検討問題・課題

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年07月04日(Fri)▲ページの先頭へ
複素平面のMedia Pointに直交する軸と天の柱(又は、宇宙樹)
イザナミとイザナギの有名な天の柱の話であるが、天の柱とは、ガウス平面のMedia Pointにおいて直交する軸ではないかとふと思った。もっとも、この思いつきは、だいぶ以前に抱いたものであるが。
 そして、これは、神話的には、エデンの園の生命の木に通じるのではないだろうか。蛇は当然、対イデアの二重螺旋ではないかと思うが。そう、注連縄もこれではないだろうか。これを、二匹の蛇の交尾の捉える人がいるが、それは、いわば、世俗化であると思われる。
 聖書では、知恵の木と生命の木の二本になっているが、オリエントの神話では、元々は一本である。私はこれが本来であると思う。
 イデア・エネルギーは、知であり、かつ、身体・存在であると考えられるのである。換言すると、イデアとは知であり、且つ、身体・存在であるということであり、前者が知恵であり、後者が生命ということではないだろうか。

p.s. それとも、+1を天に、-1を地にして、実軸を天の柱と見るべきか。

p.p.s. 呉茂一氏の『ギリシア神話』のディオニュソスの説明を読んで、アポロとディオニュソスは、上述したような対イデアを形成すると直感した。つまり、+iがアポロであり、-iがディオニュソスであり、両者が即非的に、知となり、身体となると思ったのである。【p.s.  これは、どうも訂正しないといけないかもしれない。呉茂一氏は、ディオニュソスは、「天と地の子」と想定している。すると、天(ゼウス)=+iであり、地(セメレー)=-iが成り立ち、その共鳴として、ディオニュソスが考えられるだろう。つまり、差異共振エネルギーである。イデア・エネルギーである。では、アポロはどういうことかと言えば、それは、同一性ではないだろうか。つまり、+1ではないだろうか。-1は同一性主義であるが、+1は同一性であろう。つまり、自己認識方程式の左辺がディオニュソスであり、右辺がアポロではないのか。しかしながら、アポロはディオニュソスに包摂されるのではないのか。また、アポロは、同一性主義に転化しうるだろう。それは、-1であろう。この辺のところは微妙である。後で、精緻に検討したい。】

3p.s. D. H. ロレンスの「王冠」の思想であるが、それは、「父」と「子」との平衡として、「聖霊」を説いているが、「父」は+i、「子」は-i と見て、「聖霊」は+1ではないだろうか。
 思うに、「父」主義も「子」主義も、-1になると思う。両者の共振が「聖霊」であり、+1ではないだろうか。


参照:

ユグドラシル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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曖昧さ回避 その他の用法についてはユグドラシル (曖昧さ回避) をご覧ください。
曖昧さ回避 世界樹はこの項目へ転送 されています。その他の用法については世界樹_(曖昧さ回避) をご覧ください。
北方神話における世界図。中心の木がユグドラシル。
北方神話における世界図。中心の木がユグドラシル。
ユグドラシルに住みつく生き物たち
ユグドラシルに住みつく生き物たち

ユグドラシル(古ノルド語 : Yggdrasill)は、北欧神話 に登場する「世界」を体現する巨大な木 であり、「世界樹」もしくは「宇宙樹」とも呼ばれる。アイスランド語 ではイグドラシル(イッグドラシル)という。その姿はトネリコ の木を想起させる。アースガルズ 、ミズガルズ 、ウートガルズ 、ヘル などの異なる世界(九つの世界 )をすべて含んでいると考えられている。

「ユグドラシル」という名前の由来には諸説あるが、最も有力なものは「恐ろしい者の馬」すなわち「オーディン の馬」を意味しているという説である。Yggrは、オーディンがもつ名前の一つである。

3つ根が幹を支えており、それぞれアースガルド、ミッドガルド、ヘルに通じている。 アースガルドに向かう根のすぐ下に、神聖なウルドの泉 があり、ミッドガルドに向かう根のすぐ下にはミーミルの泉 がある。

この木に住むリス のラタトスク が、それぞれの世界の間に情報を伝えるメッセンジャーとなっている。

木の頂上には1羽の大鷲 (時にフレースヴェルグ とされる)が止まっており、その目の間にヴェズルフェルニル と呼ばれるタカ が止まっているという。

ユグドラシルの根は、蛇 のニーズヘッグ によってかじられている。ヤギ のヘイズルーン は、ユグドラシルの頂上に住み、その葉を食べている。また、ダーインとドヴァリン、ドゥネイルとドゥラスロール(古Dáinn ok Dvalinn,Dúneyrr ok Duraþrór)と言う四頭の鹿 がユグドラシルの樹皮を食料としている。

ちなみに、ザクセン人 がイルミンスール(Irminsūl、「イルミンの柱」の意、イルミンとはザクセン人の祖神)という同じような世界樹を崇拝していたことが、772年 にその木を切り倒したカール大帝 の記録などから分かっている。

[編集 ] 関連項目

* 神話 - 北欧神話
* 九つの世界
* 生命の樹
* 黄金樹

ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ユグドラシル に関連するカテゴリがあります。
" より作成
カテゴリ : 北欧神話の地名 | 神話伝説の植物 | 世界観


2008年06月23日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:イデア・エネルギーと物質エネルギーと現象の関係
問題は、ダークエネルギーである。宇宙の加速する膨張のエネルギーが可視される物質のエネルギーと大きく釣り合わない事態が生じていることをどう見るのか、である。
 私は以前に、-1と+1との相違を想定したが、それは訂正されて、イデア・エネルギーと物質エネルギーの相違を説いた。しかしながら、それでは、不十分である。
 そこで考え直して、元に戻して、-1と+1の相違が、ダークエネルギー問題に関係するのではないかと作業仮説する。先程、思いついたことから考えると、可視化される物質宇宙とは、-1であり、それは、差異共振エネルギーの帰結の+1の表面に過ぎず、当然、-1と+1は不連続であり、-1の物質宇宙から+ 1のエネルギー宇宙を導き出すことは、理論的に不可能ではないだろうかと思うのである。
 そうすると、アインシュタインのエネルギー公式はどうなるのだろうか。E=mc^2におけるm(質量)は当然、物質宇宙の事象である。問題は、c(光速度)の意味である。
 ここでは、思考実験するが、mは、-1に関係し、cは+1に関係するのではないだろうか。すると、この公式は、折衷になるのではないだろうか。
 直感で言えば、+1から-1が派生するのであるから、mは+1から派生するのであり、+1における、いわば、原質量とは何かということが考えられるのではないだろうか。
 そう、いま思いついたのであるが、この原質量がダークマターに相応するのではないだろうか。では、問題のダークエネルギーは何だろうか。
 原質量をXとすれば、+1のエネルギーは、Xc^2となるだろう。+1のエネルギーを、primary energy として、PEと表記すれば、PE=Xc^2となるだろう。思うに、このPEがダークエネルギーではないだろうか。この問題は今はここで留めておく。
 さて、以上の考え方によれば、ダークマターやダークエネルギーは、+1の世界の事象に過ぎず、イデア界には、達していないのである。+1は四次元と考えると、五次元のイデア界を捉えていないのである。言い換えると、イデア・エネルギー(仮説)を看過しているのである。
 思うに、「気」とは、イデア・エネルギーではないだろうか。また、コスモスとは、イデア界のことではないだろうか。もっとも、Media Pointとの関係を見ないといけないが。つまり、Media Pointを介して、イデア界が現象界へと「流入」するのである。このとき、イデア・エネルギーは、例えば、「気」として、発出されると思われるのである。もっとも、イデア・エネルギーすべてが、「気」というわけではないと思うが、とりあえず、作業仮説的に、イデア・エネルギー=「気」として、考えたい。
 そして、イデア界=コスモスとなるのだろうか。(ここで、プラトンの古代宇宙論を説いた『ティマイオス』を想起するといいだろう。)
 では、魂とはどうなるだろうか。これまでは、Media Pointが魂であるとおおむね考えてきた。今思うと、微妙である。イデアを魂としてもいいと思えるのである。
 その方が、整合的だと思うのである。イデア界は思うに、多数、ないしは、ほとんど無数のイデアがあるのではないだろうか。(先には、唯一のイデアを構想したが。思えば、不連続的差異論のときに、イデア界は、多者の世界であると考えたのである。)
 そうならば、Media Pointと魂=イデアの関係はどうなるのだろうか。Media Pointは、いわば、宇宙の臍(へそ)である。存在の臍である。現象の臍である。森羅万象の臍である。
 現象界の人間にとって、Media Pointは、イデア界と交流する「場」である。一般的に、魂というものは、Media Pointを介してのイデアではないだろうか。それとも、Media Pointとともにあるイデアのことなのだろうか。
 死者の「魂」は、イデア界に帰還すると思われる。純粋な、差異共振様相となるのである。確かに、天国である。しかし、イデアは認識体であるから、現象界の記憶があるだろう。言わば、イデア・アーカイブである。
 ということで、魂に関しては、これまでの考えを変更して、イデア=魂ということにしたい(まったく、純粋なプラトニズム、プラトン原理主義である)。もっとも作業仮説である。


2008年06月11日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:差異と身体:精神的性愛と物質的性愛
本件は、ある意味で核心的問題である。これまで、Media Point(以下、MP)において、両者は一致すると考えた。
 極く、素朴に考えよう。たとえば、食欲とは何か。これは、物質的身体を維持するための必要な欲望であろう。つまり、同一性主義における「欲望」ということである。端的に、同一性主義欲望と言っていいだろう。
 私は性欲も同様だと思うのである。ここは微妙な問題である。つまり、性愛とは何かの問題に通じるのである。
 プラトンはエロースを説いた。それは、端的に、イデア的共振性である。差異共振性と思われる。独立性と水平性の併存である。
 しかし、それは、性愛なのだろうか。ここで考えるべきは、先に述べた、同一性主義への傾斜と差異共振主義への傾斜のことである。
 前者の場合は、性愛は性欲に帰結する。しかし、後者の場合、性愛は、性欲に帰結しないと思うのである。それは、精神愛であろう。
 思うに、ここにギリシア神話を解く鍵がありそうである。あるいは、新プラトン主義を解く鍵が。
 同一性主義に傾斜していれば、性欲に帰結し、差異共振主義に傾斜していれば、精神愛に帰結しよう。プラトンのエロースは当然、後者と考えられる。
 現代世界は、自明的に、前者の世界である。物質主義と性欲は結びつくのである。しかし、差異共振主義の傾斜は、精神的性愛をもたらすだろう。俗にプラトニック・ラブと言われるが、エロースは、本来、そのようなものである。同一性主義は父権主義であり、差異共振主義は母権主義となる。
 西洋文明は前者的である。しかしながら、今日・現在、そして、未来、後者が主導的になると思われる。言い換えると、物質/自我主義から、精神/自己主義へと転換すると思われるのである。すると、性愛は、物質的なものから、精神的なものとなる。新ロマン主義である(p.s. 誤解される表現であるが、精神やロマンとは、実は、精神的身体を意味すると考える。後で、検討する)。
 単なる性欲は劣位のものとみなされるようになるだろう。

p.s. 本件のテーマである差異と身体については、はっきり述べていない。後で検討する。

p.p.s. 因みに、『チャタレー夫人の恋人』を書いた、「性」の達人のD. H. ロレンスであるが、彼の性愛論は、私見では、実はプラトニズムなのである。ロレンスの性愛は明らかに、差異共振主義である。だから、新プラトン主義に似ているのである。イタリア・ルネサンス的なのである。ロレンスの説く肉体とは、実は、イデアの影である。ロレンスはイデアの表現として、肉体・性愛を表現していると考えられる。



2008年06月06日(Fri)▲ページの先頭へ
差異の叡知と同一性の知識:イデア科学と物質科学:高次元科学としての太古の科学
先に、父権主義化によって、都市文明が生まれ、その後、ユダヤ・キリスト教によって、今日の物質文明が帰結したと言い、父権主義化以前においては、同一性と差異とのバランスのとれた社会があったと述べ、それが、動物の世界に似ていると言ったが、言い足りないと考えられるので、補足ないし補正したい。
 つまり、いわゆる、神秘的な、霊的な叡知が、母権的世界には存していたと思われるのである。先に言及した、ヴィクトル・シャウベルガーの説くような自然叡知を、その超太古の世界はもっていたように思えるのである。この点について、検討したい。
 端的に言えば、物質的自然の「科学」ではなく、イデア的自然の「科学」である。言い換えると、5次元的「科学」である。いわゆる、オカルトと呼ばれるものは、この残滓であると思う。占いも本来、高次元科学であったと思う。


2008年05月22日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:ハイデガーの存在とMedia Pointについて
去年の夏、ハイデガーの『存在と時間』に書いたノートがあるが、それは、Media Pointを介した連続性と不連続性との二重性を明快に説いている。最近の私の議論よりも明晰である。少しこの点を考慮して再考したい。
 今は、余裕がないので、簡単にポイントだけ触れると、ノートは、Media Pointにおける志向性がもつ連続的同一性と差異の「両義性」の二重性を説き、連続的同一性が意識に、差異が無意識になると述べている。
 ハイデガーの本来的存在は、その無意識に当たると考えている。それは、当然、「暗い」領域である。端的に言えば、本来的存在(以下、本存在)は、差異なのである。そして、本存在=差異は、原時間的である。さらに、ハイデガーは本存在=差異と同一性との亀裂を見ている。つまり、不連続性を見ているのである。だから、本存在=差異とは、Media Pointに近いのである。しかしながら、本存在=差異には、他者が欠落しているのである。言い換えると、超越的他者性がないのである。
 思うに、Media Pointにおける志向性の即非性において考えるとわかりやすいだろう。一面では同一性であり、他面では差異である。そして、ハイデガーは後者を本存在としていると考えられるのである。
 しかしながら、本存在=差異がMedia Pointではないのは明らかである。どう考えたらいいだろうか。それは、やはり、+iに傾斜しているということである。-iが劣位にあるために、+iが優位となり、差異共鳴が起こらずに、差異を自己中心化していると考えられるのである。
 もし、差異共鳴性(差異共振性)が現前していたならば、そこには、他者への志向性が明確になるはずであるが、それが本存在にはないのである。だから、本存在は、端的に、+1ではないだろうか。頽落した現存在は、-1である。
 ただし、+1とゼロはほぼ一致するだろう。何故なら、積によって、+1が発現しても、それは、根源の超越性を排除するので、根源はゼロ=空=無になると考えられるからである。つまり、根源を排除・消去するということである。即ち、ゼロ⇒+1である。そして、これが、やはり、本存在=差異であると考えられるのである。
 初期デリダの差延は、ハイデガーを踏襲して、+1と-1との差異を意味するだろう。ドゥルーズの場合は、+1に徹底して、連続的差異=同一性を説いたと思われる。
 今はここで留めるが、問題は、冒頭に記した即非性における差異の位置である。同一性は+1でいいが、差異はどこに位置するのか。思うに、差異は Media Pointに位置すると考えられよう。だから、ハイデガーやポスト・モダンにおいても、本存在や差異は、本来、Media Pointに存しなくてはならないのである。しかしながら、ゼロ⇒+1になっていると思われるのである。後で再検討したい。


