INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧

PROTOMODERN PHILOSOPHY:




2010年03月18日(Thu)▲ページの先頭へ
「近代」の発端の中国人と近代の末端の日本人:脱近代=トランス・モダン、又は魂の資本主義
スロー人氏は以下、いい点をついている。結局、今の日本は近代末期であり、且つ、脱近代の志向が消失している状況なのである。精神科学的に言えば、魂・精神の喪失状態である。
 私見・管見では、中国の人々は今や、「高度成長」を迎えているのである。しかしながら、問題点は、近代主義の外向性にある。同一性=唯物論である。内的には、魂、つまり、Media Pointから発しているが、「自己」は+1の自我、物質を志向するということである。これは、日本を繰り返しているのである。
 結局、脱近代、トランス・モダンを視野に入れる必要があるのである。そして、日本の復活は一重にこの点にかかっていると言えよう。明治維新並びに戦後を介して、魂=精神を喪失した日本人が再び、魂=精神を見いだして、生まれ変われるかである。
 
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本当はチャンスがいっぱいある時代なのだ
中国の若者たちは歯を食いしばってがんばるが、日本の若者たちはカンタンにあきらめるのだとか。


 たしかにそんな感じはします。日本は、豊かになって、わがままになって、がんばれる人が少なくなったように感じられる。


 結局、日本の停滞の背景には、こういう人的な要素も関係しているように感じられるときもある。


 確かに今は働く者にとって、働きやすい環境ではなくなった。夢を追うことすら、まじめに考えられないような時代になった。


 そういう意味では、今の若者たちはとても可哀想だと思う。


 だからこそ、かつての日本のように、若者たちが夢をもって、懸命にがんばれるようにするにはどうすればよいのだろうか、と思う。


 すでにモノづくりの重心は日本からアジアに移転してしまった。


 そんな日本で若者たちが夢を描けるようになるためにはどうすればいいのか。


 若者たちと一緒に大人も自分の責任であると自覚して、改善するように努力するべきなんだと思う。


 しかし、口ばかりの大人が多い。とくにこの不景気下にあっても、生活が保障されているような恵まれた大人には、若者が直面している不安定さに実感が持てない。


 他人ごとだ。


 こういう連中が、自分らの利益ばかりを考えて、世の中を動かしている。

 というか、なにが建設的で前向きな考えなのかが、分からない大人が増えた。


 だから、この国は少しもよくならない。


 だから、この国の若者たちには江戸末期の若者たちの姿に注目してもらいたい。国を変えることができるのは、20〜30代なんだという誇りを。


 大人は現状肯定だ。こんな人たちに、この苦しさを改善する意欲などまったく沸かない。


 実は、最初に紹介した方によれば、中国には、気概のある日本の若者が増えてきているという。


 小さくはまとまるのではなく、自分の可能性に賭けてみたいという日本の若者もまだまだいるのだ。


 この腐った日本では芽の出ない人も、世界に羽ばたけば、違った人生を見つけ出すことができるのかもしれないと思う。


 残って未来がない人生か、それとも、海外に出て、夢、可能性に賭けてみるか…。そんな選択がある時代になったのだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10484907670.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


シュタイナー精神科学をPS理論的に「翻訳」する
神秘学概論 (ちくま学芸文庫) (文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巖 (翻訳)


今、久しぶりに本書を読んでいるが、以前と比べて、たいへん読みやすくなっていると感じた。これは、翻訳の違いに拠るかもしれないが、それとは別に、私見では、PS理論の深化に拠ると感じるのである。
 例えば、シュタイナーがルシファーやアーリマンと名指した「悪魔」であるが、これは、PS理論で説明できると思った。
 シュタイナーは哲学博士であり、また、自然科学を専攻した人間であることを考えると、彼の「オカルト」・宗教・神秘学的用語は、PS理論的に哲学・科学的に転換できるのもある意味で当然である。
 後で、それを少し提示したい。

追記:ひと言言えば、ルシファーとは、個の原理であると言えよう(正確に言うと、Media Pointと同一性の連続志向性である)。そして、アーリマンとは、同一性=物質の原理である。そして、キリストは、ルシファーの連続性を切断したときに生じるの不連続性に拠る差異共振性であると言えよう。
 また、エーテル体は、⇒+1の⇒であり、アストラル体は、-1であると思われる。

追記2:おそらく、いちばんの問題は、シュタイナーの「自我」をどう捉えるかである。
 PS理論では、自己を重視する。それは、自我とは全く異なるものである。思うに、シュタイナーの自我とは、+iのことだと思う。これが、近代においては、+1と等価となると考えられる。即ち、+i⇒+1である。
 思うに、シュタイナー精神科学に欠けているのは、不連続性、即非性、他者-i、Media Point等の概念である。


追記3:不連続性や即非性の概念がないために、修行者が誤謬に陥らないように、即ち、幻想と真実とを混同しないように、執拗に慎重な注意深さを説いていると考えられる。PS理論の視点からは、より明晰に解明することができよう。


2010年03月15日(Mon)▲ページの先頭へ
現代の人間の意識の異常性の原因は精神性の喪失である:精神に倫理・道徳・「理性」があるのである
テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会/有徳政治へ

近代合理主義=唯物論が人々の意識に浸透して、精神性を排除したのである。その結果、「狂気」が日常的意識になっているのである。
 精神的認識によって、正常な対他認識をともなう自己認識、さらには、妥当な現実認識ができるのである。


参考:

以下には、仏教の八正道がベースになって科学的なないしは哲学科学的な精神陶冶・涵養実践方法が説かれている。
 端的に言えば、西洋人向けの瞑想の奨めであるが、瞑想の行をしなくても、読むだけでも、啓蒙的である。
 私はそれにD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』の読書を奨めたい。これは、東洋的身体意識論であるし、PS理論の即非的極性論に通じる内容をもっているのである。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか 』
(ちくま学芸文庫) (文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)

八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、आर्याष्टाङ्गो मार्गो)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、 8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論 では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
概略 [編集 ]

八正道は四諦 の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、このような総括がインドの様式のようである。

古い『相応部 経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪 )で、まず非苦非楽の中道 を説き、それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。
正見 [編集 ]

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。
正思惟 [編集 ]

正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出家を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出家を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、「nekkhamma」とは「否認」「否定」の意味だから、日常的なもののいっさいの否定をいう。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。

この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。

このように正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることである。この立場の転換に人間生存の転換がなされる。しかし、それが「正思惟」である限り、このような生の転換も観念的である。そこで、次の「正語」と「正業」が説かれ、正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのである。
正語 [編集 ]

正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。
正業 [編集 ]

正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
正命 [編集 ]

正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。これは、まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
正精進 [編集 ]

この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤 (ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
正念 [編集 ]

このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。

現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
正定 [編集 ]

「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。これは心身一致の禅定 において正しい智慧を完成することである。この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、「正見」が得られるのである。

このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
関連項目 [編集 ]

* 中道

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 」より作成
カテゴリ : 原始仏教 | 名数8


2010年03月13日(Sat)▲ページの先頭へ
シュタイナー精神学とPS理論:+1が月(物質)であり、-1が太陽(精神)である。
これは、精神学者シュタイナーの思想に関わるので、特殊な問題である。しかし、PS理論に関わる面があるので、考察を行ないたい。(以下は、一般の人は無視されたい。おそらく、チンプンカンプンのはずである。)
 シュタイナーはヤハウェを月に存した太陽霊としている。(因みに、シュタイナーの精神学は実に東洋的なのである。彼は太陽霊をキリストとしているが、実はこれは、アフラ・マズダーなのである。つまり、シュタイナー精神学とは、ゾロアスター教的精神学なのである。あるいは、比較精神学である。)
 この月に存した太陽霊が問題なのである。先の検討では、ヤハウェは+1となるのであるが、シュタイナーの思想では、-1である。実陰に存する太陽霊なのである。
 ここで想起すべきは、シュタイナーは物質を月に、精神を太陽に見ていることである。
 それから考えると、+1は月になるのであり、-1が太陽になるのである。だから、ヤハウェが月にいる太陽霊であるというのは、+1である太・陽と一致するのである。
 だから、PS理論的陰陽論とシュタイナーの精神学は一致することになるのである。

追記:そうすると、更なる問題は、エーテル体とアストラル体と「自我」である。+1を形成するエネルギーがエーテル体であり、-1を形成するエネルギーがアストラル体ではないだろうか。そして、「自我」、正確には、自己は、 Media Pointの垂直的認識であると考えられる。これらの点については、精緻に検討する必要がある。

参考:
『父権的自我の力学について:父権は母権に包摂される:二つの陰陽:虚軸の陰陽と実軸の陰陽』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10479923357.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


「民主主義」イデオロギーと新帝国主義の結合するUSA問題
『「民主主義」イデオロギーと新帝国主義の結合するUSA問題』

テーマ:戦争屋覇権主義:新植民地主義・新帝国 主義

この問題はブッシュ前大統領のときのイラク侵略問題で論考したが、再度、検討したい。
 今は余裕がないので、ざっと予見を書く。結局、米国の民主主義とは、覇権外交のためのイデオロギーの武器であり、また、国内的には、確かに、有効な理念 ではあるが、実際には、貧困者が多く、差別があり、やはり、イデオロギー的虚飾の面が強い。
 結局、おおかた、米国民主主義は、特権的金融資本の新帝国主義のための覇権イデオロギーになっていると見るが妥当だと考えられるのである。
 私は差異共振主義を唱えている。これは、トランス・デモクラシーである。

追記:以前述べたことだが、米国民主主義は対外的には、同一性民主主義になっているということである。米国という同一性を他国に押しつけているのである。
 差異民主主義になる必要があるのである。同一性とは暴力的であるからである。
 同一性の根源とは、ヤハウェであり、また、父権主義である。これは、+1に傾斜した意識なのである。父権的攻撃意識なのである。
 民主主義の深化のためには、東洋思想を基礎とすべきなのである。民主主義のトランス・モダン化である。あるいは、東洋的民主主義である。
人権問題:「北朝鮮は慨嘆すべき状況」=米国務省
朝鮮日報 - ‎2 時間前‎
米国務省は11日、年次報告書『2009 Country Reports on Human Rights Practices』を発表し、北朝鮮の全般的な人権状況について、「依然として慨嘆(がいたん)すべき状況にある」と記した。また同報告書は、北朝鮮の 政権が非合法的な処刑、拷問、強制中絶、乳児殺害などを ...

米国務省の人権報告書「北朝鮮の人権状況は残念でたまらない」
東亜日報 - ‎2 時間前‎
米国務省は、11日発表した09年版の人権報告書で、北朝鮮の人権状況について「残念でたまらない(deplorable)」と表現した。昨年、バラッ ク・オバマ政府発足直後に発表した08年版の報告書では「劣悪(poor)」という表現を使っていた。米国は毎年、世界各国に対する ...


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『リアリズムとは何か:精神的認識と物質的現実』

テーマ:検討問題:思考実験・仮説

物質的現実を的確に洞察するには、唯物論的思考では無理である。何故なら、それは、物質的現実に没入して、自我の考えを挿入して、混濁するからである。
 物質的現実を洞察するには、精神的認識が必要なのである。精神的認識は物質的現実に対して他者なので、物質的現実を冷静に見ることができると考えられる のである。
 そう考えると、私は初めから小泉元首相を見て、ペテン師であると直覚した理由がよくわかると言えよう。

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『法人税減税は消費税増税、国債増発とセットであろう:民主党は前自民党政権化した』


テーマ:鳩山代表と民主党:ポスト・モダン反動 路線

早くも民主党「革命(同一性主義)」の明らさまな反動化である。官僚より才 知の劣る政治家が多く、ただ虚勢を張って官僚叩きを行なったものの、経済の叡知がないために、これまでの自民党路線を踏襲することになったのではないか。
 何度も述べたように、オバマ政権のような差異共振の知恵が欠落しているの である。脱近代(トランス・モダン)の視点がなくては、今日の状況は克服できない。
 裏切られた政権交代。


法人税減税に意欲=「国際標準を考慮」−首相
 鳩山由紀夫首相は12日夕、法人税について「大企業も中小企業も含めて、在り方を国際的な標準 を考慮しながら考えていく」と述べ、引き下げに意欲を示した。首相官邸で記者団に語った。平野博文官房長官も午後の記者会見で「(年末の2011年度税制 改正で)そういう(引き下げの)議論は当然出てくると思う」との見方を示した。
 民主党は衆院選マニフェスト(政権公約)で中小企業の法人税減税 を掲げたが、景気悪化による大幅な税収減で見送った経緯がある。国税と地方税を合わせた実質的な税負担を示す実効税率は、日本は約40%とフランスやドイ ツなどの約30%に比べて高く、経済界からは引き下げを求める声が強い。(2010/03/12-20:22)
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco&k=2010031200865

消費税、社会保障目的税に…首相が検討表明
読売新聞 - ‎3 時間前‎
参院予算委員会は12日、「経済・財政」をテーマに集中審議を行った。 鳩山首相は今後の税制の抜本改革に関し、「政治への信頼が回復した後に、消費税の議論をしっかり行う。それは社会保障を目的にしたものにする」と述べ、消 費税を社会保障目的税とする検討を行う考え ...

法人税は減税 消費税増税なら社会保障目的税に
MSN産経ニュース - ‎2 時間前‎
鳩山由紀夫首相は12日の参院予算委員会で、現行税制について「世界との比較で法人税は高くて消費税が極めて低いのは事実だ。税率を国際的な流れにふさわ しいものにする。法人税は減税の方向に導くのが筋だ」と述べ、法人税率の引き下げに前向きな姿勢を示した。 ...



2010年03月12日(Fri)▲ページの先頭へ
父権的自我の力学について:父権は母権に包摂される:二つの陰陽:虚軸の陰陽と実軸の陰陽
これまで、ほぼ、父権的意識とは+iに傾斜したものと考えてきたが、そうすると、整合性が見いだせないのである。
 そこで、父権的意識とは、⇒+1に傾斜したものと考えられないかと考えたのである。
 つまり、Media Pointにおいて、積への傾斜が強いのではないかということである。だから、端的に、同一性傾斜である。あるいは、連続的同一性傾斜である。
 それに対して、母権的意識とは、-1を保持していると思われるのである。これは、実に自然的調和を意味する。
 +1に対して、-1が生じるのは、調和原理から見て正当である。それは、積に対して、商であろう。積が合一原理とすれば、商は共立原理ではないだろうか。
 そうすると、父権的意識とは母権的意識の部分、半面に過ぎないということになる。つまり、前者は後者に包摂されるということである。母⇒父である。これは、イシス⇒オシリス、あるいは、アマテラス⇒日御子(ひのみこ:cf. 卑弥呼⇒日巫女)と変換できる。
 しかるに、父権的神話(宗教)とは、左辺を右辺が否定しているのである。つまり、一種の倒錯がそこにはあるのである。自然から見ると、父権的神話は奇形の一種である。本来、あり得ないことが起きたのである。
 それが意味するのは、物質が精神を否定しているということである。つまり、唯物論の発生なのである。
 ゾロアスター教から見ると、アンラ・マンユ(悪神、悪霊、悪魔)の発生を意味するのである。
 奇形とは言ったが、以前考察したように、陰陽論で説明ができるだろう。即ち、『易』が説くように、陰陽は常に揺れ動いているのである。流動的に振動しているのである。そして、陽に傾斜するときがあるのである。太・陽(空の太陽ではない)である。そして、それが、父権的意識であると考えられるのである。(そして、陽、極まれば、陰に転ず、である。)
 つまり、父権的意識は奇形ではなく、陰陽論で説明できる自然力学に拠るものと考えられる。
 そして、母権的意識とは、端的に、陰陽的意識ということになるだろう。完全に父権的意識とは母権的意識に内包・包摂されるのである。
 しかしながら、父権的同一性意識が、西洋文明において、固着してしまったとは言えよう。それは、既述したように、ヤハウェという唯一神・超越神信仰に拠ると考えられる。(一神教でも、イスラーム教は、これまで述べたように、ヤハウェ信仰とは異なるのである。イスラーム教の唯一神とは、Media Pointと考えられるからである。)
 今や、この父権的同一性意識の断末魔の黙示録的時代である。
 以上で、父権的意識の力学は説明ができたが、そうすると、当然、+1だけではなく、-1の世界も考慮する必要が出てくるのである。これは、社会的には、共同体ないしは社会有機体を意味しよう。(しかしながら、-1に傾斜したのが、社会主義だと思う。)
 ここで本件の問題を整理する意味でも、新たに用語を与えたい。即ち、

+i=虚陽(原陽)
-i=虚陰(原陰)
+1=陽(実陽)
-1=陰(実陰)

である。
 『易』の太極とは、虚陽と虚陰の双極性を意味することになる。思うに、理気論が不明瞭になったのは、虚界と実界を絶対的に区別しなかった、即ち、混同したことに拠るだろう。
 つまり、そこには、「気」の問題があるのである。私は、今や、「気」は実軸に関係すると思っている。物質が+1であるから、「気」は-1である。
 しかるに、「理」とは虚軸ないしはMedia Pointを意味すると考えられる。思うに、Media Pointと考えた方が的確であろう。つまり、Media Pointの「理」から物質の+1と「気」の-1が発生するということになる。
 以上で本件は解明されたことになる。


2010年03月08日(Mon)▲ページの先頭へ
創造的知性の潜在性と資本の融合:創造知性的資本経済
日本経済が低迷・沈滞しているのは、シュタイナー的に言えば、資本家に才知が欠落しているということになるだろう。既成の発想しかもたない資本家は当然新しい経済を創造できないのである。
 坂本龍馬が注目されるのはそのような意味があるだろう。「創造的資本」経済が必要なのである。これまで、差異資本主義、差異共振資本主義と呼んだものは、そのようなものである。金融資本主義は「同一性的資本」経済であり、反復経済であり、創造的資本経済ではないのである。

追記:PS理論から言えば、+iを創造的知性(才知)、-iを資本として、 ⇒創造的価値となるだろう。即ち、

(創造的知性)*(資本)⇒創造的価値

となる。

金融資本主義は創造的知性がなく、同一性的知性である近代合理主義、唯物論しかないのである。同一性の反復なのである。
 日本の場合、官僚的資本主義で、同一性である負債漬けの箱物経済である。ここには、創造的知性、差異共振的知性が欠落しているのである。これが、日本経済が活性化しない根因である。


  第4講 分業による資本の発生ー貨幣経済と資本

今現在、金銭を所有している者の才知が、どのような程度のものか、

金銭を、いかに実りある形で、経済プロセスに送り出せるか、

それだけが、ここでは、意味のあることなのです。

●ここでは、資本を生み出した、第1段階の労働は、第2段階では、もはや国民経済的な意味を、

持ちません。ここでは、金銭を役立てる才知のみが、国民経済的な意味を持っているのです。

資本の中には、非常に多くの労働が蓄えられているということを、考えてみて下さい。

すべてを、無駄に使ってしまう、愚かな人が、居ます。

賢明な人物が登場すると、実りあるプロセスを導入し、全く違った創造的なプロセスが生まれます。

投資家と、投資先に関わる第2段階においては、すでに、労働の痕跡を失った資本に関わっている

と、言わなくてはなりません。

投下資本は、一面で債務資本であることによって、経済プロセスの第2段階へ移行する、と言うことが

出来ます。その中には、資本の循環以外のものは、何もありません。

●何をはじめていいのかわからない投資家と、資本を活用出来る投資先との間には、社会的な落差が

あるのです。

その落差を生じさせるものは何か?

