エネルギーや物質の現象界は二義的であるということである。
 だから、人間は一般には、言わば、media pointの穴から洩れる光(火)の世界(現象界)が世界、宇宙全体と思い、穴の外部に存する本源界(マイナス1)をまったく意識せずに、つまり、無知のまま、錯誤的に生きていることになる。
 プラトンの洞窟の比喩で言えば、壁面の影が物質+1であり、洞窟内の物自体がマイナス1(ダーク・マター)であり、洞窟の穴がmedia pointであり、外部の太陽とはDark Sunではないだろうか。思うに、ダーク・マターとダーク・エネルギーはほぼ一体と見るべきであろう。
 思うに、アナクシマンドロスの宇宙論に少し似るが、media pointの穴(孔、空)に発現する光が太陽、恒星と言えよう。しかし、その光の本体はDarn Sun、Dark Light、Spiritual Light、Dark Energyである。また、それこそ、超越的光、超越光、超光である。
 そして、それこそ、本来の神であると言えよう。D. H. ロレンスのDark Godとは、的確な表現である。アフラ・マズダーもこれだと考えられる。
 我々は真実在の光の背中を見ているに過ぎない洞窟の住人なのである。
 

参照:
イルミネーションの桜のダーク・ツリー:宇宙の穴に潜在する高次元エネルギー

散歩道にある播磨坂の桜並木の街路の中間歩道の桜の木々がイルミネーションで上部が薄いピンク色、根元の方が青や緑で装飾されていた。
 当然、桜の幹や枝は闇である。このイルミネーションの光に、ダーク・ツリーがある。後者をダークエネルギーに喩えてみた。光を支えているダーク・ツリーがあると考えた。
 そのダーク・ツリーの存在は視覚的には確認できないのである。やはり、それは、Media Pointの穴を介したイデア・エネルギーのことだろう。
 宇宙の穴に隠れた高次元のエネルギーと考えられる。

追記:以下、アナクシマンドロスの宇宙論はきわめて知的刺激をもたらす。火の車輪としての宇宙観である。これは、Media Pointで説明できそうである。また、穴が惑星等になるということであるが、この穴もMedia Pointで説明できるのかもしれない。
 イデアの振動数によって、諸惑星等ができるのではないだろうか。太陽のイデア振動数があり、地球のイデア振動数があり、等々ではないだろうか。
 イデア振動数によって、Media Pointにおいて、太陽、諸惑星、さらには、諸宇宙ができるのではないだろうか。
 つまり、端的に言えば、星なり、星雲なり、「太陽系」・惑星なりは、イデア振動数の多様性・差異に基づいて、発現・現象しているものではないだろうか。つまり、星々は、Media Pointの多様な現象ということになるのではないだろうか。今はここで留める。

続追記:物理的距離であるが、それは、ガウス平面に垂直なZ軸で表わされるのではないだろうか。つまり、3次元とは、Z軸である。そして、人間の視覚の原点の平面性とは、ガウス平面に拠ると見ていいのではないだろうか。
 遠近法は、だから、Z軸によって発生すると言えよう。後で、精緻に検討したい。


参考:

ミレトス学派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・
宇宙論

物質の性質についても3人の哲学者には意見の相違があった。それぞれが異なる宇宙観を持っていた。タレスは地球 は水の上に浮いていると、特定の星 の運動に注目し、それらを惑星 と呼んだ。一方、アナクシマンドロスは、地球は宇宙の中心にあり、宇宙は中空の同心円の車輪で、その外側は火に満たされ、さまざまな間隔で穿たれた穴から見えるその明かりが太陽や月だとした。アナクシメネスは、太陽や月は、星々で充たされた天空の覆いの回りにある、平たい円盤であるとした。(尚、赤色文字等強調はrenshi)

***********************
アナクシマンドロスの宇宙観
テーマ:太陽系/宇宙/自然
先に、古代ギリシアで、太陽が、天の穴であると述べた前ソクラテス期の哲学者の名前を忘失したが、今日、ジュンク堂で以下の本をたまたま手に取り、立ち読みして、
それが、アナクシマンドロスであることが、わかった。後で、彼の断片を引用したいが、とても、興味深いものである。
『東と西の宇宙観 西洋編』 荒川紘/著 、紀伊国屋書店
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31592508

Anaximander (Ancient Greek : Ἀναξίμανδρος, Anaximandros) (c. 610 BC–c. 546 BC) was a pre-Socratic Greek philosopher who lived in Miletus , a city of Ionia ; Milet in modern Turkey . He belonged to the Milesian school and learned the teachings of his master Thales . He succeeded him and became the second master of that school where he counted Anaximenes and Pythagoras amongst his pupils.

Little of his life and work is known today. According to available historical documents, he is the first philosopher known to have written down his studies,[2] although only one fragment of his work remains. Fragmentary testimonies found in documents after his death provide a portrait of the man.

Anaximander was one of the earliest Greek thinkers at the start of the Axial Age , the period from approximately 700 BC to 200 BC, during which similarly revolutionary thinking appeared in China, India, Iran, the Near East, and Ancient Greece. He was an early proponent of science and tried to observe and explain different aspects of the universe, with a particular interest in its origins, claiming that nature is ruled by laws, just like human societies, and anything that disturbs the balance of nature does not last long.[3] Like many thinkers of his time, Anaximander's contributions to philosophy relate to many disciplines. In astronomy , he tried to describe the mechanics of celestial bodies in relation to the Earth. In physics, his postulation that the indefinite (or apeiron ) was the source of all things led Greek philosophy to a new level of conceptual abstraction. His knowledge of geometry allowed him to introduce the gnomon in Greece. He created a map of the world that contributed greatly to the advancement of geography . He was also involved in the politics of Miletus and was sent as a leader to one of its colonies.

With his assertion that physical forces, rather than supernatural means, create order in the universe, Anaximander can be considered the first scientist. He is known to have conducted the earliest recorded scientific experiment.[4]

Cosmology and the apeiron

Anaximander's reputation is due mainly to a cosmological work, little of which remains. From the few extant fragments, we learn that he believed the beginning or first principle (arche , a word first found in Anaximander's writings, and which he probably invented) is an endless, unlimited mass (apeiron ), subject to neither old age nor decay, which perpetually yields fresh materials from which everything we can perceive is derived.

He never defined this principle precisely, and it has generally (e.g. by Aristotle and Augustine ) been understood as a sort of primal chaos . It embraced the opposites of hot and cold, wet and dry, and directed the movement of things, by which there grew up all of the host of shapes and differences which are found in the world.

Out of the vague and limitless body there sprang a central mass ― this earth of ours, cylindrical in shape, poised equidistant from surrounding orbs of fire, which had originally clung to it like the bark round a tree, until their continuity was severed, and they parted into several wheel-shaped and fire-filled bubbles of air.

Man himself and the animals had come into being by like transmutations. Mankind was supposed by Anaximander to have sprung from some other species of animals, probably aquatic. For this, even though he had no theory of natural selection , some people consider him to be evolutionary theory's most ancient proponent.

Anaximander offered up the theory of the apeiron in direct response to the earlier theory of his teacher, Thales , who had claimed that the primary substance was water . Anaximander reasoned that water cannot embrace all of the opposites found in nature ― for example, water can only be wet, never dry ― and therefore, it can not be the one primary substance. Nor could any of the other candidates, so Anaximander postulated the apeiron as a substance that, although it could not be perceived directly, could explain the opposites he could clearly see around him.


The one surviving fragment of Anaximander's book may be translated like this:
Whence things have their origin,
Thence also their destruction happens,
As is the order of things;
For they execute the sentence upon one another
- The condemnation for the crime -
In conformity with the ordinance of Time.
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Interpretations

Nietzsche , in his Philosophy in the Tragic Age of the Greeks , claimed that Anaximander was a pessimist. Anaximander asserted that the primal being of the world was state of indefiniteness. In accordance with this, anything definite has to eventually pass back into indefiniteness. In other words, Anaximander viewed "...all coming-to-be as though it were an illegitimate emancipation from eternal being, a wrong for which destruction is the only penance." (Ibid., § 4) The world of individual objects, in this way of thinking, has no worth and should perish.
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Known Works

On Nature, circa ? (fragment survives)

Subject
Philosophy
Referenced in
Simplicus
Authenticity
Likely

Map, circa ? (lost)

Subject
(First?) Map of his Known World
Referenced in
Agathemerus , Geographie informatio
Authenticity
Likely

Some of Anaximander's ideas were also preserved in Theophrastus 's (lost) history of philosophy, and re-quoted by later authors.
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Honors

* Anaximander crater on the Moon , at 66N, 48W, is named after him. For a picture, see:
* http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander.html
* The asteroid 6006 Anaximandros is also named after him.

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References

Dirk L.Couprie, Roobert Hahn, and Gerard Naddaf, 2003. 'Anaximander in Context: New Studies in the Origins of Greek Philosophy', Albany N.Y.: State University of New York Press
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See also

* Milesian school

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External links

* "http://www.utm.edu/research/iep/a/anaximan.htm " Anaximander from The Internet Encyclopedia of Philosophy.
* "http://www.dirkcouprie.nl/Anaximander-bibliography.htm " for an extensive bibliography.

This article incorporates text from the 1911 Encyclopædia Britannica , which is in the public domain .


http://ameblo.jp/renshi/entry-10007228153.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年06月20日(Sun)▲ページの先頭へ
-1は超越的存在、+1は物質、media pointの振動に双子の太陽?
後で検討したい。
 一言いうと、先に、マイナス1をDark Sun、プラス1をBright Sunとしたが、それは間違いだと思われる。
 マイナス1はダーク・マターで、超越的存在ないしは霊的存在である。そして、プラス1は端的に、物質である。
 では、Dark SunとBright Sunはどこに位置するのかが問題である。
 思うに、media pointの「両面」に存在すると思う。⇒+1の⇒の起点にBright Sunが位置し、(+i)#(-i)→-1の→の起点にDark Sunが位置するのではないだろうか。
 言い換えると、media pointとは、双子の太陽が位置するのである。明るい太陽の裏面に、不可視の太陽が位置することになる。
 そして、不可視の太陽とは、マイナス1の超越的存在と相互変換しているのではないだろうか。
 マイナス1がダーク・マターとすると、不可視の太陽はダーク・エネルギーをもつのではないだろうか。
 問題は位階である。つまり、マイナスとプラスの位階である。マイナス1が本源であるから、Dark Sunが主であり、Bright Sunは従である。前者が本体であり、後者は現象・仮象である。また、前者を霊的太陽、後者を「物質」的太陽と呼べよう。
 前者が本体であるから、D. H. ロレンスが我々はDark Sunの背中を見ているというのは正しいと言える。本体の裏面を見ているということができるのである。プラトンの洞窟の比喩で言えば、洞窟の壁面の影である。
 さて、+iの原光と-iの原闇であるが、それと以上のこととの関係はどうなるだろうか。
 思うに、+iの「光」とは、⇒のBright Sunと通じ、-iの「闇」とは、→のDark Sunと通じている。思うに、一種、陰陽的な捩れではないだろうか。


マイナス1と個・差異
先に、マイナス1の一如・一体性の超越性においては、個・差異がなくなると述べたが、疑問に思えるので、検討したい。
 思えば、既述したが、昨年の夏の「川」と「わたし」の一如体験を考察すべきである。そのとき、「川」は「川」の個・差異があり、「わたし」は「わたし」の個・差異があったのであり、個・差異でありつつ、一如・一体であるという体験なのである。だから、個・差異は共立的に一如・一体的であると言えよう。
 共振の場合、個・差異(+i、-i)が⇒+1で、プラス1の同一性(物質)へと転化してしまうのである。すなわち、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」であり、両者は別個の物質である、という物質現象になると考えられる。そこには、起点の個・差異性が消失しているのである。つまり、虚数的差異性が排除されるのである。
 ということで、マイナス1の超越性においても、いわば、差異一如、差異一体という様態で、個・差異は存すると考えられるのである。
 もっとも、最初期のマイナス1においては、その点では疑問がある。
 思うに、

-1=(+i)#(-i) 

(但し、#は仮に商を意味する記号とする)がマイナス1の超越界において成立していると考えることはできるだろう。
 精確に表記するなら、-1⇔(+i)#(-i) であろうか。ここでは、マイナス1の超越的存在において、差異極性が常時生成消滅していると考えられる。
 後で更に追究したい。


2010年06月19日(Sat)▲ページの先頭へ
マイナス1のコスモス:ダーク・コスモスとは何か
神秘主義者の方が、通常の哲学者より、マイナス1を直感していただろう。
 物質的宇宙でなく、霊的宇宙がある。いわば、ダーク・コスモスである。これは、一如の宇宙である。
 ウロボロスという象徴もそれを指しているだろう。問題は、マイナス1から虚数対極が生まれて、また、個・自己が発生する。個・自己はmedia pointと言えよう。
 しかしながら、media point以前のマイナス1が本源・超越界にあるが、そこから見ると、自己・個は言わば、後天的なものである。
 つまり、一切の根源として、マイナス1の母、原母様態があるのである。ここでは、自己・個はない。
 これをどう考えるべきか。結局、ダーク・ボディとして、人間、地球、宇宙は一体、一如であるということだろう。
 それが、原初である。それから、media pointの発動、そして、現象界の発生がある。
 自己・個はmedia pointにおいて、実に不可思議な感覚をもつはずである。個でありつつ、他者でありつつ、また、物質でもあり、身体でもあり、またさらには、個も他者もないという感覚をもつからである。
 そして、個・自己の視点から見ると、マイナス1は、いわば、「無」と思えるはずである。また、とりわけ、共振同一性の父権的な視点からは、マイナス1は恐怖の対象であり、当然、暴力的に否定して排除する、つまり、殺戮すべき存在である。それが、例えば、バビロニア神話に象徴されていると考えられる。
 これまで、近代的自我・近代合理主義はmedia pointを抑圧すると述べてきたが、精確に言えば、マイナス1を抑圧してきたのである。
 また、デリダの決定不能性の思想は、ここにおいて見られるべきである。マイナス1は、同一性の思想にとっては、正に、決定不能であるからである。ただし、デリダは超越性を否定しているので、明確にマイナス1を捉えられなかったと言える。
 とまれ、トランス・モダンは、ダーク・マザーというべきマイナス1を肯定する社会となるのである。
 これは、差異共立の社会だと思う。差異共振の場合は、同一性(自我)が発現して、闘争戦争が起きるのである。差異共立は一如でもあり、この一如性が平和融合性をもたらすと思われるのである。
 ところで、ダーク・マザー、ダーク・コスモスの力学を解明する必要がある。私は、ダーク・エネルギーを説いたが、それの力学を知りたいのである。
 物質科学ではなく、ダーク・マターの科学を知りたいのである。ここで、クンダリニーの超越的位階スペクトルを考えたい。
 それは、一見、マイナス1の半直線に形成されるようであるが、しかしながら、物質身体にも関係するのであるから、マイナス1とプラス1の実軸に形成されるのではないあろうか。
 しかしながら、虚軸に形成されると考える方が正しいかもしれない。つまり、虚軸に7ステージ(7階梯、又は、7つの「惑星」)の位階スペクトルが形成されると見るのである。それを、7「惑星」とすれば、いわば、占星術的原型が生起するのではないだろうか。そして、黄金比にあるように正五角形(五芒星)の形成、そして、4つの象限の分割が形成される。思うに、オイラーの公式のθに、π/nを入れて、nを自然数ないしは整数とすれば、多様な分割が可能になるのではないだろうか。今はここで留める。

追記:ダーク・エネルギーとしての「気」をどう考えるのか。「気」の感知の仕組みはどういうものか。差異共立エネルギーを「気」としよう。それは、マイナス1の展開からmedia pointにおいて、発生するものと思われる。
 シュタイナーがエーテル体(生命体)と呼ぶものが「気」に当たると言えよう。そうすると、media pointにおいて、エーテル体=「気」が形成され、その後、差異共振して光・電磁波が形成されるのではないだろうか。
 差異共立と差異共振の違いを明確にするべきである。media pointにおいて、両者の二重性があるが、その関係であるが、それは、振動、周期的に交互に形成されるのではないだろうか。
 牽引の場合は差異共振性が、斥力の場合は差異共振性が形成されるのではないのか。前者はプラス1となり、後者はマイナス1となる。いわば、ここには、呼吸があると言えよう。プラスとマイナスの呼吸のリズム、ないしは、鼓動である。そして、これが、生命ではないのか。
 とまれ、両者の関係はどういうものだろうか。やはり、絶対的差異の関係であり、両者、不連続であろう。時計回りに90度回転、反時計回りに90度回転ということではないだろうか。

 
参考:
ヤーコプ・ベーメ
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ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme,1575年 - 1624 年 11月17日 )は、ドイツ の神秘主義者である。ドイツ語 で主に著述した最初の思想家でもあり、信奉者から付けられた「フィロソフス・テウトニクス」(ドイツの哲人)という異名でも知られる。ルター派 教義を背景とし、パラケルスス ら新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握と「神の自己産出」という哲学史上稀な概念の展開は、敬虔主義やドイツ観念論 といった近世のドイツ思想だけでなく、近代の神秘学 にも影響を与えている。
ヤーコプ・ベーメ

主著は『アウローラ 』、『シグナトゥーラ・レールム』、『大いなる神秘』、『キリストへの道』。

生涯 [編集 ]

1575 年 、北ドイツ ・オーバーラウジッツ のナイセ川 流域の都市ゲルリッツ の近郊、アルト・ザイデンベルク(Alt Seidenberg)に生まれる。ここは現在、ポーランド 領スリクフ (Sulików )の一部になっている(ザイデンベルク自体もポーランド領になっており、ポーランド語 名はザヴィドゥフ Zawidów )。

靴職人としての修養を終えたベーメは、1599年 以降ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける。自己の神秘体験をつづった『アウローラ』によって一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する。

ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、1612年 最初の著作『アウローラ 』が完成する。ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「12年もの間それ(=神秘体験)に関わった」(アブラハム・フォン・ゾンマーフェルト充書簡、ポイケルト版ファクシミリ全集第10巻収録) と述べる。正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとってこの作業が困難を極めたことは容易に想像される。ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って晦渋であることを認めているほどである。しかし同時にこの著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも広く認められている。ベーメは上掲の書簡において『アウローラ』について「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。

以下同書簡に沿いつつ、『アウローラ』以降のベーメの状況について述べる。

ベーメははじめ己の体験の覚書として『アウローラ』を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われてその手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、『アウローラ』はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然 と人間 の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義 をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端 思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった。

一方でベーメの『アウローラ』を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術 など当時の新プラトン主義 的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語 はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルスス の著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し言葉を練る助けとなった。

