メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2008年06月25日(Wed)▲ページの先頭へ
統合失調症と多種多様なMedia Point
統合失調症であるが、これは、先に触れたように、Media Pointにおける、多元的要素が分裂して、「自己主張」しているように思える。つまり、差異共振化せずに、同一性主義化=自乗化していると思われるのである。
 Media Pointは多元・多様的である。ドゥルーズ&ガタリ的に言えば、多種多様である。これを共振的にmode表現する必要があると考えられる。同一性主義によって、抑圧すれば、抑圧された多元・多様性が分裂的に発動すると思われる。後で、精緻に検討したい。

「悪魔の命令」心神喪失で2審も無罪 大阪・茨木の5人殺傷

6月24日19時16分配信 産経新聞

 大阪府茨木市で平成16年11月、車で男女5人を次々とはねて2人を殺害したとして、殺人と殺人未遂の罪に問われた産経新聞販売店の元配達員の男(27)の控訴審判決公判が24日、大阪高裁で開かれた。古川博裁判長は、男が犯行当時、心神喪失状態で責任能力がなかったとして無罪(求刑・無期懲役)とした1審・大阪地裁判決を支持、検察側の控訴を棄却した。

 公判は1、2審を通じ、男の刑事責任能力の有無が最大の争点となった。

 男は捜査段階と1審公判段階にそれぞれ精神鑑定を受け、両鑑定とも統合失調症に罹患(りかん)し、幻聴による「悪魔の声」に命令された犯行とした。

 しかし、幻聴が犯行に及ぼした影響の程度をめぐる認定に違いがあり、捜査段階の鑑定は限定的な責任能力を認める心神耗弱、公判段階の鑑定は責任能力がない心神喪失とし、昨年2月の1審判決は公判段階の鑑定を採用して無罪を言い渡していた。

 控訴審で検察側は、男が「お母さんと妹を殺す」という幻聴の命令を拒否しており、幻聴に完全に支配された状態ではなかったと主張した。しかし古川裁判長は、家族への殺害命令について「1回だけなされたもので、拒絶しようと耐えている間に『5人殺せ』という次の命令に変わった。決して執拗(しつよう)なものではなかった」と指摘。男が犯行後、幻聴に従って車内で全裸になり、自殺を試みたことなどから「幻聴の圧倒的な影響下にあった」と認定、検察側の主張を退けた。

 男は16年11月18日朝、茨木市で車を暴走させ、自転車に乗っていたいずれも会社員の村田忠治郎さん=当時(61)=と米林和夫さん=同(56)=を相次いではねて殺害、自転車の男女3人に重傷を負わせたとして起訴された。

 男は1審判決後から措置入院中といい、この日は黒色のジャージー姿で入廷。証言台のいすに座り、判決が読み上げられる間、時折首をゆっくり上下に揺らすなど落ち着きのない様子で聞き入った。閉廷後に突然、古川裁判長に「一言、言わせてもらいたい」と意見陳述を求め、弁護人から静止される一幕もあった。

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・ さいたまのドンキ放火3人死亡 2審も無期懲役
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080624-00000945-san-soci&kz=soci



重力の中心とmedia point:自己認識方程式の⇒の右辺が重力で、左辺がダークエネルギー?
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10109555883.html

先に、以上のように、Kaisetsu氏のmode理論(思うに、PS-Mode理論と呼べよう)によって、文系、理系のクロスオーバーが、modeという概念によって理論化できたが、私は以下の土星の記事を見て、思いついたのは、Media Pointが、例えば、土星の中心になるということである。つまり、惑星の中心、太陽の中心、銀河系の中心、他の星雲の中心、そして、宇宙の中心は、 Media Pointであるということである。思うに、複数あるので、media pointsとすることが可能である。複数・多数・ほとんど無数のmedia pointsがあり、これらが、共鳴・共振・resonanceしているのである。
 そう、直感では、このResonanceにダークエネルギーを説く鍵がありそうである。media pointsの共振は、個々のエネルギーを超える、大共鳴エネルギー(コスモス・エネルギー)と考えられる。
 このことを単純に表記すれば、(+i)*(-i)>+1ではないだろうか。もっとも、単に、量的な差異ではなく、質的な差異もあるだろう。複合共鳴によって、質的な差異が生じると考えられる。多様な共鳴modeが生じると考えられるのである。
 これは、正に、超渦であろう。Super-Spiral Media Point又はSuper Media Pointである。後で、さらに検討したい。

p.s. ざっと言うが、思うに、単純にmedia pointが重力の中心ではないだろう。思うに、⇒+1が重力の中心ではないだろうか。それに対して、左辺の中心があると思う。それが、ダークエネルギーの方向ではないだろうか。
 イデア差異がmedia pointを介して、連続化したとき、即ち、+1になったとき、media pointが重力の中心の意味をもち、差異共振様相の場合が、ダークエネルギーの方向ではないだろうか。
 有り体に言えば、⇒の方向が重力の中心であり、⇒の左辺がダークエネルギーの方向ではないだろうか。思うに、左辺と右辺は一種反発すると思われるのである。推測では、両者、自己保存的に作用して、斥力となるのではないだろうか。右辺の重力に対して、左辺が反重力の斥力ではないだろうか。


Saturn Outback storm
An amateur sky- watcher captures rare Saturn images

Hydrogen map of Mars (Nasa) Ice on Mars
Evidence of Martian ice emerges from the shadows
http://news.bbc.co.uk/2
/hi/science/nature/7468832.stm


2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
重力の中心としてのmedia pointとSuper Media Point
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10109555883.html

先に、以上のように、Kaisetsu氏のmode理論(思うに、PS-Mode理論と呼べよう)によって、文系、理系のクロスオーバーが、modeという概念によって理論化できたが、私は以下の土星の記事を見て、思いついたのは、Media Pointが、例えば、土星の中心になるということである。つまり、惑星の中心、太陽の中心、銀河系の中心、他の星雲の中心、そして、宇宙の中心は、 Media Pointであるということである。思うに、複数あるので、media pointsとすることが可能である。複数・多数・ほとんど無数のmedia pointsがあり、これらが、共鳴・共振・resonanceしているのである。
 そう、直感では、このResonanceにダークエネルギーを説く鍵がありそうである。media pointsの共振は、個々のエネルギーを超える、大共鳴エネルギー(コスモス・エネルギー)と考えられる。
 このことを単純に表記すれば、(+i)*(-i)>+1ではないだろうか。もっとも、単に、量的な差異ではなく、質的な差異もあるだろう。複合共鳴によって、質的な差異が生じると考えられる。多様な共鳴modeが生じると考えられるのである。
 これは、正に、超渦であろう。Super-Spiral Media Point又はSuper Media Pointである。後で、さらに検討したい。


2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
新母権主義と大調和主義、可視光と不可視光:ダークエネルギーとMedia Point Energy
検討問題

1)新母権主義と大調和主義

2)同一性の光と差異の不可視の光

*****************

1)この問題は再々検討になるが、なにが問題かと言えば、同一性の事象自体である。たとえば、同一性傾斜がない場合、差異共振性が中心となるが、そのとき、同一性は形成されるのか。
 同一性傾斜があるとき、当然、同一性主義が発生する。しかし、同一性傾斜がないときは、同一性主義は発生するのか。先の考え方からすれば、同一性傾斜がないときは、同一性主義は発生しないと考えられる。ただし、差異共振性に包摂された同一性が生起するだろう。この包摂された同一性とは、二項対立をもたない同一性である。だから、初めから、調和主義である。
 ということで、同一性傾斜がある場合は、いったん同一性主義が生起する。そして、これを克服するようにして、差異共振主義へと回帰することが、新母権主義である。
 そのように考えると、人間の場合、父権社会になってから、同一性傾斜が必然である。だから、同一性主義が必然的に生起する。この、いわば、同一性志向性に対して、差異共振主義へと回帰するのが、人間の課題である。すると、新母権主義と言ったものは、父権主義と母権主義の大調和を意味するのではないだろうか。
 ただし、脱父権主義的母権主義としての大調和主義である。ということで、最初の結論に戻ることになる。
 
次に、2であるが、ここでは、簡単に触れる。目に見える光は、同一性主義の光であり、差異共振主義の光は不可視ではないのかというのが、私の発想である。
 しかし、そうならば、自然も、同一性傾斜があることになる。そう、それは、正しいだろう。自然も、人間ほどではないが、同一性傾斜があるだろう。それが、物質だと思う。
 しかし、磁気の場合のように、差異共振主義だけの場合もありうるだろう。ただ、物質を引きつけるのである。
 とまれ、本テーマに戻ると、電磁波は、同一性傾斜では、可視光であり、差異共振性では、不可視光となる、という発想はいかに、ということである。そうならば、可視光は物質ということになる。それでいいのだろうか。いちおう、それを作業仮説としよう。
 そうならば、電磁波の同一性傾斜によって、目に見える現象界が生起するということになる。しかし、同時に、差異共振性の不可視の光の世界があるということになるのではないだろうか。
 魂ないしは「心」とは、この不可視の光の内的世界ではないだろうか。もっとも、精緻に考えると安易に魂なしいは「心」とは呼べない。Media Pointを魂とこれまで考えているのであるから、それを魂とは呼べないだろう。だから、「心」かもしれない。これは保留しておこう。
 端的に、この不可視の光とは何だろうか。D. H. ロレンスのdark sunを想起するが。とまれ、電磁波で言えば、これは波動ではないだろうか。そして、量子力学では、同一性傾斜の粒子と差異共振性の波動の相補性を捉えているのではないだろうか。
 問題は、そうすると、Media Pointとイデア界のことになるだろう。物質科学は、同一性傾斜の-1と差異共振性の波動である+1との相補性を捉えているとしよう。そうすると、 Media Point(以下、mp)とイデアを捉えていないのである。しかしながら、最近、リサ・ランドールが五次元論を提起しているので、量子力学は、mpとイデア界に接近したとは言えよう。
 そう、また、ここで、ダークエネルギーの問題に触れるが、それは、mpやイデア・エネルギー(エネルゲイア)のことを指しているのではないだろうか。 mpを介して、イデア・エネルギー(イデルギーないしシネルギーと造語したい)を放出されているが、現象的には、±1を感知するだけであり、イデルギー(シネルギー)を看過しているのではないだろうか。
 直感では、mpエネルギー(Media Point Energy)があるのではないだろうか。それが、±1の力を保持しているいるのではないだろうか。いわば、中間力、共立力である。これが、ダークエネルギーではないだろうか。今はここで留める。


2008年06月10日(Tue)▲ページの先頭へ
同一性主義と差異主義:Media Pointの様相について:原差異と差異/同一性
いったい何が問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義の意義・意味である。これは事実として認めざるを得ない。
 先の私の考えは、Media Pointにおいて、反発と引き付けの二元性が発生し、反発が同一性主義となり、引き付けが、差異共振性になるというものであった。
 もっとも、丁寧に言えば、反発とは、イデア極性における斥力の極限を意味する。陰陽で言えば、陽の極限である。極限において、同一性主義が発生し、-1 が生起するのである。この同一性エネルギーがヤハウェである。しかしながら、引き合いの極限が発生すると考えられよう。
 これが、+1ではないのか。そうならが、その二つの極限の中間に差異共振様態があるのではないだろうか。即ち、-1/差異共振/+1である。また、思うに、差異共振とはMedia Point(MP)と考えることが出来るだろう。即ち、-1/MP/+1である。
 思うに、簡単に言うと、-1が同一性であり、+1が差異である。そして、構造は、実軸化されたMP、即ち、ゼロ・ポイントと考えられる。
 思うに、量子論的には、-1が粒子であり、+1が波動と見ていいのではないだろうか。つまり、両者は相補性を形成するのである。
 しかしながら、反発と牽引の極限として、-1と+1があるのであるが、それは、事実なのか。それとも虚構なのか。否、両者は現象ないしは仮象と考えられる。矛盾した現象事象である。
 ならば、その視点から見ると、例えば、磁気とは何であろうか。N極とS極とは何であろうか。それは、基本的には、+iと-iとの関係と見るべきであろう。対立が-1であり、牽引が+1ではないだろうか。
 結局、混乱させるのは、自己認識方程式の左辺(+i)*(-i)と右辺+1との意味である。差異とはどちらなのか。
 思うに、左辺が原差異であり、右辺が差異である。大雑把に言えば、ポスト・モダンは、右辺=差異を問題にしていたのではないだろうか。しかしながら、それは、-1といわば、鏡像関係であろう。
 だから、同一性-1と差異+1とは対称関係にあると言えよう。同一であるが、ズレがあるのである。これは、差延であろう。脱構築性であろう。いわば、鏡像のゆらぎである。
 だから、根源的には、原差異が問題なのである。イデアである。原差異=イデアが問題なのである。私が言う、個=差異=特異性とは、この原差異=イデアのことである。しかしながら、実際は、Media Pointにおけるそれであると考えられる。
 さて、先の父権主義と母権主義に戻ると、前者を-1、後者を+1としたが、それは誤りではないだろうか。
 ここは難しい点であるが、私がいう太母とは、原差異=イデアないしはMedia Pointだと思う。そして、-1と+1とは、物質とエネルギーの関係ではないだろうか。
 ここで、神話でいうと、イシスは太母であり、原差異=イデアである。そして、光のオシリスは+1である。そして、それを殺害するセトが-1であると思う。
 +1が生成ならば、-1は消滅であろう。いわば、両者で生死である。これが、現象の生成消滅のリズムではないだろうか。±1⇒ゼロである。(思うに、資本主義経済であるが、成長とは何だろうか。結局、反成長があるのではないだろうか。成長衰滅があるのではないだろうか。衰滅力が恐慌を発生させるのではないだろうか。)
 とまれ、以上から、先の父権主義と母権主義の対立の誤謬を指摘したことになる。つまり、母権主義とは、根本であり、父権主義は派生なのである。だから、太母主義があり、その派生としての父権主義である。
 では、宇宙物理学の問題はどうなるだろうか。これは、簡単に、原差異=イデアの極性の傾斜で説明がつくのではないだろうか。つまり、引き合いに対して、反発に傾斜しているということではないだろうか。つまり、反発に傾斜しているので、膨張の加速度が増加しているのではないだろうか。今はここで留める。


