Media Point/精神的フィルター/Vector Mode

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2012年05月06日(Sun)▲ページの先頭へ
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程


テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論


映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242890795.html


以上において、次のように述べた。


「少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。
 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。
 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きである。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成熟への動きである。
 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。」


映画Thriveのトーラスにおける、上部極から下部極へ移動し、言わば、外殻、外皮、外面形成する力動について、それは、超光エネルギーの衰退を意味すると述べたが、それはある意味では正しく、ある意味では間違いである。
 というのは、螺旋的、乃至は、黄金比(白銀比もおそらく入れられよう)的物質体(身体)形成は確かに、そこ(凸[+1])からは衰退するから、それは、それまでの超光エネルギーから見ると、超光エネルギーの衰退を見ることは可能である。
 しかしながら、視点を変えてみると、凸(+1)に到達した、超光エネルギー、乃至は、差異共振エネルギーは実は、螺旋的物質体(身体)形成過程(Aプロセス)から脱螺旋的物質体(身体)過程(Bプロセス)へと転換するのではないだろうか。
 つまり、Aプロセスは同一性物質化を伴っていた、Bプロセスにおいては、同一性的物質化が消滅して、純粋な差異共振化、超光化が発生するのではないだろうか。これを聖霊プロセスと呼んでもいいだろう。
 つまり、超光エネルギーは衰退するのではなく、ただ、変態したと考えられるのである。喩えれば、蛹から蝶へと変態するようなものである。そう、それをヒントにして言えば、プシュケー・プロセスとも言えよう。
 思うに、それは、超越軸、超越界、神霊界、霊界における差異共振による超光形成と重なるように思えるのである。だから、聖霊プロセスなのでもあるが。
 結局、Bプロセスは物質体・身体形成としては衰退過程であるが、精神形成としては成熟過程である。
 さて、問題は、Bプロセスがどうして、凸(+1)からリンゴや梨のような外殻、外皮、外面である湾曲した球面を辿り、凹(−1)へと進行するのかである。その力学はどういうものか。
 これは単純に、磁界を考えればいいのではないだろうか。即ち、凸(+1)をN極とし、凹(−1)をS極とするのである。磁力がN極からS極へと作用するのであり、それとほぼ同様なことが、Bプロセスに起きている考えればいいのではないだろうか。
 つまり、下部極から上部極の螺旋的物質体化過程(Aプロセス)の方向、即ち、凹(−1)から凸(+1)への実軸x軸の左方から右方への方向を、純粋超光は取ることがもはやできないのであり、つまり、言わば、内的な方向を取ることはできないのであり、そのため、外的な方向を取ることになると考えられるのである。
 しかしながら、内的方向とは実は、外的物質体化の過程であり、外的方向とは内的精神化の過程であるというパラドクシカルな意味合いをもっているのである。
 しかし、外的方向=内的精神化の過程=Bプロセスは、凹(−1)という物質が終点であり、それは、死を意味すると言えよう。だから、その意味では、衰退消滅の過程なのである。純粋超光、純粋差異共振はそこで終了するのである。
 とは言え、それは、新生の過程に入ることである。新たな螺旋的物質体(身体)の過程に入ることになるからである。輪廻転生である。即ち、 凹(−1)の物質において、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神を宿していた物質体・身体は消滅すると考えられるが、そのとき、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神は完全に脱物質化するのであり、それは、超越軸=超越界=神霊界=霊界に帰還すると考えられるのである。
 そう、凸(+1)において、脱物質化すると言ったが、それは完全な脱物質化ではなく、脱物質化のプロセスの開始を意味するのであり、完全な脱物質化は、凹(−1)の物質において、為されると考えられるのである。説明すると、凹(−1)の物質とは無機的な物質、いわば、鉱物のようなものであり、生命的有機体はそこには存しないと考えられるのである。
 今はここで留める。


torus.jpg


(THRIVE Japanese) スライブ―いったい何が必要になるのか - YouTube
► 132:03► 132:03

www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI2012年4月5日 - 132分 - アップロード元: ThriveMovement
http://www.thrivemovement.com/ 詳細は http://www.thrivemovement.com/ まで 『 力強い成長』のDVDご購入を http://www ...
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI




物質的外装する超光エネルギー


テーマ:manichaeism: 哲学


「凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。
 ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。」
現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242135164.html

上記のように先に述べたが、「物質を巻き込む」という表現であるが、「物質を外装化する」内的超光エネルギーと表現する方がより適切であろう。言い換える と、精神が物質を螺旋的に、乃至は、黄金比的に外装化するのである。それは広義の生命体である。つまり、例えば、銀河系宇宙も一種の生命体と考えるのであ る。




映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き


テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論


• Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー)
• 現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
• 映画THRIVEのトーラスとPS理論
映画ThriveのトーラスとPS理論の比較論は以上において考察したが、まだ、トーラスのいわば外皮における動きについては述べていなかった。今は余裕がないので、簡単に予見を言うだけだが、少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。
 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。
 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きであ る。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成 熟への動きである。
 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。
 後で、精緻に検討したい。


2012年05月05日(Sat)▲ページの先頭へ
Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー)
テーマ:energy


絶対零度において存するエネルギーのことであるが、これをPS理論から見るとどうなるだろうか。今は予見のみである。
 PS理論(三次元化されたPS理論、正確には四次元ないし五次元化されたPS理論)に拠ると、超越軸・超越界凹j*凸jが根源に存するのである。それは完全に物質や物質現象(生命を含めて)を超越した世界である。そう、神霊界、霊界である。
 凹j*凸j(母神*父神)はmedia pointを介して、宇宙・自然を創造するのである。この最初期のmedia pointは、物質のないゼロ点、ゼロ・ポイントと考えられるだろう。確かに、そこから宇宙創造が為されるのであるから、おそらく、無限の原エネルギー、超エネルギーが存すると考えられる。もっとも、最初は潜在的に存していたのであるから、ポテンシャル・原エネルギー(超エネルギー)である。
 それが、同一性化(物質化)を牽引する差異共振化(超光・霊光化)を発動させることで、超光エネルギーが発生し、宇宙・自然創造が為されると考えられるのである。
 そう、PS理論から言えば、premier media point energyがzero-point energyの正体となるだろう。
 日本神話では、それは天之御中主神であろう。


ゼロ点エネルギー
零点エネルギー検証:プランク式と単振動式の比較 に移動‎: プランクはまた、定性的に零点エネルギーhν/2を導入した。これは以下に示す単振動のエネルギーの式のn=0の場合に相当するエネルギーである。 1. En =(n+―――)hν0 2 プランクが ...
http://www.h5.dion.ne.jp/~antibody/zero%20point.htm

ゼロ・ポイント・フィールド - Skeptic's Wiki
ゼロ点エネルギー(ZPE). 「零点エネルギー」という言葉はごく普通に量子力学の教科書に登場する。電子などの素粒子の位置は不確定であり、「波動関数」を用いて確率論的にしか表せない。このことを古典論的に解釈すると、素粒子は静止することはなく、 ...
http://skepticswiki-jp.org/wiki.cgi?page=%A5%BC%A5%ED%A1%A6%A5%DD%A5%A4%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%EB%A5%C9


真空からエネルギーを取り出せ | 日経サイエンス
正確にどれほどの量の零点エネルギー(ゼロ点エネルギー)が真空に存在しているかは不明だ。宇宙論研究者の中には,宇宙の始まりの時点では,どこもかしこもブラックホールの内部のようなありさまで,真空エネルギーが高く,それがビッグバンを誘発したと ...
www.nikkei-science.com/page/magazine/9803/zero.html


零点振動
零点振動 ・・・ 調和振動子モデルによる 1. 1次元調和 ... この第2項の係数が q → ±∞ で発散するから q = ±∞ がこの微分方程式の特異点である。 ... これを、零点振動(れいてんしんどう、Zero-point motion)といい、そのエネルギー を零点エネルギーという。
www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000utyuusouzou103.htm


声明:大衆レベルからフリー・エネルギー革命を開始しよう - nifty
この「フリー・エネルギーと代替エネルギー特集:パート?」は、私たち自身および私たちの愛しい惑星の存続にとって、私たちがこれまで .... しかし、零点エネルギーは、エネルギーが真空―――すなわちゼロ・ポイント―――内に含まれているという科学的理論に ...
http://homepage2.nifty.com/silverring/maatdrunvalofeb2editor.htm


Zero-point energy - Wikipedia, the free encyclopedia
Zero-point energy is the lowest possible energy that a quantum mechanical physical system may have; it is the energy of its ground state. All quantum mechanical systems undergo fluctuations even in their ground state and have an associated ...
http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy


Zero Point Energy
Zero point energy (ZPE), some times described as:"Zero Point Vacuum Fluctuation" or the "quantum vacuum" is understood by researchers to be a permanent, inexhaustible energetic medium pervading through space time. The energy density ...
http://www.panacea-bocaf.org/zeropointenergy.htm


Zero-Point Energy
5 Feb 2009 – Quantum theory predicts, and experiments verify, that so-called empty space (the vacuum) contains an enormous residual background energy known as zero-point energy or ZPE. This energy derives its name from the fact that ...
www.halexandria.org/dward154.htm


Tesla The Race to Zero Point Free Energy - YouTube
► 109:39
From Google Videos. Lightworks Video&Audio Hosted by Bill Jenkins, formerly of ABC Radio, this ...
http://www.youtube.com/watch?v=aKWPht3fU-o


Free Energy - Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum
► 70:32
This is Tom Valone's amazing video lecture Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum (2004 ...
http://video.google.com/videoplay?docid=-5738531568036565057


現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
映画THRIVEのトーラスとPS理論
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html

A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。
 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。
 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。
 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。

****************************

先に上記のように、A案が理論的にはいいと述べたが、この点についてさらに考察してみよう。
 問題は超光(霊光)のベクトルによって、物質的宇宙・自然世界、つまり、現象界が形成されると考えるが、その力学はいかなるものなのかということである。
 凸iを現象太陽、凹iをdark sunとしたが、それを形成する力学が問題である。だから、超越軸(超越界)、凸j*凹jから始めないといけないことになる。

凹j*凸j⇒凹i+凸(+1)  ・・・・・  A

A式が超光創造根源式と作業仮設する。
 凹jはいわば太母・母神であり、凸jは太父・父神である。
 とまれ、media pointにおいて、超光(霊光)凸(+1)が発出される。
 そう、これは、dark sunである凹iが創る超光である。ここでは、まだ、物質宇宙、現象宇宙は存在していないことになる。
 物質宇宙・現象宇宙が生まれるには、

凸j*凹j⇒凸i+凹(−1)  ・・・・・  B

B式が必要である。現象光の凸iが生まれ、また、物質凹(−1)が発生している。しかし、B式だけでは、光と物質だけであり、まだ、生命や螺旋形態はない。
 AとBが連携して、宇宙・自然世界が創造されると言えよう。即ち、凹iに凸iが共振し、また、凸と凹が牽引するのではないだろうか。
 凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。

(ここに映画Thriveのトーラス像が入る。以下参照。)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1817.html

 ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。
 この螺旋原理であるが、これも仮説となるが、凸i*凹iは回転、円運動すると考えるのである。それも、ガウス平面とは垂直方向に回転すると仮定するのである。
 分かりやすくするために、半径iの円盤を垂直にして、ガウス平面の虚軸y軸に置くのである。その回転する円盤の円弧に凸i*凹iは位置することになる。
 そして、超光(霊光)による直進(ベクトル)は、時間を伴うので(凹iを時間とも考えている)、円弧の運動は螺旋を描くことになるのである。
 これで、螺旋的物質体(宇宙・自然現象)の形成原理の説明がなんらかできた。
 また、螺旋形態的物質現象の中でも、黄金比をもつものが大半ということになるのだろう。だから、差異共振の比率(ratio)として、黄金比Φが代表的になるだろう。
 ところで、映画Thriveの渦巻星雲のトーラスであるが、中心を貫く下から上への流れにおいて、中間部の平面に、渦巻星雲が形成されているのである。
 これをどう説明するのかである。超光(霊光)のよる螺旋は説明できたが、渦巻については説明していないのである。
 上記の説明からでは、この渦巻、ないしは、渦巻星雲は、虚軸の円盤に相当するものである。
 これを原螺旋円盤と名づけたい。超光(霊光)による螺旋的物質化様式において、変数があると考えられる。ある数値においては、このように原螺旋円盤を形成し、あるときは、朝顔のように螺旋形態を展開すると仮説したい。
 以上で、本件の思考実験的考察を終える。

追記:現象三次元化と言ったが、時間も含まれるので、現象時空四次元化というのが正確ではある。

追記2:上のトーラス像の下方からも螺旋が生まれているようである。これをまだ説明していない。問題は物質形成において、⇒凹(−1)になり、ベクトルは左向きになるのであり、トーラス像にあてはめれば、中心から下方に向うのであり、下方から上方へではないのである。
 これは大きな齟齬である。今、作業仮説的に言うと、物質形成同一性力学よりも、超光形成差異共振力学の方が、はるかに強いということがあるのではないだろうか。これは、現代宇宙科学において、物質や光のエネルギーよりもダーク・マターやダーク・エネルギーがはるかに多い(両者併せて、宇宙全体の物質エネルギーの96%を占める)と考えられていることで裏付けられるのではないだろうか。
 つまり、差異共振の超光ベクトル⇒凸は物質ベクトル⇒凹よりも強力であるので、後者を前者の方向に牽引してしまうということではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
対数螺旋 - Wikipedia
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対数螺旋(たいすうらせん、logarithmic spiral)とは、自然界によく見られる螺旋の一種である。等角螺旋(とうかくらせん、equiangular spiral)、ベルヌーイの螺旋ともいい、「螺旋」の部分は螺線、渦巻線(うずまきせん)、匝線(そうせん)などとも書く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%95%B0%E8%9E%BA%E6%97%8B

映画Thrive(日本語版)
http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI&feature=player_embedded 


映画THRIVEのトーラスとPS理論
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html


森羅万象、トーラスの形態(とベクトル平衡体:追記)が原形であると映画thriveでは主張されている。トーラスの問題点をPS理論から言うと、認識性がそこには反映されていないことだと思う。つまり、人間の自己認識性が見られないことである。
 とまれ、実に興味深いので、PS理論と結びつけてみたい。
 
A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。
 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。
 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。
 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。

B案:以上の視点とは異なり、次のように考えるのも、可能性があるだろう。即ち、トーラスの垂直軸をガウス平面に直交する超越軸z軸を仮定する。だから、トーラスの下部極は、凹jであり、上部極は凸jとなる。そして、それが、ガウス平面上に渦巻星雲をもたらすと考えるのである。

C案:また、他の可能性としては、この二つの可能性を合わせたものもありえよう。

D案:四つ目の可能性としては、トーラスの垂直軸を虚軸y軸と見るものである。上部極が凸iであり、下部極が凹iである。そして、下部極から上部極への「流動」はベクトルである。そして、media pointで、実軸x軸へと展開するが、それは回転して、渦巻、螺旋を形成するのではないのか。

 以上、思いつきであるが少なくとも四つの可能性を想定したが、現段階では、A案かD案がより可能性がありそうである。しかし、理論的にはA案がいいが、直観では、D案がいいのである。肚凹iから頭凸iへと氣が流れ上がるが、上がった「氣」を呼吸を介して、下部へ下降させることを私はしているのであるからである。下部⇒上部⇒下部である。

Film review: Why 'Thrive' is best avoided » Transition Culture

resurrectionのブログ

http://transitionculture.org/2012/01/09/film-review-why-thrive-is-best-avoided/
Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感|卵の中の ...
haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-1235.html - キャッシュ

Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感. 2012-02-21. 話題になっている『THRIVE』の日本語版をyoutubeで見た。 最初にトーラスが出てきたので、これは最後まで見ねば・・・と思った。 トーラスとは、↓こういう形の内側と外側がつながった ...


2012年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
差異共振の比率が黄金比ではないのか:精神の物質に対する比:原形としてのペンタクル
「闇」が「光」と共振するとき、「光」による物質を巻き込むが、その物質形態の比率が黄金比になるのではないだろうか。
 言い換えると、超光(霊光)が「光」の物質体を組織・秩序(コスモス)化するとき、発生するのが黄金比ではないのか。簡単に言えば、精神の物質に対する比率が黄金比ではないのか。そして、ピュタゴラス派がペンタクル(五芒星形)を最重要視したのは、黄金比を形成する象徴的な、典型的な図形だからと考えられる。
 そう、ペンタクルは、形態的には、精神の物質に対する、言うならば、プロト・パターン、原形、そう、根源的フラクタルと考えられるだろう。
 後で更に検討したい。

黄金比
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html

縦と横の比率が最も均斉のとれた長方形を想像してみて下さい。それは人によって様々かもしれませんが,黄金比と呼ばれる比が最も美しいと言われています。ところで,どうしてその比率がバランスよく見えるのでしょうか。もしかしたら,その中に何か神秘的な ...


現象太陽とdark sunの交差するmedia point:超越軸と虚軸と実軸の交差するMP
先に、凸iを現象太陽、凹iをdark sunとし、両者の共振から超光(霊光)が生まれると作業仮説した。
 そうすると、現象太陽とdark sunの発生が問題となる。しかしながら、既に、超越軸(ガウス平面に直交する軸)を想定している。それが、凸iと凹iを発生させると作業仮説したのである。
(思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point (04/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1810.html)
即ち、超越軸に凸jと凹jを置き、

凸j*凹j⇒凹i+凸(+1)  ・・・・・T

凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1) ・・・・・U

という方程式を作業仮説したのである。
 だから、現象太陽凸iはU式から、生まれるのであり、dark sunは、T式から生まれるのである。即ち、超越的極性において、同一性力学から現象太陽凸iが、差異共振力学からdark sun凹iが誕生すると考えられるのである。
 以上のように仮説すると、media pointは超越軸とy軸(虚軸)とx軸(実軸)との三者交差が重要になる。
 とまれ、現象太陽とdark sunの交差におけるmedia pointを考えると、やはり、当然、同一性力学と差異共振力学があり、いわば、現象太陽とdark sunが「渦巻いている」と思われる。これは、比喩である。
 具体的に考えると、例えば、渦巻き星雲であるが、それは、dark sun主導の差異共振力学の螺旋的運動によって、現象太陽が巻き込まれて取る形態・形象ではないのか。(複数の現象太陽、複数のdark sunを一応想定する。しかし、dark sunは一つかもしれないが。)
そう、それは、弦巻植物の螺旋とフラクタルな関係が考えられる。
 差異共振力学とはdark energyに拠ると考えられるので、渦巻き星雲は超越的にdark energyを内在していると考えられる。
 これは、直観では、Vector Modeに関係すると思われるのである。
つまり、物質的平面に現象太陽の渦巻き(渦巻星雲)を現象化させるのであるが、精神的超越的内面において、dark sun主導の差異共振のdark energyが(直線的に)力動していると考えられるのである。つまり、現象太陽凸iとdark sun凹iの差異共振によるdark energyが超光を形成しているのである。そう、超光はdark lightと言ってもいいだろう。
 とまれ、現代物質宇宙科学は、dark sunを導入することで、進化するだろう。現象光だけでなく、不可視の闇の存在を肯定することで、進化するのである。そう、唯物論的科学は、精神的物質科学となるだろう。

追記:先にdark matterは存しないのではないのかと述べたが、dark sunを考えると存するのではないのか。つまり、現象太陽凸iは物質体をもっているのであるから、dark sunもそれに応ずる「体」をもっていると思われる。それが、dark matterではないのか。
 それとも、凸(+1)の超光をdark matterと見るのか。後で更に検討したい。

追記2:現象太陽凸iが電磁波ならば、dark sun凹iは対応するに何であろうか。重力波であろうか。もしそう仮説するならば、ブラック・ホールは、ここに位置するのかもしれない。とまれ、思考実験である。

参照:
■ フリーエネルギーに挑戦する現代の平賀源内たち:エマモーターの衝撃 ( 2012-05-02 15:20:18 )
http://quasimoto.exblog.jp/17902189/

Kazumoto Iguchi's blog


2012年03月23日(Fri)▲ページの先頭へ
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
テーマ:manichaeism: 哲学
media pointにおける光のモードについて閃いたので、簡単に記す。
 以下の三日月の映像が役立つ。月の光った部分に接している暗い線が、凸iの同一性反射に相当するだろう。
 そして、明るい部分が凹i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。
 しかしながら、現象界、物質界においては、この明るい部分は不可視になっている。D. H. ロレンス的に言えば、dark, unseenなのである。
 そして、暗黒部分を一般には視覚しているのである。つまり、思うに、三日月を容器として考え、弧を底とすると、光の容器が闇を包容している(光が闇を包 んでいる)のが、真実の世界と考えられる。つまり、現象界、物質界とは闇なのである。闇を光と見ているのが、一般の人間である。
 もう少し丁寧に言うと、現実に見る光、現象光は、闇なのである。そして、真の光は不可視、dark, unseenなのである。(これが、ロレンスのdark sun, dark rayと考えられる。)
 プラトンの洞窟の比喩における太陽は、現象界の太陽ではなく、精神界の太陽と見るべきである。
 そう、ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べたが、それは正鵠を射ているのである。本当の光の背中の闇を見ているに過ぎないのである。
 この闇である現象光は物質的光と言えよう。しかしながら、先に述べたように、真の光が闇である現象界に漏れ出る、沁み出ることがあるだろう。
 現象の太陽から沁み出る真の太陽、精神の太陽が「見られる」ときがあるだろう。
 真の太陽が正面を向ける時である。それはいつなのだろうか。
 そう、簡単に言えば、差異共振精神という内的精神的光をもつべきである。その光によって、現象の太陽において、真の太陽、精神の太陽を見ることができよう。
 そう、凸iが凹iに設ける同一性面、同一性鏡を突き抜けて、凹iの領域に測深すべきである。
 それは、東洋的瞑想等に関係しよう。また、ロレンスの『無意識の幻想曲』に。
 media pointの同一性面、三日月で言えば、明るい部分に接する暗い弧を突き抜けて、明の部分に達することである。
 しかしながら、大事なのは、凸iの純粋悟性、純粋自我を伴うことである。それによって、凹iと凸iが差異共振して、真の内的光、超越光を生むのである。
 今は簡単な指摘に留める。
 
追記:真の太陽が沁み出ると言ったが、思うに、三日月の二つの尖端から漏れ出るようにも思える。二つの両端とは何か。夜明けと日没時だろうか。もしそうなら、どうしてなのか。
 思うに、夜の闇は凸(+1)の真の太陽を内在しているのではないだろうか。そして、夜明けのとき、光が到来するが、実は現象光と真の光が接するときではないのか。
 日没の時は、逆に、闇が到来するが、その闇の中の真の光が現象光に接するのではないだろうか。
 今はここで留める。






画像は三日月 - Wikipedia から




ファシモティズム:現代のファシズム・全体主義
テーマ:日本亡国の凶相
こういう踏み絵みたいな善悪二元論の発想がファシズムの根源である。そして、愚民は没思考的なので、それに追従するのである。
 共産主義や全体主義は母権的民族の反動と考えられる。新父権主義が母権的民族には必要である。
橋下市長、入れ墨・地下鉄喫煙で全庁調査指示
読売新聞 3月21日(水)23時3分配信
 大阪市の児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になるなど、市職員に不祥事が相次いでいることを受け、市の服務規律刷新プロジェクトチーム(委員長=橋下徹市長)が21日、発足した。

 初会合では、入れ墨の有無などについて全庁調査を行うことを決めた。

 チームは、職員が覚醒剤の使用容疑で逮捕された水道局や、全面禁煙の地下鉄駅構内での喫煙が明らかになった交通局などの幹部らで構成。橋下市長は「公務 員の職場で入れ墨が合うか、誰が考えてもわかる。ダメなものはダメという雰囲気が欠けている」と指摘し、「僕はやるといったらとことんまでやる」と、不祥 事根絶に意欲を示した。

 チームは入れ墨以外にも、勤務時間中の喫煙やマイカー通勤など禁止事項に関する実態を調査。このほか、弁護士ら第三者委員が不祥事の実態解明に当たる調査チームも新設する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120321-00001218-yom-pol




光とは何か:二つの光:同一性(物質)の光と差異共振光

テーマ:manichaeism: 哲学
思うに、光は同一性光と差異共振光に分離するのではないだろうか。当然、media pointにおいて、分離するのであるが、media pointでの両者の関係が微妙である。
 今は精緻に論じられないので、思いつきに留まるが、凸iの主導性に対して、当然、凹iは一種反発をすると思われるのである。
 つまり、凸iの支配は凹iを同一性化する。これは、凸iは凹iに自己反射するのであり、この自己反射の光が同一性光(物質光)のように思えるのである。言い換えると、凸iの反射光が同一性光(物質光)であり、可視の光である。
 それに対して、凸iの支配に反発する凹iは独自に、凸iを包含、内包して、差異共振光を形成するように思われるのである。
 両者はまったく共約(通約)不可能であると考えられる。不連続である。
 D. H. ロレンスがdark sunないしはdark rayと呼んだものは後者であり、前者の視点から後者はまったく感知できないと考えられる。(media pointの二元性と言えよう。あるいは、media pointの絶対的間隙性である。)
 神話学的に見ると、父権的太陽は前者であり、母権的太陽は後者であると思われる。
 しかしながら、凹iは凸iを取込むのであるから、実は、凸iは凹iと共振しているのである。
 つまり、凸iの主導性(父権)は、絶対的ではなく、凹iの差異共振の影響を被っていると考えられるのである。(凸iを「父」とすれば、凹iが「子」であ り、差異共振は「聖霊」であろう。kaisetsu氏的にいうと、このとき、ガウス平面に直交するz軸が形成される。超越軸、聖霊軸である。)
 先に絶対的間隙性と言ったが、実はそうではなく、接触面があると言えよう。
 凸iの主導性によって、media pointに同一性面ができるだろう。しかし、この同一性面の、いわば、裏面は差異共振面である。同一性と差異共振が接触しているのである。
 とまれ、この接触面が重要である。ここで、同一性と差異共振が交差するのである。(だから、交差面とも言えよう。)
 これは、思うに、揺動面とも言えよう。常に、揺らいでいるのではないだろうか。
 また、浸透面とも言えるだろう。
 とまれ、この接続面をどう捉えるかが重要である。それを同一性中心にすると、精神的病気になると考えられる。また、差異共振を中心にすると、神秘主義になるように思われるのである。
 現実的には、同一性(物質)と差異共振(精神)のバランスが必要である。
 このバランスは両者を不連続化したときもたらされるのではないだろうか。もっとも、絶対的不連続化ではないが。
 今はここで留める。
 
追記:以前、私はしきりに超越光が現象光において可視であると述べた。思うに、現象光はやはり、同一性(物質)の光であり、超越光は差異共振(精神)の光と見るべきであろう。
 現象光において超越光が見えるというのは、上述したmedia pointにおける接触面において、現象光と超越光がいわば、融合しているということだと考えられる。
 そう、正確に言うと、超越光は氣の光でもあり、精神の光でもある。氣と精神の光である。
 精神の光、真の超越光は、シュタイナー的に言えば、アフラ・マズダ=キリストになるだろう。日本神話で言えば、天照大御神である。

追記2:media pointは上記の分離と融合(一種の即非性)を考えると、いわば、メビウスの輪のような構造ではないだろうか。(もっとも、メビウスの輪はいわば比喩であるが。)
 だから、∞の記号をmedia pointに使用してもいいかもしれない。即ち、凸i∞凹i⇒凸(+1)+凹(−1)=ゼロとなるのだろうか。それとも凸i∞凹i⇒凸(+1)*凹(−1)=凹(−1)となるのだろうか。
 後者の場合、凹(−1)=e^iπではないだろうか。
 今はここで留める。
 

参照:
天照大神 - Wikipedia


参照2:
メビウスの帯 - Wikipedia





父権と母権について再考
テーマ:新母権的社会:差異共振共同体
私は一神教は母権から生まれると考え、母権的一神教という用語を提起した。
 どうもまだ、不分明である。連続的同一性を形成するのは、最初、父権であると述べたが、先に母権であると判断したのである。
 同一性を形成するのは、基本は父権である。凸iの主導性であろう。
 しかし、凸i主導は凹凹iを生む。つまり、内的他者である凹iを否定するのである。この他者否定が否定的感情を生むのであり、それが、同一性の感情的基盤になるように思える。
 つまり、同一性主義である。だから、母権からではないのである。結局、最初の考察に戻ることになる。即ち、同一性主義を形成するのは父権主義であるということである。
 では、ヤハウェ的一神教はどう説明できるのだろうか。やはり、父権的同一性主義でいいのではないだろうか。
 後でより厳密に検討したい。





差異共振精神の形成の様態
テーマ:media point
どうして、人間によって、道徳・倫理の有無が生じるのか。
 差異共振精神は真善美をもたらすものであるが、精神的感情は、スピノザが説いたように、歓喜になると思われる。
 例えば、モーツァルトの音楽を聴いたとき、この歓喜の情が生起する。
 だから、差異共振精神形成のためには、すぐれた芸術体験が必要であり、また、自然体験も必要である。また、知性を確立させないと、感情中心になり、ロマン主義的になる。(もっとも、ロマン主義が悪いというのではなく、感情中心主義になることを問題視しているのである。)
 悪的傾向をもつ人間は、この差異共振精神形成が為されなかったと考えられる。歓喜の精神が欠落しているのである。
 思うに、今日、うつ病やその他の心の病等は、この問題に関係していよう。差異共振精神の欠落があると考えられるのである。
 今はざっと指摘するに留める。
 
追記:差異共振精神とは光の精神である。即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)

である。右辺が光(光子)である。左辺の双極子から差異共振によって、右辺の歓喜である光が誕生するのである。
 それに対して、差異共振のない、連続的同一性の自我は、闇、無明である。

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

である。内的他者凹iを否定して、闇である自我凹(−1)が生まれるのである。
 ここで、純粋自我凸iと連続的自我凹(−1)を峻別する必要がある。前者はきわめて重要なものである。純粋悟性を内在していると考えられる。
 では、差異共振によって誕生した光は、何であるのか。現象光なのかマニ教の光なのか。
 直観では同じである。現象の光とは本来、精神の光であるが、それを連続的自我凹(−1)は物質的、同一性的に視ているのである。
 そう、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺は物質的光とも言えるように思える。凸(+1)が精神的光であるのと対照的に。
 E=mc^2とは、思うに、物質的光の公式ではないだろうか。差異共振エネルギー(差異共振光)は、E = hνの方に近いのではないだろうか。
 即ち、E=h(凸i*凹i)である。
 とまれ、二つの光がある。闇(物質、同一性)である光(凹、−1)と純粋な(精神、差異である)光(凸、+1)である。
 尚、本追記は、思考実験である。