ベーメは和解の協約を守り新たな著述を行うことはなかったが、その後もリヒターは教会での攻撃をやめず、市民を扇動してベーメを悩ませた。また友人たちもベーメに『アウローラ』に続く著作を所望した。ベーメは自らの沈黙が平和をもたらさぬことを知るばかりでなく、この期間に熟成していった自己の思想をむしろ積極的に表明することが自己の使命であると確信するに到る。1618年 ベーメは著述を再開し、1624年の死に至るまでの6年間に『シグナトゥーラ・レールム』を始めとする幾つかの大著、および付随する小論文、信奉者宛の書簡などで、精力的にその思想を語りだしていく。

幾つかの小論を集めて出版を勧めるものがあり1623年 に『キリストへの道』を出版する。この著作は『アウローラ』同様、激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われて本格的な著述をする暇を取れないばかりか、ゲルリッツに家族を残してひとり退去し、ドレスデン に一時滞在することになる。しばらくドレスデンに滞在した後、ゲルリッツに戻ったベーメは病を得て没した。
思想 [編集 ]

ベーメは生涯、自身の自覚としてはルター派 の信仰に忠実でありつづけた。ベーメの思想の第一の背景としてはベーメが教会 を通して受けた宗教教育が挙げられる。しばしば自然哲学 として解釈されるその思想も、ベーメの意図としては晩年の著作の題名が示すように『キリストへの道』として語りだされている。しかしその思想はベーメが正規の教育を受けなかったがゆえに、伝統的なキリスト教 の形而上学 の神概念を超出している。

ベーメ研究者であるグルンスキーは、著述再開後1618年から1624年までのベーメの思想の展開を4期に分け、それぞれを波の襲来にたとえている。うち第4の波、ベーメの最晩年は『アウローラ』発表時と似たような騒動の渦中にあり、そのためベーメは書簡や自身への論難を反駁する小論の著述に追われ、自己の思想の全貌を語りうる量の著述を残していない。したがってベーメの思想の展開は、それ以前の3つの波、さらに最初の諸述『アウローラ』を中心として語られざるを得ない。

グルンスキーによれば、第1波は著述再開から1622年 までの時期で、この時期のもっとも整った書は『三つの諸原理について』(Von den drei Prinzipien)である。続く第2 波は1621 年 早くから1622年夏までであり、『シグナトゥーラ・レールム』執筆の時期に当たる。なお、第3波は1622年秋から1623年 秋までに当たり、ここにはベーメ最大の著作『大いなる神秘』を含む諸著作が含まれる。

ベーメは自己の思想の連続性に強い確信を抱いていた。先に触れた書簡でも、『アウローラ』の著述の晦渋さと未成熟を反省する一方で、そこに述べられた内容は『アウローラ』以前の神秘体験の数秒のうちにまったき仕方で与えられており、それを開陳するために必要な言語を欠いていたのだと述懐している。しかし研究者の間では、この一貫性を認めつつも、『アウローラ』・『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をそれぞれ頂点となす思想の泳動をベーメのうちにみることが一般的である。
神の顕現 [編集 ]

ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきものであった。ベーメはあらゆる存在の中に神のドラマを見て、わたしたち人間すべては神の歓びの調べをかなでる楽器の弦であるという。「すべてのものは神である。」と言ってしまえばそれは単純な汎神論になる。しかしベーメの汎神論は決して単純ではない。名状しがたきヴィジョンをどうにか捉えようと特殊な用語を駆使し、神の現われをダイナミックに描写しようとする彼の思想は複雑難解なものである。その記述は神の起源にまでさかのぼる。神の奥の奥、三位一体 の神の根源をベーメは無底と呼ぶ。無底とは底なきもの、他の何かによって根拠づけられることがなく、また底がないのであるから何かを根拠づけることもない。

このどこまで行っても何もない無の中には他の「あるもの」を求めるあこがれがあるという。ただし、あこがれは無限に広がっており、中心もなければ形もない。あこがれの海、そこには何もないのだから何も見ず、何も映さない。いわばこれは目でない目、鏡でない鏡である。あこがれから外に向かっていこうとする運動を意志というが、この意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる。意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じないという。

意志は底に立つことで外に向かうことができるようになる。底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる。あるものがあるものとして認識されるためには区別が必要なのである。ベーメによれば神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする。さて、中心と円周が明確となることによって智慧の鏡と呼ばれるものが生じる。鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、それ自体は何かを産むことのない受動的なものである。智慧の鏡は別名ソフィアという。ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女 の性質をもつ無である。無であるというのはソフィアが存在から自由なものだからだ。この自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、鏡に自分自身の姿を映す。ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する。イマギナチオによって意志は孕み、精神としての神と被造物の原形が鏡において直観されるのである。
永遠の自然 [編集 ]

これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成されるのだが、この後直接に我々が目にするような自然が創造されるというのではない。次いでベーメが語るのは、可視的自然の根源たる永遠の自然である。彼は七つの霊もしくは性質によって万物が形成されるという。性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)である。これは単なる語呂合にも思われるかもしれないが、これから述べるようにベーメにとって言葉やひびきは存在の本質と深く関わったものである。内容からすれば、存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは始元の融合からの乖離として苦であるという意味にとれる。

まず第一の性質、それは欲望であり、内側に引きこもる働きを持っている。渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇となる。既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理である。

第二の性質は第一のものと逆に外へ向かう運動、流動性。これはつきさして暴れ、引きこもる力に抗して上昇、逃走しようとする。この性質は『アウロラ』では甘さと呼ばれ、他では苦さと呼ばれる。

第三は上の二つの力の張り合いである不安。内へ向かう力と外へ向かう力は互いに反発しあい、一方が強くなれば他方も強まるので安定することがない。それは相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある。不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す。以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源である。

さて、第四の性質は熱とか火花と呼ばれ、闇を焼き尽くして光を生じさせる。この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、死のうちから生命が現れる。不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、そして輝かしい生命を生む。

第五の性質は光であり、熱から出たものでありながらも焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい。この性質は歓びと恵みの原理であって、ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生する。愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく。

この広がり、すなわち第六の性質はひびき、音、そしてことばである。内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られるのである。ひびきは認識を可能にし、自然の理を明らかにして知と関係する。精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、理に至って自らの展開を十分に認識する。

そして最後の第七性質においてこれまで展開してきたものに形が与えられる。このようにベーメにとっての世界の創造とは、神が一気に制作することではなく、神の想像の働きが自己を展開してゆくことである。その際否定的な要素が大きな役割を果たしているのに注目すべきである。世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠なのである。

ドイツ観念論の完成者ヘーゲル はベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現してゆくという彼の哲学はベーメの内にその原形を有していると言える。ただしヘーゲルはベーメの「混乱したドイツ語」には辟易していた。この項では概略を見てきたが実際にはベーメの思想はさらに複雑で、錬金術の特殊な用語や記号との対応があり、言葉の使用法は通常のものとは大きく離れている。世界の内に甘さや苦さが働いていると言われても、普通の人間は奇妙な印象を受けるだろう。彼が神秘学にかぶれた「無学な靴職人」とそしられるとしても、その晦渋な文章を考えれば理由がないわけではない。
堕落と救済 [編集 ]

ところで現実の世界を見渡すとき、そこには悪があふれている。ベーメはこの悪の起源についても語る。伝統的な神学上の問題として、完全な善である神が世界を創造したというならなぜ世界には悪が存在するのかというものがある。 ベーメの神観では、神は純粋な善であるわけではなく、暗い面をも持っているわけだが、それが直接にこの世の悪の原因となっているわけではない。可視的自然の創造以前に創造された天使の世界に悪の起源があるというのである。天使は怒りの暗い火と愛の明るい火を精神の原理とするものとして創造された。怒りを愛に従わせることが善なのであるが、自由な意志にとっては逆も可能である。そして天使は自由な意志を持っていた。大天使のひとり、ルシファーは自由をマイナス方向に向けて用いた。

第一性質と第二性質には悪が潜在的に存在していたが、ルシファーはこの二つの性質に対し自らが神たらんとするイマギナチオを向けたのである。ルシファーの神への反逆はマイナスの創造として自由のエネルギーを逆流させ、闇の鏡をつくりだす。闇の鏡はソフィアの鏡と異なって多様な虚像を映し出す。これが空想である。ルシファーは闇の鏡をのぞきこんで空想に踊らされ、ますますエゴを肥大化させる。かくして天使の国は怒りの暗い火が燃える地獄と明るい光の天国に分裂してしまう。

しかし神は世界の混乱をそのままにしておかない。ルシファーの闇の創造に対して再び光の創造が発動する。創世紀第一章で神が「光あれ」と言ったところがこの創造である。ここで時間と空間、可視的自然、そして人間が創造される。最初の人間アダムは神が自己を実現してきた最後の到達点であって、その中にはすべてが見出され、天使にも勝るというまさに至高の存在である。当初のアダムは男と女の両方の性質を合わせ持つ完全な統一体であった。だが、アダムもやがて堕落する。神から愛され、自らも自らを愛する素晴らしきアダムを悪魔は手に入れたいと思った。悪魔はアダムを誘惑し、不完全なる多の世界にアダムの心を向かわせる。

この堕落によりアダムの中の女性の部分である乙女ソフィアは天に帰ってしまった。それとともにアダムを中心として調和していた宇宙は統一を失って複雑な多の世界と化す。アダムは孤独となり、神はそれを憐れんで新たなる女性、エヴァを創造した。しかしエヴァはソフィアの完全な代理とはなりえない。アダムはエヴァの中にソフィアを求め、男女はこうして惹かれ合うようになるものの、性によって苦しみもするのである。

だが、アダムの堕落はルシファーのそれと違う点がある。ルシファーが自らの自由意志で神に反逆したのに対し、アダムはそそのかされて罠に落ちたに過ぎない。そして人間は時間の中の存在である。時間には対立するものを調停する働きがあるので、人間の罪は許される可能性があるのだ。それに対しルシファーは永遠の存在であるため、罪が贖われるということがない。神は堕落した人間を救うため、救世主キリストを遣わす。キリストはエヴァのソフィア化である処女マリアから生まれたので、アダムが喪失した男性−女性の両極性を持っている。いわばキリストとは第二のアダムである。キリストは堕落のそもそもの原因である自由意志を放棄し、完全な受動性のもとに十字架にかけられる。この第二のアダムたるキリストに倣うことで我々は救われるとベーメは述べている。キリストの十字架を背負い、すすんで迫害や嘲笑に会い殺される(火にくべられる薪となる)ことで、火も焼き尽くすことができない新しい人間として生まれることができるという。
参考文献 [編集 ]

ベーメの著書(日本語訳)

* 『アウローラ―明け初める東天の紅 』 薗田坦 訳、創文社(ドイツ神秘主義叢書) 2000年2月
* 『キリストへの道』 福島正彦 訳、松籟社 1991年7月
* 『ベーメ小論集』 薗田坦、岡村康夫、松山康国 訳、創文社(ドイツ神秘主義叢書) 1994年4月

その他

* 『ヤコブ・ベーメ開けゆく次元』 南原実 著、牧神社 1976年
* 『ルネサンスの思想家たち』 野田又夫 著、岩波書店 1963年9月

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A1 」より作成
カテゴリ : ドイツ史の人物 | カバラ | キリスト教神秘思想家 | 1575年生 | 1624年没


検討問題:物質とは何か
霊学者のシュタイナーは、自身の霊学の究極的な目的は物質とは何かを探究することにあると、一見霊学に矛盾するような、瞠目すべきことを述べている。
 今は予見を述べるだけである。物質はPS理論では、これまでの定置では、+1(以下、プラス1)である。つまり、同一性的身体である。
 問題は身体である。身体の真実在とは、マイナス1である。だから、マイナス1とプラス1との関係を明確にすることで、本件が理解できるようになるはずである。
 思うに、要、中枢は、media pointである。ここは、いわば、森羅万象の大中心、中核、核心である。この変容点、変換点で、マイナス1の超越的存在(超越的身体、ダーク・マター、ダーク・ボディー)が、プラス1の物質に変換されると考えられる。
 言い換えると、マイナス1からプラス1へと正負の符合が変わるということである。思うに、1が、「物質」形成に関わるものである。だから、マイナス1の1は超越界における「物質」、つまり、ダーク・マターなのであり、他方、プラス1の1とは、現象界における「物質」、即ち、通常の物質(ホワイト・マターとも呼べよう)であると考えられるのである。
 ということならば、マイナス1とプラス1とはmedia pointを介して、超越的切断をもって、対応している存在であると言えよう。原像と現象像である。
 また、先に、マイナス1とプラス1に、極性を見たことを考えると、両者には、言うならば、超越的極性、超越的両極性、超越的双極性があると思われる。
 思うに、マイナス1が超越的元素ならば、プラス1は物質的元素である。
 近代自然科学は、⇒+1の+1を探究し、相対性理論、量子力学の現代自然科学は、⇒を探究して来て、今や、マイナス1の領域に探究が進展したと言えよう。
 最後に、物質とは何かを端的に言うならば、それは、虚数対の共振様態のことである。より精確に言えば、超越的存在がmedia pointの虚数対の共振を生起させるが、その共振とは、同一性共振である。この同一性が物質なのである。つまり、超越的存在を原同一性(原一如性、原一体性)とするならば、原同一性(マイナス1)をmedia pointにおいて変容・変換・転換・転移したものである共振的同一性が物質であるということになるのではないだろうか。
 また、しかしながら、極性を考えると、プラス1は、マイナス1と呼応しているはずである。
 この点について考えると、⇒の方向は物質の方向、重力の方向である。そして、⇒の起点のmedia pointに太陽が存するだろう。つまり、プラスの方向が重力の方向、鉛直線の方向であり、マイナスの方向が反重力の方向、超越性の方向である。前者は地の方向であり、後者は天の方向である。
 そう、ここで草木を考えると、生起されたmedia pointにおいて、種子の芽生えの原型を見ることができよう。
 そして、根は地の方向、プラスの方向へと伸び、芽は天の方向、マイナスの方向に伸長する。(そして、それは、Vector Modeを形成するのである。)
 ということは、media pointにおいて、⇔の極性作用が働いていると考えられるのである。
 だから、マイナス1とプラス1との極性とは、media pointの極性(それは、二重極性である。つまり、+iと-iの極性であり、また、プラス1とマイナス1との極性である。)ということになるのである。
 【やはり、これは、古代エジプトのアンクのループのある十字が的確に象徴していると考えられる。
 ここで、易を考えると、それは、正しくは、二重極性と見るべきであろう。天(マイナス)と地(プラス)があり、また、陰陽(陰爻と陽爻)があるのである。だから、陰陽記号の見方は、一重極性であってはならないはずである。この点については、後で検討したい。】


検討問題:マイナス1とMedia Point
先に、ざっと、マイナス1をmedia pointが内に包む、内包すると述べたが、この点を明確にしたいが、今は、予見のみ述べておく。
 マイナス1をダーク・マターないしはダーク・ボディーと仮説している。そして、それは、「気」のエネルギーをもつと考えている。つまり、「ダーク・エネルギー」をもつということになる。
 問題は、この「ダーク・エネルギー」のmedia pointにおける変換様態がどのようなものであるのかということである。言い換えると、「気」と光の関係力学である。
 【今、ふと思ったのであるが、アフラ・マズダーとは、マイナス1ではないのかということである。D. H. ロレンスのdark sun である。結局、このマイナス1の「光」が、一般には、見えないのではないだろうか。ならば、これを超越光としてもいいのである。dark lightとしての超越光である。
 これまで、超越光とは、虚軸の光として捉えたのであるが、マイナス1としての超越光を捉えることができよう。これはおいておく。】
 マイナス1から虚数の対が生起するのであるが、その虚数対が光なのである。つまり、dark lightがbright lightを産むのということになる。
 しかしながら、マイナス1はマイナス1であり、虚数や⇒や+1ではない。ここには、境界、不連続性があると言えよう。
 つまり、マイナス1のエネルギーは虚数光を産み出すものの、それ自体は純粋に存続していると考えられるのである。
 即ち、ここにも即非様態があるということである。つまり、マイナス1は虚数対であり、且つ、そうではないという関係である。
 そうすると、即非様態とは、虚数対(+i, -i)にも存するが、それ以外にも、マイナス1と虚数にも存すると言えよう。
 その意味で、超越光という概念は成立すると言えよう。つまり、dark light(dark energy)がmedia pointでbright lightになるが、media pointにおいて、dark lightを「感覚」すると考えられるからである。感覚というよりは、霊覚であろう。つまり、霊覚としての超越光が感じられるということである。
 今、また想起したのであるが、この霊覚には、他者の「心」も入るのではないだろうか。
 それは当然であろう。マイナス1とは、心と身体との根源であるからである。言わば、心体と言えよう。だから、霊覚をもてば、他者の心が「視覚」できるのである。(以前、小泉元首相をペテン師であると直観したが、それは、霊覚に拠るということになるだろう。)
 マイナス1はダーク・ボディーと言えるが、同時に、ダーク・スピリットである。
 思うに、幽体という言葉を使用してもいいのだろう。しかしながら、語弊があるので、霊体とした方がいいかもしれない。spiritual body、スピリチュアル・ボディー、霊的身体である。霊身である。
 私は、先に、虚軸に情報があると言ったが、そうではなく、マイナス1に根源的情報があると思われる。
 そう、DNAもここに根拠があると思う。DNA自体は、マイナス1の情報のmedia point化だと思われるのである。つまり、遺伝子はマイナス1にあるということである。
 まだ述べることがあるが、今はここで留める。

追記:dark matter(body)/dark energyであるが、電磁波とは、結局、dark energyの外装・表面・外観ではないのか。思えば、D. H. ロレンスは、「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」というようなことを述べていたが、この光の背中が電磁波ではないのか。
 真実在の光とは、マイナス1の光=超越光ではないのか。


検討問題:マイナス1の豊饒性
検討問題:マイナス1の豊饒性
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録
結局、すべては、マイナス1に還元されよう。今は、私は、マイナス1に魅了されている。
 これまでは、超越光という観念に付き纏われていたが、今は、それから脱して、超越性と光を分離している。
 Kaisetsu氏の唱える「超越的存在」が正に、マイナス1である。これは、豊饒以外のないものではないと直感するのである。天才的な芸術家、詩人、画家、アーティスト等が追究したものがこれである。
 この点ではたいがいの哲学者は失格である。科学者であるが、現代の科学者、つまり、量子力学を基礎とした科学者はこれに通ずるのである。
 民衆(愚民ではない)も本来、これに通じているのである。ただし、イデオロギーに操作されてきたのである。
 さて、私は、マイナス1をダーク・ボディーであると今は考えている。
 この思想は、実に、東洋哲学なのである。そう、東洋文化とは、基本的にマイナス1をベースにしているのであるが、それが、未分化的様態のために、近代合理主義へと倒錯しているのである。 
 途中。