2008年05月16日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:「わたし」とは何か:イデアと魂と自我
自我とは同一性であり、物質と等価的である。自我は「わたし」である。しかし、「わたし」とは何か。これが不思議であり、難しい。般若心経的に言えば、「わたし」即是空、空即是「わたし」であろう。
 しかし、自我と自己は異なる。「わたし」は自我でもあるし、自己でもありうる。今の考えを言えば、自我としての「わたし」とは、自己としとしての「わたし」の仮象部である。仮象としての「わたし」があるだろう。英語で言えば、Iである。思うに、これは、数理的には、-1である。自己は+1である。しかし、正確には、自己認識方程式である。
 死ねば、当然、-1と+1はなくなる。何故なら、それらは現象数理であるからである。残るのは、+iと-iである。問題は、Media Pointである。それは、どうなるのか。先の思いつきでは、そこは、イデア・アーカイブ、あるいは、イデア・データベースである。Media Pointとは、実に不思議な領域である。
 魂があるとするなら、それが魂である。そして、それは、イデア共振から形成されていることになる。言い換えると、Media Point化されたイデアが魂ということになる。直感で言うと、Media Pointの記録・情報をもっているイデアが魂である。ちょうど、CDやDVDを想定するといいだろう。言わば、MPである。
 思うに、Media Pointは多様である。この多様性の一つの様相が魂ではないだろうか。だから、一即多がここで成立しているのではないだろうか。魂は多数であるが、同時に、一つ・唯一である。
 言い換えれば、イデアは一つ・唯一であるが、魂・精神は多数である。ここに、一元即多元論が成立しているだろう。
 一神教は、この一元性が説いて、多元性を否定していると言えよう。とまれ、Media Pointは、一神教と多神教との一致を意味するのである。もっとも、一と言っても、原三元性があるのである。


2008年05月14日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性=物質化とは何か
考えると、同一性=物質化とはとても不思議なものに思えるのである。先に地震の予兆になる動物の反応のことを述べたが、動物は地震に関係する電磁波=超越エネルギーを「感覚」していると考えられる。超光が動物には「視える」のだろう。
 しかしながら、そのエネルギーは確かに、物質を形成しているのである。これをどう考えたらいいのだろうか。つまり、自然のもっている同一性現象とはどういう力学から発生するのか、である。アインシュタインのエネルギー公式のPS理論版を見るとわかりやすいだろう。

E=m(+ic)(-ic)⇒mc^2

である。両辺をmで割ると、

(+ic)(-ic)⇒c^2

となる。さらにcで割ると自己認識方程式となる。
 とまれ、思うに、右辺が物質形式でもあると見るべきではないだろうか。つまり、同一性である。すると、-1=同一性と齟齬を来たすことになる。これをどう考えたらいいのか。ここには、現象の実に不思議さ、霊妙さ、玄妙さがあるのではないだろうか。
 思うに、右辺は物質形式ではなくて、エネルギー形式と見るのが適切であろう。そして、物質形式はそのマイナスではないのか。つまり、-mc^2が、物質形式ではないだろうか。
 そうならば、マイナスに大きな意味があるのである。思うに、マイナスとはネガの世界であり、プラスがポジの世界である。ネガの世界は、影の世界である。もっとも、影は現象界では光である。
 ここは実に不思議である。ここでの思考実験から考えると、物質現象とエネルギー現象の二つがあるのであり、両者はマイナスとプラスの関係である。一種鏡像関係と言えるのではないだろうか。
 とまれ、物質とは何か、である。そう、エネルギーが共振から生まれたとすると、物質は共振を否定して生まれているのではないだろうか。どういうことかと言えば、自然は、二重様相であり、一方では、エネルギー現象であり、他方では、物質現象ではないのか、ということである。
 そして、近代科学・技術は、物質現象のみを扱い、本来のエネルギー現象を捉えていなかったことになる。しかし、20世紀になり、相対性理論や量子論によって、物質現象からエネルギー現象へと対象が変換したと考えられるのである。つまり、物理学は、光科学=「精神」科学になったのである。
 思うに、19世紀末から20世紀初期ないしは前半において、哲学であれ、科学であり、芸術であれ、この変換が起こったと思われるのである。
 しかし、物質主義=唯物論に縛られているために、この変換の意味を十分に把捉していないと考えられるのである。哲学で言えば、フッサール現象学のブレークスルーを、ハイデガーは取り逃がしてしまったと思えるのである。先の考察からすれば、ハイデガーの言う本来的存在はエネルギー現象に、頽落した現存在は物質現象に相当すると考えられるのである。
 ここで、ハイデガーの本来的存在について考察すると、それは、まことに不思議である。ここの視点からは、エネルギー現象であるが、本来的存在は暗いのである。なぜなら、差異共振性がないからである。つまり、正に、右辺(mc^2)のみということになると思われるのである。
 これは、比喩的に言えば、暗い光、暗い超光ではないだろうか。(参照:D. H. ロレンスのdark sun) 本来、エネルギーは超光現象であり、「光」のはずである。しかしながら、本来的存在は暗いのである。
 この説明であるが、超光とは、思えば、差異共振の結果であり、自己と他者との一体となり、差異共振性がもはやないということを意味しているのではないだろうか。つまり、エンテレケイアである。
 だから、闇としての超光が考えられるのである。(参照:ダークエネルギー)ハイデガーの本来的存在=「光」現象とはそのような意味になると思う。すると、闇としての超光(エネルギー現象)と影としての光(物質現象)があるということになる。思うに、阿弥陀如来の無量光とは、イデア界の差異共振光=原超光を意味するだろう。
 そう、たとえば、天照大神であるが、それは、Media Pointが開いて、イデア界の原超光を得たものであろう。だから、天の岩戸とは、Media Pointではないだろうか。(また、プラトンの善のイデアは、当然、イデア界の原超光である。)だから、エネルギー現象はイデア界の原超光を反映・反照するとき、発光するということになるだろう。闇の超光と光の超光である。というか、暗い超光と明るい超光である。
 以上のように見ると、ハイデガーの本来的存在は、神秘主義の闇と通じるように思われる。黒い太陽ではないだろうか。
 しかし、これでは、まだ、奥の院には、当然、達していないのである。Media Pointが開いていないのである。(後期ハイデガーは、なんとか、Media Pointに達しようとしたのかもしれない。しかしながら、そのときは、水平性を喪失して、垂直性だけになっているように思える。)
 《光》をもたらさなくてはならないのである。物理学で言えば、相対性理論に量子論的背景を与えることを意味するのではないだろうか。つまり、量子論的相対性理論となるときに、真に《光》の理論になると思われる。
 神話で言えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスだけでは、暗い太陽であろう。つまり、+1である。しかし、イシスとオシリスの極性があるときに、原超光、即ち、イデア界の《光》、《太光》になるのではないだろうか。ならば、イシスなくして、オシリスの光はないということになるのである。イエスの光は、イシスなくしてないということになるのである。ここにプロテスタンティズムの問題があるだろう。
 さらに展開すると、なぜ、太母は、月をシンボルとするのだろうか。かぐや姫は月の女神、いわば、アルテミスに当たるといえよう。これは何だろうか。
 おそらく、これは、やはり、+1ではないだろうか。ここは、処女神を意味するのではないだろうか。いわば、単性生殖(処女生殖)である。すると、+1は太陽ではなくて、月である。そして、イデア界が太陽であろう。そして、Media Pointは、穴(ブラックホール?)である。では、-1は何だろうか。物質現象とはどういうシンボルをもつのだろうか。意外に天、天空ではないだろうか。つまり、+1が月や海や大地であり、-1が天空ではないだろうか。ギリシア神話で言えば、オリュンポスの神々ではないだろうか。
 そうならば、二つの天があるだろう。イデア界の天と現象物質界の天である。(創世記の冒頭は現象物質界の天の創造を述べているのだろう。)
 途中。


2008年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:諸テーマ
1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教あれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性は統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性に基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきがある。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。


2008年04月07日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:諸考察:再差異化によるMedia Point感覚の形成:精神界という高次元の発現
いろいろ考えたいことがあるが、メモしておかないと忘れてしまう。しかし、とても重要な問題であるので、論述すると時間がかかる。

1)感覚(感覚身体)と精神:同一性感覚と差異感覚:物質感覚と精神感覚::同一性感覚とは物質感覚であり、いわゆる、五感である。それに対して、差異が肯定されると差異感覚=精神感覚が生起するのではないだろうか。思うに、差異と同一性の未分化様態が最初にあるが、同一性が独立した後、再差異化が起るのである。再帰である。しかし、もはや、未分化ではなくて、純粋な差異化である。
 私が問題にしたいのは、物質身体的にはどういうことなのか、ということである。同一性=物質=感覚(器官)において、差異化が起るとはどういうことなのか、ということである。
 それは、抑圧されていて差異が発現するということであり、Media Pointが開くということである。同一性ー同一性ー同一性ー同一性ー・・・という様式から差異ー同一性ー差異ー同一性ー差異ー・・・という様式へと変換することと考えられる。
 差異は超越性・精神性・差異共振性を意味する。それは、Media Point感覚と言えるのではないだろうか。私が性格相貌と呼んだものも、このMedia Point感覚、この場合は、Media Point視覚というものになるだろう。再差異化とは、Media Pointの発現である。「天の岩戸」の再開扉である。
 シュタイナーの精神科学とは、この意味からは、間違っていないと思われるのである。とまれ、精神界(イデア界・魂界)が高次元として、発現することになると言えよう。
 プラトニック・シナジー理論は精神哲学科学である。精神哲学数理科学である。
 

2)視覚とは何か:あるいは感覚とは何か:精神的感覚を認めると、認識が劇的に変化するのではないだろうか。同一性中心主義においては、物質的な五感が基本であるが、再差異化が起ると、差異エネルギーが発現して、差異感覚が新たに生じる。【思うに、深い芸術家は、これを表現してきたのである。ロマン派・象徴派の詩人、等々】
 差異エネルギーは五感を変容すると思われる。精神的五感となるだろう。精神的視覚、精神的聴覚、等。心眼、心耳、等である。ここでは、もっとも興味深い視覚について考察しよう。
 精神的視覚とは、差異共振視覚と言えるのではないだろうか。私がたとえば、車窓から銀嶺を眺めていたとする。私は銀嶺に引きつけられ、私は銀嶺と「一つ」(一如)になる。この「一つ」という感覚が差異共振感覚であり、この場合、差異共振視覚である。
 図式化すると、

「わたし」(差異)〜共振(「一つ」)〜「銀嶺」(差異)

となるだろう。単に同一性視覚の場合を図式化すると、

「わたし」(同一性)ー空間(遠近法)ー「銀嶺」(同一性)

となるだろう。「わたし」は客体である「銀嶺」を見ているのである。
 同一性視覚においては、同一性の関係であったが、差異視覚の場合は、差異が入って、差異共振化するのである。つまり、物質感覚+差異感覚であり、先に述べたように、即非様態が発現するのである。即ち、「わたし」は「わたし」であり、「銀嶺」ではないが、同時に、「わたし」は「銀嶺」であり、「銀嶺」も「わたし」である。
 即認識は、共振認識であり、これが、新しい情である。共振情・共鳴情・交響情と言ってもいいだろう。
 思うに、神秘主義者は、この即認識を強調したのである。例えば、「一体感」・コスモス感覚である。確かに、連続性の向きがないことはないが、しかし、積極的に理解するならば、即認識である。(今日、日本人、とりわけ、東京人に欠落しているのは、この認識だと思われる。)
 また、超越光であるが、それは、「わたしの視覚」(差異)と太陽光(差異)とが共振して、視覚するものではないだろうか。そう、「わたしは白い光と一体である」ということではないだろうか。また、崇高な夕焼けに吸い込まれるように見蕩(みと)れる場合、「私は夕焼けと一体である」ということだろう。
 ここで、特に私事になるが、思えば、物心ついてから、この共振視覚ないしは共振感覚を私はもっていたことになる。幼稚園の頃は、不思議にも、壁にかかっていたカレンダーの雪の情景に吸い込まれてしまった感覚をもったし、また、小学生の頃は、電線の鳥と一体化感じをもった。いわば、弱いシャーマニズムである。魂が対象に飛んでしまうのである。
 その後、学校の勉強に追われていたが、疲れたとき、晴天の時は、トタン屋根に寝そべって碧空を見つめて、空の青さに吸い込まれていたし、また、通学路において、農業地帯であったので、春青々とした水田と新緑の防風林に心が溶け込む美的快感をもったものである。
 このいわば神秘的感覚は、今でも残っているが、かつてほど、強くはない。
 とまれ、神秘的感覚とは、今や、精神的感覚、差異共振的感覚として、肯定することができるのである。結局、森羅万象は、精神性に満たされているのである。かつて、古代ギリシアの哲学者タレスが、すべては神々に満たされていると言ったが、それは正しいのである。神々とは差異であり精神である。
 ところで、今日、心の病が蔓延しているが、既述したように、差異共振エネルギー・精神エネルギーが今日賦活されていると思われるのである。近代主義的な同一性主義意識では、これを把捉することができずに、その「ダーク・エネルギー」に翻弄されるように思われるのである。それは安易に扱うことは危険である。不連続なものとして、扱うべきである。連続的意識のままでは、混乱させられるのである。
 話しが脱線したが、今日、新しい感覚、差異感覚、精神感覚が生じてきていると思われる。それは、新しい情でもある。後で、霊学との関連を考察してみたい。