2008年06月08日(Sun)▲ページの先頭へ
Media Pointの即非二元性:父権的同一性主義と母権的差異共振主義:新ギリシア・ルネサンス
超越神の発生は、イデア極性における反発による同一性主義によるというこれまでの仮説を基に検討を進展させたい。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺を否定して、⇒-1となる。これが同一性主義であるが、⇒の左辺は超越神になると仮説している。たとえば、プロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。
 私が不思議に思ったのは、結局、近代主義においては、左辺の超越神が消失していくことであるが、その原因は何であろうか、ということである。別の例として、戦後の日本人を見ると、宗教観念が稀薄となり、近代合理主義・唯物論を信じている。これも、同一性主義の帰結であるが、日本人の場合、超越神ではないが、神はどこへ行ったのか。
 ここでは、プロテスタンティズムについて考えよう。初期においては、超越神の観念が生きていたが、今や、ほとんど死滅しているだろう。アメリカは例外的であるが、イギリスやドイツではそうだろう。
 だから、一枚岩ではないのである。とは言え、アメリカ人が宗教的とは言え、私見では、近代合理主義・近代的自我的である。
 結局、同一性主義は、初期は神観念があるが、結局、物質主義の近代合理主義・近代的自我に帰結する力学は何だろうか。
 同一性主義は、自我観念を発達させる。近代において、近代科学・技術と資本主義の発達があったが、これらが、神観念を切り崩していったものだろう。
 では、神観念の喪失とは何を意味するのか。それは、Media Pointにおける壁の完成ではないだろうか。そこには、絶対的な壁ができ、もう壁の向こう側のエネルギーがなくなるのだ。ということは、壁の消失でもあるだろう。それまで、超越性と現象性を区別していた壁がなくなったのだろう。無壁の状態とは何か。
 これは、無意識に支配される状態ではないだろうか。差異共振性が無意識として潜在している。そして、壁無の状態では、この無意識=差異共振性が支配するようになるのではないのか。
 否、無意識=差異共振エネルギーがありながら、それを排除・抑圧する自我意識体制が生まれるだろう。これは、明らかに、全体主義である。同一性主義資本主義である。マネーゲームであろう。当然、人間は機械化するのである。同一性主義の「悪魔」に支配されるのである。言い換えると、同一性主義構造に支配されるのである。そう、これが、現代世界の真相であろう。
 これまでの考察からみると、これは、イデア極性の反発による力学の帰結に因ると考えられる。言わば、自然の傾斜がこのような狂気的状況を生んでいるのである。
 ここで、シュタイナーの悪魔論を想起するのである。アーリマンとルシファーの「二人」の悪魔がある。前者は物質主義ないしは同一性主義である。後者がわかりにくいのである。思うに、ルシファーとは、差異共振主義ではないだろうか。
 そして、シュタイナーは両者のバランスをとる力として、「キリスト」をおいているのである。私見では、この「キリスト」は、Media Point知性(理性)である。
 簡単に言えば、アーリマンとは物質主義であり、ルシファーは精神主義である。そして、「キリスト」は物質と精神との均衡・調和である。
 これは確かに明快である。私なりに言い換えると、アーリマンは父権主義であり、ルシファーは母権主義である。そして、「キリスト」は、両者のバランスである。
 これは、かなり説得力のある考え方である。もっとも、これまでの私の考察に拠るなら、アーリマンは反発であり、ルシファーは引き合いである。そして、「キリスト」は、Media Point調和知性である(余談だが、調知、調知性という言葉を作ってもいいだろう。共立知性、共知性である。)。
 そう、この視点から、たとえば、ドゥルーズ哲学を見ると、それは、ルシファー主義と言えよう。アーリマン主義=同一性主義を否定して、ルシファー主義=差異共振主義になっているのである。そうならば、先に、ドゥルーズ哲学は+1+(-1)=ゼロと言ったことと齟齬を来す。
 直感では、ドゥルーズの差異とは、確かに、+1における力動を捉えているが、不鮮明なのである。曖昧なのである。大雑把なのである。つまり、ドゥルーズの差異は、+1的であるが、同時に、内在主義なので、+1が同一性主義へと展開するのである。つまり、ここで、+1+(-1)=ゼロが生起すると思われるのである。これで齟齬が解消した。
 また、ハイデガー/初期デリダ哲学を見ると、それは、アーリマンとルシファーの「差異」を提起していると言えよう。しかし、「キリスト」(Media Point 認識)がないのである。
 さて、以上の考察から帰結するのは、今日の同一性主義=アーリマン主義は確かに極端であるが、ポスト・モダンのような差異共振主義=ルシファー主義も反動的極端さをもつということであろう。
 必要なのは、Media Point Intelligence-sophiaである。これはMedia Point調和知性、調和理性、調和叡知と呼べよう。同一性主義と差異共振主義を調和させる大調和知性である。
 私は新母権主義を唱えているが、それは、端的に、この大調和理性主義である。(占星術では、水瓶座文化期となろう。)
 そうすると、これまで、差異共振主義と言ってきたものは、一面的であったことになる。私は同一性を包摂した差異共振性としての差異共振主義を考えてきたのであるが、それは弱いと言えよう。そうではなくて、同一性主義と差異共振主義との調和が必要なのである。簡単に言えば、同一性と差異との調和ということである。
 これは、先には、ギリシア悲劇において確認できたことである。そう、ギリシア悲劇を含めて、ギリシア神話は、この大調和を志向していると言えよう。思うに、イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ルネサンスではなくて、差異共振主義=母権主義=ルシファー主義ルネサンスではなかったのか。それは、厳密に言えば、母権ルネサンスであり、ギリシア・ルネサンスではない。
 ということで、結論的には、新ギリシア・ルネサンスがこれから勃興するということであり、それを志向すべきである。

p.s. 以上の結論から、政治について明快な理念が生まれてくるだろう。自由主義は同一性主義であり、民主主義は差異共振主義である。両者の調和主義が新理念となるのである。だから、大調和主義が新政治理念となろう。
 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想も解明される。父と子の対立を相克するものとして聖霊を考えているが、これは、父権主義(ヤハウェ)と母権主義(イエス)の対立を相克する調和主義と言える。


2008年05月10日(Sat)▲ページの先頭へ
+1(共一性又は差異)と-1(同一性):MPにおける垂直三元性と水平三元性:原超光と超光と光
先の検討から、-1がないと発展がないのがわかった。これは、悪魔的であるが、人類の発展のためには、正に必要悪なのである。
 問題は、近代合理主義・近代的自我において、同一性=-1が中心化されたことである。本来、近代は、Media Pointの発動であり、差異と同一性が発動したのである。しかし、同一性のもつ連続性によって、差異と同一性が混淆されて、同一性主義のために、差異が抑圧される結果となっているのである。(現代日本人は、これが顕著であると考える。)
 とまれ、発生論的には力学のベースは、+1が主であり、-1が従であると考えられる。ここで、差異と同一性の非対称性があると考えられる。「光学」で言えば、光が主であり、影が従である。もっとも、光とは、超現象光であり、影とは現象光である。
 この点で、言語表現上の問題がある。この点をここで検討することにする。通常見る光とは、影なのであり、本来の光は純粋には見えていないのである。また、理論的には、超越的差異共振の光も考えられるので、複雑になるのである。ここで暫定的に用語を整理すると、虚軸の差異共振の光を原超光、+1を超光、そして、-1を光(影)とする。
 そして、Media Pointにおいては、実に複雑な様相があると考えられる。即ち、ここで、原超光と超光と光(影)の三相が交叉していると考えられる。
 ここで、キリスト教から考えると、原超光がエローヒームで、超光がイエスで、光がヤハウェではないだろうか。超光であるイエスとは、大女神の息子であり、両者は共一性であると考えられる。エジプト神話で言えば、イシスとオシリスの共一性である。
 ここで、PS理論に基づくトランス・キリスト教の視点でさらに検討すると、父(ヤハウェ)とは、-1の同一性である。そして、母と子(聖母子)が+1の共一性である。そして、聖霊は、Media Pointにおけるイデア・エネルギー=超越エネルギー=差異共振エネルギーではないだろうか。【だから、今日は、本来的には、聖霊の時代、ヨアキム主義の時代であると考えられる。】
 だから、整理すると、Media Pointにおいて、垂直的三元性(+i)*(-i)と、水平的三元性(+1)+(-1)の二つの三元性があると考えられる。
 母権多神教においては、水平的三元性の非対称性は、+1(差異又は共一性)が主であり、-1(同一性)が従であると思われる。それに対して、父権一神教では、水平的三元性の非対称性は、逆になると考えられる。一般に、東洋文化は前者であり、西洋文化は後者であると言えよう。【もっとも、東洋文化においても、父権主義はあるのであり、これが、主導化されている。しかし、ユダヤ・キリスト教的な一神教性はない。】
 ここで、時代について整理すると、プロト・モダン(原近代)は、Media Pointの発動であり、+1と-1が喚起された。しかし、プロテスタンティズムや近代合理主義によって、-1へと傾斜した。
 それに対して、ポスト・モダンは、一種のプロト・モダン回帰であるが、賦活された+1(差異)は、-1と連続化されていたので、両者は和となり、ゼロ度の構造を形成した(構造主義)と考えられるのである。つまり、ポスト・モダンは差異という視点は前進的であったが、結局、構造主義を乗り越えられなかったと考えられる。言い換えると、構造主義の壁にぶつかったのである。【以前述べたように、ハイデガーはポスト・モダンの元祖であると考えられよう。ハイデガーの存在論的差異の思想に差異が出現しているのである。ただし、存在論的差異とは、-1とゼロ度との差異だと思われるのである。私は、ハイデガーの存在は、+1の差異ないしは共一性には達していないと考えている。フッサールは共一性に達していたと思われる。だから、正しくは、フッサールがポスト・モダンの元祖であり、ハイデガーはポスト・モダンの疑似元祖である。この点で、ポスト・モダン哲学に混乱があるように思われるのである。ハイデガーに依拠すると、ゼロ度があるので、構造主義から脱却できないと考えられるのである。フッサールから出発すれば、脱構造主義の視点が生まれると考えられるのである。整理すると、トランス・モダンとは、フッサール現象学が現代的出発点であると考えられる。また、キルケゴールやニーチェの哲学も先駆である。どうも、ポスト・モダン哲学は、ハイデガー哲学に躓いてしまったと考えられるのである。フッサールとハイデガーの絶対的な亀裂を認識する必要があるということである。両者を現象学として括るのは、重大な誤謬を生んだと考えられるのである。】
 以上、差異(共一性)と同一性について、錯綜気味ではあるが、再確認することができた。次に、PS理論、トランス・モダンが空間・時間的に意味することを理論的にさらに検討したい。(以下は思考実験である。)
 ここで、作業仮説として、脳について言うと、左脳が同一性-1、右脳が共一性+1に関係すると考えたい(p.s. 以下、左脳・右脳については特に述べなかったが、両者の結合が空間認識を形成していると考えられる。)。そして、空間認識であるが、三次元空間認識であるが、それは、一見、同一性-1に拠ると考えられるが、差異の認識があって、三次元空間認識が生まれるのではないだろうか。つまり、共一性認識がベースにあって、同一性を形成するときに、三次元認識が発生するのではないだろうか。言い換えると、共一性認識(差異認識)は原三次元認識であり、それを同一性が三次元として明確化するのではないだろうか。ルネサンスで遠近法が発達したのは、この点から説明ができると考えられるのではないだろうか。つまり、三次元的奥行きの基盤は差異+1に存するということである。
 ここで、時間次元を入れると、四次元時空間の基盤も、この差異=共一性+1にあるということになると考えられるのである。つまり、原時間の源泉も共一性 +1に存すると思われるのである。つまり、原時間とは、エネルゲイアであり、時間も同一性エネルギーで説明がつくように思われるのである。
 空間と時間の問題を整理すると、正に、相対性理論が指摘するように、両者は不可分である。空間形成自体が時間的事象であると思われるのである。換言すると、両者、エネルギー事象であるということである。
 では、問題は、どうして、現象界は、三次元ないしは四次元になるのか、ということである。【イデア界を入れると、四次元ないし五次元となる。Media Pointを入れると、五次元ないしは六次元となる。】
 ここでは、思考実験的に、直感で言うと、Media Pointにおいて、+iと-iと+1と-1とが交差するが、太極の主導原意識は、+iと-iであり、両者が共振交差するとき、共振次元+1が発生し、それが、空間的には、三次元を形成すると思われるのである。
 言い換えると、+iと-iとは、それぞれ、平面的であると思われるのである。その平面と平面の共振によって、第三次元+1が発生すると思われるのである。
 ここで作業仮説した+iと-iとの平面とは何であろうか。単純に考えれば、+iと-iは直線、一次元である。しかしながら、Media Pointにおいて、共振するとき、同時に、それは、+1と-1を同時形成(同時生起)すると考えられるのである。つまり、Media Pointにおいて、平面化するのではないだろうか。
 もっとも、それでは、矛盾することになるので、Media Pointを考慮すべきである。ここにおいて、+1と-1が生まれるのであり、現象の直近の原点である。だから、Media Pointは、原+1であり、原-1である。言い換えると、Media Pointは、原平面であり、且つ、原立体であると言えるのではないだろうか。 思うに、原平面と原立体は同時生起であろう。原平面であることは、同時に、原立体であることになると考えられるからである。言い換えると、Media Pointにおいて、原平面と原立体が揺らぐ、いわば、不思議な空間が生起していると考えられよう。
 本来、一次元であるのに、二次元と三次元の構成要素が同時生起して、揺らいでいるのである。だから、Media Pointは原三次元ないしは原四次元と言っていいだろう。そして、共一性+1と同一性-1とが、発現して、三次元空間ないし四次元時空間が形成されると考えられる。
 もし、そうならば、イデア界という高次元はどう説明されるだろうか。それは、端的に、三次元空間/四次元時空間を超越的に包摂した四次元空間/五次元時空間となるのではないだろうか。
 では、Media Point自体を空間的には、どう把握すべきであろうか。これは、端的に、イデア界と現象界の境界である。それは、不連続的差異論的に言えば、メディア界である。あるいは、次元変換点である。だから、Media Pointは、次元に数えないことが適切なように思われる。
 最後に、宇宙物理学の問題を考えると、ビッグバンがあるならば、その特異点は、Media Pointであると言えよう。そして、どうも、直線的ではなく、螺旋的運動をするように思われる。【マヤ神話では、今の世界は第四番目の世界であり、今度、第五番目の世界になるという。】
 そして、ブラックホール等であるが、ブラックホールは、差異共振的発光を起させない現象と考えると、それは、-1のマイナスではないだろうか。ホワイトホールは、マイナスのマイナスであるプラスではないだろうか。
 また、ダークマターやダークエネルギーはこれまで述べたように、自己認識方程式自体にそれらが表現されているのではないだろうか。即ち、端的に、自己認識方程式が自体がダークエネルギーを表現していると思う。そして、そこから、仮説される物質がダークマターであろう。しかしながら、ダークネルギーは存在するが、ダークマターは存在しないのではないだろうか。
 今は、ここで留めておく。
  