追記:先に述べたように、マイナス1とは母なるものである。折口信夫の「妣の国」である。プラトンのコーラである。
 西洋文明はハードな父権文明なので、これを正確に把握できなったのである。
 この認識は、トランス・モダン・フィロソフィー=トランス・モダン・サイエンスを意味する。
 私の直感では、沖縄文化とは、マイナス1の文化である。これは、実に母権的文化である。


レディー・ガガとバッハ:根源的他者=超越的存在の探究
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
私はAFNで聴いたのみなので、以下の評価に対して、保留するのが倫理的である。
 とまれ、レディー・ガガは近代/ポスト・モダンが失ったものを「現代」的に取り戻そうとしているのは事実である。
 私は音楽的には強くバッハ音楽が感じる。バロックとは、端的に言えば、東洋的美学である。それは、古典的な秩序とは異質な精神性である。
 イタリアの背景をもつレディー・ガガは、マドンナを換骨奪胎して、バッハを現代的に探究しているのである。
 バッハ音楽とは、実に、media pointの追求である。これは、他者の追求である。他者とは根源的には、超越的存在である。

自らの内に“聖なるもの”を取り込むという象徴 & Lady Gaga - Alejandro
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 



RPEの予測が崩壊する:北野氏もこれで終わり:トランス・モダン路線がわかっていない
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
北野氏の唯物論的史観には、以前から共感できる部分と懐疑的部分があった。
 今や、北野氏の世界政治分析は破綻したと言えよう。結局、北野氏は、ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」(これが真正なオバマ路線である)の区別が見えていないのである。


2010/06/18 17:16
【RPE】★イラン問題でわかる世界情勢の変化〜崩壊する多極主義陣営
・・・・・

▼崩壊する多極主義陣営


倒幕時代、原油をユーロ・円で売るイランは、中国・ロシアの心強い
パートナーでした。

しかし、倒幕が完了すると、イランは用済みになった。

また、アメリカ一極主義に対抗する勢力として現れた「多極主義陣
営」も、もはや存在意義を失いつつあります。

最近SCOで非常に「象徴的」できごとがありました。



<上海協力機構>核開発でイラン加盟に制限 首脳会議で方針

6月11日19時30分配信 毎日新聞

 【モスクワ大前仁】中露と中央アジア4カ国で構成する上海協力機
構(SCO)は11日、ウズベキスタンの首都タシケントで首脳会議を
開いた。

会議では「国連安保理制裁を受けている国や紛争にかかわる国の
正式加盟を認めない」方針を決定し、中露両国はSCO準加盟国の
イランがウラン濃縮を放棄しない状況に対し、厳しいメッセージを送
った。>



イランはSCOの正式加盟国になれないそうです。

「中ロ両国が」とありますが、実際にはロシアが積極的にイランはず
しに動いた。

アメリカ幕府が崩壊した今、「反米の砦」としてのSCOは求心力を失
いつつあるのです。


一体今の時代は何なのでしょうか?


アメリカ幕府崩壊後の「混乱期」とよぶことができるでしょう。

それで、世界の国々が迷っているのです。

日本は、「アメリカと中国どっちにつくのがお得かな?」と迷っている。

ロシアも迷っている。

インドも迷っている。


で、結局世界はどっちにむかっていくの?

ここでは長くなりすぎるので書ききれません。

長期的展望を知りたいからは、北野の新刊「国家の気概」をご一読
ください。

現在第4章まで読めます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


1章では世界史における日本の役割を明らかにし、「自虐史観」か
ら永遠におさらばしてもらいました。

2章では、20世紀大国の興亡を例に、「人類歴史に流れる法則性」
を明らかにしました。

3章では、1991〜2008年、アメリカ一極時代のはじまりから終焉ま
でをとりあげます。

【NEW!】4章では、否定できない中国のダークサイドに触れています。
ロシア政治経済ジャーナル

参考:
イラン制裁継続の裏側
2010年6月18日  田中 宇

 旧ソ連のすぐ南にあるイランは、歴史的にロシアの影響圏に隣接している。近代史の前半、イランは、アフガニスタンなどと並び、ロシア(ソ連)と英国がぶつかり合う地政学的な角逐の場だった。20世紀初頭、弱体化しつつあった英国は、1902年に日英同盟を結んで日本を帝政ロシアと04年に戦わせた後、弱まったロシアを誘ってイランを英露で分割する地政学的な線引きを、07年の英露協商として行った(英国はテヘランをロシアに与えて懐柔した)。

 2度の大戦の後、イランは親米の王国となった。王制は1979年のイスラム革命で倒され、イランは反米になったが、敵として振る舞う米イスラエルの(自覚なき)エージェントだった疑いもあるホメイニ師は、宗教政治を嫌うソ連との対立を解かず、イランは反米反ソのイスラム主義を貫いた。冷戦後、ロシアは弱体化して影響圏を縮小し、中央アジア諸国は市場主義経済を導入して親米的になったが、911やイラク侵攻の後、米国の単独覇権主義が失敗するとともに、中央アジアにおけるロシアの影響力が復活した。米国がイラクの次にイランを敵視し、イランに核兵器開発の濡れ衣をかけ続けたことは、ロシアにとって漁夫の利を得る格好の機会で、ロシアはイランに武器や原子炉を売る話を持ち掛けて接近した。

 米イスラエルがイランにかけた核兵器疑惑が濡れ衣だということがしだいに明らかになり、中東全域で米英の影響力が弱まって、ロシアにとって20世紀初頭以来の、イランや中東に進出する好機が来ている。国連安保理の常任理事国であるロシアが、イラン制裁を画策する米国と真っ向から対立し、イランにかけられた濡れ衣を晴らせば、イランだけでなくイスラム世界全域においてロシアに対する賞賛が一気に強まったはずだ。(先日それをやったトルコのエルドアン首相は、今や「サラディン以来」ともてはやされるイスラム世界の英雄だ)。

 しかし意外にもロシアは、濡れ衣と知りつつ、米国のイラン制裁に協力する姿勢を崩していない。6月9日、国連安保理で可決された4回目のイラン制裁決議に反対したのは、独自の和解案をイランと締結したトルコとブラジルだけで、ロシアも中国も、米国提案のイラン制裁に賛成した。(US Sees Iran, Afghanistan as Gains of Russia Reset )

 ロシアのプーチンは、大統領だった07年秋にイランを訪問して「イランが核兵器を開発している証拠は何もない」とぶち上げた。だが今回は米国の言いなりになったので、イランのアハマディネジャド大統領は「ロシアは米国の圧力に屈した」と非難した。ロシア外務省は「(アハマディネジャドは)デマを言っている」と非難し返した。ロシアとイランの関係は数年ぶりの悪さになった。(イラン問題で自滅するアメリカ )(Iran and Russia Clash in Worst Row in Years )('Russia's anti-Iran remarks to harm itself' )

 なぜロシアは、米国の濡れ衣につき合うのか。何か裏があるのではないかと思っていたら、安保理が制裁決議を可決した直後、ロシアは、それまで凍結していた、イランに地対空ミサイルS300や原子炉を売る話を再び進めると発表した。国連制裁は、ロシアがイランに地対空ミサイルや原子炉を売ることを禁じていない。ロシアは、イランに対する自国の利権が失われないよう、米国が提案したイラン制裁を骨抜きにして効力を薄めた上で賛成し、可決させた。ロシアだけでなく、中国もこの戦略に乗っていた。中国は「制裁ではなく外交交渉で解決すべきだ」と言い続けたが、最終的に制裁決議に賛成した。(Russia says in talks with Iran on new nuclear plants )

▼制裁決議後に拡大するイランとのビジネス

 ロシアと中国は、イランの核兵器開疑惑が濡れ衣だと暴露する正論で対応せず、制裁を骨抜きにしてもらう代わりに米国の濡れ衣に協力する道を選んだ。米国では政界関係者の多くが、オバマが中露の協力を得るためにイラン制裁を骨抜きにせざるを得なかったことを知っている。(U.N. vote on Iran sanctions not a clear-cut win for Obama )(Beyond Iran Sanctions That Probably Won't Work, Plans B, C, D )

 中露が米国の濡れ衣に協力した理由として考えられるものは、いくつかある。その一つは、ロシアからイランへの地対空ミサイルや原子炉販売に象徴される商業利権である。米国が欧日などの同盟国を従えてイラン制裁を続けてくれた方が、石油ガスなどイランの利権が中露の側に転がり込むので、あえて制裁を潰さず残し、欧米が制裁によってイランの利権から撤退する分をすべて中露がいただく戦略をとったと考えられる。

http://tanakanews.com/100618iran.htm


トランス・モダンかポスト・モダンかの境界は明快になっているだろう
テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築
【The Automated Payment Transact ion (APT) 】 金融デジタル・トランザクション税への憧憬 from 裏切られた革命?2009

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年06月16日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:正物質と負物質(ダーク・マター、物自体、ダーク・ボディー)
例えば、眼前に樹木を見ているとしよう。桜の木にしよう。それは現象であり、そこに正物質を自然科学は見るのである。
 しかしながら、PS理論から言うと、桜の木の本体は負物質、マイナス1である。ダーク・マターとしての桜の木である。ダーク・ボディーと呼んでもいいだろう。
 直感では、このダーク・ボディーから「気」が発せられているのである。通常の自然科学は正物質しか見ないから、「気」を理解できないのである。
 おそらく、ダーク・ボディーからの「気」(ダーク・エネルギー?)は、media pointを媒体とするので、電磁波も形成するのである。つまり、言うならば、電磁波に包まれた、内包された「気」が発動されていると思われるのである。
 だから、自然科学では、電磁波を観測できるが、「気」自体は当然、観測できないのである。しかしながら、人間身体は本来、ダーク・ボディーなので、「ダーク・エネルギー」の「気」を感知できると考えられるのである。
 では、ダーク・ボディーないしはダーク・マターと通常の物質の関係はどうなのか。これについて後で考察を行いたい。

参考:

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 漫画・アニメドラゴンボール での概念については「気 (ドラゴンボール) 」をご覧ください。

気(き)とは、中国思想や中医学 (漢方医学 )などの用語の一つ。一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこすとされている。しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素と定義する解釈もある。宇宙生成論や存在論 でも論じられた。
字解・語源 [編集 ]
ウィクショナリー
ウィクショナリー に気 、気 の項目があります。

正字は「氣」(異体字「炁」)。日本での通用の字体「気」は漢字制限 (当用漢字 、常用漢字 、教育漢字 )による略字。現代中国語では「气」が通用される。

説文解字 では「氣」は「饋客芻米也,從米气聲。」とし、段玉裁 注では「气氣古今字,自以氣爲雲气字,乃又作餼爲廩氣字矣。气本雲气,引伸爲凡气之偁。」という。雲気の意であった气が本字で、芻米の意の「氣」が音通でつかわれるようになった、その他の意味は雲気の意味からの派生であるというのである。

また、同様に説文では「气」は「雲气也,象形。」とある。しかし、雲気の意義から気息の意義が引き出されるというのはやや解しがたい。また「氣」は「愾」であり、「氣息」の義であるという古字書もあるため、少なくとも気息の意義も本来の意義であったとみなすべきであると思われる。(「一語の辞典 気」参照)
概説 [編集 ]

気はラテン語 spiritus やギリシア語 pneuma(プネウマ)、ヘブライ語 ruah(ルーアハ )、あるいはサンスクリット prana(プラーナ )と同じく、生命力や聖なるものとして捉えられた気息、つまり息の概念がかかわっている。しかしそうした霊的・生命的気息の概念が、雲気・水蒸気と区別されずに捉えられた大気の概念とひとつのものであるとみなされることによってはじめて、思想上の概念としての「気」が成立する。

雲は大気の凝結として捉えられ、風は大気の流動であり、その同じ大気が呼吸されることで体内に充満し、循環して、身体を賦活する生命力として働く。つまり、ミクロコスモスである人間身体の呼吸とマクロコスモスである自然の気象との間に、大気を通じて、ダイナミックな流動性としての連続性と対応を見出し、そこに霊的で生命的な原理を見るというアイディアが、気という概念の原型なのである。

一方では人間は息をすることで生きているという素朴な経験事実から、人間を内側から満たし、それに生き物としての勢力や元気を与えている、あるいはそもそも活かしているものが気息であるという概念が生まれる。そしてまたそこには、精神性、霊的な次元も、生命的な次元と区別されずに含まれている。ただし、精神的な次元は、後代には理の概念によって総括され、生命的な力としてのニュアンスのほうが強まっていく。

他方では、息は大気と連続的なものであるから、気象、すなわち天気などの自然の流動とも関係付けられ、その原理であるとも考えられていく。自然のマクロな事象の動的原理としての大気という経験的事実から、大気にかかわる気象関連の現象だけでなく、あらゆる自然現象も、ひとつの気の流動・離合集散によって説明される。この次元では気はアルケー としてのエーテル である。

この霊的な生命力として把握された気息であり、かつ万象の変化流動の原理でもあるという原点から、ついには、生命力を与えるエネルギー的なものであるのみならず、物の素材的な基礎、普遍的な媒質とまで宋学では考えられるようになった。

こうした由来ゆえに、気は、一方では霊的・生命的・動的な原理としての形而上的側面をもちながら、他方では、具体的で普遍的な素材(ヒュレー)的基体でありかつ普遍的なエーテル的媒質であるがゆえに、物質的な形而下的側面も持つという二重性を持つことになった。気は、物に宿り、それを動かすエネルギー的原理であると同時に、その物を構成し、素材となっている普遍的物質でもある。従って、たとえば気一元論は、かならずしも唯物論とはいえない。
中医学の気 [編集 ]

中医学 おける気はその主な活動部位により名称が異なっている。

原気(元気)
両親から受け継いだ先天の精が変化生成したもの。生命活動の原動力となる。原気は、中焦からもたらされる後天の精により補給、臍下丹田(陰交穴 、気海穴 、石門穴 、関元穴 のあたり)に集まり、三焦 の働きで経絡を介し、全身を循って、臓腑・器官・組織に活力を与えるものである。原気が旺盛なら下腹部に張りがあって、体内の臓腑・器官も力強く働くため、活気があって粘り強く、疾病にもかかりにくい。原気が衰えると、下腹部が軟弱となり、臓腑・器官も弱く障害を受けやすくなるので、活動も弱々しく、疲れやすく、冷えて、疾病にかかりやすい。
宗気
肺において後天の精と天の気が交わって、胸中(膻中 )に集まる気である。宗気は、五臓の心 と肺 (六腑 においては三焦の内、上焦)と関係が深く、臓の活動を支えている気(心の拍動を力強く、規則正しく行わせたり、呼吸や発声をしっかりとさせる気)である。宗気が不足すれば、呼吸の異常(少気、短気など)が起こったり、語声に力がなくて、細くなったり、心の拍動が弱まったり、規律性を失ったり(脈の結、代など)する。
営気(栄気)
営気は、後天の精から得られる陰性の気(水穀の精気)である。営気は、津液 を血 に変化させて、血とともに脈中を行き、1日に人体を50回以上も循って臓腑や手足などの内外諸器官を栄養して、それらの活動を支える。
衛気
衛気は、後天の精から得られる陽性の気(水穀の悍気)である。衛気は、脈外を素早く循る気で、特に体表近くで活動、肌膚を温め(体温保持)、腠理を開闔(皮膚の収縮と弛緩)し、外邪に対する防衛的な役割をしている。衛気は、昼間に人体の陽の部(体表部)を25周して、夜間に人体の陰の部(体内部)を25周する。
真気(正気)
真気は、先天の気と後天の気からなるもの。人体の正常な活動を支える気である。

推動作用
人の成長・発育や、一切の生理的活動及び新陳代謝をする働きで、原気、宗気、営気、衛気、臓腑の気など全ての気に備わっている。腎 に関係する。
温煦作用
臓腑・器官などの一切の組織を温め、体温を保持する働きで、特に衛気・原気・腎気と関係が深い。
防御作用
体表において、外邪の侵入を防御する働きで、特に衛気と関係が深い。
固摂作用
血・津液・精液などをつなぎ留める働きで、血が脈外にもれない(脾の固摂(統血作用))ようにしたり、汗や尿がむやみに漏れ出る(遺精→腎の固摂作用)を防いだりする。営気、衛気、脾気、腎気と関係が深い。
気化作用
精が気に、気が津液や血に変化したり、津液が汗や尿になって体外へ排泄する働きで、営気、衛気、宗気、脾気、肺気、腎気と関係が深い。

臓気
五臓におさまり、それぞれの経絡の活動を支えている気である。
経気
経絡中を行き全身を循り、それぞれの経絡の活動を支えている気である。
胃気
胃を働かせる気、胃の働きによって得られた後天の気のことで、有無は予後に重要な影響を及ぼすとされ、診断上(特に脈診)も重要視されている。脈は中脈で診る。

中医学における気の利用 [編集 ]

中医学は漢方 、鍼灸 、気功 などに分類される。

漢方 (薬膳 などを含む)は、生薬 などを患者に服用させることで、臓器 のバランスを整え、経絡 の流れを改善し、体内の気の流れを良くして病気を改善させる方法。

鍼灸は、経絡上にあるツボを刺激し、気の流れを整え、臓器の調整を行い、病気を改善させる方法。

気功は、通じにくくなった経絡中の気の流れを、より直接的に開通させて病気を改善させるとともに、患者自身が体内の気の流れを良くしてバランスをはかれるように調整する方法である。
道家の気 [編集 ]

戦国時代 末期、『荘子 』では気の集合離散が万物の生成消滅という変化を起こしていると説明している。また陰陽二気という相反する性質をもった気によって多様な世界が形作られるとした。そして、気の上位に「道」という根元的な実在があるとされ、『老子 』 42章の「道生一 一生二 二生三 三生萬物 萬物負陰而抱(河上公註本では袌)陽 沖氣以爲和 」道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、冲気もって和を為す、と相まって根元的な実在である道と万物を構成する気という宇宙生成論が唱えられた。

一方で道家の思想からは後に人体に流れる気への着目により「仙人 」の養生術としての導引が生まれた。これが近代中国では宗教色を廃し気功 になる。
儒教の気 [編集 ]

儒教 の経書で宇宙生成論を扱うのは『易経 』の伝である。繋辞上伝には「太極 →両儀→四象 →八卦 」とあり、漢代には「両儀」は陰と陽の二気に、宇宙の根元である「太極」には春秋学 の「元」の思想から生まれた「元気」に措定され、「元気→陰陽→四時→ 万物」というモデルが提出された。