3)物質と生命体について

4)(再掲)先に、差異と同一性の未分化様態において、差異において苦・悲哀を感じて、同一性=自我がルサンチマン(怨恨)を感じると述べたが、苦・悲哀を感じる箇所は、差異でいいのか、と疑問が浮かぶのである。
 また、この問題は、同一性鏡像の問題とも関係するだろう。後で、再検討したい。


2008年04月05日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:心情の閉塞している日本人とりわけ東京人:亡魂による醜態
これまで、近代的自我批判を行ってきたが、考えると、近代的自我主義への批判であり、近代的自我そのものは否定できないのである。今考えている私は、自己をベースにはしていても、近代的自我を介しているのである。
 とまれ、今問題にしたいのは、近代的自我主義によって、心情、精神的感情が閉塞される、ないしは抑圧されることである。
 この証明は実に簡単である。今日の日本の歌、とりわけ、若者の歌を聴けばいいのである。確かに、中にはいい歌もないわけではないが、ほとんど聴くに耐えないものであるが、理由は歌に心情が失せているからである。リリシズムが死んでいるのである。
 近代的自我主義は、自我的観念を強調するので、差異的心情を抑圧してしまうのである。これは、近代合理主義によるとも言える。今日、癒しが流行るのはこの点からもわかることである。
 私見では、70年代後半から今のような近代的自我主義化が強化されたのである。それは、精神的情緒を抑圧しているのである。悪魔的なのである。 
 魂を抑圧して、近代的自我主義化したのである。つまり、今日、日本人、とりわけ、東京人は、魂が埋もれている状態である。魂とは、個である。
 魂=個を喪失すると、醜の状態になる。お花見する日本人の醜態を見よ。魂を喪失しているので、審美意識を喪失しているのである。
 美とは、魂知性による。

p.s. 思うに、問題の根はもっと深いのかもしれない。今、中世の古典とされるチョーサーの『カンタベリー物語』を読んでいるが、実に、愉快である。600年以上前の作品とは思えない溌剌さがある。(やはり、中世にルネサンスの源泉があるのである。もっとも、14世紀はイタリア・ルネサンスの初期に当たる。)
 簡単に言えば、清濁合わせ飲む、ないしは、聖俗混淆の世界であるが、それが嫌みではないのが、楽しいのである。例えば、不倫があるが、大きな生々流転の流れの下で眺められているのである。
 思うに、広義の情が今日抑圧されているのかもしれない。ルネサンスの開放したものは、情であろう。ここには、世俗的情もあれば、神聖な情もあるのである。情は多様多元的なのである。
 そして、また、イデア論の基盤も情にあると思う。ただ、イデア論は、情という現象(情現象)に対して、イデア界を仮説して、情を知的に理解しようとしているように思うのである。
 おそらく、知識人・文化人よりも、庶民の方がイデア論は理解しやすいのではないだろうか。言い換えると、リリシズム(叙情性)とイデア論は深く結びついているのである。
 ニーチェの説くディオニュソスとは、いわば、リリシズムであり、それは、イデア論に近いのである。今、浮かんだが、ニーチェのアポロとは、イデア(語源的には、ideoとvideoは同じである。「見る」とイデアは同根である)ではないのか。この点は後で検討したいが、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointにおいて、情が発現していると考えられる。
 また、今思ったのは、ギリシア神話(ローマ神話)であるが、それは、やはり、情の表現ではないだろうか。ギリシア神話は、実に、人間臭いのであるが、神聖なる次元をもっている。情は、超越的かつ現象的である。プラトニック・シナジー理論から言うと、情は超越的、即非、現象的である。
 おそらく、ギリシア宗教は、情を知的・合理的にコントロールできずに、衰滅したのだろう。それにキリスト教が取って代わったのである。キリスト教は、情から世俗性・感覚性を取り除いて、情を神聖化したのである。情の精神化である。ここに、情の神聖性と世俗性の分裂がもたらされたと言えよう。(思うに、プラトン自身にも、この分離がなくもなかったと言えよう。この点は検討したい。)
 とまれ、これが、近代的二元論の源泉であろう。プロテスタンティズム的二元論の源泉である。そして、近代合理主義が進展して、情自体が希薄化したのである。神聖な情は喪失され、また、世俗的な情は、卑俗化したのである。
 とまれ、Media Pointの開きとは、新たな情の発現でもある。それは、イデア論的な知を意味すると同時に、新しい情を意味する。天上的なものと地上的なものとの融合する情であろう。
 これを何と呼んだらいいのだろうか。言葉は、二元論的にできているので、適切な用語がすぐみつからないのである。とりあえず、差異共振情、差異共鳴情とでも言っておこうか。

p.s. わかりやすく言えば、天地情ないしは地天情である。


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参照1:

★ 2008年4月4日 金曜日 、14時更新

・・・・・

 余談 直して使う (その3)

 我々が、この地球、この人間社会に誕生して、死を迎えるまでに、何を求めて生きてゆくのか? 何のために生まれてきたのか? 人生とは何か? 死とは何か? 我々とは何か?
 我々は、どこから来て、どこへ行くのか? (NHK風で申し訳ないが、気に入ったフレーズだ)

 ただ、あるがままを受け入れて、運命に翻弄される木の葉のように社会の川面を漂う人生もよし、与えられた肉体と頭脳の限りを尽くして、自分とは何か? 何のために存在し、どこへ行くのか? と答えを求めて彷徨う人生もよし、真実を理解することができるなら、複雑怪奇、難解、不可解に見える人生も、少しは安定を増し、座り心地がよくなりそうだ。

 筆者が半世紀を超える人生のなかで見いだした真実、すぐに死んでしまうような、か弱い肉体と、複雑なことを考えられない愚かな頭脳を与えられて、地球に誕生した我々の人生の本当の意味? それは、数百回もの人生、転生輪廻をなかで、人間のすべてを思い知り、その感情を体験し、合理的な自我を確立するということらしい。

 人の本質は、カゲロウのように現れて消える肉体にあるのではなく、人との交流のなかで磨かれる不滅の魂にあるようだ。強い人生も弱い人生も経験し、魂を磨きあい、普遍性を獲得し、やがて宇宙の合理性(ヘーゲル流に言えば「イデー → 絶対精神」)に融合する生命の流れに我々は生きている。
 といっても、相当に長い間、人生の意味を求めて、小さな成果を積み重ねないと、なかなか大きな真理に到達することは難しい。真理は求める意志の彼方にある。求めなければ決して得ることはできない。

 人生の真理は単に長さの問題ではない。肉体を無意味に延命させる必要などない。刹那の瞬間であっても、人は最高の喜び、最大の悲しみ、苦難、充実を体験することができる。体験を「学び」というなら、学びの量ではなく、質が問題なのだ。すばらしい学びを求めて人は生きている。
 数年の命しかなくとも、そのなかに、学びはぎっしりと詰まっている。百年を超す命でも、金儲けだけしか見えない人生は空っぽのままだ。

 これまで繰り返し、人生と社会における唯一で最大の価値は「人情」だと書いてきた。人は人情のなかで生きる意欲を与えられ、人情のために行動し、人情に癒されて生き延び、死んでゆく。人がもっとも癒されるもの、それは友情・人情、そのサインは人の笑顔だ。
 人生最大の秘密は、こんなところに潜んでいそうだ。

 人間社会で、人が問題の本質、人生・社会の本質を見失う最大の原因は、おそらく競争意識にある。
 あらゆるモノが不足するとき、競争意識は多くの人たちの役に立つ。しかし、モノが満たされたとき、それは桎梏(足枷)となる。人は競争によって、必要のないモノを作り出し、無益な浪費に走る。そして愚かな戦いを始めるのだ。
 競争意識、すなわちコンプレックスによって、人は虚構を作り出し、国家を作り出し、上流階級、金持ちという特権意識、優越感、ステータスの幻想を作り出し、社会の不幸を作り出す。
 もし、現代に生まれた我々に共通する大切な学びがあるとするなら、それは競争意識の克服にちがいない。

 2000年前、イエスが指摘したように、金貸しのバリサイ人たちが利息による金儲けを人生の目的として以来、人間社会は彼らユダヤ教徒、バリサイ派の陰謀に翻弄され続けた。彼らは、人生と社会の必要に応じた生産体制を認めず、彼ら資本家だけが肥え太る、金儲け、特権を人生の価値とするよう要求し、特権者が大衆を支配し利用するための国家という装置、虚構の社会を実現してきた。日本におけるバリサイ人の代理人は自民党である。バリサイ人たちは、人間同士の競争を原理とする社会を作り出したといってよい。
 そして現代に至って、「先進国」住民の多くが、他人を蔑むことのできる金持ちになり、人を自分の利益のために利用する社会を求めるようになり、社会を底辺の人情で支える体制が崩壊した結果、今、地球全体が破壊され、人間社会に巨大な破局が訪れようとしている。

 「競争原理の社会」が破滅を迎えようとしている。もはや競争のために、無意味な長時間労働、苛酷労働などする必要もなく、子供たちを成績で追い立てる必要もなく、人を無意味に批判、誹謗する必要もない。
 人は生きる必要に応じて働けばよい。どの程度か? といえば、みんなが、ゆとりをもって食べてゆける労働時間は、おそらく週三日、30時間もあれば十分だろう。人々は、食べるために週30時間働き、自分のために30時間を費やし、週10時間を公共奉仕のために費やせば十分だ。それで、何もかもうまくゆくはずだ。
 愚かな見栄、戦争、競争さえなければ、人々は、笑顔の溢れた、楽しく、ゆとりのある理想社会を建設し、そこで子孫を繁栄させることができるだろう。

 そうして、次にやってくる理想社会は、無駄なモノは作らない。必要に応じて生産する。モノは直して使う社会だ。
 あらゆるモノが直される。あらゆる人も直される。決して使い捨てされることはない。人は過ちを犯すもの。だから、失敗を責めて報復、制裁するのではなく、暖かく、人間として立ち直れるように手をさしのべる社会である。直して使う社会がやってくる!
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm

東海アマ地震予知情報

参照2:
 それでは、日本の国柄とは何か。それは、農耕民族として小さな共同体でお互いが助け合い、共存共栄することである。言い換えれば、「和の精神」を大事にし、共生を旨とする社会である。「勝ち組、負け組」ではなく一人でも多くの「しあわせ組」を作ることが本来の日本人のあるべき姿なのである。
 こうした「和の精神」は決して特殊なものではなく、むしろ紛争が絶えず、弱肉強食型の国際社会にあって日本が率先して普及すべき普遍的な価値である。現にヨーロッパでは、欧州連合の誕生により、日本のお家芸である「共存共栄」、「和の精神」が、ユーロというドルに迫る基軸通貨の発行により先取りされてしまった。
http://www.m-kiuchi.com/2008/04/03/kagayaki04/
城内みのる

参照3:
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


2008年04月01日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:太母と太父の二重性とMedia Point:三柱の神の意味
テーマ:一神教/多神教

ヤハウェは、太母の陽化ではないのか:思うに、象徴比喩化における混乱があるのではないだろうか。太母は本来、太陽であり(天照大神)、月というのは、その変容様態を示唆しているのでないのか。とまれ、太陽が陰となったが、「父なる神」ではないのか。一神教の神は月が象徴である。それに対して、神道においては、太陽が象徴である。しかし、逆に言うと、太陰として、いわば、太父があるのではないのか。
 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の倒置の可能性を述べた。即ち、(-i)*(+i)⇒+1である。前者の左辺が例えば、太母の「太陽」であり、後者の左辺が太父の「太陰」ではないのか。もしそうなら、二種類の原神が存するだろう。それは、神道の高産霊神と神産霊神に相当しないのか。それとも、イザナミ・イザナギであろうか。そして、根源の中点として、Media Pointとして、天之御中主神が存するのではないのか。だから、天照大神と月読みが太母と太父であり、スサノオがMedia Point に相当するのかもしれない。
 ここで聖書を考えると、ヤハウェが太母であり、エローヒームが太父ではないのか。二重神性である。
 その視点からイエス・キリストを考えるのは実に興味深い。彼は、ヤハウェの子であり、同時に、エローヒームの子となるだろう。つまり、精神的双子ではないのか、ということになろう。神話において、双子ないし兄弟の神話は多い。なにか、これと関係しないのか。これまでは、差異の二元性で説明してきたが。思えば、先に、二人のイエスないしは二重のイエスのことを述べたが、それは、以上の述べたことに通じる。
 しかしながら、以前は、ヤハウェを父、太母を母として、それぞれの子としてイエスを見たのであるが、以上の考察では、ヤハウェ=太母であり、エローヒーム=太父である。太陽の子と太陰の子としてのイエスである。そう見ると、戦争の子は前者であり、平和の子は後者となるのではないのか。
 私は太母が復活しつつあると言ったが、以上の視点から言えば、太母と太父の復活、端的に言えば、Media Point の開きではないだろうか。Media Point の黎明であることは既に述べたが、そこでの超越光とは、二重の超越光になるということではないのか。つまり、「太陽」と「太陰」の二重光ではないのか、ということである。
 この問題は後でさらに検討したいが、今、経験から言うと、真夏の海辺の太陽に陰影を感じたことであるが、この陰影が「太陰」に関係するのではないのか。
 言い換えると、太陽光には、明るい太陽と暗い太陽が重なっているのではないのか。二重光としての太陽光である。
 さらに言うと、ダーク・エネルギー、ダーク・マター、またブラックホールであるが、この二重性の「太陰」の方に関係していないのか。これまで、これらは、超越光、超越エネルギーに関係すると指摘してきたが、さらに超越的二重性に関係するのではないのかということになる。簡単に言えば、太陰がそれらに関係するのではないのか、ということである。
 ここで文学への興味から言うと、D.H.ロレンスのdark Godやdark sunであるが、それは、太陰を指しているのではないのか。また、『死んだ男』の宇宙の暗い薔薇であるが、それは一体何なのか。それは、Media Point ではないのか、等々、さまざま興味深い考えが浮かぶ。


