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2008年08月17日(Sun)
考察課題:同一性と差異と極性、その他
1)同一性主義化した自己(自我)は、いつ差異に目覚めるのか、それとも、目覚めることは不可能なのか
2)二人の文豪の文体の、一種の直截的簡潔さとは何か:ジェイムズ・ジョイスとD. H. ロレンス:直截な文体と差異・特異性・不連続性:「モダニズム」期、20世紀初期、大戦間期における、差異・特異性・不連続性への還元的志向性:「モダニズム」、少なくとも、文学的「モダニズム」は、ポスト・モダン/トランス・モダン的であった。「モダニズム」の「モダン」は、モダン=近代というよりは、端的には、ポスト・モダンないしはトランス・モダンである。あるいは、プロト・モダンである。【ここで、ポスト・モダンとトランス・モダンの区別を明快にしておきたい。ポスト・モダンとは、簡単に言えば、同一性と差異との併存様態のことである。ドゥルーズは、構造主義的「差異」を説いたと言えるし、デリダは、「差異」の決定不能性を確認して、同一性主義的システムを脱構築したのである。結局、ポスト・モダンにおいて、同一性主義に対して、根底的疑問が提示されたのである(もっとも、ドゥルーズの「差異」は、構造主義的であるために、同一性と連続化しているのである。だから、同一性主義に対する批判の姿勢があるが、実際は、連続的差異=微分があり、それは、同一性への批判にはならず、返って、同一性を保証していると考えられるのである。ドゥルーズ哲学の構造主義性を確認できるのである。いわゆる、ポスト構造主義にはならないと思われるのである。それに対して、トランス・モダンとは、差異の不連続性、超越性を確認するものである。それは、同一性とは、Media Pointの即非様態において、関係すると見るのである。私見では、後期デリダは、トランス・モダンに近いと考えられる。】 P.S. 思うに、すぐれた芸術には、不連続な差異があり、また、それらの共鳴・共振性があるのではないだろうか。具体的に言えば、音楽で言えば、律動による差異があり、それらが、旋律によって共鳴するという様態ではないだろうか。バッハのフーガには感じられる。(最近、ブラームス音楽には対しては、その淀んだ情緒が不健全と思えるので、批判的であるが、それでは、交響曲第一番第一楽章やピアノ協奏曲第一番の冒頭には、今でも、惹きつけられるが、それは、そこに、差異共鳴様態があるからではないかと思う。)絵画では、セザンヌ、ピカソであろう。そう、この不連続化であるが、これが極端になると、エズラ・パウンドの長編詩『キャントーズ』のように断片の併存様態になるのではないだろうか。因みに、俳句は、このようなアートである。差異共鳴的アートである。また、連詩も端的にそうである。また、ブログの積極的な関係も、差異共鳴的である。日本の近代的作家で、差異共鳴性をもっているものは誰だろうか。宮沢賢治にはあると思う。私が知らないせいかもしれないが、意外に少ないが気がする。日本美術は伝統的に差異共鳴アートだと思う。まったくすばらしい。そう、ファッションも本来、差異共鳴アートであろう。垂直性と水平性の志向をもっている。しかしながら、日本近代文学には、差異共鳴文学が少ないと、思われるのは、心配である。私の無知に拠るのかもしれないが。 3)同一化するとはどういうことなのか:あるいは、同一性への強迫観念とは何か: ひとこと言えば、同一性形成は自然なものであり、その終端に同一性主義が生まれる。そして、そこに対して何らかの強迫観念が生じる場合がある。それは、自我強化が原因ではないだろうか。差異・他者を否定することで、同一性自我を強化する強迫観念とは、思うに、自己の差異・他者(感性知性)にコンプレックス(劣等感)を感じているからではないのか。(そう、思うに、男性は女性にコンプレックスを感じるので、同一性自我へと固執するのではないのか。) そう、内的なコンプレックスがあるために、それを抑圧して、同一性自我を強化する強迫観念が発生するのではないだろうか。つまり、強迫観念が生じる必要があるまでに、内的コンプレックスが強度をもつということだろう。 これは1)と関係する。内的コンプレックスを測深して、それと直面する必要がある。トラウマが見つかるだろう。