宋代になると、周敦頤 が「太極図 」に基づいて『太極図説 』を著し、道教 の「無極」を取り入れて「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた。周敦頤は後に朱熹 によって取り上げられることになるが、朱熹は道教的な「無」を嫌い、「無極よりして太極をなす」を「無極にして太極」と無理やり置き換えている。

張載 は、世界・万物は気で構成されており、世界には気が離散して流動していて、気が凝固すると万物ができると考えた。また気のありかたは人間の道徳性と関わり、流動性の高く本来的なあり方を「天地の性」として優れたものとし、凝固した現実的なあり方を「気質の性」として劣ったものとした。

南宋 の朱熹は張載の気と程頤 ・程 の理 を融合して理気二元論を唱えた。世界にアプリオリ に存在し、気の集合離散を秩序づける法則・理法を理と呼び、理先気後を主張した。朱熹は、人間の死を気の離散とし、いったん離散した気は元に戻らないと考えた。しかし、弟子に「では、祖先祭祀はどうして行うのか」と問い質され、これは朱子学 の重大な理論上の欠陥となった。

明代中期になると理先気後に対して理気相即が唱えられるようになり、理は気の条理(いわばイデアではなく形相)とされるようになった。このように理気論は気一元論へと収束されていった。そして、清の戴震にいたっては理は気によって生じるアポステリオリ なものとされるに至った。

日本では伊藤仁斎 が同様の主張を唱えた。
武術の気 [編集 ]

武術 では、独自の「気」の概念・理論を持つ (日本武術 では合気道 が有名) 。これを解りやすく他の者に伝える為、宗教的な気の捉え方を合体させた流派、門派も存在する。また、遠当 (とおあて)という相手の身体に接触せず相手を倒す技術が存在する。これは離れた相手に気を当てるといった技術である。遠当を放って相手の姿勢を崩した後に弓で矢を放って射止めたと言われている。なお、同名 (遠当) の遠距離攻撃術もある。

武術における気とは、体の「伸筋の力」、「張る力」、「重心移動の力」といわれることが多い。これらを鍛える為、様々な鍛錬(中国武術 では練功 )を行う。また、「力む」と屈筋に力が入ってしまい、「張る力」を阻害するため逆効果であるともされる。尚、伸筋を働かせても、「力む」感じは無く、「張る」感じがするだけである。

練功の基本段階では、相当中医学 の気血などの理論体系を基にしており、まずは健康目的で中国武術を始める人もいる。その典型なのが太極拳 であり、中国政府によりまとめられた二十四式太極拳 の普及によって、太極拳は体操のようなもので武術ではないという誤解すらあるが、これは太極拳という名前だけが余りにも有名になりすぎたためである(内家拳 を参照)。太極拳をはじめとする中国武術の流派の多くは、発勁 を修得することを入門者の目標としており、そのために見た目の単調さとは裏腹に、つらい姿勢での練功が繰り返し積み重ねられる。

中国武術の勁については「発勁 」を参照
日本語の表現としての気 [編集 ]

日本語には気と言う言葉を使う表現がいくつかある。中国哲学の気の概念のうち、物の構成要素、素材としての意味の用法はほとんどなく、「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主である。気になる、気に障る、気が散る、気をやる(セックスにおいてオルガスムスに達すること)など。

なお、慣用句 「病は気から 」の「気」は、本来は、中国哲学の気であるが、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解される。
気の問題点 [編集 ]

主に金銭の授受が含まれる医療の面で、問題となるケースがある。西洋医療には、「気」という概念はないが、前述のように中医学領域において「気」という概念が取り扱われることがある。また気功 療法においては気の概念は無くてはならないものである。

* 各分野によって都合の良い解釈がされており、統一した概念がなく、曖昧な存在となっている。医学の分野に限っても、漢方における「気」と気功 でいう「気」の間には大きな乖離がある。

詳細は「気功 」を参照
* 凝固して可視的な物質という概念もあるが、数値化して測定することができなく、存在を科学的に証明できていない。
* 上記にも関連するが、科学的手法で解析された学術論文が皆無であること。[1]
* 治療や指導が、医師 や鍼灸師 以外によって為されるケースも少なくないこと。

参考文献 [編集 ]

* 佐藤喜代治 著『気 一語の辞典』(三省堂 、1996年)ISBN 4385422206
* 永井均、小林康夫、大澤真幸、山本ひろ子、中島隆博、中島義道、河本英夫 編『哲学の木』(講談社 、2002年)ISBN 4062110806
* 本山博 著『東洋医学 気の流れの測定・診断と治療』(宗教心理出版、1985年1月)

索引 [編集 ]

1. ^ 医学中央雑誌で検索しても2005年〜2010年で該当する論文は1件のみである。;定方美恵子(新潟大学 医学部保健学科), 山田幸子, 「看護療法としての気功 その可能性を模索する」日本看護技術学会学術集会講演抄録集6回 Page32(2007.10)

外部リンク [編集 ]

* 「気」について 風水と陰陽五行説(図解)

関連項目 [編集 ]

* プラーナ
* ヴァーストゥ・シャーストラ

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97 」より作成
カテゴリ : 気功 | 道教 | 儒教 | 錬丹術 | 伝統中国医学 | 身体論 | 中国の言葉の文化 | 日本語の語句



ダークエネルギー

ダークエネルギー (dark energy) とは宇宙に存在するエネルギーの半分以上を占めるとされるが正体が明らかでないエネルギーである。「真空 のエネルギー」等がそうとされる。
概要 [編集 ]

ダークエネルギーとは、宇宙 全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギー である。宇宙論 研究者のマイケル・ターナーが最初に作った言葉であるとされる。現在観測されている宇宙の加速膨張や、宇宙の大半の質量 が正体不明であるという観測事実を説明するために、宇宙論の標準的な理論(ロバートソン-ウォーカー計量 )にダークエネルギーを加えるのが現在最もポピュラーな手法である。この新しい宇宙論の標準モデルをΛ- CDMモデル と呼ぶ。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数 とクインテセンス (quintessence) がある。前者は静的であり後者は動的である。この二つを区別するためには、宇宙膨張を高い精度で測定し、膨張速度が時間とともにどのように変化しているかを調べる必要がある。このような高精度の観測を行うことは観測的宇宙論の主要な研究課題の一つである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC


発想の訂正:超越光は光と超越的存在の混淆であり、未分化な発想である
media pointにおける発光現象とは、やはり、虚軸を含めるべきである。そうすると、私が超越光と言ったものは、光と超越性(マイナス1)の混淆であると考えられる。
 光は光である。超越性は超越性である。
 「天」と「地」であるが、これは、実に両極的である。マイナス1が「天」になるし、また、「地」になる。同様に、プラス1が「地」になるし、また、「天」になる。
 植物、例えば、草木を考えよう。それは、「天」へ伸びるが、同時に、根は「地」へ伸びるのである。つまり、生命の両極的志向があるのである。
 とまれ、草木の「天」への志向とは、マイナス1の志向であるとする。超越界(根源的自然界)への志向である。しかしながら、大地・地球はマイナス1を本源としている。つまり、根は「地」へと志向するが、同時に、それは、マイナス1を志向していることになろう。
 この「矛盾」であるが、これは、⇒+1にそもそも潜んでいるのではないか。何故なら、⇒は光であり、+1は物質であるからである。
 つまり、⇒は「天」の方向であるのに、+1は「地」ないしは重力を意味するからである。そうすると、天地と地天の双極があることになる。そうすると、「天」の極(マイナス1)と「地」の極(プラス1)とは、両極性を形成しているということではないのか。(そう、これは、磁力ではないのか。それに対して、虚軸は電気力ではないのか。すると、磁界が電界に変換し、発動したMedia Pointで、電磁波が形成されるということではないのか。)
 天地の磁界を想定すれば、この天と地の両極性は説明ができよう。

 ところで、先に、マイナス1への再帰・回帰運動について述べたが、思うに、これが、古代エジプトのアンクのループになるのではないあろうか。つまり、マイナス1への半直線がループになり、残りの三つの半直線が十字を形成するということである。

アンク拡大

http://www.karakusamon.com/egypt/ankh2.html

アンクについて

エジプト学の入門書、現在最も信頼できるエジプト神話の本の用語集から:
ankhのヒエログリフ
アンフ  (この本での表記はアンクではありませんでした)
古代エジプトの美術や文書でおなじみの、円形の取っ手の付いた十字。「生命」を意味するヒエログリフで、神の標識。

「図説 エジプトの神々事典 」ステファヌ ロッシーニ (著), リュト シュマン=アンテルム (著), St´ephane Rossini (原著), Ruth Schumann‐Antelme (原著), 矢島 文夫 (翻訳), 吉田 春美 (翻訳)

http://www.karakusamon.com/egypt/ankh.html


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2010年06月15日(Tue)▲ページの先頭へ
思考実験:media-pointにおける二つ、又は三つの「闇」
-1→Media Point⇒+1

とするならば、Media Pointにおいて、少なくとも二種類の「闇」が生ずるだろう。
 一つは、根源・起源・本源のマイナス1の「闇」であり、もう一つは、不可視光(超越光)の「闇」である。(Kaisetsu氏の凹iの「闇」を加えれば、三つの「闇」となろう。)
 問題は、私が直感するマイナス1の大地/身体の霊性であるが、その直感は凹iの「闇」ないしは超越光の「闇」を感知しているのではないのかという疑問がある。
 思うに、その直感は確かに、超越光に関係していようが、それを超えた(超越した)「もの」ないしは「存在」を察知していると思えるのである。それが、マイナス1ということになるのである。【私の経験の、真夏の砂浜の頭上で見た太陽の「闇」、暗みであるが、それは、凹iの可能性がある。何故なら、それは、実体があるというより、影像であるからである。ここで、文学作品、ファンタジー作品『ピーター・パン(ピーターとウェンディ)』のネバーランドNeverlandであるが、それは、マイナス1の可能性があると思う。】
 もし、そうならば、Media Pointの「感覚」、直感において、それらの「闇」を混同する恐れがあり、結局、混同されてきたと考えられる。
 例えば、キリスト教の「神の国」であるが、それは、マイナス1と超越光が混同されているのではないだろうか。そう、キリスト教は「母」=マイナス1と「父」=凸i(ないしは超越光)を混同しているのである。というか、「母」=マイナス1を意識から排除して、民衆の「母」=マイナス1のヴィジョン・イメージを利用して、それに「父」=凸iをかぶせているように思えるのである。(「子」とは、⇒の光であり、それは、超越光に拠るのである。しかしながら、超越光とは、共振的エネルギーであるが、キリスト教は凸iの傾斜である「父」が光もいわば簒奪しているのである。ついでに、「聖霊」について言うと、それは、直感では、マイナス1のエネルギー、即ち、ダーク・エネルギーである。あるいは、「母」の霊性のエネルギーである。しかしながら、キリスト教は三位一体のドグマによって、「聖霊」の「母」性=マイナス1を否定していると考えられる。もっとも、「子」も本来、「母」の「子」であるが、それを「父」の「子」とねじ曲げていると考えられるのである。)
 仏教の仏国土や浄土であるが、これも混同があると思う。これは、やはり、本来、「母」=マイナス1と考えられる。折口信夫の常世であるが、これも「母」=マイナス1であろう。折口信夫は天才的に「妣が国」と述べている。
 そう、ここで、宗教の問題性に触れると、問題は、マイナス1や超越光を感受しながらも、一般に人間は凸iに傾斜し、同一性と連続しているので、つまり、自我同一性に傾斜しているので、霊性や超越性が利己主義のために使われる危険が常にあるのであり、結局のところ、宗教はエゴイズム、権力に仕えてきたのである。
 ところで、-1→Media Point⇒+1の図式であるが、自己ないしは個を考えると、マイナス1においては、自己や個はないと思う。だから、別の起源を考えないといけない。
 それは、Media Pointの虚軸、虚界に存するのではないだろうか。つまり、+iと-iの「陰陽」が情報として「虚在」していて、ここに自己・個の情報があるのではないだろうか。
 この虚情報=自己・個情報が、マイナス1のダーク・マターと融合して、知的身体が産まれるのではないだろうか。マイナス1が卵ならば、虚情報は精子である。
 思うに、超越的学習であるが、それは、やはり、Media Pointで行われるのだろう。通常、目覚めた日昼においては、意識は⇒+1であり、+1に傾斜しているだろう。つまり、同一性・自我・物質の意識であり、睡眠時には、+1から離脱して(幽体離脱)、Media Pointへ反転して、超越的学習をするのだと思う。
 そうすると、人間の認識であるが、+iと-iの極性意識をもつが、通常日常は、⇒+1の現象的、物質的知覚に囚われているので、+iと-iの極性認識、 Media Point認識をもつことはないのである。夜、睡眠時において、⇒+1の現象認識から脱却して、Media Pointの超越的認識を行っていると思われる。私の場合、夢において、それが漠然と知覚されるようである。

追記:記すのを忘れていたが、media-pointには、差異共振(積:⇒+1)と同時に、差異共立(商:→-1)が生起しているのではないだろうか。
 これは微妙な問題なので、丁寧に考えよう。マイナス1からmedia pointが産まれるとするならば、そこには、+iと-iの即非・共振が生起して、発光し、現象が産まれる。
 しかしながら、牽引の場合、共振とするならば、斥力の場合、共立となると考えられる。それは、商である。つまり、(+i)÷(-i)→-1である。
 つまり、マイナス1の超越的世界は、現象界を産出すると同時に、再帰=回帰運動もしているということではないだろうか。この再帰・回帰運動が、例えば、植物が開花して、結実するというのは、この再帰・回帰運動に拠るのではないだろうか。そうすると、天はマイナス1の方位ではないのか。地はプラス1ではないのか。つまり、重力の方向である。後でさらに検討したい。

 
参考:
妣が国へ・常世へ
異郷意識の起伏
折口信夫



     一

われ/\の祖(オヤ)たちが、まだ、青雲のふる郷を夢みて居た昔から、此話ははじまる。而(しか)も、 とんぼう髷を頂に据ゑた祖父(ヂヾ)・曾祖父(ヒヂヾ)の代まで、萌えては朽ち、絶えては※(「((山/追のつくり)+辛)/子」、第4水準2-5-90)(ひこば)えして、思へば、長い年月を、民族の心の波の畦(ウネ)りに連れて、起伏して来た感情ではある。開化の光りは、わたつみの胸を、一挙にあさましい干潟とした。併(しか)し見よ。そこりに揺るゝなごりには、既に業(スデ)に、波の穂うつ明日(アス)の兆しを浮べて居るではないか。われ/\の考へは、竟(ツヒ)に我々の考へである。誠に、人やりならぬ我が心である。けれども、見ぬ世の祖々(オヤ/\)の考へを、今の見方に引き入れて調節すると言ふことは、其が譬ひ、よい事であるにしても、尠(すくな)くとも真実ではない。幾多の祖先精霊(シヤウリヤウ)をとまどひさせた明治の御代の伴(バン)大納言殿は、見飽きる程見て来た。せめて、心の世界だけでなりと、知らぬ間のとてつもない出世に、苔の下の長夜(チヤウヤ)の熟睡(ウマイ)を驚したくないものである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html


2010年06月14日(Mon)▲ページの先頭へ
マイナス1と大地/身体の関連の試論:マイナス1の超越的存在が「母」・玄牝・ダーク・マターである
以下、Kaisetsu氏/生成門氏に拠るPS理論的ガウス平面世界解釈図である。実に簡潔、明快、明晰であり、トランス・モダン的フィロソフィーの概念図とも言えよう。
 さて、私は、先に簡単に提起したマイナス1と大地/身体との関係を追究したいと考えている。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10562297019.html
 Kaisetsu氏のガウス平面世界概念図では、マイナス1は超越的存在となっている。それは、先には、ダーク・マターであると述べた。
 しかるに、私の直感では、マイナス1の超越的存在と大地ないしは身体はなんらか通じているのである。
 一般的には、大地や身体は物質ということで、プラス1に関係すると考えられよう。
 しかしながら、私は大地や身体は単に物質ではないと直感しているのである。
 ある意味で、マイナス1の超越的存在は、宗教・神話的な意味で混沌と呼んでもいいのかもしれない。
 有り体に言えば、+iと-iとの未分化混沌のような様態である。あるいは、融合、+iと-iとの融合体と言ってもいいかもしれない。(思うに、不連続的差異以前であるが、魂質という概念を考えたことがある。精神であり、且つ、同時に、質料であるという様態である。)
 とまれ、それは、+iと-iがいわば、共立している様態である。これは、積ではなく、商である。即ち、(+i)商(-i)→-1である。そして、これをひっくり返すと、-1→(+i)商(-i)である。〔推察するに、この商がMedia Pointで積に変化すると、共振が起こり、現象が生起(発光)するのではないだろうか。〕この起源の力学はおいておこう。
 さて、これまで、身体を私は⇒+1と考えてきた。これは、光エネルギー⇒と物質+1との有機体である。そして、物質とは、光エネルギーの帰結(エンテレケイア)と考えてきた。つまり、光エネルギーの残骸である。
 しかしながら、そうすると、身体の実質は光エネルギーになる。しかし、それは、精神的なものとなってしまい、身体本来ではありえないだろう。
 私の直感はマイナス1がもつ霊性なのである。それは、これは、いわゆる、精神とは異なるのである。つまり、光の精神性とは異なるのである。
 商の共立空間、あるいは、精密に言うと、未分化の空間である。これは一見、即非に似ているが、そうではなく、AとBは対であるが、AとBは分離していずに、AとBが融合しているのである。しかしながら、融合した中にありながら、AとBは対を形成しているのである。おそらく、Kaisetsu氏が提起した東アジアの神話の卵のイメージに近いと言えば、いいように思われる。黄身と白身が一如である卵殻をもつ空間である。
 この未分化混沌のエネルギーがマイナス1の霊性ではないだろうか。これは、いわば、media pointのプラスのエネルギーとはまったく異質である。思うに、これをダーク・エネルギーと呼んでいいのではないだろうか。ならば、ダーク・エネルギーがマイナス1の霊性ということになる。
 思うに、未分化混沌を、仮に、proto +iとproto -iの未分化様態として考えるならば、(proto +i) ∞ (proto -i)と表記できよう。∞は未分化混沌様態を意味するが、商である。だから、(proto +i) ∞ (proto -i)→-1となるのである。(そうすると、マイナス1に原虚軸のようなものを考えなくてはならないかもしれない。新ガウス平面である)
 とまれ、この仮説された未分化混沌のエネルギー(ダーク・エネルギー)=マイナス1の霊性であるが、これが、media pointで、+iと-iとに明確に分化するのではないだろか。そして、極性を形成するのであり、そこでは、即非・共振的様態を形成すると考えられる。
 そう考えると、太極の陰陽はmedia pointではなく、未分化混沌のマイナス1に見た方が的確かもしれないが、これは保留にしておく。
 とまれ、media pointの即非共振によって光エネルギーが生まれて(「光あれ」)、現象界が誕生するのである。虚軸界の不可視光があり、それが、現象光(太陽光)になるのである。そして、不可視光とは、アフラ・マズダー、大日如来、天照大御神、キリスト等である。
 しかしながら、その不可視光(⇒現象光)はすべてではないのである。
 なぜなら、その根源・起源として、マイナス1のエネルギーがあるからである。言い換えると、「ダーク・エネルギー」がmedia pointの即非共振エネルギーを創造しているのであり、前者が後者の母胎なのである。思うに、media pointは即非共振は「父」であり、マイナス1はプラトンのコーラが示唆するように「母」と呼べよう。
 思うに、これまでの宗教・神話的哲学は、「母」、あるいは、「母」と「父」、そして、「母」と「父」と「子」の関係を捉え損なってきたと言えよう。
 父権的神話、例えば、バビロニアの神話(英雄マルドゥクが母なる怪物ティアマトを殺害する)では、「母」なる未分化混沌を否定し、破壊するのである。つまり、マイナス1をmedia pointの即非共振的同一性志向性(光エネルギー)によって否定、破壊、排除、隠蔽するのである。
 これまで、「母」なるものは、物質materiaと捉えられてきたが、そうではなく、マイナス1の超越的存在=未分化混沌体と捉えられなくてはならないと考えられるのである。
 物質とは、「父」が同一性のフレーム(言語同一性メディア)によってマイナス1の超越的存在を切り分けたときに生じるものである。つまり、物質的身体、同一性的身体である。
 さて、ここで、当初の大地と身体について考察するのによい時機である。
 結局のところ、大地と身体とは本来、マイナス1の超越的存在=未分化混沌体なのである。そこには、未だ、精神も物質もないし、また、虚数的極性や media pointもないのである。ただ、「黄身」と「白身」の未分化的卵、あるいは、ダーク・マターがあるだけであり、そこには、ダーク・エネルギー=霊性が充溢しているのである(参照:プレロマ)。
 結局、大地や身体とはマイナス1=超越的存在であり、未分化混沌体であり、「母」、母胎・母体である。
 これこそ、東洋的アジア的非西洋的文化・文明の原点であると考えられる。
 思うに、D. H. ロレンスが説くdark sunやdark Godとは、根本的にはマイナス1=超越的存在=未分化混沌体を指している考えれるのである。
 現代宇宙論がダーク・マター、ダーク・エネルギーを仮説しているのは、まったく正鵠を射ていると考えられる。そして、ダーク・マターやダーク・エネルギーこそ、いわば、ホワイト・マターやホワイト・エネルギーの究極の根源と考えられるのである。
 