人間のさまざまな素質です。

愚かな?人が資本を持っている時、経済プロセスが健全であれば、その人が川上にいて、

川下には、賢い人が居て、とどこおりなく、資本は、賢い人の方へ流れます。

人間の素質の落差をとおして、資本は流れる、そう言う事が出来ます。

社会有機体の中の人々の質の差が、経済プロセスを継続させるのです。

http://www.geocities.jp/momoforall/booknote1/mybooknote4.html

シュタイナー経済学講座

モルガンが焦土から立ちあがるとき

2010年03月08日06時18分 / 提供:Market Hack
Market Hack
ここ数年のモルガン・スタンレー(ティッカーMS)の凋落ぶりは目を覆わんばかりでした。かつてはモルガン・スタンレーと言えば高飛車なウォール街の投資銀行の中でも「別格」の存在でした。でも今では「その他大勢」の中に括られる、地味な存在に成り下がっています。何がモルガン・スタンレーの「のれん」を台無しにしたのか?それは金融危機のずっと以前に、ディーン・ウィッターを買収した事に端を発します。

記事全文


2010年03月07日(Sun)▲ページの先頭へ
磁気、磁界について:性的磁気と超越的磁気:プラトンのエロースは超越的引力である
誰もが知ってる、N極とS極。しかしながら、これは、電界とは電磁波において密接に関係するが異なるものである。
 とまれ、磁石を考えよう。NーSを磁石(棒磁石)とする。これを複数、結びつけると、

・・・NーS⇔NーS⇔NーS⇔NーS・・・

となる。なお、⇔は磁気による引力である。・・・は、磁力線となる。
 問題はこの引力で接合している箇所である。棒磁石をくっつけると、確かに、面と面が接合するが、その接合面はどのように記述できるだろうか。
 これはやはりPS理論から説明できるだろう。Nを+i、Sを-iとし、共鳴結合させればいいのだろう。N*S⇒+1である。この+1が磁力の引力である。
 そして、接合面とは、当然、Media Pointである。そこは、Nであり、且つ、Sであるし、又、Nでもなく、Sでもないのである。即非フェースである。
 磁気が人間の性的魅力にも適用されると作業仮説すると、性的磁力があるということになり、女男、NとSになる。これは明快である。思うに、プラトンが述べたエロースであるが、それは、いわば、超越的磁気のことになるだろう。
 そう、やはり、Media Pointである。ここで、超越的磁気ないしは超越的電磁波が作用するのであり、それが、プラトンのエロースということになるだろう。
 そして、性的魅力というのは、その下位の現象であろう。性的魅力は⇒+1であるが、⇒には、超越的エネルギーがあるのである。
 性欲とは本来、精神(精神身体)的なものであろう。性という字が本来、例えば、性向のように、精神(精神身体)的なものである。
 近代的自我は物質的身体と一致しているので、性欲が物質的身体的になり、本来の精神エネルギーが喪失されているのである。
 トランス・モダン・スピリットとは、性的あり方も変容させると言える。シュタイナーは将来的には咽喉部が生殖器官になると言っている。

追記:まだ釈然としない点がある。引力の問題である。私は磁性の引力は性的であるとしたが、問題は、差異共立の側面である。人間においては、女男において、本来、差異共立性があるべきである。だから、磁力のように一体化する(追記:両極による「一体化」であるが、接合面では確かに、「一体化」しているが、実際は、N極とS極は一体化はしていない。この点を深く考えるべきである。つまり、極性的引力においても、差異性は消えないのである。後で再考したい。)ことはないはずであるので、上述した磁気的引力論によっては、性的関係を完全には説明できないだろう。
 つまり、女男双方に、NとSの面があるだろう。NとSが作用すれば、性的引力が生じるが、NとNないしはSとSとが作用すれば、性的斥力が生じて反発することになる。
 だから、女男関係とは、磁気の両極同士が関係するので、四極的になるのである。NとS、NとN、SとN、SとSの四相である。この複合様態があり、それぞれ、微妙に揺れ動くので、四相が連関して複雑に多様化するのである。
 思うに、Nを「原男性性」、Sを「原女性性」と見ることできよう。そう、一人の女性の場合、後者が指し示し対象となり、Nが背景となるときと、反転するときがあるだろう。これは、男性においても同様である。今日は、この反転が起きている時代である。つまり、新母権のエポックである。
 しかしながら、現代、女性の「原男性性」が「原女性性」を抑圧していると考えられる。換言すると、父権化なのである。女性の父権化があるのである。だから、女性の「原女性性」を復興させる必要のある今日の新母権時代である。

追記2:同性愛ないしは性同一性障害問題であるが、NS論から言うと、一般には、優位の極があり、それが、物質的身体と一致している。つまり、N極優位の主観性をもつと生物的に雄の身体を、S極優位の主観性をもつと生物的に雌の身体をもつ。
 しかしながら、これが必ずしも一致しない場合があるのである。それが同性愛や性同一性障害となるのだろう。思うに、超越的情報における、なんらかの偏差があって、遺伝子的に逆転が起きるのではないだろうか。
 思うに、主観性の磁性と物質的身体の磁性を区別する必要があるが、それについては後で検討したい。

追記3:結局、性的磁極論(性的NS論)は、意識において優位な極と劣位な極があり、優位な極が物質的身体の雌雄を規定していると考えられる。
 しかしながら、それが逆転する場合が同性愛、性同一性障害である。優位な極に対して、生物的身体が劣位な極になっているのである。
 PS理論から言うと、+iと-iの極性があり、一般には、+iが優位の場合、生物的身体は雄に、-iが優位の場合は生物的身体は雌になると作業仮説しよう。
 しかし、これが逆転して、+iの優位意識に対して、-iの身体が、-iの優位意識に対して、+iの身体が生起する場合があるということになる。
 思うに、これは一種の相補性原理、補償原理ではないだろうか。優位意識に対する先天的(超越的)な補償原理ではないだろうか。どうも超越的情報(霊的情報)が作用しているように思える。
 以上は作業仮説である。私は女性は本来、+iと-iの調和性をもっていると思っているので、以上の論は持論とは齟齬を来しているのである。この点は後で検討したい。

参考:

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磁気と生体 磁気と生体
磁気と生体(生命)との関係に他方向からアプローチした、興味のつきないサイエンスストーリーです。

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磁性
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磁性(じせい)または、磁気(じき)とは、物理学 で、物質 が他の物質に引力や斥力 を及ぼす現象 の一つである。容易に分かるほど強い磁性を示す物質として、鉄 やある種の鋼 、磁鉄鉱 (天然磁石)や磁硫鉄鉱 といった鉱物 などがよく知られている。全ての物質は磁場 によって多かれ少なかれ影響を受けるが、ほとんどの場合、その影響は特別な装置を使わなければ検出できないほど小さい。

磁力 は電荷 の運動によって引き起こされる基本的な力 である。磁力を支配する源や場の振る舞いはマクスウェル方程式 で記述される(ビオ・サバールの法則 も参照のこと)。よって磁性は電荷を持つ粒子 が運動 をすればいつでも現れる。磁性は電流 の中の電子 の運動によって発生して電磁気 と呼ばれたり、電子の量子力学 的な軌道運動やスピン によって生じ、永久磁石 の力の源となったりする(電子は太陽 を周る惑星 のような軌道運動を行なっているわけではないが、「実効的な電子の速度」は存在する)。
磁場中の荷電粒子 [編集 ]

磁場 B の中を運動する荷電粒子は、以下の外積 で表される力 F(ローレンツ力 )を受ける。

\vec F = q \vec v \times \vec B

ここで、
q\, は粒子の電荷
\vec v \, は粒子の速度ベクトル
\vec B \, は磁場

この力は外積なので、粒子の速度と磁場の両方に対して垂直な方向に働く。このため、磁力は粒子の運動の方向だけを変え、速さは変えない。
磁気双極子 [編集 ]

通常、磁場は双極子 場として現れ、S極 とN極 を持つ。「S極」「N極」という用語は磁石を方位磁石 として使っていたことに由来している(方位磁石は地球の磁場と相互作用し、地球上での北 (North) と南 (South) を指し示す)。

磁場はエネルギー を蓄える。物理系は普通、エネルギーが最小となる配置で安定となる。そのため、磁気双極子 を磁場の中に置くと、磁場と反対の方向に自らの磁極を向けようとし、これによって正味の磁場の強さをできるだけ打ち消して磁場に蓄えられるエネルギーを小さくしようとする。例えば、2つの同じ棒磁石を重ねると普通、互いのN極とS極がくっついて正味の磁場が打ち消されるようになり、同じ方向に重ねようとする力には逆らおうとする。2つの棒磁石を同じ方向で重ねるために使われたエネルギーは重なった2本の磁石が作る磁場に蓄えられ、その強さは1本の磁石の2倍になる。(これが、方位磁石として使われる磁石が地球磁場と作用して北と南を向く理由である。)
磁気単極子 [編集 ]

通常の経験に反して、いくつかの理論物理学のモデルでは磁気単極子 (モノポール)の存在を予言している。1931年 にポール・ディラック は、電気と磁気にはある種の対称性があるため、量子論 によって単独の正あるいは負の電荷の存在が予言されるのと同様に、孤立したS極あるいはN極の磁極も存在するはずだ、と述べた。しかし実際には、荷電粒子は陽子 と電子 のように個々の電荷として容易に孤立して存在できるが、SとNの磁極はばらばらには現れない。ディラックは量子論を用いて、もしも磁気単極子が存在するならば、なぜ観測される素粒子 が電子の電荷の整数倍の電荷しか持たないのか、という理由を説明できることを示した。なお、クォーク は分数電荷を持つが、自由粒子としては観測されない。

現代の素粒子論では、電荷の量子化は非可換ゲージ 対称性 の自発的破れによって実現されるとされている。現在のある種の大統一理論 で予言されているモノポールはディラックによって考えられた元々のモノポールとは異なることに注意する必要がある。今日考えられているモノポールはかつての素粒子としてのモノポールとは異なり、ソリトン 、すなわち局所的に集まったエネルギーの「束」である。こういったモノポールが仮にも存在するとすれば、宇宙論 の観測結果と矛盾することになる。宇宙論の分野でこのモノポール問題を解決する理論として考えられたのが、現在有力とされているインフレーション のアイデアである。
原子の磁気双極子 [編集 ]

物体が磁性を持つ物理的原因は、電流の場合とは異なり、原子 に生じる磁気双極子である。原子スケールでの磁気双極子、あるいは磁気モーメント は、電子の2種類の運動によって生じる。1番目は原子核 の周りを回る電子の軌道運動である。これは電流のループと見なすことができ、原子の軸方向に軌道磁気モーメントを生じる。2番目の、もっとずっと強い磁気モーメントの源は、スピン と呼ばれる量子力学的な性質である。これはスピン磁気モーメントと呼ばれる(ただし現代の量子力学の理論では、電子が実際に物理的に自転したり原子核の周りを軌道運動したりするとされているわけではない)。

原子の全体的な磁気モーメントは、個々の電子の磁気モーメントの総和になる。磁気双極子は互いに反発して正味のエネルギーを小さくしようとするため、軌道運動においてもスピン磁気モーメントにおいても、いくつかの電子のペアが持つ反対向きの磁気モーメントは互いに打ち消しあう。このため、電子殻 や副殻が完全に満たされている原子では磁気モーメントは通常は完全に打ち消される。磁気モーメントを持つのは電子殻が部分的に満たされている原子だけであり、その強さは不対電子の数で決まる。

そのため、様々な元素 ごとの電子配置の違いが原子の磁気モーメントの性質や強さを決めており、また様々な物質の磁気的な特性の違いをも決めている。様々な物質で以下のようないくつかの形態の磁気的な振る舞いが見られる。

* 反磁性
* 常磁性
o 分子磁石
* 強磁性
o 反強磁性
o フェリ磁性
o メタ磁性
* スピングラス
* 超常磁性

マグネター と呼ばれる非常に強い磁場を持つ星も存在すると考えられている。


Kaisetsu氏による質的転換における指し示し対象と背景の反転法則
以下、Kaisetsu氏による、とても重要な法則を非常に明快明晰に解明している。
 質的転換における「背景」と「指し示し対象」の「反転」という法則は、他の領域においても重大な解明をもたらすだろう。例えば、経済領域で言えば、交換価値を指し示し対象とすれば、背景は使用価値、差異価値、差異共同価値等である。そして、これが、近代資本主義の様態である。しかし、質的転換(トランス・モダン化)によって、反転して、使用価値、差異価値、差異共同価値が指し示し対象となり、交換価値が背景に転化するということになろう。
 まだまだ、いろいろなことが考えられるが、ここで留める。



結晶に於けるMedia Point (メディア ポイント)の態様:質と量の反転

 (結論)

 つまり、質的転換の本質は、背景と指し示し対象の「反転」である。

 また、背景とは量的優位性であり、指し示し対象は、量的劣位性を有する。

 さらに、指し示し対象が概念の意義の本質である。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810771
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 

参考:
Media Point の態様 (Mode): 指し示し、囲い込み、中心


2010年03月05日(Fri)▲ページの先頭へ
日本における一神教主義と多神教主義:父権主義と母権主義
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と狂信者

スロー人氏の大(だい)正論である。
 ルドルフ・シュタイナーは人類は、ヤハウェ型(一神教タイプ)とエローヒーム型(多神教タイプ)に分けられると述べていたと思う。
 西洋文明は両者混淆しているものの、当然、前者が中心である。そして、この断末魔を今日迎え、今や、後者が新たに進展する時代であるとわたしは考えている。日本人を抑圧してきた国学的一神教の発想(民族主義)を廃棄する必要があり、新たに、多神教的発想を進展させる必要があると言えよう。
 思うに、今日の日本人は一神教的酷い発想をもつ人が多数である。これを乗り越えて、日本本来の多神教へと回帰すべきである。

追記:スロー人氏の判断に即せば、武市半平太が一神教的であり、龍馬が多神教的である。

追記2:正確に言うと、国学的民族主義と封建的父権主義と近代合理主義の結合したものが、現代日本の「一神教」である。

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人の命を粗末に扱う武市半平太は現代日本にも大勢いる

毎週、NHKの「龍馬伝」を楽しみしているが、先週のストーリーにも感じさせられるものがあった。


 本物はどうだったのか、それは分からないが、今回のドラマでは、後に土佐勤王党を結成する武市半平太に焦点が当てられていた。


 武市は、問題を起こした山本琢磨に切腹を命じる。しかし、龍馬は生きて、自分の人生を見つけろと逃がしてやる。


 武市は大義のために「死ね!」という。


 日本では、こうした事態に追い詰められて、死を迎えることを潔いとする。こんな文化がある。


 ぼくは大切な命をこのように粗末に扱う人間たちが嫌いだ。


 だいたいこういう思想があるから、アメリカとの戦争において大敗を喫したと考えている。


 民主主義のアメリカは逆だ。一人ひとりの命を大切にする。「生き延びよ!」と温かい。


 昨夜、同じNHKで「ゼロ戦」のドキュメンタリーが放送された。


 そのなかでも、第一回の出撃後、すでに現場からの改善点として防備の充実を求める意見が出されているにもかかわらず、結局、日本は貴重なパイロットの命を守ることに努力しなかった。


 ぼくの叔父たちも終戦直後、命からがら大陸から帰国したが、叔父たちは現地でつかっていた人々に優しくしていたおかげで、ずいぶん、助けもらったそうだ。


 反対にあこぎに儲けていたような人は酷い目を見たのだろう。


 ところで、この引揚げにおいても、日本軍は皇軍だからということで、日本人を守るために護衛の任務にはつかなかった。


以上冒頭を転載させていただきました。

スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


『大学・中庸』は智慧・叡知の書であり、大古典である:中国の基底にある母権文化を評価する必要がある
テーマ:日本ルネサンス:西洋を包摂した新東洋文明

以下、現代語訳部分を中心に読了したが、朱子(朱熹)の注釈部分は未読である。
 注釈者・翻訳者金谷治氏の方針は、朱子によって権威づけられた読みを排除して、『大学』と『中庸』本来のテクストに戻って読むことであり、それが管見ながら、大成功を収めたと考えられる。
 とまれ、画期的、ブレーク・スルー的な読解である。端的に言えば、儒教・儒学は、朱子路線によって改変されているということだろう。あるいは、孔子路線によって。
 私見では、この智慧の書の読み方は、基底の母権文化と上層の父権文化との二重性に注意する批判的リーディングである。中国の古典には、以前『論語』について述べたように、基底に母権文化があるのであり、その上に父権文化を戴いているのである。
 思うに、『大学』も『中庸』もベースは母権文化の叡知である。それを父権的にアレンジしているのが見えるのである。これは、ギリシア神話や記紀や聖書等と共通する事態であると考えられる。
 とにかく、この書は智慧・叡知の書として今日でも役立つものである。

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トランス・モダン的漢籍:『大学・中庸』:有徳から富が生まれる
テーマ:読書案内

これまで儒教というと、孔子が中心となってきたが、この『大学』は数章を読んだだけだが、実にトランス・モダン的哲学・思想となっている。有徳から富が生まれるのであり、逆ではないというのである。思うに、この道徳的経済論が日本の伝統的経済を生んできたと言えよう。漢籍はすばらしい。温故知新。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

大学・中庸 (岩波文庫) (文庫)
金谷 治 (翻訳)

カスターレビュー

大学・中庸ともに平易な現代語訳が、充実した注を伴って解説されており、容易に理解できます。難しい書だと構えて読む必要はありません。両者を合わせても分量は短く通読も容易です。“大学”は己自身を収めて(修己)こそ、人を治める(治人)ことができることを述べており、人の上に立つ人間であれば(親であれ、上司であれ)必読の書と言えます。修己には自分のおもいを誠実にすることが必要で、それは自分で自分をごまかさない、自ら欺くことがない(その独を慎む、慎独)ということであると述べています。“中庸”は、誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なりの言葉に代表されるように、人間の本性である“誠”に従う道を示します。至誠の人は、他人はおろか物の本性をも十分に発揮させることができ、天地自然の造化育成を助けるまでの天地と並ぶ存在になると説きます。大学・中庸とも解説が素晴らしく、成立の歴史的背景が詳述され、原文の意味は勿論、それ以降の朱子学者の解釈、江戸時代から近現代の解釈を比較しており、学問的に高い信頼の置ける名著と言えます。

訳注者の金谷治氏自身が解説で述べているように、本書の意味は、「儒教」というよりは「朱子学」のなかで特別なテキストとされてきた「大学」「中庸」の二書に、朱子以前の古義を追求する読みをした、という点である。単に儒教=朱子学入門として本書を読むならば、島田虔次氏の訳注本(朝日古典選)のほうがよい。評者は島田氏の本を先に読み、その後でこの金谷氏のものを読んだので、朱子の注釈によらないこの本の読みは新鮮で興味深かった。というのは、朱子はこのテクストを、オリジナルな意味を尊重するよりは、自らの哲学体系の構築のために利用しているからである。しかし、江戸期には朱子学が公式の学問として採用されたために、朱熹の読みがむしろ正当の読みとされてきたことは注意すべきだろう。
 「大学」は、天下を治めるためには一身を治めることがすべてである、とする、道徳的政治観を述べた本。「中庸」は、前半が「中庸の徳」を持つことがいかにむずかしいか、後半が「誠」、すなわち「性」に従い修養することの大切さを述べた本である。

大学・中庸は、論語、孟子とあわせて四書をなす。日本人の民族思想を知る上で四書五経は避けてとおれないので、ともかく、一度は目を通しておきたいと思い、手に取った。

大学・中庸はもともと礼記49編の一部で、宋代(13世紀)に朱子が再評価して、論語・孟子とともに新儒教(=宋学=朱子学)の聖典としたものだそうだ。朱子はとくに大学への思い入れが深く、原文に大幅に手を加えて改変したばかりでなく、死の三日前まで自身の注釈書に筆をいれ続けたという。

しかし、朱子の「大学」には江戸期から解釈に誤りがあるとして批判も多く、本書では朱子の書き直した大学ではなく、もともとのテキストをとりあげ、原文、読み下し文、訳文という体裁で解説を加えたものだそうだ。

内容はむろん、一読したくらいでちゃんと理解できるものではないが、江戸期の小学生がこういうものを教科書として読んでいたのかと思うと、正直驚いてしまう。仁であれ、義であれ、子供でも教えればわかる、ということだろう。
武家の子どもが立派な口上を述べて切腹する話が新渡戸の「武士道」にあるが、大人の教養書である四書五経を子供のうちから暗記させるような教育方法でこそ、子供にして大人社会での美しい身のこなし方を身につけることが可能になるのだろう。
翻って現代を見るに、ここ150年ばかりの科学の知識は教えても、悠久として受け継がれてきた数千年の知恵は教えない。そんな嘆息を覚えた。

