日本民族とは:『日本書記』解読:二つの母権民族と二つの父権民族

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2015年07月25日(Sat)▲ページの先頭へ
日本文化の最大の欠陥は主語なき日本語にあるのでは?
日本文化の最大の欠陥は主語なき日本語にあるのでは?

テーマ:日本亡国の凶相:黙示録日本

先に、主語subjectは主体subjectであり、主語なき言語は主体なき言語ではないかと述べた。
 自我はあるのであるが。
 主語=主体が対象=他者object or othersにはたらきかけるのであり、ここで、主語=主体と対象=他者の対極があるのである。
 しかし、主語=主体がない場合、対象=他者はどうなるのか。
 おそらく、自我と対象の未分化の一体性があるのではないだろうか。
 日本人の場合、自我と対象(他者)の区別があいまいのであり、未分化ではないだろうか。
 これでは、主体と対象を区別する科学は成立しないのではないだろか。
 そう、自我と対象(他者)の未分化あいまいな関係があるのであり、主体ないし個、さらに、他者が成立していないのではないだろうか。
 私は日本語に愛着をもってきたが、最近は、時代遅れ、時代錯誤の言語の可能性があるように思えている。

追記:
 主語=主体と対象=他者の相互関係において、主語=主体の精神において、ココロの端緒が発生するのではないだろうか。
 つまり、主語=主体とは異質なものとしての対象=他者があり、そこで、主語=主体は自我に抑制をかけると思われる。
 この自我抑制において、ココロの端緒や領域が発生すると思われるのである。
 問題は、主語=主体における感情・欲望である。
 しかし、自我の抑制は、自我の観念と同時に、自我の感情・欲望へ抑制ということではないだろうか。
 日本の「科学」が出鱈目で、妄想・妄念的なのは、以上から説明できるのではないだろうか。


2015年02月15日(Sun)▲ページの先頭へ
二つの日本:明治維新以前の日本と以後の日本:母権・父権統合日本と母権排除父権日本
画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11990085177.html

二つの日本:明治維新以前の日本と以後の日本:母権・父権統合日本と母権排除父権日本

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の日本民族仮説は以下の参照2に一番よく表れている。
 簡単に復習すると、古代において、三つの民族が大和朝廷を構成した。伽倻族、新羅族、百済族である。三つの民族の三幅対・三重構造・三位一体である。
 しかし、伽倻族が主導支配的であり、全体を指導した。
伽倻族は敗北主義的農耕集団父権主義であり、新羅族はスキタイ系好戦性をもち、百済族は天皇王制で母権民族である。
 この三幅対は、伽倻族が主導的であったとは言え、全体においては、いわば、父権⇔母権陰陽バランスを保ち、それが明治維新まで継続した。
 しかし、明治維新は、伽倻・新羅の父権主義が百済母権主義を排除して、それが突出して生まれたものであり、伝統的な日本国政体は破壊された。
 伽倻・新羅的父権的国家であるが、それは、排他的な自民族中心主義であり、また、狂信的好戦性をもっていた。
 狂信は思うに、伽倻族から、好戦性は新羅族からのものである。
 この狂信的好戦性は、凶暴残虐非道無道であり、これが、東・東南アジア戦争をもたらし、諸国民に膨大な犠牲をもたらした。
 しかし、敗戦後において、似非日本国は、伽倻・新羅民族に拠る権力体制を解体せず、残存させてしまったのである。
 この残存した明治維新後の戦前・戦中の狂信暴虐好戦的な伽倻・新羅民族権力体制が今日の某首相の政府へと帰結していると考えられる。
 極論すれば、まったく異質な二つの民族が「日本」に併存しているのであるが、国民はそれに気付かないのである。
 例えば、英国の場合、ケルト系とアングロ・サクソン系に分れる。前者は母権的であり、後者は父権的である。
 それは見やすいことである。
 そのような二元性が「日本」において、認識されていないのである。
 それは、大和朝廷による天皇制が、単一民族的統一国家を形成したというイデオロギー(イデオロギーには映像が関係するので、
ヴィデオロギーという語を造語してもいいだろう。)に拠るのではないだろうか。
 否、それより、明治維新に拠る「天皇制」による統一国家のイデオロギー=ヴィデオロギーに拠ると言えよう。本来、多様な民族から成る日本国が単一民族から成る国家とされたのである。
 結局、現某国の破滅的事態は明治維新の帰結・負の遺産と言えよう。

追記:ロシアがロシア革命を否定したように、日本も明治維新革命を否定する必要があるだろう。
 そう、母権民族が主導する必要があるのである。先に唱えた神聖天皇制は無理であるから、母権天皇文化は残し、母権的政体を形成する必要がある。
 ロシアの同じように、内部に巣くった專争邪を追い出す必要がある。
 とまれ、放射能汚染で、能天気な伽倻的民族の国民は滅亡するだろう。そこから、日本の精華である母権民族が新倭国を創建すべきである。

参照:
陰陽均衡の日本伝統文化から父権中心母権排除の明治維新の狂信的精神風土への転移

参照2:

伽耶主導三極父権・母権陰陽体制(明治以前)と伽耶・新羅二極父権体制(明治維新後)
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に以下のように書いたが、思うに、明治維新まで、日本の政体は、伽耶主導の三極体制(伽耶-新羅-百済)であったと思われる。
 もっとも、江戸時代後期になって、それが分裂しだしたと思われる。伽耶-新羅父権路線と百済母権路線の分裂である。前者は国学イデオロギーをもち、尊王攘夷を振り翳し、そして、父権化された天皇制国家を形成したと思う。それは、伽耶−新羅の二極路線であり、それまで護持していた百済母権路線を排除したものと思われ、日本の政体の伝統を逸脱したものと思われる。
 父権と母権、つまり、陰陽バランスをもっていた、日本の政体が崩壊し、父権に傾斜した体制ができあがったと考えられる。
 問題は、伽耶-新羅体制の意味するものである。私は国学イデオロギーを問題にするのである。
 私は国学は父権的反動であると見ているが、それは、好戦的新羅父権的反動というより、伽耶稲作集団父権民族の反動が主体ではないかと思う。
 民族集団中心主義が生まれたと思うのである。そう、自民族中心主義であり、中国、朝鮮他を排他的に排除したのである。
 これに私は新羅父権民族の好戦性が重なり、尊皇攘夷イデオロギーが生まれて、きわめて排他かつ戦闘的イデオロギーが生まれたと思うのである。国家神道の前身である。
 この伽耶主導の伽耶・新羅二極父権体制、このいわば狂信的体制が明治維新以後、支配的になった思われる。
 しかし、伽耶の敗北主義、強者に媚び諂い、従属し、弱者を暴虐する姿勢態度がそれには色濃く残っていると考えられる。
 伽耶の敗北主義的狂信排他的民族集団、これが、ベースにあり、新羅父権民族の好戦性を吸収したとものと思われる。
 これは、悪霊的破滅・自滅集団である。

******************************************
伽倻主導三元体制:伽倻稲作集団父権民族と新羅スキタイユダヤ父権民族と百済ツングース・扶余母権民族
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に、以下のように、伽倻族が、母権百済族と父権新羅族を支配していると仮説した。もっとも、土着母権縄文族、母権海洋族等は便宜上、省いているが。
 似本の支配・権力層は確かに、好戦的姿勢を取っているが、果たして、本質的に好戦性をもっているのだろうか。
 狡猾なので、新羅族の好戦性を利用しているだけではないだろうか。
 一見、某首相の姿勢は好戦的であるが、果たして、本質的にそうなのか。
 やはり、古代において、伽倻族が新羅族を支配したとき、後者の好戦性を利用する狡猾な手段を取るようになったのではないだろうか。好戦的なポーズをとれば、好戦的な新羅族を利用できるはずである。
 どうも、このように考えた方が、伽倻族が好戦的であると見るより、合理的であるようだ。
 伽倻族が好戦的であると見る場合は、やはり、伽倻族が、新羅族と融合した見ることになるだろう。
 しかし、融合だと、新羅族にも主導性が生じるのである。
 ちょっと、あいまいになってきた。
 後代の武士層の生成を考えると、やはり、好戦的新羅族がなんらか、支配層に存したと見るべきではないのか。
 そうならば、伽倻族だけが主導的であったのはなく、伽倻族と新羅族の融合した民族(融合民族)が主導的であったことになる。
 そうすると議論は元に戻る。それは、私の最初の作業仮説であったからである。
 ここで、新たな作業仮説を提示すると、日本古代においては、伽倻族、新羅族、百済族の三民族の三幅対、三重構造、三つ巴の権力体制があったとするのである。
 三元ないし三極民族体制である。これが、古代天皇制の実体、本体となる。
 だから、『日本書紀』は、この三元(三極、三重)民族体制の様相が描写・活写・実写されているというようにも考えられる。(追記:思うに、この三元体制の実相が、装飾・潤色・創作はあるものの、活写されていると言う方が適切だろう。汩
 神武天皇、雄略天皇の好戦性は、新羅族のそれを表現しているということになるし、仁徳天皇の仁慈ある治世は、百済族主導の統治を意味し、また、中央集権体制=律令制は、伽倻族の専制に因るものではないだろうか。
 ということで、現時点での新仮説として、日本古代は、伽倻族、新羅族、百済族の三つの異なる民族の併存併合混合混淆する三元・三極・三重体制であったとしたい。

追記:伽倻ー新羅ー百済の三元体制を仮説したが、やはり、その中では、伽倻族がもっとも主導的であったのではないだろうか。
 だから、伽倻主導的三元・三極・三重体制を大和朝廷の政体の本質としたい。

追記2:明治国家であるが、それは、この伽倻主導の三元体制から、百済母権民族が抜けている(追記:というよりは、百済母権民族の天皇王制が形式化され、つまり、「天皇制」化されて、きわめて、抑圧されたものになったのではないだろうか。完全には排除はしていないだろう)、伽倻主導伽倻・新羅二元体制ではなかっただろうか。百済母権民族の天皇王制は、形式として形骸的に利用されたということだろう。いわば、父権天皇制、独裁天皇制、専制天皇制となったと思われる。

**************************
後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988393633.html


天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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画像はこちら からお借りしました。
「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州〜北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html

天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/01/2475.html


2015年02月14日(Sat)▲ページの先頭へ
陰陽均衡の日本伝統文化から父権中心母権排除の明治維新の狂信的精神風土への転移
リンクは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11989675549.html

陰陽均衡の日本伝統文化から父権中心母権排除の明治維新の狂信的精神風土への転移

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように書いた。

天皇(雄略天皇)、琴の声を悟りたまひて、その罪を赦したまふ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11989226760.html

「明治維新は、先に仮説したように、伽倻ー新羅父権民族に拠るものであった。そこには、百済母権文化が欠落しているのであり、それが、今日まで尾を引いているのである。
 ナニガシ首相は、正に、伽倻ー新羅父権民族の好戦性をもっていると思う。しかし、本質は伽倻的で、新羅的好戦性を利用していると思うが。
 国民も、伽倻ー新羅父権民族「文化」・ヘゲモニー的「空気」に汚染・感化され、百済母権文化を喪失してしまった。天皇皇后両陛下は、それを護持しているが。」

 私は明治維新以前にあった百済母権文化、正確に言うと、縄文母権文化=前期弥生農耕母権文化=海洋母権文化=百済母権文化の母権文化複合体は明治維新以後、どうなったかと思った。
 私は昔から、神仏分離令、排仏毀釈が日本伝統文化を破壊したと感じていた。神仏習合に直感的に私は親和していた。
それは、森(森と言っても、雑木森や原生森である。杉が植樹された人工森ではない)に対する情感と似る。それは、抽象的に言えば、多様なものの交錯・混淆体・渾然一体性への親和性である。
 とまれ、日本母権文化は仏教あるいは神仏習合が担ってきたと思う。
 そう、百済母権文化ないし日本母権文化は仏教が神道と結び担ってきたと思う。
 しかし、国学イデオロギー(日本父権主義)から進展した明治維新は、神仏分離令によって、日本母権文化を破壊したと思う。
伝統的日本が壊れたのである。日本は別の國になったのである。
 仏教ないし神仏習合が担ってきた日本母権文化が排除否定され崩壊した後、それはどうなったのだろうか。
 現天皇皇后両陛下は日本母権文化を体現されているが、それ以外にどのような事態になっているのだろうか。
 今や仏教はビジネス仏教である。もっとも反抗的仏教徒はいるが。
 そう、民俗学が母権的である。南方熊楠、柳田国男、折口信夫。
 そして、哲学者の西田幾多郎や仏教者の鈴木大拙がそうだろう。
 文学者は漱石、宮沢賢治、等々がそうだろう。(追記:俳句は母権文化であろう。芭蕉の俳句は最深の倭国・日本母権文化だと思う。芭蕉の凄みは一見わからない。短歌もそうだろうが、日本人には俳句がぴんときよう。)
 青鞜社もそうだろう。
 しかし、何か、決定的なものを欠いていたようである。
 日本には父権文化と母権文化があるということの認識の欠落だと思う。
 結局、明治維新と戦後の脱亜入欧や近代主義イデオロギーによって、日本人の認識力が破壊されたと思う。
 とまれ、明治維新まで、仏教ないし神仏習合が日本母権文化を保持してきたと仮説することができた。
 思うに、この習合文化、日本母権文化は、マニ教的なのではないだろうか。マニ教は、宗旨にこだわらない、直感の宗教である。
 日本母権文化はマニ教の影響があるのではないだろうか。日本人の、一見杜撰な行動様式はそれではないだろうか。初詣、葬式仏教、クリスマス等々。何でもありである。
 無宗教と云われているが、本質はマニ教的純粋性ではないだろうか。

追記:弓道等の武芸は日本陰陽文化である。母権と父権の結合である。剣道、柔道、等々。風朕が柔道や日本の武芸に魅かれるのは、日本伝統文化への親和性があるからだろう。
 

参考:

1.
廃仏毀釈 - Wikipedia


* キャッシュ
* 類似ページ
廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)は、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、
僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)
し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏
...
2.
排仏毀釈は日本人の精神を狂わせた:国学こそ、反日本思想である:脱 ...

2010年3月22日 ... 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、廢佛毀釋)とは仏教 寺院 ・仏像・経巻を破毀し僧尼など
出家 者や寺院が受けていた特権を廃するなどを指す。排仏棄釈とも。文献によっては「
廃仏稀釈」と表記されることもあるが、誤用である。 明治の廃仏毀釈 ...
3.
明治維新の秘話 大寧寺と豊川稲荷-一歩も引かぬ豊川閣


* キャッシュ
* 類似ページ
政府によるこの警告の背後には、排仏毀釈と称して仏教寺院を襲い仏様を破壊し、財宝
を略奪し、ひいては寺院の打ち壊しや放火に及ぶ暴動のエスカレートがあった。社会
変革の手段として文化破壊のエネルギーが利用されるのは歴史の常套だが、この排仏
毀 ...
4.
排仏毀釈と国家神道:「一神教」思想が二方面に - 實川幹朗の世界学ブログ

2014年3月5日 ... 排仏毀釈は近代の日本に大きく影を落とす運動である。しかも下から盛り上がった動き
で、不可思議な歴史であった。私にはそう映る。島薗進氏によると背後に儒教がある
そうだ。なるほど気付かなかった。だが儒教はずっと幕府の官学だった。


1.
神仏習合 - Wikipedia


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* 類似ページ
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの
信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
目次. [非表示]. 1 概要; 2 歴史. 2.1 仏教の伝来; 2.2 神宮寺の建立; 2.3 大乗密教
による ...
2.
7. 日本の神々と仏たちの正体 - 5. 「神仏習合」とは何か



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ところが、朝鮮から「日本の朝廷に献上される」という形で日本に「仏教」が伝来してくると
、この伝来の神々と仏教とは融合してしまうのでした。それを一般に「神仏習合」と呼んで
います。 この「仏教」と「神道」の習合の原因や仕方はさまざまですが、それを見ること ...
3.
神仏習合



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* 類似ページ
神仏習合については、説明が非常に難しく、私自身も理解が十分ではありません。 (*^_
^*) そこで、「神社ふしき探検」( ... 一方、仏教も、古代インドの在来宗教との習合、中国
の道教との習合を経て、日本に伝えられました。 それだけに豊かな経験と柔軟性が ...
4.
日本の宗教−神道と仏教の歴史的関係− - Biglobe


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* 類似ページ
日本の宗教−神道と仏教の歴史的関係−. 神仏習合(しんぶつしゅうごう). 日本固有の
神祇信仰と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象。他文化
と交流のある世界では一般的な現象のこと。たとえば、中国でも仏教と道教が習合し、 ...
5.
第13回講座−神仏習合−

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3、何故、神仏習合は続いたのか? 10、天皇の姿勢が左右した. 4、神仏習合を成立
させた仏教側の要因, 11、昔からあった舶来信仰. 5、仏の多身説, 12、公的には神道、
私的には仏教. 6、神仏習合を成立させた神道の要因, 13、神仏習合のモデル理論.


1.
マニ教 - Wikipedia


* キャッシュ
* 類似ページ
マニ教( -きょう、 摩尼教、英: Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 -
276年または277年)を開祖とする二元論的な宗教である。 ユダヤ教・ゾロアスター教・
キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲んでおり、経典宗教の特徴をもつ。かつては
...
2.
マニ教 −消えた世界宗教− - nifty


* キャッシュ
* 類似ページ
民族の枠を越え、広い範囲に多くの信者を持つ宗教を世界宗教という。現在では、仏教
、キリスト教、イスラム教がそれにあたる。しかし、かつてスペイン・北アフリカから中国に
まで広がる第4の世界宗教があったことは、ほとんど知られていない。その宗教が、マニ
...
3.
10.キリスト教の光と影 - 2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」



* キャッシュ
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はじめに ここでは、初期キリスト教の時代にキリスト教の最大のライバルであった「マニ
教」と「グノーシス思想」を見ます。これは初期キリスト教の時代にライバルであっ
たばかりではなく、「中世においても」その影響力を失うことがなかったのでした。そして、
...
4.
マニ教 の画像検索結果

5.
中国におけるマニ教



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マニ教」って、世界史の授業で習いましたよね? 3世紀初めにササン朝ペルシャでマニ
が始めた宗教で、西はギリシャからシリア、エジプト、北アフリカ、東はシルクロードを
通ってウイグルの国教となり、中国まで広がったが、その後衰退してしまい消滅。その
原因 ...
6.
叡智の光_マニ教概説・序説 Introduction of Manichaean Religion



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2004年8月2日 ... マニ教(Manichaeism)とは、西暦3世紀半ば、ササン朝ペルシア帝国治下のイランで、
マニ(Mani, Manichaeus)によって創始された啓示宗教である。古代ユーラシアの世界
宗教の一つで、民族・言語・文化・国境を越えて、イベリア半島から、 ...
7.
【歴史】マニ教 ー消えた世界宗教の謎ー - NAVER まとめ

2012年11月2日 ... かつて民族の枠を超え、広い範囲に多くの信者を持った第4の世界宗教『マニ教』。 ... 明
(善)と暗(悪)の二元的世界観で知られるマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が
国内に現存していることが、京大大学院文学研究科の吉田豊教授( ...


2015年02月13日(Fri)▲ページの先頭へ
伽耶主導三極父権・母権陰陽体制(明治以前)と伽耶・新羅二極父権体制(明治維新後)
伽耶主導三極父権・母権陰陽体制(明治以前)と伽耶・新羅二極父権体制(明治維新後)

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように書いたが、思うに、明治維新まで、日本の政体は、伽耶主導の三極体制(伽耶-新羅-百済)であったと思われる。
 もっとも、江戸時代後期になって、それが分裂しだしたと思われる。伽耶-新羅父権路線と百済母権路線の分裂である。前者は国学イデオロギーをもち、尊王攘夷を振り翳し、そして、父権化された天皇制国家を形成したと思う。それは、伽耶−新羅の二極路線であり、それまで護持していた百済母権路線を排除したものと思われ、日本の政体の伝統を逸脱したものと思われる。
 父権と母権、つまり、陰陽バランスをもっていた、日本の政体が崩壊し、父権に傾斜した体制ができあがったと考えられる。
 問題は、伽耶-新羅体制の意味するものである。私は国学イデオロギーを問題にするのである。
 私は国学は父権的反動であると見ているが、それは、好戦的新羅父権的反動というより、伽耶稲作集団父権民族の反動が主体ではないかと思う。
 民族集団中心主義が生まれたと思うのである。そう、自民族中心主義であり、中国、朝鮮他を排他的に排除したのである。
 これに私は新羅父権民族の好戦性が重なり、尊皇攘夷イデオロギーが生まれて、きわめて排他かつ戦闘的イデオロギーが生まれたと思うのである。国家神道の前身である。
 この伽耶主導の伽耶・新羅二極父権体制、このいわば狂信的体制が明治維新以後、支配的になった思われる。
 しかし、伽耶の敗北主義、強者に媚び諂い、従属し、弱者を暴虐する姿勢態度がそれには色濃く残っていると考えられる。
 伽耶の敗北主義的狂信排他的民族集団、これが、ベースにあり、新羅父権民族の好戦性を吸収したとものと思われる。
 これは、悪霊的破滅・自滅集団である。

********************************

伽倻主導三元体制:伽倻稲作集団父権民族と新羅スキタイユダヤ父権民族と百済ツングース・扶余母権民族

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に、以下のように、伽倻族が、母権百済族と父権新羅族を支配していると仮説した。もっとも、土着母権縄文族、母権海洋族等は便宜上、省いているが。
 似本の支配・権力層は確かに、好戦的姿勢を取っているが、果たして、本質的に好戦性をもっているのだろうか。
 狡猾なので、新羅族の好戦性を利用しているだけではないだろうか。
 一見、某首相の姿勢は好戦的であるが、果たして、本質的にそうなのか。
 やはり、古代において、伽倻族が新羅族を支配したとき、後者の好戦性を利用する狡猾な手段を取るようになったのではないだろうか。好戦的なポーズをとれば、好戦的な新羅族を利用できるはずである。
 どうも、このように考えた方が、伽倻族が好戦的であると見るより、合理的であるようだ。
 伽倻族が好戦的であると見る場合は、やはり、伽倻族が、新羅族と融合した見ることになるだろう。
 しかし、融合だと、新羅族にも主導性が生じるのである。
 ちょっと、あいまいになってきた。
 後代の武士層の生成を考えると、やはり、好戦的新羅族がなんらか、支配層に存したと見るべきではないのか。
 そうならば、伽倻族だけが主導的であったのはなく、伽倻族と新羅族の融合した民族(融合民族)が主導的であったことになる。
 そうすると議論は元に戻る。それは、私の最初の作業仮説であったからである。
 ここで、新たな作業仮説を提示すると、日本古代においては、伽倻族、新羅族、百済族の三民族の三幅対、三重構造、三つ巴の権力体制があったとするのである。
 三元ないし三極民族体制である。これが、古代天皇制の実体、本体となる。
 だから、『日本書紀』は、この三元(三極、三重)民族体制の様相が描写・活写・実写されているというようにも考えられる。(追記:思うに、この三元体制の実相が、装飾・潤色・創作はあるものの、活写されていると言う方が適切だろう。汩
 神武天皇、雄略天皇の好戦性は、新羅族のそれを表現しているということになるし、仁徳天皇の仁慈ある治世は、百済族主導の統治を意味し、また、中央集権体制=律令制は、伽倻族の専制に因るものではないだろうか。
 ということで、現時点での新仮説として、日本古代は、伽倻族、新羅族、百済族の三つの異なる民族の併存併合混合混淆する三元・三極・三重体制であったとしたい。

追記:伽倻ー新羅ー百済の三元体制を仮説したが、やはり、その中では、伽倻族がもっとも主導的であったのではないだろうか。
 だから、伽倻主導的三元・三極・三重体制を大和朝廷の政体の本質としたい。

追記2:明治国家であるが、それは、この伽倻主導の三元体制から、百済母権民族が抜けている(追記:というよりは、百済母権民族の天皇王制が形式化され、つまり、「天皇制」化されて、きわめて、抑圧されたものになったのではないだろうか。完全には排除はしていないだろう)、伽倻主導伽倻・新羅二元体制ではなかっただろうか。百済母権民族の天皇王制は、形式として形骸的に利用されたということだろう。いわば、父権天皇制、独裁天皇制、専制天皇制となったと思われる。

**************************

後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988393633.html


2015年02月12日(Thu)▲ページの先頭へ
伽や主導三元政体:伽や稲作集団父権民族と新羅スキタイユダヤ父権民族と百済ツングース・扶余母権民族
伽やの「や」(人偏の右に耳、左に郎の作りを入れる)の字体が文字化けするので、以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988839848.html

伽倻主導三元体制:伽倻稲作集団父権民族と新羅スキタイユダヤ父権民族と百済ツングース扶余母権民族

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に、以下のように、伽倻族が、母権百済族と父権新羅族を支配していると仮説した。もっとも、土着母権縄文族、母権海洋族等は便宜上、省いているが。
 似本の支配・権力層は確かに、好戦的姿勢を取っているが、果たして、本質的に好戦性をもっているのだろうか。
 狡猾なので、新羅族の好戦性を利用しているだけではないだろうか。
 一見、某首相の姿勢は好戦的であるが、果たして、本質的にそうなのか。
 やはり、古代において、伽倻族が新羅族を支配したとき、後者の好戦性を利用する狡猾な手段を取るようになったのではないだろうか。好戦的なポーズをとれば、好戦的な新羅族を利用できるはずである。
 どうも、このように考えた方が、伽倻族が好戦的であると見るより、合理的であるようだ。
 伽倻族が好戦的であると見る場合は、やはり、伽倻族が、新羅族と融合した見ることになるだろう。
 しかし、融合だと、新羅族にも主導性が生じるのである。
 ちょっと、あいまいになってきた。
 後代の武士層の生成を考えると、やはり、好戦的新羅族がなんらか、支配層に存したと見るべきではないのか。
 そうならば、伽倻族だけが主導的であったのはなく、伽倻族と新羅族の融合した民族(融合民族)が主導的であったことになる。
 そうすると議論も元に戻る。それは、私の最初の作業仮説であったからである。
 ここで、新たな作業仮説を提示すると、日本古代においては、伽倻族、新羅族、百済族の三民族の三幅対、三重構造、三つ巴の権力体制があったとするのである。
 三元ないし三極民族体制である。これが、古代天皇制の実体、本体となる。
 だから、『日本書紀』は、この三元(三極、三重)民族体制の様相が描写・活写・実写されているというようにも考えられる。(追記:思うに、この三元体制の実相が、装飾・潤色・創作はあるものの、活写されていると言う方が適切だろう。)
 神武天皇、雄略天皇の好戦性は、新羅族のそれを表現しているということになるし、仁徳天皇の仁慈ある治世は、百済族主導の統治を意味し、また、中央集権体制=律令制は、伽倻族の専制に因るものではないだろうか。
 ということで、現時点での新仮説として、日本古代は、伽倻族、新羅族、百済族の三つの異なる民族の併存併合混合混淆する三元・三極・三重体制であったとしたい。

追記:伽倻ー新羅ー百済の三元体制と仮説したが、やはり、その中では、伽倻族がもっとも主導的であったのではないだろうか。
 だから、伽倻主導的三元・三極・三重体制を大和朝廷の政体の本質としたい。

追記2:明治国家であるが、それは、この伽倻主導の三元体制から、百済母権民族が抜けている(追記:というよりは、百済母権民族の天皇王制が形式化され、つまり、「天皇制」化されて、きわめて、抑圧されたものになったのではないだろうか。完全には排除はしていないだろう)、伽倻主導伽倻・新羅二元体制ではなかっただろうか。百済母権民族の天皇王制は、形式として形骸的に利用されたということだろう。いわば、父権天皇制、独裁天皇制、専制天皇制となったと思われる。

**************************


後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。


画像は以下のリンクを見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988314822.html

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。


参考:尚、緑色文字、イタリック、下線は管理人resurrectionに拠る。
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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画像はこちら からお借りしました。
「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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middle_1160654009.png
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州〜北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html



天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流
天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

 いままで十数回にわたり天皇制国家の源流を追求してきました。ここで、いままでのまとめを行いたいと思います。ちょうど年末のなんでや劇場で、日本の闇勢力について追求が行われました。その内容も併せて、四回程でまとめてみたいと思います。
まず、古代以前のユーラシア大陸の状況からです。
●北方モンゴロイドの南下
・5万年前〜2.1万年前、極寒化で北方モンゴロイドは小部族で南下。シベリアは無人状態に。
・2.1万年前〜1.3万年前、温暖化で人口爆発し、モンゴル平原に北上。アルタイ系3祖族を形成(新モンゴロイド)。父系集団で垂直的な上天信仰、熊神信仰、冬祀りetcの文化。
・1.3万年前、急激な冷え戻りで、南下。チュルク族は西方に、モンゴル族は南方に、ツングース族は東方に拡散。(下図参照)
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(画像はリンク よりお借りしました)
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・6千年前〜4千年前、中央アジアの乾燥を契機にアーリア族による略奪闘争が発生し、東西に玉突き的に伝播。アーリア族→チュルク族→モンゴル族→ツングース族と玉突き的に急激な移動・拡散が起こる。
チュルク族は、早くからアーリア族と混融。馬と金属の文化で、西アジアから地中海、あるいは東欧・ロシアにまで分布。
モンゴル族は、東アジアから中央アジアに広域に拡散。北方は遊牧を続け、南下した部族は農耕に転換。
ツングース族は、極東で長く狩猟を維持(馬とトナカイを飼い慣らす)。モンゴル族と混融。シベリア・満州・朝鮮の源流。
・3.5千年前、モンゴル族が殷を建国。3.1千年前、チベット族が周を建国。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆日本には3〜1万年前から、主に南方のスンダランドから列島にやってきた人々が縄文人を形成、そこに新たに大陸の戦乱から逃れた江南人がやってきて弥生人が生まれます。
●縄文人+江南流民=弥生人
 日本人の基層を成すのは縄文人であるが、2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人の一部が日本列島に亡流した。彼ら江南流民は、何れも少人数で、周りの縄文人に受け入れられ、混融していった。これら少数の江南流民と縄文人の混血を弥生人と呼ぶことにする。
 彼らは2400年前〜2200年前までに、九州、出雲、北陸、あるいは瀬戸内、高知、尾張、紀伊、伊豆に国を作っていった。=弥生人の小国。
 ここで、倭人について触れたいと思います。倭人とは、日本史では古代の日本人そのもののように言われていますが、明らかに間違いで、上記の中国南方からの流民(江南人)を指しています。日本列島に流れ着いたのは一部であり、その主力は朝鮮半島へ流れ着いていました。
●倭人とは江南人(呉・越・楚人)
 倭人とは、2500年前〜2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民である。2480年前の呉滅亡→呉人が弁韓へ、2340年前の越滅亡→越人が馬韓へ、2235年前の楚滅亡→楚人が辰韓へ(いずれも一部は日本列島へ亡流)。
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〔呉・越・楚の滅亡と遺民(倭人)の移動〕(図版はリンク よりお借りしました。)
 倭人が江南人のことであることの証拠に、中国からみた倭(人)の範囲が時代を追うにつれ南に下がってゆく。
 最初、中国は南朝鮮全体を倭と呼んでいたが、百済・新羅国家が形成されると、国家が形成されずに部族連合として残った伽耶を倭と呼ぶようになり、伽耶滅亡後には、倭は日本列島だけを指すようになった。
 魏志倭人伝の時代は主に伽耶の倭人が活躍していた時代であり、そこで登場する倭は日本ではなく、朝鮮半島にあったのである。高句麗の広開土王が戦った倭も朝鮮半島の伽耶のことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆倭人は、朝鮮半島で水田稲作を始めていました。そこに稲作民を支配する様式を持つ北方部族が南下して、国家を形成し始めます。
●倭人+扶余族=韓人
 朝鮮半島では、これら江南流民がほぼ原住民=倭人であるが、後に朝鮮半島へツングース族(一部モンゴル族)が南下する。後から侵入してきた扶余族との倭人との混血を韓人と呼びます。
1.2300年前、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。つまり、三韓とは、扶余族が韓倭人(呉・越人)を服属させた国である。扶余族と倭人(呉・越人)が混血したのが韓人である。
2.2235年前、秦に強制移住させられていたモンゴル系部族(スキタイとも混融?)が大量の楚人と共に脱出・南下。辰国(中心が馬韓)から東部の辰韓を割譲してもらい、これを支配。
3.1950年前、別の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
 新羅は、百済=扶余族に従属するモンゴル系部族が江南流民(主に楚人)を支配した国である。新羅が扶余族ではない証拠に、新羅はシベリア・スキタイ系文化の色彩を帯び、言葉も扶余系とは異なる。従って新羅には「王は神で、他の姓は替れない」という扶余族の現人神(天孫降臨)信仰はなかった。
 秦の長城建設の為に強制移住させられていた楚人とモンゴル族(スキタイ族?)が、モンゴル族に率いられて脱出し、極東を東端まで横断した後、日本海沿岸を南下して慶州平野に進出した。中国「辰韓伝」によると、馬韓が脱出してきた民に、馬韓領土の東部を割譲したとあり、辰韓は馬韓に服属することで成立した。
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〔秦帝国と万里の長城、朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島の辰韓を形成 〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。(続く)