2008年04月06日(Sun)▲ページの先頭へ
性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか
http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。


2008年03月01日(Sat)▲ページの先頭へ
-1と+1とゼロ点の関係について:身体(地)と差異と同一性
先に、近代的自我/近代合理主義(+1)に対抗する、いわば、反近代主義(-1)を定立したが、そこに、身体的霊性(『月と六ペンス』)とポスト・モダン(ドゥルーズやデリダ)を含めた。
 しかしながら、両者は質的に異なるものであるから、同じ-1に含めるのは矛盾である。これを解決しないといけないのである。おおまかに言えば、身体的霊性とは、Media Point を内包しているのであるが、ポスト・モダン理論はMedia Point を内包していないと考えられるのである。この点について精緻に考えたい。
 デリダ哲学がMedia Pointを内包していないのは、すぐわかる。『声と現象』において、フッサール現象学の超越性=同一性として批判していて、超越性自体を否定しているからである。ドゥルーズ哲学の場合は以前検討したように微妙である。
 整理しよう。近代主義(同一性中心主義)の否定は、-(+1)=-1で、括ることができるとしよう。そして、ポスト・モダン哲学もそこに入ると考えられる。しかしながら、身体的霊性はMedia Point を内包しているということだから、身体-1がゼロ点を内包するということになるのではないだろうか。即ち、-1が0を内包するということである。数直線で言えば、0から始まる-1のそれを考えればいいのではないだろうか。そして、それに対して、+1は0を含まない数直線とすればいいのではないだろうか。そうならば、+1と-1は非対称であるということになるだろう。しかし、0を含まない-1もあるのだから、結局、+1, -1, 0, -1&0の四つの様相があると見るべきであろう。
 ならば、反近代主義は、3種類あることになるだろう。否、2種類である。即ち、-1と-1&0である。何故なら、0とはMedia Point であり、それは、反近代主義というよりは、トランス・モダンであるからである。近代主義を乗り越えているのである。確かに、反近代主義と言えないことはないが、そう呼ぶのは不正確である。
 以上から、二つの反近代主義を考えると、身体的霊性と呼んだものは、-1&0であり、ポスト・モダンは-1であると言えよう。 
 では、この視点から、再度、ドゥルーズやデリダを把握してみよう。前者の差異=微分であるが、それは、連続的差異であり、思うに、(-1)・(+1)= -1なのではないだろうか。それに対して、デリダの場合は、逆に、(+1)・(-1)=-1ではないだろうか。つまり、ドゥルーズは差異(-1)を連続同一性(+1)化するから、差異と同一性の積で、(-1)・(+1)=-1であり、デリダは同一性を差異化する(差延=痕跡)ので、同一性と差異の積で、 (+1)・(-1)=-1と考えられるのである。
 とりあえず、そのように考えて、次に、もう一つの反近代主義である身体的霊性(-1&0)を考えると、ここは、ポスト・モダンとは異なり、 Media Point(0) を含むので、垂直の力、即ち、虚軸的超越性(略して、虚超性?)が作用するのである。精神性・宗教性が入るのである。しかしながら、身体に基づく精神性・宗教性(霊性)であるから、超越神(一神教)的な霊性ではない。これは、言い換えると、多神教・自然宗教・太母(大女神)宗教的霊性である。
 ここで問題は、この身体的霊性と近代主義との関係である。これは実に微妙な点がある。+1と-1はいわば弁証法的に対立するのであるが、0において、両者は共立・共生するのであり、そのような「時」が生じるのである。それを差異共立時間と呼んでもいいだろう。しかしながら、それは、弁証法的対立における過程の一時期に過ぎない。
 +1と-1の弁証法的対立とは、連続性における対立であり、その対立過程における0は、連続性に巻き込まれているのである。ここで、不連続的差異論の画期的意義があるのである。0を不連続性として把捉したので、弁証法的対立という連続性の過程から脱却(エクソダス、「解脱」)して、独立することができたのである。(これは、実は、大乗仏教の空の論理で説かれていることであるが、鈴木大拙を除いて、これを真に理解した仏教者がいなかったのではないだろうか。因みに、D. H. ロレンスの「王冠」の思想について言うと、それは、キリスト教の三位一体論の枠組みを利用して、「父」(同一性)と「子」(差異)との対立が「聖霊」で和解するということを説いているものであるが、「父」と「子」との対立は(+1)と(-1)の対立と見ることができ、「聖霊」を0とみることができるだろう。しかしながら、やはり、弁証法的対立における0であると言えよう。言い換えると、身体的霊性の思想であるということである。)さらに言うと、この不連続的差異である0を差異共振性(+i)*(-i)にしたのが、プラトニック・シナジー理論である。0に虚軸的超越的差異共振性を与えたのである。言い換えると、0→(+i)*(-i)が不連続的差異論からプラトニック・シナジー理論への進展を意味する。(因みに、構造主義について考ええるとどうなるだろうか。ここでは、簡単に述べるだけであるが、おそらく、+1と-1の対立で説明ができるのではないだろうか。つまり、弁証法である。弁証法の形式が構造ではないだろうか。ここには、同一性の形式が支配しているのである。差異が同一性化されて統一化されるのである。結局、弁証法形式が構造主義の構造であるということである。)
 以上で本件を解明したこととしたい。


2008年02月29日(Fri)▲ページの先頭へ
自我とMedia Pointの関係:+1の近代的自我によるMPの否定としての-1の身体性
先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、多神教力学と一神教力学を区別した。即ち、前者は、両辺が、いわば、開いているのであり、後者は、左辺が否定されて、右辺だけが開いているのである。そして、前者はエネルゲイア(活動態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)であると言った。
 精神分析的に言えば、一神教力学は、左辺を抑圧・排除しているのである。(精神分析のいう「それ」は、物質的な性であり、精神的な性を見ていないのが根本的な欠陥であり、ユング心理学は、性を飛ばして、単に精神性へと飛躍しているのが問題である。ここでは、多神教的精神的性が問題であると思う。)
 しかし、抑圧・排除とは、実際は「実存」しているということである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointが「実存」しているということである。(思うに、実存主義とは、Media Pointを震源とした思想であったと考えられるが、ニーチェやキルケゴールの二番煎じ・亜流であったと思われる。)
 だから、一神教力学、あるいは、近代的自我/近代合理主義力学では、この「実存」しているMedia Pointを「抑圧」しているということである。(今日、心の病が蔓延しているのは、近代的自我/近代合理主義の同一性中心主義の縛りが緩み、Media Pointの被抑圧が解除され始め、Media Pointの能動的エネルギーが発動しているためだと思われる。つまり、被抑圧の解除と抑圧の強化との齟齬が生じているために、病理状態になっていると考えられるのである。)この抑圧・被抑圧力学を自己認識方程式で見ると、どうなるだろうか。これが、本稿のテーマである。
 ⇒+1の力が、Media Pointを抑圧しているのである。それは無意識の抑圧であると考えられる。(思うに、この無意識の抑圧というのが、非合理的である。つまり、近代的自我/近代合理主義は基本的に非合理主義なのである。)抑圧されたMedia Pointとは、近代的自我から見ると-(+1)ということで、-1ではないだろうか。(そして、それがポスト・モダンになるのではないだろうか。これまで、私は、ゼロ点が、ポスト・モダンではないのかと思ってきたが、近代主義への反動として、 -1ではないだろうか。構造主義がゼロ点であろう。そして、神秘主義・オカルト主義も-1ではないだろうか。この問題はあとで検討したいが、一言言えば、近代的自我は連続性をもつので、差異も連続化させてしまうのである。ドゥルーズ哲学の場合が典型的であろう。差異=微分にしているのであるから。また、デリダ哲学の場合、差延とは、言わば、差異と同一性との未分化様態を意味すると考えられるが、それは、超越性を欠落させているので、±1の様態を意味するのではないだろうか。)
 とにかく、近代的自我(一般に自我)によるMedia Pointの遮断であるが、繰り返すが、+1によるMedia Pointの否定なのであるが、その否定されたMedia Pointは、近代的自我にどう振る舞うのだろうか。これまで、非合理衝動となると言ってきたのだが。
 端的に、Media Pointのエネルギーはどうなるのか、である。それは、否定されているために、-1になっているということでいいのではないだろうか。本来(+i)*(-i)の超越的エネルギーをもっているのであるが、それが否定されて-1ではないのか。
 そして、私が今想定しているのは、-1とは身体ではないのか、ということである。物質的身体ではなくて、内的身体のことである。先の考察に基づけば、 Media Point=魂=身体/共同体の身体のことである。つまり、-1には、Media Pointが含まれているのではないのかと思っているのである。
 以前、サマセット・モームの『月と六ペンス』における主人公(ストリックランド:ゴーギャンをモデル)の身体的霊性について述べたが、それが、ここであてはまると考えられるのである。即ち、近代的自我/近代合理主義への否定が芸術家にあり、その否定における意識には、霊性・精神性が生起しているのである。
 近代的自我/近代合理主義への否定とは、当然、内的身体性になると考えられるのである。この内的身体性が-1ではないのか、そして、そこには、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)が内包されているのではないのか、ということである。
 ここで単純にモデル化すれば、Media Pointは-1と通じていて、+1とは切断されているということになるだろう。言い換えると、+1とはMedia Pointの間には壁が形成されているということである。つまり、+1に拠るMedia Pointの否定は、-1ということであろう。
 そうならば、問題は、-1の空間・場である。+1の空間とは、自我の空間であり、物資的身体の空間である。心身二元論の空間である。今、想定しているのは、-1の空間とは、内的身体であるということである。内的身体とは心的身体ということである。例えば、日本語で肚や「腑に落ちる」の腑であるし、英語では、heart(心臓と心)のようなものである。つまり、内臓と精神性の融合したものである。
 思うに、この内的身体=心的身体という考えは正しいだろう。何故なら、Media Pointとは、知と存在との共振性であるからである。言い換えると、心と物質的身体(厳密には、原形相と原質料)との共振性であるからである。当然、 Media Pointは内的身体=心的身体の空間に存しているのである。
 だから、近代的自我ないしは自己同一性主義によるMedia Pointの否定とは、当然、この内的身体=心的身体の否定にともなうと考えられるのである。
 問題は、この内的身体=心的身体の否定の位相である。つまり、Media Pointを内包していると考えられる内的身体=心的身体は、当然、自己意識をもつのであるが、その自己意識は自我意識そのものではない。もっとも、自己意識には、自我意識の側面は含まれてはいるが。とまれ、自己意識は内的身体=心的身体を基盤としているのであり、自身は内的身体=心的身体の先端であるということになるだろう。この先端とは端的には、頭であろう。(日本語で、心頭という言い方があるが、先端とは、この心頭の頭である。)
 結局、内的身体=心的身体と自己意識とは当然、連続的である。そして、自己意識の先端にある自我意識(自己同一性意識)が、近代化して、近代的自我/近代合理主義を形成する。それは、当然、Media Pointを内包する内的身体=心的身体を否定するものである。
 そして、近代主義を乗り越える試みである脱近代主義は、当然、この否定されたMedia Pointを内包する内的身体=心的身体を復活させるのである。
 脱近代主義は、この内的身体=心的身体(差異)を肯定し、近代的自我/近代合理主義(同一性)をするのであるが、最高に核心的問題は、自我意識と内的身体=心的身体の自己意識とは、連続態であることなのである。だから、意識が差異へと回帰しても、それは、同一性(自我意識)との連続性を保持・維持したままなのである。つまり、意識は、連続性をもって、内的身体=心的身体(自己意識=差異)に接するということである。だから、内的身体=心的身体に内包されているMedia Pointを連続性の視点から見てしまうという結果にほとんどなるのである。とりわけ、同一性中心主義(ロゴス中心主義)が支配的な西洋文化においては、そうであると考えられるのである。
 言い換えると、内的身体=心的身体-1が差異共振性である(+i)*(-i)を内包していることを認識できないのである。
 ここで、ポスト・モダン哲学について述べるが適切である。ドゥルーズ哲学の場合は、差異共振性を-1へと同化吸収させてしまい。差異=微分にしたのである。即ち、-1という差異と+1という連続同一性とを結合したのである。それに対して、デリダ哲学の場合は、-1における差延=痕跡を問題にして、+1の連続同一性との区別と両者の混淆性を指摘したように考えられるのである。つまり、差異共振性の痕跡のみを差延として取りあげて、差異共振性自体は否定しているのである。
 ということで、以上から、-1がもつ意味を考察した。結局、-1とは、自己同一性主義(近代的自我/近代合理主義)による、Media Pointを内包する内的身体=心的身体の否定を意味するのであり、それは、正に豊饒な空間を意味するのである。私が以前述べた身体的霊性をもつ空間と言えるのである。(オカルティズムは、それを同一性から逆に捉えて、霊にしてしまっているのである。倒錯である。)
 そして、この身体的霊性が、鈴木大拙が『日本的霊性』で指摘した日本の宗教性・精神性の核であると考えられるのである。そう、言い換えると、「大地」である。精神の大地である。(例えば、円空の彫刻には、この身体的霊性の野生のエネルギーが表現されているだろう。思うに、仏像は本来そういう意味をもっていたのではないだろうか。)
 さらに言うと、ポピュラー音楽のもつ大地の血とは、正に、この身体的霊性の生命であると言えよう。思うに、クラシック音楽も元々はこの身体的霊性から発しているのであるが、そのエネルギーを喪失して、洗練されたものになってしまっている。原初のエネルゲイアである身体的霊性を喪失しているのである。また、現代の美術もそういう傾向があるだろう。(「モダン・アート」とは、本来、そのような方向性をもっていたのであるが、モダニズムによって、同一性=構造へと還元された。例えば、モンドリアンやマレーヴィチらのように)。
 ここでついでながら言うと、地霊という観念であるが、それは、正に、土地という身体がもつMedia Pointのエネルギー=超越的波動であろう。龍脈という観念もほぼ同様であろう。
 最後に、身体的現象学を説いたメルロ=ポンティであるが、彼の言う身体とは、内的身体=心的身体と外的身体=物質的身体との連続性における身体であると考えられるのである。だから、それは、ポスト・モダン哲学の先駆であると考えられるのである。
 ポスト・モダンはハイデガーやメルロ=ポンティが元祖であり、トランス・モダンはニーチェやフッサールが元祖であると考えられる。また、ロシアのウスペンスキーがトランス・モダンをそこに含めることができる。彼の思想は、鈴木大拙が大乗仏教・禅の思想から取りだした即非の論理に通じるものであるが、即非の論理ほど明晰化されてはいない。日本では、トランス・モダンの原点は鈴木大拙であるが、絶対矛盾的自己同一の思想の西田幾多郎や偶然性の論理の九鬼周造にも確認できよう。
 最後に、仏教・大乗仏教について、本件の視点から言うと、それは、原トランス・モダン思想と言うべきである。空の論理は明らかに、Media Pointのもつ差異(差異共振性)・即非・同一性とを説いていると考えられるのである。
 問題は日本の仏教界である。この仏教のもつ哲学的叡知を喪失して、仏教が否定する世俗主義にどっぷり染まっていることである。つまり、反仏教としての日本仏教界である。有り体には、葬式仏教である。仏教は死んだら仏になることを説いているだろうか。そんなことは説いていないのである。『金剛般若経』的に言えば、死んだら仏にはならないのである。だから、仏になるのである。この仏・即非・非仏を理解していないのである。仏とは、ある意識のことである。 Media Pointの意識である。それは、形而上学ではなく、理論的かつ実践的なものである。実践理性としての仏である。


