-1と+1とゼロ点の関係について:身体(地)と差異と同一性






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2008年03月01日(Sat)
-1と+1とゼロ点の関係について:身体(地)と差異と同一性
先に、近代的自我/近代合理主義(+1)に対抗する、いわば、反近代主義(-1)を定立したが、そこに、身体的霊性(『月と六ペンス』)とポスト・モダン(ドゥルーズやデリダ)を含めた。
 しかしながら、両者は質的に異なるものであるから、同じ-1に含めるのは矛盾である。これを解決しないといけないのである。おおまかに言えば、身体的霊性とは、Media Point を内包しているのであるが、ポスト・モダン理論はMedia Point を内包していないと考えられるのである。この点について精緻に考えたい。
 デリダ哲学がMedia Pointを内包していないのは、すぐわかる。『声と現象』において、フッサール現象学の超越性=同一性として批判していて、超越性自体を否定しているからである。ドゥルーズ哲学の場合は以前検討したように微妙である。
 整理しよう。近代主義(同一性中心主義)の否定は、-(+1)=-1で、括ることができるとしよう。そして、ポスト・モダン哲学もそこに入ると考えられる。しかしながら、身体的霊性はMedia Point を内包しているということだから、身体-1がゼロ点を内包するということになるのではないだろうか。即ち、-1が0を内包するということである。数直線で言えば、0から始まる-1のそれを考えればいいのではないだろうか。そして、それに対して、+1は0を含まない数直線とすればいいのではないだろうか。そうならば、+1と-1は非対称であるということになるだろう。しかし、0を含まない-1もあるのだから、結局、+1, -1, 0, -1&0の四つの様相があると見るべきであろう。
 ならば、反近代主義は、3種類あることになるだろう。否、2種類である。即ち、-1と-1&0である。何故なら、0とはMedia Point であり、それは、反近代主義というよりは、トランス・モダンであるからである。近代主義を乗り越えているのである。確かに、反近代主義と言えないことはないが、そう呼ぶのは不正確である。
 以上から、二つの反近代主義を考えると、身体的霊性と呼んだものは、-1&0であり、ポスト・モダンは-1であると言えよう。 
 では、この視点から、再度、ドゥルーズやデリダを把握してみよう。前者の差異=微分であるが、それは、連続的差異であり、思うに、(-1)・(+1)= -1なのではないだろうか。それに対して、デリダの場合は、逆に、(+1)・(-1)=-1ではないだろうか。つまり、ドゥルーズは差異(-1)を連続同一性(+1)化するから、差異と同一性の積で、(-1)・(+1)=-1であり、デリダは同一性を差異化する(差延=痕跡)ので、同一性と差異の積で、 (+1)・(-1)=-1と考えられるのである。
 とりあえず、そのように考えて、次に、もう一つの反近代主義である身体的霊性(-1&0)を考えると、ここは、ポスト・モダンとは異なり、 Media Point(0) を含むので、垂直の力、即ち、虚軸的超越性(略して、虚超性?)が作用するのである。精神性・宗教性が入るのである。しかしながら、身体に基づく精神性・宗教性(霊性)であるから、超越神(一神教)的な霊性ではない。これは、言い換えると、多神教・自然宗教・太母(大女神)宗教的霊性である。
 ここで問題は、この身体的霊性と近代主義との関係である。これは実に微妙な点がある。+1と-1はいわば弁証法的に対立するのであるが、0において、両者は共立・共生するのであり、そのような「時」が生じるのである。それを差異共立時間と呼んでもいいだろう。しかしながら、それは、弁証法的対立における過程の一時期に過ぎない。
 +1と-1の弁証法的対立とは、連続性における対立であり、その対立過程における0は、連続性に巻き込まれているのである。ここで、不連続的差異論の画期的意義があるのである。0を不連続性として把捉したので、弁証法的対立という連続性の過程から脱却(エクソダス、「解脱」)して、独立することができたのである。(これは、実は、大乗仏教の空の論理で説かれていることであるが、鈴木大拙を除いて、これを真に理解した仏教者がいなかったのではないだろうか。因みに、D. H. ロレンスの「王冠」の思想について言うと、それは、キリスト教の三位一体論の枠組みを利用して、「父」(同一性)と「子」(差異)との対立が「聖霊」で和解するということを説いているものであるが、「父」と「子」との対立は(+1)と(-1)の対立と見ることができ、「聖霊」を0とみることができるだろう。しかしながら、やはり、弁証法的対立における0であると言えよう。言い換えると、身体的霊性の思想であるということである。)さらに言うと、この不連続的差異である0を差異共振性(+i)*(-i)にしたのが、プラトニック・シナジー理論である。0に虚軸的超越的差異共振性を与えたのである。言い換えると、0→(+i)*(-i)が不連続的差異論からプラトニック・シナジー理論への進展を意味する。(因みに、構造主義について考ええるとどうなるだろうか。ここでは、簡単に述べるだけであるが、おそらく、+1と-1の対立で説明ができるのではないだろうか。つまり、弁証法である。弁証法の形式が構造ではないだろうか。ここには、同一性の形式が支配しているのである。差異が同一性化されて統一化されるのである。結局、弁証法形式が構造主義の構造であるということである。)
 以上で本件を解明したこととしたい。

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