2008年03月10日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか、他
1)何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか:夜入る風呂と比べて、昼間入る風呂は、からだがあたたまる気がする。気のせいか。何か不思議である。関係ないが、昼間酔うと気持ちのいいものである。何か、陽光と関係するのか。(残念ながら、最近は禁酒9ヶ月以上である。)


2)道教でいう丹田とプラトニック・シナジー理論の関係について:上丹田は知性、中丹田は心でいいが、下丹田は肚であるが、PS理論ではどうなるのか。
 直感では、差異共振性は、中丹田=心(又は、魂)で起る。だから、Media Pointの位置はここにあると思われる。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺は中丹田となるが、+iが上丹田で、-iが下丹田ということになるのか。もし、そうならば、近代的自我/近代合理主義とは、上丹田が中心化されている自己である。つまり、右辺の+1の自我=同一性自己は、+i が中心化されていることになる。
 そうすると、これまで思考実験してきたように、+iが原同一性知性であり、-iが原身体性ではないだろうか。また、ジェンダーで言うと、+iの優位が男性(人間)であり、-iの優位が女性ではないのか。また、西洋は+i(頭)が優位であり、東洋は-i(肚)が優位ではないのか。
 近代的自我/近代合理主義は、+iが中心化された+1と見るなら、それは、-iが劣位に置かれている、ないしは、抑圧されているのである。その状況においては、心と言っても、-iが抑圧否定されているので、+i(頭・同一性)の枠組みの中の心であり、純粋な差異共振性としての心ではないだろう。(本居宣長の大和心は、これだと思う。自我における心なのだと思う。キリスト教の愛もやはり、これと同質になっていると思われるのである。自我における愛である。)
 この観点から見ると、ポスト・モダンは、-iの取り戻しと言えないこともないだろう。+iを原同一性とすれば、-iが原差異であるからである。しかし、逆に-iを中心化するのは、反動となる。アイロニカルな没入という反動が生起するだろう。また、-iを他者と見てもいいだろう。近代的自我/近代合理主義は、他者を否定しているのである。
 内面を測深することの必要を言ったが、問題はもし、内面観察(省察)が-i(肚)に達さなければ、それは、自我内の心に留まるということである。-iの肚まで、測深は達する必要があるだろう。それをするには、東洋的身体行が必要である。単なる瞑想ではだめで、-i=肚=下丹田を基盤とする瞑想が必要になるだろう。
 思うに、今日の日本人は、この-i=肚=下丹田を喪失しているように思えるのである。皮相な+i=頭=上丹田中心の自我=同一性自己になっていると思われるのである。
 ここで、私説の西洋文化史を言うと、イタリア・ルネサンスは、左辺の差異共振性の発露であり、プロテスタンティズムは、それをベースにした、自我=同一性自己である。だから、プロテスタンティズムは、近代的自我/近代合理主義を生みだしても、それは、トランス・モダンへと転換する資質はあると考えられるのである。(しかし、それには、ヤハウェ主義を乗り越える必要がある。後期デリダには、それが見られるが。)
 日本の場合、神道や仏教が左辺を保持していたのであるが、それが、近代化で、まったく喪失してしまったのである。三島由紀夫の言う「断絃の時」である。
 とまれ、整理すると、内面形成と言っても、-i=肚=下丹田に達しないと中途半端である。そこに達して、+iと-iとの差異共振性*が発生すると考えられるのである。だから、プラトニック・シナジー理論とは、プラトニック・東洋文化理論でもある。
 そういうような視点から近代的自我/近代合理主義の狂気やポスト・モダン的精神病理を見ると、-i=肚=下丹田のもつエネルギーに対して盲目であることから発していると言えないだろうか。単に、上丹田の知や中丹田の心だけでは、差異共振エネルギーを摂取することはできないのである。言い換えると、-iに基づくエネルギーが反動エネルギーとなり、狂気・精神病理を発症させているのではないだろうか。

p.s. 確かに、近代的自我/近代合理主義意識は、-i=肚=下丹田を喪失しているが、逆に、そのエネルギーが、いわば、闇のエネルギーになって、それに非合理に突き動かされているように思える。-iの闇のエネルギーが反動となり、攻撃衝動となっているように思えるのである。この点は、さらに検討したい。

丹田:
http://search.jp.aol.com/search?query=%92O%93c&x=0&y=0


3)自我=同一性自己の問題について再考:近代的自我/近代合理主義では、自我が中心化している(自我中心主義と言うべきであり、いわゆる、自己中心主義は、理論的には間違いである。自我と自己が混同されているのが問題である。我と己は異なるのである。)

 以前考察したが、自我のもつ他者に対する優位・優越の意識はどこから発生するのか。二項対立の原因である。差異共振性=他者を抑圧的に否定して、自我=同一性自己が形成されるのであり、そのとき、抑圧する自我=同一性自己は、当然、優位・優越の意識を帯びると考えられるが、結局、どうして、それが発生するのか、という問題である。
 他者を否定する自我はどうして、自身を優位・優越と思うのか、である。この疑問に答える前に、自我は他者(差異共振性)の抑圧的否定によって、アイデンティティ(正に、同一性である)を保つのである。いわば、他者に勝ち誇りたいという一種盲目な欲望がある。
 そう、自我=同一性自己のもつこの他者に対する攻撃性はどこから来るのだろうか。自己認識方程式では、左辺の否定として、右辺の自我=同一性自己が発生するのである。それは、機械的な、単純な抑圧的否定である。自動的な抑圧的否定である。
 ならば、これは、自然的悪魔性である。人間のもつ自然的悪魔性としか言いようがないだろう。それに対して、善性は、抑圧否定された他者=差異共振性から生まれるのである。人間の内部に、悪魔と天使が住んでいるのである。ただし、意識は自我としては、悪魔と一体なので、自分が悪魔的であるのが認識できないのである。悪魔としての自我=同一性自己なのである。近代的自我/近代合理主義とは、悪魔的なのである。だから、この根源であるヤハウェとは、端的に、悪魔神、魔神、邪神である。(グノーシス主義は、この世界を造った創造神デミウルゴスを邪悪な神としたが、それは正しいだろう。デミウルゴスとは、ヤハウェである。)
 とまれ、肝心の問題は、自我=同一性自己の優位・優越意識の発生因は何かである。何故、自我=同一性自己を優位・優越と意識するのか。ここには、鏡像の問題があるだろう。思うに、Media Pointから自我=同一性自己が発生するとき、同一性の志向性は、鏡像を結ぶと思うのである。その鏡像に対して、意識は、同一性化すると考えられる。そして、自我=同一性自己が生起すると考えられるのである。
 だから、当然ながら、元々、自我=同一性自己があるのではなく、Media Pointからのある意識が同一性の志向性から自我=同一性自己意識を形成すると考えられるのである。ここでは思考実験するが、ある意識とは、+iの意識ではないのか。つまり、原同一性である。本来、原同一性と原身体とが共振するのであるが、⇒+1の同一性発現では、原同一性が自我=同一性自己になると思われるのである。言い換えると、原同一性意識が自我=同一性自己になるということである。
 だから、人間においては、+iと-iとの非対称性があるように思えるのである。つまり、以前、人間は本来的に同一性に傾斜していると言ったが、それがここでも確認できるのではないだろうか。+iが-iに対して、元々優位を帯びているのである。原優位性、原傾斜である。
 そうならば、自己認識方程式は複雑になるだろう。⇒+1とは、+iの優位に基づく産物であることになるのではないだろうか。否、それではおかしいだろう。差異共振が積となって、⇒+1となるのである。そこには、均衡があるのである。
 ならばどう考えたらいいのだろうか。思うに、+1において、+iの意識が優位になっているということではないだろうか。あるいは、積とは、+iの-iに対する優位を意味するだろうか。そうかもしれない。私は、また、+iを原形相、-iを原質料としても考えている。だから、+iが優位となり、-iに対して、原形相を押しつけて、形相のある物質を生みだすのが、+iと-iとの積の意味かもしれない。そうならば、もし、-iが優位であったらどうなるのだろうか。それは、積にはならないだろう。商になるのか。即ち、(+i)÷(-i)=-1ということなのか。この問題はここで留めたい。
 ここで、異なる考え方をしてみよう。つまり、原優位性、原傾斜はないということで考えるのである。それは、最近の考え方である。つまり、抑圧的否定によって、+1である自我=同一性自己が生成するということである。ここでも、鏡像を考えると、同一性鏡像が生じるとすると、これに意識は同一性化するのである。
 思うに、Media Pointが鏡面になるのである。そこで、+iと-iとが出会うのである。+iが-iを見るのであり、また、-iも+iを見るのである。いわば、お見合いである。そのときの相互的鏡面において、原同一性像=鏡像が生まれるのではないのか。そして、この原同一性像=鏡像が、エイドスとしてのイデアであり、それが、現象化したのが、+1ではないのか。
 換言すると、Media Pointは鏡面を形成して、鏡像=エイドスを形成する。それが、現象=物質化したのが、+1ではないのか、ということである。だから、⇒の起点・始点は、鏡面=エイドスでもあるのではないだろうか。そして、鏡面は一種のイデアであり、観念であろう。
 では、後者のように考えるとき、優位・優越性はどこから生まれるのか、である。これはわかりやすいのではないか。即ち、Media Pointの鏡面の鏡像を介して、+iは-iと同一性化するのであるが、この時、鏡像と同一性的に融合した自我(ないしは原自我)は、正に自己陶酔(ナルシシズム)の様態にあるだろう。この自己陶酔、自己快楽、自己悦楽が、自我優位・優越意識の原点ではないだろうか。言い換えると、Media Pointにおいて、根源界・イデア界の差異共振様相から「鏡像段階」へと展開するが、差異共振性を否定する鏡像への同一性化による自己陶酔の快楽・悦楽が、差異共振性=他者に対する自我優位・優越意識をもたらすのではないだろうか。
 ここには、言葉・用語の問題がある。快楽・悦楽と言ったが、ここにあるのは、欲望の原点であると思う。だから、原欲望である。それに対して、差異共振性は歓喜であろう。つまり、歓喜から欲望への転換がここにはあると考えられるのである。歓喜は他者との共感性(共振・共鳴性)にあるが、欲望は他者を同一性化することにある。
 問題はどうして歓喜から欲望への転換において、優位・優越意識が発生するのかということである。やはり、ここでは、なんらかの同一性価値の発生を見るべきように思われる。基準となる同一性価値ないしは同一性中心価値があり、それが優位項となり、他者(差異共振性)は劣位とされると見るのが妥当だと思われるのである。
 では、価値基準となる同一性価値とは、どこから発生するのか。他者価値(差異共振価値)よりも、同一性価値の方が優れているという価値観はどこから生まれるのかである。
 思うに、同一性への志向とは、「自立」・「独立」への志向である。的確に言えば、個体への衝動であると思われる。同一性への志向性とは、個体化への志向性である。当然、それは、自我への志向性である。
 ここで丁寧に考えると、イデア界において、イデアは差異共振様相(エネルゲイア)にあり、イデアは非同一性の様相にあるのであり、個体としては存していないのである。イデアは、現象化して、個体・個物になることを志向していると思われるのである。つまり、差異から同一性化への志向性がイデア(差異共振性)にはあると考えられるだろう。この、言わば、同一性志向性は、当然、ある必然性をもっていると考えられる。
 差異共振性であるイデア(エネルゲイア:活動態)から同一性(エンテレケイア:終局態)への進展は、だから、能動的なもの、積極的なものと言えよう。その観点から言うと、他者=差異共振性より、同一性の方が価値があるのである。つまり、言い換えると、イデア様相の差異共振性、すなわち、原差異共振性から同一性への志向性(これを同一性エネルゲイア乃至は、同一性エネルギーと呼べよう。それは、端的には、物質的エネルギーであろう。)がMedia Point において発生し、この同一性志向性(同一性エネルギー)は、原差異共振性(イデア)を劣位に置き、同一性を優位に置く価値観をもっていると考えられるのである。
 言い換えると、同一性志向性自体が優劣価値観、即ち、二項対立的価値観をもっていると考えられるだろう。
 ということで、なぜ、自我=同一性自己は優位・優越意識をもつのかという問いにいちおう答えたことになる。つまり、イデアの必然性なのである。言い換えると、自然の必然性なのである。そして、これは、父権神話的、一神教的必然性である。男性的必然性である。
 それに対して、太母(母権)神話的、多神教的、女性的必然性があると考えられる。それは、イシス・オシリス神話に存していると思えるのである。オシリスは同一性であるが、差異共振性であるイシスと分離していないのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point に包摂された同一性としてのオシリスであると考えられる。
 この場合、オシリスはイシスに対して優位・優越意識を、当然、もっていない。両者は一如であり、どちらかと言えば、イシスに優位性があると言えよう。
 では、この場合の力学はどう説明できるのだろうか。一神教的必然性では、他者である原差異共振性に対して、同一性は優位・優越意識をもったのであるが、この意識が発生しない多神教的必然性とはどう説明されるだろうか。おそらく、原差異共振性(イシス)と同一性(オシリス)は未分化なのである。Media Point 自体における「現象」としての多神教的必然性があるのだと思う。つまり、純粋な同一性、原差異共振性から独立した同一性は発生していないのである。言い換えると、イデアからの同一性への変換の過程にあると考えられるのである。つまり、エネルゲイア自体としての多神教的必然性である。これで説明できたこととしよう。
 そうすると、ガウス平面ではどう説明できるのだろうか。一神教は端的に1/4回転で説明できよう。思うに、多神教は一神教への移行過程とするならば、それは、いまだゼロ回転ではないだろうか。1/4回転への志向性はあるが、それは、エネルゲイアである。思うに、Media Point におけるゼロ回転としてのエネルゲイア自体で説明できるのではないだろうか。ゼロ度の多神教力学である。Media Point の多神教力学である。そして、これは、仏教、とりわけ、大乗仏教にもあてはまることと考えられる。
 そして、さらに、一神教的必然性の後のことを考えてみよう。同一性=物質が形成された後、その必然性は終焉して、もはや、創造は為されなくなるだろう。終末である。一神教の終焉である。プラトニック・シナジー理論で考えると、もうエネルギーの放出が終わったのであり、新たなエネルギーの放出が考えられるのである。新たなエネルゲイアの発生である。即ち、新多神教・新仏教である。新神道である。それは、新たなMedia Point の開放である。それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明すると、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)ではないだろうか。第3番目の差異共振性は、いわば、螺旋的回帰であり、第1番目の差異共振性よりは高次元にあると考えられるのである。そして、これは、二重螺旋であると考えられ、この二重螺旋回帰が永遠に反復されるように思われるのである。すると、二重螺旋永遠回帰がイデア/現象界に起こっているということになるだろう。
 では、補足的に言うと、-1とはどういう意味をもつのだろうか。形式的に考えると、+1が物質ならば、-1は反物質ではないだろうか。あるいは、前者が光の物質ならば、後者は闇の物質ではないだろうか。今は、思考実験的に言うだけだが、ルイス・キャロルの『鏡の国』のような対称的世界ではないだろうか。逆さまの世界ではないだろうか。時間が逆転するのではないだろうか。とにかく、不可能の世界だと思う。ひょっとして、これが、デュナミス(可能態)の世界ではないだろうか。-1=(+i)^2=(-i)^2である。だから、-1は、+iや-iの+1/4回転、-1/4回転を形成していると言えないだろうか。つまり、イデア界の1/4回転の原動力ではないだろうか。言い換えると、-1とは、デュナミス・イデア界ではないだろうか。そして、それが、いわば、エネルゲイア・イデア界を発生させるのではないだろうか。すると、初めに、-1ありきとなろう。今はここで留める。

