神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年06月28日(Sat)▲ページの先頭へ
新万教帰一とイデア・エネルギー(コズミック・エネルギー)のMedia Point位相
今日は余裕がないので、論考できないが、結局、宗教とは、イデア・エネルギーのMedia Pointにおける位相を表現しているのではないかと思えるのである。神とは還元すれば、イデア・エネルギー(コズミック・エネルギー)である。それが、 Media Pointの諸位相によって、多様な表現(mode)になると考えられる。この多様な表現modeが諸宗教ないしは諸神話と考えられるのである。
結局、プラトニック・シナジー理論から、新たな万教帰一が考えられるのである。Media Pointの位相の違いによって、人類は言わば、流血惨事を起していると言えよう。Media Pointのmodeの諸相に気づけば、イデア・エネルギーで統一できると考えられるのである。一神教も多神教も一である。
2008年06月25日(Wed)▲ページの先頭へ
英雄神話とは何か:太母と英雄:二つの父権化:多神教的調和統合型と一神教的同一性主義型
神話(物語)では、龍退治がよく出てくる。日本神話では、周知のように、スサノオによる八岐大蛇の退治がある。ギリシア神話では、これは、ペルセウス型神話と呼ばれる。
一般に、西洋文化では、龍退治が重要な機能をもっている。東洋文化の場合は、龍自体が崇拝されることが多い。 私はこれまで、差異の視点から、龍退治を同一性主義と結びつけてきた。だから、ヤハウェとは、一種の龍退治を行う「英雄」と言えよう。 問題は、この英雄はどのような意味があったのか、ということである。私が思っているのは、Media Pointと太母が一致するのではないのかということである。言い換えると、龍退治は、Media Point=太母を排除・抑圧する行為と考えられるということである。 では、問題は、何故、そうする必要があったのか、である。ユング派心理学は、太母=グレートマザーを根源において、自己実現=個性化を説いている。これは、当然、根源的多神教と一神教との関係の問題でもあるし、母権文化と父権文化の関係の問題でもある。 ギリシア神話で言うと、女神的なものは、英雄によって否定される。しかしながら、一神教のようには、完全に排除はされない。形を変えるのである。女神は怪物にされるのである。ゴルゴン、スフィンクス、キマイラ、等々。 ユング派心理学では、太母は恐ろしい母の側面をもつが、いったい、これは何か。食べるとか、飲み込むということがそこにはある。 これは、差異共振性に包摂された同一性をこのような否定的な意味合いで表現しているのかもしれない。思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iが自己差異であり、-iが他者差異であるが、前者の自己差異が他者差異との関係(共鳴)を断ち切って、「独立」するのが、英雄神話の意味なのかもしれない。 では、この他者差異との関係(共鳴)を断ち切るとはどういう力学なのか。この問題はこれまで、繰り返し検討してきたことであり、同一性主義の志向性ということである。これを父権主義と呼んできたのである。 しかし、問題は単純ではない。英雄神話には、龍がもっている「宝」を獲得する意味がある。これは、普遍的構造をもっている。 この「宝」とは何か。それは、また、囚われの「姫」を救済し、結婚(聖婚)することと等価であろう。 思うに、太母にあるイメージは、束縛・拘束・幽閉等の閉鎖の意味がある。私が思ったのは、太母とは、Media Pointではあるが、同一性と差異との未分化様態にある位相を意味しているのではないのかということである。言い換えると、連続態である。一方では、同一性様態があり、他方では差異様態がある。しかし、両者は、いわば、癒着しているのである。還元すると、同一性には差異が付着し、差異には同一性が付着するのである。 だから、ここには、純粋な同一性や純粋な差異が形成されないのである。このMedia Pointの未分化様態が太母なのではないだろうか。どうもそう考えた方がいいように思えている。 この未分化様態を断ち切る意味が英雄神話にはあるように思えるのである。未分化様態である龍が退治されるのである。そして、「宝」や「姫」を獲得するのである。「宝」や「姫」であるが、「宝」は同一性主義ではないだろうか。そして、「姫」は、純粋差異ではないだろうか。 ならば、どうして、純粋差異が発生するのだろうか。これは、保留しておこう。 今思っているのは、二つのタイプのポスト母権主義があるように思えるのである。一つは、純粋な父権主義(二項対立型)と、一つは、父権文化と母権文化の結合・統合(統合型)である。ギリシア神話は後者的であり、ユダヤ・キリスト教は前者的であると考えられるのである。 そうすると、英雄神話の場合も、この二つのタイプがあることになる。ペルセウス型は後者になると思うし、また、バビロニア神話は前者であると思う。 この二つをどうみるのか、である。前者は純粋な同一性主義で説明できるが、後者をどう見るのか、である。後者には、調和・平衡志向がある。共鳴・共振志向である。共立・共生・平和志向である。 いったい調和統合型には、どういう力学が働いているのか。端的に言えば、それは、なんらかの形で、他者差異を肯定するということである。他者差異を排除抑圧しないということであり、他者差異をなんらかの形に変換するように思えるのである。 思うに、同一性志向性が発動したとき、差異は抑圧・排除されるが、しかしながら、差異自体は消滅するのではなく、潜在化したのである。この潜在化された差異が「姫」に当たるのではないだろうか。 つまり、同一性志向性の発生とは、同時に、差異の潜在化である。しかし、差異の潜在化をも徹底して排除しようとしたのが、一神教である。それはある意味で特異点なのである。一神教的特異点である。 思うに、一般的には、同一性と差異の両面があると考えられるのである。父権化とは、同一性志向性を意味する。しかしながら、当然、差異が潜在化し、それは、差異志向性となると思う。 父権化における、顕在的な同一性志向性と潜在的な差異志向性があるが、調和統合型は、この二つの志向性を共立させる方向性を当然もっていると考えられる。 しかし、一神教的父権化は、同一性中心主義へと傾斜して、差異を闇ないし無へと葬るのである。この同一性中心主義の光は、だから、同時に、闇である。光即闇となるのである。父権的合理主義は光であると同時に闇ということである。 どうも以上の思考実験(試行錯誤)で、本件に対して、少しは明瞭になってきたように思える。二つの父権化があり、一つは調和統合型であり、これは、21世紀文化・文明の原型になるものであり、一つは一神教的同一性主義であり、これは、乗り越えられるべきものである。 一神教的父権化の力学は、これまで述べたように、いわば、極性の極端化である。陽の極へと極端化した場合と考えられるのである。 今はここで留める。後で再考したい。 p.s. Media Point=太母の説明は不十分だと考えられる。以上では、未分化様態と言っているのが、それは不正確だと思えるので、訂正したい。 正しくは、本来は未分化ではなく、同一性を包摂した差異共振性がPrimary Media Point=太母である。しかしながら、それが、いわば、デカダンの様態になるのである。そのときに、未分化様態・連続態が発生すると考えられる。この「カオス」の乗り越えるのが、父権化の意味であったと思う。発生的に見る必要がある。 p.p.s. 結局、太母文化は、差異共振性を「宝」(おそらく、聖杯、指輪、大鍋、角、等々がこれをmode化している)=叡知(ソフィア)としてきた。そう、例えば、日本で言えば、卑弥呼(「日巫女」)は、この叡知を知る者(参照:聖【ひじり】)であったように思える。 しかるに、この太母文化が長く続くと、堕落が始まる。それは、物質的生活の進展に伴い、同一性が強化されることによって、発生すると考えられる。有り体に言えば、利己主義化が起るのである。 しかしながら、太母文化においては、同一性の強化は、差異による包摂関係があるので、連続化が発生すると考えられるのである。つまり、差異による包摂性が前提にあるが、そこにおいて、同一性志向性が強化されると、同一性は勘違いして、「自己」が差異から独立していると錯誤するのである。差異による被包摂性があるのだから、同一性は、差異からは自由にはなっていないのである。これは、没入、短絡、ショートである。 やや飛躍するが、全体主義の根因はここにあるように思える。つまり、太母文化が基盤にあるが、そこにおいて、同一性主義が強化されるショートして、全体主義化するように思えるのである。ロシア、ドイツ、イタリア、日本で特に全体主義が起ったのは、ベースの太母文化によるのではないだろうか。 それに対して、イギリスやフランスはいい意味での、合理主義が進展していたので、全体主義化は避けられたのかもしれない。もっとも、ナチスの場合は、経済的原因が大きいと思うが。 太母文化の核である差異共振叡知をもった文化は強い文化であるが、歴史の進展ともに、太母文化の記憶は薄れていき、同一性化が強化されるのである。そして、未分化・連続化が生起するのである。 日本の場合、明治維新は、太母文化を天皇制という形で、同一性化したと言えよう。ここにおいて、二つのあり方が存したと言えるのではないだろうか。 一つは、差異共振叡知をもった日本近代化であり、一つは、同一性中心主義的近代化である。私が考える明治日本ルネサンスとは、前者であり、軍国主義は後者である。 そして、戦後日本は、差異共振性=太母文化を排除するようにして、アメリカ的な近代化を行った。つまり、日本太母文化の根をなくして、つまり、そこから、切断されて、戦後近代化を行ったのである。 同一性合理主義の発生である。これは、一種の一神教化と言えるのではないだろうか。自国文化の太母文化は完全に否定されたのである。 結局、排除された差異共振性=魂=イデアが復活する必然性がここにはあるのである。その大マグマが日本人の無意識に蠢いていると言えよう。 そして、この賦活されつつある差異共振魂を戦後同一性近代化は、抑圧するのであり、そこで、暴力、狂気、犯罪、悪意が生じるのである。それが、今日のカオスの意味ではないか。
2008年05月06日(Tue)▲ページの先頭へ
多神教と一神教:キリスト教と神道:一神教としての国家神道と本格神道ルネサンス
次の論考は以下の考察の追記を独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi /entry-10094007041.html 神話を複雑にするのは、差異共振性が垂直から水平へと転化することにあるのではないだろうか。例えば、イシス・オシリス神話であるが、それは、共一性+1であろう。そして、ホルスは-1ではないだろうか。 そして、共一性の根源の差異共振性は、ハトホルということになるのだろうか。とまれ、イシス・オシリスが共一性で光+1を意味するならば、それは、また、オシリスである。つまり、イシス・オシリスの共一性=光=ホルス=霊的太陽ということではないだろうか。しかし、このホルスはオシリスと同一ではないだろか。どうもそう思えるのである。 では、セトとは何か。それは、オシリスを殺害するのであり、そのバラバラにされた遺体をイシスが集めて、復活させるのである。霊的太陽を破壊するとは、セトが-1であることだろう。そして、これは物質的太陽ということではないのか。 そうすると、問題はオシリス=ホルス(+1=霊的太陽)とセト(-1=物質的太陽)との関係である。肉眼で見る太陽は、当然、後者である。しかしながら、古代エジプト人は、それを以外に、霊的太陽を見ていたと考えられるのである。これはどういう風に説明できるだろうか。 それは、古代エジプト人が、霊的太陽と物質的太陽の二つの太陽を視覚していて、後者が前者を覆うが、再び、前者は復活するということを意味していたのではないだろうか。【これは、ゾロアスター教で言えば、前者がアフラマズダであり、後者がアンリマンユであろう。】 さらに問題は王制である。ファラオー支配のことである。ファラオーは本来、オシリス=ホルスを象徴するものであったろう。一種、神人であろう。しかし、ファラオーの意味するものは、オシリス=ホルスであり、人間としてのファラオーではなかった。(これは、天皇制とも関係するだろう。)とまれ、ここには、まだ一神教は存在しない。 一神教が発生するには、つまり、唯一神が発生するには、排他性が必要である。多神教を排除する原理が必要である。イシス・オシリス神話がある限りはそうならない。 考えられるのは、父権神話が必要であることである。父権神話があれば、女神を否定し、父権神が発生する。バビロニア神話では、女神のティアマトを英雄マルクトが退治して、(ティアマトの?)心臓を太陽神シャマシュに捧げる。 このマルクト/シャマシュが父権制の原点を意味しよう。これに倣えば、イシスを否定する英雄が必要である。しかし、古代エジプトではそれはなかったであろう。 問題は、-1の父権神である。それは、物質的神となるだろう。しかし、超越性はどこから発生するのだろうか。やはり、Media Pointからではないだろうか。そこにおいて、他者=差異否定が発生して、-1となるのだろう。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1である。この左辺が超越性であろう。考えるに、正確にヤハウェを表記すれば、⇒-1であろう。また、エローヒームは⇒+1となるだろう。 結局、西洋文明は、⇒-1(父=ヤハウェ)の支配下の下に、⇒+1(子=イエス)を従えていると言えよう。神道は⇒+1であり、⇒-1の文明に従属していることになる。 何が問題なのか。神道は、本質的に、⇒-1を知らないのである。一神教を知らないのである。それは他者である。問題は、やはり、明治維新の近代化にある。 そこで、多神教としての神道は、歪んでしまったと思われるのである。何故なら、⇒+1の宗教とは、他者=差異との共一性を意味するからであり、ナショナリズムとはそぐわないからである。 結局、神道は、一神教化してしまったと言えよう。それが、国家神道の意味であろう。変質してしまったのである。キリスト教の強みは、一神教ではあっても、⇒+1を従えていることである。つまり、イエスによって、多神教要素を内在している点である。それに対して、国家神道は、多神教の本質を喪失して、一神教となってしまったのだと思う。これが、近代日本の不幸である。 そして、戦後、神道全体が否定されることになったのである。日本は、二度死んだのである。多神教の復活が必要である。今日に日本は、一神教である。キリスト教以下である。近代主義的一神教である。 日本トランス・モダンが必須である。差異共振性・共一性を取り戻すことである。神道ルネサンスである。
2008年05月04日(Sun)▲ページの先頭へ
神話の問題点:差異共振性と連続性:原三神性と活三神性:MP論理と神話的現代
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10093688362.html 直近の考察が混乱したので、新たに考察を始めたい。 問題は、神話における、イデア界と現象界の関係・関連である。端的に言えば、Media Pointの力学表現であると言えよう。 Media Pointの原三元性(原三神性)(+i)*(-i)があり、これが、Media Pointで多様に発現して、神話となると考えられる。整理すると、原三元性においての原三神性(デュナミス的三神性)と、Media Pointを中心の「神」として、⇒+1の「神」、⇒-1となる「神」のエネルゲイア的三神性(活三神性)の、二段階があると言えよう。 記紀の三柱の神は、原三神性(三神デュナミス)であり、その他、イザナミ/イザナミ、アマテラス・スサノオ・ツクヨミ、等は、活三神性(三神エネルゲイア)であると考えられる。(イザナミ/イザナギの意見は二元的であるが、太い柱を神とすると、三神となる。また、両者の共振性を入れると三神となる。)簡単に言えば、イデア三神とエネルゲイア三神であろう。 問題は、活三神、エネルゲイア三神にある。ここでは、傾斜ないしは極性化が顕著になると考えられるのである。言い換えると、共振性と二元性が混淆するようになると思われるのである。即ち、原三神においては、差異共振性が対称的であるが、活三神においては、非対称性が発生すると考えられる。 例えば、アマテラス/スサノオ/ツクヨミの三神で考えると、アマテラスは、Media Pointや、共一性の+1であったり考えられるだろうし、スサノオは、同一性の-1であったり、Media Pointであったり考えられるだろうし、また、ツクヨミは、アマテラスやスサノオと対極として考えられるだろう。つまり、三神が流動・流転生成的になると考えられるのである。 これは、一種の混乱であろう。これは、Media Pointの性質から発生していると考えられる。ここは、正しくは、即非様態であるが、古代人は、これを連続化して混淆したと考えられるのである。 まとめると、原三神性と活三神性の二段階があるが、後者において、共振性と二元性が混淆する。これは、エネルゲイアの傾斜性とMedia Pointの連続化によると考えられるのである。 このMedia Pointにおける傾斜性と連続性が神話の混沌とした多様性を生み出していると言えよう。聖書も神話と見れば、明らかに、神話的多様性を呈しているのである。 ここで、一つの例として、インド神話を取りあげると、シヴァ神は、勿論、原三神性に発するが、活三神性では、-1の同一性ではないだろうか。そして、ヴィシュヌは光明であるから、+1の共一性であろう。そして、ブラフマンは、Media Pointであり、原三神性の中心の差異共振性*であろう。そのように、Media Pointの傾斜・連続性の概念から説明できるであろう。端的に言えば、Media Pointのエネルゲイアで説明できるだろう。 あるいは、ニーチェのアポロとディオニュソスで言えば、アポロは、共一性+1であると同時に、同一性-1である。【この同一性-1の側面をニーチェはソクラテス的な合理主義と把握したと言えよう。】また、ディオニュソスであるが、それは、当然、Media Point であると同時に、破壊性をもっているので、-1の同一性である。だから、通常の同一性論理では、説明できないのである。即非論理、共振論理を含む、言わば、Media Point Logic(略して、MP論理)でないと説明できないのである。また、構造主義論理でも説明できないのである。「ゼロ記号」や両義性という概念では、神話の不連続な、非対称的な多様性を精緻に説明できないと言えよう。 