同一性自我を強調する人間は、自己差異において、無能さ、劣等性、悲惨さ等の否定性を発見するのではないだろうか。しかしながら、その部分は、イデア界によって、照射されることが可能である。つまり、この世における生まれ変わりの可能性があると思われる。内面への回帰が必要である。自分の身体内の心・魂の声に耳を傾けること、内省・省察・瞑想が必要である。 言語的知的意識と感性的知的意識がある。つまり、言語知性と感性知性(直感知)の二つの知性がある。近代主義は、前者中心で、後者を否定している。感性は知性をもっているのである。両者の両極性知性教育が必要と考える。 4)日本の戦後教育批判:近代合理主義/近代的自我/唯物論教育批判:義務教育における哲学の欠落:知識教育の弊害:知性と感性の極性教育の必要:極性的自己認識の必要 5)(再掲)以下の、デリダの『コーラ---プラトンの場』(守中高明訳、未來社)の巻頭の引用にある「極性の論理」が鈴木大拙の即非の論理、乃至は、ウスペンスキーのターシャム・オルガヌムに相応するものと考えられる。今は細かい論述はしないが、一言いうと、デリダの緻密な批判知性を確認すれば、このことは検証されよう。 【「神話は、したがって、哲学者たちの無―矛盾の論理との対照において、曖昧なものの論理、両義的なものの、極性の論理と呼ばれ得る一つの論理形式を作動させる。ある項をその反対物のうちに、離れた他のさまざまな視点から両者を保持しつつ、逆転させてしまうこれらのシーソーの操作を、どうやって定式化すれば、さらにはどうやって形式化すればよかろう? 言語学者たち、論理学者たち、数学者たちのほうを向いて、自分に欠けている道具を彼らが提供してくれるように、結論として、この欠乏証明書を作成するのは、神話学者の責任であった。その道具とは、二項性の、然りか否かの論理ではないような論理を、すなわち、ロゴスの論理とは別の論理をそなえた構造的モデルである。」 ジャン=ピエール・ヴェルナン 「神話の理性」、『古代ギリシアにおける神話と社会』所収、一九七四年、二五〇頁】 6)理念界と第三の地平 シュタイナーの精神学では、霊=精神を超越性として捉える。 7)超越性と超越論性:フッサールの超越論性について フッサールの超越論的主観性の超越論性であるが、これを、PS理論は、超越性と捉え直したと言えよう。超越論性は、いわば、構造主義的であり、同一性主義的である。しかしながら、フッサールの超越論性を超越性(イデア)として捉え返すことで、フッサール現象学をイデア論へと発展させることができると考えられる。だから、PS理論はトランス現象学である。 しかし、どうしてフッサールの超越論性を超越性と捉えられるのか。それは歪曲ではないのか。確かに、表面的には、明確な誤読であるが、単にそうとは言えない。その理由は、志向性という概念が、超越論性には留まらない、理念の根本的性質をもっているからだと考えられる。つまり、フッサールは超越論的志向性を表層的には説いているが、志向性はさらに高次元の志向性を意味しうるのである。つまり、超越的志向性が考えられるのである。 有り体に言えば、以前に述べたが、フッサールは無意識的に、超越論的志向性に超越的志向性を含めていたということである。では、何故、無意識的にそれが可能になるのか、である。それは、エポケーを行い、外界との関係を切断したとき、純粋な内界が生起するが、この内界は実は、超越性が、いわば、潜在しているのである。思うに、フッサールの意識は超越論的であったが、フッサールの内界に潜在する超越性が、無意識的に、超越論性へと重なっていたと考えられるのである。純粋内界を開いたとき、超越論性は超越性を帯びうるのであり、フッサールの場合、正にそうなったと考えられるのである。 ということで、フッサールの超越論的主観性とは、超越的主観性を内包していたということになる。そして、ハイデガーの存在論は、このフッサールの超越論的主観性を看過していたと私は考えるのである。 7)谷崎潤一郎の「ハッサン・カンの妖術」等と東洋性: 後で引用。ところで、青空文庫には、谷崎の作品が皆無であるが、これは何故だろう。まだ、著作権が残っているのだろう。 8)イシスとオシリスの神話について:垂直性と水平性の混淆・連続・同一化の問題 |
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