INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (1574)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (54)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (49) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (76) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (37) プラトニック・シナジー理論 (160) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (43) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (7) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (72) 音楽(クラシック・ポピュラー) (13) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元/言語空間 (155) 検討問題・課題 (77) 日本覚醒計画:日本の政治・経済・社会・歴史・文化:ニッポン亡国の (117) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (13) フッサール/ハイデガー現象学 (25) トランス・モダン/自然合理主義/差異共振主義 (38) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (193) 文学・哲学・美術・音楽・映画・舞台・アニメ・漫画 (101) 英語・外国語学習 (5) トランス・モダン社会/差異共振共同体/新共同体的資本主義/「差異 (276) |
2009年07月03日(Fri)▲ページの先頭へ
諸宗教とは原神性=超越性に対する諸観点ではないのか:宗教の脱同一性化と絶対的脱構築主義
たびたび引用するアメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルの主著に『神の仮面』Masks of Godという四巻本がある。この「神」Godを原神=超越性と見れば、私の考えが明快になるだろう。
つまり、元々は根源的に一つの原神性=超越性が存するのであり、それを、各民族、各時代、各土地、等によって、すなわち、そのフィルターを通して、見ていたのではないだろうか。 即ち、原神(神々)が存するが、それをユダヤ民族は、ヤハウェやエローヒームと、キリスト教徒はイエス・キリストと、マホメット(ムハンマド)は、それをアッラーと、また、仏陀は空と、そして、ザラシュトラはアフラ・マズダーと、そして日本民族は、三柱の神や八百万の神と、そして、インド人はヴィシュヌ、ブラフマン、シヴァと、そして他は別様に見たのではないだろうか。 根本的な超越的普遍性があるのであり、それを多様に把握しているのである。これは、以前、Kaisetsu氏が説いた相対性理論の考え方に共通しよう。「光」の普遍性があり、それを多様に観測するということである。 これは当然、宗教・神話に限られず、超越エネルギーがあるのであり、これを合理的に秩序化したものが自然科学ということと考えられる。しかしながら、近代科学は同一性=物質の観点から超越エネルギーの現象態を捉えようとしたに過ぎない。もっとも、量子論は、超越エネルギーを対象としているといえよう。ただし、唯物論の枠組みをまだ残存させてはいるが。 また、東洋哲学は、基本的に超越エネルギーを対象としていると言えよう。だから、「気」という視点が生まれると考えられる。つまり、「気」とは超越エネルギーであるということである。陰陽論は超越エネルギーを対象としていると言えよう。 宗教に戻れば、結局、諸宗教の教徒が相争うのは、普遍的超越性を同一性化することによって、相対立が起こることからだろう。普遍性を同一性化すれば、それは、二項対立を生み、自身が正しく、他者は誤謬であるとなるのである。 根源的超越性を例えば、iとすれば、それを+1として見るのが同一性化である。わかりやすく言えば、「川」が存するが、riverやStromやrivièreや川、等々と呼ぶようなものである(追記:私が直感・直観を重視するのは、同一性言語に囚われない、原感覚・原知覚、言い換えると、普遍的感覚・普遍的知覚がそこにはあるからではないだろうか。だからこそ、言語よりも、美術や音楽の方が、対象を誤魔化しなく捉える傾向をもつと考えられる。つまり、言語意識よりも、感覚意識の方が対象を正しく捉えるということである。)。もちろん、各地域によって川の性質は異なるのは確かであるが。宗教の脱同一性化が必要である。脱フィルター化である。 思うに、脱構築主義は、差延を問題し、同一性と差異との相対性を述べて、同一性的な構築を否定するという発想である。それは、正に、ポスト・モダンであり、ドゥルーズの連続的差異と類似する。 そう、脱構築の脱構築が必要なのである。いわば、絶対的脱構築主義である。これまでの脱構築主義は、相対的脱構築主義ということになる。 追記1:思うに、一神教は同一性化が多神教よりも強化されたものと言えよう。とまれ、根本は超越的エネルギー論であるということである。 追記2:ウィリアム・ブレイクは、All Religions are One.(すべて宗教は一つである。)と述べていたのを想起する。 Title; E1| ALL RELIGIONS are ONE t2 AROepigraph; E1| The Voice of one crying in the Wilderness ARO; E1| The Argument As the true method of knowledge is experiment AROargmuent; E1| the true faculty of knowing must be the faculty which AROargument; E1| experiences. This faculty I treat of. ARO; E1| PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that AROprin1; E1| the body or outward form of Man is derived from the Poetic AROprin1; E1| Genius. Likewise that the forms of all things are derived from AROprin1; E1| their Genius. which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit AROpriin1; E1| & Demon. ARO; E1| PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and AROprin2; E1| with the same infinite variety) all are alike in the Poetic AROprin2; E1| Genius ARO; E1| PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart, AROprin3; E1| but he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from AROprin3; E1| the Poetic Genius adapted to the weaknesses of every AROprin3; E1| individual ARO; E1| PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out AROprin4; E1| the unknown. So from already acquired knowledge Man could not AROprin4; E1| acquire more. therefore an universal Poetic Genius exists ARO; E1| PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from AROprin5; E1| each Nations different reception of the Poetic Genius which is AROprin5; E1| every where call'd the Spirit of Prophecy. ARO; E1| PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original AROprin6; E1| derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the AROprin6; E1| confined nature of bodily sensation ARO; E2| PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So AROprin7; E2| all Religions & as all similars have one source AROprin7; E2| The true Man is the source he being the Poetic Genius http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/all_religions_are_one.html Contents, The Complete Poetry and Prose of William Blake edited by David V. Erdman The Masks of God, Vol. 1: Primitive Mythology (Paperback) http://www.amazon.com/ Masks-God-Vol-Primitive-Mythology /dp/0140194436/ref=sr_1_1?ie =UTF8&s=books&qid=1246617 764&sr=1-1 記事URL コメ
2009年07月02日(Thu)▲ページの先頭へ
超越性が個の原因である:超越性とMedia Pointと個
現代の日本人は自我中心的であるが、個がない。個とは、あるいはindividualityとは、超越性がなければ、存しない。何故なら、Media Pointを介して存する超越的道徳性が、自我主義であることを規制し、他者との差異共振的関係を保持させる力となるからである。
現代日本の亡国性は、この個がないことに根因がある。やはり、戦後の近代合理主義に根因がある。後でもう少し説明したい。 追記:より正確に言えば、戦後日本人は、封建的近代主義者であり、二重性、二股性を使い分けている。 即ち、一方では、封建的父権主義(男性中心主義)的であり、他方では、近代合理主義・唯物論的である。この二重性によって、Media Pointを抑圧しているのである。 即ち、前者、封建主義によって、差別的自我が肯定され、個的道徳性が抑圧されるのである。そして、後者、近代合理主義によって、差別的自我が唯物論化されるのである。言い換えると、純粋な封建主義の場合でも、超越性(主従性において)があるが、近代合理主義化されて、超越性を否定するため、没道徳的な差別的近代的自我が誕生するのである。これは、最悪の事態であり、この自我に戦後日本人は陥ったのである。封建主義の短所と近代主義の短所の結合である。これは、端的に、悪神化=アンリ・マンユ化である。 では、この悪魔化の根因は何か。私はずっと以前、戦争で有能な日本人が死んでしまったことが、戦後文化の劣弱さを生んだと思ったことがある。わたつみの声を読めば、なんという才能の喪失であるかがわかろう。 やはり、ゾロアスター教化が必要である。 環境とは何か:精神的身体にとっての環境と物質的環境
東京からエクソダスして、もう半月以上経った。思っていたよりも、はるかに森、それも深い森(原生林の印象である)が多い。
日本の大半の自然環境は開発で破壊されたが、ここは、市民の精神生活的意識が高いからか、樹齢五十年から百年くらいの広葉樹や針葉樹の鬱蒼とした森が広がり、土のままの歩道が多く、曲線的に縫い、昼でも深山のごとく静まり薄暗い。いわば奇跡的に保存された森である。サワラ、クヌギ、ヒバ等の雑木の森である。木の幹に苔生すなど、しっとりとし、降水量も多い印象である。 東京の雑踏・喧騒・騒音・大気汚染等のストレスから解放された。私の実家の田舎よりも、ある意味で豊かな自然がある。 町の雰囲気は、路地に入ると、東京オリンピック以前の東京を想起させるような落ち着いたものである。 とまれ、ここは、複数の大手スーパーや国道があるが、いわば、森の民の町である。そう、農地があり、黒土で地味が豊かそうであり、トウモロコシやウドやその他の野菜が栽培されていて、なにか、母方の田舎を想起した。多様な記憶が交錯する町である。 さて、環境とは何か。視覚や呼吸から、精神的身体が感応する環境がある。コンクリート・ジャングルの都会では、視覚が不快を感じ、また、大気中に「気」がないので、精神的身体はストレスを感じるだろう。 人間は深層では、精神的身体の生命体である。東京は物質的空間の町で、精神的身体が疲労し、硬化するのである。それは、精神を磨り減らし、また、当然、病因を形成しよう。 とまれ、この自然環境力学は何か。森の景色の現象は、非線形で、心地よい。それは、森が、「雑木林」が、Media Pointを多く体現しているからではないだろうか。視覚的な多元空間が発現しているのだろう(参照:池泉式回遊庭園の美学もこれではないのか。) そして、「気」であるが、それは、空気が、やはり、Media Point化していることではないのか。つまり、差異共振エネルギーとしての「気」が森の空気の中にあるということではないのか。 後で丁寧に再考したい。 追記:光合成において、酸素が発生する時に生じる、イオン等が「気」の正体ではないか。後で検討したい。 参照: 回遊式庭園 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 桂離宮庭園 回遊式庭園(かいゆうしきていえん)は、日本庭園 の形式のひとつで、園内を回遊して鑑賞する庭園 。園内を回遊する形式の庭園は日本以外にも存在するが、回遊式庭園という語は主に日本庭園のみを指して用いられる。 概要 [編集 ] 回遊式庭園は、江戸時代 に大名 によって造営された大名庭園 において発達した形式であり、日本庭園の集大成とも位置づけられる。 最も一般的な形式は池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)と呼ばれるもので、大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山 、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現した。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋などが設けられた。 ・・・・・ に関する書きかけ項目 です。この項目にさらなる加筆、訂正 などをして下さる協力者を求めています (ポータル 日本 /ウィキプロジェクト 日本文化 )。 カテゴリ : 日本庭園 参考: 光合成 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 光合成では水を分解して酸素を放出し、二酸化炭素から糖を合成する。 光合成の主な舞台は植物の葉である。 