以上で、神話のもつ連続性の問題点の解明を終えたこととして、次に、以上の視点を活用して、近代化の問題点について考えよう。近代化とは、一言で言えば、新たなMedia Pointの活性化から始まったと言えよう。それは、一種、神話的なのである。ただし、同一性と共一性とが連続化した神話である。インド神話で言えば、シヴァ神とヴィシュヌ神の連続した神話である。ただし、近代主義は、超越性を意識的に排除しているために、超越性が無意識化しているのである。これを抑えておく必要がある。 端的に言わば、近代合理主義の基底はシヴァ神であり、民主主義の基底はヴィシュヌ神である。また、自由主義の基底には本来ブラフマンがあるだろうが、実際は、シヴァ神へと傾斜しているだろう。とまれ、近代主義はこれら三者が連続的混淆していると考えられる。 しかしながら、近代主義は、Media Pointを閉じているので、同一性主義なのである。つまり、近代合理主義が基調になっているので、民主主義も自由主義も、同一性主義へと傾斜してしまうのである。これは、また、唯物論への傾斜でもある。つまり、近代主義はシヴァ神中心主義なのである。私が悪魔的破壊主義というのは、この事態である。 これで近代主義の問題点を神話学的視点で指摘できたであろう。そして、トランス・モダンの意味も、この点から考えると、やはり、Media Pointを開くことが肝腎要(かんじんかなめ)である。これによって、ヴィシュヌ神の民主主義が賦活されるし、ブラフマンの自由主義も差異共振的自由主義となり、同一性資本主義を乗り越えるようになるだろう。これで、検討を終えたい。 参照: 天地開闢 (日本神話) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 天地開闢(てんちかいびゃく)とは、天地に代表される世界が、初めて生まれた時のことを示す。 狭義には『日本書紀 』冒頭の「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」を言うが、この記事では、広義の日本神話 における天地開闢・国土創造のシーンについて記す。 中国神話における天地開闢は天地開闢 (中国) を、キリスト教 の旧約聖書 の創世記 におけるものについては天地創造 を参照せよ。 あらすじ [編集 ] 古事記 古事記によれば、世界の始った直後は次のようであった。古事記の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めた時であり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、、一般的には日本神話における天地開闢のシーンと言えば、近代以降は古事記のこのシーンが想起される。神話研究における「天地開闢」は次節の『日本書紀』参照。 世界の最初に、高天原 に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた。 * 天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ) * 高御産巣日神 (たかみむすひのかみ) * 神産巣日神 (かみむすひのかみ) 続いて、二柱の神が生まれた。 * 宇摩志阿斯訶備比古遅神 (うましあしかびひこぢのかみ) * 天之常立神 (あめのとこたちのかみ) この五柱の神は、特に性別はなく、独身のままに子どもを生まずに身を隠してしまった。それゆえに、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神 (ことあまつかみ)と呼ぶ。 次に、また二柱の神が生まれた。 * 国之常立神 (くにのとこたちのかみ) * 豊雲野神 (とよくもののかみ) 国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、またこれ以降神話には登場しない。 これに引き続いて、五組十柱の神々が生まれた。五組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。 * 宇比地邇神 (うひぢにのかみ) 、須比智邇神 (すひぢこのかみ) * 角杙神 (つのぐひのかみ) 、活杙神 (いくぐひのかみ) * 意富斗能地神 (おほとのじのかみ) 、大斗乃弁神 (おほとのべのかみ) * 於母陀流神 (おもだるのかみ) 、阿夜訶志古泥神 (あやかしこねのかみ) * 伊邪那岐神 (いざなきのかみ) 、伊邪那美神 (いざなみのかみ) 以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代 (かみのよななよ)という。 [編集 ] 日本書紀 日本書紀における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。 [編集 ] 根源神たちの登場 本書によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。 天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となる。 1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 3. 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと) これらの神々には、性別がなかった。 第1の一書によれば、天地の中に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは変わらない。生まれた神々は次の通りである。なお、白丸で箇条書きされているのは、上の神の別名である。 1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) * 国底立尊(くにのそこたちのみこと) 2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと) * 国狭立尊(くにのさたちのみこと) 3. 豊国主尊(とよくにむしのみこと) * 豊組野尊(とよくむののみこと) * 豊香節野尊(とよかぶののみこと) * 浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと) * 豊国野尊(とよくにののみこと) * 豊齧野尊(とよかぶののみこと) * 葉木国野尊(はこくにののみこと) * 見野尊(みののみこと) 第2の一書によれば、天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となったとされる。すなわち、本書と同じ内容であるが、神々の名称が異なる。 1. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと) 2. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 3. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 第3の一書でも、生まれた神々の名が異なる。なお、生まれた神は人のような姿をしていたと描写されている。 1. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと) 2. 国底立尊(くにのそこたちのみこと) 第4の一書によれば、生まれた神々の名は下の通りである。この異伝は、古事記の記述に類似している。 1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと) これらの二柱の神々の次に、高天原に生まれたのが、下の三柱の神々である。 1. 天御中主尊 (あめのみなかぬしのみこと) 2. 高皇産霊尊 (たかみむすひのみこと) 3. 神皇産霊尊 (かみむすひのみこと) 第5の一書によれば、天地の中に葦の芽が泥の中から出てきたようなものが生成された。これが、人の形をした神となったとされる。本書とほぼ同じ内容であるが、一柱の神しか登場しない。 1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) 第6の一書も、本書とほぼ同様に、葦の芽のような物体から神が生まれた。ただし、国常立尊は漂う脂のような別の物体から生まれた。 1. 天常立尊(あまのとこたちのみこと) 2. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと) 3. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと) [編集 ] 男女一対神たちの登場 渾沌から天地がわかれ、性別のない神々が生まれたあと、男女の別のある神々が生まれることとなる。これらの神々の血縁関係は、本書では記されていないが、一書の中には異伝として、記されている。 本書によれば、四組八柱の神々が生まれた。四組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。なお、黒丸で箇条書きされているのは、上の神の別名である。 1. 埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと) 二神の別名 * 埿土根尊(うひぢねのみこと)、沙土根尊(すひぢねのみこと) 2. 大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、大苫辺尊(おほとまべのみこと) 二神の別名 * 大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと) * 大富道尊(おほとまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまべのみこと) 大戸之道尊の別名 * 大戸之辺尊(おほとのべのみこと) 3. 面足尊 (おもだるのみこと) 、惶根尊 (かしこねのみこと) 惶根尊の別名 * 吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと) * 忌橿城尊(いむかしきのみこと) * 青橿城根尊(あをかしきのみこと) * 吾屋橿城尊(あやかしきのみこと) 4. 伊弉諾尊 (いざなきのみこと)、伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 第1の一書では、伊弉諾尊、伊弉冉尊は、青橿城根尊の子とされている。 第2の一書では、神々の系図がよりはっきりとしている。 1. 国常立尊 2. 天鏡尊(あまのかがみのみこと) 国常立尊の子。 3. 天万尊(あめよろずのみこと) 天鏡尊の子。 4. 沫蕩尊(あわなぎのみこと) 天万尊の子。 5. 伊弉諾尊 沫蕩尊の子。 さて、本書によれば、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊に、以上の四組八柱の神々を加えたものを総称して神世七代 という。 第1の一書によれば、四組八柱の神々の名が異なっている。 1. 埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと) 2. 角樴尊(つのくひのみこと)、活樴尊(いくくひのみこと) 3. 面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと) 4. 伊弉諾尊(いざなきのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと) インド神話 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 インド神話(インドしんわ)とはインド に伝わる神話 である。特にバラモン教 、ヒンドゥー教 に伝わるものを指す。成立時期や伝承者の層などによって様々な神話があるが、以下、ヴェーダ 神話とブラーフマナ ・ウパニシャッド 神話、叙事詩 ・プラーナ 神話の3つに大別して概説する。概ねヴェーダ神話がバラモン教 に、叙事詩・プラーナ神話がヒンドゥー教に属し、ブラーフマナ・ウパニシャット神話がその両者を繋ぐものと考えてよい。 ヴェーダ神話 呼んで字の如くヴェーダ文献に基づく神話であり、アーリア人 がインドに持ち込んだインド・ヨーロッパ語族 共通時代に遡る古い自然神崇拝を中心とする。紀元前1500年 頃から紀元前900年 ごろに作られた最古のヴェーダ文献であるリグ・ヴェーダ (神々の讃歌)には、未だ一貫した世界観を持つ神話は現れていない。 ヴェーダ神話の初期においては、神々はデーヴァ 神族とアスラ 神族とに分類されている。デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラ であり、実にリグ・ヴェーダ全賛歌の4分の1が彼を讃えるものである。 一方アスラは倫理と宇宙の法を司る神々で、恐るべき神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す者として畏怖された。代表的な神はヴァルナ である。アスラはリグ・ヴェーダ初期においては必ずしも悪い意味で用いられなかったが、デーヴァ信仰が盛んになるにつれて信仰が衰えていった。さらに、ヴァルナをはじめ有力なアスラ神がデーヴァとされるようになり、遂にリグ・ヴェーダの中でも末期に成立した部分では神々に敵対する悪魔を指すようになった。 一方イラン神話 においては、アスラに対応するアフラがゾロアスター教 の最高神アフラ・マズダー となり、デーヴァにあたるダエーワ が悪魔の地位に落とされている。 リグ・ヴェーダにはまた、若干の創造神話 が見られる。創造神ブリハスパティ やヴィシュヴァカルマン による万物創造を説く讃歌の他、創造神がヒラニヤ・ガルバ(黄金 の胎児 )として原初の水の中にはらまれて出現したとする説、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行い世界を形成したという巨人解体神話などが説かれている。 [編集 ] ブラーフマナ・ウパニシャッド神話 ブラーフマナ(祭儀書)文献とは、ヴェーダ本文であるサンヒター(本集)の注釈と祭儀の神学的意味を説明するもので、広義のヴェーダ文献の1つ。ここでは創造神プラジャーパティを最高神とし、彼による種々の創造神話が説かれている。しかし、しだいに世界の最高原理ブラフマン の重要性が認められるようになった。やがてブラフマンは人格神ブラフマー として描かれ、彼による宇宙創造が説かれるようになった。 ブラーフマナ文献中にはまた、祭式の解釈と関連して、人祖マヌ と大洪水 神話、悪魔 の都を破壊する暴風神ルドラ (シヴァ の前身)の説話など、かなりまとまった形の神話が散見され、後のヒンドゥー神話・文学に多大な影響を与えている。 ウパニシャッド(奥義書)も広義のヴェーダ文献の1つで、ヴェーダ文献の最後に成立した事からヴェーダーンタ(ヴェーダの末尾)ともいう。神秘的哲学を説くもので、特にアートマン とブラフマンの本質的同一性(梵我一如 )を説く部分は、後のインド神話の世界観に大きな影響を与えた。
2008年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己
手元に邦訳がないので、原書の英文から引用する。
In the beginning Elohim created the heavens and the earth. The earth was without form and void, and darkness was upon the face of the deep; and the wind of Elohim was moving over the face of the waters. And Elohim said , "Let there be light," and there was light. And Elohim saw that the light was good; and Elohim separated the light from the darkness. Elohim called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day. And Elohim said, "Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it separate the waters from the waters." And Elohim made the firmament and separated the waters which were under the firmament from the waters were firmament Heaven. And there was evening and there was morning, a second day. Joseph Campbell The Mask of God: the Occidental Mythology. p. 111(『神の仮面:西洋神話の構造』山室静訳 青土社) これは、聖書の創世記の冒頭の英訳であるが、瞠目すべきは、創造神が、エローヒームになっていることであり、ヤハウェではないことである。 これで、先に、ヤハウェは闇(-1)の神であり、エローヒームが光(+1)の神ではないかと言ったことが裏付けられると考えられる。そして、ヤハウェが創造神ではないことを確認すべきである。(これだけでも、聖書から一神教を引き出すのは、虚構であることがわかるだろう。)ということで、ヤハウェを闇の神、エローヒームを光の神と仮説して、さらに自己認識方程式の意味の考察を深めたい。 問題は、現象界のことである。+1と-1の二つの現象がある意味で同時生起するのではないのか、という考えが浮かぶのである。言い換えると、同一性形成の問題をここでは考えているのである。即ち、これまで検討を重ねてきたように、同一性志向性において、差異的同一性と差異否定的同一性の二種類が発生すると考えられるということである。前者が神話で言えば、イシスとオシリスの関係、あるいは、エローヒームである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。それに対して、後者は-[(+i)*(-i)]⇒-1と考えられるのである。後者は神話では、ヤハウェであり、哲学的には、同一性主義ないしは自己同一性主義(自我主義)である。 