************************

[415] ガウス平面と世界解釈の仕方
From: 生成門


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094793890
シムダンス「四次元能」


2010年06月13日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:日本的霊性の大地とはマイナス1ではないのか。
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10562297019.html

マイナス1という根源はいろいろな問題を解決するように思える。例えば、大地の問題である。
 これは、ギリシア神話では、デーメーテールであり、エレウシスの秘儀に通じる。
 また、日本神話では、国之常立神ではないだろうか。
 D.H.ロレンスは大地にdark sunを見ているが、これは、正に、マイナス1ではないのか。根源の大地=太陽ではないのか。
 鈴木大拙の『日本的霊性』は大地の霊性を説いているのであり、それは、正に、マイナス1の身体的霊性だと思う。
 今はここで留める。

参考:
鈴木大拙「日本的霊性(にほんてきれいせい)」を読む
麻布善福寺に建っている親鸞聖人像  仏教とははたして何であるのか。仏教に関する本がそれこそ夥しいほどに出版されているのは、畢竟仏教とはよくわからないものだからではないだろうか。
 仏教は宗教なのか哲学なのかさえよくわからない。哲学ならばそこに論理が存在するはずだが、一般の論理は仏教においては使いものにならない。
 「日本的霊性」の著者である鈴木大拙は大乗仏教の根本原理を「即非の論理」と呼んでいる。これは肯定が否定で、否定が肯定だということで論理でも何でもない。たとえば「世界は即ち世界に非ず、是れ世界なり」の類である。この考えが仏教の根本原理といわれてもとまどうばかりである。

 「日本的霊性」は日本の仏教について書かれたものである。たいへん難解ではあるが、鈴木の語り口が面白く、親しみの湧く書である。
 鈴木は日本の仏教は日本的霊性が覚醒されたときにおこったといっている。そして、日本的霊性をもって日本の仏教を解明していく。
 まず、霊性とは何かというと、次のように説明する。

<なにか2つのものを包んで、2つのものがひっきょうずるに2つでなくて1つであり、また1つであってそのまま2つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。>
http://meityo.blog44.fc2.com/blog-entry-17.html
名著を読む

国之常立神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

国之常立神(くにのとこたちのかみ)は、日本神話 に登場する神 である。『古事記 』では国之常立神、『日本書紀 』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)。

天地開闢 の際に出現した神である。『古事記』においては神世七代 の一番目に現れた神で、別天津神 の最後の天之常立神 (あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神 (性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『日本書紀』本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道 では天之御中主神 、豊受大神 とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道 では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道 諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教 では、根本神である艮の金神 は国之常立神と同一神であるとされ、1944年 (昭和 19 年)6月10日 に千葉県 成田市 台方の麻賀多神社 で岡本天明 に降ろされた日月神示 もこの神によるものとされる。

国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。

* 山王神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 倉馳神社 (岩手県 胆沢郡 金ケ崎町 )
* 荒沢神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 戸倉神社 (宮城県 本吉郡 南三陸町 )
* 蘇羽鷹神社 (千葉県 松戸市 )
* 日枝神社 (東京都 千代田区 )
* 大鳥神社 (東京都 目黒区 )
* 御嶽神社 (長野県 木曽郡 王滝村 )
* 山津照神社 (滋賀県 米原市 )
* 城南宮 (京都府 京都市 伏見区 )
* 玉置神社 (奈良県 吉野郡 十津川村 )
* 熊野速玉大社 (和歌山県 新宮市 )の相殿
* 若桜神社 (鳥取県 八頭郡 若桜町 )
* 小村神社 (高知県 高岡郡 日高村 )

関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B9%8B%E5%B8%B8%E7%AB%8B%E7%A5%9E 」より作成

デーメーテール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デーメーテール女神

デーメーテール(古典ギリシア語 :Δημήτηρ, Demeter)は、ギリシア神話 に登場する女神 である。長母音 を省略してデメテルとも表記される。豊穣神であり、穀物 の栽培を人間に教えた神 とされる。オリュンポス十二神 の一柱。その名は古典ギリシア語で「母なる大地」を意味する。「掟をもたらす者」という意味の「デーメーテール・テスモポリス」という添名がある。
概説 [編集 ]

クロノス とレアー の娘で、ゼウス の姉にあたる。ゼウスとの間に娘コレー (後の冥府の王妃ペルセポネー )をもうけたが、その経緯はゼウスがデーメーテールに無理やり迫った挙句、無理やり子供を作らされた為、ゼウスにあまり良い印象を持っていなかった(ただし子供であるペルセポネーには愛情を注いでいた)。さらに兄弟の海神ポセイドーン からも無理強いされ、秘儀の女神デスポイアと1頭の名馬アレイオーン (アリーオーン)を生んだ。最も有名な恋人のイーアシオーン はゼウスの嫉妬によって稲妻に撃たれた。
神話 [編集 ]
ペルセポネーの略奪 [編集 ]
ペルセポネー の略奪

デーメーテールの娘コレー (ペルセポネー )は、行方が分からなくなる。何か悪いことに巻き込まれたのではないかと考えたデーメーテールは、犯罪に詳しい神と言われるヘカテー に問い掛ける。ヘカテーは「ペルセポネーはハーデース に冥界に連れ去られた」と答えた。女神は、ハーデースがペルセポネーを誘拐した事を知る。しかし、ゼウス達他の兄弟と違い純真で心優しい性格であるハーデースがそんなことをするはずがないと考えたデーメーテールは、地上の事は何でも知っているとされるヘーリオス に確認を求めた。

ヘーリオスは、「ゼウスが、ペルセポネーを后に迎えたいと言ったハーデースを唆し拉致させた」と女神に教える。デーメーテールはゼウスがこの誘拐に加担したことを知る(詳細は、ハーデース 、ペルセポネー の項を参照)。デーメーテールはゼウスに抗議するが、ゼウスは「冥界の王であるハーデースならば夫として不釣合いではないだろう」と言い訳する。デーメーテールはこれに激怒し、天界を捨て老女に変身しアッティカ のエレウシース に下った。この放浪の間のデーメーテールの行動についての伝説が各所に残されている。
ペルセポネーの帰還 [編集 ]

デーメーテールが地を放浪する間、大地は荒廃した。ゼウスは虹の女神イーリス を遣わしデーメーテールを説得したが、女神は怒りを解かず、コレー (ペルセポネー)の帰還を求め、それを条件として大地の豊穣神としての管掌を果たすことを答える。

ゼウスはハーデースに女神の意向を伝え、ペルセポネーを地上に帰還させた。ペルセポネーの帰還はデーメーテールに喜びをもたらし、それによって大地は再び豊穣と実りを取り戻した。これは穀物が地下に播かれ、再び芽吹いて現れることを象徴する神話とされる。

・・・・・
秘儀の二柱女神 [編集 ]

デーメーテールの祭儀の中心はアッティカ のエレウシース にあり、その秘儀は有名であった。他に「二柱の女神」の名でギリシア各地でコレー (ペルセポネー)と共に祀られた。アテーナイ にはテスモポリア祭 というデーメーテールのための祭があり、豊穣を祈るために、秋(ピュアネプシオン月11日から13日)に女達が祝った。アリストパネース の『女だけの祭』はこのテスモポリア祭を題材とする。
デー メーテールとポセイドーン [編集 ]

アルカディア に伝わる神話では、デーメーテールは娘を捜して地上を放浪していた際、ポセイドーン に迫られた。デーメーテールは彼を避けて牝馬 の姿となり、オンコス 王の馬群の中に紛れ込んだ。しかしポセイドーンは彼女を発見し、自分も牡馬 の姿となって女神と交わった。

この結果、デーメーテールは一人の娘と名馬アレイオーン を生んだ。娘の名はデスポイナ と呼ばれるが、これは単に「女主人」の意に過ぎず、実際の名は密儀の参加者以外には明らかにされていない。この時のポセイドーンに対するデーメーテールの怒りはすさまじく、怒りの女神エリーニュース と呼ばれたほどであった。風光明媚で名高いラードーン川 の流れで沐浴 するまで女神の怒りは続いたとされる。
馬の誕生の神話 [編集 ]

別の話では、自らに求愛してくるポセイドーンに最も美しい陸上の生物を贈るように女神は伝えた。今まで海のニュンペー を驚かせるためのタコやイソギンチャクのような奇怪な姿の海の生物しか作らなかったポセイドーンにとっては難しい話であったが、苦労を重ね一体の動物を完成させた。これによってできあがったのが馬 だとされる。馬が完成するまでにラクダ 、キリン 、カバ 、シマウマ のような数多くの失敗作が生まれることとなった。この後、馬の仕上がりに満足したポセイドーンはデーメーテールのことを忘れたとも、馬のできばえに感心したデーメーテールはポセイドーンと打ち解け、不仲だった二人の関係が改善したともされる。
その他 [編集 ]

アルカディアのピガリア にはデーメーテールとポセイドーンの婚姻が伝わる洞窟があり、そこには黒衣を纏い、馬の頭を持つデーメーテール像があったと伝えられている。神話確立前のデーメーテールは馬の頭をした女神でもあった。

ローマ神話 ではケレース と同一視された。

比較神話学 的には、地母神 として東方由来の神とされる。
関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、デーメーテール に関連するカテゴリがあります。

* コレー - ペルセポネー - おとめ座
* ハーデース
* エレウシース - テスポモリス祭


執筆の途中です この「デーメーテール」は、ギリシア神話に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正等して下さる協力者を求めています 。(WPJ:ギリシア神話 /P:神話伝承 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB 」より作成

エレウシス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(エレウシース から転送)
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エレウシス(ギリシア語 :Ελεύσινα、英語 :Eleusis)とは、古代ギリシア のアテナイ に近い小都市(現代のElefsina)。ギリシア神話 に登場する女神デメテル の祭儀の中心地として知られる。また、古代の悲劇 詩人アイスキュロス の生誕地でもある。
エレウシスの秘儀 [編集 ]
テレステリオン(秘儀堂)跡

デメテルの祭儀はエレウシスの祭儀、またはエレウシスの秘儀と呼ばれ、古典古代 時代最もよく知られた秘儀のひとつであり、しばしばたんに「秘儀」として言及されることもある。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B9


2010年06月12日(Sat)▲ページの先頭へ
起源the infinite darkness, the womb of all creations
1)マイナス1を起源とする

2)虚数を起源とする

3)プラトンの立場は、1と2に揺れている

1)はKaisetsu氏やコーラを説いたプラトンやdarkness 起源論のD. H. ロレンスの立場である。

2)は、これまでのイデア論/PS理論の立場である。

3)はイデア論のプラトンとコーラ論のプラトンの二重性のことである。


オイラーの等式-1=e^i πを見ると、-1が根源のように思える。正に、陰陽(陰→陽)である。
 後で検討したい。


参考:

オイラーの等式(オイラーのとうしき、英 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^{i \pi} + 1 = 0\,

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e\,: ネイピア数 、すなわち自然対数 の底
i\,: 虚数単位 、すなわち2乗すると −1 となる複素数
\pi\,: 円周率 、すなわち円 の直径 と円周の比

である。

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%AD%89%E5%BC%8F 」より作成


参照:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」
テーマ:D.H.Lawrenceの『死んだ男』

But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touch, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.

The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.

参考:今年発行された訳本から

「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞(ひだ)にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか、神々も及ばぬその偉大さ。それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーー「この触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」

          岩田昇訳

なお、訳では、イシスをアイシスとしている。

『D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4271114626/qid=1150875024/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0226866-3012711

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013869782.html

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参考:ニーチェに強い影響を受けた天才D. H. ロレンス独特のゾロアスター教的二元論である。「光の波」とは+iないしは⇒+1であり、「暗闇」とは、-i ないしは⇒-1である。この「暗闇」とは、実は、超越光に通じるものと考えられる。

There is the wave of light in me which seeks the darkness, which has for its goal the Source and the Beginning, for its God the Almighty Creator to Whom is all power and glory. Thither the light of the seed of man struggles and aspires into the infinite darkness, the womb of all creation.

The Phoenix 2  p. 377
http://ameblo.jp/renshi/entry-10344644991.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


検討問題:古代オリエントの女神の神話の力学:宇宙処女と処女懐胎:-1とダーク・マターと黒い聖母
神話学者ジョゼフ・キャンベルは、女神の神話と父権的神話の絶対的差異を述べている。もっとも、彼は要素は共通すると述べているが。
 女神の神話、例えば、古代エジプトのイシスとオシリスの神話であるが、これは、正に、超越光と光で説明できよう。
 イシスが超越光であり、オシリスが光(太陽光)である。
だから、⇒がオシリスであるが、問題は、イシスである。イシスは、(+i)*(-i)であろう。
 しかしながら、イシスとオシリスの神話は、聖母子の原型になった神話である。どうみても、そこには身体、母体ないしは母胎がなくてはならないのである。それをどう見るのかである。
 プラトン的に言えば、コーラがなくてはならないのである。あるいは、Kaisetsu氏やロレンス的に言えば、根源の子宮がなくてはならないのである。
 ここで想起するのは、処女生殖ないしは単性生殖である。それは、雌のみで生殖するのである。これは、聖母マリアの処女懐胎と通じるものである。
 そうすると、Kaisetsu氏の説く-1の凹(追記:訂正:-1の凹ではなく、単に-1である)の自己分裂が意味をなすだろう。
 つまり、宇宙は処女生殖、-1=凹(追記:訂正:-1=凹は単に-1である。)の自己生殖から産まれたことが言えそうである。
 だから、イシスとオシリスで言えば、オシリスは、本来、イシスの分身であろう。宇宙処女は自己分身化して、超越光(イシス)となり、太陽光(オシリス)を産み出すのである。
 思うに、宇宙処女(コズミック・ヴァージン)であるが、それは、エジプト神話では、ハトホル女神になるのではないだろうか。それは、ダーク・マターと考えれば、それは、黒い聖母と通じよう。
 後でさらに、また精緻に検討したい。


追記:-1は凹ではないので、上記の説明を訂正する。Kaisetsu氏は、凸iと凹iの生成を説いているのであり、凹凸は虚軸の記号である。
 起源の問題であるが、シュタイナーは、諸神霊は、最初、「土星」を創ったという。それは、身体である。それは、-1に通じよう。
 しかしながら、諸神霊が存するならば、それは、虚軸に、ないしは、いわば、超虚軸に存するのではないだろうか。

 
参考:

【ベクトル・モード vector mode】  人間認識の区分(概念図)
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811244

マイナス1をdark matterとする
http://blog.kaisetsu.org/?eid=811253

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


参照:
オシリスとイシスの伝説
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イシス

オシリスとイシスの伝説(-でんせつ)とは、オシリス とイシス 及びセト 、ホルス 神を巡るエジプト神話 上の一連のエピソード 。ギリシャの歴史家 プルタルコス によって紹介され、ファラオ の王権にも密接に関わっている。神話学の観点からは、オシリスの死と再生を象徴しているとされる。


・・・・・


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イシス
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曖昧さ回避 この項目では、エジプト神話の女神について記述しています。小惑星については「イシス (小惑星) 」をご覧ください。
女神イシス(紀元前1360年頃の壁画)
イシスの女司祭(2世紀ローマの立像)

イシス(Isis)はエジプト神話 の女神。イシスはギリシア 語であり、古代エジプト ではアセトと言った。ヘリオポリス 神話ではゲブ とヌト の子供で、オシリス の妹であり妻、セト 、ネフティス の姉でもあり九柱神の一角をになう(セトの妹とされる事もある)。またホルス の母。別の神話によるとラー の娘。ナイル 河畔のサイス に大規模な神殿があったことで知られる。

イシス信仰は、共和政 末期にローマ へ持ち込まれて発展し、200年頃にはほぼローマ帝国 全域で崇拝された。イシスは永遠の処女であり、処女のまま神を身ごもったとされ、「天上の聖母」「星の母」「海の母」などさまざまな二つ名を持った。しかし、信者が基本的に女性に限られたことや、信者の女性が一定期間の純潔を守ることを教義としたため、男性からの評判が悪く衰退していった。

