検討問題・課題:思考実験、仮説、作業仮説

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2011年09月10日(Sat)▲ページの先頭へ
光の知覚とは何か:光は同一性を生むのか、それとも差異的なのか:光は差異である:聖なる光と闇
光は不思議である。光は生命的であり、また、夜明けや夕焼けのように神々しい。
 しかし、そのような「美」的な光とは別に同一性の光があるのではないか。
 問題は差異の光なのか同一性の光なのかである。先の検討では、光は質量がないから、物質ではなく、あえて精神と述べた。
 そうならば、同一性の光は矛盾である。私が言おうとしたことは何なのであるか。物質の光である。それは何か。
 物質の光は不正確な、誤謬の表現である。正しくは、光に照らされた物質の同一性である。
 それは、プラトンのイデアの問題につながる。イデアはポスト構造主義が問題にしたように、確かに、同一性の原型である。ゲーテの原型もそれと一致するだろう。
 思うに、ここには、光と物質の混淆、混同があるのである。光はあくまで、差異と見なくてはならない。差異は精神(霊)spiritである。端的に言えば、この光と物質の混同こそ、連続的同一性を形成すると言えよう。
 そう、人間は知覚・認識において、両者を混同するような力学をもっているのである。それが仏教で言えば、無明である。
 つまり、差異である光を同一性である物質と等号化してしまうメカニズムがあるのである。それは、精神的フィルターである。愚樵氏の言う知的フレーム(?)である。
 これはある意味で神から与えられた人間の試練である。言い換えると、精神を物質と見てしまうように先天的に組み込まれているのである。
 ゾロアスター教では、それをもたらす悪魔をアンラ・マンユと呼んだ。(シュタイナーではアーリマンである。)
 ということで、私が問題にすべきことが明確になった。光を悪とするのはまったくの誤謬である。光と闇は双対であり、両者善である。悪は同一性、すなわち、物質である。
 とまれ、以上から、疑問が氷解した。人間、衆生のもつ弱さから、光を物質=同一性と見てしまうのである。愚かさとも言える。そう、光を物質とするのは、視覚の劣弱さに拠ると言えよう。物質的視覚に閉ざされていると言えよう。
 しかしながら、正確に言えば、混淆、混同があると言うべきである。精神である光と同一性の物質を同一視しているのである。そう、正に、無明というしかない。同一性の闇を差異の光と一致させているのである。
 思うに、これは意外に女性に多いように思う。精神を物質と勘違いしているのである。
 ここで、シュタイナーの精神学の正しさが証明されよう。シュタイナーは物質感覚から精神を離脱させるための瞑想学を説いているのである。それは、つまり、光を物質から離脱させることである。その超物質的な光を瞑想の対象とするのであり、光を瞑想し、さらに、光と闇の超越的世界に参入するのである。
 精神(霊)spiritとは、光と闇の超越的エネルギ−であると言えよう。
 後で、光と闇の関係を精緻に検討したい。

追記:以下のツイッターを見て、ピンときた。やはり、シュタイナーが言う精神が地殻運動と連動するというのは正しいのではないのか。
 つまり、根源は光ないし光/闇であり、それが物質を駆動しているのである。つまり、物質自体には駆動力、起動力はないのである。
 光や光/闇のエネルギーが物質を動かしているのでああるから、当然、精神は物質を動かしうるのである。これで、イエスの奇跡や仏陀の奇跡は説明できよう。ただし、オカルト主義ではない。
 Kaisetsu氏がスカラーには方向性がないと言ったことが意味深長である。
 物質はそれ自体では動かないのである。物質を駆動ささせる光、光/闇の力が必要なのである。
 後でさらに検討したい。


⊃ゥ
sumire2001 ⊃ゥ

そうです。地磁気の乱れは地殻の乱れに時として繋がります。朝のツイートでも予想した通り、1500に茨城沖でM4.8の震度4が発生したようです。 RT @lovelovesarah : あらあれ、午後じゃなかったのか。地磁気がこ (cont) tl.gd/d0hk31

 


2011年09月08日(Thu)▲ページの先頭へ
検討課題:ブラックホールとは何か:media pointとブラックホール
直観ではブラックホールはmedia pointと関係する。問題は重力である。ベクトル・モードの形成力学において、中心の軸となるベクトルの核へ引力(重力)がはたらくのではないのか。簡単な円運動を考えればいいだろう。
 回転運動は向心力があり、それが、重力とすればいいだろう。そうすると、media pointが重力の中心となるのではないだろうか。だから、ブラックホールはmedia pointを中心に形成されることが考えられる。
 そうならば、ここにはパラドクシカルな事態が生じている。すなわち、media pointは精神の核であるのに、同時に、重力の核であるということになるのである。光の核なのに、物質の核ということになるのである。
 しかし、重力は物質とは言えないだろう。だから、重力を物質の核ということは正しくない。
 では、光の核であり、重力の核であるということは何を意味するのか。光子と重力子は同質なのではないのかということが考えられる。そう、ただ正負が正反対だけなのではないだろうか。あるいは、両者、極性があるのではないだろうか。
 とまれ、これは検討課題である。

追記:ブラックホールは物質が集積されるところでもあるが、それを重力の核とは呼べても、物質の核と呼ぶの間違いである。物質の核は通常、原子核である。

ブラックホールに迫った=位置を精密観測―おとめ座銀河・国立天文台など

時事通信 9月8日(木)2時13分配信
 おとめ座の方向に約5440万光年離れたM87銀河の中心にある超巨大ブラックホールの位置が、米国立電波天文台が運用する電波望遠鏡10台の観測網で精密に突き止められた。国立天文台水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)で研究する総合研究大学院大学生の秦和弘さんや、宇宙科学研究所の土居明広助教らが 8日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
 ブラックホールは極めて重力が強く、近くでは光さえ逃れられない。このため、ブラックホールは文字通り「黒い穴」に見える。一方、黒い穴の外側では、周りの物質がのみ込まれる際に激しくぶつかり合って高温となり、ジェットと呼ばれるガスの噴流が生じて光り輝いている。
 M87ブラックホールの黒い穴の直径は、地球と太陽の距離の240倍。秦さんらが観測したブラックホールの位置の誤差は、地球から見た角度で1度の1億 8000万分の1、黒い穴の直径のわずか2倍にとどまった。土居助教は「今後、黒い穴そのものを影として見たい」と話している。研究成果はブラックホールの周囲の現象を詳細に解明するのに役立つと期待される。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110908-00000009-jij-soci

ブラックホール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
曖昧さ回避 「ブラックホール」のその他の用法については「ブラックホール (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
<<シミュレーション画像>>天の川 を背景として、太陽質量 の10倍のブラックホールを600km離れた場所から見たと想定して、理論 的に計算し、描画してみたシミュレーション 画像である(Ute Kraus 作成、2004年[1] )。光がブラックホールに落ちていくために真っ暗に描かれ、その周囲は光がねじ曲げられて、背景の星が集まるように描画されている。

ブラックホール (black hole) とは、きわめて高密度 で大質量 で、きわめて強い重力 のために、物質だけでなく光 さえも脱出できない天体のこと[1] 。

「ブラック・ホール」(黒い穴)という名は、アメリカ の物理学者 ジョン・ホイーラー が1967年にこうした天体を呼ぶために編み出した[2] 。それ以前は「collapsar[3] コラプサー」(崩壊した星)などと呼ばれていた。
概説 [編集 ]

21世紀初頭現在、ブラック・ホールは仮説 的存在であり、ブラックホール自体を直接観測することにはまだ成功していない。だが、宇宙の特定のエリアにおいて、ブラックホールが存在すると想定すれば、理論的に予想される物質の運動に相当する宇宙ジェット や、ブラックホールに吸い込まれていく物質が出すと理論的に予想されるX線 は観測されていることから、ブラックホールが実際に存在することはほぼ確実だろうと多くの科学者から見なされている。

その中心に特異点 が存在する、と考えられている。

ブラックホールは、大質量 の恒星 が超新星 爆発した後、自己重力 によって極限まで収縮することによって生成したり、巨大なガス雲 が収縮することで生成する、と考えられている。外部世界との境界は、事象の地平面 (event horizon) と呼ばれる。

銀河の中心には、太陽質量 の×106から×1010倍程度の超大質量ブラックホール (super-massive black hole) が存在すると考えられており、超新星爆発後は、太陽質量の10倍から50倍のブラックホールが形成されると考えられている。20世紀末には、両者の中間の領域(太陽質量の×103程度)のブラックホールの存在をうかがわせる観測結果も報告されており、中間質量ブラックホール (intermediate mass black hole; IMBH) と呼ばれている。

ブラックホールの周囲には非常に強い重力場が作られるため、ある半径より内側では脱出速度 が光速 を超え、光 ですら外に出てくることが出来ない、とされる。この半径をシュヴァルツシルト半径 と呼び、この半径を持つ球面を事象の地平面(シュヴァルツシルト面)と呼ぶ。

ブラックホールは単に元の星の構成物質がシュヴァルツシルト半径よりも小さく圧縮されてしまった状態の天体であり、事象の地平面の位置に何か構造があるわけではない。よってブラックホールに向かって落下する物体は事象の地平面を超えてそのまま中へ落ちて行く。ブラックホールから離れた位置の観測者から見ると、物体が事象の地平面に近づくにつれて、相対論 的効果によって物体の時間の進み方が遅れるように見える。よってこの観測者からは、ブラックホールに落ちていく物体は最終的に事象の地平面の位置で永久に停止するように見える[4] 。同時に、物体から出た光は赤方偏移 を受けるため、物体は落ちていくにつれて次第に赤くなり、やがて可視光 から赤外線 、電波 へと移り変わって、事象の地平面に達した段階で完全に見えなくなる、とされる[要出典 ]。

ブラックホールの中心には、密度、重力が無限大である特異点 がある、とされる。

数式上は、すべての物質を呑み込むブラックホール解と相反するものとしてホワイトホール (white hole) 解が存在する[要出典 ]。


ブラックホール - Wikipedia



2011年09月03日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:核融合や生体内原子転換をPS理論で解明する
検討問題:核融合や生体内原子転換をPS理論で解明する

テーマ:科学研究

生体内原子転換や(常温)核融合についてであるが、直観では、PS理論で解明できると思うのであるが、今は漠然と予見を書く。
 
〔i1*(-i1)〕*〔i2*(-i2)*・・・・・〔in*(-in)〕⇒+1(?)

最も単純化して、

〔i*(-i)〕*〔i*(-i)〕⇒+1

を考えよう。これは以下の参照から陽子-陽子連鎖反応に相当する。
 わかりやすくするため、序数化しよう。

〔i1*(-i1)〕*〔i2*(-i2)〕⇒+1      (A)

そして、変形する。

〔i1*(-i2)〕*〔i2*(-i1)〕⇒+1  (B)       

これは、最初の陽子と二番目の陽子が、+と−で牽引した状態を意味する。つまり、核融合である。そして、A式とB式は異なるということである。
 AからBへの転換において、二つの陽子が重水素になるとき、陽子の固有エネルギーが奪われて、陽電子とニュートリノを放出すると思われる。つまり、陽子の結合エネルギーが核融合で解体されて、陽電子とニュートリノとして放出されたというように考えることができるだろう。
 この核融合であるが、通常、高エネルギー状態でなされるとして、実験されているが、常温核融合や生体内原子転換を考えると、高エネルギー状態は必要ではないということになる。
 PS理論から言えば、media point同士の融合があればいいのである。そう、同一性(物質体)の力を解体する差異共振エネルギーがあればいいというように思われる。
 直観では、なんらかの方法で、二つの陽子を十分接近させれば、同一性力を解体して、差異共振である核融合、ないしは、生体内原子転換はなされると思われるのである。
 今は予備考察のみである。
 
 


参照:
陽子-陽子連鎖反応 [編集 ]

次の、軽水素(陽子、p)どうしが直接反応する水素核融合を、陽子-陽子連鎖反応 、p-pチェインなどと呼ぶ。太陽で主に起こっている核融合反応である。

(1) p + p → 2H + e+ + νe

2つの陽子が融合して、重水素 となり陽電子 とニュートリノ が放出される。

(2) 2H + p → 3He + γ

重水素と陽子が融合してヘリウム3が生成され、ガンマ線 としてエネルギーが放出される

(3) 3He + 3He → 4He + p + p

ヘリウム3とヘリウム3が融合してヘリウム4 が生成され、陽子 が放出される。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%A0%B8%E8%9E%8D%E5%90%88

参照2:

原子核融合
原子転換:Biological transmutation

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2011年08月22日(Mon)▲ページの先頭へ
思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない
思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない

先に、+1を粒子、−1を反粒子(反物質)としたが、それは、勘違いであり、訂正したい。⇒+1において、粒子/反粒子の対生成があると考えられる。それを作業仮説的に共役複素数とする。とまれ、粒子/反粒子の対を電子と陽電子とすると、原子核とはMedia Pointではないだろうか。思うに、原子核のMedia Pointを中心として、電子と陽電子が回転するのである。それが、物質の原像ではないだろうか。
ここで、「空」について触れると、それは、やはり、Media Pointと考えられる。有と無を生み出すものである。(思うに、ハイデガーの存在論はこの点でまったく一面的ではないだろうか。存在ではなく、「空」である。もっとも、「空」が「在る」ということになるが。しかしながら、「空」=Media Pointは、「在る」を超えている。)
さらに、それは、−1に通じる。しかし、正確には、第三象限である。なぜなら、「空」=Media Pointは陽である凸i、+1を滅却して、到達できるからである。つまり、凹i、−iの根源的優位性があると考えられるからである。前者を個我とすれば、後者は非個我である。しかしながら、個我を経過して、非個我には達するべきである。そうでないと、全体性ないし集合性に飲み込まれるからである。
ここで個やアートマンについて考えると、それは、陰陽ないし霊魂と考えられる。それをブラフマンと考えること、即ち、梵我一如と、「空」=Media Pointとは異なるだろう。
後者は前者を包摂していると考えられる。なぜなら、空即是色、色即是空であるからである。言い換えると、個/アートマンとは、「空」=Media Pointの「存在」あるいは陽=凸i=+1の傾斜と考えられるからである。後者から前者が生成するのである。
ここでジェンダー論的に説くと、前者が父権であり、後者が母権である。母権から父権が生まれ、今や新たに母権に回帰しつつあるのである。



龍樹(ナーガールージュナ)をちらと見たが、PS理論に通じると直観される

テーマ:Buddhism

「空」とは端的に、PS理論のmedia pointのことであると言えよう。それは、在ると同時に、無いのであるから。問題はウパニシャッド哲学のアートマンの問題である(梵我一如)。
 私は個は他者であると言った。つまり、アートマンは他者(ブラフマン)になるのである。
 ならば、ウパニシャッド哲学と仏教哲学はPS理論において統一されると言えよう。
 D. H. ロレンスの唱えるコスモスも個=他者=「神」と同じことである。個でありつつ、他者なのである。「個」即非「他者」である。
空 (仏教) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/空_(仏教) - キャッシュ
龍樹の空観 に移動‎: この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という ...
インドでの基本概念 - 仏典の用例 - 空とは何か - 類似の発想の西洋での芽生え



『平家物語』と『源氏物語』:民衆的文学と貴族的文学:どちらが日本を代表する文学か

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、kaisetsu氏の日本文化に関するコメントは徹底している。想起するのは、以前、私が日本文学を代表するのは『源氏物語』ではなく、あえて『平 家物語』であると述べたことである。前者の権威が強いために、断言するのは勇気がいるのであるが、面白さから言えば、端的に、後者の方が面白いのである。 日本語の簡潔で力強い口語体がすばらしいし、私はトルストイの叙事的文学の文体を想起したものである。そう、私が日本で一番好きな人物は木曽義仲である。 個に徹した人物、日本では稀有である。坂本龍馬に通じる人物だと思う。
 思うに、『源氏物語』の美学は当然に貴族趣味的であり、なにか生活感情から言うと、繊細すぎて、ぴんとこない点が強いのではないだろうか。閑人の感情と言おうか。
 それに対して、『平家物語』は野太い声が聞こえるが、清冽な感情が漲っていると思う。あえて言えば、ホメロスの叙事詩に匹敵するのではないだろうか。それにしても、端正な生活的な言語である。
 思うに、kaisetsu氏の日本美学大転換は大きな意味があるだろう。舶来趣味にかぶれた日本知識人や愚民への大痛打である。