追記2:キリストが言った二種類の人間は以上の区別で説明できよう。この世の人間は凹(−1)の人間であり、地の塩である人間は凸(+1)の人間である。闇の人間と光の人間である。前者は後者が見えないのである。





純粋悟性問題
テーマ:manichaeism: 哲学
純粋悟性は既述したように、凸iでいいと思う。これは純粋自我でもある。
 これは、内的他者凹iに対しては同一性的に作用するので、凸i*凹凹i⇒凹(−1)となると考えられる。
 これが人間の自然的一般的精神様態と言えよう。つまり、純粋悟性的精神様態である。
 ここでは、自我が他者を同一性的に支配するのであり、自我は他者、自己を認識していない。無明である。
 もっとも、これは、連続的同一性においてである。母権的自我においてである。
 真の父権的自我は、凸iと凹iを自然的に分離するのである。換言すると、真の純粋悟性、純粋自我は、凹iと不連続的であり、他者・差異である凹iをなんらか認識しているのである。
 思うに、カント哲学の物自体とは、先に述べたとこととは異なり、凹iでないかと思う。カントは凹iを感じていたが、合理的には説明できなかったと思える。
 途中。





光と物質:再考
テーマ:manichaeism: 哲学
先に、光と物質は凸(+1)ということにしたが、どうも違うと思う。
 凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺を光(光子)とすれば、物質は正反対、即ち、凸i*凹凹i⇒凹(−1)と考えた方がいいように思う。
 即ち、光を自我的同一性によって捉えたものが物質ではないだろうか。
 言い換えると、光とは差異共振エネルギーをもつ現象であるが、物質とは、それを自我的同一性的に見たものである。
 だから、果たして、自然界に物質があるのかどうか問題視されよう。物質は仮象のように思える。もっとも、物質とは、差異共振エネルギーの同一性的仮構のように思える。
 言い換えると、差異共振エネルギーの同一性的切り口に過ぎないように思える。本体は差異共振エネルギーである。
 そうすると、オイラーの公式を組み込んだガウス平面の単位円において、右半円(虚軸を含めて)は光の世界、本体の世界であり、左半円(虚軸を含めない)は闇の世界、仮現の世界と思われる。
 つまり、現象的には、光と闇は真逆になっていると考えられる。D. H. ロレンスのdark sunは実は凸(+1)であり、現象世界(物質世界)は凹(−1)と思われるのである。
 今はここで留める。





消費税増税とは何ぞ哉?:権力と愚民:新父権主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学
消費税増税政策はオウンゴール策である。これは、単純にわかることである。
 金持ちは貧乏人から金を取りたいのである。そう、民主主義は建前に過ぎない。ブルジョワとプロレタリアがいるに過ぎない。
 前者は金・資本一神教だと思う。これは、母権主義であり、真の父権主義が欠落していると考えられる。
 真の父権主義とは何か。つまり、一神教が母権主義の裏返しと考えられるので、それは逆さまの母権主義であり、真正な父権主義ではないのである。
 思うに、古い母権主義がもっていた原初差異共振主義に、父権主義の原型が存するのではないだろうか。
 私が想起するのは、大国主命である。これが、私にとって、父権主義の原型である。
 するとどういうことになるのだろうか。
 これまで述べたように、母権主義は二重である。即ち、原初差異共振主義と連続的同一性(母権主義的同一性)があるのである。そして、一神教は後者が極まったものと考えられる。つまり、一神教は前者を排除していると考えられる。
 前者はいわゆる多神教的要素ではないだろうか。これを排除したのが、母権主義である一神教ではないだろうか。
 そう、多神教的要素とは端的に原初差異共振主義と言えよう。
 結局、母権主義とは二重であり、原初父権主義と連続的同一性主義があるのである。だから、母権主義という言い方は問題があるが、今はこのままで留めておく。
 とまれ、今日の問題、「トランス・モダン」とは、母権主義の原初父権主義を今日的に復活することを意味しよう。
 それは新父権主義である。
<民主党>消費増税法案了承は19日以降
毎日新聞 3月16日(金)22時3分配信

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民主党厚生労動・財務金融・総務部門・社会保障調査会・税務調査会合同会議冒頭にあいさつする前原誠司政調会長=東京都千代田区の衆院第2議員会館で2012年3月16日、藤井太郎撮影
 民主党の前原誠司政調会長は16日夜、国会内で開かれた党税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議で、消費増税法案を党として了承する 手続きを週明けの19日以降に先送りする考えを示した。民主党執行部は16日の了承を目指す方針を示していたが、野田佳彦首相の明言している月内の閣議決 定・法案提出には日程にまだ余裕があり、小沢一郎元代表のグループを中心とする反対派との決定的な対立を避けるため議論に時間をかけることにした。

 会議は午後6時過ぎに始まり、前原氏は「政治家同士で議論しながら、よりいい法案にまとめる努力をしたい」とあいさつ。民主党執行部は16年度にさらなる増税へ向けた法整備を図る「追加増税条項」の修正によって反対派に配慮する方針で会議に臨んだ。

 しかし、反対派は景気悪化時に増税を停止する「弾力条項」に「名目成長率3%」などの数値目標を設定することも強く要求。これには安住淳財務相が16日 の記者会見で「具体的な数字で規定するのは難しい。さまざまな要因を勘案して政治が判断するのが基本だ」と拒否を明言しており、同日中の決着は難しい情勢 となっていた。

 会議は具体的な修正論議に入れないまま2時間近くが経過。野田グループの近藤洋介衆院議員が「きょう決めるべきだ」と発言したのに対し前原氏は「きょうは決めない。中小企業対策など論点を全部出すためにとことん議論してもらいたい」と先送りを明言した。

 もともと週内の決着は難しいとの認識は党執行部側にもあり、野田首相は16日の参院予算委員会で「個別にいろいろ議論があると承知しているが、意見集約 できると思っている」と一定の時間をかけて意見集約を図る姿勢を示した。同時に「法案成立が私の大きな政治目標だ。不退転の決意で責任を果たしたい」とも 述べ、法案を月内に提出したうえで法案成立に政権の命運をかける決意も強調した。【木下訓明、光田宗義】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000124-mai-pol
消費税法案、決着持ち越し=再増税規定の削除検討―民主
 民主党は16日夜、衆院議員会館で社会保障と税の一体改革に関する政策調査会の合同会議を開き、消費増税関連法案に関する3日目の事前審査を行った。執 行部は、反対論が強い追加増税規定の削除を含め修正する方針を固めた。ただ、会議では小沢一郎元代表グループを中心とする反対派から法案への異論が続出。 執行部は当初予定していた同日中の了承取り付けを断念、決着を19日以降に持ち越した。(時事通信)
[記事全文]

◇2つの焦点
・ [図解]消費税増税関連法案の焦点と意見 - 産経新聞(3月15日)
◎追加増税
・ <消費増税法案>「追加増税」修正へ…政府・民主 - 毎日新聞(3月16日)
・ 再増税時期、明記せず…消費税法案の付則 - 読売新聞(3月16日)
◎景気弾力条項
・ <安住財務相>消費増税法案弾力条項「数値、非常に難しい」 - 毎日新聞(3月16日)
・ [政治クローズアップ]検証消費税 景気によっては増税凍結? - 景気条項について。Yahoo!みんなの政治





いかにして差異を認識するか:同一性認識と差異認識
テーマ:manichaeism: 哲学
母権的自我が主導の父権的自我の場合、その意識は同一性主義になると考えられる。
 つまり、母権的自我のもつ凹iの感情が〜主義を作り出すから、父権的自我の同一性が主義化して、同一性主義になると考えられる。
 では、父権的自我(同一性に傾斜する)はどのように差異を認識できるだろうか。
 ある事柄、事象をXとすると、それは、端的に差異であるが、父権的自我はそれを言語化して、同一性化する。しかしながら、Xは差異(カントの物自体)として、存するのである。
 ここで、母権的自我が重要となるだろう。凹iの存在である。つまり、父権的自我が母権的自我の凹iを直観することがポイントである。これが、差異である。凹iという差異を直観することで、事象Xは、差異として、認識されるようになるのである。
 結局、内観の問題になると言えよう。外在的認識のままであると、Xは同一性のままであるが、内的認識を基盤にすると、Xは差異化されるのである。
 そう、空間認識のベースに時間認識を置くのである。
 簡単に記すに留める。





カントの外的感覚(外官)と内的感覚(内官)
テーマ:manichaeism: 哲学
カントの述べる外的感覚とは凸iに、内的感覚とは凹iに基盤があるのではないだろうか。
 当然、純粋形式もそれらにあると考えられる。つまり、空間形式は凸iに、時間形式は凹iに存すると考えられる。
 問題は、差異共振化である。時間と空間の差異共振化とは何か。つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)なのか、それとも、凸i*凹凹i⇒凹(−1)なのか、である。
 時間と空間の差異共振化は前者以外にはありえないだろう。それが、自然の摂理である。
 しかし、時空四次元とはどうなのだろうか。それは、差異共振様態なのだろうか。
 途中。





光と物質
テーマ:manichaeism: 哲学
凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸(+1)が光で、凸i*凹凹i⇒凹(−1)において、凹(−1)が自我ならば、物質はどこにあるのだろう。
 この点で、Neo-PS理論が意味があると考えられる。つまり、ガウス平面に直交するz軸がいわば自我軸であり、y軸は、生命軸(氣の軸)のように考えるとわかりやすい。
 とまれ、私説は混乱を含んでいる。端的に、凸i*凹i⇒凸(+1)は何であるのかである。
 積を同一性化と考えると、凸(+1)は、自我化であり、商凹(−1)は差異共振化である。自然(氣)の場合、凹(−1)が自然の物質(物自体)である。
 そう、やはり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺が物質ではないだろうか。つまり、差異共振を人間は認識できないので、凸iの純粋悟性=同一性の視点から自然を認識するので、物自体が物質になるのではないだろうか。
 すると、光は差異共振であり、凹(−1)ということになる。それでいいだろうか。
 以上はまったく不整合状態である。
 積をどう捉えるのかが問題である。それを差異共振に捉えるならば、それが光を意味する。そして、光は物質を意味するだろう。E=mc^2である。
 では、商は何か。それは、・・・。

どうも、ひどく混乱しているので、後で整理したい。
 
追記:問題の核心は同一性力学をどう捉えるのかである。
 同一性と物質はどう関係するのか。同一なのか、異なるのか。
 同一性とは自我の事態であり、それから、外的対象を捉えたときに、物質が生起すると考えられる。
 つまり、凹(−1)を自然とすると、それを自我は凸(+1)と捉えるのである。凹(−1)がカントの物自体である。(自我とは純粋自我凸iが外的に純粋他者凹iを認識するときの主観性である。)
 つまり、凸i⇒凹i⇒凸(+1)が物質である。また、光である。
 それに対して、凹i⇒凸i⇒凹(−1)が物自体である。氣的身体である。
 凸(+1)の光とは現象光である。それに対して、凹(−1)の光とは、いわば、氣の光である。(おそらく、D. H. ロレンスのdark sunとはこれである。)
 しかしながら、ここで正確に言えば、ガウス平面に直交するz軸における凸jが本来の純粋自我(アートマン)であり、凹jが純粋他者である。
 「イデア」というとき、自然的「イデア」と人間的「イデア」の区別があると思われる。
 結局、Neo-PS理論の見地である。即ち、ガウス平面の右半円が人間的現象界であり、左半円が自然現象界である。そして、ガウス平面に直交するz軸において、凸jが純粋自我であり、凹iが純粋他者である。
 そのように見たとき、不明なのは、y軸とz軸との関係である。その力学である。
 これは検討課題とする。

追記2:どうも、やはり、はっきりとしない。自我が⇒凹(−1)であり、光が⇒凸(+1)ではないのか。つまり、左半円が自我世界、闇の世界である。右半円が自然世界、光の世界である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺は積、差異共振を意味し、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の左辺は同一性力学を意味するということの方がいいように思う。
 後でさらに検討したい。 





重力問題
テーマ:manichaeism: 哲学
次の私の論考に対して、コメントといただいた。興味深いので、検索したら、以下のような記事があった。


「2012-01-30 重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業 編集
重力 とは何か:光と物質 の反作用 としての重力 ?:闇としての重力 作業仮説

テーマ :science

今は直観 だけを言う。空間 を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから 、どうも、media point に関係すると直観 される。
 以前も私見を書いたが、もし、物質 が⇒のエネルギー 方向をもつなら、重力 はそれとは反対に←のエネルギー 方向をもつの ではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力 は←の力の方向である 。
 もし、そうならば、重力 は⇒の反作用 的なもの となろう。凸i*凹i⇒凸の反作用 として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力 ではないだろうか。
 簡単に言えば、重力 はmedia point の方向を示していると考えられる。そして、ブラック ・ホール もこの方向にあると言えよう。そう、ブラック ・ホール はmedia point から 第三象限ないし凹を指すのかもしれない。
 とまれ、以上から 考えられるのは、重力 と光は対蹠的であり、ある意味 で両極的である 。
 作業仮説である が、実MPにおいて、光と物質 が発出されるならば、その裏面に重力 が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用 の法則 、エネルギー 保存則である 。
 だから 、光(現象光)に対して、闇である 。虚MPや第三象限等を志向 しているのではないのか。
 あるいは、光、物質 の表面(現象)に対する裏面、背後である 。その不可視 の世界 、精神 の世界 に、重力 は通じているのではないのか。
 言い換えると、現象太陽 の裏面、背後の闇の太陽 dark sun 、ないしは、霊的太陽 を意味 しているのではないのか。
 光と物質 の第一象限の現実 世界 に対して、重力 は、精神 と闇の光(超越光、マニ教 の光)の霊的世界 を意味 しているのではないのか。
 今はここで留めたい。

追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。
 即ち、現象光を同一性 の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。
 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性 化しているのである 。
 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。
 それは、当然、不可視 である 。闇である 。これが、重力 なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓である か、物質 化⇒の反対の←である 。
 とまれ、闇としての重力 である 。さらに後で検討 を続けたい。」
http://d.hatena.ne.jp/antares/20120130#c

コメント
「 gavity man 2012/03/12 02:52 「太陽は地球を引き回す」
重力作用を考えてみると、私見では質量に2種の 働きがあるような気がする。一方は質量の最小構成要素から発生する波と他方は質量がその波と共鳴する時、質量体は飛来した反対方向に光子を排出すると光子 同志の摩擦で波の飛来した方向に力が働く、丁度光子ロケットのように、即ちこれが万有引力ではないだろうか。例として太陽と地球の引力は地球軌道の接戦方 向に作用する、太陽はあたかも地球を引き回すように。詳しくは是非URLを参考にして欲しい。」

MEBIUS - Gravity man さんのサイト(再掲、追記)

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2

MEBIUS - 重力とは何だろう その2

1.重力の謎

電荷のエネルギー



2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
テーマ:language

先に、連続性に関して、それは凸iによる凹iの力学であると述べたが、それから帰結的に、本件の主題が生じる。
 これまで、何回か本件について述べてきたが、結論ないし結論というものに到達していなかったので、あらためて検討したい。
 言語の問題は、正に、イデア論、PS理論における本質的問題である。
 初期PS理論(Premier PS Theory、PPSとする。それに対して、後期PS理論をLate PS Theory、LPSとする。)に拠って考察する。
 明らかに、言語は凸iの支配に関係している。史的に見ても、父権文明が文字文明であり、それ以前の母権文明は口語はあったろうが、無文字文明と言えよう。(シュメール文明の問題がある。)
 だから、正確に言えば、口語と文字言語を区別する必要がある。
 では、最初、口語、話し言葉について考えよう。それは、史的には、前父権文明の母権文明について考察することでもある。
 即ち、D. H. ロレンスが『黙示録論』
黙示録論 (ちくま学芸文庫)/D・H ロレンス

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で明らかにしたように、それは、イメージの文明である。感覚知覚におけるイメージ中心主義の文明である。
 この背景において、口語について考察する必要がある。イメージとしての口語である。つまり、詩的言語的な口語ということが想起される。そう、口承文芸、 吟唱詩人、語りというようなことが想起されるのである。(古代ギリシアのホメーロス、日本では、記紀の元になった口承神話が考えられる。また、平家物語は 本来、吟唱されるものである。)
 イメージを喚起する音楽的言語としての母権文明的口語ということが考えられるのである。
 そうすると、それは、当然、凹iと凸iの差異共振イメージに拠ると考えられる。つまり、凹i*凸i⇒+1の光の言語ということになる。これはここで今は留めておく。
 次に、文字言語について考察しよう。それは上述したように、父権文明における、凸iによる凹iの支配力学から「創造」されたものと考えられるのである。
 これは同一性言語となる。そう、象形文字(表意文字)と表音文字を区別しないといけない。
 では、先ず、象形文字について考察しよう。
 それは、母権文明のイメージ言語を文字化したもののように思える。即ち、凹i*凸iの共振イメージを凸iで写し取ったものと考えられる。漢字が例をあげ るまでもなくそのように考えられる。(絵文字も考える必要がある。エジプト文字である。それは、象形文字以前のものであり、それが差異共振イメージを最も 凸iで写したものであろう。詳細についておいておく。)
 差異共振イメージを凸iで写すとはどういうことなのだろうか。それは、精神的光(凹i*凸i⇒+1)を現象的光(凸i)で写しとることではないだろうか。(精神的光を大光、現象的光を小光と簡略化する。)
 大光を小光に写しとること、内的感覚(内的視聴覚)を外的感覚(外的視聴覚)に書写することである。
 つまり、ここには、ハードではないものの、凸iの凹iに対する支配がはたらいていると考えられる。
 では、次に、表音文字である。(史的にはフェニキア文字がアルファベットの始原である。)
 これは、もう基盤には差異共振イメージはほとんどないと言えよう。もっとも、これもベースは差異共振イメージ、象形文字(表意文字)であったが。
 基盤の差異共振イメージを消去されて、抽象化された表意文字である表音文字が父権文明を精神的に形成すると言えよう。(思うに、象形文字、表意文字の形 成力学において、デリダのエクリチュールの概念はそれなりの意義をもつが、しかし、デリダは口語のイメージ言語と文字言語は混同しているように思われる。 これについては検討課題である。)
 では、抽象化された表意文字である表音文字(例えば、アルファベット)の形成力学とは何か。
 ここには、分析的知性がはたらいていると考えられよう。分析化された音声が表意文字化されるのである。
 この分析抽象化作用であるが、これは、正に、凸iの本性の作用であると考えられる。
 思うに、表意文字的認識は凸iの本性である。そう、正に、同一性作用である。思うに、正確に言えば、超越論的同一性認識作用である。これは、カントの悟性に相当しよう。
 つまり、人間は他の生命体とは異なり、先天的、先験的に、超越論的同一性認識作用=悟性を具備、内在していると言えよう。(一時流行したチョムスキーの 生成文法論であるが、それは、この視点から考えれば、基本的には妥当性をもつと言えよう。しかし、実際は構造主義になってしまった。つまり、二項対立論に なってしまった。)
 以上で、簡単ではあるが、本件の問題を基本的には解明したと考えるが、最後に構造言語学【構造言語学 とは - コトバンク 】(構造主義【構造主義 - Wikipedia 】)について簡単に触れて終わりにしたい。
 構造言語学はソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia )のものが源泉である。ソシュールの有名なシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)【シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia 】との対立と融合について考えよう。
 ここでは簡明にするために、表音文字で考えよう。そこでは、シニフィアンは音声ないし表音文字である。そして、シニフィエであるが、思うに、ここには、 混濁がある。つまり、意味されるものは概念とイメージの両方があるからである。ソシュールは両者を混淆、混同していると考えられる。
 概念の場合は当然、凸iの悟性作用に拠るのであるが、イメージの場合は微妙であり、差異共振イメージ(内的イメージ)と現象的イメージ(外的イメージ)の両方が考えられるのである。
 だから、ソシュール構造言語学とは、一面では、凸iの言語学であり、他面では凸iと凹iの差異共振言語学の側面をもつと考えられる。
 その構造主義とは、シニフィアンとシニフィエの対立に拠ると言えようが、それは果たして、二項対立なのだろうか。例えば、前者が後者に対して、優位であると言えるのだろうか。そのように考えたのは、ラカンであるが、ソシュールではないだろう。
 だから、ソシュールの構造言語学とは二項対立の構造主義とは異なると言えよう。とまれ、二項構造をもつという意味での構造主義ではある。
 そして、ソシュール言語学の差異共振言語学的側面があるからこそ、あるいは、凸iの同一性言語学と差異共振言語学の混同があるからこそ、ソシュールはその後、低迷して、最後、アナグラム(アナグラム - Wikipedia )に関わるようになったと考えられる。
 アナグラムとは一種の言葉遊びで、文字の順番を変えたりして、意味の変化を楽しむものであるが、それは正に、差異共振イメージに拠ると言えよう。例えば、godを順序を逆にすると、dogになるというようなことである。
 つまり、差異共振は、対立するものが共振するということであるから、godと順番が逆という意味で対立するdogを引き出すのである。つまり、アナグラムを生み出すのである。
 ここで留める。






光とは何か:二つの光:差異共振光と同一性光
テーマ:manichaeism: 哲学

マニ教の光とは、初期PS理論モデルに拠れば、凸i*凹i⇒+1の+1に相当しよう。そう、オイラー・ガウス平面の右半円が光の世界である。
 では、一般の光、陽光とは何であろうか。それは、マニ教の光ではない。マニ教の光は、差異共振の光である。凸iと凹iの共振に拠る光である。いわば、霊的光である。
 一般の光、陽光とは何であろうか。これは、実は凸i主導の同一性の光ではないのか、と思った。
 思うに、自我様態と同質の光ではないだろうか。私が想起しているのは、父権的神話である。父権的太陽である。それは、太母を殺戮する父権的な英雄の太陽である。
 思うに、これは、客観的事象というよりは、主観的事象、精神的事象ではないだろうか。
 つまり、差異共振の光(霊的光)を父権的同一性の光で抑圧しているということである。
 これが、凸i主導の光ということになる。凹iと凸iの差異共振の光(霊的光)はいわば閉鎖されているのである。
 だから、一般の光、陽光とは、凸iの光と言えよう。原光である。(そして、これが後の一神教の神となるだろう。)
 まとめると、光は二種類あるのであり、一つは、凸iと凹iの差異共振光(マニ教の光、霊的光)であり、一つは、父権的同一性の光(凸i)である。
 D. H. ロレンスが「我々は光の背中を見ているに過ぎない」と言ったのは正に、この事態を指していると言えよう。光は差異共振光でありながら、いわば、裏返しにされた光凸iになっているからである。
 そう、これは、精神的フィルターの光と言えよう。同一性の反射の光、鏡像の光とも言えよう。
 言い換えると、物質の光と精神の光があるのであり、後者が今日、否定されてしまっているのである。
 マニ教の光は絶対的に後者である。これは、凹iと凸iの原始差異共振を不連続化することで形成されよう。
 ところで、私は先に、自然界は+1であると述べたが、この点どうだろうか。
 つまり、自然界は差異共振によって形成されているということを意味したのである。
 そう、自然界は、精神的光から創造されたと言えよう。しかしながら、人間の同一性的自己、自我は、それを同一性の光で遮断して見えないのである。
 自然的精神の光を同一性の自我の光で排除して、物質的光のみを見ているのである。







連続的複素数精神と不連続的複素数精神:双極子としての複素数精神の連続性と不連続性
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面精神マップ(GPS:Gaussian plane Positioning System)は興味深いが、指摘したいのは、精神は双極子であり、cosθ+i・sinθとcos(θ+π)+i・sin(θ+π)が精神の双極子の位置であろうということである。
 次に、精神が連続性のままであるときは、つまり、凸iが凹iを支配しているときは、すべての精神複素数双極子は、当然ながら、連続様態であると考えられることを指摘したい。
 私は現段階では、初期PS理論モデルに従っているが、そこにおいて、凸iによる凹iの支配の状態では、精神複素数双極子は、左半円に属し、それらはすべて、連続態ということになる。
 そして、不連続化が為されたとき、即ち、凹iが独立したとき、精神複素数双極子は、右半円に属するのであるが、それは、すべての位置、点において、不連続態であると考えられる。
 言い換えると、左半円(闇)の自我領域は連続的同一性の領域であり、右半円(光)の自己領域は不連続的差異共振の領域であるということである。
 尚、虚軸は左半円ではなく、右半円に含まれると考えられる。
 今は簡単に指摘するに留める。

追記:精神は双極子と言ったが、そうすると、例えば、右半円の円弧の一つに属するとき、対極は、虚軸の場合を除いて、左半円に属することになり、矛盾することになるのである。
 思うに、凸iと凹iの差異共振の強度(濃度)に応じて、右半円の上部と下部に精神複素数が形成されるのかもしれない。つまり、共役にあるということである。即ち、a±biである。
 そして、連続性の場合(左半円)も同様であるように思う。
 今、ふと思ったが、私が勘違いしているかもしれない。凸iと凹iは双極原理であるが、それをベースに、双極子ではなく、点として、複素数精神が動くのかもしれない。
 そうならば、生成門氏の考えは正しいのである。そうだとしても、連続性と不連続性(差異共振性)は区別されなくてはならない。
 初期PS理論モデルでは、虚軸を除いて、左半円は連続性の領域(自我、闇)であり、虚軸を含めて右半円は不連続性(差異共振性)の領域(自己、光)と考えられる。
 思うに、凸iと凹iの極性原理において、人間では、左半円と右半円が併存している。つまり、自我と身体(氣的身体)である。そして、自我を不連続化すると、右半円に自己形成が起こるのである。つまり、精神の光化である(正に、マニ教的事象)。
 否、正確に言えば、原始差異共振と連続的精神があるのである。つまり、前者は右半円に属しているが、後者は左半円に属しているのである。
 だから、やはり、精神は二重なのである。凸i主導と凹i主導の二重性があるのである。だから、精神は単に一点としては位置付けられないだろう。凸i主導の点と凹i主導の点の両点を把捉しないといけない。
 途中であるが、ここでおく。
 



2012年02月19日(Sun)▲ページの先頭へ
連続性とガウス平面複素数精神様態マップ
先の考察は、以下の生成門氏のかなり難解な、例えば、以下、赤文字と下線で強調した箇所、即ち「第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識」という考え方について述べなかったので、連続性の問題の視点から、一言述べたい。
 先に、連続性とは凸iによる凹iの支配、凸i自体の同一性による凹iの支配であると述べた。(仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html)
 連続性力学(凸iによる凹iの支配力学)の視点から見ると、第一象限とは、基本的には連続性(連続的同一性)の領域に思える。
 ただし、a+biの複素数精神様態をどう見るのか、問題である。そう、私見では、a±biの方が実際的に思える。
そして、aがゼロのときに、±bi、即ち、凸i、凹iが生起する。つまり、不連続化が起こるような感じがする。
 では、aがゼロでないときは、どうなのだろうか。そのときは、純粋な凸iと凹iは生起していないのではないだろうか。
 そうならば、やはり、連続性のままであるように思えるのである。
 ただし、一端、不連続化が生起したとき、不連続態を保持したまま、a±biの様態はあり得ると思う。
 暫定的であるが、今の段階では、私見では、第一象限は、連続性(連続的同一性)の領域に思えるのである。だから、果たして、そこに述語優位の領域があるのか疑問である。(連続性とは先述したように、凸iに拠る凹i支配力学であり、凸iの支配とは、端的に、主語優位になると考えられる。)
 最後に第四象限について簡単に触れよう。それは、一種の連続性の領域、ないし逆連続性の領域に思える。
 強度の凸iの支配があるとき、原始差異共振性は衰滅し、反動的な凹iが生起する。それは、当然、同一性=物質と結びつき、物質欲となるのである。凹i+1の世界である。
 補足的に、原始差異共振について一言述べておこう。先に、それは、新しい差異共振によって乗り越えられると述べたが、それはそれで正しいが、内的メカニズムを捉えていないと思う。
 原始差異共振は凹i主導の差異共振であり、凸iは覚醒化していないのである。しかしながら、凸iの支配力学にあって、深層的に、原始差異共振のもつエネルギーは凹i中心に蠢いていると考えられる。
 凸i支配下にあって、原始差異共振エネルギーを不連続化すること、それが、新しい差異共振の創造を意味すると考えられるのである。
 
資料:

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。

述語と主語の認識

ここで、疑問が出てきたと思います。

第1象限は光の認識であって、山彦が闇なら、第4象限になるのではないかと言うことです。ところが、第1象限は述語優位(響く)から主語優位(山彦)に移っていきますから、第1象限に闇が入ってきてしまいます。これはおかしなことです。

そうです。これが認識の段階が螺旋的だという意味の難しいところです。

子供に大人の認識が入って来るので混同しているのです。

子供はまだ闇を知りません。ですから「響く」だけです。つまり、第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識であって、そこから勝手には右にはいかないのです。

大人はG(0.7,0.7)右、つまり、主語優先の位置に行きます。それは何故でしょうか?