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/01/2475.html

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988393633.html


後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する
リンクは以下から見られたい。
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尚、本記事は直近の記事の一部修正したものである。

後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。


2015年02月11日(Wed)▲ページの先頭へ
母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を後期弥生稲作民族(伽倻族)が支配する
リンクは以下から見られたい。
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母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を後期弥生稲作民族(伽倻族)が支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない。つまり、集団的思考なので、明確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、千争邪に騙されて、破滅を被るということではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。


2015年02月08日(Sun)▲ページの先頭へ
鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と農耕父権集団民的屈従性の融合
画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11987177642.html

鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と農耕父権集団民的屈従性の融合

テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔

私は日本父権民族批判をしている。今の支配層・権力層の人間をそう見るのである。
 強者に媚び、屈従隷従し、弱者は暴虐的に利用する。
 私は後期弥生農耕的集団民族と遊牧系父権民族の混淆が源泉と考えている。
 しかし、私の疑念は、農耕的集団民族は、母権的なのだろうかという点である。意外に父権的なのではないだろうか。
 そうすると、遊牧系父権民族を仮説する必要がなくなるのである。
 しかしながら、問題は好戦性の源泉である。それを考えると、遊牧系父権民族が想定されるのである。
 思うに、農耕的集団父権民族と遊牧系父権民族の混合(追記:これを融合と見れば、明快になるのである)が、日本父権民族を形成したのではないかということが考えられる。
 つまり、後者の好戦性と前者の屈従性が融合して、日本父権民族の性格が生まれたということではないだろうか。

追記:以下の最初の参考記事「天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷」に、日本支配層の敗北主義の説明があるが、私の説とは異なる。
 伽倻(これが、私の仮説する農耕父権集団民族)が日本に到来するのは、肯定しよう。しかし、伽倻が既に到来していた新羅勢力を服属させるという点は肯定しない。
 私は思うに、新羅民族(スキタイ系遊牧民族)が、伽倻民族を服属させたように思うのである。新羅民族の好戦性と伽倻民族の屈従性の混合が日本父権民族の性格を形成したのではないだろうか。
 さらに、検討しないといけない。

追記2:日本父権民族の好戦性を、後期弥生農耕父権集団民族(伽倻民族)の性格で説明できるだろうか。
 もしできるなら、以下の説明は納得できることになるが。
 しかし、凶暴無惨残虐暴虐な好戦性は、農耕民族の性格からは説明できないのではないだろうか。
 しかし、私の仮説の新羅民族の好戦性にも欠点がある。何故、スキタイ系遊牧民族が伽倻民族と融合して、屈従・敗北主義的になるのかという問題があるからである。
 今、思いついたが、日本民族は、二重構造ではなく、三重構造ないし四重構造ではないかということである。
 つまり、日本民族は、

1,ツングース系扶余・百済母権民族
2.スキタイ系新羅父権民族
3.後期弥生農耕父権集団民族
4.土着的縄文母権民族

の四つの民族から、少なくとも構成されると見るのである。
 三重構造というのは、4を外して考える場合である。
 いちおう、三重構造で考えると、以下の記事にあるように、3が主体になって、1と2を服属させ、支配したとしよう。
 3は狡猾な民族であり、1の母権天皇制と2の父権遊牧民族の好戦性を利用して、『日本書記』をメイクアップしたのではないだろうか。
 そう、日本父権民族の好戦性は新羅民族から来ていて、それを、巧妙狡猾卑怯卑劣な3の父権民族が利用しているのではないだろうか。
 つまり、後期弥生農耕父権集団民族が二つの、異なる遊牧民族(母権扶余民族と父権スキタイ系新羅民族)を利用支配しているということではないだろうか。 
 四重構造で見れば、さらに、土着的母権縄文民族を新羅民族を利用して、迫害虐殺したと考えられる。ターゲットは蝦夷や隼人等である。
 3はとんでもない賤民民族である。

追記3:3が日本父権民族の主体としても、その好戦性は、2の好戦性を狡猾に利用しているということではないだろうか。本当は、好戦性はないのである。2をイデオロギー的に利用していると考えられるのである。
 つまり、現実的に言えば、椅子羅謀黒への闘争を宣言すれば、日本民族の構成員の2が反応すると現似本背腐は重っているということではないだろうか。

追記4:今、ふと想起したが、3の農耕父権集団民族と2のスキタイ系新羅父権民族は、一国両制の統治システムをとったのではないだろうか。つまり、スキタイ系新羅父権民族は「北面官」が、後期弥生的農耕集団父権民族を「南面官」が支配するようになったのではないだろうか。つまり、二つの民族を並行的に支配するシステムである。だから、中心は二つのあるのであり、「北面官」と「南面官」である。
 そして、新羅系は、扶余・百済系の母権天皇制を簒奪して、父権制に変えてしまったのではないだろうか。その改竄的記録が『日本書記』ではないか。
 とまれ、一国両制システムを仮説したい。
尚、この制度概念は、陳舜臣氏の『桃源郷』の冒頭の説明にある。
 「遼の独特の制度は、なんといっても、契丹族をはじめ遊牧の人民は北面官が治め、定住の漢族は南面官が担当するという一国両制のシステムである。」 (上巻)7頁

追記5:一国両制システムをとっていたとしよう。しかし、時間が経つに連れて、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻民族)とスキタイ系遊牧父権民族(新羅民族)は融合して、上述したような、強者に服従し、弱者を虐待する性格が生まれたのではないだろうか。敗北主義と暴政主義である。

追記6:好戦的遊牧父権民族であるが、それにユダヤ民族を含めてもいいかもしれない。つまり、多重複合的な好戦的遊牧父権民族を見ていいのではないだろうか。

追記7:天孫降臨族とは、2と3の融合した父権民族であり、天孫ないし天孫降臨という理念は、1の扶余・百済母権民族の天皇王国制度のそれをイデオロギー的に借用・利用した、奪った・横取りした、「パクった」ものではないだろうか。父権民族は狡猾である。

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参考:尚、緑色文字、イタリック、下線は管理人resurrectionに拠る。

天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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画像はこちら からお借りしました。
「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州〜北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html



天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流
天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

 いままで十数回にわたり天皇制国家の源流を追求してきました。ここで、いままでのまとめを行いたいと思います。ちょうど年末のなんでや劇場で、日本の闇勢力について追求が行われました。その内容も併せて、四回程でまとめてみたいと思います。
まず、古代以前のユーラシア大陸の状況からです。
●北方モンゴロイドの南下
・5万年前〜2.1万年前、極寒化で北方モンゴロイドは小部族で南下。シベリアは無人状態に。
・2.1万年前〜1.3万年前、温暖化で人口爆発し、モンゴル平原に北上。アルタイ系3祖族を形成(新モンゴロイド)。父系集団で垂直的な上天信仰、熊神信仰、冬祀りetcの文化。
・1.3万年前、急激な冷え戻りで、南下。チュルク族は西方に、モンゴル族は南方に、ツングース族は東方に拡散。(下図参照)
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(画像はリンク よりお借りしました)
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・6千年前〜4千年前、中央アジアの乾燥を契機にアーリア族による略奪闘争が発生し、東西に玉突き的に伝播。アーリア族→チュルク族→モンゴル族→ツングース族と玉突き的に急激な移動・拡散が起こる。
チュルク族は、早くからアーリア族と混融。馬と金属の文化で、西アジアから地中海、あるいは東欧・ロシアにまで分布。
モンゴル族は、東アジアから中央アジアに広域に拡散。北方は遊牧を続け、南下した部族は農耕に転換。
ツングース族は、極東で長く狩猟を維持(馬とトナカイを飼い慣らす)。モンゴル族と混融。シベリア・満州・朝鮮の源流。
・3.5千年前、モンゴル族が殷を建国。3.1千年前、チベット族が周を建国。
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☆日本には3〜1万年前から、主に南方のスンダランドから列島にやってきた人々が縄文人を形成、そこに新たに大陸の戦乱から逃れた江南人がやってきて弥生人が生まれます。
●縄文人+江南流民=弥生人
 日本人の基層を成すのは縄文人であるが、2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人の一部が日本列島に亡流した。彼ら江南流民は、何れも少人数で、周りの縄文人に受け入れられ、混融していった。これら少数の江南流民と縄文人の混血を弥生人と呼ぶことにする。
 彼らは2400年前〜2200年前までに、九州、出雲、北陸、あるいは瀬戸内、高知、尾張、紀伊、伊豆に国を作っていった。=弥生人の小国。
 ここで、倭人について触れたいと思います。倭人とは、日本史では古代の日本人そのもののように言われていますが、明らかに間違いで、上記の中国南方からの流民(江南人)を指しています。日本列島に流れ着いたのは一部であり、その主力は朝鮮半島へ流れ着いていました。
●倭人とは江南人(呉・越・楚人)
 倭人とは、2500年前〜2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民である。2480年前の呉滅亡→呉人が弁韓へ、2340年前の越滅亡→越人が馬韓へ、2235年前の楚滅亡→楚人が辰韓へ(いずれも一部は日本列島へ亡流)。
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〔呉・越・楚の滅亡と遺民(倭人)の移動〕(図版はリンク よりお借りしました。)
 倭人が江南人のことであることの証拠に、中国からみた倭(人)の範囲が時代を追うにつれ南に下がってゆく。
 最初、中国は南朝鮮全体を倭と呼んでいたが、百済・新羅国家が形成されると、国家が形成されずに部族連合として残った伽耶を倭と呼ぶようになり、伽耶滅亡後には、倭は日本列島だけを指すようになった。
 魏志倭人伝の時代は主に伽耶の倭人が活躍していた時代であり、そこで登場する倭は日本ではなく、朝鮮半島にあったのである。高句麗の広開土王が戦った倭も朝鮮半島の伽耶のことである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆倭人は、朝鮮半島で水田稲作を始めていました。そこに稲作民を支配する様式を持つ北方部族が南下して、国家を形成し始めます。
●倭人+扶余族=韓人
 朝鮮半島では、これら江南流民がほぼ原住民=倭人であるが、後に朝鮮半島へツングース族(一部モンゴル族)が南下する。後から侵入してきた扶余族との倭人との混血を韓人と呼びます。
1.2300年前、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。つまり、三韓とは、扶余族が韓倭人(呉・越人)を服属させた国である。扶余族と倭人(呉・越人)が混血したのが韓人である。
2.2235年前、秦に強制移住させられていたモンゴル系部族(スキタイとも混融?)が大量の楚人と共に脱出・南下。辰国(中心が馬韓)から東部の辰韓を割譲してもらい、これを支配。
3.1950年前、別の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
 新羅は、百済=扶余族に従属するモンゴル系部族が江南流民(主に楚人)を支配した国である。新羅が扶余族ではない証拠に、新羅はシベリア・スキタイ系文化の色彩を帯び、言葉も扶余系とは異なる。従って新羅には「王は神で、他の姓は替れない」という扶余族の現人神(天孫降臨)信仰はなかった。
 秦の長城建設の為に強制移住させられていた楚人とモンゴル族(スキタイ族?)が、モンゴル族に率いられて脱出し、極東を東端まで横断した後、日本海沿岸を南下して慶州平野に進出した。中国「辰韓伝」によると、馬韓が脱出してきた民に、馬韓領土の東部を割譲したとあり、辰韓は馬韓に服属することで成立した。
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〔秦帝国と万里の長城、朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島の辰韓を形成 〕
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☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。(続く)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/01/2475.html


2015年01月28日(Wed)▲ページの先頭へ
新仮説:二つの日本民族:百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族が従えた後期弥生農耕母権集団民族
画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11982543599.html

新仮説:二つの日本民族:百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族が従えた後期弥生農耕母権集団民族

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

『日本書紀』(二)の第十一巻、仁徳天皇の記事の最後の方になってようやく、騎馬の記述が出てきた。もっとも、それ以前にあったのを見過ごしているかもしれないが。

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)/岩波書店
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 「精騎」(すぐれるうまいくさ:p. 270)の言葉があり、これは、騎馬と考えられる。これは、「田道(たぢ)」が率いるのであり、彼は、百済出身の考えられる。
 以下の東海アマ氏の記事と相関させて、百済騎馬民族が倭国に到来したのは確かなようである。
 私はこれまで、簡単に、百済人は母権民族と考えてきた。しかし、『日本書記』での記述は、倭国の土着的ないわば、反抗的な異民族(蝦夷:えみし)に対して、執拗に攻撃を行なっているのである。
 好戦性が強いのである。好戦性は父権民族の特性である。そうならば、百済民族は父権民族となる。
 ただし、私の作業仮説、『日本書記』は父権民族の視点で母権民族を含めた大和朝廷の形成の史的神話が語られているということから見ると、『日本書記』に見られる百済騎馬民族に当たるとされる民族の好戦性は、必ずしも、実際の百済騎馬民族のものではなく、父権民族のそれが投影されていると見ることは可能である。
 そうすると、百済騎馬民族とは母権民族であり、それとは別に、好戦的な父権民族が支配的ということになろう。
 仁徳天皇は、確かに聖王として、理想化潤色されているのは確かだろうが、しかし、やはり、そこには母権民族の共同体の精神が感じられるのである。
 百済騎馬母権民族の史的神話があり、それに父権民族の好戦性が上塗りされているように思えてきたのである。
 そして、父権民族をこれまで、ユダヤ・大陸系としたのが、一端、ユダヤ民族は外したい。
 今は後期弥生農耕集団民族と大陸系父権民族の混淆が日本父権民族ではないかとしたい。好戦的なのは、当然後者だと思う。だから、大陸系父権民族が率いた後期弥生農耕集団民族が日本父権民族としたい。
 問題は、後期弥生農耕集団民族が父権なのか母権なのかである。農耕民族ならば、母権民族ととるのが普通である。だから、大陸系父権民族が従える後期弥生農耕集団母権民族が、日本父権民族ということになる。
 しかしながら、それは齟齬を来す。父権+母権だから、純粋父権にはならないはずである。そうすると、私が考えた日本父権民族とは、誤りであり、日本父母権集団民族とでもしないといけない。
 とまれ、そう見ると、「日本父権民族」の脆弱さがよく見えてこよう。もし、純粋に父権民族ならば、愚鈍のはずはないからである。
 そう、父権・母権未分化集団民族とでもするといいかもしれない。(本文内追記:しかし、以下の追記にあるように、ベースに後期弥生農耕母権集団民族を置き、それとは別に大陸系父権民族を考えれば、日本父権民族とは考えられることである。それが、スキタイ・新羅系父権民族と言えるのかどうかはわからない。でも、二つのツングース民族が考えられよう。母権的ツングース民族と父権的ツングース民族である。)
 ということで、新たな作業仮説として、二つの日本民族とは、
一つは百済・出雲・縄文的母権民族であり、
一つは大陸系父権ー後期弥生農耕母権集団民族ということになる。
 『日本書記』は後者の視点から前者の神話を改竄的に包摂して、書かれていると思われる。
 もっとも、圧倒的力をもつ大中国に対抗するために大和朝廷史実に似せた神話であることは確かと思われる。
 最後に大陸系父権民族であるが、それに新羅を含めるのかはまだ未確定である。東海アマ氏は、女真族をあげている。その可能性はあるだろう。
 とまれ、日ユ同祖論はいったん、取り下げよう。

追記:後期弥生農耕母権集団民族を従えたと述べたが、そうではなく、既に存在していた後期弥生農耕母権集団民族を到来後に支配したというように考えた方が適切かもしれない。
 ところで、百済母権騎馬民族と仮説したが、思うに、大陸系父権騎馬民族というのも考えられる。後者が、いわゆる江上波夫氏の騎馬民族説に当たるのではないだろうか。
 また、東海アマ氏が聖徳太子に見る騎馬民族は、百済母権騎馬民族ということになろう。
 つまり、二つの騎馬民族の到来の仮説である。

追記2:ひょっとして、母権騎馬民族と父権騎馬民族の闘争が古代日本においてあり、後者優位の下で、前者の神話を取り込み、改竄的に書かれたのが『日本書記』かもしれない。
 結局、土着的倭国が下敷きにあり、両騎馬民族の相克的日本国家創建のフィクション的史実が『日本書記』ということかもしれない。

参照:
日本父権民族と母権民族:だいぶその出来がわかってきた:母権的百済と父権的新羅・高句麗
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前

私の住む蛭川村は、家々が孤立し、大きな城のようだ
これは百済由来の騎馬民俗に共通する「一所懸命」思想から来ている
満州高句麗を本拠地とした女真族は武家社会で「家=国」の価値観を創り出してきた
こうした民俗は、二千年前から変わっていない
日本の地域社会に深く息づいている


アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前
歴史というものの本質は民族大移動と融合である
民族と民俗の変遷の法則を解き明かすのが考古学であり民俗学である
日本史を語るにあたって、弓月氏、満州族と天皇家の関わりを抜いてはアンのないぼた餅にすぎない
その本質は民俗にある
例えば聖徳太子のズボンは乗馬風俗を意味する
騎馬民俗だ

参考:きわめて、私の説に関係すると思われるので、全文を資料として転載させていただく。
 なお、緑色文字且つイタリック且つ下線は、管理者resurrectionに拠る。
 また、紫色・下線部は管理者が疑問をもつ箇所である。
 
追記:以下の記述は私の新仮説に通じるものがある。「百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。」という箇所であるが、これは、私が仮定する後期弥生農耕母権集団民族に通じよう。
 しかしながら、後半の部分はそのまま受け取れない。私はそこには、なんらかの大陸系父権民族が支配的であったと思うからである。私の仮説(「妄想」)では、おそらく、スキタイ系新羅の父権民族が、伽倻(韓倭農耕部族連合)を主導したのである。
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...

天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州〜北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html


2015年01月12日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:出雲神話は日本母権民族の神話:天孫降臨・アマテラス神話は日本父権民族の神話
リンク等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11976232153.html

仮説:出雲神話は日本母権民族の神話:天孫降臨・アマテラス神話は日本父権民族の神話

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私は先に日本書紀を読んでいて、スサノヲは母権神話の英雄であり、また、当然、出雲神話が母権神話の源流と考えた。
 アマテラスは基本的には父権民族の神である。
 飯山一郎「大博士」の説くツングース族=扶余=百済日本民族起源説であるが、それは、私見では、日本母権民族と重なるのである。
 つまり、出雲神話と百済・日本母権民族は結びつくのである。
 そう、作業仮説として、扶余・百済⇒出雲と日本母権民族の国の流れがあり、日本母権国があったと思う。
 それに対して、天孫降臨の「アマテラス」を中心とする好戦的な日本父権民族が侵略してきたのである。私はそれは弥生民族を従えたユダヤ民族(中国系父権遊牧民族も入るかもしれない)だと仮説しているのである。
 分かりやすく言えば、古代日本とは、百済・出雲母権民族とユダヤ・ヤマト父権民族の闘争が行われた場であり、ほぼ後者の勝利を作為的に記述したものが日本書紀ではないだろうか。
 しかし、まったく父権民族が母権民族に対して勝利したということではなく、後者は実際、存続していたのではないだろうか。
 そう、端的に、日本書紀は、一つの役割として、母権民族の洗脳があったと思うし、それが、今日までも続いて、単一民族説を為していると思うのである。二つの異質な民族を見ないといけない。
 また、もう一つの役割は、大中国に対する日本国家権力の誇示にあったろう。

追記:日本父権民族を弥生民族を従えたユダヤ民族と仮説したが、以下からわかるように、出雲の遺跡は弥生中期である。それを考えると、弥生民族を従えていたのは、父権民族ではなく、母権民族ではなかっただろうか。それを、父権民族はあたかも自分たちが弥生民族(稲作民族)を従えたようなフィクションを日本書紀で作ったのではないだろうか。

参考:

倭国の時代 (ちくま文庫)/筑摩書房
¥1,026
Amazon.co.jp


内容(「BOOK」データベースより)
日本建国以前の列島の状況を知るには、当時の文献の活用が欠かせない。しかしそのことが、さまざまな誤解を生んできたのも事実だ。本書では、中国大陸の政治動向が列島に及ぼした影響をたどることによって「魏志倭人伝」「日本書紀」の成立事情を解明し、卑弥呼の出現、倭国王家の成立から日本建国までの倭人の実像を、世界史的視点で描き出す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
岡田/英弘
1931年東京都生まれ。東京大学文学部卒。57年『満文老档』の研究で日本学士院賞受賞。東京外国語大学名誉教授。その研究は中国史、モンゴル史、満洲史など広範にわたる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

*
New! 【出雲学談義(4)】「出雲神話=虚構」は崩れ去った…空白地帯の山陰で青銅器が次々発見

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古代史を書き換える発見として注目を浴びた荒神谷遺跡(島根県出雲市提供)
 

 昭和59年夏のことであった。出雲市斐川町神庭(かんば)の谷奥の道路建設予定地から、358本という驚愕的な数の銅剣が発見された。そもそも出雲は青銅器文化の空白地帯とされ、ほとんど出土例はなかった。全国から出土した銅剣は約300本とされていたから、空白地帯のただ1カ所から出た数量は圧倒的であった。この遺跡は、付近に荒神が祀ってあったことから荒神谷(こうじんだに)遺跡と名づけられた。全国の熱いまなざしが荒神谷に注がれた。

 誰が、何のために埋めたのか。何故、整然と並べて埋めてあるのか。そして、最大の謎は、何故、神庭の谷の最奥部に埋められていたのか。

 翌60年の夏、再び荒神谷は熱気にわいた。前年出土した大量の銅剣のわずか右7メートルの地点から、今度は銅矛16本、銅鐸6個が発見されたのである。今回も数々の驚きがあったが、なんといっても最大の驚きは、銅矛・銅剣という武器型祭器と銅鐸という鳴り物祭器が同じ場所に埋納されていたということであった。

 荒神谷遺跡はいくつかの定説を覆すとともに、多くの謎を提示した。その謎はほとんど解明されないまま30年が過ぎた。ただ一つ言えることは、荒神谷を中心とする西出雲に、弥生中期頃、大きな政治勢力が存在していたのではないかということである。
2015年01月12日[ 産経WEST ]
*
【出雲学談義(3)】「出雲神話」は政治性の強いフィクションだった?
 壬申の乱(672年)に勝利して樹立した天武天皇の中央集権国家において、その中核となったのは、天皇家の祖神アマテラス大神を祭る伊勢神宮である。その宗教的権威を高めようとするとき、邪魔になるのが大和の古い豪族たちが斎(いつ)く神々であった。この神々を何処かへ流し...
2014年12月14日[ 産経WEST ]
*
【出雲学談義(2)】日本の代表的神話は「出雲」発なのに、平凡な遺跡が謎を呼ぶ
 ヨーロッパ人が日本人に対して、「われわれヨーロッパには、ギリシャ神話、ローマ神話などたくさんの神話があります。日本にも神話がありますか」と尋ねたら、おそらく日本人は憤然たる面持ちで、こう答えるだろう。「もちろんありますよ。日本はヨーロッパに劣らぬほど、長い歴...
2014年12月07日[ 産経WEST ]
*
【出雲学談義(1)】下世話な話も飛びだす「無住法師」のような面白い説法を
 この作業をすすめるためには、歴史学をはじめ、関連諸科学の学際的研究が必要であるが、残念ながら、とても私にはそんな能力はない。だから、これから述べる内容は、極めて粗っぽいものになることは必定であるが、ただ、馬齢を重ねた者のわずかばかりの知識が、お役に立てばと思...
2014年11月30日[ 産経WEST ]

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2012年01月09日(Mon)▲ページの先頭へ
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
仮説:古代世界海洋の道:ケルト、タミール、東南アジア、琉球・沖縄
テーマ:history
Kaisetsu氏の、管見では、定説を覆す、日本古代史、沖縄論が継続されているが、とりわけ、以下は私見からは興味深い。
 即ち、古代の倭国連合の貿易範囲が東南アジアの海洋に及ぶことであり、また、タミール文化とのそれとの関係である。
 私が折口信夫の『古代研究』において、琉球の宗教がケルト神話に酷似したことに驚愕したことは既述した。
 ではどうして、二つは繋がったのか不明であったが、作業仮説的に、ケルト文化がインドまで伝わったことから、そこから何らかの接点があると考えていたのである。
 つまり、アナAna(ダナ)という女神がケルト神話にあるが、これは、ヒマラヤのアンナ・プルナのアンナに通じているのである。
 しかしながら、Kaisetsu氏のタミール文化との海洋貿易における融合を考えると、ケルトと琉球・沖縄が結びつくのは、現実的になるのである。
 また、思いつきであるが、Mimanaであるが、これは、
Mim+Ana、ないし、Min+Anaである。
 Mim、又は、Minを明とすると、明アナである。明はマニ教に通じる。日と月で、陰陽である。
 そうすると、任那はマニ教の女神に関係するかもしれない。マニ教の女神はどうやら、大女神、根元の女神である。そう、母権神である。
 以下、マニ教絵画(参照3)の女神がダエーナー女神ではないかという報告があるが、ダエーナーとダヌ(アヌ)は、音声的に近いだろう。(追記:ダヌはダナ、ダーナでもあるから、これで説得力が増すだろう。)
 興味は尽きないが、今はここで留める。


資料:

古代、倭国連合の最盛期の貿易範囲は、The Manila Galleonによって推測するべきだ。

古代の倭国連合には、フィリピン諸島やインドネシア諸島なども含まれていたと思われる。魏志倭人伝の記述も、このような前提で解釈するべきだ。

 次は、The Manila Galleon(1565年から19世紀初頭まで存在した)の貿易ルートであるが、

800px-16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes posted by (C)天花一海

 このManila Galleonは、古代から存在する、安全に航海できる海の道なのである。暗天時の帰航、水と食料の補給などを適時行えるノウハウが有れば、古代においても十分に交易ルートとして活用できたのである。

 倭国連合の主たる活動範囲は、日本列島、朝鮮半島、中国大陸沿岸部、東シナ海だけではなく、南シナ海も主たる貿易活動範囲と考えるべきであろう。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=813387



任那を「Ni-Ma-Ra」「Ni-Ma-La」(Tamil:Nimalam)と読むべきこと及びマニ教との関連についての補強資料と大野晋先生の倭語クレオールタミル語説への支持

一般に日本語、ここでは白村江の敗戦前までの倭国連合の言語という意味で、倭語という名称を用いるが、この倭語とタミール語との関係は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、弥生時代以降の文化的特徴も5世紀までの倭国連合時代とタミール文化は顕著な同質性を持つのである。

 さらに、この同質性が相互貿易共生システムによって成立していたことは次から容易に推測できる。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813391
海舌 SeaTongue@Kaisetsu

参照:
ダヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
ダヌまたはダナ (Danu/Dana)(またはアヌ またはアナ、(Anu/Ana ))は、アイルランド神話(ケルト神話 )に登場するトゥアハ・デ・ダナーン (ダーナ神族)の母であり、また生命の母神 ともされる。しかし、神話上には僅かにしかみられない。
ダヌのウェールズ語 (Welsh) の同意義語はドーン (Dôn)。 ブリギッド やアヌ とも同一視される。
ダグダ 、ディアン・ケヒト 、リル 、ゴブニュ 、ヌアダ の母でもある。
ダヌの認知の古さ [編集 ]
ドナウ川 (Danube) (ラテン語 :Danuvius)、ドニエストル川 (Doniester) 、ドニエプル川 (Dniepr) 、ドン川 (Don) のような地名の形跡を根拠として、ダヌは恐らくケルト全域で崇拝されていた。実際のところ、インド神話 に登場するダヌ (Danu )という名前を持つ女神が、水およびダナヴァス (Danavas ) という名の阿修羅 (アシュラ)の一族の母に関係していることが、この女神が非常に古い時代のインド・ヨーロッパ系神話 の起源をもつことを示しているとされている。
また、「dhanu」の名は「swift(迅速さ)」という意味を元来持つと見られる。

Danu (Irish goddess)
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In Irish mythology , Danu ([ˈdanu] ; modern Irish Dana [ˈd̪ˠanˠə] ) is the mother goddess of the Tuatha Dé Danann (Old Irish: "The peoples of the goddess Danu"). Though primarily seen as an ancestral figure, some Victorian sources also associate her with the land.[1]
Name
The theonym is of Proto-Indo-European age, and seems to have denoted a water goddess in origin. A goddess Dānu is attested in the Rigveda , and also the river names Danube (Latin : Danuvius), Dniestr , Dniepr and Don derive from the name.
The Rigvedic Danu was the mother of a race of Asuras called the Danavas . A shortened form of the name appears to have been Dā. This form survives in Greek Damater (Demeter, "mother Da"), in origin also a water goddess.[citation needed ] The Proto-Indo-European *dānu probably meant "fluvial water, running water",
The genitive form of Old Irish Danu is Danann, and the dative Danainn. Irish Danu is not identical with Vedic Dānu but rather descends from a Proto-Celtic *Danona, which may contain the suffix -on- also found in other theonyms such as Matrona, Maqonos/Maponos and Catona.[2] [3]
[edit ] In mythology
As the mother of the gods, Danu has strong parallels with the Welsh literary figure (or goddess) Dôn , who is the mother figure of the medieval tales in the Mabinogion .
Danu was considered as the mythic mother goddess of the Tuatha Dé Danann, the Celtic tribes that first invaded Ireland. The Celts , also on the continent, had several goddesses, also of war. "Apart from these goddesses of war, there were other Amazonian figures who led armies into battle. Often they were also endowed with legendary sexual prowess..."[4] "The Celts included the cult of the mother goddess in their rites, as archeological evidence testifies. Indeed, the Tuatha Dé were the descendants of the goddess Danu, and in some local instances, the ruler of the otherworld was a goddess, rather than a god, just as some folktales represented the otherworld as 'the Land of Women'. Danu may be connected with Bridget [clarification needed ], daughter of Kildare and of learning, culture and skills. She was known as Brigantia in northern England, and survived as St Bride in Christianity"[5]
[edit ] References
Constructs such as ibid. , loc. cit. and idem are discouraged by Wikipedia's style guide for footnotes, as they are easily broken. Please improve this article by replacing them with named references (quick guide ), or an abbreviated title. (October 2010)
1. ^ Squire, Charles Celtic Myth and Legend , p. 34: "Danu herself probably represented the earth and its fruitfulness, and one might compare her with the Greek Demeter. All the other gods are, at least by title, her children."
2. ^ Köbler, Gerhard, (2000). Indogermanisches Wörterbuch, (3rd Edition): p.181. Available at: [1]
3. ^ Julius Pokorny ’s Indogermanisches etymologisches Wörterbuch . Entry 313. Available at: [2]
4. ^ Veronica Ions 1974, 2005: The World's mythology in Colour, Bounty Books, London ISBN 978075371130 p. 150
5. ^ Ibid.