イシスがホルスに授乳する様子などが、イエス の母・マリア への信仰の元になったといわれる。

サイスのイシス神殿の銘文「わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし」は真理の性格をあらわすものとして、ヨーロッパで好んで引用された。ノヴァーリス の『ザイスの弟子たち』はイシス神殿の学生たちを登場人物としたものである。

オシリス神話により献身的な母や妻としての印象が強いが、他の神話的物語では強力な魔術師 的存在として描かれ、その力を用いて父ラーから支配権を強引に奪い取ったという神話も残っている。
関連項目 [編集 ]

* オシリスとイシスの伝説

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、イシス に関連するカテゴリがあります。
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オシリス
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曖昧さ回避 この項目では、エジプト神話の神について説明しています。

* ペガスス座 の惑星については「オシリス (惑星) 」をご覧ください。
* 太陽系内の小惑星については「オシリス (小惑星) 」をご覧ください。

オシリス
パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書 。オシリスの姿

オシリス(Osiris)は、古代エジプト神話 に登場する神の一柱。オシリスとはギリシャ語 読みで、エジプト語 ではAsar(アサル)、Aser(アセル)Ausar(アウサル)、Ausir(アウシル)、 Wesir(ウェシル)、Usir(ウシル)、Usire、Ausareとも呼ぶ。イシス 、ネフテュス 、セト の 4兄弟の長兄とされる。王冠をかぶり、体をミイラ として包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれる。

同神話によれば、生産の神としてまた、エジプトの王として同国に君臨し、人々の絶大な支持を得たが、これを妬んだ弟のセトに謀殺された。尚、この際、遺体はばらばらにされて、ナイル川 に投げ込まれたが、妻であり妹でもある、イシスによって拾い集められ、ミイラとして復活。以後は、冥界 アアル の王としてここに君臨し、死者を裁くこととなった。その一方で、自身の遺児・ホルス をイシスを通じ後見して、セトに奪われた王位を奪還。これをホルスに継承させることに成功。以降、現世はホルスが、冥界はオシリスがそれぞれ統治・君臨することとなった。

ただし、この神話はエジプト人自身の記述ではなく、ギリシアの哲学者プルタルコス による「イシスとオシリスについて」に基づくものである。 神の死と復活のモチーフは各地の神話において、冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴しており,オシリスにも植物神(もしくは農耕神)としての面があると見られる。右図にあるように肌が緑色なのは植物の色を象徴しているからだといわれる。

古代エジプトの墓の遺跡に、彼の肖像が描かれたり、その名前が記録されているのはそのためであり、当時の人々の死生観 に彼の存在が大きく影響していたことの現れであろう。
関連項目 [編集 ]

* オシリスとイシスの伝説
* 古代エジプト
* オシリス (惑星) - ペガスス座 の恒星を巡る惑星。
* オシリス (小惑星) - 太陽系内の小惑星 。いずれもオシリスに因んで命名された。

ウィキメディア・コモンズ
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聖母マリア
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曖昧さ回避 この項目では、キリスト教の伝統(特にカトリックと正教会)におけるマリアについて説明しています。

* 歴史的な人物としてのマリアについては「イエスの母マリア 」をご覧ください。
* マリアに対する称号については「神の母 」をご覧ください。
* プロテスタントのマリヤ観については「プロテスタントにおけるマリヤ観 」をご覧ください。
* パリの聖マリヤとも呼ばれる正教会 の聖人 については「母マリヤ 」をご覧ください。
* 神道 における聖母(しょうも)については「神功皇后 」をご覧ください。

『ウラジーミルの生神女 』。エレウサ 型イコン の傑作。
ラファエロ 画・『大公の聖母』

聖母マリア(せいぼマリア)は、カトリック教会 用語でイエス・キリスト (ナザレのイエス )の母 。ナザレのヨセフ の妻 を指す最も一般的な称号 である。アンナ とヨアキム の娘とされている。童貞マリア、処女マリア、聖母、(サンタ-)マリア、ミリアムとも。

正教会 の一員である日本ハリストス正教会 では生神女マリヤ(しょうしんじょマリヤ)の表現が多用される。

「生神女 」および「パナギア 」も参照

この記事ではキリスト教におけるマリア像のみを描写する。



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「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2 」より作成

黒い聖母
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ヤスナ・グラの聖母 (ポーランド )

黒い聖母 (くろいせいぼ) は、一般に黒い聖母マリア 及び聖母子の画・像 。

聖画・像がただ単に黒ずんだものもあるが、キリスト教 信仰以前にオリエント 一帯に広まっていた大地母神信仰が吸収されたものともいわれる[要出典 ]。

また、芥川龍之介 の短編作品にも「黒衣聖母」という名で登場し、無気味なモチーフとして扱われる。


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外部リンク [編集 ]

* Black Madonna - 写真あり

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E3%81%84%E8%81%96%E6%AF%8D 」より作成


2010年06月11日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:-1とMedia Point:共振的可視界(光界)と非共振的共立的不可視界(闇界)
今は随想風に書く。
 Media Pointは、超越性と物質性の変換点である。不可視界と可視界が即非的に接合している。
 だから、Media Pointは、光と「闇」が交接している。しかしながら、通常の、日常の知覚は、同一性に傾斜しているので、この「闇」を感知しない。
 この「闇」であるが、虚軸の「闇」と-1の「闇」があると考えられる。前者を超越光である。そして、後者は本体・本源・物自体の「闇」である。
 今、この二つの関係が問題である。すなわち、起源の問題である。プライオリティの問題である。
 ここで作業仮説であるが、プラスの光とマイナスの光を考える。プラス光とマイナス光と呼ぼう。
 プラス光は(+i)*(-i)⇒+1の⇒である。マイナス光は非共振、言い換えると、差異共立として、つまり、非共振的共立と考えるならば、-1である。非共振的共立を∽の記号で仮に表記すると、(+i)∽(-i)⇒-1となる。
 というように考えると、先行性はこれまで通りに虚数に存することになる。つまり、虚数差異極性とは、共振と非共振があり、その双方がMedia Pointにおいて、生起すると考えることができる。つまり、⇒+1と⇒-1である。とまれ、両者を明快に区別したいので、後者の矢印を→に変更する。そうすると、⇒+1と→-1となる。⇒が光エネルギーであり、→がダーク・エネルギーではないだろうか。そして、-1はダーク・マターである。
 そうならば、Media Point自体のエネルギーが考えられなくてはならないだろう。とりあえず、トランス・エネルギーと呼ぼう。
 そうすると、トランス・エネルギー⇒(光エネルギー、ダーク・エネルギー)になる。
 もしそうならば、ダーク・エネルギーの他に根本的なエネルギーがあることになる。プロト・エネルギー、ファンダメンタル・エネルギーである。
 とまれ、以上の作業仮説からわかるのは、非共振的共立の潜在界の世界と共振的顕現界があるということである。
 思うに、前者こそ、イデア界ではないだろうか。空海的に言えば、金剛界である。あるいは、叡知界である。
 とまれ、注意すべきは、両者はまったく異質な世界であるということである。そう、前者は光を形成し、後者は闇を形成するのである。そう、闇とは光の欠如ではなく、一つの実体と考えられるのである。これがいわば、ダーク・コスモスであり、不可視宇宙である。
 今はここで留める。

参考:(後で検討したい)
「同性異体、または、同種異体、或いは、同質異体、 or 同一異体」について
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 


2010年06月10日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:共振と反共振:自我とダーク・マター:共振⇒反共振⇒新共振
テーマ:検討問題:思考実験・(作業)仮説・備忘録

* PS理論を正しく適用できているか(2) (0)
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094669983

* PS理論を正しく適用できているか(1) (0)
http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094667681

シムダンス「四次元能」
* PS理論を正しく適用できているか(2) (0)
* PS理論を正しく適用できているか(1) (0)

シムダンス「四次元能」

生成門氏の以上の議論は、私にとってはとてもわかりやすいものです。つまり、私は最初そのように考えていたからです。今では、牽引様態が⇒+1、斥力様態が⇒-1というようには考えています。生成門氏の考えの応用のようなものです。
 また、-1はそれだけでなく、ダーク・マターとしての積極的な意味があると感じています。Kaisetsu氏の考えはそのようなものでしょう。
 とまれ、反共振で枠ができるという考えはすばらしいと思っています。
 そのように考えると、生成門氏の考えとダーク・マターとしての-1の考えを統合する必要があると感じています。
 ここで、反共振について考えてみます。
(+i)*-(-i)⇒-1が反共振の方程式です。
 私はこれを当初、生成門氏のように自我の形成として考えていましたが、今では、そのようには考えていません。
 確かに、生成門氏のように考えるのは、自我形成を明快の解明できます。
 そうならば、自我としての-1とダーク・マターとしての-1の二つの-1があり、これを統一的に説明できなくてはならなくなります。
 これまで、私は自我は+i=+1ないしは(+i)*(-i)=+1のように考えてきました。すると、+1と-1を一致させなくてならなくなります。これはまさにアポリアです。
 確かに、自我は他者-iを否定するもので、(+i)*-(-i)と表記したくなります。
 ここでアクロバティックですが、次のように想定してみます。
 自我は他者を否定するので、⇒-1となる。これは、生成門氏の考えです。
 ところで、反共振の結果、共振の⇒+1は否定されています。思うに、反共振は⇒+1の⇒を喪失させるものではないでしょうか。(追記:どうもこれは飛躍的である。反共振のとき、確かに、⇒が喪失されるが、ならば、+1が残るのか。丁寧に考えよう。共振認識において、言語形成がなされ、⇒+1の+1が命名される。だから、+1が言語として残るのである。しかし、反共振となると、知的認識+iは、-1の位置にありながら、+1の言語認識を保持するということではないだろうか。)
 思うに、根源的には万人に共振認識、即ち、即非認識があると考えられます。しかし、それが、反共振的自我認識によって、否定・抑圧されると考えられます。
 しかしながら、正しい認識とは、差異共振認識・即非認識です。これによって、他者を認識するのです。そして、これは、同一性メディアの言語を介して、例えば、「私は川であり、川は私である。しかし、私は川でなく、川は私ではない」という認識です。
 この様態に対して、反共振性が作用しますと、即非性が消えます。つまり、⇒+1の⇒が消えます。そして、+1が残ります。すると、反共振的自我の-1 と+1が一致することになるのではないでしょうか。それこそ、近代的自我ではないでしょうか。
 そうならば、これとダーク・マターはどう関係するのかとなります。
 これは端的に言えば、自我はダーク・マターの位置に存するということではないでしょうか。
 しかしながら、同時に、+1が自我の位置でもあります。つまり、反共振的自我とは、-1と+1を一致させるという倒錯的な様態にあります。
 そして、これは、唯物論の様態であります。すべてを自我と物質に変えてしまう、悪魔的様態です。触れた物が黄金に変わったミダス王のようであります。
 結局、+1と-1を分離するには、やはり、Media Pointの位置が必要です。それを不連続に、純粋に把握する必要があります。
 最後に、自我の位置がダーク・マターであるという点について考えましょう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は同時に、-1を暗示していると思います。それは+1の反転であります。「鏡の国」です。
 光が生起したために生じる影のようなものとも言えるのではないでしょうか。しかし、この影は通常では視覚できません。プラトンの洞窟内の物のようにです。
 思うに、自我は摂理である共振を否定する結果、-1の位置に「落ち込んだ」のだと思います。本来、⇒+1に対する-1ですが、⇒を否定して、影の領域に落ちたのだと思います。
 それが、自我がダーク・マターの位置にあることの意味だと思います。
 もう少し問題点を言いますと、⇒+1に対する-1と言いましたが、それだと相補的であります。洞窟内の物ならば、それこそ、物自体であり、こちらが、主であり、+1は従でなくてはなりません。
 この齟齬を解消する必要があります。Kaisetsu氏はラディカルに、-1を母胎と考えています。それは、プラトンのコーラに当たるように思えます。
 私は以前、積ではなく、商を言いました。商が-1を形成していると考えました。これがダーク・マターの創造ではないでしょうか。
 だから、商と反共振が結果では一致することになります。しかしながら、精密に考えると、商はいわば、⇒-1であります。しかるに、反共振は、端的に-1 ではないでしょうか。すると、差異があります。(追記:ここも問題がある。反共振を-1と言ったが、どうだろうか。果たして、(+i)*-(-i)が-1となるのか。反共振の場合、積でいいのだろうか。積ならば、⇒-1となる。しかし、積は共振の場合である。どうも、反共振の場合は積にはならないように思える。それは、商ではないのか。ならば、(+i)@-(-i)→+1である。@を商にし、→を変換記号とする。この場合、反共振は+1となるのである。これが、自我ではないのか。そうならば、私がこれまで言った+i=+1ないしは、(+i)*(-i)=+1と一致すると言えよう。)
 そうすると、⇒-1の⇒をダーク・エネルギーとすると、-1はダーク・エネルギーのエンテレケイアとなります。末端です。
 どうも、自我を悪く言い過ぎているようです。生成門氏はもう少し現実的に考えています。
 思うに、ダーク・マター/自我は積極的な意味があるでしょう。これが、形成されることによって、Media Pointがさらに賦活されて、トランス・自我が形成されるようになると考えられるからです。
 すると、±1は近代原理そのものです。そして、そこから、新たなMedia Pointの発露があり、それが、トランス・モダンということになるでしょう。
 すると、共振⇒反共振⇒新共振となります。言い換えると、前近代⇒近代⇒トランス・モダンであります。
 錯綜していますが、ここで留めます。後で整理したいと思います。

追記:赤色の箇所を作業仮説とすると、反共振は-1ではなく、+1の可能性が高い。ならば、自我とダーク・マターは一致しないのである。自我は、+1に位置するのである。
 では、-1とは何かとなる。やはり、プラトンの洞窟内の物、即ち、物自体=ダーク・マターと考えた方が適切なようだ。
 Kaisetsu氏は-1の平方根に虚数の生成を考えている。確かに、±√-1は、±iとなる。
 これまで、虚数を根源としたが、Kaisetsu氏の展開では、-1が根源となる。これをどう考えるのか。それは、D. H. ロレンスのdarknessの思想に酷似しているのである。また、プラトンのコーラに似ている。とまれ、-1⇒(+i)*(-i)⇒+1となるのではないだろうか。
 とまれ、今の段階の私感では、やはり、-1はダーク・マター、物自体である。先に木のことを述べたが、現象は映像・影像であるという認識が強いのである。ならば、木の本体は何かである。木の物質とは同一性に過ぎない。それは、本体ではない。ならば、本体は「背後」にある-1ではないのかという推理があったのである。
 ならば、われわれは本体を光を介して、仮象(現前)として見ているのである。
 この光はどこから来ているのか。それは、超越光=不可視光からである。それは、Media Pointである。
 ここで、-1と結びつくと言えよう。つまり、不可視界があるのである。
 思うに、Media Pointの一面は光であり、半面は闇である。それは、実軸のプラスとマイナスである。
 どうも、Media Pointは単に、+1だけではなく、-1に通じている。
 とまれ、-1からMedia Pointが生まれ、光が生成するというのは、興味深い視点である。
 後でさらに検討したい。


2010年06月09日(Wed)▲ページの先頭へ
私見:現象の二つのモデルについて:共振モデル⇒+1と反共振モデル⇒-1について
共振モデルと反共振モデル
<プラトンとの共振>

イデア共振から核の生成

四次元抽象イメージから四次元ツールを求めて、ナイフとパイプに行きついたのですが、そこの至るまでに、ティトム球の内部=空=核内としたら、(1)見えないはずの内部が見えてしまう(2)ティトム球が空であるという前提が核では崩れてしまう(3)原子核内は空ではないという三つの矛盾が生まれ、それを解消するために、根源の内部=イデア界i,-iから紐解いてきたのですが、四次元即非モデル=三次元から見た四次元の想像モデル、三次元形式モデル、三次元共振モデルという三つのモデルを区別しなければならなくなりました。

根源の内部=イデア界i,-i
 ↓
真正の内部=空=即非状態=共振・半共振={i*-i,i*-(i)}
四次元即非モデル=三次元から見た四次元の想像モデル
空モデル=真正空モデル
 ↓
自我の支配を受けた反共振――――自我の支配を受けていない共振
 ↓
反共振 i*-(-i)⇒-1―――――共振 i*(-i)⇒+1
 ↓       
実軸=現象化⇒±1 
↓                ↓
⇒-1=三次元形式モデル    ⇒+1=三次元共振モデル
仮の内部の外部化       四次元即非モデル
↓               ↓
+と−              ±
対立と反動           共生 中間態 中性
善と悪             混沌
電子と陽電子          ポジトロニウム(電子と陽電子)
雌と雄             雌雄同体
男と女             ゲイ 性同一性障害
―――――――――――――――――――――――

真正の内部の想像

複素平面の空=クラインの壷の捩れ点

空=事象の地平面=枠の内部=空={i*-i,i*-(i)}

四次元モデル(共振モデル)

ティトム球=枠、事象の地平面の内部、二つ餅鏡、特異点、四次元へのゲート、円盤、ジェット=四次元抽象イメージ=四次元ツール=ナイフとパイプ

PS理論で表現される自己認識の方程式i*-(-i)⇒-1から、原子の形式モデルが出てくるのですが、それを平たく言えば、空の即非が⇒-1によって現象化するとなります。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100094599799

共振モデルと反共振モデル (0)
シムダンス「四次元能」

************************

以上の説明は興味深い。自我を反共振としているのは、わかりやすい。
 問題は反共振である。その考えは私が以前行なった考えであり、また、シンプルな考えである。
 とまれ、反共振モデルで、水素原子が生起するのは興味深い。しかし、⇒-1で、陽子+1と電子-1に分離するが、それは理論的にはどう考えるべきなのか。
 私見では、それは、電子-1のみではないのだろうか。陽子+1はどこにあるのだろうか。
 共振によって、陽子+1が生まれるとは考えられる。
PS理論の基本的考え方からすれば、共振モデルによって、⇒+1が生起する。それは、「陽子」又は陽電子である。
 しかし同時に、影として、電子(陰電子)-1が同時生起するのではないだろうか。つまり、共振モデルとは、陽電子と陰電子の発生を意味するのではないだろうか。
 問題は、二つの現象モデルを説明することである。共振モデルでは、陽電子と陰電子の対生成を説明できるが、二つの現象は説明できない。
 とまれ、対生成があるとして、それらを共鳴させる現象(仮に対共鳴現象とする)と原子核による分離現象(仮に対分離現象と呼ぶ)の力学を考える必要がある。
 前者の対共鳴現象とは、Media Pointがいわば、牽引の状態にあるのではないだろうか。それに対して、後者の対分離現象とは、Media Pointが反発の状態にあるのではないだろうか。
 牽引状態は求心様態であり、反発状態は外心様態である。だから、牽引・求心様態のときに、対共鳴現象が生起し、反発・遠心狂態のときに、対分離現象が発生するのではないのか。
 今はここで留めておく。