大人は知識を持っています。知識というのは、「帰ってきた、おーい」は「山彦である」という知識です。

しかし、知識は「物」ではありませんから目では見えません。つまり、知識は闇の認識なのです。言い換えると、闇とは他者の知識(認識)なのです。知識とは誰かの先祖とか、科学者、お婆さんの知恵なのです。それが言い伝えられてきた文化伝統の類です。

ですから、その他者の知が私という自己の中に侵入して来なければ、闇は生まれないのです。

子供がこの知識を始めて知ったとしましょう。その瞬間、子供が大人になったときであり、闇が生まれたときなのです。つまり、他者が私に中に入ってきたのです。他者とは、私の中に無断では入って来るのですから、ウィルスのようなものなのです。

このとき子供に凹i(他者)が生成され、第4象限のG(0.7,0.7)から右側の認識が生まれるのです。第4象限の凹iからG(0.7,0.7)を経由して、−1に向かうのが自分で理解したときです。

親から教えてもらうようなケースでは、途中からG(0.7,0.7)が発生するのです。

第4象限のウィルスのように侵入した他者の知による闇の認識:G(0.7,0.7)と、既に発生している第1象限のG(0.7,0.7)との間に共役が生まれます。こうして、第1象限の認識がG(0.7,0.7)から右に移動して+1に向かうのです。これはまるでウィルスによる乗っ取りです。

つまり、第4象限から第1象限へ反転するのです。しかし、ただ、同じGPを渡ることはありません。GPは螺旋的に回転しているのですから、GP1(述語優位)→GP2(主語優位)という渡りになるでしょう。

GP2(主語優位)とは二枚目のGPであり、しかもその半分が主語優位となって出てきたのですから、他者(ウィルス)によって乗っ取られたようなものです。

一枚目GPS(a,-b):a>0,7.b<0 .7→二枚面のGP(a,b):a>0.7,b<0.7

これが自我の発生という瞬間の実況中継です。

http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663

シムダンス「四次元能」


2012年02月18日(Sat)▲ページの先頭へ
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
テーマ:media point

生成門氏のガウス平面マップにおける思考(第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 )について、即ち、複素数精神様態とは何であるのかと考えていたら、連続性とは何かという問題になった。それについて述べたい。
 PS理論の前身の不連続的差異論は、連続的差異=微分の脱却から始まった。
 いったい、連続性とは何であろうか。これまで、数え切れないくらい論じてきた。
 結局、今の結論(仮説)を言えば、それは、MP2(実MP)における同一性(自我)=物質形成の根本的力学である。それは、凸iが主導する、そして、凹iを支配する原理である。
 この問題は当然、不連続的差異論初期の段階に戻るものである。
 即ち、連続的同一性の力学である。これは、端的に、凸iが主導する力学であり、差異(絶対的差異・内的他者)である凹iを同一性で支配するのである。
 つまり、連続性とは同一性力学のことである。同一性がmedia pointを支配するのであり、そのとき、被支配の差異凹iは、個的自由を求めつつも、同一性支配下にあるために、純粋差異になることができないのであ る。言い換えると、常に、同一性に付きまとわれているのである。
 この差異と同一性の混淆状況を見事に捉えたのが、デリダ哲学と言えよう。差延という用語に表象されていると言えよう。
 しかしながら、これは、連続性、連続的同一性力学の支配下の様態に過ぎないのである。
 この事態において、不連続化が至高の意義をもつのである。それは、凸iの支配を断ち切る、切断することである。そのとき、もはや、凸iが凹iを支配することはなくなり、凹iは差異(純粋差異、絶対的他者、個)自身に回帰するのである。
 ここにおいて、凹iと凸iの共生、棲み分けが生起したと言ってもいい。
 凸iは+1との連携において、第一象限を探究するのである。
 そして、凹iは自身の主導化によって、新たな差異共振をもたらし、第四象限へと開けたのである。
 即ち、物質的世界と精神的世界の併存、共生が可能になったのである。
 結局、(差異の)不連続化とは、PS理論で明らかになったように、凸iと凹iとの差異共振(media point)をもたらしたのである。それは、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)である。あるいは、第四象限への参入である。
 結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。
 結論が出たので、ここで留める。





述語優位と主語優位

テーマ:media point

以下、生成門氏が述語優位と主語優位について興味深いことを書いているので、少し考えてみたい。

第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)

『モナドの視点とはなんでしょうか?

「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?

大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。

「響く」感じです。

これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。

しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。

これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。

「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。


http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」

直観で言おう。木霊の「おーい」が述語優位ということであるが、「おーい」は、差異共振なのである。自己と一体化している。つまり、凸iを介しつつ、凹iで「響き」を捉えているのである。
 思うに、述語優位とは凹i優位と言えるかもしれない。しかし、凸iが媒介になっている。
 次に、「おーい」を「山彦」にしたのが、主語優位ということであるが、これは、凸i優位と言えそうである。
 ただし、第一象限の事象でのことである。凸i+1である。
 述語優位ないし凹i優位とは、第四象限に帰属するのではないだろうか。
 今はここで留める。





一神教(超越神)と父権主義の力学
テーマ:media point
Z軸において、凸j*凹j⇒凸iになると作業仮設する。ただし、j*j⇒-iとする。
この数式が一神教、超越神を意味するのではないだろうか。
 では、凸j*凹凹j⇒凹iとなる。この凹iが多神教、母権主義ではないだろうか。
 つまり、

凸j*凹j⇒凸i=the Father=Heaven

凸j*凹凹j⇒凹i=the Mother=Earth

ではないだろうか。
 そして、凹(マイナス1)は、物質を形成するための、原型(イデア)、あるいは、氣、生命体=エーテル体ではないだろうか。
 「原父」は凸j、「父」は凸i、「子」は凸i⇒+1ではないだろうか。(しかし、凸jが「父」、凸iを「子」とする見方もあるだろう。これについてはおいておく。)
 ならば、「聖霊」はどうなるだろうか。端的に、media pointではないだろうか。凸iの支配下において、凹iが開けるとき、media pointが「開花」する。
 そのとき、個において、二つの差異共振エネルギーが流入するのではないだろうか。即ち、凸j*凹凹jと凸i:凹凹iの差異共振エネルギーである。
 前者は垂直的超越エネルギー(「神」)であり、後者は水平的超越エネルギー(氣)である。
 二つ合わせれば、語呂合わせ的であるが、神氣となる。
 ただし、前者の「神」は、「原父」と「原母」の共振であるから、超神、あるいは、新神とか呼ぶべきだろう。
 ならば、超神氣、ないし、新神氣のエネルギーが流入する。そう、media pointとこのエネルギーを併せて、「聖霊」と呼ぶべきであろう。
 以上は思考実験である。

追記:凸j*凹j⇒凸(+1)の方がいいのではないかという考えも浮かぶ。
 思うに、Z軸とY軸は不連続かもしれない。その場合、二つの超越界が存することになる。
 後でさらに検討したい。





検討問題:1)一神教(超越神)とは何か。2)資本とは超越論的同一性ではないのか
テーマ:検討問題
今はざっと述べる。
 1)に関してだが、これは、ガウス平面に直交するZ軸の「存在」に拠るものである。これについては後で詳述したい。
 2)であるが、今はこの問題の方が重要である。
 これまで、資本を同一性として捉えてきた。しかし、優れた資本家は、感性欲望凹iよりも、抽象的知性凸iが優越しているのである。
 この凸iが資本を管理し、活用するのである。
 同一性は凸i+1である。それに対して、凸iは超越論的同一性と考えられよう。
 ここが資本ないし資本家の存する位置である。
 だから、本来、物質主義的ではないのである。それは、物質を活用する精神である。
 そう、資本家は超越論的同一性精神をもつのである。
 では、これとカントとヘーゲルの哲学はどう関係するだろうか。
 思うに、超越論的同一性とは正に、カントの超越論的形式と一致しよう。
 ヘーゲルであるが、弁証法で言うと、その精神とは、正に、カントの超越論的形式と一致すると思う。
 故に、
 
超越論的同一性=カント超越論的形式=ヘーゲルの精神

となろう。
 これが資本、資本家の精神である。
 これは決定的に唯物論とは異なるのである。マルクス、エンゲルス、レーニンはまったく理解していなかったのである。
 さて、この超越論的同一性精神であるが、これは、1)の一神教の問題、ないしは父権主義の問題と通じるように直観される。
 つまり、Z軸の+の精神に関係しているのである。これが、凸iを支配しているように思えるのである。
 とまれ、言い換えると、一神教、父権主義の誕生がなければ、資本主義は生まれなかったと考えられる。
 とまれ、超越論的同一性=資本(主義)の問題点は明らかに、他者凹iの無視である。
 他者凹iを認知したときに、資本主義はトランス資本主義となるだろう。
 それは何だろうか。それは、自由共同体的資本主義である。
 今はここで留める。





凹i の視覚と凸iの視覚:ディオニュソスとアポロ:二つの視覚とそれらの芸術・アート
テーマ:art & design
私は洋楽ポップス、とりわけ、多くの人と同様に、ビートルズに没入し、また、学生のとき、クラシック音楽に魅せられて以来、自分が音楽的人間だと思ってきた。 
 そして、つい数年前から、私の自己認識は大変化したのである。つまり、私は美術的視覚主導の人間であったという認識である。
 以前述べたが、ある坂道の途中から下の方の景色を見て、スケッチしたいと思ったのである。そう、絵心が「芽生えた」である。
 そして、最近、視覚美に忽然と目覚めたのである。
 考えると、実は私は、小学生のとき絵を描くのが好きで、親に将来は、絵描きになりたいと述べたのである。貧乏人の家庭であったから、即座に否定された。 そして、それから、ビートルズがやってきた。また、思うに、それ以前に私の精神的感性の変化があった。超越的精神が消えてしまったのである。
 結局、視覚美に目覚めたというは、実際は、小学生の頃の絵画志向が再生・新生・復活したと見るのが的確であろう。
 私は文学がそれなりに好きであったので、それに惹かれた。
そして、その後、哲学等に惹かれた。
 思うに、文学は凹i主導、闇主導の芸術である。そう、音楽もそうである。
 しかし、絵画、美術は微妙なところがあり、凹iが土台にありながら、凸iが主導的なのである。
 そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の視点は実に天才的であったと言えよう。
 そう、音楽はディオニュソスで、美術はアポロである。これは、前者は凹i的であり、後者は凸i的であると言えよう。
 結局、芸術の極性があるということである。それは、闇と光の極性である。
 しかしながら、先述したように、近代は凸i、そして、凸i+1が主導であり、凹iを喪失したと言えよう。
 あるいは、両者の分裂が生起したと言えよう。
 思うに、T. S. エリオットが「感性の乖離」で述べたことはこの事態と言えよう。凹iと凸iの分裂である。
 そして、美術は凸i主導なので、科学に「伴われて」進展したと言えよう。
 それに対して、音楽や文学は凹i主導なので、科学からは分離したと言えよう。
 これは、C.P. スノウの述べた、「二つの文化」の事態を意味しよう。
 結局、この乖離・分裂した事態は超克されなくてはならないのである。それは、PS理論では、media point(差異共振)を意味する。
 そう、凸iの支配によって、凹iは弱化させられていて、凹iを取り戻すのは難しい。とりわけ、日本において。
 端的に、闇の視覚・凹i・ディオニュソスと光の視覚・凸i*アポロの極性、media pointを復活させるべきでなのである。
 そう、闇の光と光の光があるのであり、今日、光の光が独裁しているのである。
 そして、美術の復活とは、実は、闇の光の復活に拠ると言えよう。ディオニュソスがなければ、アポロは浅薄・皮相なのである。
 そして、音楽・文学も同様である。それらの根源である闇の光を取り戻さなければ、アポロ・科学の文明の支配に屈して、滅びるしかない。
 とまれ、二つの視覚、闇の視覚と光の視覚、それらの共振的視覚を取り戻さないといけない。


参考:ルネ・マグリット『光の帝国』







Z軸の差異共振:凸j*凹j⇒凸(+1)
テーマ:media point
先に、j*j⇒-iとした。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸i

とするためである。
 しかし、単純にj*j⇒-1としていいように思う。
 即ち、

凸j*凹j⇒凸(+1)

となるのである。
 これが、例えば、イエス・キリストの現象物質界への顕現を意味するように思えるのである。物質的身体となった神霊である。
 そのとき、左辺の凸jが「父」ではないだろうか。そして、凹jが「母」である。
 そして聖霊とは、凸i*凹iの虚MP(MP1)の差異共振エネルギー、即ち、氣=生命エネルギーではないだろうか。
 ガウス平面が氣を含めて自然界である。そして、Z軸の世界が精神界ということになろう。
 そして、ガウス平面をY軸を中心に1/4π回転したものが、いわば、精神平面となるのではないだろうか。
 こここそ、霊界、天国も地獄があるのではないだろうか。
 とまれ、微細には今は考察できない。






2012年02月14日(Tue)▲ページの先頭へ
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?
テーマ:media point

差異共振は⇒凹(−1)に通じると言った。それは、水平的超越性である。
 しかし、ふと思ったのは、即非共振(「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではない現象)が起こったとき、超越的気分があると言い、それは、水平的超越性的であると述べたが、果たして、それだけでなく、垂直的超越性も入っているのではないかということである。
即ち、差異即非共振様態において、未知の超越性が進入しているということになる。
 思うに、水平的超越性と垂直的超越性をこれまで、人類は混同してきたのかもしれない。
 私がコスモスというとき、それは、超越的宇宙であるが、それは、垂直的超越性を含んでいるだろうが、氣から見ると、凹(−1)の水平的超越性になる。
 とまれ、作業仮説として、差異即非共振において、単に、水平的超越性(凹)が喚起されるだけでなく、垂直的超越性(Z軸)が喚起されるということを提起したい。
 そのように考えると、media pointは三重、三次元になると考えられる。Z軸のmedia point、Y軸(虚軸)のmedia pointである。
 正確に言えば、Z軸とY軸の形成するmedia pointとY軸とX軸の形成するmedia pointである。それだけで見れば、二重、二次元的になるが。
 三重、三次元であるということは、Z軸主体のmedia point、Y軸主体のそれ、X軸主体のそれの三つのそれが考えられるからである。
 ところで、先に、Z軸からY軸へと転換するように考えたが、実は、Z軸からX軸へとダイレクトに転換する場合があるのではないかということを思ったのである。
 超越的精神がダイレクトに物質界に参入することである。今思ったのは、イエス・キリストの場合である。あるいは、預言者の場合である。あるいは、シャーマンの場合である。あるいは、モーツァルトのような天才の場合である。
 そのように見ると、Z軸は超越軸、精神=霊軸である。霊界というのは、おそらく、Z軸に存するのである。
 都合により今はここで留める。





−1(凹)とは何か:水平の超越性と垂直の超越性:存在の超越性と精神の超越性:凸j*凹j⇒凸i?

テーマ:media point

 かつて、「わたし」は「川」(「木」、「山」)であり、且つ、「川」ではないと言い、その後、「わたし」と「川」は一如(いちにょ)であり、同時に、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」と言った。
 この差異即非共振様態は、media pointで発現するものである。このとき、凸i*凹凹i⇒凹(−1)が発出しているように思えるのである。つまり、media pointの即非共振態は同時に、凹(−1)を志向していると思えるのである。
 凹(−1)は物自体かもしれない。私が個物に感じる特異性はそれではないだろうか。つまり、超越的個物である。そして、それは、超越的存在である。ある いは、氣的存在と言えるかもしれない。氣の宇宙である。【先に、「浅い平面と深い平面」について述べたが、深い平面は凹(−1)を内在しているのではない だろうか。例えば、セザンヌのリンゴの絵である。これはおいておく。浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光 )http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11164064137.html
 問題はそれが「神」なのだろうか、ということになる。思うに、凹(−1)は水平的存在であり、垂直的と考えられる「神」とは異なるのではないだろうか。「神」だとしても、低位の「神」ではないだろうか。
 ここで上述の差異共振現象を再度考えよう。「わたし」(凸i)は「川」(凹i)である。あるいは、「わたし」と「川」は一如であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」である。
 この即非態にあるとき、一種の超越的精神(気分)にあるのは否定できないだろう。
 この超越的気分は果たして何か。それは、⇒凹(−1)の志向性なのだろうか。思うに、超越的存在がそこに感じられているのではないだろうか。ならば、そ れは、⇒凹(−1)への志向性である。一(いつ)の超越的存在である。(ところで、ロレンスが考えた「父」への志向は一への志向であり、この方向ではない だろうか。)
 とまれ、⇒凹(−1)への志向性を超越的一への志向性、水平的超越性の志向性と呼んでおこう。
 では、垂直的超越性とは何か。
 これは感知が難しいものである。外的存在、内的存在に囚われる限り、感知されないと考えられる。
 垂直的超越性とは超存在性である。純精神性である。そう、超越的精神性である。
 ここがシュタイナーの精神学の本拠地ではないだろうか。シュタイナーの主著の一つの難解な『神秘学概論』を読むと多様な根元霊が存して、それらが、情報 的エネルギーを注入して史的に森羅万象、宇宙を形成していく姿が描かれているのである。ファンタジーのような世界である。
 ガウス平面に直交する垂直軸Z軸を考えて、虚数を凸izと凹izとする。簡略化して、凸zと凹zにする。あるいは、凸jと凹jだろう。
 凸j*凹jを凸iとしたいのだが、凸j*凹j⇒凸(+1)となるだろう。だから、j*j=-iと作業仮説しよう。すると、
 凸j*凹j⇒凸iとなるだろう。
 ここで想像であるが、凸jが天の父であり、凹jが地の母ではないだろうか。しかし、天の父凸jは地の母凹jの投影であろう。
 今はここで留める。以上、思考実験である。




浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光

テーマ:art & design

いかにも平面的な作品がある。そこには深さ、厚み等がない。表層的である。(ドゥルーズ似非哲学は表層を説くが、それは、いかにもポスト・モダンであり、皮相であった。)
 結局、現象・物質光の様相のイメージであり、media point本来の深さ、高さはない。
 これは凸i主導による凹iの排除が原因と考えられる。
 結局、ハイパー・モダンである。トランス=サブ・モダンはないのである。
 現代日本人の精神的な最大の危機はここに存するだろう。凹i(陰=肚)を測深できていないのである。
 光=自我でありつつ、闇=他者を取込まないといけないのである。
 闇=他者が欠落しているために、イメージは実MPの現象光のレベルとなり、平面に留まるのである。精神の垂直性が欠落しているのである。
 今は余裕がないので、十全に述べられないが、近代の光は発生源には、本来、凹iの闇があったはずである。
 ルネサンスは凹i⇒凸iのベクトルがあったはずである。そして、デカルト主義によって、凸i+1の近代合理主義(唯物論)の世界が形成される。そう、根元の凹i=闇=肚が否定されたのである。
 デカルト主義はルネサンスの精神の光を現象=物質の光の変容してしまったのである。
 この結果が上記の浅い平面の作品であると考えられる。
 日本における凹i=闇=肚の否定は歴史的には、戦後の米国主導の近代合理主義に拠るだろう。日本人は自己文化を棄てたのである。
 しかし、近代の根底には、凹i⇒凸iのベクトルがあるのであり、凹i=闇=肚が潜在しているのである。
 それを現代日本人は認識し、精神陶冶すべきなのである。
 ここに回帰しない限り、日本人には滅亡しかないだろう。それは、自己文化に近代の光を介して回帰することである。
 今はここで留める。





母神(女神・母権)の光と父神(男神・父権)の光

テーマ:media point

神話学者のジョーゼフ・キャンベルの視点から、母権的神話の太陽(光)と父権的神話の太陽(光)が異なることが了解できた。
 これは決定的な視点である。前者はPS理論から言えば、media pointの光を意味しているのであるが、後者は凸iの光である。的確に言えば、凸i→+1の光である。
 それは現象光である。物質的光である。
 それに対して、母権的神話の太陽(光)は、差異共振の光である。虚MP(MP2)の光である。私の言葉では、超越光である。
 わかりやすく言えば、母権的神話の光は内的光(内的太陽)であり、父権的神話の光の外的光(外的太陽)である。
 結局、西洋文明において、父権的光=太陽が支配的になったである。
 しかしながら、西洋文明は母権的光=太陽を内在しているのである。それが個の原理である。この問題はおいておこう。
 父権的光=外的光が主導的になると唯物論が生まれる。精神が外化するのである。そして、それが、西欧近代文明の基本的原理である。
 問題は、否定された母権的光(太陽)である。先にそれを原始差異共振と捉えた。そして、その反動的復興がロマン主義であることを述べた。
 そう、母権的光の単純な復興は反動的である。父権的光(外的光)の支配の下において、新たな差異共振(media point)を探究しないといけないのである。
 凸iの支配原理において、他者である凹iを新生しないといけないのである。
 凸iは自我の原理である。それが、凹iと結びついて、自己原理となる必要があるのである。それが個化である。
 もっとも、凹iを見出すのは至難の業である。もっとも、私見では、凹iが今日普遍的に活動しているので、以前よりは、知覚しやすいだろう。
 結局、凹iの発見は西洋と東洋の結合を意味する。それは、新しい東洋である。
 そして、そこで生まれる光(新光)は、いわば、父権的光と母権的光の結合したものである。New lightである。絶対的高濃度の光である。
 そして、思うに、そこに「父」の原理が存すると思われる。キリスト教三位一体の「父」は凸iに過ぎなかったと思う。そして、「母」は凹i、凹である。
 この新しい「父」は聖霊だろう。
 後でもう少し述べたい。
 




神話学者ジョセフ・キャンベル:シュメール・ケルト・アジア・環太平洋母権大文明圏

テーマ:mythology

私が神話学だけでなく、知的にもっとも影響を受けた学者の一人はジョセフ(発音はジョゥゼフが正しいが)・キャンベル(私に前父権文明として大女神・母 神・母権「文明」があることを知らしめ、目を開かせてくれた、知的大恩人である)であるが、美術史家のケネス・クラークと同様に、直観でケルト系と思った が、やはり、そうだった。
 キャンベルCampbellという姓がスコットランド系である。
 そう、ケネス・クラークは両親がスコットランド人である。
 アングロ・サクソンとはまったく異なり、ケルト民族の血=知は、私見では、今日的には現代日本人のそれよりも、高濃度にアジア的である。
 PS理論との関係から言うと、ジョセフ・キャンベルは、永遠の極性eternal polarityという概念を神話から取り出している。これは、正に、陰陽、凸i*凹i、差異共振=media pointである。

The Power Of Myth - The Heros Adventure (Part 1)


参考:
ジョー ゼフ・キャンベル(Joseph Campbell、1904年3月26日 - 1987年10月30日)とは、アメリカの神話学者、文学者、講師である。 比較神話学や比較宗教学でよく知られる。彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という一 文に要約される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

Joseph John Campbell (March 26, 1904 – October 30, 1987) was an American mythologist, writer and lecturer, best known for his work in comparative mythology and comparative religion. His work is vast, covering many aspects of the human experience. His philosophy is often summarized by his phrase: "Follow your bliss."[1]
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Campbell


参照:
Campbell Family Crest and History
http://www.houseofnames.com/campbell-family-crest

参考1:
スコットランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

ス コットランドの歴史(英語表記:The History of Scotland、スコットランド・ゲール語表記:Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の 歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求 める声も少なくない。

石器時代・青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は 皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国のブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェー ルズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、ス コットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、 独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。

スコットランド の歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなど ヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかで も有数の商業地域となった。第二次世界大戦後スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきてお り、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2





物質的半円と氣的半円:精神的世界としての虚軸世界とZ軸世界

テーマ:media point

今は単に思いつきだけであるが、人間認識図の右半円は物質的世界であり、左半円は氣的世界ではないだろうか。
 一応、これを作業仮説として少し考えたい。
 私はこれまで、氣は虚MP(MP1)に存すると考えてきた。虚MP(MP1)
は、同時に、マイナス1(凹)と通ずる領域である。
 そして、自己とは、氣の変化したものと捉えた。即ち、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

である。
 しかし、氣は凸i*凹i⇒で表現される。そして、これは、

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

と変化する。
 以上から、私はこれまで、氣=精神と捉えてきた。
 しかしながら、精神は氣以外である。
 シュタイナー精神学は、氣=エーテル体(エーテル身体)とし、精神的感性をアストラル体、自己知性を自我としている。
 私は氣の変容で自己を説明しようしたのであるが、果たして、それは可能であったのか。やはり、氣は氣であり、純然たる精神の世界ではないように思えるのである。
 そこで、上述した作業仮説を述べることになるのである。即ち、PS理論的オイラーの公式/ガウス平面において、右半円が物質的身体(物質的世界)であり、左半円が氣的身体(氣的世界)であるということである。
 そうならば、生物的身体において、神経は+1の線分、経絡は−1の線分になるのではないだろうか。
 そうすると、ヨガのチャクラはどうなるのだろうか。チャクラは氣にも関わるが、基本は精神(霊)性である。
 そうすると、それはどこに位置するのか問題である。これまで、私は、虚MP(MP1)、つまり、虚軸の差異共振において考えてきた。
 しかしながら、これでは、氣と区別がつかないのである。
 やはり、ガウス平面に直交するZ軸=超越軸=精神軸(霊軸)を設置した方が適切だと思われるのである。
 そうならば、Z軸は自己軸でもある。また、それは、個軸とも言えるだろうか。当然言えるはずである。だから、Z軸=超越軸=精神(霊)軸=自己軸=個軸(=他者軸)となる。
 私はシュタイナー精神学とPS理論を合わせる為、凸iの極限にアーリマン、凹iの極限にルシファーを考えたが、それは、Z軸=精神軸にあると見るべきで はないだろうか。その方が、自己精神を規定しやすいだろう。Z軸のアーリマンという超越的存在のために、凸iの極限化が生起し、原自我(純自我)が存し、 Z軸のルシファーという超越的存在のために、凹iの極限化が生起して、原他者(純他者)が生起したと見ることはできないことではないだろう。
 そう見ると、Z軸的世界が真の精神的世界・次元となるだろう。そして、それがシュタイナーの説く霊的世界ということになるだろう。
 思うに、右半円が物質世界ならば、左半面は生命的世界ととなるあろう。植物的世界である。
 そして、シュタイナーに従えば、+Zが自己体であり、−Zが動物体となるのかもしれない。前者が超光で後者は超闇なのだろうか。
 そう、シュタイナーが説いたゾロアスター=キリストとは、この+Zのことかもしれない。
 今はここで留める。


参照:人間認識図
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


 



2012年02月01日(Wed)▲ページの先頭へ
純光と現象光:凸i(純光)*凹i(純闇)⇒凸(+1)の⇒起点が純光で終点が純闇である:仮説
ガウス平面上の認識位置特定システム(GPS:Gaussian plane Positioning
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150288276.html

先に以上のように生成門氏の独創のGPS(ガウス平面位置数式)を提示したが、これは、凸iの純光と実MPが起点の現象光との連関を提示できるものではないかと思う。
 つまり、実MPにおいて、現象光が発出するが、それと純光凸iとの関係が明確ではなかったからである。
オイラーの公式

 e^iθ=cosθ±sin θ

を生成門氏は

e^iθ=a+bi

に変化させている。
 これを利用すると、純光はi、ないし凸iであり、現象光は、a又はbiではないかと考えられる。
 最初、現象光はaではないかと思ったが、思うに、aは物質成分ではなかろうか。
 つまり、

e^iθ=a+bi=物質成分+光成分(精神成分)   ・・・ A

ではないだろうか。
 もし、そうなら、問題は、光成分biの意味合いである。これは、現象光としての光成分ではないかと思われるのである。
 純光は凸iであり、biではないのである。このbの係数が、いわば、不純成分であると思われるのである。(つまり、実数は-1から、+1の間である。ただし、ゼロは除外する。)
 だから、A式は、

e^iθ=a+bi=物質成分+現象光成分(精神成分) ・・・ B

となるのではないだろうか。 
 言い換えると、現象界においては、光は現象光へと変容していて、精神の光である純光はほぼ不可視であることになろう。
 思うに、夜明けや日没が純光に近いのではないだろうか。つまり、曙光は、闇から光への転換時であり、凸i、純光に近く、また、夕日は光から闇への転換時であり、凹i、純闇に近く、そのため、逆に、純光を示唆するのではないのか。
 少し整理すると、凸i*凹i⇒凸(+1)において、⇒の起点は純光であるが、終点・尖端は現象光であると言えるのではないだろうか。
 今はここで留める。


2012年01月29日(Sun)▲ページの先頭へ
凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
凸i*凹iの自然状態は、凹iが反感的になる:凸凹凹(i*i)⇒凹が差異共振の道だろう
テーマ:media point
先に、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)を提起したが、これは、凹iを凹化して、精神を差異共振化することと考えられる。
 今日の人間は凸i主導であるので、ある不利な事態において、凹iは連続化しているので、その凸iの否定性を受けて、反感的になるのである。それは、凸i*凹i⇒に示されているだろう。
 思うに、凸凹(i*i)⇒となるのではないだろうか。凸凹の凹が反感ではないだろうか。否定的感情ではないだろうか。あるいは、敵意、攻撃性ではないだろうか。反動性と言ってもいいだろう。
 このとき、凹iが凹化していれば、凸凹凹(i*i)⇒となるだろう。それは、凸凹凹(i*i)⇒凹となるだろう。これが、差異共振の道と考えられるのである。
 哲学的には、スピノザが歓喜の感情を肯定したが、思うに、凹凹iは歓喜の精神を含むと言えるだろう。しかし、単純に歓喜ではないだろう。ただし、肯定の精神と言えよう。
 これは、ヘーゲルの否定の精神とは正反対である。
 しかしながら、肯定の精神とは言え、批判はあるのである。肯定を保留しながら、批判するのである。
 後で再考したい。





現象光と凸iの原光の結合としての近代主義:凹iへと潜水して光と闇を融合させて超越光を点火する
テーマ:manichaeism: 哲学
簡単に予見を言う。
 実MPで現象光(可視光)が発生する。この可視光と凸iの光(原光)の関係はいかにである。
 私見では、虚MPの超越光が実MPの現象光へと転化するのである。超越光の成分は凸iと凹iであり、現象光も基本的には同じである。
 では、現象光において、成分の凸iと凹iはどうなっているのか。(今、思ったのは、超越光を凹iに、現象光を凸iとする考え方であるが、これは今はおいておく。)
 現象光(物質光)においては、もはや、成分の凸iと凹iは消えていると考えられる。現象光に変化したと言ってもいいだろう。(もっとも、丁寧に言えば、現象光はmedia pointをもつのであり、その点では、凸iと凹iの成分はあるのである。)
 そう、正に、量子論的絶対的矛盾が生じる領域である。一方では、現象光であり、他方では超越光的である。
 とまれ、そうすると、現象光の「内部」には、凸iと凹iの共振が存するのであり、原光と原闇が存しているのである。もっとも、それらは、超越光的な存在となっている。
 以上から、実MPの現象光と凸iの原光は異なることが判明した。
 では、凸iの原光、凹iの原闇とはいったい何であろうか。
 それは、原外部と原内部であろう。外部への志向と内部への志向とも言えよう。感覚と精神であろう。脳で言えば、大脳皮質と間脳であろうか。あるいは、頭部と内臓部である。
 現代日本の病巣は、現象光と凸iの原光が結びついていることであり、凹iの原闇が排除されていることである。わかりやすく言えば、凹iという魂が排除されているのである。そのために、真の精神、生命、そして、個がないのである。
 近代主義は、現象光の外部性と凸iの原光との結合に拠るとも言えよう。 
 そして、その光の志向性は意味があったのであるが。とまれ、近代は凸iに強く傾斜しているのであり、そのために、凹iを認知することが困難なのである。
 もっとも、単に凹iへの志向は、あしき神秘主義になるだろう。問題は、光と闇の拮抗である。
 光を志向しつつ、闇へと「潜水」しないといけない。光と闇との結合によって、超越光を点灯することになるのである。それが、マニ教の光の種子の目覚めである。
 今はここで留める。





現象とは何か:光による反映としての現象
テーマ:森羅万象
一体、現象とは何か。当然ながら、光が当たって、「物質」が可視化するのである。
 予見を言えば、凸i⇒凸が現象である。しかしながら、対象物は単に「物質」凸でいいのか。私は対象的物質体には、以前指摘したように特異性があるのであ る。つまり、media pointである。つまり、光が対象に当たったとき、その対象物は、media point性を帯びるのである。
 つまり、やはり、凸i*凹i⇒凸と見るべきである。現象的対象には、凹iも関与しているのである。
 あえて言えば、凹も背後で関与していると思われるのである。そう、正に、イデア論である。
 だから、現象と単に物質現象と見るのは、誤謬である。物質現象は仮象にすぎない。
 現象にはmedia pointと差異共振エネルギーが関与し、又、根源では超越的存在凹が関与していると見るべきである。
 以上は予見であり、後で具体的に緻密に検討したい。