光合成(こうごうせい/ひかりごうせい、英 :photosynthesis)とは、主に植物 や植物プランクトン 、藻類 など光合成色素 をもつ生物が行う、光エネルギー を化学エネルギー に変換する生化学反応のことである。光合成生物は光から変換した化学エネルギーを使って水 と空気 中の二酸化炭素 から炭水化物 (糖類 :例えばショ糖 やグルコース やデンプン )を合成している。また、光合成は水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給している(詳細は後述)。年間に地球 上で固定される二酸化炭素は約1014kg、貯蔵されるエネルギー は1018kJと見積もられている[1] 。 「光合成」という名称を初めて使ったのはアメリカの植物学者チャールズ・バーネス (1893年)である[2] 。 かつては炭酸同化作用(たんさんどうかさよう)とも言ったが現在はあまり使われない。 ・・・・・ 葉緑体(クロロプラスト) [編集 ] 葉緑体の構造 1, 外膜 2, 膜間部 3, 内膜 4, ストロマ 5, チラコイドルーメン 6, チラコイド膜 7, グラナ 8, チラコイドラメラ 9, デンプン 10, リボソーム 11, DNA 12, プラスト顆粒(脂質の玉) 植物細胞 中の葉緑体。 詳細は「葉緑体 」を参照 光合成を行っているのは葉緑体 の中の細胞小器官 である。葉緑体は細胞 内に1〜1000個ほど存在し、大きさも形もさまざまである。最も平均的なのは長さ約5μmの回転楕円体状のものである。葉緑体は全透性の外膜と半透性の内膜の二重膜で囲まれている。内膜の内部のことをストロマという。ストロマには酵素 、DNA 、RNA 、リボソーム 、そして膜で囲まれたチラコイド がある。チラコイド膜の内部はチラコイドルーメンという。チラコイドは積み重なってグラナ を構成し、グラナ同士はところどころでチラコイドラメラ(またはストロマチラコイド)で繋がっている。グラナの数は10〜100程度である。チラコイド膜は葉緑体の内膜が陥入することで作られる[1] 。 チラコイド膜の組成は特殊で、リン脂質 は10%しかない。膜の構成成分で一番多く、全体の80%を占めているのはガラクトシルジアシルグリセロール とジガラクトシルジアシルグリセロール である。そして残りの10%はスルホリピド (6-スルホキノボシルジアシルグリセロール)とキノボース (6-デオキシグルコース)である。チラコイド膜のアシル基 は高度に不飽和であるため流動性が大きく[1] 、光の強弱に反応して動き回ることができる。このとき細胞内で活躍するのがアクチン というタンパク質である。 光合成は光化学反応とカルビン回路の2つの段階に大別される。光化学反応は光エネルギーからNADPHとATPを合成する過程で、カルビン回路はNADPHとATPを使ってCO2とH2Oから糖を合成する過程である。光化学反応が行われるのはチラコイド膜である。葉緑体を持たない光合成原核生物では細胞膜か細胞膜が何層も陥入してできたクロマトホアで光化学反応が行われる。カルビン回路はストロマで行われる。 緑色植物の光合成 [編集 ] 現在、最も研究の進んでいる酸素発生型光合成は緑色植物の光合成経路である。緑色植物の光合成経路は基本的に全ての酸素発生型光合成に応用可能であり、上記に上げられる生物群全てに以下の経路を当てはめても良い。酸素発生型光合成経路の最大の特徴は「水分子を電子供与体として用いることができる」という点である。水 は酸化還元電位 の高い酸素原子 とそれの低い水素原子 の結合した安定な物質である。この「水の光分解」を開発したことが、現在の酸素呼吸型生物の発展を生んだともいえる。 チラコイド膜では、クロロフィル (光合成色素)が光エネルギーを使って水を分解、プロトン (H+)と酸素分子(O2)、そして電子 (e-)を作る。このときにできた電子によってNADP+ (酸化型)からNADPH(還元型)が作られる。さらに、チラコイド膜内外のプロトン濃度勾配を利用して、ATP合成酵素 によってアデノシン三リン酸 (ATP) が作られる。以上が光化学反応 (明反応)である。 次にチラコイド膜の外側にあるストロマ(葉緑体基質)で、光化学反応で作られたNADPHとATPを使って二酸化炭素 と水を材料として糖 が作られる。この一連の反応がカルビン回路 (暗反応)である。 光化学反応 [編集 ] チラコイド膜での光化学反応の概略図 詳細は「光化学反応 」を参照 光化学反応とは光エネルギーを化学エネルギーに変換する系である。光を必要とするため明反応とも呼ばれる。狭義には光エネルギーが関与する光化学系II (PSII)および光化学系I の反応を指すが、広義には光化学反応に関わる電子伝達系 のすべての反応を指す。 光化学反応は、光化学系II(PSII)、シトクロムb6f、光化学系I(PSI)の3種のタンパク質複合体で構成され、これらはすべてチラコイド膜に存在する。PSIIとシトクロムb6f の間はプラストキノン (PQ)、シトクロムb6f とPSIとの間はプラストシアニン (PC)で結ばれている。PSIIに光(hν)が当たることによってH2OからNADP+に電子が流れ(青矢印)、プロトンがチラコイドルーメンに取り込まれる(赤矢印)。また、酸素発生複合体 (OEC)によって水が分解されて酸素が発生するときもプロトンがチラコイドルーメンに生成する。チラコイドルーメンとストロマの間にできたプロトンの濃度勾配の浸透圧エネルギーによってATP合成酵素がATPを合成する。ATP合成酵素は1秒間に17回転し、その摩擦熱でADPからATPを合成しているのである。 光化学反応の収支式は以下の通りである。 * 12 H2O + 12 NADP+ → 6 O2 + 12 NADPH + 72 H+(in) * 72 H+(in) + 24 ADP + 24 Pi (リン酸 ) → 72 H+(out) + 24 ATP 生じた、NADPHおよびATPはストロマにて行なわれるカルビン回路 で使用される。また生じるATP数は理論的なものであり、実際にはプロトンの漏れがチラコイド膜外に発生していると見られ、24ATPを生じているとは考えにくい。事実、カルビン回路に使用されるATP数は光化学反応で生じるATP数よりも少ない。 Z機構 [編集 ] 電子伝達系での電子のエネルギー勾配を示すZ機構 植物では光化学反応は葉緑体のチラコイド膜で起こり、光エネルギーを使ってATPとNADPHを合成する。狭議の光化学反応は、非循環的電子伝達系と循環的電子伝達系の2つの過程に分けられる。非循環的電子伝達系ではプロトンは光化学系II内のアンテナ複合体に光が捕獲されることによって獲得される。光化学系IIの光化学系反応中心(RC)にあるクロロフィル分子がアンテナ色素から十分な励起エネルギーを得たとき、電子は電子受容体分子(フェオフィチン )に運ばれる。この電子の動きを光誘起電荷分離 と呼ぶ。この電子は電子伝達系を移動するが、これをエネルギー勾配で表したのがZ機構(Z -scheme)である。ATP合成酵素はエネルギー勾配を使って光リン酸化によってATPを合成するが、NADPHはZ機構の酸化還元反応によって合成される。電子が光化学系Iに入ると再び光によって励起される。そして再びエネルギーを落としながら電子受容体に伝えられる。電子受容体によって作られたエネルギーはチラコイドルーメンにプロトンを輸送するのに使われている。電子はカルビン回路で使われるNADPを還元するのに使われる。循環的電子伝達系は非循環的電子伝達系に類似しているが、これはATPの生成のみを行いNADPを還元しないという点が違う。電子は光化学系Iで光励起され電子受容体に移されると再び光化学系Iに戻ってくる。ゆえに循環的電子伝達系と呼ばれるのである。 カルビン回路 [編集 ] メルヴィン・カルヴィン ノーベル化学賞 カルビン回路。 詳細は「カルビン回路 」を参照 カルビン回路 は暗反応とも呼ばれる過程で、二酸化炭素 (正確には炭酸イオン )の固定を行なう炭酸固定 反応である。カルビン回路は10以上の酵素 からなる複雑な回路であるが、回転は主にリブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ (RubisCO)によって調節される。 光化学反応によって生じたNADPHおよびATPを酸化および加水分解して生じたフルクトース 6-リン酸からデンプン を合成し、葉緑体内にデンプン粒を作成する。また、中間代謝物であるジヒドロキシアセトンリン酸は葉緑体外部に輸送される炭素源の一つである。 カルビン回路の収支式は以下の通りである。 6CO2 + 12NADPH + 18ATP → C6H12O6 + 12NADP+ + 18ADP + 18Pi この反応を正確に書くと 6CO2 + 12NADPH + 18ATP → フルクトース-1,6-ビスリン酸 + 12NADP+ + 18ADP + 16Pi カルビン回路および光化学反応の収支式をまとめると以下の反応式となる。 6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6H2O + 6O2 この式は好気呼吸 の収支式の逆反応であり、炭素消費および固定の収支が極めて巨大な生態系 視野でもうまく行くことが理解できる(→炭素循環 )。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ %E5%85%89%E5%90%88%E6%88%90 トランス・モダン認識と「内なる宇宙」:トランス・モダンの内面感性
以下、Kaisetsu氏と愚樵氏とのトランス・モダン的認識に関する「差異共振」的対話であるが、実に意味深長である。この「感情」、「感応」、「感性」、「パトス」、「共感」、「内なる自然」等々の問題は、きわめて重要である。今は余裕がないので、詳述的にコメントできないが、一言言えば、その通りである。
また、安部公房であるが、学生の頃よく読んだ作家である。引用されている『砂の女』はおそらくいちばんの傑作ではないだろうか。 とまれ、Kaisetsu氏の指摘で、安部公房の作品世界が、即非空間であることがわかった。そう、「情感」的には、いわば、乾いた叙情性(ドライ・リリシズム)があるのであるが、それも即非的感性と言えよう。 思うに、安部公房は、村落共同体的日本を批判的に見ながら、何処にもない故郷(ユートピア)を求めていた。その「何処にもない故郷」とは、正に、「内なる自然」と通じると考えられる。 また、愚樵氏の述べている「共感性」等の視点は、実は、誤解されている英国の作家D. H. ロレンスが既に提唱しているところである。晩年の『死んだ男(逃げた雄鶏』はいわば、差異共振コスモス、絶対的差異共振的コスモスを詩的に表現した中編小説である。 参照: D.H.ロレンスの『死んだ男』の画期的独創性:二項対立から不連続的差異へ http://ameblo.jp/renshi /entry-10009910869.html 又は D.H.Lawrenceの『死んだ男』 http://ameblo.jp/renshi /theme-10000374060.html ******************* 不思議なこと。同じ所を見ているという感覚。 〔トランス・モダン〕へ至るには、各々のパトスへの没入――すなわち【共感】――が必要です。〔トランス・モダン〕は【共感】の機序の探求であり、その探求を支えるのは「内なる自然」への信仰です。) という愚樵氏の言葉です。 つまり、「砂の女」も、「内なる自然」の物語であり、しかも、この小説の巧妙な点は、内なる「砂の女」が、外なる「砂の女」と差異共振している点だと得心したのです。 その媒体(Media)として、「砂丘」と「砂丘の大きな穴」が設定されています。そうして、勿論、 Media Pointとして主人公(の内なる自然)が設定されています。 砂丘の穴の外、穴の中、穴の中の人間の心の中。 これらが、三重奏、三つ巴の共振をしているのです。 砂丘の穴の「外」は物理的には見えないから、結局は、人間の心の中と同値です。 「男」は、「砂の女」の「穴」に墜ちたという設定とも取れて、多次元の「相克・相乗」が生じています。 「砂の女」は、「砂である女」とも読めますから。 愚樵氏が「内なる自然」を旅されておられる時、海舌も「内なる荒野」を旅していたように想います。 http://blog.kaisetsu.org /?eid=765851 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 参照: 〔トランス・モダン〕を阻むもの 2009-07-01 当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」〜好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に 『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論) 『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu) の順序でご覧になってください。 http://gushou.blog51.fc2.com /blog-entry-271.html 愚樵空論
2009年07月01日(Wed)▲ページの先頭へ
近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性:Ver2
今日・現代、トランス・モダン的転回の時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。) とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。) 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。) しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。 追記:現代日本の「お笑い」似非文化もポスト・モダンであり、また、石原都知事、東国原知事もそうであろう。そう、アメーバ麻生首相もそうである。 参考: シミュラークル しみゅらーくる(読書 ) kokada_jnet フランス の思想家 、ボードリヤール が提唱した概念 。ポストモダン 社会 における、オリジナル なきコピー のこと。 元来は文化人類学 の用語であり、ある土地の伝統 文化が滅びてしまった後、後世の人間 がそれを惜しんで復活させた「まがいもの文化」を指す。 ボードリヤール 『シミュラークル とシミュレーション 』(ISBN:4588001361 )の冒頭から引用 。 「シミュレーション とは起源 http://d.hatena.ne.jp/keyword /%A5%B7%A5%DF%A5%E5% A5%E9%A1%BC%A5%AF%A5 %EB ##################### 存在論的、広告的、キャラクター的 初出:『広告』2000年3+4月号、博報堂 そもそも、われわれがいま生きているのは複製技術の時代です。何でもコピーができてしまう。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術の時代における芸術作品』という有名な論文がありますが、そこでベンヤミンが取り上げたのは「アウラの消失」という問題だった。アウラ、つまりオーラです。1個しかないオリジナルのものにはオーラがある。たとえば油絵の絵画にはオーラがある。それに対して、コピーされたものにはオーラがない。絵画を印刷するとオーラがなくなる、という話ですね。オーラがなくなると、すべてがシミュラークルとして消費される。それが複製技術の時代であると。「シミュラークル」という言葉をまだベンヤミンは使っていませんが、おおむねこのようなことを彼は主張したわけです。 それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独得のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってくしまう。 例えば最近の立っているキャラとしては、PSソフト「どこでもいっしょ」のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのCDにも同じトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。むろん、それぞれのトロは、飼主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかないですからね。全部決まり事なんですよ。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。 http://www.hirokiazuma.com /texts/character.html ################### Simulacra and Simulation From Wikipedia, the free encyclopedia Simulacra and Simulation (Simulacres et Simulation in French ) is a philosophical treatise by Jean Baudrillard that discusses the interaction between reality, symbols Overview “ The simulacrum is never that which conceals the truth--it is the truth which conceals that there is none. The simulacrum is true.[1] ” Simulacra and Simulation is most known for its discussion of images, signs, and how they relate to the present day. Baudrillard claims that modern society has replaced all reality and meaning with symbols and signs , and that the human experience is of a simulation of reality rather than reality itself. The simulacra that Baudrillard refers to are signs of culture and media that create the perceived reality; Baudrillard believed that society has become so reliant on simulacra that it has lost contact with the real world on which the simulacra are based. Simulacra and Simulation identifies three types of simulacra and identifies each with a historical period: 1. First order, associated with the pre-modern period, where the image is clearly an artificial placemarker for the real item. 2. Second order, associated with the industrial Revolution , where distinctions between image and reality break down due to the proliferation of mass-produced copies. The item's ability to imitate reality threatens to replace the original version. 3. Third order, associated with the postmodern age , where the simulacrum precedes the original and the distinction between reality and representation breaks down. There is only the simulacrum.[2] Baudrillard theorizes that the lack of distinctions between reality and simulacra originates in several phenomena: 1. Contemporary media including television , film , print and the Internet , which are responsible for blurring the line between goods that are needed and goods for which a need is created by commercial images. 2. Exchange value , in which the value of goods is based on money rather than usefulness. 3. Multinational capitalism , which separates produced goods from the plants, minerals and other original materials and the processes used to create them. 4. Urbanization , which separates humans from the natural world . 5. Language and ideology, in which language is used to obscure rather than reveal reality when used by dominant, politically powerful groups. A specific analogy that Baudrillard uses is a fable derived from On Exactitude in Science by Jorge Luis Borges . In it, a great Empire created a map that was so detailed it was as large as the Empire itself. The actual map grew and decayed as the Empire itself conquered or lost territory. When the Empire crumbled, all that was left was the map. In Baudrillard's rendition, it is the map that people live in, the simulation of reality, and it is reality that is crumbling away from disuse. The transition from signs which dissimulate something to signs which dissimulate that there is nothing, marks the decisive turning point. The first implies a theology of truth and secrecy (to which the notion of ideology still belongs). The second inaugurates an age of simulacra and simulation, in which there is no longer any God to recognize his own, nor any last judgement to separate truth from false, the real from its artificial resurrection, since everything is already dead and risen in advance. [3] Thus, Baudrillard further distinguishes three orders of simulacra associated with three historical periods: first order simulacra belong to the pre-modern era in which images were clearly copies or representations of some original; second order simulacra arise with the industrial revolution, photography and mass reproduction technologies in the nineteenth century - the image obscures (dissimulates) and threatens to displace the real; third order simulacra are part of our postmodern era; the image is said to completely precede and determine the real, such that it is no longer possible to peel away layers of representation to arrive at some original. It is important to note that when Baudrillard refers to the "precession of simulacra" in Simulacra and Simulations, he is referring to the way simulacra have come to precede the real in the sense mentioned above, rather than to any succession of historical phases of the image. Referring to "On Exactitude in Science ", a fable written by Borges , he argued that just as for contemporary society the simulated copy had superseded the original object, so, too, the map had come to precede the geographic territory (c.f. Map–territory relation ), e.g. the first Gulf War (see below): the image of war preceded real war. Henceforth, it is the map that precedes the territory - precession of simulacra - it is the map that engenders the territory and if we were to revive the fable today, it would be the territory whose shreds are slowly rotting across the map. [4] [edit ] Criticism With such reasoning, he characterised the present age ― following Ludwig Feuerbach and Guy Debord ― as one of "hyperreality " where the real object has been effaced or superseded, by the signs of its existence. Such an assertion ― the one for which he is most criticised ― is typical of his "fatal strategy" of attempting to push his theories of society beyond themselves. Rather than saying, that our hysteria surrounding pedophilia is such that we no longer really understand what childhood is anymore, Baudrillard argued that "the Child no longer exists".[5] Similarly, rather than arguing ― as did Susan Sontag in her book On Photography ― that the notion of reality has been complicated by the profusion of images of it, Baudrillard asserted: "the real no longer exists ". In so saying, he characterised his philosophical challenge as no longer being the Heideggerian /Leibnizian question of: "Why is there something, rather than nothing?", but, instead: "Why is there nothing, rather than something?"[6] ・・・・・ Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki /Simulacra_and_Simulation " Categories : Postmodernism | Publications about hyperreality | Philosophy books | Metaphysics literature | Dichotomies ************************** イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。 http://mainichi.jp/select/world /news/20090701ddm0070300 76000c.html 近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性