儒教『四書』の中に含まれる、素晴らしい名著です。特に、倫理道徳を重んじながらも、どこか軽やかな《自由さ》と、大らかな《優しさ》が感じられる所が、非常に素晴らしいです。でも、一つだけ言うなら、朱子による『大学章句』と『中庸章句』は、少し違うと思います。朱子の文章には、本文の持つ《自由さ》や《優しさ》が、ほとんど感じられません。むしろ、朱子独特の《排他心》の強さには、正直言って疑問を感じてしまいます。私は、朱子の文章を抜いて、本文だけを読んでいますが、その方が本文の意味をよく理解できると思います。やはり、教育関係者には心の狭い人が多い、ということでしょう。でも、本文は素晴らしいので、読む価値は十分あると思います。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10472416895.html

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金谷治
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金谷 治(かなや おさむ、1920年 2 月20日 - 2006 年 5 月 5日 )は、日本の東洋学者。専門は中国哲学、特に中国古代思想史 。三重県 伊賀市 出身。長男は金谷茂則(大阪大学 大学院工学研究科生命先端工学専攻教授)。
業績 [編集 ]

現行の岩波文庫 版で『論語 』および『孫子 』・『荀子 』・『荘子 』・『韓非子 』・『大学 、中庸 』の訳注書を刊行。講談社学術文庫 で、『易の話 易経 と中国人の思考』・『淮南子 の思想 老荘 的世界』・『老子  無知無欲のすすめ』<訳註解説>・『孔子 』<伝記研究>を刊行した。

主著に『管子 の研究 中国古代思想史の一面』(岩波書店 )

論文集に『金谷治中国思想論集』全3巻(平河出版社 )、『秦漢思想史研究』(東洋學叢書 平楽寺書店 )
略歴 [編集 ]

* 1944年東北帝国大学 法文学部支那哲学科卒業。指導教授は武内義雄 のち講座を継いだ。
* 1946年旧制弘前高等学校 講師
* 1948年東北大学 法文学部講師
* 1950年同大文学部助教授
* 1961年文学博士
* 1962年同教授
* 1975年から1977年まで同文学部長
* 1983年東北大学 名誉教授。追手門学院大学 文学部長
* 1990年追手門学院大名誉教授
* 2002年日本学士院会員
* 2003年勲二等瑞宝章
* 2006年5月5日、腎不全 により死去。叙正四位

著書 [編集 ]

* 「老荘的世界 淮南子の思想」 平楽寺書店 1959 、「淮南子の思想」講談社 学術文庫、1992
* 「秦漢思想史研究」 日本学術振興会 1960 <東洋學叢書>平楽寺書店 1992
* 「孟子 」 岩波新書 1966 復刊1988ほか
* 「論語の世界」 日本放送出版協会(NHK ブックス)1970、のち新装版 
* 「易の話」 講談社現代新書 1972、同学術文庫 2003
* 「孔子 人類の知的遺産4」 講談社 1980、同学術文庫 1990
* 「死と運命−中国古代の思索」 <法蔵選書37>法蔵館  1986 
* 「管子 の研究 中国古代思想史の一面」 岩波書店 1987
* 「老子 <無知無欲>のすすめ」 講談社(中国の古典) 1988、同学術文庫 1997
* 「老荘を読む」 大阪書籍(朝日カルチャーブックス) 1988
* 「中国思想を考える 未来を開く伝統」 中公新書 1993
* 「中国古代の自然観と人間観 金谷治中国思想論集 上巻」 平河出版社 1997
* 「儒家思想と道家思想 金谷治中国思想論集 中巻」 平河出版社 1997
* 「批判主義的学問観の形成 金谷治中国思想論集 下巻」 平河出版社 1997
* 「論語と私」 展望社 2001 論文集
* 「孫臏兵法 ―もうひとつの<孫子>」 ちくま学芸文庫  2008(初版は東方書店 1976) 
* 「中国における人間性の探究」(編著) 創文社 1983
* 「諸子百家争鳴」<共著>中公クラシックス 別冊、中央公論新社  2007

 元版は「世界の名著 諸子百家 」

訳注ほか [編集 ]

* 「孟子 」  <中国古典選>朝日新聞社 1955−1956

新訂版・第5巻 1966、文庫版が、同・朝日文庫全2冊 1978

* 「荀子 」 岩波文庫 全2冊  1961−1962 原文記載なし
* 「荀子」 <全釈漢文大系 7.8>集英社 佐川修と共訳著 1973-74、新版1981
* 「論語」 岩波文庫 1963 新訂版 1999、ワイド版2001
* 「孫子」 岩波文庫 1963 新訂版 2000、ワイド版2001
* 「荘子 」 岩波文庫全4冊  1971−1983、ワイド版1994
* 「韓非子 」 岩波文庫全4冊  1994
* 「大学・中庸 」 岩波文庫 1998、ワイド版2003

旧版は<世界古典文学全集18> 筑摩書房 1970

* 「唐抄本 鄭氏注論語集成」 平凡社 1978 編著
* 「荻生徂徠 集」<日本の思想12> 筑摩書房 1970 編著

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%B0%B7%E6%B2%BB 」より作成
カテゴリ : 思想史家 | 日本の東洋学者 | 日本学士院会員 | 1920 年生 | 2006 年没

朱子
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朱子像
儒教
儒家思想
仁 義 礼
孝 忠
中庸
儒学者
儒学者一覧
経書
《四書 》《五経 》《十三経 》
儒教の歴史
孔子
七十子
儒家八派
孟子 荀子
焚書坑儒 五経博士
訓詁学
玄学
宋学:
理学 朱子学 陽明学
漢学 :考証学
今文学派
新儒家
関連項目
三孔 孔子弟子
書院 国子監
科挙 諸子百家
表 ・話 ・編 ・歴

朱子(しゅし)は中国 の宋代 の儒学者 である朱熹(しゅき 1130年 10月18日 (建炎 4 年9 月15日 ) - 1200 年 4 月23日 (慶元 6年3 月9日 ))の尊称。

姓 は朱、諱 は熹、字 は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考亭・紫陽がある。謚 は文公。

徽州婺源(江西省 )の人。南宋 の建炎4年(1130 年 )、南剣州尤渓(福建省 )に生まれ、慶元 6 年(1200 年 )、建陽 (福建省)の考停にて没した。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「新儒教」の朱子学 の創始者である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AD%90


2010年03月04日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性民主主義から差異共振民主主義へ:近代の終焉とトランス・モダン・エポック
PS理論は(+i)*(-i)⇒+1に集約される。これが、公理と言っていい。近代主義とは、右辺の+1(同一性・量・自我・物質・交換価値)に基礎を置き、それを中心に展開したものである。民主主義も当然、そうであり、同一性的民主主義なのである。つまり、同一性としての国民、市民、民と考えられているのである。しかしながら、同一性は差異・他者を否定するので、民主主義の理念とは齟齬を来すのである。
 民主主義を達成するには、結局、左辺の形態をとる必要があるのである。つまり、差異、絶対的差異、超越的差異としての国民、市民、民であり、それらが、共振することで、民主主義が実際的なものになるのである。差異共振民主主義である。



「中庸」とは、Media Pointのことだろう:『大学・中庸』はPS理論の一つの先駆だ

テーマ:プラトニック・シナジー理論

戦後、漢籍を捨てたのは、何という損失であったろうか。儒教とは、『論語』以外の世界があるのである。
 
「喜・怒・哀・楽などの感情が動き出す前の平静な状態、それを中(ちゅう)という。〔それは偏りも過・不及もなく中正だからである。〕感情は動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態、それを和という。〔感情の乱れがなく、正常な調和を得ているからである。〕こうした中こそは世界じゅうの〔万事万物の〕偉大な根本であり、こうした和こそは世界じゅういつでもどこでも通用する道である。中と和とを実行しておしきわめれば、〔人間だけでなく、〕天地宇宙のあり方も正しい状態に落ちつき、あらゆるものが健全な生育をとげることになるので。」 『大学・中庸』 岩波文庫 p. 145


トランス・モダン的漢籍:『大学・中庸』:有徳から富が生まれる
これまで儒教というと、孔子が中心となってきたが、この『大学』は数章を読んだだけだが、実にトランス・モダン的哲学・思想となっている。有徳から富が生まれるのであり、逆ではないというのである。思うに、この道徳的経済論が日本の伝統的経済を生んできたと言えよう。漢籍はすばらしい。温故知新。

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大学・中庸 (岩波文庫) (文庫)
金谷 治 (翻訳)

カスターレビュー

大学・中庸ともに平易な現代語訳が、充実した注を伴って解説されており、容易に理解できます。難しい書だと構えて読む必要はありません。両者を合わせても分量は短く通読も容易です。“大学”は己自身を収めて(修己)こそ、人を治める(治人)ことができることを述べており、人の上に立つ人間であれば(親であれ、上司であれ)必読の書と言えます。修己には自分のおもいを誠実にすることが必要で、それは自分で自分をごまかさない、自ら欺くことがない(その独を慎む、慎独)ということであると述べています。“中庸”は、誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なりの言葉に代表されるように、人間の本性である“誠”に従う道を示します。至誠の人は、他人はおろか物の本性をも十分に発揮させることができ、天地自然の造化育成を助けるまでの天地と並ぶ存在になると説きます。大学・中庸とも解説が素晴らしく、成立の歴史的背景が詳述され、原文の意味は勿論、それ以降の朱子学者の解釈、江戸時代から近現代の解釈を比較しており、学問的に高い信頼の置ける名著と言えます。

訳注者の金谷治氏自身が解説で述べているように、本書の意味は、「儒教」というよりは「朱子学」のなかで特別なテキストとされてきた「大学」「中庸」の二書に、朱子以前の古義を追求する読みをした、という点である。単に儒教=朱子学入門として本書を読むならば、島田虔次氏の訳注本(朝日古典選)のほうがよい。評者は島田氏の本を先に読み、その後でこの金谷氏のものを読んだので、朱子の注釈によらないこの本の読みは新鮮で興味深かった。というのは、朱子はこのテクストを、オリジナルな意味を尊重するよりは、自らの哲学体系の構築のために利用しているからである。しかし、江戸期には朱子学が公式の学問として採用されたために、朱熹の読みがむしろ正当の読みとされてきたことは注意すべきだろう。
 「大学」は、天下を治めるためには一身を治めることがすべてである、とする、道徳的政治観を述べた本。「中庸」は、前半が「中庸の徳」を持つことがいかにむずかしいか、後半が「誠」、すなわち「性」に従い修養することの大切さを述べた本である。

大学・中庸は、論語、孟子とあわせて四書をなす。日本人の民族思想を知る上で四書五経は避けてとおれないので、ともかく、一度は目を通しておきたいと思い、手に取った。

大学・中庸はもともと礼記49編の一部で、宋代(13世紀)に朱子が再評価して、論語・孟子とともに新儒教(=宋学=朱子学)の聖典としたものだそうだ。朱子はとくに大学への思い入れが深く、原文に大幅に手を加えて改変したばかりでなく、死の三日前まで自身の注釈書に筆をいれ続けたという。

しかし、朱子の「大学」には江戸期から解釈に誤りがあるとして批判も多く、本書では朱子の書き直した大学ではなく、もともとのテキストをとりあげ、原文、読み下し文、訳文という体裁で解説を加えたものだそうだ。

内容はむろん、一読したくらいでちゃんと理解できるものではないが、江戸期の小学生がこういうものを教科書として読んでいたのかと思うと、正直驚いてしまう。仁であれ、義であれ、子供でも教えればわかる、ということだろう。
武家の子どもが立派な口上を述べて切腹する話が新渡戸の「武士道」にあるが、大人の教養書である四書五経を子供のうちから暗記させるような教育方法でこそ、子供にして大人社会での美しい身のこなし方を身につけることが可能になるのだろう。
翻って現代を見るに、ここ150年ばかりの科学の知識は教えても、悠久として受け継がれてきた数千年の知恵は教えない。そんな嘆息を覚えた。

儒教『四書』の中に含まれる、素晴らしい名著です。特に、倫理道徳を重んじながらも、どこか軽やかな《自由さ》と、大らかな《優しさ》が感じられる所が、非常に素晴らしいです。でも、一つだけ言うなら、朱子による『大学章句』と『中庸章句』は、少し違うと思います。朱子の文章には、本文の持つ《自由さ》や《優しさ》が、ほとんど感じられません。むしろ、朱子独特の《排他心》の強さには、正直言って疑問を感じてしまいます。私は、朱子の文章を抜いて、本文だけを読んでいますが、その方が本文の意味をよく理解できると思います。やはり、教育関係者には心の狭い人が多い、ということでしょう。でも、本文は素晴らしいので、読む価値は十分あると思います。


2010年03月01日(Mon)▲ページの先頭へ
見えないものは忘れられる:近代の忘れものとしての東洋的身体思想:例えば、禅や道教
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と狂信者

近代合理主義の視覚では、例えば、禅や道教の肚は見えない。しかし、肚を練ることは、かつては、日本の教養cultivationであった。身体的精神の陶冶・涵養が必須であったのである。それが、近代合理主義・唯物論で、すっかり、忘れられた。
 そう、日本思想の東洋的土台が忘却されたのである。これは、とりわけ、戦後の近代合理主義/近代科学・技術の洗脳に拠ると考えられる。

追記:思うに、日本人には短絡的な二項対立主義があるのではないだろうか。狂信的な尊王攘夷思想や、明治維新の脱亜入欧の欧化思想、そして、戦後のアメリカかぶれ、等々、あれか、これかで二者択一する発想があるのである。
 これは、いわば、一神教的発想である。他者なき自我・同一性の思想である。思うに、この短絡的同一性主義の発想はどこから由来しているのか。とにかく、父権的な発想であることは間違いない。後で検討したい。

追記2:近いところでは、小泉「フィーバー」がそうであった。この日本人の短絡的直情性は何なのか。血が頭に上ってしまうのである。まったき差異や他者の欠落・欠損・欠如。一種狂信性がかなりの日本人にはあると言えよう。狂信者としての日本人である。言い換えると、没知性的な日本人ということになる。

追記3:目に見えない肚や魂や精神というものは、ある形で目に見えるようにする必要がある。神社や寺院は、神仏の「存在」を可視化するものだろう。しかし、習慣の一部となり、意味がわからなくなるのである。

追記4:今日の民主党支持者も短絡的である。つまり、民主党崇拝になっているのである。そう、日本人は、自分が宗教的であることを認識すべきである。無宗教というのは、間違いである。日本人は宗教的衝動をもつが、それが、イデオロギーに利用されるのである。つまり、自分自身を見つめていないのである。
 そう、宗教的衝動と言っても、集団・団体・集合的宗教である。個としての独立が達成されていないのである。
参照:

058 池見酉次郎、潮文社
肚・もう一つの脳

普段、上半身は立ってるので、体の上部からのリンパ液は下半身へ流れる。しかし下半身のリンパ液のリターンには、太腿の筋肉ポンプが必要なのである。これも「気を巡らせる」ことになるであろうと思う。先ず、ウォーキングが循環促進に効果がありそうだ。歩いて太腿の筋肉が収縮するたびに、それがポンプの役目をするのである。同様に、気功体操には、同様の効果がある体位のものがあるに違いない。私も一つ考案した。まず仰向けに寝て、U型の呼吸法を数回する。足を上にあげて手で腰を支える。足だけを曲げて、太腿を胸に近づける。また上へ伸ばす。2〜3回やって、足を床につけ上体だけを起こして、呼吸を整える--と言うものである。ヨーガの鍬のポーズより楽であるが、リンパ液の移動の効果は、太腿の高低差分、こちらが優れいると考えている。

 このように気功や古武術は、さまざまの身体のメカニズムを組み合わせた健康法の宝庫であろうと考えられる。生物学の延長でチョット生理学を齧っただけの私ですら、気功の○○は生理学で言う××ではないか、と推測したくなる程、興味深いし真理を含んでいそうに思える。まして、医学の大家、心身医学の創設者の目からみれば、もっと深い理解があるだろう。

 池見は、ストレスによる障害等の心身の問題は、肚(はら)=丹田を鍛える事が解決策だと言う。肚を鍛えるには腹式呼吸と腰を立てる姿勢をとるやり方がある。医学会のみならず仏・武両道の達人との交際をきっかけとして肚を鍛えることの重要性を語っている。池見も肚に太陽神経叢の働きの以上のモノを見ているに違いない(なお、肚は日本の文化の根本原理であった、今やそれが失われている、という主張の本があるらしい。いずれまとめることとする)。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books058.htm

道教復興:下丹田(肚)の復権
テーマ:日本ルネサンス:西洋包摂した新東洋文明
東洋思想とは、身体思想である。これによって、西洋思想との区別が自明である。
 しかるに、近代日本、とりわけ、戦後日本は、東洋思想を切り捨てたのである。
 伝統的日本文化は、肚の思想をもっていた。これは、道教で言えば、下丹田の思想だと思う。因みに、道教では、上丹田(頭)ー中丹田(心臓)ー下丹田(肚)の身体性を説いている。(インドのヨガでは、七つのチャクラを説いている。)
 作業仮説するが、PS理論の+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、Media Pointが中丹田はないだろうかと思うのである。
 今日、下丹田-iが喪失されていると思う。近代合理主義=近代的自我は、これを否定してきたと考えられる。そして、現代日本人の堕落が生じたのである。

追記:時間がないので、精緻に考察できないのが残念である。私が問題にしたかったのは、「近代化」は、中丹田から上丹田へかけての意識形成を行い、下丹田を抑圧・排除しているということである。
 つまり、中丹田に関わるので、Media Pointはそれなりに存するが、しかし、下丹田が排除されているために、Media Pointが上丹田的な同一性と連続化していると思われるのである。つまり、利己主義化された中丹田になっているのである。
 下丹田を「啓蒙」化するならば、中丹田は、超越化されるようになると考えれる。そこで、下丹田の差異と上丹田の同一性が衝突するのである。しかしながら、中丹田ー下丹田の領域と中丹田ー上丹田の領域は不連続であるとして、絶対的に切断することで、この衝突は、「調和」されるようになると考えられるのである。
 思うに、下丹田とは、小宇宙・ミクロコスモスだと思う。いわゆる、神秘主義は、ここから発するだろう。
 とまれ、余裕のあるとき精緻に考察を行いたい。

後記:今日の日本人にリリシズムが欠落しているのは、下丹田が埋もれているため、豊かな精神の水源が塞止められているためと考えられる。三島由紀夫が「断絃の時」と言ったが、これは、下丹田の喪失をしよう。これが、とりわけ、戦後に起ったと考えられる。日本民族・日本文化の絶滅の危機である。
 
参考:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられる。これらは後漢 (3世紀前半)の書として伝来するが、文献学的には唐代以後のものである。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはないが、心身医学 の領域では、自律神経 の働きと免疫 機構の関係が注目され、太陽神経叢 が丹田に相当すると考えられている。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。丹田の概念はインドのヨーガ思想を模倣したものと言われる。

関連項目 [編集 ]

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス



◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation


2010年02月27日(Sat)▲ページの先頭へ
生命的有機体と物質:即非的物質と純粋物質:超越的物質と純粋物質
先に、身体と物質というテーマで検討したが、まだ、不明瞭な点があるので、検討を続けたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10468952279.html