倭国と日本国は異なる。よって、他国が倭(ウェイ)と揶揄しても日本人は「平気」だ。

注:基本的に、鎌倉以降の日本人的精神は、貴族趣味を嫌い、土着的で泥臭い文化を愛しているのである。

 倭国が百済や新羅的な貴族趣味的な傾向を持つのに対して、天武朝は地方豪族と半農半武、半漁半武の土着的で泥臭い気風と皇族との結託によって、中央勢力である倭国が打倒され、日本国が形成されたのである。

 平安期になると、また、百済的、新羅的な貴族趣味が蔓延するが、やはり、鎌倉期に、地方の武士階級と浄土宗などの泥臭い庶民階級によって、日本的精神の覚醒が起こるのである。

 日本人は、泥鰌掬いの踊りを、誇りを持って、眺めるのである。「カッコイイ」と感じるのである。

海舌
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile





2011年01月26日(Wed)▲ページの先頭へ
マニ教とケルト教とグノーシス主義:超越絶対的普遍的光:マニ教とPS理論
宗教の混乱は、本来、言語化できない超越性を言語化して、実体化してしまったことにあるだろう。(禅仏教はこの点を説いたが、レトリック的固執が強くなってしまった。)PS理論で言えば、第三象限を第二象限で表現しようとしたとになる。言語化は凸i凸である。脱言語化は凹i凹である。
ところで、今、そのことについてではなく、マニ教とケルト宗教(馴染みのない呼び方であるが、ケルト文化やケルト神話では、意味が充分つたわらないので、そうする。以下、ケルト教)とグノーシス主義について触れたい。
 先の考察から、ケルト教とアジア文化は深く関係しているとわかったし、Kaisetsu氏の視点から、海洋性と深く関係しているのも推察できる。あえて言えば、陸のシルクロードと海のシルクロードの両方にケルト教は関係していると思われる。
 おそらく、ここで、ケルト教とマニ教は関係が生じたと思われる。しかしながら、年代的には、ケルト教の方が古い。
 また、マニ教とグノーシス主義は、年代的には近い。シュタイナーは、グノーシス主義と初期キリスト教との関係を説いているが、キリスト教はローマ帝国の国教となり、グノーシス主義を排除していくのである。そして、また、キリスト教はミトラ教と欧州において、覇権を争ったであるが、どちらも、本来太陽神崇拝である。
 直観では、ケルト教もマニ教の形成に与ったと思うし、根源的にはケルト教からマニ教が発達した可能性もあるだろう。
 しかし、問題は、超越絶対的普遍性の問題なのである。この超越絶対的普遍性を人間は「神」と呼んできたのである。ユダヤ教では本来、「神」を名指すことを禁じられてきたのである。超越性を物質界と関係する言語で表現することは、物資的実体化になるから当然である。
 とまれ、グノーシス主義の神界と物質界の二元論は、マニ教と通じると言えよう。問題は、ケルト教とマニ教の関係である。端的に言えば、自然の問題なのである。あるいは、自然と精神との問題である。
 二元論は精神と自然を対立させる傾向にあり、それが、実際には、キリスト教に現われている。
 しかしながら、本当の問題は、精神と物質の対立である。ケルト教はキリスト教を受け入れて、希有の自然的キリスト教を形成したと言えよう(もっとも、ケルトのカトリック教会が正しいということではない)。
 もっと突き詰めれば、精神と物質主義との闘争の問題である。自然と物質主義は当然、異なるのである。自然は物質を含むが、物質主義ではないのである。
 結局、マニ教的二元論にとって、問題なのは、精神/自然に対する物質主義である。これによって、マニ教とケルト教が結びつくと言えよう。
 しかし、さらに問題は、父権的宗教以前の母権的宗教(例えば、古代オリエントの宗教:シュメール文化も関係しよう)である。ここにおいては、精神と性は結びついていたのである。D. H. ロレンスはいわば、これを探究したと言えよう。
 端的に言えば、それは、精神が身体へと顕現している宗教である。思うに、父権的宗教の意義は、以前述べたが、母権的宗教がデカダンスとなり、物質主義に堕落してしまったことに対して、新しい超越性を啓示したことである。
 だから、マニ教的二元論の視点から、母権的宗教の精神/自然性は本来肯定できるものであるが、その堕落した様態は否定することになるのである。ここで、マニ教と母権的宗教が結びついた。
 さて、今日、父権的一神教が唯物論に堕してしまったことが大問題である。極言すれば、父権的一神教が資本主義の原理であるが、それは、短絡的である。何故なら、初期においては、超越性が発現していたからであり、それを「父」として、捉えたのである。しかし、その後、同一性主義(凸i凸:第一象限領域)の進展によって、唯物論化したのであり、資本主義を準備したとは言えよう。
 そう、西洋文明とは、強力な父権主義であり、凸iないし凸i凸が強大なために、超越性を連続化して物質と結合させてしまって、近代物質文明を形成したと言えるだろう。これを乗り越えるべく、西洋文化において、多様な領域で、様々な試みが行われきた。それは、一言で言えば、脱近代主義である。
 しかしながら、ある少数者を除いて、失敗したと言えよう。問題は、新しい超越性の発見にあったと考えられるのである。哲学において、それに近づいた、フッサールでさえ、超越性ではなく、超越論性という用語に留まったのである。西洋においては、ウスペンスキーは新しい超越性に気づいていたと言えようし、日本では、鈴木大拙、西田幾多郎がそれに気づいたのである。
 父権的超越性から生まれた西洋文明であるが、近代主義によって、超越性を排除してしまい、また、脱近代主義の試みのはずであったポスト・モダンもそうであったのである。いかに、近代西洋において、同一性主義(唯物論)が強固であるかがわかるのである。
 しかし、日本において、新しい超越性を説くPS理論が生まれたのである。これとマニ教との関係を見る必要がある。
 これまで述べたように、日本文化は本来、母権的文化であり、それに父権的文化が参入して、新しい古代日本文化、二元論文化が生まれたと考えられる。それは極性文化である。
 しかしながら、ベースの母権文化が衰退して、表層の父権文化が強化されていき、終には、父権的「天皇制」が形成されて、狂信的な父権的物質主義文化が生まれてしまったのである。
 しかしながら、その父権的物質主義に対する闘争から、PS理論は生まれたと言っても過言ではないだろう。超越的精神性を追求していたのである。日本文化は母権主義であるということは、本来、感性、共感性が強いということであり、それは、凹iないし、凹i凹の文化であるということである。「水」の文化である。
 思うに、私に関する限り、この母権主義的性向によって、超越的精神を感受したと言える。つまり、言うならば、日本におけるマニ教的な志向が復活したと考えられる。それは、母権的マニ教と呼べるものである。それは、神道や仏教と結びついて、自然的性向をもつマニ教であり、物質主義を排するのである。
 そう、ここで、感覚、身体の問題があるが、霊的・精神的感覚、霊的・精神的身体は肯定されるが、物質主義的感覚、身体は否定される。
 言い換えると、ここで、芸術が問題になっているのである。そう、新しい芸術の可能性がここにはあるのである。新芸術日本の可能性があるのである。おそらく、日本の生きる道は、新芸術的文化・政治・経済を形成することではないだろうか。
 とまれ、以上で、マニ教とPS理論の関係がいくぶんわかってきたと言えよう。

補記:上記の古代日本における母権的原基と父権主義の極性であるが、単純化して述べている。先の考察では、母権と父権の極性的文化以外に、父権主義的文化、ユダヤ・印欧語族的父権一神教文化が参入して、衝突し、それが、記紀に表現されているということであったのである。
 日本においては、おそらく、母権・父権的極性文化と父権主義文化との均衡があったが、明治近代化以降、後者が支配的になったと考えられる。これは、母権・父権的極性文化が衰退したことと考えられよう。つまり、やはり、上述したように、母権的原基が衰退したということである。
 思うに母権・父権的極性という言い方はまだ矛盾がある。母権的戦闘性を表現したいのである。これが的確に表現できないのである。とまれ、母権・父権的という表現は止めた方がよさそうである。とまれ、仮に、母権・「父権」的極性文化としておきたい。後でこの点で検討したい。
 
The Light That Has Lighted The World - George Harrison
 

Living in the Material World by George Harrison 


2010年11月21日(Sun)▲ページの先頭へ
母権的霊的文化と父権的物質文化
先に

「追記:古代ギリシアの場合、プラトン哲学の超越空間が開けたのである。インドの場合は、土着的民族にアーリア民族が侵入して、ブッダの超越空間が開けたと思う。
 ここには、母権と父権の差異共立・共振に拠る第三の主権が生まれたのではないか。
 母権だけだと、感覚界志向となり、父権だけだと抽象・観念界志向となるだろう。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10710622845.html

と書いたが、下線部は勘違いである。母権的文化は感覚的、イメージ的でありながらも、霊性をもつ文化である。
 そして、父権的文化は、同一性志向が強く、世俗的物質的文化である。
 後で再考したい。

追記:先に、古代ギリシアの父権的民族をアーリア民族と呼んだが、今はその呼称は、ヨーロッパ人には適用されないということなので、訂正したい。
 インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン系をアーリア人と呼ぶということである。『アーリア人』青木健著 講談社選書メチエ

追記2:問題は、一神教の父権文化である。それは、確かに、物質文化に帰結したが、超越性は保持しているのである。だから、一神教の父権文化の超越性とは何か、が問題である。
 しかし、これは、実は、母権的多神教の超越性が下敷きにあると考えられる。つまり、一神教のベースには、母権的霊的文化があると考えられる。

追記3:ヤハウェからわかるように、唯一神は嫉む神である。それは、母権的神を嫉むのだろう。


2010年11月13日(Sat)▲ページの先頭へ
永遠性とは何か:その他、諸々のこと:もろもろ草
私は高校生のとき、教室の机で、後何年かしたら、もうここにはいないというようなことをよく感じていた。それは不思議であった。
 その時は居ないのに、今居るという感覚が不思議であった。これは、一種の即非感覚と言えよう。
 また、人間の感情は、ずっとあるのではないかとも思った。つまり、過去において、誰かが感じた感情はいわば永遠ではないのかと。
 これは、PS理論で言えば、虚軸のもつ永遠性、あるいは、Media Pointのもつ永遠性ではないだろうか。人間認識図で言えば、四つの象限の永遠性であろう。しかし、正確には、第三と第四象限であろう。
 とまれ、永遠という感覚がある。唯物論では、到底認められない感覚である。
 そう、単純に、永遠の感覚を肯定すればいいのではないだろうか。物質主義の視点からは、それは妄念・妄想と見なされるだろう。
 今は、「わたし」は、現在の物質界に制限されているが、「わたし」が物質的身体から解放されれば、新しい意識をもつようになるのではないだろうか。
 思うに、霊魂とはMedia Pointであろう。それは、霊界-1に通じていよう。
 解脱とは、物質性からの脱却である。それは、MP1へと到達することであり、さらに、-1へと参入することではないだろうか。
 根源的エネルギー、元エネルギーが、物質的身体に陥入し過ぎると、物質的欲望の虜になると言えよう。貨幣欲もそれと同等であろう。
 根源的エネルギー、元エネルギーを精神性へと反転することが必要であろう。
 ここで、精神的修行ないし芸術の問題がある。
 今、芸術の問題に簡単に触れたい。芸術は精神的修行と違って、感覚性を保持する。問題は、感覚性、あるいは、感性とは物質的なのか、ということである。
 一見、感覚とは物質的と取られるだろう。果たして、そうなのか。
 例えば、秋の夕焼けは空気が澄み切っているので、鮮明で美しい。その美的感覚とは物質的なのか。
 感覚と物質の関係について解明する必要がある。
 Media Pointにおいて、差異共振は同一性を形成し、それが、物質へと展開する。同一性は原物質である。しかし、感覚は同一性なのか。
 例えば、眼前に、樹林があるとしよう。樹林という認識は、同一性であり、眼前の樹林は差異である。
 そして、感覚、視覚は、樹林の形象に惹きつけられる。視覚は樹林と一如になる。
 このとき、視覚経験は、樹林を同一性とは認識せずに、ただ、緑の形象として感覚するだろう。つまり、ここには、差異はあるが、同一性はない。ただし、言語表現するときは、樹林や緑や梢、等々の同一性を使用する。
 ということは、感覚、感性とは、同一性ではない。それは、なおさら、物質ではない。感覚、感性とは差異である。つまり、精神性に属すると言えるだろう。
 感覚、感性が物質と関係するのは、同一性認識と結びついたときである。例えば、眼前のグラスはグラスという物質的同一性をもち、感覚はそれに限定される。
 つまり、感覚、感性を物質性と結びつけるのは、同一性である。しかし、感覚、感性は同一性と不連続である。
 思うに、この認識がないために、これまでの哲学、科学の認識は混乱してきたのではないのか。つまり、感覚、感性は、同一性⇒物質+1と連続化されてきたのであり、いわば、無理やり、物質と接合されてきたのではないか。
 そうすると、実に新しい地平・視野が広がるのではないのか。つまり、精神的感覚、精神的感性が本来的であり、ここにこそ、芸術の本質があると考えられるのである。
 ここで、D. H. ロレンスの文学を考えると、彼の表現する性とは、実は、精神的感覚、精神的感性ではないのか。言い換えると、精神的性である。これは、同一性・物質的性とはまったく異質である。
 これは、差異共振ではなく、差異共立、さらには、差異共融の表現であると思われるのである。
 近代は同一性・物質的性に取り憑かれていた。しかし、トランス・モダンは、精神的性へと転化すると考えられる。
 思うに、最近の女性のポップスにはその傾向が感じられる。例えば、レディー・ガガの表現は精神的性の表現と考えられる。
 後で、感覚と精神について、緻密に解明したい。


2010年10月21日(Thu)▲ページの先頭へ
想像力とは何か:想像力はどうやって培われるのか
私はあることがきっかけで、今日の日本社会は想像力が欠落しているのではないかと直感した。
 今は余裕がないので、詳述できないので、一言言うだけだが、想像力とは内的なもの、精神的なもの、心的なもの、魂的なものである。それをどうやって培うことができるのか。
 一つには、優れた音楽に接することである。また、文学(とりわけ古典)や神話に接することである。そして、豊かな自然に接することである。また、本物の美術に接することである。
 一言で言えば、多面的な芸術の体験が欠落していることから、想像力が欠落していると思われる。音楽、文学、美術、これらは、芸術三位一体である。

追記:あわてて、自然を入れるのを忘れた、四位一体である。(追記:自然については、問題がある。自然を認識するには、内的認識力が必要である。それがなければ、いくら、自然があっても、豚に真珠である。思うに、内的能力の開花と同時に、自然が内的になるのである。)

追記2:文部科学省が、想像力教育を行っていないのである。日本人が英語ができないのもそれと関係する。リスニングには、音楽能力が必要であるし、理解には文学的思考が必要である。
 また、英語の構成を理解するには、数学的思考が必要である。
 外国語は他者であり、生半可では身につかないのである。

追記3:後、日本の教育に足りないのは、哲学である。哲学は正に、内的思考を培うものである。これは、芸術の知性と言えるものである。思うに、美学は冗語であろう。

追記4:以上はいかにも文系に偏っていると言われるかもしれない。しかしながら、自然科学も、今や、いわば、内的科学である。量子論は正にそうである。
 医学においても、「気」が注目されているし、ケアの問題もある。
 ロボット作成にしろ、内的能力が問題になっているだろう。
 結局、トランス・モダン・サイエンスとして、内的科学が基礎であり、そこからの新たな構築・体系化が問題なのである。
 近代科学とは、外的科学、唯物論科学に過ぎなかったのである。
 科学が一つになる。


2010年10月10日(Sun)▲ページの先頭へ
粒子と反粒子の対は双極子凸i*凹iではないのか
粒子と反粒子を双極子とすると、粒子と反粒子は極に過ぎない。それは、粒子ではないと思う。粒子の視点は、+1の視点である。⇒の双極子のダイナミクスに注目すべきだろう。
 凸i*凹iの双極子であるが、凸iと凹iとは粒子でないなら、何であろうか。素粒子だろうか。これは、アトム論的発想である。
 以前、即非子ということを述べたが、その方が、素粒子や粒子よりいい。とまれ、双極子でいいと思う。これは、いわば、三位一体である。三一体、トライアッドである。そして、思いつきでは、この三一体の双極子は、四つの様相、人間認識図の四つの象限をもつのではないだろうか。
 物理学では、四つの力のグランド・セオリーが問題になっているが、PS理論のMedia Pointの双極子理論によって、四つの力は整合的に説明できると思う。これは、直感であるが。
 後でさらに検討したい。

追記:時計回りの1/4回転で、凸i⇒+1となり、
凹i⇒-1と仮説すると、「粒子」(物質)が現象界(+1)に存し、「反粒子」(反物質)が現象界にはなく、超越界(-i)に存することが説明できる。
 反粒子、反物質、ダーク・マターは同一ではないだろうか。そして、超越界-1が本来のイデア界ではないのか。

反粒子
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反粒子(はんりゅうし)とは、通常の粒子 と比較すると、質量とスピンが等しく、電荷など正負の属性が逆の粒子を言う。。

相対論的量子力学 においては、フェルミ粒子の振る舞いを記述する運動方程式であるディラック方程式 に負のエネルギー固有値が現れるという問題があった。ポール・ディラック はこの問題に対する回答として、空孔理論を用いて「正のエネルギーを持つ反粒子が存在するせいである」とした。 場の量子論 においては、ディラック方程式の解を運動量空間で展開し、負の振動モードを表す場に対して 反粒子と呼ぶ。この枠組みでは、粒子と反粒子が衝突し光子に変わる、などの過程を生成消滅演算子を用いて数学的に記述することが出来る。現在の素粒子論は、場の量子論に立脚した標準模型 が実験結果を非常に正確に記述することが分かっており、粒子や反粒子の散乱断面積、崩壊幅などは場の理論を用いて計算することが出来る。

電子 の反粒子は陽電子 であり、同様に陽子 には反陽子 、中性子 には反中性子 がある。(中性子は中性であるが反中性子は構成粒子であるそれぞれのクォーク が反粒子であるため反粒子が存在する)反粒子が通常の粒子と衝突すると対消滅 を起こし、すべての質量がエネルギーに変換される。逆に、粒子反粒子対の質量よりも大きなエネルギーを何らかの方法(粒子同士の衝突や光子などの相互作用)によって与えると、ある確率で粒子反粒子対を生成することができ、これを対生成 と呼ぶ。

数学的取り扱いにおいては、粒子が時間軸を過去に向かって進んでいるものを反粒子である、と解釈することもできる。(CPT定理 )


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%B2%92%E5%AD%90


反粒子消滅の基礎理論
反粒子の消滅
反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.例えば,電子の反粒子である陽電子は電子と衝突すると消滅し,2個またはそれ以上の光子に変化する.電子と陽電子の静止エネルギーはそれらの光子のエネルギーに転換する.全体のエネルギーは保存される.