Danu (Asura)
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This article needs additional citations for verification . Please help improve this article by adding citations to reliable sources . Unsourced material may be challenged and removed . (December 2009)
Dānu, a Hindu primordial goddess, is mentioned in the Rigveda , mother of the Danavas . The word Danu described the primeval waters which this deity perhaps embodied. In the Rigveda (I.32.9), she is identified as the mother of Vrtra , the demonic serpent slain by Indra [1] . In later Hinduism, she becomes the daughter of Daksha and the consort of Kasyapa .
As a word for "rain" or "liquid", dānu is compared to Avestan dānu "river", and further to river names like Don , Danube , Dneiper , Dniestr , etc. There is also a Danu river in Nepal. The "liquid" word is mostly neuter, but appears as feminine in RV 1 .54.
As a Hindu goddess, Dānu has 2 temples in Bali , Indonesia : Pura Ulun Danu Temple on Lake Bratan, Bali and Ulun Danu Batur, near Penelokan.
[edit ] See also
o Danu (Irish goddess) , an Irish water goddess with many similar characteristics
o Rigvedic rivers
o Old European hydronymy
o Kamadhenu
[edit ] References
1. ^ Kinsley, David (1987, reprint 2005). Hindu Goddesses: Visions of the Divine Feminine in the Hindu Religious Tradition, Delhi: Motilal Banarsidass, ISBN 81-208-0394-9 , p.16

参照2:
中国におけるマニ教

続々と「発見」されるマニ教徒の村々
ところで、21世紀に入り中国の学者たちが本格的に調査に乗り出すと、福建省の各地でマニ教の神々を祀った廟や、摩尼光仏を信仰する村 が次々と発見されている。
例えば草庵に近い蘇内村にある境主宮という廟では、摩尼光仏に加えて明使(ミフルヤズド?)と霊相(イエス?)というマニ教の神が、観 音菩薩や福徳正神など仏教や道教の神々と並んで祀られ、村の人々が日常的にお線香を上げにやって来る。また村には木彫りの摩尼光仏像があり、「清浄光明  大力智慧 無上至真 摩尼光仏」という16文字を唱えながら手で印を結ぶ魔 除けの真言も伝わっていて(※)、2005年にやって来たイギリスやオーストラ リアの調査団が、「21世紀に現存するマニ教信仰」だとお墨 付きを与えることになった。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani.html
どっこい生きてた中国のマニ教

文:吉田一郎(ヤジ研)

参照3:注:赤文字、下線強調はResurrectionによる。
2010年度 第2回 国内シンポジウム「中央アジアにおける仏教と異宗教の交流」

 吉田豊氏は,「マニ教絵画の世界」と題して,昨年初めて発表されたマニ教「宇宙図」を含む,日本に所蔵されるマニ教絵画とその重要性について報告した。 これまで「六道図」の1種と考えられていた大和文華館所蔵の絹絵が,実はマニ教の個人の終末論を描いた画であることが,報告者によって明らかにされたこと を契機に,栖雲寺蔵マニ教のイエス像に加え,日本で個人蔵を含め7点のマニ教画が新たに見つかった。その全てが元朝期ないし,その前後する時期に寧波を中 心とする中国江南地方で制作されたものと考えられる。この地域にマニ教徒が存在していたことは,マルコ・ポーロの『東方見聞録』や中国の編纂史料から知ら れている。吉田氏は,これらの絵画資料を現存するマニ教経典に記述される世界と比較して,絵画に描かれた内容を読み解こうとする。例えば,大和文華館所蔵 の絹絵では,死後の裁きの場面に雲に乗る女性像が認められる。吉田氏はこれをダエーナー女神とみる。マニ教では,信者が生前に行った善行が,女神の姿を 取って迎えに来ると考えられていた。またマニ教の世界観を示す「宇宙図」は,天界,十天,八地,太陽と月,光の流れ(船),大地にそびえたつ須弥山,黄道 十二宮,空中に据えられた裁判官,闇の国の表現により構成されており,これらの図像的特徴は,現存するマニ教文献が伝えるマニの宇宙生成論の記述に見事に 一致する。またマニ教の世界観には仏教の世界観との交流をうかがわせる点もあって貴重である。今後この作例と比較して,これまでトルファンで発見されてい たマニ教画,その他の断片についても再解釈する必要がでてきた。

吉田氏は,仏教とマニ教の関わりについて補足した。敦煌で発見される引路菩薩という尊格の図像は,雲に乗る点など上述のダエーナー像との類似点が注目され る。さらに魂を引導するという役割も含めて両者間に影響関係が考えられる。引路菩薩は仏教文献では確認されず,早くから外来文化の影響が問題となってい た。今回マニ教画に引路菩薩に酷似する図像が発見され,ダエーナーがゾロアスター教に起源をもつことを考慮すれば,影響はマニ教から仏教に及んだと考えて よいだろうと指摘した。これまでマニ教が中国で仏教に影響されたと想定される傾向にあったが,マニ教が仏教に与えた可能性も視野にいれる必要があると提言 をなした。
http://barc.ryukoku.ac.jp/activity/2011/03/2-1.html

龍谷大学アジア仏教文化研究センター

参照4:

天空の民ラピタ (01/07)

縄文人どころか、旧石器時代人も海を渡る能力を持っていたのは間違いないんだが、

建築とかあれこれ 呪いもあれこれ 




マネー狂気:Money-madness:第二象限から第三象限への深化:自然・精神通貨と光の経済
テーマ:貨幣・通貨論
民主党を狂わせているのは、唯物論であるが、結局、それは、マネー狂気に帰結するだろう。また、当然、世界を狂わせている大元凶である。
 マネー狂気はPS理論でどう数学・哲学化できるだろうか。そう、マネーを位置付ける必要がある。
 マネーは象徴的である。一つの中心である。それは、明らかに、第四象限に直結しているシンボル、メディアである。
 かつて何度も検討したが、差異を同一性に変換するメディアである。だから、一つの精神的フィルターである。言語もそうであるが、言語よりはるかに第四象限と直結する精神的フィルターである。
 結局、凸i⇒凹i、ないしは、凹i/凸iの志向性、同一性=父権的志向性の象徴、精神的フィルターのメディアである。それは、物質であったり、メンタルであったりする。
 そして、唯一神のような超一般性をもつ。
 そうすると、マネーは第二象限にも属しているだろう。
だから、第一象限の物質的経済のメディアであるが、それは、第二象限的作用と第四象限的衝動をもっているだろう。だから、善と悪の両面をもっていることになる。
 そう、また、一種の超越性をもっているのである。外在的超越性である。超越神性である。
 だから、簡単には、やはり、凸i⇒凹i、ないし、凹i/凸iである。父権主義=同一性的志向性のmedia pointである。
 結局、父権主義=同一性のmedia pointのシンボル、メディアであることになる。西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明が続く限り、マネー病は治らない。
 結局、第三象限にマネー狂気の治療・治癒が存するのである。差異共振、純粋差異共振の「シンボル」、「メディア」がマネーを克服する。
 それは何か。
 個的経済である。個的共振経済である。個に「権威」があるのである。そして、マネーではなく、個的通貨であろう。個が発行する通貨である。
 それは減価通貨を活用するだろう。そして、その他になにかあるだろう。
 そう、自然や精神へと回帰する通貨、自然・精神通貨である。だから、自然・精神経済へと導くものである。マニ教的に言えば、光の経済である。
 今はここで留める。後で、詳しく検討したい。

追記:イスラム教は一神教であるが、第四象限を禁止しているのである。


参照1:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参照1:
Money-madness
テーマ:貨幣・通貨論
Money-madness

Money is our madness, our vast collective madness.

・・・

But it is not money we are so terrified of,
it is the collective money-madness of mankind.
For mankind says with one voice: How much is he worth?
Has he no money? The let him eat dirt, and go cold.--

・・・

We must have some money
to save us from eating dirt.

And this is all wrong.

Bread should be free,
shelter should be free,
fire should be free
to all and anybody, all and anybody, all over the world.

We must regain our sanity about money
before we start killing one another about it.
It's one thing or the other.

pp.486〜487 D. H. Lawrence Complete Poems, Penguin Books

D. H. ロレンスは詩人でもあった。私見では、前ソクラテス期の哲学者のような哲学的詩、ないしスケッチ的詩を書く詩人である。私の詩の好みとはずれるが。
 とまれ、その直言は鋭敏で実に今日を予見している。D. H.ロレンス文学・哲学が一般に知られていないのは実に残念である。
 思うに、20世紀初期ないし前期において、超越性の世界が出現したのであるが、それを物質的概念で閉じこめてしまうという誤りを犯したのだ。
 それは、芸術だけでなく、哲学も、自然科学もそうである。
 経済学はどうなのだろうか。ゲゼルの貨幣論は超越性につながるところがあるのではないだろうか。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11073086551.html

RESURRECTION: Japonesian
Trans-Apocalypse

参考:
マンモン

マンモン、マモン(Mammon)はキリスト教 における「七つの大罪 」の一つ、「強欲 」を司る悪魔 である(1589年、悪魔学者ペーター・ビンスフェルトの論による)。そもそもMammonとは、「富・財」を意味する古代 シリア語 であった。『マタイによる福音書 』に「汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」(6:24)とあり、神との対比から聖書注釈者、並びに教父がこれを悪魔の一つとするに至った、というのが最も有力な説である。
アマイモン (Amaimon)などとの名前の相似から、アモン と混同されやすい。
悪魔像 [編集 ]

マンモン コラン・ド・プランシー 『地獄の辞典 』より
姿形は一般的に、人の胴体に鳥の双頭(普通はカラス)を持った、黒い悪魔として表現される。金銀財宝に対して非常に貪欲で、人間を誘惑して自らと同じように強欲にするという。
召喚術などで彼を呼び出すと主人の金銭欲を満たし、その代償に命を奪うという。そもそも彼から受け取った金銀の類はしばらくすると馬糞や灰に化すというから、さらさら人間の言う事を聞く気は無いのかもしれない。
堕天使 [編集 ]
J・ミルトン の『失楽園 』 では、マンモンは「堕天使のうち、これほどさもしい根性の持ち主も無かった」とされ、「天にあったときでさえ、彼は常に眼と心を下に……つまり、都大路に 敷き詰められた財宝、足下に踏みつけられた黄金を神に見える際に懇々と沸き出でるいかなる聖なる祝福よりも遥かに賛美」していたという。さらには、地獄に 落ちてなお、そこに金鉱を発見し、万魔殿を飾るためにと他の堕天使を指揮している。金銀を母なる大地から抉り出す術を人間に教えたのも彼だという(ただ し、失楽園 は聖書を始めとする当時の文献・伝説に忠実に準拠しているものの、それを踏襲した上でのミルトンの個人的想像による創作色が強いため、こういったオカルトの資料としては参考程度にしかならない)。
作られた悪魔 [編集 ]
中世ヨーロッパのカトリック教会は、免罪符 問題などに代表されるが、とかく教会の建築費(あるいは腐敗した聖職者の着服)等の金銭を必要としており、そこから御布施を出さない者を守銭奴として非難し、また、七つの大罪で貪欲を特に嫌っていた事実がある(実際の教義上、最も重いのは傲慢 とされていた)。つまり、マンモンとは皮肉ながら教父らが作り上げた悪魔なのである(ルシファー [そもそもは『金星 』の意]≒サタン の図式も教父ら、あるいは聖書の翻訳にあたった者たちが作り上げたものであるという説がある)。
アモンとの混同 [編集 ]
名が似通っているアモン (Aamon)との関係は、全く無いというわけではないらしく、アモンが他の神々を吸収することに関して強欲であったこと、人の胴体にふくろうの頭を持つ、という姿の相似など、二つの関連を指摘する説もある。
ちなみに、永井豪 のデビルマン で主人公に取り憑いたのは、悪魔の英雄アモンの方である。
また、ATLUS が1994年に発表したゲーム「真・女神転生if... 」の、悪魔アモンの肉体を奪いマンモンが力を増強するというストーリーも、この混同説を元にしている。
その他 [編集 ]
• ウェブブラウザ である、Mozilla Firefox やNetscape Navigator などで、URL としてabout:mozillaを入力するとThe Book of Mozillaが読める。ここではマイクロソフト のInternet Explorer をマンモンとしてなぞらえている。
• 拝金主義 は英語 で「マモニズム」(mammonism)と言うが、これはマンモンに由来する。
• ハリウッド映画「コンスタンティン 」では ルシファー (サタン ) の息子である。
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カテゴリ :
• 悪魔
• 聖書の語句

Mammon - Wikipedia, the free encyclopedia
Mammon is a term, derived from the Christian Bible , used to describe material wealth or greed , most often personified as a deity , and sometimes included in the seven princes of Hell .
Etymology
Mammon is the name of an ancient Deity worshiped by the Sumerians. He is the God of wealth and his name translates as "property". The Christians began to use the Holy Name of Mammon as a pejorative, a term that was used to describe greed, avarice, and unjust worldly gain in Biblical literature. It was personified as a false god in the New Testament.{Mt.6.24; Lk.16.13} The term is often used to refer to excessive materialism or greed as a negative influence.
Etymologically, the word is assumed to derive from Late Latin 'mammon', from Greek 'μαμμωνάς', Syriac 'mámóna' (riches),[1] and was an Aramaic loan word in Hebrew meaning wealth[2] although it may also have meant 'that in which one trusts'.[3]
The Greek word for "Mammon", μαμμωνάς, occurs in the Sermon on the Mount (during the discourse on ostentation ) and in the parable of the Unjust Steward (Luke 16:9-13). The Authorised Version keeps the Syriac word. John Wycliffe uses "richessis".
[edit ] Personifications

Mammon from Collin de Plancy 's Dictionnaire Infernal
Lay not up for yourselves treasures upon earth, where moth and rust doth corrupt, and where thieves break through and steal: But lay up for yourselves treasures in heaven, where neither moth nor rust doth corrupt, and where thieves do not break through nor steal: For where your treasure is, there will your heart be also. No one can serve two masters, for either he will hate the one and love the other; or else he will be devoted to one and despise the other. You can not serve both God and Mammon.
―Matthew 6:19-21,24
In the Bible, Mammon is personified in Luke 16:13, and Matthew 6:24, the latter verse repeating Luke 16:13. In some translations, Luke 16:9 and Luke 16:11 also personify mammon; but in others, it is translated as 'dishonest wealth' or equivalent. In some Spanish versions, it is said as "Mamón", but in others, as "Dinero" (Spanish for "money").
Early mentions of Mammon appear to stem from the personification in the Gospels , e.g. Didascalia , "Do solo Mammona cogitant, quorum Deus est sacculus"; and Saint Augustine , "Lucrum Punice Mammon dicitur" (Serm. on Mt., ii). Gregory of Nyssa also asserted that Mammon was another name for Beelzebub .
During the Middle Ages , Mammon was commonly personified as the demon of avarice , richness and injustice . Thus Peter Lombard (II, dist. 6) says, "Riches are called by the name of a devil, namely Mammon, for Mammon is the name of a devil, by which name riches are called according to the Syrian tongue." Piers Plowman also regards Mammon as a deity. Nicholas de Lyra (commenting on the passage in Luke) says: "Mammon est nomen daemonis" (Mammon is the name of a demon).
No trace, however, of any Syriac god of such a name exists, and the common literary identification of the name with a god of covetousness or avarice likely stems from Spenser 's The Faerie Queene , where Mammon oversees a cave of worldly wealth. Milton 's Paradise Lost describes a fallen angel who values earthly treasure over all other things.[4] [5] Later occultist writings such as De Plancy 's Dictionnaire Infernal describe Mammon as Hell's ambassador to England. For Thomas Carlyle in Past and Present, the 'Gospel of Mammonism' became simply a metaphoric personification for the materialist spirit of the nineteenth century.
Mammon is somewhat similar to the Greek god Plutus , and the Roman Dis Pater , in his description, and it is likely that he was at some point based on them; especially since Plutus appears in The Divine Comedy as a wolf-like demon of wealth, wolves being associated with greed in the Middle Ages. Thomas Aquinas metaphorically described the sin of Avarice as "Mammon being carried up from Hell by a wolf, coming to inflame the human heart with Greed".



2011年04月08日(Fri)▲ページの先頭へ
正に我が意を得たりだが:国学の一神教性:本居宣長と平田篤胤
テーマ:歴史と文化:古代日本とアジア母権複合文化

以下、Gun2氏の説明はきわめて興味深い。明治国家体制のイデオロギー基盤は国学にあるというのが持論であるからだ(国学以外には、封建的体質も当然考えるべきであるが、「近代日本」の優越妄想・狂信性の起源は国学的一神教性と見る方が的確である)。横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛らの開国派は母権主義であり、尊王攘夷の父権主義と対立していたのであり、その父権主義の基盤が国学であるのは見やすいことである。
 ただ、本居宣長に一神教性があったということは管見の為、初耳であった。
 私は作業仮説として、日ユ同祖論をとり、失われたイスラエルの十支族(あるいは、そのいくらか)が到来したと見ているが、その一神教性が潜在して、国学に顕在したという可能性もあるのである。
 勿論、母権文化の衰退、頽廃もそこに同時にあることを見るべきと考える。
 しかしながら、正確に言えば、江戸時代後期において、新しい母権主義の目覚めもあったと見なくてはならないだろう。
 つまり、旧い母権主義の衰退と同時に、一神教的父権主義の台頭と新母権主義の目覚めの両面が起ったと見るのが、史実に忠実なのではないだろうか。
 そう、単に父権主義の台頭だけではなく、今、私が唱える新母権主義もそこで始まっていたと見ると、日本史が変わるだろう。
 つまり、明治維新とは、新父権主義と新母権主義の絶対矛盾の衝突があり、前者が後者を駆逐していったのが、日本の「近代化」ということになる。
 そう、二つの「文化」、「民族」が平行しているのであり、父権主義の日本が母権主義の日本を支配しているのである。
 後で、整理したい。

追記:私は先に、母権制のベースに、父権制が「侵入」して、古代ギリシア的な二つの民族・文化の統合が古代日本にも生じたのではないかと述べた。これを仮に、両権制と呼んでおこう。
 その視点から言うと、両権制は、江戸時代中期以降、衰退して、いわば、解体分離し始めて、新たな父権主義、新たな母権主義が別々に勃興したのが、後期江戸時代と見ることができる。
 思うに、本来、両権制が基本であるから、明治維新は、新両権制になるべきであったが、国学且つ封建的父権主義勢力は、西欧近代の影響も受けて、原基の母権主義を駆逐していったのが、近代日本ということになる。
 正に、失われた母権制と両権制があるということになる。
 
***********************

本居宣長の国学

「そこで、遅ればせながら、ぼくは目下、この年になってこれまで遠ざけてきた江戸の国学について初歩のところから学び直している。


 そして、とても驚いたことが一つある。


 本居宣長こそ、江戸の国学の泰斗であると言えると思うが、彼が古事記などを通して解釈し直した天皇は、まさに一神教の神様としての天皇だったという事実である。


 日本は八百万の神々の国であるとこれまで当然のように思っていたが、そうではなく、近現代の日本を作り上げた精神的バックボーンは彼とともに一神教的解釈からスタートしたようなのである。」

http://ameblo.jp/adco/entry-10854337167.html


Gun2



国学(こくがく)は、日本 の江戸時代 中期に勃興した学問 で、蘭学 と並び江戸時代を代表する学問の一つである。和学・皇朝学・古学(古道 学)などの別名がある。


概要 [編集 ]

それまでの「四書五経 」をはじめとする儒教 の古典 や仏典 の研究 を中心とする学問傾向を批判し、日本独自の文化 ・思想 、精神世界を日本の古典や古代 史のなかに見出していこうとする学問である。

国学の方法論 は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎 の古義学 や荻生徂徠 の古文辞学 の方法から大きな影響を受けている。儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情 を押し殺すことを否定し、人間 のありのままの感情の自然な表現を評価する。

江戸時代に形骸化した中世 歌学 を批判するかたちで現れた。木下勝俊 ・戸田茂睡 らに始まるこうした批判は、下河辺長流 ・契沖 の『万葉集 』研究に引き継がれた。特に後者の実証主義 的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めた事で高く評価されている。続いて伏見稲荷 の神官 であった荷田春満 が神道 や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。一部において矛盾 すら含んだ契沖と荷田春満の国学を体系化して学問として完成させたのが賀茂真淵 である。真淵は儒教的な考えを否定して『万葉集』に古い時代の日本人 の精神が含まれていると考えてその研究に生涯を捧げた。

真淵の門人 である本居宣長 は『古事記 』を研究して、古い時代の日本人 は神 と繋がっていたと主張して「もののあはれ 」の文学論を唱える一方で『古事記伝 』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。また、盲目 の学者である塙保己一 は和学講談所 を設立し、国史の講義と史料編纂に従事。「群書類従」は日本の古書を編集・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家 となった伴信友 も「比古婆衣」を著した。

その後宣長門人の平田篤胤 に至って宣長の持つ「古道論」を新たな神道 である「復古神道 」に発展させた。彼の思想は江戸時代後期の尊皇攘夷 思想 にも影響し、日本固有の文化を求めるため、日本の優越性を主張する国粋主義 や皇国史観 にも影響を与えた。平田篤胤の弟子 である経世家 の佐藤信淵 の著作『垂統秘録 』や『混同秘策 』等にはその傾向がよく現れている。

だが、真淵の門人であった村田春海 らのように契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派もあり、その内情は複雑であった。実証主義的な国学は明治期 の小中村清矩 らの手によって近代 以降の国文学 の研究や国語学 、民俗学 の基礎 となった。
主な国学者 [編集 ]

* 国学の四大人(うし)
o 荷田春満 - 賀茂真淵 - 本居宣長 - 平田篤胤
* 契沖
o 今井似閑
o 安藤為章
o 海北若沖
* 本居春庭
* 本居大平
* 鈴木朖
* 権田直助
* 敷田年治
* 萩原広道
* 矢野玄道
* 平田鐵胤
* 常世長胤
* 塙保己一
* 富士谷成章
o 富士谷御杖
* 五十嵐篤好
* 拝郷蓮茵
* 千家俊信
* 谷川士清
* 東条義門
* 増田宗太郎
* 石塚龍麿

関連項目 [編集 ]

* 神仏分離
* 復古神道
* 古道
* 和方医学
* 蘭学
* 漢学
* 中国学
* 国語学者
* 国文学者
* 万葉学者

外部リンク [編集 ]

* 国学関連人物データベース[1] (國學院大學デジタルミュージアム)
* (百科事典)「The Kokugaku (Native Studies) School」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「国学」についての項目。(英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6


日本人こそは“失われたイスラエル10支族だ”
と主張するユダヤ人言語学者
ヨセフ・アイデルバーグ

http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb412.html


天皇家と失われたイスラエル十支族  秦氏・日本とユダヤ文化
クリックすると元のサイズで表示します
失われたイスラエル10支族


日本の天皇家は、現存する皇室としては世界最古の歴史を持ち、日本建国から同じ血統をひく一族で、まさに天皇家は日本の歴史そのものといっても過言ではありません。 

日本書紀によれば、神武天皇が帝国を創建したのが紀元前660年ですが、この時代は古代イスラエル王国がソロモン王の死(BC928年)後、北イスラエル王国(10支族)と南ユダ王国(2支族)に分裂し、北イスラエル王国はBC722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、10支族はイスラエルの地から連れさられ、以後行方不明(失われたイスラエル10支族)になります。 南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、2支族はバビロニアに連れさられますが(バビロン捕囚)、ペルシャ帝国がバビロニアを滅ぼし、ユダ王国の2支族は故郷に戻る事が許されました。


イスラエル12支族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/260.html

http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1041.html
Renaissancejapan

本居宣長 - Wikipedia
本居 宣長(もとおり のりなが、1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(
享和 ...
生涯 - 思想 - 人物 - 作品


2011年02月04日(Fri)▲ページの先頭へ
マニ教文献リンク
マニ教文献リンク

テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立

1)

マニ教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索
マニ教(-きょう、 摩尼教、英 : Manichaeism)は、サーサーン朝 ペルシャ のマニ (210年 - 275年 ごろ)を開祖とする宗教 。
ユダヤ教 ・ゾロアスター教 ・キリスト教 ・グノーシス主義 などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけてのユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教 だったが、現在では消滅したとされる。マニ教は、過去に興隆したが現在では滅亡した(信者が消滅した)宗教のうちで、代表的なものである。
関連項目 [編集 ]
• マニ
• アウグスティヌス - キリスト教徒となる前はマニ教徒であった。
• グノーシス主義
• カタリ派
• ミトラ教 - マニ教と同じく一定の勢力を持っていたが消滅した宗教
外部リンク [編集 ]
• 国際マニ教学会(英語)
• マニ教 −消えた世界宗教−
• マニ教概説・序説
• 泉州歴史網−摩尼教(明教) 中国語
• 中国におけるマニ教
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99 」より作成
カテゴリ : マニ教 | グノーシス主義 | イランの宗教 | 中国の宗教



2)
 [PAGE ] マニ教概説 Index Page
   [ART ] マニ教概説・序説
   [ART ] マニ教概説

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/plist.html



3)

正典『マニの基本書』  ――東方ミトラ教の正典 
正典『新約文書より』  使徒たちの教え ――『マニの基本書』の続編です。 

http://homepage2.nifty.com/Mithra/

ミトレーアム・ジャパン(ミトラ教天使七星教会)−ミトラの友のための

4)

〜人生って素晴らしい!〜
マニ教 についてもっと知りたいと願う貴方の為に。

http://liblib.info/keyword/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99/

5)
マニ教(摩尼教、Manichaeism) ブログ・コミュニティ
http://philosophy.blogmura.com/tb_entry105499.html


6)

奄美のアマミちゃんお気楽ブログ:ミトラ教とマニ教(転載)
http://amamikyo.amamin.jp/e18626.html


7)
10.キリスト教の光と影 - 2. 最大のライバル「マニ教」と「グノーシス主義」 | 小澤 克彦 岐阜大学・名誉教授
http://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari02.html


8)
トゥルファンのマニ教遺跡
馬健 (北京大学考古文博学院博士課程)
http://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/06/


9)

■ グノーシスの神話


神話10 マニ教の教説

http://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth010.html


10)
チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来

2 吐蕃のマニ教信仰
http://nierika.web.infoseek.co.jp/tibetpersia122.htm


11)
【シナの変容】 世界宗教マニ教の東進

http://marco-germany.at.webry.info/200805/article_2.html
• 【シナの変容】 マニ教から明教へ
• (05/02)
【シナの変容】 マニ教と白蓮教
• (04/22)
【シナの変容】 弥勒殿に鎮座まします布袋様
丸幸亭老人のシナにつける薬

12)

