検討問題:ps理論と阿頼耶識:情報源は⇒-1なのか、虚軸のゼロ点なのか






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2009年09月19日(Sat)
検討問題:ps理論と阿頼耶識:情報源は⇒-1なのか、虚軸のゼロ点なのか
この問題はプラトン哲学の想起説の問題であり、あるいは、オカルト的問題である。つまり、記憶、それも、単に生涯の記憶ではなく、もっと根源的な記憶はどこに存するのか、ということである。
 わかりすく一例を出せば、遺伝子情報は、どこにあるのか、ということである。直感では、⇒-1が情報源ではないかと思ったのである。しかしながら、 Media Pointが「魂」と思われる。これが、いわば、不生不滅である。暫定的に、イデア魂と呼ぼう。プラトンの説く、「魂」に当たる。
 ⇒+1は「光」の意識であり、明晰な意識である。しかしながら、それに対して、「闇」の意識、不可知の意識があるのではないか。それが、⇒-1ではないのか。
 あるいは、+iと-iの共振領域に情報源があるのか。そうすると、Media Pointの虚軸のゼロ点にあることになる。
 これまでの考えに拠ると、⇒-1と虚軸のゼロ点は通じるものである。思うに、虚軸のゼロ点の記憶とは、森羅万象の記憶であり、⇒-1が個の記憶ではないだろうか。
 唯識の阿頼耶識とは、虚軸ゼロ点⇒-1に当たるのではないだろうか。
 どうも、虚軸ゼロ点は可能性であり、具体的な記憶は⇒-1に蓄積されるのではないだろうか。そうすると、情報源は⇒-1となる。つまり、阿頼耶識は⇒- 1となる。そうすると、それが実質的な根源である。また、それがイデア界かもしれない。つまり、虚軸は超越界であるが、イデア界はそれと通じているが、それとは別に、マイナスの実軸にあることになる。とまれ、後で精緻に考察を行いたい。


阿頼耶識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿頼耶識(あらやしき、Skt : ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教 の用語。

サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識 思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 ・末那識 ・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子 を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗 では、心は阿頼耶識までの八識 とする。天台宗 では阿摩羅識 を加えて九識 、真言宗 ではさらに乾栗陀耶識 を加えて十識 とする。
はたらき [編集 ]

ある人の阿頼耶識は、蔵している種子 から対象世界の諸現象<現行(げんぎょう)法>を生じる。またそうして生じた諸現象は、またその人の阿頼耶識に印象<熏習 (くんじゅう)>を与えて種子を形成し、刹那 に生滅しつつ持続(相続)する。

この識は個人存在の中心として多様な機能を具えているが、その機能に応じて他にもさまざまな名称で呼ばれる。諸法の種子を内蔵している点からは「一切種子識」(sarva-bījaka-vijñāna)、過去の業の果報<異熟(いじゅく)>として生じた点からは「異熟識」(vipāka-vijñāna)、他の諸識の生ずる基である点からは「根本識」(mūla-vijñāna)、身心の機官を維持する点からは「阿陀那識」(ādāna-vijñāna、「執持識」/「執我識」。天台宗 では末那識 の別名)と呼ばれる。
法相宗の説 [編集 ]

唯識法相宗は、万有は阿頼耶識より縁起したものであるとしている。それは主として迷いの世界についていうが、悟りの諸法も阿頼耶識によって成立すると説くので、後世、阿頼耶識の本質は、清らかな真識であるか、汚れた妄識であるかという論争が生じた。

* 阿頼耶とは、この翻に蔵となす。 唯識述記 2末

三種の境 [編集 ]

1. 種子 (しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
2. 六根 (ろっこん) 眼耳鼻舌身意の六根。俗に言う「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」とは、この眼耳鼻舌身意が清浄になるように唱える言葉。
3. 器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの3種を所縁 の境とする。
心 [編集 ]

心に積集、集起の2つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子 を集め、諸法を生起するので、心という。

* あるいは心と名づく。種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 唯識論 3
* 梵で質多という。これ心と名づくなり。即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。唯識述記 3末

阿頼耶識と文学 [編集 ]

三島由紀夫 の絶筆となる『豊饒の海 』(第三巻『暁の寺』)において主人公が一旦傾倒した思想であるが、その後インド のガンガー 川畔の巨大な火葬 の町ベナレス(ワーラーナシー )のガート での火葬風景を見て、途方もないニヒリズム に襲われる場面が描かれている。これは三島自身の実際のインド体験から発されたもので、その光景は「近代的自我」に執着し、その孤独に耐えることによってのみ数多くの作品を創出してきた三島にとってこの唯識思想を微塵もなく打ち砕く巨大で徒労な現前するニヒリズムの現実体験として映ったようである。

『暁の寺』には、ベナレスでの火葬の光景がありありと描かれている。

三島にとってこの「究極の光景」は彼が営々として築き上げてきた美学 をいともたやすく、一瞬にして微塵もなく破壊したのである。

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唯識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唯識(ゆいしき、skt :विज्ञप्तिमात्रता vijJapti=maatrataa)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教 の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教) の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論 とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである(後述)。

唯識思想は、一切を「識」のみとする思想なので、極端なニヒリズム やエゴイズム に陥る危険性があり、瑜伽行 や禅定 を通じて学ばないと危険であるとされる。
概要 [編集 ]

唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。
八識説の概念図の一例

* まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。
* その次に意識 、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて現行(げんぎょう)という。
* その下に末那識 (まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。
* さらにその下に阿頼耶識 (あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。

唯識は、4世紀インド に現れた瑜伽行唯識学派 (ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教 の一派によって唱えられた認識論 的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派 の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。

この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論 と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論 はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。

唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与え、最終的に識の奥底に仏性 の存在を見出す論者も現れた。(如来蔵思想 )
識の相互作用と悟り [編集 ]

唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である[1] 。
心の外に「もの」はない [編集 ]

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起 、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ、後述)が存在するからであると唯識では考える(これはユング の集合的無意識 に似ていなくもない)。
阿頼耶識と種子のはたらき [編集 ]

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子 (しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習 (くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識、一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「アラヤ」という音は「蔵」という意味のサンスクリット語 である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子)。

また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。
最終的には心にも実体はない [編集 ]

このような識の転変は無常 であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。

このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯心論 とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空 )であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯)。

単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗 )・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。
唯識思想の特色 [編集 ]

仏教の中心教義である無常 ・無我 を体得するために、インド古来の修行方法であるヨーガをより洗練した瑜伽行(瞑想)から得られた智を教義の面から支えた思想体系である。

1. 心の動きを分類して、八識を立てる。とりわけ、末那識と阿頼耶識は深層心理として無意識の分野に初めて注目した。
2. 自らと、自らが認知する外界のあり方を、三性 (さんしょう)説としてまとめ、修行段階によって世界に対する認知のありようが異なることを説明した。
3. ヨーガを実践することによって「唯識観」という具体的な観法を教理的に組織体系化した。
4. 『法華経 』などの説く一乗は方便であるとし、誰もが成仏するわけではないことを説いた。(五性各別)
5. 成仏までには三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)と呼ばれるとてつもない時間がかかるとした。
6. 『般若経 』の空 を受けつぎながら、まず識は仮に存在するという立場に立って、自己の心のあり方を瑜伽行 の実践を通して悟りに到達しようとする。

成立と発展 [編集 ]

唯識はインド で成立、体系化され、中央アジア を経て、中国 ・日本 と伝えられ、さらにはチベット にも伝播して、広く大乗仏教 の根幹をなす体系である。倶舎論 とともに仏教の基礎学として学ばれており、現代も依然研究は続けられている。
インドにおける成立と展開 [編集 ]

唯識は、初期大乗経典の『般若経 』の「一切皆空」と『華厳経 』十地品の「三界作唯心」の流れを汲んで、中期大乗仏教経典である『解深密経(げじんみつきょう)』『大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)』として確立した。そこには、瑜伽行(瞑想)を実践するグループの実践を通した長い思索と論究があったと考えられる。

論としては弥勒 (マイトレーヤ)を発祥として、無著 (アサンガ)と世親 (ヴァスバンドゥ)の兄弟によって大成された。無著は「摂大乗論(しょうだいじょうろん) 」を、世親は「唯識三十頌 (ゆいしきさんじゅうじゅ)」「唯識二十論 」等を著した。「唯識二十論」では「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方、言い表すことのできない実体があるとした。「唯識三十頌」では上述の八識説を唱え、部分的に深層心理学 的傾向や生物学的傾向を示した。弥勒に関しては、歴史上の実在人物であるという説と、未来仏としていまは兜率天 (とそつてん)にいる弥勒菩薩であるという説との二つがあり、決着してはいない。

世親のあとには十大弟子が出現したと伝えられる。5世紀はじめごろ建てられたナーランダ (naalanda)の大僧院において、唯識はさかんに研究された。6世紀の始めに、ナーランダ出身の徳慧 (グナマティ、guNamati)は西インドのヴァラビー(valabhii)に移り、その弟子安慧 (スティラマティ、sthiramati)は、世親の著書『唯識三十頌 』の註釈書をつくり、多くの弟子を教えた。この系統は「無相唯識派」(nirakaravadi=yogacaara)と呼ばれている[2] 。

この学派は、真諦 (パラマールタ、paramaartha)によって中国に伝えられ、摂論宗 として一時期、大いに研究された。

一方、5世紀はじめに活躍した陳那 (ディグナーガ、dignaaga)は、世親の著書『唯識二十論 』の理論をさらに発展させて、『観所縁論 』(aalambanapariikSa)をあらわして、その系統は「有相唯識派」(saakaaravijJaanavaadin)と呼ばれるが、無性 (アスヴァバーヴァ、asvabhaava)・護法 (ダルマパーラ、dharmapaala)に伝えられ、ナーランダ寺院において、さかんに学ばれ、研究された。
中国・日本への伝播 [編集 ]

中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵 は、このナーランダ寺において、護法の弟子戒賢 (シーラバドラ、ziilabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『成唯識論 (じょうゆいしきろん)』である。この書を中心にして、玄奘の弟子の慈恩大師基 (もしくは窺基=きき)によって法相宗 (ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて詳細な唯識の研究が始まった。その結果、真諦の起こした摂論宗は衰退することとなった。

その後、法相宗は道昭 ・智通 ・智鳳 ・玄ム などによって日本 に伝えられ、奈良時代 さかんに学ばれ南都六宗 のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺 ・法隆寺 ・薬師寺 、京都の清水寺 に受けつがれ、江戸時代 にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論 (くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代 の廃仏毀釈 により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺 の佐伯定胤 の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗 として、また清水寺 が北法相宗 として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺 と薬師寺 の二つとなっている。


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