自然法則1:反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.

宇宙において反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.初期宇宙において反粒子は粒子(反・反粒子)に衝突したときにのみ消滅する.初期宇宙は宇宙の一種であると考えられる.

自然法則2:いろいろな素粒子反応で反応前後のバリオン数は不変である.これをバリオン数の保存則という.

バリオンは核子のようなスピン半整数のフェルミ粒子で強い相互作用する粒子である.重粒子ともよばれる.これらはバリオン数+1の素粒子と考え,それらの反粒子はバリオン数−1の素粒子と考える.バリオン数が保存しないなら,陽子は陽電子に崩壊するかもしれないが,自然の事実としてそのような崩壊は見出されていない.また,バリオン数が保存しているため,安定した鉛(Pb)が安定した金(Au)に変化することはない.なお,不安定な原子核は軌道電子捕獲等によってその原子番号を変えることがある.軌道電子捕獲とは,原子核中の陽子が軌道電子を捕らえて中性子になり,ニュートリノを放出することをいう.

素粒子の崩壊は、 物質の安定性と粒子の崩壊 で述べたように,ある粒子Xから複数の粒子が得られる現象である.反粒子が崩壊しても反粒子は消滅しない.

自然法則3:いろいろな素粒子反応で反応前後のレプトン数は不変である.これをレプトン数の保存則という.

電子,ミュー粒子,タウ粒子,電子ニュートリノ,ミューニュートリノおよびタウニュートリノはレプトンと呼ばれる.レプトンにはレプトン数1が与えられる.反レプトンにはレプトン数−1が与えられる.強い相互作用をするハドロンにはレプトン数0が与えられる.


反粒子
定義:反粒子は粒子と同じ質量・スピンの大きさ・寿命をもち,ただ,電荷等の符合が異なる粒子である.

例えば,陽電子は電子の反粒子である.

簡単のため,クライン-ゴルドン方程式で説明する.クライン-ゴルドン方程式は
  (B50)
である.この方程式は自由粒子に対する平面波の解
  (B51)
をもつ.方程式(B50)の複素共役をとると,ψ*がψと同じ方程式を満たすので
  (B52)
の時間変化をする解があれば
  (B53)
の時間変化をする解も存在する.


エネルギー解釈
因子(B52)の時間変化をする解がエネルギー+Eの解であり,因子(B53)の時間変化をする解がエネルギー−Eの解であり,その結果,正負一対のエネルギーの状態が存在すると解釈する.


時間・空間解釈
因子(B52)と(B53)の解から,エネルギー解釈では,正負一対のエネルギー状態が存在すると解釈するが,数式ではエネルギーと時間の積に対する正負一対の状態が存在することになっている.そこで,時間・空間解釈では因子(B52)と(B53)の解から,エネルギーEで時間進行が正負一対の状態が存在すると解釈する.実際には,解はψとその複素共役のψ*であるから,時間進行が正負一対の状態であるだけでなく,同時に互いに空間反転した状態にもなっている.以上から,時間・空間解釈により,粒子の状態(波動関数)を時間・空間反転すると反粒子の状態(波動関数)となり,逆に反粒子の状態(波動関数)を時間・空間反転すると粒子の状態(波動関数)となる.


CPT定理
時間反転をT反転,空間反転をP反転,粒子を反粒子に変える変換をC反転と表記する.時間・空間解釈により
PT=C  (B54)
である.この式にC反転をとると
CPT=C2  (B55)
となる.C2は粒子の状態を反粒子の状態に変え、さらにその反粒子の状態をもとの粒子の状態に変える変換であるから、
C2=I(恒等変換)  (B56)
である。したがって、
CPT=I  (B57)
である。すなわち、CPT反転は恒等変換である(CPT定理)。

CPT反転が恒等変換であるため、C反転、P反転、CP反転に対して対称性が破れていてもよい。
http://takaosuda.hp.infoseek.co.jp/homepage/relate/ap7.html

一般相対性理論 と 宇宙論

General Relativity and Cosmology



宇宙誕生の時に、粒子と反粒子は同じ数だけ生まれ、現在は粒子だけ残っているそう...

akb48_1111 さん

宇宙誕生の時に、粒子と反粒子は同じ数だけ生まれ、現在は粒子だけ残っているそうですね?で、その原因はCP対称性とかいうのが原因だそうですが、それって一体なんなんですか?


ベストアンサーに選ばれた回答

feynman2007 さん

CP対称性の破れを説明する理論に「小林・益川理論」がありますが、この理論では反粒子と粒子の差を説明するのには不十分なので、CP対称性の破れで粒子が残ったと結論付けることはできません(*詳細は後述)。

ですので、粒子だけが残り反粒子が消えた理由は未だによくわかっていません。

本題に入りますが、CPというのは粒子の「CP変換」のことです。対称性の破れとは、物理法則が変わることを指します。つまり、CP対称性の破れというのは、粒子をCP変換したときに、変換前と変換後で粒子の物理法則が変わるということです。

粒子のCP変換とは、「C変換」と「P変換」を同時に行う変換のことです。

P変換:空間を反転(Parity)する変換を「P変換」といいます。P変換は、鏡に映してみるような変換と思っていただければいいと思います。ただし、現実の鏡のようにすべてを反転させるわけではありません。
粒子は自転に似たスピンをしています。粒子がたとえば右ねじ方向にスピンしているとすると、ねじが進んでいく方向(スピンの向き)が1対1で決定します。

C変換:電荷(Charge)を反対にする変換を「C変換」といいます。C変換は粒子と反粒子の変換です。
粒子には右巻き、左巻きの性質(スピンとは別の性質)があります。C変換とは、この右巻き、左巻きの方向を変えずに電荷を反対に変換させることなんです。

C変換とP変換はそれぞれ対称性が破れていることが昔からわかっていましたが、CP変換は対称性の破れがなかなか発見されなかったため、CP対称性は破れていないのではないかと考えられていました。

ところが1964年、アメリカの物理学者ジェーブス・クローニンとバル・フィッチは「K中間子」の崩壊を調べた実験で、CP対称性の破れを発見したんです。CP対称性の破れは当時の物理学での大問題となりました。

そして、1973年に小林誠と益川敏英は、「小林・益川理論」を発表しました。クォークが3種類しか知られていなかった当時、クォークが6種類あればCP 対称性の破れを理論的に説明できると考えたんですね。その後、この理論の正しさが実証され、2人はノーベル物理学賞を受賞することになったんです。


(*):小林・益川理論はCP対称性の破れを説明し、Bファクトリーの実験などによって、同理論が正しいことも確認されました。しかし、小林・益川理論では、反粒子が消えてしまった謎を説明することはできません。なぜなら、小林・益川理論で生じるCP対称性の破れの程度はとても小さく、宇宙の歴史で生じた粒子と反粒子の差を説明するには不十分なんです。

粒子・反粒子の謎を解くためには、標準理論を超えた新しい理論が必要だと考えられています。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1447970564


CP対称性の破れ
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CP対称性の破れとは、物理学 、特に素粒子物理学 において、物理学の大前提となるCP対称性に従わない事象 のことである。これは宇宙論 において、現在の宇宙 で物質 が反物質 よりもはるかに多いことを説明する上で非常に重要である。

CP対称性の破れは1964年 に中性K中間子 の崩壊の観測から発見され、ジェイムズ・クローニン とヴァル・フィッチ はその功績により1980年にノーベル物理学賞 を受賞した。現在も、理論物理及び実験物理で積極的な研究が行なわれている分野の1つとなっている。
概要 [編集 ]

Cは荷電共役変換(Charge Conjugation:粒子 を反粒子 へ反転する)、Pはパリティ 変換(Parity:物理系の鏡像 を作る)を意味し、CPはこれら2つの演算子の積である。強い相互作用 と電磁相互作用 はCP変換の元で不変であると考えられているが、弱い相互作用 による崩壊では、この対称性がわずかに破れている。

歴史的にみるとCP対称性は、1950年代に発見されたパリティ対称性の破れ を回復するために提案された。パリティ対称性とは、素粒子物理学の法則が鏡像反転のもとで不変である、という考えを背景としている。これは、化学反応や放射性崩壊のような反応が、鏡像反転しても同じ頻度で起きることを示唆している。

パリティ対称性は、電磁相互作用および強い相互作用による反応については正しい。1956年までパリティ保存は、エネルギー保存の法則 や運動量保存の法則 とともに、幾何学的な基本法則の一つであると信じられていた。しかし1956年に、理論物理学者の李政道 と楊振寧 が、すでに存在していた実験データを丹念に再検討し、パリティ保存は強い相互作用および電磁相互作用については確認されていたが、弱い相互作用については確認されていないことを示した。彼らはいくつかの直接的に検証する実験を提案した。コバルト 60原子核のベータ崩壊 を使った最初の実験は、1956年に呉健雄 らのグループによって実施され、弱い相互作用がパリティ対称性を破ることを明確に証明した。

全体的に見て、一つの量子力学 的体系の対称性は、もしも他の対称性Sが見つかって、それと組み合わせた対称性PSが破れないように出来れば回復される。このヒルベルト空間 の構造についての精妙な論点はパリティの破れが発見されてまもなく体現され、荷電共役がその秩序回復のための望まれた対称性であると提唱された。

簡単に言うと、荷電共役とは粒子と反粒子の間の対称性である。CP対称性は1957年にレフ・ランダウ により、物質と反物質の間の真の対称性として提唱された。言い換えれば、一つの過程ですべての粒子がその反粒子で置き換わったものはもとの過程の鏡像と等価である、と仮定された。
関連項目 [編集 ]

* 対称性の破れ
* 小林・益川理論
* CKM行列
* 小林誠 (物理学者)
* 益川敏英

「http://ja.wikipedia.org/wiki/CP%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%A0%B4%E3%82%8C 」より作成
カテゴリ : 素粒子物理学 | 対称性


反粒子とは?
今世紀の初頭、原子・分子の世界を支配する基本法則として量子力学が確立されるやいなや、イギリスの天才物理学者ディラックは、これを自然をつかさどるもう一つの基本法則であるアインシュタインの相対性理論と合体させる作業にとりかかりました。非相対論的なニュートン力学が、光の速さに近いスピードで運動する物体に適用できないように、量子力学も、相対性理論との合体なくして、高速で運動する電子を正しく扱うことができないことは明らかだったからです。

こうしてできあがったのが、電子の相対論的運動方程式であるディラック方程式です。この方程式を解いてみると、-eの負の電荷を持つ電子を表す解だけでなく、電子と同じスピンや質量を持ちながら、+eの正の電荷を持つ粒子と解釈できるもう1つの解が出てきたのです。これは予想外のことでしたが、今にして思えば、電子の反粒子である陽電子に対応する解に他なりませんでした。ほどなく、こうして予言された陽電子が実験で見つかりました。これは、相対論的量子力学の輝かしい勝利でした。

今では、素粒子を記述する相対論的量子場理論の必然的な帰結として、全ての素粒子が、それと同じ質量を持ち、電荷のような符号を持つ(加算的)量子数が正負反対であるような反粒子の相棒を持つことが分かっています(符号を持つ量子数を持たない粒子の場合は、自分自身が自分自身の反粒子だとみなせます)。相対論的量子場理論が描く素粒子の世界は、以下に説明するように、粒子と反粒子が次々と生まれたり消えたりしながら移り変わっていくとてもダイナミックな世界です。

対消滅と対生成
粒子と、反粒子が出会うと、量子数が正と負で打ち消しあってゼロになり、真空と同じ状態になります。そしてそこには、もともと粒子と反粒子が持っていたエネルギーが残ります。これを対消滅といいます。静止した粒子と反粒子が対消滅した場合には、アインシュタインの関係式

E = mc2

によってエネルギーと質量が等価であることが分かっていますから、粒子と反粒子が同じ質量を持つことを考え合わせると、そこには2mc2 のエネルギーが残されることになります。高いエネルギーに加速された粒子と反粒子が正面衝突して対消滅した場合には、消滅した点にはさらに高いエネルギーが集中して残されます。

対消滅とは反対に、真空の1点に 2mc2 以上のエネルギーを集中させれば、そこから粒子と反粒子の対を取り出すことができます。これを対生成と呼んでいます(ここまであいまいにエネルギーの集中と呼んできたものは、実は粒子と反粒子を対にして生み出す力を秘めた、光子や、Z粒子、グルーオンなどの力の粒子の特殊な状態だと考えられます)。十分なエネルギーを注入できれば、宇宙創成直後の超高エネルギーの世界にしか存在しなかったような、重い粒子を作り出すこともできるのです。高エネルギー衝突型加速器は、まさにこの方法を使って、今まで人類が知らなかった新粒子を見つけたり、また、それらの粒子の間に働く力を調べるための装置なのです。

http://www.kek.jp/kids/class/particle/class01-05.html


2010年10月01日(Fri)▲ページの先頭へ
個と自我:自己問題
個と自我:自己問題

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

個とは英語でindividualtyであるが、後者は、同時に自我、とりわけ、近代的自我の意味にもとられうる。
 どうも、individualityとは、個と自我の混淆した概念であると思われる。また、ego、self、subjectivity、等をどう考えるのか。
 結局、PS理論の原理的説明が整合的になるだろう。今は、ざっと述べるだけだが、

凸iは原自我、
凸i⇒+1が、自我、近代的自我

凹iが原他者、
凸i*凹iが、原自己、
凸i*凹i⇒が、個ではないのか?