• マニ教の宇宙図が日本にあった 2011-01-24 19:40

マニ教「宇宙図」国内に 世界初確認 - 中日新聞3世紀に誕生し、善悪二元論を教義として世界的な宗教に発展しながらも滅びたマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が国内に存在することが、京都 大の吉田豊教授(文献言語学)らの調査で分かった。「10層の天と8層の大地からな・・・<br>
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation <br>
<br>
<br>
マニ教はPS理論的であり、ゾロアスター教は西洋的二項対立的である<br>
テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立 <br>
<br>
マニ教は、非常に誤解されてきた「宗教」だと思う。学問的にも、マニ教的善悪二元論と言われるが、それは、ゾロアスター教に相応しい考えである、マニ教本来ではないと考えられる。<br>
 マニ教は正に、陰陽的発想をしているのであり、実に、東洋的である。<br>
 後で、ゾロアスター教とマニ教との関係の考察を行ないたい。<br>
<br>
第二章 ■四■ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ B<br>
 <br>
 (三)シュタイナーが語ったマニ教の本質<br>
 <br>
 マニの教えは、光神に闇の神が反抗するという経緯を語っており、その意味では先にご紹介したミトラ神話に類似しています。<br>
 <br>
 しかし、シュタイナーはマニ教ではこの世の起源は光の国の霊が自らの国の一部を取って、闇の物質の国に混ぜたことに起因するとしています。そ して、この光の国の霊が闇の中に光を混ぜたことは、闇の国の悪霊にとっては、光の国を侵略しようとしたことによって生じた「マイナスのカルマを清算する目 的」を兼ねているというのです。<br>
 <br>
 それによって、闇の世界は、その中に絶えず自分を消耗し、自分を破壊する芽を担うことになり、それに伴って生と死が生じたのだとしています。そして、人類はその闇を克服するために、光の国から善悪が混ぜられた国に送られる存在となったわけです。<br>
 <br>
 このことからマニ教では、 「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」 という洞察がなされたのだとシュタイナーは捉えています。つまり、人間においても「善者は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪そのものを克服してしまうべきである」ということになります。<br>
 <br>
 例えば、シュタイナーは、こうした悪の寛容について次のようにも述べています。<br>
 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に目を向けてみましょう。この絵を前にすると、地球の意識を目のあたりにしているようです。この絵にはキリストが描かれています。『最後の晩餐』の意味を理解するために、マタイ福音書の次の言葉を思い出しましょう。<br>
<br>
 <br>
 『供犠の死を避けて通ろうと思えば、私に全ての天使の長を呼び寄せられないこ とがあろうか。』(第二十六章・五十六)このとき、キリストが受け取ることができたものは断念されたのです。キリスト・イエスは断念を通して、裏切り者ユ ダを自分の領域に入らせました。ユダの中に見ることのできるものをイエスの中に見るとき、私たちは宇宙進化の中で供犠を断念した、断念を本性とする存在の 似姿を見なければなりません。<br>
<br>
 <br>
 ―――神々が太陽紀に断念を通じて敵対者(アーリマン)を生起させたように、 キリストはユダを使徒に加えていなければ避けられた死を、諦念のうちに受け入れるのです。断念という行為が繰り返されるのです。キリストは十二使徒ととも にあり、十二使徒の一人ユダが裏切り者として立ち上がるのです。<br>
 <br>
 あたかも、宇宙の諸力への反逆者の出現のようにです。人類の進化にとって非常に価値のあるものを導入するために、キリストは自らの敵対者を作る必要があったのです。」 (薔薇十字会の神智学)<br>
 <br>
 このように、マニの教えは悪に屈するのではなく、キリストがユダの裏切りを断念し受入れたように、悪を寛容し受け入れることによって悪を克服することを意図していたのです。<br>
 <br>
 では、キリストが敵対者を作り、悪を受入れることによって導入することができる 「人類の進化にとって非常に価値のあるもの」 と は何でしょうか。それは、神の光という恩恵を受けながらも、悪によって個我に自由を与えられ、その自由の中で悪に対する寛大さ、つまり「愛」と「赦し」を 学ぶことであるはずです。同時に、悪を克服して「愛」と「赦し」を獲得できるまで人間が無制限に悪に落ち込まないようにするためにカルマの法則があるとい えます。<br>
 <br>
 シュタイナーは次のようにも述べています。<br>
 「自由がなければ、愛の行為が崇高な在り方を示すことはできません。無条件的に衝動に従 わねばならない存在は、まさにそれに従って生きています。勝手なことを行うことのできる存在にとって、従わねばなぬ衝動はただ愛だけなのです。自由と愛 は、互いに結び合うことのできる両極です。<br>
 <br>
 私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフィル(ルシファー)を通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフィルの克服者でもあるキリストを通してのみ、可能なのです。」 (霊的宇宙論・進化の目標)<br>
<br>
 そうして、人間は善悪、正邪、美醜、真偽といった多様性を保持しながらも、自らの意志によって善悪を理解するようになり、自分の意志で善を愛し、道徳を重んじるようになり、最終的には善悪を超越した存在としての「大愛」なる神に近づいてゆくのだと捉えることができます。<br>
 <br>
 それでは、悪とは何なのかと問うならば、シュタイナーは悪に対する認識を次のようにも語っています。<br>
 <br>
 「ある時には非常に優れた善であるところのものが、さらに自己を保持し続けるならば、それは硬化したものになり、進歩を妨害することで善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。<br>
 <br>
 たとえば、月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば、その諸力は、その後の発展にも介入し、そのことによって地球紀の発展の中で、悪を現すことにちがいないのです。<br>
 <br>
 そのように、悪は神的なるもの以外の何ものでもありません。なぜなら、場違いな時の悪は、かつての時代においては、完全なるもの、神的なるものの表現であったものだからです。」<br>
 <br>
 ここで「月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうならば……」というのは、月紀において運動霊ディナミスが、天上の戦いによって太陽と月の霊に分裂したことを示しています。<br>
(本ブログ:シュタイナーを読みために ・ シュタイナーの哲学体系【B】進化から逸脱したヒエラルキアを参照)。<br>
 <br>
 これによって、月紀には進化から取り残された霊が出現し、その霊が地球紀のレムリア時代から堕天使ルシファーという悪魔の働きをするようになったのです。同様にアーリマンも、太陽紀において堕天使となった存在なのです。<br>
 <br>
 一方、霊界物語十三巻の「モノログ」には、 「仁慈無限なる神様の方より、天 地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行 為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」 としています<br>
 <br>
  そう考えることができるなら、ディナミス(運動霊)以上のヒエラルキアにとっては、こうした悪的存在は人間の個我を成長させ、愛と赦しによって真の自由を獲得させるための存在であり、究極的には至善至愛の神意が秘められているともいえるのです。<br>
 <br>
 それは、第一章で取り上げた素盞鳴尊の多様性が善であることをも意味しているはずなのです。王仁三郎は、昭和十九年三月に、 「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす。」と語ったといいますが、この言葉もこうした洞察によるものから発せられたのかもしれません。<br>
 <br>
 実際、シュタイナーも神と悪の存在について、次のようにも語っているのです。<br>
 「神々が断念していなかったらなら、ルツィフィル(ルシファー)は神々に反逆することができなかったでしょう。――中略――<br>
 <br>
  悪の原因は悪魔の中にではなく、神の中にあるのです。神が断念を行うことによって初めて、悪を世界にもたらす霊が出現したのです。――中略――<br>
 <br>
 神々は悪を斥けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。神々 が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は世界に悪を出現させねばなりませんでした。そ して、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は断念によってのみ得られるです。」 (薔薇十字会の神智学)<br>
 <br>
 そして、シュタイナーは、黙示録の講義の中で、マニについて次のように語っています。<br>
 「いつか偉大な教育の課題を解決するために、このような教えによって魂の準備をされた者たちが、マニ教という精神の方向の弟子たちです。<br>
 <br>
 マニ教は普通は誤って理解されています。マニ教について聞いたり、読んだりすると、紋切り型の話しを聞くことになります。マニ教徒たちは世界の初めから善と悪という二つの原理があったと信じていた、というのです。そうではありません。<br>
 <br>
 マニ教は未来において、悪を善に変えるためのものであり、マニ教の弟子たち は、将来の受肉において、その課題をなしとげることができるのです。マニはくりかえし地上に受肉する高次の人物であり、悪を改心させるために存在する人々 の指導者なのです。人類の偉大な導師たちのことを語るとき、悪の改心という課題を担ったこの人物のことも考えねばなりません。<br>
 <br>
 現在では、霊的なことがわずかしか理解されていないので、マニの原則は背後に引っ込んでいますが、精神生活に対する理解が深まれば、この偉大なマニ教原則は多くの弟子たちを獲得していくでしょう。」 (黙示録の秘密)<br>
 <br>
 この講義では、後アトランティス時代から、次の第六根幹人類期に移行するまでの間、霊的に善人が道徳性に貫かれ、悪人が内面的悪を外的な容貌として露呈させる時代が到来するとも語られています。<br>
 <br>
 さらに、マニとその弟子たちに代表される者たちは、この時代に「悪を善に改心させるための準備」をしている存在であるとしているのです。こう したシュタイナーのマニに関する洞察は、霊界物語の中で善と悪が繰り広げる一連のストーリーを連想させます。実際、霊界物語では神の教えを人々に伝える宣 伝使の言葉は、悪を善に変えるために改心を即すのです。<br>
 http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html<br>
地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ <br>
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シュタイナーのマニ教解説が興味深い:光を悪に混ぜて、寛大さによって悪を克服する<br>
テーマ:ゾロアスター教とマニ教の「光と闇」の対立 <br>
主権者国民と利権複合体の死闘が続く <br>
私たちはいま、主権者国民と「米・官・業・政・電」利権複合体の死闘のさなかにある。    2009年8月の総選挙で大勝利を獲得し、日本の歴史上初めて民衆の力による民衆のための政権が樹立された。    しかし、既得権益を維持しようとする利権複合体=悪徳ペンタゴンの抵抗はすさまじく、民主党に入り込んだ悪徳ペンタゴン勢力は昨年6月2日に反動クーデ ターを挙行し、主権者国民政権を破壊し、対米隷属の悪徳ペンタゴン政権を再樹立してしまった。    ウィキリークスが暴露したキャンベル米国務次官補による昨年2月3日のワシントンへの報告は、米国が小沢−鳩山ラインを切り捨て、菅−岡田ラインに乗り 換えるというもので、日本の政変の黒幕が米国であることを裏付けた。    小沢一郎氏を攻撃するための政治謀略が挙行され、まさ... <br>
» 続きを読む <br>
植草一秀の『知られざる真実』 <br>
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第二章 ■四■ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ B <br>
このことからマニ教では、 「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」 という洞察がなされたのだとシュタイナーは捉えています。つまり、人間においても「善者は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪そのものを克服してしまうべきである」ということになります。 <br>
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http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html <br>
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地球の救い方・・・R.シュタイナーの人智学に学ぶ <br>
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	</div>
	<div class= Posted at 09:34 Comments/TrackBack(0) Permalink 日本民族とは:『日本書記』解読:二つの母権民族と二つの父権民族


2011年01月24日(Mon)▲ページの先頭へ
備忘録:母権的天皇文化と父権的「天皇制」の二つの日本
先にスロー人氏の記事に触れたが、今想起したのは、やはり、古代日本において、母権的社会と父権的社会の衝突があったというずいぶん以前に考えたことである。(追記:記紀は、その表現ということになる。)
 先に、母権的父権と言ったが、紛らわしいので、母権にする。結局、思うに、土着的母権とアジア的母権が古代日本で融合したことと、それに父権社会が侵入して、父権的「天皇制」を形成したことの、二点がキーポイントと考えられる。
 つまり、母権文化と父権文化の二重構造が日本社会にはあるということではないだろうか。もちろん、両者が混淆した点もあるが、基本的には、二元的であると思う。
 有り体に言えば、二種類の日本人がいるということである。そして、父権文化の人間が主に、権力をとってきたのが、日本史ではないだろうか。というか、明治近代以降、端的に、そうではないのかということである。これが狂信的「文化」であり、アジアにおける第二次世界大戦を起こしたし、また、今日、民主党に発現しているのではないだろうか。
 思うに、この父権文化という点で、日ユ同祖論は考えられよう。つまり、一神教的父権文化が日本に入り、父権的「天皇制」を形成したということになる。
 後で、丁寧に検討したい。

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尊王思想とは何か:父権的中央集権制が「天皇制」だと思う
テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明 尊王思想からの脱皮
ところで、乙巳の変(645年)は皇極天皇の皇子・中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌足(臨終の際に、天智天皇から藤原姓を賜る)と謀って、蘇我入鹿を暗殺して(6月14日)、蘇我一族を権力の座から追い落とし、19日に元号を大化に改め、そして翌年(646年)、大化の改新と呼ばれている中国にならって律令制を敷くという政治改革を行ったと言われる。


 この時をもって、この藤原一族がいわゆる後に天皇制と呼ばれる日本独特の政治システムを基礎づけたと言われる。
http://ameblo.jp/adco/entry-10776888002.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節

*****************************


●それで、この「謎の4世紀」論争に波紋を投げかけ続けているのは、東京大学名誉教授の江上波夫氏である。彼は前期の古墳文化と中・後期の古墳文化とが根本的に異質であるということを挙げ、1948年に以下のような仮説を主張したのである。一般に彼の仮説は「騎馬民族征服王朝説」と呼ばれている。

「中・後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的文化であり、その広がりが武力による日本征服を暗示している。またその文化の濃厚な分布地域は軍事的要衝に多い。4世紀ごろ、古代日本に大陸の騎馬民族が大挙に侵入して、邪馬台国をはじめとする倭の国々は征服された。この征服王朝こそ大和朝廷である。」


●彼の仮説が翌年の1949年の機関誌『民族学研究』に掲載されるや、日本中に一大センセーションが巻き起こり、当然のこと、学会から総攻撃を受けた。

ある人が「騎馬文化は来たが、騎馬民族は来なかったんではないか」というと、江上氏は「文化は人とともにやってくるものである」と反論した。

もっとも、天皇家のルーツを大陸に求めること自体、戦前では「不敬罪」に値し、まだこの時期は終戦直後のことであり、皇国史観が根強く残っている時期でもあったので、非難ゴーゴーだったのは、当然といえば当然か。

しかし、時間とともに彼の仮説を補強する材料が多々発見されており、現在も根強い人気を誇っている。


●普通、彼の仮説を初めて耳にする人は、古代の日本には、国々を征服するほどの馬はいなかったんではないかと思いがちであるが、群馬県子持村の「白北中道遺跡」などから無数の馬の足跡が発見され、予想を上回る馬がいたことが証明されている。その後も馬具の発見が相次ぎ、数年前に話題になった奈良県の「藤の木古墳」からも北方騎馬民族の文化と共通する馬具が発見されている。

最近では、朝鮮半島南部の「伽耶(かや)諸国」の遺跡から、次々と馬具が発見され、注目を浴びているが、何よりも関係者を驚かしているのは、これらと全く同じものが日本からも出土されているという点であろう。(和歌山県の「馬面冑」など)

この伽耶諸国の発掘は、江上氏の騎馬民族説の“ミッシングリンク”ともいえる場所だっただけに、一度は葬られかけた江上氏の騎馬民族説が、恐ろしく現実味を帯びて浮上してきたといえよう。

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb202.html



日本史における「謎の4世紀」とは?


「日ユ同祖論」の謎


2011年01月18日(Tue)▲ページの先頭へ
輪廻転生とPS理論:同一性的資本主義から霊(差異)的資本主義への転換
図が出ないので、以下を参照されたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10772537655.html

テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生

輪廻転生はPS理論から、科学的に説明・解明できる。実に簡単である。今、ガウス平面を作図できないので、以下の直交座標で想像していただきたい。

直交座標系による平面上の点の座標と四つの象限

 
ガウス平面では、当然、y軸が虚数軸となる。
 簡単にするために、古いPS理論の+i, -i, +1, -1を利用する。そして、原点がMedia Pointである。
 精神(魂、霊魂)とは、-1と+iと-iを、言い換えると、-1とMedia Pointをもっている。
 しかし、通常は、+1の物質的知覚によって、精神を認識できないのである。正に、(+i)*(-i)⇒+1である。
 そして、左辺の*は、-1の「霊界」を潜在していると考えられるのである。 
 そこで、これを経済に適用すると、資本主義は、物質と連続化する同一性価値を追求しているのであり、それは、精神を喪失しているのである。というか、体主霊従なのである。
 だから、大資本家は今のままでは、あるいは、国家資本家は、来世では、悲惨である。
 資本主義のもつ共同主義を否定する同一性主義は、悪魔主義なのである。つまり、資本主義は天使と悪魔の同居する経済であり、後者を乗り越える必要があるのである。
 端的に言えば、霊的資本主義へと転換する必要があるのである。


追記:霊界(-1、凹ないしは第三象限)は*というよりは、-i(最新のPS理論では、凹i)に潜在していると言うべきである。

追記2:以下のKaisetsu氏の人間認識図(上図)と生成門氏の「心的エネルギーの流れ」の図(下図)が明確的確であり、明快明晰である。


2010年12月15日(Wed)▲ページの先頭へ
母権的天孫降臨民族?:二つの母権主義:旧母権と新母権の統合
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能

以下のKaisetsu氏の倭人考察から考えると、天孫とは、母権的民族であり、それは、扶余/ケルト民族の可能性が高くなった。
 考えてみれば、天孫降臨は、天照大神が支配するのであり、それは、母権主義である。
 では、記紀等の日本神話の意味は何かということになる。私見では、この問題は、歴史学、神話学、文化人類学、文化史学等が、まったく答えていないものである。
 直観では、二つの母権主義があるのである。一つは、旧態の母権主義であり、停滞的である。もう一つは、父権主義に影響されて、覚醒した母権主義である。つまり、Media Point的母権主義である。
 扶余/ケルト民族的な母権主義は、後者であったと思う。即ち、古代日本において、扶余/ケルト民族が、停滞した母権主義を新生させたと推測される。
 つまり、二つの母権主義が古代日本を形成したのである。当然、ここには、父権的志向があるのであるが、基本は母権主義である。
 正に、Media Point的均衡が生まれたと思う。

追記:日本における、失われたイスラエル十支族の影とは、正に、新母権における父権的要素ではないだろうか。
 そうすると、扶余/ケルト民族とは、既に、原トランス・モダン民族・文化ということになる。

追記2:HEX氏のいうシュメール神話の太陽神アンであるが、それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナンに似る。
 どうも母権的であるが、勇武の精神をもっていた民族が古代に存していたのではないだろうか。思うに、アマゾネス(アマゾン族:アマ[⇒天]・ゾン[⇒孫]族⇒天孫族?)はその名残ではないだろうか。
 そう、母権的でありながら、父権民族の影響下において、勇武が賦活された民族ということである。いわば、母権的父権的民族である。

倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。 | 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile
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『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照:

古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
テーマ:ブログ

(シ)ュメールは人類最古の(高度)文明といわれる。(B.C.8000〜B.C2000頃)

シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである

アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった

大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である

エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、オリエント中に広まり、やがて世界中に伝播する

ミトラ神を主神とするミトラ多神教は、B.C.1550頃ミタンニ王国(メディア帝国)で成立し、やがてペルシア帝国の守り神、ミスラ(アスラ)となる。

ミトラとその兄弟インドラ、ヴァルナなどはアフラ(アスラ)と呼ばれる神族。

ミトラ≒アフラマズダはインドの悪神アスラ(アシュラ・阿修羅)になり、インドラが転化して帝釈天に、(インドラの性格を元にシヴァ神を創造)、ヴァルナ神は天空神にして司法神となる。

インドにおいて、仏陀〔釈迦)はヴァルナの生まれ変わりとされ、寺院には多数その意味の絵画・壁画がある

仏教は、ヒンズー教の内数とされ、いわば一宗派、ヒンズー系新興宗教の扱いである

その為、戦後の独立時、国の宗教をヒンズーと定めた時、仏教徒は、追われる事がなかった。


http://ameblo.jp/hex-6/entry-10734584745.html
HEXのブログ


2010年12月14日(Tue)▲ページの先頭へ
ミッシング・リンク発見!?:扶余とケルト民族:神獣の鹿とケルヌンノス
ミッシング・リンク発見!?:扶余とケルト民族:神獣の鹿とケルヌンノス

テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生

先に、HEX氏は扶余民族の神獣は鹿であると述べていた。そこで、ふと気づいたのは、ケルト神話の神獣として、ケルヌンノスが鹿であることを想起したのである。
 私は日本神話(とりわけ、折口信夫の古代宗教論)とケルト神話が酷似していることを唱えてきたが、その接点が見えない状態であったのである。
 しかし、扶余を置くことで、見事に、日本民族とケルト民族はつながる可能性が出てきたのである。
 そして、扶余文化とは、女神・母権文化であり、多神教であり、自然崇拝であるということになる。
 結局、縄文・弥生文化は扶余文化と結合したと考えられる。
 すると、問題は、やはり、天孫降臨民族である。それは、思うに、インド・ヨーロッパ語族的父権民族と失われたイスラエル十支族の混淆した民族ではないだろうか。ならば、それは、何か。

参照:
日本国の成立について:ツングース系民族、先住民族、イスラエル十支…


扶余は満州に居た民族で、度々分裂し朝鮮半島に南下した
扶余は高句麗、新羅、百済の祖であり、ふよ=プヨは、「鹿」を意味し、鹿を神獣とする民族であった

http://ameblo.jp/renshi/entry-10733334257.html



ケルヌンノス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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パリ の「船乗りの柱」のケルヌンノス。
ケルヌンノス(Cernunnos または Kernunnos)は、ケルト神話 の狩猟 の神 にして冥府神。獣王・動物王であったと推定されている。また、多産と豊作 に関係があったと考えられている。
概要 [編集 ]
ケルヌンノスという名称はパリ で出土した「船乗りの柱」に見られる(ただし不完全で、冒頭の1文字が欠けている)。彼の姿は、デンマーク で発見され、紀元前1世紀 まで遡るとされる銀製のグンデストルップの大釜 (Gundestrup Cauldron)にも描かれている。ここでは、彼は胡坐をかいており、頭 に二本の角 、手 には山羊 (もしくは雄羊 )頭 の蛇 (クロウ・クルワッハ )を持っている。これは角のある神 としての一般的な描写である。地母神 を妻 としたが、この女神 は後に破壊神 エスス についた。
起源 [編集 ]
碑文や絵画、像といった考古学的資料によると、ケルヌンノスはガリア 、北イタリア (Gallia Cisalpina)、ブリテンの南の沿岸地方で崇拝されていた。イタリア のヴァル・カモニカ (Val Camonica)で発見されたものが最古の描写と思われ、これは紀元前4世紀 のものである。もっとも有名なものはデンマーク で見つかったグンデストルップの大釜(Gundestrup Cauldron)で、これは紀元前1世紀 のものである。この神の名前はパリ の「船乗りの柱」から知られる。この奉献碑は現在パリ の国立中世博物館(Musée Nationale du Moyen Age)に展示されている。ガリア人 の水夫 達が1世紀 の初めに作ったもので、碑文 (CIL XIII number 03026)からみておそらく紀元14年 、ティベリウス 皇帝の即位の際のものであろう。これが発見されたのは1710年 のことで、ノートルダム寺院 の基礎 からであった。この場所はルテティア (パリの古代ローマ時代 の名前)、ケルトのパリシイ族 の「市民的な」(civitas)首都であった。そこにはケルヌンノス初め各種ケルトの神々がユピテル 、ウルカヌス 、カストル 、ポルックス といったローマ神話 の神々と並んで描かれている。
この神の名前を書いた出土品としては「船乗りの柱」が最も古いものだが、他にも二つの同様な碑文が見つかっている。一つは Treveri の勢力圏であった Seinsel-Rëlent (ルクセンブルク )で発見された金属の飾り板である。この碑文からは "Deo Ceruninco" (神ケルニンコスに)という文字が読み取れる(AE 1987 , 0772)。もう一つは Montagnac (Hérault, Languedoc-Roussilion, France)で発見された Gaul の碑文で、ギリシア語 で "αλλετ[ει]υος καρνονου αλ[ι]σο[ντ]εας" とカルノノスの名が記されている。
語源 [編集 ]
「船乗りの柱」の碑文は [_]ernunnos となっており、いつかの時点で名前の最初の文字が欠落している。しかし、この名前を "Cernunnos" と復元するのに問題点はない。というのは、名前の下に枝角を持った神の絵があるからで、ガリア語 の carnon, cernon は「枝角」、「角」を意味している(Delmarre, 1987 pp. 106 - 107)。同様に、古いアイルランド語 では cern は「角」、 "bumb, boss" を意味し、ウェールズ語 やブレトン語 の類似単語 carn とも語源的に関連している。これらは原インド・ヨーロッパ語 の *krno- からきたものである。ラテン語 の cornu 、ゲルマン語 の *hurnaz (英語 の "horn" の元)も同じ語源 である(Nussbaum 1986 ; Porkorny 1959 pp.574 - 576)。 Carnutes 、Carni、Carnonacae といった部族名、進軍ラッパの carnyx にも同一のガリア語の語源が見いだされる。そこでこの神名素の原ケルト語 形は *Kerno-on-os ないし *Karno-on-os と再構成できる。どちらも「角のある男性的な(霊)」という意味である。 -on- という部分は非常に多いわけではないがしばしば神名素に現れる。例えば、マポノス(Map-on-os )、エポナ (Ep-on-a)、マトロナエ(Matr-on-a )、シローナ(Sir-on-a )のように。
受け入れられているケルト語 の音韻規則 に従えば、この原ケルト神名素の Romano-British 形は *Cernonos か *Carnonos であったと思われる。いずれもガリア語の Cernunnos と極めて似ている。
図像 [編集 ]


ランス のガリア人 の祭壇 。左からアポロン 、ケルヌンノス、メルクリウス 。
ケルヌンノスの描かれ方はケルト圏を通じ極めて一貫している。もっともわかりやすい特徴は牡鹿 の角であり、通常長髪で髭をたくわえた成人男性の姿で、ケルトで高貴のしるしである豪華な装飾を施された首輪、トルク を身に付けている。硬貨で一杯の財布を持つのと同様に、しばしば他のトルクを腕や角にぶら下げているものもある。通常、足を組んで座る姿で描かれ、その姿勢は瞑想 しているともシャーマン の呪術 を行なう姿ともいわれているが、実際はケルト人が狩猟のときにしゃがむという事実を反映しているに過ぎないのかもしれない。
ケルヌンノスはほとんど常に動物、特に牡鹿と共に描かれる。しばしばこの神特有の動物であり第一の眷属と考えられる牡羊の角をもった蛇と共に描かれるが、蛇自体も神であったかもしれない。また、これらほど頻繁ではないものの牡牛 1、犬 やドブネズミ な どの獣が傍らに描かれることもある。動物と共に描かれることが多いことから、研究者はケルヌンノスを「百獣の神」ないし「野生の神」と呼ぶことがある。特 に牡鹿と共に描かれ、これが主要な獲物であったことから「狩猟の神」と呼ばれることもある。興味深いことに「船乗りの柱」はケルヌンノスを水夫や貿易と結 びつけるが、古代にはドゥロコルトルムというレミ族 の城市 だったフランス 、シャンパーニュ地方 のマルヌ県 から出土したケルヌンノスの硬貨入れや、トレウェリ族 の居住地内にあったルクセンブルク の Niedercorn-Turbelslach から出土した硬貨を吐き出す鹿などから彼と物質的な豊かさとの関連が伺える。また、この神は森に住む鹿の繁殖力の象徴であったかもしれない。
1. ランス で見られる例。
中世の痕跡 [編集 ]
この神の痕跡はキリスト教時代にまでたどることができる。ウェールズ とアイルランド 双方の文学的伝統の中で、この神を仄めかす記述を見つけることができる。ブリタニーでは伝説の聖者、カルナック (Carnac)のコーネリ (Korneli または Cornély)にケルヌンノスの属性がある。イギリス の民間伝承 にみられる狩人ハーン(Herne the Hunter )もケルヌンノスの暗示 であると示唆する説もあるが、ハーンはウィリアム・シェイクスピア の劇『ウインザーの陽気な女房達 』第4幕第4場で初めて言及されるサクソン人 の生き残りであることから、この説は疑わしい。
復興異教主義 [編集 ]
ウィッカ に代表される現代の復興異教主義 運動(Neo-Paganism)では、角のある神に対する崇拝 が復活した。信奉者はケルヌンノス一般的に生命と豊穣と死のサイクルを追っている。この神の死は現在、通常 Samhain 、すなわち10月31日 に行われるケルトの新年の祭の日に設定されている。
歴史的なケルヌンノスと復興異教主義のそれとの大きな違いは、後者が男根 的象徴の傾向を持っていることである(ただし、この特徴はヴァル・カモニカ の図像に見られる)。パン との混淆や、 サバト の悪魔レオナール 等の描写から来ているのだろう。
参考文献 [編集 ]
• Corpus Inscriptionum Latinarum (CIL) volume 13, number 03026
• Delmarre, Xavier (2003) Dictionnarie de la langue gauloise (2nd ed.) Paris: Editions Errance. ISBN 2-87772-237-6
• Lejeune, Michel (1995) Receuil des Inscriptions Gauloise (RIG) volume 1, Textes gallo-grecs. Paris: Editions du CNRS
• Nussbaum, Alan J. (1986) Head and Horn in Indo-European, Berlin, New York: Walter de Gruyter. ISBN 3110104490
• Porkorny, Julius (1959) Indogermanisches etymologisches Wörterbuch Berlin: Franke Verlag
関連項目 [編集 ]
• Horned God
• ヴェレス , ペルーン
外部リンク [編集 ]

ウィキメディア・コモンズ には、ケルヌンノス に関連するマルチメディアがあります。
• Gundestrup Cauldron(英語サイト)
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B9 」より作成
カテゴリ : ケルト神話の神 | 狩猟神 | 死神


母権的天孫降臨民族?:二つの母権主義:旧母権と新母権の統合
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下のKaisetsu氏の倭人考察から考えると、天孫とは、母権的民族であり、それは、扶余/ケルト民族の可能性が高くなった。
 考えてみれば、天孫降臨は、天照大神が支配するのであり、それは、母権主義である。
 では、記紀等の日本神話の意味は何かということになる。私見では、この問題は、歴史学、神話学、文化人類学、文化史学等が、まったく答えていないものである。
 直観では、二つの母権主義があるのである。一つは、旧態の母権主義であり、停滞的である。もう一つは、父権主義に影響されて、覚醒した母権主義である。つまり、Media Point的母権主義である。
 扶余/ケルト民族的な母権主義は、後者であったと思う。即ち、古代日本において、扶余/ケルト民族が、停滞した母権主義を新生させたと推測される。
 つまり、二つの母権主義が古代日本を形成したのである。当然、ここには、父権的志向があるのであるが、基本は母権主義である。
 正に、Media Point的均衡が生まれたと思う。

追記:日本における、失われたイスラエル十支族の影とは、正に、新母権における父権的要素ではないだろうか。
 そうすると、扶余/ケルト民族とは、既に、原トランス・モダン民族・文化ということになる。

追記2:HEX氏のいうシュメール神話の太陽神アンであるが、それは、ケルト神話のトゥアッハ・デ・ダナンに似る。
 どうも母権的であるが、勇武の精神をもったいた民族が古代に存していたのではないだろうか。思うに、アマゾネスはその名残ではないだろうか。
 そう、母権的でありながら、父権民族の影響下において、勇武が賦活された民族ということである。いわば、母権的父権的民族である。
倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。 | 『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile
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『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参照:

古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
古社と社紋、ミトラ・バール信仰の考察
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(シ)ュメールは人類最古の(高度)文明といわれる。(B.C.8000〜B.C2000頃)

シュメール神話の太陽神アンは、16弁菊花紋を象徴とし、天皇家と同じである
アンの子、エン・リルは、牛の角を持つ世界を統べる神であり、太陽神にして大気神であった
大気神とは風の神であり、力の象徴にして、軍神である
エンリルが元となってミトラ多神教のミトラ神(牛の角を持つ)が生まれ、オリエント中に広まり、やがて世界中に伝播する

ミトラ神を主神とするミトラ多神教は、B.C.1550頃ミタンニ王国(メディア帝国)で成立し、やがてペルシア帝国の守り神、ミスラ(アスラ)となる。

ミトラとその兄弟インドラ、ヴァルナなどはアフラ(アスラ)と呼ばれる神族。
ミトラ≒アフラマズダはインドの悪神アスラ(アシュラ・阿修羅)になり、インドラが転化して帝釈天に、(インドラの性格を元にシヴァ神を創造)、ヴァルナ神は天空神にして司法神となる。

インドにおいて、仏陀〔釈迦)はヴァルナの生まれ変わりとされ、寺院には多数その意味の絵画・壁画がある
仏教は、ヒンズー教の内数とされ、いわば一宗派、ヒンズー系新興宗教の扱いである
その為、戦後の独立時、国の宗教をヒンズーと定めた時、仏教徒は、追われる事がなかった。

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10734584745.html
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ケルヌンノスと仏陀
テーマ:神話・神秘・民俗・霊性:ケルト、輪廻転生



Cernunnos
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The "Cernunnos" type antlered figure on the Gundestrup Cauldron .
Cernunnos is the conventional name given in Celtic studies to depictions of the horned god of Celtic polytheism . The name itself is only attested once, on the 1st-century Pillar of the Boatmen , but depictions of a horned or antlered figure, often seated in a "Buddha position " and often associated with animals and holding or wearing torcs , are known from other instances.
Nothing is known about the god from literary sources, and details about his name, his cult or his significance in Celtic religion are unknown. Speculative interpretations identify him as a god of nature or fertility.[1]