 端的に言えば、生命的有機体(精神生命的有機体)においては、有機体の物質+1に相当するものは、⇒+1における、つまり、⇒と+1との不可分一体における、+1ということなのである。単独の+1と⇒+1における+1とは似て非なるものであることはいくら強調しても強調しすぎることはない。
 では、⇒+1において、⇒と+1との不可分性はどのような力学をもつのだろうか。これは、「気」と物質的様態との関係と言ってもいい。
 結局、生命体とは、⇒の結果としての+1の物質的様態ないしは物質的表層をもつと考えられる。深層は⇒である。問題は、先に述べたように、⇒と+1の次元の質的相違である。即ち、高次元の⇒から、低次元の+1へと帰結するという点が問題である。
 だから、両者不可分であると言っても、不連続な不可分性があるということになるのである。つまり、位階的な即非関係がそこにあるということである。わかりやすく表記すると、A(高次元⇒)(即非)B(低次元+1)ということである。Aを精神的(生命)エネルギーとすると、Bは物質である。そして、生命的有機体においては、この即非の力学が作用しているのであり、物質とは、この力学からB(低次元+1)が分離したものと考えられるのである。
 そして、生命的有機体におけるB(低次元+1)とは、当然、単に物質ではなく、即非的物質ということになるのである。この即非的物質と純粋な物質との相違はいくら強調しても強調し過ぎることはない。前者は、精神エネルギー的物質、高次元の物質と言うことも可能である。
 そして、唯物論的生命科学は、この二つの物質を識別していないと言えよう。例えば、ビタミンと言った時、それは、即非的物質ではなく、単に物質、有機体的物質に過ぎない。しかし、生命体におけるビタミンとは、即非的物質、精神エネルギー的物質、高次元的物質、あるいは、「気」的物質と考えられる。
 この区別はまた、医学・医療において決定的な意味をもっていると考えられる。例えば、うつ病の場合、精神的エネルギーが枯渇していると考えられるが、単に薬だけでは、物質的器官に作用するだけで、精神的「器官」にはたらきかけないので、一般的にはうつ病は治らないと考えられる。精神的「器官」にはたらきかける医療が必要なのである。それは、哲学・認識的な身体的医療である。そう、うつ病とは、身体的認識・意識の病気なのである。
 また、簡単に遺伝子について触れると、それは、即非的物質の基礎的形態と言えるのではないだろうか。作業仮説であるが、Media Pointと即非的物質との境界に生じる基礎的即非的物質が遺伝子ではないだろうか。これは、検討課題である。
 今はここで留める。


身体と物質:生命的有機体と物質:生命的有機体経済と共同体通貨/共同体銀行
この問題については既述済みであるが、やや曖昧な感じがあるので、再考したい。
 結局、身体とは、Media Pointから生起する生命的有機体である。生命的有機体は当然、物質(追記:これは不正確である。以下、説明するように、⇒+1において、⇒と+1[物質]とは不可分であるからである。だから、正確に言えば、生命的有機体における同一性・物質的様態であり、それは生命的有機体と不可分の表層なのである。後で、さらに検討したい。)を内包する。しかしながら、生命的有機体は物質そのものではない。何故なら、それはMedia Pointのエネルギーに賦活されているからである。
 つまり、身体=生命的有機体とは、⇒+1である。それに対して、物質は端的に+1である。
 今日の唯物論的生命科学は、⇒(精神的生命エネルギー=「アニマ」)を認識せずに、単に物質的エネルギーを見ているのである。
 問題は、⇒+1の意味である。⇒と+1は不可分と見るべきである。これを可分できると考えるのは、やはり、唯物論的である。
 つまり、⇒+1においては、物質とは近似値的に存するのであり、純粋に物質としては存していないのである。
 だから、薬や食物というのは、外在的には物質(追記:ここは不正確である。食品は物質というよりは、有機体である。しかし、一般的には、不生命的有機体である。つまり、⇒のエネルギー作用が抑止された有機体である。)であるが、体内においては、⇒+1の生命的有機体の機構に入り、生命的有機体化されると考えられる。つまり、薬も食物も⇒+1へと転化されると考えられるのである。
 これを経済に適用すると、有機的経済とは、⇒+1であるが、今日の不兌換通貨は+1である。これは、実に、差異共振資本経済には不適格である。何故なら、⇒と+1は不可分だからである。
 ということは、有機的通貨が必要なのである。差異共振通貨、共同体通貨が必要なのである。
 例えば、やはり、無利子通貨か減価通貨、あるいは、銀本位通貨が必要であるし、また、差異共振銀行、共同体銀行、有機体的銀行が必要であろう。共同体のための資本経済になる必要があるのである。金儲けのための資本主義は、本末転倒である。

参考:
イスラム銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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イスラム銀行(イスラムぎんこう)は、イスラム (イスラム教 )の教義、慣行に基づいて運営される銀行 のこと。イスラム教徒(ムスリム )は、シャリーア (イスラム法)において利子 を取ることが禁止されているため、基本的に無利子の金融機関として運営される。
イスラム銀行の前提 [編集 ]

イスラムでは、利子(リバー と呼ばれる)を取って金銭を貸すことを禁止するクルアーン (コーラン)の言葉に従って、シャリーアにおいて利子の取得が禁止されている。したがって、理屈の上ではイスラム共同体 の間で利子を取る銀行は存在不可能であるため、イスラム圏 においては、いわゆるイスラム銀行が各地に存在し、この記事において述べられるような営業を行っている。

ただし注意せねばならないのは、このような業務を行う銀行が誕生したのは近代以降であるという点である。それ以前には、シャリーアにおける利子禁止規定は、ヒヤル (奸計)と呼ばれる抜け穴によって巧みに回避し、実質的には有利子金融が行われていた。そのため、「イスラム社会には無利子金融しか存在しない」と簡単に言ってしまうことはできない。現在でもトルコ・アルバニアなどでは有利子金融が存続している(リバー 、利子 、ヒヤル などについては該当記事参照)。
概要 [編集 ]

イスラム文化における経済は、それ自体「イスラム経済」の名で呼び考察するに足る。ただし特別な経済体制があるという意味ではなく、「アッラー の御心にかなう経済」ということである。イスラムの経済価値の根本には、『この世は神が作った世界であるから、世界のすべて(人もモノも金銭も)の所有権は神にある』というムスリムの思想が存在する。無利子の金融の他に、イスラム経済の特色と言える要素として、喜捨(ザカート 、サダカ )などがあり、イスラム銀行はそれらも背景にしている。
運営 [編集 ]

イスラム銀行は、ウラマー (シャリーアの知識を備えた知識人、学者)からなるシャリーア評議会を持ち、評議会の勧告に従って金融活動を行う。実際の運営においては、シャリーア評議会も柔軟な解釈を行っており、ほとんど他の銀行と異ならない業務を行っている銀行もある。
業務内容 [編集 ]

イスラムでは、「利子」は否定されるが、「利潤」は認可され、推奨される。ゆえに、イスラム銀行は、シャリーアの認める範囲内で「利潤」を最大限追求し、現代資本主義の世界に適用することを目指すことを掲げている。また、利益の配分方法は、「銀行と事業家の間では1対2」「銀行と預金者の間では2対 1」あるいは、アル=バラカ・トルコ銀行の場合「銀行2割、預金者8割」とされる。
基本的なサービス [編集 ]

イスラム銀行は、下にあげるようなシャリーア上の商業・金融契約の制度を援用し、利子を獲得することなく利潤をあげ、一般の預金者を含む出資者に還元する。

ムダーラバ
ムダーラバ (mudāraba) は、出資者(ムダーリブ、 mudārib )が、信頼すべき商才や手腕の持ち主と認めた事業家(ダーリブ、 dārib )に資本 を全額出資するパートナーシップ契約のことで、すべてのイスラム金融の基本となる契約形態で、イスラム銀行以前から広く行われている。
ただし、ムダーラバ契約のみでは、複雑化する西洋型を中心とする現在の経済・金融には対応できない。それに、個人の小口預金者には、このような「ハイリスク・ハイリターン」な契約を結ぶことは不可能である。そこで、銀行の介在する「二重のムダーラバ関係」などが登場することになる(ムダーラバ 参照)。
ムラーバハ
ムラーバハ (murābaha) とは、ある財 を、購入した際の原価 よりも高い代金によって転売する形態の売買のことで、購入者が、原価と代金の差額を了解し、差額を転売者の売却益として納得した上で契約が結ばれることを前提とする。
イスラム銀行ではこのシャリーアの制度を利用し、設備・備品を希望する顧客に代わって、それを銀行が購入し、顧客に渡す。このとき、「手数料」を上乗せして分割払いあるいは後払いとする。こうすることによって、銀行は利子ではなく、売却益として顧客から利益を受けることができる。イスラムにおいては利子は否定され、利潤は肯定・推奨されるが、この「手数料」は「利潤」と見なされうる。
ムシャーラカ
ムシャーラカ (mushāraka) は、資本の出資者と労働 を提供する事業家が、共同出資により事業の共同経営を行い、ここで生じた利益を契約時にあらかじめ決められた比率によって、もしくは損失が生じれば出資比率に応じて、それぞれ配分する契約形態のことである。
イスラム銀行においては、銀行と企業・個人の出資者が提供する資金によって共同資本をつくり、出資者全てがその経営に関わることを前提とする制度として運用される。
ムシャーラカの特徴は、資金の提供者もまた事業の組織や経営に参画し、事業主も一定の支出をするところにあり、発言権は概ね出資比率に準ずる。ムシャーラカによる共同プロジェクトが軌道にのったとき、主として資金を提供した側は、その出資分を処分してプロジェクトから手を引いても良く、また共同経営を継続しても良い。ムダーラバでは資金提供先の選択が限定的になる傾向があったのに比べ、相手方も一定の出資力があることを前提とするこのムシャーラカでは、その傾向がある程度は緩和されることが期待される。
イジャーラ
イジャーラ (ijāra) は、賃貸借 契約を意味するアラビア語 。シャリーアにおいては、物件に対する所有権は、その物を所有し最終的に処分する権利(ラカバ (raqaba) 、所有権)と、その物を利用しそこから得られる利益を独占する権利(マンファア (manfa'a) 、用益権)の2つから成り立つと考えられており、イジャーラ契約とはすなわち所有者である賃貸者から賃借者への用益権の移転である。西欧型経済におけるリースに相当する。
イスラム銀行においては、顧客の求めに応じて銀行が設備等を購入し、顧客に賃貸して使用料を取るリース として運用される。「売り切り」と「リース」の違いが、ムラーバハとイジャーラの違いと言える。
イジャーラ・ワ・イクティーナ
「顧客に賃貸して使用料を取る」まではイジャーラ(リース)と同じであるが、顧客は、銀行に口座を開設して積立てる、いわば「リース購入」である。この積み立ての積算が、購入代金プラス手数料(コミッション)の額となったところで、当該物件の(用益権に加えて)所有権が顧客に移る。この場合も、コミッションは売却益であって利子ではない。
この方式の特徴は、ここで開設した口座が当座勘定ではなく投資勘定として開設され、積み立てる間の「投資の配当」が、顧客の収入になる点にある。
カルド・ハサン
カルド (qard) は、借主が貸主の所有物を消費した上で、同種同等の物を貸主に返還する貸借契約のことで、「消費貸借」とも訳される。カルドがシャリーアに照らして合法となるには、返還される物件が、借りた物とまったく同種・同等でなければならず、貸主が貸し出したことによって利得を得てはならない。このような合法と見なされるカルドのことを、カルド・ハサン (qard al-hasan) と言う。
イスラム銀行においては、「人道的」無利子ローンとして活用される。この契約においては、借主はあらかじめ定められた期間内で貸主に返済することになる。むろん、銀行側には利益は全くない。金融機関によっては一定額の「手数料」を徴収するところもある。これは金額に連動したり、期間に随伴したりすることはない。10万でも100万でも、手数料の額は同じということになる。(先述した『利子』の定義「金額」「期間」「定率」を参照。つまり、利子の定義には当てはまらないという理屈になる)
しかしこれには異論もある。「『定額の手数料』は『定額の報酬』に通じ、『定額の報酬』は『定率の利子』に通じるため、カルド・ハサンは完全に人道的にゼロ・コミッションでおこなうべき」、と主張する先鋭的な学者もいる。手数料の問題に限らずイスラムの無利子金融の具体的在り方については、ウラマーの間でも統一見解がなく、法学派 などによって食い違う見解が併存している場合が多い。
サウジアラビア の例では、(完全な)無利子貸し付けをおこなっている一般商業銀行はない。いずれも定率のサービスチャージ(手数料)を課しており、これも銀行と借り手の“交渉”で決まる(この点がシャリーアで禁じられたリバー、すなわち“定率の利子”とは異なる、との理由)のが一般的であるという。個人や法人から融資の申請があったとき、専門の調査機関が申請者の信用や業績などの調査を行う。また、担保や保証人などのリスク回避の手段を講じた後に、貸付金から手数料などをあらかじめ差し引いた金額を申請者に渡すことになる。

歴史 [編集 ]

シャリーアの規定に則って無利子の金融をおこなう「無利子銀行」が初めて試みられたのは、1950年代 のパキスタン においてであった。このころパキスタンでは、イスラムの教義を国家運営に適用しようとする動きが強まっていた。

「1950年代末にパキスタンの一地方で、敬虔なイスラム教徒地主たちを中心に無利子の預金を集め、貧困なイスラム教徒農民に農業改善資金を無利子(運営経費を賄うため少額の手数料を徴収)で貸し出す無利子銀行が開設された。この銀行は、無利子で融資を受けたい希望者は数多くいたのに対し、無利子で預金してくれるものは一回だけはお付き合いで預金してくれるだけで、後がつづかなかったことが主因で、やがて運営に行きづまり、崩壊してしまったといわれる」[1]

続いて登場したイスラムの教えに適う金融機関は、エジプト に現れた。

1. 1963 年 :ミトル・ガムス貯蓄銀行開設。

アフマド・エミル=ナガルという人物が、理想と同胞の便宜を図るために設立した。この銀行は成功したが、その理由としては、借り入れ希望者に、少額の定期預金を義務化したことが挙げられる。これにより預金量が増大し、安定した経営が成立した
(1〜3年返済の比較的短期のローンが中心。この時点での形態では、ムダーラバ方式(後述)に基づいていなかった)。

2. 1972 年 :公的資金を導入し、ナセル社会銀行設立。

上記貯蓄銀行(のちに合併)で築いた資本と、公的資金を資本金として設立。この公的資金の支出は、アフマド・エミル=ナガルの考えが、新しい時代の「イスラム社会主義 」を標榜する大統領ナセル の考えと合致したことから成立したといわれる(「イスラム」と「社会主義・共産主義」は、理想社会を構築しようとする思想や弱者救済などの点からも、「似ている」とも言われるが、後者が宗教を禁止しているなどの点で明らかに相反する。ナセルは良い所のみ選んで取り入れ、「プロレタリア独裁・反宗教・私的所有権否認・暴力革命」を否定した「イスラム社会主義」の実現を図った。ナセルはいわゆる「イスラム原理主義 」に対しては抑圧的であった)。ナセル社会銀行は、発足したとき既にナセル病死(1970年 )の後であり、敬意を込めて彼の名を冠することになった。同行は1980年代 には、預金残高は2億ドルを越え、全国に数十の代理店を有する金融機関に成長した。

また1970年代 以降、西側金融の枠組みで運用される潤沢なオイルマネーを活用して、アル=バラカ銀行、ドバイ・イスラム銀行、イスラム諸国会議機構 (OIC)の拠出によるイスラム開発銀行、ファイサル・イスラム銀行などが設立され、イスラム復興 の潮流に乗って、1990年代 までに、イスラム圏のみならず世界中に広まった。銀行・金融会社などを含め、無利子を標榜している銀行や投資会社は全世界に200以上あり、総資産は1160億ドル(95年ベース)、年率15〜20%で成長している。

イスラム銀行は、当初は国際金融システムの中で特異な金融機関と見られがちであったが、のちには国際通貨基金 (IMF) が公認する銀行システムのひとつとなっている。
有利子金融との接点 [編集 ]

現代の世界金融市場の主役の一つとなっているヘッジファンド や、先物取引 のような金融システムは、イスラムにおいては基本的に認められない。イスラム銀行の立場としては、実体経済と遊離したデリバティヴ(金融派生商品)は「言語道断」であり、同時に先物取引もクルアーン(胎内にいる子の価値を見越して母ラクダの売買をしてはならないという規定)により禁止されている。

小国の経済を食い荒らす「マネー」の動きを危険視するのはイスラムに独特のものではなく、非イスラム圏の研究者の中にも存在する。また、現代において無利子金融を行おうという発想もイスラムに独特のものではない。そもそもが古来より禁止ないし制限が加えられていたわけであるが、それの復活というわけではなく、現代の時代状況下においての脱資本主義的な研究・検討、そして地域通貨 運動などに見られる実践がなされている。

また、西洋経済の中心たるアメリカ合衆国 の最先端技術の集積地であるシリコンバレーの成長を支える原動力は、イスラム金融に似ている(ベンチャー企業 記事参照)。というのも、投資家は企業家に出資するとき、「融資」ではなく「株式の購入」という形態を取るため、起業家には「元本保証」や「利潤確保」の義務が生じない。また、投資家が資本分散によって危険を避ける点、担保ではなく人物と経験を評価することによって投資するかどうかを決める点なども、ムダーラバ契約を思い起こさせる。

主な相違点としては、融資ではなく株式購入であること、投資家は株主であるため会社の運営に対して口出しできることなどが挙げられる。また、詳しい資料はないが、ムダーラバの長距離キャラバン交易の成功率は、少なくとも現代ネットベンチャーの「約20%」という数字よりは大きかったであろうと思われる。このエンジェル←→ベンチャーの関係は、まさにムダーリブ←→ダーリブの関係を思わせ、しかも銀行の扱う二重ムダーラバよりも遥かに、預言者ムハンマドがおこなっていたような「ムダーラバの基本形」に近い、似ている、とすら言えるかもしれない。世界経済をリードする集団と言えるアメリカ、シリコンバレーのベンチャー企業群は、実は「有利子経済」ではなく「無利子経済」の恩恵によって爆発的成長を遂げたものと言うことができるだろう。

かつてアル=バラカ・グループは西洋型金融の中心地であるロンドン の金融街にも進出していたが、ここからは撤退している。ただし逆に西洋系の銀行の中にも、イスラム圏においてはムスリム向けの無利子金融商品(上述のイスラム金融の基本に則ったもの)を提供したり、イスラム銀行を子会社に持つ試みがなされはじめている。また一方、イスラム金融機関の中でも国・地域によってシャリーアの解釈に偏差が見られる。

こういった点からも分かるとおり、イスラム無利子金融と、有利子金融とは、根本的に対立するものではない。また、上述のとおり、名目や立脚点が異なっていようとも、その内実において非常な類似が認められる。この両者の間に根本的な差異が存在するという前提は、成り立ち得ず、これらの要素は「イスラム的(と仮に呼ぶ)」と「西洋的(と仮に呼ぶ)」、二つの極の間でスペクトル を成している、と考えることもできるだろう。

勃興の背景 [編集 ]

利子禁止あるいは制限規定は人類の歴史の中でなにも特異なものではなく、通時的・通文化的に見られるものであり、そして現代日本において自明のものとされる(アメリカ主導の)規制のゆるやかな「自由競争体制」こそが、むしろ特異な状態と言えるのかもしれない。いっぽう現代イスラム圏の人々はなぜ無利子経済体制を選んだ(選びつつある)のか。ヨーロッパも、中世 には旧約聖書 から導かれる利子禁止(制限)規定が、表向きなりとは言え社会を覆っていた点においては同様である。それがなぜ、ヨーロッパでは利子つき金融が、それも複利計算のもとに認可されてその後の経済発展の基盤を築いているのに対し、イスラムの諸国では近現代に入って逆に、それまで見過ごされて来た利子つき金銭貸借が、シャリーア(イスラム法)の厳密な適用によって排除されようとしているのかについての検討が必要である。