だから、一般には、individualityは、凸i⇒+1と凸i*凹i⇒が混淆、連続化しているのではないのか。
 つまり、連続性の問題である。⇒は連続性を意味するだろう。だから、凸i*凹i⇒が+1と連続化するのである。
 つまり、自己認識方程式、

凸i*凹i⇒+1

において、左辺は、個元であるが、MP変換によって、+1と連続化して、自我、近代的自我と連続化されるということだろう。
 ルネサンスは、正に、この図式に当てはまると考えられる。本来、個の覚醒であるが、それが、⇒+1の近代的自我へと連続化したのである。つまり、ルネサンス文化の帰結は、デカルト哲学である。
 しかし、それとも異なる方向性があった、あるのである。それが、MP回帰の不連続化である。それは、西洋哲学的には、キルケゴールやニーチェ、そして、フッサールによって表現された。もっとも明確なのは、フッサール現象学である。
 ここで、仏教(原始仏教と大乗仏教を本来は区別すべきである。原始仏教には、-1が示唆されているのではないだろうか。大乗仏教は、MP的である。)を考えると、本来、空の哲学は、あるいは、禅哲学は、MP回帰を意味する。後者は、とりわけ、⇒+1の連続化をデリダ以上に断固否定してきたのである。つまり、不連続化、MP回帰、⇒回帰である。
 そして、鈴木大拙、西田幾多郎の哲学はそれと同質的であり、理論的進展である。差異共振は⇒+1であり、⇒は差異共立である。
 そして、差異共立から-1への根源回帰が作用しうるのである。おそらく、一如というのは、あるいは、如来というのは、それを意味しているのではないだろうか。
 ここで、西洋、近代西欧に戻ると、フッサールの切り開いた、不連続化への方向が、すぐさま、ハイデガーによって、連続化へと引き戻されたのである。つまり、西洋において、哲学的反動が起きたのであり、結局、それが、その後の西洋哲学の混乱、混迷の根因と思われる。
 存在論であるが、それは、思うに、-1の「存在」を意味すべきである。つまり、超越的存在、超在である。しかるに、ハイデガーの「存在」は、⇒の先端に過ぎないと考えられる。つまり、構造主義の構造と似るのである。
 確かに、カントの超越論は、一つの切断であったが、それは、⇒の先端を捉えたと思われる。しかしながら、カントは、同一性ないしは、理性主義、凸iの意識を支点にしていたので、凹iとの共立によって、-1への超越的存在への方向は、指摘できずに、実践理性によって、-1を示唆したと言えよう。
 結局、西洋文明・文化は凸iに強く傾斜しているので、東洋文化のような凹iのエネルギーの極を純粋に確認できないのである。それは、西洋では、神秘主義になるのである。勿論、反動的要素が強いのではあるが。
 しかしながら、20世紀後半における、東洋文化の流入によって、西洋文化は変容を起こしていると考えられる。広義においては、ポスト・モダンもその流れの一端ではあったが、それは連続性に囚われていたので、挫折したのである。
 政治的にナショナルとは、MP回帰であろう。インターナショナル、グローバルは、⇒+1である。
 また、オバマ路線の原点はMP回帰のトランス・モダンである。それは、米国がもっている、超越的文化が影響しているのではないだろうか。欧州は超越的文化を⇒+1の近代合理主義で、否定してしまったと考えられる。そのため、精神性が欧州では衰退したと考えられる。ただ、英国文化には、ケルト文化が背景にあるので、精神性がそれなりに保持されていると考えられる。
 思うに、一神教の問題がある。超越神とは、-1であろう。そして、プロテスタンティズムは、個において、超越的存在への感応をもたらしたのではないだろうか。ルネサンスが⇒ならば、プロテスタンティズムは、-1への再帰ではないのか。米国の伝統はこれを保持しているのではないのか。
 現代日本は、根源的超越性を見いだすべきである。とまれ、一神教と多神教との融合が今日起っているだろう。オバマ大統領の精神にそれを見ることは可能である。
 私はこれまで、一神教に断固否定的であったが、-1を考えると、肯定すべきである。思うに、明治維新は-1への志向性をもっていたと思う。それが、戦後、近代合理主義で喪失するのである。明治維新は日本における一神教的変革と見ることができるのではないだろうか。神道が復活するには、一神教性と多神教性を融合すべきである。プロテスタンティズムとルネサンスの融合ということである。そして、この融合志向は本来のルネサンスの知にもあったのである。
 後で整理したい。
 

参考:

ラルフ・ウォルド・エマソン エマソンの論文集 「自己信頼」 「償い」  「精神の法則」  (1/4)

訳:永間幸子・国分舞・樋口謙一郎 



 



人は自らの星

誠実で完全な人をつくりうる魂は

すべての光を、すべての影響を、すべての運命を支配する

人の身に降りかかるものに、早すぎるものも遅すぎるものもない

われらの行いは、良いものも悪いものも、われらの天使

常にわれらに寄り添い歩く運命の影

ボーモントとフレッチャーによる「正直者の運命」へのエピローグ
自己信頼

-1-

 魂は常に、独創的な言葉から戒めを聞き取ります。言葉がもたらす感情は、言葉が内包するいかなる思想よりも価値のあるものです。 自分の思いを信じること、自分の心のなかの自分にとっての真実はすべての人にとっての真実だと信じること、それが才能なのです。あなたが心のなかで確信していることを語れば、そのときそれは普遍的なものになります。最も深いところにあるものが、ときが経てば表面に出てくるように、私たちの最初の思いは、最後の審判のラッパの合図とともに私たちの身に戻ってきます。

モーセやプラトン、ミルトンの最大の功績は、書物や伝統にとらわれずに、他人の考えではなく自分の思いを語ったことにあります。人は、自分の精神をよぎる内なる光のきらめきを見つけ、見つめていくべきなのです。しかし、人は気づかぬうちに、それが自分の思いであるという理由で、自分の思いを追いやってしまいます。才能のこもった仕事には、私たちが捨ててしまっている自分自身の思いを見出すことができます。それらの思いは、ある種の威厳とともに私たちのもとに戻ってくるのです 。

http://www.internal.co.jp/services/selfhelp/emerson/emerson1.phtml


Transcendentalism
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This article is about the nineteenth-century American movement. For other uses, see Transcendence (disambiguation) and Transcendental (disambiguation) .

Transcendentalism was a group of new ideas in literature , religion , culture , and philosophy that emerged in New England in the early to middle 19th century. It is sometimes called American transcendentalism to distinguish it from other uses of the word transcendental . Transcendentalism began as a protest against the general state of culture and society , and in particular, the state of intellectualism at Harvard and the doctrine of the Unitarian church taught at Harvard Divinity School . Among transcendentalists' core beliefs was an ideal spiritual state that "transcends" the physical and empirical and is realized only through the individual's intuition , rather than through the doctrines of established religions. Prominent transcendentalists included Ralph Waldo Emerson , Henry David Thoreau , Walt Whitman , Amos Bronson Alcott , Orestes Brownson , William Henry Channing , James Freeman Clarke , Christopher Pearse Cranch , John Sullivan Dwight , Convers Francis , Margaret Fuller , William Henry Furness , Frederick Henry Hedge , Theodore Parker , Elizabeth Peabody , George Ripley , and Jones Very .[1] [2]


http://en.wikipedia.org/wiki/Transcendentalism


2010年09月12日(Sun)▲ページの先頭へ
二つの否定について:同一性に拠る否定と差異に基づく否定:排除的否定と包摂的否定
同一性に拠る否定と差異に拠る否定の違いを理論化したい。
 これは、MP2とMP1のそれぞれの否定で説明できそうである。差異共振と差異共立である。差異共振は、同一性が発生して、自己差異、他者差異が同時に否定される。つまり、同一性価値が基準となり、差異を否定するのである。
 それに対して、差異共立の場合、他者を受容しつつ、否定するのである。つまり、肯定と否定が併存していると考えられる。
 しかし、否定であるから力点は否定にあると言えよう。だから、即非とは異なるのである。とまれ、包摂的否定ということは言えるかも知れない。それに対して、同一性否定は排除的否定である。
 双極性の観点から見ると、同一性的否定とは、他者凹iを排除してしまい、凸i=+1しかないのである。包摂的否定とは、他者凹iを排除せずに、否定するのである。
 とまれ、排除しない否定とは端的に何なのか。正確に言えば、それなりに排除はするが、抹殺はしないのである。つまり、無にはしないのである。だから、無化する否定と無化しない否定があるのである。
 無化とは端的に、+1化である。物質化である。つまり、物質的認識・意識が他者を否定するということになるのである。
 それに対して、無化しない否定は、非物質的否定である。凹iを認識した否定である。即ち、差異共立において、即非的否定性を強化したものではないだろうか。言い換えると、双極的否定である。それは、引力と斥力の同時生起する共立における斥力の傾斜である。しかし、引力はあるのである。
 結局、無化しない否定、包摂的否定とは、双極的力学のもつ、同時生起する求心力と遠心力の共立力学における遠心力的傾斜ということになるのではないだろうか。
 思うに、二つの否定は異なる名称をもつべきであろう。今は、例えば、外的否定と内的否定とでもしておこうか。


2010年09月11日(Sat)▲ページの先頭へ
外的自己は自我
以下、生成門氏の新しい論考である。私も、-1を超在とするのがいいと思っていた。そして、「虚数」(虚体?)が非在である。

追記:生成門氏は「一方、縺れ合いの共立ダンスは、凸iと凹iの対称性が破れることはなく、一人ダンスに変わることがないようです。どんなに遠く離れていても、互いに時空を超えて、互いを意識して踊っているということがあるのです。

量子の世界では、このようなダンスを、量子テレポーターション(二つの凸と凹の電子が遠く離れていても、互いのステップが合っている、つまり勝手に踊ってはいないという意味)という現象が発見されています。この量子の縺れのことをエンタングルメントと呼んでいます。
」と述べている。
 私は非局所的長距離相関を否定しているが、それは物質的粒子を前提にしたときそうなのである。しかし、非物質的粒子はあるだろう。それが、「量子」である。
 以前、このことについてざっと述べたことがある。つまり、量子論は、虚軸の「双極子」を、実軸で検証しているために、「量子」は物質的粒子になっているようなことを述べた。
 そうではなくて、「量子」は虚軸の「双極子」(以下、双極子)である。これは、精神(霊)的双極子である。あるいは、数霊的双極子である。言い換えると、量子論は、「量子」を物質のスクリーンにおいて捉えているので、精神・霊的双極子が物質的粒子になっているのである。私見では、物質的粒子は精神・霊的双極子=「量子」の影である。だから、マーヤー(幻影)である。
 虚軸と実軸を不連続・非連続的に分離すれば、「量子」は本来の精神・霊的双極子になるのである。だから、トランス量子である。
 言い換えると、量子論は、精神と物質をまだ混同しているのである。両者を絶対的に分離したとき、量子論は本来的な量子論となるだろう(トランス量子論)。
 そこで、思うのは、電磁波の問題である。これは、以上から当然、精神と物質を混同していると思われるのである。「気」とは電磁波と関係するが、しかし、電磁波はやはり、物質のスクリーンに捉えられたものだと考えられる。
 私は「気」が本質としてあり、それが、物質のスクリーンに電磁波として現象するのではないかと思う。
 言い換えると、「気」とは精神をもった電磁波なのである。しかし、単なる電磁波は「気」にはならない。思うに、陽光と電球の光であるが、前者には、「気」、精神があると思うが、後者には、乏しいと思う。物質的発光とは、同一性が基盤になっているように感じられる。
 以上は、直感で述べたものである。後で精緻に検討したい。
 

外部化された自己は自我 (0)
シムダンス「四次元能」


2010年09月05日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する
検討問題:ダーク・マターと物質:傾斜を時計回り1/4回転と作業仮説する

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

1)ふと思ったが、物質の背後にダーク・マターがあるのではと思った。

2)アーラヤ識は、Media Pointではないか。

3)media pointにおいて、+実軸だけでなく、虚軸の凸、凹も知覚する。しかしながら、-実軸つまりマイナス1もなんらか知覚しないのだろうか。
 単純に考えて、マイナス1が根源であるならば、それが、Media Pointへと向かうことは考えられる。つまり、-1→media point→+1である。
 →media pointの→とmedia pointの「交点」において、知覚できるのではないだろうか。それは、物自体としての-1ではないのか。物質+1は、エネルギーの終点である。それは、滓、抜け殻のようなものである。
 例えば、樹木ならば、樹木として、感じる実体、身体は、物質+1ではなくて、物自体としての-1ではないのか。もっとも、凸iを認識、凹iを物自体と考えることもできるが、それは別の議論になるが、興味深い。
 こちらの線に切り替えて、考えてみよう。差異共立を薄明とすると、-1は、根源的闇となるだろう。そして、差異共振が光である。
 そして、光の下、対象を物質としての認識する。しかし、対象は凹iであるが、それを+1と認識するのである。つまり、虚数としての物自体があるということである。
 では、-1は何か。これこそ、不可知の存在ではないのか。ロレンスのdark Godではないのか。あるいは、dark sunである。
 そうならば、どうして、ロレンスはそれを直感できたのか。どこかに、センサーがなくてはならないだろう。ロレンスは、dark God が下から入る神であると述べている。そうならば、凹iに関係するだろう。
 先に思考実験したように、凹iは-1と関係するのではないだろうか。そして、凸iが+1と関係するのではないだろうか。
 人間において、男性の場合は特にそうであるが、凸iに傾斜している。だから、凸i=+1という自我・同一性・物質認識が生まれるのである。
 ここで作業仮説を立てるが、傾斜を時計回り1/4回転とする。そうすると、凸iは+1となるのである。そして、凹iは-1となるのである。つまり、傾斜力学が入ることで、凸iは+1と一致し、凹iは-1と一致するということになる。
 そうならば、ロレンスがdark Godを凹iで直感することができたのは、当然と言える。
 ならば、物自体において、ダーク・マターが直感できるということになるだろう。
 今はここで留める。

追記:そうならば、アーラヤ識は、-1=凹iに存するということになるだろう。

阿頼耶識

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。

はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟り の諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。



◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆

8.人生を演出する阿頼耶識

前項で、過去一切の行為を洩れなく記録し(種子として)溜め込んでいる心を、唯識は阿頼耶識と名付けている事を申し上げました。そして、過去一切と言うのは、私が母の胎内に生を受けた瞬間から現在までだけではなく、私に命を伝えた両親、そのまた命を繋いで来た無数の祖先達、遡れば、地球上に生命が誕生したと言われる30億年にものぼる過去を蔵しているのが阿頼耶識だと捉えてよいとも申しました。

しかし、30億年もの行為の記録と言われましても、残念ながら、それらが何かを私達は知ることは出来ません。どんな種子(しゅうじ)が溜めこまれているかが分からないのが深層無意識領域の阿頼耶識だからです。物心がついてからの記憶は勿論溜めこまれているでしょうが、どのような種子として溜めこまれているかは窺い知ることは出来ません。たとえば、他人とケンカした場合、相性の悪い人物像と言う種子として溜めこまれるのか、ケンカとなった原因を種子として溜めこむのか、ケンカの要素全てを種子として溜めこむのかは分りませんが、分らないことも含めて、過去の行為・経験を種子として溜め込んでいるのが阿頼耶識であると考えると、私と言う存在を考察する上での辻褄が合うと、唯識は考える訳であります。

また、こうして今私がこの唯識の世界を書いている瞬間も、私の阿頼耶識の内容は刻々と変化しています。これを唯識では「恒に転ずること暴流の如し」と、阿頼耶識は過去一切を蔵しながらも激しく変化し続けているものであると考えます。

そして、阿頼耶識はあらゆる行為を種子として溜めこむだけではなく、現在を生み出す源であると考えます。これが『種子生現行(しゅうじしょうげんぎょう)』と言う阿頼耶識のもう一つの働きです。前項の『現行薫種子(げんぎょうくんしゅうじ)』とこの『種子生現行』は、表裏一体のものと言えます。どちらが後でも先でも無いと言うものです。

表題を『人生を演出する阿頼耶識』と致しましたが、私達の人生をドラマと見たてたばあい、阿頼耶識は陰に隠れた脚本家であり、演出家のようなものだと思えるからであります。テレビドラマは、小説の原作者が居て、それをドラマ化する脚本家、そしてそれを俳優の演技に展開する演出家が居て始めてドラマ化されます。私達の人生を一つのドラマと仮定致しますと、脚本家と演出家は、阿頼耶識と末那識が担っており、私達はドラマの行く末を知らされないままに演技させられている人生の俳優であると言っても良いのではないでしょうか。と考えますと、人生の原作者は仏様でしょうか。

〜阿頼耶識は人柄を作り出す〜

人間の風格とか品性と言うものは急に作られるものではありません。コツコツと積み上げた身口意の三つの行為が阿頼耶識に薫習(くんじゅう)されておのずから具わって来るものである事は、人に感じる印象を思う時、納得出来るような気が致します。皇室の方々のもの静かで慎ましやかな物腰とお言葉は演技ではなく身に染み着いたものでありましょう。一方、犯罪を重ね人生の裏街道を歩み続ける暴力団は一目で分るような気が致します。医者には医者の匂いがあり、学者には学者の匂いを何となく感じます。賄賂に手を染めた政治家には、それなりの風貌を感じるのは私だけではないと思います。