検討問題諸々
テーマ:検討問題
1)虚MPと実MPは不連続。精神子と遺伝子は不連続。有り体に言えば、才能は遺伝しない。長嶋監督親子。

2)ロレンス言語芸術speech artの存在表現(表象)とは何か。また、その存在とは何か。
 D. H. ロレンスのSons and Loversを読んで、まるで自分の真正面に生々しく登場人物が存在し、語っているかのように感じて、驚愕した。このようなことは他の文学ではなかったことだ。
 基本的にリアリズムとは、第一象限のものを第二象限にうつすことである。しかし、ロレンスの場合はそれでは語り尽くせないない絶対的存在性が感じられる。
 先に述べたが、ロレンス文学・哲学の場合、虚MPにおける光をベースにして、凸iの(外的)感覚を表象していると思う。
 通常のリアリズムは凸iの感性で映しているに過ぎない。しかし、ロレンスの場合、凸iと凹iの差異共振の光において、第一象限を映していると考えられる。
 つまり、第三象限の背景のもとに、第一象限を第二象限化、つまり、感覚表象化していると考えられる。
 第三象限のバックグランドが存在を喚起させると思われるのである。これは、他の作家ではほとんどないものである。ほぼ類を見ないのである。
 思うに、古代的な神話に類縁性があるだろう。

3)今や、精神世界の主導性が判明したのであり、物質世界主義は滅びたと言えよう。精神の共振が新世界を生むのである。目に見えない精神氣の世界が主導するのである。

4)おそらく、広義的にみると、明治維新とは、古代ギリシアの現代版に評価させるだろう。もっとも、あまりに父権化してしまった。しかり、PS理論が誕生 した今、明治維新は、古代ギリシアに匹敵する世界的大変革・大進化を意味しよう。そう、近代・現代日本は古代ギリシアのラセン的回帰である。

5)D. H. ロレンスの性の表現について:それは、端的に、精神の表現である。民衆にわかりやすいように性的表現をしたのである。結局、プラトンのエロースと一致する。

6)色彩とは何か。現代日本人は伝統的色彩感を暴力的に抑圧されている。色彩は自由である。これを解放する必要がある。そう、端的に、色彩とは精神である。氣である。生命である。

7)現代は、ポスト・モダン、トランス・モダンというより、トランス・オクシデントと呼ぶべきであろう。

8)セックスとは、精神の物質化である。これは既述事項である。

9)イエス・キリスト、これが、最高の謎であろう。しかし、今や、聖霊の時代であるから、その問題は克服されている。
 
10)これまでの教育、近代教育は、第一象限、第二象限の領域であった。これは、真理に反する。第三象限こそ、真理である。

11)資本主義とは何か。同一性に駆り立てられた差異の経済である。あるいは、貨幣に駆り立てられた個の経済である。
 この主従関係を逆転すればいいのだ。差異や個(他者)を主とし、同一性、貨幣を従とすればいのである。
 つまりトランス資本主義である。

12)肝心なことを言うのを忘れていた。mitreである。これは、以前から知っているが、昨日、ジョゼフ・キャンベルのPrimitive Myothologyを読んでいて見つけたものである。それは、アステカ神話の箇所である(p. 222)。直観では、正に、ミトラである。太陽神である。どうも、古代アメリカ大陸は、ミトラ的文化であったようである。つまり、太陽神文化である。即 ち、シュメール・ケルト・アジア母権・母系・母神大文化圏に通ずるということである。

引用:
At a great festival in September, which was preceded by a strict fast of seven days, they sanctified a young girl of twelve or thirteen years, the prettiest they could find , to rrepresent the Maize Goddess Chicomecohuatl. They invested her with the ornaments of the goddess, putting a mitre on her head and maize-cobs round her neck and in her hands, ・・・ (p. 222)


参照:

mi・ter, 《英》 mi・tre /m#### | -t#(r/→#
#n.
1 司教冠, 主教冠, ミトラ, マイター《bishop や時に abbot が祭式の際に戴く冠; その頂上に横の深い溝があって二つの山形を成し, 後ろに 2 本の長ひもが垂れている》.
・confer [bestow] a miter upon… …に司教冠を授ける, …を司教の位につける.
2 司教の職[位] (bishopric).
3 (古代ユダヤの)大司祭 (high priest) のかぶり物.
4a (古代ギリシャの女性が着けた)髪ひも, リボン (fillet).
b 見返しや裾などの角の始末, ななめはぎ, 額ぶち始末.
5 【木工】
a 留形包(とめがたつつみ)打付継ぎ; =→miter joint.
b =→miter square.
6 【海事】 斜め縫合せ《三角帆の角などで額縁のように帆を斜めに縫い合わせる》.
#vt.
1 …に司教冠を授ける; 司教に任じる.
2 【木工】 留め継ぎ[斜め継ぎ]する; 留め継ぎ[斜め継ぎ]面に切る.
〜・er /-##r# | -t#r#(r/ n.
#《c1303》 mitre # (O)F # L mitra cap # Gk mitr# belt, headband, headdress#
図 miter 【挿絵】

[株式会社研究社 新英和大辞典第6版]

 
参考:

Mitre
From Wikipedia, the free encyclopedia
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This article is about religious headgear. For other uses, see Mitre (disambiguation) .


St. Zenon of Verona wearing a mitre.
The mitre ( / ˈ m aɪ t ər / ; Greek: μίτρα, "headband" or "turban"), also spelled miter, is a type of headwear now known as the traditional, ceremonial head-dress of bishops and certain abbots in the Roman Catholic Church , as well as in the Anglican Communion , some Lutheran churches, and also bishops and certain other clergy in the Eastern Orthodox churches , Eastern Catholic Churches and the Oriental Orthodox Churches .
Origin


Jewish High Priest wearing the mitznefet
[edit ] Judaism
In ancient Israel , the Kohen Gadol (High Priest) wore a headdress called the Mitznefet (Hebrew: מצנפת, often translated into English as "mitre"), which was wound around the head so as to form a broad, flat-topped turban . Attached to it was the Tzitz (Hebrew: ציץ), a plate of solid gold bearing the inscription "Holiness to YHWH "[1] (Exodus 39:14 , 39:30 ).
[edit ] Byzantine empire


Pope Gregory the Great wearing the camelaucum
The camelaucum (Greek : καμιλαύκιον , kamilaukion), the headdress both the mitre and the Papal tiara stem from, was originally a cap used by officials of the Imperial Byzantine court. "The tiara [from which the mitre originates] probably developed from the Phrygian cap, or frigium, a conical cap worn in the Graeco-Roman world. In the 10th century the tiara was pictured on papal coins."[2] Other sources claim the tiara developed the other way around, from the mitre. In the late Empire it developed into the closed type of Imperial crown used by Byzantine Emperors (see illustration of Michael III , 842-867).
In Western Europe, the mitre was first used in ancient Rome by the Salii and other priests, and outside of Rome about the year 1000. Worn by a bishop, the mitre is depicted for the first time in two miniatures of the beginning of the eleventh century. The first written mention of it is found in a Bull of Pope Leo IX in the year 1049. By 1150 the use had spread to bishops throughout the West; by the 14th century the tiara was decorated with three crowns.
[edit ] Christian clergy


Mitra simplex traditional style: White damask with its white lappets ending in red fringes.
[edit ] Western Christianity
In its modern form in Western Christianity , the mitre is a tall folding cap , consisting of two similar parts (the front and back) rising to a peak and sewn together at the sides. Two short lappets always hang down from the back.


The evolution of the mitre, from the Catholic Encyclopedia (1913)
In the Catholic Church, the right to wear the mitre is confined by Canon law to bishops and to abbots , as it appears in the ceremony of consecration of a bishop and blessing of an abbot. Cardinals are now normally supposed to be bishops (since the time of Pope John XXIII ), but even cardinals who are not bishops and who have been given special permission by the pope to decline consecration as bishops may wear the mitre. Other prelates have been granted the use of the mitre by special privilege , but this is no longer done, except in the case of an Ordinary of a Personal Ordinariate (even if he is a priest only). Former distinctions between "mitred abbots" and "non-mitred abbots" have been abolished.
Three types of mitres are worn by Roman Catholic clergy for different occasions:
• The simplex ('simple', referring to the materials used) is made of undecorated white linen or silk and its white lappets traditionally end in red fringes. It is worn most notably at funerals, on Good Friday and by concelebrant bishops at a Mass . Cardinals in the presence of the Pope wear a mitre of white linen damask.
• The pretiosa ('precious') is decorated with precious stones and gold and worn on Sundays and feast days. This type of mitre is rarely decorated with precious stones today, and the designs have become more varied, simple and original, often merely being in the liturgical colour of the day.
• The auriphrygiata is of plain gold cloth or white silk with gold, silver or coloured embroidered bands; when seen today it is usually worn by bishops when they preside at the celebration of the sacraments.
The proper colour of a mitre is always white, although in liturgical usage white also includes vestments made from gold and silver fabrics. The embroidered bands and other ornaments which adorn a mitre and the lappets may be of other colours and often are. Although coloured mitres are sometimes sold and worn at present, this is probably due to the maker’s or wearer’s lack of awareness of liturgical tradition.
On all occasions, an altar server may wear a shawl-like veil , called a vimpa , around the shoulders when holding the bishop's mitre. The vimpa is used to hold the mitre so as to avoid the possibility of it being soiled by the natural oils in a person's hand as well as symbolically showing that the person does not own the mitre, but merely holds it for the prelate. The person wearing a vimpa is also occasionally referred to as a vimpa. When a vimpa holds the crosier, he holds the crook facing inward, as another sign that the person does not hold the authority of the crosier.


Papal Arms of Pope Benedict XVI. The papal tiara was replaced with a bishop's mitre.
With his inauguration as pope , Benedict XVI broke with tradition and replaced the papal tiara even on his papal coat of arms with a papal mitre (containing still the three levels of 'crowns' representing the powers of the Papacy in a simplified form) and pallium . Prior to Benedict XVI, each pope's coat of arms always contained the image of the papal tiara and St. Peter's crossed keys, even though the tiara had fallen into disuse, especially under popes John Paul I and John Paul II . Pope Paul VI was the last pope to date to begin his papal reign with a formal coronation in June 1963. However, as a sign of the need for greater simplification of the papal rites, as well as the changing nature of the papacy itself, he abandoned the use of his tiara in a dramatic ceremony in Saint Peter's Basilica during the second session of Vatican II in November 1963. However his 1975 Apostolic Constitution made it clear the tiara had not been abolished: in the constitution he made provision for his successor to receive a coronation. Pope John Paul I, however, declined to follow Paul VI's constitution and opted for a simpler papal inauguration , a precedent followed by his two successors. Pope John Paul II's 1996 Apostolic Constitution left open several options by not specifying what sort of ceremony was to be used, other than that some ceremony would be held to inaugurate a new pontificate.
Pope Paul VI donated his tiara (a gift from his former archdiocese of Milan) to the efforts at relieving poverty in the world. Later, Francis Cardinal Spellman of New York received the tiara and took it on tour of the United States to raise funds for the poor. It is on permanent view in the Crypt Church in the Basilica of the National Shrine of the Immaculate Conception in Washington, D.C.
In the Church of England the mitre fell out of use after the Reformation, but was restored in the late 19th and early 20th centuries as a result of the Oxford Movement , and is now worn by most bishops of the Anglican Communion on at least some occasions.
The mitre has always been used in ecclesiastical heraldry to surmount the coats of arms of bishops in the Church of England (instead of a crest , which is not used by clergy). In 1969 the mitre was suppressed in all personal arms of bishops in the Catholic Church, and is since only found on diocesan coats of arms. In heraldry the lappets are depicted with red lining.
[edit ] Eastern Christianity


Golden mitre on Patriarch Maxim of Bulgaria .
The most typical mitre in the Eastern Orthodox and Byzantine Catholic churches is based on the closed Imperial crown of the late Byzantine Empire . Therefore, it too is ultimately based on the older καμιλαύκιον although it diverged from the secular headdress at a much later date, after it had already undergone further development. The crown form was not used by bishops until after the fall of Constantinople (1453).
The Eastern mitre is made in the shape of a bulbous crown, completely enclosed, and the material is of brocade , damask or cloth of gold . It may also be embroidered , and is often richly decorated with jewels. There are normally four icons attached to the mitre (often of Christ, the Theotokos , John the Baptist and the Cross ), which the bishop may kiss before he puts it on. Eastern mitres are usually gold, but other liturgical colours may be used.
The mitre is topped by a cross, either made out of metal and standing upright, or embroidered in cloth and lying flat on the top. In Greek practice , the mitres of all bishops are topped with a standing cross. The same is true in the Russian tradition . Mitres awarded to priests will have the cross lying flat. Sometimes, instead of the flat cross, the mitre may have an icon on the top.
As an item of Imperial regalia , along with other such items as the sakkos (Imperial dalmatic ) and epigonation , the mitre came to signify the temporal authority of bishops (especially that of the Patriarch of Constantinople ) within the administration of the Rum millet (i.e., the Christian community) of the Ottoman Empire . The mitre is removed at certain solemn moments during the Divine Liturgy and other services, usually being removed and replaced by the protodeacon .
The use of the mitre is a prerogative of bishops, but it may be awarded to archpriests , protopresbyters and archimandrites . The priestly mitre is not surmounted by a cross, and is awarded at the discretion of a synod of bishops.
[edit ] Oriental Orthodox Christianity
Oriental Orthodox bishops sometimes use mitres, either of the Western or Eastern style. In the past, Coptic bishops have worn the ballin, an omophorion wound around the head like a turban . The Coptic Patriarch of Alexandria will often wear an Eastern-style mitre. Coptic priests frequently wear a mitre, similar to a Western bishop's mitre.
Syriac Orthodox bishops wear the maşnaphto (literally, 'turban') when presiding at the Divine Liturgy . This is a large, richly embroidered hood, often depicting the Holy Spirit as a dove.
Armenian Apostolic bishops wear tall and distinctively tapered Western-style mitres. The Armenian bishop's mitre differs from its Western counterpart in that the points at the top are usually joined together. Armenian priests regularly wear Byzantine-style mitres (symbolizing the sovereignty of Christ). On certain solemn occasions, Armenian deacons will wear the mitre also, although the deacon's mitre is somewhat narrower than that of the priest.

ミトラ教 - Wikipedia

ミトラスと処女からの誕生 [編集 ]
ミトラス教学者ではないジョセフ・キャンベル はミトラスの誕生をイエスのそれのような処女からの誕生 であると記述した[14] 。彼はその主張に、古代の出典を与えていない。どの古代の原典においてもミトラスが処女から生まれたとは考えられていない。むしろ、洞窟の岩から自然に目覚めている[15] 。Mithraic Studies では、ミトラスは堅固な岩の中から大人の姿で生まれてきたと述べられている。「プリュギア の帽子を被り、岩の塊から生じた。今までのところではまだ彼の剥き出しの胴は見えない。めいめいの手で彼は灯された松明を高く掲げる。風変わりな細部として、ペトラ・ゲネトリクス(母なる岩)から彼の周りに赤い炎が吹き出る」[16] 。デイヴィッド・ウランジーはこれが鍾乳洞で生まれたとするペルセウス 神話から着想された信仰であると推測する[17] 。






検討問題:ケルト・アジア母権大文化圏とシュメール:高度母権文化と父権民族
テーマ:検討問題
1)血とは何か。精神と血の連関。氣と血の連関。予見では、血は、氣(精神)の物質的媒体である。民族の血を問題にするのは正しいだろう。

2)ケルト・アジア母神・母権・母系大文化圏とシュメールの関係を丁寧に考察する:ケルト文化の鹿と仏教の鹿。そして、奈良公園の鹿。等々。以前、ツングース系で共通点を見た?

3)シュメールに関して:問題は、アーリア民族と混淆しないことが必要なように思える。基盤にケルト・アジア母権大文化圏を見て、それとの関係を見ること。基底に母権文化があり、その後、父権的アーリア人が侵入したのが、基本的パターンである。

4)母権文化としてのシュメールを捉えるべきである。『ギルガメシュ叙事詩』からわかるように、その後、父権化されると思われる。

5)古代日本:思うに、ケルト・アジア母権大文化圏としての古代日本、とりわけ、沖縄があった。そして、また、北方系の母権民族もあった。
 しかしながら、その後、父権民族が日本に侵入した。それが記紀を形成したのでは? つまり、ギリシア神話的に、記紀を捉えるべきでは。

6)仮説:シュメール・ケルト・アジア大文化圏に父権民族が侵入して、父権文明が形成された。しかし、エジプト文明は父権文明ではなく、母権文明だろう。
 例えば、ジグラッド、ピラミッドの建築する高度の「科学・技術」はどこから来たのか。それは、母権大文化圏からだろうか。
 直観では、ベースに母権大文化圏、母神大文化圏、日神信仰文化圏があり、そこに、なんらかの知的文明が入ったのである。それは、父権文明だろうか。そう ではなく、滅びたアトランティス文明の知性ではないだろう。その高度知性と母権文化が結合して、高度な母権大文化圏が創造されたのではないのか。
 その後、父権民族(とりわけ、アーリア民族)がそれへ侵入して、高度母権民族文化を父権的に再編したのではないのか。それが、文字として、神話に残っているのでは?
 父権文明とは高度母権大文化圏の知を簒奪した、「パクッタ」のではないのか。典型がキリスト教文明であろう。
 古代日本においても、このパターンがあったと推察される。つまり、高度母権文化が基盤にあったのであるが、その後、父権民族が侵入して、それを父権的に改変したと思われる。それが、記紀のように思われる。
 沖縄周辺
(与那国島海底地形 - Wikipedia  
与那国町 - Wikipedia )
の海底にある古代の遺跡が、高度母権文化の名残のように思える。だから、なんらかの、自然的破壊があったのようにも思える。大洪水である。
 そして、沖縄文化はその高度母権文化の残照ではないだろうか。
 
7)仮説:古代日本の成立は、高度母権文化民族(シュメール・ケルト・アジア母権大文化圏)と父権文化民族の統合に拠る。後者は思うに、ユダヤ民族に近いものである。
 しかし、思うに、シャーマニズム的北方遊牧民族が侵入したのかもしれない。それは、父権なのか、母権なのか、わかりにくいのである。これとシュメール宗教・神話との関係があるかもしれない。
 思うに、南方的シュメール・ケルト・アジア母権大文化(海洋民族)と北方的シャーマニズム的文化(遊牧民族)の結合が古代日本文化かもしれない。
 ひょっとしたら、古代日本には、父権民族は入っていないかもしれない。失われたユダヤの十支族であるが、それは、父権民族であるが、背景は母権である。
 そう、もし、古代日本において、父権があるなら、それは、ユダヤ民族ないし中国民族の可能性がある。
 とまれ、古代日本=南方シュメール・ケルト・アジア海洋・母権民族+北方シャーマニズム遊牧民族+父権的ユダヤ民族・中国民族を作業仮説としたい。
 
8)女性の精神の問題:基本は凹iであるが、凹i⇒凸iとなり、この凸iが今日支配的になっているのでは。だから、女性は、根元の凹iに回帰する必要がある。ロレンスは『逃げた雄鶏(死んだ男)』でここに到達した。

9)凸i*凹i⇒凸(+1)
において、凹iを凹凹iにすると、凸i*凹凹i⇒凹となる。
これが、虚MPの事象ではないのか。差異共振とはこれであろう。凹iを凹化することが必要なのである。これが、自己の差異化、他者化である。個=他者化である。
 とまれ、これは何度か既述した。

10)今日の若者は、両極化しているのでは。一方では、個的であり、他方は自我中心的のように思える。善と悪。

11)ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11142947671.html
において述べたことは粗いので、精緻化が必要である。即ち、次のように述べたことを緻密化する必要がある。

『とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。』

牡牛の角をもつ王冠がアヌだから、牡牛+王冠=アヌだから、全体で大女神(太母神)とそれが帯びる太陽神と見るべきであろう。つまり、大女神と太陽神はいわば未分化のような様態ではないだろうか。
 とまれ、太母神/日神の母権文化がシュメール文化にあったことは確かと考えられる。

12)感覚や精神は氣的であり、エネルギーをもっているだろう。とりわけ、視覚は氣エネルギーをもっていると思う。だから、ある空間物に対して、共感生命的に反応する場合と反感不健康に反応する場合がある。
 有り体に言えば、東京の町並みは後者であり、身心を害すると考えられる。それに対して、自然的景観は前者である。
 近代合理主義/近代的自我は同一性=物質主義なので、この点をまったく排除しているのである。
 氣・精神・生命的感覚を否定しているのである。芸術も本来、ここに根元があると考えられるのである。モーツァルトの音楽、あるいは、マーク・ロスコの絵画はそのようなものである。
 つまり、虚MPにおける差異共振エネルギー感覚を今日喪失しているのである。虚数濃度、精神濃度が極小値化しているのである。
 当然と言えば、当然である。氣・精神・生命エネルギーを認めると、物質科学、唯物論が崩壊するからである。
 しかし、今や、氣・精神・生命エネルギーの新時代である。あるいは、宗教の復活の時代とも言える。
 宇宙の氣・精神・生命エネルギーが今、活発に人間に働きかけていると察せられる。
 以前は氣霊という言葉を使用したがそれでもいいだろう。あるいは、氣的精神である。
 これと電磁波との関係であるが、確かに、現象としての氣的精神、氣霊は電磁波として作用するだろう。
 しかしながら、虚MPないし第三象限の、いわば、超電磁波、超越光をもっていると考えられる。





絵画と平面
テーマ:art & design
スクリーンセーバーで画面に曼荼羅のような模様が出てきて、きれいであるが、いかにも平面的、深みがないのである。
 優れた絵画なら当然、一種の深みがある。これは何か。それは、端的にmedia pointの表現を意味しよう。虚数濃度で言えば、pHの高い数値のものである。
 そう、いわゆる、写真と現実との違いもこれで説明できるのではないだろうか。下手な写真は平板であり、薄っぺらである。それに対して、現実はそれなりに 厚みがある。これは、現実の光、差異共振の光が生み出しているのではないだろうか。だから、ここにもmedia pointが関係するのである。
 今日の芸術が面白くないのは、この点を近代主義によって完全に喪失しているからと考えられる。
 だから、PS理論は芸術も復興させると言えよう。





虚数濃度(精神濃度)概念:精神的pH値:アルカリ性=母権=個・他者と酸性=父権=自我
テーマ:manichaeism: 哲学
以下のKaisetsu氏の新しい視点、概念は興味深い。画期的なのは、統一したレベルで精神様態が表記できることである。
 私は凹iは肚、凸iは頭、media pointは心・心臓・胸というように古典・伝統的にイメージするが、その場合、統一性、ないし、直観性が欠落するのである。
 リトマス試験紙のようなpH概念を使えば、確かに、直観的に明快である。
 思うに、虚MPから空孔MPを介して実MPへと光エネルギーが転移する。そして、究極的に物質化する。
 それが、自然のエネルギーの流れである。しかし、人間の精神においては、虚MPの強い人がいるのであり、その人は精神性が高いのである。以前述べた「高 貴な差異」である。それに対して、実MPの強い人、あるいは、虚MPの弱い人がいるのである。それが、精神性の低い人、「劣弱な差異」である。
 前者は確かに、凹iの強い人であり、pHが大きいと言えようし、後者は凸iの強い人であり、pHが小さいと言えよう。
 これをジェンダー文化論に適用すれば、母権主義は虚数濃度(精神濃度)が高いのであり、父権主義は低いということになる。
 思うに、母権をアルカリ性、父権を酸性とすれば、通常の社会は両者の混淆である。しかしながら、今日の社会は後者が支配的である。酸性が強く、アルカリ性が弱いという酸性の土壌になると言えよう。
 日本の場合が典型であり、アルカリ性が大都市ではほとんど消失しているのである。
 そう、酸性は自我、アルカリ性は個=他者とも言えよう。とまれ、光エネルギーの虚数濃度、精神濃度という概念が提起されたと言えよう。
 
**************************

【Mental Ph level】 虚数濃度(精神濃度)の概念提示

但し、虚数濃度(精神濃度)の概念は、ガウス平面上の認識とは、別途の基準であり、単に、外向きに虚数濃度が高いか、内向きの虚数濃度が高いか、についての基準である。

 このため、第1象限と第2象限、或いは、第3象限と第4象限との区別は困難である。

 丁度、リトマス試験紙のように、酸性濃度、アルカリ濃度のような感じである。

 PS理論では、外部の光も内部の光も、同じように、電磁関連作用と仮定しているので、虚数濃度(精神濃度)は一定の単位領域当たりの電磁関連作用の強さである。矢印の根元の部分と先の部分との相互作用の強さである。プラトニック・シナジー作用の強さである。

 やはり、リトマス試験紙の例が分り易いであろう。

 そこで、Ph濃度の方式を、便宜的に、活用する方法も可能である。

 凸i方向を酸性、凹i方向をアルカリ性と見做して、

 ガガの写真はPh3、一方、マニ教はPh12のような指標例である。中性、つまり、精神性ゼロはPh7である。

 マニ教の表現に従うと、「肉体の中に光の粒が単位面積当たりに大量に含まれている」場合、肉体の中の光の粒は「内なる光の粒」であるから、虚数濃度はマ イナス70%とか、精神Ph濃度は強アルカリ性で12(Ph12)のような表現方法になる。また、ガガの写真は、強酸性でPh3というような使用例であ る。
海舌 SeaTongue@Kaisetsu





ケルト・アジア母権・母系的大文化圏とシュメール民族・文化
テーマ:manichaeism: 哲学
Kaisetsu氏による、私論の心強い傍証というか、発展的見解である。
 また、シュメール神話(宗教)の最高神はアンAnuであり、天の神である。しかし、女神はイナンナinannaである。
 どうも、Anuにしろ、inannaにしろ、ANが共通である。これは、DANUと通ずるのはないだろうか。そう、ケルト民族の大女神ダヌと通じるように推測される。
 そう作業仮説すると、このケルト・アジア圏にシュメールも入ることになる。
 ところで、シュメールの最高神の天空神のアンであるが、これは、どうも、男性神ではなく、女神ではないだろうか。これは課題としたい。

追記:以下、参考1に次のように述べられている。

「人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、・・・
シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

・・・

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。 」

とりわけ、「雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。」が意味深長である。牡牛の王冠は太陽神であろう。それが、アヌであろう。しかしながら、牡牛こそ、根源の大女神である。それが、王冠=アヌ=太陽神を産むと考えられる。先に、シュメールのテラコッタ「月の牡牛とライオン鳥」を指摘したが、王冠=ライオン鳥になるだろう。
 やはり、シュメールはケルト・アジア母権・母系大文化圏の源泉のように思える。すると、シュメール・ケルト・アジア母権・母系大文化圏が存したということになる。

参照:

DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。
DANU 神は、「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ。

Resurrection氏が以前から提示されておられるケルト民族と 古事記などの倭人の民族伝承が似ていることについて、最近の海舌の沖縄の歴史や任那・日本府の研究によって、また、DANU 神について、これもResurrection氏のヒントに導かれたものであるが、DANU 神が「ケルト(欧州)、タミール(南インド)、ケダ・ペラク、沖縄、任那・日本府、坊津、奈良、伊勢、常陸」を結ぶ共通の母神である可能性が非常に高いと いう結論を海舌も提示したい。

ケルト民族の崇高な母神であるDeua Brigantiaの姓は、「Deua」である。

原型は太陽神であった、と思われる。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813407
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参考:

http://yamataitenku.progoo.com/bbs/yamataitenku_topic_pr_12.html のキャッシュ
邪馬台国天空掲示板


[12] シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 18:49 [ 返信 ]

シュメールの最高神アンの娘イシュタルですが、2匹の獅子をしたがえて、2羽の
鳥(フクロウ)を従え、王冠を被り羽を付け神紋を持っています。

一般に「イシュタル」という名前で知られている太古の女神は元々のシュメールの地
では「イナンナ」と呼ばれていました。

このイシュタルは金星の女神である。
古文書でイシュタルについて語られているものは主として二つあります。一つ
が「イシュタルの冥界下り」と呼ばれているもので、もう一つが「ギルガメッ
シュ叙事詩」です。
イシュタルは巨大な牡牛を送りギルガ
メッシュ王を殺そうとしました。この牡牛は天の牡牛座を降ろしたものだと言
われています。
金星と牡牛座の関係
イシュタルは冥界に行かなければならないと考えた」という文章でこの物語は始まります。

第2の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの耳飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは耳飾りを渡しました。

やがて第3の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの首環をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは首環を渡しました。

やがて第4の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの胸飾りをここでお預かりしま
す」といいます。そこでイシュタルは胸飾りを渡しました。

やがて第5の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰帯をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰帯を渡しました。

やがて第6の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腕環と足環をここでお預かり
します」といいます。そこでイシュタルは腕環と足環を渡しました。

やがて第7の門に達します。「私はイシュタルです。通しなさい」すると門番
は「お通ししますが、冥界の掟により、あなたの腰布をここでお預かりします」
といいます。そこでイシュタルは腰布を渡しました。

・・・

こまった天神エアは月の神シンと相談し、宦官アスシュルナミルを冥界に派遣
してエレキシュガルを説得、彼女はしぶしぶ生命の水をイシュタルにふりかけ
て蘇生させますが、彼女を地上に戻す代わりに誰か代わりの者を冥界に連れて
来るように、と要求し、認められます。

そこで冥界の侍従が地上に出て代わりの者を物色していたところ、イシュタル
の夫のドゥムジが妻が死んだというのに喪にも服さず遊びほうけているのを見
つけます。けしからん奴だというわけで、ドゥムジをイシュタルの身代わりに
冥界に捕らえておくことにし、イシュタルは解放されます。

・・・

イシュタルが地上に戻ると再び人間や動物は愛し合って子供を産むようになり、
植物も実をつけるようになりました。
性器を要求するというのはこの神が豊饒の神の要素を持っているということを示している。


[13] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会
2008/11/03(月) 19:05

河の神、女性. 父:? 母:? 豊穣、安産の女神でもあり、 百の星で飾られた王冠と
四角い金の髪飾りを付けている。

人類最古の文明の担い手はシュメール人
最初にこの地に栄えたのは母系社会のシュメール人、そこにやってきたのが野蛮な遊牧民のアッカド人(白人類)

シュメール初期王朝時代
雄牛の角を持つ王冠はアヌを表している。
シュメール神話。ウルとハランを中心に崇拝。三日月を武器とし、満月を王冠とする。邪な者達の悪事を、その光によって暴くとされている。

山羊は性的な多産のシンボルであった王冠の印にも使われ、国王を象徴する樹木とされています。

にヤーウェの原点はシュメール神話の中でも最も
古い神に属する、雄牛の角の王冠をかぶったアヌ(アン)神という線が妥当だという事になるだろう。


「世界ビール大百科」{シュメール・ビール}) などの形で言葉が残されている。 最初ビール造りは家庭内での女性の仕事

シュメール文明においては、シカル(ビール一般)、ビーカル(強いビール)、カッシ(黒いビール)、カッサグ(上等の黒いビール)、カッサガサーン(最上のビール)、カッシグ(赤いビール)などの名称があった。

シュメール天空の王鷲 太陽は偉大なる天空の王 ヨーロッパでは権力の象徴とされる
天の川。 仏項天空の王が金輪である。

ギルガメシュ (イラク・メソポタミア) シュメール,バビロニアの英雄神。 頭部に王冠をかざす。
牡山羊 シュメール初期王朝時代 前2600年頃 ウル出土 」「彩色土器の皿 ハラフ期 前4400年頃 アルパチャ(イラク)出土国立イラク博物館蔵」 32花弁。



[14] RE:シュメールの最高神アンの娘イシュタル Name:児島歴研会 2008/11/03(月) 19:20

シュメールはウルクの女神イナンナ
イナンナ神。別名「天の貴婦人」。
牛角付きの冠
像や絵を「女性」と判断するか「女神」と判断するか?
牛角付きの冠をつけているものは「神様」ということになる。

古代メソポタミアの都市国家シュメールで発明された戦車。四輪で車輪に輻がなく、ろばが牽く車体に乗った御者が女神と並んで座り、王冠を戴いている。

シュメール人による文明が誕生し、都市国家というものが初めて建設された。

多産系の安産タイプの女性はこのオキシトシンがわずかしか検出されない。すなわち前世の記憶を持った子が生まれる可能性高い。前世の記憶を持つ子供の分布は圧倒的に東南アジア、インド、中国、いわゆる多産系の民族に多い。

シュメールにおいては、月を司るとともに大地と大気の神として信仰されていた。
シュメール人の女性のように、口腔性交、または肛門性交を行うとき(男性優位の正常値。
シュメール人に文明を授けたオアネスである。このオアネスは魚の頭の下に
人間の頭があり、尾ヒレのある当たりに人間の脚が生えている。

「ギルガメシュ叙事詩」は、シュメールの王(スメラのミコト)として存在した。

シュメールのイナンナ、時には男装(武装)をして闘う女神の姿もある
これは相対している。

シュメールの文字および漢字は現在. 私達が使う 言語の起源といえる。
シュメール(メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域)




参考2:
Sumerian religion - Wikipedia, the free encycloped
The Pantheon/the Annunaki
The majority of Sumerian deities belonged to a classification called the Anunna (“[offspring] of An ”), whereas seven deities, including Enlil and Inanna, belonged to a group of “underworld judges" known as the Anunnaki (“[offspring] of An” + Ki ).[citation needed ] During the Third Dynasty of Ur , the Sumerian pantheon was said to include sixty times sixty (3600) deities.[8]
The main Sumerian deities are as follows:
• Anu : God of heaven/the firmament .
• Enlil : God of the air (from Lil = Air); patron deity of Nippur .
• Enki : God of freshwater, male fertility, and knowledge; patron deity of Eridu .
• Inanna : Goddess of sexual love, female fertility and warfare; matron deity of Uruk .
• Ninhursag : Goddess of the earth.[9]
• Nanna , God of the moon; one of the patron deities of Ur .[10]
• Ningal : Wife of Nanna.[11]
• Ninlil : An air goddess and wife of Enlil; one of the matron deities of Nippur ; she was believed to reside in the same temple as Enlil.[12]
• Ninurta : God of war, agriculture, one of the Sumerian wind gods; patron deity of Girsu and one of the patron deities of Lagash .
• Utu : God of the sun at the E'barbara temple[13] of Sippar .