Name


Cernunnos on the Pillar of the Boatmen
The theonym [C]ernunnos appears on the Pillar of the Boatmen , a Gallo-Roman monument dating to the early 1st century CE, to label a god depicted with stag's antlers in their early stage of annual growth.[2] Both antlers have torcs hanging from them.[3]
The name has been compared to a divine epithet Carnonos in a Celtic inscription written in Greek characters at Montagnac , Hérault (as καρνονου, karnonou, in the dative case ).[4] A Gallo-Latin adjective carnuātus, "horned," is also found.[5]
The Proto-Celtic form of the theonym is reconstructed as either *Cerno-on-os[dubious – discuss ] or *Carno-on-os. The augmentative -on- is characteristic of theonyms, as in Maponos , Epona , Matronae , and Sirona .[6] Cern un nos, Cern=horn, "un nos", Welsh "one night". Cernunnos=Horn one night. He was celebrated on one night, December 21. Maier (2010) states that the etymology of Cernunnos is unknown, as the Celtic word for "horn" has an a (as in Carnonos).[3]
Gaulish karnon "horn" is cognate with Latin cornu and Germanic *hurnaz, English horn , ultimately from Proto-Indo-European *k̑r̥no- .[7] The etymon karn- "horn" appears in both Gaulish and Galatian branches of Continental Celtic . Hesychius of Alexandria glosses the Galatian word karnon (κάρνον) as "Gallic trumpet", that is, the Celtic military horn listed as the carnyx (κάρνυξ) by Eustathius of Thessalonica , who notes the instrument's animal-shaped bell.[8] The root also appears in the names of Celtic polities , most prominent among them the Carnutes , meaning something like "the Horned Ones,"[9] and in several personal names found in inscriptions.[10]
[edit ] Epigraphic evidence
The name Cernunnos occurs only on the "Pillar of the Boatmen " (Pilier des nautes),[11] now displayed in the Musée National du Moyen Age in Paris . Constructed by Gaulish sailors probably in 14 CE,[12] it was discovered in 1710 within the foundations of the cathedral of Notre-Dame de Paris , site of ancient Lutetia , the civitas capital of the Celtic Parisii . The distinctive stone pillar is an important monument of Gallo-Roman religion . Its low reliefs depict and label by name several Roman deities such as Jupiter , Vulcan , and Castor and Pollux , along with Gallic deities such as Esus , Smertrios , and Tarvos Trigaranus . The name Cernunnos can be read clearly on 18th century drawings of the inscriptions, but the initial letter has been obscured since, so that today only a reading [_]ernunnos can be verified[13]
Additional evidence is given by two identical inscriptions on metal plaques from Steinsel-Rëlent in Luxembourg , in the territory of the Celtic Treveri . These inscriptions[14] read Deo Ceruninco, "to the God Cerunincos", assumed to be the same deity.[citation needed ] The Gaulish inscription from Montagnac[15] reads αλλετ[ει]υος καρνονου αλ[ι]σο[ντ]εας (alleteiuos karnonou alisonteas), with the last word possibly a place name based on alisia, "service-tree " or "rock" (compare Alesia , Gaulish Alisiia).[16]

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Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Cernunnos "
Categories : Ancient Gaulish and British gods | Hunting gods | Nature gods | Animal gods | Horned deities


参照:
それではと、最初の説法を鹿野苑(ろくやおん)(現在のサルナート)で行うことにな
りました。それというのも、仏陀と苦行していた仲間なら仏陀の教えを理解するであ
ろうと考え仲間が住まいとするサルナートを訪れたのです。ただ、仏陀が苦行を止め、
しかもスジャーターから乳粥を布施されたのを見て苦行に励んでいた仲間の五人は、
苦行からの脱落だと非難して太子と袂を分けたのでありますから、もし、堕落した仏
陀が訪ねてきても適当にあしらおうと相談して決めておりました。がしかし、仏陀が
現れるとその威厳ある姿に見とれてしまい崇敬の念をもって仏陀の説法を聴聞するこ
ととなったのです。
 鹿野苑とは名の通り鹿の群れからの命名でしょうが奈良公園に比べると頭数が少な
く見つけるのが大変という状況でした。

   東大寺南大門前の鹿
      鹿野苑の鹿
鹿は野生ですから鹿野苑では人間に危害を
加えないよう金網で人間と鹿が接触しな
いようになっております。ところが、奈良の鹿は
よく馴らされていて人間と鹿が共存
するという世界的にも珍しいケースです。

      仏陀の説法を聴聞するため鹿野苑に集まった鹿たち。


        初 転 法 輪 
     初 転 法 輪
説法のことを転法輪と言い転法輪とは字の通り
法輪(ダルマ・チャクラ)をまわすこ
とが説法するということです。その最初の説法を
初転法輪といいます。サルナートは
最初に説法を行ったので初転法輪の地として
知られており釈迦の四大聖地の一つに挙
げられています。一般的に初転法輪を表すには
台座に法輪と2頭の鹿が描かれていま
す。
 右図は降魔印のようですが2匹の鹿が蹲って
おりますのでサルナートでの初転法輪
を表現したものです。今まさに、法輪を転がして
初転法輪を行おうとするところであ
りましょう。
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/y%20bunkatu-2.htm

仏陀の生涯ー2


鹿野苑の原名サールナートは、『サーランガ・ナータ(鹿の王)』の転訛だと言います。 その伝承を7世紀の玄奘は、『大唐西域記』に記しています。
鹿野苑に棲んでいた鹿の群れは、狩りを好む国王のために、いつも多くの犠牲を出していました。 それを悲しんだ鹿の王は毎日一頭ずつ順番を決めて差し出すことで、無用の殺生をとどめたいと、国王と誓約をかわします。
ある時、白羽の矢を受けた鹿が仔を身ごもっていて、自分の身は惜しまないが、腹の仔は不憫だと悲しむ。 そのことを聴いた鹿の王は、その母親の身替りになりました。 それを知った国王は、心に深く恥じて、以後、鹿をとることを止めることとなります。 それが鹿の楽園となった鹿野苑の由来でありました。
http://www.geocities.jp/princegifu/kaisetu8.htm

サールナート(鹿野苑・ろくやおん)




2010年11月23日(Tue)▲ページの先頭へ
第二稿:日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合化:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化
以下は、先の考察を校正し、又、追記を付加したものである。Kaisetsu氏の女媧論が実に意義深い。
 やはり、母権・大女神の女媧が始原であり、その後、伏義が生起して、陰陽化したと考えられる。

 初めに女神ありき!

日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合主義になった:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化
テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明
日本伝統文化は個主義であり、且つ、共同主義である。
 どこかで、これが失われたのである。
 私の直観では、国学の排外主義が胡散臭いのである。何度も既述したが、本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分けるのが、そもそも、「漢心」である。国学に私は近代主義の基盤を見るのである。
 それに対して、坂本龍馬らの開国主義はまったく異質なものであり、本来の東洋主義に根差す開国主義である。明治維新以後の脱亜入欧とはまったく異質な、正反対の視点である。
 これまでの視点から言えば、脱亜入欧路線は父権主義であり、坂本龍馬らの路線は母権主義である。
 母権主義が近代日本において、その基礎となりつつも、敗れたものである。
 そう見ると、やはり、日本国は、古代ギリシアのように、母権文化が原基にあり、その上に強力な父権文化が侵入した歴史をもっているように思われる。
 即ち、父権的民族が母権的原日本に侵入して、日本国が生まれたと思う。
 思うに、天皇制はその所産である。しかし、ギリシア神話におけるゼウスが両義的であり、母権的な要素を強くもっていることを考えると、天皇とは単に父権的なものだけでなく、母権的なものと考えられる。つまり、天皇はイエス・キリストに類似しているのである。
 つまり、一方では父権的であり、他方では母権的であるということである。
 しかし、近代において、天皇制は父権的な制度・機関になったが、母権的視点から言えば、天皇とは女神なのである。つまり、天照大神である。大女神としての天皇である。
 天皇制を批判する人間は多いが、天皇を大女神と見れば、日本の再生に大いに寄与すると思える。
 そう、神話学的に言えば、女神(大女神)の子としての天皇である。

途中。

追記:武士であるが、私はこれも母権文化が母体であると推測している。

追記2:先に言及したが、その後、いくぶん翻した視点であるが、母体の母権制の社会に、父権的民族が侵入したとき、母権でもない、父権でもない、即非的文化が生まれると述べた点であるが、しかし、この視点は本稿の論点から見ると、不十分である。
 つまり、原基として、母権文化があることを認める必要があるのである。これが大前提である。
 そして、この基礎の母権文化が父権文化と衝突することで、新たに変容したのではないかと考えられるのである。これを父権的変容と呼んでいいのかわからない。
 父権文化は一言で言えば、知性の文化である。言語、文物、物質的経済の文化である。また、政治権力の文化である。
 ここでも、古代ギリシアに範をとると、口承文化が文字文化になったと考えられる。例えば、ホメーロスは吟唱詩人であったが、その口承詩が叙事詩となったのである。
 思うに、母権的口承の秘教(密教)文化があったのであるが、支配的な父権文化のために、それが、文字化、文字言語化されるようになったと思われる。例えば、エレウシスの秘儀が、プラトン哲学に鮮やかに反照されていると考えられるのである。
 これは、文字言語的一般化・普遍化と言えよう。それは、同一性化・ロゴス化でもあるが、ベースは差異である。とまれ、父権化を暫定的に、文字情報化(ロゴス化)と呼んでおこう。
 すると、日本においても、母権文化の文字情報化(ロゴス化)が為されたと考えられる。それが、端的に、記紀である。そして、本題においては、天皇制である。
 結局、天皇制とは母権文化の、広義の文字情報化(ロゴス化)であると考えられる。
 とまれ、父権化によって、母権文化は知性化されたと考えられるのである。
 ここで、思考実験的に、私論・見解を変えることになるが(これまで、私は母権文化は凸i*凹iの均衡の取れた文化を捉えていたのである)、母権文化を凸i*凹iにおいて、凹iが優位の文化と考えると、それは、本来、凹i⇒-1、即ち、人間認識図の第三象限の文化(神秘的文化:秘儀・密儀文化:シャーマニズムはこれに入るだろう)をもっていたと考えられる。
 この様態に、父権文化の優位の凸iが入ると、実に、凹iと凸iの均衡が形成されることになるだろう。つまり、凹i優位の母権文化に凸i優位の父権文化が参入することによって、凸i*凹iの差異共立・共振の文化が生まれたのではないだろうか。それは、端的に陰陽文化である。(追記:だから、自己認識方程式は凹i*凸i⇒+1と変換されるべきである。)
 もっとも、以後、父権文化が支配・主導的になっていくので、この均衡が破壊されて、父権的同一性・物質・権力文化が形成されていったということではないだろうか。
 とまれ、結局、母権文化への父権文化の侵入・参入は、差異共立・共振文化、陰陽文化が生んだのではないだろうか。
 そして、その母体は母権制である。この点はいくら強調してもし過ぎることはないだろう。

追記3:以下、Kaisetsu氏の「女娲」論はきわめて興味・意義深い。以下の「女娲」像は正に、エジプト神話のイシス他のオリエントの女神を想起させる。
 女神のシンボルは♀(ヴィーナス、金星でもある)であるが、これは、エジプト神話のアンクに似ているのである。○が太陽であり、+が地球である。そして、この太陽が女神の子(天皇)なのである。また、ケルト十字は、+と○を重ねたものである。


参照:

* 三輪山も「御娲山 Mi Wa San」である。
* 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。


倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。



050223006a_3 050223006a_3 posted by (C)天花一海
深圳雕塑:女娲补天。



倭wa人の本来の漢字は「娲wa人」であり、天孫である意味である。

 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。

 女娲こそ、最も古いトーテムであり、「女娲が天を紡いだ。」「女娲が土で人間を創造した。」

 中国の中原を最初に支配した文明は、「娲人」である。

ここで、「女偏」が重要な意義を持っている。

 女性が「天地創造」の「母体」である。

 女偏を「姓」に持つ氏族が、天孫の末裔である。

 また、倭が蛇をトーテムとし、漢委奴国王印が蛇を印の装飾に用いていることも、本来、wa が「女娲」である証拠である。

 海舌



女娲(拼音:nǚ wā),中华上古之神,人首蛇身,为伏羲之妹,风姓。起初以泥土造人,创造人类社会并建立婚姻制度;而后世间天塌地陷,于是熔彩石以补天,斩龟足以撑天。


女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。


女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812179

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参考:
ミャオ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ミャオ族 / モン族
Hmong women at Coc Ly market, Sapa, Vietnam.jpg
伝統的衣装を着た花モン族。ベトナム 、サパ の市場にて。
総人口

400 - 500 万
居住地域
中華人民共和国の旗 中国 300 万
ベトナムの旗 ベトナム 790,000(1999年)
ラオスの旗 ラオス 450,000(2005年)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 170,000(2000年)
タイ王国の旗 タイ 150,000(2002年)
フランスの旗 フランス 15,000
フランス領ギアナの旗 フランス領ギアナ 1,500
言語
ミャオ語
宗教
シャーマニズム 、仏教 、キリスト教 他

ミャオ族(ミャオぞく、苗族(びょうぞく))は中国 などに住む少数民族 である。モン族(ベトナム語 : H'Mông)ともいう。中国では貴州省 に最も多く、他に湖南省 、雲南省 、四川省 、広西チワン族自治区 、湖北省 、海南省 にも住み、タイ 、ミャンマー 、ラオス 、ベトナム などにも住む。歴史上移住を繰り返した民族である。


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歴史 [編集 ]
伝説 [編集 ]

中国の伝説では紀元前26世紀 頃、漢民族 の原型である華夏民族の君主・黄帝 が蚩尤 の民族の討伐作戦を行い、涿鹿(たくろく、河北省 と遼寧省 の省境付近)で破ったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏は地理の悪条件にもかかわらずコンパスを用い正確に蚩尤民族を破った。敗れた蚩尤民族はミャオ族とリー族 に分裂した。ミャオ族はこの後、南東方向に移動した。ミャオ族は漢民族 からは「蛮」と見なされ差別されたが、一部は周 王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚 や呉 の建国に関わった可能性がある。中国の学会では楚は異民族の国とされているが、現代ミャオ族と、先史時代の伝説中の三苗や、楚や呉を構成した民族との関連は今のところ定説はない。現代のミャオ族と繋がるのは、漢代の長沙・武陵蛮以降と見られている。
揚子江定住 [編集 ]

漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのは先秦 時代である。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江 流域に住んでいたが、漢人に攻撃され南下した。六朝 時代、揚子江南部を支配する南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、ミャオ族を歓迎しなかったが、五胡 による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝に流入し一部は漢人と同化した。
西南中国へ移住 [編集 ]

唐 王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族が雲南に南詔 を建国したとする説もある。いずれにせよ、ミャオ族も他の少数民族同様に南詔で暮らしていたものだろう。[1]

ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀 の元 王朝によって中国の版図に入った。

一方、中国南方各地で武装蜂起が起こっていた元 末の1357年 、楊完者 (ヤン・オルジョイ)率いるミャオ族の軍団が元朝の公認を受けて、徽州 にいる朱元璋 の軍を攻撃するも撃退された。その後も各地で暴れまわり、楊完者は付近の張士誠 に滅ぼされた。残ったミャオ族は朱元璋に降り、家臣ケ愈 の軍などに入れられたが、その後も反逆が相次いだ。

明 代、貴州・雲南一帯に移住漢族が増えると土着ミャオ族との摩擦がおこり、大小100回を越すミャオ族反乱が起こった。なかでも、1448年 に発生した反乱は大規模で、明は20万の大軍を動員して1451年 にようやく鎮圧したともいう。この他、1457年 - 1459年 、1538年 - 1551年 にも大きな反乱が発生した。明の少数民族政策は少数民族首長の世襲支配権を認める土司 政策というものだったが、清 代にはミャオ族地区への漢族移住がさらに増え、中央が地方官を任命する直接支配すなわち改土帰流 政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)が進められた。同化政策に抵抗する苗族は三次(1735年 - 1738年 、1795年 - 1806年 、1854年 - 1873年 )にわたる反乱を起こした。特に張秀眉 が指導した最後の反乱は大規模で、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。
中国国内のミャオ族 [編集 ]

中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション(Qo xiong)、貴州省東南部のムー(Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン(Hmong)である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ(Ghab nao)である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた。[2] 民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族からなる総計56の多民族国家であるとされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。苗族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれ、分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けるか交錯雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

中国国内の苗族について考える場合、中国の古代〜近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。苗族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在の苗族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っている。恐らく、宋代以降に漢族の南下に伴い、揚子江流域から山岳内陸部に移住してきたと考えられるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。最近では漢族の先祖とされる黄帝と争い敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤や一緒に闘った九黎の子孫が「三苗」であるとして、ミャオ族の先祖を蚩尤に遡る説も登場したが、これは1990年代半ばに入って中華民族の多元一体を強調する中央の学説に対抗して現れたミャオ族側の知識人による新たな言説である。文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。


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宗教 [編集 ]

ミャオ族の多くは独自の精霊信仰 を維持し、祖霊や祖先を信仰しているが、漢族文化に影響を受けた人々もおり、一部の人々はキリスト教 、仏教 に改宗している。地域により精霊信仰の信仰概念、用語が異なる。
タイのミャオ族の精霊信仰 [編集 ]

以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている。[15] さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。

世界観は陰界(yeeb ceeb)と陽界(yaj ceeb)によって構成されており、さらに天界(ntuj)をつけ加える場合もある。 陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。

精霊は基本的にダー(Dab)と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。

* 陰界の精霊

陰界にはツォー・ニュン(Ntxwj Nyug)と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム(Nyuj Vaj Tuam Teem)がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊(Siv Yis)もここに住むといわれる。

* 陽界の精霊

基本的には善意のある守護霊(Dab quas)と森などに住む悪意のある精霊(Dab qus)に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊(Dab xwm kab)の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊(Dab tshuaj)を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊(Dab roog)が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊(Dab txhiaj meej)がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊(Dab qus)がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン(Pog Ntxoog)呼ばれる老女の精霊は恐れられている。
また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン(plig)と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワン に近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン(Hu plig)と呼ばれる招魂が行われる。

* 天界の精霊

天界には、人間を助けるヨーム・スア(Yawm Saub)という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。
また雨をつかさどる龍(Zaj Laug)や虹(Zaj sawv)もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊(Nkauj Hnub)、月の精霊(Nrang Hli)、雷神(Xob)などが知られている。

神話 [編集 ]

* 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
* 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。

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外部リンク [編集 ]

* レコードチャイナ:ミャオ族(苗族) (日本語)
* チャイニーズ・オデッセイ (英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F



2010年10月14日(Thu)▲ページの先頭へ
「神」とは何か:トランス・モダン神道へ向けて
テーマ:神道ルネサンス:トランス・モダン東洋文明

今は余裕がないので、詳述できないので、一言言うと、私は今夏、実家の地元の田園地帯にある川沿いの神社に、サイクリングの途中、ふと赴き、ここには、「神」が存すると直感した。
 このように感じたのは初めてである。それまで、田んぼが広がる中を流れ、間近の海に注ぐ川の土手道をサイクリングするのは、おそらく、百回(二百回近いと思う)を越えて、毎回本神社の鎮守の森を見ていたし、何度も訪れた。確かに、清々しい場とは感じたが、「神」が存するとは思わなかった。しかし、今夏はここに「神」が、いわば、鎮座していると直感した。
 霊的気と言ってもいいだろう。それは確かに感じられたのである。おそらく、昔の人は霊的気(霊的気配)を感じて、神社を建立したのではないだろうか。あるいは、別の事情であったかもしれない。
 とまれ、木立に包まれた(鎮守の森)、清められた神社にたたずみ、確かに、「神」が存すると感じた。
 昔の人は、いわば、霊的息吹、霊的気配を感じて、尊崇したのだろう。それが、私見では、古神道である。
 それは、抽象、観念的なものではなく、直感的な実在である。そして、これが、日本的「宗教」であると思う。
 一神教の抽象的超越性ではなく、直感的超越性(追記:というか、直感的臨在性)があると言えよう。
 思うに、国家神道はこの民衆レベルの神道をナショナリズム化したのである。そして、狂信的戦争へ突き進み、敗戦。そして、神道が否定された。
 しかし、日本民族の精神の基は神道である。故に、戦後否定されても、危機的状況には、復活すると思われるのである。
 あえて言えば、神、神々が復帰しているのである。それに応える必要がある。神道日本の復活である。

神道
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神道
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表 ・話 ・編 ・歴

神道(しんとう、かんながらのみち)とは日本 の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教 の宗教 である。
概要 [編集 ]

政治共同体としての「日本」が意識される遥か以前(かかる意識が国民レベルで醸成されるのは遥か後年の明治維新以降である。また少なくとも北海道や東北地方は天皇を戴く大和政権とは別の政治共同体を形成『つまり別の国』との実態及び意識が遥か後年まで維持されることとなる。)から現在日本領とされる各地においてなされてきたシャーマニズム的呪術が明治維新前までは仏教によって民衆に仏法を分かりやすい形で伝える形式としてかろうじて残された習俗形式であり、明治維新後は国民統合のイデオロギーとして用いるために「宗教」としての外形等が整備されることによって近代化させられた、現在まで残存する宗教 である。近代以前の神道は日本列島 に住む民族 の間の伝統的な民俗信仰 ・自然信仰 を基盤としたものであった。が豪族層による中央や地方の政治体制特に仏教と関連しながら徐々に変容を遂げることとなった。[1] [2] 。

神道には明確な教義や教典がなく[3] [4] 、『古事記 』、『日本書紀 』、『古語拾遺 』、『宣命 』といった「神典 」と称される古典を規範とする。森羅万象 に神 が宿ると考え、天津神・国津神 や祖霊 をまつり、祭祀 を重視する。浄明正直 (浄く明るく正しく直く)を徳目とする[3] 。他宗教と比べて現世 主義的であり、まつられるもの(神)とまつるもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴がみられる。

一説には、神道とは惟神の道(かんながらのみち)であり、「ただあるがままを生きる。この世には人智を超えた神々の計らいがあり、その中をただ自然に生きることこそ大切」とも言われるが、その根幹にあるものは森羅万象や祖霊、死者への畏敬の念である。古来、日本人は「人道 」に対する「神道」という、人道よりももっと高度な、善悪を超えた、宇宙や地球の法則のようなもの、人類も含めた「物・事の在り方」「道(みち)」をその精神の中心に置き、大事に伝承し、国民全体に普及させる努力を重ねて来ていた。それは、新嘗祭などの日本古来の伝統的な「祭事」にも表れている。

神道と仏教 の違いについては、神道は神話 に登場する神々のように、地縁 ・血縁 などで結ばれた共同体 (部族 や村 など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに個人の安心立命や魂 の救済 、国家鎮護 を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[1] 。

神道は日本国内で約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、これは神社側の自己申告に基づく数字である。約85000の神社が登録されている。
分類 [編集 ]

神道は、

皇室神道
皇居内の宮中三殿 を中心とする皇室 の神道である[5] 。
神社神道
神社 を中心とし、氏子 ・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[6] 。
教派神道 (神道十三派)
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく宗教。他の神道とは少し性質が異なる。
古神道
「民間神道・民俗神道」や原始神道・縄文神道・古道 (中華文明の原始儒教も同意であるがここでは除く)とも呼ばれ、日本で古くから民間でおこなわれてきたものや、修験などの古神道と習合した密教 や仏教 、あるいは道教 の思想を取り入れた古神道などの信仰行事をいう。また、明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものとしての復古神道 に分類できる。

に分類することができる。

今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指す。

また、何に重きを置くかによって、

* 社人神道 - 儀礼を中心とする
* 学派神道 - 教学を中心とする[5]

に分けられる。

なお、「国家神道 」は、特に近代(明治維新 より第二次世界大戦 終結まで)において国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である[7] 。教派神道の「『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例[8] 」であり、第二次世界大戦前は、単に「神社」といえば、国家に管理された国家神道のものをさした。現在では政教分離 が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはなくなった。但し、この様な国家神道の概念・語を、GHQ による創作・捏造とする説もある。現に、昭和26年にGHQの政策によって宗教法人法 が制定され、それによって殆どの神社は伊勢神宮 を中心とした神社本庁 傘下の宗教法人 の中に分類されてしまった経緯がある[9] 。

また、次のような分類もされる。

* 祭り型神道
o 宮中神道 - 宮中の祭祀
o 神社神道 - 通常の神社の祭祀
o 古神道 - 道祖神 ・田の神 ・山の神 ・竈神 など
o 陰陽道 系 - 土御門神道 ・いざなぎ流 など
* 教え型神道
o 学派神道
+ 復古神道 - 平田篤胤 ら
o 理論神道 - 伊勢神道 ・唯一神道 など
o 神仏習合 系 - 両部神道 ・山王一実神道 など
o 神儒一致系 - 儒家神道 ・理学神道 など
o 教派神道
+ 山岳信仰 系 - 実行教 ・御嶽教 など
+ 霊示系 - 黒住教 ・金光教 ・天理教 (正確には天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり現在は諸派に分類されている)など
+ 伝統神道系 - 出雲大社教 ・神道修成派 など
+ 新思想系 - 大本 ・生長の家 ・白光真宏会 ・世界真光文明教団 ・崇教真光 ・ス光光波世界神団 ・神道天行居 など

由来と教義 [編集 ]

「神道」という言葉は中国の『易経 』や『晋書 』の中にみえるが[10] 、これらは「神(あや)しき道」という意味である。これは日本の神道観念とは性質が異なるものである。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀 』の用明天皇 の条にある「天皇信佛法尊神道」(天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ)である。このように、外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[11] [12] 。

中国では、信仰は「鬼道 」、「神道」、「真道 」、「聖道 」の4段階に進化すると考えられ、仏教は一番進んだ「聖道」にたっしていると信じられていた。一番下の段階が「鬼道 」で、『魏志倭人伝 』の中にもこの語が出てくる。次の段階が「神道」」(「神(あや)しき道」)である。すなわち、『易経 』や『晋書 』の中にみえる「神道」(「神(あや)しき道」)という語は、鬼道よりは進んでいるが、まだまだ劣っているという蔑称である。日本における「神道」は中国道教の「真道」「聖道」といった進化に対して保守的であり、「鬼」が蔑称文字とされても「祈祷」の字を代用するなど、他の宗教の原理主義に近い状態を維持していると言える。また国家神道時代においては聖道に近い状態であったとも言える。因みに、「[[祈り]」自体は、本来の日本語の意味では、「意乗り=意を乗せる」という意味である。現象や物事に対して「意乗り」を行う事によって、改善・改良の道筋を開いたり付けたりそこに気を入れたりすることを表す。

日本書紀では、用明天皇即位前紀に「天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ」とあり,孝徳天皇即位前紀に「(天皇)仏法を尊び、神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を駒(き)りたまふ類、是なり。人と為(な)り、柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ」とあり、これが日本に於ける「神道」の語の初出である。

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、祖先や自然に与えられた環境の保持発展を指して神道とする説、人道に対し天皇が君主として神として歩むべき覇道を指して神道とする説などがある。

明治20年(1887年)代になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始める。明治30年(1897年)代には宗教学が本格的に導入され[13] 、学問上でも「神道」の語が確立した[14] 。

もともと、神道にはイエス・キリスト や釈迦 のようなカリスマ 的創唱者が存在しなかった[3] 。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致 がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神在随 事擧不為國」[15] だったからであるともいわれている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。しかし、神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教 の併存例は世界各地でみられるものであり、日本が特に珍しい例というわけではない。

実際には、仏教公伝 の当初から、廃仏派の物部氏 と崇仏派の蘇我氏 の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道 をはじめとして、吉田神道 などの諸派が反本地垂迹説 など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく[16] [17] 。近世後期には、平田篤胤 が、キリスト教の最後の審判 の観念の影響を受けた幽明審判思想 や、アメノミナカヌシ を創造神 とする単一神教 的な観念を展開するなど近代に連なる教理の展開を遂げた。近世に大きく発展した儒家神道 はしだいに大衆に支持基盤を得て尊王攘夷 思想を広め、討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には神道事務局祭神論争 という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識して、大日本帝国憲法 でも信教の自由 を認めせざるを得なかった[18] 。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。神社神道 では教義を明確に統一できないことに由来する神道の「掴みにくさ」は、同時に、言語に強く依存した外来の諸宗教に完全には吸収同化されない、身体感覚を重視した遠い昔からの所作の現われとして現代日本社会にもなお受け継がれている。この結果、仏教や儒教 、キリスト教などの受容後も、神道的なものが日本人の精神生活に幅広く残った。これらを俯瞰すると、抱擁的側面は出雲が有し、社会制御的側面を伊勢が受け持ったともいえる。
神道における「神」 [編集 ]

神道は多神教 だが、祖霊崇拝 性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年 の神道事務局祭神論争 における明治天皇 の裁決によって伊勢派 が勝利し、天照大神 が最高の神格を得たが、敗北した出雲派 的なものが未だに強く残っていたり、氏神 信仰などの地域性の強いものも多い。

気象、地理地形に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々 」である。この点はアイヌ の宗教にも共通する。詳細は神道における神 を参照のこと。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神 )。

自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然 の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」がやっていた仕事の一つである。一説には、「神」は「上(かみ)」に通じ、上の方にいる存在を指すといも言われている。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。たまに悪戯をする存在も在ったが、概して日本の「神」は善神で、人々を迫害・束縛したりする邪神は存在していなかった。その後、社会の上層部で活動し、国民や国にとって貢献した人物なども、「神」として神社に祭られたりして来ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93


2010年07月14日(Wed)▲ページの先頭へ
精霊流しの「海」とは何か:折口信夫の妣が国、常世
テーマ:D. H. ロレンスと折口信夫

長崎の祭礼の精霊流しでは、仏を精霊船に乗せて、海へと導く。仏はspiritである。
 では、行く先の「海」とは何か。これは、マイナス1の母神に近いが、しかしながら、水の要素を考えると、第三象限領域ではないだろうか。
 因みに、私は、

風  火
  空
水  地

と見ている。
 空は聖霊でもある。

後でさらに検討したい。

追記:直感では、イシスとオシリスの神話を想起する。オシリスは弟のセトに殺害されバラバラとなり、男根が船に乗せられて、ナイル川を漂い、漂着して、樹木になるのである。そして、それをイシスが見つけて、他の部分と接合して、復活させるのである。母神神話である。古代オリエント神話である。

精霊流し
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長崎市県庁坂を登る精霊船

精霊流し(しょうろうながし)とは、長崎県 の各地でお盆 に行われる、死者の魂を弔って送る行事のこと。
概要 [編集 ]
精霊船

長崎市 をはじめ、長崎県内各地でお盆 に行われる伝統行事である(県内でも海から遠い波佐見町 等にはこの風習はない)。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、流し場と呼ばれる終着点まで運ぶ。

毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹 の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒のなかで行われる。精霊船は山車 を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教 の行事である。

初盆でない場合は精霊船は作らず、わらを束ねた小さなこもに花や果物(供物)を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年 (明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市 、西海市 、松浦市 、五島市 などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。

長崎市には長崎くんち という祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出しものの一つである曳物に似ている。 曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊船をそれを真似て引き回すことが一部で行われている。郷土史家の越中哲也 は長崎放送 の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。

代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより盆提灯や遺影 、位牌 など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で破壊される。遺族にとっては悲しい瞬間である。
精霊船 [編集 ]
もやい船の印灯篭

精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と「もやい船」と呼ばれる自治会 など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘つくるのは、富裕層に限られた。

もやい船、個人船に限らず「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭をとり流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。

流し場までの列は家紋 入りの提灯 を持った喪主 や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、そろいの白の法被 で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。

精霊流しは午後5時頃-10時過ぎまで掛かる事も珍しくない為、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリー で点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため電球を用いる事が多い。また、数十メートルの大型な船では発電機 を搭載する大がかりな物もある。

精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋 の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏様や観音様、お経を書いた帆がつけられることが多い。

印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中 跡がある自治会は坂本龍馬 を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。

船の大きさは様々で、全長1-2m程度のものから、長いもので船を何連も連ね20-50mに達するものまである。

精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。
由来と爆竹 [編集 ]

由来は諸説あるが、中国 の彩船流しの影響が色濃くでているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔よけ」の意味であり、精霊船が通る道を清める為とされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節 の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃する事が多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
見物ポイント [編集 ]

長崎市の場合は長崎放送 が中継録画を行う長崎県庁前には数多くの船が流れ、「変わり精霊船」も多く見られる。一方、長崎市役所周辺ではもやい船の伝統が残る下町が多く、3連、4連の巨大な精霊船を見物することができる。
法的な規定 [編集 ]