p.s. また、自己理解即ち、自己覚醒の問題であるが、自我主義に染まっている人間の覚醒方法は何か。金儲けが人生の目的であった私の亡父は、癌で死ぬ間際、病院のベッドで、金儲けなんてどうでもいいと諦めるような口調で言っていた。死に際になって目覚めたのである。日本も死に際になって目覚めるのか、それとも、死に際でも度し難く無明のままであるのか。


4)今日の心の病であるが、なにか、精神の発達の衰えがそこにはあるのではないだろうか。なにか、幼稚な発想の人が心の病になる傾向はないのか。精神の発達の衰えとは、教養の衰えと相関関係にあるのではないだろうか。端的に言えば、知の衰退である。
 後で補足したい。


2008年01月31日(Thu)▲ページの先頭へ
検討課題:美学について:美を論ずることの必要性
今というか、ここ数日間は出張で忙しいので、更新が少なくなるので、本件はその後検討することになるが、美学を論じることが必要なように思えている。英語でAestheticsというが、どうもこの用語が曲者である。端的に言えば、感性論である。そう、感性という言葉も曲者である。今は簡単に触れるだけだが、senseは、身体的感覚と心的感覚の両方に跨(またが)っているだろう。簡単に言えば、感覚と心である。
 プラトニック・シナジー理論は、ここでも強力な解明力をもっているだろう。問題は、Media Pointである。ここは、心と身体との交点・接点でもある。差異と同一性との交点・接点でもある。
 美は本来、Media Pointの様態に存するだろう(即非様態)。しかしながら、現代、Media Pointが喪失されたままであり、同一性感覚が中心化されている。そこで、感性と言ったとき、それは、Media Pointではなく、同一性感覚の意味になってしまうのではないだろうか。
 後で、心と感覚ないしは感性について詳論する予定であるが、今日、感性は心や魂を喪失していると思われるのである。私は、心感性というような言葉を考えたことがあるが、それはそのような意味合いからである。
 今検討できないのは、残念であるが、日常的に、不快な言葉遣いが多く、耐え難いのであるが、それは、美意識が喪失しているからである。美とは、単に感覚・感性的なものというよりは、差異的なものであり、理性的なものであると思うのである。秩序と関係しているのである。それも非線形的秩序である。
 そう、政治の醜悪さにも耐え難い。やはり、美がないのである。理性が政治から消えているのである。そう、現代日本は、美を失っているのである。耐え難いポップスなど。もっとも、世界においても、美が喪失しているが。


参照:

英語のウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Aesthetics
美学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

美学(びがく)あるいは感性学は、美 や芸術 あるいは趣味 の問題を扱う哲学 である。伝統的美学は、美とは何か(美の本質)、どのようなものが美しいのか(美の基準)、美は何のためにあるのか(美の価値)といった問題に取り組んできた。いわば美の形而上学ともいえよう。審美学という訳語は旧称であるが、その提唱者は森鴎外 である。広義の美学は道徳 的な美や自然 の美を含むが、芸術の哲学とされることも多い。今日では、美の概念そのものの探究より、個別の美的経験・芸術領域・芸術と他の人間活動との関係の研究がさかんである。
名称

ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテン が1750年 に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学 の一領域として定式化される一つの契機となった(バウムガルテンは、最初の著作『詩についての哲学的省察』の中で既に、詩の美学的価値の原理的考察を思考する学として aesthetica という学を予告している)。

この aesthetica という語は、ギリシア語 aisthesis の形容詞 aisthtike をラテン語化したもので、二つの語義を持っていた。一つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。

バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。

バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性である」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。

( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 )

バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。

[編集 ] 歴史

その淵源はプラトン にまで遡る。イマヌエル・カント の『判断力批判』、シェリング の『芸術の哲学』講義、ヘーゲル の『美学』講義などを経て、フィードラーの「上からの美学」批判を受け、現代に至る。現代美学において特筆すべきは、・実存主義 ・分析哲学 ・ポスト構造主義 によるアプローチであろう。

[編集 ] バウムガルテンの「美学」

バウムガルテン (A.G.Baumgarten,1714-62)は、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属す。「美学」(aesthetics/英)という学問の名称は、彼が、「感性 」を表すギリシャ語 から作ったラテン語 の造語「Aesthetica」に由来する。彼はフランクフルト 大学で1742年からこの「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語 で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。

引用

美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術 、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節)

美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節)

美学の出発点は、知性的認識の学としての論理学 を感性的認識の学で補完することにあった。

[編集 ] 日本の美学

日本語の「美学」は、中江兆民 がVeronの著作を訳して『維氏美学』と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校 および東京大学 におけるフェノロサ のヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鴎外 )による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル (ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都 においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治 を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年 )の大学である。

日本における主要な美学関連学会 としては美学会があり、雑誌『美学』(年四回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年五回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。

[編集 ] 日本の美意識

近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」はない。しかし、いき 、わび などの個別の美意識 は、古くから存在しており、また茶道 や日本建築 、伝統工芸品 などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。

[編集 ] おもなトピック一覧

[編集 ] 古今和歌集仮名序

紀貫之 は『古今和歌集 』仮名序で、和歌が純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌が天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、生きとし生けるものの生の表現が人間にあってその精華を開花させたものであるとした。

[編集 ] 歌論

[編集 ] 世阿弥の演劇論

[編集 ] 本居宣長

[編集 ] 岡倉天心

[編集 ] 大西克礼

[編集 ] 近代の美学

* カント
* シラー
* ヘーゲル

[編集 ] 近代以降の美学

* ニーチェ
* ショーペンハウアー
* ハイデガー
* メルロ=ポンティ
* アドルノ
* グリーンバーグ
* ボードリヤール
* フレドリック・ジェイムソン
* ハル・フォスター
* ロザリンド・クラウス

[編集 ] 関連項目

* 美術史
* 美意識
* 哲学
* 批評
* 詩学
* 芸術学 (Kunstwissenschaft)
* カルチュラル・スタディーズ (cultural studies)
* 分析美学
* 芸術制度論
* 美
* 醜
* 審美
* 崇高
* イロニー
* フモール
* アレゴリー
* 図像学
* 想像力 、構想力 、制度論
* エロス
* ランナウェイ説 または、『 平均美人説 』 

[編集 ] 外部リンク

* (百科事典)「Aesthetics」 - インターネット哲学百科事典 にある「美学」についての項目。(英語)


 美術 < 芸術 と文化

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カテゴリ : 美学 | 美 | 美術


2008年01月29日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:資本の差異化とは何か:差異価値に基づく同一性価値のエネルゲイア化?
先に私は、資本の差異化ということを言ったが、考えてみると、あいまいな観念であると思う。いったい資本とは何か、である。同一性価値(同一性交換価値)の資本(金融資本)なのか、それとも、差異価値(質価値:差異共振価値)としての資本なのか、両方が考えられるだろう。
 しかしながら、後者は通常、同一性価値の基準によって評価されているだろう。たとえば、ある企業の創造性の価値は、売り上げ等の同一性価値によって評価されるだろう。つまり、現実の資本主義において諸価値が、同一性価値によって評価されているということである。つまり、差異価値が差異価値として評価されるのではなくて、同一性価値という異質な価値基準によって評価されているということである。ここに諸価値の混乱・混同・混沌があると言えよう。つまり、わかりやすく言えば、価値評価が狂っているのである。
 ある価値を価値そのものとして評価するのではなくて、同一性価値によって評価するという現実があるのである。つまり、差異である価値を同一性という貨幣交換価値によって評価するという現実が資本主義にはあるのである。
 ここには、同一性主義が支配していると言えよう。そして、私は、同一性主義を狂気・妄想・悪・エゴイズム・闇(無明)等であると考えているのである。しかし、これが現実である資本主義の正体である。
 結局、真如(しんにょ)・真実・真相を認識する必要があるのである。即ち、価値を価値そのものとして認識し評価することである。つまり、価値とは本来、差異価値なのであり、差異価値として認識評価すべきであるということである。
 そう、ニーチェが説いたように価値転換が必要なのである。同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)を解体・脱構築して、差異価値を評価すべきなのである。ただし、同一性価値は同一性価値として評価すべきである。つまり、差異価値と同一性価値を明確に分離して、それぞれ評価すべしということである。現代資本主義は、両者を混淆しているのである。ポスト・モダン理論がそうであったのである。
 では、本件の問題にもどると、資本とは何か、である。差異価値が資本なのか、同一性価値が資本なのか。思うに、資本という概念ないしは観念は、混乱しているのではないだろうか。つまり、二つの価値を混同して資本と呼んでいるのではないだろうか。差異価値も資本であり、同一性価値も資本である。そして、差異価値「資本」は、同一性価値によって評価されているのである。つまり、同一性価値(正確に言えば、貨幣価値)が中心化されて、資本となり、その価値基準から差異価値も評価されて資本とされているということであり、つまり、同一性価値=資本の視点から差異価値が評価されて資本となっているのである。いわば、差異同一性価値資本となっているのである。同一性価値資本が中心化されて、差異価値が否定・排除・隠蔽されているのである。ここに要注意である。そう、ここが根本的なポイントである。(マルクスなら、「ここがロドスだ、ここで跳べ」と言っただろう。)
 この価値評価の混同によって、資本主義はカオス・無秩序をもたらしているのである。結局、繰り返すが、差異価値を差異価値として、同一性価値を同一性価値として、純粋に評価することが科学的であるのである。(そう、資本主義は、価値混同において、非哲学的・非科学的・非理性的でなのである。)
 結局、物質的且つ非物質的生産・創造において、差異価値共振性があり、そこから、差異価値(製品・商品・生産物)が発生するのである。そして、この差異価値を同一性価値(交換価値・貨幣価値)を介して、販売するのである。同一性価値とは物質的価値であり、その観点から、生産・創造は評価されることになるのである。しかしながら、これは、いわば、仮象的評価である。仮面的評価である。ここには、いわば、虚偽があるのである。あるいは、誤謬があるのである。
 交換において、あくまで、差異価値は差異価値である。しかるに、同一性価値としての交換価値が評価されてしまうからである。ここに混乱があるのである。
 つまり、同一性価値としての交換価値=貨幣価値は仮象・仮面に過ぎないのであり、本体・真実・真如として、差異価値が存しているのである。言い換えると、差異価値がイデア・本体であり、同一性価値=交換価値=貨幣価値とは、仮象・仮面、仏教で言えば、空に過ぎないということである。これを現代の経済学は理解していないのである。
 途中。


2008年01月27日(Sun)▲ページの先頭へ
資本主義のヴィジョンについて:トランス・モダン経済としての超越資本主義:差異⇒同一性⇒新差異
英語で、資本主義経済の言葉(growth, stock, capital, invest,develop, profit, etc)を見ると、なにか植物や栽培のイメージがある。植民地主義は、遊牧的イメージであるが、用語には、農耕のイメージがある。(聖書の神は、「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と言った。creditは信仰から来ているだろう。だから、資本主義と聖書ないしはキリスト教とは強く結びついていると考えられる。私は、ユダヤ・キリスト教の唯一神は貨幣神であると先には言った。そう、唯一神を脱構築すべきなのである。ヤハウェからエローヒームへと転換すべきである。新多神教である。)
 後で検討したいが、どうも西洋人のイメージには、資本主義は、農業や遊牧のイメージがあるのではないのだろうか。ならば、企業やビジネスは、農業・牧畜のイメージで形成されることになる。ここには、育てる、成長させるイメージが重要である。しかしながら、金融資本中心主義は、返って、反対ではないだろうか。差異価値ではなく、同一性価値から富を増殖するという結果から「成長」させるという一種本末転倒があるのではないだろうか。差異価値から成長させる、つまり、差異価値自体を成長させ、さらには、豊かな結果を生むというならば、本来的だと思われる。つまり、脱資本主義/トランス・キャピタリズムとして、差異価値経済、トランス・モダン経済がありうるのである。換言すると、同一性価値(交換価値)を包摂した差異中心的経済(差異共振経済)がありうるのである。Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」である。
 簡単に言えば、差異価値⇒同一性価値⇒新差異価値のフィードバック型トランス・キャピタリズムである。このフィードバックを「トランス」のイメージで捉えることができるだろう。トランス資本主義、超越資本主義である。