クルアーンにおいて禁じられている「リバー 」という単語を、「利子 」一般ではなく、特に「高利」のみを指す言葉であると解釈すれば、ヨーロッパ型の金融システムを、躊躇なく導入することが可能となるにも関わらず、その方法を採用しない理由については、研究者によっても見解が分かれる。仮に「リバー」が「利子」すべてを指すとしても、それまで通りヒヤル を用いて実質的な有利子金融を実行すれば良いとも言える。ただこれは、単純な金銭貸借契約においてすら、二つの随伴する契約を結ぶことになり、さらに権利関係が複雑になるような金融商品や、保険契約、先物取引などには対応仕切れないという欠点を抱えていることもある。そもそもこうしたイスラム銀行が、中世においては登場せず、現代に入って登場・発展してきた理由を探ることが、その本質を知る手がかりとなる。

1. 「ムスリムだから」

もっとも一般的な、あるいは門外漢にも分かりやすい説明としては、「ムスリムであるから、クルアーンにしたがって利子は受け取らない。だから、無利子銀行に預金するのだ」という説明がなされる。ただし、例えばムスリムであっても、大っぴらに飲酒することが抵抗なく行われる土地、社会もあるので注意が必要であろう。
既に述べたように、最初期無利子銀行の失敗例もあるから、ムスリムであるから当然のように彼らは無利子銀行に預金するのだろう、という論理のみでは無利子銀行の成長・拡大を語るには無理があろう。また、それに、かつてヒヤルが認められていたことの説明がつかない。
無論、「ムスリムだから、無利子」というこの要素は少なくとも建前としては根本的なものであり、無利子銀行の誕生以前は金融技術の未発達によってリバーのない銀行が成立しえず、ムスリムたちは仕方なく預金を自分のところにしまい込むか、あるいは有利子の銀行に預けていた、とも言い得るのだが、基本的にはこの理由のみをことさら重視することはできない。

2. 「植民地化とオスマン帝国の解体」

世界史を俯瞰(ふかん)する視点からは、次のような解釈が導かれる。19 世紀 からイスラム世界の各地で進められてきたヨーロッパ列強による植民地化は、20 世紀 においてオスマン帝国 の敗北と解体、それによる旧オスマン領アラブ諸国 の植民地化によって頂点に達した。このインパクトが世界のムスリムに大きな影響を与え、それまでとは違う形の「イスラム世界」の認識が形成され、強大なヨーロッパと改めて直面しなおすことで、ムスリムとしての自覚が再認識された。
また、1924年 のオスマン朝のカリフ制の廃絶は、植民地化の中でもカリフの権威にすがってイスラム世界の一体を意識しようとしていたインド亜大陸 や東南アジア のムスリムにも、「正当な」ウンマ (イスラム共同体)の消失を明確な形でムスリムに突きつけることになったが、これによってむしろムスリムたちは「イスラムの世界」と自己の立脚点の再認識をおこなうこととなり、それがムスリムに、一つ一つの教義を再確認し、遵守する方向性を持ったと考えられる。

3. 「アラブの『動かす』文化」

また、片倉もとこ『「移動文化」考』のように、文化間の差異に着目しこれを理由の一つとして挙げる著作もある。
日本にも「流るる水は腐らず」という諺 があるが、中東では古来より、「留まる水は濁る」とでもいうべき、“動かずにあるものは不浄”という思想がある。遊牧民 は水や牧草の都合によってキャンプ地を定期的に移動するが、アラブ遊牧民の場合は、そういった条件が変わらずとも一定の期間が過ぎると移動することがあるという。たとえそれによって水場から遠くなるとしても、である。
同様に経済についても、動かさない金銭は不浄であるため、富豪は金銭を蓄え込まず、貧しい人に差し出すことによって社会に還流させようとする思想がアラブ社会に存在する。
しかし、ここでの問題はアラブのみに留まらず、東南アジア、そして世界全体のイスラム銀行に及ぶため、アラブの文化のみで語ることはできない。ただ、現代につながる無利子金融が成立し発展してきたのはまさにアラブの地であり、《移動文化》の担い手らによって無利子銀行が先導されてきたことは事実である。

4. 「宗教的背景」

上掲の説に似るが、ムスリムであるがゆえに教条を遵守するというのではなく、現状イスラム諸国で喜捨や断食が真面目に行われ、輸送手段の発達にも助けられて巡礼者が爆発的に増大しているように、3の説よりも広範かつ漠然とした要素と言える。
慣習による互助的システムを、機能が似ているからといって発端の異なる無利子金融と短絡的に結び付けることには疑問が残る。

どれかの説が決定的なものというわけではない。ただ、「動かす」ことを文化的背景とするアラブ世界で、ムハンマドのもたらしたイスラムによって、従前よりも強化・明文化された互助システムが慣習として広がって定着し、近代のイスラムの「危機」に対してかえって「ムスリム」としての意識が明確化し、イスラム圏に導入された近代西欧の金融技術を応用して無利子銀行が作られ、信仰やオイルマネーに支えられて拡大してきた……というように、複合的要因として考えるのが適切であろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%
E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%8A%80%E8%A1%8C


2010年02月26日(Fri)▲ページの先頭へ
地場エネルギーとパワー・プレイス:気と地霊
この記事は少し怪しい(追記:何故なら、新興宗教的に、このエネルギーが信仰・崇拝されて、金儲けのために「信者」を騙すようになることが考えられるからである。これを金儲けにするのは、間違いである。又、本来、精神的生命エネルギーを物質と混同している間違いがあると考えられる。)が、それでも、地場エネルギーというのは、私がこれまで述べてきた「気」や地霊spirit of placeというものと同じものだと思う。私は今住んでいる地域の大気には、特別な「気」があると感じている。最初に来たときから、清新な気を感じたのである。大気が、ピリピリ、ピチピチしているようなのである(いわば、帯電している、あるいは、イオン化しているとも言えそうだ。直感的に言えば、大気になにかが「立っている」である。この何かを限定しようとするが、困難さを感じるが、できるだけ言語化してみよう。それは、「気」が「立っている」のだろう。あるいは、エネルギーが「立っている」のである。垂直化である。そう、賦活された垂直のエネルギーということになろう。)。そして、私はそれは、森や畑が多いことから来ているのではないかと考えた。しかしながら、地場エネルギーということで、より明確になるだろう。

追記:ゼロ地場エネルギーということであるが、PS理論から言うと、ゼロとはゼロではなく、Media Pointの即非様態のことだと考えられる。つまり、+iと-iとの即非共振であり、また、+1と-1との即非共振であり、また、二つの即非共振の即非共振と考えられる。三つの即非共振様態である。先に、二重即非的秩序原理と呼んだことに当たる。

追記2:先には、「天」と「地」との差異共振によって、気=生命エネルギーが生まれると考え、また、そこには、水蒸気が関係していると作業仮説した。つまり、水のイオン化が関係しているのではないと推測したのである。

眺めているだけで癒されるクォンタム・フォト、サンプル動画(1)


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パワースポットを創り出す超技術が出来ていた!
2010/2/26 17:59

 昨今ブームになりつつあるパワースポット。中でも長野県伊那市と下伊那郡大鹿村の境界に存在する分杭峠(ぶんくいとうげ)は、健康や精神によい影響を与える”ゼロ磁場地帯”であるともいわれ、鈴木光司の小説『EDGE』(角川書店)などでもとりあげられている。

 このゼロ磁場エネルギー研究のパイオニアであり、健康グッズとして商品を開発している「株式会社宇宙エネルギー研究所」代表の水島幹夫氏に話を聞いてみた。

 「もともとは印刷会社を経営していたのですが、縁あって”医王石”という天然有機ミネラルを含んだ石を手に入れてから、農地の土壌改良に携わることになりました。そうなると農地では水が大事ですので、そちらの改良に興味を持ち、そこから土地自身のエネルギーに興味が出てきたというわけです」

 実際に医王石を使用した土壌改良の評価は高く、さらに医王石を使用した活水器「還元」は、建設省の認定や日本水道協会の認証も受けている。

「その後、土地自身のエネルギーを研究していると”地場エネルギー”の存在に行き着くことになったのです」

 地場エネルギーとは、その土地が持つエネルギーのことで、人体や精神に影響を与えることがあるという。

「たとえば、そこに行くだけでリラックスして元気になれる土地とか、逆にどうやっても商売がうまくいかないような地域がありますよね。これは地力の影響、つまり土地の地場エネルギーによって引き起こされているものだと思います。つまり地力を変化させる、スピリチュアル的にいえば邪気を祓うことによって、家庭内のトラブルや鬱、自殺、アル中なども癒すことができるということですね」

 この”地場エネルギー”を研究した結果、パワースポットに多いとされるゼロ地場の状態を造り出すことに成功し、2003年には地場エネルギー修正の事業を開始。以後、大型リゾート地やオフィス、幼稚園などの地場を修正してきたという。中でもその幼稚園は地場エネルギーの修正後、IQの平均値が通常の5割増しとなり、合唱・合奏の全国コンクールで優勝を取るまでになったということだ。2009年には、地場エネルギーに宇宙エネルギーを取り入れ、社名を現在の「宇宙エネルギー研究所」に改名。日本全国のパワースポット化に力を注いでいる。

(山口敏太郎事務所)

宇宙エネルギー研究所ホームページ
http://www.5-369.com/

宇宙エネルギー研究所代表 水島幹夫氏 講演会2月27日開催
http://www.net-g.com/blitz/mizushima.html

(奇瑞写真cap)
ゼロ磁場の理論を応用したエネルギープレート「奇瑞」

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

http://netallica.yahoo.co.jp/news/112692


2010年02月25日(Thu)▲ページの先頭へ
感性は精神と同一性感覚の連続的混淆・混濁だ:モダン・アートの終焉とトランス・モダン芸術の誕生
画像は以下のページを見られたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10467518998.html

哲学や美学で感性と言われるが、これは、実に曖昧である。私もつい使うことがあるが、どうも使い心地がよくない。
 心性という言葉が浮かんでしまう。心眼というときの「感覚」は精神的感覚・知覚・認識のことである。それに対して、同一性的な感覚・知覚・認識があるだろう。これが、通常の感覚である。言い換えると、物質的な感覚である。
 「感性」というとき、両者が混合・混淆し、混濁していると思われるのである。つまり、連続的な感覚・知覚がそこにあると考えられるのである。いかには、近代的な中途半端な感覚・知覚と言えよう。
 PS理論によって、今や、明確に、精神的感覚と物質的感覚は分離されるのである。そして、この結果、もっとも影響を受けるものの一つは当然、芸術である。モダン・アートというものが、これによって、超克されるのである。トランス・モダン・アートが誕生するのである。
 これは美術だけでなく、音楽、文学、その他の芸術もそうなると言える。
 思うに、精神的感覚とは実は本義における自然的感覚なのであり、トランス・モダンとは、自然的感覚(即非的感覚知覚)の復興を意味すると言えよう。モダン・アートの崩壊である。もっとも、モダン・アートにあるトランス・モダン性は評価されなくてはならない。つまり、超越性、精神性を表現しているモダン・アートである。そして、その結果、はっきりと、モダン・アートが終焉するのである。

追記:同一性感覚・知覚については、厳密に検証する必要がある。即非的感覚・知覚において、現象は、同一性というよりは、差異である。つまり、「わたし」が「ジンチョウゲ」を即非的に感覚・知覚するとき、後者は本来、差異である。同一性感覚・知覚とは、対象を「ジンチョウゲ」として認識することである。
 だから、感覚・知覚は二重なのである。一つは、差異的感覚・知覚であり、一つは、同一性感覚・知覚である。後者は言語と深く関係している。
 思うに、フッサールのノエマとは、差異的感覚・知覚と捉える方がいいだろう。それは同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚ではないからである。
 確かに、現象において、物質的対象は存する。それは、プラス1である。それに対して、即非的感覚・知覚は、プラス1を乗り越えて、対象に差異を見るのである。
 差異的対象となり、差異的現象である。このとき、確かに、対象には物質や同一性があるが、それは、いわば、基体である。サブスタンスである。
 そう、端的に言えば、対象は⇒+1である。対象を+1と見るのが、同一性感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚である。
 結局のところ、感性とは⇒+1と+1との混淆・混合・混濁であり、連続化である。あるいは、質と量の混濁である。
 では、即非的感覚・知覚にとって、同一性感覚・知覚とは何だろうか。それは、一つの抽象である。本来、対象は絶対的差異・絶対的他者であるが、それを同一性に還元しているのである。
 思うに、位階があるのである。即非的感覚・知覚ないしは差異的感覚・知覚は垂直性・超越性をもつが、同一性的感覚・知覚ないしは物質的感覚・知覚にはそれが欠落して、ただ、水平性・物質性をもつだけである。
 言い換えると、次元が異なるのである。前者は後者に対して、高次元に位置するのである。後者が三次元ならば、前者は四次元である。あるいは、後者が四次元ならば、前者は五次元である。
 結局、換言すると、感性とは、異なる次元を混同させるという誤謬を犯している近代的美学・哲学用語と言える。
 

Untitled (Black on Grey)
Artist Mark Rothko
Year 1970
Type Acrylic on canvas
Dimensions 203.3 cm × 175.5 cm (80.0 in × 69.1 in)
Location Solomon R. Guggenheim Museum , New York

http://en.wikipedia.org/wiki/Untitled_%28Black_on_Grey%29


2010年02月23日(Tue)▲ページの先頭へ
ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを捨て、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論に対する批判となる。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、矮小化(卑小化)/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体(自己)と客体(他者)との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

追記:虚軸界は霊界であり、Media Pointが精神界(魂界)であろう。だから、霊界/精神界/物質界となる。

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ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/


2010年02月22日(Mon)▲ページの先頭へ
明治欧化/戦後近代合理主義と日本の伝統の差異共振主義の喪失:国学から疑え
テーマ:日本新ルネサンスへ:東洋と西洋の統一へ

スロー人ロハス氏の最近の考察は納得できるものが多い。以下の論考は一見、左翼的、戦後的発想の人からは反発を受けるだろうが、その本質を見れば、それが、まっとうなことだとわかるだろう。
 私見では、(遼太郎の)坂本竜馬は、実に、日本の伝統的思想を体現した人物である。つまり、差異共振主義である。それが、明治維新の欧化によって、失われ、戦後の近代合理主義の洗脳/マインドコントロールによって、まったく喪失したと言えよう。
 日本人は軽薄者になってしまったのである。一言言えば、日本の伝統思想とは、他者の思想である。自己と他者とが差異的に共鳴する思想が日本の伝統思想なのである。これを壊したのは、私は国学、本居宣長の国学だと考えている。以前も述べたが、国学はキリスト教の一神教の影響を受けて、多神教ではなく、一神教的神観念を形成したと考えられる。

『国体の本義』と、口にしない憤り
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


小沢不起訴とは何か:ロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」:日本は蛇に睨まれた蛙である
テーマ:ニッポン亡国の凶相:売国奴と愚民と邪悪者

以下、本件について説明されているが、問題には答えていない。単に、戦争屋路線の変節という説明だけである。
 問題は戦争屋路線の変節の意味である。これは、対中外交のために、小沢一郎を使うことにしたのではないだろうか。つまり、小沢は中国に通じているので、小沢を利用すれば、中国攻撃になりうるのである。また、米国債の郵政資金による購買のこともある。これは、小沢の売国奴性を意味する。
 思うに、既述したように、小沢一郎はロックフェラー路線と「ロックフェラー路線」を混同している。鳩山首相もそうである。
 結局、検察VS小沢騒動は、両者にロックフェラー路線が関与しているのであり、最初から日本の負けである。
 オバマ政権の二重構造における「ロックフェラー路線」
ないしは差異共振路線を民主党は察知していないのである。これは、戦争屋に利用されることを意味するのである。日本は、中国と米国の狭間で、Media Point国家を目指すべきである。

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ペンタゴンの連中よ...

2.突然の小沢不起訴は米国戦争屋の変節にあり

ネット世論でも指摘されているように、小沢不起訴という唐突なサプライズは、検察トップの自主判断では決してないでしょう。なぜなら、小沢逮捕・起訴から辞任のシナリオは東京地検特捜部単独の暴走であるはずがなく、元々検察トップの合意事項であったはずだからです。それではなぜ、突然、小沢不起訴となったのか、そのわけはすでに筆者も唱えているように、やはり東京地検特捜部を指揮してきた米国戦争屋の突然の変節によるものでしょう(注2)。
新ベンチャー革命


ラカンは間違っている:ラカンはポスト・モダンで、連続論である:ラカンを廃棄し、PS理論を取れ!
内容は知らないが、ラカン批判は必然である。そもそも、言葉使いが非科学的である。いい加減である。これは、ドゥルーズや初期デリダにも当てはまる。
 とまれ、簡単にラカン批判を言うと、現実界/想像界/象徴界の三元論である。
 これは、PS理論から言うと、虚軸界/Media Point/同一性界(物質界)と変換される。問題なのは、ラカンがフロイトを継いで、家族関係に限定していることである。
 PS理論は家族関係、つまり、エディプス関係に限定されないのであるし、家族関係に限定することは、卑小化/錯誤化である。
 だから、一番の問題は想像界である。ここで、母子的融合が問題になるのである。それは、母と子の連続性を意味するのである。しかしながら、PS理論では、それは、主体と客体との即非的関係を意味するのであり、あくまで、不連続な関係なのである。端的に、ラカンは、父権的な連続的思想に拘束されているのである。

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ラカンは間違っている

  ディラン・エヴァンス

   桜井直文監訳 冨岡伸一郎訳

新刊について
エヴァンスの「ラカンは間違っている」は、もとラカン派の精神分析を行っていた著者がみずからの経験をもとに書き下ろした論文「ラカンからダーウィンへ」の翻訳、「4年後」の補筆、カウンセラーを務める訳者による解説からなるラカン批判の書です。

http://www.gakuju.com/


2010年02月21日(Sun)▲ページの先頭へ
「聖霊の時代」とMedia Point即非的秩序原理
フィオーレのヨアキムが聖霊の時代の到来をかつて説いた。即ち、父(ヤハウェ)の時代、子(イエス)の時代が終焉した、第3の時代として、聖霊の時代がくるという一種黙示録的歴史観である。
 聖霊とは、ps理論的に言えば、Media Pointである。ここで、虚軸と実軸が交差するのであるが、それは、先に述べたように、二重即非的秩序原理をもつのである。
 トランス・モダンとは、西洋の原理と東洋の原理が一致する時代と考えられる。しかしながら、Media Pointの即非的秩序原理こそが、もっとも精緻正確な哲学・科学的原理なのである。端的に、自然の根本原理である。

参照:以前、ほぼ一年前以下のように述べた。
2009-01-18 第五の福音書・聖霊主義・純粋差異共振主義:PS理論とトランス・モダ 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

第五の福音書 ・聖霊 主義・純粋 差異共振 主義:PS理論 とトランス ・モダン 進化

テーマ :トランス ・モダン 社会 の創造 ・構築

私は現代を「聖霊 」の時代と呼んでいるが、それの意味 するところは既述した(http://ameblo.jp/renshi/entry-10194034665.htm )が、より直観的な説明ができると思った。

 「子」の時代とは、差異共振 主義と同一性主義の分裂の時代であると言った。占星術 的文明 史から言えば、双魚宮の時代である。

 問題は、差異共振 主義と同一性主義とが水と油 で溶け合わないという事態である。近代 資本主義 は本来、前者が基礎であるにもかかわらず、後者 が支配的で、勤労者・民衆、自然 、社会 等を破壊 してきたのである。自然 合理性を同一性主義的資本家 /国家 等は理不尽 に無視してきたのである。その結果、今日 の新世界 恐慌 に帰結したのである。

 本質 は差異共振 性でありながら、同一性主義はその不合理性(端的には、狂気)によって、資本主義 の母体 を破壊 してきたのである。これが、水と油 の相克の事態である。二元 論、二項対立である。

 しかるに、今日 、同一性主義の解体 によって、近代 資本主義 が解体 して、これまで否定・排除されてきた差異共振 性が浮き上がってきたのである。それは、純粋 差異共振 主義として、発現するのである。

 それは、差異と同一性のバランス を目指すのである。そう、近代 主義における、精神 と物質 との対立がここで解決して、終焉するのである。精神 と物質 との調和 が為されるのである。これが、「聖霊 」の時代が直観的に意味 することである。これは、精神 と身体との調和 と言ってもいい。両極・対極の調和 である。これまで、近代 文化は、精神 に傾斜するか(観念 論)、物質 に傾斜するか(唯物論 )で、二元 分裂してきたのである。