今日・現代、トランス・モダン的転回をしている時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。) とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。) 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。) しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。 ***************** イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。 http://mainichi.jp/select/world /news/20090701ddm0070300 76000c.html
2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
構造主義からトランス・モダンへ:Kaisetsu氏の重要な解明
本件の進展を具体的に検証している。コンパクトながらも、トランス・モダン哲学の要点を明確に提示している。
トランス・モダン哲学=プラトニック・シナジー理論は、必然、あるいは、摂理である。これは、創造というよりは、宇宙、自然、社会の真理の開示(「黙示録」)である。 *************** 「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。 以下、冒頭引用。 次の愚樵氏のブログに、 「選択の限界」〜好き嫌い 2009-06-25 次のような問題が出ています。 会社員 ・・・ もしここに手榴弾が投げ込まれて、誰かが抱え込まなければ全員が死んでしまう場合、実際どうしますか? 率先して、手榴弾を抱える人はいるんでしょうか? 数理経済学者 その場合、「集団的合理性」は、誰かが犠牲になって抱えるよう命じますが、「個人的合理性」は自分以外の誰かが抱えることを命じます。囚人のジレンマから社会的チキンゲームに至る議論の根底にあるのが、この2つの合理性の衝突なのです。 http://blog.kaisetsu.org /?eid=764614 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 検討問題:西欧キリスト教の滅亡とイスラム教・ユダヤ教の発展:日本はゾロアスター教化すべきだ
米国のキリスト教は一先ずおいて、西欧キリスト教について考えると、もはや、力をもっていない。逆に、イギリスでは、クリスチャンは違和感をもたれている。
つまり、西欧では、キリスト教は死んだのである。思うに、神が人になるとは、邪教であると言ったが、実は、それは、神が無力になることではないのか。超越神であり続けてこそ、神の威信があるのではないだろうか。 この点では、イスラム教やユダヤ教は強力であると考えられる。人となった神の宗教とは、近代化・世俗化がなされると、意味がなくなるのである。 では、米国のキリスト教とは何か。これは、民主主義と結びついているのである。いわば、国是である。この神は、超越神である。キリストではないだろう。 追記:日本の宗教伝統である神道/仏教は、これまで述べたように、ゾロアスター教と融合すべきである。これが、トランス・モダン日本の文化の基礎となろう。 Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation 参考:以下のサイトの信憑性は不明であるが、1の定義には驚く。根源的な三神ということは、記紀の三神と通じるのではないか。後で検討したい。 追記:古事記では以下である。 ###引用開始### 別天(ことあま)つ神五柱(いつはしら)独神(ひとりがみ) * 天之御中主神 (あめのみなかぬし)独神、天原の中心の神 * 高御産巣日神 (たかむすび)独神、生成力の神格化 * 神産巣日神 (かみむすび)独神、生成力の神格化 * 宇摩志阿斯詞備比古遲神 (うましあしかびひこぢ)独神 * 天之常立神 (あめのとこたち)独神 ###引用終了### http://ja.wikipedia.org/wiki /%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98 天之御中主神 がアフラ・マズダ、 高御産巣日神 がミトラ、ないしは、スプンタ・マンユ(聖霊)、 神産巣日神 がアナーヒター(Media Point?) であろうか。 **************** ゾロアスター教の神話 ――ゾロアスター教の創世神話―― 1.ゾロアスター教の定義 マズダー教、ミトラ単一神教、女神アナーヒター崇拝を折衷し、アフラ=マズダー、ミトラ、アナーヒターを至高三神として崇める宗教。 http://homepage2.nifty.com/Mithra /HP_Mithraism_Myth_Zoroastrianism.html 短絡的な橋下&東国原のダミー新党結成
今度の歴史的な衆院総選挙であるが、結局、Kaisetsu氏が指摘しているように第二の小泉「構造改革」路線と脱「構造改革」路線の決戦を意味する。
前者は、悪神路線であり、後者は善神路線である。しかしながら、民主党内にも悪神路線が内在しているし、鳩山邦夫氏のように自民党内にも善神路線は存在する。 政党という言葉、同一性の言葉に騙されてはいけない。 とまれ、再び、愚民層が悪神の戦術にひっかかるかどうかが、勝敗のポイントである。二匹目の泥鰌がいるか。 問題は大不況という大惨事があり、地方が零落しているのである。これは前回の衆院選挙とは異なる「質」である。没知性のマスゴミ路線が勝利するのか、それとも、知性の路線が勝利するのか。 人間は言葉ではなかなか理解しないが、身に応えると反省する傾向がある。それは、精神的身体の苦の経験である。目覚めた層が多少あるだろう。 結局は、同一性資本路線が差異資本路線かであるが、後者が明確になっていないだろう。同一性資本路線が、日本を亡国的にしたのである。 明治維新は地方武士によって為されたのである。地方人士が平成維新の原動力となると思われる。 ################# * 2009年06月27日 o 究極の民主党つぶし、それは橋下、東国原の新党結成だ new!! * 2009年06月24日 o 異様な局面からお笑い局面に移った日本の政局 2009:06:24:07:46:50 * 2009年06月23日 o 米国の元捕虜に謝罪した藤崎駐米大使 天木直人のブログ 参考: ◆ 2009/06/27(土) 知らぬは 自民党内の “抵抗勢力” だけ… 来たる総選挙は,このままでは自民党は完敗する. そこで “起死回生の秘策” が模索されることになる. . たとえば,細田博之,笹川尭,保利耕輔ら人気ゼロのトリオ (党三役) を…, 浮動層やB層に人気がある,舛添要一,石原伸晃,石破茂らに変えて選挙を闘う! という案である. この若手人気トリオを従えて選挙戦の陣頭に立つ! というのが麻生総理の願望だ. . ほかにも…, 鳩山邦夫と麻生総理が仲直りし,鳩山邦夫が閣内に戻る…, あるいは,小池百合子や山本一太を閣内に入れる…, といった選挙向けの内閣改造案も出たようである. . しかし,どれも中途半端な凡手だ. 沈みはじめている自民党という泥舟は,姑息な応急処置では到底助からない. そこで出てきたのが,ビックリ仰天の “起死回生の秘策” ,すなわち…, 東国原英夫が自民党総裁候補として自民党の先頭に立つという “究極の秘策” だ. . この “究極策” は,たんなる “案” ではなく,すでに規定の路線だ.確定している. つまり,米国奥の院も,日本の財界も,霞ヶ関も,電通も,検察も,皆了解している. (知らないのは,自民党内の “抵抗勢力” だけだ.) マスコミは総揚げで “究極策” を全力応援せよ! との “絶対命令” も発令済だ. マスコミも政権交代後の “弾圧” が恐いので,東国原の自民党を全面応援だ. . いまや,東国原英夫はマスコミ界において,そのまんま帝王だ. 日本のマスコミを支配する “恐ろしい権力 (absolute power)” の存在を知って…, ビートたけしは,東国原英夫に対する態度を180度変えた. 昔のように 「おまえ!」 とか 「ひがし!」 などとは呼ばなくなった. 「知事,知事」 と呼んで,ほとんど幇間.可哀相なほど萎縮している. いっぽう,東国原英夫は自信に溢れている.ほんの少しだがオーラが立ってきた. 東国原英夫. この男は,もう “昔のまんま東”,いや “そのまんま東” ではないのである. 飯山一郎の小さなHP:低下低下=てげてげ ***************** 「モノ言う知事」に共感? 中部圏の知事にアンケート 2009年6月28日 朝刊 次期衆院選の日程が取りざたされる中、大阪府の橋下徹知事が支持政党の表明に向け、自治体の首長でつくるグループを立ち上げる方針を示し、波紋を広げている。宮崎県の東国原英夫知事も国政への意欲を示すなど、「モノ言う」知事に、あらためて注目が集まっている。この地方の知事に、その動きについて聞いた。 ■橋下知事呼び掛けの新グループに参加するか 愛知・神田真秋、三重・野呂昭彦、長野・村井仁の3知事はそろって参加を否定。 知事が支持政党を鮮明にすることに対しても、神田知事は「心情は理解できる」としながら「地方分権だけを取り上げての表明は適当ではない」との意見。野呂知事も「住民に近い立場から国に意見を言うことは大事だが、自分の考えている議論の枠組みとは違うから加担しない」とする。 一方、滋賀県の嘉田由紀子知事は橋下知事の誘いに対して回答を保留したと言い、「各党のマニフェストがそろった段階で考えたい」と含みを持たせた。 ■地方分権は国政の動きがないと実現しないか 岐阜・古田肇知事は「地方分権については、国も地方もコンセンサスがあると思う。それぞれが取り組めばいい」との考え。 神田知事は「真の地方分権へと発展させるには、国政レベルの政治の力も不可欠」。村井知事は「中央の政局にかかわって、手を突っ込むことでしか、地方分権が実現できないとは考えていない」とする。 「中央集権体制の弊害は、地方でこそ実感する。地方から声を上げないと何も変わらない」と話すのは嘉田知事。 野呂知事は「地方分権は地域主権確立のための手段。直轄負担金なども、地域主権社会を考える中での議論が大事だ」とした。 ■東国原知事の国政転身の動きをどう見るか。自身の転身の可能性は 国政への転身を考えているとした知事はいなかったが、自民党から出馬要請を受けた東国原知事について、嘉田知事は「分権を実現したいという強い思いについては共感する」と理解を示す。 ただ、ほかの知事からは距離を置くコメントが相次いだ。野呂知事は「東国原知事のことは論評したくない」。神田知事は「コメントする立場にない」と回答を避け、村井知事は「それぞれの考えで行動しているんだと思う」とするにとどめた。 http://www.chunichi.co.jp/article /national/news/CK2009062802000154 .html?ref=rank イデアとは具体的観念・現実的観念である:イデアは現象を生む:物質こそ抽象である
イデアと言うと、なにか非現実な、あるいは、形而上学的な理念・観念と思われるだろう。
しかし、PS理論におけるイデアはまったく異なる。イデアは実に現実的である。現実の本質・本体・実質と言える。 イデアこそ、現実の核心であると言えるのである。そう、イデアは現象を生む。これは実に驚異的にすばらしい。奇跡的でもある。いわば、自然の天才性である。 近代においては、現象と物質が混同されているので、人間の認識・知覚は盲目になっているのである。小泉元首相等のいんちき政治家に騙されるのも、イデア ⇒現象と物質との区別がついていないからである。そう、イデアはエネルギーである。あるいは、デュナミス/エネルゲイアである。そして、物質はエンテレケイアである。 アリストテレス哲学には現象に当たる用語がないようである。おそらく、エネルゲイアに含まれるかもしれない。 追記:あるいは、エンテレケイアを現象とするべきかもしれない。この点は後で検討したい。
2009年06月28日(Sun)▲ページの先頭へ
プラトニック・シナジー理論の流布
プラトニック・シナジー理論の流布
テーマ:プラトニック・シナジー理論 以下、PS理論でGoogleで検索したらでてきたブログ記事であり、PS理論を実に的確にまた敷延して説明している。見事に正鵠を射ている。 また、共振と反共振という考えも興味深い。 ************************** [296] 混沌としての空っぽの器(1) From: 生成門 イメージ 混沌としての空っぽの器(1) <補完共振> 四次元能では、様々なナビゲーターとシムダンスをしています。ここで紹介するのは、rensi氏が主催するプラトニックシナジー(PS)理論です。 四次元能全体の文脈で、イデアと現象が交差する複素平面、自己認識の方程式{i*(-i)⇒1}、空(メディアポイント)が出てきたら、PS理論からの受売りです。ただし、独自の解釈をしていますので、忠実な受け売りかどうかは怪しいかもしれません。詳しくはPSのHPを参照してください。 http://ameblo.jp/renshi/ このHPの最初に、「ポスト・モダン理論を乗り越えるトランス・モダン理論として、プラトニック・シナジー理論を深化させています。非常にシンプルですが、多様な領域に適用可能だと考えています。」というイントロがあります。四次元能は、その適用を臨床的に実験していると思ってください。 その中でも、PS理論の中核はなんといってもイデアと現象が交差するメディアポイントでしょう。ここをしっかりと抑えておかないとせっかくのすばらしい理論も応用の段階で、とんだ間違いを犯してしまうでしょう。先端の物理理論を学んで、平和利用と称して原子爆弾を作ってしまうようなことなりかねません。 今回は、その真髄に触れてみたいと思います。ただし、そのまま紹介しても、ちんぷんかんぷんなので、独自の解釈をしていきます。ですから、タイトルも「メディア・ポイント」ではなく「混沌としての空っぽの器」です。詳しくは「英知の探求」を参照してください。 http://antares111.exblog.jp/5772459/ 以下、編集引用しました。 http://www.c-player.com/ad00178 /message/20090613?format=time 次も興味深い。 発言正4面体イデアはまるで生き物(2) (0) 発言正4面体イデアはまるで生き物(1) (0) シムダンス「四次元能」 (サークルID:ad00178@circle)
2009年06月26日(Fri)▲ページの先頭へ
精神と身体:ヒトとサル:精神的身体と物質的身体
進化論の問題は、精神的身体ではなく、物質的身体中心である点である。精神的身体から見ると、ヒトとサルとは不連続である。何らかの「精神の侵入」という変異があったと考えられる。
今はざっと言うだけだが、精神的身体の形成があるのである。それは、⇒+1である。しかるに、物質的身体は、+1である。おおざっぱにいうと、気的身体がヒトの根源的身体である。 しかし、知的身体もなくはならない。これは、自己的身体ではないだろうか。また、差異的身体と言えよう。つまり、知的・自己的・差異的身体である。そして、これは、差異共振・即非的身体であり、また、言語的身体である。 結局、精神的身体と物質的身体の絶対的区別が必要であるということである。 これを貨幣論に適用すると、精神的身体としての貨幣と物質的身体の貨幣があるということになる。あるは、差異的身体貨幣と同一性的身体貨幣である。 デジタル・マネーは当然、後者である。トランス・モダン貨幣とは、前者である。それは、精神性をもった貨幣である。Kaisetsu氏が提唱される銀本位制はそのようなものである。 ヒトとサルの共通の祖先?=4700万年前の化石「アイダ」−NY 【ニューヨーク19日時事】ノルウェーの研究者率いるグループは19日、米ニューヨークのアメリカ自然史博物館で、4700万年前の霊長類のほぼ完全な化石「アイダ」を公開した。同グループはアイダについて、ヒトやサルの共通の祖先に非常に近いとみており、進化の過程解明に大きな役割を果たすと強調している。 米メディアによれば、アイダはキツネザルのような姿をした生後約9カ月のメスで、体長は約90センチ。指先のつめはヒトに近い特徴を備えているという。草食性で、水を飲んでいる際にガス中毒により意識を失って湖底に沈み、化石化したとみられている。(2009/05/20-10:22) http://www.jiji.com/jc/zc?k= 200905/2009052000252& rel=j&g=afp