2008年02月20日(Wed)▲ページの先頭へ
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(物質波動)なのか:電磁波とは差異波動なのか、同一性波動なのか:それは、差異/同一性的即非波動であろう

ドゥルーズ&ガタリがよく使用する術語に《強度》があり、これは知的社会では、人口に膾炙した。しかし、これは、いわゆる物質的エネルギーを超えた力を指すものとして、つまり、差異の力ないしは差異のエネルギーとして考えられたものであろう。私も不連続的差異論の形成前後はよく使用した。
 今考えると、《強度》を差異的エネルギーと見ていいのだろうかという疑問が起こるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、 Media Pointにおける差異共振性を意味するが、それは、同時に、差異共振性のもつ同一性志向をも包摂するのである。つまり、同一性=物質をも包摂すると見ていいのである。そして、そのMedia Pointの差異共振性とは、差異共振エネルギーであり、本質的には、イデア・エネルギー(エネルゲイア)である。そこでは、イデアが物質へと変換が行われるのである。電磁波とは、この差異共振エネルギーを本来さすものと考えられるが、現代の唯物科学では、電磁波のもつイデア・エネルギーを認識できないのである。
 さて、《強度》であるが、それは、差異エネルギーではなくて、差異共振エネルギー=イデア・エネルギー(エネルゲイア)と考えられる。それは、同一性=微粒子と同一性=微粒子との間であるMedia Point(「差異」)に存しているのであり、それが、同一性=微粒子=物質と同一性=微粒子=物質とを振動させていると思われるのである。
 唯物科学では、この振動を物質エネルギー(E=mc^2)と考えるが、それは、正しくは、Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)と考えるべきなのである。あるいは、差異共振エネルギーである。これが、《強度》の正体だと考えられるのである。
 因みに言えば、気功等の《気》も、やはり、差異共振エネルギー(イデア・エネルギー=エネルゲイア)と見るべきである。そうすると、《気》の視点から、生命はどう説明されるだろうか。《気》が生命力そのものであるから、差異共振エネルギーが生命力となる。そして、気的身体と呼ばれるものは、差異共振エネルギー体と考えられよう。つまり、物質的身体を包摂する様態で、気的身体があることになる。
 【(以下、思考実験である。)この気的身体とは、差異共振エネルギーであるから、正に、陰陽身体である。そして、+iが陽であり、-iが陰である。そして、前者が原形相であり、後者が原質料ではないだろうか。思うに、ノエシスとは前者であり、ノエマとは後者ではないだろうか。そして、両者の接点・交点に感覚や感情が生じるのではないだろうか。
 さらに言えば、差異共振エネルギー波動は、波動情報をもっていると考えられる。これが、遺伝子の本当の正体ではないだろうか。この波動情報が物質形成すると考えられるのである。この波動情報の物質的貯蔵庫がゲノムと考えられるのである。つまり、遺伝子は本来、波動情報=イデアであると考えられるのである。それが、Media Pointにおいて、差異共振エネルギーとなり、物質形成すると思われるのである。
 そして、波動情報の物質的貯蔵庫(いわば、ハードディスク)=ゲノムとは、Media Pointにおける二つの極性を保存した構造であると思われるのである。(作業仮説的に、二つの極性を+i:-iと+1:-1とする。Kaisetsu氏の考え方も参考。) 
 ここで秩序立って考えるならば、遺伝情報とは、イデア情報であり、それは、デュナミスではないだろうか。それが、Media Point において、エネルギー化する。エネルゲイア化である。そして、それが、実軸においては、構造となると考えられる。つまり、Media Point のもつ構造点である。これが、ゲノムの原型ではないだろうか。そして、ここから同一性=物質化したものが、ゲノム自体ではないだろうか。
 非常に微妙な領域である。Media Point の実軸は構造点であり、それは、物質ではないが、物質との境界である。ゲノムの原型である。そして、それが、同一性=物質化したものが、ゲノムということである。だから、それは、やはり、+1と表記されるだろう。】


2008年01月10日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化
同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化:トランス・モダンと魂

簡明化するため、前者を同一性視覚、後者を差異視覚と呼ぼう。この二種類の異質な視覚が混淆し、分裂しているのである。思うに、芸術上のモダニズムとは、この混淆様態にあったが、主導的であったのは、同一性視覚である。そのために、近代主義に囚われたままであった。
 思うに、シュタイナーのオカルティズムも、この面があると思う。モダンの同一性主義に囚われて、差異共振エネルギーを把握しようとしたのである。彼の説く霊・スピリットとは、同一性から見た差異共振エネルギーであり、構造化されたそれである。だから、いわば、霊的唯物論なのである。同一性の枠・フレームから差異共振エネルギー(超越エネルギー)を捉えようとしたのである。しかしながら、それでは、近代主義のままである。霊・スピリットではなく、イデアなのである。エイドス・テオーリアを捉えなくてはならないのである。
 ところで、プラトン哲学の魂とはどうなるだろうか。そう、世界霊魂という発想がプラトンにあった。それもどうなるのか。一つの魂も結局、世界霊魂だと思う。一即全である。ウィリアム・ブレイクが説くような神秘思想は正しいのである。(思うに、神秘学とオカルティズムは異なるだろう。前者は、心で感じた思想であり、直截的なのであるが、後者は頭で創った霊的思想である。モダニズムである。)
 結局、「わたし」の「魂」とは、世界・宇宙霊魂anima mundiである(漫画『風の谷のナウシカ』にもこの思想はある)。それは、Media Point である。思うに、Media Point は一(いつ)であり、全であり、また、多である。ただし、即非様相である。つまり、「わたし」という物質的個体は多様性の一つである。自我的個体である。これは否定できない。物質的個体としての自我としての「わたし」である。しかしながら、「わたし」は個・差異・自己・魂としては全であり、多である。永遠である。アダム・カダモンである。この物質的個体と心的一との即非態があるのである。
 では、問題は、物質的個体としての自我の「わたし」の記憶はどうなるのかである。たとえば、オフィスの窓から見える桜の樹の知覚・記憶はどうなるのか。記憶もエネルギーである。つまり、同一性の記憶とはどうなるのか、ということである。ここは、微妙・霊妙なポイントである。思うに、魂の同一性の感受性があり、それが、記憶しているのではないだろうか。つまり、Media Pointにおいて、記憶されるのではないだろうか。これが、プラトンの言う想起に通じるだろう。あるいは、前世の記憶に通じるだろう。
 そう、魂は一であり、同時に、多なのである。私の魂は、特異性である。私以外の何者のものではないのである。この魂がいわば永遠の記憶をもつのである。物質的身体が消滅するとき、魂はMedia Point に還元されるのである。これがあの世・イデア界・彼岸である。そこで、叡知を学び、この世での学習の清算をするのである。そして、不合格ならば、再び、この世に生まれ変わるのである。魂の永遠の旅である。魂の永遠回帰である。そう、来世では、また、生まれ変わった人たちに出会うのであろう。
 
 ところで、同一性主義の視覚と差異共振主義の視覚の混淆の問題にもどって、さらに精緻に考えたい。つまり、この混淆様態はどうなっているのか、ということである。前者は後者を排除するので、パラドクシカルである。前者は後者を排除しようとする。相互否定、絶対矛盾である。
 しかしながら、両者は併存しているのである。もっとも、二元論的になっているが。問題は同一性である。差異共振主義は同一性を包摂するのである。だから、同一性という点では、両者は共通性をもつのである。つまり、矛盾する両者の共通点として、同一性があるのである。

____________

A

同一性主義

四次元・現象次元
____________

B

同一性

____________

C

差異共振主義

五次元・高次元

____________

以上の図から、AとCは、矛盾するが、Bにおいて共通すると言える。では、視覚においてどうなるのだろうか。
 ここは実に微妙である。同一性自体にも違いがあると思う。先に、仮象について論じたとき分けたように、アポロの美があるのである。それは、同一性ではあっても、超越性をもっているのである。だから、上図は不十分である。

__________

A

同一性主義

__________

B

構造的同一性

__________

C

超越的同一性

__________

D

差異共振性

__________

(注意:先にヤハウェを超越的同一性と言ったが、Cの超越的同一性はそれとは意味が異なる。ヤハウェは、CからBへの志向性であると思う。だから、構造的同一性と呼ぶのが適切ではないだろうか。)

アポロの美とは、Cのこととなる。そして、物質的同一性はBとなるのであり、近代主義における表面性を意味する。
 では、本件の問題に戻るとどうなるだろうか。つまり、同一性主義と差異共振主義の混淆である。思うに、混淆という概念は、間違ってはいないが、不十分でである。同一性主義は、AとBであり、CとDを抑圧しているのである。端的に、二項対立構造である。つまり、分裂である。だから、分裂的混淆様態というのが正しいことになる。
 もっと精緻に言うと、同一性主義視覚は、同一性において、BとCを混同しているのではないのか。そう、これは、実に微妙であるが、そのように思えるのである。近代主義は、CとDとを抑圧するが、同一性の点で、CとBと混同して知覚認識しているのではないだろうか。構造とイデアの混同と言ってもいいだろう。一種錯視である。(思うに、フッサールは、Cを捉えたが、それを、Bのように記述しているのではないのか。ハイデガーは、Cを看過して、Bを存在としたのではないだろうか。)
 先に問題として、美と奇麗さであるが、Bが奇麗さであり、Cが美であるが、近代主義では混同しているので、美と奇麗さを混同するのである。美人と麗人を混同するのである。だから、本来、アポロ的な美も、奇麗さと混同されているのである。錯誤があるのである。【思うに、ウィリアム・ブレイクも、この点を指摘していたように思う。ヴァラValaとエマネーション(流出:emanation)の違いである。】
 また、差異共振性を否定しているので、同一性主義は、当然、心の美(魂の美)を感識することができないのである。たとえば、ご来光も、同一性の範疇で捉えるので、それが、差異共振性をもっていることを視識できないのである。
(ここで、先の考察を訂正する必要がある。アポロの美を超越的同一性に限定したが、超越光は単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的な光の美をもたらすのではないか。ご来光に見るのは、単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的美でもないのか。つまり、古典主義的美だけでなく、ロマン主義的美でもあるということではないのか。そう、アポロとディオニュソスとは一つであろう。イシスとオシリスは一つであろう。聖母子である。超越光とは、ディオニュソスであり、且つ、アポロである。
 ここで、今想起していることを記すと、Media Pointにおいて、超越的エネルギー(超越的エネルゲイア)があり、それが、ディオニュソス/アポロである。ディオニュソスは、思うに、総体であり、アポロはその原形である。あるいは、原同一性である。
 そして、それが、実軸化すると、同一性構造になるのである。この超越性から同一性構造への志向性がヤハウェないしはヤハウェ衝動であろう。(この同一性構造を存在にしたのが、ハイデガーである。フッサールは、超越性を超越論的主観性という用語において捉えたと考えられるのである。ハイデガーは、フッサールのブレークスルーを完全に看過した。いわば、邪悪な弟子である。)
 とまれ、超越的エネルギーに戻ると、総体がディオニュソスと言ったが、振動がディオニュソスと言うほうが的確であるようだ。そして、その振動のもつ「形相」・エイドス・イデア・テオーリアがアポロと考えられるのである。
 そして、それの実軸点が構造点である。この構造点は、構造であり、かつ、ポスト・モダンの差異の点である。丁寧に説明すると、虚軸性を喪失した実軸だけの点が構造点であり、構造である。しかし、この原点において、なんらか虚軸性が関わるのが、ポスト・モダンである。しかしながら、デリダは、原点(Media Point・特異点)に痕跡=差延を見るだけであり、超越性を否定し、ドゥルーズは、原点を連続性=同一性の側から捉えてしまい、微分=連続的差異にしてしまったのである。
 今は、ここで留めたい。

p.s. 本件の問題について、まとめると、同一性視覚と差異視覚の混淆についてであるが、結局、簡単に言えば、両者を連続化しているということになるだろう。だから、差異・超越性が、同一性化されているのである。二番目の図から言うと、BとCとを混同しているのである。本当は、BとCとは、即非関係にあるのである。

p.p.s. ここで、プラトンの『ティマイオス』を考えると、有名な、あらゆるを受容した形をとるコーラとは、ディオニュソス=振動のことではないだろうか。そして、デミウルゴス(創造神)が創る宇宙であるが、彼は、構造的同一性から作るように思えるのである。つまり、既に、実軸化したところから構築するのである。
 とまれ、プラトンはまったく正しく観ていたと思う。イデアとは、Media Pointの超越性である。そして、現象はMedia Pointを介して、実軸化された影像である。『国家』の有名な洞窟の比喩で言うと、洞窟の外部の太陽がイデア(善のイデア)であり、洞窟の開口部がMedia Pointであり、影絵の実物が構造(Media Pointの実軸)であり、スクリーンの映像が現象であろう。