思うに、人間において、この現象の二重性が発生していると考えられるのである。(植物、動物一般は、思うに、+1だけのように思えるのである。この点は後で検討したい。) 端的に言うと、自己同一性主義(自我主義)で見ている光とは何なのだろうか。光は、方程式から、+1であると考えられる。それを、-1で知覚するということになるのだろうか。 思うに、-1は同一性=物質の現象界であり、+1は差異共振性の現象界ではないのか。詩人や芸術家や古代人(中世人も含める)は+1の世界を見ているのであり、俗人や近代人は-1の世界を見ているのではないのか。 問題は、物質である。+1の現象界を見ていても、そこには、同一性=物質があるだろう。しかし、それは、-1の現象界の同一性=物質ではないだろう。前者を+1の同一性=物質、後者を-1の同一性=物質と仮に呼ぼう。 思うに、物理学的に言えば、前者は量子力学の物質であり、後者は古典物理学の物質ではないだろうか。つまり、前者は量子の粒子であり、後者は唯物論の物質ではないだろうか。 問題は、光の知覚である。自己同一性主義-1が見る光とは何なのだろうか。それは、本当に、+1の光を見ているのか。聖書にもどれば、エローヒームが+ 1の光を生む。それに対して、ヤハウェは-1の闇を生む。自己同一性主義(自我主義)は-1である。闇が光を見るということなのだろうか。 ここで上述した二重の現象界という考えを展開しよう。つまり、現象界は-1と+1が重なっているのではないのか。-1の闇と+1の光の二重性の現象界ではないのか。ここで、比喩的な言い方をするなら、闇の光と光の光が存するのではないのか。これだと混乱するので、黒い光と白い光と言い換えよう。 問題は、+1にとって、-1とは何か、あるいは逆に、-1にとって、+1とは何か、ということではないだろうか。 直観で言えば、+1にとり、-1とは、暗い影である。そして、-1にとり、+1とは何だろうか。やはり、一種の暗い影ではないだろうか。ただし、その場合は「自己」の内面の暗い影が投影されているのではないだろうか。ユング心理学のシャドウに相当するだろう。 そう、整理すると、-1は闇という「物質」であり、+1は光という「物質」ではないだろうか。おそらく、ブラックホールとは、-1に相当するのではないだろうか。そして、ホワイトホールとは、その反転の+1ではないだろうか。それは、一種回帰ではないだろうか。 ここでこの考えを敷延すると、-1の闇が悪魔であり、+1が天使ではないだろうか。ヤハウェは悪魔的神霊(悪霊)であり、エローヒームは天使的神霊(善霊)となる。ゾロアスター教で言えば、光の霊のアフラマズダが+1であり、闇の霊のアングラマイユが-1である。 思うに、ゾロアスター教の最後の審判は、いわば、合理的である。何故なら、光の霊が闇の霊に勝利するからである。しかしながら、キリスト教の最後の審判、即ち、ヨハネの黙示録の最後の審判であるが、それはどうだろうか。 問題は「父」である。それは、端的に、エローヒームではなくて、ヤハウェであろう。だから、ヨハネの黙示録の神はヤハウェであり、それは、闇の霊(悪霊)であり、そして、逆に、悪魔が光の霊(善霊)となるだろう。 つまり、キリスト教の最後の審判は、悪霊の善霊に対する勝利となるのである。悪の勝利である。思うに、これが、ネオコンやブッシュの発想にあると考えられるのである。キリスト教原理主義は、悪霊主義ということである。 これならば、イラク侵略戦争の心的原因がわかるのである。悪霊に支配されているならば、当然、殺戮は「積極的に」行なわれるのである。(この宗教的意義についてはここで留めたい。) 最後にもう一度、-1=闇、+1=光について考察しよう。先に述べたが、私が10代に終り頃に述べた「光は暗く、闇は明るい」という言葉についてであるが、「光は暗く」の光とは、-1=闇のことではないのか。そして、「闇は明るい」の闇とは、+1=光のことではないのか。 ここで、根本的な重大な問題は、通常視覚する光であるが、それは、闇(-i)と光(+1)が混淆しているものであるのか、ということである。 ここで、思考実験するというか作業仮説するが、通常目にする光は、実は、-1の闇ではないのか。-1の闇を光と知覚しているのではないのか。そして、なんらかの時に、+1の光を知覚するときがあるのではないのか。それが、例えば、阿弥陀如来(無量光如来)ではないのか。あるいは、大日如来、天照大神、アフラマズダ等ではないのか。 思うに、通常、日常は、この+1の光は隠されているのではないだろうか。そう、私がこれまで超越光と言ってきたものは、+1ではないのだろうか。(そうすると、理論的な整合性が崩れるので、整理する必要がある。) わかりやすく言えば、内なる光と言われるものが+1ではないのか。あるいは、崇高に感じるときの光、夕焼け等が。 ここでは、プラトンの有名な洞窟の比喩を考えるといいだろう。洞窟の壁のスクリーンの影像が、-1である。そして、善のイデアである洞窟外の太陽が+1ではないのか。つまり、影を通常においては視覚しているということではないのか。 思うに、-1の世界が空間三次元であり、+1の世界が空間四次元ではないだろうか。何故なら、+1の世界は、虚軸次元が入るからであるである。高次元が入るからである。時間次元を入れれば、-1は時空四次元であり、-1は時空五次元であろう。(もっとも時間次元については、精察する必要があるが。) とまれ、思うに、そのように見ると、光と闇のパラドクスが生じていると言えよう。確かに、「光は暗く、闇は明るい」となるだろう。つまり、闇とは、この場合、光(-1)の世界では見えない光である。 ここで飛躍して、新約聖書について考えると、イエスのいう光とは、正に、+1の光であり、この世は-1であろう。しかしながら、俗人は+1の光が見えないのである。私がいう平和のイエスはこのイエスである。この点では、確かに、キリスト教は一面、光の宗教であり、ゾロアスター教的であると言えよう。差異共振の宗教である。(しかし、父=ヤハウェ=-1=闇の要素が入るので、悪魔化すると考えられる。)超越光の宗教である。 問題は、闇=現象光と光=超越光の様相である。前者は後者を否定するので、いわば、不気味であろう。そして、後者は前者を超越するので、幸福的であろう。私が狂気というのは、当然、前者である。 問題は、視覚的美とは何か、ということである。もし、普通の光が闇ならば、視覚美とは闇の美である。これが人を幻惑するものではないだろうか。確かに、闇の美があるのである。魔的な美である。 民話等で、美と醜との道徳的な話しがあるが、そこでは、醜に道徳性があることを述べている。これは、端的に、視覚美が闇の美であり、魔的美であることをいましめているのではないだろうか。 ならば、本当の美とは何かとなる。それは、当然、光の美である。崇高美である。醜の美となるのではないだろうか。 今はここで留める。以上は思考実験であり、後で、再考したい。
2008年04月24日(Thu)▲ページの先頭へ
超越エネルギーと一神教:差異共振性の光と一神教の闇:トランス・キリスト教と新東西文明
先に、超越的叡知存在の感受に関して考察したが、多神教的感性と一神教的感性では違いがある。この点を精察したい。
今思ったが、前者はハイデガー的存在的感性であり、後者は自我的感性ではないかということである。ただし、ハイデガーは後者に傾斜してはいると思う。 言い換えると、存在論的感性と一神教/自我的感性である。しかしながら、ヤハウェは「我在りて、・・・」であるから、自我存在の神である。デカルトのコギトの前身のようなものである。だから、ハイデガーの存在論を前者に適用するのは問題がある。やはり、ハイデガーの存在論は後者の方に近いだろう。 端的に言えば、後者はMedia Pointからの同一性主義志向性のエネルギーを指すと言えるだろう。これは、自己同一性=自我志向性であり、これは、Media Pointの差異共振エネルギーを反転させた同一性主義エネルギーと考えられる。つまり、差異共振性を否定抑圧した自己同一性(自我)エネルギーであり、この否定抑圧の力動は差異共振エネルギーに対する反動エネルギーであり、絶対的衝動であると考えられる。だからこそ、これが、一神教エネルギーと考えられる。差異共振性、多神教性を否定する一神教エネルギーである。 これは端的に、狂暴なエネルギーである。野蛮なエネルギーである。これこそ、闇のエネルギーではないのか。聖書では「光あれ」というが、これは、闇ではないのか。問題は自己同一性主義志向性は光の放出なのか、それとも、闇の放出なのか、である。 これは実に根本的問題である。自己認識方程式は、光の放出でもあるが、そこでは、自我が自己であることを確認することを意味しているのである。 しかしながら、同一性主義志向性はそうではなくて、左辺を否定抑圧しているのである。だから、同一性主義志向性=自己同一性主義志向性=一神教的自我志向性とは、⇒+1ではなくて、⇒-1ではないだろうか。-1としてのヤハウェ(超越神・唯一神)ではないのか。 思うに、-1を闇ないしは月と象徴していいのではないだろうか。そして、+1を光ないしは太陽としていいのではないだろうか。【イスラム教が月をシンボルにしているのが参考になるのではないだろうか。また、神道が太陽をシンボルにしているのも参考になるだろう。】 そうすると、闇の神であるヤハウェが「光あれ」というのはどういうことなのだろうか。ずいぶん以前に、エローヒーム(神の複数)とヤハウェを区別したことがあり、そのとき、創造神はエローヒームではないかというようなことを言ったかもしれない。 とまれ、ヤハウェを闇の神とすると、光の神は別に考える必要がある。それがエローヒームではないだろうか。この点の問題に関して、以前何度も考察したことがあるが、思うに、差異共振的同一性を形成する神があり、それは、例えば、イシスとオシリスであろう。イシスが差異共振エネルギーであり、オシリスが⇒ +1の光である。これが、母権多神教の「創造」=造化である。 それに対して、一神教の創造神が発生して、差異共振エネルギー=イシスを否定し、当然、光のオシリスを否定して、天地創造を行なうが、このときの太陽神とは何か。例えば、バビロニア神話におけるマルクトによるティアマトの殺戮による天地創造と太陽神シャマシュの場合である。 英雄マルクトと太陽神シャマシュを結びつけて考えていいだろう。この統合態の帰結に一神教形成を見ていいだろう。つまり、ヤハウェの形成である。ならば、太陽神シャマシュの光とは、本来の光ではなく、ヤハウェの闇ではないだろうか。 自己同一性主義は闇であるが、光と表象されるのは、何故か。この自己同一性主義=自我主義とは自我合理主義であり、物質的合理主義に帰結すると考えられる。 この自我合理主義=物質的合理主義が光と表象されるのであろう。言い換えると、本来、闇である-1が光と錯視されるのである。 思うに、これは物質的光と見ていいだろう。同一性の光である。これは、古典物理学の光と見ていいだろう。ニュートンの光である。 ということで、近代主義は、本来、闇を光と見ているということになる。ここで、私が10代終わりの頃言った「光は暗く、闇は明るい」【記憶があいまいで言葉が違っているかもしれない。光は冷たく、闇は暖かいであったかもしれない。もっとも、言わんとしていることは同じである。】というアフォリズム的な言葉が証明されるだろう。近代主義の光は実は暗く、反近代主義の闇の心性に本来の光があるという意味になる。 とまれ、一神教の帰結である近代合理主義は闇であるとここで証明されたであろう。また、物質主義も闇である。資本主義も同一性交換価値を至上価値とする限り、闇である。 最後に整理すると、一神教の問題は、結局、光と闇が混淆していることであり、また単に混淆しているだけでなく、倒立転倒倒錯していると考えられることである。光が闇となり、闇が光となっているのである。つまり、例えば、キリスト教のいう光とは本来、闇であり、闇が光になるということである。だから、ヨハネの黙示録の最後の審判は、悪魔主義的である。悪魔の最後の審判である。神が悪魔となり、悪魔が神となっていると考えられる(参照:D.H.ロレンスの『黙示録論』)。 【キリスト教の問題は、複雑であり、既述したように、二種類のイエスを想定するのが妥当だと考えられるのである。一つは、闇のイエスである。自我主義のイエス、悪魔のイエスである。戦争狂のイエスである。もう一つのイエスは、光のイエスであり、差異共振性のイエス、天使のイエスである。平和のイエスである。言い換えると、ヤハウェの子のイエスであり、太母の子のイエスである。】 結局、一神教によって、差異共振理性=叡知(ソフィア・般若)が否定抑圧されたのであり、そこで、人類の叡知文化が否定されたと考えられるのである。叡知文化は異教や異端として否定されてきたのである。悪魔的キリスト教が暴虐野蛮な世界を生んだのである。【p.s. ここでは、やはり、筆が滑っている。民主主義とは、差異共振理性=叡知の同一性形式化と考えられる。差異を同一性化して、平等化したのである。ここでは、差異が同一性として肯定されているのである。しかしながら、差異自体が肯定されていないので、反動化するのである。】 父権一神教の狂気にあって、差異共振理性=叡知は、少数者によって探求され、保持されてきたと言えよう。哲学者、芸術家、詩人・作家、宗教者、革新的科学者、真民衆等はこれらのために戦ってきたのである。 しかしながら、近代・現代西洋文明にあって、一神教的同一性主義が中心化して(ロゴス中心主義)、全体主義が生起しているのである。資本主義、とりわけ、国家統制主義と結びついた巨大資本主義が、同一性主義を中心化させて、世界は牢獄的になっているのである。 問題は、差異共振理性=叡知の喪失にある。これをこれまで、証明できなかったのであり、単なる理想としか理解されなかったのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、Media Pointという概念によって、この差異共振理性=叡知の実在性を解明したと考えられる。 ここを精神の起点とすることで、キリスト教的西洋文明の分裂性を乗り越えて、トランス西洋文明、新東西世界文明が創造されると考えられるのである。 参考: ★ 2008年4月24日 木曜日 、8時更新 今朝は大雨だが、やはり非常体感が続いている。八丈M5.6以降抑圧が続いていて、今夜にも解放があると思う。前駆微震らしきも続き、この数日は家屋のラップが絶えなかった。雨が上がり、気圧が上がってゆくなかでトリガー作用が発生する。 震源は、行徳データくらしか材料がないが、やはり房総沖方面を予想している。 地球温暖化現象について、炭酸ガスによる保温作用と、太陽活動説に二分化し対立が起きているようだ。 筆者が、はじめて地球温暖化の深刻さに気付かされたのは1970年代、日経サイエンス誌上のレポートであった。正確な記憶はないが、今日、起きている北極融氷、ツバス水没など、ほとんどの現象が30年以上前に完全に予測されていたと思う。槌田レポートも1980年代に、今起きている事態を正確に予測していた。いずれも、炭酸ガス増加を基本原因と指摘していた。 太陽活動説については、まだ明確なレポートに接しておらず、この数年、指摘されはじめたことで、筆者はよく分からない。分かっていることは、周期的な黒点活動であるサイクル24のレベルが、過去一度も観測されたことのないほど激しいものになりそうだということ。これと地球地殻変動と密接な関係がありそうだということだ。 筆者としては、両者の複合的、相乗的作用だと認識しているが、「権力に都合の悪い情報が隠蔽される」という大法則からすると、実は、まだ公開されていない温暖化要因があると思っている。 その最大のものが、原発温排水による海洋温暖化だ。海洋温度は、同じ1度で大気温度の数千倍の作用が起きるとされ、気象擾乱に大いに関係している。さらに、地殻変動による地熱との相乗作用もあるだろう。また中国やロシア旧東欧地域での環境負荷産業は、独裁政権の政治的思惑によりほとんど隠蔽されているといわれる。 いずれにせよ、真実が明らかになったときは、人類滅亡の鐘が鳴り響いていることだろう。 他人に対して「親子兄弟のように一緒に生きよう」 と考えず「自分たちさえ良ければ、他人は滅亡してもかまわない」とする独善的姿勢が人類滅亡を呼ぶのである。過ちを犯した加害者を自分の親子兄弟のように考えることができなくなって、「殺してしまえ」と叫ぶ人たちには滅亡がふさわしい。 【旧住宅金融専門会社(住専)の大口融資先だった不動産会社に資産の差し押さえを免れるように指示したとして、強制執行妨害罪に問われた弁護士、安田好弘被告(60)の控訴審判決公判が23日、東京高裁で開かれた。池田耕平裁判長は、1審東京地裁の無罪判決を破棄し、罰金50万円(求刑懲役2年)の逆転有罪を言い渡した。 判決によると、安田被告は、不動産会社社長(72)=懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決確定=らと同社の所有するビル2棟の賃料の差し押さえを免れるため、平成5年3月〜8年9月、ビルをダミー会社に転貸したように装い、計約2億円を隠した。 安田被告が、ビルを別会社に転貸して賃料を移し替えるというスキームを考案したことには争いはない。控訴審では、このスキームが強制執行を免れる目的で提案されたものか否か▽社長らとの共謀の有無−などが争われた。 検察側は、安田被告が提案したビルの転貸は「結果的に強制執行妨害を生じさせることは明らかで違法」と指摘。共犯者の供述などからも「共謀が認められる」と主張していた。 一方、弁護側は1審の約1200人を大きく上回る約2100人の弁護団を結成。1審同様に「事件は捜査当局が作り上げたもの」などと無罪主張していた。 安田被告は、22日に広島高裁で死刑判決が言い渡された山口県光市の母子殺害事件など多くの刑事事件で弁護人を務めているほか、死刑廃止運動の中心的存在としても知られる】 一審では完全無罪が宣告され、検察の陰謀さえ判決で指摘されたが、二審では見事に、権力のでっちあげ弾圧判決が復活した。筆者も、三井環事件と同じで、「ここまでやるか?」 と驚愕するしかなかった。これでは、全国の弁護士の、あらゆる弁護活動が犯罪として認定されることになる。詭弁を通り越して、まるで中国政権の傲慢なやり口を見ているようだ。 「この国は、もうオシマイだ」と思ってはいたが、ここまで権力が腐敗すると、論評の意欲も失われた。死刑制度の本質が理解できる読者にだけ呼びかける。 日本国民9割の死刑賛成者は、やがて来るべき警察国家、もの申せば獄中、処刑という特権階級の利権を守るための奴隷社会がやってくることを理解できない。説得可能なのは、死刑賛成者が6割程度までだろう。もうダメだ。彼らは、アメリカと同様、国民の1割が刑務所にぶち込まれる悲惨な奴隷社会を享受することになるだろう。 