 この点を説明すれば、それを超克する試みは多く為されたが、結局、未完成 であった。ポスト ・モダン 哲学 は、キルケゴール /ニーチェ 哲学 、現象学 、構造主義 を引き継いで、差異の哲学 の構築を目指したが、理論 的な不整備により、中途半端 で挫折してしまった。

 不連続的差異 論を継いだプラトニック・シナジー理論 (以下、PS理論 )は、ポスト ・モダン 哲学 の不備を乗り越えて、差異哲学 を完成したと考えられる。

 PS理論 はイデア (精神 )を主、物質 を従とする、差異を包摂した新イデア 論である。これが、上述の精神 と物質 (身体)の調和 を可能にしたと言えるのである。そう、観念 論と唯物論 の超克であり、両者の超越的包摂である。

 即ち、PS理論 が、「聖霊 」の時代の主導理論 となると考えられるのである。近代 資本主義 が終焉し(リーマン・ショック /新世界 恐慌 )、今や、トランス ・モダン 資本主義 の時代に入ったということなのである。

 精神 と物質 の両立を可能とする、精神 主導の新しい時代 、「聖霊 」の時代となったのである。PS理論 は第五の福音 である。

http://d.hatena.ne.jp/antares/20090118

参考:

フィオーレのヨアキム

 フィオーレのヨアキムは、1135年南イタリアのカンブリアで公証人の息子として生まれた。幼い頃から、幻視の才能があったというが、これは後世の創作の可能性が強い。ヴィイルヘルム2世のもとで官僚として働いた後、エルサレムへ巡礼し、この時に神より啓示を受けたと言う。後にシトー修道会に入会(この時は既に中年に達していた)。さらに、その学識の深さなどが認められ、修道院長に選ばれる。
 しかし、1180年から体験した一連の幻視から独自の歴史神学を構築するようになり、シトー会を脱会。生まれ故郷のカラブリアの人里離れたフィオーレの山中に、彼自身の厳しい修道会を設立した。
 そこで約20年間ほどの年月をかけ、著述活動を行った。
 主な著書は「旧約と新約の調和の書」、「十弦の琴」、「ヨハネ黙示録注釈」などである。
 1202年に没。「有徳の誉れ」を受けながら没したものの、著作の一部は異端として断罪された。

 さて、ヨアキムの思想とは、どのようなものだったのだろうか?
 まず重要なのは、聖書の「黙示録」に代表される象徴や寓意を、過去から現在にいたる具体的な出来事と結びつける傾向が非常に強かったことだ。
 もう一つは、これがさらに重要なのだが、後続の「千年王国思想」に大きな影響を与えたということである。
 ヨアキムは、「楽園」が、この地上に到来すると考えた、天国ではなく。それに加えて、この「楽園」が地上に出現した時、既成の権力構造、教会組織は消滅すると考えた。
 そう、これは一種の「革命思想」の根幹を造ったのである。

 ヨアキムは、人類の歴史を、「三位一体」にあてはめ、以下の3つの「段階」に分けた。

・第一段階
 三位一体の「父」の時代であり、旧約聖書の時代である。 これは「正義」の治世と呼ばれる。戒律の強調、それに立法者として、および人間への絶対的権威としての神の役割が強調される時代である。同時に、血なまぐさい旧約聖書の記述が語る通りの恐怖と隷属の時代でもある。文字通りの「神の下僕」の時代である。

・第二段階
 「子」の時代である。新約聖書の時代であり、キリストから、ヨアキムら自分達が生きている時代が、ここに相当すると考えた。これは、「法」の治世と呼ばれ、神の恩恵の時代であり、福音によって指針がもたらされ、信仰と教養の時代である。神との仲介者として、教会が重要な役割を果たす時代である。

・第三段階
 「聖霊」の時代である。来るべき未来の世界だ。「自由」の治世である。全ての人間に、神より直接、霊知がもたらされ、全人類の全てが修道士のような生活を送る。既成の権力、教会といった体制が消滅し、愛と歓喜と自由の世界になるだろう。

 ヨアキムは、このれらの「段階」を、さらに7つの「時代」に分けている。第一段階は、ユダヤ人7つの迫害によって、分けている。
 一方、第二段階は、キリスト教の7つの迫害によって分割する。この7つの迫害は、7人のアンチ・キリストによって、行われた。ヨアキムは、これらの7人を「黙示録」に出てくる獣の7つの頭に当たると解釈している。それは、すなわち、ヘロデ、ネロ、コンスタンティウス、マホメッド、ハインリヒ4世、サラディンであり、第二段階の終わりに「最大のアンチ・キリスト」が出現するという。

 ヨアキムは、この第二段階が、1200年をちょっと過ぎた辺りで終わると考えた(第一段階がアブラハムからキリストまで42世代続いたわけであるから、第二段階も同じく42世代続くと考えた)。
 この時代に「最大のアンチ・キリスト」が出現する。それは、教会の高位聖職者の中から現れ、ローマ教皇となるかもしれない(!)。そして、この最大のアンチ・キリストが打倒された後、第三段階の地上の楽園の時代が始まるのである。
 しかし、「最大のアンチ・キリスト」は、「最後の」アンチ・キリストではない。最後のアンチ・キリストは、いわゆる黙示録に出てくるマゴクの大君ゴグであり、獣の尾にあたる。
 これが、大破壊でもって悪魔の最後の抵抗を試みた後、滅ぼされる。

 このヨアキムの思想は、考え方によっては、教会にとっては大変な危険思想である。
 理想の国である「楽園」は、地上に出現する。そして、その時、教会を始めとした既成の体制は、ことごとく消滅する。さらに打倒されるべき人類の敵アンチ・キリストは、教会の中から現れる!!
 文字通りの「革命」思想である。
 事実、これは「千年王国」運動の理論的根拠に盛んに利用されることになる。
 「千年王国」運動には、様々な種類があるが、どれも「既存の教会は堕落しており、真のメシア(救世主)を迎えて、これを改革、あるいは打倒しなければならない」という点で、ほぼ一致している。
 ゆえに、このヨアキムの思想が、盛んに「千年王国」思想を唱える者達に、影響を与え、引用されたのも当然の結果ともいえる。これは、フランシスコ会の「小さき兄弟」派や、ペキン修道運動、自由心霊派などにも、つながってゆくのである。

 しかし、ここで強調しなければならないのは、ヨアキムは断じて、反教会の思想は持っていなかったことである。
 反教会を掲げる運動家達は、あきらかにヨアキムの思想を歪めていた。
 そもそも、ヨアキムは1200年の第二段階の終わりに、破壊的な大変動は起こらないと主張した。「最大のアンチ・キリスト」は、静かに現れ、虚偽と欺瞞を通して秘密裏に活動し、先に述べた尾に該当する「最後のアンチ・キリスト」の襲撃を通して、やっと公然と技を行う、という。
 さらに、ヨアキムは、第二段階の危機的状況の打開に大きな役割を果たす「真の聖なる教皇」の存在を強調していることも忘れてはならない。彼は神の加護のもと、最終の敵に対抗するための重要な説教を行うという。

 ヨアキムは、こうした「黙示録」の解釈を通じて、象徴、すなわちシンボリズムの解釈においても、大きな影響を残している。彼は、こうした象徴の解釈のため、広い視野でもって研究を実施した。「シビュラの予言書」をはじめ、占星術的な知識にまで及んだ。これらの成果をまとめた著書として「図像の書」などが、有名である。
 彼のこうした仕事は、天使の階級論や「聖四文字の名」にまで及んでいる。

 ともあれ、後世の彼の評価は、複雑だ。あの聖フランチェスコも、ヨアキムからは少なからぬ影響を受け、ロジャー・ベーコンを含めた、いわゆるフランチェスコ会学派の神学者達もヨアキムを盛んに引用する。だいぶ時代が下がったダンテの「神曲」でも、ヨアキムは天国の住人として描かれている。
 同時に教会にとって、やっかい者とされることの多かった「千年王国」運動の理論武装にも盛んに使われたわけで、教会にとっては、ある意味難しい存在でもあった。


「フィオーレのヨアキム」 バーナード・マッキン 平凡社
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/yoakim.htm
オ カ ル ト の 部 屋

ヨアキム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヨアキム主義(ヨアキムしゅぎ)は12 世紀 のカトリック 教会に興った予言的・終末論 的な歴史思想である。シトー会 の修道院長フィオーレのヨアキム (ジョアキーノとも)が唱えた。

フィオーレのヨアキムは三位一体的構造を世界史 に当てはめ、全歴史 は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者 の時代であり、旧約 の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。

ヨアキムの思想は問題視され、ローマ教皇庁 からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに異端 と宣言されるに至った。ヨアキム主義は13世紀の西方異端思想に大きく影響を与えた。

ミルチア・エリアーデ は『世界宗教史』において、レッシング の『啓蒙の世紀』やシェリング、ヘーゲルなどの絶対者の三段階からなる展開などの近世ドイツ思想における精神史観にヨアキム主義の影響を指摘している。


2010年02月20日(Sat)▲ページの先頭へ
司馬遼太郎文学と精神的歴史文学:プレ・モダンとトランス・モダンの結合:差異として遼太郎の竜馬
以下、世に倦む日々氏が慨嘆されているが、司馬遼太郎文学はいわゆる近代文学とは異なることを先ず認識する必要がある。漢籍に裏付けられた、ある意味でプレ・モダン的文学であるが、しかしながら、精神や魂をもつ人間像を描くことで、トランス・モダンになっていると思うのである。精緻な分析は後にして、司馬遼太郎が描いた竜馬は、トランス・モダン的人物であると見るのがいいと思う。その竜馬とは同一性(藩や幕府や勤王)に拘っていないからである。つまり、差異の人物なのである。

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菅直人の転向 - 国民への裏切り、マスコミと官僚と経団連への諂い
『竜馬がゆく』を読み返しながら、今の日本が信じられない気分になる。この本を繙くのは、この30年間で三度目だが、前回や前々回とは全く違った感覚で読んでいる。「幕府はよくやっている」などと思ったことは一度もなかった。今の日本政府があまりに酷すぎ、今の日本人があまりに滅茶苦茶すぎて、『竜馬がゆく』の日本が別の国の話のように見える。違う民族の歴史のように感じる。と言うより、『竜馬がゆく』に描かれているのが本当の日本と日本人のはずだと私は思うから、であるとすれば、今のテレビやネットで見える日本と日本人は一体何なのだろう。幕府は、黒船来航の翌年に独力で洋式軍艦を建造、斉彬の薩摩は翌々年に蒸気船を開発して試運転に成功した。黒船から7年後、幕府は日本人乗組員の操舵と機関で太平洋横断を実現させている。浦賀ショックからわずか15年で日本人は社会体制を一新、幕藩制から近代国家へと姿を変えて世界史に躍り出た。昔、『竜馬がゆく』を最初に読んだとき、司馬遼太郎は竜馬や志士たちを美化して大袈裟に描いていると感じたが、今は全く逆の感想を持つ。書き足りてないと思う。人間が政治と社会を変えていくスピード感と迫力は、小説に描かれている以上に力強く凄まじいものがあったはずだ。そうでなければ、あれほど劇的に政治と社会は変わらない。彼らは時間を無駄にしていない。今の日本は、どうしてこれほどと思うほど時間を無駄にしている。

世に倦む日日FC2ver.


マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序
いろいろ付加されたので、また、重要と考えられる不連続的即非的秩序という概念が生まれたので、再掲する。

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マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序
テーマ:Media Point/精神的フィルター

今はポイントだけ記そう。

『生存する脳―心と脳と身体の神秘 (単行本)』
アントニオ・R. ダマシオ (著), Antonio R. Damasio (原著), 田中 三彦 (翻訳)

の冒頭を読み、そこで説かれる身体は私の考えている-iに近いと感じた。そこから、本題へと転じた。(amazonのコメントにもあるが、訳語に問題がありそうである。)
 今は作業仮説であるが、感情とは、マイナス1ではないだろうか。とまれ、プラス1を陽光とすれば、マイナス1は、「陰光」である。私は不可視光と呼んでいる。
 思うに、プラス1の自我に付随するのが、マイナス1の感情ではないのか。思うに、これは、嫉妬深い感情ではないのだろうか。ヤハウェは嫉妬深い神であるが、その嫉妬はマイナス1ではないだろうか。
 私は、本来の自己は+i、そして、他者は-iと考えている。そして、道徳心や倫理は、-iへの共振から生まれるのではないか。
 つまり、Media Pointの虚軸領域に倫理・道徳があり、それに他指定、実軸は自我知覚と自我感情があるのではないのか。
 どうもうまく表現できていない。私が先に思ったのは、ロマン主義、神秘主義がマイナス1であり、近代合理主義は、プラス1ではないのかということである。
 どうも、今は不明確な状態である。例えば、即非的現象ないしは、即非的知覚はどこに生じるのか。これは、当然、Media Point(以下、MP)である。MPにおいて、虚軸と実軸が交差するのであり、対象の+1と-iがダブルのである。
 思うに、プラス1がなければ、知覚・認識はできない。虚軸だけでは、不明瞭である。つまり、「あれは、蝶である」というのは、プラス1の認識であり、虚軸の前知覚を、確定しているのである。
 そうならば、マイナス1とは何か。プラス1がポジならば、それはネガである。ポジを浮き上がらせるネガである。つまり、プラス1とマイナス1が結合して、現象が生起するのである。
 から、やはり、マイナス1は不可視光、陰光、「闇」と言える。ダーク・マターはやはりこれに関係しよう。
 問題は、感情、情感である。即非的情感というとき、それは、何か。虚軸領域のみでは、それは起こらない。実軸化が必要である。プラス1が生じるとき、つまり、±1が生じるとき、即非的情感が起こる。「私は樹木であり、且つ、樹木ではない。」 つまり、前者において、一体的情感が生じているのである。それは、マイナス1ではないだろうか。
 そうすると、情感は、マイナス1ということになる。近代合理主義・近代的自我はプラス1中心であり、マイナス1を阻害・疎外していると言えよう。つまり、マイナス1を排除しているのである。
 また、それに対する反動が歴史的には、ロマン主義や神秘主義として起こったと言えよう。それは、プラス1を否定して、マイナス1を中心化したのである。しかしながら、当然、それは、反動である。プラス1を否定することは、プラス1中心主義と同様に、主観の歪みをもたらすのである。しかしながら、マイナス1は、即非的情感なので、虚軸の超越性に通じているとは言えよう。
 結局、問題は、不連続的差異論に戻るが、プラス1とマイナス1(ないしはMP)との不連続性を確認するがもっとも重要であるということである。言い換えると、MPにおいて、実軸のプラス1とマイナス1とは不連続的であるということである。MPは、謂わば、不連続点である。そう、特異点である。ここが認識のすべての要諦なのである。(追記:プラス1とマイナス1とが不連続であるということである。それは、即非の論理の展開である。この不連続性は、一種の調和性をもっている。あるいは、秩序をもっている。これを不連続的即非的秩序と呼べよう。あるいは、簡略して、不連続的秩序ないしは即非的秩序と呼べる。これはとても重要なポイントである。)

追記:マイナス1は虚軸に通じていると言ったが、そうならば、プラス1も虚軸に通じていないのか。しかし、そう思うのは幻想だろう。やはり、MPにおいて、虚軸と通じるのである。
 では、ほんとうにマイナス1は虚軸と通じているのか。これは、どうもそのように思える。後で検討したい。 

追記2:一般に、意識において、プラス1とマイナス1とが齟齬を来すだろう。これは、近代における矛盾である。例えば、啓蒙思想ないしは近代合理主義とロマン主義の対立、あるいは、実在論(唯物論)と観念論の対立に見られるだろう。
 しかしながら、近代合理主義が近代科学・技術、資本主義に伴って進展すると、ロマン主義と観念論は衰退すると考えられる。つまり、プラス1が強化されて、マイナス1が抑圧されるのである。それは、また、超越性の否定でもある。
 現代日本人の主観性を考えると、ほぼ以上のような状態である。マイナス1の情感と虚軸の精神が喪失されているのであり、また、それは道徳心・倫理の欠落を意味しているのである。
 とまれ、このプラス1傾斜の力学というか、暴力がある。その暴力、意識暴力が蔓延していると観察される。
 どうして、マイナス1と虚軸を否定するのかと言えば、それは、プラス1の日常(自我と物質の生活)を破壊するからである。マイナス1と虚軸こそ、精神の領域なのであるし、神秘や宗教の領域である。これを現代日本人は恐れているのであるから、マイナス1と虚軸を抑圧しているのである。しかしながら、これは、自己抑圧であり、自己暴力である。
 とまれ、一般にはプラス1とマイナス1とは、絶対矛盾、絶対齟齬の状態であるが、それは、両者が不連続であることを認識せずに、プラス1の同一性ないしはマイナス1の差異で、両者を統一しようとするからである。前者が当然、近代合理主義であり、後者がポスト・モダンである。
 プラス1とマイナス1とが不連続であることを認識すると、MPが開けてくるのであり、超越性が理解されるのであるし、開眼するのである。それは心眼であり、第三の眼と言えよう。

追記3:東洋的身体的自然観を否定したことも、マイナス1と虚軸の精神の喪失につながるだろう。

追記4:うつ病ないし精神病であるが、それは、マイナス1の排除に存するのではないだろうか。
 つまり、まったき近代合理主義は、情感を不合理として排除するのであるから、マイナス1を排除するのである。ただ、同一性の合理性を信奉して、それ以外の精神を不合理としての否定するのである。差異のまったき否定がある。
 しかしながら、マイナス1を完全に封殺したとき、当然、情感を抑圧しているのである。情感エネルギーが枯渇すると考えられるが、情感エネルギーとは何か。例えば、よい音楽を聴くとき、よい自然の光景を見たとき、よい文学作品を読んだとき、友人や仲間と歓談したとき、等に生起するだろう。それは、精神的エネルギーである。つまり、マイナス1を封殺するとき、精神的エネルギーを封殺するのであり、当然、それが枯渇するのであり、うつ病等を発生させると考えられる。近代合理主義は、情感(精神的エネルギー)を抑圧しすぎたのである。

追記5:以上の視点を参考にして、悪とは何かを少し考えてみよう。
 近代合理主義に染まったとき(+1中心主義)、情感のマイナス1が否定される傾向となる。その否定されたマイナス1はどうなるのだろうか。それは、反感となるのだろう。憎悪であり、嫉妬であり、怨恨である。そう、ルサンチマンである。あるいは、悪意である。近代合理主義は、故に、いわば、無意識の、つまり、不合理な攻撃エネルギーをもつと考えられる。これが、悪である。
 シュタイナーはアーリマンという悪魔(追記:これは、ゾロアスター教の悪神アンラ・マンユに当然相当する。)について述べているが、この近代合理主義の無意識がアーリマンと言えよう。(思うに、シュタイナーの説くもう一つの悪魔ルシファーであるが、それは、マイナス1の傾斜であろう。それは、ロマン主義、神秘主義である。)
 そして、シュタイナーは、アーリマンとルシファーの間にキリストを置いているが、それは、プラス1とマイナス1の間のMedia Pointに相当しよう。しかし、注意すべきは、それが不連続点=特異点であることである。これをシュタイナーは述べていない。後でもう少し検討したい。

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参考:
書評『生存する脳』
どちらを選んでも構わない選択肢がある場合、しばらく迷ったとしても、やがてどちらかを選んでいることでしょう。しかし、まったく同じ価値をもつ選択肢なのに、なぜ人は「こっち」と選ぶことができるのでしょう。

『生存する脳 心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 講談社 2000年 402ページ


原題は『デカルトの誤り』。「脳と身体は切り離して考えることができる」というデカルトの「心身二元論」を否定する。つまり、身体なしに感情や意識といった脳の役割を考えることはできない、と著者はいう。デカルトに詳しければ読書に深みは増すだろうが、デカルトを知らなくても読める。