2008年01月07日(Mon)▲ページの先頭へ
cosmic webとMedia Point
テーマ:太陽系/宇宙

研究資料として貼り付けさせていただく。
cosmic web、「宇宙の蜘蛛の巣」とは、Media Pointと関係すると思う。Media Pointでは、超越的エネルギーと連続的エネルギー、超越的光と連続的光が即非態にある。思うに、Media Pointを時間の方向に移動させていくと、cosmic webになるのかもしれない。とまれ、検討課題にしたい。

p.s. 結局、ダークマター(暗黒物質)とは何か、ということになると思う。ダークエネルギーは、Media Pointにおける超越的エネルギーで簡単に説明できるが、ダークマターは、プラトニック・シナジー理論からどう説明できるだろうか。
 これは、ダークエネルギーよりも、精妙な考え方が必要であるようだ。先に私は、Media Pointの実軸点について言及した。それは、デリダの痕跡が生じる場所として考えたのであり、また、構造の原点であると見たのである。それは、同一性の原型である。どうも、これが、ダークマター(暗黒物質)か、それに関わるのではないだろうか。
 Media Pointの実軸点から、直接に、同一性現象・物質現象が発生するのであり、また、これは、物質の原点であり、いわば、プロト・マター(原物質)である。つまり、一種の空となっているのである。これが、cosmic webの暗い穴だと思えるのである。今は、ここで留める。

p.p.s. 二番目の資料の最初の画像において、脳神経のシナプスに見るものがあるが、それは、メディア共鳴Media Resonanceで説明できるかもしれない。
 残る大きな問題は、webないしは繊維filamentである。これをどう説明するのかである。いわば、天の羽衣である。天衣である。思うに、これも、メディア共鳴Media Resonanceで説明できるのではないだろうか。Media Pointの共鳴(共振)によって、エネルギーが伝達されるのである。これは、超越的エネルギーももつから、超越的共鳴様態ともなると考えられる。思うに、単純化していうと、Media Pointをダークマターと考え、メディア共鳴様態をcosmic webとなるのではないだろうか。
 



Cosmic web to be unravelled

Last Updated: 4:01pm GMT 04/01/2008

Forget about the world wide web. The cosmic web is much bigger, stranger and more interesting, says Roger Highfield

Plans to explore and understand the cosmic web - one of the biggest and most mysterious features of the universe - have been unveiled by scientists.

View of the expanding universe illustrating the evolving cosmic web
View of the expanding universe illustrating the evolving cosmic web


The sky appears as a vast darkness with spots of lights and clouds of dust, but astronomers have discovered that the stars and galaxies we can see are embedded in streams of light stretching between inky voids, forming a wispy invisible structure called "the cosmic web."

This "framework" for the universe contains visible matter that we are all familiar with but 80 per cent of it consists of dark matter, the matter that astronomers only know to be there because of its gravitational tug on nearby objects.

The structure, and how it glues the cosmos together, poses one of the next big challenges for astronomy. Scientists believe that a quantum leap in computing power and the development of powerful new telescopes will soon unravel the secrets of the web, which reaches right into our own cosmic back yard.

One puzzle, says Farbrizo Nicastro of the Harvard-Smithsonian Centre for Astrophysics and colleagues, is that predictions about the makeup of ordinary matter in the web are wrong.

The web is as big as the universe itself, measuring some 14 billion light years across, adds Claude-André Faucher-Giguère of Harvard University, another of the groups discussing the web in the journal Science.

Although the details are being actively investigated, its birth is one of the best understood results of cosmology. The cosmic web grew out of tiny fluctuations imprinted in the early universe shortly after the Big Bang, which eventually condensed into the massive structures we see now.

To date, the cosmic web has been largely probed in visible light. New experiments and observatories are now being planned or entering service to probe the cosmic web at new wavelengths, from radio to x-rays, passing by the infrared and ultraviolet bands.

"These new wavelengths will open new windows to the cosmic web that are poised to lead to many new discoveries and also to occupy theoretical astrophysicists as they work to predict and understand the features revealed by these new pictures of the universe," Faucher-Giguère says.

Galaxies form in the web's smaller knots, and scientists are also struggling to determine how they swirl into existence. Rodrigo Ibata of the Observatoire Astronomique de Strasbourg in Strasbourg, France and Geraint Lewis of the University of Sydney explain that galaxies are distributed along the tendrils of the cosmic web and the pattern can only be explained by large amounts of connective dark matter.

They hope able to reunite the long-dispersed stars from ancient accretion events, completely dissecting the Milky Way and laying bare its history and how it was influenced by the local cosmic web.

Even though the exact nature of the cosmic web remains unknown, astronomers are able to produce detailed maps of the cosmos, showing its location in relation to the ordinary matter that we can see in telescopes.

One method takes advantage of gravitational lensing - when light from a distant galaxy is bent by the gravity of matter in front of it. Such gravitational lenses provide a direct probe of where dark matter lies. Last year, Richard Massey at the California Institute of Technology in Pasadena, used images of half a million galaxies from Nasa's Hubble Space Telescope to crudely map a bit of the 3D web.

This work highlights how the galaxies we see lie within larger dark matter clumps, but that these clumps are connected by "cosmic filaments" - bridges of dark matter that connect the clusters and that make up a web that pervades the universe. Much bigger surveys are now planned of the "cosmos incognita."

Overall, universe contains ordinary visible matter (5 per cent), dark matter (25 per cent), and dark energy (70 rep cent), a source of antigravity that pervades everything, affecting the evolution of the web from near to far, from the present into the most distant past.

http://www.telegraph.co.uk/earth/main.jhtml
;jsessionid=DH0NF3ZZVOVEXQFIQMGSFF4AVCBQWI
V0?view=DETAILS&grid=&xml=/earth/2008/
01/04/scicosmic104.xml

An international team of astronomers using NASA 's Hubble Space Telescope has created a three-dimensional map that provides the first direct look at the large-scale distribution of dark matter in the universe.
HubbleSite - NewsCenter - Hubble Maps the Cosmic Web of "Clumpy" Dark Matter in 3-D (01/07/2007) - Introduction

http://b.hatena.ne.jp/entry/3656455


Early Universe Was Spongy, Like Brain

Sponge Filaments
THEORY: Computer model of the early universe. Gravity arranges matter in thin filaments. High-density regions (yellow) undergo collapse and ignite bursts of star formation. These proto-galaxies stream along the filaments (red shows medium density) and meet at nodes, causing a buildup of galaxies. Low-density areas are blue.
Sponge Animation
OBSERVATION: Eight distant infant galaxies -- essentially giant globs of hydrogen with a few hot young stars -- lie inside a thin filament, visualized with a computer overlay. The hot stars make the hydrogen glow. Other objects in the image are nearer galaxies or stars.
The acute Watson might have argued, however, that it's more like a spider web. And if word of Holmes' theory got around, other big thinkers might have insisted, "No, it's spongy, just like your brain!"

They'd all have been arguing the same cosmic case: That the early universe contained a series of threads and clumps, not unlike a spider web dappled with water droplets, and that this structure set the stage for the growth of galaxies and galaxy clusters seen today.

Of course, like a good murder mystery, this theory began without much to go on. A small bit of circumstantial evidence here. A wild hunch there.

Now a group of European researchers has done some fine long-distance sleuthing, looking way back in time to when the universe was just 15 percent of its current age, to uncover some vital clues in the case.

Using the European Southern Observatory's Very Large Telescope, they have spotted a string of dense clumps of hydrogen, which glow because inside them a few hot young stars are forming. The clumps are galaxies-to-be, or protogalaxies, the researchers say. And they were found to lie within a tubular region of space -- a filament -- supporting a popular theory of the cosmic web, involving filaments stuffed with protogalaxies.

"This discovery certainly bolsters the concept of the cosmic web," said Lev Kofman, professor of the Canadian Institute for Theoretical Astrophysics.

Kofman, who was not involved in the study, added that more research would be needed before alternative models of galaxy formation could be ruled out.

Fatal attraction

The most widely accepted models of the early universe now hinge on a discovery from the early 1990s. A satellite called the Cosmic Background Explorer (COBE) was observing a pervasive feature of the universe called cosmic microwave background, or CMB, which was emitted shortly after the Big Bang.

Since its discovery in 1965, the CMB had appeared to be a uniform temperature in every direction of space. But COBE found tiny variations, lumps and bumps that researchers now believe were seeds of structure. Computer models see these variations as leading to the first large-scale architectural components of the universe -- long filaments connected at nodes. The spider web.

Clumps of hydrogen -- think of them as the drops on the spider web -- developed along these filaments. Each would have had mass, gravity and some random velocity, the computer modelers say. And they would have streamed along the filaments toward the nodes.

"Sometimes this random motion will cause two protogalaxies to pass so close to each other that they will experience fatal attraction," explained ESO researcher Palle Møller. "They will fall into each other."

Repeating the process many times, larger and larger galaxies would have formed. Over billions of years, the filaments were replaced by large clusters of galaxies connected by bridges -- the remains of the largest of the original filaments. Galactic collisions continue today.

Were Sherlock Holmes a cosmologist, he might have said, "It's filamentary, my dear Watson."
http://blog.goo.ne.jp/trova/e/
292a186e514866ac856b077170c1413a
History of Science

暗黒物質の3次元分布を測定

暗黒物質は目に見えないが、銀河回転速度や銀河団構造の測定から、銀河内及び銀河間に大量に存在していると考えられ、既にいくつかの観測で、その存在が確認されている。

しかし、暗黒物質がどれだけ存在しているのか、どのように分布しているのか、銀河の進化・成長にどのような影響を与えているのか、天文学の大きな謎だった。

http://www.sorae.jp/031001/1656.html


sorae.jp


2008年01月03日(Thu)▲ページの先頭へ
心と身体の関係について:遺伝子、感情、気とは何か:Media Pointと構造について:試論
Media Pointを心とする。では、身体との関係はどうなるのだろうか。あるいは、遺伝子との関係は。これは、難問である。
 基本的な論点は、Media Point=心からの同一性の発動である。これは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺である。つまり、心の物質化があるのではないのか、ということが考えられるのである。これは、一見、霊的唯物論に似ているが、似て非なるもの、というか、正反対である。
 心の物質化ということに対して、これまでは、私の考えでは、心の構造化としての同一性があり、それに対して、それに対応する物質があるというものである。つまり、二段階説である。心⇒構造⇒物質である。最初の心の物質化を1とし、これを2とすると、

1. 心⇒物質
2. 心⇒構造⇒物質

となる。遺伝子・DNA・ゲノム等を考えると、2の説の方が優れているように思う。しかしながら、私は、さらに、感情や気を取り込みたいと考えているのである。
 その前に、遺伝子等の問題を考えたい。直感では、構造が問題点である。そして、さらに直感では、構造は二面性をもっていて、Media Pointとしての側面と同一性の側面をもっているということである。こう言うと、構造はMedia Pointと区別できにくくなる。これも問題点である。基本的には、構造は同一性構造ということである。だから、端的に、Media Pointから区別されるのである。
 構造とは、言い換えると、Media Pointの実軸の点であるということになるだろう。ここは実に微妙な点で、構造の原点であり、かつ、ポスト・モダンの原点でもあると思われるのである。この点は後で詳論したい。
 さて、構造をもう少し説明すると、それは、Media Pointの虚軸性が実軸性に変換される点である。虚軸・イデア界的太極性が、二重螺旋で表現されると思われるのである。つまり、虚軸・イデア界的情報を、実軸原点において、原時間性を内在させて、二重螺旋で表現していると思えるのである。これが、遺伝子・DNA・ゲノムではないだろうか(p.s. 結局、遺伝子とDNA・ゲノムは区別することになったので、ここで注意しておきたい。)★★★(以下のp.sを参照)
 実に微妙である。構造における原点とは、超越性・イデア界のいわば名残をもっているのである。デリダ風に言うと、超越性・イデア界性の痕跡をもっているのである(デリダ哲学自体をプラトニック・シナジー理論から脱構築する必要があるだろう。彼の哲学は分裂しているのである。フッサールを否定して、ハイデガーに肯定的で、差延という概念を取り出すが、実は、差延という概念は、否定したフッサールの超越性の痕跡と見るのが正確であると思えるのである。デリダのパラドックスがあるのである。)このイデア界の痕跡とは、非存在を示唆する存在ということである。だから、デリダがエクリチュールというのは、的確であると思う。イデア界の痕跡としてのエクリチュールとしての構造の原点である。
 この構造の原点であるが、これはいわば、シンボルやアレゴリーである。(私はシンボルもアレゴリーもほとんど同じものではないかと思っている。後で検討したい。)先に言及した、古代ギリシアのテオーリア(観る)の観念であるが、それは、構造ではなく、端的に、Media Pointの観念=エイドス=イデア=ヴィジョンであると思う。
 とまれ、構造の原点に戻ると、それは、虚軸・イデア界の痕跡=エクリチュール(=シンボル/アレゴリー)をもつのであるが、それは、不思議な現象であり、基本的には、実軸世界であるが、同時に、虚軸世界を写しているのである。おそらく、これが、遺伝子・DNA・ゲノムではないだろうか。そして、ここから、同一性物質(有機体・身体・物質的生命体)が構築されるのである。
 では、感情とはどう説明できるだろうか。それは、心であるから、基本的には、Media Pointである。しかるに、それが、物質界に対面したときに発するエネルギーではないだろうか。すると、感情とはMedia Pointが外界から触発されたエネルギー様態のことではないだろうか。言い換えると、同一性や差異によって喚起されたエネルギー様態ということではないのか。同一性が押しつけられたときは、苦の感情となるだろうし、差異共振の場合は、歓喜となるだろう。
 では、気とはどう説明できるだろうか、それは、やはり、エネルギーであるから、基本的には、Media Pointである。しかしながら、生命と直結しているので、構造に関係しているのである。つまり、Media Pointと構造との接合点が気ではないだろうか。言い換えると、Media Pointと遺伝子との接合点である。推測であるが、いわゆる万能細胞と言われる幹細胞であるが、それは、気と関係していると思う。おそらく、気のもつ多様生成性(参照:プラトンのコーラ)が関与していると思われるのである。遺伝子自体になると確定されていると思うのである。
 以上、いろいろ述べたので、後で、個別に整理したい。