追記:対分離現象であるが、それは、悪魔と関係するだろう。否定の意志である。それは、対共振を否定して、同一性へと帰結するのである。つまり、+1に同化するのである。それは、Media Pointを否定するのである。
 連続性への傾斜があるのである。それは、+iか-iの自己傾斜と考えられる。


2010年05月28日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:共時性とは何か:media point cosmos
ユングの言う共時性synchonicityを私はよく経験するが、これは、PS理論で、簡単に説明できそうだ。
 結局、現象(内的現象であれ、外的現象であれ)は、Media Point(以下、mp)を源泉として、生起する。
 そして、mpには、虚軸世界(虚次元)が介入している。おそらく、虚軸世界(以下、虚界)が、普遍的であり、且つ、超時間的、乃至は、虚時間的であると考えられる。
 わかりやすく言うと、ある事象を精神電磁波事象とすると、ある精神電磁波事象が時空界1に存する人間1に生起するとき、mpを介して、その精神電磁波が時空界2に存する人間2のmpを介して、共鳴・共振(Media Resonance)して、同様の精神電磁波現象(エネルゲイア)を生起させるということである。
 これが、共時性現象力学の説明(仮説)である。mpにおける虚界が超越的普遍空間であるために、おそらく、無時間で共時性現象が生起するのである。これは、量子力学における長距離相関事象と関係する事象である。
 そこでは、量子は虚界に存しているのであり、長距離とは仮象に過ぎない。
 問題は、虚界又はmpにおける「時間」のことである。虚時間が考えられるのが、これは、検討課題にする。

追記:私の勘(妄想?)では、最近の地震や火山噴火は、虚界になんらかの未来記録、つまり、天災の集中する未来記録があり、それが、今や現実化(エネルゲイア化)しているのではないかということである。
 シュタイナーは、アカシャ年代記(アカシック・レコード)のことを述べている。虚界の未来記録はこれに当たるかもしれない。
 つまり、虚界という媒体に未来や過去の記録があるのである。そして、未来の記録が、mpを介して、現象化するということになるということになる。

追記2:天命とも言えるが、天知である。

追記3:天記、天刻、天録、天載。

追記4:虚時間であるが、E=mc^2を活用すれば、
E⇒mc^2で、(+ic√m)*(-ic√m)⇒mc^2である。
だから、±icに虚時間が含まれていると言えよう。

参考:

* 事象の地平面はどういう形で現れるか (0)
* 複素平面と四次元抽象イメージの関係(修正) (0)

シムダンス「四次元能」



労働者の〈道徳〉

愚樵空論


参考:
アカシックレコード
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アカシックレコード (Akashic Records) とは、宇宙や人類の過去から未来までの歴史 全てが、データバンク的に記されているという一種の記録をさす概念。多くの場合、宇宙空間それ自体にその(一種の)記録がなされると考えられており、アカシャ (akasha) とはサンスクリット で「虚空 」、「空間 」を意味する。日本語訳ではアカシャ 年代記 が当てられることが多い。

神智学 (あるいは人智学 )やリーディングの伝統(チャネリング )などでは精神的に目覚めた人は、この記録から、意のままに過去や未来の情報を引き出すことができるようになり、そして自己の人生の意義や存在の理由がわかるとされる。多くの預言者 や神秘家 がこれにアクセスし、予言として世に伝えてきたとされている。
歴史 [編集 ]

この概念の類似概念は極めて古くから見られるが、直接にこの語が使われるのは、インドに本拠地をおいた神智学協会 の創始者ブラヴァツキー の主張に始まると見られる。ドイツの神秘思想家ルドルフ・シュタイナー は、後の人智学協会の神智学協会からの独立の過程でアカシャ・クロニクル(アカシャ 年代記 。この英訳語がアカシック・レコード)の概念を高度に体系化し、派生的な様々な影響を与えた。

倫理の源泉としての死後の実在の観念が社会的に揺らいだ時期である、19世紀末ごろには複数の人物が、同時多発的に類似の概念を提唱している。少し前後してイギリスの心霊科学研究で、場所の記憶をめぐる説明概念である「残留思念」が提唱されている。残留思念はその元にルヴナンやアッパリッションの概念があり、日本でいう幽霊 を指す言葉だが、「往来するもの・思い起こさせるもの」の意味があり、キリスト教 の死者の霊魂は地上から去るという教理と幽霊の伝承の狭間で展開した民間伝承 を継承している。

シュタイナーの初期のアカシャ年代記(Akasha Chronik) の概念にも、この観念の影響が見られ、シュタイナー初期のアカシャ年代記とは生物や万物の生成の背後にあるとするエーテル体 の残滓・痕跡を意味しており、必ずしも未来の記録を含む概念ではない。また、この概念は哲学者ベルグソン の哲学にも類似性がみられる。これらの観念はギリシア哲学に発しアラブで発展した生気論 (特にアル=キンディー )の中に多くのアイデアを見出すことが出来る。これらの生気論では、生物のみならず鉱物や世界までもが固有の生気=霊魂=プネウマを持つと考えられた。

後にアカシックレコードの概念はエドガー・ケイシー の名前と共に知られるようになる。現在、人智学、チャネリング 、リーディング 、あるいはクトゥルー神話 に代表されるサブカルチャーのガジェット等、様々な文脈において発展を見せており、必ずしも一様な概念ではない。

虚空蔵菩薩 はアカシックレコードを擬人化したものではないか、という説がある。
関連項目 [編集 ]

* 神智学
* ルドルフ・シュタイナー
* エドガー・ケイシー
* ゲリー・ボーネル
* アカシャ年代記より
* ポーソロゴスの図書館
* 銀河ヒッチハイク・ガイド


参考文献 [編集 ]

* ルドルフ・シュタイナー 『神智学概論』(原著1910年、高橋巌 訳 筑摩書房 )

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 」より作成
カテゴリ : 超常現象 | ニューエイジ | 神智学


シンクロニシティ
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曖昧さ回避 この項目では、分析心理学について記述しています。その他の用法については「シンクロニシティ (曖昧さ回避) 」をご覧ください。

シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然 の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則 原理 として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユング によって提唱された独 : Synchronizitätという概念 の英訳である。 何か複数の事象が、「意味 ・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。

ユングは、ノーベル物理学賞 受賞理論物理学者 ヴォルフガンク・パウリ と後に1932年から1958年までパウリ=ユング書簡と呼ばれるパウリの夢とそれに対するユングの解釈におけるシンクロニシティの議論をし、それをまとめて共著とした"Atom and Archetype:The Pauli/jung Letters, 1932 - 1958"(『原子と元型』)を出版している。

一般的概念 [編集 ]

ユングは、全てではないにせよ、いくつかの「偶然 の一致」(coincidences)は単なる文字通りの「偶然」ではなく、非因果的な複数の事象の「同時発生(co-inciding)」 か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものであると信じたのである。これらの力により、直観 的な意識 と行動が調和する過程を、ユングは「個体化 」と名付けた。集合的無意識 (collective unconscious)による、個体化された人間の意識のコミュニケーション を通じて、現実の出来事が形成されるというのが、ユングの主張であった。

ユングの説明によれば、シンクロニシティとは「非因果的連関の原理」、言い換えれば因果関係の外部、あるいは因果関係に付随して働く連絡の形式である。

ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディング に関わるものである。ユングの語るところによれば、1805年にフランス の詩人エミール・デシャン (Émile Deschamps )が、ドゥフォルジュボー(de Forgebeau)氏からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その10年後の1815年、デシャンはパリ のレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は最後のプディングが他の客に出されてしまったと告げた。その客とはドゥフォルジュボー氏であった。更に17年経過した1832年、 デシャンはある集会で再びプラム・プディングを注文した。デシャンは昔の出来事を思い出し、「これでドゥフォルジュボー氏が居れば役者が揃う」と友人に冗談で話していた。まさにその瞬間、年老いたドゥフォルジュボー氏が部屋に入ってきたとのことである。

ユングの説明とは裏腹に、デシャン自身はドゥフォルジュボー氏の名を「ドゥフォンジビュ(de Fontgibu)侯爵大佐」としていて、ナポレオン に敵対して戦ったと書いている。しかし「ドゥフォンジビュ」という名の軍人貴族はフランス史のどこにも登場しないため、このプラム・プディングの話はデシャンによる作り話と考えられる。
批評 [編集 ]
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この記事の内容に関する文献や情報源 が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記する ためにご協力をお願いします。

シンクロニシティの理論 は科学 的方法による検証が不可能であり、概ね科学よりも疑似科学 であると見做されている。確率論 は、何の普遍的な連続性の力の介入なしに、普通の世界でプラム・プディングのような出来事の説明を試みることができる。しかしながら、その蓋然性を実際に計算するのに必要となる正確な変数を発見することはできない。これは、特定の個人的体験を記述するのにシンクロニシティが良いモデルでないという事ではない――が、シンクロニシティが「厳然たる事実」、すなわち我々の世界に現存する原理であると考えることを、拒否される理由ではある。

シンクロニシティは呪術的思考 に陥っていると、主張する者もいる。

科学的手法 が適用できるのは、(1)再現可能であり、(2)観測者から独立しており、(3)定量化できる現象のみに限られるが、シンクロニシティが科学的に「証明可能」でないとする議論の大部分は、レッド・ヘリング (訳注:「注意をそらせるおとり」の意味)である。

当然ながら、観測者独自の経歴がシンクロニシティによる出来事に意味を与える以上、シンクロニシティによる出来事は、観測者から独立していない。シンクロニシティによる出来事に関する独特な前歴がなければ、その出来事は誰にとっても、他の無意味で「ランダム」な出来事のようにしか見えない。シンクロニシティの原理は、自然界の出来事の連続性が持つ意味への疑問そのものを呼び起こす。

古典的な感覚 では科学的に立証不可能ではあるが、ユングの表現する「非因果的連関の原理」の、より科学的な用語である「相関性 」においては、シンクロニシティ現象の科学的な根拠は、発見されるかもしれない。

「相関性は因果関係を意味しない」は、よく知られた科学の原則である。しかし、相関性は古典的な因果関係によらず、現象間に共有される物理的性質かもしれない。遠く離れた出来事が、直接に物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは、量子力学 の相関関係において明確に表されている(「非局所性 」を参照)。

ユング自身、この説を提唱する際、占星術の誕生宮と結婚のパートナー選択の対応を検分し、共時性原理を見出そうとしたが、調査対象が占星術を真剣に信奉している者たちであり、任意の標本ではなかった。ゆえに統計学的な基礎条件を備えていなかった。


関連項目 [編集 ]

* 分析心理学
* 元型
* 超常現象
* 23エニグマ
* Littlewood's law (en)
* 集合的無意識
* カール・グスタフ・ユング
* サブカルチャー
* グリセリン - シンクロニシティの例として広まった誤った説に関する説明がある。
* パウリ効果

外部リンク [編集 ]

* Psychovision, Synchronicity page
* http://www.dreamscape.com/morgana/naiad2.htm
* http://www.syncharkive.com/

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3 」より作成
カテゴリ : 分析心理学 | 神秘学 | 超常現象

Synchronicity
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This article is about the philosophical concept. For other uses, see Synchronicity (disambiguation) .

Synchronicity is the experience of two or more events that are apparently causally unrelated occurring together in a meaningful manner. To count as synchronicity, the events should be unlikely to occur together by chance.

The concept does not question, or compete with, the notion of causality . Instead, it maintains that just as events may be grouped by cause, they may also be grouped by their meaning. Since meaning is a complex mental construction, subject to conscious and subconscious influence, not every correlation in the grouping of events by meaning needs to have an explanation in terms of cause and effect.

http://en.wikipedia.org/wiki/Synchronicity



2010年05月10日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:視覚空間と聴覚空間:視覚と聴覚の共鳴空間
以下、Kaisetsu氏がイメージ空間に関する意義深い区別を行っている。
 今は余裕がないので詳論できないが、簡単に感じたことを述べたい。
 聴覚空間を外部に、視覚空間を内部に、分けている。これは、私の考え方というか、一般的な考え方とは反対ではないだろうか。何故なら、視覚は外界に向けられ、聴覚は「内界」に向けられるように考えられるからである。
 もっとも、視覚空間が内界的になるというのは理解できることである。文学作品を読むとき、内的視覚空間が「現象」するからである。
 音楽を聴くときは、確かに、外界をイメージすることがあるし、また、私の場合は、内界的に聴いている面が強い。
 すると、私の聴き方は、Kaisetsu氏の視点から言うと、視覚的に音楽を聴いていることになる。
 思えば、私は音楽に強く音色を感じる方である。とまれ、私は音楽を外界的、且つ、内界的に聴いているだろう。
 また、絵画や風景等は、内界的、且つ、外界的に視覚しているのではないだろうか。すると、私の視覚は、聴覚的にものが入っていることになる。思えば、私は伝統的日本画には、音楽を感じるのである。
 どうも、私の視聴覚は共感覚的である。しかしながら、私の感覚知覚は、一見、聴覚に傾斜しているようだが、意外に視覚中心かもしれない。
 バッハのポリフォニーに強く反応するというのは、視覚的なのかもしれない。
 とまれ、後で、熟考したい。
 
************************

【ベクトルモード vector mode】イメージ空間、「視覚は内に、聴覚は外に」

http://blog.kaisetsu.org/?eid=811096
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

ファイル:Natu-aki kusa zu byoubu.jpg

「風雨草花図」

酒井抱一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦 11 年7 月1日 (1761 年 8 月1日 ) - 文政 11年11 月29日 (1829 年 1 月4日 ))は、江戸時代 後期の絵師。権大僧都 。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真。鶯村、雨華庵とも号する。浮世絵師 としての名前は、杜陵あるいは屠龍と称し、狂歌 での名前は、尻焼猿人と称している。姫路藩 主・酒井忠以 (ただざね)の弟。


2010年03月21日(Sun)▲ページの先頭へ
太陽光的熱エネルギー発電論:太陽光を凸レンズで集中させ水を沸騰させ、タービンを回し発電させる
テーマ:エネルギー問題と国際地球温暖化共謀ペテン
散歩をしていて、ふと、火力発電の仕組みは何かと思い、また、太陽光発電の効率の悪さを思って、太陽光を利用して、火力発電的発電方法に使用できないのかと思った次第である。
 私は太陽電池という発想が、太陽光をうまく利用していない感じをもっている。太陽の熱エネルギーを巧みに、効果的に電力に転換できるいい方法はないかと思った。
 以下の説明からわかるように、あるいはよく知られているように、火力発電とは石油を燃やして、その熱で水を沸騰させて、その力でタービンを回転させて、電力(電気)を取り出す方法である。
 だから、その熱を太陽光で産み出せばいいということになる。単に太陽光で水を温めても、沸騰はしない。だから、巨大な凸レンズを利用して、その焦点に容器に入れた水を置けば、沸騰するはずである。その沸騰でタービンを回転させて電気を発生させることができる。
 当然ながら、この巨大凸レンズは常に向日葵のように太陽を向くように設計されることになる。
 問題点は夜間や曇天や雨天の時である。理論的には、巨大なバッテリーを作れば、そこに蓄電しておけばそのとき利用できる。
 思うに、日本の場合、温泉の宝庫であるから、温泉のお湯を使い、それに凸レンズを介した太陽光を照射し、沸騰させ、タービンを回転させれば、効率よく電気が発生するだろう。
 
 

火力発電
火力発電の役割 火力発電のしくみ 火力発電を活用した新たなビジネスへの挑戦
火力、水力そして原子力の各発電方法の中で、火力はどんな役割をしているのか、火力の特徴を含めて説明します。



火力発電のしくみはどうなっているの?どんな燃料で発電しているの??基本からたのしく見てみよう!