逃げよ逃げよ、すべての都市から! ノストラダムスの警告が聞こえる。心ある者、他人を自分の親子兄弟のように思いやることのできる者たちは、今すぐ団結して、過疎の田舎で農業共同体を作ろう。貧しくとも連帯に支えられて暗黒の時代を堪え忍ぼう。 やがて9割の死刑賛成者たちは死滅するだろう。累々たる焼け野原の跡に、人間解放のすばらしい時代を一から作り直そう。 「組織と効率化がもたらす破綻」について、続けて余談連載するつもりだったが、重大な出来事が相次いで見込みがうまくゆかない。 光母子殺人事件を端緒とする死刑論議について、あまりに論理的、人間的レベルが低い書き込みが続くので、筆者はうんざりして反論の意欲もわかない。ネット掲示板に意見を書き込む人たちは、「理性」について考えたことがないのだろうか? 何度も同じ例を出して恐縮だが、道路で車を運転していれば、必ず人を怒らせるアホがいっぱい出てくる。誰もいないところでのスピードオーバーやコーナリングまで文句を言うつもりなどないが、危険な割り込み、追い立て、意図的なノロノロ走り、走路妨害など事故に結びつく自分勝手な運転には非常に腹が立つが、だからといって、いちいち文句をつけて、気に入らないからと感情のままに殴りかかってばかりいる人は滅多にいないだろう。 そのときはカッとくるが、よく考えてみれば、自分でも他人の迷惑になる運転をしたこともあり、単に未熟なのかもしれない。また、危険運転常習犯は、いつか必ず事故を起こすにちがいないから、いずれ天が成敗するさ、などと考えて、我慢することが多い。 いちいち感情の赴くままに怒って仕返ししたりすれば、今度は自分が、みんなの迷惑になってしまう。だから怒っても「ちょっと待て! どっちがトクか、よーく考えよう」 と落ち着いて最善手を判断するのだ。これを「理性」と呼んでいる。 感情のままに行動する人を「未熟者」と呼び、全体の動静を見極めて、最善手を考えて行動できる人を「理性的」と呼んでいる。感情だけなら犬でも猿でもニワトリでも同じことだ。人間が、それらの動物と決定的に異なり、人間らしさをなしている本質が「理性」なのだ。 筆者は、死刑問題について、この人間らしい理性をもって判断せよと主張している。 悪質な犯罪に怒って、「犯人をやっつけろ!」と思うところが感情の作用である。何も怒るなとは言っていない。本村氏の立場にあって怒らない者がいるものか。しかし、そこで犯人を絞首刑にすれば、一時の感情、復讐心は満足するかもしれないが、それで問題が解決したわけでは決してない。 大切なことは、未熟な18歳の少年が暴走し二人を殺害するような愚かな過ちが繰り返されないようにすることだ。少年をロープで吊して殺して問題が解決したと思うなら、それこそ真の愚か者である。今、掲示板に書き込まれている死刑賛成の論旨は、一見、理性的なように見えて、実は理性のカケラもなく、復讐、報復の感情の立場を一歩も超えていない愚劣なものばかりだから心底うんざりするのだ。 もし死刑賛成者に理性があるなら、それが未熟な少年の暴走を、どう防ぐのか? 「やったら殺すぞ!」と恫喝して防ぐのか? それとも、少年が暴走に至った真の原因を分析し、少年たちが心安らかに社会に貢献できるよう、暖かい心を育てるために行動するのか? このメカニズムを分析し、社会にとって最善手を提唱するものになるはずだ。 筆者は、人を恫喝し、恐怖心によって統制しようとする愚か者たちを批判し徹底的に軽蔑し、彼らと真正面から対決しようとしている。我々の目指す社会は、恫喝や恐怖で支配する中国や北朝鮮のような社会では絶対にない。 未熟な少年たちを、暖かい心に育てるために、人を追いつめない暖かい教育を行い、他人の利益に奉仕することが、人生の喜びを産み出すことを教え、すべての人たちが、地球上すべての人間を、自分の親兄弟のように感じて、連帯して生きる楽しさを味わう社会なのである。 今、掲示板に書かれている、死刑賛成の書き込みのなかに、そうした理性のカケラでも見いだせるだろうか? 悪に至った理由を考えもせず、「自分の命で責任をとれ!」 だけの、支配者に飼い慣らされた番犬の発想であり、他人の過ちを自分のこととして捉え、暖かく、愛情のなかで解決しようとする姿勢が皆無ではないか? これでは、すべての心は閉ざされる。人は短所を指摘され、けなされ、報復、制裁されることで、憎しみしか生み出さない。憎しみが社会の何を改善するというのか? こんなことが分からないで、馬鹿の一つ覚えのように「責任」を強調したがる者よ、君が失敗したとき。本当に責任をとったことが一度でもあるのか? http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm 東海アマ地震予知情報 ニュー東海アマ
2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
ジョルジュ・デュメジルの三機能仮説と父権/母権支配・被支配構造
以前から、デュメジルの神話の三機能仮説を、哲学的に、あるいは、PS理論的に解明できるのではないかと漠然と思っているのである。以下から、
『この仮説によれば、原印欧語族の社会と宗教および神話は、上位から順に「主権」「戦闘」「その他生産など」の三つに区分され、このイデオロギーが社会階層や神学の主要部分を構成していた、という。それぞれ第一、第二、第三機能 (F1, F2, F3) と呼ばれる(ただし「機能」の用法は社会学におけるそれとは齟齬があり、この点でデュメジルが批判されることもある)。』 ということであるが、原印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)という父権的遊牧民族の神話分析なので、その父権主義の視点を外すわけにはいかない。私は、ジョウゼフ・キャンベルの神話学の女神神話と父権神話の絶対的区分の視点を借りて分析したいと思う。 即ち、基底に女神・母権・母系・女権神話(以下、母権神話)があり、支配的な上部構造として、父権神話が成立しているのではないかと、単純には考えられる。 そう見ると、第三機能が母権神話という可能性が大きいだろう。そして、母権社会を武力的に支配したのが、第二機能の「戦闘」の武人階層であると考えられよう。たとえば、ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』の凄惨無残な武人たちを考えればいいだろう。そして、第一機能の「主権」は当然、父権神話の神ないしは神々となるだろう。つまり、男性神(以下、女神に対して、男神と造語する)が「主権」として存するだろう。たとえば、ギリシア神話では、ゼウスがそれに当たるだろう。【日本神話に適用するなら、神は何だろうか。天皇が可能性があるが。思うに、アマテラスが第一機能で、スサノオが第二機能で、ツクヨミが第三機能となるのではないだろうか。騎馬民族仮説を考えると、そう見るのは可能である。しかし、以前述べたかもしれないが、日本神話は、母権多神教と父権一神教が交差ないし混淆しているのである。だから、ギリシア神話に近いのである。アマテラスは父権一神教に利用されていると思う。本来は、母権多神教の主宰女神としてのアマテラスではないだろうか。】 そうすると、第一機能と第二機能が父権社会の支配層を象徴し、第三機能が被支配の母権社会を象徴しているのではないだろうか。つまり、デュメジルの三分説は、父権主義と母権主義との混淆であり、本来、不連続な文化が、いわば、連続化されていると見ることができるのではないだろうか。つまり、父権制と母権制の連続態・混淆態がここにあると思われるのである。これは、哲学的には、同一性と差異との連続・混淆化であると考えられる。 とまれ、これを、現代にあてはめると、欧米では、第一機能の「主権」は、キリスト教、自由主義、民主主義であり、第二機能の「戦闘」は軍部・軍隊・武力であり、第三機能の「その他の生産」は民衆・国民・市民等に当たるだろう。日本では、第一機能からキリスト教が抜ける。そして、第二機能は、米軍となるだろう。そして、第三機能は庶民・国民である。 問題は、第一機能が、第二機能を解して、第三機能を支配しているという図式である。これが、父権的権力主義の実体と考えられる。 読者の皆さん、ここで問題を出しますが、この三機能の中でキーポイントは何だと思いますか。勘のいい人はすぐおわかりになると思いますが、第二機能の「戦闘」です。武力です。これは、PS理論から言うと、同一性主義=ロゴス中心主義が発生するときに生じる暴力の具体的装置であります。つまり、同一性主義と同格にこの第二機能が発生することになります。(以下、ですます調から元に戻します。) だから、結局、第一機能と第二機能とは、同一の事態であると考えることができる。だから、三機能ではなくて、二機能でいいことになるのである。同一性主義と抑圧否定される差異共振主義の二つの機能があるのである。これでPS理論の図式となるのである。 結局、ロゴス中心主義の解体がやはり問題となるのである。結局、差異、差異共振性へと回帰することなのである。すると、武力はどうなるだろうか。それは、同一性暴力であることから、差異共振保持力となるだろう。共同体保持力である。それは、共同体資本へと転化するのではないだろうか。軍需産業が平和産業へと転換することを意味するだろう。 端的に、第一機能である国家主義から、第三の差異共振共同体への回帰が必要である。そう、「主権」が第三機能に移ることが必要なのである。父権から母権へである。 ******************* ジョルジュ・デュメジル 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 ジョルジュ・デュメジル(Georges Dumézil, 1898年 3月4日 - 1986年 10月11日 )はフランス の比較神話学者 、言語学者 。インド・ヨーロッパ語族 における比較神話学 の構造的体系化を行ない、クロード・レヴィ=ストロース の構造主義 に大きな影響を与えた。 また(比較言語学者だから当然ではあるが)非常に多くの言語を習得したことで知られ、ほとんどのインド・ヨーロッパ諸語に精通し、さらに複雑で知られる北西コーカサス語族 の権威でもあった。マルセル・グラネ の講座で中国語 を学び、南米のケチュア語 についての論文も発表している(デュメジルによれば、「中国語はケチュア語のようには簡単にはマスターできない」)。ただし本人によれば30の言語を勉強したが、そのうち英語を含めてどれ一つとして正確に話せない、という。 略歴 1898年、パリに生まれる。名門ルイ・ル・グラン校で学び、1916年エコール・ノルマル (高等師範学校)のユルム校に首席で入学。1917年3月に徴兵され、ヴェルダン 、シュマン・デ・ダムなどで主として後方任務に就く。1919年2月、教授資格試験に合格する。その後ワルシャワ大学 のフランス語講師になるがすぐに辞職する。1925年に結婚し、イスタンブール大学 で宗教史を教える。ここでデュメジルはカフカス諸語と出会う。1931年から33年までウプサラ大学 でフランス語教師となる。ここでミシェル・フーコー と出会い、親友となる。1933年6月、高等研究実習院 宗教学セクションの「比較神話学」講師としてフランスに戻る。1948年、コレージュ・ド・フランス の教授に選ばれる。1968年に退官し、まずプリンストン大学 へ、次いでミルチャ・エリアーデ に招かれてシカゴ大学 へ、そしてカリフォルニア大学 ロサンゼルス校で講義を行なう。1978年、アカデミー・フランセーズ 会員に選ばれる。1986年、死去。 [編集 ] 生涯と学問 デュメジルがルイ・ル・グラン校第2級学年のとき、クラスのなかに比較言語学者ミシェル・ブレアル の孫がいた。デュメジルはすでにブレアルの『ラテン語語源辞書』を持っていたが、実際に出会うと彼はデュメジルのサンスクリット作文を直し、そして梵英辞書を与えた。本人によれば、これによって自分の仕事が定まったのだという。ブレアルから比較言語学者アントワーヌ・メイエ の著作を薦められたデュメジルは、この学者の下で研究することを決意する。 メイエのもと、デュメジルが1924年に最初の比較神話学についての博士論文『不死の饗宴』を書いたとき、比較神話学は死んだ学問も当然であった。19世紀末にアーダルベルト・クーン やマックス・ミュラー など自然神話学派 によって進められた比較神話学は恣意的に過ぎ、そして完全に権威を失っていたのである。彼らの手法は語源が一致していれば共通する神話を持っているというもので、初期のデュメジルもこの理論に従っていくつかの著作を発表していた(『饗宴』の場合アンブロシア とアムリタ 。ほかに1929年の『ケンタウロスの問題』ではケンタウロス とガンダルヴァ 、1934年の『ウラノス-ヴァルナ』と1935年の『フラーメン-ブラフマン』は表題のとおり)。このように語源にこだわっていたかたわら、デュメジルは1930年に古代インド とイラン において社会階層の三区分に共通性があることを指摘した。原インド・イラン時代に三階層の社会組織があったという仮説はすぐ後に比較言語学者のエミール・バンヴェニスト によって補強された。 そんなあるとき、講義の準備をしていた1938年に、デュメジルはインド・ヨーロッパ語族の三機能イデオロギー(後に詳述)を「発見」する。インドのカースト 制度(祭司階級・戦士階級・生産者集団)と最初期ローマ の三神(ユピテル ・マルス ・クィリヌス )が共通する構造を持っていたのである。この発見を発表(「大フラーメンの先史」)することによって、デュメジルはこれまで彼の比較神話学に否定的だったエミール・バンヴェニスト から大きな賛同を得ることになり、そして後にはバンヴェニストの尽力によりコレージュ・ド・フランスに選出された。 40年代には『ユピテル・マルス・クィリヌス』3巻シリーズや『ホラティウスとクリアティウス兄弟』などを出版し、デュメジルの仮説が徐々に知られ始めるようになる。 1952年、ペルーを訪れてケチュア語を研究、いくつかの論文を発表する。なかにはトルコ語とケチュア語の関連性を指摘するものもあったが、現在では受け入れられていない。1954年、カフカス諸語の一つでほとんど死語となっていたウビフ語 の話者をトルコで発見し、それから1972年まで毎年トルコを訪れた。研究はウビフ語最後の話者テヴフィク・エセンチ(1992年死去)と共同で進められた。 1966年出版の『古ローマの宗教』から、デュメジルは1938年以来の仕事の総括を行ないはじめる。ついで1968年に『神話と叙事詩I』が出版された。 1978年にアカデミー・フランセーズに入会したときに歓迎演説を行なったのはレヴィ=ストロースだった。 なおデュメジルは神話や宗教を研究していたが形而上 的な問題については自然科学 的な立場にあり、死後の存在については否定的で、人間の思考は究極的には脳の神経細胞 の働きによるものだと考えていた。 [編集 ] 三機能仮説 デュメジルの研究のなかでも最も知名度が高いのが、印欧語族の神話群に共通した三分構造が見られるという「三機能仮説」である(デュメジル自身は「三区分イデオロギー」「三機能体系」「三機能イデオロギー」「三機能構造」と言っている)。日本でも大林太良 や「デュメジル唯一の弟子」吉田敦彦 が積極的に紹介し、日本神話解明に利用している。 この仮説によれば、原印欧語族の社会と宗教および神話は、上位から順に「主権」「戦闘」「その他生産など」の三つに区分され、このイデオロギーが社会階層や神学の主要部分を構成していた、という。それぞれ第一、第二、第三機能 (F1, F2, F3) と呼ばれる(ただし「機能」の用法は社会学におけるそれとは齟齬があり、この点でデュメジルが批判されることもある)。 F1はさらに「呪術的至上権」と「法律的至上権」に分割され、相互補完的に機能する。前者は攻撃的で暗く、霊感に満ち、激しいと表徴されるが、後者は理論的で明るく、穏やかで善意に満ちていると表象される。 同様の分割はF2にも見られるが、F1ほど明確ではない。 F3は、神話によれば本来集団には存在せず、後に闘争を経てF1, F2に加わった。 また三機能を包括する女神の存在も確認される。 デュメジルは、当初は、原印欧時代の社会に現実として存在していた三区分の社会階層が人々の思考に影響を与え、三機能のイデオロギーが形成されたのだと考えていた。しかし後になり、もともと原印欧時代の人々の間に、一つの理想像、世界観として三機能イデオロギーが存在し、それが社会階層と神話思考に等しく影響を及ぼした、という構造主義的な考えを持つに至った。 三機能仮説には多くの批判がある。たとえば「支配する人、守る人、生産する人」という区分は普遍的なものであって印欧語族に特有のものではない。これに対してデュメジルは、少なくとも旧世界において三区分がイデオロギーとして諸構造に深く影響を与えているのは印欧語族以外見当たらないと反論する。また、三機能構造はデュメジルが恣意的に見出したもので、ほかの文献からそれらを「発見」するのは容易である。旧約聖書 からも見つかる。これに対してはデュメジルは数多くの具体例を持ち出し、旧約聖書には三機能が印欧語族の諸文献のように明示されたところは存在しないと反論する。 こうした批判と同時に、多くの神話学者や宗教学者は三機能仮説を受け入れ、それに沿って研究を進めている(たとえばエリアーデ、スティグ・ヴィカンデル 、スコット・リトルトン 、ブルース・リンカーン 、吉田敦彦など)。
2008年01月08日(Tue)▲ページの先頭へ
検討問題:『指輪物語』の「一つの指輪」と北欧神話/父権神話
リン・カーターの『ロード・オブ・ザ・リング:「指輪物語」完全読本』(角川文庫)を読むと、トールキンの霊感のベースに北欧神話があるのがよくわかる。北欧神話については、まだよくわからないが、それでも、直感では、なにか貨幣を問題にしているように思えたのである。(飛躍するが、物理学者、天文学者は神話を読むといいと思う。何故なら、神話は超越的エネルギーの多様な作用を扱っていると思えるからである。ダークエネルギーは、神話的である。神とは端的に、超越的エネルギーである。)
とまれ、先の私のアイデア、即ち、「一つに指輪」とは貨幣神のことではないかという考えが強くなっている。つまり、ヤハウェである。そして、それは、資本主義に帰結したと考えられるのである。 私が注目している点は、龍殺しである。トールキンの『指輪物語』の前身である『ホビット』では、宝物を隠している龍スマウグを退治することになっている。「一つの指輪」との結びつきは不明であるが、『指輪物語』では、「一つの指輪」をめぐって、闇の王サウロンとの戦いが行われるので、なんらか龍殺し、龍退治と関係していると考えられる。 神話学者ジョーゼフ・キャンベルの視点からみると、龍とは、太母である。そして、それが闇の王となるというのは、「一つの指輪」と関係させて、龍=太母が反転して、ヤハウェになったということではないだろうか。つまり、『指輪物語』とは、ヤハウェ=貨幣神退治の物語ではないのか、という考えが浮かぶのである。 「一つの指輪」を山に捨てるというのは、結局、龍=太母へと回帰させることではないのか。つまり、トランス・モダンである。これは、同一性主義から差異共振主義を意味しているのではないのか、ということである。確かに、考えすぎかもしれない、あるいは、妄想かもしれないが、捨てがたい考えなのである。