参考3:
Anann



Paps of Anu ; the western Pap from the eastern Pap
In Irish mythology , Anann (Anu, Ana, Anand) was a goddess . 'Anann' is identified as the personal name of the Morrígan in many MSS of Lebor Gabála Érenn . With Badb and Macha , she is sometimes part of a triple goddess or a triad of war goddesses .[1] As such, she may be a Celtic personification of death , and is depicted as predicting death in battle. As a goddess of cattle , she is responsible for culling the weak. She is therefore often referred to as "Gentle Annie", in an effort to avoid offense, a tactic which is similar to referring to the fairies as "The Good People".[2]
She may be identical with Danu or Aine .[citation needed ] She was a goddess of fertility , cattle, and prosperity, and was known for comforting and teaching the dying. Fires were lit for her during Midsummer .[citation needed ]

[edit ] Etymology
This name may be derived the Proto-Celtic theonym *Φanon-.[3]
[edit ] Paps of Anu
Anann has particular associations with Munster : the twin hills known as the Paps of Anu (Dá Chích Anann or the breasts of Anu), at 52°00′55″N 9°16′09″W , near Killarney ,[4] County Kerry are said to have been named after this ancient goddess.[1]

http://en.wikipedia.org/wiki/Anann

参考4:

ダヌ
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8C

参考5:
12.シュメール民族の謎
メソポタミア地方に最古の都市文明を築いたシュメール民族は、突然この地方に都市文明を築いた。かれらは、自らを「黒い頭」と呼び、海からやってきたといっていた。イラクの高原からやってきたという説もある。それ以上はさかのぼることはできない。
  ここから話は飛躍する。
  高楠順次郎は仏典の研究から、メソポタミアのシュメール民族と、インド文明を築いたアーリア民族、あるいはポリネシア、メラネシア、マレーシアのマラ イ族、インドネシア太平洋海洋民族のルーツはただ一つ、中央アジアのコンロンの大平原のコタン文明を築いたシュメール族にあるとした。
  また、釈迦の出自も「世界最の知識民族であったシュメール族」王家の子孫であるとした。先祖に須彌(スメル)王が居たとして、仏典「仏本行集経」から系図も示している。
  また、伊勢などにつたわる「蘇民将来之子孫也」の護符をもたらしたのは、弓月の君に率いられてコタンから日本に移住した秦氏で、蘇民はシュメールのこ とであるとのことである。つまり、シュメール民族の流れは、秦氏として日本にも移住してきているとの説を唱えている。最近でも高楠順次郎の説を、岩田明、 太田龍、中丸薫などのシュメール民族中央アジア起源説の根拠としているようである。


  高楠順次郎など説にしたがえば、中央アジアのコンロン山脈の麓であるホー タンのあたりにいた世界最高の知識民族であったシュメール民族は、人口増加、天変地異や気候変動をうけて、各地に移住して文明を起こしていった。西にいっ てシュメール人となりメソポタミア文明を起こした。南下して、アーリア民族としてインド文明を起こした。また、海洋民族として東南アジアからポリネシア、 ミクロネシアの海洋文明をおこした。

http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode12.html








D. H. ロレンスの言語芸術speech artの存在的想像力について
テーマ:literature

狐・大尉の人形・てんとう虫/D.H. ロレンス

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死んだ男・てんたう虫 (1957年) (新潮文庫)/ローレンス

¥価格不明
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以下に付録として、福田恒存の『死んだ男』の名訳がある。本体はドゥルーズ夫妻によるロレンスの『黙示録論』の評論であるが、確かに啓発的な読みではあるが、PS理論からでないと本質は捉えられないと言えよう。
情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む (ポストモダン叢書)/ファニー ドゥルーズ

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D. H. ロレンス文学・哲学の文学、というか、言語芸術(ロレンス自身はspeech artと呼んでいた。確かに、彼の文学は口語、話し言葉主導であり、また、映像性、視覚性が強いので、そう呼ぶのは適切である)の存在的喚起力は、他の作 家には見られないものである。映画的とも言えるのが、映画を見ているときの想像力に近い。だから、映画的というよりは、やはり、存在喚起的想像力的という 言うべきであろう。
 これについてPS理論から解明したい。今は予見だけを簡単に述べる。
 それは、media pointの光の共振エネルギーをロレンスは表現しているのである。そのために、読者は深く存在的に表象を形成するのである。
 言い換えると、第三象限からの光(dark sun, dark ray)の差異共振エネルギーから第二象限を形成するのである。つまり、感覚的表象世界を形成するのである。
 同時にロレンスは第三象限の直観知を作品に表現するのである。哲学的なのである。
 そう、光のエネルギー的表象と直観的知(グノーシス)において、ロレンスは第三象限を源泉にしていると考えられるのである。
 今はざっと以上で留める。
The Fox; The Captain’s Doll; The Ladybird: Camb.../D. H. Lawrence

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The Complete Short Novels: The Captain’s Doll; .../D. H. Lawrence

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The Virgin and the Gipsy and Other Stories (The.../D. H. Lawrence

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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス - Wikipedia
デーヴィッド・ハーバート・ローレンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス

21歳の頃 (1906年)
誕生 1885年 9月11日
イギリス
ノッティンガムシャー 、イーストウッド
死没 1930年 3月2日 (44歳)
フランス
ヴェンス
職業 小説家
活動期間 1907年–1930年
ジャンル モダニズム
主題 性愛、社会、旅行小説、文学批評
代表作 小説: 白孔雀
短編: 菊の香り
戯曲: ホルロイド夫人
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デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence、1885年 9月11日 - 1930年 3月2日 )は、イギリス ノッティンガムシャー出身の小説家 ・詩人 。
1908年 ノッティンガム大学を卒業した後、小学校 の教員 となり、1911年 に小説 を出している。1912年 から1914年 にかけてドイツ に渡り、1914年 イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人 』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。
ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1] 。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である[2] 。
日本では第一次世界大戦 後の1920年代 頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代 には阿部知二 、伊藤整 、西脇順三郎 らによって広く紹介されるようになった[1] 。また、第二次世界大戦後には伊藤整が訳したローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人 』がわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件 が発生している。

・・・・・

外部リンク [編集 ]


英語版ウィキソースにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス 著の原文があります。

ウィキクォートにデーヴィッド・ハーバート・ローレンス に関する引用句集があります。
伝記 [編集 ]
• Biography from the Literary Encyclopedia
• Detailed biography, chronology and other resources at The University of Nottingham
• Audio interview with Mark Kincaid-Weekes, concentrating on the middle years of Lawrence's life
• Fyne Times Gay Great - DH Lawrence
作品 [編集 ]
• プロジェクト・グーテンベルク におけるデーヴィッド・ハーバート・ローレンスの作品
• Works by D H Lawrence at Project Gutenberg Australia
• Online editions of works , from eBooks@Adelaide
• D. H. Lawrence: Poems
• With the Guns, Lawrence's journalistic, and eerily prophetic, response to the start of the Great War
• Poetry Archive: 150 poems of D. H. Lawrence
• "The Deep End," a biographical essay by en:Benjamin Kunkel in en:The New Yorker
評論 [編集 ]
• "The Hostile Sun: The Poetry of D. H. Lawrence" by en:Joyce Carol Oates (1974)
• "Lawrence's Götterdämmerung: The Apocalyptic Vision of Women in Love" by Joyce Carol Oates (1978)
• "The Internal Travel Towards Jouissance" by Juliette Feyel
• "St Mawr: The Monk and the Beast" and "The Ending of Sons and Lovers" by Keith Sagar.
• The Prussian Officer and Other Stories 謎解きの魅力を持つ永遠の問題作 (宮脇孝雄 )
その他 [編集 ]
• D. H. Lawrence Museum and Heritage
• Illustrated history of Lawrence's life and death
• Frieda Lawrence Collection
• The paintings of D. H. Lawrence
• Online exhibition, 'A Literary Legacy: D H Lawrence at the University of Nottingham'
• D. H. Lawrence information and events website, endorsed by the University of Nottingham'
• Review of Michael Black's Lawrence's England: Thomas L. Jeffers, “Lawrence’s Major Phase,” Yale Review 90 (Summer 2002), 148-58.
• Review of John Worthen's biography of D. H. Lawrence, The Oxonian Review of Books
• "Mythic Patterns in 'The Plumed Serpent'" http://litscholar.net/plumed%20serpent/ThePlumedSerpent.htm
• "Memoirs of the Foreign Legion" http://gutenberg.net.au/ebooks03/0300711.txt
• Who’s Who in Gay and Lesbian History from Antiquity to World War II, Routledge; London, (2002), ISBN 0-415-15983-0



2012年01月18日(Wed)▲ページの先頭へ
光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)
註:人間認識図の画像付きは以下を見られたい。
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1783.html

光とは何か:虚MPの光(超越光、マニ教の光)、空孔(⇒)の光、実MPの光(現象光)

テーマ:media point

これは再確認ないしは再考である。
 先に、量子論は、media pointの実軸点で精神子を捉えていて、光は超越光=超光であると述べた(仮説)。(PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11138777900.html)
 ならば、それは肉眼の光とは異なるので、後者を説明する必要がある。
 結局、media pointの虚軸点(MP1ないしImaginary MP=IMP=虚MP:以下、虚MPとする。尚、MP2=Real MP=RMPは実MPと表記する。)で発生しているのが、超越光=超光としての光であり、これが、マニ教等の光と考えられる。(もっとも、精緻に言うと少 し異なるが、今はそのままにしておく。)
虚MPの光が言わば、下降して、実MPへと到達して、そこで、現象の光が発生するというように思われる。そして、実MPからさらに展開して、物質凸(+1)へと帰結するということになる。
 そうすると、虚MPの光と実MPの光の間にもう一つの光が考えられる。それが、いわば、滝、瀑布のような光である。あるいは、即非様態の光である。これを空孔Vacuumの光と呼んでおきたい。
 思うに、量子力学で捉えている光がこの空孔の光ではないだろうか。また、凸i*凹i⇒凸の⇒がこの空孔の光ではないだろうか(作業仮説)。(そして、⇒ の領域を空孔MPとも呼びたい。)ならば、左辺が虚MPを指していると見ていいだろう。そして、⇒の先端が実MPとなるだろう。
 ところで、凸iも光であるが、それはこの図式において、どうなるのか。
 以前、凸iを原光と呼んだが、一応、そう捉えていていいのではないだろうか。原光凸iと原闇凹iとの差異共振が超越光=超光としての光(マニ教の光)を産み出すのである。
 残った問題は、相対性理論と量子力学との関係の問題である。アインシュタインの捉えた光は実MPの光なのか。それとも、空孔の光なのか。光速度一定の光 は前者を指しているように思える。それは物質界を前提にしているからである。そして、量子力学は当然、後者を問題にしていることになる。
 そして、空孔の光、あるいは、⇒の光とは、絶対的矛盾を呈しているのである。精神子(超越光)であり、物質的光(現象光)であるという矛盾である。そう、この点を実を言い方で既述したが、今日の量子論は解明できていないと考えられるのである。
 有り体に言えば、精神子は無限大の速度であり、超光速である。しかしながら、それは、物質界の基準に拠ればのことではあるが。精神界においては、当然、 もはや、物質界の基準は適用不可能である。(精神界は超時間的な、ないし、観念同時の世界であるから、所謂、速度は問題にならないだろう。しかし、違う概 念がありそうではある。それは課題である。)
 ニュートリノが超光速という結果(まだ、観測問題があるが)は、この点に関係していよう。つまり、精神界の要素が物質問題に入ってしまっている為に、問題化してしまっていると考えられるのである。
 ここで今や大問題の放射性物質について簡単に触れると、それは、当然、実MPの現象と考えられる。つまり、物質的光に関係すると考えられる。つまり、端 的に言えば、原子とは実MP事象を意味していると考えられる。そう、電磁波とは正に、実MP事象であると考えられるのである。この問題はここで留めてお く。
 さて、この視点から、氣の問題を考えたい。これまで、氣を差異共振事象と捉えてきた。そうすると、虚MPの事象となる。しかし、それで本当に正しいのか。
 思うに、おそらく、それでいいのである。(上記、保留にしておいたが、人間の精神、認識、意識は、凸iの極限点【アーリマン】と凹iの極限点【ルシファー】の極性に関係している。これは、シュタイナー霊学のPS理論的解明である。)
 だから、氣は精神子であるということである。そして、それが、宇宙・自然的身体bodyをVector Modeとして形成しているのである。
 以上の考察から量子力学、ないし、素粒子論を考えると、それは、虚MPと実MPの混同があることは明らかである。
 問題は原子は実MP事象であるが、いわゆる、量子は空孔の光、⇒の光の事象であり、この点においても混同があると言えよう。
 また、帰結的に、量子論は虚MPと空孔MPと実MPの三者を混同していると考えられる。
 思うに、この三者を人間認識図に当てはめると、虚MPは第三象限、空孔MPは第二象限、実MPは第一象限に帰属するのではないだろうか。(凸、物質はあえて言えば、第四象限に帰属していると言えよう。)
 こう見ると、Kaisetsu氏が芸術を第二象限に定置していることが明瞭になる。それは、精神と物質の中間領域なのである。
 しかしながら、芸術、深淵な芸術は、精神子を表現しているのであり、その点では、第三象限を志向していることになるのである。その意味では、芸術はmedia pointから凹への線分領域に属すると言えるかもしれない。
 後でさらに検討したい。




PS理論とシュタイナー霊学:量子力学と精神子力学:超量子力学としてのPS理論

テーマ:manichaeism: 哲学

これについては、以前比較論を行った。そして、今でもそれはほぼ有効だと思う。
 ただし、直観的になにか重要な点で異なると感じるので、それを簡単に記したい。
 端的に言えば、後者は直観学であり、近代科学を批判していることである。言い換えると、シュタイナーにとって科学とは、近代科学=物質科学であり、量子力学を知らなかったので、量子論と直観がPS理論におけるように相関することを知らなかったと言えよう。
 シュタイナー霊学にとり、修行は基本的実践項目であるが、PS理論は修行を説かないのである。
 だから、後者はよりグノーシス(霊知)的と言えよう。もっとも、修行に私見では意味を認めないわけではない。
 ところで、今の時点で問題に思える点を述べたい。それは、精神と「量子」の問題である。
 私は精神振動と「量子」とを同一的に先には捉えた。つまり、高振動が精神的で、低振動が物質的と捉えた。
 しかし、これでは単に量的ではないかという直観があるので、問題に思うのである。
 もっとも、私は精神振動は倍音的ではないかとも感じているのである。例えば、太陽光は、物質光にはない倍音的振動をもっているのではないか思ってみるのである。
 しかし、それでもやはり、量的ではないだろうかという疑問がある。
 今、思い浮かべたのは、以前述べた区別である。即ち、いわゆる、量子とは、media pointの実軸で捉えられた「精神子」であり、「精神子」が虚軸に存するものであるということである。だから、太陽の光とは本来は「精神子」であり、そ れが、現象界においては、 実軸的「精神子」になっているというように思われる。
 そして、「精神子」とは本来、第三象限に属するものであり、差異共振状態である。
 どうもこの説明の方が高振動と低振動の区別よりいいと思われる。
 つまり、量子力学とは、根本的には、精神子力学であるが、現段階では、精神子の実軸的観測を理論化しているということになるのである。
 そして、だから、ニュートリノが超光速ということになるのである。
 しかし、精神子=「光(超越光=超光)」は物質的には無限速(「観念的同時」)であると考えられる。
 ということで、以前の考えにもどったことになる。だから、いわゆる、量子とは精神子をmedia pointの実軸、MP2で観測したものということである。量子論は半精神半物質科学であるということである。
 だから、PS理論こそ、トランス量子論、精神子力学と考えられるのである。それは、また、トランス霊学とも言えそうである。
 そして、鈴木大拙の即非の論理は精神子の論理であるし、D. H. ロレンスの文学・哲学は精神子の文学・哲学であるし、モーツァルトの音楽は精神子の音楽であると言える。
 ならば、PS理論は以前述べたように超量子力学である。



2012年01月09日(Mon)▲ページの先頭へ
精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
二つの世界:精神界と物質界:「死」と「生」
テーマ:manichaeism: 哲学

物質界がすべてと思うと、一期一会という発想が生まれるだろう。
 しかし、精神界を考えると、当然そうではなくなる。
 結局、人間は、精神界と物質界の両界の住人であるが、前者を忘れているのである。
 物質界において死ねば、「霊魂」は、精神界へと帰還すると考えられる。つまり、個は絶対的には死なないのである。
 物質界は「霊魂」の修行の場であり、「死後」、「霊魂」は精神界へと帰還すると考えられる。
 「霊魂」である個は、物質界において、物質の衣を着ていると言えよう。物質界の原理に服しているのである。
 結局、物質界に存する場合、精神界はほぼ不可知である。人間は物質界の法則に服するのである。しかし、それは、同一性の法則に過ぎない。
 結局、物質界において、物質の衣が強固なため、独立した精神を認識することが困難だと言えよう。
 物質は精神を恐れると言えるのではないだろうか。これはジェンダー的に言えば、父権は母権を恐れるということになるのではないだろうか。そう、母権、女性は、基本的に、凹iであり、第三象限に近い存在である。否、第三象限の存在と言うべきかもしれない。
 ということで、物質界においては、精神界を認識することはきわめて困難であると言えよう。


精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
テーマ:manichaeism: 哲学
先に以下の論考を書いたが、
『光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚』http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11129804530.html
高振動の精神的光について補足したい。
 それはmedia pointにおける凹i⇒凸iにおける第三象限から発する光である。内的光、超越光である。D. H. ロレンス的に言えば、dark rayとなろう。
 結局、この超越光を感受する能力がmedia pointに存するだろう。明確に言えば、media pointにおける凹iに存するだろう。即ち、media pointに差異共振エネルギーが生起するのは(内的に拠るものであれ、外的に拠るものであれ)、凹iが主導的な場合であり、凹iに超越光の感受点がある と考えられる。
 では、そのとき、凸iの視覚はどうなのだろうか。
 結局、凹iが主導的であるとは言え、差異共振であるから、両者が作動しているのである。凹i⇒凸iであるから、闇=陰が光=陽へと浸入していると考えられる。そのときに、超越光=精神的光が感受されるのである。
 だから、より正確に言うと、超越光=精神的光の感受とは、media pointを媒介として、凹iをベースにして、凸iに(も)存するということになるだろう。そう、凹iをベースに即非的視覚感受と言ってもいいだろう。つ まり、media pointを介して、主導的な凹iと凸iの共振状態に超越光=精神的光の感受が存するだろう。当然、凸iの本来の光の視覚にも、超越光=精神的光は感受さ れるのである。
 では、同一性=物質的光はどのように感受されるのか。それは、凸iが主導的になった場合と考えられよう。そのときは、差異共振が同一性志向に脇へ追いやられ、超越光=精神的光は精神的フィルターに濾過された同一性=物質的光に変換していると考えられるからである。
 そして、戦後以降のように近代合理主義=唯物論が支配的になると、超越光=精神的光は完全に排除されて、同一性=物質的光が中心化されるのである。精神的盲目状態である。
 しかしながら、凸iの主導化、同一性=物質的光の支配は、積極的意味があると考えられる。それは先に述べたように、陽極まりて陰に転ずという事態である。
 光が極まったとき、そのとき、闇へと転換するのである。つまり、新たな差異共振が生起するのである。新しい日あるいはdark sunの誕生である。言い換えると、先験的な超越光=精神的光ではなく、真に個的な超越光=精神的光が誕生すると考えられるのである。
 ただし、そのためには、なにか引き金が必要だろう。なんらかのショックが必要だろう。とまれ、絶対的個=差異になることが条件ではあろう。
 また、積極的な関与が必要である。それは闇=陰=凹iの関与である。だから、単純にトランス・モダンではないのだ。光に徹して、闇の深みに測鉛を垂下して、闇を測深する必要があるのである。
 光であり、且つ、闇である。光と闇の即非共振、即一を達成するのである。
 だから、サブ・モダンsub-modernではないだろうか。モダンからサブ・モダンへと深降することで、新しい日を達成するのである。

追記:sub=trans-modern、サブ=トランス・モダンという語も浮んだ。しかし、トランスなのだろうか。


光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚
テーマ:manichaeism: 哲学
今は問題提起に留めるが、どうも、視覚は二種類あるように思える。
 私は直観的に対象を見るのであるが、一般には、直観的視覚が少ないように思える。例えば、顔貌、相貌、人相は直観的に「見える」ものであるが、今日の人はそれが見えていないと思う。
 例えば、性格は相貌に出るものであるが、それが今日の人は一般に見えないようである。あるいは、顔写真に、当人の性格が現われるものであるが、今日の人には見えないようだ。
 そう、心や性格は顔貌に現われるのであるが、この力学はどういうものなのか。
 今は簡単に言うが、media pointが心や性格の核であり、その精神振動が表情に出ると考えられる。
 顔は物質的身体だけでなく、精神的身体でもあり、精神が顔貌、相貌、人相となると考えられるのである。精神振動、精神波動が精神的形態を造形しているのである。
 そして、それは当然可視的なのである。精神的に可視的なのである。つまり、精神的視覚があるのである。(それも一種の霊視であろうが。)
 ということで、確かに、少なくとも二つの視覚があるのである。物質的視覚と精神的視覚である。
 だから、それに即せば、二つの光があるということになるのだろうか? つまり、物質の光と精神の光があるのだろうか?
 少し視点を変えると、以前、音楽の精神的感覚と物理的音響感覚について述べた。例えば、バッハの音楽の場合、氣的精神があり、それが、音楽的音響となっていると述べた。つまり、精神的振動を伴った物理的音響がバッハの音楽である。
 このことは視覚についても適用できよう。即ち、精神的振動、精神的光の振動があり、それが、物理・物資的光となるのである。それが、顔貌、相貌、人相の形態となるのである。ただし、粗雑な、粗野な視覚では、それは不可視である。
 では、顔貌の場合、音楽とは異なり、顔という物理的身体に相という精神的身体が重なるということなのだろうか。
 思うに、身体は少なくとも二重的だと思う。遺伝的身体と個的精神的身体がある。
 この二重的身体が人を混乱させるのではないだろうか。そう、美術の場合は、音楽と同様に考えられるが、身体、特に「顔」の場合はそうはならないようだ。
 結局、同一性的視覚と差異的視覚があるのだ。物質的視覚と精神的視覚と言ってもいい。
 結局、前者は光の同一性的相を見ているのであり、光の差異的相を見ていないと考えられる。
 しかし、まだこれまで述べてきたことと不整合、齟齬がある。つまり、物質的光と精神的光があると述べたこととまだ、整合性がない。
 これは、やはり、振動ないし振動の様態(波形)で説明できよう。物質的光は低振動であり、精神的光は高振動であると考えられる。(波形の問題はおいておく。これは検討問題とする。)
 ということで、いちおう、説明がついた。即ち、二つの視覚、同一性・物質的視覚と差異・精神的視覚があり、また、二つの光、物質的光(低振動の光)と精神的光(高振動の光)が存するのである。
 顔貌・相貌・人相について言うと、相とは、精神的光の表出であり、それは、差異・精神的視覚が知覚するのである。しかし、今日、高位の視覚が劣弱なため に、精神的光の表出が不可視になっているのである。丁寧に言うと、高次の精神的光と低次の精神的光がある。高貴な精神の光と劣弱な精神の光である。卑しい 人間はその卑しい精神の光が顔貌・相貌・人相となって表出されるのである。
 思えば、ルドルフ・シュタイナーはこれから、善的人間と悪的人間はその性質が相貌・顔貌・人相にはっきり表出されるようになると予言していた。認識が深化することを考えれば、それは、以上の説明から理解できることである。
 後で整理したい。

追記:一般的には、二つの視覚は混同されている。つまり、未分化的に一致してしまっているだろう。区別していないのである。




2011年12月25日(Sun)▲ページの先頭へ
精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11116806982.html

精神振動7分節の順序:二重らせん的上昇的宇宙的進化:精神的色彩・光と物質的色彩・光:霊的日輪存在

先に(精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html)精神振動7分節の原理について簡単に仮説したが、次は順序を考えたい。
 作業仮説として、凸i/凹iの三元⇒media pointの一元⇒凹i/凸iの三元の順序をもつとする。
 可視光線(虹の七色)で言えば、最初の三元が赤、橙、黄の順であり、media pointが緑であり、最後の三元が青、藍、紫である。
 そして、この虚軸の7分節は当然、二重らせんを形成すると直観される。だから、螺旋的に赤から紫へと上昇(シュタイナーがゲーテの上昇を指摘したことに注意)するのである。
 そして、これが、「宇宙」進化の順序であると思われる。そうすると、それは必然を意味する。では、自由、個の自由はどこから出てくるのか。それは、この「宇宙」進化から独立していることに、個、個の自由が存すると思われる。
 つまり、個と一般性は異なるということである。つまり、「宇宙」進化とは一般的進化であり、個のそれとは区別されるということである。もっとも、個と一般的環境のある程度の相関性は考えられる。
 ここで注意すべき点を言うと、自然における色彩と物質的に形成される色彩は異なると考えられることである。
 自然における色彩は高振動の精神エネルギーを背後にもつのに対して、物質的色彩低振動の精神エネルギーを背後にもつと思われる。これは、氣と電磁波との違いに類似すると言えよう。つまり、一見似た現象においても、高振動のものと低振動のものがあるということになる。
 わかりやすく言えば、精神的背景のある色彩とそれのない色彩があるということになる。
 この違いの原因は何かと言えば、端的に、日、太陽の光の有無にあると言えよう。
 日光、陽光は、日輪「存在」のもつ超越性を帯びていると思われる。言い換えると、超越光を帯びているということである。
 それに対して、物質的色彩にはそれがないということである。
 つまり、日輪「存在」は第三象限性をもつのに対して、物質的光は第一象限性をもつということになろう。
 そう、端的に言えば、日輪とは精神・霊的存在、つまり、「日の神」、「天照大神」、「アフラ・マズダ」、「キリスト」である。霊的太陽である。D. H. ロレンスが唱えたdark sunがこれに通ずると言えよう。
 このように考えてくると、近代都市物質的生活のもつ、没精神性が浮き彫りにされると言えよう。自然・宇宙環境の乏しい、近代都市は明らかに精神・魂を喪失する環境であり、人間は悪魔・獣的にならざるを得ないのである。
 だから、近代世界は近代的唯物都市から崩壊していくと言えよう。日本はとりわけ東京から崩壊するのである。
 結局、ポスト近代として、自然・宇宙的ポリス(共同体)、多元的なローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークの時代が考えられてくるのである。
 しかしながら、民族性は創造的に保持されるのであるから、没民族的になることはない。だから、多元的ナショナル・ローカルな自然・宇宙的ポリス・ネットワークのエポックである。
 では国家はどうなるだろうか。これまでの国家は父権主義であった。新時代は母権主義であるから、父権的国家は衰退、消滅するだろう。
 民族的多元的ポリス・ネットワークをコントロールする中枢機能が当然必要になるだろう。それが、新国家であろう。しかし、それは、国家というより、スーパー・ポリスであろう。超共同体である。
 今はここで留める。
  