* 道路上での船の作成や全長2m以上の船を流す場合は所轄の警察署長の許可が必要
* 船の大きさは最大で全長10m、胴体7m、幅2.5m、高さ3.5m。なお、高さは本体高さでなく持ち上げたり担いだりしたときの高さとなる。
* 花火取扱者以外の花火取り扱いは禁止
* 矢火矢(やびや、ロケット花火)、連発花火などの使用禁止
* 花火を人や車両に向けて使ってはいけない
* 流し場で取り扱える精霊船の大きさは各所で異なり、大きいものは大波止など一部の場所でしか扱えない。
* 責任者は青、花火取扱者は赤のたすきが必要。このたすきは事前の届け出を行う際に所轄警察署の署長から交付される。

精霊流しに伴う影響 [編集 ]

* 精霊流しが行われる時間帯は長崎市中心部をはじめとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車 は経路を変更する形で運行される。
* 精霊流しの後は自治体が精霊船の処分を行うため一定期間粗大ごみの搬入が停止される。
* 近年薄暮競走 を行うようになった大村競艇場 は、最終12競走の本場発売締切時刻を18時40分(2007年 8 月・2008 年 8月実績)としているが、精霊流し当日のみ最終12競走の本場発売締切時刻が18時15分になる。(これに伴い当日各レースの発売締切時刻や発走時刻等も変更となる)

さだまさしと精霊流し [編集 ]

長崎市の人にとっては大変重要な行事であり、長崎出身の歌手さだまさし が聞いた話によれば、1945年 8 月9日 の長崎原爆投下 の際には多くの人が「自分が死んだら、誰が精霊船を出してくれるのだろうか」と気に懸けながら亡くなっていったという。

そのさだまさしは、自分の従兄弟の死に際して行われた精霊流しを題材にして、1974年 のヒット曲『精霊流し 』を作った。しかし、その歌と一般的な灯篭流しの情景を結び付け悲愴なイメージを作り上げてしまった観光客が実際に長崎の精霊流しを目の当たりにしてあまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるらしい。実は、さだも歌詞の中で「精霊流しが華やかに」と書いており、グレープ のファーストアルバム『わすれもの』では『精霊流し』のイントロ に爆竹 の音が入っており、賑やかさの奥底にある哀しみを描いているのだが、一般的な行事の印象が如何に強いかを物語るエピソードとも言える。
関連項目 [編集 ]

* お盆
* 盆踊り
* 送り火
* 御招霊
* 爆竹
* 舟っこ流し

関連サイト [編集 ]

* 精霊流し(長崎市)
* 長崎精霊流し(長崎新聞)

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%9C%8A%E6%B5%81%E3%81%97 」より作成
カテゴリ : 日本の年中行事 | 長崎県の祭り

★精霊船の由来
寛政時代の記録には「昔は精霊を流すに船をつくるということもなく」とある。精霊は聖霊とも書いていた。読み方もしょうろうではなく、昔風にはしょうりょうである。

享保(1716〜1725)のころ、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろそうせつ)という儒者が市民が精霊物を菰包みで流しているのを、これはあまりにも霊に対し失礼だというので藁で小船を作ってこれに乗せて流した、という記録がある。
ろそうせつ(1671〜1729)が亨保のころ始めたとすれば、正徳(1711〜1715)以前には精霊船は無かったことになる。
長崎名勝図絵という本には、享保のころ、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した、とある。この場合は一市民が始めたというおもむきで書いてある。また古書には、唐人の彩舟流し(さいしゅうながし)という説もある。今日まだ定説はない。
◇長崎辞典・風俗文化編・長崎文献社より
http://www.medaka.org/~ryouma/file/file_01.html


2009年11月14日(Sat)▲ページの先頭へ
臥竜山女子学生惨殺事件:日本母権制と父権制の衝突事件
テーマ:社会・芸能・増す塵:薬物・凶悪犯罪

後でこの事件について、宗教・神話学・深層心理学・社会力学的に解明を試みる予定であるが、私が脳裏に想起されるのは、『羊たちの沈黙』(映画、小説)である。
 これは、母親を想起させるような女性を殺害し、その皮を剥いで、それを身につけるのである。
 どうも、本事件は、場所といい、狂気・暴力といい、また、社会状況といい、最高度の問題を秘めている。
 どうも、日本母権制と父権制の確執がここにあるように思う。女性の詐欺殺人事件も母権的であると思う。結局、父権制が基層の母権制を抑圧している力学がある。そのため、母権制が父権制に復讐すると思われる。そう、ギリシア神話ならば、復讐の女神である。
 思うに、本事件は、内なる父権制による母権制の否定である。
 とまれ、現代、日本の父権制と母権制が反動的に衝突していると言えよう。
 日本の封建・父権・近代的同一性の縛りを解体する必要があるのである。

参考:
羊たちの沈黙(1988年) トマス・ハリス作(新潮文庫)

FBIの行動科学課の訓練生クラリス・スターリングが、所長のジャック・クローフォドに依頼され、監房に入っているハニバル・レクター博士(人食い《ザ・カニバル》ハニバル)の調査書を作成するように頼まれる。そのとき、レクター博士から、ラスペイルの車の中を調べるように言われ、調べている。車の中には、ヴァレンタインのしるしのあるアルバムとマネキンがあった。また研究室用の大きな標本瓶に人間の頭が入っていた。
クラリスは、レクター博士と話をする。標本瓶の頭は、ラスペイルのゲイの恋人で、スェーデン人クラウスのものだと言う。レクター博士がクラリスの手助けをしたのは、クローフォドと取引したいからで、人間の皮を剥ぐバッファロゥ・ビルのことについて教えることができると言う。
クラスの仲間から離されたクラリスに、射撃教官のブリガムが、ジャック・クローフォドといっしょにバッファロゥ・ビル−タイプ(人間の皮を剥ぐタイプ)の死体の調査に出かける任務を伝えた。ブリガムは、車でクラリス・スターリングを、クワンティコの飛行場に連れて行った。そこでは、古い双発のビーチクラフト、「ブルー・カヌー」がクローフォドを乗せて待っていた。
バッファロゥ・ビルに関するファイルを飛行機の中で、クラリスは読む。白人女性ばかりを狙った、皮を剥ぐ犯罪で、おそらく犯人は白人男性である。少なくとも五回の犯罪歴があり、死体は、いずれの場合も流水に投げ込んでいる。それぞれ異なった州の別の川で州間高速道の交差点の下流で死体が発見されている。バッファロゥ・ビルは各地を移動する男である。双発機は、ウェスト・ヴァージニア州ポターへ向かう。
【人間の皮を剥ぐこと、女性が犠牲者であること、死体が川に投げ込まれること、各地を移動していること等から、予感できるのは、これは、一種宗教的な儀式・儀礼のようなものではないかということである。そう、アメリカの自然・大地へ犠牲を捧げること、供儀ということなのだろうか。また、レクター博士の犯罪も不気味である。そう、思うに、皮を剥ぐというのは、「魂」や生命の器を破壊するということではないだろうか。
ならば、それにより、「魂」・生命を解放する行為ということになろうし、正に儀礼となろう。アメリカの自然への「魂」・生命を捧げること、なにかアステカの宗教儀式を想起する。】
ポター葬儀場は、ランキン郡の死体保管所で、そこで、クラリスは、犠牲者の検査を行う。
「・・・この被害者が誰であれ、どこから来たにせよ、川が彼女をこの土地に運んできたのであり、この土地のこの部屋に救いなく横たわっている間、クラリス・スターリングと彼女の間には特別な繋がりが存在するのだ。ここではスターリングは、土地の産婆、知恵者の女、薬草医、常に必要なことを果たしてきた女、絶えず監視役を務め、その役が終わると、土地の死人の体を洗い身なりを整えてやる女の後継者なのだ。」122〜123頁
(クラリスは、メディスン・ウマンだ。土着的女神的な存在、魔女的存在。女性指導者的な存在だ。それも、モダンのシャープな即物的な知覚をもった存在、近代科学を身につけた存在だ。「神秘・神話」と近代科学の結合だ。)
スターリングは、死体の指紋や写真をとったりして検屍を終える。六番目の被害者は白人女性、二十歳前か二十代初め、射殺、胴体下部と腿剥皮(ももはくひ)で頭皮を剥がれた最初の被害者、両肩の後ろから三角形に皮を取られた最初の被害者、胸を撃たれた初めてで、喉の奥に繭があったのも初めてである。
クラリス・スターリングは、スミソニアン国立自然史博物館へ行き、被害者ののどに入っていた虫の繭について、ピルチャーとロゥドンに検査してもらう。それは、蛾のエレブス・オドラ(クロエレブスオオヤガ)で、フロリダ最南端とテキサス南部で年に二度、五月と八月に産卵することがわかった。帰り際、ピルチャーはこの事件が解決した後、クラリスに食事をしようと誘った。
上院議員のルース・マーティンの一人娘キャザリン・ベイカー・マーティンが襲われ誘拐される事件が起る。ブラウスが切り裂かれていた。
六番目の事件で、死体保管場での検死の経験が、クラリスに衝撃を与え、精神に地殻変動を起こしている。クローフォドから電話があり、スミソニアン自然史博物館に行くように言われる。クラスメートのマップは、クローフォドに刑法の試験に関して手配してくれるよう頼むように勧める。
クラリス・スターリングは、スミソニアン自然史博物館に行き、クローフォドと落ち合い、標本瓶に入っていたクラウスの首が作業台に載っていた。クラウスの喉からも虫が見つかったのだった。このため、クラリスは、再度レクター博士に会うことになった。

ジェイム・ガムは、女性ホルモンを使って女性になろうとしているが、未だ男性的な攻撃性があるように見える。彼は、トレイを三つ地下室にもっていき、そこにある涸れ井戸の中に、骨と野菜くずを投げ捨てた。その井戸からは「おねがい」という叫び声がした。

クラリスは、ボルティモア精神異常犯罪者用州立病院に入り、レクター博士と話をする。監房では、サミーという分裂病者が新たに収監されている。博士はバッファロゥ・ビルがサディストではない理由として、どの死体にも縛り傷が手首だけについていて、足首にないことをあげている。サディストなら、楽しみながら皮を剥ぐ時は、被害者を逆さ吊りにしてするものだと言う。クラリスの子供時代の最悪の記憶と引き換えに、博士はバッファロゥ・ビルが、キャザリン・ベイカー・マーティンを誘拐した理由を告げる。それは、彼は乳房のついたチョッキが欲しいからということであった。
クラリスは、上院議員マーティンの取引を携えて、レクター博士に会う。博士は、蛹の話を始めた:蝶や蛾の幼虫は美しい成虫(イマーゴゥ)になる。イマーゴゥという言葉は、幼児期から意識下に埋め込まれ、幼児期の感情に包み込まれた両親のイメージだと言う。
蛹のもつ重要な意味は変化だ。ビリイ(バッファロゥ・ビルを今はこう呼ぶ)は自分も変化したいと思っている。彼は本物の若い女の皮膚を生地にして、若い女性用の服を作っている。ビリイは真の性転換願望者ではない。博士はクラリスに性転換願望者とそうでない者の区別のしたかを教える。
レクター博士はクラリスにジェイム・ガムを引き渡す方法について考えを巡らせている。ラスペイルの語るところでは、ジェイムは本当のゲイではなく、実際のところ、無に近い人間であって、全くの空虚を充たしたがっていた。あるとき、前の雇い主の郵便物を受け取り、小包の中に死んだ蝶が詰まっていて、スーツケースの中から、一匹の蝶が蛹から孵り、飛んでいった。それを見たジェイムは何をなすべきか閃いた。
チルトン博士が、レクター博士の監房の寝台に腰かけて、レクター博士と精神医学資料保管所との間の一番新しい往復文書を読み終える。チルトン博士は、レクターをクローフォドやクラリスが騙すであろうことを執拗に告げる。
ジャック・クローフォドは、ジョンズ・ホプキンズ大学の性同一化科長のダニエルソン博士に、ここで申請を拒否されたものの資料を見せてもらいたいと懇願するが、厳しく断られている。
チルトン博士がこの事件に首を突っ込み、マーティン上院議員が直接介入し始めた。ハニバル・レクター博士がテネシー州に引き渡されることになった。
レクター博士は、マーティン上院議員に、バッファロゥ・ビルに関する情報を知らせる。
本名は、ウィリアム・ルービンで、通称ビリイ・ルービンであること等。
ジェイム・ガムは地下室で飼っている蛾が成虫になるのを見ている。「檻に光線を戻したのがちょうど間に合った。大きな昆虫の羽が背中の上方にあって、模様を隠したり歪めたりしている。今度は羽をおろして体を包むと、あの有名な模様がはっきりと見える。毛皮のような鱗粉で見事に造り出された人間の頭蓋骨が蛾の背中でこちらを見ている。陰になった頭蓋骨のてっぺんの下に黒い眼窩と突出した頬骨がある。その下方で黒い部分が顎の上辺りをさるぐつわのように横切っている。頭蓋骨は、骨盤のてっぺんのように広がった模様の上にのっている。骨盤の上にのった髑髏、すべて自然の偶然によって蛾の背中に描かれている。ミスタ・ガムはたいへん気分がよく、心が軽くなったような気がした。」p. 288
獲物のキャザリンをやるのは明日か明後日である。【ここの頭蓋骨のある蛾とは、ミスタ・ガムにとって、自由と皮剥の二重性を象徴していると見ることができよう。そう、神秘学的に言えば、ガムにとって女性の皮・皮膚を着るとは、生まれ変わることを意味しているのだろう。あるいは、女性に生成変化することを意味しよう。それは、また成虫になることだから、通過儀礼であろう。思うに、女性の皮・皮膚を剥ぐことは、女性の「魂」・生命を取り出すことであり、また剥いだ皮・皮膚を着けることは、自己成就なのであり、それは、女性へと変身することだ。つまり、脱皮と成人儀式の両面を女性の皮剥ぎは意味しているのだろう。死と再生の儀式だ。】
クラリスは、キャザリン・ベイカー・マーティンの住んでいたアパートメントに行き、調べることにした。宝石箱の引き出しの裏に、茶封筒に写真が五枚入っていた。それは、セックスしている時の写真であるが、頭や顔は写っていなかったが、女性が大柄であることから、キャザリンのものであろうと考えた。そのとき、マーティン上院議員が入ってきて、その写真を取り上げた。司法省のクレンドラーが、この事件とはもう関わりはないのだから、クワンティコの学校に帰るように、クラリスを見下して言った。
レクター博士が新たに収監されているメンフィスの古い裁判所へクラリスはやって来た。
レクター博士はクラリスに彼女が子供の頃のことを話させると、クラリスは父が亡くなり、母がモンタナの従姉妹夫婦に彼女をあずけたことを告げ、ある早朝子羊たちが屠殺のため悲鳴を聞こえ目が覚め、目の悪い馬を連れ出したことを語った。
ペンブリイとボイル両係官(矯正官)が、レクター博士を担当しているが、食事を与えるときは、拘束服を着せないで手錠を格子の外に出させるが、レクター博士は隠しておいたボールペンのプラスティックの軸にクリップを差し込んだ簡易鍵を指の間から出して手錠の鍵を開けて、ボイルに手錠をはめ、そしてペンブリイに襲いかかって棍棒で殴り殺し、その後、ボイルを撲殺した。引き出しに拳銃が二挺あり、ボイルのポケットにポケット・ナイフがあった。
テイト巡査部長が、交代のため確認しようとしたが、ボイルとペンブリイはまだ下りて来ていない。銃声がして監房に行くと、二人は無惨な状態で横たわっていた。ボイルは即死だが、ペンブリイは息をしていた。エレベーターの天井から血が滴り落ちたので、犯人はエレベーターの屋根にいるということで慎重・厳重に探ったが、それは実はペンブリイであった。
ペンブリイ、実はレクター博士を乗せた救急車は、救急係がレクターに襲われて、メンフィス国際空港に向かった。
クラリスは、特別休暇を命令されたクローフォドの自宅に行き、レクターの逃亡について説明を受けた。レクターはペンブリイの制服とペンブリイの顔の一部を着けていた。それにボイルの肉を一ポンドほど。またクレンドラーが、クラリスを職務遂行能力審査会にかけるよう訴えたことをクローフォドは告げた。
クラリスはスミソニアン自然史博物館の昆虫館に行き、ピルチャーからクラウスの喉に入っていた繭が確認されたことを告げられる。それは、ドクロメンガタスズメで、学名はアケロンティア・ステュクスで地獄の二つの川の名前から取ったもので、マレイシア種であることがわかった。
キャザリンは、地下室の土牢から脱出しようと試みるがうまくいかない。
ハニバル・レクター博士は、セント・ルイスのマーカス・ホテルに泊まる。ホテルの部屋から、通りの向こうに、セント・ルイス私立病院のマイロン・サディ・フライシャー記念病棟が見える。頭蓋と顔の手術に関する世界一流のセンターの一つである。
アーディリア・マップはクラリスに審査会の勝ってほしいと言う。
クローフォドの妻が亡くなる。
ジェイム・ガムは、地下室で、キャザリンを殺して、母の相当する皮膚=服を作ろうと精緻にデザインし努力している。
クラリスは、マーティン上院議員の侮辱に胸を痛めていた。ブルジョワ的なものに対するクラリスの階級的反感があった。クラリスはレクター博士の言葉を想起して、最初の被害者について探索することの許可をクローフォドに頼み、彼は、それを認めた。
ダムは、四日目の朝、準備を整えてキャザリンを殺そうとしているが、飼っている子犬がいないことに気づいた。犬は、キャザリンが地下室から投げたバケツが開口部から出他後、その中に入り込んで、バケツと伴に地下室に落ちていったのであった。キャザリンは、
犬を殺すと脅して、電話を降ろすようにダムに要求した。
クラリスは、最初の被害者のフレドリカ・ビンメルの自宅を訪ねた。
クローフォドは、FBI本部のオフィスに行き、ダニエルスン博士からの電話で、ジョン・グラントとして、性転換手術を申請した男は経歴チェックでひっかかり、調べた結果、グラントという名前ではなく、ジェイム・ガムであった。
クラリスは、フレドリカの部屋で、手掛かりになそうなものを探している。戸棚を見つめて、犠牲者キンバリーの背中の肩の部分が三角形に切り取られているのを思い出していると、その三角形がドレスの型紙に青い点線で示してあるのを見た。
「――あれはダーツだ、彼は彼女の腰回りを広げるためのダーツを作るのにあの三角の皮膚を取ったのだ。あの畜生野郎は裁縫ができる。バッファロゥ・ビルは本職の裁縫の訓練を受けている、彼は単に既製品を選んでいるのではない。」
ビンメルの家で、スターリングにジェリイ・バロゥズから電話がかかってきた。ダムが裁縫ができることをジェリイに伝える。ジェリイは、犯人として大いに可能性のある人物を発見したことをスターリングに伝える。その名前は、ジェイム・ダムで、別名ジョン・グラントである。場所はシカゴの端のカリュメット市だ。
クラリスは、フレドリカの親友のステイシイ・ハブカを訪ねる。
特別機動部隊の乗ったジェット機がイリノイ州カリュメットを目指して飛んでいる。
ミスター・ガムは、地下室のキャザリンを撃ち殺すため、近づいたとき、ドアベルが鳴ったので、表の様子を見に行く。クラリス・スターリングがやってきた。中に入り、クラリスは、機会を見つけ、ガムを逮捕すると告げた。ガムは部屋から出ていった。クラリスは追うが、照明が消えた。ガムがブレーカーを切ったのだ。彼は赤外線をクラリスにあて、回転拳銃パイソンの撃鉄をカチッと起こした瞬間、体が仰向けに床にぶつかった。ガムは、クラリスに胸を撃たれて死んだ。その後、消防署員が来て、地下室のキャザリンを救出した。
ワシントンのナショナル空港に出迎えの人々が五十人ほどいた。飛行機から降りてくるクラリスを、アーディリア・マップが見つけ、ジェフが運転するヴァンに二人は乗ってクワンティコに向かった。
ジャック・クローフォドは、クワンティコのオフィスに行き、クラリスと会う。ジェイム・ガムの死亡とキャザリンの救出のニュースが流れている。連邦検事がクラリスの宣誓証書をジャックがもってきた。クラリスはフレドリカ・ビンメルの家からステイシイ・ハブカのところへ行き、さらに、ビンメルが下請けをしていた店、リチャーズ・ファッションズのバーディンという女のところへ行って、ミセズ・バーディンがミセズ・リップマンの古い住所、あの建物を教えてくれたというわけであった。ジャックは、クラリスを誇りに思うと堅苦しく言った。
ジェイム・ガムに関するニュースが頻繁に流れた。彼は母親に捨てられ、孤児院に入れられたが、その後祖父母が引き取った。その二年後彼は殺人を犯した。ラスペイルと出会い、その後ラスペイルの愛人クラウスを殺し、皮を剥いだ。それからラスペイルがガムをレクター博士に紹介した。ラスペイルの最後の治療の録音があった。その後レクターはラスペイルを殺した。ジェイムは、一緒に行ったフロリダの旅先でミセズ・リップマンが亡くなると、彼女の全財産―居住部分、店、地下室のある古い家―を相続したのであった。
クラリスは、スミソニアン自然史博物館の昆虫担当のピルチャーの自宅に招待された。
レクター博士はマーカス・ホテルに滞在し、上機嫌である。すでに準備してある南米に逃亡する予定である。レクターはクラリスに手紙を書く。子羊の悲鳴は止んだか答えてほしいと書いてある。その時、クラリスは、チェサピークのキルチャーの家でベッドの中で寝ていた。天空にはオリオン座とそのそばに強く輝く木星があった。

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臥竜山は偶然ではない
龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫) 龍臥亭事件〈上〉 (光文社文庫)
価格:¥ 780(税込)
発売日:1999-10

まだマスコミでは出てないんだが、島田荘司の「龍臥亭事件」との関連性、ますます濃厚になってきた気配があるんだが、だとすると
臥竜山は偶然ではないわけです。犯人は、わざわざ臥竜山を遺体の捨て場所として選んだわけで、すべては犯人の描いたストーリーに沿った展開ですね。まぁ、オフィスマツナガさんちに書いたのを読んで貰えばいい んだが、有料なので、貧乏な人は
増淵倉吉事件で検索してください。

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ネットゲリラ


2009年11月08日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:飛鳥時代の仏教とは何か
私見では、宗教は、太陽信仰、太陽神信仰に帰する。そして、ゾロアスター教は、この倫理・道徳的発展である。つまり、同一性論理が生じた後における、その克服を目指す太陽神信仰である。(注:「神」とは精神的エネルギー、霊的エネルギー、超越的エネルギー、虚数的エネルギーである。)
 飛鳥時代の仏教であるが、明らかに、太陽神信仰が入っている。阿弥陀如来(無量光仏)等を見てわかる。(天平時代は、大日如来という太陽神、即ち、アフラ・マズダーの影響が如実である。キリスト教に関連して言うと、死海文書におけるエッセネ派は、ゾロアスター教的であった。)
 ここで、私見を言うと、大乗仏教は、仏教がゾロアスター教化されたものである。また、ほぼ同時代のキリスト教(正しくは、イエス教)であるが、それも、本来、ゾロアスター教的であるが、ユダヤ教(正確には、ヤハウェ教)がそれを支配して、キリスト教が誕生した。
 神道は、当然ながら、太陽神信仰であり、これがベースとなり、ゾロアスター教的仏教を受容したように思う。天皇とは、先に述べたように、太陽女神の子である(イエスもそうである)。
 イエス教はヤハウェ教の影響を被り、キリスト教となったが、日本仏教は、ヤハウェ教の影響を強大には受けずに(ユダヤ教の影響はあるだろう。ここで、ヤハウェ教とユダヤ教は区別しないといけない。)、ある意味で、純粋な神道ベースのゾロアスター教的仏教となったのではないだろうか。それが、聖徳太子の仏教ではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:より正確に言えば、月神信仰を言わないといけない。私はよくわからないが、月神信仰が原点であり、その後、太陽神信仰に変じたのか。
 それとも、月神信仰自体が太陽神信仰と一体であったのか。
 宗教史的には、月神信仰が原点であるように思える。そして、月神(処女神)が、太陽神を生んだように思える。イシスとオシリスはそのような関係ではないだろうか。
 とは言え、月神と日神は一如と見るのが明快であろう。
 
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聖徳太子
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凡例
聖徳太子
Umayado Miko.jpg
時代 飛鳥時代
生誕 574年 2月7日 (敏達天皇 3年1月1日 )
死没 622年 4月8日 (推古天皇 30年2月22日 )
改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子
別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王
諡号 聖徳太子
墓所 叡福寺北古墳
官位 摂政 、皇太子
主君 用明天皇 、崇峻天皇 、推古天皇
氏族 皇族 、上宮王家
父母 用明天皇 、穴穂部間人皇女
兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子 、殖栗皇子
茨田皇子 、田目皇子 、麻呂子皇子
酸香手姫皇女
妻 菟道貝蛸皇女 、刀自古郎女 、橘大郎女 、
膳大郎女
子 山背大兄王 、財王 、日置王 、白髪部王
長谷王 、三枝王 、伊止志古王 、麻呂古王
片岡女王 、手島女王 、春米女王 、
久波太女王 、波止利女王 、馬屋古女王
特記
事項 物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上
天皇を主君とみなす。
表 ・話 ・編 ・歴

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇 3年1月1日 (574年 2月7日 ) - 推古天皇 30年2月22日 (622年 4月8日 )(同29年2月5日 説あり-『日本書紀 』))は、飛鳥時代 の皇族。

用明天皇 の第二皇子。母は欽明天皇 の皇女・穴穂部間人皇女 (あなほべのはしひとのひめみこ)。また、『上宮聖徳法王帝説 』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王 )らがいるという。

『隋書 』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤 による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている[1] 。

近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるが、『日本書紀』等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある(詳細は#聖徳太子虚構説 の節を参照)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90


聖徳太子







聖徳太子像
滋賀県八日市市 市神神社
http://www.asuka-tobira.com/syotokutaishi/shotokutaishi.htm
聖徳太子
山岸涼子氏の「日出処の天子」を読んで聖徳太子に興味を持ち、次に読んだのが、梅原猛氏の「隠された十字架」。法隆寺は太子の怨霊を沈めるために藤原氏の思惑によって建てられたものだ、とする大変ショッキングな内容でした。 それ以後太子に取り憑かれたように太子にのめり込んでいきます。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/sub1.html

憲法十七条
聖徳太子の政治理念・哲学の表明
【アジアの仏教】

* 憲法十七条 原文(書き下し文)
* 憲法十七条 現代語訳
* 『憲法十七条』の成立した時代背景

◆ 憲法十七条 原文(書き下し文)

 夏四月[なつうづき]の丙寅[ひのえとら]の朔戊辰[ついたちゆちのえたつのひ]に、皇太子[ひつぎのみこと](=聖徳太子)、みづからはじめて憲[いつく]しき法[のり]十七条[とおちあまりななおち]作りき。

一にいはく、和[やわ]らかなるをもつて貴[とうと]しとなし、忤[さか]ふることなきを宗[むね]となす。人みな党[たむら]あり、また達[さと]れるひと少なし。ここをもつてあるいは君[きみ]・父[かぞ]に順[したが]はず、また隣里[さととなり]に違[たが]へり。しかれども上和[かみやわ]らぎ下睦[しもむつ]びて、事を論[あげつら]ふに諧[かな]ふときは、すなはち事理[こと]おのづからに通ふ、なにの事か成らざらん。

http://www2.big.or.jp/~yba/asia/kenpou17jou.html


十七条の憲法


http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm


聖徳太子の憲法十七条
聖徳太子

http://asikenko.jp/syotoku/main.html


2009年11月01日(Sun)▲ページの先頭へ
検討問題:精神的フィルター又は精神的言語フィルター:多神教⇒一神教⇒新多神教:Ver2
今日、多神教と一神教における違いをあれこれ考えていたが、前者の場合は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で記述できる。
 問題は、精神的フィルターの存在である。これまで、差異共振現象が多神教であると考えた。即ち、例えば、「わたし」は「鳥」であり、且つ、「わたし」は「鳥」ではない、という事象=心象が生起する。
 しかしながら、このとき、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、言語も形成されるのである。
 つまり、精神的フィルター(精神的言語フィルター)によって、差異共振現象が実は、連続化されるのである。だから、「わたし」は「鳥」であるということが、いわば、粘着的に強化されるのである。いわば、情緒主義化が生起するのである。癒着である。
 思うに、偶像崇拝はこの帰結のように思えるのである。
 そして、これに対して、ヤハウェの一神教の意味があるのである。つまり、堕落した多神教、連続化した多神教に対して、超越的切断を提起したのだと考えられる。
 そして、ヤハウェであるが、これは、確かに、超越性から発しているが、+iに極端に傾斜していると考えられる。
 端的に、Media Pointが源泉であるが、+iに極端に傾斜しているということである。そのため、他者-iを否定して、⇒-1になるのではないだろうか。
 多神教は本来、⇒+1であるが、ヤハウェ一神教の場合、⇒-1になると思われるのである。
 しかしながら、源泉はMedia Pointで同じである。だから、両者の神話においては、神話要素が共通すると考えられるのである。「蛇」、「生命の樹」、「楽園」、等である。
 つまり、ヤハウェ一神教は、母権的多神教の内在的反転のように思われるのである。つまり、メビウスの帯のように、両者、一如であるということである。
 思うに、ヤハウェは、+i⇒-1ではないだろうか。これは、抽象的同一性という精神的フィルターを形成するのではないか。
 そして、次にキリスト教であるが、それは、ヤハウェ一神教への反転のように思える。つまり、⇒+1である。一種、多神教的である。しかしながら、問題は、この反転は、「父」ヤハウェからの反転であり、「父」の精神的フィルター(精神的言語フィルター)が影響しているのではないだろうか。
 それが、ヨハネの福音書の「はじめにコトバありき」に残像しているのではないだろうか。
 つまり、本来、キリスト教的反転とは、多神教だったはずであるが、それ以前の文化文脈がヤハウェ的一神教なので、その影響を受けて、一神教性を残しているのではないか。一神教の精神的フィルターから脱却できないままだったのではないだろうか。
 これは、理論的というよりは、経験的な問題ではないだろうか。
 しかしながら、キリスト教であるが、本当に、反転しているのか。どうも、十分な反転ではないように思えるのである。中途半端なのである。本当の反転ならば、脱一神教とならなくてはならないからである。
 とりあえず、不十分な反転としておこう。そうならば、十分な反転が次に起るはずである。それが、完全な脱一神教・新多神教となるはずである。
 不十分な反転をいちおう、Burgeoning -iによるものとしよう。Strong +iとBurgeoning -iが存するのである。これは、共振もあるが、やはり、強意の+iが支配しているのである。
 そして、Strong -iが発動するときがくるのである。それによって、新しい差異共振(新多神教)が生まれるのではないだろうか。
 以上は思考実験である。後で整合的に考察を行ないたい。

追記1:以上の記述は、便宜的なものであり、整合性を無視している。つまり、キリスト教の中途半端な反転という発想が便宜的なのである。
 やはり、理論的には、正式な反転と見るべきである。そして、そこで、精神的フィルター(精神的言語フィルター)を考えるべきだろう。
 つまり、「父」の精神的フィルターがあるので、キリスト教本来の母権主義・多神教・異教性が否定されると見るべきではないだろうか。+i⇒-1の精神的フィルターである。
 つまり、⇒-1(ヤハウェ)と⇒+1(イエス)の両面が発生して、分裂しているのではないだろうか。
 前者は戦争を志向し、後者は平和を志向するということではないだろうか。
 西洋において、歴史上、大革新的変化は、やはり、ルネサンスである。ここで、個が覚醒するのである。これは、Media Pointの覚醒である。つまり、それまでは(例えば、中世)、限られた個人による覚醒はあったが、ルネサンスにおいて、社会的な覚醒が発生したと考えられる。
 しかしながら、やはり、問題は、精神的フィルターである。精神的同一性フィルターが強いために、ルネサンスは、遠近法を生み出したと考えられる。イタリアという母権主義の強い土地であっても、精神的言語フィルターが強固なために、覚醒は、同一性へと展開して行ったと思われる。
 フィレンツェにおいて、フィチーニが中心となり、プラトン研究が復興し、ネオ・プラトニズムが生まれたが、結局、絵画では、遠近法が中心になっていくのである。
 より正確に言えば、虚軸性と実軸性の両面の活性化があったが、精神的フィルターのために、連続的に、実軸性(遠近法)へと傾斜していったと考えられる。
 そして、西欧近代主義が生まれるのである。それは、精神的フィルターが強く働いているのである。
 しかし、同時に、Media Pointの動きもあるのである。
 そのようにみると、キリスト教的反転が今日でも、作用しているのかもしれない。つまり、母権的・多神教的・差異共振的反転である。
 その帰結が「聖霊」主義ということではないだろうか。それは、また、ゾロアスター教主義である。
 とまれ、結局、本文で述べたことのままである。

追記2:追記1で述べたキリスト教とは、明確にいうならば、イエス教である。イエス個人本来の宗教であり、ヤハウェ的一神教の影響を受けていないものである。

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キリスト
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キリストは、ヘブライ語 のメシア (מָשִׁיחַ)のギリシア語 訳 Χριστος (christos)(クリストス、フリストス[1] )からの、日本語における片仮名表記。

基督、クリスト、ハリストス 、クライストとも表記される。

ヘブライ語での意味は「油を注がれた(塗られた)者」「受膏者」。古代イスラエルにおいては、王や祭司などの即位に際して頭に油を塗る儀式があった。ここからキリスト教において救世主 との意味が派生した。


Christ
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This article is about the Christian theological role. For other uses, see Christ (disambiguation) .
Christ the Saviour (Pantokrator), a 6th-century encaustic icon from Saint Catherine's Monastery , Mount Sinai .