火力発電で習得した技術は、ガス事業などの新しいビジネスで活かされています。

関西電力

http://www.kepco.co.jp/energy/fpac/plant/index.html

太陽光発電
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太陽光発電(たいようこうはつでん、Photovoltaic power generation)は、太陽電池 を利用し、太陽光 のエネルギー を直接的に電力 に変換する発電 方式である。ソーラー発電とも呼ばれる。再生可能エネルギー の一種であり、太陽エネルギー 利用の一形態である。

導入費用が高めな代わりに、昼間の電力需要ピークを緩和し、温室効果ガス 排出量を削減できるなどの特長を有する。近年の競争によって性能が向上し、設置や保守が容易である等の利点や、低炭素社会 の成長産業としての将来性を買われ、需要が拡大している。
砂漠に設置された大規模太陽光発電所(米国)
建物一体型の太陽光発電(BIPV)システム(スペイン)
一般家庭の屋根に載せた太陽光発電システム(米国)

この項では、主に発電方式としての太陽光発電について述べる。発電の原理 や太陽電池の種類 などについては、「太陽電池 」の項を併せて参照されたい。
特徴 [編集 ]

太陽光発電は昼間のみ発電するなど、従来の集中型電源とは様々な点で異なる特徴を持つ。また再生可能エネルギー の一種であり、エネルギー・環境面でのメリットのほか、経済的なメリットも有する。欠点は商用電源として導入コストが比較的高いことであり、価格低減や普及促進の政策を採る国が多い。一般に、下記のような長所や短所を有する。

利点・特徴

* 装置に可動部分が無いものがほとんどで、機械的にメンテナンスフリーである。
* 分散型電源 のため、災害などの有事における影響範囲を小さく抑えられ、非常用の電源となりうる。
* 輸出産業として経済・産業面での利益が見込める。
* 構成材料の大部分がリサイクル可能で、原子力発電のように放射性廃棄物になることもない。
* 他の電力施設と比較して、小規模でも効率が低下しないため、任意の規模で利用できる。
* 需要地に近接して設置できるため、送電のコストや損失を低減できる。
* 原子力・火力等の発電と比較して、冷却水・廃棄物・排気などの発生がない。
* 建築物の屋根・壁面にも設置できるため、土地を占有せずに設置することも可能。水力・原子力・火力などの発電方式と比較して設置要件が少ない。
* 太陽光 を利用する再生可能エネルギー であり、化石燃料 に依存しない。
* 発電量あたりの温室効果ガス の排出量が比較的少ない。
* 出力ピークが昼間電力需要ピークと重なり、需要ピーク電力の削減に効果がある。
* 設置国のエネルギー 自給率を向上させる。

欠点・課題

* 2007年時点で電気的・機械的部品の寿命と総発電量を用いて計算した場合、発電電力量当たりのコストが他の発電方法に比べて2〜3倍と割高。
* 発電電力が天候に左右される(曇天・雨天時、パネルに積雪した場合は発電量が低下する)。
* 夜間は発電できず、蓄電性もない。
* 太陽光利用のため、設置面積当たりの発電電力量が既存の発電方式に比べて低い。

発電可能な量 [編集 ]
資源量 [編集 ]
地球上の太陽光エネルギー資源量の分布(1991-1993年の平均、昼夜の変化や天候の影響含む)。黒点は、変換効率を8%と仮定して世界の主要エネルギー源を太陽光で十分賄うために必要な面積を表す。(英語版"Solar energy" より)
ドイツ、EU25カ国および全世界の需要と等しい電力を太陽エネルギー で発電するのに必要な面積[1]

太陽 から地球全体に照射されている光エネルギーは膨大で、地上で実際に利用可能な量でも世界のエネルギー消費量の約50倍と見積もられている[2] 。たとえばゴビ砂漠 に現在市販されている太陽電池を敷き詰めれば、全人類のエネルギー需要量に匹敵する発電量が得られる計算になる[3] 。日本においても、需要より遙かに多い量を置けるだけの場所がある と見積もられている。

太陽光発電システムの生産に必要な原料も基本的に豊富であり、少なくとも2050年頃までに予測される需要は十分に満たせるとされる[4] 。シリコン を用いる太陽電池では、資源量は事実上無限とされる。またシリコンを用いない太陽電池についてはインジウム などの資源が将来的に制約になる可能性があるが、技術的に使用量を節約することで2050年以降も利用可能ではないかと見られている[4] 。なお、太陽電池用シリコン原料の供給は2008年までは逼迫して価格も高止まりしていたが、各社の増産が追いつくことで2009年からは価格の低下が予測されている[5] 。太陽電池専用のシリコン原料(ソーラーグレードシリコン )の生産技術も様々なものが実用化されており、精製に必要なエネルギーやコストも大幅に削減されると見られている。

「太陽光発電の資源量 」も参照
設置可能な場所 [編集 ]

太陽光発電は、設置する場所の制約が少ないのが特徴であり、腕時計から人工衛星 まで様々な場所で用いられる。

地上に直接設置することも可能であるが、太陽光を十分に受けることができ、パネルの重量に耐えることができる場所であれば屋根や壁など建造物の様々な場所に設置が可能である[6] [7] 。また近年は軽量で柔軟なフレキシブル型太陽電池も開発されており、取り付けの自由度が高まっている[8] 。




「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89%E7%99%BA%E9%9B%BB 」より作成



太陽電池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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太陽電池(たいようでんち、Solar cell)は、光起電力効果 を利用し、光 エネルギー を直接電力 に変換する電力機器 である。光電池(こうでんち、ひかりでんち)とも呼ばれる。一般的な一次電池 や二次電池 のように電力を蓄えるのではなく、光起電力効果 により、受けた光を即時に電力に変換して出力する。主流のシリコン太陽電池の他、様々な化合物半導体などを素材にしたものが実用化されている。色素増感型(有機太陽電池)と呼ばれる太陽電池も研究されている。

太陽電池(セル)を複数枚直並列接続して必要な電圧と電流を得られるようにしたパネル状の製品単体は太陽電池パネル 又は太陽電池モジュール と呼ばれ、モジュールをさらに複数直並列接続して必要となる電力が得られるように設置したものは太陽電池アレイ となる。電源としての特徴などについては太陽光発電 の項を参照されたい。

本項では太陽電池(セル)そのものについて述べる。
歴史 [編集 ]

太陽電池の基本原理そのものは1839年 フランスの物理学者アレクサンドル・エドモン・ベクレル によって最初に発見されていた。しかし実際に発電が可能となったのは1884年 アメリカの発明家Charles Frittsによる、半導体 性のセレン と極めて薄い金 の膜とを接合したものである。これにより得られた変換効率は僅か1%ほどであった。この発明は後にセレン光電池として1960年 代までカメラの露出計などに広く応用されていたが、シリコン 型の普及とともに市場から去っていった。

電力機器としての太陽電池の先駆けは米国のベル研究所 にて開発された単結晶シリコン 型太陽電池で、1954年 に M.B.Princeによって論文が発表されている。当時は Bell Solar Battery と呼ばれ、太陽光 のエネルギー を電力 に変換する効率は6%であった。当初は宇宙用が主な用途で、一次電池を用いた世界最初の人工衛星 スプートニク1号 が21日の寿命しかなかったのに対し、太陽電池を用いた最初の人工衛星 ヴァンガード1号 ([3] )は6年以上動作し、その有用性を示している。その後無人灯台 など徐々に用途を拡大し、日本でも1960年代に量産が開始された。しかし電源としての本格的な開発が始まったのは1974年 の石油ショック 以降である。生産量は1980年代初めは数MW分に過ぎなかったが、2004年 現在では世界全体で約1.2GWにまで成長している。(参照:1977年からの生産量の推移 近年の生産量とシェア )。

変換効率については、2006年 には変換効率40.7%の多接合型集光セルも開発されるなど[1] 、高性能化が進んでいる。一方で一般市場向けの製品では省資源化と低コスト化が進んでおり、市場が急拡大している。2000年から2006年まで、シャープ が太陽電池製造量世界一であったが、住宅用太陽光発電への補助金廃止や市場の急拡大に伴うシリコンの供給不足に対応できなかったこともあり、2006年の太陽電池生産量は434MWから2007年は363MWに落とし、生産量はドイツQセルズ 社がトップに立っている[2] 。メーカー別で見れば、2007年末の日系メーカーの太陽電池生産シェアは24.6%であり、世界一のシェアを誇っている。[3] また近年中国や台湾の生産量が急激に増えている。

執筆の途中です この項目「太陽電池」は、工学 ・技術 に関連した書きかけ項目 です。加筆、訂正 などをして下さる協力者を求めています 。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%9B%BB%E6%B1%A0 」より作成


原発がどんなものか知ってほしい

平井憲夫

 私は原発反対運動家ではありません。二○年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。

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1. 私は原発反対運動家ではありません
2. 「安 全」は机上の話
3. 素人が造る原発
4. 名ばかりの検査・検査官
5. いいかげんな原発の耐震設計
6. 定期点検工事も素人が
7. 放射能垂れ流しの海
8. 内部被爆が一番怖い
9. 普通の職場環境とは全く違う
10. 「絶対安全」だと5時間の洗脳教育
11. だれが助けるのか
12. びっくりした美浜原発細管破断事故!
13. もんじゅの大事故
14. 日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?
15. 日本には途中でやめる勇気がない
16. 廃炉も解体も出来ない原発
17. 「閉鎖」して、監視・管理
18. どうしようもない放射性廃棄物
19. 住民の被曝と恐ろしい差別
20. 私、子供生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。
21. 原発がある限り、安心できない

筆者「平井憲夫さん」について:

1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。
http://genpatsu_shinsai.at.infoseek.co.jp/hirai/

<バイオ燃料>アオコから高効率抽出…従来の70倍に成功
 湖や池の水面を埋めるアオコから、簡単に安くバイオ燃料を生み出す新技術の開発に、電力中央研究所エネルギー技術研究所(神奈川県横須賀市)が成功した。従来の方法より約70倍も生産性が高く、製造時の環境影響も少ないという。東大阪市で開かれる日本化学会で29日発表し、水の浄化と地球温暖化対策の一石二鳥になる「緑の原油」として数年後の実用化を目指す。(毎日新聞)
[記事全文]

◇研究成果発表
・ アオコから『緑の原油』の抽出に成功 - 電力中央研究所と連名。新エネルギー・産業技術総合開発機構(3月17日)




2010年02月06日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:-iの意識と現象について:潜在性としての-iと顕在作用としての+i
対象と一体となる-iということであるが、一体、そのとき、対象とは何か。先に、-1ではないかと示唆した。
 +1ならば、物質である。客体・存在である。しかし、一体となるとき対象は物質ではないだろう。
 それは何か。光の現象と一体となっているのだから、対象は現象、光現象である。
 現象とは何かと言えば、それは、⇒+1である。⇒付きの+1である。なぜなら、+1は単に物質だからである。では、-iが⇒+1と一体化するということになる。
 少し違う視点で考えよう。-iとは内在的他者である。しかしながら、これが、外在的他者と一体化するのである。
 では、外在的他者とはどう記述できるのか。思うに、それは、内在的他者に還元されるのではないか。つまり、内在的他者としての外在的他者である。
 そうすると、端的に、一体化する対象は内在的他者である。言い換えると、「わたし」の中の他者と一体化するのである。ということは、「わたし」の中には、森羅万象があるということになるだろう。
 そう考えると、プラトンのコーラとは、-iではないだろうか。ここに全可能性ないしは全潜在性があるのであるから。イデアとは、-iにあるのではないだろうか。
 もし、そうならば、+iとはどういう働きをするのか。私は、知的認識作用と考えている。フッサール現象学で言えば、志向性である。それは、他者-iへの志向性である。
 フッサール的に言えば、+iは形相作用ではないだろうか。しかしながら、原形相は-iにあるのではないのか。それを+iは形相として浮き彫りにするのではないだろうか。
 つまり、原形相、潜在的形相が-iである。それ顕在化させ形相にするのが、+iの作用ではないのか。前者が闇の形ならば、後者は光の形成作用である。両者が結合して、闇の形が光の形になるのではないだろうか。この光の形が現象、光現象ではないのか。
 だから、-iが現象と一体化するというのは、当然である。なぜなら、現象は-iを極としてもっているからである。いわば、負極である。つまり、現象とは、正極の+iと負極の-iをもち、両者が共振して生起したものである。
 だから、-iは現象のいわば潜在面へ「融け込む」である。そして、+iは現象の顕在面を知覚するのである。
 今はここで留める。後でさらに検討したい。


2010年02月02日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:Multiple Media Pointについて:X*Y⇒+1
例えば、n個の差異と共振する事態をどう記述するのか。
 X1, X2, X3, ・・・Xnの差異があるとすると、
X1*X2*X3*・・・*Xnとなる。
ここで、単純化して、例えば、
X1*(X2*X3*・・・*Xn)と変換できる。そして、
X2*X3*・・・*Xn=Y1とすれば、
X1*Y1となる。これで、即非共振させることができるのである。X1*Y1⇒+1である。
 思うに、( )の括りは、他の場合でも同様であると考えられる。即ち、任意に多重差異共振を単位的な即非的共振に変換できると考えられるので、
X*Y⇒+1となる。ただし、XとYは、任意に括られた差異共振である。


2010年01月29日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:Multiple Media Point
これは、既に、Kaisetsu氏が解明している向きもあるが、私なりに考察してみたい。
 問題は、二つの要素ではなく、三つ以上の要素が「共振」するときはどう考えるべきかということである。
 これは、複数のMedia Pointを仮定すればいいのではないだろうか。
 例えば、虚軸のプラス軸に、_AとBの共振を考えると、AとBには、Media Point(M. P.)ができる。即ち、図示すると、

          +i
          |
          |
          |
          |  
          A
          |
          m.p.
           |
           B
           |
-1________M. P. _______+1
          |
          |
          C
          |
          |
          |
          |
          -i

(うまく図示できない。虚軸が当然、M.P.のところに来るのである。因み、m.p.が部分的なMedia Pointであり、
M. P.が中心である。)
となるが、AとBの間にM.P.があることを確認すべきであろう。しかし、基本的なMedia Pointは、虚軸と実軸の交差点に存する。
とまれ、多元的なMedia Pointをこれで確認できるのではないだろうか。
 言い換えると、中心になるのは、いわば、Major Media Pointであり、多元的なMedia Pointはそれぞれ、Minor Media Pointと呼んでもいいだろう。
 とまれ、鎖状のMedia Pointの共鳴がここにはあると言えよう。
 後でもう少し述べたい。

追記:説明が舌足らずであるが、私が考えているのは、例えば、三つの要素(差異)A,B,Cが共振融合したときどう表記できるのかというようなことである。
 上手では、先ず、AとBとの共振を考える。それを例えば、A・Bとする。このA・BとCとの差異共振を考えると、
(A・B)*C⇒+1になるのではないだろうか。
 思うに、正しく表記するなら、
(A*B)*C⇒+1
ではないだろうか。上図でm.p.と書いた部分が(A*B)の*に当たる。
 主に、これは、転移したMedia Pointと言えるのではないだろうか。Transferred Media Pointである。


2010年01月21日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:視覚と植物と大気:気覚と気視覚
近くに落葉広葉樹の森があり、また、農地もある。しかし、国道があり、車の通行も多い。それにもかかわらず、ここの空気・大気には、清新な気を感じる。
 ここで仮説として、気的感覚(以下、造語の気覚)を提起する。それは、当然、空気の気を感覚する能力である。
 これは、視覚がなくても、いわば、肌で感じるものである。
 思うに、木々をみるとき、都会と田舎(郊外を含めて)では異なる。視覚から言えば、都会の木々も田舎のそれも、絶対的には異ならない。もっとも、葉の生気感や色等が異なるだろうが。
 端的に、東京で見る樹木は、一体感が乏しい。もっとも、一体感がないことはない。駅前のイチョウの木に一体感を感じうるが、それは、限られた経験である。
 私は気覚の充足を求めているのだろう。東京の空気においては、気覚は充足されず、ただ、視覚がはたらく。
 そう、気覚が充足されないことから、息苦しさを感じると言える。
 今住むところでは、気覚が充足され、そして落葉した冬の木々を見ると、針のような枝が心地よい。
 気覚をもった木々の、とりわけ、網状の扇状の枝分かれした木々の視覚が心地よい。これを気的視覚(以下、造語で、気視覚)と言ってもいいだろう。気視覚は、「自然」と共振する。山、森、土、川、等。
 端的に、「気」とは何か。直感で言うと、大地の呼吸と関係すると思う。東京はコンクリートで大地が窒息しているので、気が欠乏していると思う。
 大地の呼吸とは、植物と水や空気を介したものだろう。土や植物から水蒸気や気体が発生する。そこに気があるのではないのか。
 H20は、水素イオンと酸素イオンをもつのではないのか。つまり、Media Point化しているのではないのか。そのときに、気が発生するのではないのか。
 つまり、大地の水がエネルギーを受けて、水蒸気になるとき、イオン化して、Media Pointが発生するのではないのか。そのとき、気が発生するということではないのか。
 熱エネルギーが再Media Point化が発生するということではないのか。これを
Re-mediapoint(re-mp)化
(Re-MediaPointenment)と呼ぼう。
思うに、このとき、超越エネルギーが生起するのではないのか。先に、超越光と呼んだものと類似するように思えるが。(もっとも、先には、気はマイナス1と考えたが、それはおいておく。)
 結局、エネルギーの再活性化ではないだろうか。水は、+1となっているが、賦活されて、Media Pointが開くのではないのか。
 つまり、虚軸のエネルギー、超越エネルギーが生起するのではないのか。ここで作業仮説で、気を超越波と呼ぼう。つまり、超越波が発生して、空気が活性化するのではないだろうか。
 これは、調和的電磁波と言えるかもしれない。プラスとマイナスの差異が共振した電磁波ということになる。階調的電磁波である。
 では、人工物の電磁波はどうなるのか。例えば、私はコンクリートの集合体が大嫌いであるが、その場合のコンクリートの電磁波はどうなるのか。
 そこへ光が当たっても、共振はないと思う。コンクリートは、プラス1だけであり、Media Pointはないと思う。物質である。そう、物質とは、Media Pointを喪失したものであり、エンテレケイアである。
 東京とは、物質の集合であり、気はないのである。唯物論の都市である。アンラ・マンユの都市であり、没精神の都市、悪魔の都市である。
 気は調和的電磁波と考えられるので、気が多いと、心身に調和志向をもたらすだろう。つまり、心において、精神性をもたらすと言えよう。
 今日、日本人が精神を喪失しているのは、ここにも原因があるだろう。とりわけ戦後の唯物論(近代合理主義)的都市化によって、気を喪失して、精神を失ったのである。三島由紀夫の断絃の時とは、このことと関係しよう。気は音楽をもたらすのである。気の喪失によって、音楽が死んだのである。

追記:気を調和的電磁波と言ったが、まだ、どこか、気と電磁波は異なるのではないという感じがある。それとも、私の偏見であろうか。後で検討したい。

参考:
氷・水・水蒸気…水の三態

私たちは日常の中で、水を冷やせば氷になり、氷に熱を加えると水に戻り、さらに熱を加えていけば水蒸気になることを当たり前のように体験しています。しかし、水は人為的な作用を加えずに、自然条件の中でも固体、液体、気体と姿を変えることができます。私たちにとって、水ほど当たり前のものもありませんが、実は水ほど不思議な物質もありません。水のもつ能力や謎には、いまだ解明できていない部分があります。
1. 水分子の構造

水の分子は、化学記号からわかるとおり水素原子(H)2つと酸素原子(O)1つが結合してできていますが、この水分子1つでは液体になりません。水という液体になるためには、水分子がたくさん連なることが必要です。物質を構成する分子と分子がつながるための力にはいろいろな種類がありますが、水分子の場合は酸素側がマイナスの電荷、水素側がプラスの電荷を持つようになり、いわば磁石のような働きを持っているために、正負で引き合う電気的な力によって結合します(水素結合)。この水素結合により、水分子間がつながり、水分子の集合(水クラスター)が形成されます。常温の水では、5〜6個から十数個の分子がクラスタを形成しています。
氷・水・水蒸気


http://www.suntory.co.jp/company/mizu/jiten/know/kn_01_01.html



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2010年01月09日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質
検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質
テーマ:検討問題:思考実験・仮説
Media Pointで、超越対子(造語)は、即非的エネルギーになり、プラス1で、物質となり、マイナス1で、「ダーク・マター」となる。
 身体と言うとき、先に、物質的身体と精神的身体に分けたが、もっとも、両者は即非的に一体である(即非的身体)。
 そして、自然、生命とは、この即非的身体である。つまり、森羅万象、「精神」(マイナス1)をもつのである。しかし、近代合理主義、唯物論は、プラス1の物質しか認めないのである。そのため、自然は、総合的に認識・理解されないであり、ただ、即非的身体を同一性(物質)の側面から見ているだけなのである。
 遺伝子も、物質的側面であるDNAしか見ていないのである。遺伝子は正しくは、即非的身体であり、マイナス1に遺伝子情報があると見るべきである。
 それは、差異共振的情報であり、多様な波動的情報と考えられる。言い換えると、多様な電磁気(=気)的情報と考えられる。


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