2009年06月24日(Wed)▲ページの先頭へ
諸検討問題:後で考察を行いたい。
1)同一性狂気:人間の脳と身体
2)光と現象と物質 3)物質主義的都市の終焉と自然的都市の勃興:物質的空間は不快である。コンクリートの建物が林立するのは、ストレスをもたらす。閉塞感情をもたらす。 4)キリスト教はカルトである。キリスト教が近代主義を生んだ。 5)気の文化の復興へ:気は差異共振エネルギーである。 6)Media Point教育へ向けて 7)東洋文化は本来Media Point文化であるが、父権文化の影響で、同一性主義へと傾斜した。西洋文化は、確かに、Media Pointがあるが、それが、キリスト教の影響で、徹底的に同一性主義に傾斜しているのである。 8)精神界について:西洋では近代以前までは、日本では、戦前までは、精神界が意識にあったと言える。しかし、西洋においては、コペルニクスの発見によって、日本では戦後、「天」が否定される。そして、その後、近代合理主義・近代的自我・唯物論が中心化される。 精神界ではなく、物質界や自我が主導的になるのである。否、精神界が否定されたのである。この結果、精神は否定・抑圧・排除されて、自我中心主義になり、相克するようになったと考えられる。万人に対する万人の戦争。 トランス・モダンとは、精神界の復興・復活でもある。例えば、「気」とは、精神界に属するものである。後でさらに展開したい。 9)自由について:愚樵氏が既に自由と自在について明快に説明されている。私なりに、「自由」感の発動について考察したい。自由と我が侭(自我中心主義)が混同されることの力学を考えたい。 10)ニーチェのディオニュソスとアポロについて:これは、2)の問題と関係する。思うに、ニーチェが考えていたのは、ディオニュソスとは超越性であり、アポロとは同一性である。しかしながら、ディオニュソスがアポロを生むという表現もあるのである。それは、PS理論から見ると、即非性である。つまり、 Media Pointにおいて、ディオニュソスとアポロが「一体」つまり、即非様相になるのである。差異共振化である。 このとき、アポロは同一性ではなく、差異共振現象における現象である。あるいは、光の現象である。例えば、黎明に耀く山頂はアポロ的である。あるいは、秋における夕焼けの西空もアポロ的である。 思うに、光の「極限」として同一性・物質形式があるのだろう。この同一性・物質形式を光の現象の下に、実体であると人間は一般に錯誤するのである。後でさらに述べたい。 追記:国家神道とは、人間が神になる思想(キリスト教)を背景にしていると思う。神になる思想(テオーシス)は、東方キリスト教の教義にある。 しかし、これは、危険な思想ではないだろうか。神にはなれないだろう。死んだら神になれると思うが(成仏)。 どうも、キリスト教は、神人一体の思想があり、シャーマニズムとは明確に異なる。後者は、神懸かりの宗教であり、神になることではない。 もし古代ギリシア人から見たら、神になる思想とはとんでもない邪教と考えただろう。超越性と物質性を一致させているのであるから。永遠と一時性を混同しているからである。端的に、神と人とは不連続である。
2009年06月21日(Sun)▲ページの先頭へ
オバマ大統領はイランにおける集会や言論の自由の価値を説く:イラン国民の絶対的差異の肯定である
オバマ大統領のスピーチが説得力があるのは、単純に、イラン政府を反民主主義として批判し、自由を求める民衆こそが民主主義であると声明を出しているのではないのである。つまり、近代的な二項対立、同一性主義ではないのである。
オバマ大統領は、具体的に(特異性的に)民衆の自由を求める運動への暴力行為を止めるようにイラン政府に述べているのである。そして、自由な権利を求める側に立つと述べているが、それは差異の肯定であり、同一性民主主義から批判しているのではないのである。差異民主主義である。 参照: ├オバマ大統領は声明で、「米国はこれらの権利を追求するすべての者と共にある」と強調。 冒頭引用: このような時こそ、日本の首相は、アジアの民主国家の一員として、イランに行き、オバマ大統領のように、「イラン政府が国際社会を尊重しようとするなら、自国民の尊厳を重んじ、威圧ではなく合意を通じて統治すべきだ」と説得するべきである。 日本国の首相が、アジアの危機が現在多発している現在、一地方選挙の応援に奔放する姿は、非常に見苦しい。 http://blog.kaisetsu.org/?eid =759813 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu ############## Obama condemns Iran crackdown By Roula Khalaf and Najmeh Bozorgmehr in Tehran and Daniel Dombey in Washington Published: June 20 2009 10:02 | Last updated: June 20 2009 22:45 President Barack Obama issued his strongest condemnation yet of Iran’s government crackdown after the country’s security forces used tear gas and batons against protesters on Saturday. On a day when riot police and plain clothes militia members clashed with opposition supporters demanding a re-run of this month’s election, Mr Obama made an unambiguous call for Iran to change course. ”We call on the Iranian government to stop all violent and unjust actions against its own people,” he said ”The universal rights to assembly and free speech must be respected, and the US stands with all who seek to exercise those rights.” He added: ”We mourn each and every innocent life that is lost.” In a further indication of escalating tensions, Reuters reported that Mir-Hossein Moussavi, Iran’s opposition leader, said he was ”ready for martyrdom”. Mr Moussavi said on Saturday he did not seek confrontation with the Islamic establishment, but was quoted by a witness as calling for a national strike if he is arrested. ”We are not against the Islamic system and its laws but against lies and deviations and just want to reform it,” he said on his website. http://www.ft.com/cms/s /0/c6a80dc8-5d78-11 de-a914-00144feabdc0 .html イランに暴力自制を要請 オバマ米大統領が声明 2009年6月21日 09時55分 【ワシントン、テヘラン20日共同】オバマ米大統領は20日、イラン政府当局が大統領選の不正を訴える改革派支持者らを強制排除している事態を受け、イラン政府に対し、市民への暴力を自制するよう求める声明をホワイトハウスを通じて発表した。 米イラン関係の修復を目指し核問題解決に向けた対話を重視するオバマ氏は、保守強硬派のアハマディネジャド氏が大勝した選挙結果を静観する構えを見せていたが、イラン政府を非難する姿勢に転じた。 一方、イランのファルス通信によると、大統領選で敗れた改革派ムサビ元首相は20日声明を出し、合法デモ禁止は「危険な結果」をもたらす恐れがあるとして、デモ容認をイラン指導部に求めた。ムサビ氏は声明で、イスラム国家と対決するつもりはないと強調、現在のイスラム指導体制への忠誠を誓った。 オバマ氏は「われわれはイラン政府にすべての暴力と不適当な行動をやめるよう求める。集会や言論の自由は尊重されなければならず、米国はその普遍的権利を行使しようとするすべての人を支持する」と強調した。 http://www.chunichi.co.jp/s /article/2009062101000015 .html 「妻は光の中へ旅立った」:PS理論とゾロアスター教:母権文化と天照「大女神」
「あの世」、他界を、伝統的には地獄、奈落、冥土、冥界等と呼んできたが、河野義行氏は、光の世界と考えている。これは、精神的イメージの転換が起ったと思われる。
これまで、現象の光と他界の闇の二元論であった。そして、闇が原点であったのではなかっただろうか。 しかしながら、PS理論から言うと、現象の光は、根源の光、Media Pointの光(超越光)に通じるのである。(これは、アフラ・マズダーの光なのか、スプンタ・マンユ〔善神〕の光なのか。しかし、これは、愚考であろう。両者は一如である。) ところで、私が超越光と呼んできたものは、e^iπ⇒-1ではないだろうか。現象の光は⇒+1ではなく、⇒ではないだろうか。これは問題提起にしておく。 とまれ、「あの世」、他界が光の「国」であるという精神イメージの転換は重要である。日本文化に質的転換が起きたと思われる。 神話学から見ると、他界を闇と見るのは、父権文化である。それに対して、母権・女神の文化でや、死はこの世の延長である。つまり、他界も光の世界なのである。 補足:闇を支配的に考える思考は、素人(白うと)と玄人(黒うと)、玄妙、幽玄、玄牝、等々の言葉に見られよう。これは、光から「本体」と感じられる闇を見ようとする見方である。 しかし、今やこの考えは、連続的思考である。PS理論は、ゾロアスター教復権を意味し、光の絶対的根源を説くのである。これは、当然、プラトン哲学の復権であるし、また、前父権文化の母権文化の復興を意味すると考えられる。多神教の復活でもある。 少し補えば、玄、darkとは、目に見えないという意味合いがあるだろう。しかし、それでも、連続的思考であることは否めない。 追記:母権文化とゾロアスター教との関係を検討課題としたい。もっとも、先には、ゾロアスター教が母権文化のシュメール文化を吸収したということを示唆したが。 追記2:キリスト教も「光」の宗教であるのに、どうして、私はキリスト教を批判するのか。これは、以前、述べたことであり、また、イスラム教からの批判と通じると思うが、超越的な神が、イエスという肉体に「受肉」するという教義が問題なのである。つまり、超越性の物質化がイエス・キリストにおいて為されたということなのである。そして、このようなことを教義とするのは、多様な宗教があるが、キリスト教だけである。(もっとも、国家神道においては、現人神としての天皇をイデオロギーとなったが、既述したように、国学はキリスト教の影響を受けていたので、そうなったと考えられる。) キリスト教の教父たちは、ギリシア哲学に基づいて、イエス・キリストを「ロゴスの受肉」と考えたが、これも、同様に問題である。 神懸かりならば、シャーマニズムで説明できるのである。沖縄の神女(かみんちゅ)とは、祭礼のとき、一時的に、神となるのであるが、それは神懸かりなのである。 PS理論的に言えば、(+i)*(-i)=+1これが、キリスト教なのであり、端的に誤謬・妄想・邪教である。 「妻は光の中へ旅立った」 河野義行さんが手記 妻は光の中へ旅立っていった。そして、私の中での事件は、昇華した−。8人が死亡した松本サリン事件から27日で15年。当初、容疑者扱いされた被害者の河野義行さん(59)=長野県松本市=が20日までに、共同通信に手記を寄せた。14年間、意識が戻らないまま昨年8月に亡くなった妻澄子さん=当時(60)=への思いをつづり、「家族は新しい人生に向かって歩き始めた」と記している。 2008年3月、寝たきりになっている妻の澄子さんに語り掛ける河野義行さん=長野県松本市 昨年6月19日、医師から「妻の余命は90日以内」と告げられた。病状をマスコミに公表した。会いたい人に、生きている間に会ってほしかったからだ。事件の担当刑事も訪れた。「もっと早くお見舞いに来たかったが、敷居が高かった。澄子さんごめんなさい」。そう語りかける姿を見て「彼の肩の荷がおりたように思えた」という。 「奥さんの様子がおかしい」。8月5日未明、病院から連絡を受けた。午前3時2分に病室に着くと、呼吸は停止していた。だが心臓は動いている。2分後、河野さんに抱かれながら息を引き取った。「自分の腕の中で妻を看取ることが出来たことは、大きな妻からの贈り物だった」。不思議なほど悲しみの感情はわかなかった。 それからの50日間、出会いからの時を振り返った。「『面白かったね』と語り合えた今生最後の時間」を過ごした。 事件当初、無言電話や嫌がらせ電話に悩まされ、「平凡な生活が幸せであることを松本サリン事件で学んだ」。 それでもこの15年間、自身の「理不尽な体験」を踏まえ、犯罪被害者の救済や冤罪被害者の支援にかかわってきた。長男は昨年結婚し、長女も秋に結婚する。次女はバンコクで多忙な日々を送っているようだ。 手記はこう結ばれている。「生きている限り、自分の環境を変えて、色々なことにチャレンジする人生も悪くない。そして、人生を終えるときの言葉は用意できている。『あー、面白かった』と」 http://www.47news.jp/CN/ 200906/CN2009062001 000663.html
2009年06月20日(Sat)▲ページの先頭へ
西洋の東洋干渉:Let others govern their own countries
テーマ:先住民問題・アフリカ・中南米・中央アジア