Christ is the English term for the Greek Χριστός (Khristós) meaning "the anointed ".[1] It is a translation of the Hebrew מָשִׁיחַ (Māšîaḥ). The term "Christ" was a title rather than a proper name. In the four gospels in the New Testament , the word "Christ" is nearly always preceded by the definite article ("the Christ").[2] For centuries the Jews had referred to their expected Deliverer as "the Anointed."[3] The term "Christ" carries much of its original Jewish meaning of "Messiah "―"one [who is] anointed" or appointed by God with a unique and special purpose (mission ) on Earth.[4] It was later in the first century that the title gradually became a proper name, and the expression "Jesus Christ " or "Christ Jesus" became only one designation.[3] Jesus is a central figure in Western civilization .

The area of Christian theology focusing on the nature of Jesus as the Christ, particularly with how the divine and human are related in his person, is known as Christology . A central doctrine within the Trinitarian (Nicene) interpretation is that God took human form in the body of Jesus, "the Christ," and accordingly "Christ" is or was both fully human and fully God.[5] Following from this association between God and Jesus, many Christians believe that belief in Jesus either qualifies them as inheritors of a special privilege or else provides for them a conceptual interface to God's being, such that translates to having a greater "personal relationship" with God . Further, these concepts of personal connection with God have claimed relevance to spiritual concepts including salvation , God's love , divine providence , and divine illumination .

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メシア
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メシアは、ヘブライ語 のマーシアハ(משיח)の慣用的カナ表記で、「(油を)塗られた者」の意。メサイア は、Messiah の英語発音。


概説 [編集 ]

出エジプト記 には祭司が[1] 、サムエル記 下には王が[2] 、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教 におけるメシア(w:Jewish Messiah )はダビデ の子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。

メシアに対応するギリシャ語 はクリストス(Χριστος)で、「キリスト 」はその日本語的表記である[3] 。キリスト教徒 とイスラム教徒 はナザレのイエス がそのメシアであると考えている。イエスをメシアとして認めた場合の呼称がイエス・キリスト である。但し、メシアの捉え方は両者間で異なっている。詳しくは後述。

各時代にメシアを称した者(保守派や、大多数の者からは「偽メシア」ということになる)は、当然ユダヤ教 内部でも解釈が分かれ、分派を形成した。また、これに賛同したキリスト教 徒・イスラム教 徒もいた。また、こちらも当然ながらユダヤ教からはイエスは偽メシアとして見られている。メシアニック・ジュダイズム のようにユダヤ教を自称し、ユダヤ教的様式の典礼を実践しつつイエスをメシアと認める教派も存在するが、彼ら自身を除いて主流派ユダヤ教やキリスト教両者側からもユダヤ教ではなくキリスト教の一派と認識されている事の方が多い。

イスラーム でもユダヤ教、キリスト教からメシアの概念は継承されており、アラビア語 で「マスィーフ」( مسيح masīḥ)と呼ばれ、イエスのことを指す。イスラームにおいてはイエス自身は預言者 にして預言者ムハンマド に先行する「神 (アッラーフ )の使徒 とされており、また神が派遣したメシアであることも認識されている。クルアーン の記述から「マスィーフ」(救済者、メシア)はダビデ の子孫から出現するとされ、人々の苦難から救済しアッラーフ (神)の支配を確立する者としている。終末 のときに神の代理人として出現し偽メシアを討伐するといい、これらもユダヤ教、キリスト教のメシア像から受継がれている。イスラームにおいて「マスィーフ」はキリスト教の救世主であるのに対し、イスラム共同体 における救世主は「マフディー 」(「正しく導かれる者」の意味)と称する。単に「アル=マスィーフ」(al-Masīḥ)、「マスィーフッラーフ」( مسيح اللّهMasīḥ Allāh ;神のメシア)と呼ぶ場合、イエス自身を指す尊称である。

Messiah
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Messiah (Hebrew : מָשִׁיחַ, Modern Mašíaḥ Tiberian Māšîªḥ; in modern Jewish texts in English sometimes spelled Moshiach; Aramaic : משיחא, Greek : Μεσσίας, Syriac : ܡܫܺܝܚܳܐ, Məšîḥā, Arabic : المسيح‎, al-Masīḥ, Latin : Messias) literally means "anointed (one)".

In Jewish messianic tradition and eschatology , messiah refers to a future King of Israel from the Davidic line , who will rule the people of united tribes of Israel [1] and herald the Messianic Age [2] of global peace. In Standard Hebrew, The Messiah is often referred to as מלך המשיח, Méleḫ ha-Mašíaḥ (in the Tiberian vocalization pronounced Méleḵ haMMāšîªḥ), literally meaning "the Anointed King."

Christians believe that prophecies in the Hebrew Bible refer to a spiritual savior, partly evidenced in passages from the Book of Isaiah : "Therefore the Lord himself will give you a sign: The virgin will be with child and will give birth to a son, and will call him Immanuel,"[Isa. 7:14 ] and "He was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities; the punishment that brought us peace was upon him, and by his wounds we are healed,"[Isa. 53:5 ] and believe Jesus to be that Messiah (Christ ). The (Greek ) Septuagint version of the Old Testament renders all thirty-nine instances of the Hebrew word for anointed (Mašíaḥ) as Khristós (Χριστός).[3] The New Testament records the Greek transliteration Μεσσίας, Messias twice in John [Jn. 1:41 ] and [4:25 ]

In Islam , Isa (Jesus) is also called the Messiah (Masih),[4] but like in Judaism he is not considered to be the literal physical Son of God or God the Son .

Messianic Age
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Messianic Age is a theological term referring to a future time of peace and brotherhood on the earth, without crime , war and poverty . Many religions believe that there will be such an age; some refer to it as the "Kingdom of God ".
[edit ] Terminology: "messianic" and "eschatology"

In the context of "Messianic Age", the earliest meaning of the word "messianic" is derived from notion of Yemot HaMashiach meaning "The Days of the Messiah", that is, the Jewish Messiah , meaning "related to the Messiah" (See also Messiah ). Messiah comes from a Hebrew word meaning "The Anointed One", i.e., a person who is "specially appointed and empowered". Originally this phrase--the "anointed one"--referred to either a king who was anointed with Holy anointing oil as part of what might be understood to be his coronation ceremony, or a kohen. After the destruction of the Israelite kingship and Davidic line with the destruction of the First Temple in 586 B.C.E., Biblical figures began to write of a yearning for the "mashiach" to return. Originally, however, this only meant a yearning for a return to the Davidic kingship and the just rule and (Israelite) national independence that such a thing connoted. Over time, however, as a return to independent rule became increasingly distant-seeming, hopes for a new "anointed one" to come and liberate the people from their current, dismal conditions took on a decidedly more transcendent cast, eventually morphing into the "Messiah" (that word, an Anglicanization of "moshiach") known to Judaism and Christianity--that is to say, the Divine messenger who will come and herald God's world to come/future age.

Eschatology is an area of religious scholarship that deals with prophecies about "the end of the current age" of human civilization.
[edit ] Judaism, Christianity, Islam and Bahá'í

Jewish , Christian , Zoroastrian and Islamic eschatology teach that there will be a "Messianic Age" when the Messiah will come and bring peace and prosperity to the earth. Although the Hebrew Bible , also known as the Old Testament , and the New Testament both describe such a period, the term "Messianic Age" does not appear in the Hebrew Bible nor in the Apocrypha and is called the "Millennium" in the New Testament. The "Messianic Age" in Islam is described in the Hadith . In the Bahá'í Faith , the "Messianic Age" refers to a 1000-year period beginning with the Declaration of Bahá'u'lláh in 1863. Bahá'ís believe the period of peace and prosperity is gradually unfolding and will culminate in the appearance of 'The Most Great Peace'.

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2009年10月29日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:ユダヤ教ないしは旧約聖書問題
本件の問題について、今は予備考察するに留める。
 この問題はなんども述べたが、『精神的フィルター』の視点で再考してみたい。
 根本的問題の一つは、既述したように、神名が二つあることである。即ち、ヤハウェ(エホバ)とエローヒーム(神の複数形)である。これは意外に知られていないことだろう。一般の訳された聖書には、この区別がないのが多いだろう。
 有名な「光あれ」の神は実は、エローヒームなのである。これは、Y⇒+1のYに相当する。
 しかし、アダムのあばら骨からイヴを作った神は、ヤハウェである。父権的神である。唯一神である。
 これは、PS理論ではどう記述できるだろうか。ここでは、思考実験、試行錯誤をするが、-iの「神」を否定する+iの「神」がヤハウェ(エホバ)ではないだろうか。
 これは、(+i)*-(-i)⇒-1ではないだろうか。あるいは、商である。(+i)÷(-i)⇒-1である。あるいは、自乗である。(+i)^2⇒-1である。
 これは、偶像を禁止する神である。偶像は例えば、⇒+1のエネルギー的物質である。端的に、多神教である。つまり、現象形態を否定する神である。現象を⇒+1ないしは+1とすれば、それを否定する神である。端的に、-1となるだろう。
 作業仮説として、ヤハウェを-1とすると、もう一方のエローヒームとはまったく正反対であると言える。
 しかし、これらの相対立する神(神々)が、混同されて唯一神と考えられているのである。これは、明らかな混乱である。
 しかしながら、精神的フィルターを通らない神的エネルギーがあるのではないだろうか。精神的フィルターは、+i⇒+1における⇒である。
 しかし、ヤハウェは+i⇒-1ということになるだろう。Kaisetsu氏の言葉で言えば、非存在としてのヤハウェとなるのではないだろうか。そう、エローヒームが存在の神ならば、ヤハウェは非存在の神となるだろう。
 これは、他者を強く否定する神と考えられる。自民族中心の神である。
 これは、同一性の神とは言えないだろう。一種、非同一性の神ではないだろうか。言い換えると、知性+iが非同一性と結びついているということになろう。
 ユダヤ人が放浪の民であるというは、これから説明できないだろうか。現象的同一性に留まらないのである。(思うに、中国人、客家もそういうところがあるのではないだろうか。)
 思うに、-1は抽象的同一性ではないだろうか。そして、これが、貨幣信仰を生むのではないだろうか。
 即ち、+1が現象的同一性であるのに対して、-1は抽象的同一性ではないのか。これは、非現象的同一性である。
 端的に、-1が唯一神ではないだろうか。
 ギリシア民族が⇒+1ならば、ヘブライ民族は⇒-1となる。もっとも、⇒+1の要素もあるが、否定されるのである。自己矛盾である。
 マイナスに傾斜しているならば、逆に、プラスへと反転することになるだろう。それは、キリスト教、新約聖書を意味するのではないだろうか。そうならば、そこで、精神的フィルターが作用する。
 ここで、「ロゴス」の問題が生じる。旧約では、精神的フィルターはかからないことに対して、新約ではかかるのである。
 問題は少し複雑である。一つは、エローヒーム、一つは、ヤハウェがある。ヘブライ的反転はいわば、逆反転であり、エローヒーム側が賦活されると考えられる。
 そして、エローヒームの「子」として、イエス(単数である必要はないだろう。何故なら、太陽女神の子だからである。)が生まれるだろう。そして、イエスを生む「ロゴス」=「コトバ」は、精神的フィルター=一般言語形式である。
 ヨハネの福音書の有名な「初めにコトバありき」であるが、この「コトバ」は精神的フィルターになってしまうだろう。
 しかしながら、根本は虚軸部の差異共振エネルギーである。ここには、超越波動があり、それも一種の「コトバ」である。いわば、超越波動言語である。
 言いたいことは、イエスを生む「コトバ」とは、二重であることである。超越波動言語と精神的フィルター言語である。


ヨハネによる福音書
第一章
0101> 初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。
0102> この言は初めに神と共にあった。
0103> すべてのものは。これによってできた。でたもののうち。一つとしてこれによらないものはなかった。
0104> この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。
0105> 光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』
http://www.wcsnet.or.jp/~m-kato/bible/john.htm

この有名な文であるが、明らかに齟齬がある。何故なら、言と神が別々に存することを告げるが、直ぐに、言は神であると述べているのであるから。
 これはおくとして、この「言」であるが、これは、本来、超越波動言語であるはずであるが、しかし、イエスの生むときは、精神的フィルター言語になるのである。ロゴスというとき、この二種類があるのであるが、聖書では区別されていない。
 ここで、想起するのは、有名なヘラクレイトスのロゴス論であるが、それは、実は、超越波動言語と考えられる。
 

ヘラクレイトス
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ラファエロ 作『アテナイの学堂 』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、ミケランジェロ といわれている。

ヘラクレイトス(Ηράκλειτος Hērakleitos、 紀元前540年 頃 - 紀元前480年 頃?)は、ギリシア 人の哲学者 、自然哲学 者。
思想 [編集 ]

アナクシマンドロス から対立 と変化 、ピュタゴラス からは調和 の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。

万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、ロゴス を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは火 であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケー であり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレス などのそれとは異なっている。この「生成 」の思想は、パルメニデス の「存在 」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦 によれば、実際には同じ事柄(形而上学 における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、プラトン が引用している「万物は流転する」(Παντα ρει., Panta rhei.)がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。

その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲル などの思想の源流として、弁証法 の始まりを担う人としても考えられている。


この有名なヘラクレイトスの哲学は、端的に、差異共振理論を説いていると考えられる。つまり、虚軸部の差異共振エネルギーの「ロゴス」を説いていると考えられる。
 しかし、新約の「言」は、この「ロゴス」以外の精神的フィルター言語を意味すると考えられる。
 とまれ、新約・旧約聖書には、少なくとも、二つの「ロゴス」があるのであるが、これが混同されていると言えよう。
 そして、西洋文明においては、精神的フィルター言語が主要なので、聖書の「ロゴス」も、精神的フィルター言語として受容されたと考えられる。
 そうすると、当然、虚軸部が喪失されるのである。アリストテレス論理と聖書的精神的フィルター言語が合体すると、完全に同一性主義=唯物論になる。しかも、ヤハウェ的な-1が作用しているから、抽象的な同一性も作用している。
 結局、これらから、西欧近代が誕生することになるのであるが、問題は、ヘラクレイトス的な「ロゴス」の問題である。これが、喪失されるのである。 本来、「聖霊」がこれに相当するはずであるが、精神的フィルター言語や抽象的同一性が支配的なので、「聖霊」の意味がわからなくてなっていると考えられる。
 また、これは、イデア論も同様である。
 後で、ヤハウェについて緻密に検討したい。 

追記:ヘラクレイトスのロゴスであるが、それは、やはり、精神的フィルター言語が入っているのではないだろうか。つまり、虚軸部と実軸部を連続化させている面があるのではないだろうか。だから、ロゴスになっているのではないだろうか。
 つまり、こういうことだろう。古代ギリシア人は、Media Pointにおいて思考したが、+iの父権的知性が強いので、精神的フィルター言語的発想をするのであり、差異共振性をも、ロゴス(言語)にして捉えたのではないだろうか。

ヤハウェ
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ヤハウェ(YHVH, YHWH, JHVH, JHWH, IHVH, יהוה , yahweh) は、旧約聖書 中の、神(結果的には唯一神 )を表すヘブライ語 の単語を、推定の上、音訳したものである。 この4つの子音は「神聖四文字(テトラグラマトン Τετραγράμματον 、ギリシャ語 で『四つの文字』の意)」とも呼ばれる。
呼称 [編集 ]

日本語ではヤハウェの他にヤハヴェ(YaHVeH ヘブライ文字 ו [w]は現代ヘブライ語読みで/v/と発音)、ヤーウェ(YaHWeHのaHを長母音として音写)などの表記が用いられる。また、ユダヤ人たちの間では、後述するように直接ヤハウェの名を口にするのは恐れ多いと考えられ、神聖四文字を「アドナイ」と読み替えていた。YHWHに「アドナイ」の母音符号をつけると、エホウァやエホバ(YeHoVaH)となるのでそのように読まれることもある。
アドナイ、主 [編集 ]

日本語訳聖書 では、前述のユダヤの慣例を踏襲し、アドナイの訳語である「主」と訳すのが一般的である。日本聖書協会 発行の『口語訳聖書 』や『新共同訳聖書 』、カトリック 系の『バルバロ訳』などがこれである。ただし『新共同訳』では『創世記 』第22章14節でのみ「ヤーウェ」とする。これはいわゆるイサクの燔祭 の行われた「イエラエ」の地名を説明するために発音を示したものである。

またプロテスタント 福音派 系の『新改訳聖書 』では太字で「主」とする。これは一般名詞としての主と、「文語訳ではエホバ[1] と訳され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を」「訳し」[2] た「主」とを区別するためである。
ヱホバ、エホバ [編集 ]

「エホバ」系の表記を採用するものもある。1887年日本聖書協会 発行の『文語訳聖書 』(明治元訳聖書 )ではヱホバとなっている。[3] また、エホバの証人 の翻訳による『新世界訳聖書 』ではエホバが用いられる。[4] [5]
ヤーウェ、ヤハウェ [編集 ]

「ヤハウェ」系の表記を採用するものは少数派であるが、カトリックの『フランシスコ会訳聖書 』ではヤーウェである。また無教会派の関根正雄による旧約聖書ではヤハウェ、『中公バックス 世界の名著 13 聖書』(ISBN 978-4-12-400623-0 )の中沢洽樹による旧約聖書では「ハ」を小書きにしたヤハウェが用いられている。また前述の通り『新共同訳』では一部ヤーウェとあるほか、巻末収録の用語解説でヤハウェの読みも紹介している。
エル、エロヒム、シャダイ、神 [編集 ]

旧約聖書では他に「神」という一般名詞であるエル(古典的なヘブライ語発音でエール )やその複数形エロヒム (同じくエローヒーム)などもヤハウェの呼称として用いられるが、一般に日本語訳聖書 ではこれらの音訳は使用せず、これに相当する箇所は漢訳聖書 での訳語を踏襲し神とするものが多い。また、「全能・満たすもの」を意味するとされるシャダイの語を付してエル・シャダイとした箇所は全能の神などと訳される。
エロヒムの訳語としての「神」 [編集 ]

[6] 「神 」の字が、ヘブライ語のエロヒーム、ギリシャ語 Θεός"、英語の"God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清 におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソン 英語版記事:Robert Morrison )による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。 の" (

大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したが、和訳聖書の最も重要な資料と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書 は、「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書 はこの流れを汲み[7] 、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とずに[8] 、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。
概説 [編集 ]

ユダヤ教 成立以前の信仰をヤハウェ信仰と呼ぶ。ヤハウェは、元来はシナイ山 で信仰された山の精(ジン )などを指したのではないかと考える者もいる。ヘブライ人 がカナン の地を侵略、定着する過程で、先住民カナン人の最高神であるエルやバアル の性格を取り入れ、後にバビロン捕囚 などを経てユダヤ教が成立してゆく過程において唯一絶対神の性格を帯びるようになったとする説もある。四資料説においては、「エル」を神の呼称とする資料(エロヒム資料)に比べ、ヤハウェを神の名とする資料(ヤハウェ資料)は新しく、祭儀を祭司階級に担われたものと考える点などにおいて、先行資料と異なっている。

旧約聖書に於けるヤハウェは唯一神であり全世界の創造神とされ「宇宙の最高原理」のようなもので、預言者 を除いた一般人にとっては、はっきりしない存在であるが、むしろ自ら人間たちに積極的に語りかけ、「妬む」と自称するほど感情的であり、創世記 のとおり人類はヤハウェに似せて造られたことが伺える。ただし、広義では他の生物、物質も人類と性質が似ており、人類がヤハウェに似ていることは宇宙空間全体の事象に帰納できる。また、『創世記』第32章第31節〜や『出エジプト記 』第4章第24節〜などには自ら預言者たちに試練を与える場面もあり、ヘブライ人たちがヤハウェを決してはっきりしないというだけではなく、預言者を通じて実在感のある存在と捉えていた事がわかる。
キリスト教における受容 [編集 ]

キリスト教においてもヤハウェは神の名と考えられる。すでに『ヨハネによる福音書 』で「エゴー・エイミ・ホ・オーン」(Ἐγώ εἰμί ὁ ών、「私は在る」の意)という言葉はイエスと結び付けられ、その神性を現す意図で多用されている。「私は在る」とは『出エジプト記』第3章第14節においてヤハウェが名乗ったもので、イエスはこれを多用して自分がヤハウェと密接な関係にある事を暗に示したのである。正教会 において、イエスのイコン 、とりわけ自印聖像 においてその光輪にギリシア文字 "Ο・Ω・Ν"(ὁ ών 『在るもの』) を記す習慣もこれに関連する。

三位一体の教説が成立して以降、ヤハウェを単に神の名とするにとどまらず、特定の位格と結びついた名として捉える論考が現れる。一般に、西方教会 においてはヤハウェ(ラテン語文献では多く「エホバ」)を父なる神と同一視することが多く、対して東方教会 においてはヤハウェはイエス・キリスト の神格における名であると考えられることがある。
発音について [編集 ]

現在、ユダヤ教徒が一般生活において、יהוהを「ヤハウェ」と呼ぶことはない。かわりに「アドナイ」(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay] 『主』)あるいは「ハ・シェム」(הַשֵּׁם [haš Šēm] 『御名』)などの呼称を用いる。これは、モーセの十戒 により、ヤハウェをみだりに唱えてはいけないとされたためである。

しかし、古くはこの名は自由に口にされていたようである。南ユダ王国 崩壊からバビロン捕囚までの時代に書かれた『ラキシュ書簡』にも יהוה は頻繁に現れており、この名がこの時代に至ってもなお口にされていたことがわかる。また、それ以後にもこれを記した史料は散見される。

それがいつ頃から口にされなくなったのか正確には判らない。しかし、紀元前3世紀初めごろから翻訳の始まった『七十人訳聖書 』では、原語のヘブライ語での יהוה が置き換えられ、ほとんどの箇所で「主」を意味するキュリオス (Κύριος) と訳されている(ただし『第二イザヤ書 』では前述の通り「私はヤハウェである」が「エゴー・エイミ・ホ・オン」すなわち「私はある」と意訳されている)。つまり、この頃にはこの名が「主」を意味するアドナイと読み替えられていたのであり、バビロン捕囚以後の300年ほどの間にそのまま発音することがタブーとされるようになったと考えられる。

ヘブライ文字 では母音 を記さず、また、その後古典ヘブライ語が日常言語としては死語となってしまったため、ついには正確な発音が忘れ去られるに至った。後にヘブライ文字に母音を表記する方法が考案された際、聖書のこの名が記されている箇所には、アドナイと読み替える前提でその母音が付けられた。そのため、 יהוה つまりYHWHという子音の綴りに、アドナイ( ’Ăḏōnay )の母音 (-ă -ō -a) を付けてエホバ (Yəhōvah) と読む誤読が発生した。なお、文法上、ヘブライ文字yには弱母音のă(ア)を付けられないため、曖昧母音のə(エ)で発音される。

では、実際にはこれはどう発音されていたのか。現在の学者は、元来の神名はヤハウェという意見でほぼ一致している。

人名などの要素として用いられる יהוה の略称は「ヤ」 ( יָה [yāh])、「ヤフ」 (יָהוּ [yāhû])等であり、ここから最初の母音はaであったと推測できる。 また、古代教父によるギリシア文字転写形として Ιαουε (ヤウェ?)、Ιαβε (ヤヴェ?)があり、これらからYHWHの本来の発音はYahweh、あるいはYahvehであったと推測されている。
意味について [編集 ]

古くからヤハウェの名は、「存在」を意味する語根(√היה [√hyh])と関連づけて解釈されてきた。これは『出エジプト記』第3章第14節で、ヤハウェがモーセに応えて「私は在りて在るものである」 (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה [’ehyeh ’ăšer ’ehyeh])と名乗った事に由来する。

この「私は在る」(אֶהְיֶה [’ehyeh])という一人称・単数・未完了相の動詞を三人称・単数・男性・未完了相の形「彼は在る」にするとיִהְיֶה [yihyeh]となり、יהוהと似た形になる。ここから、ヤハウェの名はイヒイェの転訛で「実在するもの」「ありありと目の前に在るもの」などの意味だと解釈されてきた。

ヘブライ人は誓言の時に「主は生きておられる」という決まり文句を使っていたが、ここからも彼らがヤハウェを「はっきりしないとはいえ、生々しく実在するもの」と捉えていた事がわかる。はっきりしているのは、創世記 の冒頭により、ユダヤ教徒(キリスト教徒 、イスラム教徒 )は、闇が主要素となる宇宙空間 を構築した正体を、ヤハウェ(ゴッド 、アラー )であると考えている点である。

また、היהのヒフイル(使役)態の三人称・単数・男性・未完了相の形が、יַהְיֶה [yahyeh]となり、ちょうど「ヤハウェ」と同じ母音の組み合わせになる。ここからその名を「在らしめるもの」「創造神」とする解釈もある。

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カテゴリ : 唯一神 | 旧約聖書


2009年10月24日(Sat)▲ページの先頭へ
茶臼山古墳の朱は太陽信仰の証し:太陽女神の子(大王おおきみ)の復活・再生信仰:折口信夫の世界
テーマ:折口信夫『死者の書』

赤い石室 水銀朱200キロ - 隠れる部分も彩色【桜井・茶臼山古墳】

2009年10月23日 奈良新聞

推定200キロもの水銀朱が用いられていた竪穴式石室=22日、桜井市外山の桜井茶臼山古墳(代表撮影)


 古墳時代前期(3世紀末〜4世紀初め)に造られた大王墓級の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(桜井市外山、全長200 メートル)の発掘調査で、県立橿原考古学研究所は22日、明らかになった竪穴式石室の全容を発表した。赤く彩られた石室の壁体や天井石には少なくとも約 200キロの水銀朱を使用。石材の見えない部分にまで朱が施され、大王の墓にふさわしい丁寧な造りだったことが分かった。

 昭和24年以来60年ぶりの石室調査。8月に始まり、今月4日には長さ4.89メートルの遺存木棺の運び出し、基底部の構造も判明した

 石室は南北6.75メートル、北端幅1.27メートル、高さ1.71メートル。開口部をすぼめず、壁になる割石を垂直に積み上げているのが特徴。12枚もの巨大な天井石を調達し、運ばせることができた権力者の埋葬をうかがわせる。

 墓壙(ぼこう)底の中央に基台を設け、上面は板石を敷き詰めていた。棺を支える土の層は厚み最大18センチで、通常は粘土が使われることが多いが、赤っぽい特製の土だった。

 石室一面の赤色は化学的分析で硫化水銀と判明。表面積に厚みと比重をかけて算出した推定重量は、多量の水銀朱の出土で知られる大和天神山古墳(天理市)の42キロの約5倍。壁体となる石の一つ一つの全面に朱が塗られるなど極めて丁寧な造りだった。石室以外にはベンガラ (酸化鉄顔料)も使われていた。

 朱の意味について、橿考研の菅谷文則所長は「再生への願いと死者への怖れをもって鎮魂する両方があったのだろう」と話している。

 現地見学会は29〜31日の3日間、午前10時〜午後3時。JR・近鉄桜井駅から徒歩15分。駐車場はない。雨天中止。問い合わせは橿考研、電話0744(24)1101。
http://www.nara-np.co.jp/
20091023102241.html


石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認

10月22日20時13分配信 産経新聞
石室の大量の水銀朱は権力の象徴 桜井茶臼山古墳で確認

 初期大和政権の大王クラスの墓とされる前方後円墳、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末−4世紀初め)で、被葬者を納めた竪穴式石室の全面が大量の水銀朱で赤く塗られていることが分かり、県立橿原考古学研究所が22日、発表した。水銀朱の総重量は約200キロと推定され、国内の古墳で確認された量としては最多。

 水銀朱は当時、不老不死の薬ともされており、研究所は「貴重な水銀朱を大量に使って、権力の大きさを示したのでは」としている。

 竪穴式石室は長さ6・75メートル、幅約1・2メートル、高さ約1・6メートルと判明。内部には、木棺(長さ4・9メートル、幅75センチ)の底板がほぼ当時の状態で残っていた。石室の壁は、一辺50〜60センチ大の板状の石材数千枚を積み上げて構築。石材のほぼ全面に水銀朱が塗られていた。水銀朱は、大和(奈良県)で多産した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。

 国内の古墳で使われた水銀朱はこれまで、大和天神山古墳(奈良県天理市)で確認された42キロが最多とされていた。

 桜井茶臼山古墳は昭和24〜25年に発掘調査されているが、研究所が石室構造などの解明を目指し再調査していた。

 現地見学会は29〜31日の連日午前10時〜午後3時に行われる。

 古代の人々はなぜ「赤」にこだわったのか。「死者の魂をよみがえらせる」「権力の象徴だった」−。研究者たちは、王者の眠る神聖な空間にさまざまな思いをはせた。

 桜井茶臼山古墳が築かれた時代に中国で流行した神仙思想についての解説書「抱朴子(ほうぼくし)」(317年成立)には、「丹」(=水銀朱)について「飲めば不老不死の仙人になれる」と記されている。

 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)は「純度の高い水銀朱が使われており、不老不死を強く願った被葬者の姿がうかがえる」と指摘。河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)も「血の色を思わせる水銀朱によって、死者の再生を願ったのではないか」と推測した。

 一方「抱朴子」には「仙薬(仙人になるための薬)のうち、最上のものは丹砂(=水銀朱)。次は黄金」と記載。和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は「金よりも貴重とされた水銀朱が、200キロも使われていたとは」と驚く。