p.s. 上記の★★★の箇所と関連する補足である

この点は微妙であり、きわめて重要な点である。虚軸における超越的差異共振振動があるが、それが、Media Pointにおいて、実軸化されるが、その痕跡が二重螺旋であり、DNA /ゲノムではないのか。しかしながら、遺伝子は、量子と同じであり、本来的には、虚軸の超越的差異共振振動と考えるべきではないのか。言い換えると、量子の重層化されたものが遺伝子ではないだろうか。そして、それは、魂・霊魂と同じではないだろうか。つまり、これまで示唆してきたように、遺伝子とDNA/ゲノムは区別されるということである。遺伝子はイデアであり、魂・霊魂・スピリットである。しかし、DNA/ゲノム(二重螺旋)は構造である、ということになる。もっとも、遺伝子・イデア・魂自体は、Media Pointにおいて、原二重螺旋を形成しているのではないだろうか。というか、正しくは、太極であろう。しかしながら、太極には、情報が織り込まれていると思われるのである。ここも微妙できわめて重要なポイントである。虚軸の太極的振動があるということになる。それが、Media Pointに接して、構造=DNA/ゲノムとなるのである。
 ここで整理すると、遺伝子・イデア・魂とは、虚軸の振動であり、それ自体は、Media Pointではないが、1/4回転によって、実軸化して、痕跡・エクリチュールとして、構造・DNA・ゲノムとなるということになる。
 ところで、ここで、以下言及したデリダ哲学について補足すると、痕跡=差延とは、正に、Media Pointの実軸点である。ほとんど構造と言っていいが、しかし、虚軸の痕跡という点で、構造を越えている概念であると考えられる。ただし、虚軸の超越性を完全に否定しているので、袋小路に陥ったと考えられるのである。確かに、構造主義を一歩越えて、Media Pointの実軸点に達したことは評価しなくてはならないが、そこで閉塞してしまい、差延の反復を行う羽目になったのである。これは、量子力学の閉塞と同様と考えられよう。
 ところで、ドゥルーズ哲学はこの点どう見たらいいだろうか。やはり、それなりに、Media Pointの実軸点には到達していたと思う。しかしながら、デリダとは異なり、その「差異」を同一性と連続化させてしまったのである。つまり、連続的差異=微分の発想に留まってしまったのである。この点、痕跡を説いたデリダ哲学より後退していると言えるだろう。痕跡の点でデリダは半歩、ドゥルーズより前進したのである。しかしながら、エネルギー的流動性という点では、ドゥルーズはデリダにより優れていると言えるだろう。つまり、ドゥルーズはMedia Point におけるエネルギー様態を連続化させたのである。

p.p.s. 痕跡・エクリチュールであるが、それは、正に、漢字や象形文字に表出しているだろう。占いもそれに近いだろう。しかしながら、イデア/エイドス=テオーリアであるが、それは、真に原形ではないのか。構造と原形は異なるのである。漢字や象形文字は構造であり、原形ではないと思うのである。 
 思うに、私が経験した山のイデアとは山の原形ということだろう。では、原型(ゲーテ)・元型(ユング)との関係はどうなるだろうか。例えば、ゲーテの考えた原植物であるが、それは、直感では、原形だろう。しかし、構造性も入っているようにも思える。元型であるが、それも基本は原形であろう。しかし、同様に、構造のように捉えられているのではないだろうか。河合隼雄は、構造のように捉えているのではないだろうか。これらの点に関しては後で検討したい。

3p.s. 以上のイデアと構造の区別が決定的に重要なポイントであると思う。これが西洋哲学において混同されて、イデアを同一性的な構造として誤解されてきたと考えれるのである。東洋哲学においては、イデアを直覚していたと考えられる。Media Point哲学なのである。とまれ、これらについても後で検討したい。


2007年12月25日(Tue)▲ページの先頭へ
天使
天使angelの原義は、神の使いということであるが、これは、プラトニック・シナジー理論では、Mediaである。(また、mediaの単数形mediumの原義は、霊媒である。)
 これをどう定式化するかである。一神教における多神教的要素と考えられている。聖書で言えば、たとえば、エローヒームが天使になれるのではないだろうか。
 PS理論から言うと、差異共振によって発生する諸エネルギーが天使となるだろう。ならば、差異共振エネルギーの諸相が諸天使となるだろう。諸相とは、振動の諸相である。波動の諸相である。
 とにかく、単純に考えると、物質化されない、ある特異な振動をもつエネルギーであろう。物質化されないというのは、連続化・同一性化されないということである。
 単純に考えると、高次元の存質(造語)である。では、問題は何故、同一性化されないのか、である。作業仮説的であるが、ここには、生命とは何かの鍵があるように思える。即ち、Media Pointでの、差異共振エネルギーと連続的同一性エネルギーの間には、当然ながら、差異があり、差異共振性は必ずしも、連続的同一性へと転換されるわけではないのではないだろうか。
 これは、ガウス平面=Media 平面から考えると、1/4回転しない場合ではないだろうか。たとえば、1/3回転であったり、1/2回転であったり、1/5回転であったりする場合がそうではないだろうか。
 それは、実軸にならないので、同一性化=物質化しないと考えられる。どうやら、今は、この説明でよしとしよう。

p.s. もし、天使の超越エネルギー(超越振動)が1/4回転をしないならば、どうして、宗教文学や美術等において、映像化されるのか。そのヴィジョンはどこから来るのかという疑問が出るかもしれない。私が今思ったのは、夢である。私は夢において、人間は、というか、心(霊)は、Media Pointに純粋に近づき、超越界(イデア界)に接することができると、以前考えた。Media Pointに達すれば、確かに、1/4回転しない超越エネルギー(超越振動)も、「視る」こと(vision をもつこと)ができるのではないだろうか。つまり、Media Pointは、単に、虚軸の次元だけでなく、ガウス平面の世界(複素数世界)の集約点であり、ガウス平面全体の超越界に接しているということではないだろうか。
 先に、Kaisetsu氏が数式化されたが、オイラーの公式は現象界を包摂した超越界(高次元)の公式なのだろう。

天使
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Disambiguation

この項目では主としてアブラハムの宗教 の神 の使い について説明しています。

* それよりから派生した一般的・通用的な天使の概念や像については天使 (通用) をご覧ください。
* 漢字 文化圏における、天子 (皇帝 )からの使いについては勅使 をご覧ください。

Disambiguation エンジェルはこの項目天使へ転送 されています。その他の用例についてはエンジェル (曖昧さ回避) をご覧ください。
歌を歌う天使達。ウィリアム・アドルフ・ブグロー (1881)
歌を歌う天使達。ウィリアム・アドルフ・ブグロー (1881)

天使(てんし)は、主として、アブラハムの宗教 (ユダヤ教 、キリスト教 、イスラム教 )の聖典 や伝承に登場する神 の使いである。英語 のエンジェル(angel)はギリシャ語 のアンゲロス(angelos)に由来しており、原義は神の使者を意味する。日本語の聖典中では「み使い」と呼ばれることもあり、日本ハリストス正教会 では神使 (しんし)とも訳す(日本正教会では「天使」という語も併用される)。
天使と神々

天使は、他宗教の神々に近い働きをするため、唯一神教 であるアブラハムの宗教 の中に埋め込まれた多神教 的要素と考える人もいる。

モーセ五書 における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、ヤハウェ の顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。旧約聖書 における「仕える霊」「天の軍勢」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人のバビロン捕囚期 以降に成立した概念と考えられている。ミカエル 、ラファエル など固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。3世紀のラビ・シメオン・ベン・ラキシュはこのことを指摘し、これらの天使がバビロニア 王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。

ここから、天使の概念は、アブラハムの宗教 が広まり、他民族を取り込んでイスラエル民族が成立していく過程で、他宗教の神を、唯一神 によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。またゾロアスター教 の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、天使の概念にはゾロアスター教の影響があると言われる。

[編集 ] 天使の姿
多数の羽根を持つケルビム。作者不詳 (1156)
多数の羽根を持つケルビム。作者不詳 (1156)

天使は、主に二つの類に分かれる。第一は、「み(御)使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム(熾天使 )・ケルビム(智天使 )・オファニム(座天使 )がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。

第一の天使は、『旧約聖書 』・『新約聖書 』においては、翼など持たず普通の人と変わらない、成人男性 か、若い男子青年の姿で現れる。または姿が見えない。姿が見える場合も、男性の姿であると考えられている。(なお、ガブリエル やミカエル は、熾天使や智天使の位階にあるが、これは、キリスト教で天使位階を論じて、彼らを最高位天使としたためである。彼らは、怪物のような姿では考えられていない)。

初期のキリスト教では、天使は男子青年の姿で、翼を持たなかった。天使が有翼の姿で考えられるようになるのは、オリエント・ペルシアの天使・精霊のイメージなどが混合されて来たためである。

中世ヨーロッパにおいては、絵画から窺える限りでは、天使は有翼で、当時の西欧人の衣装をまとい、「天の聖歌隊」を構成する天使たちは美少年の姿に、大天使ガブリエルは優美な男性の姿に、また、悪と戦う使命を持ったミカエルなどは、鎧をまとい剣を帯びた、雄々しい戦士の姿で描かれていた。

近世 以降、無垢な子供の姿や、女性的な姿、やさしい男性の姿を取って表現されるようになった。これはルネサンス 期にローマ神話 のクピド (女神ウェヌス の使い)からイメージを借りたとされる。

[編集 ] ユダヤ教における天使

天使は、ヘブライ語 ではマルアークといい、原義は「御(み)使い」である。

「仕える霊」としての「み使い」は捕囚期以降の観念であると考えられている。古い文書、とりわけモーセ五書に登場する「ヤハウェの使い」はむしろヤハウェの特別な権限ないし密接な関係にある高次の霊と考えられた。セラフィムやケルブ・ケルビム、あるいはオファニムなども、「み使い」の意味での天使とは考えられていなかった。彼らは、神ヤハウェと密接な関係を持つ高次の霊ではあるが、何か異質な者と考えられていた(この考えはまた、初期のキリスト教の神学者たちも感じていた)。

捕囚期以降、神が多数の霊に仕えられているとする観念が生まれた。この「天の宮廷」にバビロニア神話の影響をみるものもいる。またおのおのの国にはそれを司る天使(国の君)がいるという考え方が生まれた。

ユダヤの伝承では、天使サンダルフォン やメタトロン などが存在し、サンダルフォンなどは、背の高さが世界の大きさの半分に達するなど、「み使い」としての天使とは、かなりイメージや存在が異なる。

[編集 ] キリスト教における天使

キリスト教における天使は、旧約聖書にあるユダヤ教思想の影響を強くうけているが、その後独自の発展を遂げている。聖書では旧約聖書のほか、新約聖書の福音書、使徒行伝、ヨハネの黙示録、エペソ書などに言及される。パウロ書簡や「ユダの手紙」からは、一部のキリスト教会で天使崇拝が行われ、正統派から批判されていたことが推測される。

キリスト教における天使論は偽ディオニシウス・アレオパギタ (偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース)の『天界の階梯』によるところが大きい。ディオニシウスは旧約時代からの伝承に新約聖書の記述の独特の読み込みを加え、9階梯からなる天使の位階について書いている。

また守護天使という概念が発生したが、守護天使がキリスト教徒にのみ付されるものか、人間全体に付されるものか、そもそも今日のその存在を教えるのかについては、教派により説が異なる。

[編集 ] イスラム教における天使

イスラム教では、天使の存在は信徒(ムスリム )が信仰すべき六信 のひとつである。アラビア語 で単数形マラクでヘブライ語からの借用語 とみられるが、通例、複数形のマラーイカで呼ばれる。マラーイカは唯一神であるアッラーフ が創造した存在であるが、神と人間の間で仲立ちを務める、霊的に神と人間の中間の存在であるとされる。

マラーイカは数多く存在するが、その頂点にあるのがジブリール 、ミカール 、イズラーイール 、イスラーフィール の四大天使である。ジブリールとミカールはクルアーンに登場する。クルアーンには名前と役割の明らかな天使はそれほど登場しないが、ハディース などの伝承において天使に関する様々な言及が存在する。それによれば、天使は神が光 から創造した存在で、主に天上にあって神を助ける役割を帯びている。

[編集 ] 聖書偽典における天使

[編集 ] アダムの家系と天使

聖書 の偽典 のヨベル書 によればアダム の子孫は代々天使と人間の間に生まれた娘と結婚しその一族エノク 、メトシェラ 、ノア (聖書) などが生まれたという。

[編集 ] 堕天使

詳細は堕天使 を参照

創世記 のノアの洪水の部分と旧約聖書の偽典 でエチオピア正教会 の正典エノク書 によれば天使の一部グリゴリ (200名)が人間の娘と交わりネフィリム (天から落ちてきた者たちの意味、通常は巨人と訳されている)を生みだすという事件を起こしたが、大洪水でノアの方舟 以外のネフィリムを含む人間は死に絶えている。キリスト教におけるヨハネの黙示録 による学説では天使の一部はのち神に反逆し堕天使となり、その長は元天使長暁の天使ルシファー で、争いに敗れて地獄の長となったとされる。

[編集 ] バルク書の天使

グノーシス主義 オフィス派派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒム(万物の父)と第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の間に24の天使が生まれた。この天使をモーゼはパラダイスとよんだ。エロヒムとエデン各12の天使が仕えた。エロヒムの天使がエデンの人身の土からアダムとイヴの体を創った。エロヒムが天に昇ったので怒ったエデンはナハスとアフロディテ(バベル)により人間の霊を苦しめさせた。エロヒムの天使バルクはモーゼや他の預言者、ヘラクレス などに働きかけて人間の霊を天上へ昇らせ救おうとするもモーゼ・預言者はナハス、ヘラクレスはアフロディテの誘惑に敗れる。バルクはイエスに全てを話しついにイエスの霊は天上に昇り後続の人間も救われた。

[編集 ] 参考文献

* グスタフ・デヴィッドスン 『天使辞典』 創元社 (2004年)ISBN 4422202294
* マルコム・ゴドウィン 『天使の世界』 青土社 (2004年) ISBN 4791761030
* ローラ・ウォード/ウィル・スティーズ 『天使の姿―絵画・彫刻で知る天使の物語』 新紀元社 (2005年) ISBN 4775304186
* 稲垣良典 『天使論序説』 講談社学術文庫 (1996年) ISBN 4061592327
* トマス・アクィナス 『神学大全』 (天使論の項は日本語未訳)
* 『天地創造99の謎』吉田敦彦

[編集 ] 関連項目
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* 堕天使

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カテゴリ : 天使 | 聖書

Angel
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This article is about the supernatural being. For other uses, see Angel (disambiguation) .
The Archangel Michael by Guido Reni wears a late Roman military outfit in this 17th century depiction
The Archangel Michael by Guido Reni wears a late Roman military outfit in this 17th century depiction

An angel (from Greek : άγγελος, angelos, "messenger", pl. άγγελοι) is a supernatural being found in many religions . In Christianity , Islam , Judaism , and Zoroastrianism , angels, as attendants or guardians to man, typically act as messengers from God .