参考:

虹の七色とスペクトル型



虹の七色

赤 橙 黄 緑 青 藍 紫
に じ の な な い ろ

電磁波は、波長によっておおよそ以下のように呼ばれます。

電磁波の波長
波 長 〜1nm 1nm〜380nm 380nm〜780nm 780nm〜100μm 100μm〜
名 称 エックス線 紫外線 可視光線 赤外線 電 波
波長は目安で、決まっているわけではありません。

人間の目に見える光を可視光線と言います。
可視光線域はおよそ380nm〜780nmです。

可視光線
波長 (nm) 380〜430 430〜460 460〜500 500〜570 570〜590 590〜610 610〜780
色 相 紫 藍 青 緑 黄 橙 赤
波長は目安で、決まっているわけではありません。 1nm = 1ナノメートル = 10-9 m

 太陽の光をプリズムにあてると、きれいな光の帯ができます。これは、1668年にニュートンによって発見され、 スペクトルと名づけました。
 星からの光にも赤から紫までの虹の7色が含まれています。星の色は、表面温度の違いによって決まります。 この原因は、表面から放出される光の波長の分布が温度によって異なるからです。赤い星は、赤い光だけを 出しているのではなく、波長がより長い光を多く出しているので赤く見え、青い星は波長がより短い光を 多く出しているので青く見えます。

スペクトル型
スペクトル型 表面温度 (K) 色 例
O 30000 〜 50000 青 オリオン座の三ツ星
B 10000 〜 30000 青 スピカ、レグルス
A 7500 〜 10000 青白 シリウス、ベガ
F 6000 〜 7500 白 北極星、プロキオン
G 5300 〜 6000 黄 太陽、カペラ
K 4000 〜 5300 橙 アルクトゥールス、アルデバラン
M 3000 〜 4000 赤 アンタレス、ベテルギウス


 表面温度の単位は、K (ケルビン)です。これは、国際単位系 (SI) の基本単位のひとつで、 絶対温度のことです。摂氏 0度は 273.15K です。

--- 虹の七色とスペクトル型 ---

http://www1.odn.ne.jp/haru/data-other/rainbow.html




クンダリニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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クンダリニーを象徴化した絵
ナーディーとチャクラの位置を表した図
ヒンドゥー教
HinduismSymbolWhite.PNG
基本教義
輪廻 、解脱 、業 、梵我一如
神々
ブラフマー
シヴァ (パールヴァティー )
ヴィシュヌ (クリシュナ )
アスラ 、ヴァルナ 、
ヴィローチャナ 、ヴリトラ
ラーヴァナ 、インドラ
ナーガ 、ナーガラージャ
ジャガンナート
聖典
ヴェーダ
(ウパニシャッド )
プラーナ文献
マハーバーラタ
(バガヴァッド・ギーター )
ラーマーヤナ
六派哲学 の諸経典
法典・律法経
マヌ法典
ヤージュニャヴァルキヤ法典
宗派
ヴィシュヌ派 、シヴァ派
シャクティ派 、スマルタ派
人物
シャンカラ 、グル
修行法
ヨーガ
地域
インド 、ネパール
バングラデシュ
スリランカ 、モーリシャス
バリ島 、マレーシア
社会・生活
カースト 、ヴァルナ 、ジャーティ
不可触民 、サティー 、アーシュラマ
文化・芸術
寺院一覧 、遺跡一覧
表 ・話 ・編 ・歴

クンダリニー(クンダリーニ、Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、悟り を得るために必要なシャクティ (性力)のこと。クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガ は、「クンダリニー・ヨーガ 」と呼ばれる。クンダリニーを象徴化したものとしては、密教の軍荼利明王 がある。

「螺旋 」「コイル 」「巻き毛」「環」などを意味するサンスクリット の kundala(クンダラ)から派生した、「螺旋を有するもの」を意味する kundalin(クンダリヌ)の女性形主格が、Kundalini(クンダリニー)の語源である。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラ に眠っているが、ヨーガ の実践や宗教 の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー 結節、ヴィシュヌ 結節、ルドラ 結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱 に至る。今世で解脱できる魂 は極一部といわれている。性欲 を昇華 させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。
ナーディーとの関係 [編集 ]

体内(霊体)にあると言われるナーディー (en:Nadi (yoga) ) (気道)の中でも代表的なものは、動的で男性的性質のピンガラー・ナーディー(別名・太陽の回路)、静的で女性的性質のイダー・ナーディー(別名・月の回路)、そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディーの3つがある。ピンガラー・ナーディーとイダー・ナーディーの調和のとれた活性という条件の下、瞑想 時にスシュムナー・ナーディー内をクンダリニーが上昇した結果訪れるサマーディ に入定することが、サマーディより出定後も安全に高い霊性を維持していくための条件となる。
クンダリニー症候群 [編集 ]

科学的根拠がみあたらないために、人によって考え方がまちまちである。体感異常や心身症のことを自分でクンダリニー症候群だと思い込んでいるだけのケースや、逆にクンダリニー症候群であるにもかかわらず単なる精神病と誤解されるケースもあるようである。

クンダリニーを思い通りに、意図的に上昇させようとするクンダリニー・ヨーガ を激しく修行し実践する場合、その「思い通りに、意図的に」とは真我 ではなく個我にとってのそれであるため、クンダリニーが動的なナーディーであるピンガラー・ナーディーのみを通ってサマーディに入定してしまうことがある。そうなるとサマーディから出定後、クンダリニー症候群(英:Kundalini syndrome 中:走火入魔 )と呼ばれる症状が現れ、程度の深浅こそあれ、自律神経系 のうち交感神経系 の暴走からくる自律神経失調症 を呈し、そこから全身の激しい脈動、心拍数の増加と血圧の上昇、片頭痛 、慢性疲労症候群 、統合失調症 、うつ病 、神経症 などを発症するおそれがあり、最悪のケースでは脳溢血 や自殺 などを招いてしまうという考え方もある。よってイダー・ナーディーを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニー・ヨーガを行うことは無謀ということができる。

また、クンダリニー・ヨーガを実践するつもりでなくても、急進的な解脱願望を抱いた状態または神 への絶対帰依 を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには人生の困難、交通事故、出産などによるショックなどによっても上記のような現象が起こる場合が稀にあるという説がある。

元々人格障害 (ボーダー、反社会性等)や精神病を潜在的に抱えている患者にクンダリニー覚醒に先立って、元々の病が押し出されるという説もある。カルマ の浄化プロセスとも考えられる。

このため、クンダリニー覚醒を目指す実践者はベジタリアニズム を実践し、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、わがままで否定的な態度を避けるべきである。

安全な隠遁生活がなかなか難しい現代社会において、社会生活を営みながら安全にクンダリニー覚醒を得るためにはどうしたらよいかは課題である。
イマジネーションの拡大 [編集 ]

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしない「イマジネーション」の拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に「空想的世界観」を見ることができる。人間が自分を”実際以上”のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い込み「欲望」のままに行動してしまうならば、「悟り」への道を逸脱することになってしまう。
クンダリニーに関する逸話 [編集 ]

グルジェフ の著作『ベルゼバブの孫への話』の中に神話的な人類創生の話が出てくるが、その中にクンダリニーが人間の尾てい骨のあたりに取り付けられた経緯が語られている。人間が地球上に存在する目的を知られることがないように、安全装置として取り付けたということである。
近年の研究 [編集 ]

臨死体験 (NDE)経験者が最もクンダリニー上昇に近い経験をしているという主張が欧米の研究者を中心になされている。この分野の学術研究をトランスパーソナル心理学 ・精神医学という。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC


2011年12月24日(Sat)▲ページの先頭へ
精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11115479961.html

精神振動の7分節化:七元=三元と三元とmedia pointの一元

直観で言うと、凸i*凹iは易的に言えば、三元*三元である。それにmedia pointの一元を入れると、七元になる。
 それは、凸i主導の場合の三元性(「三位一体)と凹i主導の三元性があり、それにmedia pointの一元性があり、合わせて七元性になるということだろう。
 思うに、7とは女神の数である。古代オリエントの女神イナンナ、イシュテルの数である。
 そして、3という「根元数」がここにある。3と7である。また、差異共振、Vector Modeは黄金比で、正五角形を形成する。すなわち、5である。そうすると、精神振動はmedia pointを介して、3,5,7という最も重要な秘数(聖数)を所有すると言えよう。
 当然、2もあるし4もあるし6もある。そして、大根元の1がある。すると、1,2,3,4,5,6,7という数列がきれいに出てくる。
 後で検討したい。

追記:media pointが0であろう。また、8は2^3で、9は3^2で説明できるだろう。2^3や3^2は易から考えられる。また、10であるが、それは、1+2+3+4、つまり、テトラクテュスで説明できよう。
 後でさらに検討したい。

参照:
古代ギリシアの旅
― 創造の源を訪ねて ―
高野義郎著
(新赤版780)





◎思索的で高踏と感じていた古代ギリシアが身近になりました……

 自然哲学の元祖タレースは「万物の根源は水である」と言いました。ぼくは、よくこんな大胆なことをいうものだ、さすが思索的なギリシア人だなと思っていました。ヘーラクレイトスも「万物の根源は火だ」と言いましたが、「ええっ、何で?」と感じていました。

 著者の高野先生は、タレースの故郷ミーレートス、ヘーラクレイトスの故郷エペソスを訪ねて、その意味を考えたのです。ミーレートスを流れていたマイアンドロス河のもたらす影響(豊かな土壌をもたらすプラス&洪水のマイナスなど)の大きさと、エペソスの象徴であるアルテミスの神殿に掲げられた不断の聖火(ヘーラクレイトスはそれを毎日見ていた)とに、それぞれの自然哲学の起源を見出しました。

 高野先生の説を読んで、「そんなに身近なものから発想したのか」と感じました。同時に、「よく、そんなに身近なものを万物の根源とするには、理論構築が大変だろうな」とも思いました。

 そして、いまは廃墟となっているミーレートスやエペソスにぜひ行ってみたいと強く思いました。高踏で近寄りがたいと感じていた古代ギリシアが、この本をつくることで急に自分の感覚に近づいてきたのです。

 そんな感じを読んでくれる人にもっていただける本だと思っています。

◎ピタゴラス学派の聖なる数は「10」だったのですね……

 ピタゴラスの正確な読み方は「ピュータゴラース」、ピュータゴラース学派のシンボルマークは「テトラクテュス」(図A)です。上から点が1、2、3、4と重なる正三角形のマークです。点の数は1+2+3+4=10です。じつにきれいなマークなんですが、どうしてこれをシンボルにしたのかも、この本で解いています。2章で存分に解説がありますから、ここでは説明しません。ぼくも「なるほど」と思いました。

図A

 ピタゴラスは「ピタゴラスの定理」や「ピタゴラスの数」でも知られる数学者であるほかに、哲学者でも宗教家でもありました。では、宗教との接点はどこにあったのでしょうか。これも「テトラクテュス」と同じ根っこなのです。

 あちこちで、なんと謎解きの多い本なのだろうと感じられるでしょう。けっこう楽しめますよ。

◎楽しめるのは地図と写真も……

 古代ギリシア全域とはどこからどこまででしょう? いまのトルコ西部から南イタリア・シチリアまでとほんとうに広い範囲です。その全域はもちろん、各地の地図がたくさん入っています。だから、アリストテレースが生まれたスタゲイラ、ピュータゴラースの生まれたサモス、オリンピック競技発祥の地オリュンピアーなどが、どこにあったのかが、あらためてよくわかります。

アポローン、アルテミス誕生の地を守るライオン像。デーロス島


夕日のポセイドーンの神殿。スーニオン岬

 写真はすべて、著者の高野先生が撮ったものです。日本ではほとんど見たことのない写真もたくさんあります。なにしろ観光ツアーでは行かないようなところを、自分でわざわざ調べて訪れたのですから。もちろんプロのカメラマンではありませんが、かなり上手で、しかも撮る位置を探して撮ったものなので、いい写真ばかりです。モノクロームでしか見られませんが、ぜひ現地の空気を感じてください。

 地図も写真も多かったので、正直言って本づくり作業は大変でした。でも、その分、読んでくださるみなさんは、楽しめるし、新たな発見も多いだろうと思います。
(編集部 森光実)


■著者紹介
高野義郎 たかの・よしろう
 1925年大阪生まれ、1948年京都大学理学部卒業。京都大学湯川研究室副手、横浜国立大学教育学部,工学部教授を経て、現在は、横浜国立大学名誉教授。理学博士。専攻は、理論物理学。
 著書に『力学』(朝倉書店)、『物理学の再発見T物質から空間へ U素粒子と時間空間』(講談社ブルーバックス)、『ヨーロッパ科学史の旅』(NHKブックス)など。

■目次
 古代ギリシア地図/古代東エーゲ海地図/古代アテーナイ周辺地図
 古代ギリシア史年表
1 哲学のふるさとミーレートス ― その都市計画に秘められたもの
2 ピタゴラス学派の聖なる数10
3 万物の根源を求めて
4 古典文化の花咲く都市アテーナイ
5 時計回りにめぐるペロポンネーソス
6 悲劇の舞台 ― オイディプースとイーピゲネイア
 地名索引/人名索引

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0204/sin_k63.html

ピュタゴラス派の「霊魂数」の解明
2011
07-08
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by Carel Willink



ピュタゴラス派についての本を何冊か借りて、西洋における「輪廻思想」の源流にまで遡行しようとしているが、実はピュタゴラス本人に帰属される資料自体が著しく欠損していることを知って当惑している。
ピュタゴラスは既に生前から伝説化されているらしく、おそらく極めてカリスマ性の高い宗教的側面を持っていたものと推測されている。
このページでは、イアンブリコス、ポルピュリオス両者によるピュタゴラス伝と、おそらくピュタゴラス研究において避けては通れない大家と思われるピサ大学の古代哲学史の専門家であるブルーノ・チェントローネの本の三冊を読んで、私が重要だと思った要点を巧くまとめておきたい。
先に述べた、ピュタゴラス本人の教説が謎に包まれているということは、チェントローネも「ギリシア哲学の中で、最も議論の絶えない一章をなす」という表現を彼に与えていることからもその一端が窺える。
残されているピュタゴラス派のものと思われる資料も、「偽ピュタゴラス派」や数知れない偽作などで膨大な量に及び、何を信頼すべき正統的典拠とするかで専門家も非常に悩んでいるような印象を受けた。
チェントローネは、やはりアリストテレスの『形而上学』と、プラトンの『ピレボス』や『パイドロス』などでの、ピュタゴラスに関する言及には一定の信頼を置いているようである。
まずはじめに、ピュタゴラス派がどういう思想を展開したのか、錯綜する本の解説からまとめなおす作業が必要だろう。
私には、チェントローネの研究書ですら、やはりどこか錯綜して重要なその「思想」の骨子とはあまり無関係な言述にページを割いている気がするからである。
そこで、まずは一定の信頼度を寄せても良いと思われる、ディカイアルゴスによるピュタゴラス派の教えのポイントをまとめておく。

・霊魂は不死である。
・肉体の死後、人は別種の生物へ移ることがある。
・ある周期で、かつてあったものは再生し、絶対的に新しいものは何一つ無い。
・全て、霊魂を有する存在者は同じ種に属している。



以上が、ピュタゴラス派の教えとして現在にも伝わっているものの、ごく簡単な概略であるが、どれも突出して謎めいているという他無い。
ピュタゴラス派とは無関係かもしれないが、ピュタゴラス以前に、アナクシマンドロスも「無数の宇宙が同時に互いに独立して存在する」という、17世紀バロック時代のライプニッツの「可能的世界」説を先取りした思想を展開していたようで、これもまた非常に神秘的で興味深いところである。
我々の目下の関心は、ピュタゴラスである。
彼は、仏教的な「業報輪廻」(悪いことをすればその報いとして下等な生物に転生する)を信じていたとされている記述が、プラトンの『パイドロス』に存在し、こうした輪廻観は「アドラステイアの掟」と呼称されていたようだが、実はプラトンがピュタゴラスに帰したこの考え自体も本当に彼本人の思想なのか不明である。
アイリアノスの『ギリシア奇談集』には、「口伝」として伝わる彼の教えが残っている。
これらは、どれもその内容においては正確であるようなので、確実性は高いと思われる。

「デルポイの神託とは何か。数秘三角形なり」

「最も智恵あるものは何か。数なり」

「至福者の島とは何か。太陽と月なり」



これに、付記しておかねばならないもう一つの重要な教えがある。
それは、「霊魂とは、自己を動かす数である」という教えである。
ピュタゴラス派は、人間の肉体に宿る霊魂も、「数」に還元して思考していたと考えられる。
彼らがアリスモロジー(数理学)を実在する全ての存在と一体化させて考えていたことは、まず間違いない。
そもそも、ピュタゴラスというその名前なのだが、実はこれは「アポロン」の枕詞から生成されているのである。

「ピュティオス」(アポロンの枕詞)+「アゴレウエイン」(述べる)
=「ピュタゴラス」(アポロンに劣らず真理を述べる者)



ピュタゴラスをアポロン神と、あるいはその神官の末裔と同一視する資料は、いわば彼を「伝説化」する人々の著作に顕著な特徴である。
私がここでどうしても記録しておきたいのは、むしろ彼らの「数秘術」である。
これについても、私が読んだ本が三冊に過ぎない点と、それらの本自体でも資料性の少なさを自覚し合っているので、なかなか一筋縄にはいかない。
しかし、まとめておく意義は十二分にある。
(何故なら、これらについてボルヘスは一言も言及していないのだから)。

先ほど、「霊魂も数である」という説を紹介したが、実はフィロポノスが『デ・アニマ注釈』の中で、霊魂が何故、数であるかに言及している。
フィロポノスの以下の解説がピュタゴラス派に属するか、またピュタゴラス本人に属するかは不明であるが興味深いのは事実である。
彼によると、霊魂は4つの基本的性質から構成されており、それらの性質全てが「数」に還元できるという。

1・・・ヌース(直知)
2・・・エピステーメー(学術的知識)
3・・・ドクサ(意見)
4・・・アイステーシス(感覚)



こうしたことから判るように、霊魂を四つの基本的性質に分解し、それぞれに数を振り当てるという思想が存在していたものと考えられる。
ここからが面白いのだが、実はこれらの総和、すなわち「霊魂数」は、1+2+3+4=10であり、この10は「調和数」であると同時に、ピュタゴラス派が「真理」そのものと同義であるとした、名高い「テトラクテュス(数秘三角形)」を構成する数10と一致するという事実である。
テトラクテュスとは、10の点を正三角形に並べて配置した図として示され、ピュタゴラス派によって神聖視されたものである。
来歴を述べると、それまでの古代ギリシアでは宗教的儀礼において「動物犠牲」が多く、それも三つの異なる動物を三副対にして神に捧げるという、いわゆる「トリクテュス」が支配的であったという。
血を好まず沈黙と瞑想を愛するピュタゴラスは、これに反対して「動物」を媒介にして神に接近するのではなく、幾何学的図形が持つ力を信じて神へ接近できるような新しいシステムを考案した。
彼らが万物を数に還元するのは、全ての事物は、「数を持つ」ということを信じていたためである。
彼らにとって存在論とは、まさに数学と一体化していたわけだ。
では、何故ピュタゴラス派はそれほどまでに、この10という数字を崇拝したのだろうか?
これには幾つかの説が存在する。

・「数える」という作業は、世界中ほぼどこの民族においても1から10までで完了する。11以上はその反復に過ぎない。

・10は、奇数1、3、5、7、9と、偶数2、4、6、8、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・10は素数1、2、3、5、7と、複合数4、6、8、9、10をそれぞれ5つずつ包含する。

・点を1、二点から生じる線を2、線から生じる平面図形を3、平面図形から生じる幾何学的立体を4とすれば、世界に存在する全ての点、線、図形、立体は、1+2+3+4=10で表現可能である。



こうした10が「調和数」であり、全ての宇宙を包含しているという特異な数秘観は、スペウシッポスやセクストス・エンペイリコスも伝えている。
私はここで、彼らが「数える」というその単純な行為に、もしかすると「祈り」に近い何か宗教的観念を持っていたのではないか、という仮説を提示しておきたい。
というのは、キリスト教においても「祈り」は極めて重要な宗教生活の基礎であるが、宗教的結社を組織していたとも伝えられているピュタゴラス派が、「数える」ことや、「図形を描くこと」に安らぎを見出していたことは、テトラクテュスに対する信仰心からしても、平易に想像できるものだからである。
ピュタゴラス派についての言及も多いアリストテレスであるが、実は彼には内部向け書物である『形而上学』以外に、『ピュタゴラス派について』という重要な書物があったとされている。
不幸なことにこの書は現存しない。
しかし、アリストテレスは『形而上学』の中で、ピュタゴラス派の特質を「事物を離れて単独で存在している数はない」ことを信じる点や、「事物のそれぞれは、それに内在する数のある情態である」と考える点などに認めている。
10に並んで重要な数字は、1と216である。
1については最後に記すが、216を重視したのはなかなか興味深いエピソードである。
というのは、実はピュタゴラスは伝承上では前世において猟師ピュロンだったとされており、彼が死んでピュタゴラスが生まれるまでの期間が、ちょうど216年であるとされているからである。
216とは何であるのか?
これは、一辺が3、4、5の立方体にそれぞれ水を入れて、全て合わせた容積である。(3の三乗+4の三乗+5の三乗)
3、4、5を各辺に持つ図形といえば、直角三角形であるが、216はこの図形の各辺の三乗の和である。
正三角形と同じく、3、4、5の辺の長さを持つ直角三角形は古代ギリシアにおいて神聖視された図形であった。
例えばプラトンは『国家』の中で、「完全な国家」が衰滅するまでの総期間は36000年であると予言している。
この36000の数字の算出方法は既に知られており、やはり直角三角形をモデルにしているのである。
プラトンによれば3、4、5の辺を持つ三角形は「国家」を象徴している。
その面積3×4×5=60は、「国家」を意味している。
というのは、彼によれば3は「政治家」を、4は「市民」を、5は「法律」を意味し、図形全体で「共同体社会」を象徴化するからだ。
そして、面積60の4乗である12960000は、国家の存続日数を意味する。
これを年数に直すと、先の36000年になるのである。
何故、ピュタゴラスが216を10と並んで神聖視したのかというと、それが「国家を象徴する直角三角形」の各辺の三乗の和だからである。
216にこめられた意味を読み解くコードはまだある。
それはピュタゴラス派に伝わる「結婚数」6の存在である。
これは女性数2と男性数3の積である。
そして、女性数2の立方体の体積と、男性数3の立方体の体積をかけた数(2の三乗×3の三乗)は、216である。
上記のような理由からしか、ピュタゴラス派がなぜ216を神聖視したのかは判らない。
本の解説を精密に照らし合わせた結果、こうした「数に意味を象徴的に賦与する」作業が前提になっていたとしか考えられないのである。
ゆえに、ピュタゴラスは216年の歳月を経て、前世ピュロスから転生したのである。
最後に、「1」について記しておかねばならない。
「1」こそは、起源にして終焉であり、最も簡潔にして最も謎めいた数字である。
プラトンは『ピレボス』の中で、以下のように記している。

「およそ過去にも未来にもいつでも<ある>といわれるものは、<一>と<多>からできているのであり、しかも有限も無限も自己自身のうちに、本来的な同伴者として備えている」



これは、私には極めて重大な教えである気がしてならない。
というのは、ここでプラトンはピュタゴラス派の教えを参照しているのであるが、そこでは<ある>という存在論的な状況の根本を担うコードが、<一>であり、また<多>であるとされているからである。
<一>はギリシア語で「ヘン」、無限は「アペイロン」と呼ばれるが、スペウシッポスの解釈によると、両者は本質において同一である。
というのは、「ある」とは、結局のところ、「一」であり「多」だからだ。
これはキリスト教神学に関心のある者には、すぐさま神の属性であることが思い出されるはずだ。
ただ唯一の一者にして、同時に宇宙に余すところ無く遍在するのはキリスト教神学における「神」の属性である。
プラトンがピュタゴラスの思想の影響を極めて顕著に受けていたことは、アリストテレスも認めている。
したがって、ピュタゴラスもこれに類縁的な思想を持っていたと同定することは自然なのである。
だとすれば、これはまさにピュタゴラス派の数学的神学論といえるだろう。
彼は「1」という数字に、「無限」を見ていた。
これはテトラクテュスである10との類比的な関係性でも述べられるべきだろう。
10は、いわば1でもあるのではないか。
すなわち、1から始まり9へと至り、10にまで達することは、再び1へと回帰することである。
これこそが、ピュタゴラス派が「霊魂」をも「数」に還元した究極の意味内容だったのではないか。
霊魂数10は、「一」であり「多」である超越的存在の前で再び1へと戻るのである。
輪廻の数秘的解釈とは、このようなものになるのではないだろうか。
私には、どうしても霊魂数を10だとしたフィロポノスの意見と、ピュタゴラス派がテトラクテュスの数10にこめた意味が、重なり合って、「輪廻」を示そうとしていたように思えて仕方ないのである。
人間は、前世の人間の死後、216年の歳月を経て現世に転生する。
そして現世で成長するに連れて、霊魂数は10に達する。
すると、肉体を離れた霊魂はピュタゴラス派が想定したであろう死後の世界で、1となる。
しかしこの1は、かつての10を潜在させているのである。
この1には、かつての10の全てが記憶されている。
こうすることで、カルデックやフラマリオンが提唱した「輪廻」における、霊魂の前世記憶の蘇生(いわゆるアナムネーシス)は説明できるだろう。
ピュタゴラスと、フィロポノスの功績とは、まさに霊魂を数に還元し、テトラクテュスとして「完全数10」を示した上で、神を10ではなく「一」と「多」と規定することにより、霊魂の旅のプロセスにおける「霊魂数の変容」を示唆したものと想定される。

以上の考察を踏まえた上で、再び「霊魂数の変容」を整理しておこう。
まず、10という数字には、テトラクテュスを構成する点の数に等しいので「完全数」や「調和数」という意味が存在する。
この10は、それだけではなく、フィロポノスによると霊魂数でもある。
そして、プラトンの『ピレボス』にあるように、「ある」という「存在」そのものは、(聖書では、神がアブラハムに対して、自分を「ある、というものである」と告げたことを思い出そう)「神」を意味し、それは「一」であると同時に「多」として宇宙に遍在する。
1はいわば、霊魂数10が神に合一する瞬間に生起する減法ではないか。
死後の世界において、霊魂数10は神と合一することで、宇宙と等しい「多」=「無限大」になると同時に、「一」=「1」となる。
そうして、再び新しい肉体へと転生するのである。
その転生に必要な期間が、ピュタゴラス派の伝承では216年で、これは考え方を変えると、ピュタゴラスですら216年を要したということに他ならない。
こうした「霊魂数の輪廻による変容」については、私が読んだどの本にも記されてはいない。
しかし、資料の少なさを、研究者から信頼度の高いテクストに従って「輪廻」を基軸に「数」に還元して読み解くと、やはりこのような帰結に達するのである。
最後に私は、エンペドクレスが『カタルモイ(浄め)』の中でピュタゴラスを称賛して記した言葉を引用しておきたい。

「まことに彼がひとたびその全精神をあげて自分をさしのべる時は、彼はおよそ存在する全てのものの一つをやすやすと見て取った――十たびも二十たびも繰り返された人間の生涯において」





「参考リスト」

ピュタゴラス派―その生と哲学 ピュタゴラス派―その生と哲学
(2000/01/24)
ブルーノ チェントローネ

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ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩 ポルピュリオス『ピタゴラスの生涯』―付録:黄金の詩
(2007/09)
水地 宗明

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ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館) ピュタゴラス伝 (叢書アレクサンドリア図書館)
(2000/01)
イアンブリコス、Iamblichi 他

http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1043.html
† VANILLA PLIEST †



2011年12月19日(Mon)▲ページの先頭へ
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一
ルネサンスの精神における光と闇:光への希求が闇と出会う:光と闇の即非合一

テーマ:media point

既述したが、D. H. ロレンスは西洋において、イタリア・ルネサンス以降、「光への努力」Striving for Lightがあると言った。
 ルネサンスの精神とは語り尽くされたものであるが、私説を言うと、それは闇から光への希求である。根源に闇があるのである。それが光を求めたのである。
 闇からの光への志向であるので、そこには、media point、ないし、超越光があった。しかしながら、光は外界と結びつき、根源の闇が忘却されて、光の志向は外界、物質界へと閉じられていった。
 西洋の個人の個とは、この力学から生まれたと思う。光の志向の帰結がデカルト哲学と考えられる。個から自我(近代的自我)へと展開したのである。
 結局、根源の闇、個が忘却されて、光と自我が残ったのが、現代である。
 これは虚である。同一性の機械の世界であり、自動人形の世界である。機械仕掛けの人間の世界である。
 近代合理主義は闇、個を嫌い、光と自我の世界を構築した。しかしながら、根源の闇と個は否定しようがなく、「実存」するのである。
 思うに、西洋中世とは、光への希求はなく、闇の世界だったのだ。個も闇の世界の個である。
 とまれ、ルネサンスの光の志向とは、凹i⇒凸i、ないし、凸i/凹iという式になろう。
 物質的世界の希求であり、今日の世界はその帰結である。しかし、思うに、光のヴィジョンが形成されたのである。単に物質世界のヴィジョンだけが形成されたのではない。
 いったい、光のヴィジョンとは何だろうか。これは美的ヴィジョンである。美術的ヴィジョンである。
 いったい、これと闇のヴィジョンはどう関係するのか(先に結論づけたが)。
 今現在の私の印象を言えば、光のヴィジョンは闇のヴィジョンへと突き抜けるのである。光と闇が重なるのである。
 重なるという語に語弊があるなら、光と闇が一致する、即なのである。そう、光と闇の即非態である。
 これは、光への志向がなければ、到達しなかった事態であろう。光へと突き進み、闇と出会ったのである。言い換えると、media point meeting, media point fusionである。
 dark sunを唱えていたD. H. ロレンスが最晩年、『黙示録論』でStart with the sun. (光とともに始めよ)と述べたのは、その意味があるのではないだろうか。
 光は光へと成り切り、闇と通じたのだと思う。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 光と闇の合一と言ってもいい。そう、潜在していた超越光であるが、今や光と一致したのである。
 光のヴィジョンは闇のヴィジョンとなったのである。

光の帝国、特設ページ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/1175/theempireob.html



光と闇:アポロとディオニュソス:dark sunとしてのアフラ・マズダ=キリスト=天照大神

テーマ:media point

先に 二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11110349350.htmlを書いたが、論点がやや曖昧なので、ここで補足したい。
 光のヴィジョンとは端的に美術であり、闇のヴィジョンとは音楽である。ニーチェの用語で謂えば、アポロとディオニュソスである。
 そう、この区別を端的に述べたかったと思う。つまり、明らかに、絶対的に異なる二つの世界が存しているのである。光の帝国があり、闇の王国があるのである。絶対的間隙が両者の間にあるのである。これは、コミュニケーション不可能である。
 西田哲学の用語で言えば、絶対矛盾である。
 そう、光の帝国は闇の王国を感知しないのであり、闇の王国は光の帝国を知らないのである。これは絶対的平行である。
 まったく異質な二つの世界が存しているのであり、両者は他者を全く知らないのである。二元論の事象である。
 しかし、両者が出会うときがあるのである。それが、media pointの意味である。
 光は闇に出会い、闇は光に出会うのである。(思うに、これが天地開闢だろう。)
 これは即非事象であり、螺旋形象を生むのである。合一しつつ、それぞれ独一の事象である。
 media pointの事象とは結局、アポロとディオニュソスの即非的合一であり、それは美術と音楽の即非合一である。
 ニーチェはそれをギリシア悲劇に見たが、それは誤りではない。(ただし、以前述べたが、ニーチェのアポロの概念は誤謬が入っている。つまり、物質的に捉えている点が間違いである。)
 アポロとディオニュソス、光と闇の即非合一とは、端的に、何だろうか。それこそ、D. H. ロレンスの言うdark sunではないだろうか。光であり、闇の太陽である。
 そう、それは私の体験にも適合する。私は若い時、真夏の海辺で太陽を見て、闇を感じたのである。光が頭上、煌々と照るが、同時に、それは闇であった。光は闇だった。
 そう、光は闇なのである。それが、media pointの事象である。dark sun である。
 では、美術と音楽の即非合一のdark sunとは何だろうか。それこそ、真の光である。超越光である。
 光である闇、闇である光、このdark sunこそ、真光、超越光である。アフラ・マズダ=キリストである。そう、天照大神も同じである。だから、
 
アフラ・マズダ=キリスト=天照大神

という公式になる。
 思うに、戦後の日本人は折口信夫の新神道論を無視して、結局、今日の大悲劇に見舞われていると言えよう。
 そう、ここでウィリアム・ブレイクの箴言を述べよう。

All Religions are One.