2008年01月26日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。
1)「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。原知+iと原身体-iの共振*において、ヴィジョン=エイドス=イデア=テオーリアが形成される。この原映像において、何が観ているのか。そう、感覚とは何か。今、直感で言うと、差異共振態が原感覚である。+iが原知であり、-iが原身体であり、その両者の共振態に原感覚があるのではないのか。また、そこには、原感情(共感性)があるだろう。
 そう、共振態において、+iの側面が感覚で、-iの側面が感情ではないだろうか。つまり、感覚と感情は表裏一体ということではないのか。また、欲望は、感情よりも、より-i・原身体側に存しているのではないのか。

2)映画を観るとはどういうことか:ヴィジョンの問題:夢と映画

3)今日、芸術が死んでいるのは、Media Point(差異共振性・差異即非性)を閉鎖させているからである。美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、伝統的な芸術が死んでいる。(宮崎駿のアニメとは、Media Pointが開いているのである。だから、生き生きとしたヴィジョンがあるのである。)。Media Pointとは、「魂」と言える。
 しかし、個体の「魂」とどう関係するのか。つまり、今の私の考えでは、魂は、虚軸(虚界)の超越的双極差異であり、それは、Media Pointとは区別される。そう、魂とMedia Pointとの関係をどう見るのか、である。魂=イデアは、Media Point=開口部に流出するものであろう。そして、芸術は、本来、後者の表現であろう。『国家』におけるプラトンの芸術批判は同一性の模倣としての芸術批判と見ることができるのであり、Media Pointの表現としての真正な芸術を批判しているのではないと考えられる。(すぐれたファンタジーはMedia Pointの表現である。神話もそうである。また、すぐれた小説や詩もそうである。)
 
4)感覚欲望とマーヤーとMedia Pointの関係:この問題は、簡単に言えば、連続性と不連続性の問題である。モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの問題でもある。感覚欲望は、外的対象と志向する。このとき、Media Pointから発したエネルギーは外的対象と連続化される。つまり、自我と連続し、不連続なMedia Pointは見失われる。
 ここから見ると、仏教の偉大さがわかる。仏教は、空という概念によって、連続性を断ち切るのである。色即是空。しかるのち、現象へと戻るのである。空即是色。空はMedia Pointである。しかし、空をゼロとするのは、後退である。それは、構造点に過ぎない。つまり、ポスト・モダン的差異である。
 また、イデア論も仏教と同質である。現象を仮象とすることで、いったん現象から切れるのである。現象からの不連続化である。しかし、イデアを分有する仮象という概念がプラトンにはあるのである。
 問題は、感覚現象が不連続化したとき、感覚欲望はどうなるのかである。直感では、感覚は同一性構造から外れる(脱構築・脱構造化)ので、当然、欲望も脱構築・脱構造化されるのである。私の言葉では、「間(ま)」が生まれるのである。そう、外的対象が他者になるのである。差異化である。
 では、「間」化されたとき、感覚欲望だったものはどうなるのか。つまり、エネルギーはすべてが感覚欲望とはならなくて、差異共振エネルギー化するのだと思う。これが、社会倫理・秩序道徳の源泉である。
 ここで、カント哲学を考えると、カントは、構造的同一性主義であるが、差異を物自体や実践理性にゆだねたと言えよう。そして、カントの超越論性とは構造主義的であり、フッサールの超越論性とは、脱構造主義的である。

5)3に関連して、魂=イデアとMedia Pointの関係についてさらに考えたい:思うに、Media Pointとは、端的に、イデアと物質との境界であり、イデアでもないし、物質でもない。実に不思議な領域である。
 私はイデアはヴィジョンであると言うが、そのヴィジョンは、Media Pointで形成されるだろう。しかし、Media Pointとは別である。ここが微妙である。夢はMedia Pointのヴィジョンであり、魂=イデアそのもののヴィジョンではない。この「差異」が重要である。
 魂=イデアそのもののヴィジョンとは、いわば純粋である。しかるに、Media Pointのヴィジョンとは、屈折しているだろう。何故なら、即非様態にあるからである。思うに、プラトンがイデアの表現として円や円運動をあげているが、それは、魂=イデアそのもののヴィジョンだろう。
 では、宇宙の円や円運動や渦巻き運動とは何だろうか。それは、オイラーの定理の現象様態ではないのか。つまり、時間化された様態ではないのか。だから、Media Pointの表現ではないということだろう。
 思うに、不連続的差異論の頃、イデア界と現象界とを重ねて考えていた。イデア差異が現象差異となるのである。おそらく、イデア界と現象界との相関性があるように思える。これについては、新たに考察したい。


2008年01月24日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:1.Media Pointと科学、2.虚軸からの1/4回転と脳(左脳・右脳)と身体、3.視覚と三次元:トランス・モダン・ルネサンス
1)Media Pointと近代科学:近代以前の思想家(洋の東西を問わず)は、Media Pointから発して思考していたように思える。例えば、天という発想は、そうである。つまり、超越的観念をもって思想を説いていたのである。しかるに、近代科学の勃興によって、経験的知性が重視されて、それまでの超越的観念が否定されていった。もっとも、近代科学の初期においては、探究者は、まだ、超越的観念を保持していた。コペルニクス、ニュートン、ケプラー等は、神的観念をもっていた。だから、近代科学が進展して、超越的観念が否定されていったと見るのが正しい。
 とまれ、超越的観念は、Media Pointがそれなりに生動していたことを意味するだろう。しかし、近代合理主義が中心化されると、Media Pointが否定・抑圧・排除されるようになるのである。典型的なのが、唯物論である。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に、神的観念を心情へと還元する思想が熱烈に述べられている。つまり、Media Pointが同一性主義へと圧縮される心的作業が行われたということである。言い換えると、Media Pointから同一性主義へのパラダイム転換、これが、近代の思想的意味である。しかしながら、Media Point的な観念は文系的観念として、そして、同一性主義は近代科学・近代合理主義として二分化していき、文系と理系の分裂を生み出したのである。文学・芸術で言えば、ロマン主義と近代合理主義の分裂を見ることができる。
 それから、資本主義の全面的進展によって、同一性主義である近代合理主義・近代的自我が主流になり、Media Point的観念は次第に傍流になっていった。近代科学・近代合理主義・近代的自我の勝利が訪れたように見えた。この同一性主義を批判する思想・哲学・理論に関しては、最近までは、ポスト・モダン理論が存在した。しかし、挫折した。そして、グローバリゼーション全開となり、今日・現代を迎えているのである。しかし、サブプライムローン問題でわかるように、ポスト・モダンを経た近代科学・近代合理主義・近代的自我は、遂には、崩壊したと言えよう。
 これまで、プラトニック・シナジー理論で解明したように、近代主義において喪失・忘却されたMedia Pointが新生したと言えるのである。近代の分裂を乗り越えて、Media Pointに基づく、同一性を包摂した超越的差異論が誕生したのである。近代科学も乗り越えられて、トランス・モダン・サイエンスとなったと考えられるのである。それは、トランス・モダン哲学と一致することになったのである。文理一体理論が誕生したのである。
 

2)虚軸界(虚界)から実軸界(実界)への転換の様相について:左右の問題:虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、+iは-1に、-iは+1になる。 +iは原知であり、-iは原身体である。そして、-1は同一性主義であり、+1は同一性である。思うに、-1が脳であり、しかも、左脳であり、+1が身体であり、しかも、右脳ではないのか。
 そして、先に、内的身体におけるMedia Pointの存在を言ったが、それは、+1の身体(右脳)の内部にMedia Pointがあるということになり、確かに、+1は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を潜在させていると考えられるから理論的に正しいことになるだろう。
 そして、-1であるが、それは、同一性主義であり、左脳(脳)であり、これは、自己認識方程式の左辺をもっていないので、そこからは、Media Pointに達することは絶対的に不可能ということ明証できるだろう。つまり、近代的知識人(近代合理主義・近代的自我の持ち主)は、Media Pointに達することができずに、エゴイズム・自己中心主義・私利私欲・悪意・狂気・傲慢等に陥ることになろう。漱石の『こころ』はそれをえぐり出していると言えよう。


3)人間の五感、とりわけ、視覚は、三次元空間に適合しているように見える。なにかそれは不思議に思える。どうして、高次元を三次元と同様に知覚できないのか。どうして、諸感覚は三次元に限定されやすいのか。
 人間の知の形式が同一性形式であり、それが感覚を限定しているということなのかもしれない。つまり、自我同一性形式が主導的なので、感覚が同一性に限定されるということなのかもしれない。
 もし、同一性主義に限定されなければ、感覚は今とは異なるものではないだろうか。
 結局、問題は、感覚が同一性を生み出しているのか、それとも、自我同一性が感覚を同一性に限定しているのか、である。
 少し具体例をあげて明快にしよう。たとえば、遠くの山岳を眺望しているとしよう。あるいは、東の方向の道路の上方に月がのぼったとしよう。遠い山に対して、距離感を喪失して、なにか近くに山容を感じたりするだろう。また、同様に、月が道路のすぐ上にあるように見えたりするだろう。これをどう説明するのか。
 感覚は、絶対的には、三次元的ではないと思う。遠近法とは、視覚によるというよりは、透視画法や器具に基づくと言えよう。遠近法による三次元意識によって、感覚が規定されているということではないだろうか。これは、フッサールの『危機』の問題意識と通じるだろう。
 とまれ、同一性主義意識では、三次元空間の感覚を発生させると言えるのではないだろうか。だから、この近代主義的意識を超えれば、高次元空間感覚は可能であろう。
 そして、すぐれたアーティストはそのような空間を構築してきたと言えるだろう。そう、Media Pointから発する超越光の視覚をもっていたと考えられるのである。
 とまれ、近代において、同一性感覚、同一性視覚が確立したことは認めなくてはならないのであろう。トランス・モダンとは、この同一性を包摂して高次元空間感覚を形成すると考えられる。そう、新たなルネサンスである。トランス・モダン・ルネサンスである。


2008年01月17日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性主義の狂気について:同一性交換価値のモノマニアとしての資本主義
1)同一性主義狂気について:これは、サブプライムローン批判を目指している。直感では、同一性価値を追求して、バブルとなり、崩壊した。この同一性価値追求は狂気だと思うのである。先にも述べたが、同一性価値が基盤であり、差異価値を排除しているのであり、同一性中心主義である。同一性=量を増大(=成長)の追求であり、そのため、差異=質を看過・軽視・無視するのである。
 つまり、ここには、同一性の論理しかない世界があるのである。単純に考えると、信用力とは差異である。それに対して、利子等は同一性である。リスクは本来は、差異と同一性との相互関係で決められるべきものであるが、サブプライムの場合、同一性価値の視点で決められたように思われる。何故なら、信用力が低いとは、差異の弱さであるからである。差異と同一性の両者を共通に量のレベルでは扱ってはならないのであるが、この問題では、差異を量=同一性化したと思う。
 つまり、差異は本来、不連続なのであり、同一性は適用できないはずであるが、同一性=量化したように思えるのである。この点はこれで留める。
 次に、同一性の連鎖について考察したい。これは、私がマクベス投機と呼んだものである。おそらく、同一性連鎖の妄想というものがあると思うのである。これは、理性を麻痺させるのである。これは、なにか酔いと同じだと思うのである。前頭葉がはたらいていないと思うのである。とにかく、同一性連鎖快感があると思うのである。(p.s. 同一性連鎖快感は、脳のどこではたらいているのか。)
 つまり、同一性は、同一性を排他的に追求するのであるが、ここに妄想的快感が発生していると考えられるのである。これは攻撃的快感である。差異を否定する攻撃的快感である。つまり、力=暴力=権力の快感である。問題は、排他的に同一性を追求する欲望の力学である。それは何か。(私は『指輪物語』の「一つの指輪」を想起している。)
 単純に言えば、父権暴力である。しかし、その秘密は何か。直感では、同一性狂気というものが中心にあるのであるが、それは何か。同一性の中心化・絶対化でもある。批判を許さぬ絶対的衝動でもある。独善・独断・専断性である。自己盲目性である。
 それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 で言えば、+iだけの世界である。差異である-iが存在しない、+iだけの世界である。(+i)・(+i)=-1の世界ではないだろうか。+1が物質現象とするなら、-1は、同一性主義ではないだろうか。
 そう、+iの同一性志向だけがあり、-iが阻害されているのである。純粋同一性主義である。ここでは、同一性=量しか存在しないのである。だから、当然、同一性価値だけを追求すると考えられるのである。これが、現代の資本主義であり、サブプライムローンである。つまり、近代合理主義の極致がここに出現していると考えられるのである。ユダヤ・キリスト教の帰結であろう。
 これは、明らかに、パラノイアであり、世界は崩壊するだろう。新しい世界は差異共振世界である。トランス・モダン世界である。
 後で整理し、検討を続けたい。

2)「もののあわれ」について:本居宣長批判:これは何回か論じたが、整理する必要がある。結局、やはり、同一性に関係するのである。自我同一性の基盤から、宣長は、「もののあわれ」に達したのだと思うのである。自我同一性から神道・アニミズムを捉えようとしたのである。自我同一性が基礎にあるから、当然、二項対立・二元論となり、排他的になるのである。大和心と漢意の二元論となるのである。
 この自我同一性主義的神道論が国家神道の基盤になったのではないだろうか。