Angelology (from Greek: άγγελος, angelos, "messenger"; and λόγος, logos , "study") is a branch of theology that deals with a hierarchical system of angels, messengers, celestial powers or emanations, and the study of these systems. It primarily relates to Kabbalistic Judaism and Christianity ,[1] where it is one of the ten major branches of theology.[2]

Some secular scholars believe that Judeo-Christianity owes a great debt to Zoroastrianism in regards to the introduction of angelology and demonology , as well as the fallen angel Satan as the ultimate agent of evil, comparing him to the evil spirit Ahriman . As the Iranian Avestan and Vedic traditions and also other branches of Indo-European mythologies show, the notion of demons had existed long before.[3] [4]

http://en.wikipedia.org/wiki/Angel



2007年12月21日(Fri)▲ページの先頭へ
超越エネルギーと光と四次元時空間について
これまで、超越光と光の重なりということを指摘したが、ここで、再考して、現象界である四次元時空間の成立についても新たに検討したい。
 結局は、Media Pointの問題であり、それにおける超越性(虚軸性)の、連続性・同一性(実軸性)への変換の問題である。ここでも、直感から考察しよう。
 超越エネルギーが根源にあり、それが、光のエネルギーとなり、可視界=現象界が形成される。単純に見ると、超越エネルギーが連続性/同一性エネルギーに変換したものが、光のエネルギーだと考えられる。超越エネルギーは不可視であるが、連続エネルギーは可視光線となる。そして、後者が可視界=現象界を形成しているのである。
 問題は、不可視の超越エネルギーである。先に、これが、ダーク・エネルギーに相当するだろうと述べた。ダークという形容を利用するなら、超越エネルギーは、闇のエネルギーである。しかしながら、これは、超越光である。とまれ、超越光=闇のエネルギーの連続性/同一性化が光エネルギーである。これは、m (ic)*(-ic)⇒mc^2で表記されるだろう。
 結局、これが、Media Pointで生起している、いわば、超越/連続変換である。これは、何を意味しているのかと言えば、通常の、日常の連続性の知覚においては、連続エネルギー、即ち、光エネルギーしか知覚できないのであり、超越エネルギーは、不可視かつ無知覚であるということである。
 しかしながら、Media Pointは、「実存」しているのである。潜在していても、「実存」しているのである。心理学的に言えば、無意識において、Media Pointが「実存」しているのである。意識の連続面では、光エネルギーを感覚・知覚する一方、他方、無意識の超越面では、超越エネルギーを受容しているのである。
 近代以前の人間は、いわば、素直に、率直に、超越エネルギーを感じ取っていたと考えられるのである。それが、無意識においてとはいえないだろう。無意識になったのは、近代においてであると考えられるのである。言い換えると、近代以前、前近代においては、Media Pointが人間の心において啓かれていて、人間は、超越エネルギーと連続エネルギーの両面を知覚したと思われるのである。宗教性とは、超越エネルギーを受容したことに対する観念だと思われる。(もっとも、日本においては、明治近代においても、超越エネルギーは天皇制によって維持されていたというか、喚起されていたのではないだろうか。しかし、敗戦後、連合国占領軍の支配によって、天皇制が象徴天皇制となり、近代合理主義によって、宗教・神話性が否定されて、超越エネルギーを喪失したと考えられるのである。三島由紀夫の言う断絃の時の出現である。) 
 しかしながら、近代において、近代合理主義が主導的になり、超越エネルギーは否定され、連続エネルギー=物質エネルギーだけが肯定される事態が出現したのである。唯物論・唯物科学/技術/資本主義の出現である。また、ここには、近代的自我の出現もある。これは、連続性・同一性中心的自己である。もちろん、ここで、デカルトが主導的役割を果たしたのであるが、しかし、実情は複雑である。
 直感で言えば、Media Pointにおいて、いわば、Media Pointを否定するような自我が生起したのである。だから、デカルトは神を問題にしたと考えられるのであるし、また、心と身体との結節点として、松果体を主張したと考えられるのである。たいへんな自己矛盾がデカルトにおいて発生したと考えられるのであるが、その後は、この自己矛盾は喪失されて、近代合理主義・近代的自我のみが取り上げられたと考えられる。
 思うに、ここでもっとも重要なポイントは、Media Pointにおける自己否定としての近代的自我である。つまり、単独性・特異性としての近代的自我である。ここにおいて、たとえば、パスカルのような孤独な自己が生起すると考えられるのであるのであるし、また、ライプニッツのモナド(単子)が考えられるのである。単独性・特異性が基盤にあるのである。
 とまれ、このMedia Pointの特異性において、二項対立が生起している。合理性と非合理性である。そして、近代合理主義、近代科学の進展とともに、非合理性が完全に否定されてゆくのであり、同時に、Media Pointの特異性も喪失されていくと考えられるのである。
 とまれ、近代合理主義が肯定され、宗教/神話、ロマン主義、神秘主義等が否定されるのである。そして、逆に、後者の反転が起こることになるのである。また、C.P.スノウが指摘した二つの文化(理系と文系)の分裂も生じたのである。簡単に言えば、機械論と人間論である。
 とまれ、近代主義によって、人間の心は激しい分裂を起こしたと言えるのである。そう、パラドックスであり、絶対矛盾の事態をむかえたのである。簡単に言えば、同一性か差異かの絶対矛盾である。しかしながら、近代主義は、差異を否定して、同一性中心主義を突き進んだのであり、資本主義を進展させたのである。つまり、唯物論の方向である。しかしながら、プロテスタンティズムが近代主義を駆動させたことを考えると、そう単純ではない。つまり、近代主義の絶対矛盾を解消する方向にプロテスタンティズムは働いたと考えられるのである。
 つまり、Media Pointの超越性と連続性を、プロテスタンティズムで統一させる方向が生起したのである。それが、アメリカ合衆国に結晶したと言えよう。
 しかしながら、プロテスタンティズムの問題は、超越性と連続性とが完全に不一致であるということである。絶対的に分離しているということである。つまり、完全なる二元論である。超越性と連続性の間隙を満たすには、聖書と信仰によるしかないということである。これは、ある意味で中世的なのである。しかしながら、キリスト教原理主義からわかるように、それは、近代合理主義をも否定するものとなるのである。とまれ、そこには、おおまかに言って、反対物の一致が生起していると言えよう。
 結局、近代主義の超克とは、超越性と連続性とのパラドックスをどう乗り越えるのかということであり、それは、ここで最初に問題にした超越エネルギーと連続エネルギーとの関係をどう説明するのかということである。
 プロテスタンティズムの場合、信仰と超越性が結びつくとは言え、それは、近代的自我が基盤となるので、連続性・同一性から離脱していないのである。ある意味で、連続性・同一性と超越性が、連続化しているのである。(だから、プロテスタンティズムは、ある意味で、ポスト・モダンなのである。)
 結局、この問題はプラトニック・シナジー理論(PS理論)によって、解明されることになったのである。即ち、超越性(超越エネルギー)と連続性・同一性(連続エネルギー)とが即非様相にあるということである。
 私は超越エネルギーと連続エネルギーとの重なりを上述したが、この重なりは、正確に言えば、即非様相なのである。結局、可視光線である光とは、即非的に、超越光であるということになるのである。
 つまり、Media Pointが啓いている人は、可視光の感覚において、同時に、不可視のはずの超越光を超感覚的に知覚していると言えるのである。大日如来とか、ご来光とか、ご神火という発想は、超越光を表現していると考えられる。結局、重なりという言い方は問題があるのである。やはり、即非様相なのである。
 ということで、超越エネルギーと光の関係の問題はこれで済んだことになる。後、四次元空間の問題が残っているが、長くなったので、それは、別稿で検討したい。


2007年12月19日(Wed)▲ページの先頭へ
自我同一性における二項癒着とコスモスの太極原理(+i)*(-i)⇔+1?
1)自我同一性の狂気について:他者と癒着しているように見るのである。癒着のようなものは何か。他者の否定と、他者との溶融。


2)グノーシス主義とユダヤ・キリスト教:

グノーシス主義は、創造神デミウルゴス(コスモスを創造した神であり、プラトンの『ティマイオス』に出てくる)を邪神と考えていて、ソフィア(叡知)による救済を考えている。それは、この世を超越したプレローマへと回帰することである。ある意味で、仏教に似ているのである。厭離穢土(おんりえど、えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)の発想に近いであろう。もっとも、仏教は、この世を作ったものを邪神とは見ないだろうが。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)に拠れば、Media Pointの連続性・同一性として、現象界が生起すると考えるのであり、現象としての世界・宇宙・自然を二元論的に、敵視するまではいかない。それは、必然的な幻なのである。ニーチェが『悲劇の誕生』で説いたようなディオニュソスの基底として、浮かぶ幻想としてのアポロのようなものである。ヒンドゥー教のブラフマン(梵)の見る夢のようなものである。
 グノーシス主義のような二元論は、病的である。しかしながら、問題は、ユダヤ・キリスト教の神、ヤハウェである。グノーシス主義が邪神とするのは、創造神デミウルゴスであるが、何か、それは、ヤハウェではないのか、と思われたりするのである。プラトンのコスモスの創造神デミウルゴスは、自然にとれば、邪悪な面はない。しかしながら、邪悪さを考えると、それは、ヤハウェに当てはまると思われるのである。邪神ヤハウェである。
 しかしながら、問題は複雑なのである。聖書において、これまで見たように、二人の神がいて、どうやら、創造神はヤハウェではなくて、エローヒームのように思えるのである。では、ヤハウェは、どうなるのか。
 先に私はヤハウェは超越的同一性(エネルギー)であると言った。天地創造は、Media Pointからの生成である。それは、三柱の神に拠るものと考えられるのである。三つ巴である。つまり、三相共振様相として現象生成が考えられるのである。PS理論では、自己認識方程式で表現されるのである。簡単に表記すれば、⇒+1である。この⇒が肝心要であり、三相共振様相を示唆するのである。
 しかしながら、ヤハウェの場合は、+1ではないだろうか。ここには、差異共振性が欠落しているのである。Media Pointが消失しているのである。換言すると、i→-iであり、i^2ないしは(-i)^2で、-1である。±1であり、おそらく、これが二元論、二項対立を意味するのである。原構造主義と言ってもいいだろう。
 では、⇒+1と+1との違いとは何か。それは何を意味するのか。直感では、前者は母権宗教(女神宗教・自然宗教・多神教)であり、後者は父権宗教(男神宗教・啓示宗教・一神教)である。そして、Media Pointの保持か否定かである。そう、これが、決定的なポイントであろう。
 前者は、Media Pointによる自然な生成であり、それに対して、後者は、Media Pointから発しながらも、自己否定的な発現発動である。前者を東洋性、後者を西洋性と言えよう。いったいこの二つは何を意味しているのか。それらは、一つのこと、一つの生成の二つ様態を意味しているのか、それとも二つの生成の様態を意味しているのか。
 今の直感では、後者ではないかと思えるのである。これは、ジェンダーに関係すると思う。自然な生成とは女性性であり、自己否定的な発動とは男性性であるように思えるのである。
 そう、自然、二つの型があるように思えるのである。即ち、差異共振性を肯定する型と他者を否定する型である。平和の型と戦争の型と言ってもいいだろう。
 これを作業仮説として、論を進めると、父権的一神教が発生するまでは、母権的多神教が中心であった。しかしながら、父権的一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教が発生すると、母権的多神教は破壊されたということではないだろうか。そして、その帰結が今日である。
 そう、自然の二つの型を作業仮説としているが、そうならば、この二つのタイプの交替が考えられるはずである。リズムとして、それがあるはずである。差異共振性へと傾斜するとき、連続的同一性へと傾斜するとき、この二つの揺れがあるように思えるのである。いわば、振り子様態である。
 簡略的に言えば、同一性へと傾斜するとき、差異へと傾斜するときの振り子運動があるのでないだろうか。わかりやすくするため、左を同一性、右を差異としよう。すると、西洋文明は完全に、左に傾斜したものである。もっとも、東洋文明においても、父権制はあるのであり、絶対的とは言えないのであるが、東洋文明は右に傾斜したと言えるのではないか。
 これは、言い換えると、太極で表現できるだろう。西洋文明は陽であり、東洋文明は陰である。西洋文明は陽へと傾斜していき、極限を迎える。そして、それから反転して、陰へと傾くことになる。
 思うに、西洋文明は先に述べたように、陽の極限化なのであり、陰が完全に失われているのである。もし、陰があるならば、それは他者であり、同一性中心主義は解体するのである。
 そう、ここで、1の問題提起と関係するのであるが、極限としての陽(極陽と呼ぼう)は、実は、極限としての陰を含むと思われるのである。両極の一致ということである。つまり、極陽とは極陰であるということである(極陽即極陰)。ここには、癒着・溶融・溶解があるのである。つまり、二項対立と同時に、二項解体が同時に生起していると考えられるのである。おそらく、この分裂事態、とりわけ、二項解体が病理的なのではないかと思う。つまり、自己と他者とが一致してしまうということだろう。自己完結である。パラノイアである。これは、神話で言えば、一種のウロボロスである。自分の尾をくわえた蛇である。完全なる倒錯である。ナルシシズムである。鏡像が自己像になっているのである。i=-iという事態である。狂気なのである。(思うに、今日、アメリカが行なっていることがこのようなことに思えるのである。自作自演の911であり、テロとの戦争であり、イラク戦争である。また、サブプライムローンもそのような感じがするのである。)
 さて、以上のように、太極原理を仮説すると、当然ながら、今日現代、振り子が揺り戻されて、東洋性へと回帰する運動にあると言えよう。言い換えると、螺旋的運動である。
 結局、最初のテーマにもどると、グノーシス主義とは、直感では、やはり、父権的一神教的創造に対する、母権的多神教的創造側の反動であると思えるのである。反動であるから、はやり、病的なのである。しかし、意義深い反動である。
 整理すると、Media Point、Primary Media Point、Cosmic Media Point(Cosmic Hole:宇宙の穴)において、太極原理が発生して、陰の場合は、差異共振性が主導的であり、陽の場合は同一性が主導的であるということであろう。そして、西洋文明においては、陽が極限化したということになるだろう。それが、西欧近代文化、西欧近代主義、西欧近代合理主義である。
 ここで、陰=差異と陽=同一性の太極原理を、自己認識方程式では、どのようなものになっているか、考えるべきであろう。これまで、+iを陽、-iを陰としたが、これではうまくいかないのである。作業仮説的に、(+i)*(-i)←+iが陰=差異であり、(+i)*(-i)→+1が陽=同一性ではないだろうか。すると、太極原理は、(+i)*(-i)⇔+1となるのではないだろうか。今はここで留めたい。


