検討問題:Media Pointの力学に関して






[PR]



2010年08月01日(Sun)
検討問題:Media Pointの力学に関して
1)差異共振と差異共立について:

先に、差異共立が差異共振に含まれていること、あるいは、差異共振の前提にあることを述べた。
 問題は、凸iと凹iとの関係である。凸i=凹iとなるのだろうか。例えば、凸iを「わたし」、凹iを「池」としよう。「わたし」は「池」であるというのは、あり得る知覚である。凸i「わたし」=凹i「池」である。もっとも、同時に、凸i「わたし」≠凹i「池」である。
 先に、「わたし」=「池」の等号は同一性であるとして、問題視した。この点について、熟考したい。
 いったい、差異1「わたし」は差異2「池」であり、且つ、「池」ではないというのは、前半において、差異1と差異2の同一性を述べているのだろうか。
 それは、端的に同一性である。そして、即、同一性ではないと否定するのである。つまり、同一性と非同一性との共立がそこにはあるのである。
 だから、 即非、ないし、差異共振には、同一性・即・非同一性という論理があると言える。
 それに対して、差異共立、あるいは、生成門氏の反共振においては、差異1「わたし」と差異「池」は、一如の様態になっていると考えられる。「わたし」は「池」と一(いつ)である。しかし、「わたし」は「わたし」であり、「池」は「池」である。
 以上のことは先の確認である。 
 

2)情感・感情について:

これは、性質上、論じにくいが、理論化する必要がある。とまれ、用語は情感/感情としておく。
 いったい、情感/感情とは何か。それは、主体と他者との関係様態の一つであろう。例えば、「わたし」が「海」を見て、その深い紺色に感銘を受けるとしよう。この感銘が情感/感情である。
 それは、差異共振のときがあるし、あるいは、差異共立の場合もあるだろう。前者の場合、「わたし」は「海」であり、且つ、「海」ではない。後者の場合、「わたし」と「海」は一である。
 共振ないし共立の様態に情感/感情があると言えよう。しかし、どこかに、感じる「器官」がなくてはならない。
 直感では、もし、凸iが能動性、凹iが受動性をもつならば、当然、凹iに感じる「器官」、情感/感情の「器官」があることになる。とりあえず、そう作業仮説しよう。
 差異共振、差異共立が生起したときのエネルギーを凹iは、情感/感情として捉えるということになろう。凸iはそれを知覚するが、感覚はしないだろう。情感/感情の主体は凹iにあるからである。
 いちおう、以上で説明はつくが、他の仮説として、凸iと凹iの共振・共立において、Media Point自体が情感/感情の主体となるということも考えられよう。要するに、感受性の「器官」の位置の問題である。
 思うに、差異共振ないし差異共立の様態において、差異相関が形成されたときに、情感/感情が生起することは確かであり、共振、共立のエネルギー様態の感覚が、情感/感情ということではないだろうか。
 だから、情感/感情の「器官」とは、Media Pointであり、また、凸i、凹iと言えるだろう。つまり、トライアッド(三一体)が「器官」になっているということも言えよう。
 問題は、近代合理主義は、連続性が中心化されて、差異共振、差異共立のもつエネルギー様態の情感/感情知覚を排除してきたのであり、人間の生を抑圧してきたと言えよう。
 脱連続性において、抑圧されてきた情感/感情が復帰するのである。ただし、これは、不連続性をもつので、連続性である近代合理主義の知は知として、保持されると言えよう。
 
 
3)脱連続性の反転の力学:

先に、初期近代においては、連続性が積極的であったが、後期近代においては、反動的になるのと述べた。この力学を明確にする必要がある。
 先に指摘したが、連続性は差異共振で、つまり、差異の牽引様態ではないかということである。わかりやすく言えば、対の差異が引きつけ合い、連続化して、同一性(物質)を産み出すということである。
 それに対して、対差異に斥力が反対に作用するようになると考えられるのである。これが反共振であり、共立様態とマイナス1をもたらすと思われる。
 つまり、初期近代とは、対差異の牽引力がはたらき、共振化して、連続性と同一性をもたらした。しかるに、後期近代においては、対差異の斥力がはたらき、反共振化し、共立とマイナス1をもたらす脱連続性の志向性をもつのであるが、しかしながら、それは、初期近代の連続性と衝突することになり、混乱、混沌がもたらされると考えられる。
 混乱、混沌となるのは、連続性と脱連続性とはまったく異質な作用であるからであり、両者は通約(共約)不可能だからである。そして、それを体現してしまったのが、ポスト・モダンである。
 とまれ、連続性と脱連続性とは、対差異の極性的力学に拠ると言えるのではないだろうか。もっとも、これは、検討課題であるが。


4)鏡像について:

今は簡単に触れるが、これは、差異共振において、同一性のフレームが生まれるが、このフレームが同一性のスクリーンとなり、それに本来、差異(凸i)である「わたし」を投影したものが鏡像であろう。これは、精神的フィルターで説明できよう。
 正確に言うと、差異共振は発光現象であり、その光が同一性のスクリーンに映り、鏡像となると考えられるのである。
 後で、精緻に考察を行ないたい。思うに、⇒+1の⇒の先端が同一性のスクリーンであり、そこに鏡像が映写されるのではないだろうか。


5)「わたし」ichとは何か:

これも簡単に触れるが、「わたし」は端的に凸iで説明できよう。シュタイナーのichはそう理解すべきだと思う。だから、日本語訳では、自我と訳されているのは、誤訳であると考えられる。

writebacks(0)
トラックバック(trackback)
URL:

コメント(comment)
名前(*):
URL/Email: (optional)
タイトル(*):
コメント内容(*):
画像認証(*): 表示された画像の文字を入力してください:

名前と URL/Email をcookieで保存



新着トラックバック/コメント


カレンダ
2010年8月
1
       

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:584
昨日:903
累計:4,749,002