2007年12月28日(Fri)▲ページの先頭へ
Joseph Campbell:1
神話に関しては、私は、ジョーゼフ・キャンベルの圧倒的な影響の下にある。彼の神話学をユング心理学の適用と一般には考えられているが、彼の本を読めばわかるように、ユング心理学(元型心理学)の応用というよりは、比較神話学であり、普遍的神話学を構築していると見ることができる。
彼の博覧強記の、しかも、整合性のある著書は、確実に視野が広くなるものである。とりわけ、女神中心主義は、私の神話観を変えてしまった。これは大変な驚きであり続けている。 かなり翻訳も出たが、しかしながら、彼の主著の『神の仮面』(全四作)は、一巻しか翻訳されていない。それでも、山室静氏の翻訳があるのは、幸運である。 そう、もう十年くらい前になるのか、彼の本を読んでいたときの至福感を思い出した。また、神話ブームになるかもしれない。何故なら、新太母文化が目前であるからである。というか、実質、もう入っていると言えよう。 追記:最近、私の勘は冴えている。ジョージ・ハリスンはケルト系ではないかと感じたが、それが先日確認できた。そして、神話学者のジョーゼフ・キャンベルもケルト系ではないかと思い、検索したら、キャンベルは、スコットランド(ケルト文化圏)の部族の名前であった。端的に、見事に、ケルト系である。 参照1: Clan Campbell and Clan MacDonald - The Great Feud Memories run long in the highlands of Scotland and, we've heard tell, the bitterness between Clans Campbell and MacDonald continues to this day. The clash between these two ancient Celtic houses, which has lasted for hundreds of years, is not just about lands, religion, Jacobitism, or even betrayal. Rather, it is about power. ・・・・・ Clan Campbell is as ancient a Celtic family as the MacDonalds, though their historical records are inaccessible before their rise to prominence. The Campbells trace their ancestry through Sir Colin Mor Campbell of Lochow, killed in 1294. In English, their name is Clan Dairmid. The surname Campbell is attributed to the gaelic nickname for one of their chiefs, cam-beul, meaning a wry or twisted mouth (perhaps called that by the MacDonalds!). ・・・・・ Some famous Campbells: Sir Colin Campbell (1792-1863) - Commanded the Highland Brigade at Balaclava and was Commander-in-Chief during the Indian Mutiny (he took the Campbell name from his mother; he was born a MacLiver) Joseph Campbell - Cofounder of Campbell Soup Company Sir Henry Campbell-Bannerman (1836-1908) - British Prime Minister Joseph Campbell (1904-1987) - world famous mythologist and author http://www.heartoscotland.com/ Categories/CampbellsandMacDonalds.htm 参照2: ここに一つの言葉を引用しておきたい。 これは、神話学者のジョセフ・キャンベルがグレイトフル・デッドのドラマーであるミッキー・ハートに語った言葉である。ジョセフ・キャンベルは、人類が自らの神話を再創造する時が近付いていると確信していた。 「もうすぐ新しい神話が現れる。それも地球規模のものだ、ミッキー。どのようなかたちで現れるのかはわからないが、これまでの神話の構造と関係があるということははっきりしている。神話の象徴的パターンというのは、結局は脳自身のエネルギーパターンの反映だからね」 (『ドラム・マジック リズム宇宙への旅』ミッキー・ハート著) http://www.ame-ambient.com/Nagaya/innerworld/shinwa/part01.html 対談『新しい神話の創造に向けて』by 龍村仁氏、名嘉睦稔氏 and 長屋和哉 〜 はじめに Joseph Campbell From Wikipedia, the free encyclopedia Jump to: navigation , search For other uses, see Joseph Campbell (disambiguation) . Joseph Campbell Joseph Campbell circa 1984 Born March 26 , 1904 (1904-03-26) White Plains, New York Died October 30 , 1987 (aged 83) Flag of Hawaii Honolulu , Hawaii Occupation Scholar Nationality American Influences Friedrich Nietzsche , Oswald Spengler , Sigmund Freud , Carl Jung , Heinrich Zimmer , James Joyce , Thomas Mann , Arthur Schopenhauer , Leo Frobenius Joseph John Campbell (March 26 , 1904 – October 30 , 1987 ) was an American mythology professor , writer , and orator best known for his work in the fields of comparative mythology and comparative religion . Life [edit ] Childhood and education Joseph Campbell was born and raised in White Plains , New York [1] in an upper middle class Roman Catholic family. As a child, Campbell became fascinated with Native American culture after his father took him to see the American Museum of Natural History in New York where he saw on display featured collections of Native American artifacts. He soon became versed in numerous aspects of Native American society, primarily in Native American mythology . This led to Campbell's lifelong passion for myth and to his study of and mapping of the cohesive threads in mythology that appeared to exist among even disparate human cultures. He graduated from the Canterbury School (Connecticut) in 1921. While at Dartmouth College he studied biology and mathematics, but decided that he preferred the humanities. He transferred to Columbia University where he received his B.A. in English literature in 1925 and M.A. in Medieval literature in 1927. Campbell was also an accomplished athlete, receiving awards in track and field events. [edit ] Europe In 1927, Campbell received a fellowship provided by Columbia to study in Europe. Campbell studied Old French and Sanskrit at the University of Paris in France and the University of Munich in Germany . He quickly learned to read and speak both French and German , mastering them after only a few months of rigorous study. He remained fluent in both languages for the remainder of his life. He was highly influenced while in Europe by the period of the Lost Generation , a time of enormous intellectual and artistic innovation. Campbell commented on this influence, particularly that of James Joyce , in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:28): CAMPBELL: And then the fact that James Joyce grabbed me. You know that wonderful living in a realm of significant fantasy, which is Irish, is there in the Arthurian romances; it's in Joyce; and it's in my life. COUSINEAU: Did you find that you identified with Stephen Daedalus ...in Joyce's A Portrait of the Artist as a Young Man ? CAMPBELL: His problem was my problem, exactly...Joyce helped release me into an understanding of the universal sense of these symbols...Joyce disengaged himself and left the labyrinth, you might say, of Irish politics and the church to go to London , where he became one of the very important members of this marvelous movement that Paris represented in the period when I was there, in the '20s. It was in this climate that Campbell was also introduced to the work of Thomas Mann , who was to prove equally influential upon his life and ideas. Also while in Europe, Campbell was introduced to modern art, becoming particularly enthusiastic about the work of Paul Klee and Pablo Picasso . A new world of exciting ideas opened up to Campbell while studying in Europe. Here he also discovered the works and writings of Sigmund Freud and Carl Jung . It was also during this time, as well, that he met and became friends with the young Jiddu Krishnamurti , a friendship which began his lifelong interest in Hindu philosophy and mythology. In addition, after the death of Indologist Heinrich Zimmer , Campbell was given the task to edit and posthumously publish Zimmer's papers. [edit ] Return to the United States and the Great Depression On his return from Europe in 1929, Campbell announced to his faculty at Columbia that his time in Europe had broadened his interests and that he wanted to study Sanskrit and Modern art in addition to Medieval literature . When his advisors did not support this, Campbell decided not to go forward with his plans to earn a doctorate and never returned to a conventional graduate program (The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work , 1990, first edition: 54). A few weeks later, the Great Depression began. Campbell would spend the next five years (1929-1934) trying to figure out what to do with his life (Larsen and Larsen, 2002:160) and he engaged in a period of intensive and rigorous independent study. Campbell discussed this period in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:52-3). Campbell states that he "would divide the day into four four-hour periods, of which I would be reading in three of the four hour periods, and free one of them...I would get nine hours of sheer reading done a day. And this went on for five years straight." He also traveled to California for a year (1931-32), continuing his independent studies and becoming close friends with the budding writer John Steinbeck and his wife Carol (Larsen and Larsen, 2002, chapters 8 and 9). Campbell also maintained his independent reading while teaching for a year in 1933 at the Canterbury School during which time he also attempted to publish works of fiction (Larsen and Larsen, 2002:214) [2] . Campbell's independent studies led to his greater exploration of the ideas of the Swiss