検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教






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2009年10月31日(Sat)
検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教
今日、多神教と一神教における違いをあれこれ考えていたが、前者の場合は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で記述できる。
 問題は、精神的フィルターの存在である。これまで、差異共振現象が多神教であると考えた。即ち、例えば、「わたし」は「鳥」であり、且つ、「わたし」は「鳥」ではない、という事象=心象が生起する。
 しかしながら、このとき、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、言語も形成されるのである。
 つまり、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、差異共振現象が実は、連続化されるのである。だから、「わたし」は「鳥」であるということが、いわば、粘着的に強化されるのである。いわば、情緒主義化が生起するのである。癒着である。
 思うに、偶像崇拝はこの帰結のように思えるのである。
 そして、これに対して、ヤハウェの一神教の意味があるのである。つまり、堕落した多神教、連続化した多神教に対して、超越的切断を提起したのだと考えられる。
 そして、ヤハウェであるが、これは、確かに、超越性から発しているが、+iに極端に傾斜していると考えられる。
 端的に、Media Pointが源泉であるが、+iに極端に傾斜しているということである。そのため、他者-iを否定して、⇒-1になるのではないだろうか。
 多神教は本来、⇒+1であるが、ヤハウェ一神教の場合、⇒-1になると思われるのである。
 しかしながら、源泉はMedia Pointで同じである。だから、両者の神話においては、神話要素が共通すると考えられるのである。「蛇」、「生命の樹」、「楽園」、等である。
 つまり、ヤハウェ一神教は、母権的多神教の内在的反転のように思われるのである。つまり、メビウスの輪のように、両者、一如であるということである。
 思うに、ヤハウェは、+i⇒-1ではないだろうか。これは、抽象的同一性という精神的フィルターを形成するのではないか。
 そして、次にキリスト教であるが、それは、ヤハウェ一神教への反転のように思える。つまり、⇒+1である。一種、多神教的である。しかしながら、問題は、この反転は、「父」ヤハウェからの反転であり、「父」の精神的フィルター(精神的言語フィルター)が影響しているのではないだろうか。
 それが、ヨハネの福音書の「はじめにコトバありき」に残像しているのではないだろうか。
 つまり、本来、キリスト教的反転とは、本来、多神教だったはずであるが、それ以前の文化文脈がヤハウェ的一神教なので、その影響を受けて、一神教性を残しているのではないか。一神教の精神的フィルターから脱却できないままだったのではないだろうか。
 これは、理論的というよりは、経験的な問題ではないだろうか。
 しかしながら、キリスト教であるが、本当に、反転しているのか。どうも、十分な反転ではないように思えるのである。中途半端なのである。本当の反転ならば、脱一神教とならなくてはならないからである。
 とりあえず、不十分な反転としておこう。そうならば、十分な反転が次に起るはずである。それが、完全な脱一神教・新多神教となるはずである。
 不十分な反転をいちおう、Burgeoning -iによるものとしよう。Strong +iとBurgeoning -iが存するのである。これは、共振もあるが、やはり、強意の+iが支配しているのである。
 そして、Strong -iが発動するときがくるのである。それによって、新しい差異共振(多神教)が生まれるのではないだろうか。
 以上は思考実験である。後で整合的に考察を行ないたい。

追記:以上の記述は、便宜的なものであり、整合性を無視している。つまり、キリスト教の中途半端な反転という発想が便宜的なのである。
 やはり、理論的には、正式な反転と見るべきである。そして、そこで、精神的フィルター(精神的言語フィルター)を考えるべきだろう。
 つまり、「父」の精神的フィルターがあるので、キリスト教本来の母権主義・多神教・異教性が否定されると見るべきではないだろうか。+i⇒-1の精神的フィルターである。
 つまり、⇒-1(ヤハウェ)と⇒+1(イエス)の両面が発生して、分裂しているのではないだろうか。
 前者は戦争を志向し、後者は平和を志向するということではないだろうか。
 西洋において、歴史上、一つの革新的変化は、やはり、ルネサンスである。ここで、個が覚醒するのである。これは、Media Pointの覚醒である。つまり、それまでは(例えば、中世)、限られた個人による覚醒はあったが、ルネサンスにおいて、社会的な覚醒が発生したと考えられる。
 しかしながら、やはり、問題は、精神的フィルターである。精神的同一性フィルターが強いために、ルネサンスは、遠近法を生み出したと考えられる。イタリアという母権主義の強い土地であっても、精神的言語フィルターが強固なために、覚醒は、同一性へと展開して行ったと思われる。
 フィレンツェにおいて、フィチーニが中心となり、プラトン研究が復興し、ネオ・プラトニズムが生まれたが、結局、絵画では、遠近法が中心になっていくのである。
 より正確に言えば、虚軸性と実軸性の両面の活性化があったが、精神的フィルターのために、連続的に、実軸性(遠近法)へと傾斜していったと考えられる。
 そして、西欧近代主義が生まれるのである。それは、精神的フィルターが強く働いているのである。
 しかし、同時に、Media Pointの動きもあるのである。
 そのようにみると、キリスト教的反転が今日でも、作用しているのかもしれない。つまり、母権的・多神教的・差異共振的反転である。
 その帰結が「聖霊」主義ということではないだろうか。それは、また、ゾロアスター教主義である。


   




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カレンダ
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