差異共振と差異共立について:即非再考






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2010年07月16日(Fri)
差異共振と差異共立について:即非再考
余裕のあるとき、本題について、詳述したいが、今は簡単に触れるに留める。
 先に、両者について区別したが、まだ、判然としない向きもあるので、緻密に考察検討したい。
 以前は私はMedia Pointにおいて、差異共振化が起こり、差異共振現象が生起するのであり、その後、差異共振様態が抑圧されて、同一性=物質が言わば分離されると説いていた。
 しかるに、最近は、私はMP1(虚軸のゼロ点)において、差異共立が生じ、MP2(実軸のゼロ点)において、差異共振が生じるのであると述べた。(そして、即非は両方に関わると考えた。)
 端的に差異共振とは何か。これは、一般的な意味での、即非と一致すると言えよう。即ち、A=非Aであり、且つ、A=A(又は、A≠非A)である。
 具体的な経験では、これまで何度も述べたように、「わたし」は「山」であり、且つ、「わたし」は「わたし」である。
 ここでは、差異があるものの、差異(「わたし」)は他者(「山」)と等価となることがあるのである。
 そうすると、これは、連続的差異である。
 とは言え、問題は複雑である。差異共振、あるいは、即非においては、不連続的差異と連続的差異との交互の変換が反復する(共振する)と考えられるのである。
 とまれ、連続的差異とは同一性であり、それが、差異を物質化させ、また、自己を同一性自己化(自我化)させるのである。また、言語はこの同一性の表現の道具であると言えよう。
 他方、不連続的差異ないし絶対的差異として、差異が存しているのである。凸iと凹iである。つまり、差異共振ないし即非においては、差異共立が内包されていると考えられるのである。
 ここで、さらに精緻になる必要がある。もし、MP2において、差異共振があり、そこに、差異共立も含まれるならば、それは、実際は、MP1に関わることである。
 そう、先に述べたように、MP1とMP2とは、即非様態であると考えるのが、的確だと考えられる。即ち、MP1=MP2であり、且つ、MP1≠MP2であるということである。換言すると、MP1はMP2と連続的であると同時に、不連続的であるということである。
 しかしながら、もし以上のようならば、つまり、差異共振において、差異共立が内包され、また、差異共立は差異共振と即非関係にあるというならば、MP1 とMP2との相違は何なのであろうか。
 それは、あくまで、MP1が主であり、MP2は従であるということであろう。あるいは、前者が優位であり、後者が劣位であるという位階関係があるということだろう。
 言い換えると、MP1にとっては差異共立が主であり、差異共振は従である。MP2にとっては差異共振が主であり、差異共立は従であるということになろう。わかりやすく表記すれば、MP1⇒MP2である。
 以上から整理するならば、差異共振=即非には、差異共立が含まれるが、それは、差異共立の優位、主なるものであることが前提である。
 また、ここで、先に、即非には、一如性があると言ったが、それはどうだろうか。A=非Aの連続的差異=同一性を一如性と言うことができるだろうか。
 鈴木大拙は一(いつ)であることを強調していたと思う。これは、連続的差異=同一性の一だろうか。どうもそのように考えられる向きはある。
 しかしながら、私の考える一如性とは、差異共立における一如性である。そこでは、「わたし」は「山」にならずに、両者が共立しつつ、一如様態にあるのである。
 もし連続的差異=同一性の一(いつ)を鈴木大拙が考えていたならば、それは、ポスト・モダン的である。ドゥルーズ的である。
 しかしながら、差異共振=即非には、差異共立的要素があるのである。というか、不連続的差異、絶対的差異性があるのである。つまり、不連続的差異(絶対的差異)と連続的差異との絶対矛盾があるのである。
 とは言え、その不連続的差異であるが、それらは、差異共振=即非において、共立しているのだろうか。
 そもそも差異共立とは一体何なのか。それは、不連続的差異、絶対的差異同士がいわば調和している状態である。
 差異共振の場合には、極性が強く作用するが、差異共立においては、極性はいわばゼロになっていると考えられる。
 思うに、ここには、差異を超越したより大きなものの力が働いているように思えないことはない。
 そう、ここには、全体の視点があると考えられる。この全体が一如性に関係すると思えるのである。
 では、どこから全体性の視点が生まれるのだろうか。これは、保留にしておく。
 とまれ、差異共立に戻ると、それは、差異が均衡している様態であると考えられる。平衡状態である。D. H. ロレンスの言う聖霊=王冠の和解の様態に通じると言えよう。
 やはり、それは、ゼロ様態であり、卵の原初的様態と言えるだろう。それは、母胎内に近い位置にあると言えよう。
 ここで、先の問を考えると、このゼロ様態が原初の全体を喚起するのではないだろうか。神話的にはウロボロスを指すと言える。
 そう、また、卵とは端的に身体である。つまり、差異共立的一如態には、身体性があるということになる。
 そして、この身体ないしは原身体とは、先に示唆したように、マイナス1のダーク・マターから発しているように思えるのである。つまり、虚軸ゼロ点において(実軸ゼロ点ではなく)、マイナス1と通じるように思えるのである。
 つまり、こういうことではないだろうか。実軸ゼロ点は、プラス1(物質)と結びつくが、虚軸ゼロ点は、マイナス1(ダーク・マター)と結びつくということではないだろうか。
 そう、生成門氏が述べた反共振=共立、即ち、凸i*(-凹i)⇒-1 ではないだろうか。今はそう考えよう。

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