psychiatrist Carl Jung , a contemporary and estranged colleague of Sigmund Freud . Campbell edited the first Eranos conference papers and helped to found Princeton University Press ' Bollingen Press. Another dissident member of Freud's circle to influence Campbell was Wilhelm Stekel (1868 - 1939). Stekel pioneered the application of Freud's conceptions of dreams, fantasies of the human mind , and the unconscious to such fields as anthropology and literature . [edit ] Sarah Lawrence College In 1934, Campbell was offered a position as professor at Sarah Lawrence College (through the efforts of his former Columbia advisor W.W. Laurence). Campbell married one of his former students, dancer and dance instructor Jean Erdman , in 1938. He retired from Sarah Lawrence College in 1972, after having taught there for 38 years. [edit ] Death Joseph Campbell died at the age of 83 on October 30, 1987, at his home in Honolulu , Hawaii, from complications due to esophageal cancer [1] shortly after completing filming of The Power of Myth with Bill Moyers . [edit ] Select works [edit ] James Joyce and early works As noted above, James Joyce was an important influence on Campbell. Campbell's first important book (with Henry Morton Robinson ), A Skeleton Key to Finnegans Wake [3] (1944), is a critical analysis of Joyce's final text Finnegans Wake . In addition, Campbell's seminal work, The Hero with a Thousand Faces , discusses what Campbell termed the monomyth -- the cycle of the journey of the hero , an idea which he directly attributes to Joyce's Finnegans Wake (Campbell, 1949:30). [edit ] The Masks of God His massive four-volume work The Masks of God covers mythology from around the world, from ancient to modern. Where The Hero with a Thousand Faces focused on the commonality of mythology (the “elementary ideas”), the Masks of God books focus upon historical and cultural variations the monomyth takes on (the “folk ideas”). In other words, where The Hero with a Thousand Faces draws perhaps more from psychology, the Masks of God books draw more from anthropology and history. The four volumes of Masks of God are as follows: Primitive Mythology, Oriental Mythology, Occidental Mythology, and Creative Mythology. [edit ] The Historical Atlas of World Mythology At the time of his death, Campbell was in the midst of working upon a large-format, lavishly illustrated series entitled The Historical Atlas of World Mythology. This series was to build on Campbell’s idea, first presented in The Hero with a Thousand Faces, that myth evolves over time through four stages: • The Way of the Animal Powers -- the myths of Paleolithic hunter-gatherers which focus on shamanism and animal totems. • The Way of the Seeded Earth -- the myths of Neolithic, agrarian cultures which focus upon a mother goddess and associated fertility rites. • The Way of the Celestial Lights -- the myths of Bronze Age city-states with pantheons of gods up ruling from the heavens, led by a masculine god-king. • The Way of Man -- religion and philosophy as it developed after the Axial Age (c. 6th century BCE), in which the mythic imagery of previous eras was made consciously metaphorical, reinterpreted as referring to psycho-spiritual, not literal-historical, matters. This transition is evidenced in the East by Buddhism , Vedanta , and philosophical Taoism ; and in the West by the Mystery Cults , Platonism and Gnosticism . Only the first two volumes were completed at the time of Campbell's death. Both are now out-of-print. [edit ] The Power of Myth Campbell's widest popular recognition followed his collaboration with Bill Moyers on the PBS series The Power of Myth , which was first broadcast in 1988, the year following Campbell's death. The series exposed his ideas concerning mythological, religious, and psychological archetypes to a wide audience, and captured the imagination of millions of viewers. It remains a staple of PBS television membership drives to this day. A companion book, The Power of Myth, containing expanded transcripts of their conversations, was released shortly after the original broadcast, and became a best seller. [edit ] Thou Art That: Transforming Religious Metaphor A recent compilation of many of his ideas is titled Thou Art That: Transforming Religious Metaphor. In it Campbell writes:"...Mythology is often thought of as other people's religions, and religion can be defined as mis-interpreted mythology." In other words, Campbell did not read religious symbols literally as historical facts, but instead he saw them as symbols or as metaphors for greater philosophical ideas. Campbell had previously discussed this idea with Bill Moyers in The Power of Myth: CAMPBELL: That would be a mistake in the reading of the symbol. That is reading the words in terms of prose instead of in terms of poetry, reading the metaphor in terms of the denotation instead of the connotation. MOYERS: And poetry gets to the unseen reality. CAMPBELL: That which is beyond even the concept of reality, that which transcends all thought. The myth puts you there all the time, gives you a line to connect with that mystery which you are (Campbell, 1988:57).
2007年12月18日(Tue)▲ページの先頭へ
悟り:We are One.
私は、Media Pointが一(いつ)であると、一昨日、認識して、非常に、心が楽になったのである。そう、深いやすらぎを得たのである。一種の悟りである。私は輪廻転生をほぼ信じるが、輪廻転生という観念でさえ、一という観念には、負けるのである。ビートルズとその個々のミュージシャンの高い精神性は、今更ながら、驚く。いったい、あれから、どれほど、我々は進んだというのだろう。退化しているだろう。
60年代から70年代初期にかけて、確かに、精神文化が盛り上がり、ビートルズもその中にあり、また、それにフィードバックしただろう。 この精神文化の活動が、70年代後半から衰退した。おそらく、ここには、何かがある。精神文化活動を衰退させる動きがあったように思えるのである。ビートルズの例で言えば、キリスト教右派による妨害があった。ジョン・レノン殺害もなにか、あるように思う。 よく陰謀論と言われるが、権力支配する筋から見て、権力文化を破壊するものに対しては、それを解体させる行為をするはずである。民衆は洗脳されやすいのである。自分の心で考えないからである。 とまれ、一であること、これは、特異性と矛盾しないのである。普遍性は特異性であり、特異性は普遍性である。私たちが見る世界は、本当は一つなのである。オノヨーコが、We are One.とベッドインで言っていたのを思い出す。
2007年12月13日(Thu)▲ページの先頭へ
古事記と易との関係:プラトニック・シナジー理論と古事記/易
古事記の暗号―神話が語る科学の夜明け (文庫)
藤村 由加 (著) http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%9A%97%E5%8F%B7%E2%80%95%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E7%94%B1%E5%8A%A0/dp/4101258236 ブックオフでちらと見たら、古事記と易との関係が述べられていた。天之御中主神は、太極であるということで、なるほどと思ったが、どうしてこれまで気がつかなかったのかと思った。たかみむすひのかみ、と、かみむすひのかみ、が陰陽となるのである。そう、三つ巴と陰陽太極は同じであるということになる。後で読みたい。 以下、引用する。 「 天之御中主[あめのみなかぬし]、御をとると天之中になるが、「天中」という漢語があり、天の中央、空の中心、大空の意がある。古事記の高天原(たかまがはら)の中心というより、もっと宇宙的な意味で中心の神だというのだ。易ではそれは万物のすべての大もと、太極にあたる。 そこから生まれるのが陽と陰の神々である。つまり、高御産巣日神[たかみむすひのかみ]は陽、神産巣日神(かみむすひのかみ)が陰ということだ。最初に、太極、陽、陰と万物を構築していくのになくてはならぬ神々が出現したのである。」p.42 そうすると、先にも少し述べたが、+iが高御産巣日神で、-iが神産巣日神であり、(+i)*(-i)=Media Pointが天之御中主神である。そして、⇒+1が造化である。そうすると、プラトニック・シナジー理論は、古事記の神話叡知をも科学化したことになる。 とまれ、問題は、ユダヤ・キリスト教ないしは聖書において、この三神共振性が失われていることである。つまり、既述したように、+iだけが創造神(ヤハウェ、エホバ)になっていて、-iや(+i)*(-i)を欠いているように見えることである。 創世記の神霊は+iであり、水が-iである。そして、「光あれ」が⇒+1である。だから、やはり、(+i)*(-i)=Media Pointが欠落しているように思われるのである。強いて言えば、無からの創造ということで、無がそれに当たるだろう。 聖母マリアが-iかもしれない。そして、聖霊が(+i)*(-i)=Media Pointかもしれない。後で検討したい。 p.s. ふと考えたのであるが、+iは、一神教の神であり、-iは多神教の神ではないかと思ったのである。換言すると、+iが一(いつ)であり、-iが多である。何度も既述したように、旧約聖書は不思議なもので、神の名が、実は、二つあって、一つは周知のヤハウェ(エホバ)であり、一つはエローヒーム(神の複数)である。思うに、前者が+iであり、後者が-iではなかったか。そうならば、つじつまがあうのである。そして、ユダヤ・キリスト教は、聖書の後者を無視していって、一神教神学を形成したのではないだろうか。つまり、聖書とユダヤ・キリスト教は不連続であるということである。(また、先にも述べたが、創世記は奇妙な箇所があって、天の上の水と天の下の水があるのである。そして、前者が無視されていくのである。) とまれ、創世記の神霊がヤハウェとして、水がエローヒームとなるのではないだろうか。そして、この共振によって、光が発生して、天地創造となることになるのである。(もっとも、この光は超越光でもあるだろう。超越光⇒光である。) また、この考えから、ギリシア神話の説明もつくだろう。つまり、(+i)*(-i)は、一神*多神であり、ゼウス(主神)とオリンポスの神々の一神/多神の関係の説明がつくのである。 では、アポロとディオニュソスはどう説明できるだろうか。おそらく、ディオニュソス⇒アポロである。つまり、超越光⇒光の関係ではないかと思うのである。つまり、ディオニュソスとは、Media Pointである。 では、さらに展開して、プラトンの善のイデアやその他のイデアとは何か。これは微妙な問題だと思う。つまり、超越的差異がイデアであるが、それは、結局、Media Pointへと展開する。つまり、エネルゲイア化するのである。そう、以前述べたように、超越的差異をデュナミス、そして、Media Pointをエネルゲイアと考えることができるだろう。 端的にイデアは、どちらなのか。否、両方ではないのか。デュナミス/エネルゲイアとしてのイデアではないのか。そして、後世、イデアの現象する際の連続的同一性を側面を捉えて、同一性の観念として捉えられてきたのである。例えば、花のイデア、馬のイデア、机のイデア等々である。おそらく、プラトン自身、不明確であったようにも思えるのである。本当は、Media Pointとしてのイデアを説くべきであるが、プラトンは、その連続/同一性の面をイデアとして説いている面があるのである。例えば、『国家』におけるイデアの模倣の模倣としての芸術論において見られるように。 とまれ、今はここで留めたい。
2007年12月08日(Sat)▲ページの先頭へ
真正神道と本居宣長批判:ロマン主義とポスト・モダンとトランス・モダン
神道の逆襲 (講談社現代新書) (新書)