まるでアフガニスタンが米国の領土であるかのように、以下の記事はアフガニスタンの建て直しプランを説いている。 これは、内政干渉ではないのか。余計なおせっかいではないのか。理論的には、サイードの説いたオリエンタリズムということになるだろうが、それにしても、度を越している。この西洋文明の東洋文明に対する僭越な干渉が、混乱・内戦等の根因であると思われる。 パターナリズムとも言えるが、とまれ、干渉したくてしょうがないのである。これは父権主義、キリスト教的父権主義である。Media Pointが同一性志向性へと転化してしまっているのであり、東洋文明は西洋の同一性に暴力的に一致させられるということなのである。 Obama's War : Starting Over on Development U.S. Pursues a New Way To Rebuild in Afghanistan By Rajiv Chandrasekaran Washington Post Staff Writer Friday, June 19, 2009 The idea to transform a vacant tract near the Afghan city of Mazar-e Sharif into a sprawling commercial farm, with miles of strawberry fields and thousands of cashmere goats, began with an entreaty from President George W. Bush to the billionaire chairman of Dole Foods at a 2006 Republican Party fundraiser. http://www.washingtonpost.com /wp-dyn/content/article/2009/06 /18/AR2009061804135.html ?wpisrc=newsletter 羽生名人による将棋のイノベーションと差異共振 テーマ:プラトニック・シナジー理論 以下の青色文字で強調した箇所は、正に、PS理論の差異共振性を意味しよう。「相手が自分と同じ価値観なり、同じビジョンを共有」するという点は一見同一性の視点に見えるかもしれない。この「同じ」というのは、実は、差異肯定のことであると考えられる。即ち、他者の差異を肯定することで、自己の差異との共振が生まれて、創造的になるということである。差異肯定と差異共振、これが、「同じ価値観」、「同じビジョン」ということの意味と考えられる。言い換えると、差異共振的普遍性への志向性である。 ################## イノベーションはなぜ起きたか(上) [2009年06月18日] 『・・・・・ところで僕は、ずっとひとつの疑問を抱いていました。なぜ羽生さんはある時期から自分の将棋研究の成果を公開し始めたのだろうか、と。1992年から2年半かけて刊行された『羽生の頭脳 』という全10巻の著作があります。彼の20代前半の大仕事です。あるいは、雑誌「将棋世界 」に1997年7月号から3年半にわたって書き継がれた「変わりゆく現代将棋」という連載があります。いずれも「勝つこと」を最優先にするプロ棋士であれば、当然秘匿しておくべき手の内を、惜しげもなくオープンにした著作です。驚きました。その理由について、羽生さんから明確な説明を聞いたことはないのですが、彼の書いたものを読み、彼との親交を深めていく中で確信したことがあります。ひと言で言えば、「将棋は2人で指すものだ」ということです。羽生さんは、将棋とは「他力本願的なところがある」「1人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして他者に委ねる。そういうものだ」という言い方をします。つまり、相手が自分と同じ価値観なり、同じビジョンを共有してくれないことには、いくら1人で「未開の荒野」を切り開いていったとしても、盤上に革命はいつまでも経っても起こりようがありません。盤上がより自由になり、そこに「もっとすごいもの」が現出するためには、対局する相手も自分と同じ志向性を持った仲間(当然勝ち負けを競うライバルですが)である必要がある。そうでなければ、「もっとすごいもの」を実現する機会は失われるばかりである、という心境に至ったのではないかと想像するわけです。つまり、2人で創造するゲーム、2人で真理を追究する将棋においては、仲間の存在を抜きにして「もっとすごいもの」は絶対に1人では作れないと悟ったのではないか。それが「知のオープン化」を実践した彼の内的動機ではなかったか、というのが僕の解釈です。」 イノベーションはなぜ起きたか(下) [2009年06月19日] JBpress(日本ビジネスプレス) これは正論だ:北朝鮮制裁は、同一性主義である:差異共振外交へ:ただし、新防衛体制の設置が必要 テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア 蓮池透さん「交渉に軸足を」 北朝鮮制裁問題で講演 拉致被害者蓮池薫さん(51)の兄の蓮池透さん(54)は18日、都内で講演し、北朝鮮に対する国連や日本独自の制裁措置について「制裁一辺倒で拉致問題が解決するのか疑問。今の閉塞状況に風穴をあけるため、交渉に軸足を移すことが必要だ」などと述べた。 透さんは「(北朝鮮の)狙いは米国との国交正常化と平和条約締結。(故金日成主席の生誕100年となる)2012年の『強盛大国』建設に向け焦りがあり、国威発揚のため核・ミサイル実験をしている」と分析。 「軍の強硬派が権力を持つならば、暴発の可能性もあり、制裁を決めた当事者はどこまで腹をくくっているのか」と不測の事態を不安視し「北朝鮮は日本から金を取りたくて仕方がない。金はアメにもムチにもなり、したたかに交渉してほしいが、できる政治家も外交官もいない」と嘆いた。 さらに「政府の言う拉致、核・ミサイル問題の包括的解決は都合のいい言葉。核が解決すれば拉致も解決すると被害者家族に思わせるのは酷だ」と批判した。 2009/06/18 21:08 【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/200906 /CN2009061801001030.html
2009年06月19日(Fri)▲ページの先頭へ
検討問題:フッサール現象学と「超越論的主観性」:客観的空間把握は主観的空間把握が先立つ
今は問題提起だけである。新しい地域に来て、巨大なスーパーがあり、最初、中で迷ってしまったが、今は、中で方向感覚がつくようになった。
これは、客観的認識というよりは、主観的認識である。主観性の「勘」に基づくと思われる。 つまり、⇒が基礎であり、⇒+1が主観的空間認識であり、+1だけを取り出すのは、客観的認識であり、唯物論的である。 PS理論はこの点については解明済みであるが、今の時点で少し考えたい。 「近代化」によって、認識は客体へと向けられ、主体・主観はきわめて疎かにされてきた。この超越的主観、絶対的主観の衰退が今日の日本の衰退をもたらしたとは言えよう。 本来、哲学が超越的主観・絶対的主観を説くべきものであったのであるが、フッサール現象学をハイデガーがまったく勘違いしたために、西洋哲学において、大混乱が起きたと考えられる。ハイデガーによる「災禍」がポスト・モダンの制約になった一面がある。 日本の戦後の哲学は、ほとんど西洋哲学の受け売りであり、フッサールと同時にハイデガーをも批判なく受容してきたのである。本来、フッサールとハイデガーの違いは、歴然としているのに、それに気づかないというのが愚鈍である。 思うに、哲学を学ぶ人は、あまり、文学に親しんでいないらしい。文学に親しんでいる人であれば、ハイデガーの『存在と時間』は、文学的な内面の叙述であることがすぐわかるのである。つまり、内在的な主観性の叙述である。 それに対して、フッサール現象学の「超越性」はきわめて根源的であり斬新なのである。既に構造主義を乗り越えているのである。換言すると、トランス・モダンの原点に達しているのである。 私にはなにか不思議に思えるが、どうして、フッサール現象学の「超越性」をそれ以後の西洋の哲学者はほとんど誤解したのか。 私の推測では、ユダヤ文化と近代西欧文化の本質的な違いがそれを説明するように思える。即ち、ユダヤ文化は、超越性を保持した文化であり、近代西欧文化は超越性を否定して、自我・物質性を中心にした文化であるということである。今はここで留めたい。
2009年06月18日(Thu)▲ページの先頭へ
東アジア共同体:絶対的差異共振としてのトランス・モダン・コミュニティへ向けて
以下の記事の最後の方は分かりにくいが主旨は明快である。これは、日本と朝鮮半島との共同体形成を提起しているのである。
ここでまったく私見というか、思い出を言うが、私が子供の頃、と言っても、非常に覚束ない意識の頃であるが、韓国ないしは北朝鮮へ帰っていった人たちがいた。ほとんど幻夢のようであるが、私が親しい人も帰って言った。子供の頃は、日本人も韓国人・朝鮮人も区別がなかったのである。 神道は本来、八百万の神々の宗教であり、同一性への拘りがないのである。思うに、トランス・モダンは、日本と朝鮮半島、そして、中国、台湾等々との「共同体」を形成すると予見される。 追記:国粋主義とは、キリスト教の影響を受けた国学の偏狭な発想に拠ると考えられる。それは、本来の神道ではありえない。 思うに、古代日本において、景教の影響を受けたのではないのか。スサノオが怪しいのである。キリスト教の神としてのスサノオ? 【韓国ブログ】日本の安定は朝鮮半島の統一と韓国との共同体が鍵 6月18日8時44分配信 サーチナ 【韓国ブログ】日本の安定は朝鮮半島の統一と韓国との共同体が鍵 拡大写真 北朝鮮の核実験やミサイル発射により警戒態勢が続く韓国。このような中で、南北統一を果たす事が、問題解決の最良の手段ではないかとする声も出てきている。韓国人ブロガーのドゥンセは、この南北統一について「日本も朝鮮半島の統一へと態度が変化してきているようだ」と述べている。 北朝鮮の核実験やミサイル発射により警戒態勢が続く韓国。このような中で、南北統一を果たす事が問題解決への最良の手段ではないかとする声も出てきている。韓国人ブロガーのドゥンセは、この南北統一について「日本も朝鮮半島の統一へと態度が変化してきているようだ」と述べている。 「日本は世界第二位の経済大国であった。しかし、その状況が今では変わりつつある。規模の面では、EUや中国は既に日本を越えているし、南米のブラジルやロシアもいつ追い越すか分からない。抜かされるのは時間の問題」と指摘。その上で、日本が経済低迷を脱する方法はひとつしかないとする。 「それは、韓国と経済共同体を結ぶ事だ。その場合、韓国や北朝鮮のどちらかを選択することはできないだろう。韓国を統一させて経済パートナーを作る事が、日本の世界経済軸を維持できる唯一の方法」と述べる。 だが、この韓国との連携案には、日本の国粋主義者たちから強い反発が起こるだろうとも予測。「経済的なことはまだ遠いが、今のところ北朝鮮の核問題が目の前にある。この問題は、今後日本に南北統一に対する葛藤が強まるのではないだろうか。南北が統一したなら、核の脅威は自動的になくなるのだから」と綴っている。(編集担当:橋本あゆこ) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a= 20090618-00000019-scn-kr 記事URL 各地におけるオタマジャクシ落下騒動と大気のMedia Point
この変異・怪異であるが、以下の「つむじ風」説が今一つ説得力がないのは、今年突如増えたことを積極的に説明できない点にある。
今年は太陽活動は衰えているのであり、太陽による熱は弱いだろう。 思うに、「つむじ風」を生じさせる、別の原因があるのではないのか。端的に、気流の変異があるのではないのか。渦を作るには、空虚が必要であろう。空虚が多く生じているのではないのか。それは、大気のMedia Pointではないのか。今は問題提起に留める。 追記:ちなみに、蛙は、女神の動物である。 「オタマジャクシ」騒動 原因は「つむじ風」が有力 ・・・・・ そこで、有力なのは「風説」となる。風がオタマジャクシを巻き上げ、たたきつける可能性だ。金沢工業大学の饗庭貢教授は、最初に落下が報告された七尾市の中島市民センターの周辺の状況や地形、当日の気象状況を確認したところ、 「『つむじ風』が発生したことで、付近の水田からオタマジャクシが巻き上げられた可能性が高い」 と指摘する。「つむじ風」とは、小規模な渦を巻いた風のことで、気象台でも観測できないという。饗庭教授は中島市民センターの場合、次のような状況で発生したと推測する。 ――太陽が駐車場のアスファルト地面を熱し、建物の屋上にはエアコンの室外機が設置されていたことから上昇気流が発生しやすい状況だった。くわえて、水平方向からの風が建物にぶつかって、渦をまいた。その際、付近の水田のオタマジャクシを巻き上げた。しかも、水田では日中、水を止めており、オタマジャクシも巻き上げられやすい状況だったようだ。その後、風が凪いだとき、行き場を失ったオタマジャクシが落下した、というわけだ。 饗庭教授によると、全国で起きている落下現象も、同様の仕組みで説明できると見ている。もっとも、こうした状況は以前にもあったはずだが、ここ最近で発見例が相次いでいるのは、「報道で(オタマジャクシを)気に掛ける人が増えたのでは」とも話している。 http://www.j-cast.com/2009/ 06/17043376.html
2009年06月17日(Wed)▲ページの先頭へ
日本語の論理化へ向けて:日本語のトランス・モダン化:Media Pointと個と論理
以下の「因果関係は明確に分からず、使用中止は妥当」という日本語はおかしくないか。「因果関係は明確にはならなかったが、慎重を期して、使用中止は妥当と考えられる」とするのが正しい。
医学の教授は、論理学や数学の勉強をする必要がある。記者もそうである。あるいは、英語等を学ぶべきである。 追記:思うに、日本語の論理がいい加減なのが、日本の政治・経済・社会・文化を堕落・腐敗させてしまった要因ではないだろうか。論理と個の原理は結びついている。アソーバがその逆の証明である。 また、日本人が英語が苦手なのは、英語の論理が理解できないからではないのか。これは、問題提起である。 追記2:この点に日本の「貧困」の原因があるのではないかと思った。言語は本来、Media Point(個・絶対的差異の原理)と結びつく。しかるに、とりわけ、戦後日本はMedia Pointを否定しているので、言語・論理が、個・差異から乖離して、ご都合主義的になっていると考えられる。後で詳論したい。 ############## タミフル、10代使用中止を継続/厚労省調査会が決定 厚生労働省の薬事・食品衛生審議会安全対策調査会(座長・松本和則独協医大特任教授)は16日、服用と飛び降りなど異常行動との関連が疑われたインフルエンザ治療薬タミフルの10代患者への原則使用中止について「対策を変更する積極的な根拠が得られていない」として、中止措置の継続を正式決定した。 この日の会合では、専門家作業部会から、18歳未満のインフルエンザ患者約1万人を対象とした同省研究班の疫学調査結果を踏まえてまとめた「因果関係は明確に分からず、使用中止は妥当」との見解が報告され、調査会も「タミフルと異常行動の因果関係に明確な結論を出すことは困難だ」と判断した。 調査会は「(中止措置が決まった)2007年3月以降、転落死などの重大事故は報告されていない」と指摘。使用中止による安全対策には効果があると認め「措置は妥当だ」と結論づけた。 また、国に対して、措置が全面禁止ではなく、重症化のリスクが高い患者には10代でも使用できることを分かりやすく説明するよう要請。さらに新型インフルエンザ対策として、どのような状況でタミフルが使用できるかについての助言を関係学会などに求めた。 http://www.ehime-np.co.jp /news/kyodo/20090616 /ky2009061601001019.html
2009年06月15日(Mon)▲ページの先頭へ
PS理論的言語哲学の試み:差異共振現象表現としての日本語と同一性表現としての英語
今は余裕がないのでざっと述べるが、自己認識方程式で言語形式が説明できるのではないだろうか。
問題は日本語と例えば、英語である。 1)木を見る。ないしは、木が見える。 2)I see a tree. 又は、I see trees. 「わたし」は+iであり、「木」は-iである。しかし、「わたし」と「木」は差異共振を起す。その差異共振現象の表現が、「木を見る」又は「木が見える」と考えられる。即ち、「わたし」は「木」であり、且つ、「わたし」は「木」ではないということであり、「わたし」は「木」であるが、「木を」という表現であろうし、「見る」が「わたし」は「木」ではないという表現であろう。 しかるに、英語では、「わたし」をIとし、「木」をa tree 乃至はtreesとしている。このとき、「わたし」と「木」は分離して、差異共振現象は表現されないのである。「わたし」Iという同一性、そして、「木」 a tree 乃至はtreesという同一性が表現の「アトム」・「元素」になっているのである。 今は問題提起に留める。
2009年06月13日(Sat)▲ページの先頭へ
ユダヤ教又は聖書問題:エローヒームとヤハウェ:母権と父権:ユダヤ教又は聖書は一神教なのか?