2007年11月28日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:三相共振相について:メモ
この問題は、神社の三つ巴とも関係していると思っている。古事記の三柱の神々から発している問題なのであるが、三つ巴の形象が重要であると思っている。それは、ケルト紋様の三つ巴と共通であるからである。ここには、自然・宇宙の根源的な原理が形象化されていると思われるのである。そういう意味合いを含めて、本件について考察したいと思っているのである。
 問題は、-iの意味なのである。私はこれは、身体と考えていいと思っている。とにかく、そう作業仮説して検討したい。瞑想思考(直感思考)では、-iの思考とは、神秘思考ではないかと思えるのである。思うに、人類は、父権的宗教以前において、-iの神秘思考を行なっていたのではないだろうか。整理すると、父権的宗教以前、Media Pointを元神とする宗教、母権宗教があり、そこでは、+iと-iの二神が存していた。これが例えば、イザナミとイザナギの二神であろう。兄弟の神話、双子の神話はこれと関係するだろう。
 つまり、+iにおいては物質的現象を扱い、-iにおいては霊的現象を扱っていたのではないか。そして、両者を統合するものとして、Media Pointの元神(天之御中主神・天照大神)が存していたのではないか。因みに、空海の両界曼荼羅の思想は、これであろう。両界とは、Media Pointであろう。しかしながら、空海自身は明確にMedia Pointを理解していたか不明である。とまれ、空海の言葉である、五大に響きあり、の響きとは、Media Pointにおける虚エネルギーの振動と言えよう。
 思うに、+iは光であり、-iは闇ではないだろうか。白と黒と言ってもいい。闇はすべても結びつけている。そして、光はすべてを明瞭に表している。アポロとディオニュソスである。
 問題は両者が共振したときに、Media Pointが出現することである。どちらかに偏向・傾斜すれば、それは、→-1となるだろう。西欧近代とは、恐ろしい時代である。それは、+iへと傾いたのである。そして、(+i)^1→-1となったのであり、反動として、(-i)^2→-1となったのである。反動はロマン主義、神秘主義、オカルト主義である。
 今、ふと思ったが、+iが父で、-iが母ではないのか。それはそれ正しい。聖書の創世記の神霊は+iで、水が-iであろう。そう、水がポイントである。やはり、-iは闇で一体性ではないのか。言葉に困るのであるが、共感というときの一体性である。そう、原質料である。原質料的一体性である。
 とまれ、+iが火であり、光である。そして、火と水が共振して、Media Pointとなるのである。ダビデの星である。
 問題は、+iを光としたとき、Media Pointの共振による「光」はどうなるのか、である。それは、やはり、超越光であろう。そして、これは、いわば、二重光(光と闇)であるから、色の相補性が生まれるのであろう。
 ここで、三島文学について言うと、彼の神秘主義は、明らかに、-iの志向である。闇である。彼の表現では無である。これは、D.H.ロレンスの闇ないしはdark Godと同じだろう。
 さらに問題はイシスとオシリスである。そう、神話学の問題として、根源のMedia Pointと、+iと-iとが混同されることであろう。イシスは、Media Pointであるだろう。それが、オシリス(太陽)を生む。オシリスとイシスは一体であろう。つまり、イシスがMedia Pointであり、オシリスが現象の太陽だろう。これはそのまま、神道神話にもあてはまるだろう。天照大神がMedia Pointであり、日御子(天皇)が現象太陽である。
 初めの問いにもどろう。私が言いたかったのは、闇の思考があったのではないかということである。身体の思想である。しかし、この思考が中心化すると神秘主義になるのである。これが、三島由紀夫等の思想である。上記したことを訂正すると、+iは物質的ではなく、霊的であり、-iが物質的である。ただしく言えば、質料的である。
 だから、闇の思考とは、質料的思考である。質料的同一性と言ってもいいだろう。結局、霊的同一性と質料的同一性があるのである。近代主義は前者中心であり、反近代主義は後者である。とまれ、両者を光と闇と言っていいだろう。
 問題は近代において、二元論化して、Media Pointを含む三元性が喪失されたことである。同一性が霊性においても、物質性においても中心化しているのである。ポスト・モダンが差異と呼ぶものは、真正の差異というよりは、他の同一性のことであろう。
 私が言いたいのは、差異共振性=Media Pointの思考のことである。真正の差異の思考である。ここで、同一性による一体性と差異による一体性を区別しないといけないと感じている。前者は自我主導的な一体性であり、後者は共振的一体性である。自我主導となったとき、それは、-1になっているはずである。それは、+1ではない。
 共振的一体性とは、三相共振相ではないか。差異と差異が共振するのである。三つ巴であろう。私が言いたいことがじょじょに判明してきた。Media Point的共振一体性が、自我主導において、自我的一体化となるのである。少し飛躍するが、自我的同一性とは、実は、Media Pointにおける共振的一体性から発しているのではないかということである。言い換えると、Media Point自体が自我同一性へと変換しているのではないのか、ということである。
 今はざっと言うことにするが、この自我同一性ないしは自我一体性が、ハイデガーの存在や構造に当たるのではないだろうか。そして、ポスト・モダンは、この自我同一性内部における二元論的な力学に過ぎないのではないか。
 さて、三相共振相を共振的一体性と仮説して、経済のことに話を移すと、つまり、三相共振創造経済であるが、これは、共振的一体性経済と言い換えることができる。自我を包摂する自己があるが、これが他者と共振する様態の経済である。同一性の極があり、差異・他者の極があり、両者は共振的一体性を形成している。
 資本主義においては、共振的一体性が否定されて、もっぱら、同一性(自我)の極が中心化されているのである。つまり、自我同一性・一体性経済である。これは、他者破壊主義(弱肉強食)であるのは誰でもわかることである。
 それでは、共振的一体性経済は何か、ということになるのである。私は同一性は営利性であり、差異は公共性であると思う。そして、共振性は両者の調和である。だから、営利性の極と公共性の極と調和の極があるのである。そして、私見では、公共性は非営利主義にすべきであると考えるのである。つまり、営利と非営利の共振性である。
 これによって、共振的一体性経済が考えられるだろう。ただし、公共性に対して、公共投資ということをすべきではないのである。投資ではなく、事業である。公共事業である。
 今はここで留めたい。以上は試行錯誤であり、不十分である。


2007年11月20日(Tue)▲ページの先頭へ
振動によるMedia Resonance〔メディア共鳴)によって熱エネルギーが発生するのでは?
以下の記事は、超音波を集中させて、癌の患部を攻撃するという医療の新しいアイデアであるが、私が興味を持ったのは、振動によるエネルギーの発生である。直観で思ったのは、振動によって、粒子は、Kaisetsu氏の説くMedia Resonance(メディア共鳴)を起こし、そして、熱エネルギーを発生するのではないのかということである。以下の場合は、超音波という振動による熱エネルギーの発生である。
 つまり、微粒子と微粒子がそれぞれのMedia Pointにおいて、メディア共鳴して、エネルギー(熱エネルギー)を発生ないしは放出するということではないのか、ということである。この場合、微粒子とは、細胞である。細胞の微粒子が、超音波の振動を受けて、揺さぶられる。この揺さぶり(振動・波動)において、細胞の微粒子同士がMedia Pointにおいて、Media Resonance(メディア共鳴)を励起させ、熱エネルギーを発生・放出するのではないか。これは、広義的には、自己認識方程式で説明できるだろう。即ち、(+i)*(-i)⇒+1 である。
 しかしながら、より精緻な数式化が可能であるように思える。つまり、こういうことではないだろうか。細胞の微粒子は、通常の様態では、(+i)*(- i)⇒+1の右辺の様態にある。しかるに、超音波で揺さぶられると、左辺が活性化・賦活・励起させられるのではないだろうか。言い換えると、+1の様態とは、安定した様態である。ここには、差異と同一性が均衡して安定した様態、秩序様態にある。しかるに、超音波により揺さぶり・振動を与えると、このバランスが崩れるのである。つまり、差異が活性化されるのである。つまり、新たに自己認識方程式が発生するということではないだろうか。これをどう表記していいのかわからないが、考え方としてはそれでいいと思われるのである。
 今、思いついたのは、超音波で揺さぶられる前の細胞の微粒子は、+1の様態にある。しかるに、差異、Media Pointが活性化・賦活・励起させられると、それは、(+i)*(-i)⇒+1、ないしは、⇒+1の様態になると考えられる。この⇒の意味であるが、これは、力を意味するのではないだろうか。排除する力ではないだろうか。つまり、活性化される以前の細胞の微粒子の様態+1を攻撃し排除するのではないだろうか。
 今、飛躍して思ったのは、これは、また、ニーチェの永遠回帰の意味ではないだろうか。自己認識方程式とは、固定しないのである。永遠に変化するのである。変化するように駆動されるのである。ヘラクレイトスの万物流転であり、無常である。後で、再考したい。


Bubbles in water. Image: Autocat/Eyewire
Popping bubbles to treat cancer
University of Oxford scientists are trying to harness the energy released when bubbles burst to

Popping bubbles to treat cancer
By Paul Rincon
Science reporter, BBC News

3D model of Haifu Treatment Machine. Image: Haifu System/UTL
The technique is to be brought into clinical trials
Scientists at the University of Oxford are trying to harness the energy released when bubbles burst as a way of killing off cancer cells.

They have built a device to beam waves of ultrasound into the body, generating bubbles at the site of a tumour.

When these bubbles pop, they release energy as heat - killing rogue cells.

The UK team plans to apply its new technique in clinical trials; it will be used in treating patients with kidney and liver tumours.

These clinical trials of High Intensity Focused Ultrasound (Hifu) are being conducted at the Churchill Hospital in Oxford.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/7101622.stm

Ultrasound to treat war wounds
28 Jun 06 | Science/Nature
Ultrasound to treat brain tumours
05 Apr 02 | Health
Beams cut need for cancer surgery
16 Feb 04 | Health


2007年10月31日(Wed)▲ページの先頭へ
メディア同一面構造とMedia Pointにおける次元変換について
注:以下は、次の検討問題から転載したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10053257120.html

 Media Pointに差し込む超越光を閉ざしているのが、メディア同一面の闇ないしはメディア同一面の壁である。ここが、人間の認識を阻害・疎外しているのである。簡単に言えば、同一性の壁である。不安・恐怖の壁である。Media Pointへ進むのを邪魔している壁である。
 これはいったい何なのか。ポスト・モダンが突き当たった壁でもある。構造の壁とも言える。あるいは、超越論の壁である。西欧の知の壁でもある。自我(近代的自我)の壁である。I, ich, je等の壁である。
 Media Pointの超越光が遮蔽されて、闇と光のメディア同一面を造るのである。ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩を想起するといいだろう。洞窟外の善の太陽が、Media Pointの超越光に当たるだろう。そして、闇が洞窟内の物体であり、光が洞窟壁の映像であろう。
 洞窟内においては、既に、同一性が形成されているのである。構造が形成されているのである。そして、欧米文化は、この構造から脱却できないのである。
 ポスト・モダン哲学は、この構造からの脱却の試みであったが、不首尾に終った。端的に、この同一性の壁とは何であるのか。Media Pointとの関係は実際どういうものなのか。このMedia Pointと同一性ないしは構造との関係こそ、枢要なポイントの一つである。
 それは、言い換えると、虚軸のMedia Pointが実軸のMedia Pointに変換する事象である。図式化しよう。

差異1*差異2⇒差異1・同一性・差異2

この⇒がMedia Pointに相当する。右辺の同一性が、構造とも言えるだろう。これが、差異を連続化するものでもあるのである。即ち、連続的差異=微分を形成するものである。
 問題はこの同一性がどこから生まれたのかである。それは、差異1の原形相から生まれたと言えよう。言い換えると、差異1が差異2に自己投影して、同一性が発生したのである。(逆に、差異2から差異1に自己投影したものも、一種同一性であるが、それは、神秘主義的闇の同一性であろう。近代合理主義と神秘主義は補完関係にある。)
 この自己投影であるが、これは、虚軸Media Point、即ち、0i ないしは±0iにおいて、つまり、+i→0i←(-i)【又は、+i→(±-i)←(-i)】において、超越性が虚数的ゼロへと極限化するのであり、このとき、1/4回転が発生して、虚数的ゼロ