 

二つのヴィジョン:光のヴィジョンと闇のヴィジョン: media point twilight

テーマ:media point

ヴィジョン(直観、心的イメージ)は普通、一つ、一重と捉えられているだろう。
 しかし、既述からわかるように、光と闇の二つの「光」があり、また、交差がある。だから、少なくとも三重である(cf. 三位一体、三つ巴、三女神、他)。
 今は簡単に指摘するに留めるが、光のヴィジョンだけでは、物質世界に留まってしまい、唯物論的になってしまうのである。
 光は闇に、謂わば、裏打ちされているのである。しかしながら、近代は光のみを追求して、闇を忘却してしまったのである。D. H. ロレンスが述べていた通りである。
 そう、闇のヴィジョンがある。それは本当の直観ではないだろうか。光のヴィジョンは知覚・感覚的イメージであるのに対して、闇のヴィジョンは不可視の世界の「イメージ」だと思う。あるいは、心、魂の世界のイメージである。
 そう、直観というとき、光の直観と闇の直観があるのであるが、前者は外界的直観であり、後者は内界的直観であり、深いもの、本質的なものは後者であると考えられる。換言すると、前者は物質的直観であり、後者は精神的直観である。
 カント哲学の直観はまったく前者のみであり、後者が忘却されているだろう。
 問題は、両者を肯定することである。啓蒙主義は前者を求め、ロマン主義は後者を求めたが、それぞれ、排他的であったために一面的になったと考えられる。
 とまれ、両者は矛盾的力学をもたらすのであり、近代的人間はこれに耐えられなかったのである。
 既述したように、相互浸透があるため、光は闇を志向し、闇は光を志向するのであり、結局、知的魂は第二象限と第三象限を志向すると思われる。
 ゲーテ/シュタイナーの精神学は第二象限を経由した第三象限への志向であると思われる。実に知的なのである。
 それに対して、D. H. ロレンスは直接、第三象限の闇を志向したと考えられる。そのため、光に対する反動性が生じることになったと考えられる。ロレンスの身体への執着はその意味合いがあるだろう。また、父権と母権の混乱もそれに拠るだろう。
 とまれ、今や、闇のヴィジョンを取り戻す必要があるのである。魂、精神のヴィジョンであり、それが、政治や経済も賦活するのである。
 どうも、閃きを受けて、すぐ書かなかったので、論点が復習的になっている。


2011年12月12日(Mon)▲ページの先頭へ
植物と人間
光の問題。端的に、凸iの傾斜はあるのかどうか。
 現象界において、光の知覚が基本である。故に、光、凸iへの傾斜は植物、動物、人間も共通ではないだろうか。
 そうならば、連続的同一性とは人間だけでなく、一般的に存することになる。後で詳述したい。

追記:光、凸iの傾斜はなくても、差異共振だけで、同一性は説明できるだろう。つまり、「知覚」とは光の行為であるから、光が差異共振によって同一性を形成するということが可能である。
 この方が整合性があるだろう。


2011年12月02日(Fri)▲ページの先頭へ
エーテル体と宇宙:光と氣:渦巻き宇宙、螺旋とVector Mode
テーマ:シュタイナー精神学

シュタイナーの精神学は実に興味深いことを述べる。例えば、宇宙とはエーテル体によって形成されると言うのだ。思えば、エーテル体は彼の霊学においては、生命の原理である。すると、宇宙と生命が結びつく。最近、生命体宇宙説があり、シュタイナーの論は先取りしていたことになる。
 PS理論から見ると、今の作業仮説では、エーテル体は凸i(i)、光の原理と結びつく。
 思うに、media pointにおいて光の渦巻き、螺旋が形成されるのではないだろうか。それが、渦巻き星雲を形成したり、地上では蔓植物を形成したりするのではないだろうか。
 そう、光のVector Modeである。
 思うに、光はほとんど氣(エーテル体)と言っていいのではないだろうか。ならば、光=氣=宇宙/生命形成原理(Vector Mode)ということになろう。
 そして、物質原理は当然、media pointの精神的フィルター作用であると言える。差異共振から同一性へと変換されるのである。
 しかしながら、物質は光=氣(エーテル体)のVector Modeの外皮、外殻のように創出されよう。
 言い換えると、物質体が光=氣のVector Modeを覆うように、包装するように形成されて、感覚では光=氣を知覚できなくなると考えられる。
 とまれ、これで物質現象は説明できる。
 では、闇である凹iはどう作動しているのだろうか。これは、シュタイナー霊学ではアストラル体である。それは、情感、身体的欲望等を意味するのである。簡単に言えば、感情体、感性体である。
 シュタイナーが説くように植物ではこれは作用していないだろう。動物や人間に関係するのである。
 では、宇宙形成においてはどうなのだろうか。シュタイナーは星に霊を見ているので、闇凹iが関係していると思う。また、天使等の存在を言うので、宇宙形成には、第三象限が作用しているように思われる。
 思うに、この闇凹i成分がdark matterやdark energyに関係するのではないだろうか。
 問題は闇凹iと物質界がどう関係するのかである。何度も言うように、D. H. ロレンスはdark sun、dark Godや暗い宇宙の薔薇を述べるのであるが、それを考えると、闇凹iはやはり、Vector Modeを形成するのではないだろうか。闇のVector Modeである。
 そう、闇の宇宙である。これが光の宇宙と関係しているのだろう。ここでもシュタイナーの霊学を活用すると、闇が光へと浸透するとき、青色が形成されるという。青空の青である。
 それに対して、光が闇へと浸透すると、赤色が形成されるという。夕日の赤である。
 それを考えると、光と闇の相互干渉があるのである。だから、光の宇宙は闇の宇宙の影響を受けていると言えよう。それがdark matter、dark energyと関係するように思えるのだ。
 また、分数公理を使うと、闇が分母で、光が分子であり、前者が土台で後者を支えるのではないだろうか。
 極論すると、闇が光を産み出しているのではないだろうか。太陽は暗い太陽がベースであり、それは不可視である。
 ロレンスは太陽はわれわれに背中を見せていると言うが、思うに、暗い太陽は闇凹iに位置するのではないだろうか。
 また、闇凹iは第三象限と深く結びついている。故に、高次元的である。超越的である。ロレンスのdark Godは正に、それを示唆しよう。
 また、自然科学であるが、それは、光の科学であり、闇の科学をほとんど無視していると言えよう。だから、ダーク・マターやダーク・エネルギーの問題が出てくると言えよう。
 とまれ、以上は思考実験である。

追記:マニ教の光の種子は、闇凹iに潜んでいるだろう。dark sunに潜むと考えられる。
 
追記2:生死の事象、死生の力学はどう説明できるだろうか。これは光のVector Modeのエネルギー生成消滅で説明がつくだろう。それは、ある決められたエネルギー量をもち、それが消尽すると、死となるのである。
 
追記3:シュタイナーは心臓と太陽を結びつけている。思うに、media pointが心臓=太陽となるのかもしれない。これはこれで新たに考察が必要である。

追記4:四大ないし五大を考えると、凸iが風、凹iが水、凹が火、凸が地を形成するのではないだろうか。また、空は当然、media pointとなる。
 思うに、この四大原理(地水火風原理)は、宇宙生命身体原理ではないだろうか。これは単に物質原理ではなく、精神原理、魂原理と本来見るべきではないだろうか。つまり、地霊、水霊、火霊、風霊となる。
 これは、人間の性質の原理ではないだろうか。これに自己原則が入ると、多様な性格が生まれるだろう。
 
追記5:ミクロコスモス(小宇宙)とマクロコスモス(大宇宙)の照応であるが、これは、光のエーテル体のVector Modeのフラクタルで説明できよう。
 つまり、人間というミクロなフラクタルは大宇宙というマクロなフラクタルと共振しているということになろう。この共振が照応ということになる。そう、共振波動があるだろう。それは、光=エーテル体の波動となるだろう。電磁波はその物質的反映であろう。


2011年11月14日(Mon)▲ページの先頭へ
光と物質:光と闇の共振エネルギー(氣=超越光)と物質現象
光と物質、これはイマジネーション、ないし、直観を刺激する。そう、虚軸に光があり、それが、発出して、物質を創る。思うに、光は闇と二重である。しかし、人間の視覚は光は知覚するが、闇は知覚しない。まるで放射能が知覚できないように。
 問題はやはり、media point(以下、mp)である。直観ではmp屈折があるのである。つまり、物質を形成する屈折である。それに対して、物質を形成しない投影がある。それが光そのものである。
 しかし、先に提起したように、光は超越光である。つまり、光と闇の共振である。いわば、光と闇の編み物、縒り糸、織物である。そう、光と闇の二重らせん。
 しかるに、人間の視覚は光しか見えず、闇は透明なのである。不可視である。
 物質も光と闇の二重らせんで創られていよう。光と闇のVector Modeである。氣のVector Modeである。(思うに、D. H. ロレンスが晩年の傑作『逃げた雄鳥』で述べた宇宙の暗い薔薇とはそれを指していよう。)
 問題は光と闇の共振エネルギーである氣と物質の関係である。
 前者のいわば外皮として後者があるだろう。外殻である。その物質の外殻に光が反映して視覚されると言えよう。
 正確にいうと、光と闇の共振エネルギー=氣の終点として、物質体があると言えよう。だから、氣がなくなれば、物質体は崩壊するのである。そう、有機体の無機体化と言えば、わかりやすいだろう。
 ここで根源の光と闇の共振エネルギー=氣について考えると、それは、可視的には光であるが、実は超越光であると考えられる。先に述べたように、それが諸宗教の説く「光」と考えられる。
 そして、それが現象界にも太陽光として発現しているのであるが、当然、光だけ視覚し、闇を看過するのである。
 そう、ロレンスが述べたdark sun (また、dark ray, dark God)とはこの闇のことではないだろうか。(dark energyもこれと関係するのではないだろうか。)
 結局、太陽光とは超越光の光であり、超越光の闇が通常の視覚では看過されるのである。
 そう、量子力学で言うと、光だけでは、「量子」は捉えられないと考えられるのである。上述のように、光と闇の共振エネルギーが本体としてあるのであり、闇を捉えない限り、量子力学は不十分なのである。
 そう、光は闇と二重らせんを形成しているのである。共起している闇を「科学」しなければ、まったくの片手落ちである。
 そう見ると、ダーク・マターとは、凹(−1)ではなく、この闇の形成する「物質」ではないのか。正に、闇の物質であり、不可視なのである。つまり可視の物質と不可視の物質があるということになろう。
 しかし、光と闇の二重らせんの外皮が物質であるから、実際は複合体ではないだろうか。この点はおいておきたい。
 ということで、凹(−1)は超越的存在であり、ダーク・マターとするのは問題があることを指摘しておきたい。
 とまれ、現実に闇があるのに、人間は視覚・知覚できないのである。ただし、それは、内身体的に感受できるものと考えられる。
 東洋文化は闇ないしは光と闇の共振エネルギー(超越光=氣)を捉える科学文化であったと考えられる。西洋は光のみである。
 思えば、ゲーテから学んだルドルフ・シュタイナーも闇の存在を明確に捉えていた。光と闇のシンフォニーが本当の自然・宇宙であり、それが精神なのである。
 そう、今や端的に言える。物質とは精神の外皮に過ぎないと。

追記:本稿はR. P. ファインマンの『光と物質のふしぎな理論:私の量子電磁力学』(岩波現代文庫)のタイトルを見て、浮かんだアイデア(直観)を基にしている。


resurrectionのブログ


光と物質のふしぎな理論―私の量子電磁力学 (岩波現代文庫) [文庫]
リチャード・P. ファインマン

(著), Richard P. Feynman (原著), 釜江 常好 (翻訳), 大貫 昌子 (翻訳)


参考:
『死んだ男』の圧巻の一つの「宇宙の大いなる薔薇」・「多くの花弁をもつ暗闇の一輪の華」

But the man looked at the vivid stars before dawn, as they rained down to the sea, and the dog-star green towards the sea's rim. And he thought: How plastic it is, how full of curves and folds like an invisible rose of dark-petalled openness, that shows where dew touches its darkness! How full it is, and great beyond all gods. How it leans around me, and I am part of it, the great rose of Space. I am like a grain of its perfume, and the woman is a grain of its beauty. Now the world is one flower of many-petalled darkness, and I am in its perfume as in a touch.
So, in the absolute stillness and fullness of touche, he slept in his cave while the dawn came. And after the dawn, the wind rose and brought a storm, with cold rain. So he stayed in his cave in the peace and the delight of being in touch, delighting to hear the sea, and the rain on the earth, and to see one white-and -gold narcissus bowing wet, and still wet. And he said: This is the great atonement, the being in touch. The grey sea and the rain, the wet narcissus and the woman I wait for, the invisible Isis and the unseen sun are all in touch, and at one.

The Escaped Cock(The Man who Died)
by D. H. Lawrence, The Complete Short Novels,
Penguin Books, 1990, p.597.

参考:今年発行された訳本から

「が、男は、夜明け前の生気に満ちた星々が海の上に雨のように降り注ぎ、天狼星が海の縁近くで緑色の雨のように降り注ぐのを眺めていた。そして、思った。「何という造形の妙だろう。何と曲線と襞にあふれていることか! まるで、露と暗闇が触れ合うところに、目には見えない黒い花弁を開くバラのようだ。何とあふれるほど充実していることか! 神々も及ばぬその偉大さ、それはわたしを取り巻くように傾き、わたしはその一部となる。この大いなるバラの宇宙の一部なのだ。わたしはその香料の一粒、そしてあの女はその美の一粒なのだ。今や、世界は多くの花びらを開いた一輪の暗闇の花であり、わたしはその香りのなかに、まるで肌を触れ合うように浸っている。」
 こうして、触れ合いの全き静寂と充足に浸ったまま、男は洞のなかで、夜明けとともに眠りに入った。夜がすっかり明けたころ風が吹き出し、冷たい雨をともなった嵐となった。それで男は洞のなかにとどまって、触れ合っている安らぎと歓びに浸って、海の音や、知を打つ雨の音を聞き、一輪の白と金に彩られた水仙が、雨に濡れてうなだれたまま、まだ今も依然として濡れているのを見て大喜びだった。彼はつぶやくーーこの「触れ合いのうちに身を浸すこと、これは、偉大な贖罪だ。灰色の海も、雨も、濡れた水仙も、わたしの待つあの女も、目に見ぬイシスの女神やあの太陽も、すべてが触れ合いのうちに、ひとつのものになっている。」

          岩田昇訳

『D.H.ロレンス短篇全集 5』大阪教育図書2006年 218〜219ページ

http://ameblo.jp/gaikokubungaku/theme4-10000376862.html


2011年11月13日(Sun)▲ページの先頭へ
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態
感覚と魂:ver2:精神的光と現象光:虚点と実点の即非態

テーマ:manichaeism

先の考察とは逆方向が本来の直観であったと思う。即ち、差異共振エネルギーが生じて、それが感覚界まで到達する。これは聴き手ではなく、創作者の視点である。
 とまれ、氣的エネルギーがあり、それが感覚へと下降する。この感覚には氣の情報が入っている。つまり、美的情報である。

(追記:「この感覚には氣の情報が入っている」という言い方は曖昧であると思う。というか、間違いだと思う。氣の情報はここにはないのである。虚点において氣の情報はあるが、実点においてはないのである。

追記2:追記に対して疑義が生じる。即非態ならば、虚点の性質が実点に反照するのではないのか。思えば、これは長らく気になっている点ではある。思えば、反照があると以前述べたのである。いったい、どちらなのだ。これは実に微妙な問題だ。やはり、即非様態である。つまり、実点には氣の情報はあると同時に無いのである。有であり、無である。だから、実点は虚点よりも不思議なものと言えよう。超越性があると同時に、不在なのである。思うにハイデガーが『存在と時間』で存在についてグチャグチャ言っているのは、この実点についてではないだろうか。しかし、虚点が把握されていないので、いわば、中途半端なのである。超越性であるような、物質性であるような一種未分化な発想に留まっているのだ。)

 これは、media pointの虚点(虚軸上の点をそう呼ぶことにする。次の実点も同様。)と実点(実軸上の点)の関係性をもつ。
 思うに、バッハ音楽を精神感覚で受容するというのは、虚点においてと考えられる。ここでは陽と陰が共振している。
 つまり、虚点の感覚、つまり、精神感覚があるということである。しかるに、実点においては、物質的感覚、現象的感覚があるだろう。これが通常の五感であろう。
 実点の感覚とは同一性感覚であり、ここには、芸術的感覚(美的感覚)はないと思われる。
 つまり、陽と陰が実点では連続的同一性化しているために、差異共振のもつ美が欠落すると言えよう。
 バッハ音楽を聴いて、精神を感覚するというのは、その音が虚点の様態をもっているということと考えられる。そう、結局、感覚とは陰と陽、凹iと凸iの極性によって形成されると言えよう。そして、差異共振から連続的同一性へと転化すると物質的感覚になるのである。
 感覚において勘違いしているのはこの点にあると考えられる。即ち、感覚は本来、精神様態なのであるが、それが実点において物質化作用を受けるのである。
 そして、それが一般的になっているのために、感覚本来の精神性を消失するのである。
 そう、私が光の超越光を感じるというのも同じことである。つまり、光は本来、精神光、超越光なのである。そのために、光を見ると爽快なのである。
 この精神的光、超越光は氣と言ってもいいだろう。氣的光、氣光である。
 これはまったく音の場合でも同じと考えられる。精神的音があり、それが物質的音として表出されるのである。
 これは先に述べた氣と電磁波と同じ関係であると考えられる。
 これで直観をほぼ表現できたようだ。
 ところで、後の課題は分割作用である。二等分、四等分、五等分はわかるが、三等分、六等分、七等分等の等分割はどうやって生まれるのか。これは今だによくわからないのである。

追記3:追記2のように考えると、その後の論と齟齬を来すので、修正しないといけない。
 結局、追記2が正しいのか、それともそれ以下が正しいのか。実点において、氣があるのか否かである。やはり、追記2が正しいだろう。つまり、そこには、氣があるが、同時に、無いのである。
 しかしながら、一般的には物質的世界に慣れてくると、つまり、大人になると、精神性、超越性を排除して生活するので、結局、実点には氣、精神、超越性がないようになってくると言えよう。これが今の解明である。




魂と感覚:光と闇の共振体と精神
テーマ:art & design

今は予見のみ。
 例えば、バッハの音楽を聴くと、すぐ精神を感じる。つまり、聴覚を介して精神に結びつく。ということは精神と感覚は結びついていることになる。
 しかし、一見連続的であるが、そうではない。精神と感覚とのつながりの力学をどう見るべきか。
 思うに、そもそも感覚とは何かが問題である。直観では、光と闇の共振が感覚を形成するのであり、それが外界の感覚的刺激を得て、感覚受容するのである。
 例えば、光を見るとしよう。光は視覚に入り、光と知覚される。しかしながら、視覚は光と闇の共振感覚とするならば、受容された光とは実は光且つ闇ではないのか。正確に言えば、光と闇の共振体ではないのか。
 つまり、もともと、光とは闇と一体ではないのか。それが、知覚されたとき、感覚器官は共振体を受容するのであり、それが、光だけでなく、闇をも感じ取るのではないだろうか。否、光と闇の共振体を感じ取るのではないだろうか。
 それは当然、光と闇の共振体であるから、精神として感受さるのではないだろうか。
 バッハの音楽に戻せば、それは、単に音響ではなく、音と非音の共振体ではないのか。それが、聴覚で感受されたとき、その共振体を感じて、精神を感じ取るのではないのか。
 あまりうまく言えていない。後で再考したい。




2011年11月01日(Tue)▲ページの先頭へ
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』
『光と闇の共振が形成する物質と超越光:media point (super)light seed』

テーマ:manichaeism

光と闇の共振からmedia pointの実軸を介して、物質が形成される。しかし、それだけではなく、虚軸においてなにかが形成される。前者を創出、発出とするなら、後者は創入、発入とでも言うべきものである。
 思うに、これこそ、何度も既述した超越光ではないだろうか。先には、凹i=闇においてそれを想定したが。
 そして、ほとんどすべての宗教、神話、民話等が説く「光」はこの超越光ではないかと思う。当然、現象の光ではないのである。
 たとえば、キリストの光は超越光であり、正に、media point的である。(思えば、シュタイナーはキリストはアフラ・マズダであると述べているが、後者は結局、超越光である。)
 この視点から、マニ教の光の種子が意味が明瞭になるだろう。それは、media pointの虚軸(虚点と言おう)である。media point seedである。
 そう、万物はmedia pointにおいて、光の種子、超越光の種子をもっているのである。それは卵と言ってもいい。media point egg.
 先のゲーテの上昇であるが、それはmedia point seedへのアクセスと捉えることができよう。
 問題はこの光、超越光の種子を萌芽させ、成長させることである。それが魂の涵養、陶冶である。
 この光/超越光の種子の発芽・成長が心身を満たすようにはたらきかけるべきである。
 また、世の中にも当然、光/超越光の種子を見出し、発芽させ、成長させるべきである。(教育は本来、そういうものであるが、まったく倒錯している。)
 経済について言うと、資本主義においても、光/超越光の種子はあるのである。それは、差異共振経済である。そのための法形成が必要である。
 その他の領域についても言えるが、今はここで留める。



『ゲーテの「上昇」:media point twilight or orientation』

テーマ:manichaeism

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー

創造的な自然によって物質的なものの中から精神的なものが明確な形をとって現れてくる過程こそゲーテが上昇と呼んでいるものである。自然は絶えず努めて上昇するものの中で把握される。−ゲーテの自然観−


ゲーテ研究家であったシュタイナーは以上のように述べている。
 これはマニ教に通じる考え方であるが、PS理論ではどう捉えるだろうか。
 ツル植物の上昇は「天」を目指すものであるので、それはゲーテの「上昇」と通じるだろう。それは、「光」を目指していると思う。つまり、太陽を目指す。
 それに対して、根は下降であり、「闇」を目指す。
 思うに、端的に、凸iが「天」であり、「上昇」を意味しよう。そして、凹iが「地」であり、「下降」を意味するだろう。
 PS理論的には「上昇」も「下降」も、凹(−1)【大母源、ないし、母源と呼びたい】を指し示すだろう。
 思うに、「光」は「闇」へと浸透するのであり、「闇」は「光」へと浸透するのである。シュタイナー的に言えば、前者は赤であり、後者は青である。
 結局、それらはmedia pointを志向していると言えよう。だから、ゲーテの「上昇」とはmedia pointへの志向と言える。そして、結局は第三象限への志向と言えよう。
 では、母源と第三象限はどう異なるのだろうか。
 母源は超越的存在であるから、凸iの光より、凹iの闇で直感する方が適切である。
 故に、母源は第三象限に融け込んでいる、浸透していると言えるのではないだろうか。
 思うに、第二象限においては、母源は合理的知性で認識されようとするだろう。しかし、その場合は、正に、カント哲学の善の観念、実践理性になるだろう。合理的知性では仮構しかできないのである。
 凹iの直観性、直観的イメージ・ヴィジョンが母源を直覚するのである。
 おそらく、プラトンのイデアも母源を凸iで把握しようとしたものである。そう、ゲーテの上昇もそれに近いかもしれない。ならば、シュタイナーの精神もそのような向きがあるのではないだろうか。
 シュタイナーの瞑想は実に光的である。そうすると、彼の霊学は第二象限に属すことになる。
 それに対して禅の瞑想は第三象限であろう。



エネルギーと物質:media pointの非可逆性:脱西欧・media point epoch
PS理論では、宇宙は凹(−1)が起源であり、そこから陰陽エネルギー(氣)が創出されると考える。
 そして、陰陽エネルギー(以下、エネルギーと簡略化)は、media point変換によって、物質を発生させる。
 問題はmedia pointの物質発出機構、物質発出メカニズムである。
 エネルギーはmedia pointの実軸において、量子化されると考えられる。そう、ここに量子力学の領域があるだろう。
 問題はエネルギーとこの量子メカニズムの関係である。これは⇒の起点と終点で把捉できるだろう。先に指摘したように起点と終点は不連続であり、非可逆的である。ここに、宇宙創造の一つのエッセンスがあると言えよう。エネルギー⇒物質である。(E⇒mc^2であり、E=mc^2は誤りだ。思うに、ここに後の量子力学の壮大な誤謬の原点がある。)
 問題は量子メカニズムである。そのエネルギー/物質変換メカニズムにおいて、量子とはいったい何であるか。
 そう、量子とはエネルギーの物質的投影である。(あえて言えば、幻影、仮象、仮構である。)つまり、量子メカニズムはエネルギー機序の物質的仮構である。
 量子メカニズムを応用することは、宇宙創造の機序・秩序に介入することになる。言い換えると、量子力学以前において存在した宇宙創造の機序・秩序(「コスモス」)とは別の機制をもたらすことになるのである。
 ある意味で脱自然化である。人工的「自然」創造である。先に述べたように、有機体的宇宙・自然創造とは異質な「創造」が加わったのである。人類は第二の創造神になったと言ってもいい。
 しかしながら、この第二の創造は大根源(大母源)から発していないので、無機的なのである。一般的には有機体的宇宙・自然とは相容れない。端的に、それに対して破壊的だ。
 また、その操作が利己主義、自我中心主義に基づくならば、当然、悪魔的なものとなるのである。そして、それが現代において現実化したのである。(思うに、量子力学の誕生をもって、あるいは、20世紀初期ないし前期をもって脱近代の時代、トランス・モダンの時代の始まりと見るべきだろう。あるいは、ポスト・ヒューマンの時代の。別の命名もあるが。)
 そして、原発爆発による放射能汚染はその帰結である。
 問題は第二の創造のテクノロジーをもった人類の知性にある。知性が利己主義、自我中心主義に基づくならば、これによる悪魔的破壊は拡大して、人類は滅びるだろう。
 知性が凹iをベースとする精神性に基づくならば、第二の創造は積極的なものとなる。ここが核心的ポイントである。
 このような視点から、飯山一郎氏が提唱する、光合成細菌による放射能汚染の浄化作用とは何を意味するのだろうか。(参照:『光合成細菌』で放射能浄化!  http://grnba.com/iiyama/hikari.html )一般的には、自然、人間とは相容れない人工的な放射能であるが、自然の、原始的細菌がそれと適合して、放射能を無害に変換するのである。
 ここには放射能、正確には、放射線存在の問題がある。飯山氏が説くように、原始的には、光合成細菌が放射線を吸収する宇宙・自然のメカニズムがあったのである。光合成細菌にとっては、放射線は異質なものではないのである。
 故に、ここで上述の脱自然の視点は変更されなくてはならない。確かに、第二の創造は一般的には脱自然化であるが、原始的な光合成細菌にとってはそうではないのである。「自然」に適合するのである。
 ここで自然とは何かの問題が提起される。あるいは自然的進化、宇宙的進化の問題。
 そう、進化が正確な問題である。即ち、地球の原始的状態においては、生命体と放射能とは適合していた。しかし、その後の進化過程へ経て、高度な生命体は放射能とは不適応になっていったのである。言い換えると、光合成細菌のレベルを「脱ぎ捨てて」進化が進展したのである。(進化を低レベルを脱ぎ捨てるプロセスと見ることができよう。超剋である。)
 だから、進化の絶対的差異があるのであり、進化は非連続的段階をもつ。(プロセスという用語はあまり適切ではない。)だから、この点から上記の脱自然化は説くことができるのである。
  結局、量子力学的変革によって、人類は脱近代化、脱自然化したのであり、それまでの進化が終わったと言えるのである。そして、進化の初期段階に戻らないといけないような事態が生じたのである。生命体的にはそうなのである。
 しかしながら、知性においては、上述したように、精神の進展が必要になるのである。利己主義、自我中心主義となった知性を乗り越える精神的知性の陶冶・涵養が必要になったのである。
 これは取りも直さず、東洋的知性ないしは非西洋文明的知性への回帰を意味するのである。
 西洋文明、とりわけ、近代西洋文明は利己主義、自我中心主義へと強く傾斜して、その物質文明をもって悪魔的に破壊的になったのである。
 霊学のシュタイナーは「自我」ichの重要性を説くが、実は、問題は個、差異、絶対的他者、絶対的差異である。
 イタリア・ルネサンスはその発芽であると考えられる。しかしながら、西欧(追記:西洋では間違いなので、上述の西洋云々は訂正されなくてはならない)は自我、凸iに傾斜しているために、個=差異が利己主義、自我中心主義へと発展したのである。
 (だから、以前提唱したトランス・モダンという視点はあえて言えば、間違いなのである。モダンは二種類あったのであり、それが混淆・混合されて、曖昧になってしまったのが実態である。そう、トランス西欧というのが的確である。トランス・ウェストである。脱西欧である。)
 結局、知性の東洋回帰、精神化とは脱西欧化ということになる。脱欧入亜である。
 最後に、脱西欧化と量子力学の「脱近代」の関係をさらに考えると、結局、共通点はmedia pointであるのが了解される。
 西欧は知性のmedia pointを喪失したのであり、また、量子力学は自然におけるmedia pointのエネルギー様態の発見であるから、脱西欧と量子力学的「脱近代」は共通するのである。
 だから、今日、現代はmedia pointの時代、エポックと言えるのである。それは同時に、マニ教新時代でもある。