以下は簡単に問題を提示するだけである。
旧約聖書は実は、「二人」の神がいる。既述したように、エローヒーム(神の複数)とヤハウェである。私はこれまで、後者を徹底的に、絶対的に批判した。しかし、それは、ユダヤ教ないしはユダヤ文化を否定しているわけではない。というか、ユダヤ文化の偉大さは否定されようがないのである。 私見では、キリスト教が、ユダヤ教を歪めて、一神教化させたのである。ユダヤ教は、多神教である。そう、英国の偉大な作家、D. H. ロレンスは、旧約聖書は多神教的であると述べているのである。 端的に、エローヒームとヤハウェの「二人」が存することがそ小差である。 今は余裕がないのでここで留める。キリスト教こそ、人類の災厄である。後で精緻に検討したい。 追記:言うのを忘れたが、ニーチェは、旧約聖書を肯定し、新約聖書を否定しているのである。アンチ・キリストのニーチェである。 参照: (4) 旧約聖書 (1)エロヒーム そこで、わたしはこの三つの排他的一神教が共通して崇めている聖典である旧約聖書の創世記第1章〜2章を見て頂きたいと思います。 そこに出てくる神名は第一に「エロヒーム」です。これは「エル」(力)の 複数形です。「エル」自体が神名ですが、複数形の「エロヒーム」には 二つの意味があって、一つは「無限の力を持つ唯一の神」という意味で、尊厳の複数形とも言います。今一つは「神々」という意味で、「天界の 人間や、天使や、神の命を受けてこの世で働く人々」もその中に 含まれています。 *ユダヤ人がイエス様に「あなたは人間であるのに、 自分を神としている」と言って非難したとき、イエス様は答えました、 「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と 書いてあるではないか。神の言を託された人々が、 神々といわれているとすれば、(そして聖書の言はすたることが あり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、 『わたしは神の子である』と言ったからとて、 どうして『あなたは神を汚す者だというのか』と 反論しておられます(ヨハネ10:33〜36)。 従って、「エロヒーム」という力の複数形には、唯一絶対の神様から 出た天界の人々や、天使たちや、神の命を受けて地上に遣わされて働く人々までふくまれているのであります。これは後でまた取り上げます。 つまり「エロヒーム」 は神様の総称であり、神様と日本語でいうような 普通名詞です。 (2)ヤーウェ ヤーウェという神名が旧約聖書の中で初めて出て来るのは、創世記 第二章4節からです。口語訳では、「主なる神」と訳していますが、ヘブライ語では「ヤーウエ・エロヒーム」です。なぜ「ヤーウェ」を「主」と訳したかといえば、《出エジプト記20:7》に「あなたは、あなたの神『ヤーウエ』の名を、みだりに唱えてはならない」と戒められているからです。そこでイスラエル人は、 「ヤーウエ」の名が出て来ると「ヤーウエ」と発音せず、 「アドナイ」と発音することにしました。ヘブライ語で「アドナイ」とは「主」という普通名詞で、一家の主人、部族の長、王様など、すぺて上に立つ人を指して言う呼び名です。これを「ヤーウェ」に当てはめて、「アドナイ」と発音することにしたのです。 ちなみに「ヤーウェ」のヘブライ文字の下に「アドナイ」の母音を入れて発音すると「エホバ」になります。しかし、ユダヤ人は「エホバ」とは発音せず、「アドナイ」と発音しました。今に至るまでそれは続いていますから、日本語に訳すとき、「アドナイ」とせず、「主」と訳したのです。 そこで創世記第2章の「主なる神」は「ヤーウェ・エロヒーム」であって「ヤーウェという名の神」という意味であります。この場合「神」は普通名詞で、「ヤーウェ」は固有名詞です。 次に、「ヤーウェ」の名が神様から啓示されたのは《出エジプト記3:13〜15》です。モーセが神様に「イスラエル人からその神様の名は何ですかと聞かれたときに困るから、あなたのお名前を教えて下さい」と願いますと、神様は言われました、「『わたしは有って有るもの」(エイエー・アシェル・エイエー)』である。『わたしは有る(エイエー)』という方が私(モーセ)をあなたがたのところに遣わされました」と言いなさい」と。ところがその後で神様は別のことを言われます、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神イサクの神ヤコブの神である主(ヤーウェ)が、私をあなたがたのところへつかわされました」と。初めは「エイエー」と言われたのに、今度は「ヤーウェ」に変わっています。 しかも、「これは永遠にわたしの名、 これは世々のわたしの呼び名である」と語られました。「エイエー」とは 「わたしは有る」と言う意味で、「ヤーウェ」とは「彼は有る」と言う意味で す。つまり、「エイエー」は神様がみずから名乗り出たときの御名であり、「ヤーウェ」は人が神様を指して言う御名であります。 では、ユダヤ人は永遠に「ヤーウェ」と言い続けているのかと言うと、 そうではなく、「アドナイ」といっているのです。それでも神様が怒らない で、受け入れて下さるのはなぜかというと、「「永遠の名」とは言うものの実は便宜上 与えられた象徴的な呼び名だからです。 皆さん、ここが大切なところですよ、良く心に刻み付けて下さい。 (3)パーラー 第3に、神様の名として出て来るのは「パーラー」です。これが出て来るのは、《士師記13:18〜19》です。有名なサムソンの父マノアのところにヤーウェの使い(天使)が現れてサムソンの誕生を予告します。その時マノアが「あなたの名は何といいますか?」尋ねると天使は「わたしの名は不思議です」と答えます。「不思議」はヘブライ語で「パーラー」と発音 します。これも象徴的な名で、固有名詞ではありません。この後、神様を「パーラー」(不思議)とよんでいないのは、やはりこれが象徴的な呼び名であったからでしょう。 http://www.christ-ch.or.jp /4_topic/kyukyoku /kyukyoku_4.html 究極の調和を目指して 母権と父権:原差異共振⇒同一性⇒絶対的差異:物質文明の終焉とトランス・モダン精神文明の勃興:Ver2
近代文明・文化とは、総体において、差異(精神)と同一性(物質)の相対主義・連続主義・混合主義であった。
しかるに、トランス・モダン文明・文化とは、両者の絶対的分離を意味するのである。 前者は西洋近代哲学における精神と物質の統一の志向性に見ることができよう。 後者は、西洋哲学においては、ライプニッツ(スピノザの心身二元論は、基本的には、前者である)、キルケゴール、ニーチェ、(ウスペンスキー、)フッサールの哲学に存する。 前者の起源は、父権主義ではないだろうか。母権主義は、基本的には、差異共振主義である。しかるに、その後に父権主義が発生する。基本的には、このとき、原基の母権主義は、否定される。 しかし、ここで仮説であるが、父権主義ないしは同一性主義に傾斜した性格とそうでない母権主義ないしは差異共振主義の性格の二つの根源的な質が存するとしよう。あるいは、父権的民族と母権的民族があるのである。あるいは、同一民族でも、父権主義と母権主義が存しよう。とまれ、二つの質、同一性志向と差異共振志向を想定するのである。 歴史ないしは文化史的には、母権民族社会に父権民族が侵入して、征服することとなっている。このときの母権主義と父権主義との関係が実に根本的である。 母権主義が強力なところでは、父権主義が支配的になっても、母権主義は原基として否定されず、返って尊重されるのである。例えば、古代ギリシア社会がそうである。中心的都市のアテナイは、アテナイ女神の「司る」都市である。ギリシア「神話」(神伝)は、カオスに続き、ガイアから始めている。 ここにおいて、両者の混合が始まるのである。また、母権主義を徹底的に排除するユダヤ・キリスト教文化においては、同一性中心主義が支配的である。 だから、西洋文明とは、A)母権主義と父権主義の混合とB)父権中心主義との混淆と考えられる。 Bが近代主義において、中心化されると、Aにおける2つの要素が分離し出すのである。これが、トランス・モダンの動きである。(ポスト・モダンは、この不十分な動きではあった。) 即ち、父権主義=同一性主義と母権主義=差異主義が絶対的に分離するのである。物質と精神の分離である。 そう見ると、父権主義の人類史的意義は明瞭になる。それは、母権文化では生起しえなかった物質主義を生んだのである。言い換えると、物質科学・物質技術を生んだのである。これは、肯定すべきである。 しかるに、それは、人類の原基の精神をいちじるしく損なったのである。そして、今や、根源に螺旋的に回帰しようとしているのである。即ち、トランス・モダン・ゾロアスター教的時代となっているのである。 物質原理+1とは悪の原理・悪神(アンラ・マンユ)である。今や、e^iπ=-1の善の原理・善神(スプンタ・マンユ)が主導化するトランス・モダン時代である。これが意味することは、+1を滅ぼすことであるが、しかしながら、⇒+1を回復することである。即ち、差異共振原理を回復させることである。物質は仮象として、差異共振原理に包摂されることになる。 これが意味することは、精神文明の回帰である。これまで、物質に傾斜した文明の解体であり、新精神文明の創造である。 追記:スプンタ・マンユはアヴェスター語で、聖なる霊ということであるが、正に、「聖霊」である。フィオーレのヨアキムの「聖霊の時代」とは、スプンタ・マンユの発動する時代を指しているのではないか。それはまた、ヴィシュヌ(=アフラ・マズダー)の化身の時代ということになろう。 参考: スプンタ・マンユ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 ゾロアスター教 基本教義 ゾロアスター教 神々 アフラ・マズダー スプンタ・マンユ ヤザタ 、ミスラ ズルワーン アナーヒター ウルスラグナ フラワシ 神々(悪神) ダエーワ アンラ・マンユ アジ・ダハーカ アエーシュマ サルワ インドラ 聖典 アヴェスター 文学 シャー・ナーメ 人物 ザラスシュトラ カルティール ザッハーク 表 ・話 ・編 ・歴 スプンタ・マンユ (Spənta Mainyu) は、ゾロアスター教 に於いて崇拝される善神アムシャ・スプンタ の筆頭で、「創造」を司るとされる。その名はアヴェスター語 で「聖なる霊」を意味する。 創世神話によれば、世界の始まりの時、スプンタ・マンユはもう一人の創造神アンラ・マンユ と出会ったという。そして、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユ は「悪」を選択し、それぞれの原理に基づいて万物を創造した。 我々が存在しているこの現実世界は、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの被造物が混じり合い、互いに戦い合う「善と悪との戦場」である。 中世以降は最高神アフラ・マズダー と同一視される。 母権と父権:原差異共振⇒同一性⇒絶対的差異:物質文明の終焉とトランス・モダン精神文明の勃興
近代文明・文化とは、総体において、差異(精神)と同一性(物質)の相対主義・連続主義・混合主義であった。
しかるに、トランス・モダン文明・文化とは、両者の絶対的分離を意味するのである。 前者は西洋近代哲学における精神と物質の統一の志向性に見ることができよう。 後者は、西洋哲学においては、ライプニッツ(スピノザの心身二元論は、基本的には、前者である)、キルケゴール、ニーチェ、(ウスペンスキー、)フッサールの哲学に存する。 前者の起源は、父権主義ではないだろうか。母権主義は、基本的には、差異共振主義である。しかるに、その後に父権主義が発生する。基本的には、このとき、原基の母権主義は、否定される。 しかし、ここで仮説であるが、父権主義ないしは同一性主義に傾斜した性格とそうでない母権主義ないしは差異共振主義の性格の二つの根源的な質が存するとしよう。あるいは、父権的民族と母権的民族があるのである。あるいは、同一民族でも、父権主義と母権主義が存しよう。とまれ、二つの質、同一性志向と差異共振志向を想定するのである。 歴史ないしは文化史的には、母権民族社会に父権民族が侵入して、征服することとなっている。このときの母権主義と父権主義との関係が実に根本的である。 母権主義が強力なところでは、父権主義が支配的になっても、母権主義は原基として否定されず、返って尊重されるのである。例えば、古代ギリシア社会がそうである。中心的都市のアテナイは、アテナイ女神の「司る」都市である。ギリシア「神話」(神伝)は、カオスに続き、ガイアから始めている。 ここにおいて、両者の混合が始まるのである。また、母権主義を徹底的に排除するユダヤ・キリスト教文化においては、同一性中心主義が支配的である。 だから、西洋文明とは、A)母権主義と父権主義の混合とB)父権中心主義との混淆と考えられる。 Bが近代主義において、中心化されると、Aにおける2つの要素が分離し出すのである。これが、トランス・モダンの動きである。(ポスト・モダンは、この不十分な動きではあった。) 即ち、父権主義=同一性主義と母権主義=差異主義が絶対的に分離するのである。物質と精神の分離である。 そう見ると、父権主義の人類史的意義は明瞭になる。それは、母権文化では生起しえなかった物質主義を生んだのである。言い換えると、物質科学・物質技術を生んだのである。これは、肯定すべきである。 しかるに、それは、人類の原基の精神をいちじるしく損なったのである。そして、今や、根源に螺旋的に回帰しようとしているのである。即ち、トランス・モダン・ゾロアスター教的時代となっているのである。 物質原理+1とは悪の原理・悪神である。今や、e^iπ=-1の善の原理・善神が主導化するトランス・モダン時代である。これが意味することは、+1を滅ぼすことであるが、しかしながら、⇒+1を回復することである。即ち、差異共振原理を回復させることである。物質は仮象として、差異共振原理に包摂されることになる。 これが意味することは、精神文明の回帰である。これまで、物質に傾斜した文明の解体であり、新精神文明の創造である。
2009年06月12日(Fri)▲ページの先頭へ
時代精神という正しく善き風:トランス・モダン・ウィンド:麻生首相は投了した
賢い人は、時代の風(時代精神)を感ずる。しかるに、麻生首相は、残念ながらそうではなかった。
トランス・モダン・ウィンドに逆らえば、それは、自壊する。だから、自民党は崩壊が近い。 人心はすでに、ポスト小泉路線である。しかし、日本郵政問題という小泉路線を麻生氏が維持したことは、たいへんな誤謬である。まったき反動である。御陀仏である。 今度の衆院総選挙は、自民党は解党に近い打撃を受けよう。傲れる平家久しからず。 もし、麻生首相が英断して、鳩山総務相の意向を支持したら、自民党は延命しただろう。しかし、今や命運は尽きたのである。 ゾロアスター教的「天照大神と建速須佐之男命」:シュメール的母権民族とユダヤ的父権民族の闘争?