脳と身体の関わりについて多く述べられる本書の中で、本質的かつ独自的な著者の弁が「ソマティック・マーカー仮説」だ。

この仮説は、人がある選択を迫られたとき、何もないまっさらな状態から、どれが最善かを考えるのではなく、すでに蓄えられた知識や経験から起きる感情から、どれが最善かを考えている、というもの。

仮説を支持する例として、アメリカ人の工事監督フィアネス・ゲージに関する逸話や、著者が実際に接したエリオット氏(仮名)の言動などが紹介される。彼らは、事故により脳の前頭前野を損傷してしまった経歴の持ち主(表紙カバーの絵がゲージの事故当時の状態を示している)。だが、理性は失わず生活を続けることはできた。

ところが、しばらく経つと判断力の欠如がおこり、人生が豹変してしまう。たとえば、人と会う約束を15日にするか17日するか、どちらの日でも問題ないのに「どちらのほうが天気がよさそうか」とか「どちらのほうが交通機関の乱れはなさそうか」とかで延々に考え込んでしまうのだという。

裏返せば、私たちのいろいろな選択の場面では、過去のよい体験・いやな体験などが作用して、直観的に将来予測をして、判断しているということになる。生活の中において、帰納法はしっかりと役割を果たしているということを実感した。。

翻訳の精度について、いろいろな書評子から問題とする指摘もあるが、かといって読み控えされるのはもったいない。患者の事例のところとソマティック・マーカー仮説の部分はわかりやすいので、そこを読むだけでも得られる知見はあるだろう。

『生存する脳』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp /生存する脳?心と脳と身体の神秘-アントニオ・R-ダマシオ/dp /406210041X/ref=sr_1_2/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1194099166&sr=1-2

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=696
科学技術のアネクドート
参考2:
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


 ソマティック・マーカー仮説の提唱者 ダマシオ博士の著書である世界的ベストセラーである。
 ソマティック・マーカー仮説とは、ものすごく乱暴に言うと人間の「第六感」「直感」が人間の行動を規定するという考え方である。
 本書の言葉を借りれば、
「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する(生存する脳より引用)」
 ということになる。
 要するに、「嫌な予感がすることはしない」我々の能力のことである。
 
 我々が苦境に耐えられるのも、誰かのために利他行動をするということは、目先の利益よりも長期的な利益を優先させた方が有利であると取捨選択を行なった結果である。
 卑近な例であれば、「頑張って勉強してよい大学に入る」とか「普段は節約して休暇は海外旅行に行く」とか。
 親が自らよりも子供の幸せを願うのは利他行動の最たるものである。
 ちなみに、このような遺伝子を共有するもの同士の利他行動は、今まではむしろ
利己的な遺伝子 のような考え方で説明されることも多かった。 
 これ自体は、別に目新しい仮説ではないと思う。
 それどころか、誰もが日常レベルの経験で納得がいくものであろう。

 ダマシオ博士の斬新さは、これらの事実もこのソマティック・マーカー仮説により説明可能であると打ち立てた点にあるだろう。

 つまり、こうした有利不利の取捨選択に、我々の思考のみならず、直感が深く関わっているというのだ。
 ここまでは誰にでも理解できる。
 「何となく虫が知らせる」
 ということは誰にでもあるものだ。
 しかし、これらの直感の獲得に、脳のみならず身体反応が関わっているという点がこの仮説の最も斬新な点であろう。

 そして、この仮説によると、我々の思考に直感が大きく関わっており、むしろ思考よりも直感が先に来るという。
 しかもその直感に脳、身体、社会的文化的側面すらも大きく関わっているという画期的な説なのである。
 勿論ここでいう、「脳」には解剖学的な脳の機能と神経伝達物質のような脳の機能的な部分の両者が含まれる。
http://blog.livedoor.jp/dogmania/archives/14615469.html
小枝の超!極私的読書術
参考3:
脳ノート(12)−「生存する脳」ダマシオをめぐって

E  情動について(つづき)


まず、<一次の情動>の神経回路を、おさらいしておこう。
「一つの適切な刺激が扁桃体を活性化すると、次のようないくつかの反応がこれに続く。内的な反応、筋肉反応、内臓反応(自律神経系の信号)、神経伝達物質を生産する核への信号、視床下部への反応。視床下部はホルモンなどの化学的反応を生み出す。この反応は血流を利用する。…われわれが情動を表現する時の姿勢などの筋肉反応は、おそらく基底核内の構造(いわゆる腹側線条体)を使っている。」

情動というものが、身体の具体的な変化としてまず現れるもの、そしてその時、脳内ではその変化しつつある身体の変化が、身体マップとして、体性感覚皮質に指示的表象として、あるいは、神経的表象として現れているような、状態であるということ、ここを押さえておこう。
そして、神経回路としてはまずその始まりが、あるいは活性化の最初の脳部位が、扁桃体であるということを覚えておこう。


二次の情動

「二次の情動を検討するために、大人の経験から引き出される例に目を向けることにする。たとえば長い間会ってなかった友人と再会するとか、同僚の予想外の死を告げられるとか、そういった状況を考えてみよう。それらが現実である場合―そしてたぶん、それを単に想像する時でさえ―われわれは情動を経験する。そのような情動が生じるとき、神経生物学的には一体どんなことが起きるのだろうか?<情動を経験する>とは、本当のところ何を意味しているのだろうか?」

「あなたがそうした状況の一つを想像しているとき、もし私がその場にいれば、私は観察結果をいくつか列挙することができるだろう。そうした状況(長いこと音信不通だった友人との再会、同僚の死)の中心的局面に対するメンタルイメージが形成されると、身体状態に変化が起こる。その変化は、様々な身体領域におけるいくつかの変化によって定義される。旧友に会えば、心臓の鼓動は速くなり、顔は紅潮し、口と目の周りの筋肉が変化してうれしそうな表情になり、他の筋肉も弛緩するだろう。また、もし知人の死を耳にすれば、心臓はドンドン高鳴り、口は渇き、顔は蒼ざめ、腸管の一部は収縮し、首と背中の筋肉は緊張し、顔の筋肉が悲しげな形相を生み出す。」

「いずれの場合も、内臓(心臓、肺、腸管、皮膚)や骨格筋(骨の付いている筋肉)や内分泌線(たとえば、下垂体や副腎)の機能のいくつかのパラメータに変化が起こる。いくつかのペプチド調節物質が脳から血流に放出される。免疫系も急激に変化する。動脈壁の平滑筋(心臓金を除く内臓の筋肉)の基本的な活動が増加し、血管を収縮させ、細くする(その結果、蒼白になる)。逆にその活動が減少すれば、平滑筋は弛緩し、血管が膨張する(その結果、紅潮する)。全体として、一連の変化は機能的バランスあるいは恒常性(ホメオスタシス)と対応する平均的状態の範囲からの逸脱を示している。平均的状態にあるとき、有機体の経済は、少ないエネルギー支出と単純かつ迅速な調節で、おそらく最善に機能している。」

「この機能的バランスの範囲を静的なものと考えるべきではない。それは上限と下限の範囲での一連の連続的な変化である。それをウォーターベッドの状態と結びつけて考えることもできるかもしれない。ウォーターベッドの上をさまざまな方向に歩くと、ある部分はへこみ、またある部分は膨らむ。さざ波が立つ。そしてベッドが全体的に変化する。しかしその変化はベッドの物理的限界、つまり、ある量の液体を内に含んでいる境界によって規定される範囲の中にある。
この仮想的な情動経験において、身体の多くの部分が新しい状態―つまり、意味ある変化が生じている状態―に置かれる。
有機体の中で何が起こり、そのような変化をもたらすのか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18076027.html
ho-ho-ho雑記


2010年02月19日(Fri)▲ページの先頭へ
マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:不連続点=特異点としてのMedia Point
今はポイントだけ記そう。

『生存する脳―心と脳と身体の神秘 (単行本)』
アントニオ・R. ダマシオ (著), Antonio R. Damasio (原著), 田中 三彦 (翻訳)

の冒頭を読み、そこで説かれる身体は私の考えている-iに近いと感じた。そこから、本題へと転じた。(amazonのコメントにもあるが、訳語に問題がありそうである。)
 今は作業仮説であるが、感情とは、マイナス1ではないだろうか。とまれ、プラス1を陽光とすれば、マイナス1は、「陰光」である。私は不可視光と呼んでいる。
 思うに、プラス1の自我に付随するのが、マイナス1の感情ではないのか。思うに、これは、嫉妬深い感情ではないのだろうか。ヤハウェは嫉妬深い神であるが、その嫉妬はマイナス1ではないだろうか。
 私は、本来の自己は+i、そして、他者は-iと考えている。そして、道徳心や倫理は、-iへの共振から生まれるのではないか。
 つまり、Media Pointの虚軸領域に倫理・道徳があり、それに他指定、実軸は自我知覚と自我感情があるのではないのか。
 どうもうまく表現できていない。私が先に思ったのは、ロマン主義、神秘主義がマイナス1であり、近代合理主義は、プラス1ではないのかということである。
 どうも、今は不明確な状態である。例えば、即非的現象ないしは、即非的知覚はどこに生じるのか。これは、当然、Media Point(以下、MP)である。MPにおいて、虚軸と実軸が交差するのであり、対象の+1と-iがダブルのである。
 思うに、プラス1がなければ、知覚・認識はできない。虚軸だけでは、不明瞭である。つまり、「あれは、蝶である」というのは、プラス1の認識であり、虚軸の前知覚を、確定しているのである。
 そうならば、マイナス1とは何か。プラス1がポジならば、それはネガである。ポジを浮き上がらせるネガである。つまり、プラス1とマイナス1が結合して、現象が生起するのである。
 から、やはり、マイナス1は不可視光、陰光、「闇」と言える。ダーク・マターはやはりこれに関係しよう。
 問題は、感情、情感である。即非的情感というとき、それは、何か。虚軸領域のみでは、それは起こらない。実軸化が必要である。プラス1が生じるとき、つまり、±1が生じるとき、即非的情感が起こる。「私は樹木であり、且つ、樹木ではない。」 つまり、前者において、一体的情感が生じているのである。それは、マイナス1ではないだろうか。
 そうすると、情感は、マイナス1ということになる。近代合理主義・近代的自我はプラス1中心であり、マイナス1を阻害・疎外していると言えよう。つまり、マイナス1を排除しているのである。
 また、それに対する反動が歴史的には、ロマン主義や神秘主義として起こったと言えよう。それは、プラス1を否定して、マイナス1を中心化したのである。しかしながら、当然、それは、反動である。プラス1を否定することは、プラス1中心主義と同様に、主観の歪みをもたらすのである。しかしながら、マイナス1は、即非的情感なので、虚軸の超越性に通じているとは言えよう。
 結局、問題は、不連続的差異論に戻るが、プラス1とマイナス1(ないしはMP)との不連続性を確認するがもっとも重要であるということである。言い換えると、MPにおいて、実軸のプラス1とマイナス1とは不連続的であるということである。MPは、謂わば、不連続点である。そう、特異点である。ここが認識のすべての要諦なのである。

追記:マイナス1は虚軸につうじていると言ったが、そうならば、プラス1も虚軸に通じていないのか。しかし、そう思うのは幻想だろう。やはり、MPにおいて、虚軸と通じるのである。
 では、ほんとうにマイナス1は虚軸と通じているのか。これは、どうもそのように思える。後で検討したい。 

追記2:一般に、意識において、プラス1とマイナス1とが齟齬を来すだろう。これは、近代における矛盾である。例えば、啓蒙思想ないしは近代合理主義とロマン主義の対立、あるいは、実在論(唯物論)と観念論の対立に見られるだろう。
 しかしながら、近代合理主義が近代科学・技術、資本主義に伴って進展すると、ロマン主義と観念論は衰退すると考えられる。つまり、プラス1が強化されて、マイナス1が抑圧されるのである。それは、また、超越性の否定でもある。
 現代日本の主観性を考えると、ほぼ以上のような状態である。マイナス1の情感と虚軸の精神が喪失されているのであるし、当然、道徳心・倫理が喪失しているのである。
 とまれ、このプラス1傾斜の力学というか、暴力がある。その暴力、意識暴力が蔓延していると観察される。
 どうして、マイナス1と虚軸を否定するのかと言えば、それは、プラス1の日常(自我と物質の生活)を破壊するからである。マイナス1と虚軸こそ、精神の領域なのであるし、神秘や宗教の領域である。これを現代日本人は恐れているのであるから、マイナス1と虚軸を抑圧しているのである。しかしながら、これは、自己抑圧であり、自己暴力である。
 とまれ、一般にはプラス1とマイナス1とは、絶対矛盾、絶対齟齬の状態であるが、それは、両者が不連続であることを認識せずに、プラス1の同一性ないしはマイナス1の差異で、両者を統一しようとするからである。前者が当然、近代合理主義であり、後者がポスト・モダンである。
 プラス1とマイナス1とが不連続であることを認識すると、MPが開けてくるのであり、超越性が理解されるのであるし、開眼するのである。それは心眼であり、第三の眼と言えよう。

追記3:東洋的身体的自然観を否定したことも、マイナス1と虚軸の精神の喪失につながるだろう。

追記4:うつ病ないし精神病であるが、それは、マイナス1の排除に存するのではないだろうか。
 つまり、まったき近代合理主義は、情感を不合理として排除するのであるから、マイナス1を排除するのである。ただ、同一性の合理性を信奉して、それ以外の精神を不合理としての否定するのである。差異のまったき否定がある。
 しかしながら、マイナス1を完全に封殺したとき、当然、情感を抑圧しているのである。情感エネルギーが枯渇すると考えられるが、情感エネルギーとは何か。例えば、よい音楽を聴くとき、よい自然の光景を見たとき、よい文学作品を読んだとき、友人や仲間と歓談したとき、等に生起するだろう。それは、精神的エネルギーである。つまり、マイナス1を封殺するとき、精神的エネルギーを封殺するのであり、当然、それが枯渇するのであり、うつ病等を発生させると考えられる。近代合理主義は、情感(精神的エネルギー)を抑圧しすぎたのである。

追記5:以上の視点を参考にして、悪とは何かを少し考えてみよう。
 近代合理主義に染まったとき(+1中心主義)、情感のマイナス1が否定される傾向となる。その否定されたマイナス1はどうなるのだろうか。それは、反感となるのだろう。憎悪であり、嫉妬であり、怨恨である。そう、ルサンチマンである。あるいは、悪意である。近代合理主義は、故に、いわば、無意識の、つまり、不合理な攻撃エネルギーをもつと考えられる。これが、悪である。
 シュタイナーはアーリマンという悪魔について述べているが、この近代合理主義の無意識がアーリマンと言えよう。(思うに、シュタイナーの説くもう一つの悪魔ルシファーであるが、それは、マイナス1の傾斜であろう。それは、ロマン主義、神秘主義である。
 そして、シュタイナーは、アーリマンとルシファーの間にキリストを置いているが、それは、プラス1とマイナス1の間のMedia Pointに相当しよう。しかし、注意すべきは、それが不連続点=特異点であることである。これをシュタイナーは述べていない。後でもう少し検討したい。

************************

参考:
書評『生存する脳』
どちらを選んでも構わない選択肢がある場合、しばらく迷ったとしても、やがてどちらかを選んでいることでしょう。しかし、まったく同じ価値をもつ選択肢なのに、なぜ人は「こっち」と選ぶことができるのでしょう。

『生存する脳 心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 講談社 2000年 402ページ


原題は『デカルトの誤り』。「脳と身体は切り離して考えることができる」というデカルトの「心身二元論」を否定する。つまり、身体なしに感情や意識といった脳の役割を考えることはできない、と著者はいう。デカルトに詳しければ読書に深みは増すだろうが、デカルトを知らなくても読める。

脳と身体の関わりについて多く述べられる本書の中で、本質的かつ独自的な著者の弁が「ソマティック・マーカー仮説」だ。

この仮説は、人がある選択を迫られたとき、何もないまっさらな状態から、どれが最善かを考えるのではなく、すでに蓄えられた知識や経験から起きる感情から、どれが最善かを考えている、というもの。

仮説を支持する例として、アメリカ人の工事監督フィアネス・ゲージに関する逸話や、著者が実際に接したエリオット氏(仮名)の言動などが紹介される。彼らは、事故により脳の前頭前野を損傷してしまった経歴の持ち主(表紙カバーの絵がゲージの事故当時の状態を示している)。だが、理性は失わず生活を続けることはできた。

ところが、しばらく経つと判断力の欠如がおこり、人生が豹変してしまう。たとえば、人と会う約束を15日にするか17日するか、どちらの日でも問題ないのに「どちらのほうが天気がよさそうか」とか「どちらのほうが交通機関の乱れはなさそうか」とかで延々に考え込んでしまうのだという。

裏返せば、私たちのいろいろな選択の場面では、過去のよい体験・いやな体験などが作用して、直観的に将来予測をして、判断しているということになる。生活の中において、帰納法はしっかりと役割を果たしているということを実感した。。

翻訳の精度について、いろいろな書評子から問題とする指摘もあるが、かといって読み控えされるのはもったいない。患者の事例のところとソマティック・マーカー仮説の部分はわかりやすいので、そこを読むだけでも得られる知見はあるだろう。

『生存する脳』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp /生存する脳?心と脳と身体の神秘-アントニオ・R-ダマシオ/dp /406210041X/ref=sr_1_2/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1194099166&sr=1-2

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=696
科学技術のアネクドート
参考2:
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


 ソマティック・マーカー仮説の提唱者 ダマシオ博士の著書である世界的ベストセラーである。
 ソマティック・マーカー仮説とは、ものすごく乱暴に言うと人間の「第六感」「直感」が人間の行動を規定するという考え方である。
 本書の言葉を借りれば、
「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する(生存する脳より引用)」
 ということになる。
 要するに、「嫌な予感がすることはしない」我々の能力のことである。
 
 我々が苦境に耐えられるのも、誰かのために利他行動をするということは、目先の利益よりも長期的な利益を優先させた方が有利であると取捨選択を行なった結果である。
 卑近な例であれば、「頑張って勉強してよい大学に入る」とか「普段は節約して休暇は海外旅行に行く」とか。
 親が自らよりも子供の幸せを願うのは利他行動の最たるものである。
 ちなみに、このような遺伝子を共有するもの同士の利他行動は、今まではむしろ
利己的な遺伝子 のような考え方で説明されることも多かった。 
 これ自体は、別に目新しい仮説ではないと思う。
 それどころか、誰もが日常レベルの経験で納得がいくものであろう。

 ダマシオ博士の斬新さは、これらの事実もこのソマティック・マーカー仮説により説明可能であると打ち立てた点にあるだろう。

 つまり、こうした有利不利の取捨選択に、我々の思考のみならず、直感が深く関わっているというのだ。
 ここまでは誰にでも理解できる。
 「何となく虫が知らせる」
 ということは誰にでもあるものだ。
 しかし、これらの直感の獲得に、脳のみならず身体反応が関わっているという点がこの仮説の最も斬新な点であろう。

 そして、この仮説によると、我々の思考に直感が大きく関わっており、むしろ思考よりも直感が先に来るという。
 しかもその直感に脳、身体、社会的文化的側面すらも大きく関わっているという画期的な説なのである。
 勿論ここでいう、「脳」には解剖学的な脳の機能と神経伝達物質のような脳の機能的な部分の両者が含まれる。
http://blog.livedoor.jp/dogmania/archives/14615469.html
小枝の超!極私的読書術
参考3:
脳ノート(12)−「生存する脳」ダマシオをめぐって

E  情動について(つづき)


まず、<一次の情動>の神経回路を、おさらいしておこう。
「一つの適切な刺激が扁桃体を活性化すると、次のようないくつかの反応がこれに続く。内的な反応、筋肉反応、内臓反応(自律神経系の信号)、神経伝達物質を生産する核への信号、視床下部への反応。視床下部はホルモンなどの化学的反応を生み出す。この反応は血流を利用する。…われわれが情動を表現する時の姿勢などの筋肉反応は、おそらく基底核内の構造(いわゆる腹側線条体)を使っている。」