菅野 覚明 (著) 菅野覚明(かんのかくみょう)著『神道の逆襲』(講談社現代新書)をちらと見たが、本居宣長の周知の「もののあわれ」論があり、興味をそそった。 私は、本居宣長に対して、疑義があるので、興味深い。思えば、かつて、本居宣長の考え方に共感していたのであるが、どうして、今は疑問に思っているのかを精査するためにも、本居宣長の思想を考察してみたいと思うのである。 簡単に言うと、本居宣長の思想は、ロマン主義なのである。しかしながら、直感では、彼の説明に臭みがあるのである。私の直感にひっかるものがあるのである。誤解・錯誤ならば、是非、解いてみたい。 宣長は、理を排して、生成した感情・心情・情感を素直に認めるべきであると主張していると考えられる。理性主義に対して、ロマン的感情を肯定しているのである。時代的に見て、西洋のロマン主義の時代とほぼ同時代の人間でもある。 理論・哲学的に見ても興味深い問題があるのである。そう、「ポスト・モダン」の問題なのである。理性とは、同一性である。それに対して、宣長/ロマン主義は、感性・感情の差異を提唱するのである。そして、理性=同一性を排除するのであるのである。これは、正に、「ポスト・モダン」の様態である。 ここで、イギリス・ロマン主義の詩人・版画家であるウィリアム・ブレイクを考えると興味深い。彼は、苛烈に啓蒙思想を排斥するのであるが、結局、理性の中心主義化に対して、異議を唱えているのであり、理性を否定しているのではないのである。結局、イギリス・ロマン派らしく、理性と感性との調和を目指しているのである。換言すれば、同一性と差異との調和を志向しているのである。そして、これは、プラトニック・シナジー理論の視点から見ると、正しい方向性と考えられるのである。つまり、同一性を包摂した差異共振性への方向性が認められるのである。 しかるに、本居宣長の場合は、同一性を排除したままである。これは、例えば、漢意(からごころ)への排除と転化するだろう。そして、これは、端的に、非合理主義である。文化史的には、偽ロマン主義である。(真正ロマン主義とは、理性を包摂した超越性を志向する心の文化である。プラトニック・シナジー理論は、真正ロマン主義のの進展であるとも言えよう。また、音楽で言えば、ベートーヴェンの音楽はロマン主義となるが、やはり、真正ロマン主義と言うべきである。二つのロマン主義があるのである。つまり、真正ロマン主義と反動ロマン主義である。宣長のは、後者なのである。国学の反動性があるのである。これが、明治維新ならびに近代日本文化に病的な、狂気的な反動性をもたらしていると推測されるのである。新しい歴史をつくる会等がそうであり、また、従軍慰安婦や集団自決等の問題も、この病理的・狂気的な反動性が関係しているのである。戦前の全体主義の狂信も、ここに根因があると思われるのである。実に恐ろしい国学的反動性の束縛・桎梏を乗り越えたとき、日本は蘇ることができるだろう。真正神道の復興である。) 理性=同一性を排除したとき、心は、情緒中心となる。ここには、批判知性もなくなり、無知蒙昧化するのである。感情中心となれば、そうならざるを得ないのである。もっとも、「もののあわれ」には、共感性があることを認めなくてはならない。それは、PS理論的には、差異共振的共感性ということになるのである。しかしながら、理性=同一性を排除した共感性とは、結局、-i→+i⇒-1となるのである。つまり、闇の共感性となり、病的になるのである。それは、D.H.ロレンス等の神秘的作家が陥った闇の心性である。光ではなく、闇のあわれなのである。病的なあわれなのである。 思うに、ずいぶん、以前に思ったことであるが、本居宣長の「もののあわれ」論が日本人の心性を情緒中心に歪めて、正しい知性の形成をそこなっていると感じたものである。 私の言いたいのは、情緒を否定することではなく、情緒中心主義の否定である。それは、プラトニック・シナジー理論によって明確化されている心性の提唱である。同一性=理性を包摂した差異共振的心性である。ここでは、知と感とが即非様態、差異共振様態、創造的共振様態にあるのである。今はここで留めたい。 参考: 本居宣長 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 文学 画像:Lit.jpg ポータル 各国の文学 記事総覧 出版社 ・文芸雑誌 文学賞 作家 詩人 ・小説家 その他作家 本居 宣長(もとおり のりなが、1730年 6月21日 (享保 15年5月7日 ) - 1801年 11月5日 (享和 元年9月29日 ))は、江戸時代 日本 の国学 者・文献学者・医師 である。名は栄貞。鈴屋大人(すずのやのうし)と号した。 経歴 伊勢国 松坂(現在の三重県 松阪市 )の出身。幼名は富之助。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、松阪の商家である小津家の次男として生まれる。兄が死んだ後、その小津家を継ぐ。そして、22歳になったとき、医学の修行のため京都へ遊学した。京では朱子学者の堀景山 に師事し、寄宿して漢学や国学などを学んだ。この頃から日本固有の古典学に身を入れるようになり、荻生徂徠 や契沖 に影響を受け、国学の道に入ることを志す。その京都での生活に感化され、王朝文化 の憧れを強めていく。 松坂に帰った宣長は医師を開業し、そのかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、『先代旧事本紀 』と『古事記』を書店で購入し、賀茂真淵 の書に出会って国学の研究に入ることになる。1763年 (宝暦 13年)5月25日 、宣長は、松阪を来訪した真淵に初見した。そして、兼ねてから志していた古事記の注釈について、指導を願うのである。真淵は、万葉仮名 に慣れるため、万葉集 の注釈から始めた方が良いという旨の教授をした。以後、真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進むことを決意した。この真淵との出会いは、宣長の図随筆集『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。この二つの文章から再構成された宣長と真淵との邂逅は、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載され、この読本によって宣長の名が国民的な文化人として記憶されるようになった。 宣長の代表作には、約35年を費やして執筆された『古事記 』の浩瀚な註釈『古事記伝 』や、『源氏物語 』の注解『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』などがある。日本固有の情緒「もののあはれ 」が文学の本質であると提唱したことで知られる。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な孔子の教え(「漢意 」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明 や思想を尊重する荻生徂徠 を批判した。しかし、徂徠の学問の方法論である古文辞学 からは多大な影響を受けていることが指摘されている。古事記伝の画期は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、やがて国学の源流を形成してゆく。 門下生として石塚龍麿 ・夏目甕麿 (みかまろ)・高林方朗 (みちあきら)・小国重年 ・竹村尚規 ・本居春庭 (宣長の実子)・本居大平 (宣長の養子)などがいる。 また、国学者としての業績が余りにも大きすぎるために無視されがちであるが、地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動してきたことでも知られ、かつ、寛政4年紀州藩 に仕官し御針医格十人扶持となっていた。亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。また意外な一面として、小児科医としても著名であったが、付き添いの母親の診察を乳児の病気の原因は母親にあるとして、必要以上に診察した逸話がある。 宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋 によりあきらかになった面が大きい。 鈴 コレクターとしても有名で、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していた。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。 遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年に松坂市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。 [編集 ] 作品 [編集 ] 国学 * 『古事記伝 』 * 『源氏物語玉の小櫛 』 * 『直毘霊 』 * 『玉鉾百首 』 * 『玉くしげ 』 * 『鈴野屋問答 』 [編集 ] 評論 * 『紫文要領 』 [編集 ] 語学 * 『字音三音攷 』 * 『紐鏡 』 * 『字音仮字道 』 * 『詞の玉緒 』 [編集 ] 随筆 * 『玉勝間 』 [編集 ] 学問論 * 『うひ山ぶみ 』 [編集 ] 経済 * 『秘本玉くしげ 』 [編集 ] 家集(和歌集) * 『鈴屋集 』 [編集 ] 参考文献 * 吉川幸次郎 『仁斎・徂徠・宣長』、岩波書店 、1975年 6月。 * 小林秀雄 『本居宣長』 * 長谷川三千子 『からごころ』中央公論新社 1986年 ISBN 4-12-001489-4 [編集 ] 関連人物 * 徳川治宝 * 谷川士清 * 橘守部 [編集 ] 外部リンク * ようこそ宣長ワールドへ * 吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(松岡正剛の千夜千冊) * 本居宣長記念館 Wikiquote ウィキクォート に本居宣長 に関する引用句集があります。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5% B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 " より作成 カテゴリ : 江戸時代の人物 | 紀州藩 | 18世紀の学者 | 国学者 | 神道に関連する人物 | 三重県の歴史 | 1730年生 | 1801年没 日本の自然・大地・風土・国土が破壊されたのは、日本固有の宗教・神話を奪われたからではないか
今、ふと思ったことである。私がこどもの時、農村地帯に住んでいたが、耕地整理・区画整理で、曲線のある野趣溢れる土地は完全に破壊されたのである。心と共振している自然が破壊されたのである。自然破壊とは、心の破壊である。宮崎駿の怨念を共有する!
結局、戦後の問題なのだ。連合国軍によって、占領支配され、日本文化が破壊されたのである。三島由紀夫の「狂気」は大正気である。 断絃の時、それは、戦後である!!! 亡国の始まりである。 折口信夫の新神道論は、無視・黙殺されたのだ!!! また、当然ながら、日本人でありながら、売国・亡国の輩がいたのである。今でもいるのである。亡国売国奴・買弁どもである。 彼らは一体何なのだ。日本、日本人の裏切り者である。彼らは、確かに悪魔的である。悪である。いったいどこから彼らは来たのか。心の卑劣な・悪らつな者ども。卑しい者ども。卑賎な者ども。賎民ども。 やはり、岸信介と関係があると思う。私の直感では、以前、述べたことがあるが、地方武士と父権制が根因の一つだと思う。心の歪曲、これは、どこから生まれたのか。 私は、本居宣長を問題にしている。それとも何か関係がありそうだ。直感では、本居宣長は卑しいのである。大和心、漢意という二元論的発想が卑しいのである。これは、同一性の発想なのである。ここには、差別の思想があるのである。これが、現代日本をも支配しているのである。やはり、父権主義である。これが、日本を狂気にしているのである。日本の父権主義とは、当然、儒教から来ているだろう。どうやら、諸悪の根源に近づいたようだ。
2007年12月03日(Mon)▲ページの先頭へ
教養とは何か:伝統宗教・神話という心養の復興
教養とは何だろうか。私はこの言葉は苦手であったが、今日、重みをもっていると思う。しかし、私は、心の栄養を与えるものとして、心養とでも呼びたいように思う。
とまれ、言葉ではなく、その現実的意味を考えたいのである。結局、人間の心を質的に変容する、心を涵養するものと私は考えている。近代的自我・近代合理主義教育では、心を自我中心の同一性主義に変容させて、心の差異、正確に言えば、心の差異共振性を否定することになる。 厚労省等の官僚・役人が悪党なのは、心が教養的に涵養されていないからだと私は思うのである。近代合理主義によって彼らの心は形成されているのであり、差異共振性が否定・排除されていると考えられるのである。他者は無視することになるのである。利己主義、自己中心主義である。 そう、近代主義教育に大いに問題・欠陥があるのである。とまれ、教養とは何か、細かく考えよう。 私にとって、心を質的に変容させるとりわけ影響があったもの、教養を考えると、例えば、トルストイ文学他のロシア文学があり、ニーチェ哲学があり、D.H.ロレンス文学があり、ルドルフ・シュタイナーの霊学があり、ドゥルーズやスピノザ哲学があった。また、これに仏典等をあげることができるし、日本では、平家物語の印象が強い。そして、忘れてはならないのは、今日では、無惨に破壊されてしまった日本の山川草木である。 問題は、それらを読むとどう心が変容するのかである。文学や哲学や宗教等の智は、心の中に、ある形を作るだろう。プラトン哲学を読めば、イデア界を想定することになるだろう。漱石を読めば、例えば、「猫」の風刺的意識になるだろう。トルストイを読めば、そこには心を清める映像があるだろう。 つまり、心が教養で感化されるのである。では、感化とは何だろうか。思うに、優れた作家の心の感化であろう。それは、差異共振的心を表現しているだろうから、差異共振的心の感化があるのだろう。 そう、一般には、違いがあるとは言え、同一性と差異と差異共振性の三相性は共通だろう。これらが、いわば、混淆様相になっているのである。そして、教養(心養)によって、これらに養分が与えられ、それぞれ、成長すると言えよう。いわば、心の種子に、成長に必要な養分を与えられることである。 もし、必要な、必須の教養(心養)が与えられなければ、その人間の心は粗野・野蛮・粗暴のままに留まるだろう。とりわけ、同一性(自我)に傾斜しているので、人間は、利己主義・自己中心主義になるのである。そして、近代合理主義は、これに合理性を付与した悪魔的な思想である。 今日、日本が亡国状況なのは、文化的側面から言うと、教養が国家指導層並びに、国民に欠落しているからであろう。どうして、教養(心養)が欠落したのかと言えば、それは、戦後の近代合理主義教育に拠ると言えよう。アメリカ連合軍による占領政策に基盤があるだろう。 国民の心の基である宗教・神話が否定されたのが大きいと言えよう。そう、近代合理主義、言い換えると、唯物論によって、日本人の心は利己主義化・悪魔化・野蛮化したのである。日本人としての心の主食が否定されたのである。心のホームレスになったのである。 日本伝統の宗教・神話を取り戻さないといけないのである。心の涵養を取り戻さないといけないのである。
2007年11月19日(Mon)▲ページの先頭へ
夢の花咲く樹木:こころの眼と美しさとよろこび:女神楽園回帰
今朝、衷心からの歓びをもつ夢を見た。かなり長い夢であった。旅の夢であった。簡単に触れると、中学時代や高校時代の仲間たちが居る。そして、現在の仲間もいて、和解の気がそこにはある。
美しい樹木に満ちた、渓流のある場所である。しかし、また、外国人がいて、故郷に戻りたくなる時期のことを言ったようだ。場面は、イタリアのフィレンツェのようでもあるが、もっと川が広く、輝いている。海辺にある輝いている都市のようにも見えた。 そして、また、場面が変わり、私は、細長い樹木園のような場所を歩いている。花が、淡い肌色的な黄色の花が咲いていて、私は心から感動する。心には喜び、至福の歓びがある。右側には線路があり、花を乗せた列車が通る。 そう、花を咲かせた樹木の道を歩く私は、花を美しさに心から歓喜している。母が居たようにも思うが、言葉としてある。 私はただ樹木の静かな美しい花を見て、深く歓びに満たされているのである。 今、目覚めて考えると、それは、トールキンの『指輪物語』のロスロリアンかもしれないし、W.ブレイクの長編詩の月のオアシスのような国、ビューラかもしれない。 花園である。女神の神話に出てくる庭園かもしれない。神の国や浄土というには、もっと和やかな地上的な国である。(仏国土に近いのかもしれない。折口信夫の常世や妣の国に近いのかもしれない。)そう、深い安らぎがある。これは、今日の日本では感じられないものであるし、私の好きな音楽の感動もこれには達していないようだ。つまり、単に聴覚を通した感動ではなくて、心からのやすらぎ、よろこび、うつくしさがあるからである。 そう、美とは、こころにあると思う。私が夢の中で見た樹木に咲きほころぶ花は決して派手な花ではなく、どちらかというと地味なカリフラワーのような花であるが、それが、こころと共振して美しいのである。 こころと視覚が一体なのである。こころの眼で見ているのである。 追記: 私は、ヘイリー・ウェステンラの美しいListen to the Windの歌がこころに鳴っている。彼女はケルト系である。以前、私は、日本神話とケルト神話が相似していることを言った。海の彼方にある楽園があるという神話は共通なのである。それは神話的には、女神の楽園である。今日、人類がほとんど忘却した記憶である。 私は夢で、そこを訪れたのだろう。ケルト神話の他界、女人の島へ行ったのだろう。光の民トゥアッハ・デ・ダナン(ダナの息子たち)。日御子(ひのみこ)たち。 参考:ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険 (中公新書) (新書) 田中 仁彦 (著) http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E4%B8%AD%E4%B8%96%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E7%89%A9%E8%AA%9E%E2%80%95%E3%80%8C%E4%BB%96%E7%95%8C%E3%80%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85%E3%81%A8%E5%86%92%E9%99%BA-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E4%BB%81%E5%BD%A6/dp/4121012542 古代研究〈3〉国文学の発生 (中公クラシックス) (新書) 折口 信夫 (著) http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%883%E3%80%89%E5%9B%BD%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%99%BA%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%8A%98%E5%8F%A3-%E4%BF%A1%E5%A4%AB/dp/4121600568/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1195441220&sr=1-1