 和田教授によると、水銀朱の産地候補の一つは奈良県宇陀市付近。この一帯は、昭和後期まで水銀を採掘する鉱山が点在した国内有数の辰砂の産地で、桜井茶臼山古墳やこれまで最多の出土量とされていた大和天神山古墳とも近く、和田教授は「大和政権の成立を考える上で水銀朱は重要な要素になるだろう」と話した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20091022-00000602-san-soci

木棺はコウヤマキ製、やはり大王を埋葬 奈良・桜井茶臼山古墳

初期大和政権の大王クラスの前方後円墳で、被葬者の魂を守る「玉垣跡」とみられる柱穴列(はしらあなれつ)が見つかった奈良県 桜井市の桜井茶臼山古墳(全長200メートル、3世紀末〜4世紀初め)で、遺体を安置した木棺が、大型古墳で用いられるコウヤマキの木で作られていたことが13日、県立橿原考古学研究所の調査で分かった。昭和24年の調査で「トガの巨木」と鑑定されたがコウヤマキと判明。約60年ぶりに「真実」が突きとめられた。

 同研究所が、木棺を納めた竪穴式石室周辺を発掘したところ、長さ数センチの木の破片100点以上が出土。木棺の一部とみられ、顕微鏡で詳細に観察した結果、細胞の形などからコウヤマキと特定した。

 竪穴式石室は、24年の調査によって、長さ6・8メートル、幅1・3メートル、深さ1・6メートルの規模と判明し、木棺の底板が長さ5・2メートル、幅70センチ分見つかった。当時の分析では、マツ科の針葉樹「トガ」と鑑定されていた。

 古墳の木棺は通常、石室内に流入する土砂などによって腐食して残らないことが多いが、初期大和政権中枢部に築かれた前方後円墳の大和天神山古墳(同県天理市、全長103メートル)や前方後方墳の下池山古墳(同、全長120メートル)などでは木棺が残っており、いずれもコウヤマキ製だった。

http://www.iza.ne.jp/news/
newsarticle/natnews/topics/265817/


参照:
『朱色は太陽の色、太陽信仰(神道)を意味し、大王は太陽(女神)の子:大女神信仰:イシスとオシリス』

朱一色、大王の石室が一般公開へ 60年ぶり発掘

 初期大和政権の大王墓とされる奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀前半、全長200メートル)で、全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され、県立橿原考古学研究所が22日、公開した。

 貴重な顔料の水銀朱をふんだんに使い、四方の壁は板状に加工した石1千枚以上を整然と積み上げて構築。強大な力を誇った王の威容を示し、初期大和政権の成立を考える第一級の史料。

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『大和の朱色 60年ぶり  桜井茶臼山古墳を再発掘』

水銀朱であるが、それは魔よけに使われたという以前に、朱は太陽の色、つまり、太陽神の色であり、大女神を意味したと考えられる。そして大王は大女神の子であり、朱で染めることで、復活を意味していると考えられる。イエスも本来、このパターンであるが、大女神を「父」が簒奪しているのである。
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2009年10月09日(Fri)▲ページの先頭へ
多神教と一神教のイデア力学:多神教⇒一神教⇒新多神教:負のエネルギーとトランス・モダン
先に、-iが内的自然且つ外的自然と言ったが、この視点から、多神教の説明ができる。即ち、認識主体である+iが、内的自然且つ外的自然の-iと共振したときの「観念的映像」が神々と考えられる。
 例えば、「海」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振したとき)、「海」-iは、「海神」(ワタツミ、ポセイドン)となるのである。
 あるいは、「太陽」-iを認識主体+iが見たとき(差異共振視覚したとき)、それは、「太陽神」(アマテラス、アポロ)になるのである。
 このように、神々が誕生し、多神教現象界が生まれるのである。神道世界、古代ギリシア世界である。
 それに対して、一神教は、認識主体+iが内的自然且つ外的自然-iを否定する「観念」である。そして、現象⇒+1を同一性+1に抽象還元してしまい、現象を物質化するのである。
 否、的確に言えば、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)との差異共振を否定するのある。言い換えると、認識主体+iが内的自然且つ外的自然(絶対的他者)-iに対して、絶対的に優位に立つのが、一神教の原理であると考えられる。
 だから、-iを否定するというよりは、抑圧するのである。つまり、それなりの差異共振性は生じるが、それを認識主体+i中心に二元論(二項対立)化するのである。そして、+iが同一性=唯一神となり、-iと差異共振性が抑圧・排除・隠蔽される「神々」(母権的多神教)となると考えられるのである。
 ここで、マイナス・エネルギーを考えるべきである。即ち、プラス・エネルギーは、最初は、多神教形成となったが、さらに、+iが支配的になり、一神教へと展開した。しかし、ここで、非対称的・不連続的・「絶対的差異」的反転が起るのである。
 認識主体+iはプラス・エネルギーの帰結として、二元論化によって現象界を+1の同一性、「物質」へと還元したが、新たに、マイナス・エネルギーが賦活されて、同一性を形成した認識主体+iの観念体系を解体し出すのである。これが、脱構造化、脱構築化である。言い換えると、新たな差異化である。
 これは、端的には、内的自然且つ外的自然(=絶対的他者)-iのイデア・エネルギー(超越エネルギー)の活性化と考えられる。ここで、認識主体+iの、いわば、同一性中心主義(「ロゴス中心主義」⇒近代主義)の独裁・支配が解体し、終焉するのであるが、認識主体は、新たに賦活された-iのエネルギーと差異共振エネルギーに挑戦されるのである。換言すると、絶対的他者である「未知との遭遇」が生起するのである。
 ここで、宗教的には、新多神教が生まれることになるのであり、文明的には、一神教的ユダヤ・キリスト教的西洋文明が解体・崩壊・瓦解することを意味するのである(イスラム教的一神教は、矛盾していて、差異共振的一性と同一性を連続化しているのであり、同一性を解体すると多神教的イスラム教となるだろう。)。哲学的には、連続的同一性主義、「ロゴス中心主義」の崩壊である。経済的には、近代資本主義・同一性金融資本主義の崩壊(リーマン・ショック)である。政治的には、近代民主主義の崩壊である。
 そして、ここで、新たな東洋文明の黎明となるのである。
 結局、哲学(哲学科学=フィロソ・サイエンス=「フィロソフィエンス」philosophience)的には、マイナス・エネルギーとは、⇒-1とは、-iの賦活化であり、新たな差異共振化、新たなイデア論化、新たな超越化等を意味すると考えられる。
 ⇒+1を陽化(プラス化)とすれば、⇒-1は陰化(マイナス化)である。
 では、量子力学的にはどうなのだろうか。マイナス・エネルギー(⇒-1)は、-iのエネルギーであるし、差異共振エネルギーでもある。この三つの様態がある。
 おそらく、ダーク・エネルギーと言う場合、これらの三つの様態が混淆されているのかもしれない。
 また、ダーク・マターであるが、それは、-i自体を意味するのかもしれない。これらの点は検討課題である。

追記:因みに、ニーチェのディオニュソスは、負のエネルギーであり、差異共振性である。
 キリスト教の精神であるが、それは、差異共振性を、同一性で規定しているのが、問題なのである。「愛」は、差異共振性の同一性的限定化なのである。ニーチェやロレンスが「愛」を批判したのは、正鵠を射ている。鳩山首相の友愛主義もこの視点から批判される。

追記2:新多神教とは、つまり、ゾロアスター教的黙示録(アポカリプス)を意味する。アンラ・マンユ(正のエネルギー)をスプンタ・マンユ(負のエネルギー)が打ち破り、アフラ・マズダー的新光明文明を産み出すということである。


2009年10月03日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:ギリシア神話の主神ゼウスの多情性:虚軸情報と実軸情報の差異
ギリシア神話において、一見ゼウスはわかりやすい。しかしながら、謎めいている。
 ゼウスは、PS理論における虚軸ゼロ点ではないだろうか。そして、ゼウスが交わる女性は、実軸ゼロ点ではないだろうか。PS理論(以下、PST)からは、本来、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点は即非様態、即非一性(即非二一性)である。
 これが、父権制の傾斜によって、ギリシア神話において、ゼウスと女性の二元論となっているのではないだろうか。
 これで、ゼウスの正体が明確になると思われるのである。つまり、ゼウスとは、大女神の性格と父権神の性格の二重性をもっているのである。言い換えると、母権制と父権制の二重性があるのである。
 正確に言うと、基底は母権制であり、そこへ父権制が侵入して、前者を二元論化し始めているのが、ギリシア神話と考えられる。とまれ、ベースの母権制を確認する必要がある。
 また、ゼウス的な「交配」によって、多様性が生まれるのである。それは、本来は、母権的多神教的生成・創造性と考えられる。 
 より理論的に言えば、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点において、絶対的差異があるということである。前者においては、純粋な超越的なエネルギーがあり、後者においては、構造(身体・「物質」・同一性)的なエネルギーがあるということである。
 つまり、情報と言うとき、前者の精神的情報と後者の「物質」的情報があるということになるだろう。
 ここで遺伝子の問題を考えると、DNAは、端的に、後者の情報であり、個々の才能、性格、個性等は、前者の情報ではないだろうか。言い換えると、前者が「天」であり、後者が「地」である。天才とは正に、「天」賦の才能となる。この「天」と「地」の絶対的差異、位階的差異が本質的に重要である。
 とまれ、これを物質科学は混同していると考えられるのである。
 量子論もこの混同を犯している面がある。電磁波はMedia Pointのエネルギーの実軸面の事象ではないだろうか。つまり、電磁波の虚軸面、つまり、虚軸情報を的確に把捉していないのではないだろうか。
 「気」と言う場合、それは、超越的情報をもっていると考えられる。後で検討を続けたい。


2009年07月18日(Sat)▲ページの先頭へ
ケインズによる「魔術師」ニュートン像:古代バビロニアとトランス・モダンが共振する:星辰力学へ
以下、Kaisetsu氏がケインズによるニュートンに関するスピーチ原稿を掲載されている。
 ケインズがニュートンの「オカルティズム」ないしは錬金術の研究を行っていたことは知っていた。あまりに異色な取り合わせであり、また、近代科学史において、「オカルティズム」が一つの源流であったことも知っていたので、特に探求しようとは思わなかった。
 とまれ、以下はかなりの長文(名文である)なので、拾い読みしたが、ニュートンがキリスト教三位一体を否定して、異端とされたアリウス派(父の神性を肯定して、子の神性を否定する神学)を肯定していた点が興味深い。
 とまれ、イギリス文化は基本的には二層構造なのである。表層は、近代合理主義(近代主義)ではあるが、深層は「神秘主義」がいわば蠢いているのである。前者がアングロ・サクソン的(父権的)、後者がケルト的(母権的)と言うことも可能だと私は考えている。あるいは、西欧的と東洋的である。
 PS理論は、ニュートン/ケインズの「魔術」ないしは古代バビロニア科学の視点をもトランス・モダン的知性から包摂することが可能である。
 余裕がないので、私事を述べると、これまで、ケプラーを除いて、ニュートンやガリレオという近代科学の創始者が苦手であったが、ニュートンを見直すことになった。
 近代日本、とりわけ、戦後日本は、これらを似非科学として排除したり、また、単に近代合理主義の源流という評価しかしてこなかったと言えるが、トランス・モダン・エイジは、近代合理主義が否定したものに創造的な知の可能性を探求することになる。
 錬金術は深層心理学者のユングが取り入れている(故にユング心理学は近代合理主義者から否定されている)。私は占星術のトランス・モダン化が必要だと強く感じている。今の占いではなく、星力学が必要である(これは、当然、ゾロアスター教とも関係する。魔術師Magusのマギは占星術師である)。
 PS理論から言うと、Media Pointに星力学の秘密が隠されている。以前、思考実験したが、まったく不十分である。先にプラトンの魂の三区分説を援用したが、それとも関係する。「魂」(Media Point Mode)の多元振動があり、それが、知意志/気情/身体の「遺伝子」のように思えるのである。そして、この「魂」の振動と太陽系や銀河系の振動とがいわばCosmic Media Pointを介して「リンク」している、即ち、共振・共鳴していると思えるのである。
 とまれ、残念であるが、ここで留める。

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参照原文:He(Newton) was the last of the magicians, the last of the Babylonians and Sumerians,..... by John Maynard Keynes
2009.07.18 Saturday
John Maynard Keynes: Newton, the Man



In the eighteenth century and since, Newton came to be thought of as the first and greatest of the modern age of scientists, a rationalist, one who taught us to think on the lines of cold and untinctured reason.
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=776214#sequel

参照:
脱理性,脱合理性の彼方にある知的世界とはどのようなものか,想像するだけでわくわくします。 by toramaru氏

トランス・モダン位階秩序と「Color Hierarchy(色階層)」
2009.07.18 Saturday
 Color Hierarchy
 Color Gradation
http://blog.kaisetsu.org
/?eid=776205
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
参照:
アイザック・ニュートンのオカルト研究
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ニュートン。エノク・シーマンによる肖像画(1724)からの彩色版画

この項目ではアイザック・ニュートンのオカルト研究について解説する。ニュートン は著名なイギリスの科学者・数学者であったが、現在ではオカルト 研究に分類される著作を多く著しており、年代学・錬金術・聖書解釈(特に黙示録)について研究していた。

ニュートンは、彼個人としては科学研究の成果よりも古代の神秘的な英知の再発見に重きをおいていたという考えがある。このような文脈で、世界を機械的に考えることを「ニュートン的世界観」と表現するのは語弊があると言う者もいる。たとえば、1942年にニュートンの錬金術研究書を購入し、検討した経済学者のケインズ は、「ニュートンは理性の時代 (age of reason)の最初の人ではなく、最後の魔術師 だ」と発言した。

しかしながら、ニュートンが生きていた前近代では、インテリ層が持っていた世界観は、後世のそれと異なっていたことは記しておかねばなるまい。科学 ・迷信 ・疑似科学 など、今日当たり前だと思われている区別はまだ混沌としており、厳格なキリスト教聖書の世界観は依然西洋文化に浸透していたのである。


参考:
マギ
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マギ(ラテン語 複数形 magi)は、本来、メディア王国 で宗教儀礼をつかさどっていたペルシア 系祭司階級の呼称。

単数形はマグス (magus)。アヴェスター語 形マグ(magu, maγu)に由来し、ギリシャ語 形の単数マゴス (μάγος)、複数マゴイ (μάγοι) を経由しラテン語化した。英語では単数メイガス (magus)、複数メイジャイ (magi)、形容詞メイジャン (magian)。普通名詞 なので小文字 始まりだが、東方三博士 の意味では固有名詞 あつかいで大文字 始まりである。

本来のマギと意味の変遷 [編集 ]

ヘロドトス の『歴史 』には、「マギには、死体を鳥や犬に食いちぎらせたり、 アリや蛇をはじめその他の爬虫類などを無差別に殺す特異な習慣があった」と記されている。これらの習慣はアヴェスター に記された宗教法と一致しており、彼らはゾロアスター教 と同系の信仰を持っていたと考えられる。

アケメネス朝 ペルシア史上では、王位簒奪者のマギであったガウマータを、ダレイオス1世 が倒して王位に就いたとされている。

一方、キリスト教 世界では新約聖書 、福音書 の『マタイによる福音書 』にあらわれる東方(ギリシア語でanatole。当時はペルシャのみならずエジプト北部などその範囲は広い)の三博士を指して言う場合が多い。三人の王とも訳される。直訳すれば星見すなわち占星術 師であるが、マタイ福音書の文脈では、天文学者 と推測される。

やがて、マギという言葉は 人知を超える知恵や力を持つ存在を指す言葉となり、英語 のmagicなどの語源となった。これはマギが行った奇跡 や魔術 が、現代的な意味での奇術、手品に相当するものだったと推定されるからである。また磁石 を意味するマグネットmagnet, マグネシウムmagnesium の語源も、マギが奇跡のために使用したことに由来する、という説がある。

サーサーン朝 時代では、中期ペルシア語(パフラヴィー語 )でゾロアスター教の神官であるマギのことを「マグ」ないし「モウ」 mgwy/mag,mow と呼んでいた。特にオーフルマズド神(アフラ・マズダー )やアナーヒード女神(アナーヒター )などの神々に捧げられた拝火 神殿を管理するような高位の神官は「モウバド」(mgwpt/mowbad, mōbad)と呼ばれ、モウバドの管理のもと多くのマグたちが神殿の運営や儀式を執り行っていたようである。サーサーン朝の始祖アルダシール1世 の祖父である名祖サーサーンはイラン南西部ファールス 地方の都市イスタフル のアナーヒード 神殿の管理職であったこともあり、同王朝は創建初期からゾロアスター教団とも密接な関係にあったが、第2代君主シャープール1世 から第7代君主ナルセ1世 の時代にかけて活躍した神官カルティール は、最高位の神官であるモウバダーン・モウバド(Mowbadān-Mowbad 「モウバドたちの中のモウバド」の意味)を名乗って王朝全土の諸神殿を統括し、キリスト教 やユダヤ教 、マニ教 、仏教 など外来諸宗教の勢力を弾圧し、国家宗教としてゾロアスター教団の威信を拡大させるなど、サーサーン朝の宗教政策を主導したことで知られている。

タバリー などのアラビア語 ・近世ペルシア語 の年代記や地誌などの諸文献では、ゾロアスター教神官・聖職者である「マギ」や広くゾロアスター教徒一般を指してマジュース مجوس majūs と呼ばれている。
福音書が伝える三博士の礼拝 [編集 ]

「東方三博士 」を参照

『マタイによる福音書』(2:1-12)によれば、イエス が生まれた時、東方にてマギ(博士たち)が大きな星を見、その星に導かれてエルサレム まで赴き、新しい王が誕生したのはどこかとヘロデ大王 に尋ねる。ヘロデは動揺しながらも側近に尋ね、側近は聖書の記述からそれはベツレヘムであると博士たちに教えた。博士たちはさっそくその場を発つと、星にしたがってイエスのいる場所につくことができた。幼子の前にたどり着くと、彼らはひれ伏し、黄金 、乳香 、没薬 を贈り物として捧げた。ヘロデは新しい王など生まれては困るので、博士たちに場所を教えるよう命じていたが、博士たちは夢のお告げでヘロデに会わないよう命じられたため、ヘロデを避けて別の道から故郷に戻った。そのためイエスはヘロデに殺害される事を免れた。しかし、ヘロデによってベツレヘムの2歳児以下の男子全て虐殺(幼児虐殺 )され、イエスは両親とともにエジプト へ逃れた。

※博士たちを導いた星は木星 である事は判明。[要出典 ]

『ルカによる福音書 』に描かれたイエスの誕生場面ではこの三博士は登場せず、代わりに飼い葉桶に寝ていた幼子イエスに羊飼い達が訪れる場面がある。西洋美術やクリスマスに飾られる馬小屋の飾りでは、博士と羊飼いが一緒に描かれているものも多い。

前掲の福音書には記述がないが、博士たちの人数は贈り物の数から伝統的に3人とされている。彼らの名前として西洋では7世紀 から次のような名が当てられている。それはメルキオール(Melchior, 黄金(王権の象徴)、青年の姿の賢者)、バルタザール(Balthasar, 乳香(神性の象徴)、壮年の姿の賢者)、カスパール(Casper, 没薬(将来の受難である死の象徴)、老人の姿の賢者)である。いずれもペルシア人の名でなく、何らかの意味も確認できない。シリア の教会では、ラルヴァンダド(Larvandad),ホルミスダス(Hormisdas), グシュナサファ(Gushnasaph)という別の名が当てられているが、こちらはペルシア語の人名として意味をなしている。アルメニア教会 では、カグバ(Kagba), バダディルマ(Badadilma) 等の名前を当てている。

なお、インド の一部の伝統では、ある人物が光明 を得るためには、三人の他の光明を得た人物によって、その人物の将来の光明が予言される必要があるという言い伝えもある。

関連項目 [編集 ]

* キリストの降誕
* クリスマス
* 東方の三博士
* 賢者

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/%E3%83%9E%E3%82%AE " より作成
カテゴリ : 出典を必要とする記事 | 聖職者 | 古代ペルシア | 福音書

Magi
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For other uses, see Magi (disambiguation) .
Conventional post-12th century depiction of the Biblical magi (Adoração dos Magos by Vicente Gil). Balthasar , the youngest magian, bears frankincense and represents Africa. To the left stands Caspar , middle-aged, bearing gold and representing Asia. On his knees is Melchior , oldest, bearing myrrh and representing Europe.

Magi (Latin plural of magus, ancient Greek magos, English singular 'magian', 'mage', 'magus', 'magusian', 'magusaean') is a term, used since at least the 4th century BCE, to denote a follower of Zoroaster , or rather, a follower of what the Hellenistic world associated Zoroaster with, which was – in the main – the ability to read the stars, and manipulate the fate that the stars foretold. The meaning prior to Hellenistic period is uncertain.

Pervasive throughout the Eastern Mediterranean and Western Asia until late antiquity and beyond, Greek mágos "magian" was influenced by (and eventually displaced) Greek goēs, the older word for a practitioner of magic, to include astrology, alchemy and other forms of esoteric knowledge. This association was in turn the product of the Hellenistic fascination for (Pseudo-)Zoroaster , who was perceived by the Greeks to be the "Chaldean " "founder" of the Magi and "inventor" of both astrology and magic. Among the skeptical thinkers of the period, the term 'magian' acquired a negative connotation and was associated with tricksters and conjurers. This pejorative meaning survives in the words "magic " and "magician ".

In English, the term "magi" is most commonly used in reference to the Gospel of Matthew 's "wise men from the East", or "three wise men" (though that number does not actually appear in Matthew's account, and various sources placed the number anywhere between two and twelve). The plural "magi" entered the English language around 1200, in reference to the Biblical magi of Matthew 2:1 . The singular appears considerably later, in the late 14th century, when it was borrowed from Old French in the meaning magician together with magic.

http://en.wikipedia.org/wiki/Magi

西洋占星術
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人体と十二宮の照応関係を示した図(ベリー公のいとも豪華なる時祷書 より)

・・・・・


ケプラーがヴァレンシュタイン のために作成したホロスコープ。当時のホロスコープはまだ正方形であった。

ルネサンス期の占星術にとって特に重要だったのは、コペルニクス の『天球の回転について』(1543年)である。これによって、プトレマイオス的な地球中心説 とともに、伝統的な占星術における太陽や月を含む「惑星」概念が否定された。同時に、宇宙が地球を中心とする狭い同心円でなく、大きな広がりを持っていたことが認識され、そのように離れた星々が、どれほどの影響を行使しうるのかという問題も発生した[23] 。

17世紀に入ると、天文学者でもあったヨハネス・ケプラー が、この問題に取り組んだ。ケプラーは『へびつかい座 の新星』では、「賢いけれども貧しい母」(天文学)と「その生活費を稼ぐ愚かな娘」(占星術)の対比によって、占星術があくまでも日々の糧を稼ぐための道具であると述べていたが[24] 、『占星術の確実な基礎について』(1602年)、『第三に介入するもの』(1610年)、『世界の調和』(1619年)などでは、新たな占星術理論の構築を試みている[25] 。しかし、太陽中心説 を軸とする刷新はうまくいかず、当時はむしろジャン=バチスト・モラン の『ガリアの占星術』(1661年)のように、プトレマイオス的世界観を墨守することを表明するものもあった。他方で、ケプラーは占星術を数学的に純化しようとしたことをはじめ、様々な改革を試みており、アスペクトなどでは重要な貢献を行っている。ケプラー以前のアスペクトは、第1にサインとサインの関係であったが[26] 、ケプラーは星と星の間の角度として再定義し、この新たなアスペクト概念は多くの占星術師に受け入れられ、現代に到っている。



[Public Domain Image]
Harmonies of the World
by Johannes Kepler
tr. by Charles Glenn Wallis
[1939]
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http://www.sacred-texts.com
/astro/how/index.htm

Johannes Kepler
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http://en.wikipedia.org/wiki
/Johannes_Kepler


2009年07月03日(Fri)▲ページの先頭へ
諸宗教とは原神性=超越性に対する諸観点ではないのか:宗教の脱同一性化と絶対的脱構築主義
たびたび引用するアメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルの主著に『神の仮面』Masks of Godという四巻本がある。この「神」Godを原神=超越性と見れば、私の考えが明快になるだろう。
 つまり、元々は根源的に一つの原神性=超越性が存するのであり、それを、各民族、各時代、各土地、等によって、すなわち、そのフィルターを通して、見ていたのではないだろうか。
 即ち、原神(神々)が存するが、それをユダヤ民族は、ヤハウェやエローヒームと、キリスト教徒はイエス・キリストと、マホメット(ムハンマド)は、それをアッラーと、また、仏陀は空と、そして、ザラシュトラはアフラ・マズダーと、そして日本民族は、三柱の神や八百万の神と、そして、インド人はヴィシュヌ、ブラフマン、シヴァと、そして他は別様に見たのではないだろうか。
 根本的な超越的普遍性があるのであり、それを多様に把握しているのである。これは、以前、Kaisetsu氏が説いた相対性理論の考え方に共通しよう。「光」の普遍性があり、それを多様に観測するということである。
 これは当然、宗教・神話に限られず、超越エネルギーがあるのであり、これを合理的に秩序化したものが自然科学ということと考えられる。しかしながら、近代科学は同一性=物質の観点から超越エネルギーの現象態を捉えようとしたに過ぎない。もっとも、量子論は、超越エネルギーを対象としているといえよう。ただし、唯物論の枠組みをまだ残存させてはいるが。
 また、東洋哲学は、基本的に超越エネルギーを対象としていると言えよう。だから、「気」という視点が生まれると考えられる。つまり、「気」とは超越エネルギーであるということである。陰陽論は超越エネルギーを対象としていると言えよう。
 宗教に戻れば、結局、諸宗教の教徒が相争うのは、普遍的超越性を同一性化することによって、相対立が起こることからだろう。普遍性を同一性化すれば、それは、二項対立を生み、自身が正しく、他者は誤謬であるとなるのである。
 根源的超越性を例えば、iとすれば、それを+1として見るのが同一性化である。わかりやすく言えば、「川」が存するが、riverやStromやrivièreや川、等々と呼ぶようなものである(追記:私が直感・直観を重視するのは、同一性言語に囚われない、原感覚・原知覚、言い換えると、普遍的感覚・普遍的知覚がそこにはあるからではないだろうか。だからこそ、言語よりも、美術や音楽の方が、対象を誤魔化しなく捉える傾向をもつと考えられる。つまり、言語意識よりも、感覚意識の方が対象を正しく捉えるということである。)。もちろん、各地域によって川の性質は異なるのは確かであるが。宗教の脱同一性化が必要である。脱フィルター化である。
 思うに、脱構築主義は、差延を問題し、同一性と差異との相対性を述べて、同一性的な構築を否定するという発想である。それは、正に、ポスト・モダンであり、ドゥルーズの連続的差異と類似する。
 そう、脱構築の脱構築が必要なのである。いわば、絶対的脱構築主義である。これまでの脱構築主義は、相対的脱構築主義ということになる。

追記1:思うに、一神教は同一性化が多神教よりも強化されたものと言えよう。とまれ、根本は超越的エネルギー論であるということである。

追記2:ウィリアム・ブレイクは、All Religions are One.(すべて宗教は一つである。)と述べていたのを想起する。

Title; E1| ALL RELIGIONS are ONE t2


AROepigraph; E1| The Voice of one crying in the Wilderness


ARO; E1| The Argument As the true method of knowledge is experiment
AROargmuent; E1| the true faculty of knowing must be the faculty which
AROargument; E1| experiences. This faculty I treat of.
ARO; E1| PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that
AROprin1; E1| the body or outward form of Man is derived from the Poetic
AROprin1; E1| Genius. Likewise that the forms of all things are derived from
AROprin1; E1| their Genius. which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit
AROpriin1; E1| & Demon.
ARO; E1| PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and
AROprin2; E1| with the same infinite variety) all are alike in the Poetic
AROprin2; E1| Genius
ARO; E1| PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart,
AROprin3; E1| but he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from
AROprin3; E1| the Poetic Genius adapted to the weaknesses of every
AROprin3; E1| individual
ARO; E1| PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out
AROprin4; E1| the unknown. So from already acquired knowledge Man could not
AROprin4; E1| acquire more. therefore an universal Poetic Genius exists
ARO; E1| PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from
AROprin5; E1| each Nations different reception of the Poetic Genius which is
AROprin5; E1| every where call'd the Spirit of Prophecy.
ARO; E1| PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original
AROprin6; E1| derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
AROprin6; E1| confined nature of bodily sensation


ARO; E2| PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So
AROprin7; E2| all Religions & as all similars have one source
AROprin7; E2| The true Man is the source he being the Poetic Genius
http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/all_religions_are_one.html
Contents, The Complete Poetry and Prose of William Blake
edited by David V. Erdman 
The Masks of God, Vol. 1: Primitive Mythology (Paperback)

http://www.amazon.com/
Masks-God-Vol-Primitive-Mythology
/dp/0140194436/ref=sr_1_1?ie
=UTF8&s=books&qid=1246617
764&sr=1-1
記事URL コメ


2009年06月29日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:西欧キリスト教の滅亡とイスラム教・ユダヤ教の発展:日本はゾロアスター教化すべきだ
米国のキリスト教は一先ずおいて、西欧キリスト教について考えると、もはや、力をもっていない。逆に、イギリスでは、クリスチャンは違和感をもたれている。
 つまり、西欧では、キリスト教は死んだのである。思うに、神が人になるとは、邪教であると言ったが、実は、それは、神が無力になることではないのか。超越神であり続けてこそ、神の威信があるのではないだろうか。
 この点では、イスラム教やユダヤ教は強力であると考えられる。人となった神の宗教とは、近代化・世俗化がなされると、意味がなくなるのである。
 では、米国のキリスト教とは何か。これは、民主主義と結びついているのである。いわば、国是である。この神は、超越神である。キリストではないだろう。
 
追記:日本の宗教伝統である神道/仏教は、これまで述べたように、ゾロアスター教と融合すべきである。これが、トランス・モダン日本の文化の基礎となろう。

Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

参考:以下のサイトの信憑性は不明であるが、1の定義には驚く。根源的な三神ということは、記紀の三神と通じるのではないか。後で検討したい。

追記:古事記では以下である。

###引用開始###

別天(ことあま)つ神五柱(いつはしら)独神(ひとりがみ)

* 天之御中主神 (あめのみなかぬし)独神、天原の中心の神
* 高御産巣日神 (たかむすび)独神、生成力の神格化
* 神産巣日神 (かみむすび)独神、生成力の神格化
* 宇摩志阿斯詞備比古遲神 (うましあしかびひこぢ)独神
* 天之常立神 (あめのとこたち)独神

###引用終了###
http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

天之御中主神 がアフラ・マズダ、
高御産巣日神 がミトラ、ないしは、スプンタ・マンユ(聖霊)、
神産巣日神 がアナーヒター(Media Point?)
であろうか。

****************
 
ゾロアスター教の神話
――ゾロアスター教の創世神話――

1.ゾロアスター教の定義
 マズダー教、ミトラ単一神教、女神アナーヒター崇拝を折衷し、アフラ=マズダー、ミトラ、アナーヒターを至高三神として崇める宗教。
http://homepage2.nifty.com/Mithra
/HP_Mithraism_Myth_Zoroastrianism.html




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カレンダ
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