2011年10月12日(Wed)▲ページの先頭へ
エネルギーとは何か:気、電磁波、放射能:MP1とMP2の絶対的不連続性
(以下は10月10日に書き出したものだが、今日10月12日になって大半を書いた。)

最近は余裕がない。とまれ、一言、本件について述べておこう。
 先に凸i*凹i⇒は電磁波であり、先端が光であるようなことを述べた。
 そして、凹(-1)⇒凸i/凹iの左辺が「気」ではないかと述べた。有り体に言えば、「気」から電磁波が生まれ「た」ということである。
 D. H. ロレンスはFleshは未分化な超越・絶対的原初的身体と述べている。
 それを受けて考えると、凹(-1)は、気的身体である。それはKaisetsu氏に拠ると自己分割して、陰陽極性を発生させることになる。
 先にも述べたが、MP1(虚軸のmedia point)に第3のものがあり、それが気ではないかと述べた。
 そうすると、問題は、凹(-1)とMP1の関係である。凹(-1)を気的身体としたが、後者に気があるのであるから、両者の関係は微妙となる。
 思うに、凹(-1)を気的身体というよりは、原身体とする方が的確かもしれない。つまり、原身体凹(-1)があり、それが自己分割して、気的陰陽極性を発生させるというようになる。
 そう仮定すると、MP1に気的陰陽極性があり、それが、MP2(実軸のmedia point)に転化する。(思うに、MP1はimaginary media pointだからIMPに、MP2はreal media pointだからRMPと表記した方がいいかもしれない。以下、使用する。)
 RMPに展開したとき、気的陰陽エネルギーは光に変換するのではないだろうか。それが光子である。そして、そこから、さらに、⇒凸(+1)の物質形成へと向かう。
 私が超越光と呼ぶのは、IMPに発生するものであり、それが、RMPの光と二重化するのであるが、実は、両者は即非様態のはずである。つまり、超越光(気)であり、且つ、光(光子)であり、同時に、超越光≠光である。
 そう考えると、以前私が超越光の扱いにてこずった理由がよくわかる。
 ここで電磁波を考えると、それは、端的にRMPを起点するものと思われる。しかしながら、電磁波が必ず、IMPの要素をもっているとは言えないだろう。(それとも、そうなのだろうか。)
 問題は物質である。直観では、RMPを独立させて、電磁波を取り出して、物質を発生させることは可能である。ならば、どう説明するのか。
 思考実験すれば、RMPにおいて、陰陽が+と−、NとSとに変換されるのではないだろうか。つまり、例えば、電子の形成である。言い換えると、IMPにおいては気的陰陽エネルギーであったものが、RMPにおいては、原物質的変換が起こり、電磁気が形成されるのではないだろうか。それは、IMPのエネルギーとは異質なものであり、区別されるのではないだろうか。
 即ち、IMP⇒RMPという変換は不連続な変換、絶対的に不連続な変換ではないだろうか。あえて言えば、精神⇒物質の変換である。
 そう、精神から物質へは転換できるが、物質から精神へは転換できないということである。一方通行である。
 この点から放射能を考えるとその生命体への問題がよくわかるだろう。自然の放射能は気から生まれたように思えるが、人工の放射能はRMPから生まれたものであり、生命体とMedia Resonance(共振)しないのである。それは、逆に、生命差異共振を破壊すると言えるのである。
 今はここで留める。
 

参考:
伊勢ー白山 道

変わり始める時節の到来

私が感じますには、高度な顕微鏡で見える2本の遺伝子とは別に、肉体と霊体を繋ぐ3本目の「見えない遺伝子」が存在するのです。
この3本目の遺伝子の指示を受けて、見える2本の遺伝子が日々変更されています。
この3本目の遺伝子に影響を与えているのが、普段の私たちの心(内在神)なのです。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/042e79a3580f4e3126bcb26ac5812661


2011年09月07日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:光子に質量がないことをどう説明するのか
直観では、光子は凸i*凹i⇒凸(+1)の⇒である。つまり、物質までに転化していないエネルギーである。だから、正確には光子は物質ではない。あえて言えば、精神(霊)spiritである。
 PS理論から言えば、凸iと凹iとの差異共振様態であり、粒子としては⇒の先端であり、波動としては⇒の起点と考えられる。
 物質が生じるには、作業仮説的に言うと、凸iの傾斜が必要なのではないだろうか。それは原同一性であり、それが優位であると、⇒の帰結として、同一性体、即ち、物質が形成されるのではないだろうか。
 そうみると、光子は凸iの傾斜がなく、調和的に差異共振していると考えられよう。
 さらに、もし物質形成には凸iの傾斜が必要ならば、そのバランスをとるために、凹iの傾斜がどこかに必要になるだろう。
 端的に、凹iの傾斜は何を形成するのか。これは難問だ。反物質だろうか、反粒子だろうか。それとも、気だろうか。とりあえず、反物質としておくか、保留とする。
 均衡ある差異共振としての光子を考えると、それは、(i/-i)*(-i/i)⇒凸(+1)となるのではないだろうか。
 i/-iが陰⇒陽、-i/iが陽⇒陰である。そう、これは、また、

(i/-i)⇒(-i/i)⇒(i/-i)⇒(-i/i)⇒・・・⇒凹(−1)

ではないだろうか。
 つまり、超越的双極子がmedia pointで作用しているのであり、それが、光子であるということになる。つまり、光子は「光」と「闇」の即非差異共振エネルギーということになる。光子は二重「光」なのである。
 光子において、「闇」が見えないのは、⇒の先端において、「光」が発するのであり、そのために、「闇」が隠れているのではないのか。
 仮に言えば、「闇」⇒「光」ではないのか。
 しかし、これは不正確である。上述の考えに拠れば、media pointにおいて、闇と光の表裏があるのであり、現象としては光が発現するが、超越現象としては闇の「共振」があるのではないだろうか。
 言い換えると、光と闇が表裏一体であり、現象としてのは光しか見えないのである。闇はこの場合、ダーク・マターに通じる。あえて言えば、光子は同時に闇子ではないのか。それが、D. H. ロレンスの言うdark sunではないのか。
 以上は思考実験であり、今はここで留める。

光子
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光子(こうし、フォトン、photon)は、光 を粒子 として扱う場合の呼び名である。

電磁相互作用 を媒介するゲージ粒子 であり、素粒子物理学 においては記号 γ(ガンマ線 に由来する)、光化学 においては記号 hν(後述する光子の持つエネルギー を表す式から来ている)で表されることが多い。

アルベルト・アインシュタイン がマックス・プランク の黒体放射 の量子仮説 を基にして、電磁波 の粒子的な側面を説明するために導入した光の量子 である。アインシュタイン自身は光量子 (light quantum) の名前で提唱していた。

光子1個の持つエネルギー Eは、プランク定数 h、振動数 ν、光速度 c、波長 λ を用いて

E = h\nu = h\frac{c}{\lambda}

で表される。光電効果 は物質 中の電子 が、光子1個を吸収し、そのエネルギーを自身の運動エネルギー として物質から飛び出す(もしくは半導体 等において、価電子帯 の電子が伝導帯 へ励起される)現象として説明される。

また、光子はその進行方向に大きさ

p = \frac{h\nu}{c} = \frac{h}{\lambda}

の運動量 を持つ。コンプトン効果 はこの運動量を持つ光子と電子の弾性散乱として説明される。

光子は質量 や電荷 が0であり、安定な素粒子 である(崩壊寿命がない)。光子の反粒子 は光子自身となる。また光子はスピン 1を持つボース粒子 である。角運動量保存則 のため、光子の吸収、あるいは放出の前後には系の角運動量がこのスピン角運動量の分だけ変化しなくてはならない。このことが、電磁波の吸収における状態遷移が起こりうるか否かを決定する選択律の原因となる。

電磁波の吸収が起こる過程においては通常は1個の光子のみが吸収されるが、レーザー のように光子密度の大きな電磁波を用いると、複数の光子が吸収されることもある。このような過程は、多光子過程と呼ばれる。
関連項目 [編集 ]

* 光
* 素粒子物理学
* 光通信学
* 光学
* 分光学
* アルベルト・アインシュタイン



2011年08月24日(Wed)▲ページの先頭へ
「わたし」とは自我なのか自己なのか:個と自我と自己
(人間認識図は以下を見られたい。)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-10996218453.html

「わたし」とは自我なのか自己なのか:個と自我と自己

私はシュタイナーの本の翻訳者がichを自我と訳しているのは大誤訳であり、自己とすべきであると何度も唱えている。これは、デカルトに始まる近代哲学の大問題であるから、ここで、繰り返しになるのが、論述したい。
父権的民族は凸i、iが優位であり、母権的民族は凹i、−iが優位であると考えられる。
そして、近代になって凸i、iが極端化して、凹i、−iを否定するようになったと考えられる。それが、コギト・エルゴ・スムの意味するものと考えられる。
そのときの「わたし」は確かに、自我と訳していいものである。その意味ならば、シュタイナーのichを自我と訳すことは正しいことになる。
では何故、私は自己という訳語にこだわるのだろうか。それは、PS理論の陰陽性からの要請からである。即ち、自己は陰陽的存在であり、単に自我的存在だけではないからである。言い換えると、「わたし」は自我と他者の極性から成り立つのであり、自我だけを切り離すのは間違いと考えられるからである。
とまれ、近代哲学において凸i、iの優位は決定的であり、そのために、他者凹i、−iは劣位なのである。この場合、不連続的差異論で述べたように、連続的同一性が中心化するのである。そう、連続性の支配があるのである。
しかるに、凸i、iの優位性から凹i、−iを不連続化したとき、自己において、質的転換(変容)が生起するのである。思うに、それを自己のmedia point化を呼べるだろう。
media point Iの生起である。そのとき、自己は極性的自己(個)となっている。他者を考慮した凸i、iにもなるし、凸i、iを制御した凹i、−iに転ずることもできる。
先に、個=アートマンや「空」=media pointを述べたが、今や正確に事態を認識することができる。media point I(略して、mpI、又はmepoI)こそが、個=アートマンであり、その様態が「空」であるということである。すなわち、

media point I=陰陽(極性)的自己=個=アートマン(=ブラフマン)=「空」

である。
そして、瞑想等を介して、凹i、−iを主導化して、人間認識図の第三象限へと参入するのである。それを神界(神海)、霊界(霊海)、コスモス界(コスモス海)と呼ぶことができよう。そう、冥界(冥海)である。
最後に、シュタイナーの自己論に関して付加すると、既述したが、自我とアストラル体は極性化して考えるべきということである。つまり、それぞれ、凸i、iと凹i、−iと見るべきであるということである。

参考:自己認識方程式と人間認識図

自己認識方程式

i*(−i)⇒+1

or

凸i*凹i⇒凸

ただし、*は実軸的には積を意味する。

人間認識図



2011年08月19日(Fri)▲ページの先頭へ
media pointの「振動」の即非様態について:積と商:粒子志向性と反粒子志向性
(画像つきは以下を見られたい。)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-10990710922.html

これは思いつきであり、実質上検討問題に属するが、そのイメージを表記してみよう。
 media pointは凸i*凹iないしi*(-i)の「振動」様態にある。そして、精神的フィルターを介して、現象としての物質化する。それが、⇒+1の意味であり、+1が物質である。
 以前提起したことだが、media pointの「振動」において、積(結果は+1)が物質化(粒子化)を意味し、商(結果は-1)は超越的存在を意味するのでは述べたことがある。
 今の直観では、積はそのまま物質化(粒子化)でいいが、商は反物質化(反粒子化)ではないかということである。また、積(引力)と商(斥力)は「振動」を構成している要素である。
 これは、当然、以前の視点と一致する。即ち、商の反物質化(反粒子化)は超越的存在へと通じていることになる。
 media pointの「振動」様態であるが、それは、「波」、「波動」と一般には見られるかもしれないが、微妙である。
 また、商の様態の問題もある。積の場合、ベクトル・モードを造形したが、商の場合はどうなのか。これは検討課題としてひとまずおいておく。
 さて、media pointの「振動」様態は何か。それは、粒子志向性と反粒子志向性との即非的様態ではないのか。それが、「波」、「波動」として、現象化するのではないのか。
 そうならば、商における様態はどうなのだろうか。斥力であるから、拡散のイメージがある。ベクトル・モードのように回転や螺旋を描くのだろうか。
 イメージできるのは、絶対的空(くう)である。斥力としての商において、media pointは絶対的空、絶対的な空虚になるのではないだろうか。
 そうならば、反粒子(反物質)は絶対的空なのだろうか。それとも、絶対的空を包含する存在なのだろうか。
 どうも、後者のような気がする。絶対的空をもつ反粒子(反物質)の志向性がそこにあるように思える。
 そして、絶対的空をもつ反粒子とは、斥力なので、二重性を強くもっているだろう。+iと-iが並立している様態である。そう、反立という用語が使えよう。
 思うに、端的に言って、斥力で生まれる絶対的空をもつ並立且つ反立する二重性をもつ反粒子とはいったい何か。果たして、「粒子」なのか。
 思うに、脱「粒子」ではないのか。さりとて、「波」でもない。仮定として、それはspiritと言えるだろう。
 もしそうならば、media pointにおいて、物質化の方向、現象化の方向では粒子が出現するが、「反粒子」の方向ではspiritが出現しているということになる。
 そうすると、超越的存在(-1)は、spiritual beingということになるだろう。
 今はひとまず、ここで留めておく。


参考:

反粒子とは?
今世紀の初頭、原子・分子の世界を支配する基本法則として量子力学が確立されるやいなや、イギリスの天才物理学者ディラックは、これを自然をつかさどるもう一つの基本法則であるアインシュタインの相対性理論と合体させる作業にとりかかりました。非相対論的なニュートン力学が、光の速さに近いスピードで運動する物体に適用できないように、量子力学も、相対性理論との合体なくして、高速で運動する電子を正しく扱うことができないことは明らかだったからです。

こうしてできあがったのが、電子の相対論的運動方程式であるディラック方程式です。この方程式を解いてみると、-eの負の電荷を持つ電子を表す解だけでなく、電子と同じスピンや質量を持ちながら、+eの正の電荷を持つ粒子と解釈できるもう1つの解が出てきたのです。これは予想外のことでしたが、今にして思えば、電子の反粒子である陽電子に対応する解に他なりませんでした。ほどなく、こうして予言された陽電子が実験で見つかりました。これは、相対論的量子力学の輝かしい勝利でした。

今では、素粒子を記述する相対論的量子場理論の必然的な帰結として、 全ての素粒子が、それと同じ質量を持ち、電荷のような符号を持つ(加算的)量子数が正負反対であるような反粒子の相棒を持つことが分かっています(符号を持つ量子数を持たない粒子の場合は、自分自身が自分自身の反粒子だとみなせます)。相対論的量子場理論が描く素粒子の世界は、以下に説明するように、粒子と反粒子が次々と生まれたり消えたりしながら移り変わっていくとてもダイナミックな世界です。

対消滅と対生成
粒子と、反粒子が出会うと、量子数が正と負で打ち消しあってゼロになり、真空と同じ状態になります。そしてそこには、もともと粒子と反粒子が持っていたエネルギーが残ります。これを対消滅といいます。静止した粒子と反粒子が対消滅した場合には、アインシュタインの関係式

E = mc2

によってエネルギーと質量が等価であることが分かっていますから、粒子と反粒子が同じ質量を持つことを考え合わせると、そこには2mc2 のエネルギーが残されることになります。高いエネルギーに加速された粒子と反粒子が正面衝突して対消滅した場合には、消滅した点にはさらに高いエネルギーが集中して残されます。

対消滅とは反対に、真空の1点に 2mc2 以上のエネルギーを集中させれば、そこから粒子と反粒子の対を取り出すことができます。これを対生成と呼んでいます(ここまであいまいにエネルギーの集中と呼んできたものは、実は粒子と反粒子を対にして生み出す力を秘めた、光子や、Z粒子、グルーオンなどの力の粒子の特殊な状態だと考えられます)。十分なエネルギーを注入できれば、宇宙創成直後の超高エネルギーの世界にしか存在しなかったような、重い粒子を作り出すこともできるのです。高エネルギー衝突型加速器は、まさにこの方法を使って、今まで人類が知らなかった新粒子を見つけたり、また、それらの粒子の間に働く力を調べるための装置なのです。
http://www.kek.jp/kids/class/particle/class01-05.html

粒子反粒子振動
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粒子・反粒子振動(りゅうしはんりゅうししんどう、particle-antiparticle oscillation)または中性粒子振動(ちゅうせいりゅうししんどう、Neutral particle oscillation)とは素粒子物理学 において、非ゼロの内部量子数 をもつ中性粒子がその反粒子 へと交互に変換すること。振動数は毎秒 数兆回程度。これらの振動と関連する粒子混合を通じ、ポアンカレ群 (即ちP対称性 (P)、C対称性 (C)、T対称性 (T))の個々の部分を理解することができる。
現象 [編集 ]

K中間子 、中性子 、ボトムクォーク を含む中間子、ニュートリノ はフレーバー とよばれる内部量子数をもっている。これは粒子とその反粒子は異なるということを意味している。粒子とその反粒子が同じ最終状態へと崩壊する場合には、崩壊には振動に寄与する時間反転した過程がありえる。

A → (F) → B → (F) → A → ...

中性K中間子の振動。中間状態のππには粒子とその反粒子 の双方が崩壊しえる。

ここでA は粒子、Bは反粒子、Fは粒子・反粒子の双方が崩壊しえる粒子の一式である。Fは崩壊しえるものではあるが、実際に崩壊するとは限らないので、カッコ内に記しておいた。

例として、中性K中間子 の図を右に示した。

このような過程は実際には量子場理論 におけるAとBの状態の質量繰り込み と関連している。しかし、特定の状況下においてはより単純な量子力学 模型により取り扱うことができる。即ち、中間の多粒子量子状態 を無視して、AとBだけの状態として取り扱うことができる。
歴史 [編集 ]

粒子反粒子振動が観測された中間子 は、これまでK中間子とB中間子がある。

Bs中間子の振動は、小林誠 、益川敏英 両博士が1973年に発表した「小林・益川理論」で予想されていた。その後、米国立フェルミ加速器研究所の巨大加速器「テバトロン」を使う国際グループ実験がなされた。2006年4月12日には、同グループの日本側代表が実験で観測したことを発表した。それによると、Bs中間子の粒子反粒子振動の振動数は1秒間に約2兆8000億回である。
関連項目 [編集 ]

* K中間子 、en:B-Bbar oscillations 、ニュートリノ振動 (en )
* CP対称性の破れ 、CPT対称性

執筆の途中です この項目「粒子反粒子振動」は、物理学 に関連した書きかけの項目 です。加筆・訂正 などをして下さる協力者を求めています 。(ポータル 物理学 /ウィキプロジェクト 物理学 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%92%E5%AD%90%E5%8F%8D%E7%B2%92%E5%AD%90%E6%8C%AF%E5%8B%95 」より作成
カテゴリ : 素粒子物理学 | 標準模型 | 量子力学


反粒子

空孔理論
 原子構造の解明や中性子の発見の歴史の流れに従って話しているうちに、 1950 年代くらいの内容まで入ってきてしまった。 しかし少し時代を遡って別の流れについても話しておかないといけない。

 1928 年、ディラックが相対論的な量子力学を考え、「反粒子」なるものが存在するだろうと予言した。 彼は、何もないように見える真空にも実は無数の電子が詰まっていて、そこから飛び出した電子が通常の粒子として観測され、それが抜けた穴が反粒子として観測されるのだというイメージの理論を発表したのである。

 この理論は後には場の量子論によって再解釈されることになるのだが、今回の話ではまだそこまで踏み込む必要もないので、この古いイメージのままで説明しよう。

 この理論によると、真空に対してある程度のエネルギーを与えれば、電子とその反粒子が対になって飛び出してくるだろうということになる。 これが「対生成」である。 そして粒子と反粒子が再び出会えば、その両方の質量分のエネルギーを放り出して消滅し、もとの真空に戻る。 これが「対消滅」である。

 反粒子というのは存在の欠けた穴なのだから、電場を掛ければ電子とは逆の方向に動く。 まるでプラスの電荷を持っているかのように振舞うだろうというわけだ。 詳しくは量子力学のページの「ディラックの海」という記事でも説明しているので参考にしてほしい。


http://homepage2.nifty.com/eman/elementary/antiparticle.html

EMANの物理学



2011年08月02日(Tue)▲ページの先頭へ
法とは差異と同一性の二重構造であるが、今日、同一性中心主義で差異が排除されている
法とは差異と同一性の二重構造であるが、今日、同一性中心主義で差異が排除されている

テーマ:manichaeism

以下の記事に対して、簡単にコメントしたい。
 法とは本来、差異に対する公平さを制定するものであるが、結果は当然、同一性としての法である。だから、法とは二重構造をもつのである。差異と同一性の 並立・共立である。しかるに、今日、法は同一性のみで把握されていて、差異を無視している。これは、法の堕落以外の何ものでもない。法律家よ、御用学者、 権力の走狗に甘んじていいのか?!

追記:正確に言えば、法とは差異が主であり、同一性は従である。これは正に、万物の力学そのものである。法=科学=哲学。

追記2:法とは「差異と同一性の並立・共立」と上述したが、そうではなく、差異と同一性との一種の対立ではないのか。あるいは、両者の極性ではないのか。正に、陰陽極性では? 後で十分検討したい。

gamagamagaman gama

tokaiamaがリツイート

国会、ふくいちで働いていた父を亡くし、浪江町のアパートの家賃 収入で子供二人を育てていた母親が、避難先から家賃収入がゼロになり、損害賠償を東電に求めたところ、今住んでいるところが、圏外居住であることから賠償 を認めないとの返事。公明党浜田議員による質疑。氷山の一角と思われます。



万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」という名で

テーマ:manichaeism

以下、空海の説く「智」、「心」、「法」とは、PS理論のmedia pointのモードと一致するのではないだろうか。
 決断である「智」とは、不連続であるmedia pointの最初の認識ではないだろうか。また、「心」は当然、media pointの最初期モードである。そして、「法」はmedia pointの「知」そのものではないか。
 とにかく、空海の仏教哲学は根本的、本質的にはPS理論に通じると直観される。

『・・・ 万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」(ジュニャーナ)という名でこれをよぶ。諸現象の生起す る原因の集まり、という意味をあらわすときには、「心」(チッタ)という名でよぶ。真理が軌範となって人の心に理解を生じさせる意味をあらわすときは「法 門」(ダルマ)という名でよぶ。
 「智」と「心」と「法」という名は、いずれも「人」を離れてあるものではない。このような「人」は、数がはななだ多く、国土を砕いて塵にした数量より以上にもおよぶのである。だから、すべての人びとがそなえている智慧、という意味で、「一切智智」と名づけるのである。』
「八 心数心王過刹塵 各具五智無際智」:弘法大師:空海全集第二巻「即身成仏義」:筑摩書房 p. 251

参考:〈薩般若(さはんにゃ)〉とは、梵語である。・・・。漢訳では、「一切智智」という。「一切智智」の「智」とは、「決断し」「えらびとる」という意味である。同上 pp. 25~26
弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2 [-]
空海 (著), 弘法大師空海全集編輯委員会 (編集)
内容(「BOOK」データベースより)
真言密教の神髄を開示する諸論集!精神の発達を十段階に分けて説く『秘蔵宝鑰』、顕教と密教の違いを明示する『弁顕密二教論』、身体論・言語論・記号論を 展開して現代思想に大きな示唆を与える『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』など、真言密教の神髄を端的に開示する諸論。
5つ星のうち 5.0 甚深の書, 2004/9/16
By
輿聖龍 - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2
秘蔵宝鑰は普通、十住心論(本全集の巻1)のダイジェスト版と言われているが、読んでみると、必ずしもそうではなさそうである。余談だが、多くの仏者は頭 を剃っても欲は剃っていない、とか、誦すだけなら鸚鵡(当時は極希少であったろう)でもできるとかが書いてあって、親しみがもてる。弘法大師はユーモアの センスもまた豊であったようだ。
本巻なかで、極めつきは吽(ウン)字義である。千経万論の全仏教は大日経の三句に要約できる。この三句をさらに束ね ると吽の一字となる、ということからして、王冠の中のそのまた、一番大粒のダイヤモンドである。言葉による概念の圧縮、象徴化(真言)である。視覚による イメージ操作とは類似だが別個の回路を形成すると思われる。これは、祈りの集中力を強化して、その効率を飛躍的に高めるための、すぐれた技法でもあろう。 真言を原始的、幼稚なまじないくらいに思っているあなたに薦めたい。
尚、十巻章とは、菩提心論一巻、弁顕密二教論二巻、秘蔵宝鑰三巻、即身 成仏義一巻、声字義一巻、吽字義一巻、般若心経秘鍵一巻、これである。このうち、菩提心論(本全集第八巻に収録)以外はすべて本巻に収められてある。梅原 猛著、講談社学術文庫の「空海の思想について」も解説書として参考になる。

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2011年07月09日(Sat)▲ページの先頭へ
凹iの問題:連続的凹i(同一性体)と不連続的凹i(media point的極性)
【人間認識図】
by Mr. Kaisetu with Mr. Seiseimon's collaboration

人間認識図では、悪徳の領域は第四象限に置かれる。それは、凹iと凸によって形成される領域である。
 そして、最深の領域は第三象限であり、凹iと凹によって形成される領域である。
 つまり、最高の領域と最悪の領域の両方に凹iが関わるのであるが、この力学を明確にする必要がある。
 これは、結局、連続性と不連続性の問題である。連続性において、凹iは凸と結合するのであり、そこで自我感情・欲望(利己主義)が「発達」するのである。
 しかしながら、同時に、凹iは不連続的には凸iと純粋共振して、凹との融合を保持するのである。つまり、凹iとは連続性においては、エゴイズムを形成して、不連続性においては、利他主義を形成するのである。
 これで、一応、凹iの力学を説いたが、問題は近代主義である。それは、連続性中心なので、不連続性において、保持する精神世界を喪失してしまうのであり、物質世界、機械論的世界が中心化されるのである。
 さて、ここで、存在論について簡単に触れると、凸iが認識に関わるのであり、凹iが直観・直感に関わるとするならば、存在は当然、凹iに関わると言えよう。
 思うに、私が個体に特異性、絶対的差異性を認めるのは、結局、凹iと凹との結合においてであろう。
 物質体は凸であり、それは同一性体であり、存在ではない。存在は言い換えると、media pointに存すると言えるかもしれない。勿論、存在は超越的存在と関係するのである。
 ハイデガーの存在論の欠点は、物質体=同一性体を形成する存在を中心化していることであり、それは、連続的存在に過ぎないのであり、PS理論的には精神的フィルターを存在と呼んでいると考えられる。
 何度も既述したが、ポスト・モダン(ポスト構造主義を含む)はハイデガー存在論の影響が大きく、その連続的視点を継承してしまっているのであり、そのため、とりわけ、ドゥルーズ「哲学」は唯物論に捕らえられているのであり、また、デリダ「哲学」も物質主義から逃れられず、超越的精神世界を肯定することができなかったのである。
 フッサール現象学は実は、不連続論であるが、それを不肖の弟子のハイデガーは捉えられずに、現象学を連続論に堕させたのである。

追記:連続的凹iによって、嫉み、怨恨、悪意、等が説明できる。犯罪はここから生まれる。思うに、シュタイナーが悪とはかつて善であったものが進化できなくなったものであると説いているが、凹iを不連続化することが進化と言えよう。とまれ、悪と善は凹iという共通点をもつのであり、悪も不連続化を為せば、善に変わるのである。マニ教の仁慈原則:悪を善に変容させる。

参照:

Wikipedia
マルティン・ハイデッガー
・・・
存在の意味と現象学的方法 [編集 ]

この著作でハイデッガーは、存在者と存在一般を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在する(Sein)という意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。これは存在論の根幹をなす問いであり、存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としてアリストテレス によって定義された(『形而上学 』)。この問題に関しては、命題論理的な見地から展開されたアリストテレスとカント 以来の(それぞれの哲学的立場は大きく異なるが)伝統があるにも関わらず、ハイデッガーはそこから離れたアプローチをとった。この伝統には、「理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く(彼自身も含めた)世界内の存在との根源的な関係を意味する」という命題が内在しているためである。

この命題を峻拒してハイデッガーがとったのは現象学 的な方法である。この方法を徹底させることにより、現象学を定式化したフッサールのうちにすらなお見られたアリストテレス的/カント的な認知主義 の残滓を一掃しようと考えたのである。フッサールと同様に、ハイデッガーは志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的 なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的 なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

註:存在者が存在することは前提的に了解した上でその性質や他の存在者との関係などを問う態度を存在的(ontischen)といい、自然科学 などがこれにあたる。存在論的(ontologisch)とは、存在者が存在することそのものを問う態度を指し、形而上学や現象学がこれにあたるが、ハイデッガーはこれらも不十分であるとの考えに立ちながら『存在と時間』を書いた。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。
デカルト批判と現存在 [編集 ]

こうした方法はまた、デカルト 的な実体のない「われ」――純粋な思惟者としての「われ」――の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在 (Da- sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在 (Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論 のもとにあるためである。

ものがわれわれにとって意味をなすのは、そのものがある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される(少なからぬ実存主義者によるハイデッガー解釈に反して、これは実存のすべてが不条理なものであるということを意味しない。正確にいうならば、実存がつねに不条理の可能性を抱えているということである)。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア (αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトス からハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない(難解をもって知られるこの本の最終章においてハイデッガーが証明を試みたように、時計の時間もまた隠れのない本来の時間から派生したものではあるが)。
解釈学 [編集 ]

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学 的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カント は『純粋理性批判 』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学 、物理学 、心理学 、歴史学 といった存在的 なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ )といった存在論的 な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。
存在の哲学 [編集 ]

ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為 のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

* (百科事典)「マルティン・ハイデッガー」 - インターネット哲学百科事典 にある「マルティン・ハイデッガー」についての項目。(英語)

The Quest for the Meaning of Being


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