2008年01月13日(Sun)▲ページの先頭へ
宗教性とは何か:知を介した「心」のエネルギー:心身の源泉としてのイデア振動
今は簡単に述べるが、机に散らかっている、もう聴く気がしないCDを見て、いい音楽の宗教性ということを思った。
 ブックオフに売ってしまいたいCDと取っておきたいCDが分別され、後者には、宗教性があると思った。宗教性とは何だろうか。前者にも宗教音楽があるが、演奏には宗教性が感じられないのである。
 どうも、私の感識において、いい演奏と悪い演奏がはっきり区別されてきたようである。かつてはいいと思った演奏も今聴くとつまらないのである。宗教性の有無が弁別の徴である。
 宗教性と言っても、信仰有無ではないのである。私には特定の信仰はない。ただ、超越的エネルギーは信じているのである。だから、それが宗教性と言えるが、説明が必要である。
 直感で言うと、宗教性とは、リリシズムである。しかし、いったん知を介したそれである。これは、トランス・モダン・リリシズムと言えるだろう。
 このリリシズムのエネルギーが宗教性である。思うに、これは、単に音楽だけでなく、芸術の判断基準である。美術も文学も映画等も、これがあるかどうかで優劣が決まると思う。
 今日、芸術が死んでいるのは、モダニズムによるリリシズムの破壊によると考える。クラシック音楽(classical music)で言えば、現代音楽は、一般には、死んだものだろう。20初期において、死んでしまったのだ。根源的なエネルギーがあるが、今や、知を介して、「心」に響くものでなくては芸術とはならない。
 では、宗教性、トランス・モダン・リリシズムは、プラトニック・シナジー理論ではどう解明できるだろうか。そう、それは、端的に、差異共振性である。差異共振様態である。
 今はここで留めておく。思うに今日、時による淘汰が起こっていると思う。カラヤンは元より、バースタインも淘汰されるだろう。もっとも、少数のいいものは残るだろうが。
 そう、現在は、黙示録のエポックなのである。モダンとポスト・モダンの死滅、そして、トランス・モダンの生成である。

p.s. また、心というものも検討し直す必要がある。私が考えている心とは、心なのか。そうではなくて、イデア・エネルギーではないのか。つまり、 Media Pointのエネルギーではないのか。そこから、心と身体が発生するのである。つまり、心と身体を創造する根源を考えなくてはならない。
 以前、魂質という言葉を考えた。つまり、魂と質料が一如のものである。それは折衷的である。魂という言葉を使うことができるかもしれない。魂が心と身体に分化するということになる。Media Pointである。Media Point Energyである。これが、宗教性であり、心と身体を生み出すものである。
 魂という言葉は精神的傾斜がある。だから、イデアの方がいい。イデアが心をつくり、身体もつくるのである。イデアが知を形成し、また、感覚をつくるのである。認識が同時に存在なのである。
 思うに、イデアの振動の違いによって、心となり、身体となるのではないだろうか。そう、イデア振動である。これが源泉・根源・源流である。


2008年01月11日(Fri)▲ページの先頭へ
トールキンのいう準創造とは何か:同一性主義から差異共振主義へ:近代からトランス・モダンへ
今は余裕がないので、詳しく論じられないが、トールキンが『指輪物語』で目指しているのは何だろうかと思う。ファンタジーを一見逃避的であるが、それほど単純ではない。
 私は『指輪物語』を読んで、ヴィジョンのもつ現実喚起力を感じた。簡単に言えば、想像力である。また、私はダンテの『神曲』も想起した。ヴィジョンの力とは、夢のもつ力と同質だと思う。
 とまれ、今簡単に言うと、言語という同一性をもちいて、ヴィジョンを喚起する。このヴィジョンは何なのかということである。リアリズムならば、言語同一性が、同一性主義へと展開して、四次元時空間的現象世界を喚起する。しかし、ファンタジーは、言語同一性がヴィジョンへと展開する。これはどういうことなのか。
 そう、内的なヴィジョンと言語同一性が結びつくのである。内的なヴィジョンとは、端的に、差異共振的なエネルギー、つまり、超越的光のヴィジョンである。だから、夢のヴィジョンときわめて似ていると思う。そう、同一性を包摂した差異共振的ヴィジョンであり、トランス・モダン的想像力と言えそうである。今日、ファンタジー・ブームが続いているのは、トランス・モダン的想像力が一般にはたらいているからではないだろうか。同一性主義のように四次元時空間にヴィジョンを展開するエネルギーが少なくなり、差異共振的なエネルギーが活性化しているので、ファンタジーを受け入れられているのではないだろうか。つまり、同一性主義への志向から、差異共振主義への志向へとエネルギーが傾斜しているからではないのか。
 トランス・モダンとしてのファンタジーである。これは、ファッションでも確認できたことである。


2008年01月07日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:近代主義の狂気とは、専門分化に拠るところが大きいのではないのか
検討問題:近代主義の狂気とは、専門分化に拠るところが大きいのではないのか

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

後で考察したいが、近代主義の狂気、今日、発現している狂気は、専門分化に拠る部分が多いのではないのか。
 教養がなくなっている。かつては、文学、哲学、漢籍、等々とあったが、教養文化が消滅して久しい。
 私は、あえて教養に換わる概念として、先にもあげたが、心養をあげたい。心育、心識性、心知性という言葉も浮かぶ。心を識る(知る)教育が必要である。
 また、脱領域的知性ということも必要だと思う。科学教育は必要であるが、科学主義になっては、洗脳である。このような人たちを近代主義は生んだのである。
 とまれ、専門分化について言うと、専門分化は確かに、それぞれ、専門分化知性をもっている。しかしながら、それらは、基本的には、権威主義で固まってしまっているのである。つまり、権威主義的視点が覇権をもっていて、それ以外の独創的な視点を抑圧しているのである。
 この権威主義的視点が硬直・石化しているのであり、学ぶ者を洗脳化しているのである。それ以外の視点を禁じているのである。思うに、ポスト・モダンとは、このような知に対して、脱領域的な知を追求したものであるが、それは頓挫してしまった。
 後、足りないのは、自然体験、自然との融合的な体験が欠落していると思うのである。日本では、自然が破壊されて、天然自然が深山等へ行かないとほとんど残っていない状態になってしまっている。自然体験の希薄さが、狂気を生んでいると思う。
 つまり、Media Point体験である。これが心養とともに欠落して、日本・東洋文化を衰退させているのでもある。
 後でまとめたいが、とりあえず、次の三点が原因であると思う。

1)心養の欠落
2)専門分化の硬直した知
3)自然融合体験の欠落

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宇宙人や五次元アセンションとは何ぞや。

テーマ:新霊性new spirituality

宇宙人や五次元アセンションとは何ぞや。
 「宇宙人」とは、Media Pointにおける諸超越エネルギー(エネルゲイア)ないしは高次元エネルギー(エネルゲイア)のことだと思う。諸精霊、聖霊、天使、菩薩、等々と言っていいのかもしれない。
 「五次元アセンション」は、端的には、胡散臭い。私は「アセンション」はないと思う。「アセンション」とは、五次元が大きく啓かれるということではないかと思う。五次元へ移行するというのではなくて、この四次元時空間において、高次元の五次元が加わるということだと思う。
 でも、どうして、精神世界に関与する人は、こう胡散臭くなってしまうのだろうか。それは、やはり、Media Pointを明確に捉えていず、高次元と現象界を連続化するために、高次元に囚われて、現象界を否定することになるのだと思う。そう、グノーシス主義もこの面があるだろう。

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昨年5月に「まもなく宇宙人が到着します」を出版された田村珠芳さん。
わずかな期間ですが著書は大フィーバーで既に数版重ねているようです。

田村珠芳さんは・中国易理文化研究会主幹、米国催眠療法協会公認カウンセラーでいらっしゃる。
とりわけ幻の運命学といわれていた『淵海子平:えんかいしへい』に出会い、現在、その第一人者。
主な著書に「カード易占いイーチン」、「運命を変える法則」、「基本四柱推命学」ほか多数の著書を発表している。

サトルでは毎回年初に田村さんをお招きしている。
今回は2008年(戊子:つちのえね)の政治経済のみならず、地球全体を易断していただく。

今年は新しい時代の幕開け。face02
十二支は子からはじまり亥で終わりますが、いよいよ21世紀の本番の年となります。
田村さんは、これからの数年が正念場となり、地震、噴火、経済の変動はますます激しくなると話される。

それは地球人に新しい時代への心構えをしてもらうため、気付きを起させるためのようだ。
戦争をしないと国の運営が出来ないアメリカアですが、宇宙の人たちは戦争を許すことはないという。
戦争をしている場合ではない。
あと数年で太陽系は五次元へと次元上昇すると言い切る。face08

地球人は肉体の波動を細やかに上昇させて、三次元世界から五次元世界へと飛翔できるようにする必要がある。
それは人類は地球と共に覚醒して新しい文明を創る役目があるからで、皆さんと一緒にこの激動期を乗り越えましょうと訴える。
http://subtleeng.thd-web.jp/e6106.html

鈴木 俊輔 の サトルの泉

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2007年12月17日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:社会と同一性(同一性共同体と差異共振共同体)etc.
1)先にもあげたが、同一性の構造の問題を再考したい。

2)社会のもつ閉鎖性について:共同体とは何か:同一性共同体と差異共振性共同体:

同一性共同体が世間というものである。ここでは、同一性が支配していて、それに対して、差異は否定・排除・隠蔽される。端的に、差別されるのである。それに対して、差異共振社会が考えられる。これも共同体ではあるが、同一性共同体と区別されなくてはならない。
 同一性共同体(世間)は、二元論・二項対立が中心化されている。つまり、上下差別的社会なのである。民主主義社会は、このようなものとなるのである。
 そう、結局、同一性=二元論・二項対立とは、なんらかの「超越性」が基盤にあるのであり、それで、上下優劣が発生するのである。同一性の基盤の「超越性」とは、虚軸上の+iに拠るのではないだろうか。この虚軸的超越性があるので、同一性は優越性をもって、差異・他者を同一性化させて、支配すると考えられる。
 この虚軸的超越性の同一性が権力と世間の基盤となると考えられる。結局、差異共振性、Media Pointの様相を取りだすことが重要なのである。
 単に超越性だけでは、同一性も噛んでいるのである。そう、今ふと思ったのであるが、デイヴィッド・アイク氏が、爬虫類人と呼ぶものであるが、それは、この超越的同一性(虚軸的超越性の同一性志向性)によって説明できるのではないのか、ということである。
http://www.asyura.com/07/revival2/msg/134.html
http://slicer93.real-sound.net/0-ig-space-8480.html
 そう、さらに今浮かんだことは、シュタイナーの悪魔論である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000219955/108382429.html
アーリマンがこの爬虫類人であり、ルシファーとは虚軸的超越性のもう一つの極の-iではないだろうか。
 つまり、超越的同一性=爬虫類人=アーリマンではないだろうか。もっとも、超越的同一性と説明した方が、より学理的であると言えよう。そう、シュタイナーの発想を借りると、アーリマンとルシファーの協働によって、生命体が作用していることになるだろう。しかしながら、それは、物質的身体・心身としての生命体であり、精神・霊・智的生命体としてではない。
 とまれ、アーリマンとルシファーは相互補完的になり、近代合理主義を形成するのである。そして、差異共振性であるMedia Pointが否定・排除・隠蔽されるのである。平和の美徳ではなく、戦争の悪徳が肯定されるのである。
 シュタイナーの霊学では、アーリマン/キリスト/ルシファーの三相共振性が説かれるのであるが、これは、古事記/易=PS理論で言うと、三柱の神の三相共振相である。そして、これが、太古からの叡知であったと思うのである。この三相共振叡智を神道を継いでいるのである。しかしながら、先にも述べたように、父権的一神教の発生によって、三相共振様相が崩れたのである。超越的同一性(父権的一神教)が中心化されたのである。(そう、ユダヤ・キリスト教の神とは、悪魔であろう。つまり、アーリマン、爬虫類人であろう。)
 この超越的同一性の中心化は、二元論を生みだしたのである。例えば、天と地との二元論である。いわゆる、大地母神とは、この二元論によって、天の父との対極になるように発生したと考えられるのである。大地母神の考えは、かなり普及しているが、私は、女神、大女神、大母神は、本来、差異共振性・Media Pointではなかったのかと考えているのである。(この点は後で再考したい。p.s. 大女神ないしは母権制文化とは、三相を大女神としたのではないのか。三女神としての大女神ではないのか。)だから、聖母マリアという考えは、キリスト教の父中心主義の二元論によって、発生する大地母神に相当するのではないだろうか。
 とまれ、超越的同一性志向性ないしは超越的同一性エネルギーによって、太古の人類の叡知、三相・三元的叡知(三つ巴、天川の五十鈴http://www.tenkawa-jinja.or.jp/ )は、破壊されて、二元論的知性が中心化したのである。西洋文明・文化の発生である。二元論・二項対立文化による幽閉・牢獄・地獄が生起したのである。
 とまれ、今日、求められているのは、根源的三相的叡知を復活させることである。神道の叡知を復活させることである。陽である同一性から、陰である差異へと転換するときにおいて、実は、陽である同一性に囚われたままなのである。そして、それが、ポスト・モダン様態なのである。だから、太極の考えは、二元論的になりやすく、不十分なものとなるのかもしれない。もっとも、正しい太極の考えならば、三相になるのであるが。つまり、太極という第三の核心があるのである。
 思うに、スピリチュアル系の問題は、この二元論に囚われやすいことではないかと思う。これは、ポスト・モダン哲学と同様である。同一性を否定するので、反対の差異を肯定して、反動となるのである。問題は、同一性と差異との間にある差異共振性・Media Pointを肯定することなのである。これが、心の本体である。
 ずいぶん、話が飛躍したが、高次元差異共振共同体の構築であるが、それは、同一性を乗り越えたものである。そして、差異の反動も乗り越えたものである(アイロニカルな没入)。
 最後に一言いうと、超越的同一性であるが、それは、+iと-iの両方がそうではないだろうか。形相における同一性と質料における同一性があるのではないか。後で検討したい。