これは、阿頼耶識に溜めこまれた種子(しゅうじ)が、我知らず表面に滲み出たものであります。阿頼耶識がその人の人格・風格を作るということは理解出来ると思いますが、恐ろしいのは、そうしてにじみ出る自分の匂いが自分には分らないということです。人にはそれぞれ、明るい人や暗い感じの人、清潔な感じの人や不潔な人、謙虚そうな人、高慢な感じの人が一見して他人には感じられますが、本人には分りません。「そんな積りではないのに」と言う事になりましょうが、この滲み出る匂いは無意識層の阿頼耶識から滲み出ると考えれば自分では分らないと言うことは納得出来るのではないでしょうか。

〜阿頼耶識が世界を作る〜

私達は、私以外の外の世界は、私とは別に存在しているように思っていますが、実は私の阿頼耶識が私の外の世界を作り出している、こう唯識は考えます。自分の感覚・知識を信じ切っている私達現代人にはなかなか理解出来ないことではありますが、以下の説明を聞けば、何となくそうかも知れないと思えるのではないでしょうか。

私達の眼は、通常は空気中の小さなホコリ、ばい菌を捉えることは出来ません。しかし太陽の光線が部屋に差し込む具合によりましては、沢山のホコリが見える時があります。もし、私達の眼が顕微鏡のような高感度のものでしたら、恐らくは、ばい菌とホコリだらけの世界が眼に映り、とても生きてはゆけないかも知れません。

音についても、私達の聞こえる音の周波数とイルカやコウモリとはかなり異なります。聞こえない音があるから静かに眠ることが出来ているのかも知れません。匂いも、犬は私達の何倍かの嗅覚力を持っていると聞きます。また大地震の前にはある種の動物が予兆を感じ取ると言う話もあります。

こう考えますと、世界は、私達が思っている通りの世界ではないと言うことになります。私達が世界と思っている世界は、私が私の能力で捉えている世界であり、真実の世界ではない、即ち、世界は唯(ただ)私の識(心)が作り出しているものだと言うことになります。

同じ人間でも、人に依って世界は異なります。前にも例として上げましたが、テレビに映る同じ人物を、私は吉永小百合に似ていると思うけれども、私の妻は全然似ていないと言うことがあります。私の認識している吉永小百合と、妻の認識している吉永小百合が異なる像として阿頼耶識に記録されていると言うことだと考えられます。

ピカソの絵を見て、感動する人もいるでしょうが、人に依っては単なる落書きにしか見えません。同じ仏像の前を通っても、その慈悲心に溢れた眼差しに眼が釘付けにされる人もいれば、全く無関心で一瞥も与えないで通り過ぎる人もいます。同じ仏像でも、阿頼耶識に蓄えられた種子に依っては見え方が全く異なると言うことになります。更には、ある人には存在している仏像が、他のある人には存在しないと言うことになります。

極端な話ですが、人間が見ている世界と犬が見ている世界とは目線が違いますし、犬には色彩感覚がないと聞きますから、全く世界は異なるものでしょう。犬にはお星様は見えないでしょうし、宇宙の存在は思いも及ばないでしょう。

私達は、阿頼耶識に溜めこまれた種子によって、一人一人異なる世界を作り出していると言ってもよい、そう唯識は考えるのです。

〜阿頼耶識が人生を演出する〜

何度も申し上げました「阿頼耶識と言う実体的なものは無い」と言う事を前提としての事でありますが、人夫々に異なった阿頼耶識を持っています。阿頼耶識は変りませんが、その蔵(アーラヤ)に溜め込んでいる種子の内容が異なります。だから人夫々の人生が現出していると言ってよいでしょう。

一流企業の社長・会長にまで上り詰めた人や、総理大臣と言う日本のリーダーだった人達が、司法の裁きを受けて牢獄で人生の最終章を迎える、そういう人生もあれば、雨露さえ凌げないあばら家で独り暮らしながらも、生も死もない自由を満喫しつつ、近隣の人々に愛され慕われ、惜しまれながら一生を終えた良寛様のような人生もあります。

私は、この千差万別の人生は、阿頼耶識に蓄えられている種子の内容の千差万別から生じていると考えます。別の言い方をしますと、阿頼耶識の中には価値観に結び付け得る種子の集合領域があるのだと考えます。価値観とは「人生で何が一番大切か」と言うことでありますが、これは無意識の領域だと思います。人間は常に「人生で何が一番大切か」を自問自答しながら生きているものではありません。しかし一瞬一瞬現れる言動は、無意識のうちに価値観によって支えられているのだと思います。そして、その一瞬一瞬の言動が人生を作ってゆきます。即ち、唯識的に言いますと、阿頼耶識が人生を陰で支えている、演出していると言えるのではないかと思います。

阿頼耶識は無意識層にあるだけに、自分では如何ともし難いのが人生であると言うことになりますが、唯識はだからこそ、阿頼耶識に溜めこむ種子を変えてゆこう、溜めこむ種子を変えれば、人生は変えられるのだと説きます。凡夫の生活から悟りの生活に変革出来ると説きます。

この心の変革過程に付いても、唯識は素晴らしい理論を持っています。それはもう少し後の勉強となりますが、これまでも度々引用させて頂いた下記の言葉は、阿頼耶識に薫習(くんじゅう)する種子を変えてゆくと、人生は変ると言う歌だったんだなと思うことであります。

心が変れば態度が変る、態度が変れば行動が変る
行動が変れば習慣が変る、習慣が変れば人格が変る
人格が変れば運命が変る、運命が変れば、人生が変る

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki08.html


2010年09月03日(Fri)▲ページの先頭へ
随想:凸iの知性について:直観と言語:同一性・類の発生力学について
随想:凸iの知性について:直観と言語:同一性・類の発生力学について


先に、凸iの知性とは直観的知性であると述べ、それと同一性である言語と結びつくといようなことを述べた。直観的知性は自己知的差異であるが、それが言語同一性とどう結びつくのか検討したい。

 凸iの超越的主観知性が、凹iの超越敵他者を認識しようとするとき、そこには、同一性が形成されるのである。これは、精神的フィルターに拠ると言える。Media Pointにおいて、虚軸から実軸へと変換するとき、同一性が発生するのである。

 思うに、このMedia Point変換(MP変換)における精神的フィルターの機能には、言語形成もあると考えられる。なぜなら、同一性とは言語であると言っていいからである。(ここで、音声言語と文字言語の問題があるが、同一性は前者に関わると考えられる。これについては、先に文字言語について論じたときに説明した。)

 例えば、主観凸iが対象凹iを認識するとき、いわば、言語同一性変換が発生するのであり、凹iは言語同一性化されるのである。もっとも、丁寧に言えば、言語同一性形成の前には、鏡像形成があると考えられる。つまり、端的に、同一性像である。MP変換において、同一性像が形成され、それが言語同一性へと進展すると考えられる。

 鏡面はどこに存するだろうか。おそらく、Media Pointの実軸側に形成されると思われる。即ち、MP2である。⇒で言うと、その先端であろう。その鏡面に主体は差異自己を投影するが、そのとき、差異自己から同一性自己へと転換すると思われる。

 そして、このいわば、同一性鏡面に次々に外的差異対象が反照して、主体は対象を言語同一性化すると思われる。

 では、本題の類概念であるが、それは、どのように発生するのか。言い換えると、(言語)同一性の発生力学とは何かである。これは、イデア論の問題である。馬のイデア、花のイデア、等々である。これは、エイドスの問題だと思う。以前にも述べたが、あるとき、深山に行ったとき、窓外の山が山のイデアに見えたのである。

 思うに、イデアとは映像、イメージ、ヴィジョンに関係すると考えられる。鏡面を考えよう。鏡面には外的対象が入るが、それは、同一性形象である。しかしながら、Media Pointとは、虚軸性=超越性があるので、その鏡面の同一性イメージは超越性を帯びると考えられる。また、Kaisetsu氏のVector Mode論からわかるように、超越力学からイメージが生まれるのである。つまり、鏡面の同一性イメージであるが、それは、本来、内的イメージのはずである。つまり、内的イメージを鏡面に投影して、外的イメージを確認するのではないだろうか。結局、内的イメージ、超越的イメージ(ヴィジョン)が、類概念の原型ではないだろうか。それが、プロト言語であり、それが、MP変換によって、言語同一性化されると思われる。内的イメージを残しているのは、文字言語、象形文字、表意文字であり、音声言語は、同一性と結びつくと思われる。


2010年09月02日(Thu)▲ページの先頭へ
個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性
個について:その2;直感(直観)的知性と言語的知性

先に、凸iは同一性であり、凹iこそが絶対性ではないのかと指摘したが、それは、極論であり、ここで修正したい。
 結局、知性、本当の知性とは凸iに存するのであり、それは、凹iと極性を為していて、双極的知性というべきである。それに対して、凸i=+1の自我的同一性の「知性」とは言語的知性であり、真理ではないと考えられる。それは、いわば、道具的知性、つまり、技術的知性に過ぎない。(ハイデガーの現存在の知性はこれに過ぎない。つまり、近代的合理性である。)
 つまり、本来の知性凸iは、凸i=+1の言語的知性を道具・手段して、思考するのであり、後者は「従者」に過ぎないのである。しかし、近代合理主義はそれを「主人」にするという倒錯を犯したのである。
 結局、凸iはロゴスであるように示唆したがそれは誤りであるので、ここで訂正したい。ロゴスは凸i=+1に存するのである。真の知性は凸iにあり、それは、凹iと「交流」(intercommunication)して、「如来」、「般若」となるのである。
 この問題について、これまで、かなり疑問を感じていたが、真知性を凸iとし、道具的知性を凸i=+1とすることで、明快になったと思われる。言うならば、近代合理主義は似非知性である。

検討問題:「個」とは何か
鳩山前首相や菅首相他を見ていると、ころころ変わる。これは、個がなく、状況の力学に押し流されているからだと考えられる。
 いったい、個とはPS理論からどう説明されるか、というよりは、再確認になるだろう。
自己体は凸iであり、他者凹iと対になって、いわば、対極、両極、双極的自己を本源的に形成していると考えられる。個というとき、それは単に自己体凸iを指すのではなく、凸i*凹iの双極的「自己」を指すと考えられる。
 思うに、近代的自我は凸iを抑圧しているが、逆にそれに、ある意味で支配されているだろう。つまり、凹iを感知していないために、その力動に支配されると考えられる。つまり、個を自己双極体(凸i*凹i)とすると、近代的自我(近代合理主義)は、凹iを抑圧して、凸iを中心化しているので、自己双極体の力学の凹iの反動力によって無意識に支配されることになるのである。だから、権力のある他者凹iに対して、近代的自我は無意識のうちに動かされて、自我意識をもつのである。自我意識とは、凸i=+1という錯誤的意識である。
 この点の力学について正確に洞察する必要がある。
 つまり、近代的自我(近代的合理主義)の場合、凸i=+1(同一性=物質)という錯誤様態にある。即ち、本来、精神的なもの(差異)が、物質的なもの(同一性)と一致しているという誤謬様態にあるのである。当然、凹iは抑圧されて、無意識である。そこで強大な権力に対して、近代的自我は、保身となり、それを不合理に受容するのである。それは、無意識的に行われる過程と言えよう。いくら、自我意識が理想・理念をもっていても、近代的自我は同一性=物質主義なので、強大な権力には卑屈に服従するのである。それは、同一性=物質的権力力学と言っていいだろう。
 だから、もし、近代的自我ではなく、自己双極体を意識、認識していれば、自己は絶対的差異である、強大な権力に屈しないと考えられる。つまり、自己双極体意識とは個的意識、個的自己意識であると考えられる。なぜなら、凸iよりも、凹iの方が絶対的であるからだと思う。それは、全体的、普遍的とも言えよう。それに対して、凸iはロゴス(言語)的であり、もろいのである。途中。



2010年08月30日(Mon)▲ページの先頭へ
思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=内的宇宙=先進波(=東洋文明)⇒−1(暗黒物質)
思考実験:凸i=ロゴス=遅延波(=西洋文明)⇒+1(物質)と凹i=内的宇宙=先進波(=東洋文明)⇒−1(暗黒物質)

検討問題1:キリスト教三位一体とD.H.ロレンスの宗教論:「父」とは何か:その他

PS理論から見ると、「父」(以下、父)とは何だろうか。直感で言えば、MP1である。それは、霊界とも言える。しかし、ロレンスは不可知としての父を述べている。しかし、MP1は、可知である。
 しかしながら、どうも、ロレンスの発想には、凹iの主導化が感じられるのである。凸iの原自己にとっては、凹iの他者は不可知である。そのような視点から父が不可知であるというのは考えられることである。

検討問題2:遠距離への志向とは何か

田舎にいると、風景が広がる。都会では、建物が邪魔をする。
 拡大した視野は解放感がある。これは思うに、凹iが解放されるということではないだろうか。矛盾した言い方になるが、他者としての自己があるのではないだろうか。つまり、凹iとしての自己である。それが、拡大した空間を欲するのではないだろうか。
 否、そうではなく、MP1の差異共立の「視覚」が空間の広大さを欲しているのではないだろうか。つまり、MP1とはコスモス、宇宙、内的宇宙、全体である。だから、物質的視覚においても、Media Pointにおける、MP1が作用するので、広大な空間を欲するということではないだろうか。つまり、Media Point的視覚が作用するということである。
 日常生活、物質的生活においては、MP1は抑圧されて、MP2が中心であるから、脱日常的に、MP1を解放する広大、壮大、巨大な光景に出会うと、魅了されるのではないだろうか。そう、Media Pointは存するものの、通常はMP2によって、MP1が抑圧されていると言えるだろう。とまれ、この美学は崇高の美学と言えよう。
 しかし、以上は、差異共立美学である。それに対して、凹iに偏向すると、性的なものが強化されるのではないだろうか。つまり、凸iの傾斜による同一性だけでなく、凹iの傾斜に拠る同一性があるだろう。それが、諸欲望ではないだろうか。

追記:以上のように考えると、凸iとはシュタイナーの説く脳―脊髄神経系であり、凹iとは交感神経系(自律神経系)に相当するのではないだろうか。簡単に言えば、脳と内臓である。もっとも、シュタイナーによれば、松果体が接点である。つまり、Media Pointになることになる。
 また、深層心理から言えば、凸iが意識であり、凹iが無意識である(非意識、潜在意識:私は潜在意識という言い方も有効である。思うに、潜在的内身体的意識という方が正確であるが、長い。)。
 ところで、上述では、凸i*凹iが内的宇宙であると言ったが、問題は単純ではない。シュタイナー的に言えば、あるいは、ロレンス的に言えば、凹iが内的宇宙になるからである。この問題をどう捉えたらいいだろうか。
 凸iとは思うに、原同一性的認識志向性をもつと思われるのである。言い換えると、ロゴス=言語認識的志向性である。それに対して、凹iは、いわば、身体感性的認識志向性をもつと思われるのである。そこには、情感、感情、欲望、情動、衝動等を含めることができよう。一般にそれらは、受動、受身的に考えられるが、凹iはそれ独自の認識性をもつだろう。つまり、直感・直観的認識性だと思われる。
 ということで、そのように考えると、検討問題2の考え方は否定されることになる。コスモスは凹iに存するのであり、差異共立にではないということになる。
 もっとも、今は作業仮説の段階であり、検討問題2の考え方が正しいということもありえるのであるが、今は、そのようには考えないということである。
 ヨハネの福音書の冒頭の「初めにロゴス(言葉)ありき」であるが、それは、凸iを意味すると思われる。自己を重視するならば、それは、的確である。ただし、PS理論から言うと、凸i*凹iの双極性が基本であり、単にロゴス(言葉)では、一面的であると考えられる。
 ここで、先進波と遅延波の問題と関係させると、凸iは「光」であり、過去から未来へと向かう遅延波であり、凹iは「闇」=内的宇宙であり、未来から過去へと向かう先進波ということになるだろう。飛躍的であるが、占いとは凹iの「闇」=内的宇宙に関係するのではないだろうか。そう、端的に占星術(西洋占星術)である。それは、ホロスコープによって占うのであり、その宇宙像は、本来は凹iの「闇」=内的宇宙に拠るもの想定することはできよう。
 そうならば、それは、先進波、未来から過去へと向かうベクトルなので、当然、占うことができるということになる。また、アカシック・レコード(アカシャ年代記)もそこに存することになるだろう。また、阿頼耶識もそこにあることになるだろう。
 この線に沿って考えると、瞑想の意義が拡大するだろう。それは、予言的になるということである。
 さらにこの視点から、PS理論における難問のマイナス1の意義も新たに想定される。即ち、時計回りに1/4回転するとき、凸iは+1となり、凹iは−1となるが、凹iが先進波ならば、先進波は−1になるということになる。つまり、先進波はダーク・マターになるということではないだろうか。
 そうならば、Media Point変換において、凸i=遅延波は物質となり、凹i=先進波はダーク・マターになるということになる。そして、ダーク・エネルギーとは、凹i=先進波のエネルギーということになるのではないだろうか。そして、宇宙において、ダーク・エネルギーやダーク・マターが、光や物質よりも多いということは、宇宙、現宇宙は凹iに傾斜しているということではないだろうか。しかしながら、Media Pointの双極子は陰陽のように常時変動していると思われる。だから、凸iと凹iの平衡のときがあり、また、凸iの傾斜のときもあるだろう。凸iの傾斜の場合は宇宙は収縮するということだろう。
 そのように考えると、宇宙は生成消滅を反復するように思える。マヤ神話では、これまで、世界は四回(三回?)、既に滅んでいるのである。
 