2007年11月14日(Wed)▲ページの先頭へ
Media Pointと双極エネルギー:Media Pointと神々:古事記と聖書
Media Pointと双極エネルギー:Media Pointと神々:古事記と聖書
テーマ:一神教/多神教 簡単に先に思い浮かんだことを書き留めておこう。 結局、+i超越差異と-i超越差異が、差異共振=「融合」(以下、差異共振融合)して、⇒+1となるのだが、差異共振融合においてエネルギーが発動するが、私のアイデアは、±超越差異が二つの神々であり、Media Pointが一つの中心的神ではないかとということである。思うに、Media Pointは、差異共振融合において、三元的であると言えるのではないだろうか。+iと-iと差異共振融合である。書き換えると、(+i)*Media Point*(-i) のような形式になるのではないだろうか。これが、古事記の三柱の神々ではないだろうか。中心のMedia Point が天之御中主神であり、両脇が、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)と神産霊神(かみむすひのかみ)となる。これらが、三つ巴を構成するということになるだろう。i*(-i)⇒+1の⇒+1が天孫降臨であろう。そして、日御子(ひのみこ)ではないだろうか。とまれ、三つ巴は、ダビデの星の▽ではないだろうか。そして、Media Point回帰が△である。+1⇒(+i)*(-i)である。そして、ダビデの星が完成する。 また、思ったことは、聖書の創世記の有名な冒頭の事象に関してである。神霊が水の面を漂って、そこから、結合して天地が創造されたという話である。神霊が+iであり、水が-iではないかと思ったのである。これを古事記と比較すると、高皇産霊神がたとえば神霊であり、神産霊神が水ではないだろうか。そして、それらが融合して、天地創造となったとは、⇒+1ではないだろうか。そう、有名な「光あれ」は、やはり、⇒+1であろう。 そして、今思いついたのであるが、エデンの園で、アダムとイヴが誘惑に負けて、禁断の知恵の木の実を食べたというのは、同一性を知ったということではないだろうか。つまり、男性という同一性、女性という同一性の発生ではないだろうか。ところで、エデンの園ないしは高天ケ原とは、Media Pointと言えないだろうか。 聖書の問題点は、以上の見方からすると、神霊を+iにしか見ていない点である。明らかに、-iも対になる神霊である。ここでは、女媧と伏儀の神話(あるいは、イシスとオシリスの神話)を考えた方がいいだろう。伏儀が+iであり、女媧が-iではないだろうか。中国神話では、両者が二重らせんを形成するのである。これが、Media Pointであろう。そして、これが、天照大神である。虚/実太陽、霊/物太陽である。聖書の光あれの光と同じであると考えられる。キリスト教はこの太陽をキリストとしたはずである。つまり、神道と同じである。万教帰一である。すると、天照大神=キリストである。そして、天照大神は日御子を産むのである。そう、ここで、神話・宗教が混乱するのではないだろうか。つまり、物質的太陽としての日御子ではないだろうか。源泉は、虚/実太陽=霊/物太陽である。つまり、Media Point太陽である。 だから、思うに、キリストとは、やはり混乱しているのである。本来、大女神であるキリストがあり、そして、そこから日御子としてのイエスが存したのではないだろうか。つまり、キリスト教は、大女神を欠いているのである。天照大神を欠いているのである。言い換えると、大女神と日御子をキリストにおいて、混淆させているのである。だから、カトリックの聖母マリアの考え方はそれなりに正しいと言えよう。しかし、位階が狂っているのである。イエス・キリストは、日御子に過ぎない。根源は聖母マリア(=天照大神=Media Point)である。そして、父+iには、非父-iが欠けている。つまり、狭義のキリスト教は、非父と聖母マリアが欠落している。そして、聖霊であるが、それは、Media Pointにおける共振作用と言えるのではないだろうか。 そう、旧約聖書の神は実際、二人存するのである。ヤハウェとエローヒーム(神の複数形)である。ヤハウェを+i、エローヒームを-iと想定することができるだろう。つまり、D.H.ロレンスが違う意味で言ったが、聖書は本来、多神教の世界なのである。それを父権的一神教的に捩じ曲げているのである。ここには、父権主義による改竄が考えられるのである。聖書に古事記のコンテクストを与えれば、実に明晰になる、つまり整合化されると考えられるのである。 今は、ここで留めたい。 p.s. 問題は、⇒±1である。明らかに、-1は発生していると思う。たとえば、自我である。これは、反世界ではないのか。+1が本来の世界、自己であるのに、-1を真実の世界と見ているのではないのか。仮象・マーヤーとは、-1のことであろう。いわば、本象とは、+1である。 ウィリアム・ブレイクは、近代理性をユリゼンや幽霊(スペクター)と呼んだが、確かに、-1としてそれらは存するだろう。物質主義・唯物論の世界は、端的に、-1である。 この点については、後で検討したい。 p.p.s. いろいろなことが思い浮かぶ。ソフィアとはどう考えるべきか。あるいは、月読みやスサノヲをどう考えるべきか。そして、一点はっきりさせておかなくてはいけないのは、聖書は、本源的宗教を父権一神教的に捩じ曲げた、ないしは、改竄したと言ったが、そうではなくて、Media Pointから同一性化が開始された事象を表現していると見るべきであると考えられる。西洋文明の原点としての聖書があるのである。正に、ユダヤ/キリスト教的西洋文明である。古代ギリシアは、父権的な表層があるが、基盤は母権的・東洋的である。
2007年10月10日(Wed)▲ページの先頭へ
シュタイナーの霊学とPS理論:霊とイデア:同一性=物質と幻影=マーヤー
『神々との出会い 』(シュタイナーコレクション) (単行本)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳) ほぼ読了したが、驚くような解明と疑問に感じる箇所があった。ディオニュソスの解明は、驚異的であった。プラトン自身がディオニュソスの顕現であり、ソクラテスが賢者シレヌスの顕現であるというのは、すごいと思った。私は、プラトンのイデアとディオニュソスは共通すると考えているので、腑に落ちたし、さらに驚いた次第である。 結局、シュタイナーの説く霊をどう見るのかである。シュタイナーは現象、物質的現象は幻影であると確言している。これは、イデア論の現象=仮象論や仏教のマーヤー(幻影)論と共通である。 私は先に、イデア論における個体がイデアを分有することや大乗仏教における色即是空=空即是色において、物質が肯定されていると考えたし、それ以前に、同一性(物質)を包摂する差異という考え方を提起して、物質的現象は仮象・幻影ではないと説いたのである。だから、シュタイナーの霊論とは、異なると言えよう。 私は、先に、シュタイナーの霊学=人智学が、PS理論と通じるものをもっていると言ったが、当然、完全に一致するわけではない。霊の捉え方で異なると考えられる。 PS理論はイデア論ないしは新イデア論であり、そこにおいて、霊性を説くと言える。そして、イデア=霊の同一性化としての物質を考えているのである。同一性=物質は、幻想ではなくて、感覚的認識、とりわけ、視覚的認識によって発生する様態であり、幻影と呼ぶのは、誤りであると思われるのである。 ここにおいて、シュタイナーの霊学とPS理論は異なると言えよう。イデア=霊の捉え方の基本的な相違があると思えるのであるので、少し考察しよう。 以前、私がシュタイナーの霊学を批判したとき、それが、霊主体従(れいしゅたいじゅう)、つまり、霊が優位であり、物質は劣位であるという点を批判したのである。この考えだと、霊中心主義になり、物質を貶め、軽視するようになると考えられたのである。そして、これは、本書を読んだ今も妥当すると考えられる。 そう、シュタイナーの霊学は確かに至上に驚くべき壮大な内容(霊的宇宙進化論であり、私は惹かれるのは確かであるが)をもっているが、その霊主体従だと、物質的現実から霊的世界へと逃避することになると思われるのである。醜悪な物質的現実(p.s. 単に、醜悪だけとは言えないだろう。自然には、驚異的な美があるのだから。)から目を背けて、霊界の探求に陶酔するように思えるのである。 とまれ、問題点は、同一性=物質の評価の相違にあると言えよう。それを幻影=マーヤーと見るのか、物質的現実として評価するのか、である。もっとも、これは、私としては、上記したように、答えが出ているのである。とは言え、ここで、もう少し、霊と同一性=物質の関係について、考察してみよう。 そう、問題は、言葉の問題でもある。私たちが通常目にしている物質的現象・現実は、差異から見ると、幻影=マーヤーと言えないことはない。本来、不連続な差異が連続化=同一性化して、物質となっているのだから。しかしながら、連続化=同一性化は、差異がもっているある必然性によるのである。だから、これを単に仮象=幻影=マーヤーとして、貶(おとし)めることは、自然に対する侮蔑ではないだろうか。自然は、自身の内奥から連続化=同一性化をもたらした。しかしながら、同時に、内奥から差異への復帰を少数者に知らしめているのである。啓示、哲学、芸術、等で告知しているのである。 そう、超自然的やシュールレアリスム等の言い方は、本来的ではないだろう。自然は連続性=同一性によって、物質的現象という、いわば、衣服を宇宙にもたらしているのである。そして、自然の裸体は、差異=イデア=霊なのである。(比較:『ベールを脱いだイシス』) 比喩的に言えば、霊と物質は裸体と衣裳と言えるのである。問題は、かなり難しい。果たして、人体から衣裳をとった裸体が、人間本体であるのか、否かである。しかし、衣装は必要であろう。ファッションは必要であろう。仮象は必要であろう。ここで、アイルランドの詩人のW.B.イェイツの言葉、ダンサー(踊り子)とダンス(踊り)を区別できるのか、を想起する。これは、また、仮面の問題でもある。また、D.H.ロレンスの身体肯定論とも通じるのである。 言い換えれば、そして、端的に言えば、霊と物質とは同じである。(これは、中沢新一の霊的唯物論とは異なることに要注意である。)なぜなら、霊が連続化=同一性化して、物質になるからである。物質とは、霊の連続性=同一性ということである。 問題は、近代文化において、基本的に、連続性=同一性=物質主義(唯物論)が中心化されて、差異=イデア=霊が否定されてしまったことにあると言えよう。しかし、トランス・モダン的進化の歩みが、哲学(フッサール現象学:ハイデガーの哲学は、近代主義の一種の極北=ポスト・モダンであり、危険な哲学であり、現象学と呼ぶべきではない。因みに、三島由紀夫の思想であるが、近代的虚無に貫かれている面とそれを乗り越える精神への志向があった。しかし、反動的に戦前へと志向してしまった。三島にある積極的なものを評価はすべきであるが。)や物理学(相対性理論や量子力学)や現代的仏教(鈴木大拙他)によって、為されてきたのである。つまり、自然の内奥にある差異=イデア=霊を取り出すことができるようになってきたのである。これは、反動的ではなく、積極的である。つまり、近代主義=連続・同一性主義を前提としつつも、それを乗り越える視点、差異の視点をもたらしたからである。換言すると、ポスト連続・同一性主義としての差異主義である。だから、連続性=同一性は批判の対象ではあるにしても、否定の対象ではない。物質を前提にしつつも、それを超える視点を提起しているのだからである。 ということで、シュタイナーの霊学を乗り越える必要があると言えるのである。それを積極的にトランス・モダン化する必要があると考えられるのである。トランス・霊学である。トランス・シュタイナー主義である。 もっとも、シュタイナー主義のもつ驚異的な霊界論は、参考になるものである。例えば、本書でも言及されているキリスト衝動という概念であるが、それは、 PS理論では、Media Pointのエネルゲイアであると言えよう。ここでは、差異は共振化するのであり、差異と差異が共振・共鳴・共感化するのである。とまれ、シュタイナーのキリストとは、大乗仏教の大日如来や阿弥陀如来等とつながる概念である。それを、大乗的キリストと呼べるのでないだろうか。シュタイナーのキリスト衝動は、大乗的キリスト・エネルゲイアと呼ぶことができるだろう。Media Point エネルゲイアである。(p.s. 神道であるが、それは、霊的宇宙論と言えるだろう。それは、おそらく、途轍も無い太古の世界観から生まれたものだと思う。琉球文化におそらく通じている。参考:折口信夫の『古代研究』) 最後に、より端的に、シュタイナーの霊とは何かを述べてみよう。思うに、シュタイナーは霊だけを見て、物質を見ていない。しかしながら、物質は霊の顕現なのである。だから、霊に対して、不誠実さがあると思う。物質は滅びるものではあっても、生成消滅するものとしての意味があるのである。世阿弥の花論である。あるいは、無常論である。桜の美学である。この生成消滅する物質現象を肯定しつつ、霊・差異・イデアへの世界(霊界)へと進展するが本来的であろう。生成消滅する物質現象を包摂した差異・イデア・霊の統括的世界観をもつべきである。物質を卑しめる、貶める思想は不誠実である。ということで、シュタイナーの霊とは、反近代的、反動的なものであろう。思うに、それは、連続性=同一性化以前のMedia Pointの様態を説いているとも言えるのではないだろうか。だから、霊と物質の分裂、二元論(霊主体従)が生じているのだろう。つまり、前近代的霊学である。
2007年09月17日(Mon)▲ページの先頭へ
差異のコスモスと同一性宇宙:Media Pointにおけるコスモスと宇宙
テレビのニュースを視聴して、今日の暑さが、主観的なものだけではないことを確認したが、本当に、やる気をなくす暑さである。言わば、時間差攻撃で、たまらない。焦熱地獄に陥ったのか。 さて、今日は、差異の次元と同一性次元について、いろいろ試行錯誤した。一番の問題点は、虚次元=高次元=超越界(イデア界)から、どのような仕組みで、三次元空間(四次元時空間)が発現するのかという点であり、結局、これは、難解で答えが出ないままであったが、結局、虚次元=高次元=超越界は、三次元空間を包摂しているという点を確認した。超次元には、上下・左右・前後の対の空間性が内包されているということを考えた。そして、それは、作家や詩人が直感で捉えた「コスモス」であると思ったのである。 今日の収穫は虚次元=高次元=超越界(イデア界)としての「コスモス」の概念を得たことである。私たちは、日常、三次元空間ないしは四次元時空間という世界・宇宙を見て、その中で暮らしているが、通常、「コスモス」というものを知覚・意識・認識しない。(「コスモス」とは、天文学者が使用する術語としてのコスモスではなく、作家、詩人、神秘家が使用するものとしての「宇宙」である。簡単に言えば、宮沢賢治の作品にある宇宙が「コスモス」である。) 西洋近代思想史から言うと、ルネサンスまで存した古代宇宙論(コスモロジー)が近代科学の勃興によって破壊された。古代的コスモス(アリストテレス的宇宙観)は、コペルニクス/ガリレオの近代的宇宙観(近代天文学)によって、崩壊した。そして、自然科学や近代的技術が、主要な、主動的な知識・技能となり、今日まで続いていると言える。 この自然科学・近代的技術等によって、三次元空間ないしは四次元時空間の宇宙観が生起したのである。もっとも、相対性理論や量子力学によって、近代的宇宙観は解体して、現代的宇宙観が形成されたと言えよう。しかしながら、基本的な三次元空間ないしは四次元時空間の概念はそのまま継続している。(p.s. 最近、物理学者リサ・ランドールの提起する隠れた次元をもつ五次元宇宙論に注目が集まっている。物理学は、超越界へと一歩歩み出したと言えよう。) この近代科学の動きとは別に、作家(芸術家)、詩人、神秘家等は、「コスモス」の思想を復活させたのである。これは、近代合理主義から見ると、非合理主義である。主体と客体とが融合する宇宙観である。近代的主客二元論を超克する意味があるが、理論的に、明確に為されたものではなく、直感的である。 さて、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論)を考えると、虚軸の超越界を説いているのであるが、それは、i*(-i)という超越的差異の即非関係を説いている。これは、正に、「コスモス」であると言えよう。差異であるiとその他者である差異-iとが、即非的に共振している様態を提示しているのである。 ここにおいて、上下・左右・前後の三次元が包摂されていると言えるだろう。四次元ないしは五次元(時間も加えて)としての高次元=虚軸=超越界(イデア界)である。また、ここでは、「わたし」と「他者」とが、即非共振しているのである。ここでは、森羅万象が即非共振していると考えられるのである。ここで想起するのは、D. H. ロレンスの畢生の名作『逃げた雄鶏(死んだ男)』の一節である。宇宙の不可視の薔薇に包まれる様子を描いているが、その宇宙の薔薇こそ、高次元=虚軸=超越界(イデア界)に相当すると考えられるのである。以下、引用する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 「 『神殿を出たふたりを夜明け前の冷たい空気が包んだ。扉を閉じるとき、彼は再び女神を眺めた。彼は言った「見よ、イシスは情ある女神ではないか。優しさに満ちた女神ではないか。偉大な神々は温かな心を持ち、優しい女神を持っている」 |