p.s. Media Pointを介して、虚軸的超越性は、±1に転換・変換する。現象化である。しかしながら、このときにおいても、Media Pointは生動していると思われるのである。⇒+1を+1としてのみ取るのが、超越的同一性中心主義-1である。しかしながら、⇒+1を正しく⇒+1として感じるのが、差異共振性・Media Pointの直感・心感性である。換言すると、X⇒+1であり、Xを漠然と感じるものである。
 今、思ったが、-iの中心化とは、無へと向かうのではないのか。神秘主義的無である。三島由紀夫の無である。しかし、ここには微妙な問題がある。ハイデガーの無は、+iと-iの両極の結合点であろう。それには、差異共振性・Media Pointが欠落しているのである。しかるに、三島の無には、共振性への志向が感じられるのである。ハイデガー哲学の闇は深いのである。恐ろしく深い闇があるのである。ハイデガーがナチスに関与したのは、その闇の心性からだろう。
 超越神(唯一神)とは、差異共振性をもたない、さらには、差異共振性を否定するものである。それは、同一性に帰結する。
 問題は複雑で、+iの同一性と-iの同一性があるだろう。前者が光の同一性であり、後者が闇の同一性であろう。アーリマンの光とルシファーの闇である。この光と闇の合間にある差異共振性・Media Pointを取り戻さないといけないのである。シュタイナーはそれをキリストと呼んだが、それは、西欧文化の文脈においてである。それは、日本文化では、天之御中主神、天照大神、大日如来、空である。
 さて、今ふと、プラトンのコーラのことが浮かんだ。イデアとコーラの関係は興味深い。コーラは端的に、差異共振性・Media Pointのことではないのか。それは、形相と質料の共振様相ではないのか。そして、それが、イデアではないのか。私はかつて、深山の山を見て、山のイデアを直観した。また、フェルメールの絵画を見て、イデアないしは特異性を感じた。
 +iと-iの共振様相としてのコーラであり、イデアではないのか。即ち、コーラ・イデアである。そして、西洋哲学は、そこから、同一性を引きだして来たと言えよう。思うに、遺伝子も正しくは、Media Pointではないだろうか。それが、物質化したのが、DNAということではないのか。つまり、Media Pointの物質面があり、それが、DNAではないのか。それは、Media Pointの実軸様相であろう。
 そう、今啓(ひら)めいたが、実相の世界とは、Media Point世界(Media Point World or Media Point Cosmos)なのではないか。現象世界とは、Media Pointが実軸化した世界である。連続化・同一性化した世界である。三次元ないしは四次元時空間である。そして、それは、虚軸世界にいわば、覆いを覆っているので、実相世界が知覚・認識されないのである。つまり、四次元時空間における連続・同一性感覚知覚現象しか認識していないのである。連続・同一性が +1である。⇒+1の⇒を捉えられないのである。
 実相は、差異共振性であり、超越的対極共振振動(太極振動・太極波動)である。そして、根源は三相であり、連続・同一性は四元(四大)となるのではないのか。そして、三相とは、空であり、四大に加えて、五大(地水火風空)になる。思うに、中世キリスト教において、占星術的観点から、四人の福音書家(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ:牡牛、獅子、鷹、天使:順番は怪しい)とキリストを合わせた五元性があったのである。キリストは、空になるだろう。そう、思うに、西洋文化においても、キリストを空と捉える発想があったように思えるのである。仏教的思想が西洋中世に入っていたのではないだろうか。あるいは、ケルト文化的発想がキリスト教に入ったのではないのか。(とまれ、数字で言うと、根源の3と現象の4で7となる。)
 さて、実相世界をMedia Pointと考えたが、そこでは、五次元と四次元の交差する世界であり、通常は、後者の現象世界に閉じこめられている。グノーシス主義のように現象世界を悪と捉えるのは、単純化である。なぜなら、Media Pointから必然的に発生するのが現象世界であるからである。いわば、同一性による衣装・衣服・ファッションとしての現象世界なのである。
 そう、私が言いたいのは、魂、霊魂、霊のことである。結局、それは、Media Pointであろう。では、何故、多数の魂が生起するのかということになるだろう。思うに、多数の魂とは幻ではないだろうか。思うに、根源的には、一つの魂the Soul/the Spiritがあるだけではないだろうか。一つの魂の時間的多様化が、個別の多数の魂ではないのか。ユダヤ神秘学では、アダム・カドモンという原人間を想定しているが、それが、一つの魂ではないのか。
 そのように考えると、唯一神の考え方も変わってくる。問題は、超越的同一性の唯一神と、Media Pointの唯一神の二種類の唯一神である。
 ヤハウェ(エホバ)は前者で、エローヒームは後者ではないのか。つまり、聖書においても、Media Pointがあったのであり、それが、エローヒームではないのか。
 そう、とにかく、Media Pointとの唯一神は、実は、多神である。八百万の神である。一即多である。(宮崎駿の神学がこれである。p.s. D. H. ロレンスが、『黙示録論補遺』で、聖書は多神教的であると述べていた。記憶が正しければ、やはり、一即多の神を説いていたように思う。また、新しい神が誕生するとも言っていた。確かに、Media Pointは、永遠回帰の場であるから、古い神々は滅びて、新しい神々が誕生するように思えるのである。では、新しい神々とは何だろうか。新しい装いの神々かもしれない。神の仮面である。)思うに、イスラーム教のアッラーとは、これではないだろうか。つまり、一神教とは言え、ユダヤ・キリスト教の唯一神とイスラーム教の唯一神は別物ではないのか。ただし、前者においては、二重になっているのであり、そして、超越的同一性が主になり、Media Pointが従になり、さらには、否定されていったと考えられるのである。
 アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベルの主著・傑作『神の仮面』にあるように、正に、神とは、一即多であり、仮面をもっているのだろう。
 結局、宗教・神話の根本的問題は、Media Pointに様態にあると言えよう。一即多が根本であるが、ある出来事によって、一が強大化して、多を否定する事態になったのである。父権的唯一神化である。Media Pointの傾きと言えるのではないだろうか。思うに、単に、陽への傾斜だけでなく、陽への極限化である。そのために、陰が否定されたのである。太陽となり、陰が無化されたのではないか。とまれ、陽中心化が発現したのであり、ユダヤ・キリスト教文明が生起したのである。同一性中心主義(ロゴス中心主義)の文明である。そして、その帰結が西欧近代主義/西欧近代合理主義/西欧唯物科学・技術・資本主義である。
 当然ながら、陽への極限化は、陰へと回帰するのである。これが、ポスト・モダンであった。しかしながら、陽の極限化による同一性中心主義が強く、太極=Media Pointを捉えられなかったのである。陰陽の連続体に留まったのである。
 結局、不連続的差異論を発展させたプラトニック・シナジー理論が、太極・即非様態であるMedia Pointを捉えることとなったのである。(p.s. 陽の極限化としての超越的同一性の発現としたが、それは、正に、1/4回転のことではないのか。虚軸から左へ1/4回転する事態、これが、陽の極限化=ヤハウェ化ではないのか。そして、さらに回転すると、ふたたび、虚軸化する。それが、太極ではないのか。そして、さらに1/4回転すると、陰の極限化を迎えるだろう。そして、さらに1/4回転すなわち、4/4回転で回帰するのである。おそらく、1/4回転と1/4回転の間には、中間期がないしは、転換期があるだろう。正に、複素数的段階ではないだろうか。
 とまれ、最初の1/4回転が、ヤハウェ化であり、西洋文明化であったが、それが、さらに1/4回転して、トランス・モダンになるということではないだろうか。
 思うに、時間的にはどうなのだろうか。1/4回転はどれくらいかかるのか。占星術的歴史を考えると、約2160年ではないだろうか。そして、今や、西暦2007年も終りで、2008年にならんとしている。一つの文化サイクルの終焉に近づいているということになる。次は、水瓶座文化期である。新しい1/4回転である。
http://www.aqast.net/21his_ari.html
http://homepage2.nifty.com/SON/uranai/Aquariusage001.htm
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/15662125.html


p.p.s. 今、ふと思ったが、『指輪物語』のロスロリアンとは、差異共振性から想像的に表現したものではないのか。
 
 
3)四大としての水とは何か:火と水の共振創造について:あるいは、水の心感性とは何か:心感受性の問題

4)フェルメールの絵画について:イデアと特異性

5)キリスト教会ないしは西洋植民地主義/資本主義のもつ狡知について:支配するための現地調査力と民衆支配のための方法の考察力について:キリスト教会は、民衆の支持(信仰)を得るために、異教的なものを活用してきた。わかりやすい例は、クリスマスである。これは、もともとは、異教である太陽宗教を取り込んで、つまり、イエスの誕生日にして、利用したものである。この狡知と超越的同一性との関係を考察する。マーケッティングとは、キリスト教会の狡知から来ていると思う。

p.s. 端的に言えば、それは、悪魔の狡知である。アーリマンの狡知である。西洋文明とアーリマンと資本主義。思うに、聖母マリアとは、やはり、カトリック教会が、民衆支配を行なうために、異教から取り入れた要素であろう。端的に、女神宗教である。地中海の女神・母権宗教である。
 ところで、思うに、EUとは、矛盾を抱えているだろう。差異共振性を志向するが、ユーロは、統一通貨なので、同一性主義なのである。イギリスのようにポンドを維持した方がいいのではないのか。複数通貨制がいいのではないのか。 

6)創世記の天の上の水について

7)芸術とは、心的差異共振エネルギーを表現したものではないのか。そして、心的差異共振エネルギーこそが、真の存在ではないのか。ハイデガーの存在論の誤りは、それが、超越的同一性の形而上学であることだと思う。完全に差異共振性が欠落しているのである。悪魔主義である。現象学の鬼っ子であり、フッサール現象学を破壊してしまった悪弟子である。おそらく、悪魔が憑依していたのである。

8)現段階における核心的問題は、超越的同一性の問題である。+iと-iのことである。ここで、父権神話を考えてみるのである。バビロン神話の場合、マルクトが、本来母神であるティアマトを殺害して、二分化して、天地創造する。これは、哲学的に、何を意味しているのか。
 それは、端的に、超越的同一性+iが超越的差異-iを同一性化して、差異共振性・Media Pointを破壊して、二分化してしまったことではないのか。ティアマトの死体から、天地創造をするのである。つまり、差異共振性を破壊して、二元論・二項対立を形成するのである。超越的同一性の優位項と超越的同一性の劣位項である。
 ここで、天を形相、地を質料とすると、ここに、西洋哲学の基盤が既にあると考えられる。唯物論の原型がここにあるのである。
 思うに、連続的同一性が否定するのは、差異ということだが、実は、差異共振性である。差異共振性を否定して、主客二元論を形成するのではないのか。初めに、Media Pointありき、ではないのか。そして、超越的同一性が差異共振性を否定して、主客分離を行なうのではないのか。父権神話とは、これを意味していると思われる。
 言い換えると、父権神話とは、構造主義の元祖である。原構造主義である。西洋形而上学の原点である。結局、超越的同一性+iは自乗して、-1となり、超越的差異-iも自乗して、-1になるのではないのか。そして、これが、+1ということである。 
 超越的同一性の盲点とは、差異共振性を否定するということを認識できないことにあるだろう。つまり、本質的に、差異共振性が欠落しているので、差異共振性を理解できないのである。差異共振性の「文盲」である。冷血無惨と言える。
 そして、この同一性(連続的同一性)が支配的であるので、ポスト・モダン哲学においても、差異自体が、同一性から脱却できずに、連続化しているのである。言い換えると、差異-iを見つけたが、それを同一性+iと連続化して捉えたのである。つまり、-(-i)であり、+iである。差異の同一性化なのである。
 構造主義が、+iの中心化とすれば、ポスト・モダン(ポスト構造主義)は、-iを同一性+iからの確認したのであり、-iが-(-i)=+iとなり、元の木阿弥になったのである。差異-iをそれ自体として、認識する方法が欠落していたのである。それは、結局、差異共振性、即非性に拠るしかなかったのである。東洋・日本の思想に拠るしかなかったのである。もっとも、例外は、ウスペンスキーの思想である。あるいは、詩人・作家である。
 思うに、カントが物自体は認識できないと言ったが、それは、西洋哲学の正直な告白である。超越的同一性中心主義(ロゴス中心主義・同一性中心主義)に拠る限り、不可能である。もっとも、カントは、実践的には、道徳・倫理を直感していたのである。カント哲学には、即非の概念が欠落していたので、理論化ができなかったと思われるのである。そう、『判断力批判』において、構想力(想像力)によって、理性と倫理との分裂を解決しようとしたのであるが、もしカントが構想力に即非性・差異共振性を確認できたならば、トランス・モダン哲学を構築できたであろう。
 美と崇高をカントは問題にした。美は同一性に関係し、崇高は差異ないしは差異共振性に関係するだろう。前者は古典主義であり、後者はロマン主義とは言えよう。しかし、カントは、これらを統合できなかったのである。やはり、ここでも、同一性に囚われていたので、崇高美学が、超越・無限的であり、把捉できなかったのである。崇高性が、超越的差異共振性から発することを理解できたならば、カント哲学は、トランス・モダン哲学となったのである。また、美にしても、古典美学は、同一性が基盤とは言え、根源には、差異共振性は必要であろう。先に問題提起したが、芸術とは、心的差異共振エネルギーの表現であり、そのとき、同一性も包摂すると考えられる。カントが、あと一歩進むことができていたならば、世界は変わったであろう。超コペルニクス的転回が起こっていたであろう。
 ちなみに言えば、フッサールはカントより進んで、超越性(フッサールは超越論性と言っている)に到達したのであるが、それを、超越的同一性志向性(ノエシス/ノエマ)に限定してしまったと言えよう。この系譜から言うと、プラトニック・シナジー理論は、カント/フッサール/ウスペンスキーの延長にある。もっとも、即非という鈴木大拙の東洋・日本的理論の進展にあるのであるし、ポスト・モダン哲学の超克でもあるのである。だから、明らかに、プラトニック・シナジー理論は、西洋哲学と東洋・日本思想の創造的合流点に位置していると考えられるのである。根井康之氏の「東西思想の超克」
http://renshi.ameblo.jp/renshi/entry-10003249686.html
の理念であるが、それは、プラトニック・シナジー理論が実現したと言えよう。それは、また、科