追記2:キリスト教やロレンスの「父」の問題であるが、結局、根源は凸i*凹iの双極子ではあるが、凸iに傾斜した場合がヤハウェではないだろこうか。しかしながら、根源は双極性なので、ヤハウェには、凹iが影・シャドウとして存することになるだろう。キリスト教的西洋文明は、凹iの影に付き纏われていると言えよう。つまり、東洋の影である。だから、オリエンタリズムが生まれるのではないだろうか。また、それは、父権主義にもあてはまると言えよう。母権・女性の影が付き纏うのである。母権・女性に対して、攻撃的になるのである。

検討問題3:意識の相反する志向性について:脳的志向性と内身体的志向性:明るい意識と暗い意識

現代の日本人を見ると、意識は大半が脳的志向性をもち、内身体的志向性が欠如している。問題は、意識は二つの志向性をもち、その均衡をとる必要があるということだろう。意識が内身体に向かうときは、いわば、測深的に感性知覚するのである。私が直感と呼んでいるものはほとんどこの内身体的意識に拠ると考えられる。
 近代合理主義・近代的自我は、この内身体的意識を抑圧・隠蔽しているのである。それは、脳的意識にとっては、未知であり、他者であり、異質なものであり、回避する傾向にあるものである。(それに対して、女性は内身体的志向性が顕在している、本来的には。)
 思うに、道教の中丹田に、Media Pointがあり、それが、一方では、脳的意識の志向性をもち、他方では内身体的意識の志向性をもつのである。つまり、Media Point的根源的意識があるということである。
 結局、男性は脳的意識に傾斜し、女性は内身体的意識に傾斜しているが、男性、女性ともに、自己の特性を認識していないので、それぞれ、脳的意識、内身体的意識に規定されていることがわからないと言えよう。
 結局、トランス・モダン意識形成のためには、Media Pointの二重意識を形成する方向で自己教育する必要があるということになる。しかしながら、これは、言うは易しである。というのは、不連続的差異論が明らかにしたように、内身体的意識と脳的意識は不連続であるからである。つまり、通常、意識は両者を連続化させようとするが、それは中途半端なのである。内的身体的意識が脳的意識とは不連続であると認識して、二重意識のバランスが生まれるのである。
 また、いわゆる、魂というものは、内身体的意識のことであろう。そして、それは、霊性と接しているということだろう。霊性は、多様な双極子ということにしておこう。
 


2010年08月28日(Sat)▲ページの先頭へ
思考実験:先進波と遅延波:光と暗黒物質:凸i*凹iのゆらぎと、凹i傾斜のダーク・エネルギー
Kaisetsu氏は、光と時間の極性を述べているが、それは、先進波と遅延波の視点から生まれたのである。
 光が遅延波として、Media Pointを、いわば、透過して、現象界に到達するのであるのに対して、時間はそれに逆行するのである。とまれ、先進波は光とは逆向きと考えられるので、Kaisetsu氏が指摘するように、暗黒物質において、通常の時間が逆転していることが考えられる。
 結局、MP1の差異共立態において、光と闇が共立していると考えることができるのであり、光は遅延波となり、闇は先進波となるのではないのか。(正確に言えば、原光と原闇の共立態であるが、思考実験的にそのように記述する。)
 ここで直感で言うが、光=遅延波が主導的になったときに、プラス1(物質)へと転換し、闇=先進波が主導的になったときに、マイナス1(暗黒物質)となるのではないだろうか。
 光と闇は極性であるから、物質と暗黒物質の両者を形成すると考えられる。問題はここでも光現象である。光とは同時に闇となるはずである。つまり、凸iの光と凹iの闇である。光に質量がないのは、それが、凸iだからではないだろうか。この辺の問題は検討課題とする。
 結局、MP1の差異共立態において、光凸iが主導的になると、プラス1の物質現象を生み、闇凹iが主導的になるとマイナス1の暗黒物質現象を生むのではないだろうか。
 しかしながら、現代物理学、現代天文学の観察からは、暗黒物質の傾斜が優位なのである。そうならば、凸i傾斜ではなく、凹i傾斜が宇宙にはあるのではないだろうか。
 いろいろ言いたいことがあるが、結局、光と闇は双子であるが、実際は後者に傾斜しているということではないだろうか。
 しかしながら、理論的に考察するならば、差異共立とは極性であり、常時変動していると考えられる。単に凹i傾斜だけではなく、凸i傾斜もあるのである。あるいは、ゆらいでいるのである。
 だから、宇宙の膨張とは、凹i傾斜に拠るであり、凸i傾斜に転ずるときは、収縮となるはずである。つまり、凸iが重力を、凹iが反重力を意味するのではないだろうか。
 この方向で考えると、根源は虚軸にあることになるだろう。つまり、凸i*凹iである。そして、先進波と遅延波を入れると、凸i*凹i⇒±1となることになる。
 そうならば、左辺において、凹i傾斜のときが、ダーク・エネルギーとなるのではないだろうか。通常のエネルギーは凸i傾斜である。



2010年08月24日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題
検討問題

1) 一般に、自己形成ではなく、自我形成となる力学は何か。連続的同一性でこれまで説明しているが、端的に何なのか。言い換えると、なぜ、凸iと凹iが連続化するのか。D. H. ロレンスは、炯眼にも、the quick of the thingsは絶対的間隙・懸隔であると述べている。それは、端的にMedia Pointと考えられる。しかしながら、通常は、この絶対的懸隔を簡単に喪失するのである。やはり、MP2が連続的力学ということでいいのではないだろうか。だから、結局、東洋の知恵とは、それを越えて、MP1の心性に到達することに存すると言えよう。仏教が端的にそうである。インドの瞑想哲学(ヨーガ)に基づくと言えよう。身体瞑想知を取り戻すべきである。結局、西洋知は、MP2を基盤とする知である。これに戦後日本は洗脳されたのである。とは言え、MP1の知恵とは、神秘的な知である。近代合理主義/唯物論が否定するものである。唯物主義の破壊が必須である。
2) 凹iをアストラル体(動物体)と作業仮説しているが、いわゆる愛情とはここから生まれるのではないだろうか。女性は本来、アストラル体を具備していて、子育てを「本能」的にするのでは。もっとも、最近は鬼女が多いが。これは、男性性の凸iの影響だと思われる。
3) 先進波と遅延波:前者が球面から中心への波、後者を中心から球面への波とすると、一見、重力は前者となり、反重力は後者となるが、これは背理である。思うに、逆である。遅延波が重力であり、先進波が反重力であろう。なぜなら、中心から球面への波とは物質形成を意味するのであるから、重力形成でもあると言えよう。それに対して、球面から中心への波とは、反物質的であり、故に反重力であると思われる。とまれ、そうすると、植物で言うと、遅延波が根の方向であり、先進波が芽、茎、幹、葉、花、実の方向となる。つまり、先進波がVector Modeを形成することになる。言い換えると、生長とは先進波が起こすことになる。これも背理である。正しくは、遅延波と先進波との極性によると言うべきであろう。後で丁寧に考えたい。



2010年08月20日(Fri)▲ページの先頭へ
再掲(補正):文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、√千凸i円であり、本は√千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、プラス千円が発生するのである。即ち、

√1000凸i円貨幣*√1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的、粗暴な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の粗暴性と狂気は、唯物論教育の帰結である。(追記:また、今日の肉感主義もそうである。つまり、物質的身体が支配的になっているのである。)
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめてすぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているとは言え。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格調が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか(追記:単に漢籍教養の欠如だけでなく、日本の古典教養の欠如でもある)。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正法眼臓』の「即心是仏」



2010年08月19日(Thu)▲ページの先頭へ
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値
文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、千凸i円であり、本は千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、千円が発生するのである。即ち、

1000凸i円貨幣*1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の狂気は、唯物論教育を帰結である。
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめて、巣すぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているが。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格式が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正方眼臓』の「即心是仏」



2010年08月09日(Mon)▲ページの先頭へ
シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:PS理論との相違点:即非的理論と非即非的理論
以下は、先に途中のままになっていた論考をまとめたので、ここに投稿する。ここでは、タイトルを変更した。思うに、What is questionable with Steiner's spiritual theory? という副題をつけることもできる。

*****************

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:折り畳まれる精神的高次元?

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

シュタイナー精神学(精神理論)に最近触れているが、興味深いのは、精神的次元、高次元が四次元、五次元等ではなく、二次元になるという考えである。
 私は以前、二次元、平面から三次元の現象空間が生まれると考えた。それは、物質的次元(+1)が現象界が加わるという考え方である。すなわち、 Media Plane(メディア平面)があり、それから、物質次元が加わって、三次元空間になるという考え方である。(Kaisetsu氏が既にこの点を解明しているが、心象学的に考察してみたい。)
 単純に見れば、凸i#凹iが一次元、そして、差異共振凸i*凹iが一次元で、合わせて、二次元である。
 思うに、差異共振次元をガウス平面に直交するZ軸に見てもいいのかもしれない。作業仮説的に、虚軸Y軸と共振次元Z軸の形成する平面をMedia Plane、メディア平面としよう。
 このメディア平面から垂直に物質次元が形成されるということになる。三次元である。
 とまれ、精神次元は二次元である。そして、それが、Media Pointにおいて形成されるということだろうか。
 とまれ、二次元的視覚(精神的視覚)があるというように考えよう。視覚平面(精神的視覚平面、イデア/エイドス平面、霊視平面)である。
 そして、これが基盤となって現象物質空間、三次元空間が生起するということではないのか。
 しかしながら、この基盤は本来、不可視なのではないか。いわば、「闇」である。不可視界である。しかしながら、三次元空間のうちの二次元性は残っているということではないのか。
 それは、簡単に精神という不可視界を考えればいいのではないだろうか。正確、的確に言えば、精神視覚界(霊視界)である。この精神視覚界が光によっていわば、めしいているということではないのか。
 やはり、超越光を考えるべきである。つまり、精神次元には、超越光が「実在」するのである。そして、超越光を精神的視覚は見ているのである。
 しかし、差異共振によって同一性=物質化へと転換される。これは、同時に、現象光化と考えられる。
 つまり、不可視=超越光の二次元が可視=現象光=三次元へと転換するのであり、精神的視覚は物質感覚的視覚へと変換されるのではないだろうか。
 しかしながら、これは実に微妙・霊妙な事象である。いわば、Media Transformation (メディア変換)は、単純ではないのである。端的に言えば、即非的変換である。
 すなわち、精神は物質であり、且つ、物質ではない。精神的視覚は物質的視覚であり、かつ物質的視覚ではない。
 これは、Media Pointにおける精神的フィルターの作用である。しかし、単純なフィルターではない。即非的フィルターである。
 既知のことであるものの、ここでは不思議な事象が起きているのである。つまり、ダブル・ヴィジョンの現象である。即ち、精神的視覚は精神的ヴィジョン(Spiritual Vision: SV)を見ているが、物質的視覚は物質的ヴィジョン(Material Vision: MV)を見ているのである。
 しかし、そのように単純な二元性ではない。何故なら、ここには、即非的視覚が生じていると考えられるからである。
 実に霊妙である。つまり、精神的視覚もやはり物質的ヴィジョンを見ていると考えられるからである。つまり、精神的視覚は精神的ヴィジョンと同時に、物質的ヴィジョンを見ているということであり、物質的ヴィジョンという点では、精神的視覚と物質的視覚とが重なっていると思われるのである。
 だから、物質的現実、現象が、精神化されて見えるのである。その意味でもダブル・ヴィジョンである。
 しかしながら、近代合理主義は、この精神的ヴィジョンを否定しているのである。だから、抑圧があるのである。それは、同一性のメカニズムと言えよう。これは、反美的な視点である。言い換えると、近代合理主義は美学を排除しているのである。そして、この抑圧は不健全である。存するものを否定するからである。
 とまれ、私が以前よく述べた超越光であるが、それは、実際、私には「視覚」されたものなのである。陽光において超越光が感じられたのである。
 それは、結局、今述べたように、即非的視覚で説明ができるだろう。精神的視覚が現実界の光を視覚するのであり、そのために、超越光と重なるのである。つまり、精神的視覚とは、虚軸の超越的ヴィジョンを見ているのであり、そこに超越光があるのであり、その超越光を視覚しつつ、現象界の陽光を視覚するので、言わば、投影される形で、陽光を視覚するということのように思えるのである。
 しかし、この説明では、超越的主観性(フッサールの超越論的主観性は、本来、このように考えるべきである)中心であり、外界の光には超越性がないように考えられるだろう。
 しかしながら、光も本来、超越光から生まれるのであり、光のMedia Pointを介して、超越光がいわば洩れているのである。
 だから、結局、精神的視覚が光から洩れる超越光を見ているということでもあると考えられるのである。
 最後に即非的視覚の視点からシュタイナーの精神学を見ると、精神を物質から独立させる志向をもっている。物質から離脱する志向性をもっている。
 そう、精神は物質的現実からも独立して存在していると述べている。それは正しいだろう。しかしながら、精神的次元はMedia Pointを介して、物質的次元へと参入している点をシュタイナーは説いていないように思えるのである。つまり、即非的視点を欠いているように思えるのである。
 つまり、シュタイナーが物質界から精神界へと参与するとき、物質界から截然と独立した精神界へと参入するのであるが、それはPS理論から言うと、Media Pointの虚軸のゼロ点(MP1)に参入することと考えられる。それは、差異共立様態への回帰である。
 しかし、少し疑問に感じるのは、そのいわば、純粋な精神(霊)とMedia Pointとの関係についてである。シュタイナーはアストラル体とエーテル体を截然と区別する。しかしながら、PS理論の見地からは、両者は連関しているのである。つまり、アストラル体を例えば、凹iとすれば、エーテル体は凸iと凹tとの極性エネルギーと考えられる。だから、PS理論的なアストラル体とエーテル体とは、截然と分けられるが、連関しているのである。この点がシュタイナー精神学は欠けていると考えられる。言い換えると、それは、硬直してドグマになっている面が感じられるのである。
 今の予見では、PS理論からシュタイナー精神学の非即非的な構築・フレームを解体して、即非的に再構築することが必要であると考えられる。

追記:心とは端的に、Media Pointである。しかしながら、今日、一般には、それが自我形式=同一性形式によって枠付けられている(愚樵氏の知的フレーム)ために、虚軸的側面が解放されていないのである。せいぜい、愛情、情感、感情、気持ち、等にしかならないのである。
 禅仏教はこの同一性形式の徹底した解体を志向していた。なにか、デリダに似ているのである。ただし、デリダより、精神性をもっていた点では、優れている。
 さて、私が言いたいのは、不可視界であるが、それは、「闇」というよりは、超越光の世界である。D. H. ロレンスが述べたdark sunとは、正に、不可視の超越光のことだと思う。
 しかしながら、不可視とは言え、可視的であると思う。何故なら、精神的視覚(霊的視覚)があると考えられるからである。だからこそ、dark SUNなのだろう。
 そして、これこそ、アマテラス、アフラ・マズダー、大日如来等であろう。
 これは、色彩でいうと、黒でもある白、白でもある黒である。しかし、灰色ではない。思うに、黒と白とが相互浸透した様態とも言えるだろう。それは何色なのか。トランス・ブラック・ホワイト? トランス・ダーク・ライト?