情動というものが、身体の具体的な変化としてまず現れるもの、そしてその時、脳内ではその変化しつつある身体の変化が、身体マップとして、体性感覚皮質に指示的表象として、あるいは、神経的表象として現れているような、状態であるということ、ここを押さえておこう。
そして、神経回路としてはまずその始まりが、あるいは活性化の最初の脳部位が、扁桃体であるということを覚えておこう。


二次の情動

「二次の情動を検討するために、大人の経験から引き出される例に目を向けることにする。たとえば長い間会ってなかった友人と再会するとか、同僚の予想外の死を告げられるとか、そういった状況を考えてみよう。それらが現実である場合―そしてたぶん、それを単に想像する時でさえ―われわれは情動を経験する。そのような情動が生じるとき、神経生物学的には一体どんなことが起きるのだろうか?<情動を経験する>とは、本当のところ何を意味しているのだろうか?」

「あなたがそうした状況の一つを想像しているとき、もし私がその場にいれば、私は観察結果をいくつか列挙することができるだろう。そうした状況(長いこと音信不通だった友人との再会、同僚の死)の中心的局面に対するメンタルイメージが形成されると、身体状態に変化が起こる。その変化は、様々な身体領域におけるいくつかの変化によって定義される。旧友に会えば、心臓の鼓動は速くなり、顔は紅潮し、口と目の周りの筋肉が変化してうれしそうな表情になり、他の筋肉も弛緩するだろう。また、もし知人の死を耳にすれば、心臓はドンドン高鳴り、口は渇き、顔は蒼ざめ、腸管の一部は収縮し、首と背中の筋肉は緊張し、顔の筋肉が悲しげな形相を生み出す。」

「いずれの場合も、内臓(心臓、肺、腸管、皮膚)や骨格筋(骨の付いている筋肉)や内分泌線(たとえば、下垂体や副腎)の機能のいくつかのパラメータに変化が起こる。いくつかのペプチド調節物質が脳から血流に放出される。免疫系も急激に変化する。動脈壁の平滑筋(心臓金を除く内臓の筋肉)の基本的な活動が増加し、血管を収縮させ、細くする(その結果、蒼白になる)。逆にその活動が減少すれば、平滑筋は弛緩し、血管が膨張する(その結果、紅潮する)。全体として、一連の変化は機能的バランスあるいは恒常性(ホメオスタシス)と対応する平均的状態の範囲からの逸脱を示している。平均的状態にあるとき、有機体の経済は、少ないエネルギー支出と単純かつ迅速な調節で、おそらく最善に機能している。」

「この機能的バランスの範囲を静的なものと考えるべきではない。それは上限と下限の範囲での一連の連続的な変化である。それをウォーターベッドの状態と結びつけて考えることもできるかもしれない。ウォーターベッドの上をさまざまな方向に歩くと、ある部分はへこみ、またある部分は膨らむ。さざ波が立つ。そしてベッドが全体的に変化する。しかしその変化はベッドの物理的限界、つまり、ある量の液体を内に含んでいる境界によって規定される範囲の中にある。
この仮想的な情動経験において、身体の多くの部分が新しい状態―つまり、意味ある変化が生じている状態―に置かれる。
有機体の中で何が起こり、そのような変化をもたらすのか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18076027.html
ho-ho-ho雑記



2010年02月16日(Tue)▲ページの先頭へ
二つの資本主義:金融資本『帝国』の超克:有機的共同資本主義と無機的金融資本主義
以下、スロー人氏の問題提起は透徹したものである。金融資本、世界金融資本が世界を支配し、国家を統制するということである。いわば、ネグリとハートの説く『帝国』の形成である。
 問題は、交換価値における同一性価値(追記:この記述はいわば後付であるが、正確さを期して訂正した)にとって替わる、共同価値を客観的に導入できるかである。
 問題は、商業における交換価値であるが、それは、単に、量的価値だけでなく、質的価値も内包しているのではないだろうか。簡単な例をあげると、例えば、ブルーレイ・レコーダーを購入するとしよう。価格の差がほとんどないときは、機能の優れた製品、つまり、質的価値の高いものを買うだろう。例えば、価格が10万円ならば、機能がいいもの、あるいは、使い勝手がいいものを購入するのだろう。
 また、たとえ、A社の製品が9万5千円で、B社のものが10万円であっても、やはり、機能性、使い勝手を考えると、B社のものを買うという選択をすることが考えられる。
 安く買うという合理的原理であるが、これは、それは、単に量的価値原理だけではなく、質的価値原理が入っているのである。
 当然ながら、いくら安くても、劣悪な商品は買わないのである。
 ということで、交換価値には、表面的な量的価値だけでなく、質的価値、差異的価値が内包されていると見ることができる。(追記:マルクスが説いた使用価値であるが、それは、実に貧弱な発想である。端的に、同一性的使用価値であり、質的、差異的価値が抜けているのである。仮に例えば、お米5kgはすべて2000円であり、産地も銘柄も生産年度も無視されるのである。お米の使用価値は、単に、5kgの量的価値であり、味や汚染等は問題にされないのである。『資本論』の欠陥の一つはそこにあると言えよう。)
 では、問題は、交換価値に内包されている質的価値・差異的価値の評価の仕方である。
 金融資本とは、本質的には、
+1⇒+1⇒+1⇒・・・の世界であろう。ここには、資本主義の内的本質の(+i)*(-i)⇒である共同生産力が欠落しているのである。
 つまり、金融資本主義と共同資本主義とは似て非なるものであるということになるだろう。今は、余裕がないので、検討できないが、前者に対抗するには、後者を進化させることではないだろうか。 

追記:尻切れトンボなので、補足すると、金融資本は、共同資本(と資本主義のコアの部分を呼ぶ)に拠る交換価値の質的価値・差異的価値をすべて、同一性価値に抽象還元してしまうということである。つまり、交換価値における質的価値・差異的価値を無視するということである。つまり、一般的に、生産物の売買における質的価値・差異的価値を、金融資本は完全に無視して、同一性価値のみの増殖を目的とするのである。
 つまり、金融資本とは、共同生産ではなく、交換価値の同一性価値(利益)の増殖を目的とするだけであり、共同資本生産体(産業)の質・差異的価値は度外視するのである。言い換えると、金融資本とは、共同資本生産体の質・差異価値を無視して、ただ交換価値の同一性価値の増殖のみを追求する無機的な経済体であるということになる。共同資本生産体を有機的資本主義とするならば、金融資本主義とは、無機的な資本主義である。後者は、いわば、悪性のウィルスである。母体を破壊するウィルスである。
 だから、金融資本に対するコントロールが必要なのである。米国の場合、本来、コントロールする法律(例えば、グラス・スティーガル法)がどんどん無くされていき、リーマン・ショックになったのである。(とまれ、有機的資本主義は、多神教的資本主義であり、無機的資本主義は一神教的資本主義とも呼べよう。)
 この問題は極めて、哲学的、あるいは、イデア論的である。本質は共同資本主義であるのに、帰結が金融資本主義である。
 ps理論から見ると、Media Pointに当たる経済体が必要なのである。思うに、例えば、共同有機的資本銀行がそれに当たるのではないだろうか。それは、金融資本的投資は禁止されて、共同有機的資本的融資が認められるのである。
 これは、オバマ大統領が目指しているものだが、ウォール・ストリートから大変な反対にあっている。
 とまれ、金融資本とは、健全な有機的共同資本主義に巣くったガン細胞のようなものである。これを治療する方法が必要である。減価通貨制度はそのようなものの一つであるが、その他、様々な方策があり、それを連携させる必要があると言えよう。それについては後で検討したい。

追記2:記述がやや不明瞭である。簡単に言えば、共同有機体的資本主義とは、実に、自然(じねん)的なのであるが、金融無機的資本主義は、同一性主義=唯物論=メカニズムであるということである。前者を生命体とすると、後者は死体である。だから、消滅貨幣は説得力があるのである。
 また、前者はエネルゲイア(現実態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)である。つまり、活動態と終末態である。先に、ミイラ崇拝、ゾンビ主義と言ったが、その通りである。
 最後に言おう、有機体的共同資本主義は善であり、無機的金融資本主義は悪である。この悪の超克がトランス・モダン・ゾロアスター教的使命・エンゲージメントである。

追記3:結局、資本主義とは、異質な経済のキメラであるということになる。哲学的に言えば、差異と同一性の連続的同一性主義なのである。つまり、フッサール的に言えば、自然的態度の経済的具現化である。
 資本主義の超越論的力学が同一性力学に飲まれて、認識できないのである。
 とまれ、現今の資本主義は、本来、相互に不連続である有機体(生命)と無機質(物質)が、不合理に連続的に接合されたような経済体なのである。「分裂症」的経済なのである。整合性の欠落した経済体なのである。
 これを切り離して、前者を独立させるべきであり、そうすると、後者の病巣は死滅するはずである。ゾンビ退治である。

************************ 

くたばれ、「Too big Too fail」

 「Too big Too fail」。日本では数年前の金融危機のさい、小泉政権の大臣だった竹中氏などがよく使っていたセリフだが、このセリフの本家本元のアメリカでも、近年の金融危機下で同じセリフが大声で叫ばれている。


 その結果は、国民から巻き上げた税金を原資にして、いわば博打の胴元である金融業者のためにそれを融通してあげたわけだ。


 儲かったのは、金融業者だ。日本でも大銀行はますます超大銀行となり、アメリカでもゴールドマンサックスやJPモルガンなどの勝ち組ばかりか、シティーバンクなどの負け組も救われたのだった。そして、彼らはこの博打を始める前よりも肥大化したのだ。


 簡略して言えば、この金融危機を利用して、デリバティブなどの紙切れでしかない見せ金を、国民の現金、キャッシュで、つまり国民の犠牲の上に、現金化・キャッシュ化したということだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10460281893.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


2010年02月15日(Mon)▲ページの先頭へ
確かに、民主主義形式をもつが、悪平等ではないか:差異共振政官同盟主義へ
私は、昔から、官僚も選挙で選べばいいと思ってきた。問題は、複雑である。この「同格」主義は、官僚ヒエラルキーを破壊する。そして、政治主導と言っても、官僚の才覚に及ばない政治家が主導するのである。これは、反現実的である。やはり、政治家と官僚の差異共振主義が望ましいのである。
 思うに、ロシア革命の際、ボルシェビキがメンシェビキを排除したが、それは革命的同一性主義の誤りである。これで、粛清・恐怖政治が生まれるのである。
 優秀な官僚を活かす方策、差異共振方策が必要である。薩長同盟ならぬ、政官同盟である。

公務員制度:次官〜部長「同格」に 政府方針

 鳩山由紀夫首相は15日、閣議決定を先送りしていた国家公務員法等改正案での幹部職員の降格規定に関し、次官級、局長級、部長級を同格とみなすよう修正し、中央官庁全体で約600人いる部長級以上の幹部を柔軟に配置転換できるようにする方針を固めた。原案の「降格」との概念をなくして「転任」とし通常の人事で次官級から部長級への格下げや、逆の抜てきが実施できるようにする。19日にも閣議決定する。

 鳩山首相が15日、官邸で仙谷由人国家戦略担当相、原口一博総務相ら関係閣僚と協議して決めた。その後首相は記者団に「やる気のある人は抜てきし、やる気のない人には厳しい、というメッセージ。年齢にかかわらず(人事の)自由度を高め、次官を終えた後も役所で仕事してもらう人も出てくる」と語った。入省35〜36年の次官級から入省29〜30年の部長級人事を一括し、年次が逆転した配置もありうると指摘した。

 原案では次官・局長級の部長級への降格には「特例降任」制度を用いるとされた。ただ、(1)勤務実績が劣る(2)他の人の方が優れた実績を上げられる(3)転任させる役職がない−−をすべて満たさねば降格できなかった。麻生政権の改正案と同じ内容に原口氏が「本当に降任できるのか」と疑問を呈していた。

 修正案は、次官級と局長級を「同一の職制上の段階」とみなす原案の規定を部長級に拡大する、というもの。次官・局長級と部長級でそれぞれ用意するはずだった名簿も一つに統合し、政権の意向に沿う官僚を重要なポストに起用しやすくする。松井孝治官房副長官らが野党時代から提唱していたものだ。

 ただ、麻生政権の法案にあった人事院改革には踏み込まず、官邸主導の人事管理を優先する基本方針は変わらない。官僚からは「政治家の好き嫌いで恣意(しい)的な人事になる」「公務員の身分保障に反する」などの指摘も出ている。仙谷氏も「やたら振り回すのは危ない。乱用防止と同時に適材適所ができるかどうか」と課題を挙げた。【小山由宇】

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100216k0000m010088000c.html


白人文明の嫉みによる嫌がらせ、暴力・攻撃・支配が問題である
白人文明、西洋文明は表面は天使の顔であるが、肚の中には、悪魔が潜んでいる。
 民主主義的な押しつけ善意(独善性)があるし、実態は、帝国/植民地主義である。
 白人民主主義をキリスト教的民主主義と見てもいいだろう。問題は、他者に白人民主主義/キリスト教的民主主義を押しつけることである。
 この力学は何か。民主主義的善意の根底には、暴力・支配・攻撃、つまり、悪意があるのである。
 つまり、自分を民主主義的善と同一化したとき、それは、同一性主義であり、差異である他者を否定・排除することになるのである。
 つまり、ここには、白人民主主義の同一性主義の問題があるのである。自己を差異と認識しないといけない。民主主義的善と同一化したとき、自己差異は否定され、同時に、他者の差異も否定されるのである。
 この自己差異/他者差異の否定が端的に暴力・攻撃・支配なのである。善的同一性主義になったとき、差異・他者に対する憎悪が発生するのである。これが、白人・西洋民主主義的精神の内面・基盤にあるものと考えられる。言い換えると、ジキルとハイド的文明ということである。
 ところで、肝心なことを考察するのを忘れていた。この同一性の嫉みは、ユダヤ教に拠るのか、キリスト教に拠るのか。
 ニーチェはキリスト教のルサンチマンを説き、ユダヤ教には肯定的であった。
 愛にしろ、ヤハウェの正義にしろ、それは、同一性に基づくのであり、両者が同一性の嫉み(ルサンチマン)を発生させると考えられる。後で精緻に考えたい。

追記:ここでは、白人文明、西洋文明とは、父権的文明と理解する必要がある。これまで何度も述べたように、西欧文化のベースには母権的文化があり、それこそ、真正な、つまり、差異的な民主主義の母体だと考えている。
 また、アングロ・サクソンと言っても、イギリス文化の基盤には、ケルト文化があるのであり、それは、女神文化なのである。東洋的文化なのである。


「愛しい」モーツァルト弦楽五重奏曲第4番K.516ト短調

テーマ:クラシック CD/DVD/YouTube

この弦楽五重奏の冒頭は、交響曲40番の冒頭よりも、痛切な美しい哀感がある。それにしても、ト短調はモーツァルトの運命の調性なのだろう。これは、正 に、愛しい(かなしい)と形容すべきである。
 また、憂い、憂愁があるとも形容ができよう。しかし、単に情感というよりは、普遍的な精神が一時生 きているこの世の愛しさを歌っているのである。いわば、幽界(幽世かくりよ・霊界)と現し世(顕世うつしよ・この世)との境界でモーツァルトは歌っている のである。それは、正に、ps理論で説くMedia Pointで歌っているのである。天才たちは皆、Media Pointで表現するのである。あの世とこの世の奇蹟的な融合点で歌うのである。

追記:ピアノ協奏曲20番も傑作であり、ニ短調もいい。

参 考:
大辞林 第二版 (三省堂)

かなしい 【悲しい/哀しい/愛しい】

(形)[文]シク かな・し

[一]心が痛んで泣きたくなるような気持ちだ。つらく切ない。《悲・哀》
「母に死なれて―・い」「誠意が通じなくて―・い」

[二](古くは「愛し」と書かれた)

(1)身にしみていとしい。切ないほどにかわいい。《愛》
「何そこの児(こ)のここだ―・しき/万葉 3373」

(2)心にしみるような趣だ。深い感興を感ずる。
「みちのくはいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手―・しも/古今(東歌)」

(3)見事だ。感心するほど立派だ。
「―・しくせられたりとて、見あさみけるとなん/著聞 17」

参考 2:YouTubeのコメントも同じことを告げている。人間の心・精神の全人類的普遍性。


wanzenettl (1年前) 表示 非表示
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Mozart_ at his very finest.
Libertein818 (1年前) 表示 非表示
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I'd never heard this piece before now, its so moving_ and very sad but beautiful as well. wonderful playing, thanks for uploading.
elias12186 (1年前) 表示 非表示
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Well the miss out_ on the saddest, best part.
ashraniyyah (10 か月前) 表示 非表示
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Of course; with sadness comes joy._
http://ameblo.jp/renshi/entry-10459568809.html


哲学とブログ:悪は誤魔化し・隠蔽と一如である

テーマ:ゾロアスター教とトランス・モダン

優れたブログやHPは、真実、真相、真理を追究・追求しているのであり、それは、端的に、哲学的希求である。
 それに対して、悪を事とする支配・権力側、つまり、悪霊側は、当然、悪であるから知られないように誤魔化しを、虚偽・隠蔽・排除(殺人)をするのであ る。
 これは、明らかに、ゾロアスター教の世界観に即している。善と悪との最終戦争が行われているのが、現代である。それは、トランス・モダン進化を意味す る。
 それに対して、善でも悪でもない、凡庸の徒が大半である。烏合の衆、有象無象、愚衆・愚民である。彼らは、何のために生きているのか。それは、悪人を肥 やすために、欺されて、奴隷のように生かされているということだろう。


地球寒冷化:地球温暖化「神話」は排出権国際的利権屋の共謀ペテン
テーマ:エネルギー問題・国連地球温暖化共謀ペ テン
■ 地球寒冷化の実態

 http://www.epochtimes.jp/jp/2010/02/html/d22054.html

東海アマチュア地震予知研究会


2010年02月14日(Sun)▲ページの先頭へ
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興
昨日、久しぶりに(半年ぶり?)、東京の古巣に帰った:東京の物質主義的町並みの醜悪性:縄文精神復興

テーマ:ポスト唯物論/唯物論の超克

もう、二度と東京に住むこと、あるいは、大都市に住むことはないだろう。
 はっきり言って、高層ビルは言うまでもなく、コンクリートの数階建ての建物は見ると、心に嫌悪感というか、不快感、胸糞の悪さ、というか、心の苦しさ、 苦痛が起こるのである。(また、「気」が感じられないこともストレスになる。)
 つまり、精神は共振するものを外界に求めるのに、コンクリートの平凡な建物、縦横の幾何学の建物に表面には、共振せずに反感をもつということである。つ まり、ストレスが発生するのである。
 今は、森が近くにかなりある郊外に住んでいるので、精神性は満足する。そう、精神と森(端的には、樹木)が共振するのである。この理由については後で検 討したいが、一言言うと、子供の頃、田舎の林野を自由に歩いたことと今の森の中の散歩は通じるものがあると感じられる。
 縄文的ノマッド的精神性と言うべきなのか。思うに、今日、日本人は民族の一つの本性である縄文的精神を喪失しているのである。日本に民主主義を定着させ るためには、内なる縄文的精神に基づく必要があるだろう。


精神性と発話:二つの視覚:心眼と肉眼

テーマ:検討問題:思考実験・仮説

もうだいぶ昔のこと、80年代半ばのことか、それとも、90年代初頭のことか。
 駅前のファースト・フードで読書していたときであるが、若い女子たちの話し声が、頭中心で、心が抜けているのに、怪訝に感じ、強く違和感をもった。
 今考えれば、物質主義的であり、精神性が欠落した状態だと思う。これは、心眼の喪失であり、肉眼への傾斜である。
 トランス・モダン教育とは、心眼形成教育になる必要がある。文科省の形式主義ではだめである。



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カレンダ
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