以下、Kaisetsu氏が述べている「天照大神と建速須佐之男命」 の「闘争」はきわめて示唆に富むと思われる。
父権神話とは、実に、龍退治をするもので、母権神話は龍を母神として、尊ぶものである。しかし、スサノオは、八岐大蛇を退治するのであり、この点で、父権的英雄なのである。これは、端的に東洋的ではないのである。この点は、これまで、私を悩ませていた問題である。 しかるに、スサノオを悪神と見るなら、父権的英雄、父権的神というのは、納得できるものになるのである。 つまり、母権的なアマテラス(大女神)と対抗するスサノオとは、正に、父権的な悪神ということである。これを日本神話は描いていると言える。 その視点から言うと、記紀は奇蹟的な書物である。今日残る書物としての神話は父権的視点から書かれたものだエリ、母権的視点から書かれたものは皆無に近いからである。シュメール文化の『ギルガメシュ叙事詩』でさえ、父権的視点から母権文化を批判的に表現しているのである。 ここの「天皇制」の問題がある。これは、父権制ではなく、母権制と見るべきである。 ただし、スサノオの存在からわかるように、父権的民族が「日本」に到来しているのである。推測では、彼らは、ユダヤ教やキリスト教の一神教をもった民族である。端的に、ユダヤ民族かもしれない。 参照: 古事記(日本書紀)の「天照大神と建速須佐之男命」の神話は、まさに、ゾロアスター神話だ。 http://blog.kaisetsu.org /?eid=754998 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu ハイデガーの「存在論」批判:「存在」は、実軸のゼロ点と虚軸のゼロ点の連続化である
岩波文庫になっているレヴィナスの『全体性と無限』ではなく、国文社の単行本の表紙にレヴィナスのハイデガー批判がある。引用する。
「唯物論は感受性の本源的機能の発見のうちにではなく、〈中立的なもの〉の優位のうちに存している。存在者の上位に存在というこの〈中立的なもの〉を定位すること、存在が何らかの仕方で暗黙裏に存在者を規定していること・・・・・これが唯物論を表明することである。近年のハイデガー哲学はこのような恥ずべき唯物論になりはてている。」 レヴィナスはハイデガー哲学を唯物論であるとして、辛辣に批判している。いわば、「存在」構造主義なのである。これは、同一性主義であるから、レヴィナスが唯物論というのは正しい。 結局、PS理論から言えば、「存在」は、実軸のゼロ点なのである。これは、確かに、一種の「穴」である。しかし、連続的な「穴」である。 そう考えると、デリダの差延もよく理解できよう。 否、そうではなく、「存在」と差延は、実軸のゼロから、虚軸のゼロを連続的に把握したものである。 実軸のゼロと虚軸のゼロとは不連続であることを、ハイデガーやデリダはまったく看過しているのである。 だから、その点では、両者はドゥルーズ哲学と共通である。 全体性と無限―外部性についての試論 (ポリロゴス叢書) (単行本) エマニュエル・レヴィナス (著), 合田 正人 (翻訳) カスタマー・レビュー 他者, 2003/12/26 By プリンス・プリンス - レビューをすべて見る 現代思想を齧った人たちは、得意げに「他者」という言葉を口にする。しかし「他者」とは何であろうか。本書に立ち返り、今一度「他者」について考えて欲しい。本書を読み終えた時、「他者」という言葉を口にすることが憚れるはずである。人が生きることとは他者との係わり合いである。そのことを認識した一冊である。 また昨今の世界情勢を考える上でも、本書は大いなる示唆を与えてくれるはずである。戦争を目の当たりにして。
2009年06月11日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性的父権制(一神教)と差異的父権制(ゾロアスター教、神道?)
私の頭の中は今、さまざまな神話で渦巻いているが、余裕がないで、詳述できない。簡単にポイントを述べよう。
私はこれまで、父権制を批判して、母権制を肯定してきたが、ゾロアスター教の、いわば、母権的父権制が考えられるので、これまでの考えを訂正しないといけないと思っている。 もっとも、これまで、ギリシア神話における母権制と父権制の闘争を述べ、両者の調和をギリシア神話は志向しているということは示唆した。 私は日本書紀におけるアマテラス(又は日の神)とスサノオの争いに興味がある。これは、実に微妙なのである。私はアマテラスは、ギリシア神話のアテナイ女神と同質のものではないのかふと思ったのである。アテナイ女神とはゼウスの頭から生まれた女神(処女神)である。これは、母権と父権の統合のように思えるのである。 そうならば、アマテラスとスサノオの戦いとは、新しい父権的母権と旧来の母権との戦いかもしれない。 思うに、母権制は精神性を失い、物質化したのかもしれない。それに対して、新しい父権的母権が古い母権と戦っているのかもしれない。それは、『ギルガメシュ叙事詩』のイシュタル(大女神)とギルガメシュの闘争に見られることと同質かもしれない。(Kaisetsu氏が以下に提起されていることは実に興味深いのであり、日を改めて検討したいと思う。) とまれ、これまで、私は父権主義から物質主義が生まれたと考えてきたが、父権主義からも生まれるが、母権主義から生まれると思われるのである。つまり、⇒+1の+1は、実は、母権的共振性の帰結と見ることができるからである。 それに対して、父権制は、否定して、-1を生むのである。しかし、これは、確かに、知性ではあるが、陰-iの否定であり、不十分なのである。 思うに、-iを肯定して、新たに、差異共振性を生まれるのではないだろうか。すると、i*i*i⇒-iとなる。これが、トランス・モダンではないのか。 今は思いつきを述べるだけであり、ここで留める。 追記:思うに、悪神であるが、これは、物質主義、同一性主義を意味する。これは、基本的には、母権社会では生じない。何故なら、母権社会は、差異共振文化であるからである。しかるに、⇒+1から+1へと転換する時代がくる。これが父権社会である。貨幣経済、国家の発生、自我の発生、文字の形成等があるだろう。 「わたし」と物質が結びつくのである。差異共振性を否定する同一性主義が発生しているのである。これは、端的に、父権文化によるのである。 では、絶対的善、善神はどう形成されるだろうか。絶対的善は、やはり、Media Pointと虚軸において発するだろう。言い換えると、超越性である。そして、善神は、+1を否定する-1ということだろう。 ここでヒンドゥー教を考えると、ヴィシュヌが、絶対的善に当たるだろう。そして、ヴィシュヌの化身が-1ではないだろうか。そして、悪神は当然、+1である。ブラフマンはMedia Pointだろうか。 また、シヴァ神であるが、それは、ブラフマンから生まれたということで、Media Pointから生まれる差異共振エネルギーではないだろうか。これは、創造であり、また、破壊の力となるだろうか。 悪神が→ならば、善神は←であろう。そして、これが、シヴァ神ではないか。後で整理したい。 参考: 事記(日本書紀)の「天照大神と建速須佐之男命」の神話は、まさに、ゾロアスター神話だ。 http://blog.kaisetsu.org /?eid=754998 『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
2009年06月10日(Wed)▲ページの先頭へ
自我と自己:同一性と差異:シュタイナーの「霊」とは同一性的であり、真の精神ではない
先にシュタイナー批判をしたが、どうして、シュタイナーがイエス・キリストを擁護するのかについては、原理的に理由があると考えられる。
シュタイナーは自我「わたし」を肯定しているのである。言い換えると近代的自我の肯定である。あるいは、近代合理主義の肯定である。 このために、同一性主義のユダヤ・キリスト教を擁護すると考えられるのである。 シュタイナーの「精神科学」は確かに、一面、東洋的であるが、反面、近代西洋的なのである。 しかるに、PS理論は、同一性主義を完全に批判し、否定しているのである。だから、当然、ユダヤ・キリスト教、イエス・キリストを批判することになるのである。 結局、トランス・モダンとは、近代を乗り越えることであり、自我は乗り越えられることになるのである。 そこにおいて、即非の論理が決定的な役割をするのである。そして、自我・近代的自我は、他者と共振する自己となるのである。 では、シュタイナーの説く「霊」はそのまま肯定できるだろうか。 問題は、自我と物質を別に分けていることである。しかしながら、物質と自我(同一性)とは一致すると考えられるのである。ということで、シュタイナーの自我という「霊」は、物質的なものだと思われるのである。 以前述べたが、同一性のフレーム(愚樵氏の「知のフレーム」から借りれば)から、精神を理解しているのであるから、シュタイナーの「霊」とは本来の「霊」ではなく、物質化された「霊」、連続化された「霊」、つまり、偽りの「霊」であると考えられる。あるいは、ドゥルーズと同じ、連続的差異としての「霊」である。 検討問題:シュタイナー批判:彼の説く「イエス・キリスト」は、アフラ・マズダーと言うべきである
今は余裕がないので、引用等できないが、シュタイナーの「精神科学」であるが、私が結局いちばん納得できないのは、宗教において、イエス・キリストを最高のものとしていることである。しかし、イエス・キリストの「霊」とは、アフラ・マズダーと彼は述べているのである。
ならば、アフラ・マズダーの「神懸かり」としてのイエス・キリストではないだろうか。ならば、イエス・キリストと呼ぶ必要はないのであり、端的に、アフラ・マズダーであり、キリスト教ではなく、ゾロアスター教と呼ぶべきではないのか。 ユダヤ・キリスト教とは、明らかに、+1に傾斜した宗教であり、悪神的である。しかし、これは、既述したように、物質科学を創る源泉であったのである。結局、ポスト・ユダヤ・キリスト教である。 一神教は深い闇なのである。ゾロアスター教の視点に立つことで、すべての宗教や文明の謎が解明されるだろう。一神教はゾロアスター教の影に過ぎない。 |
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