2010年08月01日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:Media Pointの力学に関して
1)差異共振と差異共立について:

先に、差異共立が差異共振に含まれていること、あるいは、差異共振の前提にあることを述べた。
 問題は、凸iと凹iとの関係である。凸i=凹iとなるのだろうか。例えば、凸iを「わたし」、凹iを「池」としよう。「わたし」は「池」であるというのは、あり得る知覚である。凸i「わたし」=凹i「池」である。もっとも、同時に、凸i「わたし」≠凹i「池」である。
 先に、「わたし」=「池」の等号は同一性であるとして、問題視した。この点について、熟考したい。
 いったい、差異1「わたし」は差異2「池」であり、且つ、「池」ではないというのは、前半において、差異1と差異2の同一性を述べているのだろうか。
 それは、端的に同一性である。そして、即、同一性ではないと否定するのである。つまり、同一性と非同一性との共立がそこにはあるのである。
 だから、 即非、ないし、差異共振には、同一性・即・非同一性という論理があると言える。
 それに対して、差異共立、あるいは、生成門氏の反共振においては、差異1「わたし」と差異「池」は、一如の様態になっていると考えられる。「わたし」は「池」と一(いつ)である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、「池」は「池」である。
 以上のことは先の確認である。 
 

2)情感・感情について:

これは、性質上、論じにくいが、理論化する必要がある。とまれ、用語は情感/感情としておく。
 いったい、情感/感情とは何か。それは、主体と他者との関係様態の一つであろう。例えば、「わたし」が「海」を見て、その深い紺色に感銘を受けるとしよう。この感銘が情感/感情である。
 それは、差異共振のときがあるし、あるいは、差異共立の場合もあるだろう。前者の場合、「わたし」は「海」であり、且つ、「海」ではない。後者の場合、「わたし」と「海」は一である。
 共振ないし共立の様態に情感/感情があると言えよう。しかし、どこかに、感じる「器官」がなくてはならない。
 直感では、もし、凸iが能動性、凹iが受動性をもつならば、当然、凹iに感じる「器官」、情感/感情の「器官」があることになる。とりあえず、そう作業仮説しよう。
 差異共振、差異共立が生起したときのエネルギーを凹iは、情感/感情として捉えるということになろう。凸iはそれを知覚するが、感覚はしないだろう。情感/感情の主体は凹iにあるからである。
 いちおう、以上で説明はつくが、他の仮説として、凸iと凹iの共振・共立において、Media Point自体が情感/感情の主体となるということも考えられよう。要するに、感受性の「器官」の位置の問題である。
 思うに、差異共振ないし差異共立の様態において、差異相関が形成されたときに、情感/感情が生起することは確かであり、共振、共立のエネルギー様態の感覚が、情感/感情ということではないだろうか。
 だから、情感/感情の「器官」とは、Media Pointであり、また、凸i、凹iと言えるだろう。つまり、トライアッド(三一体)が「器官」になっているということも言えよう。
 問題は、近代合理主義は、連続性が中心化されて、差異共振、差異共立のもつエネルギー様態の情感/感情知覚を排除してきたのであり、人間の生を抑圧してきたと言えよう。
 脱連続性において、抑圧されてきた情感/感情が復帰するのである。ただし、これは、不連続性をもつので、連続性である近代合理主義の知は知として、保持されると言えよう。
 
 
3)脱連続性の反転の力学:

先に、初期近代においては、連続性が積極的であったが、後期近代においては、反動的になるのと述べた。この力学を明確にする必要がある。
 先に指摘したが、連続性は差異共振で、つまり、差異の牽引様態ではないかということである。わかりやすく言えば、対の差異が引きつけ合い、連続化して、同一性(物質)を産み出すということである。
 それに対して、対差異に斥力が反対に作用するようになると考えられるのである。これが反共振であり、共立様態とマイナス1をもたらすと思われる。
 つまり、初期近代とは、対差異の牽引力がはたらき、共振化して、連続性と同一性をもたらした。しかるに、後期近代においては、対差異の斥力がはたらき、反共振化し、共立とマイナス1をもたらす脱連続性の志向性をもつのであるが、しかしながら、それは、初期近代の連続性と衝突することになり、混乱、混沌がもたらされると考えられる。
 混乱、混沌となるのは、連続性と脱連続性とはまったく異質な作用であるからであり、両者は通約(共約)不可能だからである。そして、それを体現してしまったのが、ポスト・モダンである。
 とまれ、連続性と脱連続性とは、対差異の極性的力学に拠ると言えるのではないだろうか。もっとも、これは、検討課題であるが。


4)鏡像について:

今は簡単に触れるが、これは、差異共振において、同一性のフレームが生まれるが、このフレームが同一性のスクリーンとなり、それに本来、差異(凸i)である「わたし」を投影したものが鏡像であろう。これは、精神的フィルターで説明できよう。
 正確に言うと、差異共振は発光現象であり、その光が同一性のスクリーンに映り、鏡像となると考えられるのである。
 後で、精緻に考察を行ないたい。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性のスクリーンであり、そこに鏡像が映写されるのではないだろうか。


5)「わたし」ichとは何か:

これも簡単に触れるが、「わたし」は端的に凸iで説明できよう。シュタイナーのichはそう理解すべきだと思う。だから、日本語訳では、自我と訳されているのは、誤訳であると考えられる。


2010年07月18日(Sun)▲ページの先頭へ
新PS理論=PS理論
結局、差異共振とは差異共立を前提とした事態なので、PS理論は修正する必要がないと言えよう。
 そして、即非についても、同様に考えられるのである。西田哲学の絶対矛盾的自己同一についても同様である。
 結局、差異共立⇒差異共振が即非・絶対矛盾的自己同一で集約されているということである。

追記:端的に、どういうことなのか。差異共振は差異共立の残響・残照・余韻・余情があり、また、それが根拠・原因となり、同一性=物質現象を形成するのである。
 つまり、差異共振とは、精神(霊性・神秘性)と物質の中間態である。
 そして、形成された同一性が原自我凸iと結合して、物質的自我となり、直近の母胎である差異共振性を否定するのである。


エッセイ:差異共立身体:不可視身体とダーク・マター:spiritual body/matter
直観で、差異共立とは身体ではないかと思った。
 即ち、凸i#凹iは、いわば、「肉」である。この「肉」は、不可視の「肉」である。だから、ダーク・マターないしダーク・ボディではないのか。
 これはどういうことなのか。つまり、差異共立とはある身体性である。そう、不可視の身体である。
 そうすると、気の身体、あるいは、クンダリニーの身体に通じるのではないだろうか。これはいったい何なのか。
 思うに、虚軸とは不可視的身体(以下、不可視身体)の領域ではないのか。つまり、dark body, unseen bodyではないのか。虚数とは不可視、darknessを意味しているのではないのか。
 つまり、不可視身体の極性(陰陽)を意味しているのではないのか。
 思うに、不可視身体とはマイナス1であり、その極性化が差異共立であるように思えるのである。
 ただし、差異共立は、原極性であり、卵の様態である。そして、これが賦活されると、差異共振(即非)化し、可視化、物質化へと進展するのではないのか。
 とまれ、差異共振(即非)化によって、不可視身体から可視身体へと転換するのではないだろうか。
 そう、光の誕生である。差異が連続化して、同一性(物質)の光となるのである。
 そうならば、ヘーゲル弁証法こそ、差異共振原理を説いた初出であろう。それは、光、同一性の原理である。差異共振原理である。即非の論理も、ドゥルーズの理論も、その延長と考えられる。
 しかし、PS理論は、トランス・ヘーゲル弁証法である。絶対的差異の共立を説いているからである。
 ここで、陰陽論について言うと、それは、やはり、差異共振(即非)の論理である。ヘーゲル弁証法である。
 結局、陰と陽とが絶対的差異、不一致であることがPS理論の要である。凸i≠凹iである。
 極性原理に変えて、共立原理を導入する必要がある。そして、共立原理こそ、不可視身体dark body, unseen bodyの原理であると考えられる。
 思うに、これは、一(いつ)の共立的分化ではないのか。一の不可視身体の共立分化的様態ではないのか。言うならば、一元論的二元論、二元論的一元論である。
 あくまで、二元論である。二元は不一致であるが、両者は一なのである。
 思うに、鈴木大拙が即非の論理で考えていたのは、このような共立的一元論ではなかったか。つまり、大乗仏教に拠りながらも、それを超える論理を考えていたのではなかったか。しかしながら、仏教の用語を借りたために、差異共振原理と混淆してしまったのではなかった。おそらく、それが正しいだろう。(西田幾多郎にしてもそうだろう。)
 本題に戻ると、思うに、マイナス1のダーク・マターが不可視身体=差異共立身体を産むのである。これは、-1⇒MP1である。この⇒が意味深長である。つまり、これが、不可視身体を意味しているからである。そして、これが、ダーク・エネルギーであろう。つまり、ダーク・マターからダーク・エネルギーが生まれるのである。そして、ダーク・エネルギーとはdark sun、霊的太陽であろう。
 ということは、森羅万象は、暗黒物質から生まれたということになる。つまり、神、神々は必要ないのである。というか、神や神々、神仏は暗黒物質から生まれたのである。
 思うに、D. H. ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で述べた宇宙の薔薇とは、不可視身体のことではないだろうか。そして、darknessとは、ダーク・マターのことだろう。
 しかしながら、darkとは、spiritually lightであろう。だから、ダーク・マターはspiritual matterである。


2010年07月17日(Sat)▲ページの先頭へ
光とは何か:精神(霊性)の発現としての光?
今は余裕がないので、十分考察できないが、一言言うと、視覚は明らかに精神(霊性)と結びついている。つまり、内面と視覚が結びついている。
 これは、Media Point(MP)と結びついているのである。これまで、差異共振が発光現象であると考えてきたが、今やどう見るべきか。
 心の問題である。今はざっと言うが、より感覚的には、光はMP2に関係するだろうし、より精神的にはMP1に関係するだろう。つまり、光の知覚には二重性がある。
 外的な面と内的な面である。物質的な面と精神(霊)的な面である。
 しかしながら、問題点は、MP2の「心」に存する。ここでは、いわば、心と物質が連続化ないし混淆するのである。そう、自我の心とも言えよう。感覚であり、また、精神の二重様態がここにあるのである。
 わかりやすく言えば、音楽、例えば、バッハの音楽を聴いたとき、聴覚と精神「感覚」の二重性が喚起されるのである。
 私の考えでは、MP1を霊性SPIRIT、MP2を心魂SOULとするのがいいのである。
一般には、MP2まで感じられるが、MP1は希有である。それは、特異な時空間が必要であると思われるのである。
 光の問題に戻ると、この視点から言うと、光はMP1とMP2の要素があると考えられる。
 私は以前、超越光ないし超光と呼んだのは、当然、MP1の光である。それが、言わば、現象光となるMP2と連続化ないし混淆すると考えられるのである。
 当然、宗教的な光とはMP1である。しかし、近代合理主義、近代的自我の世界では、これは、否定されるのである。
 とは言え、ご来光を拝むとか、夕日に感動するというのは、MP1の光、超越光、超光を直感しているからであろう。そう、霊光と言ってもいい。
 結局、超越光、超光、霊光とは差異共振の様態にある差異共立の一如態の発現と考えられる。
 アフラ・マズダーやアマテラスはここに存するだろう。しかしながら、問題は、マイナス1である。
 差異共立を和として、ゼロとするなら、それは、虚軸ゼロ点であり、それがマイナス1と通じるように思われるのである。この論理は何か。
 これが難問である。これは保留にしておき、直感で考えよう。
 外界の対象の奥にあると思われる物自体であるが、それは、やはり、マイナス1であろう。つまり、本来、いわば、背後にあるものを正面奥に錯覚するのである。
 そう、やはり、-1⇒MP1ではないだろうか。そして、MP2において、MP1を直感するように、MP1においても、-1を直感するのではないだろうか。
 つまり、⇒の先端は起点と通じているということである。だから、MP1の超越光の奥に物自体があることになろう。
 それが、ダーク・マター(暗黒物質、不可視物質)であろう。そう、外的物質の本体とはダーク・マターということになるだろう。
 しかしながら、ダーク・マターのダークとは本当に闇なのだろうか。私はこれは、超超越光の可能性を感じるのである。
 先に霊的太陽はMP1であると言ったが、その根源に超霊的太陽があるのではないだろうか。
 プラトンの洞窟外の太陽(善のイデア)は、この超霊的太陽を意味しているのではないのか。
 ならば、アフラ・マズダーはそこに存するだろう。すると、MP1の霊的太陽とは、超霊的太陽の背面であるということではないだろうか。
 今はここで留める。


2010年07月16日(Fri)▲ページの先頭へ
差異共振と差異共立について:即非再考
余裕のあるとき、本題について、詳述したいが、今は簡単に触れるに留める。
 先に、両者について区別したが、まだ、判然としない向きもあるので、緻密に考察検討したい。
 以前は私はMedia Pointにおいて、差異共振化が起こり、差異共振現象が生起するのであり、その後、差異共振様態が抑圧されて、同一性=物質が言わば分離されると説いていた。
 しかるに、最近は、私はMP1(虚軸のゼロ点)において、差異共立が生じ、MP2(実軸のゼロ点)において、差異共振が生じるのであると述べた。(そして、即非は両方に関わると考えた。)
 端的に差異共振とは何か。これは、一般的な意味での、即非と一致すると言えよう。即ち、A=非Aであり、且つ、A=A(又は、A≠非A)である。
 具体的な経験では、これまで何度も述べたように、「わたし」は「山」であり、且つ、「わたし」は「わたし」である。
 ここでは、差異があるものの、差異(「わたし」)は他者(「山」)と等価となることがあるのである。
 そうすると、これは、連続的差異である。
 とは言え、問題は複雑である。差異共振、あるいは、即非においては、不連続的差異と連続的差異との交互の変換が反復する(共振する)と考えられるのである。
 とまれ、連続的差異とは同一性であり、それが、差異を物質化させ、また、自己を同一性自己化(自我化)させるのである。また、言語はこの同一性の表現の道具であると言えよう。
 他方、不連続的差異ないし絶対的差異として、差異が存しているのである。凸iと凹iである。つまり、差異共振ないし即非においては、差異共立が内包されていると考えられるのである。
 ここで、さらに精緻になる必要がある。もし、MP2において、差異共振があり、そこに、差異共立も含まれるならば、それは、実際は、MP1に関わることである。
 そう、先に述べたように、MP1とMP2とは、即非様態であると考えるのが、的確だと考えられる。即ち、MP1=MP2であり、且つ、MP1≠MP2であるということである。換言すると、MP1はMP2と連続的であると同時に、不連続的であるということである。
 しかしながら、もし以上のようならば、つまり、差異共振において、差異共立が内包され、また、差異共立は差異共振と即非関係にあるというならば、MP1 とMP2との相違は何なのであろうか。
 それは、あくまで、MP1が主であり、MP2は従であるということであろう。あるいは、前者が優位であり、後者が劣位であるという位階関係があるということだろう。
 言い換えると、MP1にとっては差異共立が主であり、差異共振は従である。MP2にとっては差異共振が主であり、差異共立は従であるということになろう。わかりやすく表記すれば、MP1⇒MP2である。
 以上から整理するならば、差異共振=即非には、差異共立が含まれるが、それは、差異共立の優位、主なるものであることが前提である。
 また、ここで、先に、即非には、一如性があると言ったが、それはどうだろうか。A=非Aの連続的差異=同一性を一如性と言うことができるだろうか。
 鈴木大拙は一(いつ)であることを強調していたと思う。これは、連続的差異=同一性の一だろうか。どうもそのように考えられる向きはある。
 しかしながら、私の考える一如性とは、差異共立における一如性である。そこでは、「わたし」は「山」にならずに、両者が共立しつつ、一如様態にあるのである。
 もし連続的差異=同一性の一(いつ)を鈴木大拙が考えていたならば、それは、ポスト・モダン的である。ドゥルーズ的である。
 しかしながら、差異共振=即非には、差異共立的要素があるのである。というか、不連続的差異、絶対的差異性があるのである。つまり、不連続的差異(絶対的差異)と連続的差異との絶対矛盾があるのである。
 とは言え、その不連続的差異であるが、それらは、差異共振=即非において、共立しているのだろうか。
 そもそも差異共立とは一体何なのか。それは、不連続的差異、絶対的差異同士がいわば調和している状態である。
 差異共振の場合には、極性が強く作用するが、差異共立においては、極性はいわばゼロになっていると考えられる。
 思うに、ここには、差異を超越したより大きなものの力が働いているように思えないことはない。
 そう、ここには、全体の視点があると考えられる。この全体が一如性に関係すると思えるのである。
 では、どこから全体性の視点が生まれるのだろうか。これは、保留にしておく。
 とまれ、差異共立に戻ると、それは、差異が均衡している様態であると考えられる。平衡状態である。D. H. ロレンスの言う聖霊=王冠の和解の様態に通じると言えよう。
 やはり、それは、ゼロ様態であり、卵の原初的様態と言えるだろう。それは、母胎内に近い位置にあると言えよう。
 ここで、先の問を考えると、このゼロ様態が原初の全体を喚起するのではないだろうか。神話的にはウロボロスを指すと言える。
 そう、また、卵とは端的に身体である。つまり、差異共立的一如態には、身体性があるということになる。
 そして、この身体ないしは原身体とは、先に示唆したように、マイナス1のダーク・マターから発しているように思えるのである。つまり、虚軸ゼロ点において(実軸ゼロ点ではなく)、マイナス1と通じるように思えるのである。
 つまり、こういうことではないだろうか。実軸ゼロ点は、プラス1(物質)と結びつくが、虚軸ゼロ点は、マイナス1(ダーク・マター)と結びつくということではないだろうか。
 そう、生成門氏が述べた反共振=共立、即ち、凸i*(-凹i)⇒-1 ではないだろうか。今はそう考えよう。


2010年07月14日(Wed)▲ページの先頭へ
虚軸界が霊界ではないのか
凸i*凹i⇒+1【i*-(-i)⇒+1】の自己認識方程式に拠ると、近代は、自我凸iは、+1と合一する錯誤に陥っている。
 いわゆる、感覚知覚(正確には、物質的感覚知覚)の世界は、凸i=+1の錯誤の世界である。そう、対象凹iも+1である。つまり、凸i=凹i=+1の錯誤の世界である。
 感覚は差異共振の「光」によって生起されよう。感覚はMP2(実軸のゼロ点)の面となるだろう。これは、表記しにくいが、MP2の、いわば、プラスの面である。あるいは、表面と言おうか。
 しかしながら、実体、本体は、差異の双対的様態である。つまり、虚軸、ないし、虚軸のゼロ点(MP1)における差異極性の様態である。虚軸においては、差異共振もあり、差異共立もある。とまれ、これを差異即非様態と呼ぶ。
 これが、霊的様態ではないだろうか。「わたし」は、思うに、原自己凸iと原他者凹iの極性に還元されるのではないのか。
 思うに、「わたし」とは、凸iと+1との結合ではないのか。それは、自我と言ってもいいのではないか。
 しかるに、自己とは、差異即非様態と自我との共立ないし共振ではないだろうか。
 とまれ、「わたし」は、差異即非様態に還元されよう。
 そして、それは、霊的様態であると考えられる。自我の土台の個と言えるのではないだろうか。そう、霊的個である。霊個である。
 そして、差異共立点MP1において、和、ゼロとなり、マイナス1が霊的直感されるのではないだろうか。
 そう、マイナス1の物自体は、超霊的な存在ではないだろうか。
 とまれ、虚軸界が霊界であるように思われるのである。後で更に検討したい。


2010年07月12日(Mon)▲ページの先頭へ
Spiritとは何か: Was ist der Geist?:Spiritual Earth
差異共立一如態(MP1)とは、瞑想やその他のときに生起する。
 これは、凹iを肯定して、凸iとの均衡を意味しよう。差異共振のときは、揺れ動きがある。
 直感では、差異共立様態のときに、霊精が感得されるのである。
 共立を和立、和交、和共と言おう。和立の静態において、感受性が生じて、ある霊精を感得するように感じられるのである。
 では、この和立の感受性と霊精との関係は何か。Kaisetsu氏が共立は和であると述べていることから、ゼロ度の感受性と言えよう。凸i+凹i=ゼロである。ならば、+1+(-1)もゼロである。
 これは、作業仮説であるが、共立=和立=和共のときは、実軸のゼロと、「共立」するのではないだろうか。それとも、融合であろうか。
 とまれ、MP1の差異共立のゼロは、MP2のゼロとなんらか交接しているのではないだろうか。
 というか、ゼロ状態である点で、両者は一致すると考えられる。
 つまり、虚界と実界が一致するのである。思うに、これこそ、聖霊的ゼロ・ポイント、あるいは、聖霊点と言えるのではないだろうか。
 ここで、私の経験から言うと、ある対象に、霊精を感じるとき、例えば、樹木や岩石に霊精を感じるとき、その霊精とは、-1の物自体、ダーク・マターではないのだろうか。
 つまり、聖霊点を介して、対象の樹木、岩石の+1に物自体、ダーク・マターの-1を直感しているのではないか。
 ならば、霊精とは、マイナス1、物自体、ダーク・マターである。
 霊的感覚は確かに、差異共立一如態MP1に存するが、霊精はどこに存するのかと考えていたのであるが、以上の思考実験から、それは、マイナス1に存すると言えよう。言い換えると、マイナス1が霊精である。
 これは、これまで述べた霊的大地と一致することになる。即ち、鈴木大拙の日本的霊性、折口信夫の妣が国、そして、D. H. ロレンスの地霊、等に一致すると言えよう。そして、それは、「母」である。プラトンのコーラである。思うに、マイナス1は霊的地球と言えよう。 Spiritual Earth, Dark Earthである。(そうならば、コペルニクス以前の地球中心説はその点から妥当性をもっていたと言えよう。)
 では、シュタイナーの霊的位階的存在(霊的ヒエラルキア)とは、どう説明ができるのだろうか。
 私は先に、位階的スペクトルを述べた。それは、クンダリニーに関係することである。
 思うに、この位階的スペクトルと霊的ヒエラルキーは関係しそうである。
 クンダリニーとは、身体と霊精との結節点である。この身体が重要ではないだろうか。それは、+1になるからである。そうすると、やはり、聖霊点が関係するのではないだろうか。クンダリニーとは、瞑想において、生起するものである。だから、聖霊点に関わるのである。そうすると、当然、マイナス1としてのクンダリニーが考えられるのである。すると、霊的ヒエラルキーもマイナス1に存すると考えられよう。
 それとも、クンダリニーは、虚軸に存すると見るのか。身体を実軸にとれば、やはり、クンダリニーは、実軸であろうし、霊的ヒエラルキーもそうなるだろう。
 そうすると、マイナス1は、霊的身体である。そして、そこには、螺旋的エネルギーが流れていることになるのではないだろうか。そう、Vector Modeが+1の方向に形成されるならば、それ、Dark Vector Modeではないだろうか。あるいは、Spiritual Vector Modeである。


2010年07月10日(Sat)▲ページの先頭へ
即非とは何か:差異共立と差異共振:差異共立一如態が即非の様態である
動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共振連続態(MP2)
http://ameblo.jp/renshi/entry-10586674702.html


先に、上記のように、即非と差異共振を同じものと見たが、再検討したい。

 私の即非概念の理解は個人的経験に傾いているので、検証する必要がある。

 以下の説明からわかるのは、即非とは本来、Aは非Aであり、且つ、やはり、Aであるという論理である。

 私はAを「わたし」として、非Aを「川」にして、「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではないと述べてきた。そして、先には、「わたし」が「川」であるというのは、連続性であると述べたのである。

 私の考えが飛躍しているならば、非Aを「川」等のように具体的対象にしていることでであろう。

 非Aを「川」にするのは、理論的には確かに飛躍である。「Aにあらず」を「川」と限定するのは確かに飛躍である。

 つまり、「Aではない」は必ずしも「川である」にはならないからである。当然、 非Aの方が、川であるや、〜であるというよりも内包が広いのである。

 再度言うと、非Aを例えば、Xであると肯定するのは、行き過ぎである。

 だから、即非の論理は肯定と否定との一致として理解すべきであり、ある対象論理として把握すべきではないということになる。

 では、私が述べた「わたし」は「川」であるはどういうことなのだろうか。それは、やはり、MP2の差異共振論理ではないだろうか。つまり、MP2 において、凸i(「わたし」)と凹i(川)が共振する。そのとき、思うに、相互浸透、ないし、相互作用が生起するのである。

 凸iは凹iに転移し、逆に、凹iは凸iに転移するのである。いわば、同調作用である。そして、結局、同一性化が生起して、「わたし」と「川」が分離するのである。

 ということで、私が考えていた即非とは即非ではなく、差異共振作用である。

 では、即非はどう見るべきか。これも、先に触れたように、差異共立を即非と見るのが的確であると思う。

 では、MP1(差異共立)とMP2(差異共振)との関係はどう見るべきなのか。それも先には即非と考えたが。

 しかし、非MP1をMP2と見るのは、先に犯した誤りと同じである。非MP1は必ずしもMP2ではないからである。

 ということで、簡単ではあるが、即非の論理をMP1の差異共立一如態に限定することにした。


追記:以上の視点から再度、ドゥルーズ&ガタリの生成変化論を検討してみよう。

 例えば、動物への生成変化を考えよう。動物を梟(ふくろう)としよう。だから、私は梟に生成変化するということになる。これは、端的に、即非ではないことはあきらかのである。何故なら、即非は、私にもどってくるからである。

 また、素朴に考えて、私が梟になるとは、どういうことなのか。本物の梟になるのだろうか。それは、ファンタジーである。

 私の似非即非の差異共振から見ると「わたし」は「梟」であり、且つ、「梟」でない。生成変化に関係する「わたし」は「梟」であるを考えると、それは、基本的には、連続性の論理であろう。「わたし」が「梟」へと、言わば、生成するのであるから。そう、「梟」に接しているのである。だから、正に、ドゥルーズ&ガタリの離接の論理と重なると言えよう。

 だから、生成変化論とは、差異共振的連続性の一面であると考えられる。ただし、他の一面、即ち、「わたし」へと回帰することがないので、異様なものである。

 思うに、そこには、倒錯があるのである。というか、やはり、微分の論理である。「わたし」が「梟」に接近するとしよう。「わたし」→「梟」である。そして、→がだんだんゼロに近づき、最後はゼロになると「わたし」=「梟」となるのである。「わたし」の極限値としての「梟」である。これこそ、連続的差異=同一性の論理である。これは、恐ろしい論理である。差異が無くなるからである。「わたし」の差異がなくなるというのは、結局、「梟」の差異もなくなることである。

 では、生成変化したなった「梟」とは何か。それは、物質としての「梟」である。物体としての「梟」である。死体の「梟」である。

 私は以前、ドゥルーズの「哲学」はヘーゲル哲学に帰結すると言ったが、確かに、その通りだと思う。


************************


 【即非の論理】

  鈴木大拙は大乗仏教の基本である
  般若系思想の論理として、
  金剛経の「仏説般若波羅蜜多、即非般若波羅蜜多、
  是名般若波羅蜜多」という表現に着目し、
  これを「仏説−A即非A是名A」(Aは非Aである、
  故にそれはAである)と公式化し、
  「“AがAである”のは“A”が即“非A”で
  あるからである」、すなわち、
  「A」と「非A」と「肯定」(即)と「否定」(非)とが
  そのまま自己同一であるという「即非的自己同一」
  なる独自の同一律を創提した。
  これが西田哲学のいわゆる「絶対矛盾的自己同一」の
  宗教論的基盤となった。

  西田は言う、「我々の自己(個)は、どこまでも
  自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己をもつ。
  自己否定において自己自身を肯定するのである。
  かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを
  “見性”(心眼を開いて自己の仏性を徹見する「悟り」
  のこと)という。禅宗にて“公案”というものは、
  これを会得せしめる手段にほかならぬ」と。

  鈴木のいう「即非」は論理である前に、
  人間存在の根源的な事実の自覚であった。
  すなわち、真実の自己の実現即体認である。

   洞山が弟子の曹山に問うた、「君の名は?」。
   曹山、「本寂といいます」。
   洞山、「その上にもっと言うてみよ」。
   曹山、「言いません」。
   洞山、「なぜ言わぬ」。
   曹山、「本寂と言いません」。

  
  我々はこれまで「本寂」だと思っていた自我
  すなわち「適来(さきほど)の本寂」(個)のその上に
  「本寂と言わぬもの」(超個)のあることを知らねばならぬ。
  その「向上(そのうえ)の本寂」が体験されてはじめて、
  真実の自己(無相の自己・無位の真人)が自覚される。
  「本寂の脱落」(自己の否定)を媒介にしてはじめて
  「真箇(ほんとう)の本寂」(自己肯定)が可能になる。
  “A”(適来の本寂)は“非A”(向上の不名本寂)である。
  だから“A”(真箇の本寂)である。
  絶対的否定即絶対肯定、死んで生きるのが禅の道である。

   青原惟信は言った、
   老僧(わし)は三十年前にまだ禅に参じなかったときに、
   山を見たら山は山であり、水を見ると水は水であった。
   そののち親しく禅匠に相見して一つの入処(見性)があって、
   そのとき山を見ると山は山でなく、水を見ると水は水でなかった。
   そして今日一つの休歇の処(無事の境地)を得てみると、
   依然として山はただ山であり、水はただ水であった、と。

 
  未だ参禅しないときが、“A”(個)であり、
  入処を得た時が“非A”(超個)であり、
  休歇の処“真のA”(超個の個−真如−如)である。

  より端的に言えば、「“一息に”<超個の個>」
  すなわち「如」を見るところに“真人が真如を見る”
  さとりの禅経験があるのである。
  「即非」は「如」を見る自覚の論理である同時に、
  「如」の実現する存在の論理である。
  
  
   ◇引用◇
   秋月龍a著「絶対無と場所」211ページ 
   青土社 1947年

http://www15.ocn.ne.jp/~satori/yogojiten/yogo_047.html





2010年07月06日(Tue)▲ページの先頭へ
母⇒父⇒子:卵⇒自己分割⇒虚数極性⇒差異共振物質現象
-1⇒Media Point(MP1↓MP2)⇒+1

を直観で理解したいと思う。
 マイナス1は子宮、母胎である。それが自己分割して、凸iと凹iの極性が生まれる。それは、差異共立様態である。つまり、卵状態である。
 それが、共振化して、「子」・「胎児」・「光」となり、誕生する。それが、身体、精神・物質的身体である。
 つまり、根源物質(ダーク・マター)があり、自己分割して、差異共立様態=卵となり、差異共振結合して、子となり、それが、発現する。
 即ち、

T)-1=子宮=ダーク・マター(暗黒物質)

U)凸i#凹i=差異共立=卵=デュナミス

V)凸i*凹i=差異共振=エネルギー(エネルゲイア)=⇒

W)物質的現象=+1=物質

となるだろう。
 問題は、UとVの関係である。これまで、Uに即非を見るべきと考えることが多かったが、即非は、UとVとの関係と見るべきではないのか。
 とまれ、UからVへの転換力学は何か。静から動へと転換させる契機は何か。
 思うに、ゼロ状態があり、それは、実質上、凸と凹の和の状態であろう。つまり、ゼロ=凸i#凹i の様態である。
 思うに、このゼロ的一如様態にあって、直感では、あるエネルギーが流動している。それは何か。また、直感では、「気」である。「気」がゼロ的一如様態=差異共立様態を貫いているのである。静的な「気」である。調和的な「気」である。
 しかし、そのままでは、共振化しないのである。思うに、何らかの傾斜が必要ではないのか。「わたし」の傾斜が必要ではないのか。凸iの傾斜?
 そう、対極化が必要だろう。「気」的エネルギーが、直感では、対極化するのである。
 そう、「気」とは、言わば、交流である。例えば、上から下へと流れると同時に、下から上へと流れているのではないだろうか。
 そして、ここにはゆらぎがあり、それが波のように揺れ出すのである。それが、極性化(生成門氏の用語では分極化)である。そして、ある時点、言わば、カタストロフィーが起こり、差異共振という衝突が起こり、差異共振現象が生起して、身体・物質的現象が生成するのである。
 このカタストロフィー的共振をイメージするのに、MP1(虚軸のMedia Point)からMP2(実軸のMedia Point)への降下・下降・落下と見ることができよう。
 精神・霊が肉を得るのである。もっとも、霊妙なことは、精神・霊はもともと、ダーク・マターである子宮から生成することである。わかりやすく言うと、

原肉⇒精神⇒物質

ということになる。宗教思想的には、

母⇒父⇒子

である。
 東洋文化はこの図式のような文化であるが、西洋文明は母なき子なのである。それは当然である。父権的神話は、母殺しが前提であるからである。
 私は女神とよく言うが、正しくは、母神(ははがみ、ぼしん)である。折口信夫の用語を借りれば、妣神である。
 因みに、キリスト教三位一体の位格の聖霊であるが、それは、どう表記されるのか。
 それは、「気」の一種である。だから、MP1に存するだろう。それも、マイナス1から到来するものでもある。
 だから、父と母から来るのである。しかし、父とは言え、それは、父の母的極(MP1)からである。ついでに言えば、マレビトとは、聖霊に満ちた人であろう。


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カレンダ
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